千の顔をもつ英雄銃・病原菌・鉄

2020年02月21日

日本めん食文化の1300年と進化する麺食文化

温暖な大阪でも、さすがにまだ少し寒いし、外出は感染症も心配だし・・・
つーことで、引き続き自宅に引き籠って充分な(充分すぎる?)栄養と休養と睡眠を貪りつつ、
安らかな読書と飲酒の日々が続いている98kであります。

で、飲酒といえば「食の起源」とゆーTV番組でやってましたが、
・酒に弱い体質の人(アセトアルデヒド分解酵素が少ない人)の割合は、
・ヨーロッパ・アメリカ・アフリカではほぼ0%に対し、韓国30%・日本44%・中国52%で、
・6000年以上前に中国に出現し、その伝播分布は稲作の伝播分布とほぼ一致するそうです。
で、その有力な仮説として、
・稲作ができるのは水辺・湿地の環境
・そこに人口が増えれば衛生環境が悪くなる→微生物(細菌)も増える
・なので体内に入った細菌をアセトアルデヒド(毒素)で殺菌できる「酒に弱い体質」の人が、
・稲作以降は徐々に優位になっていったのではないか、
・これは稲作以前の縄文人は酒に強かったが弥生人は弱いという分布とも一致する。
とのことでした。

つーことはですね・・・
わたくしのように酒に弱い(すぐに顔が赤くなる)タイプが、二日酔いになるまで毎日飲んでたら、
分解されずに体内に残ったアセトアルデヒドが感染症を防いでくれるのでは・・・べひべひ
と、わたくし以前にも増して、毎日かぱかぱ飲んでる次第なんですが・・・ひっく

もちろんアセトアルデヒドは毒素で長寿タンパクの生成を阻害して発がん性も高いようですし、
1日20g以上のアルコール摂取は様々な病気の原因になる、とのことでしたが・・・げふっ

さらにちなみに、
ヒト科がヒト亜族(ヒト・チンパンジー・ゴリラ)とオランウータン亜族に分かれた
1200万年前以降に強いアルコール分解遺伝子が出現し、発酵した果実も食べられるようになった、
とも言ってましたが・・・

一説によると、地上に落ち、さらに発酵した(アルコール分が高くなった)果実をどうしても食べたくて、
地上に下りていったサルが我々の祖先であったとゆー・・・そう・・・
「人類とは酒が飲みたくて地上に下りたサルである。」とゆー定義もあるようで・・・ひっく


閑話休題。今回は酒類ではなく麺類のハナシでした・・・

自宅にあった書籍の再読であります。

まずは「日本めん食文化の1300年」・・・

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奥村彪生著 農山漁村文化協会 2009年9月10日 第1刷発行

帯にある推薦者が凄いですね。この10年で物故者になられた方もおられますが・・・


この本、わたくしにはめずらしく新刊を定価購入したはず・・・

裏表紙であります。

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けっこう高かったのね・・・今ならこんな贅沢できないだろうなあ・・・

そう、お外は寒いので本の整理をさせられてしてて、ひさしぶりに読み返してたのでありますね。


例によって目次だけご紹介・・・(画像をクリックすると拡大します。)

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なにせ著者の博士学位論文をベースに一般にも分かりやすく改稿した出版物だそうですから、
目次だけでもすごいボリュームであります。

石毛直道氏の序文によると、
「プロの料理人が博士号を取得したのは、おそらく奥村さんがはじめての快挙であろう・・・」
とのことで、「きょうの料理」などでおなじみになった、あのほっこりした語り口とは対照的に、
じつに綿密に調査研究された成果だったんですね・・・

とても内容までは紹介しきれませんが、日本の麺類(コムギめん類とそば食)をすべて網羅して、
その歴史から地理から文化から各食の詳細な特徴まで、素人にもわかりやすく書かれてますので、
これさえ読めば、イッパシの麺通になれる・・・かも知れないスグレモノであります。


さらにもう一冊・・・

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「ラーメンのルーツを探る 進化する麺食文化」 奥村彪生著 安藤百福監修
フーディアム・コミュニケーション 1998年6月1日初版発行であります。

こちらはおそらく古書店で買ったものですが、帯によれば、
「チキンラーメン生みの親の安藤百福との対談を交え麺の進化とラーメンのルーツを探る。」
「中国と日本の麺の交流史を文献とフィールドワークで検証する"麺食文化史"の集大成。」
本なのでありますね。


とりあえず、こちらも目次のみ・・・

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この本から、さらに研究が進んで11年後の前述の著作に繋がったんでしょうね。
こちらは論文ベースではないので面白いエピソードも満載、「ですます調」で書かれており、
氏おなじみのほっこりとした語り口で、さらに楽しく読めました。



せっかくなのでカラー口絵から一枚だけご紹介・・・(著作物なので問題があれば削除します)

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わたくし、このマップを参考に全国麺類行脚に出ようかと・・・じゅるじゅる

そーいや「麺ロードを行く」つー本もあったはずなのに、どこに行ったんやろ・・・



とか、深夜にこんな本を読んでるとインスタント麺が食べたくなってきたな・・・ひっく

本日の昼食は十割蕎麦の定食、昨日はスタミナラーメンの定食、一昨日はざるうどんと親子丼で、
本日の夕食は小松菜とベーコンのアーリオオーリオ・パスタだったんでしゅが・・・ひっく


ごそごそごそ・・・

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現在残ってるのは明星食品と東洋水産と日清食品で計13食か・・・

やはりここは、安藤百福氏に敬意を表してチキンラーメンとソース焼きそばでキメるか・・・
いやいや、日本の麺はコムギとそばだし、旨だし屋・天ぷらそば大盛りも捨てがたいな・・・
でも、支那そばの歴史からは、ごつ盛りワンタン醤油ラーメンつーのも外せないし・・・
そう、本文中に古川緑波が震災前の浅草・来々軒の叉焼ワンタン麺を激賛する文章があって、
当時の支那そば(ラーメン)は醤油味だけだったのでありますね。

ちなみにワンタン麺は中国でも広東の食べ方で、ワンタンも麺条も主食になり得る中国北方では、
それをひとつの鉢に入れるような食べ方は許されないと書いてあったな・・・ぶつぶつ・・・

えっと、何の話だっけ・・・そうそうワンタン醤油ラーメンを食べるかどうかやったな・・・

てぇい、ここはいっそまとめて・・・ぷつん



m98k at 23:55│Comments(16) mixiチェック 書斎 | 糧食、飲料

この記事へのコメント

1. Posted by donchan   2020年02月22日 09:37
イケメン、イクメン変じて、単なるメン食い爺さんになった98Kさん。麺の蘊蓄、面白かった。
小生も大概の麺は頂いたつもりですが、山梨のホウトウが未体験。
山梨まで行く機会もないし、一度家で試してみますかねぇ。食べたことがあるなら、教えてください。
2. Posted by 98k   2020年02月22日 13:57
>donchanさん
コメントありがとうございます。
イケメン、イクメン、メンクイ、ヤンバルクイナ・・・ま、どれも似たようなもんでしょう・・・
山梨のほうとう、キャンプで何度か鍋にぶち込んだことがありますが、あの食感は・・・まあ好みですね
讃岐うどんやアルデンテ・パスタの真逆とゆーか、伊勢うどんや薄切り餅に近いとゆーか、味噌味に合って温まることは確かですが・・・
で、画像三枚目にある第三章「ほうとう」から少し要約させていただくと・・・
(少し長くなるので何回かに分けてコメントします。)
3. Posted by 98k   2020年02月22日 14:15
上記コメントの続きです。
・「ほうとう」は、中国では北魏時代にはすでに存在していた「食編に専と飩(ハウトン)」が由来で、
・日本には比叡山の僧、円仁が平安時代に(おそらく延暦寺に)伝え清少納言も食べてたが、これが甲府市などのほうとうの原型。
・甲府では練る時に塩を使わないのが特徴で鍋にぶち込んだ時に塩っぽくなるからとされているが、山間部で塩が貴重だったことも理由であろう。
・このほうとう系は九州・東海・関東・中部山岳地帯・東北において、だんご汁、のしぼうちょう、芋川うどん、きしめん、耳うどん、
はっとう、おきりこみ、ひもかわ、のしこみ、ひっつみなど、様々な名称で存在するが、「うどん」とは別物である。
(さらに続きます)
4. Posted by 98k   2020年02月22日 15:02
饂飩(うどん)の元祖と語源については中国の「食編に昆と飩」であるとされてますが、著者はこれについて異論を提唱されてます。
・この太切めんは日本で発明され命名された中国にはないめんで、
・きりむぎは冷やして食べるのに対し、熱い湯に浸けて食べる専用の太切りめんで、最初に出てくるのは法隆寺の嘉元記で「ウトム」
・うとん、ウトン、饂飩の表記があるが、きりむぎの経緯から、うどんは1300年代のはじめに京都のどこかの禅院で誕生したに違いない。
・当初は温飩だったが造字して饂飩にし、禅院では饅頭(マントウ)をマンジュウ、点心(テンシン)をテンジンと読むのでウドン、ウンドンと読んだ。
・日記などに表記する場合は濁音を控えてうとん、ウトンとした。
・従って饂飩は日本の造字で食べ方も中国にはない日本特有の食べ方で、めんそのものを味わう禅的枯淡なもの。
・江戸中期まで主に湯漬けとして用いられた。
・大坂では江戸後期にそば切り汁かけの影響でかけ汁で食べるうどんが普及したが、冷やして食べることはなかった。
・逆に江戸では冷やし洗って、そのまませいろやざる盛りにしても食べるようになった。
・その理由は当時の都市としての江戸は水質がよく大坂は水質が悪かったので、冷やして再度温める必要があったから・・・
(さらさらに続きます。)
5. Posted by 98k   2020年02月22日 15:08
いかがでしょうか、「ほうとう」と「うどん」の違いについて少しは理解いただけましたでしょうか?
じつは昼前に起きて延々とコメント書いてたら長すぎてエラーになり、飲みながら書き直していた次第。
ま、本日は雨だし、なにせヒマなものですから・・・
それにしても麺類もじつに奥が深いですね。またご感想などお寄せください。
6. Posted by donchan   2020年02月22日 16:16
ありがとうございました。うどんとほうとうが似て非なるルーツであることは、何となく理解できました。
それにしても、確かにパスタからラーメンまで麺の奥行きは深そうですね。
皆んな麺が好きと言うことでしょうが、日本では米が貴重だった頃の食料事情も大きく絡んでいるのでしょう。
そう言えば、信州では、蕎麦を頼むと半端でない量が出てきますが、とうじそばを含めて代用食だったのでしょうかねぇ。
てなことを言いながら、百福さんのラーメンをすすってたりして……。
7. Posted by 98k   2020年02月22日 21:17
>donchanさん
ご指摘のとおり、稲作が困難だった山間部や寒冷地で蕎麦食や小麦食が郷土食になったと本書にもありました。
ただし、そのバラエティーの豊かさを見れば、決して米食の代用食だったとは思えない、とのことでした。
ちなみにわたくし、今夜はかにちりで熱燗でしたが、〆はうどんではなく雑炊にしました・・・ひっく
で、都市としての大坂は当時の江戸に較べて水質が悪かったとはいうものの、
世界的に見れば全国どこでも森が育む安全な水があったので、生食や麺そのものを味わう文化も発展してきたんですね。
著者も最終章の最後は
「(おいしい)めん類も水ありてこそ・・・そして森林を育てることこそが清らかな水を得る必需の技なのである。」
「食糧を生産する農業もそれらを食べる人間も水によって生かされているのである。」
と締めくくっておられました。
8. Posted by 98k   2020年02月22日 22:17
>donchanさん 追記です
>>信州では、蕎麦を頼むと半端でない量が出てきますが・・・
これについては、以前TV番組で、
「江戸蕎麦の盛りが少ないのは当時蕎麦は16文と相場が決まっており値上げできず、物価上昇で分量が減っていった結果。」
とやってましたよ。
なので、あの信州の分量が「本来の一人前」なんですよね。
つまり、わたくしが大阪では常に大盛りか二枚盛りを頼むのは、あくまで正統派なのでありますね。
ま、麺類と同時に丼物も頼んでしまうのは、また別のハナシになりますが・・・
9. Posted by donchan   2020年02月23日 08:37
フムゥ。なるほど。江戸の蕎麦は、繊細というか細いので、満腹には程遠いですね。だから、蕎麦味噌と燗酒で待つなんて痩せ我慢するのでしょう😁。
因みに江戸の立ち食い蕎麦は、何処も美味い。大阪とは違っているように思えるのですが……。
10. Posted by 98k   2020年02月23日 14:26
>donchanさん
わたくしは「立ち食いで軽く済ませる」習慣がないので食べたことはありませんが、あの出汁の色には抵抗感がありますねえ。
おっしゃるとおり、江戸の蕎麦切りは元禄の頃には「職人の腕を買う」繊細な高級食としても確立されていったようです。
細切り「ゆでたて」を一気に啜るのが一番旨いので少なめに盛ってお替わりするようになった、とゆーのが著者の説。
ま、これは金のある文人や商人のハナシで、屋台で食す庶民にとっては上記TV番組説だったと思いますがいかがでしょう?
ちなみに大坂城築城の際の砂場に設けられたといわれる「砂場蕎麦」とかは労働食なので分量もたっぷりだったはず、
やはりわたくしは信州やこちらのほうがいいなあ、もちろん丼物と熱燗付きで・・・
11. Posted by donchan   2020年02月23日 16:27
蕎麦切りは、赤穂浪士事件の頃に始まったとか聞きましたが(多分、鬼平の中での蘊蓄だったような)、その後に洗練されてきたのでしょうね。
蕎麦つゆですが、色目は確かにですが、カツオ出汁を効かせたモノは、蕎麦には合うと思います。
蕎麦とうどんで盛り上がれるのも麺の奥行きの深さですかね。そういえば、三月某日の良からぬ集まりもうどんすきとか……。ジュル。
12. Posted by 98k   2020年02月23日 17:43
>donchanさん
たしかにカツオ出汁が強い方が蕎麦には合いますね。
で、著者も蕎麦切りの発祥については、かなり文献を調べられたようで、
・鎌倉時代には「きりむぎ(ひやむぎ)」があり、のちにうどんが生まれている。
・きりむぎの小麦粉を蕎麦粉にかえる僧侶の試みもあったはずで、食するようになったのは室町初期頃ではないか。
と、推論されてます。
・石毛直道氏は1480年の「山科家礼記」にある「(酒一樽と)そは一いかき給候也」のいかき(ざる)の記述に注目して、
酒に酒肴として添えられたものなので(ざるに持った)蕎麦切りではないかと指摘されているそうです。
(蕎麦粉の場合は「そは粉」と記載されているとか・・・)
・相国寺の子院の1489年12月26日の日記にも発句会後の酒宴の記述があり、
「蕎麦を喫し酒を酌むはひとときの小風流」としているが、蕎麦掻や蕎麦餅を食べて上燗を飲むのは、
教養の高い人の集いでは風流とは考えられず蕎麦切りに違いない・・・と推論されてます。
さらにちなみに江戸初期に描かれた「大坂市街図屏風」(大阪城天守閣蔵)で町人が食べている椀盛りの料理は、
確かに蕎麦切りに見えますねえ。
・「蕎麦切り」が現れる最古の文書は平成四年に発見された長野の「定勝寺文書」で1574年2月10日、
「修復工事の竣工祝いで蕎麦粉が寄進されたので蕎麦切りを打ち57人に振舞った」との記述があるそうです。
・蕎麦切りの作り方が文書に現れるのは江戸初期1643年の「料理物語」だそうですが、おっしゃるとおり、
元禄10年(1697年)に出た「本朝食鑑」では、すでに江戸の蕎麦切りはほぼ完成していたようです。
13. Posted by donchan   2020年02月23日 23:01
蕎麦の遍歴、よく分かりました。ありがとうございます。蕎麦と饂飩と言えば、落語では東西の違いの様ですが、芝居では、江戸文化の華ともてはやされている「助六」に出てくるのは、饂飩の出前。薬味はコショウの様です。尤も幕末になれば、掛け蕎麦が出てきますが。まぁ、両方共に喜ばれたのでしょうね、と言いつつ、蕎麦がきは、戸隠が旨かったと昔に浸って今回はこの程度で。
14. Posted by 98k   2020年02月23日 23:09
>donchanさん
こちらこそ長らくのお付き合いをありがとうございました。
わたくしも特に印象に残ってる蕎麦は戸隠と永平寺近くの素朴なやつですね。ボリュームたっぷりだったし・・・
ま、薬味や出汁の変遷となると、これまた長文になりそうなので割愛しますが、今回の本は深く読み込めるのでオススメです。
15. Posted by バスウ   2020年02月26日 18:27
お酒と麺の話に乗り遅れるとは不覚‼️
またの機会にお願いします。
16. Posted by 98k   2020年02月26日 20:17
>バスウさん
コメントありがとうございます。二人ですっかり盛り上がってました。
酒類と麺類・・・あとは肉類さえあれば、我々ポルコ・ロッソの世界ですね!!!

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