わからないもの
2024年03月24日
暦月の名称と曜日の謎について
とーとつですが・・・
個人的に長年の謎だった暦月の由来と曜日の謎に関する個人メモであります
季節による変化が殆どないボルネオ島の熱帯雨林を移動して狩猟採集していたプナンの人たちは、
木々の開花と結実、それによって鳥や動物たちが集まる時期と場所が不定期・不特定なので、
開花すれば集まるハチさんの動向により狩猟採集の時期や場所を判断し準備してたそうで、
生活に暦月や曜日はもちろん過去や未来といった時間軸も必要なかったようです
でも賃金労働者はもちろん焼畑をするイバンの人たちを含む農耕民や漁労民、遊牧民にとっては
暦が必要で各地の民族によっては太陽暦や太陰暦などによらない独自の暦があったようで、
自然環境や宗教や言語や国家で暦も千差万別のようです・・・
さらに毎日が日曜日のようなわたくしには暦や曜日は関係ないと思われがちですが・・・
「今週の日曜日」はいつなの?といった長年の謎や、ラテン語由来の1月から12月までの
名称のややこしさなどには、何となくモヤモヤを抱いておりました
解決したからどーだ、とゆーこともないのですが、まだ花見宴会には少し早い時期だし、
天候も不順で自宅に引き籠り中なのでウィキやナショジオから、てきとーにメモしました
(あくまで個人の見解ですが)
(1)暦月の名称についてのメモ(アジアや日本での名称はいずれまた・・・)
・古代ローマにおける最初の暦は初代王ロームルスによる建国年とされる紀元前735年から
個人的に長年の謎だった暦月の由来と曜日の謎に関する個人メモであります
季節による変化が殆どないボルネオ島の熱帯雨林を移動して狩猟採集していたプナンの人たちは、
木々の開花と結実、それによって鳥や動物たちが集まる時期と場所が不定期・不特定なので、
開花すれば集まるハチさんの動向により狩猟採集の時期や場所を判断し準備してたそうで、
生活に暦月や曜日はもちろん過去や未来といった時間軸も必要なかったようです
でも賃金労働者はもちろん焼畑をするイバンの人たちを含む農耕民や漁労民、遊牧民にとっては
暦が必要で各地の民族によっては太陽暦や太陰暦などによらない独自の暦があったようで、
自然環境や宗教や言語や国家で暦も千差万別のようです・・・
さらに毎日が日曜日のようなわたくしには暦や曜日は関係ないと思われがちですが・・・
「今週の日曜日」はいつなの?といった長年の謎や、ラテン語由来の1月から12月までの
名称のややこしさなどには、何となくモヤモヤを抱いておりました
解決したからどーだ、とゆーこともないのですが、まだ花見宴会には少し早い時期だし、
天候も不順で自宅に引き籠り中なのでウィキやナショジオから、てきとーにメモしました
(あくまで個人の見解ですが)
(1)暦月の名称についてのメモ(アジアや日本での名称はいずれまた・・・)
・古代ローマにおける最初の暦は初代王ロームルスによる建国年とされる紀元前735年から
→1年を(人間の妊娠期間から決められたと言われる)304日として10か月に分け各月を決めた
→農耕に重要な4ヶ月にギリシア神話やローマ神話の神々の名を当て、後はローマ数字で
5番目の月から10番目の月までとした(冬の2ヶ月は暦に入れなかった)
→農耕の開始月であった現在の3月(マルス神の月)を新年としていた
・この暦では季節とのズレが激しく農耕民に不満があったので2代目の王ヌマ・ポンピリウスが
太陰暦ベースのヌマ暦にして2ヶ月を追加し1年を12ヶ月とした
→名前のない冬の2ヶ月(現在の1月2月)に神々の名ヤヌス(ジャヌス)とフェブルウスをつけた
→農耕に重要な4ヶ月にギリシア神話やローマ神話の神々の名を当て、後はローマ数字で
5番目の月から10番目の月までとした(冬の2ヶ月は暦に入れなかった)
→農耕の開始月であった現在の3月(マルス神の月)を新年としていた
・この暦では季節とのズレが激しく農耕民に不満があったので2代目の王ヌマ・ポンピリウスが
太陰暦ベースのヌマ暦にして2ヶ月を追加し1年を12ヶ月とした
→名前のない冬の2ヶ月(現在の1月2月)に神々の名ヤヌス(ジャヌス)とフェブルウスをつけた
→1年は新年マルスからアプリリス、マイア、ジュノー、クワント5、シックス6、セプテム7、
オクト8、ノヴェロ9、ディセロ10、ヤヌス(ジャヌス)、フェブルウスの12ヶ月になった
オクト8、ノヴェロ9、ディセロ10、ヤヌス(ジャヌス)、フェブルウスの12ヶ月になった
→約700年後の紀元前47年にユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)がエジプト遠征から
持ち帰った太陽暦で1年を365日(閏年は366日)、新年を冬至に近いヤヌス(ジャヌス)とした
ユリウス暦が制定された
(エジプトではナイル川の氾濫時期と合致する太陽暦を採用していた)
持ち帰った太陽暦で1年を365日(閏年は366日)、新年を冬至に近いヤヌス(ジャヌス)とした
ユリウス暦が制定された
(エジプトではナイル川の氾濫時期と合致する太陽暦を採用していた)
・この時点でクワント5からディセロ10までのローマ数字による6ヶ月の名称は実際の月数字と
2ヶ月ずつズレたけど、そのまま使われた
2ヶ月ずつズレたけど、そのまま使われた
→ローマの元老院がユリウスによるエジプト暦の持ち帰りを讃えて、クワント5(7月)を
ユリウス(ジュリアス)とした
ユリウス(ジュリアス)とした
・その後に初代皇帝アウグストゥスが自分の誕生月であるシックス6(8月)をアウグストとした
・ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日金曜日から
グレゴリオ暦になったが名称は変わらなかった
→1月からジャヌス、フェブルウス、マルス、アプリリス、マイア、ジュノー、ジュリウス、
アウグスト、セプト7(9月)、オクト8(10月)、ノヴェロ9(11月)、ディセロ10(12月)までの名称が
今も西洋では定着している(各国語でスペルは異なるが語源は同じ)
そう、だから9月から12月までの4ヶ月だけローマ数字による名称と実際の月数字が2ヶ月ずつ
ズレている・・・つーところまではようやく整理できたのですが・・・
西洋のグレゴリオ暦とそれ以外の暦での12ヶ月の名称の違いや、農耕以外の狩猟採集、漁労、
遊牧などをメインにしていた人たちが使っていた暦月区分と名称(意味)の違い、さらには
季節の有無による違いなどは、まだまだ理解できてません
まあ理解したからといって、どーだとゆーこともないのでしゅが・・・
(2)曜日の名称(と週間)についてのメモ
・諸説あるが週間はバビロニアの暦制を起源とする説が現在では通説
→太陰暦の1ヶ月を月齢(月の相)により4分類(28÷4=7)して7日ごとに1日を休日としていた
→これが1週間で4週間で1ヶ月(これなら時計やカレンダーは要りませんね)
・諸説あるが週間はバビロニアの暦制を起源とする説が現在では通説
→太陰暦の1ヶ月を月齢(月の相)により4分類(28÷4=7)して7日ごとに1日を休日としていた
→これが1週間で4週間で1ヶ月(これなら時計やカレンダーは要りませんね)
(1日を24時間に分割することは紀元前1400年ごろのエジプトから始まったが、曜日自体は
それ以前からあり、エジプトでは10日を単位とする独自の週が別にあった)
・古代中国の天文学では五惑星(木星・火星・土星・金星・水星)と太陽(日)と月を併せた
ものを七曜としていた
それ以前からあり、エジプトでは10日を単位とする独自の週が別にあった)
・古代中国の天文学では五惑星(木星・火星・土星・金星・水星)と太陽(日)と月を併せた
ものを七曜としていた
(単なる日を数える手段だったが二十八宿と結びついて暦にも記載されるようになった)
→天動説による天球上の動きが遅い(地球から遠い)順に土星・太陽・月・火星・水星・木星・金星で
一日ずつ守護するとされ、七曜の内のある天体が守護する日をその天体の曜日と呼んだ
・日本へは入唐留学僧らが持ち帰った密教教典によって平安時代初頭に伝えられた
→朝廷が発行する暦にも曜日が記載され現在の六曜のような吉凶判断の一助に用いられた
→日曜日は「密」とも記され、これは中央アジアのソグド語ミール(Myr)の漢字による音写
→ゾロアスター教やマニ教で太陽神とされるミスラ神の名称に由来する
・江戸時代の日付の計算においては、借金の返済や質草の質流れなど当月が何日あるか
(29日または30日)が分かれば良いので、七曜は煩わしく不必要とされ日常生活では用いられなかった
いっぽうで・・・
・日本の労働基準法に基づく通達は1週間を「日曜日から土曜日までのいわゆる暦週」としている
・小売物価統計調査規則ではテーマパーク入場料の調査日を日曜日と規定している
さらに・・・
・中国語は唐の時代に占いの中で日本語と同じ曜日名を用いたが、現在は日曜日を星期日、
平日の月曜日 - 土曜日を星期一 - 星期六と称する
→中国大陸は月曜日始まりの扱いが多く、香港の中国語カレンダーは日曜日始まりが多い
・ベトナム語は日曜日を主日、月曜日 - 土曜日を二次 - 七次を意味する言葉で表す
→近年のベトナム語カレンダーはヨーロッパ諸国やタイと同様に日曜日を週末に配する
・週がどの曜日から始まるかは国・文化・宗教などにより様々だが月曜日始まりと日曜日始まりが多い
→欧州では月曜日始まり、アメリカ、ヘブライ語、ポルトガル語、アラビア語、ペルシア語、
ベトナム語、朝鮮語圏などでは日曜日始まりが多く見られる
→イスラム圏では金曜日が公休日であり、週は土曜日から始まる
→日本では諸法令や民間において月曜日始まりと日曜日始まりが混在している
日曜日は週に含まないとしている国もあるようですが、この場合は「今週の日曜日」という
表現は存在しないことになりますね
わたくしは日曜日は週に含まないという前提ですから、今後は・・・
→天動説による天球上の動きが遅い(地球から遠い)順に土星・太陽・月・火星・水星・木星・金星で
一日ずつ守護するとされ、七曜の内のある天体が守護する日をその天体の曜日と呼んだ
・日本へは入唐留学僧らが持ち帰った密教教典によって平安時代初頭に伝えられた
→朝廷が発行する暦にも曜日が記載され現在の六曜のような吉凶判断の一助に用いられた
→日曜日は「密」とも記され、これは中央アジアのソグド語ミール(Myr)の漢字による音写
→ゾロアスター教やマニ教で太陽神とされるミスラ神の名称に由来する
・江戸時代の日付の計算においては、借金の返済や質草の質流れなど当月が何日あるか
(29日または30日)が分かれば良いので、七曜は煩わしく不必要とされ日常生活では用いられなかった
→曜日が日本人の生活の中に普及したのは明治初頭のグレゴリオ暦導入以降
→具体的には官庁職員の勤務に週休制を導入して日曜日を休日とした明治9年(1876)から
・イタリア語、スペイン語など多くのロマンス諸語は、キリスト教やローマ神話に由来する
名称を用いるがポルトガル語は例外(下記参照)
・英語やドイツ語、オランダ語といったゲルマン系の言語は、日曜日 (Sunday) は太陽 (Sun)
月曜日 (Monday) は月 (Moon)にちなみ、ローマ神話の神々に相当する北欧神話の神々の名も用いる
・アイスランド語は日曜日 (sunnudagur) と月曜日 (mánudagur) が太陽と月に由来する部分で
他のゲルマン系の言語と共通するが、残りの曜日は北欧神話の神々の名がすべて排除された名称を用いる
・ユダヤ教では異教となる多神教の神々の名称を忌諱して番号を用い、イスラム教国のアラブや
イラン、キリスト教国のポルトガル(キリスト教以前の神々の名称を忌諱)も同様
・共産主義国家の中国とベトナムでも唯物論の観点から同様に数字で称する
→特定曜日の金、土、日を除き中国語は月曜日、ほかの言語は日曜日を第一日とする番号で表す
さてさて、このあたりから次の謎に続くのですが・・・
(3)「今週の日曜日」についてのメモ
現時点で「今週の日曜日」と表現した場合、週が月曜日始まりなら未来の日曜日だし、
週が日曜日始まりなら過去の日曜日になりますよね
(現時点が日曜日なら「今日(あるいは本日)の日曜日」で週は関係ないけど)
わたくしは土曜日が週末で月曜日が週の始まり、日曜日は週に含まないと思ってましたが、
「今週の日曜日」という表現もしてきたので、以前アップした午前と午後についてよりも
悩ましいところでした
(以下ウィキより抜粋)
・ISO 8601は月曜日から日曜日を1から7の数字で表しており月曜日を週の始まりとしている
→具体的には官庁職員の勤務に週休制を導入して日曜日を休日とした明治9年(1876)から
・イタリア語、スペイン語など多くのロマンス諸語は、キリスト教やローマ神話に由来する
名称を用いるがポルトガル語は例外(下記参照)
・英語やドイツ語、オランダ語といったゲルマン系の言語は、日曜日 (Sunday) は太陽 (Sun)
月曜日 (Monday) は月 (Moon)にちなみ、ローマ神話の神々に相当する北欧神話の神々の名も用いる
・アイスランド語は日曜日 (sunnudagur) と月曜日 (mánudagur) が太陽と月に由来する部分で
他のゲルマン系の言語と共通するが、残りの曜日は北欧神話の神々の名がすべて排除された名称を用いる
・ユダヤ教では異教となる多神教の神々の名称を忌諱して番号を用い、イスラム教国のアラブや
イラン、キリスト教国のポルトガル(キリスト教以前の神々の名称を忌諱)も同様
・共産主義国家の中国とベトナムでも唯物論の観点から同様に数字で称する
→特定曜日の金、土、日を除き中国語は月曜日、ほかの言語は日曜日を第一日とする番号で表す
さてさて、このあたりから次の謎に続くのですが・・・
(3)「今週の日曜日」についてのメモ
現時点で「今週の日曜日」と表現した場合、週が月曜日始まりなら未来の日曜日だし、
週が日曜日始まりなら過去の日曜日になりますよね
(現時点が日曜日なら「今日(あるいは本日)の日曜日」で週は関係ないけど)
わたくしは土曜日が週末で月曜日が週の始まり、日曜日は週に含まないと思ってましたが、
「今週の日曜日」という表現もしてきたので、以前アップした午前と午後についてよりも
悩ましいところでした
(以下ウィキより抜粋)
・ISO 8601は月曜日から日曜日を1から7の数字で表しており月曜日を週の始まりとしている
・JIS X 0301もISO 8601と同一で月曜日を週の始まりとしている
・国際航空業界の時刻表はIATA(国際航空運送協会)のSSIM (Standard Schedules Information Manual)
規格に準拠して月曜日を1、日曜日を7と表記する
→例えば「1_34__7」の表記は、月・水・木・日が運航日であることを示す
・日本の手帳・システム手帳の週間予定表では月曜日始まりのものが多い
つまりISO(JIS)やIATAや手帳に倣った表現だとしたら「今週の日曜日」つーのは、
「未来の日曜日」を表すことになります
・国際航空業界の時刻表はIATA(国際航空運送協会)のSSIM (Standard Schedules Information Manual)
規格に準拠して月曜日を1、日曜日を7と表記する
→例えば「1_34__7」の表記は、月・水・木・日が運航日であることを示す
・日本の手帳・システム手帳の週間予定表では月曜日始まりのものが多い
つまりISO(JIS)やIATAや手帳に倣った表現だとしたら「今週の日曜日」つーのは、
「未来の日曜日」を表すことになります
いっぽうで・・・
・日本の労働基準法に基づく通達は1週間を「日曜日から土曜日までのいわゆる暦週」としている
・小売物価統計調査規則ではテーマパーク入場料の調査日を日曜日と規定している
→これは週の始まりが日曜日であることを前提にしている
・日本のカレンダー(手帳式を除く)では日曜日始まりのものが多い
つまり労基法通達や統計調査規則、カレンダーに倣った表現だとしたら、
「今週の日曜日」つーのは、過去の日曜日を表すことになります
・日本のカレンダー(手帳式を除く)では日曜日始まりのものが多い
つまり労基法通達や統計調査規則、カレンダーに倣った表現だとしたら、
「今週の日曜日」つーのは、過去の日曜日を表すことになります
さらに・・・
・中国語は唐の時代に占いの中で日本語と同じ曜日名を用いたが、現在は日曜日を星期日、
平日の月曜日 - 土曜日を星期一 - 星期六と称する
→中国大陸は月曜日始まりの扱いが多く、香港の中国語カレンダーは日曜日始まりが多い
・ベトナム語は日曜日を主日、月曜日 - 土曜日を二次 - 七次を意味する言葉で表す
→近年のベトナム語カレンダーはヨーロッパ諸国やタイと同様に日曜日を週末に配する
・ドイツ語は水曜日を「週の中間」と称し日曜日が週の始まりであることを前提としている
→ロシア語も同様だが週末と平日を区別して月曜日を平日の第1日としている
(わたくしはロシア語と同じ思いだったんですね)
→ロシア語も同様だが週末と平日を区別して月曜日を平日の第1日としている
(わたくしはロシア語と同じ思いだったんですね)
・スワヒリ語は週の起点を金曜日または土曜日としている
そう、中国大陸に倣うか香港のカレンダーに倣うか、ドイツかロシアかベトナムかタイか、
によっても、「今週の日曜日」は過去になったり未来になったりするのでありますね
ちなみにスワヒリ語に倣った場合は未来の日曜日しかなく、スッキリしますね
まあ、概要としては・・・
そう、中国大陸に倣うか香港のカレンダーに倣うか、ドイツかロシアかベトナムかタイか、
によっても、「今週の日曜日」は過去になったり未来になったりするのでありますね
ちなみにスワヒリ語に倣った場合は未来の日曜日しかなく、スッキリしますね
まあ、概要としては・・・
・週がどの曜日から始まるかは国・文化・宗教などにより様々だが月曜日始まりと日曜日始まりが多い
→欧州では月曜日始まり、アメリカ、ヘブライ語、ポルトガル語、アラビア語、ペルシア語、
ベトナム語、朝鮮語圏などでは日曜日始まりが多く見られる
→イスラム圏では金曜日が公休日であり、週は土曜日から始まる
→日本では諸法令や民間において月曜日始まりと日曜日始まりが混在している
日曜日は週に含まないとしている国もあるようですが、この場合は「今週の日曜日」という
表現は存在しないことになりますね
わたくしは日曜日は週に含まないという前提ですから、今後は・・・
①週の平日なら「さる日曜日」とか「きたる日曜日」とか過去と未来の時間軸で表す
②「〇日前の日曜日」とか「〇日後の日曜日」とか週間制に関係なく表す
③カレンダーどおり正確に「〇月〇日の日曜日」とする
のいずれかで厳格な表記に・・・できるのだろうか
例外的に「今週の日曜日」や「先週の日曜日」を使用する場合は、世界統一規格である
ISO(JIS)やIATAに準拠し、月曜日始まりとした厳格な表記に・・・できるのだろうか
②「〇日前の日曜日」とか「〇日後の日曜日」とか週間制に関係なく表す
③カレンダーどおり正確に「〇月〇日の日曜日」とする
のいずれかで厳格な表記に・・・できるのだろうか
例外的に「今週の日曜日」や「先週の日曜日」を使用する場合は、世界統一規格である
ISO(JIS)やIATAに準拠し、月曜日始まりとした厳格な表記に・・・できるのだろうか
2023年10月13日
究極のおにぎり!!!
とーとつですが対象年齢15才以上の・・・
究極のおにぎりであります
ええ、
卵黄醤油漬けおにぎりもできるオマケも付いてます
遊び方?使い方?は、いたって簡単
奥様とテレビ番組で観てて
「あははは、こんなの買う人もおるんやね、タカラトミーアーツだって」
「もちふわのおにぎりが大好きだけど案外難しいのよね」
「いやいや、あつあつのもちふわなら、茶碗に盛って海苔で巻けば済むハナシ」
とか言ってたのですが・・・本日とーとつに届きました
わたくしが三角おにぎりを知ったのは大人になってからで、大阪ではずっと俵おにぎりの
「にんに」でしたが、中までぎっしり固めの方が食べ応えがあって好みかなあ・・・
ちなみに塩にぎりか、せいぜい海苔程度で充分、具材は不要です ええ、きっぱりと
使ってみた(遊んでみた?)感想の追記です
①三角ではなく丸いおにぎりになった(当たり前だけど)
②30秒だと海苔で巻いても持てば崩れる感じ→すぐに食べるなら1分ぐらいかな
③けっこう作動音がやかましい
④冷めると崩れなくなり中はふんわりのままで、わりと好みの感じになった
究極のおにぎりであります
ええ、
卵黄醤油漬けおにぎりもできるオマケも付いてます
遊び方?使い方?は、いたって簡単
奥様とテレビ番組で観てて
「あははは、こんなの買う人もおるんやね、タカラトミーアーツだって」
「もちふわのおにぎりが大好きだけど案外難しいのよね」
「いやいや、あつあつのもちふわなら、茶碗に盛って海苔で巻けば済むハナシ」
とか言ってたのですが・・・本日とーとつに届きました
わたくしが三角おにぎりを知ったのは大人になってからで、大阪ではずっと俵おにぎりの
「にんに」でしたが、中までぎっしり固めの方が食べ応えがあって好みかなあ・・・
ちなみに塩にぎりか、せいぜい海苔程度で充分、具材は不要です ええ、きっぱりと
使ってみた(遊んでみた?)感想の追記です
①三角ではなく丸いおにぎりになった(当たり前だけど)
②30秒だと海苔で巻いても持てば崩れる感じ→すぐに食べるなら1分ぐらいかな
③けっこう作動音がやかましい
④冷めると崩れなくなり中はふんわりのままで、わりと好みの感じになった
2023年09月21日
人類の起源
とーとつですが・・・
人類の起源~古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」~
とゆー本のご紹介であります(備忘のための読書メモです)
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、こちらの記事の続きとゆーか、前回記事、前々回記事の前段階とゆーか・・・
日本などの古代史も含んだ最新研究による「人類の起源」であります
例によって目次のみ
以下、脳の外部記憶としてのメモ書きです
まず「はじめに」にあった本書のダイジェストより
・これまで現生人類ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで生まれたとされてきたが、
→ネアンデルタール人のDNA解析により彼らの祖先と分かれたのは60万年前と判明した
→別れた後も交雑を繰り返し他の絶滅人類とも交雑していたことも判明しつつある
・現代人DNAとの比較研究で、現生人類はアフリカ→中東→ヨーロッパや南アジア→
東南アジアやオセアニア→東アジア→南北アメリカ大陸へと拡がったことが判明した
・どのように現代の地域集団を形成していったのか
→古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは集団の大きな遺伝的変化があった
・世界各地の人類集団(民族)は、ある地域における「ヒトの移動の総和」といえる
→特定の遺伝子分布の地域差は集団成立の有力な手がかりになる
・1980年代に発明されたPCR法はウィルス検知だけでなく人類学にも多大な恩恵をもたらした
→古代DNA研究は考古学・歴史学・言語学の分野にも大きなインパクトを与えている
→「人間とは何か」→現時点で何が明らかになり、研究は何を目指しているのか・・・
第一章「人類の登場」より
・1859年のダーウィンの進化論→ヒトの祖先は?→神から化石人類学へ
→約700万年に及ぶ人類進化が大まかに示された
・神話と科学の違い
→科学は間違いと訂正の歴史
→なので科学を間違いないと信奉することは理解の障害にもなる
→本書の古代ゲノム解析による説明も現時点での結論であり将来反証されることもある
・ホモ属にはいくつもの種があったが、現在生存しているのはサピエンス種だけ
・人類の定義→本書では「生物学的に自由に交配して子孫を残せるグループ」という視点
→この視点は世界の集団形成を理解する際にも重要
・人類の祖先とチンパンジーの祖先が分かれたのは700万年前
→ホモ属が登場するのは250~200万年前
→サピエンス種が登場するのは30~20万年前
→ホモ・サピエンスの出アフリカは6万年前、顕著な文化発展は5万年前(異説あり)
→どの時点をもって人類の誕生としているか→読み手の注意が必要
・文明が農耕からなら1万年、文字に残る「人類の歴史」からなら5000年・・・
→歴史的な経緯や地域環境による文明の違いはヒトの選択による「多様性」であり、
→世界中の文明はヒトという共通の基盤に立っている
→この認識は現実世界を理解するうえでも欠かせない視点
・現在では、異なる進化段階の種が同時代に生きていたこともわかっているが、
→進化傾向を捉えるためには初期猿人→猿人→原人→旧人→新人という段階は便利な考え方
→それでも同時代・同所に多数の化石人類が見つかっているので状況は混乱している
・約200万年前に登場したホモ・エレクトスは最初に出アフリカを果たした原人
→アフリカ・西アジア・中国・ジャワ島などで発見されている人類
→20万年前の化石もあり180万年も生存していた(ホモ・サピエンスは20万年程度)
→フローレス島で発見されたホモ・エレクトスから進化したホビットは6万年前まで生存
・ネアンデルタール人は旧人とされてきたが2016年のDNA分析の成功で大きく変わった
→これ以降、人類進化はDNAデータで語られるようになる
→ネアンデルタールで発達したのは主に視覚に関わる後頭葉部分
→ホモ・サピエンスで発達したのは思考や創造性などの前頭葉部分
→どちらも脳の容量はほぼ同じで交雑していた
(コラム1より)
・ホモ・サピエンスの大脳新皮質で共同体を構成する人の顔・名前・考え・バックグラウンドが
理解できる人数は150人程度
→なので狩猟採集社会から現代社会まで150人程度を社会構成の単位としてきた(ダンパー数)
→言語・文字・物語・宗教・歌・音楽といった文化要素により、時間や空間を超えて概念や
考え方を共有するハードウェアで、なんとか複雑な社会を形成していった
→現在は(脳の容量は変わらないのに)通信ネットワークで何百人(何千人)が同時につながりあい、
それらの大量のデータが行き交う高度な社会環境
→自分の脳の処理能力より、はるかに多量のデータにさらされている状況
→バランスのとれた情報処理ができずに社会が混乱しているのも至極当然・・・
第二章「私たちの隠れた祖先」より
・2010年以降に核DNA分析が可能になり、次々と新たな事実が明らかになっている
→1980年代からコンタミネーション(混入)が問題だったがDNA分析を前提とした発掘に
・ネアンデルタール人はユーラシア大陸の西半分に分布していた
→ホモ・サピエンス集団のひとつがネアンデルタールと交雑して世界に拡がった
→交雑しなかった集団もコーカサスや中東、北イランに存在しており現在のヨーロッパ人の
形成に関与したので、現代ヨーロッパ人のネアンデルタールDNAは相対的に少ない
・ホモ・サピエンスとネアンデルタールは数十万年も交雑している
→初期の交雑はアフリカとは考えにくく、ホモ・サピエンスの出アフリカが6万年前ではなく
40万年前よりやや新しい時代だったのか、あるいはホモ・サピエンスがユーラシア大陸で
他の未知の人類から進化したのか→まだ完全解明には至っていない
・デニソワ洞窟ではデニソワ人とネアンデルタール人の混血少女の化石が確認されている
→パプア人DNAの3~6%はデニソワ人DNAに由来
→東アジア・南アジア・アメリカ先住民もパプア人の1/20程度のデニソワ人DNAを共有
→東アジアのゲノムはパプアとは別で、少なくとも2回は別々にデニソワ人と交雑していた
→チベット人にもデニソワ人DNAがあるが、ホモ・サピエンスがチベット高原に来たのは11000年前
→これらから、デニソワ人は数万年前まで生きていた可能性が示された
・サハラ以南のアフリカ人ではデニソワ人と未知の人類との混血が推察される
→3人類とは別の人類がいてデニソワ人と交雑した可能性
→異なる系統人類の混血が長期間続いた結果がホモ・サピエンス遺伝子にも残っている
・ユーラシア大陸に拡散した人類は単一種ではなく各段階が同時期・同所に存在
→20世紀の終わりまでホモ・サピエンスは他地域進化説だった
→21世紀になると6万年前にアフリカを出て他の人類を駆逐したというアフリカ起源説
→2010年以降は拡散過程で他の人類の遺伝子を取り込んだことが明らかになった
→アフリカ起源説が他地域進化説の一部を取り込む形で収束した
・生存に不利な遺伝子は徐々に集団から取り除かれる
→アフリカでも世界展開の途中でも交雑は長期に繰り返されている
→iPS細胞や遺伝子編集技術で理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人の復活も可能
第三章「人類揺籃の地アフリカ」より
・アフリカでのホモ・サピエンス拡散の様子(略)
・ホモ・サピエンスが30万年前にアフリカで誕生したことはほぼ定説になっているが、
→ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先から分岐したのは60万年前と判明してるのに、
→長期間にわたるホモ・サピエンスの祖先の化石がアフリカにないこと
→数十万年前にはネアンデルタール人と交雑があったことを考えると、
→最初の祖先はユーラシア大陸の原人で、
→そこから3人類が生まれ30万年前以降にアフリカに移動したグループが世界に拡がり、
→残ったグループはネアンデルタールと交雑した後に絶滅した、とも考えられる
・異なる人類の交雑が明らかになったので、起源はアフリカだけでなく広範囲で考えるべき
→イスラエルでは古いネアンデルタールよりも古いホモ・サピエンスが発見されている
→古い交雑はこの地域だった可能性がある
・ホモ・サピエンスの世界展開は、現代人のゲノム解析から6万年前以降とされてきたが、
中国・ギリシャ・東南アジア・オーストラリアから、それよりも古い化石の報告がある
・農耕民と牧畜民の起源
→アフリカ西部の農耕による人口拡大→移動→集団(言語)の分化
(世界各地でも初期農耕民の拡大が言語族の分布と結びついている)
→牧畜民には乳糖耐性遺伝子が必要→牧畜とともにヨーロッパに(新石器時代にはなかった)
→生業と遺伝子と言語には密接な関係がある
・現代人のゲノムにはネアンデルタール人やデニソワ人とは異なる人類との交雑を認める結果も
示されており、アフリカには30万年前の謎の人類ホモ・ナレディもいた・・・
第四章「ヨーロッパへの進出」より
・ホモ・サピエンスの出アフリカは20万年前以降に何度か試みられていた
→我々につながる祖先の出アフリカは6~5万年前
→シベリアでのネアンデルタールとの交雑時期は52000~58000年前
→中東での交雑は出アフリカの初期と考えられるので6万年前が妥当
→ただし南アジア・オーストラリアなどで6万年前より古い化石や石器が見つかっている
→6万年前より以前は放射性炭素年代測定が困難なので各説がある
→これ以降1万年前の農業生産まで(後期旧石器時代)の気候変動が離散と集合を促した
・現代人につながる系統だけでも、出アフリカから1万年の間に東アジア系・ヨーロッパ系・
ユーラシア基層集団の3系統が成立した
・出アフリカ集団は単一系統ではなく現在の集団はそれらの離合拡散・交雑・隔離を経たもの
・最も研究の進んでいるヨーロッパ集団について(略)
・ヨーロッパでも日本でも狩猟採集民のゲノムは10%から25%
→基本的に狩猟採集民は農耕民の社会に飲み込まれている
・5300年前のアイスマンのゲノムはアルプス人ではなくサルディニア人と近縁だった
→サルディニア人は8000年前に移住して混合しなかったヨーロッパ初期農耕民の子孫
→移住前の農耕民のゲノムを残しており現代ヨーロッパ人とは異なる→なぜか?
→5000年前にヨーロッパ人の遺伝的な構成が大きく変わったから
→その原因は東のステップ地域から来た牧畜民
→ヨーロッパ人の地域差は狩猟採集民と農耕民と牧畜民の混合の仕方の違い
→牧畜民のゲノムの割合が高いほど身長が高いなど・・・
→牧畜民ゲノムからはペスト菌DNAの断片が検出されており農耕民に大打撃を与えた可能性
→古代ゲノム解析は疫病研究にも重要な知見をもたらす
第五章「アジア集団の成立」より
・1万年前より古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析は一部しか行われていないが、
→出アフリカ集団は中東で1万年ほど停滞していた
→5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまで拡散した
・ユーラシア東部へは北ルートと南ルートが考えられている
→南ルートでは古代南インド狩猟民集団→一部が東南アジアへ→デニソワ人と混血?
→一部がパプアニューギニア、オーストラリアへ
→北ルートで北上したグループが古代東アジア集団を形成した?
・ヒントは縄文人のゲノム
→日本列島にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前
→16000年前に土器が作られ3000年前に稲作が入るまでの13000年の間が縄文時代
→この間に遺伝組成を変えるような外部からの流入はなかったので縄文人ゲノムがヒントに
・縄文人のゲノムを共有している現在の東アジア人
多い順にアイヌ集団→沖縄の人→本州・四国・九州の日本人
→沿海州の先住民、韓国人、台湾の先住民も僅かに共有している
→アムール流域の先住民、新石器・鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団とは非常に古い
時代に分岐した同じ系統に属することも判明している
→古代南インド狩猟民集団→チベットや東アジアの沿岸地域へ→日本では縄文人に
・縄文人は4万年前以降に異なるふたつの系統が合流して形成された
→別々に南北から流入したのか大陸沿岸部で合流してから流入したのかは不明
・シベリア集団の変遷、アメリカ大陸集団の起源・・・
→複雑な集団の置換によりユーラシア北部から南北アメリカのモザイク状の遺伝構成へ
・1万年前以降は解析できる人骨も多く、1万年前には遺伝的に区別できる9集団がいた
→これらの離合集散が青銅器時代以降の集団形成に関わることになる
→スキタイ、匈奴、フン族などの遊牧騎馬民族も異なる遺伝的特徴を持った集団の連合体
→なので中央アジアの広大なステップを遺伝的に単一の集団が支配したことはない
・3回にわたる移住の波が南アジア集団の遺伝的構成を決定した
→9000年前の狩猟採集民と初期農耕民の混合
→7400~5700年前の混合完成と、その後の北方集団との混合
→4600~3900年前のインダス文明の初期農耕民にはイラン牧畜民や狩猟採集民ゲノムもある
・南アジアから東南アジアには5万年前
→どちらもDNA保存に適した地域ではないので現代人DNAからの考察
→遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応している
→東南アジアの半島部と島嶼部は、ホモ・サピエンスが最初に拡散した氷河期には
スンダランドで一つの陸塊だった
→ヨーロッパ同様、農耕以前の狩猟採集民ゲノムは伝わっていない
・南太平洋・オセアニア(略)
・中国の南北地域集団
→今も言語的にも遺伝的にも異なり過去の違いはさらに大きい
→黄河流域と福建省では1万年~6000年前まで遺伝的に区別しうる集団だった
→北方集団と東南アジア集団
・日本への渡来の起源
→内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部に流れる西遼河流域の雑穀農耕民の古代ゲノムには
日本や韓国の現代人ゲノムとの共通性を見いだせる
→日本語や韓国語の起源地と考えられるが、それ以外との関係はない
→なぜ朝鮮半島の方向だけに拡散したのかは、さらに多くの古代ゲノムが必要
→この集団の動きが弥生時代初期の日本列島への農耕民の流入に(拡散から約2000年後)
→ところが弥生時代初期の日本列島での農耕の始まりは水田稲作→なぜか?
→この分析には稲作起源地の長江流域の古代ゲノムが入っていないから
→長江流域の古代ゲノム解析が進めば日本への複雑な渡来経路が見えてくるはず
・東アジアの大陸部では北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大した
→それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成された
・東南アジアや東アジアの沿岸部では初期拡散定着民と農耕民の混合で現代人集団が形成された
・1万年前以降に起こった各地の農耕は集団の拡散を促し様々な言語グループを生み出した
第六章「日本列島集団の起源」より
・二重構造モデル説
→縄文時代と弥生時代の人骨の違い
(旧石器時代に直接来た集団と北東アジアで新石器時代に形質変化してから来た集団の違い)
→現代の北海道アイヌ集団・琉球列島集団と本州四国九州を中心とする集団の違い
(稲作のなかった北海道と、北部九州より稲作が2000年遅かった琉球列島との違い)
→古代ゲノム解析からは単純すぎる説と指摘されている→地域差が大きいから
・縄文時代
→旧石器時代の後半から縄文時代までの形質は連続している
→縄文人のゲノム解析からは現代の東アジア集団とはかけ離れた特徴が見られる
→礼文島の縄文人からは極北集団に見られる脂肪代謝遺伝子の有利な異常が見られる
→現代日本人でも3割に見られ韓国や中国には殆ど見られないハプログループは縄文人由来
→東南アジアからの初期拡散で北上した中の沿岸集団が縄文人の母体だが均一ではない
・弥生時代
→縄文時代にも農耕はあったので水田稲作農耕より金属器使用を弥生時代の特徴とすべき
→日本では、たまたま同じ時期に入ってきただけ(世界では別のルートで別の時期に)
→稲作農耕は長江中流域から拡散したもので、日本の青銅器の源流は北東アジアのもの
→異なる集団が渡来した?
→長江流域からの稲作農耕民集団と、西遼河から移動中に青銅器文化を得た雑穀農耕民集団が
朝鮮半島経由で別々に渡来した?(長江沿岸部やオホーツクから直接伝播したルートもあった?)
→稲作の東進により縄文人との混合が進んでいったのなら、東に行くほど縄文系ゲノムに
寄った位置になるはずだが、そうはなっていない
→弥生時代の中期以降も各地に多くの渡来があったと想定しないと説明できない
→弥生時代から古墳時代における大陸からの渡来集団の影響を考慮すべき
→ただし古墳時代の人骨は階級の出現によってランダムなサンプルとはなりえない
・琉球列島集団
→旧石器人骨との関係は不明だが、縄文時代以降は日本列島からの集団の移住があった
→7300年前の喜界カルデラ爆発により九州と途絶して独自集団となった
→弥生時代から再び本土の影響を受けグスク時代の南九州からの農耕民流入で加速され現在に至る
→縄文ゲノムが30%残っているのは後の集団の影響が本土よりは小さかったから
・北海道集団
→アイヌ集団は縄文人を基盤にオホーツク文化人の遺伝子を受け取り成立したもの
→縄文ゲノムが70%残っており大陸北方系ゲノムも引き継いでいる
(琉球列島集団には台湾より南のゲノムの影響がないのとは対照的)
・二重構造モデルでは稲作を受け入れた中央と遅れた周辺で形質の違いが生じたと考えるが、
この発想からは、周辺集団と他の地域集団との交流の姿を捉えることはできない
(コラム4より)
・鳥取市青谷上寺地遺跡の32個体の人骨分析(単一遺跡では日本最大規模の分析)
→9割に母系の血縁がなく、すべて現代日本人の範疇に入るものだった
→しかも縄文遺伝子が強い者から大陸遺伝子が強い者まで様々だった
→長く維持された村落だと同族婚が増えて核ゲノムも似たものになるはず
→木製容器や管玉の生産も考えると流入や離散を繰り返す古代都市だった可能性が高い
→多数の創傷もあるが解体痕もあり戦闘被害者だけではなかった可能性がある
→死亡時期は放射性炭素年代測定法により2世紀の後半と判明している
→2世紀の後半は複数の史書にある「倭国大乱」の時期
→混乱した社会状況を示す代表的な遺跡といえる
2023年12月追記です
フロンティア第1回「日本人とは何者なのか」という番組で、著者らが語っておられたのは、
①縄文人は4~5万年前にアフリカからアジアにはじめて到着し、その後の農耕民の進出で、
東南アジアではほぼ消滅した(タイのマニ族に近い)古いホアビニアン文化を持つ狩猟採集民で、
東アジアでは存在しないDNAの集団
→その一部が東南アジアから沿岸沿いを北上、当時は寒冷期で今より100m以上も海面が低く、
大陸と陸続きだった日本にやってきた
→その後の海進により孤立し、1万年以上も他集団と混交せず発展した世界でも稀な集団
→日本にやってきた集団は1000人→今の日本人は1億人以上
②弥生人は、3000年前の北東アジアから稲作と金属器を(別々に?)持ってきた(別々の?)集団と
縄文人との混交集団
(日本人はこの二重構造と考えられてきたが古墳人DNAの6割以上は別物なので三重構造)
③古墳人(庶民)は、戦乱が続いていた東アジアの様々な地域から様々な時代の様々な地域に
1000年~1500年間に渡り(おそらく中世まで)流入した様々な集団と縄文弥生人との混交集団
→今の日本人よりはるかにDNA・文化・言語など多様性のある集団で錯綜していたはず
→なので今後(科博に)予算があれば、最も研究したいのが古墳人(庶民)のDNA
→東ユーラシアのあらゆる集団のDNAが古墳人を形成していたかも知れないから・・・
第七章「新大陸アメリカへ」より
・アメリカ大陸はホモ・サピエンスが最後に到達した大陸
→これまではベーリング陸橋からアラスカの無氷回廊をとおり拡散したと考えられてきた
→13000年前から3度の移住がありクロヴィス文化などが形成されたと・・・
→ところが南米最南端でクロヴィス文化より古い遺跡が発見された
→無氷回廊も寒冷すぎるので現在では海沿いのルートで移動したと考えられている
・新大陸の先住民の共通祖先はすべて24000年前だった
→アジアの同一系統の共通祖先はさらに数千年前で、進出した初期集団は5000人未満
→その後、爆発的に人口を増やした状況が明らかになった(略)
・2014年にバイカル湖周辺の古人骨の核ゲノム解析が行われた
→新大陸の先住民にも共有されていることが判明した
→東アジア集団からの分離ではなくユーラシア西部集団との共通遺伝子
(それまでヨーロッパ人の遺伝子はコロンブス以降の混血と考えられていた)
・北米では、さらに古い人類の痕跡も報告されている
→現在の先住民とは別系統のホモ・サピエンスがいたのかも?
終章「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」より
・ゴーギャンがこのタイトルの大作を描いたのは19世紀の終わり
→ネアンデルタール人の化石に続きジャワ原人の化石が発見された時期
→直近10年の古代ゲノム解析で化石だけでは知れなかった事実が明らかになっている
・19世紀前半にヨーロッパとは異なる人類集団の研究が始まった→「人種」という概念
→20世紀後半の遺伝学研究で人種は連続しており区分できないことが明確になった
・種の定義を「自由に交配し生殖能力のある子孫を残す集団」とする考え方
→これに時間軸を入れると旧人や原人も同じ種になるので、便宜上分けているだけ
→種の下位としての「人種」という概念は、さらに生物学的な実体のないもの
・現代のヨーロッパ人・東アジア人・アフリカ人のSNP分析は明確に区分できるように見える
→それに様々な地域集団のSNP分析を加えると、どこにも境界がないことが見えてくる
→人為的な基準を導入しない限り「人種」を定義することは不可能
・同じ集団の中の個人間の遺伝子の違いのほうが、集団間の遺伝子の違いよりはるかに大きい
→もともとホモ・サピエンス遺伝子の99.9%は共通で、残りが個人あるいは集団の違い
→この0.1%を研究し、個人あるいは集団の違いを明らかにしているだけ
→違いの原因となる変異があるのは事実だが、大部分は交配集団に生まれるランダムな変化で、
→基本的な能力の違いを表すものではない→このことが結果を理解する上で重要
・ある環境下で有利あるいは不利になる遺伝子の違いがあることも事実
→特定の集団にだけ有利な遺伝子が共有されていることもあり、これが集団優劣の根拠だが、
→集団の持つ遺伝子構成は時間で大きく変化するので、集団優劣に意味はない
・0.1%の違いで人の優劣を決める能力主義か、99.9%の共通性を重視する平等主義か
→現実の社会は違いのほうに価値を持たせ過ぎているように思える・・・
・遺伝子の流れを糸にたとえると・・・
→それぞれの個人はホモ・サピエンスという巨大なネットを構成する結び目のひとつ
→様々な色があるが全体を構成する要素では個々の色ではなく「結び目があること」が重要
→個人はネットを構成する上では等しい価値を持っている
・言語や宗教など文化的な違いによって定義される「民族」に生物学的な基礎はあるか
→ゲノム解析により地域集団の成立は古いものでも数千年前と判明した
→人類集団は6万年の間に集合と離散を繰り返しているので時間軸では1割程度の長さ
→他集団との混合を経ない集団を「純粋な民族」としても数千年レベルでしか存在しない
(例・漢民族は5000年前から北東と南部の3集団が緩慢に融合する過程から生み出された概念で、
今もそのプロセスは続いている→遺伝的にまとまった集団ではない)
→今後も他の地域集団との混合は進み「民族」は生物学的な実態を失っていく
→民族と遺伝子を混同した議論は、さらに意味のないものになっていく
・現在の研究対象は(民族ではなく)地域の集団で3世代程度までの人々の集合
→遺伝的な特徴はこのレベルでの時代幅で議論されているもの
→このレベルでも疫病や戦争で変化しており異なる集団になっていることも多い
→数千年前から16世紀までは遺伝的な特徴をあまり変えずに存続してきた
→その後の変化は加速しており日本列島も例外ではない
・ヨーロッパ北方では青銅器時代以降に集団の交代に近い変化があった
→日本でも縄文時代から弥生・古墳時代にかけて大規模な遺伝的変化があった
→弥生時代にクニができた→その時代にクニという体制を持った集団が渡来したということ
→文化だけ取り入れるパターン、集団間で混血するパターン、集団が置換するパターン・・・
→文化の変遷と集団の遺伝的な変化との関係は様々でケースバイケース
→普遍的な法則は見出されていないが両者の関係が明らかになれば新たな解釈が生まれるはず
・人類集団の起源と拡散
→現時点ではホモ・サピエンス誕生の経緯と出アフリカ後の初期拡散状況の再現の研究
→将来的に数百体レベルでネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解析ができれば、
ホモ・サピエンス特有のゲノムが明確になり「私たちは何者か」の答えが出る
→化石記録が貧弱で不明だった6~2万年前の初期拡散状況もゲノム解析でシナリオができた
→特に気温の低い高緯度地域では詳しい分析が可能になり精度の高いものになってきている
→今後は低緯度地域で変性の進んだDNAデータを取り出す技術革新の進展がカギ・・・
・古代ゲノム研究の意義
→現在の歴史教科書は「アフリカでの人類の誕生」から、いきなり「四大文明の発展」に跳ぶ
→人類の道のりを通史として捉えることのない、このような記述に欠けているのは、
→「世界に展開したホモ・サピエンスは遺伝的にはほぼ均一な集団だった」という視点と、
→「文化は同じ起源から生まれ、文明の違いは環境や経緯と人々の選択の結果」という認識
・古代ゲノム研究は、その地に人類が到達した時点から現在までを通史として明らかにする
→その地の人骨さえそろえば、集団成立のシナリオを提供できる
→歴史や文明に対する認識も必然的に変えていくのが古代ゲノム研究・・・
「おわりに」より
・本書は2021年現在の情報によるもので今後の研究次第で異なるシナリオになる可能性もある
・2010年以降は次世代シークエンサの実用化により核ゲノムが取り扱えるようになったが、
→共同研究と巨額資金が必要で大部分はビッグラボといわれる世界で十指もない施設による研究
→考古学や形質人類学などのデータが抜け落ちる危険性もある→共同研究の重要性
→たとえば東アジア古代集団と渡来系弥生人との関係はドイツ・韓国の研究者との共同研究
・古代ゲノム研究は最新成果を常に把握していないとついていけなくなる分野
→なので著者が読みためた論文メモを地域別に再構成したのが本書
・・・
古代ゲノム研究・・・よくわからないけど、じつに興味深い分野でした・・・
人類の起源~古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」~
とゆー本のご紹介であります(備忘のための読書メモです)
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、こちらの記事の続きとゆーか、前回記事、前々回記事の前段階とゆーか・・・
日本などの古代史も含んだ最新研究による「人類の起源」であります
例によって目次のみ
以下、脳の外部記憶としてのメモ書きです
まず「はじめに」にあった本書のダイジェストより
・これまで現生人類ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで生まれたとされてきたが、
→ネアンデルタール人のDNA解析により彼らの祖先と分かれたのは60万年前と判明した
→別れた後も交雑を繰り返し他の絶滅人類とも交雑していたことも判明しつつある
・現代人DNAとの比較研究で、現生人類はアフリカ→中東→ヨーロッパや南アジア→
東南アジアやオセアニア→東アジア→南北アメリカ大陸へと拡がったことが判明した
・どのように現代の地域集団を形成していったのか
→古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは集団の大きな遺伝的変化があった
・世界各地の人類集団(民族)は、ある地域における「ヒトの移動の総和」といえる
→特定の遺伝子分布の地域差は集団成立の有力な手がかりになる
・1980年代に発明されたPCR法はウィルス検知だけでなく人類学にも多大な恩恵をもたらした
→古代DNA研究は考古学・歴史学・言語学の分野にも大きなインパクトを与えている
→「人間とは何か」→現時点で何が明らかになり、研究は何を目指しているのか・・・
第一章「人類の登場」より
・1859年のダーウィンの進化論→ヒトの祖先は?→神から化石人類学へ
→約700万年に及ぶ人類進化が大まかに示された
・神話と科学の違い
→科学は間違いと訂正の歴史
→なので科学を間違いないと信奉することは理解の障害にもなる
→本書の古代ゲノム解析による説明も現時点での結論であり将来反証されることもある
・ホモ属にはいくつもの種があったが、現在生存しているのはサピエンス種だけ
・人類の定義→本書では「生物学的に自由に交配して子孫を残せるグループ」という視点
→この視点は世界の集団形成を理解する際にも重要
・人類の祖先とチンパンジーの祖先が分かれたのは700万年前
→ホモ属が登場するのは250~200万年前
→サピエンス種が登場するのは30~20万年前
→ホモ・サピエンスの出アフリカは6万年前、顕著な文化発展は5万年前(異説あり)
→どの時点をもって人類の誕生としているか→読み手の注意が必要
・文明が農耕からなら1万年、文字に残る「人類の歴史」からなら5000年・・・
→歴史的な経緯や地域環境による文明の違いはヒトの選択による「多様性」であり、
→世界中の文明はヒトという共通の基盤に立っている
→この認識は現実世界を理解するうえでも欠かせない視点
・現在では、異なる進化段階の種が同時代に生きていたこともわかっているが、
→進化傾向を捉えるためには初期猿人→猿人→原人→旧人→新人という段階は便利な考え方
→それでも同時代・同所に多数の化石人類が見つかっているので状況は混乱している
・約200万年前に登場したホモ・エレクトスは最初に出アフリカを果たした原人
→アフリカ・西アジア・中国・ジャワ島などで発見されている人類
→20万年前の化石もあり180万年も生存していた(ホモ・サピエンスは20万年程度)
→フローレス島で発見されたホモ・エレクトスから進化したホビットは6万年前まで生存
・ネアンデルタール人は旧人とされてきたが2016年のDNA分析の成功で大きく変わった
→これ以降、人類進化はDNAデータで語られるようになる
→ネアンデルタールで発達したのは主に視覚に関わる後頭葉部分
→ホモ・サピエンスで発達したのは思考や創造性などの前頭葉部分
→どちらも脳の容量はほぼ同じで交雑していた
(コラム1より)
・ホモ・サピエンスの大脳新皮質で共同体を構成する人の顔・名前・考え・バックグラウンドが
理解できる人数は150人程度
→なので狩猟採集社会から現代社会まで150人程度を社会構成の単位としてきた(ダンパー数)
→言語・文字・物語・宗教・歌・音楽といった文化要素により、時間や空間を超えて概念や
考え方を共有するハードウェアで、なんとか複雑な社会を形成していった
→現在は(脳の容量は変わらないのに)通信ネットワークで何百人(何千人)が同時につながりあい、
それらの大量のデータが行き交う高度な社会環境
→自分の脳の処理能力より、はるかに多量のデータにさらされている状況
→バランスのとれた情報処理ができずに社会が混乱しているのも至極当然・・・
第二章「私たちの隠れた祖先」より
・2010年以降に核DNA分析が可能になり、次々と新たな事実が明らかになっている
→1980年代からコンタミネーション(混入)が問題だったがDNA分析を前提とした発掘に
・ネアンデルタール人はユーラシア大陸の西半分に分布していた
→ホモ・サピエンス集団のひとつがネアンデルタールと交雑して世界に拡がった
→交雑しなかった集団もコーカサスや中東、北イランに存在しており現在のヨーロッパ人の
形成に関与したので、現代ヨーロッパ人のネアンデルタールDNAは相対的に少ない
・ホモ・サピエンスとネアンデルタールは数十万年も交雑している
→初期の交雑はアフリカとは考えにくく、ホモ・サピエンスの出アフリカが6万年前ではなく
40万年前よりやや新しい時代だったのか、あるいはホモ・サピエンスがユーラシア大陸で
他の未知の人類から進化したのか→まだ完全解明には至っていない
・デニソワ洞窟ではデニソワ人とネアンデルタール人の混血少女の化石が確認されている
→パプア人DNAの3~6%はデニソワ人DNAに由来
→東アジア・南アジア・アメリカ先住民もパプア人の1/20程度のデニソワ人DNAを共有
→東アジアのゲノムはパプアとは別で、少なくとも2回は別々にデニソワ人と交雑していた
→チベット人にもデニソワ人DNAがあるが、ホモ・サピエンスがチベット高原に来たのは11000年前
→これらから、デニソワ人は数万年前まで生きていた可能性が示された
・サハラ以南のアフリカ人ではデニソワ人と未知の人類との混血が推察される
→3人類とは別の人類がいてデニソワ人と交雑した可能性
→異なる系統人類の混血が長期間続いた結果がホモ・サピエンス遺伝子にも残っている
・ユーラシア大陸に拡散した人類は単一種ではなく各段階が同時期・同所に存在
→20世紀の終わりまでホモ・サピエンスは他地域進化説だった
→21世紀になると6万年前にアフリカを出て他の人類を駆逐したというアフリカ起源説
→2010年以降は拡散過程で他の人類の遺伝子を取り込んだことが明らかになった
→アフリカ起源説が他地域進化説の一部を取り込む形で収束した
・生存に不利な遺伝子は徐々に集団から取り除かれる
→アフリカでも世界展開の途中でも交雑は長期に繰り返されている
→iPS細胞や遺伝子編集技術で理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人の復活も可能
第三章「人類揺籃の地アフリカ」より
・アフリカでのホモ・サピエンス拡散の様子(略)
・ホモ・サピエンスが30万年前にアフリカで誕生したことはほぼ定説になっているが、
→ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先から分岐したのは60万年前と判明してるのに、
→長期間にわたるホモ・サピエンスの祖先の化石がアフリカにないこと
→数十万年前にはネアンデルタール人と交雑があったことを考えると、
→最初の祖先はユーラシア大陸の原人で、
→そこから3人類が生まれ30万年前以降にアフリカに移動したグループが世界に拡がり、
→残ったグループはネアンデルタールと交雑した後に絶滅した、とも考えられる
・異なる人類の交雑が明らかになったので、起源はアフリカだけでなく広範囲で考えるべき
→イスラエルでは古いネアンデルタールよりも古いホモ・サピエンスが発見されている
→古い交雑はこの地域だった可能性がある
・ホモ・サピエンスの世界展開は、現代人のゲノム解析から6万年前以降とされてきたが、
中国・ギリシャ・東南アジア・オーストラリアから、それよりも古い化石の報告がある
・農耕民と牧畜民の起源
→アフリカ西部の農耕による人口拡大→移動→集団(言語)の分化
(世界各地でも初期農耕民の拡大が言語族の分布と結びついている)
→牧畜民には乳糖耐性遺伝子が必要→牧畜とともにヨーロッパに(新石器時代にはなかった)
→生業と遺伝子と言語には密接な関係がある
・現代人のゲノムにはネアンデルタール人やデニソワ人とは異なる人類との交雑を認める結果も
示されており、アフリカには30万年前の謎の人類ホモ・ナレディもいた・・・
第四章「ヨーロッパへの進出」より
・ホモ・サピエンスの出アフリカは20万年前以降に何度か試みられていた
→我々につながる祖先の出アフリカは6~5万年前
→シベリアでのネアンデルタールとの交雑時期は52000~58000年前
→中東での交雑は出アフリカの初期と考えられるので6万年前が妥当
→ただし南アジア・オーストラリアなどで6万年前より古い化石や石器が見つかっている
→6万年前より以前は放射性炭素年代測定が困難なので各説がある
→これ以降1万年前の農業生産まで(後期旧石器時代)の気候変動が離散と集合を促した
・現代人につながる系統だけでも、出アフリカから1万年の間に東アジア系・ヨーロッパ系・
ユーラシア基層集団の3系統が成立した
・出アフリカ集団は単一系統ではなく現在の集団はそれらの離合拡散・交雑・隔離を経たもの
・最も研究の進んでいるヨーロッパ集団について(略)
・ヨーロッパでも日本でも狩猟採集民のゲノムは10%から25%
→基本的に狩猟採集民は農耕民の社会に飲み込まれている
・5300年前のアイスマンのゲノムはアルプス人ではなくサルディニア人と近縁だった
→サルディニア人は8000年前に移住して混合しなかったヨーロッパ初期農耕民の子孫
→移住前の農耕民のゲノムを残しており現代ヨーロッパ人とは異なる→なぜか?
→5000年前にヨーロッパ人の遺伝的な構成が大きく変わったから
→その原因は東のステップ地域から来た牧畜民
→ヨーロッパ人の地域差は狩猟採集民と農耕民と牧畜民の混合の仕方の違い
→牧畜民のゲノムの割合が高いほど身長が高いなど・・・
→牧畜民ゲノムからはペスト菌DNAの断片が検出されており農耕民に大打撃を与えた可能性
→古代ゲノム解析は疫病研究にも重要な知見をもたらす
第五章「アジア集団の成立」より
・1万年前より古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析は一部しか行われていないが、
→出アフリカ集団は中東で1万年ほど停滞していた
→5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまで拡散した
・ユーラシア東部へは北ルートと南ルートが考えられている
→南ルートでは古代南インド狩猟民集団→一部が東南アジアへ→デニソワ人と混血?
→一部がパプアニューギニア、オーストラリアへ
→北ルートで北上したグループが古代東アジア集団を形成した?
・ヒントは縄文人のゲノム
→日本列島にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前
→16000年前に土器が作られ3000年前に稲作が入るまでの13000年の間が縄文時代
→この間に遺伝組成を変えるような外部からの流入はなかったので縄文人ゲノムがヒントに
・縄文人のゲノムを共有している現在の東アジア人
多い順にアイヌ集団→沖縄の人→本州・四国・九州の日本人
→沿海州の先住民、韓国人、台湾の先住民も僅かに共有している
→アムール流域の先住民、新石器・鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団とは非常に古い
時代に分岐した同じ系統に属することも判明している
→古代南インド狩猟民集団→チベットや東アジアの沿岸地域へ→日本では縄文人に
・縄文人は4万年前以降に異なるふたつの系統が合流して形成された
→別々に南北から流入したのか大陸沿岸部で合流してから流入したのかは不明
・シベリア集団の変遷、アメリカ大陸集団の起源・・・
→複雑な集団の置換によりユーラシア北部から南北アメリカのモザイク状の遺伝構成へ
・1万年前以降は解析できる人骨も多く、1万年前には遺伝的に区別できる9集団がいた
→これらの離合集散が青銅器時代以降の集団形成に関わることになる
→スキタイ、匈奴、フン族などの遊牧騎馬民族も異なる遺伝的特徴を持った集団の連合体
→なので中央アジアの広大なステップを遺伝的に単一の集団が支配したことはない
・3回にわたる移住の波が南アジア集団の遺伝的構成を決定した
→9000年前の狩猟採集民と初期農耕民の混合
→7400~5700年前の混合完成と、その後の北方集団との混合
→4600~3900年前のインダス文明の初期農耕民にはイラン牧畜民や狩猟採集民ゲノムもある
・南アジアから東南アジアには5万年前
→どちらもDNA保存に適した地域ではないので現代人DNAからの考察
→遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応している
→東南アジアの半島部と島嶼部は、ホモ・サピエンスが最初に拡散した氷河期には
スンダランドで一つの陸塊だった
→ヨーロッパ同様、農耕以前の狩猟採集民ゲノムは伝わっていない
・南太平洋・オセアニア(略)
・中国の南北地域集団
→今も言語的にも遺伝的にも異なり過去の違いはさらに大きい
→黄河流域と福建省では1万年~6000年前まで遺伝的に区別しうる集団だった
→北方集団と東南アジア集団
・日本への渡来の起源
→内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部に流れる西遼河流域の雑穀農耕民の古代ゲノムには
日本や韓国の現代人ゲノムとの共通性を見いだせる
→日本語や韓国語の起源地と考えられるが、それ以外との関係はない
→なぜ朝鮮半島の方向だけに拡散したのかは、さらに多くの古代ゲノムが必要
→この集団の動きが弥生時代初期の日本列島への農耕民の流入に(拡散から約2000年後)
→ところが弥生時代初期の日本列島での農耕の始まりは水田稲作→なぜか?
→この分析には稲作起源地の長江流域の古代ゲノムが入っていないから
→長江流域の古代ゲノム解析が進めば日本への複雑な渡来経路が見えてくるはず
・東アジアの大陸部では北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大した
→それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成された
・東南アジアや東アジアの沿岸部では初期拡散定着民と農耕民の混合で現代人集団が形成された
・1万年前以降に起こった各地の農耕は集団の拡散を促し様々な言語グループを生み出した
第六章「日本列島集団の起源」より
・二重構造モデル説
→縄文時代と弥生時代の人骨の違い
(旧石器時代に直接来た集団と北東アジアで新石器時代に形質変化してから来た集団の違い)
→現代の北海道アイヌ集団・琉球列島集団と本州四国九州を中心とする集団の違い
(稲作のなかった北海道と、北部九州より稲作が2000年遅かった琉球列島との違い)
→古代ゲノム解析からは単純すぎる説と指摘されている→地域差が大きいから
・縄文時代
→旧石器時代の後半から縄文時代までの形質は連続している
→縄文人のゲノム解析からは現代の東アジア集団とはかけ離れた特徴が見られる
→礼文島の縄文人からは極北集団に見られる脂肪代謝遺伝子の有利な異常が見られる
→現代日本人でも3割に見られ韓国や中国には殆ど見られないハプログループは縄文人由来
→東南アジアからの初期拡散で北上した中の沿岸集団が縄文人の母体だが均一ではない
・弥生時代
→縄文時代にも農耕はあったので水田稲作農耕より金属器使用を弥生時代の特徴とすべき
→日本では、たまたま同じ時期に入ってきただけ(世界では別のルートで別の時期に)
→稲作農耕は長江中流域から拡散したもので、日本の青銅器の源流は北東アジアのもの
→異なる集団が渡来した?
→長江流域からの稲作農耕民集団と、西遼河から移動中に青銅器文化を得た雑穀農耕民集団が
朝鮮半島経由で別々に渡来した?(長江沿岸部やオホーツクから直接伝播したルートもあった?)
→稲作の東進により縄文人との混合が進んでいったのなら、東に行くほど縄文系ゲノムに
寄った位置になるはずだが、そうはなっていない
→弥生時代の中期以降も各地に多くの渡来があったと想定しないと説明できない
→弥生時代から古墳時代における大陸からの渡来集団の影響を考慮すべき
→ただし古墳時代の人骨は階級の出現によってランダムなサンプルとはなりえない
・琉球列島集団
→旧石器人骨との関係は不明だが、縄文時代以降は日本列島からの集団の移住があった
→7300年前の喜界カルデラ爆発により九州と途絶して独自集団となった
→弥生時代から再び本土の影響を受けグスク時代の南九州からの農耕民流入で加速され現在に至る
→縄文ゲノムが30%残っているのは後の集団の影響が本土よりは小さかったから
・北海道集団
→アイヌ集団は縄文人を基盤にオホーツク文化人の遺伝子を受け取り成立したもの
→縄文ゲノムが70%残っており大陸北方系ゲノムも引き継いでいる
(琉球列島集団には台湾より南のゲノムの影響がないのとは対照的)
・二重構造モデルでは稲作を受け入れた中央と遅れた周辺で形質の違いが生じたと考えるが、
この発想からは、周辺集団と他の地域集団との交流の姿を捉えることはできない
(コラム4より)
・鳥取市青谷上寺地遺跡の32個体の人骨分析(単一遺跡では日本最大規模の分析)
→9割に母系の血縁がなく、すべて現代日本人の範疇に入るものだった
→しかも縄文遺伝子が強い者から大陸遺伝子が強い者まで様々だった
→長く維持された村落だと同族婚が増えて核ゲノムも似たものになるはず
→木製容器や管玉の生産も考えると流入や離散を繰り返す古代都市だった可能性が高い
→多数の創傷もあるが解体痕もあり戦闘被害者だけではなかった可能性がある
→死亡時期は放射性炭素年代測定法により2世紀の後半と判明している
→2世紀の後半は複数の史書にある「倭国大乱」の時期
→混乱した社会状況を示す代表的な遺跡といえる
2023年12月追記です
フロンティア第1回「日本人とは何者なのか」という番組で、著者らが語っておられたのは、
①縄文人は4~5万年前にアフリカからアジアにはじめて到着し、その後の農耕民の進出で、
東南アジアではほぼ消滅した(タイのマニ族に近い)古いホアビニアン文化を持つ狩猟採集民で、
東アジアでは存在しないDNAの集団
→その一部が東南アジアから沿岸沿いを北上、当時は寒冷期で今より100m以上も海面が低く、
大陸と陸続きだった日本にやってきた
→その後の海進により孤立し、1万年以上も他集団と混交せず発展した世界でも稀な集団
→日本にやってきた集団は1000人→今の日本人は1億人以上
②弥生人は、3000年前の北東アジアから稲作と金属器を(別々に?)持ってきた(別々の?)集団と
縄文人との混交集団
(日本人はこの二重構造と考えられてきたが古墳人DNAの6割以上は別物なので三重構造)
③古墳人(庶民)は、戦乱が続いていた東アジアの様々な地域から様々な時代の様々な地域に
1000年~1500年間に渡り(おそらく中世まで)流入した様々な集団と縄文弥生人との混交集団
→今の日本人よりはるかにDNA・文化・言語など多様性のある集団で錯綜していたはず
→なので今後(科博に)予算があれば、最も研究したいのが古墳人(庶民)のDNA
→東ユーラシアのあらゆる集団のDNAが古墳人を形成していたかも知れないから・・・
第七章「新大陸アメリカへ」より
・アメリカ大陸はホモ・サピエンスが最後に到達した大陸
→これまではベーリング陸橋からアラスカの無氷回廊をとおり拡散したと考えられてきた
→13000年前から3度の移住がありクロヴィス文化などが形成されたと・・・
→ところが南米最南端でクロヴィス文化より古い遺跡が発見された
→無氷回廊も寒冷すぎるので現在では海沿いのルートで移動したと考えられている
・新大陸の先住民の共通祖先はすべて24000年前だった
→アジアの同一系統の共通祖先はさらに数千年前で、進出した初期集団は5000人未満
→その後、爆発的に人口を増やした状況が明らかになった(略)
・2014年にバイカル湖周辺の古人骨の核ゲノム解析が行われた
→新大陸の先住民にも共有されていることが判明した
→東アジア集団からの分離ではなくユーラシア西部集団との共通遺伝子
(それまでヨーロッパ人の遺伝子はコロンブス以降の混血と考えられていた)
・北米では、さらに古い人類の痕跡も報告されている
→現在の先住民とは別系統のホモ・サピエンスがいたのかも?
終章「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」より
・ゴーギャンがこのタイトルの大作を描いたのは19世紀の終わり
→ネアンデルタール人の化石に続きジャワ原人の化石が発見された時期
→直近10年の古代ゲノム解析で化石だけでは知れなかった事実が明らかになっている
・19世紀前半にヨーロッパとは異なる人類集団の研究が始まった→「人種」という概念
→20世紀後半の遺伝学研究で人種は連続しており区分できないことが明確になった
・種の定義を「自由に交配し生殖能力のある子孫を残す集団」とする考え方
→これに時間軸を入れると旧人や原人も同じ種になるので、便宜上分けているだけ
→種の下位としての「人種」という概念は、さらに生物学的な実体のないもの
・現代のヨーロッパ人・東アジア人・アフリカ人のSNP分析は明確に区分できるように見える
→それに様々な地域集団のSNP分析を加えると、どこにも境界がないことが見えてくる
→人為的な基準を導入しない限り「人種」を定義することは不可能
・同じ集団の中の個人間の遺伝子の違いのほうが、集団間の遺伝子の違いよりはるかに大きい
→もともとホモ・サピエンス遺伝子の99.9%は共通で、残りが個人あるいは集団の違い
→この0.1%を研究し、個人あるいは集団の違いを明らかにしているだけ
→違いの原因となる変異があるのは事実だが、大部分は交配集団に生まれるランダムな変化で、
→基本的な能力の違いを表すものではない→このことが結果を理解する上で重要
・ある環境下で有利あるいは不利になる遺伝子の違いがあることも事実
→特定の集団にだけ有利な遺伝子が共有されていることもあり、これが集団優劣の根拠だが、
→集団の持つ遺伝子構成は時間で大きく変化するので、集団優劣に意味はない
・0.1%の違いで人の優劣を決める能力主義か、99.9%の共通性を重視する平等主義か
→現実の社会は違いのほうに価値を持たせ過ぎているように思える・・・
・遺伝子の流れを糸にたとえると・・・
→それぞれの個人はホモ・サピエンスという巨大なネットを構成する結び目のひとつ
→様々な色があるが全体を構成する要素では個々の色ではなく「結び目があること」が重要
→個人はネットを構成する上では等しい価値を持っている
・言語や宗教など文化的な違いによって定義される「民族」に生物学的な基礎はあるか
→ゲノム解析により地域集団の成立は古いものでも数千年前と判明した
→人類集団は6万年の間に集合と離散を繰り返しているので時間軸では1割程度の長さ
→他集団との混合を経ない集団を「純粋な民族」としても数千年レベルでしか存在しない
(例・漢民族は5000年前から北東と南部の3集団が緩慢に融合する過程から生み出された概念で、
今もそのプロセスは続いている→遺伝的にまとまった集団ではない)
→今後も他の地域集団との混合は進み「民族」は生物学的な実態を失っていく
→民族と遺伝子を混同した議論は、さらに意味のないものになっていく
・現在の研究対象は(民族ではなく)地域の集団で3世代程度までの人々の集合
→遺伝的な特徴はこのレベルでの時代幅で議論されているもの
→このレベルでも疫病や戦争で変化しており異なる集団になっていることも多い
→数千年前から16世紀までは遺伝的な特徴をあまり変えずに存続してきた
→その後の変化は加速しており日本列島も例外ではない
・ヨーロッパ北方では青銅器時代以降に集団の交代に近い変化があった
→日本でも縄文時代から弥生・古墳時代にかけて大規模な遺伝的変化があった
→弥生時代にクニができた→その時代にクニという体制を持った集団が渡来したということ
→文化だけ取り入れるパターン、集団間で混血するパターン、集団が置換するパターン・・・
→文化の変遷と集団の遺伝的な変化との関係は様々でケースバイケース
→普遍的な法則は見出されていないが両者の関係が明らかになれば新たな解釈が生まれるはず
・人類集団の起源と拡散
→現時点ではホモ・サピエンス誕生の経緯と出アフリカ後の初期拡散状況の再現の研究
→将来的に数百体レベルでネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解析ができれば、
ホモ・サピエンス特有のゲノムが明確になり「私たちは何者か」の答えが出る
→化石記録が貧弱で不明だった6~2万年前の初期拡散状況もゲノム解析でシナリオができた
→特に気温の低い高緯度地域では詳しい分析が可能になり精度の高いものになってきている
→今後は低緯度地域で変性の進んだDNAデータを取り出す技術革新の進展がカギ・・・
・古代ゲノム研究の意義
→現在の歴史教科書は「アフリカでの人類の誕生」から、いきなり「四大文明の発展」に跳ぶ
→人類の道のりを通史として捉えることのない、このような記述に欠けているのは、
→「世界に展開したホモ・サピエンスは遺伝的にはほぼ均一な集団だった」という視点と、
→「文化は同じ起源から生まれ、文明の違いは環境や経緯と人々の選択の結果」という認識
・古代ゲノム研究は、その地に人類が到達した時点から現在までを通史として明らかにする
→その地の人骨さえそろえば、集団成立のシナリオを提供できる
→歴史や文明に対する認識も必然的に変えていくのが古代ゲノム研究・・・
「おわりに」より
・本書は2021年現在の情報によるもので今後の研究次第で異なるシナリオになる可能性もある
・2010年以降は次世代シークエンサの実用化により核ゲノムが取り扱えるようになったが、
→共同研究と巨額資金が必要で大部分はビッグラボといわれる世界で十指もない施設による研究
→考古学や形質人類学などのデータが抜け落ちる危険性もある→共同研究の重要性
→たとえば東アジア古代集団と渡来系弥生人との関係はドイツ・韓国の研究者との共同研究
・古代ゲノム研究は最新成果を常に把握していないとついていけなくなる分野
→なので著者が読みためた論文メモを地域別に再構成したのが本書
・・・
古代ゲノム研究・・・よくわからないけど、じつに興味深い分野でした・・・
2023年09月06日
卑弥呼とヤマト王権
とーとつですが・・・
卑弥呼とヤマト王権であります
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
著者は同志社大学考古学研究室・森浩一氏の愛弟子から千葉市の学芸員を経て橿考研へ入所、
長年にわたる研究から纏向遺跡がヤマト王権最初の大王都で卑弥呼の居所であったことを
明らかにし、その研究成果を一般向けにまとめた・・・とゆー新刊本であります
例によって目次のご紹介
日本の古代史についてはまだ謎の部分も多く、鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本や、
日本人=ユダヤ人説をメインにした小説本など、専門の研究者から在野のアマチュアまで、
あらゆる異説が飛び交う世界で、わたくしの好きな世界のひとつなのでありますね
本書は邪馬台国・卑弥呼・ヤマト王権に関する長年の論争に、そろそろ決着をつけようと、
考古学の専門家が一般読者向きにまとめられた今話題の新刊ですが、いくら一般向きとはいえ
自説以外の紹介も含めた400頁以上もある本ですから、全てのメモなどできませんでした
なので、まずは「本書の構成の説明」があったプロローグ部分のてきとーメモ
・大衆化し作家も加わった1960年代後半からの第一次邪馬台国ブーム
・吉野ケ里遺跡の調査と保存にはじまった1980年代後半からの第二次邪馬台国ブーム
→1976年に橿考研に入って、先輩からは邪馬台国と卑弥呼には関わるなと言われていたが、
纏向調査を四半世紀も続けた頃に一般読者向けの「日本の歴史」第二巻「王権誕生」の執筆を
担当することになり、はじめて明確に関わった
→邪馬台国とは奈良盆地の東南部を占める狭義の「ヤマト国」であり、卑弥呼は纏向にいたと
・邪馬台国や卑弥呼をめぐる論争は文献学上の問題であり、遺跡や遺物からの叙述は難しい
→ただし独断による文献解釈を、部分的な考古学データで取り繕うのは本末転倒である
→考古学の知見で歴史像を組み立て文献との整合性を検証し状況証拠と理論的説得力を得る
→それで邪馬台国論争にも王手を突き付けることができるはず・・・
・本書の構成の説明
第一章
いまだに知名度の低い纏向遺跡について、その考古学的な特徴の数々の積み上げが「ヤマト王権」
の実体を明らかにすること、この遺跡が「ヤマト王権」最初の大王都であったことを紹介
第二章と第三章
ヤマト王権の誕生が、この国の国家形成史においてどのような意味を持つのかの整理
→日本という国家は7世紀末の飛鳥浄御原宮からだが、倭国はそれ以前から対外交渉していた
→第二章で、この国の国家の起源や出現を正しくとらえる
→第三章で、王権誕生への飛躍の胎動を考古学の資料にもとづいて再現する
第四章
ヤマト王権の誕生を主導した勢力の由来、その舞台裏を系譜論として考察する
→ヤマト王権は弥生時代の奈良盆地や畿内の権力構成が継続的・発展的に成長したものではない
→考古学的な事実から全く別のすがたであったことを系譜論で提出する
第五章と第六章
魏志倭人伝の卑弥呼共立や卑弥呼政権の状況を整理し、文献の解釈と考古学上の事実関係に
もとづく解釈との整合性を追う
→考古学上の合理的な枠組みと文献学上の解釈との許容範囲が重なるところに、はじめて
学問としての客観性を獲得することができる
→それで邪馬台国の位置や卑弥呼共立や卑弥呼政権の実体にも迫る
→最後に卑弥呼とヤマト王権の関係を明らかにし、これまでの邪馬台国論争に区切りをつける
→これが本のタイトルを「卑弥呼と邪馬台国」にせず「卑弥呼とヤマト王権」にした理由
で・・・
以下は(著者が先輩から関わるなと言われていた)卑弥呼と邪馬台国に関する部分を中心に、
備忘のためランダムにメモした内容です
ますますてきとーで誤解もあるので、正しくは本書をお読み下さいね
・卑弥呼共立の舞台裏
→魏と呉の間にあった公孫氏にとって背後に位置する韓と倭は重要→帯方郡の設置
→公孫氏の外圧とイト国の失墜、部族国家間の牽制と閉塞状況→倭国乱から30年の空白
(倭国乱とは戦争状態ではなく大陸から見て国としての統一外交窓口がなかった状態)
→内部混乱と外部圧力から、イト国連合(イト倭国)・キビ国連合・イヅモ国連合による会盟
→ハリマ、サヌキ、アハ、イヨなど周辺の国も参加(明治維新の薩長同盟と似た感じ)
→祭祀的な女王の共立による倭国再編へ→新生倭国
・ヤマト国(邪馬台国)へ
→首都をイト国の三雲・井原からヤマト国(邪馬台国)の纏向へ(明治維新の東京遷都と似た感じ)
→それまでヤマト国の王都であった唐古・鍵にならなかったのは王権の権力構成でヤマト国の
比重がきわめて小さかったことと、新王都は新しい都市でなければならなかったことによる
(纏向川の扇状地には集落さえなかったのに忽然と出現した都)
→この遷都は現象面であり武力によるヤマト侵攻(東征論)ではない
→武力解決ではなく政治的駆け引きで解決した
→はじめての談合による日本型危機管理システムだった
→この古い伝承が神武東征神話として誇大に潤色されたことはありうる
・ヤマトに置かれた理由
→倭国の領域は3世紀前半では佐賀県から千葉県、後半では鹿児島県から山形県南部まで
→領域は面ではなくモザイク状で、造反勢力や王権とは無関係の社会も存在していた
→古墳も豊かな耕作地のある平野や盆地より、港市や河川や街道の付近など交通の要衝に多い
→地域勢力を線的にルートで押さえ関係強化することが王権にはきわめて重要だった
(やがてヤマト中心の律令国家形成の足がかりに)
→西日本の国家連合が西に睨みをきかせつつ東方進出できるヤマト国は最適位置だった
→ヤマト国は相対的に高い農業生産力と経済力、文化を持ちながら強力な部族国家がなかった
→大阪平野や京都盆地のような大規模開発できる空間も周辺にあった
→祭祀と神話の創出に最適な三輪山が纏向の東南にあった
→これが国つ神(土地神)統合神の象徴となる神奈備の山
・魏志倭人伝の卑弥呼と邪馬台国
・卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは一度も書かれていない
→倭王、倭女王、女王、女王国、倭国などの表現は複数あるが邪馬台国は一度だけで、
→「女王卑弥呼の都する所」(居所としている場所・国)を示しているにすぎない
→女王国は倭国(21国名)全体を指す場合と、女王国各国の地理的位置関係を示す場合がある
→「皆、女王国に統属す」の場合は卑弥呼の大王都の場所(ヤマト国=邪馬台国)を指す
→なので卑弥呼は倭国の女王であり邪馬台国の女王ではない
→邪馬台国とは新生倭国の大王都が置かれた国名(ヤマト国)の表現でしかない
→「東京都は日本国の首都で日本国の首相官邸は東京都にある」と同じ表現
→日本国の首相(卑弥呼)は東京都知事(ヤマト国=邪馬台国の王)ではないのと同じ
(ヤマト国の王(統治官)は倭国の官または副官がおそらく兼任していた)
・魏志倭人伝の城柵と楼観→卑弥呼の居所
→「宮室、楼観、城柵を厳かに設け・・・」の記載
→九州説では環濠集落の濠に付設する柵で纏向にはないとするが、文脈からは宮室の施設
→弥生時代中期後半から祭殿、巨大倉庫、首長居処の方形区画を囲む溝や柵、塀が作られ、
古墳時代には独立した首長館に発展する→卑弥呼の居処の城柵とは宮室などを囲むもの
→纏向遺跡の直線的な柱列(柵か塀)は、まさに倭人伝の城柵そのもの
→吉野ケ里遺跡の大規模建物跡が発掘され三階建てに復元され、楼観にも見立てられた
→楼は高層建物で復元が正しければクリアだが、観はマツリに際しカミが去来するシンボル塔
→唐古・鍵遺跡出土の大型壺に描かれた重層建物こそが楼観で、祭殿とともに建っていた
→岡山、鳥取出土の土器や福井県坂井市出土の銅鐸にも描かれている
→倭人伝が描く卑弥呼の宮殿の楼観は宮室(正殿)の付属的な建物で祭祀的機能を持つもの
→吉野ケ里遺跡で復元された建物は大きいが楼観の祭祀的機能を備えていたのか・・・
・魏志倭人伝の大倭と大率→新生倭国の支配機構(略)
→卑弥呼政権の地方支配が広域で、しかも整備されていたことが確認できる
→卑弥呼の邪馬台国が九州の小国でもかまわないとする九州説の根底を揺るがすもの
→王の名があるのは倭国の女王卑弥呼と女王に属さない狗奴国の卑弥弓呼(卑弓弥呼?)のみ
→部族国家の王は卑弥呼政権への参画によって国の統治官になったので官名のみ
→新生倭国の中枢に官が多いのは倭国の中枢とヤマト国(邪馬台国)の中枢の重層性による
→魏王朝の権威を背景に、鉄などの交易・航海権・流通機構を掌握しようと外交していた
・魏志倭人伝による卑弥呼の外交記述は当然に魏のみだが、最初の外交は公孫氏政権だった
→後漢末期の鉄刀が160年後に天理市東大寺山古墳(ヤマト国)に副葬されている(公孫氏経由?)
→卑弥呼の最初の魏への遣使は公孫氏滅亡の年(記述の誤りなら翌年)で極めて迅速
・魏志倭人伝・後漢東夷伝における倭国の地理的位置認識
→倭地(日本列島)は今の福建省福州市の東方海上にあり海南島の近くと考えられていた
→朝鮮半島から最初に到達する北九州から南へ伸びる列島と誤解していた(15世紀まで)
→倭国は大人口との誤解もあり呉の東南海上に位置する大国と認識していた
→呉・蜀と抗争する魏にとって、呉と倭が同盟することが懸念材料だった
→実際に238年、244年の銘を持つ呉の神獣鏡が、山梨と宝塚の古墳から出土している
→呉と倭の同盟を回避して君臣関係を結び、呉の背後を脅かすのが魏としては最善策だった
→いわゆる遠交近攻策
→なので外蕃の島国女王としては格段の親魏倭王の金印を授け軍事的なテコ入れまでした
(金印の真贋論争については、当時の中国製との結論がすでに出ている)
→卑弥呼政権には数世紀に渡る北部九州を中心とする外交ノウハウがあり戦略は的確迅速で
ただちに中華帝国の後ろ盾を取り付け、ヤマト王権は国家権力の整備を進めていく
・魏志倭人伝の銅鏡100枚=三角縁神獣鏡説について
→三角縁神獣鏡は中国の神獣鏡群を範型として日本で制作されたとみるほうが合理的
→古い古墳からは後漢式鏡のみで三角縁神獣鏡の出土はない
→卑弥呼に下賜された鏡なら1枚ぐらいあってもいいはず
→卑弥呼が下賜されたのは後漢式鏡が主体であったと考えているが決着はついていない
・長年にわたる纏向遺跡調査で畿内ヤマト説は確かな考古学的根拠を手にした
→だが畿内優越史観、ヤマト中心主義の先入観から、邪馬台国(ヤマト国)からヤマト王権への
発展を説明するため、邪馬台国連合なる発展段階を設定したストーリーが作り上げられた
→纏向のさらなる拡大が3世紀中頃から後葉における箸墓古墳の造営前後であったことは
否定しないが、3世紀はじめにこの遺跡が忽然と出現したことに比べれば小さな波に過ぎない
→纏向遺跡の出現から衰退までの3世紀史は時代区分としても国家体制としても分断できない
→纏向遺跡の出現こそ女王卑弥呼を擁する新たな倭国連合政権の誕生で古墳時代の幕開け
→二段階論からの「邪馬台国連合からヤマト政権へ」というフレーズが概説書や博物館の
展示解説で後を絶たないが、これは半世紀にわたる考古学の成果や研究蓄積を反故にする、
30年前のヤマト優越史観への回帰としか思えないが、はてさて読者の方々は・・・
・女王卑弥呼の実像
→自らの意志に関わりなく倭国王に祭り上げられ舵取りを担う、若く孤高な女性のイメージ
→神聖性だけでなく部族国家の世襲制王位継承から断ち切るための夫を持たない異常な選択
→卑弥呼の鬼道は初期道教の移入ではなく、高句麗・韓の「鬼神のマツリ」が参考となる(略)
→弥生時代の5月と10月の農耕のマツリでは大きな柱に銅鐸を吊るし、そのリズムで歌い踊る
→大きな柱は穀霊を招く標柱で、大地を踏み鳴らすのは地霊を奮い起こすため
(このあたりは鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本とは異なりますね)
→穀霊、地霊と共同体守護霊としての祖霊がマツリの根幹
→2世紀後半になると大きく変容する
→初期ヤマト政権のシンボルである纏向型前方後円墳の祭祀に引き継がれていく
→卑弥呼の祭祀はどの部族的国家祭祀の延長でもなく卑弥呼共立は宗教改革でもあった
→公孫氏との外交関係から道教思想がより整備されたかたちで取り入れられ前方後円墳という
この国独自の大王墓創出へつながったと理解したい
・ヒメ・ヒコ制と、卑弥呼と男弟の関係
→母系社会から父系社会へ移行し男系世襲王制が確立するまでの形態と考えられていた
→近年の文献史学では日本の古代社会は双系的とする見解が一般的
→考古学でも形質人類学による被葬者間の血縁関係の解明が進められている(略)
→3世紀から5世紀中頃までのキョウダイ同一墳墓はヒメ・ヒコ制と整合するようにも見える
→聖(祭祀)俗(政治軍事)の二重様相が現れた理由を聖俗二重王制とは異なる視点から考えるべき
→縄文時代は母親の確実性と父親の不確実性から女性優位だった
→弥生時代になると可耕地争奪が優先され出産は軽視、男性優位に
→女性性は祭祀の中で観念化され神秘化されていく
→魏志倭人伝による卑弥呼の男弟は執政を補佐する立場で聖俗分担の関係ではない
→卑弥呼の死後、男弟の擁立は部族王たちから猛反発され13歳の台与が共立される
→その後にヤマト王権が強力になり初代の男王が誕生(崇神?)
・卑弥呼の死と墓
→卑弥呼の死に関する魏志倭人伝の記述をめぐっては、さまざまな説があるが、(略)
→「墓の径は百余歩」とあり径144mの円墳になるが、日本最大の円墳は富雄丸山古墳で
径109mであり、しかも4世紀前葉の築造と推定される
→この規模の3世紀の古墳であれば前方後円墳と考えるのが自然のなりゆき
→箸墓古墳の築造は3世紀中葉とされ後円部の径は現在では165mとされる
→日本書紀の崇神紀にある箸墓に葬られた姫の伝承と卑弥呼の共通性
→同紀にある「大坂山(二上山北麓)から人々が並び石を運んだ」記述と宮内庁調査報告の一致
→これらから箸墓古墳=卑弥呼の墓は有力説だが、年代や墳型などに疑問点も多く残る
→もし箸墓古墳のような定形型前方後円墳ではなく石塚古墳・矢塚古墳・ホケノ山古墳のような
纏向型前方後円墳なら、どれも前方部が低く扁平で発掘調査までは円墳とされていたもの
→しかし、どれも後円部の径は60mほどしかなく魏志倭人伝の「径は百余歩」と合わない
→(魏志倭人伝には概数や誇張も多いが)これを実数として径を周壕を合わせた墓域とすれば、
(漢代から三国時代の中国では皇帝陵の規模は高さと兆域の広さで表すことが一般的だった)
石塚古墳・矢塚古墳の円域の径はほぼ百歩で、いずれも第一次大王宮の西方延長上にある
→今はいずれかが卑弥呼の墓と考えており、より大王宮に近い石塚古墳が第一候補
→土器類の評価に議論があり築造時期が確定していないが、埋葬までの時間幅の長さかも
(ホケノ山古墳はやや小さく副葬品から被葬者は男性の可能性が高いので除外)
・箸墓古墳の被葬者
→卑弥呼説、台与説が有力だが台与の後の男王説も考えている
→魏志倭人伝は台与で終わるが晋書武帝記や梁書諸夷伝には使者を送った男王の記述がある
→この男王を崇神に比定しヤマト王権最初の大王とする説→箸墓古墳の被葬者は崇神説
→文献上の男王系譜とは整合的だが、上記の姫の箸墓伝承とは合わない
→明らかになった築造年代からは男王の治世が短かったことになり決定打はまだない
・魏志倭人伝の邪馬台国が畿内ヤマトに比定されるなら投馬国と狗奴国の位置は・・・
→倭地(日本列島)は南北に長いと考えられていたから南を東に読み替える
→投馬国は不弥国(正確な位置には諸説あるが北部九州)から水行20日で沿岸航行なら340km
→日本海ルートではイヅモ、瀬戸内海ルートではキビになり、どちらも出土品から有力候補
→イヅモ説なら邪馬台国へ水行10日陸行1月で、水行10日を按分すれば鳥取・兵庫・京都に
陸行への中継点などの遺跡が残っており、船団や準構造船を描いた板材も出土している
→キビ説なら水行10日は陸伝い島伝いで、やはり各港津などに弥生時代後期の遺跡が残る
→旧イト倭国と新生倭国の中間点に位置する大国としてはキビがふさわしいのだが・・・
→卑弥呼共立に同調しなかった狗奴国は倭国と不和で邪馬台国(ヤマト国)との不和ではない
→狗奴国は新生倭国の南方(実際は東方)に位置する国との記述
→邪馬台国九州説では狗奴はクマ、クマソで熊本平野、球磨川の人吉盆地など
→畿内ヤマト説では熊野、駿河、関東など
→いずれも新生倭国と対抗できるほどの勢力はないので狗奴国ではないと考える
→最近では遺物や古墳から伊勢湾沿岸部や濃尾平野一帯が有力視されている(略)
・台与政権の実像(略)
・記紀の記載
→日本書紀の崇神紀には神武紀などにはない政治や軍事、経済などの時事が記載されている
→古事記にも「初国知らしし(崇神)・・・」とある
→第10代崇神が実在する初代の天皇とすれば崇神、垂仁、景行の初代三代の宮が纏向に造営
されたという記紀の記載が、纏向遺跡の大王宮の特徴と重なる
→ヤマト王権最初の男王のイメージが崇神に託され伝承と記録が崇神紀に集約されたのでは
・三輪山祭祀の成立
→崇神紀にある祭祀は大王宮で行われていたが纏向は3世紀末から4世紀初めに衰退した
→ちょうどその頃に三輪山西麓で三輪山の神を祭る祭祀が始まっている
→大神神社の祭神は(倭)大物主神だが、(出雲)大国主神と同神ともされる
→崇神紀の天照大神と倭大国魂神の分祀説話(略)
→天皇に祟る三輪山の神はヤマト王権に参加服属した地域神の統合神と考えられる
→出雲神と王権の対峙は記紀以外の文献にも見られる
→王権が制圧して取り込むべき神格として描かれている
・魏志倭人伝と記紀
→記紀には3~4世紀の記憶が伝承されモチーフになっているが歴史年表にはならない
→魏志倭人伝は暦年代が明らかで(民俗の信憑性はともかく)史書としての信頼度は高い
→ただし記紀にも3世紀の纏向王権時代の考古学的な事実と一致する記載もある(略)
→記紀は3~4世紀の伝承と記録が後の修史作業で三代天皇と神功皇后の事績に集約されたもの
・政権の安定期から分立期へ(略)
→ヤマト王権は朝鮮半島の部族的国家群との外交ルートを対馬→壱岐→伊都ルートから、
ヤマト→瀬戸内海→関門海峡→朝鮮半島ルートに変更し、コース上の孤島である沖ノ島で
境界祭祀をはじめ、これは10世紀前半まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の倭系祭祀は3世紀後半にはじまり6世紀まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の栄山川流域では十数基の前方後円墳が確認されており、部族的国家群の中に
ヤマト王権との政治関係を模索した王たちがいたことがわかる
→国内でも4世紀の大型前方後円墳の分布をみると王権の新たなパートナーが浮かび上がり、
それらは鉄や馬の生産地や潟湖・港市とも重なる
・飛鳥・奈良時代の17代のうち8代が女帝→他の時代には少ないのになぜ集中したか
→中継ぎとかではなく内政・外政の混乱期・緊張期に出現している
→卑弥呼共立も、これらの女帝擁立の時代背景と似ている
→政治的均衡と女性性による危機克服、王権伸張への期待による擁立
・エピローグ部分より(まとめ?)
1 国家の第二段階である王国の誕生こそヤマト王権の成立であり初代大王が卑弥呼という結論
→卑弥呼政権とヤマト王権は別物とする邪馬台国九州説や文献学的方法第一主義の諸説や、
卑弥呼政権からヤマト王権へ段階発展したという畿内ヤマト説(東遷説も時間関係は同じ)などは、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が、4世紀ではなく約100年(箸墓古墳からとしても約50年)
さかのぼることが明らかになっても、過去の年代観に固執したまま
(正しい年代にすると自説の修復が不可能になるから)
→疑義のある自然科学的年代決定と私の考古学的年代決定には、まだ2~30年の隔たりがあるが、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が4世紀以降とする邪馬台国論は議論の起点を誤っている
→批判や反批判は、まず同じ土俵に立つ者からはじめるのが正しい方法
→中国のどの史書にも卑弥呼が邪馬台国の女王とは書かれておらず、確実なのは倭の女王、
倭国女王で、邪馬台国(ヤマト国)とは倭国のヤマト王権が置かれた場所(国名)でしかない
→なので邪馬台国という倭国の一部族的国家に拘泥した議論はそろそろやめよう
2 倭国乱を乗り越えるために戦争という外的国家意思の発動ではなく、一国だけの独走でもなく、
各国が壮大な政治的談合(会同)を重ねた結論として卑弥呼共立がなされたという記述が重要
→談合や根回しにはマイナスイメージがあるが、Us vs. Them(我々か、あいつらか)の対立が
世界各地で噴出し奔流となっている21世紀の今こそ、談合とか根回しが、国際社会における
課題を解決する最も平和的な手段であるように思える
3 卑弥呼はヤマト王権最初の大王なので古代大王(天皇)系列の初代は女性ということになり、
その女性は会同によって共立されたということになる→皇室典範の議論にも新たな視野
4 ヤマト王権の象徴である前方後円墳祭祀の本質は首長霊の継承儀礼
→卑弥呼の鬼道とも関係の深い太陽(日神)祭祀で女性性観念、大嘗祭とも深く関わる問題
・・・
本章からのメモは五章と六章の一部だけですが、ともかく読みごたえのある本でした
写真や図表も多く分かりやすいので古代史に興味のある方には(意見の相違はあるとしても)
一読の価値のある労作だと思いました
卑弥呼とヤマト王権であります
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
著者は同志社大学考古学研究室・森浩一氏の愛弟子から千葉市の学芸員を経て橿考研へ入所、
長年にわたる研究から纏向遺跡がヤマト王権最初の大王都で卑弥呼の居所であったことを
明らかにし、その研究成果を一般向けにまとめた・・・とゆー新刊本であります
例によって目次のご紹介
日本の古代史についてはまだ謎の部分も多く、鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本や、
日本人=ユダヤ人説をメインにした小説本など、専門の研究者から在野のアマチュアまで、
あらゆる異説が飛び交う世界で、わたくしの好きな世界のひとつなのでありますね
本書は邪馬台国・卑弥呼・ヤマト王権に関する長年の論争に、そろそろ決着をつけようと、
考古学の専門家が一般読者向きにまとめられた今話題の新刊ですが、いくら一般向きとはいえ
自説以外の紹介も含めた400頁以上もある本ですから、全てのメモなどできませんでした
なので、まずは「本書の構成の説明」があったプロローグ部分のてきとーメモ
・大衆化し作家も加わった1960年代後半からの第一次邪馬台国ブーム
・吉野ケ里遺跡の調査と保存にはじまった1980年代後半からの第二次邪馬台国ブーム
→1976年に橿考研に入って、先輩からは邪馬台国と卑弥呼には関わるなと言われていたが、
纏向調査を四半世紀も続けた頃に一般読者向けの「日本の歴史」第二巻「王権誕生」の執筆を
担当することになり、はじめて明確に関わった
→邪馬台国とは奈良盆地の東南部を占める狭義の「ヤマト国」であり、卑弥呼は纏向にいたと
・邪馬台国や卑弥呼をめぐる論争は文献学上の問題であり、遺跡や遺物からの叙述は難しい
→ただし独断による文献解釈を、部分的な考古学データで取り繕うのは本末転倒である
→考古学の知見で歴史像を組み立て文献との整合性を検証し状況証拠と理論的説得力を得る
→それで邪馬台国論争にも王手を突き付けることができるはず・・・
・本書の構成の説明
第一章
いまだに知名度の低い纏向遺跡について、その考古学的な特徴の数々の積み上げが「ヤマト王権」
の実体を明らかにすること、この遺跡が「ヤマト王権」最初の大王都であったことを紹介
第二章と第三章
ヤマト王権の誕生が、この国の国家形成史においてどのような意味を持つのかの整理
→日本という国家は7世紀末の飛鳥浄御原宮からだが、倭国はそれ以前から対外交渉していた
→第二章で、この国の国家の起源や出現を正しくとらえる
→第三章で、王権誕生への飛躍の胎動を考古学の資料にもとづいて再現する
第四章
ヤマト王権の誕生を主導した勢力の由来、その舞台裏を系譜論として考察する
→ヤマト王権は弥生時代の奈良盆地や畿内の権力構成が継続的・発展的に成長したものではない
→考古学的な事実から全く別のすがたであったことを系譜論で提出する
第五章と第六章
魏志倭人伝の卑弥呼共立や卑弥呼政権の状況を整理し、文献の解釈と考古学上の事実関係に
もとづく解釈との整合性を追う
→考古学上の合理的な枠組みと文献学上の解釈との許容範囲が重なるところに、はじめて
学問としての客観性を獲得することができる
→それで邪馬台国の位置や卑弥呼共立や卑弥呼政権の実体にも迫る
→最後に卑弥呼とヤマト王権の関係を明らかにし、これまでの邪馬台国論争に区切りをつける
→これが本のタイトルを「卑弥呼と邪馬台国」にせず「卑弥呼とヤマト王権」にした理由
で・・・
以下は(著者が先輩から関わるなと言われていた)卑弥呼と邪馬台国に関する部分を中心に、
備忘のためランダムにメモした内容です
ますますてきとーで誤解もあるので、正しくは本書をお読み下さいね
・卑弥呼共立の舞台裏
→魏と呉の間にあった公孫氏にとって背後に位置する韓と倭は重要→帯方郡の設置
→公孫氏の外圧とイト国の失墜、部族国家間の牽制と閉塞状況→倭国乱から30年の空白
(倭国乱とは戦争状態ではなく大陸から見て国としての統一外交窓口がなかった状態)
→内部混乱と外部圧力から、イト国連合(イト倭国)・キビ国連合・イヅモ国連合による会盟
→ハリマ、サヌキ、アハ、イヨなど周辺の国も参加(明治維新の薩長同盟と似た感じ)
→祭祀的な女王の共立による倭国再編へ→新生倭国
・ヤマト国(邪馬台国)へ
→首都をイト国の三雲・井原からヤマト国(邪馬台国)の纏向へ(明治維新の東京遷都と似た感じ)
→それまでヤマト国の王都であった唐古・鍵にならなかったのは王権の権力構成でヤマト国の
比重がきわめて小さかったことと、新王都は新しい都市でなければならなかったことによる
(纏向川の扇状地には集落さえなかったのに忽然と出現した都)
→この遷都は現象面であり武力によるヤマト侵攻(東征論)ではない
→武力解決ではなく政治的駆け引きで解決した
→はじめての談合による日本型危機管理システムだった
→この古い伝承が神武東征神話として誇大に潤色されたことはありうる
・ヤマトに置かれた理由
→倭国の領域は3世紀前半では佐賀県から千葉県、後半では鹿児島県から山形県南部まで
→領域は面ではなくモザイク状で、造反勢力や王権とは無関係の社会も存在していた
→古墳も豊かな耕作地のある平野や盆地より、港市や河川や街道の付近など交通の要衝に多い
→地域勢力を線的にルートで押さえ関係強化することが王権にはきわめて重要だった
(やがてヤマト中心の律令国家形成の足がかりに)
→西日本の国家連合が西に睨みをきかせつつ東方進出できるヤマト国は最適位置だった
→ヤマト国は相対的に高い農業生産力と経済力、文化を持ちながら強力な部族国家がなかった
→大阪平野や京都盆地のような大規模開発できる空間も周辺にあった
→祭祀と神話の創出に最適な三輪山が纏向の東南にあった
→これが国つ神(土地神)統合神の象徴となる神奈備の山
・魏志倭人伝の卑弥呼と邪馬台国
・卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは一度も書かれていない
→倭王、倭女王、女王、女王国、倭国などの表現は複数あるが邪馬台国は一度だけで、
→「女王卑弥呼の都する所」(居所としている場所・国)を示しているにすぎない
→女王国は倭国(21国名)全体を指す場合と、女王国各国の地理的位置関係を示す場合がある
→「皆、女王国に統属す」の場合は卑弥呼の大王都の場所(ヤマト国=邪馬台国)を指す
→なので卑弥呼は倭国の女王であり邪馬台国の女王ではない
→邪馬台国とは新生倭国の大王都が置かれた国名(ヤマト国)の表現でしかない
→「東京都は日本国の首都で日本国の首相官邸は東京都にある」と同じ表現
→日本国の首相(卑弥呼)は東京都知事(ヤマト国=邪馬台国の王)ではないのと同じ
(ヤマト国の王(統治官)は倭国の官または副官がおそらく兼任していた)
・魏志倭人伝の城柵と楼観→卑弥呼の居所
→「宮室、楼観、城柵を厳かに設け・・・」の記載
→九州説では環濠集落の濠に付設する柵で纏向にはないとするが、文脈からは宮室の施設
→弥生時代中期後半から祭殿、巨大倉庫、首長居処の方形区画を囲む溝や柵、塀が作られ、
古墳時代には独立した首長館に発展する→卑弥呼の居処の城柵とは宮室などを囲むもの
→纏向遺跡の直線的な柱列(柵か塀)は、まさに倭人伝の城柵そのもの
→吉野ケ里遺跡の大規模建物跡が発掘され三階建てに復元され、楼観にも見立てられた
→楼は高層建物で復元が正しければクリアだが、観はマツリに際しカミが去来するシンボル塔
→唐古・鍵遺跡出土の大型壺に描かれた重層建物こそが楼観で、祭殿とともに建っていた
→岡山、鳥取出土の土器や福井県坂井市出土の銅鐸にも描かれている
→倭人伝が描く卑弥呼の宮殿の楼観は宮室(正殿)の付属的な建物で祭祀的機能を持つもの
→吉野ケ里遺跡で復元された建物は大きいが楼観の祭祀的機能を備えていたのか・・・
・魏志倭人伝の大倭と大率→新生倭国の支配機構(略)
→卑弥呼政権の地方支配が広域で、しかも整備されていたことが確認できる
→卑弥呼の邪馬台国が九州の小国でもかまわないとする九州説の根底を揺るがすもの
→王の名があるのは倭国の女王卑弥呼と女王に属さない狗奴国の卑弥弓呼(卑弓弥呼?)のみ
→部族国家の王は卑弥呼政権への参画によって国の統治官になったので官名のみ
→新生倭国の中枢に官が多いのは倭国の中枢とヤマト国(邪馬台国)の中枢の重層性による
→魏王朝の権威を背景に、鉄などの交易・航海権・流通機構を掌握しようと外交していた
・魏志倭人伝による卑弥呼の外交記述は当然に魏のみだが、最初の外交は公孫氏政権だった
→後漢末期の鉄刀が160年後に天理市東大寺山古墳(ヤマト国)に副葬されている(公孫氏経由?)
→卑弥呼の最初の魏への遣使は公孫氏滅亡の年(記述の誤りなら翌年)で極めて迅速
・魏志倭人伝・後漢東夷伝における倭国の地理的位置認識
→倭地(日本列島)は今の福建省福州市の東方海上にあり海南島の近くと考えられていた
→朝鮮半島から最初に到達する北九州から南へ伸びる列島と誤解していた(15世紀まで)
→倭国は大人口との誤解もあり呉の東南海上に位置する大国と認識していた
→呉・蜀と抗争する魏にとって、呉と倭が同盟することが懸念材料だった
→実際に238年、244年の銘を持つ呉の神獣鏡が、山梨と宝塚の古墳から出土している
→呉と倭の同盟を回避して君臣関係を結び、呉の背後を脅かすのが魏としては最善策だった
→いわゆる遠交近攻策
→なので外蕃の島国女王としては格段の親魏倭王の金印を授け軍事的なテコ入れまでした
(金印の真贋論争については、当時の中国製との結論がすでに出ている)
→卑弥呼政権には数世紀に渡る北部九州を中心とする外交ノウハウがあり戦略は的確迅速で
ただちに中華帝国の後ろ盾を取り付け、ヤマト王権は国家権力の整備を進めていく
・魏志倭人伝の銅鏡100枚=三角縁神獣鏡説について
→三角縁神獣鏡は中国の神獣鏡群を範型として日本で制作されたとみるほうが合理的
→古い古墳からは後漢式鏡のみで三角縁神獣鏡の出土はない
→卑弥呼に下賜された鏡なら1枚ぐらいあってもいいはず
→卑弥呼が下賜されたのは後漢式鏡が主体であったと考えているが決着はついていない
・長年にわたる纏向遺跡調査で畿内ヤマト説は確かな考古学的根拠を手にした
→だが畿内優越史観、ヤマト中心主義の先入観から、邪馬台国(ヤマト国)からヤマト王権への
発展を説明するため、邪馬台国連合なる発展段階を設定したストーリーが作り上げられた
→纏向のさらなる拡大が3世紀中頃から後葉における箸墓古墳の造営前後であったことは
否定しないが、3世紀はじめにこの遺跡が忽然と出現したことに比べれば小さな波に過ぎない
→纏向遺跡の出現から衰退までの3世紀史は時代区分としても国家体制としても分断できない
→纏向遺跡の出現こそ女王卑弥呼を擁する新たな倭国連合政権の誕生で古墳時代の幕開け
→二段階論からの「邪馬台国連合からヤマト政権へ」というフレーズが概説書や博物館の
展示解説で後を絶たないが、これは半世紀にわたる考古学の成果や研究蓄積を反故にする、
30年前のヤマト優越史観への回帰としか思えないが、はてさて読者の方々は・・・
・女王卑弥呼の実像
→自らの意志に関わりなく倭国王に祭り上げられ舵取りを担う、若く孤高な女性のイメージ
→神聖性だけでなく部族国家の世襲制王位継承から断ち切るための夫を持たない異常な選択
→卑弥呼の鬼道は初期道教の移入ではなく、高句麗・韓の「鬼神のマツリ」が参考となる(略)
→弥生時代の5月と10月の農耕のマツリでは大きな柱に銅鐸を吊るし、そのリズムで歌い踊る
→大きな柱は穀霊を招く標柱で、大地を踏み鳴らすのは地霊を奮い起こすため
(このあたりは鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本とは異なりますね)
→穀霊、地霊と共同体守護霊としての祖霊がマツリの根幹
→2世紀後半になると大きく変容する
→初期ヤマト政権のシンボルである纏向型前方後円墳の祭祀に引き継がれていく
→卑弥呼の祭祀はどの部族的国家祭祀の延長でもなく卑弥呼共立は宗教改革でもあった
→公孫氏との外交関係から道教思想がより整備されたかたちで取り入れられ前方後円墳という
この国独自の大王墓創出へつながったと理解したい
・ヒメ・ヒコ制と、卑弥呼と男弟の関係
→母系社会から父系社会へ移行し男系世襲王制が確立するまでの形態と考えられていた
→近年の文献史学では日本の古代社会は双系的とする見解が一般的
→考古学でも形質人類学による被葬者間の血縁関係の解明が進められている(略)
→3世紀から5世紀中頃までのキョウダイ同一墳墓はヒメ・ヒコ制と整合するようにも見える
→聖(祭祀)俗(政治軍事)の二重様相が現れた理由を聖俗二重王制とは異なる視点から考えるべき
→縄文時代は母親の確実性と父親の不確実性から女性優位だった
→弥生時代になると可耕地争奪が優先され出産は軽視、男性優位に
→女性性は祭祀の中で観念化され神秘化されていく
→魏志倭人伝による卑弥呼の男弟は執政を補佐する立場で聖俗分担の関係ではない
→卑弥呼の死後、男弟の擁立は部族王たちから猛反発され13歳の台与が共立される
→その後にヤマト王権が強力になり初代の男王が誕生(崇神?)
・卑弥呼の死と墓
→卑弥呼の死に関する魏志倭人伝の記述をめぐっては、さまざまな説があるが、(略)
→「墓の径は百余歩」とあり径144mの円墳になるが、日本最大の円墳は富雄丸山古墳で
径109mであり、しかも4世紀前葉の築造と推定される
→この規模の3世紀の古墳であれば前方後円墳と考えるのが自然のなりゆき
→箸墓古墳の築造は3世紀中葉とされ後円部の径は現在では165mとされる
→日本書紀の崇神紀にある箸墓に葬られた姫の伝承と卑弥呼の共通性
→同紀にある「大坂山(二上山北麓)から人々が並び石を運んだ」記述と宮内庁調査報告の一致
→これらから箸墓古墳=卑弥呼の墓は有力説だが、年代や墳型などに疑問点も多く残る
→もし箸墓古墳のような定形型前方後円墳ではなく石塚古墳・矢塚古墳・ホケノ山古墳のような
纏向型前方後円墳なら、どれも前方部が低く扁平で発掘調査までは円墳とされていたもの
→しかし、どれも後円部の径は60mほどしかなく魏志倭人伝の「径は百余歩」と合わない
→(魏志倭人伝には概数や誇張も多いが)これを実数として径を周壕を合わせた墓域とすれば、
(漢代から三国時代の中国では皇帝陵の規模は高さと兆域の広さで表すことが一般的だった)
石塚古墳・矢塚古墳の円域の径はほぼ百歩で、いずれも第一次大王宮の西方延長上にある
→今はいずれかが卑弥呼の墓と考えており、より大王宮に近い石塚古墳が第一候補
→土器類の評価に議論があり築造時期が確定していないが、埋葬までの時間幅の長さかも
(ホケノ山古墳はやや小さく副葬品から被葬者は男性の可能性が高いので除外)
・箸墓古墳の被葬者
→卑弥呼説、台与説が有力だが台与の後の男王説も考えている
→魏志倭人伝は台与で終わるが晋書武帝記や梁書諸夷伝には使者を送った男王の記述がある
→この男王を崇神に比定しヤマト王権最初の大王とする説→箸墓古墳の被葬者は崇神説
→文献上の男王系譜とは整合的だが、上記の姫の箸墓伝承とは合わない
→明らかになった築造年代からは男王の治世が短かったことになり決定打はまだない
・魏志倭人伝の邪馬台国が畿内ヤマトに比定されるなら投馬国と狗奴国の位置は・・・
→倭地(日本列島)は南北に長いと考えられていたから南を東に読み替える
→投馬国は不弥国(正確な位置には諸説あるが北部九州)から水行20日で沿岸航行なら340km
→日本海ルートではイヅモ、瀬戸内海ルートではキビになり、どちらも出土品から有力候補
→イヅモ説なら邪馬台国へ水行10日陸行1月で、水行10日を按分すれば鳥取・兵庫・京都に
陸行への中継点などの遺跡が残っており、船団や準構造船を描いた板材も出土している
→キビ説なら水行10日は陸伝い島伝いで、やはり各港津などに弥生時代後期の遺跡が残る
→旧イト倭国と新生倭国の中間点に位置する大国としてはキビがふさわしいのだが・・・
→卑弥呼共立に同調しなかった狗奴国は倭国と不和で邪馬台国(ヤマト国)との不和ではない
→狗奴国は新生倭国の南方(実際は東方)に位置する国との記述
→邪馬台国九州説では狗奴はクマ、クマソで熊本平野、球磨川の人吉盆地など
→畿内ヤマト説では熊野、駿河、関東など
→いずれも新生倭国と対抗できるほどの勢力はないので狗奴国ではないと考える
→最近では遺物や古墳から伊勢湾沿岸部や濃尾平野一帯が有力視されている(略)
・台与政権の実像(略)
・記紀の記載
→日本書紀の崇神紀には神武紀などにはない政治や軍事、経済などの時事が記載されている
→古事記にも「初国知らしし(崇神)・・・」とある
→第10代崇神が実在する初代の天皇とすれば崇神、垂仁、景行の初代三代の宮が纏向に造営
されたという記紀の記載が、纏向遺跡の大王宮の特徴と重なる
→ヤマト王権最初の男王のイメージが崇神に託され伝承と記録が崇神紀に集約されたのでは
・三輪山祭祀の成立
→崇神紀にある祭祀は大王宮で行われていたが纏向は3世紀末から4世紀初めに衰退した
→ちょうどその頃に三輪山西麓で三輪山の神を祭る祭祀が始まっている
→大神神社の祭神は(倭)大物主神だが、(出雲)大国主神と同神ともされる
→崇神紀の天照大神と倭大国魂神の分祀説話(略)
→天皇に祟る三輪山の神はヤマト王権に参加服属した地域神の統合神と考えられる
→出雲神と王権の対峙は記紀以外の文献にも見られる
→王権が制圧して取り込むべき神格として描かれている
・魏志倭人伝と記紀
→記紀には3~4世紀の記憶が伝承されモチーフになっているが歴史年表にはならない
→魏志倭人伝は暦年代が明らかで(民俗の信憑性はともかく)史書としての信頼度は高い
→ただし記紀にも3世紀の纏向王権時代の考古学的な事実と一致する記載もある(略)
→記紀は3~4世紀の伝承と記録が後の修史作業で三代天皇と神功皇后の事績に集約されたもの
・政権の安定期から分立期へ(略)
→ヤマト王権は朝鮮半島の部族的国家群との外交ルートを対馬→壱岐→伊都ルートから、
ヤマト→瀬戸内海→関門海峡→朝鮮半島ルートに変更し、コース上の孤島である沖ノ島で
境界祭祀をはじめ、これは10世紀前半まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の倭系祭祀は3世紀後半にはじまり6世紀まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の栄山川流域では十数基の前方後円墳が確認されており、部族的国家群の中に
ヤマト王権との政治関係を模索した王たちがいたことがわかる
→国内でも4世紀の大型前方後円墳の分布をみると王権の新たなパートナーが浮かび上がり、
それらは鉄や馬の生産地や潟湖・港市とも重なる
・飛鳥・奈良時代の17代のうち8代が女帝→他の時代には少ないのになぜ集中したか
→中継ぎとかではなく内政・外政の混乱期・緊張期に出現している
→卑弥呼共立も、これらの女帝擁立の時代背景と似ている
→政治的均衡と女性性による危機克服、王権伸張への期待による擁立
・エピローグ部分より(まとめ?)
1 国家の第二段階である王国の誕生こそヤマト王権の成立であり初代大王が卑弥呼という結論
→卑弥呼政権とヤマト王権は別物とする邪馬台国九州説や文献学的方法第一主義の諸説や、
卑弥呼政権からヤマト王権へ段階発展したという畿内ヤマト説(東遷説も時間関係は同じ)などは、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が、4世紀ではなく約100年(箸墓古墳からとしても約50年)
さかのぼることが明らかになっても、過去の年代観に固執したまま
(正しい年代にすると自説の修復が不可能になるから)
→疑義のある自然科学的年代決定と私の考古学的年代決定には、まだ2~30年の隔たりがあるが、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が4世紀以降とする邪馬台国論は議論の起点を誤っている
→批判や反批判は、まず同じ土俵に立つ者からはじめるのが正しい方法
→中国のどの史書にも卑弥呼が邪馬台国の女王とは書かれておらず、確実なのは倭の女王、
倭国女王で、邪馬台国(ヤマト国)とは倭国のヤマト王権が置かれた場所(国名)でしかない
→なので邪馬台国という倭国の一部族的国家に拘泥した議論はそろそろやめよう
2 倭国乱を乗り越えるために戦争という外的国家意思の発動ではなく、一国だけの独走でもなく、
各国が壮大な政治的談合(会同)を重ねた結論として卑弥呼共立がなされたという記述が重要
→談合や根回しにはマイナスイメージがあるが、Us vs. Them(我々か、あいつらか)の対立が
世界各地で噴出し奔流となっている21世紀の今こそ、談合とか根回しが、国際社会における
課題を解決する最も平和的な手段であるように思える
3 卑弥呼はヤマト王権最初の大王なので古代大王(天皇)系列の初代は女性ということになり、
その女性は会同によって共立されたということになる→皇室典範の議論にも新たな視野
4 ヤマト王権の象徴である前方後円墳祭祀の本質は首長霊の継承儀礼
→卑弥呼の鬼道とも関係の深い太陽(日神)祭祀で女性性観念、大嘗祭とも深く関わる問題
・・・
本章からのメモは五章と六章の一部だけですが、ともかく読みごたえのある本でした
写真や図表も多く分かりやすいので古代史に興味のある方には(意見の相違はあるとしても)
一読の価値のある労作だと思いました
2023年05月03日
歴史の逆流
ええ、本日は憲法記念日つーことで・・・
歴史の逆流~時代の分水嶺を読み解く~とゆー本のご紹介
表紙カバー裏にあった惹句
惹句にもあるとおり「憲法学・政治学・歴史学の視点から、暴力の時代に抗する術を考える」本であります
著者紹介
奥付
例によって目次のみ・・・
以下、思いつくままの読後メモ
(わたくしがはたしてそうなの?と感じた部分も著者の趣旨をメモしたつもりです)
1章より
・日本の統治システムの宿痾は歴史から学ばないこと
・政治学を含め社会科学の特徴は自然科学と異なり実験できないこと→歴史が実験のかわり
・日本はデータをきちんと使えない国
→執着によって幻想が生まれ、都合のいい幻想はなかなか手放さない→ネーションの幻想も
→ジョンソンの早いコロナ規制解除、菅の東京オリンピック→楽観幻想にしがみついていた
・安倍政権とその人事権を握った菅官房長官、杉田副長官の振る舞いは、説明しないことによって、
権力を生じさせるというもの
→国民どころか官僚にも説明せず、人事権を使って忖度しろと迫る、新たな権力の磁場を作った
→官僚の党派的な中立を損ない個々の政治家の子分にする内閣人事局への干渉
→学術会議の会員も部下の任命と考えているから拒否にも一切説明はない
→国民も同じで、説明と納得で動いているのではなく命令と服従で動いていると思ってる
→安倍さんも同じだったが一部右派にとってはナショナリズムのアイドルで偶像であり得た
・偶像崇拝は自分の思いや迷い願いを投影しているだけなので結局は自分を拝んでいるだけ
→そんな役に立たないことはやめて自分の頭を使って自分で考えろというのが偶像崇拝禁止
→偶像崇拝せず直接神と対話する神秘主義は教団宗教から迫害されていた
→プロテスタントから立憲主義へ
→宗教上も偶像と象徴は異なる(十字架のペンダントは象徴、戦後の天皇も偶像から象徴に)
・反ユダヤ主義と反9条主義は似ている
→ユダヤ陰謀説が論破されても諦めないように、9条で専守防衛が可能といってもきかない
→因果関係などとは無関係なイデオロギー的幻想(ジジェク)だから
→今後どちらも根拠もなく盛り上がる可能性は否定できない
・病理学の進歩と地方自治制度の間のギャップ
→感染症は特定の地域で流行するので自治体が管轄すべきとの考え
→パンデミックに適した制度ではないのではないか
→制度設計が明治期の感染症(コレラや腸チフス)対策段階で止まってしまった
→大阪でコロナ事態がひどくなったのは保健所を無駄として整理したからという指摘がある
→公衆衛生はナショナルミニマムなので中央集権のほうがいいとの考え方も成り立つが・・・
→大阪の保健所統合などの間違いは地方に権限を委ねる中で折り込み済みの話でもある
・市場より国家が強力だった頃の革新自治体は国家政府に対抗するため自治体の自由を使うと言ってた
→だが、ここまで市場が強力になれば、その発想では無理
→大阪維新は自治体の自立性を市場原理と結びつけネオリベ的な政策の突破口にしている
・日本の学術レベルが落ちたのは2004年の国立大学法人化から→この検証が必要
・今の日本の為政者には学問体験が足りないので、彼らが専門知が大事といっても説得力がない
2章より
・ロシアで革命やソ連の崩壊があっても独裁体制が続いているように、日本の政治体制にも戦前からの
連続性と慣性力があるのではないか
→価値の多様性を前提とした競争(民主主義)という意識が、まだ根付いていないのではないか
・自分は現実的で多数派だから正解と思って与党に投票する与党支持者も多い
→その自分の後ろにいる支持者は有権者の20%に過ぎないことを彼らに知ってほしい
・多くの国では現状に不満のある人は第二党に投票する
→日本では無党派が最大で政党政治から離れている
→宗教と同じで特定の政党支持は異常とされるから、習俗として自民党を支持しているだけ
→党派性を持つことは悪と浸透しているので高校での有権者教育もできないし二大政党もできない
・1997年頃からの行政改革で、公務員を減らし公共を市民社会が引き受けることになった
→その結果、会社が請け負って中抜きする事態になった
・2022年から高校の科目に歴史総合ができた
→近現代史に限ってだが「世界とその中の日本を広く相互的な視野から捉える」科目
→これで多くの高校生が、日本の内政が外国の働きかけで動いていることが分かるようになる・・・
・コロナ禍で(立場により見える風景が全く異なる)パラレルワールドが広がった→これが本当の危機
3章より
・戦争指導者の説明と真の理由を区別し明らかにしたのが2400年前の古代アテナイ歴史学のはじまり
・ウクライナ侵攻でのNATOなどの支援は両者の「暗黙の了解」→38度線の休戦ラインと同じ
・橋下徹は戦うな、山東昭子は戦い抜けと言ってるが国のあり方を賭けた話でウクライナが決めること
→被害でいえば沖縄戦、原爆投下、加害でいえば南京戦
→日本では、これらの戦争終結への対立と混乱があったことから、早く降伏すべきとの議論が出てきやすい
・ホッブズの社会契約論は個人セキュリティと国家セキュリティの議論
→個人セキュリティのための国家との契約なのだから戦場で死ぬ義務はない
→殺し合う自然状態でのミニマムな国家との約束に過ぎない→国家から逃げればいい→ロシア
・ルソーの社会契約論は自由国家を守らねば個人セキュリティも守れないから戦って死ぬべき
→国民の意志により国家は運営されており国民の中長期の利害を見据えた決定がなされている
→そうである以上、国家を守るため国民全員が戦うべき→ウクライナ
・日本の歴史では、共同体のリーダー(天皇)を祭り上げた徴兵制から自衛隊になった
→ホッブズ型かルソー型か、国民動員をどう捉えるか・・・
・戦争の開戦法規は自衛が基本で交戦法規は戦闘員と非戦闘員の区別が基本
→経済封鎖は非戦闘員を苦しめるので戦争より悪い(マイケル・ウォルツァーの正戦論)
→マリウポリの封鎖は問題だが、ロシアへの経済制裁はまだ飢餓になってないので今は問題ない
→今後の制裁が強まり、ロシアの飢餓状況が報道されるようになればどうなるか・・・
・現代の戦争は核戦争かゲリラ戦になる(丸山真男)→群民蜂起→軍隊を否定したゲリラ戦のススメ
→しかし民間人が武装していたら交戦法規は・・・デスパレードだから仕方がない???
・戦争と冷戦を含む戦争状態は異なり、戦争よりマシだが深刻な戦争状態はリスキー
→法秩序の破壊を止めるためにどんな行動をとったかが為政者に問われる
→東京裁判では広田弘毅は不作為とされ有罪になった
・決闘ルールでは勝った方が正しいとされる→これが戦争のルール(グロティウス)
→ルールにより地獄を弱める効果はあるが、戦争犯罪さえなければ戦争で決めていいのか
→国際紛争を解決する手段としてウクライナ侵攻したとして、多くの国から非難されている
→パリ不戦条約から国連憲章(憲法9条も)への国際社会の秩序は揺らいでいない
(なのでロシアは国内問題であると主張している)
・NATO東進脅威に対するロシアの言い分と満州鉄道権益に対する日本の言い分
→どちらも欧米がもう少しコミットしていたら戦争にならなかったのでは・・・
4章より
・戦争は憲法原理の違いと歴史観の違いから
→それでも外部に喧伝している戦争目的と真の戦争目的には常にズレがある
→ロシアのウクライナ東部併合と日本の鮮満一如は同じもの
・西側が軍事的にロシアを圧倒できなければロシアの国民を覚醒させることはできないのか
→日本国民は原爆あるいは満蒙開拓民を捨てて逃げた関東軍によって明治以来の歴史観が変わった
・満州事変の意図は米ソへの戦争準備だったが、インテリ向けには「中国が条約を守らないから」であり、
農民向けには「満蒙の土地を手に入れて豊かに暮らすため」で、昭和恐慌時に計算され尽くしたもの
→プーチンの意図は「ウクライナがNATOに入れば安全が脅かされるのでウクライナを占領する」
→満州と同様に他国の土地を安全確保の目的にしており必ず滅びが始まる
・ウクライナはオーストリア・ハンガリー帝国に属したリビウとロシア帝国に属したキーウに分かれる
→ゼレンスキー政権はそれをまとめ上げているが言語はウクライナ語に統一しようとしている
・憲法改正(解釈を含む)により政治の劣化が急速に進む例→ロシア、ハンガリー、日本・・・
・国連の選択肢としてはロシアを安保理から排除するか現状維持か、しかない
→総会に来ているだけ現状のほうがマシか・・・
→ソ連は1949年に建国された中華人民共和国を認めないことを不満とし欠席し続けたため、拒否権を発動する
こともなく国連として朝鮮戦争に対応できた(当時の常任理事国は中華民国)
→当初は戦勝国の集まりだったのだから「当事者に議決権はない」と入れておけば→今では不可能
・これ以上の事態に進展すればNATOの集団的自衛権がうまく働くか→ロシアと全面戦争するか
→日米安保条約では日本が攻撃された場合に米軍が反撃するか否かはアメリカ議会の判断による
・ロシアは1937年の上海戦以降の日本と同じ失敗をしている→敵を侮っていた
・19世紀はじめにヘーゲルは戦争や革命で歴史は進むとした
→ファシズムやナチズムはヘーゲル右派、ソ連はヘーゲル左派で歪曲しているが共通している
→カントは何が正しいかは国によって異なり国内では法秩序、国際社会では秩序あるバランス尊重
→現在のロシアと西側諸国の対立はヘーゲルとカントの対立
・日本では防衛装備移転も反撃能力も法律として定まっていない
→相手の攻撃能力を全滅させられない先制攻撃は意味がない
・9条の内容は基本的に1928年の不戦条約や国連憲章で形成された侵略戦争の違法化
→戦後も海外で武力行使してきたアメリカの行動様式と専守防衛の日本の行動様式とは異なるもの
→そのハードルを下げるより、攻撃目標となる原発を撤去したりシェルターを整備する方がいい
→9条1項は侵略戦争を放棄した条文というのは誤解
・抑止力で侵略を抑止できるか
→アメリカは日本への抑止力として真珠湾に軍備したが、日本にそれさえ叩けばと思わせてしまった
・自衛隊のどこが違憲なのかは学者によって異なる
→憲法に自衛隊を書き込んだとしても憲法上の疑義がなくなるわけではない
→憲法に明記されている天皇制にも様々な疑義があるのと同じ
→侵略された場合は自衛し国際社会は侵略に抗議するという国際社会の前提は何も覆っていない
・ロシアはウクライナを国内問題と主張しており中国の台湾と同じ
→台湾有事に備え憲法改正しフルの集団的自衛権を持つべきとの議論
→バイデンが口先で牽制してるのは武力行使ができないから
・中国の海洋戦略上の脅威増大は事実だが・・・
→中国にとってアメリカは朝鮮戦争の際に台湾海峡を封鎖した国
→台湾を武力で統合する話も、すでに中国の一部なので武力で現状変更する必要はないとする話もある
→現状が続けば中国が民主化する可能性もあるがウクライナ侵攻で中国への警戒感が高まるのは当然
→アイルランドは1998年に北アイルランドを放棄し長く続いた戦争を収めた
→田中角栄は台湾について「ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」で周恩来と妥結した
・日本の安全保障の危機を叫ぶ人ほど現実を見ていない
→IEPの世界平和指数2021では日本は12位、ウクライナ142位、ロシア154位・・・
→リスクを考えるなら原発と近隣国との関係を悪化させないことを考えるべき
・世の中を動かしているのは既得権益ではなく思想(ケインズ)
5章より
・安倍元首相の国葬
→侵害留保説(権利制限には法的根拠が必要)では法的根拠は不要
→重要事項法理説では自衛隊出動と同じく国会承認が必要だが国葬は重要事項なのかどうか
→山本五十六の国葬は負け戦のターニングポイントだったが、同様に日本衰退のターニングポイントか
→日本の衰退は1990年代からの行政改革などの失敗の帰結で、個人に意味を持たせるのは危うい
→安倍政権に正当な政治批判をしてきた言論や報道を、テロを誘発したとして抑圧したい勢力に利するもの
→山本五十六の頃は民族精神フォルクスガイストがあったが戦後は各自が個人で判断するようになった
→これは「ミネルヴァのふくろうは黄昏になって飛び立つ(ヘーゲル)」歴史の終着点
→今の日本は闇夜の状態で変革も発展もなく偉人も英雄も現れない
→同じ行動という日本人のコンセンサスを分断線で壊そうとした人の国葬に全員が納得するのは困難
→ド・ゴール国葬時のフランスも今の日本と同じ闇夜の状態だった
→銃撃事件の動機が選挙演説の阻止であれば明らかに民主主義の危機だが今回は微妙
・戦前に弾圧された宗教団体はその後、権力との癒着に向かっている
→日本の政教分離原則は信仰の自由のための原則
→両者が衝突する場合は信仰の自由が確保されるかたちにすべき
→革命後のフランスでは政治を宗教から守るための政教分離原則
→宗教弾圧は問題だが外国の宗教団体が密かに日本の政治に食い込むのも問題
6章より
・この国はどこに向かうのか
→2022年7月の参院選では自民党は動かず固定化→政策ではなく自民党だから支持する→同調圧力
→自分が投票した候補者が当選すれば正答、落選すれば誤答と考える人もいるが間違い
→正答も誤答もなく、とりあえず任せているだけだがルソーの社会契約論にも正答にというのはある
→野党への支持も固定化している
→安倍政権は明らかに右寄りだったが自民党が元の中道勢力の連合体に戻るかが分岐点
・日本の選挙制度と集団
→保守合同による自民党と左右統一による社会党の「55年体制」以上にマシな政治にはならない
→大阪維新の2回目の住民投票での否決はどちらの陣営にも予想外だった
→選挙の票を読む技術がどちらにも蓄積されていないのではないか
→地方と大都市圏では同じ選挙制度でも全く違うかたちになっている
→組織化しやすい集団と非正規労働者のようにしにくい集団がある→棄権の多さにもつながる
→今の野党にカリスマ的なリーダーは見あたらない→属人的な部分もある
・少数政党の乱立
→ポピュリスト政党がここまで乱立している国は世界でも珍しい
→政党助成金は90年代の政治改革で成立した制度だが(これによる)少数政党の乱立は予測してなかった
→まともな政党に限定すべきだが野党乱立は自民党に都合がいいので改めることはないだろう
→政治家をいかに育てるか、松下政経塾も連携を目指したが結局バラバラに
・対案を出せ症候群
→野党も国立大学の教授会も「では対案を出せ」ばかりだと正しい批判ができなくなる
→ガバナンス、ステークホルダー、効率化、生産性など、いわばコンサル用語が大学に限らずあらゆる組織で
幅を利かせている
→そもそも発生経緯の異なる組織を一つの方向に押し込もうとしていることがおかしい
→中央省庁も内閣人事局ができて人事は官邸が行うようになり、失敗の痕跡や政権批判をしなくなった
→本来の公務員制度改革は人事の集権化と、内閣官房長官による人事管理についての国民への説明責任の確立
→幹部人事が官邸に掌握されただけで「ヒラメ官僚」が跋扈し、有権者の「それでも与党に投票する」に
→政治家は選挙で信任された一般意思を示すので官僚は機械的に執行すればよいという権力システムの
集権的な理解が広まった
→意見を言う官僚は民主的な権力行使に介入する雑音として排除される
→政治家が一般意思ではなく特殊意思に配慮しようとするときに、選挙に左右されず安定した身分で
一定の中立性を保つ官僚が、適切にブレーキをかけることは適切な権力行使に必要
(旧統一教会の名称変更を自分の見識で止めた当時の文部科学省宗務課長など)
→政治主導は進んだが政治家の要請をメモし全て公開する提案は制度化されないまま
→政治家は選挙で選ばれたことを正当性の根拠にするが、それは一般意思を体現している根拠にはならない
→そもそも一般意思を貫徹するかたちで政治主導を行うことなど原理的にできない
→なので権力を多元的な構造にしなければならない
(宗教団体の名称変更は選挙でお世話になってる政治家より宗務課長が判断する方がまともなシステム)
→内閣人事局は自民党が絶対に廃止しないので、可能なのは特殊意思を通す場合に公開することぐらい
・公文書管理
→福田康夫が尽力し麻生太郎内閣下で公布された公文書管理法の施行は2011年4月で東日本大震災は施行前、
菅直人首相は議事録を残す指示をしなかったが、野田佳彦内閣下の岡田克也副総理が指揮し大部分を復活させた
→しかし2012年12月からの安倍政権以降は公文書管理を重視する姿勢は一切なくなった
→公文書管理法の見直しや公務員制度改革など現実的に可能な問題提起をすべき
→官僚に過剰な統制機能が働いているのに政治家は統制されず選挙もチェック機能を果たせていない
・放送法
→放送行政を総理大臣や内閣の指揮が及ばない独立規制委員会に託す放送法の改正が必要
→NHKの受信料制度は政府や広告主に左右されない適切な制度だと思っているが、
→受信料は国会がNHK予算を承認しない限り受け取ることができない仕組みになっている
→国会多数派の意向が番組内容に及ぶことがないとは言い切れない(高市早苗総務相の発言など)
→なので国会権限から除外して独立した第三者機関に委ねるべき
→これは右派が叫ぶ「NHKの偏向」をなくすことにもなるはず・・・
・議論なき政治
→法的根拠を度外視し国会議論も国民説明もせず閣議決定で決めていく政治は安倍政権以降も続いている
→説明しなくても責任を問われることはなく選挙でも負けないと分かっているから
→内閣法制局も破壊し外務省出身者を起用して集団的自衛権の解釈改憲まで進んだ
→説明しない政治、国会軽視、役人の責任放棄・・・
→ボリス・ジョンソンは政府や議会に繰り返し嘘をついたと退陣させられたが、桜を見る会の国会答弁で
118回の嘘をついた安倍さんは退陣することはなかった
→サッチャー政権では大臣が次々と理由を公表して辞職して退陣に追いやり、トランプ政権の末期でも
政府高官や側近が多数辞めたが、日本では誰一人辞めない、保身しか考えていない
→日本の場合は「説明しなくても選挙では負けない」ことが大きい
・憲法的大問題
→国会審議を経ずに使途が決められる予備費の増大→使途が正確に特定できたのは6.5%のみ
→憲法上は国会の事後承諾が必要だが、承諾されなくとも無効にはならず戻す必要もない
→この上に緊急事態条項まで作って何をやりだすのか・・・
→財政民主主義の背景には戦費調達のため国債を乱発した戦前への反省がある
→行政権力の暴走を無関心な国民が傍観する流れを、このあたりで止めないと・・・
巻末より
・イギリス女王の国葬で軍が前面に出るのは、軍の統帥権が女王にあるのだから当然
→旧植民地からは歴史への反省がないとの批判もあった
・日本でも明治以降は軍の統帥権は天皇であり国葬で軍が前面に出るのは当然だった
→今は内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮権を持つが、国葬や私的な葬儀に自衛隊儀仗兵を出すということは、
国家の本質的な部分は軍事であるというイデオロギーを広めることにならないか・・・
→憲法により軍の正当性を否定していることと真っ向から対立することになる
・不幸な銃撃事件から社会の空気が変わった、違う風が吹きはじめた、みんながおかしいと言いはじめた
→岸田さんはしたたかな人ではないか→これを機会に安倍派つぶしとか・・・
・少数者の信条などは多数決の政治プロセスでは守れないので裁判所が守るというのが憲法学会の通念
→カルト宗教団体は信条による強力な統制・監視でサイズに見合わない政治的影響力を発揮していた
→少数派だから裁判所が守るということにはならない
(逆に非正規労働者やシングルマザーは多数派だがバラバラで共通の権利や利益のための協力が難しい)
・憲法の信仰の自由は宗教団体を国家権力の抑圧から守ること、政教分離は政治を特定の宗教団体の
過大な影響力から遮断することだが、両者の関係は書かれていない
→戦前に抑圧された宗教団体は、戦後は「政治は宗教に介入するな」でよかったのに、権力側につけば
抑圧されないというほうに進んで行った
→同じ政教分離のアメリカもフランスも同じで、そのこと自体が問題ではないが・・・
・戦前に弾圧されたのは伊藤博文らが考えた市民宗教としての天皇制の競争相手だったから
→戦後は市民宗教としての天皇制はなくなった
・冷戦終結後、「反共」アイデンティティーの中身は変わってきている
→多様性を否定し特定の価値観で社会を分断してきた
→安倍さんを支持してきた保守派は「リベラル派は旧統一教会を敵とみなし日本に分断を持ち込んでいる」
と言ってるが、分断という概念をはき違えている
→多様性を否定する考え方を多様性の名によって擁護すべきではない
・分断とは社会の中で許容可能な人たちを排除しようとすること
→許容できない泥棒を刑務所に入れるのを分断とはいわない
・安倍政権の負の遺産である分断の政治をどう乗り越えるのか、真剣に構想しなければならない
あとがきより
・新型コロナの諸問題は「政治が生活を左右するという意識」を持たせた
・ウクライナ侵攻は大多数のロシアの人たちを、はじめて独裁のリスクに向き合わせた
・一定の時代に現れた制度・組織・論理が、なぜその時代に、何のために創ろうとしたのかを考える歴史学
・社会の諸事情を規律という側面から考察しようとする憲法学の手法
・その規律を支える条件を考察しようとする政治学の手法
・エコーチェンバーとは正反対の多面的な議論になったが、1章では3人とも安倍晋三政権や菅義偉政権に対する
否定的評価を明確に出している
→政治の失敗は自然現象ではなく政治に関わる人々の行為の結果だから・・・
歴史の逆流~時代の分水嶺を読み解く~とゆー本のご紹介
表紙カバー裏にあった惹句
惹句にもあるとおり「憲法学・政治学・歴史学の視点から、暴力の時代に抗する術を考える」本であります
著者紹介
奥付
例によって目次のみ・・・
以下、思いつくままの読後メモ
(わたくしがはたしてそうなの?と感じた部分も著者の趣旨をメモしたつもりです)
1章より
・日本の統治システムの宿痾は歴史から学ばないこと
・政治学を含め社会科学の特徴は自然科学と異なり実験できないこと→歴史が実験のかわり
・日本はデータをきちんと使えない国
→執着によって幻想が生まれ、都合のいい幻想はなかなか手放さない→ネーションの幻想も
→ジョンソンの早いコロナ規制解除、菅の東京オリンピック→楽観幻想にしがみついていた
・安倍政権とその人事権を握った菅官房長官、杉田副長官の振る舞いは、説明しないことによって、
権力を生じさせるというもの
→国民どころか官僚にも説明せず、人事権を使って忖度しろと迫る、新たな権力の磁場を作った
→官僚の党派的な中立を損ない個々の政治家の子分にする内閣人事局への干渉
→学術会議の会員も部下の任命と考えているから拒否にも一切説明はない
→国民も同じで、説明と納得で動いているのではなく命令と服従で動いていると思ってる
→安倍さんも同じだったが一部右派にとってはナショナリズムのアイドルで偶像であり得た
・偶像崇拝は自分の思いや迷い願いを投影しているだけなので結局は自分を拝んでいるだけ
→そんな役に立たないことはやめて自分の頭を使って自分で考えろというのが偶像崇拝禁止
→偶像崇拝せず直接神と対話する神秘主義は教団宗教から迫害されていた
→プロテスタントから立憲主義へ
→宗教上も偶像と象徴は異なる(十字架のペンダントは象徴、戦後の天皇も偶像から象徴に)
・反ユダヤ主義と反9条主義は似ている
→ユダヤ陰謀説が論破されても諦めないように、9条で専守防衛が可能といってもきかない
→因果関係などとは無関係なイデオロギー的幻想(ジジェク)だから
→今後どちらも根拠もなく盛り上がる可能性は否定できない
・病理学の進歩と地方自治制度の間のギャップ
→感染症は特定の地域で流行するので自治体が管轄すべきとの考え
→パンデミックに適した制度ではないのではないか
→制度設計が明治期の感染症(コレラや腸チフス)対策段階で止まってしまった
→大阪でコロナ事態がひどくなったのは保健所を無駄として整理したからという指摘がある
→公衆衛生はナショナルミニマムなので中央集権のほうがいいとの考え方も成り立つが・・・
→大阪の保健所統合などの間違いは地方に権限を委ねる中で折り込み済みの話でもある
・市場より国家が強力だった頃の革新自治体は国家政府に対抗するため自治体の自由を使うと言ってた
→だが、ここまで市場が強力になれば、その発想では無理
→大阪維新は自治体の自立性を市場原理と結びつけネオリベ的な政策の突破口にしている
・日本の学術レベルが落ちたのは2004年の国立大学法人化から→この検証が必要
・今の日本の為政者には学問体験が足りないので、彼らが専門知が大事といっても説得力がない
2章より
・ロシアで革命やソ連の崩壊があっても独裁体制が続いているように、日本の政治体制にも戦前からの
連続性と慣性力があるのではないか
→価値の多様性を前提とした競争(民主主義)という意識が、まだ根付いていないのではないか
・自分は現実的で多数派だから正解と思って与党に投票する与党支持者も多い
→その自分の後ろにいる支持者は有権者の20%に過ぎないことを彼らに知ってほしい
・多くの国では現状に不満のある人は第二党に投票する
→日本では無党派が最大で政党政治から離れている
→宗教と同じで特定の政党支持は異常とされるから、習俗として自民党を支持しているだけ
→党派性を持つことは悪と浸透しているので高校での有権者教育もできないし二大政党もできない
・1997年頃からの行政改革で、公務員を減らし公共を市民社会が引き受けることになった
→その結果、会社が請け負って中抜きする事態になった
・2022年から高校の科目に歴史総合ができた
→近現代史に限ってだが「世界とその中の日本を広く相互的な視野から捉える」科目
→これで多くの高校生が、日本の内政が外国の働きかけで動いていることが分かるようになる・・・
・コロナ禍で(立場により見える風景が全く異なる)パラレルワールドが広がった→これが本当の危機
3章より
・戦争指導者の説明と真の理由を区別し明らかにしたのが2400年前の古代アテナイ歴史学のはじまり
・ウクライナ侵攻でのNATOなどの支援は両者の「暗黙の了解」→38度線の休戦ラインと同じ
・橋下徹は戦うな、山東昭子は戦い抜けと言ってるが国のあり方を賭けた話でウクライナが決めること
→被害でいえば沖縄戦、原爆投下、加害でいえば南京戦
→日本では、これらの戦争終結への対立と混乱があったことから、早く降伏すべきとの議論が出てきやすい
・ホッブズの社会契約論は個人セキュリティと国家セキュリティの議論
→個人セキュリティのための国家との契約なのだから戦場で死ぬ義務はない
→殺し合う自然状態でのミニマムな国家との約束に過ぎない→国家から逃げればいい→ロシア
・ルソーの社会契約論は自由国家を守らねば個人セキュリティも守れないから戦って死ぬべき
→国民の意志により国家は運営されており国民の中長期の利害を見据えた決定がなされている
→そうである以上、国家を守るため国民全員が戦うべき→ウクライナ
・日本の歴史では、共同体のリーダー(天皇)を祭り上げた徴兵制から自衛隊になった
→ホッブズ型かルソー型か、国民動員をどう捉えるか・・・
・戦争の開戦法規は自衛が基本で交戦法規は戦闘員と非戦闘員の区別が基本
→経済封鎖は非戦闘員を苦しめるので戦争より悪い(マイケル・ウォルツァーの正戦論)
→マリウポリの封鎖は問題だが、ロシアへの経済制裁はまだ飢餓になってないので今は問題ない
→今後の制裁が強まり、ロシアの飢餓状況が報道されるようになればどうなるか・・・
・現代の戦争は核戦争かゲリラ戦になる(丸山真男)→群民蜂起→軍隊を否定したゲリラ戦のススメ
→しかし民間人が武装していたら交戦法規は・・・デスパレードだから仕方がない???
・戦争と冷戦を含む戦争状態は異なり、戦争よりマシだが深刻な戦争状態はリスキー
→法秩序の破壊を止めるためにどんな行動をとったかが為政者に問われる
→東京裁判では広田弘毅は不作為とされ有罪になった
・決闘ルールでは勝った方が正しいとされる→これが戦争のルール(グロティウス)
→ルールにより地獄を弱める効果はあるが、戦争犯罪さえなければ戦争で決めていいのか
→国際紛争を解決する手段としてウクライナ侵攻したとして、多くの国から非難されている
→パリ不戦条約から国連憲章(憲法9条も)への国際社会の秩序は揺らいでいない
(なのでロシアは国内問題であると主張している)
・NATO東進脅威に対するロシアの言い分と満州鉄道権益に対する日本の言い分
→どちらも欧米がもう少しコミットしていたら戦争にならなかったのでは・・・
4章より
・戦争は憲法原理の違いと歴史観の違いから
→それでも外部に喧伝している戦争目的と真の戦争目的には常にズレがある
→ロシアのウクライナ東部併合と日本の鮮満一如は同じもの
・西側が軍事的にロシアを圧倒できなければロシアの国民を覚醒させることはできないのか
→日本国民は原爆あるいは満蒙開拓民を捨てて逃げた関東軍によって明治以来の歴史観が変わった
・満州事変の意図は米ソへの戦争準備だったが、インテリ向けには「中国が条約を守らないから」であり、
農民向けには「満蒙の土地を手に入れて豊かに暮らすため」で、昭和恐慌時に計算され尽くしたもの
→プーチンの意図は「ウクライナがNATOに入れば安全が脅かされるのでウクライナを占領する」
→満州と同様に他国の土地を安全確保の目的にしており必ず滅びが始まる
・ウクライナはオーストリア・ハンガリー帝国に属したリビウとロシア帝国に属したキーウに分かれる
→ゼレンスキー政権はそれをまとめ上げているが言語はウクライナ語に統一しようとしている
・憲法改正(解釈を含む)により政治の劣化が急速に進む例→ロシア、ハンガリー、日本・・・
・国連の選択肢としてはロシアを安保理から排除するか現状維持か、しかない
→総会に来ているだけ現状のほうがマシか・・・
→ソ連は1949年に建国された中華人民共和国を認めないことを不満とし欠席し続けたため、拒否権を発動する
こともなく国連として朝鮮戦争に対応できた(当時の常任理事国は中華民国)
→当初は戦勝国の集まりだったのだから「当事者に議決権はない」と入れておけば→今では不可能
・これ以上の事態に進展すればNATOの集団的自衛権がうまく働くか→ロシアと全面戦争するか
→日米安保条約では日本が攻撃された場合に米軍が反撃するか否かはアメリカ議会の判断による
・ロシアは1937年の上海戦以降の日本と同じ失敗をしている→敵を侮っていた
・19世紀はじめにヘーゲルは戦争や革命で歴史は進むとした
→ファシズムやナチズムはヘーゲル右派、ソ連はヘーゲル左派で歪曲しているが共通している
→カントは何が正しいかは国によって異なり国内では法秩序、国際社会では秩序あるバランス尊重
→現在のロシアと西側諸国の対立はヘーゲルとカントの対立
・日本では防衛装備移転も反撃能力も法律として定まっていない
→相手の攻撃能力を全滅させられない先制攻撃は意味がない
・9条の内容は基本的に1928年の不戦条約や国連憲章で形成された侵略戦争の違法化
→戦後も海外で武力行使してきたアメリカの行動様式と専守防衛の日本の行動様式とは異なるもの
→そのハードルを下げるより、攻撃目標となる原発を撤去したりシェルターを整備する方がいい
→9条1項は侵略戦争を放棄した条文というのは誤解
・抑止力で侵略を抑止できるか
→アメリカは日本への抑止力として真珠湾に軍備したが、日本にそれさえ叩けばと思わせてしまった
・自衛隊のどこが違憲なのかは学者によって異なる
→憲法に自衛隊を書き込んだとしても憲法上の疑義がなくなるわけではない
→憲法に明記されている天皇制にも様々な疑義があるのと同じ
→侵略された場合は自衛し国際社会は侵略に抗議するという国際社会の前提は何も覆っていない
・ロシアはウクライナを国内問題と主張しており中国の台湾と同じ
→台湾有事に備え憲法改正しフルの集団的自衛権を持つべきとの議論
→バイデンが口先で牽制してるのは武力行使ができないから
・中国の海洋戦略上の脅威増大は事実だが・・・
→中国にとってアメリカは朝鮮戦争の際に台湾海峡を封鎖した国
→台湾を武力で統合する話も、すでに中国の一部なので武力で現状変更する必要はないとする話もある
→現状が続けば中国が民主化する可能性もあるがウクライナ侵攻で中国への警戒感が高まるのは当然
→アイルランドは1998年に北アイルランドを放棄し長く続いた戦争を収めた
→田中角栄は台湾について「ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」で周恩来と妥結した
・日本の安全保障の危機を叫ぶ人ほど現実を見ていない
→IEPの世界平和指数2021では日本は12位、ウクライナ142位、ロシア154位・・・
→リスクを考えるなら原発と近隣国との関係を悪化させないことを考えるべき
・世の中を動かしているのは既得権益ではなく思想(ケインズ)
5章より
・安倍元首相の国葬
→侵害留保説(権利制限には法的根拠が必要)では法的根拠は不要
→重要事項法理説では自衛隊出動と同じく国会承認が必要だが国葬は重要事項なのかどうか
→山本五十六の国葬は負け戦のターニングポイントだったが、同様に日本衰退のターニングポイントか
→日本の衰退は1990年代からの行政改革などの失敗の帰結で、個人に意味を持たせるのは危うい
→安倍政権に正当な政治批判をしてきた言論や報道を、テロを誘発したとして抑圧したい勢力に利するもの
→山本五十六の頃は民族精神フォルクスガイストがあったが戦後は各自が個人で判断するようになった
→これは「ミネルヴァのふくろうは黄昏になって飛び立つ(ヘーゲル)」歴史の終着点
→今の日本は闇夜の状態で変革も発展もなく偉人も英雄も現れない
→同じ行動という日本人のコンセンサスを分断線で壊そうとした人の国葬に全員が納得するのは困難
→ド・ゴール国葬時のフランスも今の日本と同じ闇夜の状態だった
→銃撃事件の動機が選挙演説の阻止であれば明らかに民主主義の危機だが今回は微妙
・戦前に弾圧された宗教団体はその後、権力との癒着に向かっている
→日本の政教分離原則は信仰の自由のための原則
→両者が衝突する場合は信仰の自由が確保されるかたちにすべき
→革命後のフランスでは政治を宗教から守るための政教分離原則
→宗教弾圧は問題だが外国の宗教団体が密かに日本の政治に食い込むのも問題
6章より
・この国はどこに向かうのか
→2022年7月の参院選では自民党は動かず固定化→政策ではなく自民党だから支持する→同調圧力
→自分が投票した候補者が当選すれば正答、落選すれば誤答と考える人もいるが間違い
→正答も誤答もなく、とりあえず任せているだけだがルソーの社会契約論にも正答にというのはある
→野党への支持も固定化している
→安倍政権は明らかに右寄りだったが自民党が元の中道勢力の連合体に戻るかが分岐点
・日本の選挙制度と集団
→保守合同による自民党と左右統一による社会党の「55年体制」以上にマシな政治にはならない
→大阪維新の2回目の住民投票での否決はどちらの陣営にも予想外だった
→選挙の票を読む技術がどちらにも蓄積されていないのではないか
→地方と大都市圏では同じ選挙制度でも全く違うかたちになっている
→組織化しやすい集団と非正規労働者のようにしにくい集団がある→棄権の多さにもつながる
→今の野党にカリスマ的なリーダーは見あたらない→属人的な部分もある
・少数政党の乱立
→ポピュリスト政党がここまで乱立している国は世界でも珍しい
→政党助成金は90年代の政治改革で成立した制度だが(これによる)少数政党の乱立は予測してなかった
→まともな政党に限定すべきだが野党乱立は自民党に都合がいいので改めることはないだろう
→政治家をいかに育てるか、松下政経塾も連携を目指したが結局バラバラに
・対案を出せ症候群
→野党も国立大学の教授会も「では対案を出せ」ばかりだと正しい批判ができなくなる
→ガバナンス、ステークホルダー、効率化、生産性など、いわばコンサル用語が大学に限らずあらゆる組織で
幅を利かせている
→そもそも発生経緯の異なる組織を一つの方向に押し込もうとしていることがおかしい
→中央省庁も内閣人事局ができて人事は官邸が行うようになり、失敗の痕跡や政権批判をしなくなった
→本来の公務員制度改革は人事の集権化と、内閣官房長官による人事管理についての国民への説明責任の確立
→幹部人事が官邸に掌握されただけで「ヒラメ官僚」が跋扈し、有権者の「それでも与党に投票する」に
→政治家は選挙で信任された一般意思を示すので官僚は機械的に執行すればよいという権力システムの
集権的な理解が広まった
→意見を言う官僚は民主的な権力行使に介入する雑音として排除される
→政治家が一般意思ではなく特殊意思に配慮しようとするときに、選挙に左右されず安定した身分で
一定の中立性を保つ官僚が、適切にブレーキをかけることは適切な権力行使に必要
(旧統一教会の名称変更を自分の見識で止めた当時の文部科学省宗務課長など)
→政治主導は進んだが政治家の要請をメモし全て公開する提案は制度化されないまま
→政治家は選挙で選ばれたことを正当性の根拠にするが、それは一般意思を体現している根拠にはならない
→そもそも一般意思を貫徹するかたちで政治主導を行うことなど原理的にできない
→なので権力を多元的な構造にしなければならない
(宗教団体の名称変更は選挙でお世話になってる政治家より宗務課長が判断する方がまともなシステム)
→内閣人事局は自民党が絶対に廃止しないので、可能なのは特殊意思を通す場合に公開することぐらい
・公文書管理
→福田康夫が尽力し麻生太郎内閣下で公布された公文書管理法の施行は2011年4月で東日本大震災は施行前、
菅直人首相は議事録を残す指示をしなかったが、野田佳彦内閣下の岡田克也副総理が指揮し大部分を復活させた
→しかし2012年12月からの安倍政権以降は公文書管理を重視する姿勢は一切なくなった
→公文書管理法の見直しや公務員制度改革など現実的に可能な問題提起をすべき
→官僚に過剰な統制機能が働いているのに政治家は統制されず選挙もチェック機能を果たせていない
・放送法
→放送行政を総理大臣や内閣の指揮が及ばない独立規制委員会に託す放送法の改正が必要
→NHKの受信料制度は政府や広告主に左右されない適切な制度だと思っているが、
→受信料は国会がNHK予算を承認しない限り受け取ることができない仕組みになっている
→国会多数派の意向が番組内容に及ぶことがないとは言い切れない(高市早苗総務相の発言など)
→なので国会権限から除外して独立した第三者機関に委ねるべき
→これは右派が叫ぶ「NHKの偏向」をなくすことにもなるはず・・・
・議論なき政治
→法的根拠を度外視し国会議論も国民説明もせず閣議決定で決めていく政治は安倍政権以降も続いている
→説明しなくても責任を問われることはなく選挙でも負けないと分かっているから
→内閣法制局も破壊し外務省出身者を起用して集団的自衛権の解釈改憲まで進んだ
→説明しない政治、国会軽視、役人の責任放棄・・・
→ボリス・ジョンソンは政府や議会に繰り返し嘘をついたと退陣させられたが、桜を見る会の国会答弁で
118回の嘘をついた安倍さんは退陣することはなかった
→サッチャー政権では大臣が次々と理由を公表して辞職して退陣に追いやり、トランプ政権の末期でも
政府高官や側近が多数辞めたが、日本では誰一人辞めない、保身しか考えていない
→日本の場合は「説明しなくても選挙では負けない」ことが大きい
・憲法的大問題
→国会審議を経ずに使途が決められる予備費の増大→使途が正確に特定できたのは6.5%のみ
→憲法上は国会の事後承諾が必要だが、承諾されなくとも無効にはならず戻す必要もない
→この上に緊急事態条項まで作って何をやりだすのか・・・
→財政民主主義の背景には戦費調達のため国債を乱発した戦前への反省がある
→行政権力の暴走を無関心な国民が傍観する流れを、このあたりで止めないと・・・
巻末より
・イギリス女王の国葬で軍が前面に出るのは、軍の統帥権が女王にあるのだから当然
→旧植民地からは歴史への反省がないとの批判もあった
・日本でも明治以降は軍の統帥権は天皇であり国葬で軍が前面に出るのは当然だった
→今は内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮権を持つが、国葬や私的な葬儀に自衛隊儀仗兵を出すということは、
国家の本質的な部分は軍事であるというイデオロギーを広めることにならないか・・・
→憲法により軍の正当性を否定していることと真っ向から対立することになる
・不幸な銃撃事件から社会の空気が変わった、違う風が吹きはじめた、みんながおかしいと言いはじめた
→岸田さんはしたたかな人ではないか→これを機会に安倍派つぶしとか・・・
・少数者の信条などは多数決の政治プロセスでは守れないので裁判所が守るというのが憲法学会の通念
→カルト宗教団体は信条による強力な統制・監視でサイズに見合わない政治的影響力を発揮していた
→少数派だから裁判所が守るということにはならない
(逆に非正規労働者やシングルマザーは多数派だがバラバラで共通の権利や利益のための協力が難しい)
・憲法の信仰の自由は宗教団体を国家権力の抑圧から守ること、政教分離は政治を特定の宗教団体の
過大な影響力から遮断することだが、両者の関係は書かれていない
→戦前に抑圧された宗教団体は、戦後は「政治は宗教に介入するな」でよかったのに、権力側につけば
抑圧されないというほうに進んで行った
→同じ政教分離のアメリカもフランスも同じで、そのこと自体が問題ではないが・・・
・戦前に弾圧されたのは伊藤博文らが考えた市民宗教としての天皇制の競争相手だったから
→戦後は市民宗教としての天皇制はなくなった
・冷戦終結後、「反共」アイデンティティーの中身は変わってきている
→多様性を否定し特定の価値観で社会を分断してきた
→安倍さんを支持してきた保守派は「リベラル派は旧統一教会を敵とみなし日本に分断を持ち込んでいる」
と言ってるが、分断という概念をはき違えている
→多様性を否定する考え方を多様性の名によって擁護すべきではない
・分断とは社会の中で許容可能な人たちを排除しようとすること
→許容できない泥棒を刑務所に入れるのを分断とはいわない
・安倍政権の負の遺産である分断の政治をどう乗り越えるのか、真剣に構想しなければならない
あとがきより
・新型コロナの諸問題は「政治が生活を左右するという意識」を持たせた
・ウクライナ侵攻は大多数のロシアの人たちを、はじめて独裁のリスクに向き合わせた
・一定の時代に現れた制度・組織・論理が、なぜその時代に、何のために創ろうとしたのかを考える歴史学
・社会の諸事情を規律という側面から考察しようとする憲法学の手法
・その規律を支える条件を考察しようとする政治学の手法
・エコーチェンバーとは正反対の多面的な議論になったが、1章では3人とも安倍晋三政権や菅義偉政権に対する
否定的評価を明確に出している
→政治の失敗は自然現象ではなく政治に関わる人々の行為の結果だから・・・