書斎

2023年11月25日

ナマケモノ教授のムダのてつがく

ひさしぶりの読書メモは・・・


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「ナマケモノ教授のムダのてつがく」であります

過日のプチオフ会で、川端さんがさらっと流し読みして、たちまち看破されたように、
著者はナマケモノ教授どころか八面六臂の活躍をされておられる文化人類学者で・・・

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近代以降、ムダとされ切り捨てられてきた様々なモノ・コト・トキ・ヒトなどが、じつは
人類や地球環境にとって、いかに重要であったかといった内容で、著者略歴にもあるように
ご本人も様々な実践活動を続けてこられた方(わたくしは今回まで知りませんでしたが)


「はじめに」によると・・・

コロナ禍での「不要不急を避けよ」という大合唱がストレスになった若い編集者から、
「不要不急のなくなった世界」を想像して「今の時代にふさわしい哲学」を執筆してみないか
と言われたことがきっかけで「哲学」はわからなくても「てつがく」なら誰もが持ってるので、
ますます忌避され敵視されている「ムダ」について書いたとのこと・・・

よく知られた本や映画や音楽の異なる視点での紹介も多く、なるほど、そういった見方も
あるのかと、納得したり
感心したりしましたが、けっこう気軽に読めました


本の奥付であります

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例によって目次のみ・・・
目次を追うだけでも本の概要が分かるので、興味のある方はご一読を・・・

(画面をクリックすると拡大します)
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すべての概要を紹介したいところですが、帰国後の疲れからかメモするのもめんどーに
なってるので、おぼろげでも記憶に残ってる「幸福」についての2項目のみ・・・

・ロバート・ケネディの言葉
(
1968年6月6日に暗殺される2ヶ月ほど前の大統領選キャンペーンでのスピーチから)

→今アメリカが世界一を誇っているGNPには空気汚染、タバコの広告、多数の交通事故死者を
運ぶ救急車、家を守るための鍵、それを破って侵入する犯罪者を収容するための監獄が含まれ、
原生林の破壊や都市化の波もGNPを押し上げている
➝戦争で使われるナパーム弾、核弾頭、デモ隊を蹴散らす装甲車、ウィットマン社製ライフル、
スペック社製ナイフ、子どもたちにおもちゃを売るための暴力を礼賛するテレビ番組も・・・

→一方でGNPに勘定されないものには子どもたちの健康、教育の質、遊びの楽しさ、詩の美しさ、
夫婦の絆の強さ、市民の知恵、勇気、誠実さ、慈悲深さも・・・

→要するに国の富を測るはずのGNPには私たちの生きがいのすべてがすっぽり抜け落ちている
(言い換えれば「豊かさ」を測るはずのGNPからは「幸せ」がすっぽり抜け落ちている)

→あの年の11月に彼
大統領に当選していたら、今頃どうなっていたか・・・
→と、ついついムダなことを考えてしまうのだ・・・


・ブータンが提案したGNHについて

→国王がGNPよりGNHのほうが大切と最初に語ったのは1976年のキューバでの国際会議を
終えた帰途、インドでの記者会見だった
→当時最低だったブータンのGNPについて記者から訊かれ、逆にGNPとは何かと問い返した
→知ってることと知らないことは人によって異なる、逆にGNHを知ってるかと説明した
→弱小国をグローバル経済に取り込もうとする大きな圧力への抵抗であり、他の途上国への
警告だったのではないか

→困ったことにGNHは計測できず数値で表せないから学問の対象にはならない
測れるものだけを信じ、測れない価値をムダとして片付けるという心のあり方こそが、
社会に深刻な問題を引き起こし、人間を不幸せにするのではないか・・・

→その後40年以上、国をあげてGNH研究に取り組んでおり初の憲法にも明記されている
→国連でも注目され、2011年にはブータンが提案した「社会の発展に幸福という観点をもっと
取り入れる」
という決議案が国連総会で採択された・・・


他にも共感できる内容が多かったのですが、ま、著者と違って本来の怠け者なので・・・


巻末にあった引用・参考文献には琴線に触れそうな書籍や映画などがいっぱいだったので、
こちらもメモしておいて、ま、そのうちいつかは・・・

(画面をクリックすると拡大します)
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いつ、どれを読めるか分かりませんが、それで何らかの行動をしなければ時間のムダか・・・
でも、たとえムダでも自分にとっては大切なことなのかも・・・
ただし、それを社会とどう繋げていくのか・・・

はてさて・・・



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2023年10月24日

【図解】新・地政学入門

とーとつですが・・・

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【図解】新・地政学入門とゆー本であります



表紙カバー裏にあった惹句

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著者紹介と奥付

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著者は大蔵(財務)官僚から小泉内閣・第一次安倍内閣・菅政権のブレーンになった人・・・



例によって目次のみ・・・

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本章は中国、ロシア、ヨーロッパ、アメリカの4章で構成されてます

著者の政策や主張についてはさておき、とりあえず一部の概要メモです


まえがきより

・地政学とは世界の戦争の歴史を知ること
→地理的条件で一国の危機意識も戦略思想も何から何まで変わる
危機意識や戦略思想が目に見える形で現れるのが戦争
→国民性とかお国柄とか呼ばれるものにも地理的条件が深く関わっている
→地理的条件により国の生き残りや発展をかけた野心が生まれ様々な戦争が起こってきた
→すべての戦争には地理的条件による各国なりの「切実な事情」が絡んでいる
→そうした戦争の歴史を知ることが地政学であり、この視点で世界の深層をとらえる


プロローグより

・国家・国境・民族という単位での戦争の歴史は現代を生きる知恵に直結する
→歴史の背景には国家の思惑、目論見、野心が存在する
→理解に必要なのは年号と出来事ぐらい、情緒を交えず冷徹に事実関係だけを把握する姿勢と
「大体の流れを把握する」という大雑把な視点

・戦争は領土および領土に付随するものを巡って起こってきた→地理的条件
→地政学的な視点を持つと、世界はどう動くか、我が国はどう立ち回るべきかまで、
地に足のついた思考力で考えることができる

・相手が引けば押すのが国際政治の常識→なめるか、なめられるか

・近代以降で重要なのは陸より海で本当は地政学というより海政学
→海外進出のためには海を制さねばならない
→地中海を制したパクス・ロマーナから世界を制した第一次世界大戦までのパクス・ブリタニカ、
第二次世界大戦後のパクス・アメリカーナ・・・

・「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー著)にある図表
(歴代上位21戦争の死者数と、その分母を20世紀中葉の人口に換算した図表)
→換算前の死者数トップは第二次世界大戦で20世紀だが、換算後は8世紀の安史の乱になる
→上位21戦争のうち2/3が19世紀以前で人口換算すれば上位8位までが
19世紀以前の戦争
→これによりピンカーは20世紀以降、人類は平和になったと指摘している

・民主国家は独裁国家に比べ戦争を起こす確率が絶対的に低い
→民主主義という政治システムは根本的に戦争とは相容れない
→個の価値が高まり戦争抑止効果が政治家、民衆、軍部に働くのが民主主義国家
→自由貿易による現代の平和を資本主義的平和、自由主義的平和と呼ぶ学者もいる・・・


以下、各章は
以前紹介したこちらの本と重なる部分もあり読み飛ばしもあるのでメモは省略、
第一次世界大戦から第二次世界大戦へのヨーロッパの流れのみ・・・

・1903年
→ドイツの3B政策(ベルリン・バグダッド・ビザンティウム(イスタンブール)を結ぶ鉄道敷設権)と
イギリスの3C政策(カルカッタ・カイロ・ケープタウンを
結ぶ鉄道敷設権)の対立
→オスマン帝国領地へのロシアを含む各列強の進出と複雑化するバルカン半島問題も絡む
(オスマン帝国はイスラム以外の共同体自治も認めて共存していたが衰退し各国が独立)

・1908年
→オスマン帝国の青年トルコ革命に乗じたオーストリア=ハンガリー帝国によるボスニアと
ヘルツェゴビナの併合

・1912年
→ロシア支援によるセルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシャのバルカン同盟
(パン・スラブのロシアとパン・ゲルマンの
オーストリア=ハンガリー帝国の対立)
→オスマン帝国対バルカン同盟国の第一次バルカン戦争

・1913年
オスマン帝国に勝利したバルカン同盟国内のマケドニアをめぐる第二次バルカン戦争
(セルビア・ギリシャ側にオスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニアがつきブルガリアが敗北、
その後ブルガリアはドイツ・
オーストリア=ハンガリー帝国に近づく)
→イギリス、フランス、ロシアは三国協商、フランスはアルザス・ロレーヌ地方の領有権でも
ドイツと対立しており、ロシアも
パン・スラブとパン・ゲルマンでドイツと対立していた
→連合国と同盟国の形成へ

・1914年
→サラエボ事件→
オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアへ宣戦布告
→僅か一週間で列強すべてが参戦、
連合国と同盟国に分かれた第一次世界大戦に
(ナポレオン戦争以来100年ぶりのヨーロッパ大戦争で世界中を巻き込んだ)

・1919年のベルサイユ条約
オーストリア=ハンガリー帝国は解体、ドイツは領土縮小、巨額の賠償金、軍備制限
→ルーマニア、ポーランドに領土を割譲、チェコ人とスロバキア人によるチェコスロバキア、
クロアチア人、スロベニア人、セルビア、モンテネグロが合体したユーゴスラビアなどが独立
→英仏がロシア共産革命に対する防御壁として、小さな独立国家を乱立させた
オスマン帝国も解体→英仏によるクルド人地域の分割統治など(略)
→さらにイギリスの多重外交などにより現代まで続く中東問題に(略)


・1929年の世界大恐慌
巨額の賠償金をアメリカ資本に頼ろうとしていたドイツでのヒトラーの台頭
→公共事業で失業者を一挙に減らし軍備を増強、隣国への実力行使へ
→オーストリア、チェコスロバキアのズデーデン地方の併合(1938年)

・1939年~第二次世界大戦
→独ソ不可侵条約によってドイツがポーランドに侵攻
→ポーランド支援を約束していた英仏による宣戦布告
→イギリス上陸を阻まれたドイツは再び東欧、バルカン半島へ
独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に侵攻(1941年6月)
→ドイツを止めたいアメリカ・イギリスの支援もあり1943年はじめに撤退
→1945年5月に無条件降伏
→1949年に東西に分断され冷戦構造に関わっていく・・・

・NATO
→今回フィンランド、スウェーデンが加盟したのは「戦争をしたくないから」
→集団的自衛権を認めた方が戦争確率が下がるから
集団的自衛権推進派だった私を「戦争愛好者」と罵っていた人たちは何を思うだろう
→EUがギリシャ危機を見捨てなかったのもNATOとしての安全保障から
(ロバート・マンデルの最適通貨圏理論では最もユーロに適さない国)

・地理的条件によって左右されるエネルギーも地政学上の重要なファクター
→天然資源の乏しい国にとって原子力発電は虎の子
→廃炉してしまったドイツは地政学的リスクを甘く見すぎていた


エピローグより

・戦争の歴史は国家の領土拡大渇望の歴史だが国際社会の基本姿勢は今や「不戦」になっている
→不戦のためにすべきことは相手に思いとどまらせること→反撃能力を示すこと
→戦って自分を守るためではなく戦わずして自分を守るため、しっかり武装しておくこと

・地政学的リスクから集団的自衛権の是非は明確
→不戦が基本姿勢でも帝国主義的野心の国は存在するから牽制活動が必要
→戦後1000人以上の戦死者を出した軍事衝突39回のうち15回はアジア
→戦後の紛争地のうち39%がアジア(中東24%アフリカ16%ヨーロッパ13%)
→同盟国との集団的自衛権を「見せる」ことは自己防衛の基本

・国際政治では同盟と軍事力を強調するのがリアリズム、民主主義と貿易依存と国際機関を
強調するのがリベラルといわれ、これまで平和について論争してきた
→膨大な戦争データの分析で、どちらも正しいことが実証された(2001年)
(戦争リスクの減少割合)
・きちんとした同盟関係を結ぶことで40%
・相対的な軍事力が一定割合増すことで36%
・民主主義の程度が
一定割合増すことで33%
・経済的依存関係が一定割合増すことで43%
・国際的組織加入が一定割合増すことで24%
→独立国にふさわしい軍備で牽制効果を高め、きちんとした同盟関係を結び、民主主義国同士で
自由貿易を行う関係を築き、国連に加盟すれば、世界の戦争リスクはぐんと下がる
→外交とは安全保障と貿易について話し合うこと・・・

云々・・・

著者の政策や主張については賛否両論でしょうが、ま、それも民主主義ですね・・・



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2023年10月19日

地図は語る・・・

とーとつですが・・・

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地図は語る~データがあぶり出す真実~ビジュアルで見る過去・現在・未来~
とゆー本のご紹介であります


冒頭にあった奥付

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裏表紙カバー裏にあった著者略歴

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例によって目次のみのご紹介・・・

まずは大項目の目次

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続く小項目の目次・・・

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そう、小項目の目次が全て地図と図表なのでありますね

項目によっては複数の地図と図表があり、それらが語るものを解説する、とゆーパターンで、
知らなかった事実も多く、確かに分かりやすかったです

もともと地図を眺めて、あれこれ想像するのは大好きなんですが、様々なビッグデータを
地図に落とし込むと、文章では理解しにくい事柄が一瞬で理解できるんですね

何せ「地図は語る」ですから文章でメモするのはあきらめましたが、ひとつだけ・・・

小項目の目次1枚目にある
25「機密情報の暴露」であります
これはスマホ用ジョギングアプリのデータから得られたアフリカにある米軍の秘密基地の地図

そう、秘密基地内をジョギングしていた兵士たちの軌跡から秘密基地の姿がくっきりと・・・
こんなふうにデータを重ねていくと、衛星画像でも作れない地図も作成できるんですね

他の項目も面白かったので興味を持たれた方は本書のご一読を・・・



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2023年09月21日

人類の起源

とーとつですが・・・

人類の起源~古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」~

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とゆー本のご紹介であります(備忘のための読書メモです)



表紙カバー裏にあった惹句

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著者紹介と奥付

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そう、こちらの記事の続きとゆーか、前回記事、前々回記事の前段階とゆーか・・・

日本などの古代史も含んだ最新研究による「人類の起源」であります



例によって目次のみ

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以下、脳の外部記憶としてのメモ書きです

まず「はじめに」にあった本書のダイジェストより

・これまで現生人類ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで生まれたとされてきたが、
→ネアンデルタール人のDNA解析により彼らの祖先と分かれたのは60万年前と判明した
→別れた後も交雑を繰り返し他の絶滅人類とも交雑していたことも判明しつつある

・現代人DNAとの比較研究で、現生人類はアフリカ→中東→ヨーロッパや南アジア→
東南アジアやオセアニア→東アジア→南北アメリカ大陸へと拡がったことが判明した

・どのように現代の地域集団を形成していったのか
→古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは集団の大きな遺伝的変化があった

・世界各地の人類集団(民族)は、ある地域における「ヒトの移動の総和」といえる
→特定の遺伝子分布の地域差は集団成立の有力な手がかりになる

・1980年代に発明されたPCR法はウィルス検知だけでなく人類学にも多大な恩恵をもたらした
→古代DNA研究は考古学・歴史学・言語学の分野にも大きなインパクトを与えている
→「人間とは何か」→現時点で何が明らかになり、研究は何を目指しているのか・・・



第一章「人類の登場」より

・1859年のダーウィンの進化論→ヒトの祖先は?→神から化石人類学へ
→約700万年に及ぶ人類進化が大まかに示された

・神話と科学の違い
→科学は間違いと訂正の歴史
→なので科学を間違いないと信奉することは理解の障害にもなる
→本書の古代ゲノム解析による説明も現時点での結論であり将来反証されることもある

・ホモ属にはいくつもの種があったが、現在生存しているのはサピエンス種だけ

・人類の定義→本書では「生物学的に自由に交配して子孫を残せるグループ」という視点
→この視点は世界の集団形成を理解する際にも重要

・人類の祖先とチンパンジーの祖先が分かれたのは700万年前
→ホモ属が登場するのは250~200万年前
→サピエンス種が登場するのは30~20万年前
→ホモ・サピエンスの出アフリカは6万年前、顕著な文化発展は5万年前(異説あり)
→どの時点をもって人類の誕生としているか→読み手の注意が必要

・文明が農耕からなら1万年、文字に残る「人類の歴史」からなら5000年・・・
→歴史的な経緯や地域環境による文明の違いはヒトの選択による「多様性」であり、
→世界中の文明はヒトという共通の基盤に立っている
→この認識は現実世界を理解するうえでも欠かせない視点

・現在では、異なる進化段階の種が同時代に生きていたこともわかっているが、
→進化傾向を捉えるためには初期猿人→猿人→原人→旧人→新人という段階は便利な考え方
→それでも同時代・同所に多数の化石人類が見つかっているので状況は混乱している

・約200万年前に登場したホモ・エレクトスは最初に出アフリカを果たした原人
→アフリカ・西アジア・中国・ジャワ島などで発見されている人類
→20万年前の化石もあり180万年も生存していた(ホモ・サピエンスは20万年程度)
フローレス島で発見されたホモ・エレクトスから進化したホビットは6万年前まで生存

・ネアンデルタール人は旧人とされてきたが2016年のDNA分析の成功で大きく変わった
→これ以降、人類進化はDNAデータで語られるようになる
→ネアンデルタールで発達したのは主に視覚に関わる後頭葉部分
→ホモ・サピエンスで発達したのは思考や創造性などの前頭葉部分
→どちらも脳の容量はほぼ同じで交雑していた

(コラム1より)
・ホモ・サピエンスの大脳新皮質で共同体を構成する人の顔・名前・考え・バックグラウンドが
理解できる人数は150人程度
→なので狩猟採集社会から現代社会まで150人程度を社会構成の単位としてきた(ダンパー数)
→言語・文字・物語・宗教・歌・音楽といった文化要素により、時間や空間を超えて概念や
考え方を共有するハードウェアで、なんとか複雑な社会を形成していった
→現在は(脳の容量は変わらないのに)通信ネットワークで何百人(何千人)が同時につながりあい、
それらの大量のデータが行き交う高度な社会環境
→自分の脳の処理能力より、はるかに多量のデータにさらされている状況
→バランスのとれた情報処理ができずに社会が混乱しているのも至極当然・・・



第二章「私たちの隠れた祖先」より

・2010年以降に核DNA分析が可能になり、次々と新たな事実が明らかになっている
→1980年代からコンタミネーション(混入)が問題だったが
DNA分析を前提とした発掘に

・ネアンデルタール人はユーラシア大陸の西半分に分布していた
→ホモ・サピエンス集団のひとつがネアンデルタールと交雑して世界に拡がった
→交雑しなかった集団もコーカサスや中東、北イランに存在しており現在のヨーロッパ人の
形成に関与したので、現代ヨーロッパ人のネアンデルタールDNAは相対的に少ない

ホモ・サピエンスとネアンデルタールは数十万年も交雑している
→初期の交雑はアフリカとは考えにくく、ホモ・サピエンスの出アフリカが6万年前ではなく
40万年前よりやや新しい時代だったのか、あるいは
ホモ・サピエンスがユーラシア大陸で
他の未知の人類から進化したのか→まだ完全解明には至っていない

・デニソワ洞窟ではデニソワ人とネアンデルタール人の混血少女の化石が確認されている
→パプア人DNAの3~6%は
デニソワ人DNAに由来
→東アジア・南アジア・アメリカ先住民もパプア人の1/20程度のデニソワ人DNAを共有
→東アジアのゲノムはパプアとは別で、少なくとも2回は別々に
デニソワ人と交雑していた
→チベット人にもデニソワ人DNAがあるが、ホモ・サピエンスがチベット高原に来たのは11000年前
→これらから、デニソワ人は数万年前まで生きていた可能性が示された

・サハラ以南のアフリカ人ではデニソワ人と未知の人類との混血が推察される
→3人類とは別の人類がいてデニソワ人と交雑した可能性
→異なる系統人類の混血が長期間続いた結果がホモ・サピエンス遺伝子にも残っている

・ユーラシア大陸に拡散した人類は単一種ではなく各段階が同時期・同所に存在
→20世紀の終わりまでホモ・サピエンスは他地域進化説だった
→21世紀になると6万年前にアフリカを出て他の人類を駆逐したというアフリカ起源説
→2010年以降は拡散過程で他の人類の遺伝子を取り込んだことが明らかになった
→アフリカ起源説が
他地域進化説の一部を取り込む形で収束した

・生存に不利な遺伝子は徐々に集団から取り除かれる
→アフリカでも世界展開の途中でも交雑は長期に繰り返されている
→iPS細胞や遺伝子編集技術で理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人の復活も可能



第三章「人類揺籃の地アフリカ」より

・アフリカでのホモ・サピエンス拡散の様子(略)

・ホモ・サピエンスが30万年前にアフリカで誕生したことはほぼ定説になっているが、
→ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先から分岐したのは60万年前と判明してるのに、
→長期間にわたるホモ・サピエンスの祖先の化石がアフリカにないこと
→数十万年前には
ネアンデルタール人と交雑があったことを考えると、
→最初の祖先はユーラシア大陸の原人で、
→そこから3人類が生まれ30万年前以降にアフリカに移動したグループが世界に拡がり、
→残ったグループはネアンデルタールと交雑した後に絶滅した、とも考えられる

・異なる人類の交雑が明らかになったので、起源はアフリカだけでなく広範囲で考えるべき
→イスラエルでは古いネアンデルタールよりも古いホモ・サピエンスが発見されている
→古い交雑はこの地域だった可能性がある

・ホモ・サピエンスの世界展開は、現代人のゲノム解析から6万年前以降とされてきたが、
中国・ギリシャ・東南アジア・オーストラリアから、それよりも古い化石の報告がある

・農耕民と牧畜民の起源
→アフリカ西部の農耕による人口拡大→移動→集団(言語)の分化
(世界各地でも
初期農耕民の拡大が言語族の分布と結びついている)
→牧畜民には乳糖耐性遺伝子が必要→牧畜とともにヨーロッパに(新石器時代にはなかった)
→生業と遺伝子と言語には密接な関係がある

・現代人のゲノムにはネアンデルタール人やデニソワ人とは異なる人類との交雑を認める結果も
示されており、アフリカには30万年前の謎の人類ホモ・ナレディもいた・・・



第四章「ヨーロッパへの進出」より

・ホモ・サピエンスの出アフリカは20万年前以降に何度か試みられていた
→我々につながる祖先の出アフリカは6~5万年前
シベリアでのネアンデルタールとの交雑時期は52000~58000年前
→中東での交雑は出アフリカの初期と考えられるので6万年前が妥当
→ただし南アジア・オーストラリアなどで6万年前より古い化石や石器が見つかっている
→6万年前より以前は放射性炭素年代測定が困難なので各説がある
→これ以降1万年前の農業生産まで(後期旧石器時代)の気候変動が離散と集合を促した

・現代人につながる系統だけでも、出アフリカから1万年の間に東アジア系・ヨーロッパ系・
ユーラシア基層集団の3系統が成立した

・出アフリカ集団は単一系統ではなく現在の集団はそれらの離合拡散・交雑・隔離を経たもの

・最も研究の進んでいるヨーロッパ集団について(略)

・ヨーロッパでも日本でも狩猟採集民のゲノムは10%から25%
→基本的に狩猟採集民は農耕民の社会に飲み込まれている

・5300年前のアイスマンのゲノムはアルプス人ではなくサルディニア人と近縁だった
→サルディニア人は8000年前に移住して混合しなかったヨーロッパ初期農耕民の子孫
→移住前の農耕民のゲノムを残しており現代ヨーロッパ人とは異なる→なぜか?
→5000年前に
ヨーロッパ人の遺伝的な構成が大きく変わったから
→その原因は東のステップ地域から来た牧畜民
→ヨーロッパ人の地域差は狩猟採集民と農耕民と牧畜民の混合の仕方の違い
→牧畜民のゲノムの割合が高いほど身長が高いなど・・・
→牧畜民ゲノムからはペスト菌DNAの断片が検出されており農耕民に大打撃を与えた可能性
→古代ゲノム解析は疫病研究にも重要な知見をもたらす



第五章「アジア集団の成立」より

・1万年前より古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析は一部しか行われていないが、
→出アフリカ集団は中東で1万年ほど停滞していた
→5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまで拡散した

・ユーラシア東部へは北ルートと南ルートが考えられている
南ルートでは古代南インド狩猟民集団→一部が東南アジアへ→デニソワ人と混血?
→一部がパプアニューギニア、オーストラリアへ
→北ルートで北上したグループが
古代東アジア集団を形成した?

・ヒントは縄文人のゲノム
→日本列島にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前
→16000年前に土器が作られ3000年前に稲作が入るまでの13000年の間が縄文時代
→この間に遺伝組成を変えるような外部からの流入はなかったので縄文人ゲノムがヒントに

・縄文人のゲノムを共有している現在の東アジア人
多い順にアイヌ集団→沖縄の人→本州・四国・九州の日本人
→沿海州の先住民、韓国人、台湾の先住民も僅かに共有している
→アムール流域の先住民、新石器・鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団とは非常に古い
時代に分岐した同じ系統に属することも判明している
古代南インド狩猟民集団→チベットや東アジアの沿岸地域へ→日本では縄文人に

・縄文人は4万年前以降に異なるふたつの系統が合流して形成された
→別々に南北から流入したのか大陸沿岸部で合流してから流入したのかは不明

・シベリア集団の変遷、アメリカ大陸集団の起源・・・
→複雑な集団の置換によりユーラシア北部から南北アメリカのモザイク状の遺伝構成へ

・1万年前以降は解析できる人骨も多く、1万年前には遺伝的に区別できる9集団がいた
→これらの離合集散が青銅器時代以降の集団形成に関わることになる
→スキタイ、匈奴、フン族などの遊牧騎馬民族も異なる遺伝的特徴を持った集団の連合体
→なので中央アジアの広大なステップを遺伝的に単一の集団が支配したことはない

・3回にわたる移住の波が南アジア集団の遺伝的構成を決定した
→9000年前の狩猟採集民と初期農耕民の混合
→7400~5700年前の混合完成と、その後の北方集団との混合
→4600~3900年前のインダス文明の初期農耕民にはイラン牧畜民や狩猟採集民ゲノムもある

・南アジアから東南アジアには5万年前
→どちらもDNA保存に適した地域ではないので現代人DNAからの考察
→遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応している
→東南アジアの半島部と島嶼部は、ホモ・サピエンスが最初に拡散した氷河期には
スンダランドで一つの陸塊だった
→ヨーロッパ同様、農耕以前の狩猟採集民ゲノムは伝わっていない

・南太平洋・オセアニア(略)

・中国の南北地域集団
→今も言語的にも遺伝的にも異なり過去の違いはさらに大きい
→黄河流域と福建省では1万年~6000年前まで遺伝的に区別しうる集団だった
→北方集団と東南アジア集団

・日本への渡来の起源
→内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部に流れる西遼河流域の雑穀農耕民の古代ゲノムには
日本や韓国の現代人ゲノムとの共通性を見いだせる
→日本語や韓国語の起源地と考えられるが、それ以外との関係はない
→なぜ朝鮮半島の方向だけに拡散したのかは、さらに多くの古代ゲノムが必要
→この集団の動きが弥生時代初期の日本列島への農耕民の流入に(拡散から約2000年後)
→ところが
弥生時代初期の日本列島での農耕の始まりは水田稲作→なぜか?
→この分析には稲作起源地の長江流域の古代ゲノムが入っていないから
長江流域の古代ゲノム解析が進めば日本への複雑な渡来経路が見えてくるはず

・東アジアの大陸部では北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大した
→それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成された

・東南アジアや東アジアの沿岸部では初期拡散定着民と農耕民の混合で
現代人集団が形成された

・1万年前以降に起こった各地の農耕は集団の拡散を促し様々な言語グループを生み出した



第六章「日本列島集団の起源」より

・二重構造モデル説
→縄文時代と弥生時代の人骨の違い
(
旧石器時代に直接来た集団と北東アジアで新石器時代に形質変化してから来た集団の違い)
→現代の北海道アイヌ集団・琉球列島集団と本州四国九州を中心とする集団の違い
(稲作のなかった北海道と、北部九州より稲作が2000年遅かった琉球列島との違い)
→古代ゲノム解析からは単純すぎる説と指摘されている→地域差が大きいから

・縄文時代
→旧石器時代の後半から縄文時代までの形質は連続している
→縄文人のゲノム解析からは現代の東アジア集団とはかけ離れた特徴が見られる
→礼文島の
縄文人からは極北集団に見られる脂肪代謝遺伝子の有利な異常が見られる
→現代日本人でも3割に見られ韓国や中国には殆ど見られないハプログループは縄文人由来
→東南アジアからの初期拡散で北上した中の沿岸集団が縄文人の母体だが均一ではない

・弥生時代
→縄文時代にも農耕はあったので水田稲作農耕より金属器使用を弥生時代の特徴とすべき
→日本では、たまたま同じ時期に入ってきただけ(世界では別のルートで別の時期に)
→稲作農耕は長江中流域から拡散したもので、日本の青銅器の源流は北東アジアのもの
→異なる集団が渡来した?
→長江流域からの稲作農耕民集団と、西遼河から移動中に青銅器文化を得た雑穀農耕民集団が
朝鮮半島経由で別々に渡来した?(長江沿岸部やオホーツクから直接伝播したルートもあった?)
→稲作の東進により縄文人との混合が進んでいったのなら、東に行くほど縄文系ゲノムに
寄った位置になるはずだが、そうはなっていない
→弥生時代の中期以降も各地に多くの渡来があったと想定しないと説明できない
→弥生時代から古墳時代における大陸からの渡来集団の影響を考慮すべき
→ただし古墳時代の人骨は階級の出現によってランダムなサンプルとはなりえない

・琉球列島集団
→旧石器人骨との関係は不明だが、縄文時代以降は日本列島からの集団の移住があった
→7300年前の喜界カルデラ爆発により九州と途絶して独自集団となった
→弥生時代から再び本土の影響を受けグスク時代の南九州からの農耕民流入で加速され現在に至る
→縄文ゲノムが30%残っているのは後の集団の影響が本土よりは小さかったから

・北海道集団
→アイヌ集団は縄文人を基盤にオホーツク文化人の遺伝子を受け取り成立したもの
→縄文ゲノムが70%残っており大陸北方系ゲノムも引き継いでいる
(琉球列島集団には台湾より南のゲノムの影響がないのとは対照的)

・二重構造モデルでは稲作を受け入れた中央と遅れた周辺で形質の違いが生じたと考えるが、
この発想からは、周辺集団と他の地域集団との交流の姿を捉えることはできない

(コラム4より)
・鳥取市青谷上寺地遺跡の32個体の人骨分析(単一遺跡では日本最大規模の分析)
→9割に母系の血縁がなく、すべて現代日本人の範疇に入るものだった
→しかも縄文遺伝子が強い者から大陸遺伝子が強い者まで様々だった
→長く維持された村落だと同族婚が増えて核ゲノムも似たものになるはず
→木製容器や管玉の生産も考えると流入や離散を繰り返す古代都市だった可能性が高い
→多数の創傷もあるが解体痕もあり戦闘被害者だけではなかった可能性がある
→死亡時期は放射性炭素年代測定法により2世紀の後半と判明している
→2世紀の後半は複数の史書にある「倭国大乱」の時期
→混乱した社会状況を示す代表的な遺跡といえる

2023年12月追記です
フロンティア第1回「日本人とは何者なのか」という番組で、著者らが語っておられたのは、
①縄文人は
4~5万年前にアフリカからアジアにはじめて到着し、その後の農耕民の進出で、
東南アジアではほぼ消滅した(
タイのマニ族に近い)古いホアビニアン文化を持つ狩猟採集民で、
東アジアでは存在しないDNAの集団
→その
一部が東南アジアから沿岸沿いを北上、当時は寒冷期で今より100m以上も海面が低く、
大陸と陸続きだった日本にやってきた
→その後の海進により孤立し、1万年以上も他集団と混交せず発展した世界でも稀な集団
→日本にやってきた集団は1000人→今の日本人は1億人以上

②弥生人は、3000年前の北東アジアから稲作と金属器を
(別々に?)持ってきた(別々の?)集団と
縄文人との混交集団
(日本人はこの二重構造と考えられてきたが古墳人DNA
の6割以上は別物なので三重構造)

③古墳人(庶民)は、戦乱が続いていた東アジアの様々な地域から様々な時代の様々な地域に
1000年~1500年間に渡り(おそらく中世まで)流入した様々な集団と縄文弥生人との混交集団
→今の日本人よりはるかに
DNA・文化・言語など多様性のある集団で錯綜していたはず
→なので今後(科博に)予算があれば、最も研究したいのが古墳人(庶民)のDNA
→東ユーラシアのあらゆる集団のDNAが古墳人を形成していたかも知れないから・・・



第七章「新大陸アメリカへ」より

・アメリカ大陸はホモ・サピエンスが最後に到達した大陸
→これまではベーリング陸橋からアラスカの無氷回廊をとおり拡散したと考えられてきた
→13000年前から3度の移住がありクロヴィス文化などが形成されたと・・・
→ところが南米最南端で
クロヴィス文化より古い遺跡が発見された
→無氷回廊も寒冷すぎるので現在では海沿いのルートで移動したと考えられている

・新大陸の先住民の共通祖先はすべて24000年前だった
→アジアの同一系統の共通祖先はさらに数千年前で、進出した初期集団は5000人未満
→その後、爆発的に人口を増やした状況が明らかになった(略)

・2014年にバイカル湖周辺の古人骨の核ゲノム解析が行われた
→新大陸の先住民にも共有されていることが判明した
→東アジア集団からの分離ではなくユーラシア西部集団との共通遺伝子
(それまでヨーロッパ人の遺伝子はコロンブス以降の混血と考えられていた)

・北米では、さらに古い人類の痕跡も報告されている
→現在の先住民とは別系統のホモ・サピエンスがいたのかも?



終章「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」より

・ゴーギャンがこのタイトルの大作を描いたのは19世紀の終わり
→ネアンデルタール人の化石に続きジャワ原人の化石が発見された時期
→直近10年の古代ゲノム解析で化石だけでは知れなかった事実が明らかになっている

・19世紀前半にヨーロッパとは異なる人類集団の研究が始まった→「人種」という概念
→20世紀後半の遺伝学研究で人種は連続しており区分できないことが明確になった

・種の定義を「自由に交配し生殖能力のある子孫を残す集団」とする考え方
→これに時間軸を入れると
旧人や原人も同じ種になるので、便宜上分けているだけ
→種の下位としての「人種」という概念は、さらに生物学的な実体のないもの

・現代のヨーロッパ人・東アジア人・アフリカ人のSNP分析は明確に区分できるように見える
→それに様々な地域集団の
SNP分析を加えると、どこにも境界がないことが見えてくる
→人為的な基準を導入しない限り「人種」を定義することは不可能

・同じ集団の中の個人間の遺伝子の違いのほうが、集団間の遺伝子の違いよりはるかに大きい
→もともと
ホモ・サピエンス遺伝子の99.9%は共通で、残りが個人あるいは集団の違い
→この0.1%を研究し、個人あるいは集団の違いを明らかにしているだけ
→違いの原因となる変異があるのは事実だが、大部分は交配集団に生まれるランダムな変化で、
→基本的な能力の違いを表すものではない→このことが結果を理解する上で重要

・ある環境下で有利あるいは不利になる遺伝子の違いがあることも事実
→特定の集団にだけ有利な遺伝子が共有されていることもあり、これが集団優劣の根拠だが、
→集団の持つ遺伝子構成は時間で大きく変化するので、集団優劣に意味はない

・0.1%の違いで人の優劣を決める能力主義か、99.9%の共通性を重視する平等主義か
→現実の社会は違いのほうに価値を持たせ過ぎているように思える・・・

・遺伝子の流れを糸にたとえると・・・
→それぞれの個人はホモ・サピエンスという巨大なネットを構成する結び目のひとつ
→様々な色があるが全体を構成する要素では個々の色ではなく「結び目があること」が重要
→個人はネットを構成する上では等しい価値を持っている

・言語や宗教など文化的な違いによって定義される「民族」に生物学的な基礎はあるか
→ゲノム解析により地域集団の成立は古いものでも数千年前と判明した
→人類集団は6万年の間に集合と離散を繰り返しているので時間軸では1割程度の長さ
→他集団との混合を経ない集団を「純粋な民族」としても
数千年レベルでしか存在しない
(例・漢民族は5000年前から北東と南部の3集団が緩慢に融合する過程から生み出された概念で、
今もそのプロセスは続いている→遺伝的にまとまった集団ではない)
→今後も他の地域集団との混合は進み「民族」は
生物学的な実態を失っていく
→民族と遺伝子を混同した議論は、さらに意味のないものになっていく

・現在の研究対象は(民族ではなく)地域の集団で3世代程度までの人々の集合
→遺伝的な特徴はこのレベルでの時代幅で議論されているもの
このレベルでも疫病や戦争で変化しており異なる集団になっていることも多い
→数千年前から16世紀までは遺伝的な特徴をあまり変えずに存続してきた
→その後の変化は加速しており日本列島も例外ではない

・ヨーロッパ北方では青銅器時代以降に集団の交代に近い変化があった
→日本でも縄文時代から弥生・古墳時代にかけて大規模な遺伝的変化があった
→弥生時代にクニができた→その時代にクニという体制を持った集団が渡来したということ
→文化だけ取り入れるパターン、集団間で混血するパターン、集団が置換するパターン・・・
→文化の変遷と集団の遺伝的な変化との関係は様々でケースバイケース
→普遍的な法則は見出されていないが両者の関係が明らかになれば新たな解釈が生まれるはず

・人類集団の起源と拡散
→現時点ではホモ・サピエンス誕生の経緯と出アフリカ後の初期拡散状況の再現の研究
→将来的に数百体レベルでネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解析ができれば、
ホモ・サピエンス特有のゲノムが明確になり「私たちは何者か」の答えが出る
→化石記録が貧弱で不明だった6~2万年前の初期拡散状況もゲノム解析でシナリオができた
→特に気温の低い高緯度地域では詳しい分析が可能になり精度の高いものになってきている
→今後は低緯度地域で変性の進んだDNAデータを取り出す技術革新の進展がカギ・・・

・古代ゲノム研究の意義
→現在の歴史教科書は「アフリカでの人類の誕生」から、いきなり「四大文明の発展」に跳ぶ
→人類の道のりを通史として捉えることのない、このような記述に欠けているのは、
→「世界に展開したホモ・サピエンスは遺伝的にはほぼ均一な集団だった」という視点と、
→「文化は同じ起源から生まれ、文明の違いは環境や経緯と人々の選択の結果」という認識

・古代ゲノム研究は、その地に人類が到達した時点から現在までを通史として明らかにする
→その地の人骨さえそろえば、集団成立のシナリオを提供できる
→歴史や文明に対する認識も必然的に変えていくのが古代ゲノム研究・・・



「おわりに」より

・本書は2021年現在の情報によるもので今後の研究次第で異なるシナリオになる可能性もある

・2010年以降は次世代シークエンサの実用化により核ゲノムが取り扱えるようになったが、
→共同研究と巨額資金が必要で大部分はビッグラボといわれる世界で十指もない施設による研究
→考古学や形質人類学などのデータが抜け落ちる危険性もある→共同研究の重要性
→たとえば東アジア古代集団と渡来系弥生人との関係はドイツ・韓国の研究者との共同研究

古代ゲノム研究は最新成果を常に把握していないとついていけなくなる分野
→なので著者が読みためた論文メモを地域別に再構成したのが本書

・・・

古代ゲノム研究・・・よくわからないけど、じつに興味深い分野でした・・・



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2023年09月12日

住吉公園と住吉さんと謎の・・・

とーとつですが・・・

前回記事のヤマト王権とも関連がある・・・かも知れない・・・

「住吉公園と住吉さん~住吉大社から生まれて150年~」のご紹介であります

今回は読後メモだけでなく綿密な?現地調査も行い、本邦初公開かもの貴重な画像?も撮影、
謎についても記事の
末尾に掲載してますので、ぜひ最後までご覧くださいね


本の表紙

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奥付

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今月7日の発行、まさに最新刊であります




執筆者一覧

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例によって目次のみの紹介

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目次が住吉大社の太鼓橋になってました

以下、わたくしが興味を持った部分のランダムなメモで、(カッコ内)は感想なり補足です

・明治6年(1873年)1月の
太政官府達(3府へ)により8月に住吉大社の全域を公園地に指定
→9月に規則を制定して開設(12月には浜寺公園も開設)→大阪府で最初の公園となった
→明治8年10月には境内地、民有地、公園地に分けられた

・住吉大社周辺は江戸時代から紀州街道沿いに料亭が並ぶ繁華街だったが、明治時代になり
移動手段が駕籠から鉄道や人力車になって街道沿いは衰退、逆に公園内が有楽地になった
→温泉(潮湯)旅館、茶店、料理茶屋、料亭などが75軒もひしめく大歓楽街に・・・
(もともと住吉あたりの海岸は潮干狩の名所でもありアウトドア宴会や舟遊び、住吉大社への
参詣名目でインドア宴会を楽しむ、関西の大リゾート地だったのでありますね)

・公園内に仲居、芸妓、ヤトナなどが出入りして風紀が大いに乱れた
→大正11年(1922年)には公園の隣接地に芸妓指定地を定めた
→大正13年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えた
大正11年に公園の西側に住𠮷新地が指定され、昭和9年には芸妓指定地からも移転した
→その後、住𠮷新地は戦災を経て再開したが昭和33年に(売春防止法施行・赤線廃止により)
花街としての活動は消滅した
(わたくしが小学生の頃の住𠮷新地には、いかにも遊郭らしい雰囲気を残した木造建物が、
ビジネス旅館などになってはいたものの、まだまだ残ってました)


・明治18年(1885年)に阪堺鉄道(現・南海本線)が開通した
→開業当初は難波から大和川の北岸までの蒸気機関車による運行
開業当初の停車場は難波・天下茶屋・住吉・大和川の4駅
蒸気機関車の駅間は8km以上が効率的だったが沿線に人口が多く3km程度にした
→それでも不便だったので電化後は次々と駅が追加され、新しい粉浜駅と住吉公園駅の
中間にあった、
開業当初の住吉駅は1917年に廃止された
(この100年前に廃止された住吉駅の痕跡を今回探りました)
(住吉公園駅は1979年に住吉大社駅に名称変更したけど昔は公園がメインだったんですね)

・住之江公園との関係
→大正9年(1920年)東京市から和歌山に至る国道(1号線経由)が路線認定される
(当初の路線名は国道16号線で後に国道26号線に名称変更)
→住吉公園が南海と国道で3つに分断されるので分断部分を払下げ、その資金も使って
新公園を建設し、その間を公園道路で結ぶことに
→住之江公園は昭和5年(1930年)に竣工したが公園道路は当初は高燈籠までだった
(この道路の園内部分を材木川と思い込んでたのを今回、現地で確認した次第です)
(住之江公園まで今は普通の道路で、替わりに?細井川・住吉川の一部が遊歩道になり、
本来の公園道路から住之江公園へ渡る橋だけが人道橋になってますね)

・住吉公園の児童遊園
→戦時中は高射砲陣地、鉄類回収、農園化、樹木の燃料化などで荒廃した
→戦後に電気自転車・電気自動車・メリーパーク・メリーロード・オーシャンウェーブなど
当時の日本では考えられない遊具が整備されており米駐留軍の関与が考えられるが詳細は不明
(この
オーシャンウェーブ、三角錐のジャングルジムのようなものが中央の鉄塔に吊るして
ある感じの画像がありましたが、わたくしがよく覚えてるのは同じ位置にあった後継機種で、
球体のジャングルジムが中央鉄塔を芯にして、けっこう高速回転するタイプでした
中に乗るか、外で漕ぐ(回す)か、一人なら外で漕いでから乗り込むのですが、数人でめいっぱい
漕ぐ(回す)と、外で鉄棒に掴まってると身体が水平になって、やがて遠くへ飛ばされるし、
中に乗ってても、やがては放り出されるので、どこまで耐えられるかを競い合うとゆー、
まるで宇宙飛行士の訓練のような、低学年には極めて危険な遊具でした)

・住吉の松
→古来の歌学では「
住吉の松」は歌枕とされ神聖視されていた
→古来の絵画では白砂青松風景は「住吉模様」と呼ばれ日本の風景の原型とされた
→「あられ松原」は上町台地沿いの海岸線の松林

→「住吉の岸の姫松」は和歌や文学の世界で神格化された
姫松一帯は住吉大社の飛地境内として保存されていたが明治以降に南部は民有地になり、
北部は保安林→クボタ創業家の邸宅→晴明丘南小学校になっている地域
→一帯の東端に上町線「姫松」停留所が設けられ住吉高校前などにも痕跡が残る

・住吉太神宮秘記(中世の説話で記紀とは異なる
住吉大神の鎮座伝承)
→10代崇神天皇が「津守の浦に天より光が射す」夢を見て使者を遣わして確認したところ、
一晩のうちに松が三本生えており、これこそ住吉大神の降臨した松であると神木として崇めた
→影向(ようごう)の松、相生の松→松への憧憬と住吉信仰→謡曲高砂などへ
・上町線「神ノ木」停留所も神職の祖先を祀った神木の老松に由来している

・平安時代には天満砂州ができ松も生えたが平安前期までは「浜」ではなく「岸」だった
→すみのえの岸による波よるさへや→上町台地の古代の崖にふさわしい表現
→新古今集など鎌倉時代に近づくと「浜」の歌ばかりになる

・難波津からは難波大道、磯歯津道を経て、住吉津からは
磯歯津道を経て奈良の都へ
→古代の海岸線では住吉津が重要だった
(伝承では住吉海神が住吉の津に祀られたのは、纏向でのヤマト王権成立とほぼ同時期、
倭国の北九州の津と山口の津に祀られていた
海神が東遷したとすれば・・・わくわく)

・明治4年(1871年)住吉神宮寺の堂塔徹却(神仏分離・廃仏毀釈)
(その後も広大な神宮寺跡は長年放置されていたようで、池泉回遊式の壮大な庭園跡などは、
わたくしが
中学生の頃まで石組みが残ってて、よく戦争ごっことかで遊んでました)

云々・・・

ご近所の古い神社と公園つーこともあり興味津々、全編を大いに楽しみました
公園史・鉄道史・行楽史などに興味のある方にもオススメの一冊です


つーことで・・・

この本にも記載されてて、以前から知りたかった材木川と住吉駅の痕跡について、今回、
綿密なる???現地調査をしてきましたので、ご報告をば・・・

・住吉公園は東を南海本線、西を国道26号線、南を細井川(細江川)、北を材木川に囲まれた範囲

・わたくしは公園内の北部を通る道路が材木川の跡だと思い込んでたのですが、本書によれば、
この道路は住吉公園と住之江公園とを結ぶ「公園道路」として戦前に整備されたもので、
材木川は戦後も川として存在していた、とのことでした

・わたくしには全く川の記憶がなかったので、ほぼ同世代の粉浜商店街のK田さんに訊けば、
→昔は商店街の南端に幅2mほどのドブ川が流れていて、そこに石橋が架かっていた
→大雨の後は危ないので橋を渡ってはならないと、よく親から言われていた
→そのドブ川も石橋も、いつの間にかなくなっていた
→商店街から東(上流)には川の記憶がなく鉄道敷だったので、昔から暗渠だったのではないか
・・・とのことでした
(K田さんの記憶復活により9.13追記修正です)
・小学6年の自主研究で「住吉公園駅の踏切について」調べており、駅の北端(商店街の南端)
にあったドブ川は、線路の下を東西に流れていたことを思い出した
・第2室戸台風で氾濫していたので、少なくとも中学生の頃までは存在していたはず
・・・とのことでした
(わたくしは古い地図から線路の手前で北上していたと思ってましたが、はてさて・・・)

つーことで・・・

こちらが住吉公園の汐掛道から西へ出た国道26号線の交差点で、左が移転再建された高燈籠

P9094042

ひとつ先の右折待ちしている交差点から右(東)が材木川だと思ってましたが、川跡にしては
西側に全く痕跡がないのが不思議と悩んでたのですが、もうひとつ北にある・・・



P9094041

姫路ラー麺「ずんどう屋」駐車場の向かいあたりから東へ入る狭い道路が・・・



P9094040

ぐねぐねと曲がってて、いかにも川筋の跡らしい道路です
しかも、この道路は26号線から西にも十三間堀川(今は阪神高速)まで続いてました


この道路を東(上流)へ進んで・・・

P9094046

このあたりが公園内道路と最も近い部分で、ここにも石橋が架かっていたとのこと



で、こちらが公園内から見た様子

P9094043

中央は材木川に架かっていた石橋の親柱でしょうが、今は公園内道路の内側にあります
本来は緑色のフェンスあたりにあったのでしょうが、わたくしは、この親柱の位置から
横断歩道のある道路が材木川だったと思い込んでいたようです


せっかくなので、さらに上流部へ・・・

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左が材木川だった道路、右が公園内道路



P9094048

いかにも川筋らしい曲がり方です
(公園内道路も同じように曲がってるので紛らわしいのですが・・・)
中央下に見える集水桝は地下にある材木川へ繋がっているのでしょう


さらに進み、こちらが粉浜商店街の南端部

P9094049

ここにも左右(南北)に石橋が架かってて、その先からは南海本線(現在は高架)に沿う形に
なるので、昔から暗渠だったのではないか、とのことでした
(追記修正→少なくとも第2室戸台風までは線路の下を東西に流れていたとも・・・)


こちらが粉浜商店街側・・・

IMG_20230912_092121


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こちらが材木川の上流側

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古い地図では材木川はここからしばらく南海本線に沿う形で北上してるので・・・
(追記→線路の下を東西に流れていたとの記憶も・・・)

IMG_20230912_092311

このあたりを流れていたことになるはずです
(追記→上記の記憶どおりなら線路の下を東に潜ってから北上してたことになります)
(右が南海本線の高架下、左が粉浜商店街東側店舗の裏です)


ともかく、これで長年の疑問のひとつが解決しました
粉浜商店街のK田さん、ありがとうございました


(9月23日さらに材木川についての追記)

住吉大社の北隣、一運寺の前にあった案内板に本日気づきました

IMG_20230923_飛鳥への小道

飛鳥への小径・・・住吉津から飛鳥へと続く古代の磯歯津路であります
ま、住吉大社あたりには何本もの古い小径があって、どの小径からも遺物が出てくるので、
未だに
最古の磯歯津路は特定されていないようですが・・・


で、説明文にあった、なお書き以下の部分・・・

IMG_20230923_材木川由来

そう、一運寺の北側に沿った道は、もともと
万代池から十三間(堀)川に流れる地溝だった!!!
で、
1802年に住吉大社が焼失した際に、地溝を開削して再建のための材木を運んだことから、
材木川とも言われるようになったと!!!

そうだったのか、これで名前の由来についても上流部についても判明・・・とはいいつつ・・・

万代池から十三間(堀)川まで流れていたとなると・・・
①水の出入りのない池と言われてきた万代池から流れ出る川(地溝)があった?
②一運寺の北沿いから阪堺・上町線あたりまでは川筋を想像できるけど、さらに上流側、
万代池までの川筋(地溝)はどこを流れていたのか?
③逆に一運寺から下流側、粉浜商店街の南端までの川筋はどこ
を流れていたのか?

(9月24日、さらさらに万代池の近くに住む古老の証言による追記)
①万代池の南東に大領池(東池と西池で今は病院と公園)があり万代池と繋がっていた
②大雨でも各池が溢れることはなく、流れ出る川(地溝)はあったはず
とのことでした

(9月29日、さらさらさらにK田さん同級生のK浦さんに案内いただいての追記)
「今も南海本線から東に延びる川筋は残っている」とのことで現地案内いただきました

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こちらが粉浜商店街の南端から東へ向かう材木川の川筋跡



IMG_20230929_101936

先には南海本線の高架下を横切るかたちで道があります



IMG_20230929_102001

その先は民有地になってるのですが、右側にある・・・




IMG_20230929_102036

阪堺・上町線の住吉公園駅への延伸線跡地の先に道が続いています


で、ここには、

IMG_20230929_102059

延伸線跡を横切るかたちでグレーチングが並べてあり・・・



その下には・・・

IMG_20230929_102234

はっきりと古い川筋跡がありました!!!
さらに地上駅の北側にあった地下道は大雨の際にはいつも冠水してたとのことでしたから、
材木川は南海本線、上町線を潜って東に延びていたことが確認できました!!!

K田さんの同級生のK浦さん、現地案内までありがとうございました

もちろん、その先に見えるのは・・・

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紀州街道と住吉大社であります



紀州街道を渡れば住吉大社の側溝(掘割)に合流・・・

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排水溝のような石組みもありますが一運寺からの流れを考えると・・・



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このあたりまでは北上していたはず・・・


でも、ここから先は・・・

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北や東や北東へ至る道が何本もあって、どの道が川筋跡なのかは特定できませんでした



大海神社へ上る石段下にあった・・・

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この道と北へ向かう空き地も怪しいし・・・


さらに一運寺の北側を流れてきて・・・

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上町台地からの急坂を、どのように流れていたのか・・・

と、さらにさらに興味は尽きなくなったのですが・・・



もうひとつの疑問だった・・・

・後にできた粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の間にあって100年前に廃止された住吉駅
についても、駅の痕跡が分かる場所があると、K田さんから教えていただきました
今は知る人も少ないとのことでしたので、廃線好きには貴重な画像かもです


左が南海本線の高架下で、南から北へ南海本線東側の道路を撮ったもの

P9094051

粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の中間あたり、この部分だけ道路が盛り上がってます



そう、

P9094052

ここが開業当初の住吉駅の駅舎とホームがあった場所だそうで、線路跡にできた駐車場や、
その西側の粉浜商店街とは、このあたりだけ0.5m~1mほど高くなってました


で、こちらがウィキペディアにあった住吉駅の古写真・・・

Sumiyoshi_Hankai

単線で片側だったはずの駅舎とホームの部分を、客車の乗降口に合わせ
盛土してるように
見えますので、この古写真が住𠮷駅の南東から北西に向けて撮影されたものだとすると、
駅のあった場所は、ここで間違いないでしょう

この付近には紀州街道や住吉大社へ抜ける狭い旧道が何本も残っているのですが、
おそらく人口の多かった旧村の最寄に最初の参詣駅ができたからなんでしょうね

それにしても・・・
100年以上も前に廃止された駅の痕跡が、今も道路の高低差として残っているなんて・・・
確かに地元でも、今は知る人は少ないのかも知れません
ええ、わたくしも知らなかったし、とても貴重な情報でした

と・・・

これで長年の疑問のうち二つが解決したので、まずはめでたしめでたし・・・

ただまあ・・・
・上町線が最初に高野線を跨いだのはいつだったのか???馬車時代か電車時代か???
・上町線開業時の終点、上住吉(神ノ木)停留所はどこにあったのか???地上か高架上か???
とゆー長年の疑問は謎のままですので、ご存知の方があればコメントをお願いします
(2024年2月追記です)
Facebookで教えてもらったブログサイトに詳しく書かれてて長年の疑問がようやく解決し、
上記リンク記事の末尾に追記しました!!!


m98k at 12:00|PermalinkComments(0) mixiチェック