2019年05月14日
龍田古道・たたら製鉄と地滑りと・・・
日曜日に龍田古道のたたら製鉄跡や地滑り跡なんぞをふらふらしてきました。
龍田古道・・・諸説あるようですが難波津から京の都(飛鳥京や平城京)へ続く古道のひとつで、
一説によると日本書紀に「難波より京に至る大道を置く」とあるのは、この龍田古道だったとか・・・
で、古代から大和川(当時は龍田川)で一番の難所だった亀の瀬あたりは舟で上下することができず、
川沿いの陸路もいくつかあったものの、ここは有名な地滑り地帯、昔は山崩れによる川の氾濫や、
川沿い陸路の崩壊もさらに多かったはず・・・
いっぽう「龍田越え」といわれる峠道では砂鉄や鉄鉱石が採れて山頂付近は吹き上げる風も強く、
(ふいごが完成形になるまでの製鉄には風が重要)、渡来製鉄技術者の都へのルート上でもあり、
古代より製鉄で栄えた集落が点在し、沿道には古い寺社跡も多く残っている・・・
と、今回も案内してくれた奈良ソムリエ・ボランティアガイドの友人から説明を聴きながら・・・
朝10時にJR三郷駅を出発・・・
まずは三室山展望台へ・・・ひいひい
ま・・・
標高は僅か137mなんですが・・・
なかなかの眺めでした。ひいひい
位置関係はこんな感じ・・・(クリックすると拡大します。)
ご覧のとおり、地滑り地帯とはいえ大和川沿いの陸路や、北へ抜ける陸路もある中、なぜ峠越えの
険しいルートが近世まで続く交通・物流の大動脈だったのか・・・
やはり江戸時代に付け替えられる前の大和川沿いに並んでいた⑦~⑫の渡来系寺跡や
製鉄のルーツとされる④金山媛神社⑤金山彦神社が関係してそうですね・・・わくわく
で、
龍田神社本宮跡・・・
岩や地肌が赤茶けてますね・・・
現在は麓にある龍田大社は風の神でもあるし、やはり古代製鉄との関係は深いようです。
こちら、奈良ソムリエの友人が教えてくれた・・・
めずらしい「堺県」の石標。
ウィキペディアによると堺県は明治元年に和泉国の幕府領・旗本領を管轄するために設置され、
明治2年には河内国(河内県)、明治9年には大和国(奈良県)も編入して大きな県になったものの、
明治14年には大阪府に編入され廃止、さらに明治20年に奈良県が再設置されたとありますから、
この石標は明治9年から明治14年までの間に設置されたことになりますね。ふむふむ
そーいや、府庁山の「府」の石標、さらに古そうだけど、いつ設置したんだろ・・・
とか、ひいひい山道を歩いて・・・
次のピークが公園になってて・・・
ピークの大阪側に拡がっているのが雁多尾畑(カリンドウバタ)の集落・・・
けっこう大きな集落で、立派な門構えの家や・・・
立派なお寺もあるのですが、山頂付近なので農業や林業で栄えたとは考えられず、
やはり古代からの製鉄(と交易?)が繁栄の原点だったのは間違いない・・・のですが・・・
でも、それなら明治以降は奈良と大阪を結ぶ鉄道もでき、近代製鉄に変わったのですから、
言い方は悪いですが、もっと寂れててもいいはず・・・なのに、どこも立派なままでした。
それまでの富や交易の蓄積とかで今でも豊かに暮らしておられるのか、だとしたら便利な麓に
移ってるだろうし、ここでブドウ栽培など新しい産業に活路を見出したのか・・・
いつか住民の方に訊いてみたいものであります。
カリンドウバタとゆー不思議な地名といい、今でも山頂付近で(裕福に)暮らし続ける状況といい、
(たたら製鉄は「ふいご」送風システムが完成して以降、山頂から下りたとも言われてますので)
龍田古道とカリンドウバタでの製鉄に関する謎は、さらに謎を呼びつつ・・・
ま、とりあえずキーポイントとなる・・・
集落内にある「金山媛神社」へ・・・
ま、詳しくはこちら・・・
そう、全国最古の「鉄工の守護神」だったのでありますね・・・うむうむ
ちなみにこちらの本殿にあった正面の御神鏡・・・
最新式で色合いが変化し、やはり今でも裕福な集落であることが覗えますね。
と、中腹まで下りてくると・・・
「おおっ、中腹にも酸化鉄の塊が・・・」
「って、そこは池に藻が繁殖してるだけやろ・・・」
「でっ、でも、この鉄錆色は・・・」
「ま、確かに周辺の地層は砂鉄や鉄鉱石が多く、あちこちで鉄滓も出てるらしいけど・・・」
「そーいや地滑りの都度、鉄の鉱脈が表土に現れた、とも聞いたことがあるような・・・」
とか、わいわい言いながら・・・
もうひとつのキーポイント、金山彦神社に到着・・・
ええ、拝殿の奥には・・・
ぬこさんが鎮座されてましたが・・・
まずは略記から・・・
ここでは、鉄の需要が増した弥生時代後期から応神河内王朝まで製鉄が続けられた、なので
製鉄に不可欠な風と火が祀られている、とありますが、奈良側ピーク付近にあった龍田神社本宮や
大阪側ピーク付近にあった金山媛神社とセットで祀られているのは間違いないですね。
また、山の高いほうが「媛(ヒメ)」神社で、低いほうが「彦(ヒコ)」神社とゆーのも興味深いです。
ちなみに略記の横には、こんな説明板も・・・
さてさて、このような完成形の「たたら炉」になるまでは、どんな形で製鉄が行われていたのか、
はたまた、それはいつごろからなのか・・・
高師小僧を使った製鉄は縄文時代から、という説もあり、なにせ燃料になる木は豊富でしたから、
常に風が吹く山頂付近では、もっと原始的な方法で高温を生じさせてたかも知れません・・・
他国では燃料になる森林を伐採し尽くしてしまうと、製鉄どころか文明そのものが滅びましたが、
我が国は放置しておけば再び森に還る「木の国」ですから、小規模なら継続も可能だったはず。
よい風と深い森・・・「風の谷」と「もののけたち」・・・って、ここはジブリの世界だったのか!!!
と、妄想を膨らませながら神社横の東屋で大休止・・・
って、食べる前に撮ればいいものを・・・ばくばく
彦(ヒコ)神社が元は山上にあったとすると、そのすぐ下に媛(ヒメ)神社があったのか・・・
で、
大阪方面ではなく「峠」集落からJR堅上駅を目指します。ひいひい
それにしても立派な家が多いですねえ・・・
峠の集落でも立派な家が多く、
こちらは十字型の屋根を持つ家・・・
比較的新しい家も立派な造りです。
と、峠集落を下りていくと・・・
この辺りでは大和川右岸を走るJR線が見えてきて・・・
ようやく河内堅上駅・・・
・・・は通り過ぎて、今度は川沿いの龍田古道を遡上します。ひいひい
この辺りは川幅も狭く蛇行を繰り返すうえ、昔から有名な地滑り地帯で陸路も舟路もまさに難所でした。
こちらの鉄橋・・・
トラスが上ではなく下から橋を支えてます。やはり地滑り対策なんでしょうね・・・
明治以降の鉄道も、橋を架ければ落ちる、トンネルを掘れば崩落する、まさに地滑りとの戦い・・・
で、
現在も続く地滑り対策の現場・・・
縦横無数に掘られたトンネルで上の地層と下の地層の間に集まる地下水を排水してるとか。
膨大な年月と費用をかけた巨大プロジェクトだったんですね。ま、詳しくはネット検索で・・・
ちなみに排水トンネル掘削中に発見された旧国鉄トンネルの崩壊現場・・・
奈良ソムリエの友人の撮影で、平日10人以上で事前予約すれば見学できるそうです。
地下遺構の大好きなわたくし、ライト仲間と一度は行きたいと思っているのですが・・・
地名の由来となった亀石・・・
古い絵図によると、昔は上流側に首が出ていたそうです。
こちら、ちょうど橋の下あたり・・・
江戸時代に舟を通すため岩盤を掘削した跡でしょうか・・・
このあたりは川幅が狭まり瀬が続き「銚子の口滝の如し」といわれた難所だったようです。
江戸時代に入っても亀の瀬の上下の浜で下流側では大型の剣先船(河内舟・難波舟)に、上流側では
小型の魚梁船(大和舟)に、それぞれ荷物を積みかえていたそうですが、それまでは前述の峠道を
越えていた・・・という説もあるのですが、川沿いの陸路もあったことだし、やはり謎は多いです。
ま、詳しくはネット検索で・・・いろんな説があって、じつに面白いです。
せっかくなので亀の瀬にある・・・
龍王社にもお参りしました。
亀井宿は葛城二十八宿の二十八番目だったんですね・・・けっこう歩いてるけど知りませんでした。
と、さらに川沿いの古道を歩いて・・・
峠八幡神社へもお参り・・・ま、詳しくはネット検索で・・・
見事な地蔵さん
ええ、こちら・・・
「関の地蔵さん」として有名なのでありますね・・・
龍田の関は日本四関のひとつで、しかも「其の一」だったんですね。
万里の長城では東端の山海関が「天下第一関」、西端の嘉峪関が「天下第一雄関」ですから、
ここはヤマトの南端にあった第一関で「天下第一南関」とゆーところか・・・
ま、実際の関はもう少し西にあったとゆー説もある、と教えてもらいましたが・・・
ちなみに在原業平に「千早ふる 神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは」と詠われた
龍田川は、斑鳩町を流れる竜田川ではなく、こちら亀の瀬あたりの様子を表しているとも・・・
そーいや歌から感じるのは静かな小川より、当時も難所だった大激流のイメージですね。
と、歌つながりで最後に・・・
出発点の三郷駅近くに作られた磐瀬の杜の歌碑なんぞを見学し、ようやく駅まで戻ってきました。
峠越えと川沿いの龍田古道をぐるり一周したことになり、今回の所要時間は4時間、歩行距離は
ダッシュP18乗りの友人の万歩計によると12.7kmだったそうです。ひいひい
と、三郷駅から一駅だけJRに乗って王寺駅へ・・・って、大阪とは逆方向ではないか???
そう、三郷駅前にはお店がなく・・・
王将・王寺店へ・・・じゅるじゅる
って、最初の餃子を完食、一杯目の生ビールを完飲してからの画像でしゅが・・・
ま、その後は・・・
食べ切る前、飲み切る前に、いちおー撮れました・・・えらいぞ!!!
って、
唐揚げは食べ切ってからの画像やないか・・・
しかも・・・
野菜炒めは、わたくしが撮ってるうちにたちまち完食・・・がるるる
そう、この日は金山彦神社での早めのお握りだけだったし、30℃を超える夏並みの暑さだったし、
まあ、みなさん、よく食べること飲むこと・・・少しはトシも考えましょうね・・・と自戒を込めて・・・
龍田古道は今回が初めてでしたが、様々な謎が残ってて興味津々でした。
たたら製鉄をはじめ、そもそもの和鉄の起源など、やはり古代ロマンは面白いですね。
ボランティアガイドで忙しい中、詳しく案内してくれた奈良ソムリエのI西さん、ありがとうございました。
次回もよろしくねっ!!!
龍田古道・・・諸説あるようですが難波津から京の都(飛鳥京や平城京)へ続く古道のひとつで、
一説によると日本書紀に「難波より京に至る大道を置く」とあるのは、この龍田古道だったとか・・・
で、古代から大和川(当時は龍田川)で一番の難所だった亀の瀬あたりは舟で上下することができず、
川沿いの陸路もいくつかあったものの、ここは有名な地滑り地帯、昔は山崩れによる川の氾濫や、
川沿い陸路の崩壊もさらに多かったはず・・・
いっぽう「龍田越え」といわれる峠道では砂鉄や鉄鉱石が採れて山頂付近は吹き上げる風も強く、
(ふいごが完成形になるまでの製鉄には風が重要)、渡来製鉄技術者の都へのルート上でもあり、
古代より製鉄で栄えた集落が点在し、沿道には古い寺社跡も多く残っている・・・
と、今回も案内してくれた奈良ソムリエ・ボランティアガイドの友人から説明を聴きながら・・・
朝10時にJR三郷駅を出発・・・
まずは三室山展望台へ・・・ひいひい
ま・・・
標高は僅か137mなんですが・・・
なかなかの眺めでした。ひいひい
位置関係はこんな感じ・・・(クリックすると拡大します。)
ご覧のとおり、地滑り地帯とはいえ大和川沿いの陸路や、北へ抜ける陸路もある中、なぜ峠越えの
険しいルートが近世まで続く交通・物流の大動脈だったのか・・・
やはり江戸時代に付け替えられる前の大和川沿いに並んでいた⑦~⑫の渡来系寺跡や
製鉄のルーツとされる④金山媛神社⑤金山彦神社が関係してそうですね・・・わくわく
で、
龍田神社本宮跡・・・
岩や地肌が赤茶けてますね・・・
現在は麓にある龍田大社は風の神でもあるし、やはり古代製鉄との関係は深いようです。
こちら、奈良ソムリエの友人が教えてくれた・・・
めずらしい「堺県」の石標。
ウィキペディアによると堺県は明治元年に和泉国の幕府領・旗本領を管轄するために設置され、
明治2年には河内国(河内県)、明治9年には大和国(奈良県)も編入して大きな県になったものの、
明治14年には大阪府に編入され廃止、さらに明治20年に奈良県が再設置されたとありますから、
この石標は明治9年から明治14年までの間に設置されたことになりますね。ふむふむ
そーいや、府庁山の「府」の石標、さらに古そうだけど、いつ設置したんだろ・・・
とか、ひいひい山道を歩いて・・・
次のピークが公園になってて・・・
ピークの大阪側に拡がっているのが雁多尾畑(カリンドウバタ)の集落・・・
けっこう大きな集落で、立派な門構えの家や・・・
立派なお寺もあるのですが、山頂付近なので農業や林業で栄えたとは考えられず、
やはり古代からの製鉄(と交易?)が繁栄の原点だったのは間違いない・・・のですが・・・
でも、それなら明治以降は奈良と大阪を結ぶ鉄道もでき、近代製鉄に変わったのですから、
言い方は悪いですが、もっと寂れててもいいはず・・・なのに、どこも立派なままでした。
それまでの富や交易の蓄積とかで今でも豊かに暮らしておられるのか、だとしたら便利な麓に
移ってるだろうし、ここでブドウ栽培など新しい産業に活路を見出したのか・・・
いつか住民の方に訊いてみたいものであります。
カリンドウバタとゆー不思議な地名といい、今でも山頂付近で(裕福に)暮らし続ける状況といい、
(たたら製鉄は「ふいご」送風システムが完成して以降、山頂から下りたとも言われてますので)
龍田古道とカリンドウバタでの製鉄に関する謎は、さらに謎を呼びつつ・・・
ま、とりあえずキーポイントとなる・・・
集落内にある「金山媛神社」へ・・・
ま、詳しくはこちら・・・
そう、全国最古の「鉄工の守護神」だったのでありますね・・・うむうむ
ちなみにこちらの本殿にあった正面の御神鏡・・・
最新式で色合いが変化し、やはり今でも裕福な集落であることが覗えますね。
と、中腹まで下りてくると・・・
「おおっ、中腹にも酸化鉄の塊が・・・」
「って、そこは池に藻が繁殖してるだけやろ・・・」
「でっ、でも、この鉄錆色は・・・」
「ま、確かに周辺の地層は砂鉄や鉄鉱石が多く、あちこちで鉄滓も出てるらしいけど・・・」
「そーいや地滑りの都度、鉄の鉱脈が表土に現れた、とも聞いたことがあるような・・・」
とか、わいわい言いながら・・・
もうひとつのキーポイント、金山彦神社に到着・・・
ええ、拝殿の奥には・・・
ぬこさんが鎮座されてましたが・・・
まずは略記から・・・
ここでは、鉄の需要が増した弥生時代後期から応神河内王朝まで製鉄が続けられた、なので
製鉄に不可欠な風と火が祀られている、とありますが、奈良側ピーク付近にあった龍田神社本宮や
大阪側ピーク付近にあった金山媛神社とセットで祀られているのは間違いないですね。
また、山の高いほうが「媛(ヒメ)」神社で、低いほうが「彦(ヒコ)」神社とゆーのも興味深いです。
ちなみに略記の横には、こんな説明板も・・・
さてさて、このような完成形の「たたら炉」になるまでは、どんな形で製鉄が行われていたのか、
はたまた、それはいつごろからなのか・・・
高師小僧を使った製鉄は縄文時代から、という説もあり、なにせ燃料になる木は豊富でしたから、
常に風が吹く山頂付近では、もっと原始的な方法で高温を生じさせてたかも知れません・・・
他国では燃料になる森林を伐採し尽くしてしまうと、製鉄どころか文明そのものが滅びましたが、
我が国は放置しておけば再び森に還る「木の国」ですから、小規模なら継続も可能だったはず。
よい風と深い森・・・「風の谷」と「もののけたち」・・・って、ここはジブリの世界だったのか!!!
と、妄想を膨らませながら神社横の東屋で大休止・・・
って、食べる前に撮ればいいものを・・・ばくばく
彦(ヒコ)神社が元は山上にあったとすると、そのすぐ下に媛(ヒメ)神社があったのか・・・
で、
大阪方面ではなく「峠」集落からJR堅上駅を目指します。ひいひい
それにしても立派な家が多いですねえ・・・
峠の集落でも立派な家が多く、
こちらは十字型の屋根を持つ家・・・
比較的新しい家も立派な造りです。
と、峠集落を下りていくと・・・
この辺りでは大和川右岸を走るJR線が見えてきて・・・
ようやく河内堅上駅・・・
・・・は通り過ぎて、今度は川沿いの龍田古道を遡上します。ひいひい
この辺りは川幅も狭く蛇行を繰り返すうえ、昔から有名な地滑り地帯で陸路も舟路もまさに難所でした。
こちらの鉄橋・・・
トラスが上ではなく下から橋を支えてます。やはり地滑り対策なんでしょうね・・・
明治以降の鉄道も、橋を架ければ落ちる、トンネルを掘れば崩落する、まさに地滑りとの戦い・・・
で、
現在も続く地滑り対策の現場・・・
縦横無数に掘られたトンネルで上の地層と下の地層の間に集まる地下水を排水してるとか。
膨大な年月と費用をかけた巨大プロジェクトだったんですね。ま、詳しくはネット検索で・・・
ちなみに排水トンネル掘削中に発見された旧国鉄トンネルの崩壊現場・・・
奈良ソムリエの友人の撮影で、平日10人以上で事前予約すれば見学できるそうです。
地下遺構の大好きなわたくし、ライト仲間と一度は行きたいと思っているのですが・・・
地名の由来となった亀石・・・
古い絵図によると、昔は上流側に首が出ていたそうです。
こちら、ちょうど橋の下あたり・・・
江戸時代に舟を通すため岩盤を掘削した跡でしょうか・・・
このあたりは川幅が狭まり瀬が続き「銚子の口滝の如し」といわれた難所だったようです。
江戸時代に入っても亀の瀬の上下の浜で下流側では大型の剣先船(河内舟・難波舟)に、上流側では
小型の魚梁船(大和舟)に、それぞれ荷物を積みかえていたそうですが、それまでは前述の峠道を
越えていた・・・という説もあるのですが、川沿いの陸路もあったことだし、やはり謎は多いです。
ま、詳しくはネット検索で・・・いろんな説があって、じつに面白いです。
せっかくなので亀の瀬にある・・・
龍王社にもお参りしました。
亀井宿は葛城二十八宿の二十八番目だったんですね・・・けっこう歩いてるけど知りませんでした。
と、さらに川沿いの古道を歩いて・・・
峠八幡神社へもお参り・・・ま、詳しくはネット検索で・・・
見事な地蔵さん
ええ、こちら・・・
「関の地蔵さん」として有名なのでありますね・・・
龍田の関は日本四関のひとつで、しかも「其の一」だったんですね。
万里の長城では東端の山海関が「天下第一関」、西端の嘉峪関が「天下第一雄関」ですから、
ここはヤマトの南端にあった第一関で「天下第一南関」とゆーところか・・・
ま、実際の関はもう少し西にあったとゆー説もある、と教えてもらいましたが・・・
ちなみに在原業平に「千早ふる 神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは」と詠われた
龍田川は、斑鳩町を流れる竜田川ではなく、こちら亀の瀬あたりの様子を表しているとも・・・
そーいや歌から感じるのは静かな小川より、当時も難所だった大激流のイメージですね。
と、歌つながりで最後に・・・
出発点の三郷駅近くに作られた磐瀬の杜の歌碑なんぞを見学し、ようやく駅まで戻ってきました。
峠越えと川沿いの龍田古道をぐるり一周したことになり、今回の所要時間は4時間、歩行距離は
ダッシュP18乗りの友人の万歩計によると12.7kmだったそうです。ひいひい
と、三郷駅から一駅だけJRに乗って王寺駅へ・・・って、大阪とは逆方向ではないか???
そう、三郷駅前にはお店がなく・・・
王将・王寺店へ・・・じゅるじゅる
って、最初の餃子を完食、一杯目の生ビールを完飲してからの画像でしゅが・・・
ま、その後は・・・
食べ切る前、飲み切る前に、いちおー撮れました・・・えらいぞ!!!
って、
唐揚げは食べ切ってからの画像やないか・・・
しかも・・・
野菜炒めは、わたくしが撮ってるうちにたちまち完食・・・がるるる
そう、この日は金山彦神社での早めのお握りだけだったし、30℃を超える夏並みの暑さだったし、
まあ、みなさん、よく食べること飲むこと・・・少しはトシも考えましょうね・・・と自戒を込めて・・・
龍田古道は今回が初めてでしたが、様々な謎が残ってて興味津々でした。
たたら製鉄をはじめ、そもそもの和鉄の起源など、やはり古代ロマンは面白いですね。
ボランティアガイドで忙しい中、詳しく案内してくれた奈良ソムリエのI西さん、ありがとうございました。
次回もよろしくねっ!!!