サバイバル
2023年12月29日
戦前の正体
ええ、もうすぐお正月なので日本神話をおさらい・・・
そう、戦前の正体~愛国と神話の日本近現代史~とゆー本のご紹介であります
著者によれば、
・この本で日本神話と国威発揚との関係を通じて戦前の正体に迫りたい
・神話に大胆な解釈をして利用していた戦前の物語の欠点はいくらでも指摘できるが、
それで植民地化の危機を乗り越えたのだから、一定の評価はすべき
・ただし、それを神聖不可侵にしてしまうとベタになる危険がある
・実証なき物語は妄想だが物語なき実証は空虚であり、今後の新しい国民的物語にも
曖昧さを取り込むべき
とのことで、右派でも左派でもない、この観点がわりと抵抗なく入ってきました
日本神話についても俯瞰的に理解できて、なかなか興味深く読めた一冊でした
表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
例によって目次の紹介
以下、ますます容量が少なくなってきたわたくしの脳の外部記憶のための読書メモで、
おそらく誤解等もありますので、興味を持たれた方には本書の熟読をオススメします
はじめにより
・戦前は明治維新から敗戦までで77年、戦後も2022年までで77年
→いま「戦前の物語」は中途半端な形で語られている
→「戦前」という言葉はたやすく使われるが、かえってイメージを曖昧にしている
・例として「安倍晋三は東条英機のような独裁者で戦前回帰だ」という批判について
→戦前の憲法下では首相に権限が集中しにくく軍部の独走を許し東条も苦慮しており、
自らの様々な兼任により権限を集めようとしたので独裁者と呼ばれた
→それでも戦時中に首相の座を追われている
→戦後は戦時下の反省もあって首相に様々な権限が集約されている
→なので、この傾向を戦前回帰と呼ぶのはあまりにも倒錯している
・安倍元首相の「美しい日本を取り戻す」も戦前回帰といわれたが中味は戦前だけでなく寄せ集め
→左派が政権批判で使う「戦前」も、その暗黒部分だけをかき集めて煮詰めたもの
・いまの右派・左派の使う「戦前」は、それぞれの願望の産物なので議論が噛み合わないのは当然
→神話と国威発揚との関係を通じて戦前の正体に迫りたい
第1章より
・神武天皇は幕末に急に思い出された
(江戸時代までの京都御所仏壇の位牌は天智天皇からで、陵の制定も橿原神宮も明治以降)
・明治維新は英語ではRestoration(王政復古)と訳されRevolution(革命)ではない→原点回帰
→回帰する原点を平安とかではなく神武にすれば政治体制などの記録がないので好都合だった
→白紙状態だから「これが神武創業だ」といえば西洋化でも藩閥政治でも何でもできるから
・服制改革(洋服化)も「神武・神功の武の伝統風姿に戻る」と布告
→最も武に優れているのは西洋なので洋服化は伝統というロジック
・紀年も時系列把握が難しい元号と(西暦より660年古く都合のいい)神武天皇即位紀元(皇紀)の併用に
・徴兵令も「神武時代は国民皆兵で武士時代がイレギュラー」とする中世キャンセル史観で説明
(今も「夫婦同姓こそ本来の日本の姿」とかの押しつけがあるが多くは明治以降に一般化したもの)
・右派も左派も「本来の姿に帰れ」という原点回帰のロジックには弱いので警戒心が必要
(神社参道の真ん中を歩くのは伝統に反するとか、これが本来のマルクスの共産主義だとか)
・軍人勅諭、金鵄勲章、八咫烏なども同様(略)
・神武天皇像と明治天皇の御真影
→御真影はイタリア人銅版画家が記憶をもとに西洋人風に描いたものを日本人写真師が撮ったもの
(猪瀬直樹「ミカドの肖像」より→明治天皇が写真嫌いだったので複雑な方法になった)
→その御真影をもとに最初の神武天皇像が作られた→西洋化こそ古代回帰というロジック
・ローマ支配以降ナショナリズムに目覚めたヨーロッパ各国でも古代の英雄(首長や族長)を讃えた
→ローマの史書では端役・敵役だった人物が重要に→読み替えが不要だったのはイタリア人ぐらい
→同様に徳川幕府(陣中幕の中の大将軍)に対抗できる古代の英雄が必要だった
→明治天皇=神武天皇としたのは世界史的な流れでもある
・各地の神武天皇像の変遷(略)
・実在しなかった(あるいは神話上の存在だった)からこそ、新政府にとって都合がよかった
→仮に実在していたら紀元前になるので、その実態はかなりわびしいはず
→神武天皇に大きな夢を抱く実在論者ほど、神武天皇の実在は不都合になる
第2章より
・北畠親房の神皇正統記→万世一系の天皇
→中国の易姓革命は新王朝の支配を正当化するロジック
→これを学び、王朝が変わっていない日本こそが世界一の高徳の国とした
→幕末の後期水戸学→明治の教育勅語→昭和の国体の本義へ
→現在の右派が男系男子にこだわり夫婦別姓に反対する理由にもなっている
・井上毅の教育勅語
→原文は難しく戦後は解釈が歪められているが構造を把握すれば忠と孝の4者関係(略)
→根底は君臣関係と国体の擁護(略)
・井上毅の明治憲法→「しらす」と「うしはぐ」(略)
・井上毅の皇室典範→典憲二元体制(略)
・井上毅の女子天皇・女系天皇の排除→別の王朝になるから(略)
・井上毅の立憲主義と内村鑑三不敬事件など→国体論の実践は「しらす」とはいかなかった(略)
・1937年発行の「国体の本義」では家族国家を強調した→個人主義の否定へ(略)
・平成天皇の武力や威嚇のない「しらす」は圧倒的な国民の支持を集めたが、象徴天皇制だからこそか
→天皇の君徳のみならず皇后の影響、平和で豊かな時代でインフラが発達していたことも大きい
→「国体のミクロ化」の自覚のためにも国体論の系譜(略)を知っておくべき・・・
第3章より
・神功皇后
→14代仲哀天皇の皇后で息子の15代応神天皇が即位するまで69年間政務を担った
→日本書紀の記述では、
→熊襲などを平定し妊娠中に新羅へ出兵、百済、高句麗も服属させ帰国して応神天皇を出産
→比類なき対外戦争指導者として北条時宗、豊臣秀吉と並び称されるようになった
→明治までは無名だった神武天皇より馴染みのある存在だった
→なので、はじめての政府紙幣、公債、切手にも肖像が使われた
→日清戦争後あたりから使われなくなった
→以後は他の軍神も多数登場し、女性は家を守る存在とされるようになったから
・北白川宮能久親王や孫の永久王とヤマトタケル(略)
・東京招魂社→靖国神社へ→神社の序列化へ→各藩の招魂社は護国神社となった
→招魂社は古来からの御霊信仰で殉難者は敵味方の区別なく慰霊するが、
→靖国神社はまず敵を排除、味方も立場や最期が厳しく審査され天皇の許可を得て合祀された
→西郷隆盛など賊軍以外でも乃木希典は殉死、東郷平八郎は病死で合祀されず別の神社の祭神に
・聖武天皇の宣命・大伴家持の長歌(万葉集)→「海ゆかば」→祭文や軍歌として蘇った(略)
・敗戦により外地の皇族軍人を祀る神社がなくなった
→1959年に靖国神社に合祀されたが本来は全く別の存在
→戦前は天皇・皇族・臣下は厳密にわけられていた(教育勅語でも明確に区別されている)
→これが大日本帝国の価値観
・戦前の国家神道のイメージ
→戦前は政府が神社を管理し国民を教化・煽動していたイメージがあるが、
→実際には明治時代のみで部局も三流、明治半ばには神職も官吏ではなくなり予算も少なかった
→神道の国教化は早くに断念され、神社神道は国家に特別扱いされるかわりに、
信教の自由に抵触しないよう「宗教ではなく国民的な道徳・倫理」とされた
(国家神道という言葉は戦後のGHQ指令によって広まったもの)
→神道・神話の影響が大きかったのは政府に便乗する企業や民衆の自発的な消費があったから
・「戦前」には1930年代後半以降の総力戦体制下のイメージが強いが戦前も77年あった
→靖国神社ではサーカス興業が名物だった→厳粛になるのは1930年代後半から
→忠魂碑など「下からの参加」の痕跡は他の神社にも残っている
→多くの神社は戦前と深く関わっており記念碑や顕彰碑は数知れない
→そのような神社に参拝しただけで軍国主義者と決めつけるのか
(2023年元旦に東京乃木神社に参拝した立憲民主党・泉健太代表への批判殺到など)
・歴史は都合よく切り離せるものではなく一部だけ切り出して戦前戦前と騒いでも意味はない
→先祖代々という物語で戦争に駆り立てることが問題なのである
第4章より
・超国家主義と日本神話
→日本神話は三層構造で天上の高天原、地上の中つ国、地下の黄泉の国の世界(略)
→高天原アマテラスの孫ニニギの(オオクニヌシが支配していた)中つ国への天孫降臨(国譲り)
→ニニギの子孫は南九州を拠点に中つ国を統治した
→曾孫のイワレヒコが国の中心に近い大和へ瀬戸内海を東進、橿原宮で神武天皇に即位した(神武東征)
→12代景行天皇の子ヤマトタケルが東西の荒ぶる神々や民を服属させ伊吹山の神の討伐に失敗し伊勢で病没
→14代仲哀天皇も熊襲の討伐中に病没、神功皇后が新羅・百済・高句麗まで服属させた(三韓征伐)
→国譲り以前の部分に近代のオカルト的な思想や超国家主義の根拠がある(略)
・国学者・平田篤胤の世界観(略)
・弟子・佐藤信淵(東京の名付け親)の世界征服プラン(略)
・天地開闢とイザナキ・イザナミ、アマテラスとスサノオ、オオクニニシの国土経営(略)
・神話を引用した言葉(○○景気や三種の神器など)が使われなくなったのは神話の教養が失われているから
・平田も佐藤も記紀を使い分けた大胆な解釈で、日本は世界の祖国で天皇は世界の大君とした
→ただし平田派は明治の早い時期に放逐されたし佐藤も有名ではなかった
→昭和戦前期の膨張時代に遡及的に発見されたもの
→それが戦後になって侵略思想の根拠であるかのように批判されたに過ぎない
→記紀を用いた大胆な解釈があったことが重要で、また騙されないためのワクチンとして超国家主義的な
思想に触れておく必要がある
・木村鷹太郎の「世界的研究に基づける日本太古史」
→バイロン紹介、プラトン全集初翻訳などの偉業で知られ論壇ではキムタカと呼ばれ恐れられた
→記紀は島国の神話ではなく世界の神話だとした(めっちゃ面白かったけど略)
・昭和に入ってから軍人たちの人気を集めた竹内巨麿の「竹内文献」
→日本書紀の「ニニギの天孫降臨より神武東征まで179万2470年」という記載を事実とした解釈
→神武の前に97代の天皇が存在し世界人類(五色人)を作ったが天変地異で崩壊、その後に即位したのが神武で・・・
(初代が神代文字や万国地図を作ったのは100億10万歳の出来事とか、めっちゃ面白かったけど略)
→1928年の古代記録の開封に立ち会ったのは公爵、陸海軍の将官、宮内庁事務官で半数が高級軍人だった
→1930年には不敬罪などで検挙されたが軍人には深く取り入っており1944年に無罪になった
・古史古伝は上記(うえつふみ)や富士古文書など多数存在し林房雄など専門的知見を持つ者も肯定していた
・海道東征の翌年に北原白秋と山田耕筰が作った「大陸の黎明(しののめ)」(略)
→神話を十分に理解していないと意味が理解できないが、日本神話と軍事侵攻を結合させたもので、
記紀神話を独創的に解釈してきた先人につらなるもの
・天皇は神聖不可侵と義務教育で教える顕教と、天皇は統治のための機関と帝国大学で教える密教の使い分け
→神話についても同様で、義務教育では事実として教えられてたが指導者たちには統治のための方便
→表向き神話が事実なら、その世界を語らずにつまみ食いする指導者は顕教により密教討伐すべきとなる
→神話国家の大日本帝国は想像力に飲み込まれやすい構造的な欠陥を抱えていたのではないか
・世界制覇などは弱小だった明治国家には妄想だったが、列強になった昭和国家では現実と勘違いされた
→やがて政府が八紘一宇を掲げるようになると神話的想像力はさらに大きく盛り上がった
第5章より
・紀元2600年式典
→カンタータ海道東征は八紘一宇でしめくくられる
→同年7月に成立した第二次近衛内閣は八紘一宇を国是として大東亜の新秩序を宣言した
→11月に宮崎県に八紘一宇の塔が完成し翌年にかけ神武天皇に関する記念碑が西日本中心に建てられた
→宮崎県には皇軍発祥之地と海軍発祥之地の記念碑も建てられた
→神武天皇の東征ルートを国が認定し19ヶ所が聖蹟と認められ記念碑が建てられた(略)
・八紘一宇は日蓮主義者・田中智学により1913年3月に造語された
→先行する使用例はあるが後世に影響するのは田中によるもの
→日本書紀にある「八紘を掩ひて宇にせむ」は、せいぜい「東征後の日本は平和的に統治しよう」
ぐらいの意味だったと考えられるが、これが世界統一の話になった
→造語の翌年、智学は立正安国会を国柱会に改め思想普及に努めた
→集まった宮沢賢治など錚々たる人士の中に石川莞爾もいた
・石川莞爾「世界最終戦論」のビジョン
→陸軍内部の権力闘争に敗れて左遷されていた1940年に執筆したもの
→東洋の王道を代表する日本と西洋の覇道を代表するアメリカが最終戦争を戦い永遠の平和に・・・
→(東条英機と対立してたので彼が首相だったらという評価もあるが)智学の世界観に影響されたもの
・智学は陸軍士官学校でも講演していた
→自衛隊でも右派の評論家やジャーナリストが講演しているが穏健な国民の物語が必要
→ことあらば身命を賭す軍人は大きな国家観を欲するので専門家ではなく在野の思想家が求められる
→智学の八紘一宇の思想は荒木貞夫陸相、2.26の青年将校などに普及していく
→愛国行進曲の作詞者も国柱会の会員だったことを筆者は最近知った
・開戦の詔書での戦争目的は詔書の一般論にある「万邦共栄」ではなく「自存自衛」だった
(戦争目的が自国防衛とアジア開放のあいだで分裂していたことはよく指摘されている)
→開戦直後の12月13日に内閣情報局が「戦争目的は大東亜新秩序建設なので大東亜戦争」と発表
→詔書には記されていない八紘一宇を誓うに至った
・明治維新では日本神話は近代化のための口実だった
→昭和戦前期に国民を鼓舞するための素材に変化した
→軍人も文学者も新聞も神話を参照した
→撃ちてし止まむ、神武東征と大東亜戦争の一致など・・・(略)
・三種の神器
→記紀では皇位の象徴とは記されていないが昭和天皇も本気で信じており散逸を心配していた
→当初は終戦の詔書案に入っていたが連合国に詮索されないようにと削除された
→アマテラスがニニギに与えたものが実在するはずがなく重んじられたのも南北朝時代から
・敗戦間際の指導者たちは国体を守ろうと必死で三種の神器も隠そうとした
→国体も三種の神器も近代国家を急造するための方便であり、あえて国家の基礎にすえたもの
→昭和に入り世界恐慌やマルクス主義に向き合う中で神話ネタはベタになった
→国体や三種の神器は天皇や指導者までも拘束した
→ネタを守るために終戦は先延ばしにされ犠牲者が増えた→ネタがベタになることのリスク
第6章より
・いまも武道館の隣にある弥生慰霊堂(もとは弥生神社で警察・消防版の靖国神社)の例
→戦後はGHQの政教分離指令で神社として存続できなくなり慰霊堂として移転・改称した
→いっぽう靖国神社は改称されず神道色も残った
→このような戦前と戦後の境目の曖昧さは数多くある
→高度成長期も続いた1940年体制(総力戦体制)、神社本庁、天皇の地位、儀礼・・・(略)
・戦前の五つの物語
①原点回帰という罠
②特別な国という罠
③祖先より代々という罠
④世界最古という罠
⑤ネタがベタになるという罠
・これらを否定することはたやすいが、そのリスクを受け止め今後どのように紡いでいくか
→物語は虚構だが共同体を形成する上で大きな役割がある
→宗教の否定が醜悪な疑似宗教(個人崇拝など)を生み出している
→物語の否定は劣化コピーを生成させるだけ
→物語は排除されるべきものではなく上書きされるべきものである
・道義国家論(後期水戸学系)と神聖国家論(国学系)
→努力論と宿命論で一方だけでは統治できず循環して混ざり合っていた(略)
・広義の国家神道論(左派に多い)と狭義の国家神道論(右派に多い)
→実証なき物語は妄想だが物語なき実証は空虚なので中間を取ろうというのが筆者の考え
→これまでの議論は上からの統制に注目し過ぎだったのではないか
→企業の時局便乗や民衆のナショナリズムもあり神社参拝もすべてが強制されたものではない
・明治初期の軍歌はエリートが作ったが、民衆のナショナリズムが高揚すると民衆が自発的に作り、
レコード会社はじめ企業が便乗した→下からの参加
→プロパガンダしたい当局と時局で儲けたい企業と戦争の熱狂を楽しみたい消費者の利益共同体
・戦前の神話は当初は上からの統制だったが途中から下からの参加が加わり、国体論という
ネタがベタになり、やがて政府をも拘束するようになった
→この神話国家の興亡こそが戦前の正体
・戦前の物語にあえて点数をつければ65点
→いまは100点を追求し過ぎて脆弱な物語しかない時代
→日本スゴイ史観(右派)は不都合な資料が発掘されるとすぐ瓦解するし、問題点ばかりあげつらう
日本悪玉論(左派)は共産主義の失敗などに目をそらし別の脆弱な物語にしがみつく
・戦前の日本は問題行動もあったが欧米列強の侵略に対抗し近代化・国民化を成し遂げた
→だから過去の誤りを認めながら今後よりよい国をつくっていこう
→こういう立場なら多少不都合な資料が発掘されても動ずることはない
・戦前の物語の欠点はいくらでも指摘できる
→だが、それで植民地化の危機を乗り越えたのだから評価はすべき
→ただし、それを神聖不可侵にしてしまうとベタになる危険があるので65点にした
・今後の新しい国民的物語にも曖昧さを取り込むべきで、そのほうが長く日本の指針となるはず
→戦前とは国民的物語で及第点を出した時代
→それを超克するには教養として大きな枠組みで戦前を知らなければならない
おわりにより
・日本の神話は豊穣で概説するのが難しい
→本書は明治維新から大東亜戦争まで日本の神話がどのように利用されたのかを解説した入門書
→歴史を押えておけば時事ニュースも俯瞰的に眺められる
・例えば明治神宮外苑の再開発問題
→国民の勤労奉仕や献金で整備された経過から公共性があると左派が反対している
(明治神宮の祭神は明治天皇で戦後は宗教法人が管理)
→(明治天皇に殉死した)乃木神社への立憲民主党・泉健太代表の参拝を軍国主義と批判した
左派の人間は、この反対理由をどう受け止めているのか
→整備経過からの公共性をいうなら靖国神社こそ公共的なはず
・明治神宮や靖国神社の公共性とはなんなのか、近代日本はどのような国だったのか・・・
→現代日本の公私を考えるには、そこから根源的に考えなければならない
→これが戦前の正体を押えておかなければならないゆえんである
・コロナ禍で筆者も動画配信に加わった
→原稿に比べると気軽で視聴者からのフィードバックも早く運営資金も調達しやすい
→この動画配信でわかったのは、本を書くことの大切さだった
・動画の時代だからこそ情報を取捨選択し1本の物語に整理する能力が求められているのでは
→その能力がもっとも培われるのが読書や執筆にほかならない
→少なくとも歴史関係の動画のネタ元は書籍しかないのである
云々・・・
まあ、当サイトのネタ元も最近は書籍が多いのですが、それを1本の物語に整理する能力はなく、
自分の脳の外部記憶としてメモしてるだけなんですよね・・・
せめて皆さんは冷静に情報を取捨選択されて良い年を迎えられますように・・・
そう、戦前の正体~愛国と神話の日本近現代史~とゆー本のご紹介であります
著者によれば、
・この本で日本神話と国威発揚との関係を通じて戦前の正体に迫りたい
・神話に大胆な解釈をして利用していた戦前の物語の欠点はいくらでも指摘できるが、
それで植民地化の危機を乗り越えたのだから、一定の評価はすべき
・ただし、それを神聖不可侵にしてしまうとベタになる危険がある
・実証なき物語は妄想だが物語なき実証は空虚であり、今後の新しい国民的物語にも
曖昧さを取り込むべき
とのことで、右派でも左派でもない、この観点がわりと抵抗なく入ってきました
日本神話についても俯瞰的に理解できて、なかなか興味深く読めた一冊でした
表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
例によって目次の紹介
以下、ますます容量が少なくなってきたわたくしの脳の外部記憶のための読書メモで、
おそらく誤解等もありますので、興味を持たれた方には本書の熟読をオススメします
はじめにより
・戦前は明治維新から敗戦までで77年、戦後も2022年までで77年
→いま「戦前の物語」は中途半端な形で語られている
→「戦前」という言葉はたやすく使われるが、かえってイメージを曖昧にしている
・例として「安倍晋三は東条英機のような独裁者で戦前回帰だ」という批判について
→戦前の憲法下では首相に権限が集中しにくく軍部の独走を許し東条も苦慮しており、
自らの様々な兼任により権限を集めようとしたので独裁者と呼ばれた
→それでも戦時中に首相の座を追われている
→戦後は戦時下の反省もあって首相に様々な権限が集約されている
→なので、この傾向を戦前回帰と呼ぶのはあまりにも倒錯している
・安倍元首相の「美しい日本を取り戻す」も戦前回帰といわれたが中味は戦前だけでなく寄せ集め
→左派が政権批判で使う「戦前」も、その暗黒部分だけをかき集めて煮詰めたもの
・いまの右派・左派の使う「戦前」は、それぞれの願望の産物なので議論が噛み合わないのは当然
→神話と国威発揚との関係を通じて戦前の正体に迫りたい
第1章より
・神武天皇は幕末に急に思い出された
(江戸時代までの京都御所仏壇の位牌は天智天皇からで、陵の制定も橿原神宮も明治以降)
・明治維新は英語ではRestoration(王政復古)と訳されRevolution(革命)ではない→原点回帰
→回帰する原点を平安とかではなく神武にすれば政治体制などの記録がないので好都合だった
→白紙状態だから「これが神武創業だ」といえば西洋化でも藩閥政治でも何でもできるから
・服制改革(洋服化)も「神武・神功の武の伝統風姿に戻る」と布告
→最も武に優れているのは西洋なので洋服化は伝統というロジック
・紀年も時系列把握が難しい元号と(西暦より660年古く都合のいい)神武天皇即位紀元(皇紀)の併用に
・徴兵令も「神武時代は国民皆兵で武士時代がイレギュラー」とする中世キャンセル史観で説明
(今も「夫婦同姓こそ本来の日本の姿」とかの押しつけがあるが多くは明治以降に一般化したもの)
・右派も左派も「本来の姿に帰れ」という原点回帰のロジックには弱いので警戒心が必要
(神社参道の真ん中を歩くのは伝統に反するとか、これが本来のマルクスの共産主義だとか)
・軍人勅諭、金鵄勲章、八咫烏なども同様(略)
・神武天皇像と明治天皇の御真影
→御真影はイタリア人銅版画家が記憶をもとに西洋人風に描いたものを日本人写真師が撮ったもの
(猪瀬直樹「ミカドの肖像」より→明治天皇が写真嫌いだったので複雑な方法になった)
→その御真影をもとに最初の神武天皇像が作られた→西洋化こそ古代回帰というロジック
・ローマ支配以降ナショナリズムに目覚めたヨーロッパ各国でも古代の英雄(首長や族長)を讃えた
→ローマの史書では端役・敵役だった人物が重要に→読み替えが不要だったのはイタリア人ぐらい
→同様に徳川幕府(陣中幕の中の大将軍)に対抗できる古代の英雄が必要だった
→明治天皇=神武天皇としたのは世界史的な流れでもある
・各地の神武天皇像の変遷(略)
・実在しなかった(あるいは神話上の存在だった)からこそ、新政府にとって都合がよかった
→仮に実在していたら紀元前になるので、その実態はかなりわびしいはず
→神武天皇に大きな夢を抱く実在論者ほど、神武天皇の実在は不都合になる
第2章より
・北畠親房の神皇正統記→万世一系の天皇
→中国の易姓革命は新王朝の支配を正当化するロジック
→これを学び、王朝が変わっていない日本こそが世界一の高徳の国とした
→幕末の後期水戸学→明治の教育勅語→昭和の国体の本義へ
→現在の右派が男系男子にこだわり夫婦別姓に反対する理由にもなっている
・井上毅の教育勅語
→原文は難しく戦後は解釈が歪められているが構造を把握すれば忠と孝の4者関係(略)
→根底は君臣関係と国体の擁護(略)
・井上毅の明治憲法→「しらす」と「うしはぐ」(略)
・井上毅の皇室典範→典憲二元体制(略)
・井上毅の女子天皇・女系天皇の排除→別の王朝になるから(略)
・井上毅の立憲主義と内村鑑三不敬事件など→国体論の実践は「しらす」とはいかなかった(略)
・1937年発行の「国体の本義」では家族国家を強調した→個人主義の否定へ(略)
・平成天皇の武力や威嚇のない「しらす」は圧倒的な国民の支持を集めたが、象徴天皇制だからこそか
→天皇の君徳のみならず皇后の影響、平和で豊かな時代でインフラが発達していたことも大きい
→「国体のミクロ化」の自覚のためにも国体論の系譜(略)を知っておくべき・・・
第3章より
・神功皇后
→14代仲哀天皇の皇后で息子の15代応神天皇が即位するまで69年間政務を担った
→日本書紀の記述では、
→熊襲などを平定し妊娠中に新羅へ出兵、百済、高句麗も服属させ帰国して応神天皇を出産
→比類なき対外戦争指導者として北条時宗、豊臣秀吉と並び称されるようになった
→明治までは無名だった神武天皇より馴染みのある存在だった
→なので、はじめての政府紙幣、公債、切手にも肖像が使われた
→日清戦争後あたりから使われなくなった
→以後は他の軍神も多数登場し、女性は家を守る存在とされるようになったから
・北白川宮能久親王や孫の永久王とヤマトタケル(略)
・東京招魂社→靖国神社へ→神社の序列化へ→各藩の招魂社は護国神社となった
→招魂社は古来からの御霊信仰で殉難者は敵味方の区別なく慰霊するが、
→靖国神社はまず敵を排除、味方も立場や最期が厳しく審査され天皇の許可を得て合祀された
→西郷隆盛など賊軍以外でも乃木希典は殉死、東郷平八郎は病死で合祀されず別の神社の祭神に
・聖武天皇の宣命・大伴家持の長歌(万葉集)→「海ゆかば」→祭文や軍歌として蘇った(略)
・敗戦により外地の皇族軍人を祀る神社がなくなった
→1959年に靖国神社に合祀されたが本来は全く別の存在
→戦前は天皇・皇族・臣下は厳密にわけられていた(教育勅語でも明確に区別されている)
→これが大日本帝国の価値観
・戦前の国家神道のイメージ
→戦前は政府が神社を管理し国民を教化・煽動していたイメージがあるが、
→実際には明治時代のみで部局も三流、明治半ばには神職も官吏ではなくなり予算も少なかった
→神道の国教化は早くに断念され、神社神道は国家に特別扱いされるかわりに、
信教の自由に抵触しないよう「宗教ではなく国民的な道徳・倫理」とされた
(国家神道という言葉は戦後のGHQ指令によって広まったもの)
→神道・神話の影響が大きかったのは政府に便乗する企業や民衆の自発的な消費があったから
・「戦前」には1930年代後半以降の総力戦体制下のイメージが強いが戦前も77年あった
→靖国神社ではサーカス興業が名物だった→厳粛になるのは1930年代後半から
→忠魂碑など「下からの参加」の痕跡は他の神社にも残っている
→多くの神社は戦前と深く関わっており記念碑や顕彰碑は数知れない
→そのような神社に参拝しただけで軍国主義者と決めつけるのか
(2023年元旦に東京乃木神社に参拝した立憲民主党・泉健太代表への批判殺到など)
・歴史は都合よく切り離せるものではなく一部だけ切り出して戦前戦前と騒いでも意味はない
→先祖代々という物語で戦争に駆り立てることが問題なのである
第4章より
・超国家主義と日本神話
→日本神話は三層構造で天上の高天原、地上の中つ国、地下の黄泉の国の世界(略)
→高天原アマテラスの孫ニニギの(オオクニヌシが支配していた)中つ国への天孫降臨(国譲り)
→ニニギの子孫は南九州を拠点に中つ国を統治した
→曾孫のイワレヒコが国の中心に近い大和へ瀬戸内海を東進、橿原宮で神武天皇に即位した(神武東征)
→12代景行天皇の子ヤマトタケルが東西の荒ぶる神々や民を服属させ伊吹山の神の討伐に失敗し伊勢で病没
→14代仲哀天皇も熊襲の討伐中に病没、神功皇后が新羅・百済・高句麗まで服属させた(三韓征伐)
→国譲り以前の部分に近代のオカルト的な思想や超国家主義の根拠がある(略)
・国学者・平田篤胤の世界観(略)
・弟子・佐藤信淵(東京の名付け親)の世界征服プラン(略)
・天地開闢とイザナキ・イザナミ、アマテラスとスサノオ、オオクニニシの国土経営(略)
・神話を引用した言葉(○○景気や三種の神器など)が使われなくなったのは神話の教養が失われているから
・平田も佐藤も記紀を使い分けた大胆な解釈で、日本は世界の祖国で天皇は世界の大君とした
→ただし平田派は明治の早い時期に放逐されたし佐藤も有名ではなかった
→昭和戦前期の膨張時代に遡及的に発見されたもの
→それが戦後になって侵略思想の根拠であるかのように批判されたに過ぎない
→記紀を用いた大胆な解釈があったことが重要で、また騙されないためのワクチンとして超国家主義的な
思想に触れておく必要がある
・木村鷹太郎の「世界的研究に基づける日本太古史」
→バイロン紹介、プラトン全集初翻訳などの偉業で知られ論壇ではキムタカと呼ばれ恐れられた
→記紀は島国の神話ではなく世界の神話だとした(めっちゃ面白かったけど略)
・昭和に入ってから軍人たちの人気を集めた竹内巨麿の「竹内文献」
→日本書紀の「ニニギの天孫降臨より神武東征まで179万2470年」という記載を事実とした解釈
→神武の前に97代の天皇が存在し世界人類(五色人)を作ったが天変地異で崩壊、その後に即位したのが神武で・・・
(初代が神代文字や万国地図を作ったのは100億10万歳の出来事とか、めっちゃ面白かったけど略)
→1928年の古代記録の開封に立ち会ったのは公爵、陸海軍の将官、宮内庁事務官で半数が高級軍人だった
→1930年には不敬罪などで検挙されたが軍人には深く取り入っており1944年に無罪になった
・古史古伝は上記(うえつふみ)や富士古文書など多数存在し林房雄など専門的知見を持つ者も肯定していた
・海道東征の翌年に北原白秋と山田耕筰が作った「大陸の黎明(しののめ)」(略)
→神話を十分に理解していないと意味が理解できないが、日本神話と軍事侵攻を結合させたもので、
記紀神話を独創的に解釈してきた先人につらなるもの
・天皇は神聖不可侵と義務教育で教える顕教と、天皇は統治のための機関と帝国大学で教える密教の使い分け
→神話についても同様で、義務教育では事実として教えられてたが指導者たちには統治のための方便
→表向き神話が事実なら、その世界を語らずにつまみ食いする指導者は顕教により密教討伐すべきとなる
→神話国家の大日本帝国は想像力に飲み込まれやすい構造的な欠陥を抱えていたのではないか
・世界制覇などは弱小だった明治国家には妄想だったが、列強になった昭和国家では現実と勘違いされた
→やがて政府が八紘一宇を掲げるようになると神話的想像力はさらに大きく盛り上がった
第5章より
・紀元2600年式典
→カンタータ海道東征は八紘一宇でしめくくられる
→同年7月に成立した第二次近衛内閣は八紘一宇を国是として大東亜の新秩序を宣言した
→11月に宮崎県に八紘一宇の塔が完成し翌年にかけ神武天皇に関する記念碑が西日本中心に建てられた
→宮崎県には皇軍発祥之地と海軍発祥之地の記念碑も建てられた
→神武天皇の東征ルートを国が認定し19ヶ所が聖蹟と認められ記念碑が建てられた(略)
・八紘一宇は日蓮主義者・田中智学により1913年3月に造語された
→先行する使用例はあるが後世に影響するのは田中によるもの
→日本書紀にある「八紘を掩ひて宇にせむ」は、せいぜい「東征後の日本は平和的に統治しよう」
ぐらいの意味だったと考えられるが、これが世界統一の話になった
→造語の翌年、智学は立正安国会を国柱会に改め思想普及に努めた
→集まった宮沢賢治など錚々たる人士の中に石川莞爾もいた
・石川莞爾「世界最終戦論」のビジョン
→陸軍内部の権力闘争に敗れて左遷されていた1940年に執筆したもの
→東洋の王道を代表する日本と西洋の覇道を代表するアメリカが最終戦争を戦い永遠の平和に・・・
→(東条英機と対立してたので彼が首相だったらという評価もあるが)智学の世界観に影響されたもの
・智学は陸軍士官学校でも講演していた
→自衛隊でも右派の評論家やジャーナリストが講演しているが穏健な国民の物語が必要
→ことあらば身命を賭す軍人は大きな国家観を欲するので専門家ではなく在野の思想家が求められる
→智学の八紘一宇の思想は荒木貞夫陸相、2.26の青年将校などに普及していく
→愛国行進曲の作詞者も国柱会の会員だったことを筆者は最近知った
・開戦の詔書での戦争目的は詔書の一般論にある「万邦共栄」ではなく「自存自衛」だった
(戦争目的が自国防衛とアジア開放のあいだで分裂していたことはよく指摘されている)
→開戦直後の12月13日に内閣情報局が「戦争目的は大東亜新秩序建設なので大東亜戦争」と発表
→詔書には記されていない八紘一宇を誓うに至った
・明治維新では日本神話は近代化のための口実だった
→昭和戦前期に国民を鼓舞するための素材に変化した
→軍人も文学者も新聞も神話を参照した
→撃ちてし止まむ、神武東征と大東亜戦争の一致など・・・(略)
・三種の神器
→記紀では皇位の象徴とは記されていないが昭和天皇も本気で信じており散逸を心配していた
→当初は終戦の詔書案に入っていたが連合国に詮索されないようにと削除された
→アマテラスがニニギに与えたものが実在するはずがなく重んじられたのも南北朝時代から
・敗戦間際の指導者たちは国体を守ろうと必死で三種の神器も隠そうとした
→国体も三種の神器も近代国家を急造するための方便であり、あえて国家の基礎にすえたもの
→昭和に入り世界恐慌やマルクス主義に向き合う中で神話ネタはベタになった
→国体や三種の神器は天皇や指導者までも拘束した
→ネタを守るために終戦は先延ばしにされ犠牲者が増えた→ネタがベタになることのリスク
第6章より
・いまも武道館の隣にある弥生慰霊堂(もとは弥生神社で警察・消防版の靖国神社)の例
→戦後はGHQの政教分離指令で神社として存続できなくなり慰霊堂として移転・改称した
→いっぽう靖国神社は改称されず神道色も残った
→このような戦前と戦後の境目の曖昧さは数多くある
→高度成長期も続いた1940年体制(総力戦体制)、神社本庁、天皇の地位、儀礼・・・(略)
・戦前の五つの物語
①原点回帰という罠
②特別な国という罠
③祖先より代々という罠
④世界最古という罠
⑤ネタがベタになるという罠
・これらを否定することはたやすいが、そのリスクを受け止め今後どのように紡いでいくか
→物語は虚構だが共同体を形成する上で大きな役割がある
→宗教の否定が醜悪な疑似宗教(個人崇拝など)を生み出している
→物語の否定は劣化コピーを生成させるだけ
→物語は排除されるべきものではなく上書きされるべきものである
・道義国家論(後期水戸学系)と神聖国家論(国学系)
→努力論と宿命論で一方だけでは統治できず循環して混ざり合っていた(略)
・広義の国家神道論(左派に多い)と狭義の国家神道論(右派に多い)
→実証なき物語は妄想だが物語なき実証は空虚なので中間を取ろうというのが筆者の考え
→これまでの議論は上からの統制に注目し過ぎだったのではないか
→企業の時局便乗や民衆のナショナリズムもあり神社参拝もすべてが強制されたものではない
・明治初期の軍歌はエリートが作ったが、民衆のナショナリズムが高揚すると民衆が自発的に作り、
レコード会社はじめ企業が便乗した→下からの参加
→プロパガンダしたい当局と時局で儲けたい企業と戦争の熱狂を楽しみたい消費者の利益共同体
・戦前の神話は当初は上からの統制だったが途中から下からの参加が加わり、国体論という
ネタがベタになり、やがて政府をも拘束するようになった
→この神話国家の興亡こそが戦前の正体
・戦前の物語にあえて点数をつければ65点
→いまは100点を追求し過ぎて脆弱な物語しかない時代
→日本スゴイ史観(右派)は不都合な資料が発掘されるとすぐ瓦解するし、問題点ばかりあげつらう
日本悪玉論(左派)は共産主義の失敗などに目をそらし別の脆弱な物語にしがみつく
・戦前の日本は問題行動もあったが欧米列強の侵略に対抗し近代化・国民化を成し遂げた
→だから過去の誤りを認めながら今後よりよい国をつくっていこう
→こういう立場なら多少不都合な資料が発掘されても動ずることはない
・戦前の物語の欠点はいくらでも指摘できる
→だが、それで植民地化の危機を乗り越えたのだから評価はすべき
→ただし、それを神聖不可侵にしてしまうとベタになる危険があるので65点にした
・今後の新しい国民的物語にも曖昧さを取り込むべきで、そのほうが長く日本の指針となるはず
→戦前とは国民的物語で及第点を出した時代
→それを超克するには教養として大きな枠組みで戦前を知らなければならない
おわりにより
・日本の神話は豊穣で概説するのが難しい
→本書は明治維新から大東亜戦争まで日本の神話がどのように利用されたのかを解説した入門書
→歴史を押えておけば時事ニュースも俯瞰的に眺められる
・例えば明治神宮外苑の再開発問題
→国民の勤労奉仕や献金で整備された経過から公共性があると左派が反対している
(明治神宮の祭神は明治天皇で戦後は宗教法人が管理)
→(明治天皇に殉死した)乃木神社への立憲民主党・泉健太代表の参拝を軍国主義と批判した
左派の人間は、この反対理由をどう受け止めているのか
→整備経過からの公共性をいうなら靖国神社こそ公共的なはず
・明治神宮や靖国神社の公共性とはなんなのか、近代日本はどのような国だったのか・・・
→現代日本の公私を考えるには、そこから根源的に考えなければならない
→これが戦前の正体を押えておかなければならないゆえんである
・コロナ禍で筆者も動画配信に加わった
→原稿に比べると気軽で視聴者からのフィードバックも早く運営資金も調達しやすい
→この動画配信でわかったのは、本を書くことの大切さだった
・動画の時代だからこそ情報を取捨選択し1本の物語に整理する能力が求められているのでは
→その能力がもっとも培われるのが読書や執筆にほかならない
→少なくとも歴史関係の動画のネタ元は書籍しかないのである
云々・・・
まあ、当サイトのネタ元も最近は書籍が多いのですが、それを1本の物語に整理する能力はなく、
自分の脳の外部記憶としてメモしてるだけなんですよね・・・
せめて皆さんは冷静に情報を取捨選択されて良い年を迎えられますように・・・
2023年12月09日
人新世の「資本論」
ええ、外出自粛中なので遅ればせながら・・・
斎藤幸平著『人新世の「資本論」』とゆー本を読み終えました
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、この種の本としてはベストセラーで僅か半年で九刷まで増刷されてますね
テレビ番組などでも紹介され興味があったので外出自粛直前に借りてた次第
例によって目次のみの紹介
難しそうな単語が並んでますが文章は分かりやすく、著者が発掘したマルクス晩年の膨大な
研究ノートや手紙を読み解き、彼が最晩年に目指していた新しいコミュニズムを解き明かす、
つーのが新鮮で、さらにその思想で環境危機に立ち向かおうという内容も新鮮でした
主張の是非は別としても、わたくしがこれまでの様々な気候変動対策に何となく感じていた
モヤモヤを、ある意味スッキリさせてくれたのは確かです
ま、たとえスッキリしても前々回記事と同様に、それを行動に移さなければ無関心と同じで
あまり意味がないのかも知れませんが・・・
わたくしが次に現地の子どもたちと一緒に木を植える日はくるのだろうか・・・
以下、思いつくままのてきとーな読後メモです
はじめにより
・個人が温暖化対策として環境配慮商品を買うことに意味はあるか???
→それだけなら無意味であり、むしろ有害
→真に必要な行動をしなくなる「免罪符」としての消費行動は、資本の側が我々を欺く
グリーンウォッシュに、いとも簡単に取り込まれるから
・国連のSDGsで地球全体の環境を変えていくことができるか???
→政府や企業が行動指針をいくつかなぞっても気候変動は止められない
→目下の危機から目を背けさせる効果しかない
→資本主義社会の苦悩を和らげる「宗教」をマルクスは「大衆のアヘン」とした
→SDGsは現代版「大衆のアヘン」である
・アヘンに逃げずに直視しなければならない現実とは、
→人間が地球環境を取り返しのつかないほど大きく変えてしまっているということ
・ノーベル化学賞受賞者パウル・クルッツェンが名付けた人新世(Anthropecene)
→地質学的に人間活動の痕跡が地球表面を覆い尽くした年代という意味
→人工物が地球を大きく変え、とりわけ増大しているのが温暖化を招く二酸化炭素
→産業革命・資本主義の始動から大きく増えており、直後にマルクスの資本論が出た
→マルクスの全く新しい面を発掘し展開して、気候危機の時代のより良い社会を・・・
第1章より
・2018年ノーベル経済学賞(ウィリアム・ノードハウス)の罪
→経済成長と新技術で気候変動に対処できるとした気候経済学
→彼のモデルではアジア・アフリカの途上国に壊滅的な被害が及ぶが、彼らの世界GDPに
占める割合は僅かで、農業にも深刻なダメージがあるが、農業は世界GDPの4%のみ
→この程度の被害を前提としたモデルが国際基準にも採用され、今は批判されている
・帝国的生活様式
→グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費社会
→グローバル・サウスからの収奪で成り立っており、彼らにもこれを押しつけている
→犠牲が多いほど収益が上がる→資本主義の前提(ファストファッションの例)
→労働者も地球環境も搾取の対象(パーム油の例)
→その暴力性は遠くの地で発揮されるので不可視化され続けてきた
→それを「知らない」から「知りたくない」へ
→不公正に加担しているが、少しでも先延ばしにして秩序維持したいから
→マルクスはこの資本家の態度を「大洪水よ、我が亡き後に来たれ」と皮肉っている
→今は気候変動と環境難民が可視化して帝国的生活様式秩序を転覆しようとしている
→転嫁困難が判明した危機感や不安から右派ポピュリズムへ→気候ファシズム
・オランダの誤謬
→国際的な転嫁を無視して先進国が環境問題を解決したと思い込むこと
・人類が使用した化石燃料の半分は冷戦終結(1989)以降
→アメリカ型の新自由主義が世界を覆ったから
・マルクスによる環境危機の予言→資本による転嫁は最終的に破綻する
→技術的転嫁、空間的転嫁、時間的転嫁(略)
第2章より
・負荷を外部転嫁することで経済成長を続ける資本主義
→新自由主義からグリーン・ニューディール(気候ケインズ主義)へ
・2009年ヨハン・ロックストロームのプラネタリー・バウンダリー(地球の限界)概念
→地球の限界に配慮した「気候ケインズ主義による緑の経済成長」へ
→SDGsにも大きな影響を与え、技術革新や効率化の目標値になったが、
→2019年に自己批判し、経済成長と環境負荷の相対的デカップリングは困難と判断した
→経済成長の罠と労働生産性の罠→資本主義の限界
・再生可能エネルギーとジェヴォンズのパラドックス
→テレビの省エネ化と廉価大型化、自動車の燃費向上と大型化・SUVの普及・・・
→効率化による収入の再投資→節約分が帳消しに・・・
・石油価格が高騰すれば再生可能エネルギーが相対的に廉価になる???
→新技術の開発が進み、さらに廉価になり、石油消費量は減る(気候ケインズ主義)???
・現実はオイルサンドやオイルシェールに移った→価格の高騰は金儲けの機会だから
→価格崩壊前に掘り尽くそうとするので採掘ベースも上がる→市場外の強い強制力が必要
・裕福な帝国的生活様式
→富裕層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出している
→プライベートジェットやスポーツカーや大豪邸を多く持つ富裕層トップ0.1%なら?
→富裕層トップ10%の二酸化炭素排出量を平均的なヨーロッパ人のレベルに減らすだけで
排出量は2/3になる
→先進国は殆どがトップ20%に入っており、日本なら大勢がトップ10%に入っている
→当事者として帝国的生活様式を変えなければ気候危機に立ち向かうことは不可能
・電気自動車の本当のコスト
→リチウム・コバルト採掘による環境破壊や劣悪な労働条件はコスト外
→その対極にいる大企業トップがSDGsを技術革新で推進すると吹聴している
→19世紀のペルー沖グアノ採掘と同じ生態学的帝国主義
→バッテリー大型化で製造工程で発生する二酸化炭素量も増大している
・電気自動車や再生可能エネルギーへ100%移行するという気候ケインズ主義
→自分たちの帝国的生活様式を変えずに(自分たちは何もせずに)持続可能な未来を約束するもの
→まさに現実逃避
・大気中から二酸化炭素を除去するNET技術の代表例BECCS
→バイオマスBEで排出量ゼロにし大気中の二酸化炭素を地中や海中に貯留する技術CCS
→大量の農地や水が必要でマルクスが問題視した転嫁を大規模に行うだけの技術
→経済成長を前提とする限り、これをIPCCも取り入れざるを得ない
・エネルギー転換は必要だが今の生活様式維持を目指している限り、資本の論理による
経済成長の罠に陥る
→気候変動対策は経済成長の手段ではなく止めること自体が目的
→「絶滅への道は善意で敷き詰められている」
・非物質化もIoTもクラウド化も製造や稼働に膨大なエネルギーと資源が消費されている
第3章より
・脱成長が気候変動対策の本命だが南北問題解決には南の経済成長が必要???
→ケイト・ラワースの議論→ドーナツ経済の概念図
→環境的な上限と社会的な土台(下限)の間に全ての人が入るグローバルな経済システムの設計
→先進国はドーナツの上限を超えている(途上国は逆)
→先進国の経済成長をモデルに途上国への開発援助を行えば破滅の道を辿る
→経済成長と環境破壊に頼らなくても、僅かな再分配で食糧や電力は供給できる
・あるレベルを超えると経済成長と生活向上の相関が見られなくなる
→アメリカとヨーロッパの社会福祉の比較、アメリカと日本の平均寿命の比較など
・経済成長しても一部が独占し再分配されないなら大勢の人が不幸になる
→逆に経済成長しなくても、うまく分配できれば社会は今以上に繫栄する可能性がある
→公正な資源配分が資本主義システムのもとで恒常的に達成できるか
→外部化と転嫁に依拠した資本主義ではグローバルな公正さを実現できない
・今のところは世界の所得トップ10~20%に入る多くの日本人の生活は安泰
→グローバルな環境危機によりトップ1%の超富裕層しか今の生活はできなくなる
→自分自身が生き残るためにも公正で持続可能な社会を志向する必要がある
・四つの未来の選択肢
(横線を平等さ、縦線を権力の強さにした十字グラフ)
①右上(権力が強く不平等)が「気候ファシズム」で、資本主義と経済成長の行き着く先
(一部の超富裕層を除き多くが環境難民になる)
②右下(権力が弱く不平等)が「野蛮状態」で、環境難民の反乱により体制崩壊した状態
(万人の万人に対する闘争というホッブズの自然状態に逆戻りした未来)
③左上(権力が強く平等)が「気候毛沢東主義」で、トップダウン型で貧富格差を緩和
(自由市場や自由民主主義を捨てた独裁国家が効率の良い平等主義的な対策を進める)
④左下(権力が弱く平等)をXとする
→専制国家に依存せず人々が自発的に気候変動に取り組む公正で持続可能な未来社会
・Xのヒントは脱成長
→無限の経済成長を追い求める資本主義システムが環境危機の原因
→対策の目安はポスト資本主義で先進国の生活レベルを1970年代後半の水準に落とすこと
(資本主義のままだと唯一の延命策だった新自由主義になり同じ道を辿るから)
・経済成長を前提とした現在の制度設計で成長が止まれば、もちろん悲惨な事態になるが、
いくら経済成長を目指し続けても、労働分配率は低下し格差は拡大し続けている
・日本の脱成長vs経済成長の対立は、経済的に恵まれた団塊世代と困窮する氷河期世代との
対立に矮小化され、脱成長は緊縮政策と結びつけられた(本来は人類の生存を巡る対立)
→脱成長論へのアンチテーゼとして反緊縮が紹介され氷河期世代に支持されているが、
日本の議論で欠けているのは気候変動問題でありグリーン・ニューディール
→本来は気候変動対策としてのインフラ改革であり生産方法の改革
→日本での反緊縮は金融緩和・財政出動で経済成長を追求するものに・・・
・デジタル・ネイティブのZ世代は世界の仲間と繋がったグローバル市民
→新自由主義が規制緩和や民営化を推し進めた結果、格差や環境破壊が深刻化していく様を
体感しながら育った
→このまま資本主義を続けても明るい展望はなく大人たちの振る舞いの尻拭いをするだけ
→このZ世代とミレニアル世代が左派ポピュリズムを最も熱心に支えている
→なので反緊縮の経済成長での雇用と再分配には同調しなかった
→欧米では脱成長が新世代の理論として台頭してきている
(日本での脱成長は団塊の世代、失われた30年と結びつけられ旧世代の理論として定着)
・ジジェクのスティグリッツ批判(略)
・資本主義を維持したままの脱成長であれば、日本の失われた30年のような状態
→成長できないのは最悪で賃金を下げたりリストラ・非正規雇用化で経費削減する
→国内では階級分断が拡張し、グローバル・サウスからの掠奪も激しさを増す
・日本の長期停滞や景気後退と、定常状態や脱成長とを混同してはならない
→脱成長資本主義は実現不可能な空想主義
→資本主義のままで低成長ゼロ成長になれば生態学的帝国主義や気候ファシズムの激化に
・新世代の脱成長論はカールマルクスのコミュニズムだ!!!
→マルクス主義は階級闘争で環境問題は扱えない?
→実際にソ連でも経済成長に拘り環境破壊してたではないか?
→マルクス主義と脱成長は水と油ではないか?
→それが違うのだ!!! 眠っているマルクスを人新世に呼び起こそう!!!
第4章より
・なぜ、いまさらマルクスなのか
→マルクス主義といえばソ連や中国の共産党の独裁で生産手段の国有化のイメージ
→時代遅れで危険なものと感じる読者も多いだろう
→日本ではソ連崩壊から左派であってもマルクスを擁護し使おうとする人は極めて少ない
→世界では資本主義の矛盾の深まりでマルクスの思想が再び大きな注目を浴びている
→新資料で人新世の新しいマルクス像を提示する
・マルクス再解釈のカギのひとつが「コモン」の概念
→社会的に共有され管理されるべき富を指す
→アメリカ型新自由主義とソ連型国有化に対峙する第三の道
→水や電力、住居、医療、教育などを公共財として民主主義的に自分たちで管理することを目指す
→専門家ではなく市民が共同管理に参加し、これを拡張することで資本主義を超克する
→マルクスにとってのコミュニズムとは一党独裁や国営化の体制ではなく、生産者たちが
コモンとして生産手段を共同管理・運営する社会
→さらにマルクスは地球をもコモンとして管理する社会をコミュニズムとして構想していた
→知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されたコモンを再建する試み
→マルクスはコモンが再建された社会をアソシエーションと呼んでいた
→自発的な相互扶助(アソシエーション)がコモンを実現する
→社会保障サービスなどは20世紀の福祉国家で制度化されたにすぎない
→1980年代以降の新自由主義の緊縮政策で労働組合や公共医療などのアソシエーションが
解体・弱体化され、コモンは市場に吞み込まれていった
(高度経済成長や南北格差が前提の福祉国家に逆戻りするだけでは気候危機に有効ではない)
・MEGAと呼ばれる新しいマルクス・エンゲルス全集が現在刊行中
(これまで入ってなかった晩年や最晩年の膨大な研究ノートと書簡を網羅した全集)
→これで可能になるのが新しい資本論の解釈
→これまでのマルクス像(略)
→晩期マルクスの大転換が理解されずスターリン主義や環境危機に(略)
・初期「共産党宣言」の楽観的進歩史観(史的唯物論)の特徴(略)
・20年後の「資本論」に取り込んだ「人間と自然の物質代謝の循環的な相互作用」
→人間の特徴的な活動である労働が人間と自然の物質代謝を制御・媒介する
→資本は価値増殖を最優先にするから人も自然も徹底的に利用する
→資本はより短期間で価値を獲得しようとするから人間と自然の物質代謝を攪乱する
→資本の無限運動で物質代謝は変容させられるが最終的に自然のサイクルと相容れない
→なので資本主義は自然の物質代謝に修復不可能な亀裂を生み出すと警告している
・晩年マルクスのエコロジー思想
→資本論第一巻刊行以降、1883年に亡くなるまでの15年間、自然科学研究を続けていた
→過剰な森林伐採、化石燃料の乱費、種の絶滅のテーマを資本主義の矛盾として扱っていた
→晩年のノートでは、生産力の上昇が自然支配を可能にして資本主義を乗り越えるという
楽観論とは大きく異なっている
→資本は修復不可能な亀裂を世界規模で深め、最終的には資本主義も存続できなくなると
・マルクスは転嫁の過程を資本論第一巻刊行以降、具体的に検討しようとしていた
→資本主義で生産力を向上しても社会主義にはならないと転換していた
→晩年には持続可能な経済成長を求める「エコ社会主義」のビジョン
→ところが最晩年には、この「エコ社会主義」をも超えていた
・生産力至上主義とヨーロッパ中心主義を捨てた晩年のマルクスは進歩史観から決別する
→むしろ非西欧を中心とした共同体の積極的評価へと転換している
→史的唯物論がすべてやり直しになる過程(略)
・マルクスが進歩史観を捨て、新しい歴史観を打ち立てるために絶対的に必要だったのが
エコロジー研究と非西欧・前資本主義社会の共同体研究だった(略)
・ゲルマン民族マルク協同体における共有地管理の平等主義
→新しいコミュニズムの基礎となる持続可能性と社会的平等は密接に関係している
・「資本主義との闘争状態にある労働者大衆と科学と・・・」の科学とはエコロジー
・共同体は経済成長をしない循環型の定常型経済
→未開や無知からではなく、生産力を上げられる場合にも権力関係が発生し支配従属関係へと
転化することを防ごうとしていたから
・初期のマルクスが定常型経済であることを理由に切り捨てていたインドの共同体
→この定常性こそが植民地支配への抵抗力になり資本を打ち破りコミュニズムの歴史を作ると
最晩年には主張している
→この認識を可能にしたのが晩年のエコロジー研究で共同体研究とつながっている
・14年の研究の結果、定常型経済に依拠した持続可能性と平等が資本主義への抵抗になり、
将来社会の基礎になると、マルクスは結論づけた
→マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ
→盟友エンゲルスさえ理解できなかった西欧資本主義を乗り越える脱成長コミュニズム
→この思想が見落とされていたことが現在のマルクス主義の停滞と環境危機を招いている
・資本主義が人類の生存そのものを脅かす今こそ、脱成長コミュニズムが追及されねばならず、
最晩年に書かれたザスリーチ宛の手紙は、人新世を生き延びるためのマルクスの遺言である
第5章より
・加速主義批判
→バスターニの「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」
→ムーアの法則による技術革新で稀少性や貨幣の価値がなくなる潤沢な経済に?
→それを推進する政府に投票すればいいだけ?
→これこそ「各人がその必要に応じて受け取る」マルクスのコミュニズムの実現?
→資本は政治では超克できず全て資本主義に取り込まれる→資本による包摂から専制へ
→晩期マルクスが決別した生産力至上主義の典型でエコ近代主義の開き直り
・イギリス・フランスの気候市民議会(略)
・ゴルツの開放的技術と閉鎖的技術(略)
・最も裕福な資本家26人が貧困層38億人(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占
第6章より
・豊かさをもたらすのは資本主義か
→99%の人にとって欠乏をもたらしているのが資本主義
→ニューヨークやロンドンの不動産の例など(略)
・マルクスの本源的蓄積(エンクロージャー)論
→資本がコモンの潤沢さを解体し人工的希少性を増大させていく過程
→なぜ無償の共有地や水力が都市や石炭へと排除されたのか
→潤沢なものを排除した希少性による独占が資本主義には欠かせないから
・ローダデールのパラドックス(略)
・マルクスの「価値と使用価値の対立」
→貧しさに耐える緊縮システムは人工的希少性に依拠した資本主義のシステム
→生産してないから貧しいのではなく、資本主義が希少性を本質とするから貧しいのだ
→新自由主義の緊縮政策が終わっても資本主義が続く限り本源的蓄積は継続する
→希少性を維持増大することで資本は利益を上げ、99%にとっては欠乏が永続化する
→負債→長時間労働→過剰生産→環境破壊→商品依存→負債・・・
・資本の希少性とコモンの潤沢さ→水や電力の民営化ではなく市民営化
・ワーカーズコープなど生産手段の共同所有・管理→私有でも国営でもない社会的所有
・コモンの潤沢さが回復されるほど商品化領域が減りGDPは減少する→これが脱成長
→現物給付の領域が増え貨幣に依存しない領域が増えることは貧しさを意味しない
→相互扶助の余裕が生まれ消費的ではない活動への余地が生まれる
→消費する化石燃料エネルギーは減るが、社会的文化的エネルギーは増大していく
・自然的限界は、どのような社会を望むかによって設定される決断を伴う政治的産物
→どのような社会を望むかは将来世代の声も反映しながら民主的に決定されるべき
→限界設定を専門家や政治家に任せれば、彼らの利害関心世界観が反映される
→ノードハウスが経済成長を気候変動より優先した結果がパリ協定の数値目標になっている
・マルクスの「必然の国と自由の国」
→自己抑制を自発的に行う自制により必然の国を縮小していくことが自由の国の拡大につながる
→人々が自己抑制しないことが資本蓄積と経済成長の条件になっている
→逆に自己抑制を自発的に選択すれば資本主義に抗う革命的な行為になる
→無限の経済成長を断念し万人の繁栄と持続可能性に重きを置く脱成長コミュニズムへ
第7章より
・コロナ禍も気候変動も人新世の矛盾の顕在化という意味では資本主義の産物
→どちらも以前から警告されていたが「人命か経済か」で、行き過ぎた対策は景気を悪くすると
根本的問題への取り組みは先延ばしにされている
・危機が深まれば国家による強い介入規制が専門家から要請され個人も自由の制約を受け入れる
・コロナ戦略を第3章「四つの未来の選択肢」でいえば、
→アメリカ・トランプ大統領やブラジル・ボルソナロ大統領は右上①気候ファシズムにあたる
→資本主義の経済活動を最優先し、反対する大臣や専門家を更迭して突き進んだ
→高額な医療費の支払いやリモートワークで自己防衛できる人だけが救われればいいとか、
アマゾン開発に反対する先住民への感染拡大を好機として伐採規制を撤廃しようとか・・・
→いっぽうで中国や欧州諸国は③気候毛沢東主義にあたる
→移動の自由、集会の自由などが国家によって大幅に制限された
→香港では民主化運動の抑圧に利用され、ハンガリーでは政権がフェイクとみなす情報を
流した者を禁固に処する法案が可決された
・新自由主義は社会の関係を商品化し、相互扶助の関係も貨幣・商品関係に置き換えてきた
→相互扶助や思いやりは根こそぎにされてるので不安な人々は国家に頼るしかない
→気候変動についても①になるのか③になるのか、どちらも国家とテクノクラートの支配
→さらに危機が深まると国家さえ機能しなくなり、右下②野蛮状態へと落ちてゆく
・マスクも消毒液も海外アウトソーシングで手に入らず、先進国の巨大製薬会社は儲かる薬に
特化していて、抗生物質や抗ウィルス薬の研究開発から撤退していた
→商品としての価値を重視し使用価値(有用性)を蔑ろにする資本主義では常に起きること
→食糧も高く売れる商品が重視される資本主義と決別し使用価値を重視する社会に移行すべき
・トマ・ピケティの「資本とイデオロギー」2019年刊行(略)
・従来の脱成長派は消費次元での自発的抑制(節電節水・中古・菜食・物シェアなど)が中心
→ところが所有・分配・価値観の変化だけでは資本主義に立ち向かえない
→労働の場(生産・再生産次元)における変革こそが大転換になる
→自動車産業衰退で破綻したデトロイト市のワーカーズコープなどによる都市有機農業の例
→コペンハーゲン市の都市果樹園の例→入会地・コモンズの復権への一歩
→生産次元に蒔かれた種は、消費次元では生まなかった希望という果実を実らせる
・晩年マルクスの脱成長コミュニズムは大きく以下の5点にまとめられる
①使用価値経済への転換
→使用価値に重きを置いた経済に転換して大量生産・大量消費から脱却する
②労働時間の短縮
→労働時間を短縮して生活の質を向上させる(GDPからQOLへ)
③画一的な分業の廃止
→画一的な労働をもたらす分業を廃止して労働の創造性を回復させる
④生産過程の民主化
→生産プロセスの民主化を進め経済を減速させる→社会的所有(アソシエーション)
⑤エッシェンシャル・ワークの重視
→使用価値経済へ転換して労働集約型エッシェンシャル・ワークを重視する
(使用価値を生み出さないブルシットジョブほど高給で人が集まり、社会の再生産に必須な
使用価値の高いものを生み出すエッセンシャルワークほど低賃金で人手不足になっている
→役に立つ、やりがいのある仕事をしているという理由で低賃金・長時間労働に)
・これまでのマルクス主義者の解釈には経済成長を減速させるという文脈はなかった
→脱成長コミュニズムにより物質代謝の亀裂を修復するべき
・グローバル資本主義で疲弊した都市では新しい経済を求める動きが世界で起きている
→脱成長コミュニズムを掲げているわけでも目指しているわけでもないが、その運動
・エクアドル憲法のブエン・ビビール(良く生きる)、ブータン憲法のGNH・・・
→(晩年のマルクスが願っていた)これまでのヨーロッパ中心主義を改めグローバル・サウス
から学ぼうとする、新しい運動も出てきている→21世紀の環境革命に
第8章より
・晩期マルクスの主張は都市の生活や技術を捨てて農耕共同体に戻るというものではない
→都市や技術発展の合理性を完全に否定する必要はないが、都市には問題点も多い
→現在の都市は相互扶助が解体され大量のエネルギーと資源を浪費している
→ただし合理的でエコロジカルな都市改革の動きが地方自治体に芽生えつつある
・スペイン・バルセロナ市とともに闘う各国の自治体
→フェアレス・シティ→国家の新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自治体
→国家もグローバル企業も恐れずに住民のために行動することを目指す都市
→アムステルダム、パリ、グルノーブルなど世界77都市の政党や市民団体が参加している
・バルセロナ市の気候非常事態宣言の例
→声掛けだけでなく数値目標、分析、行動計画を備えたマニフェスト
→自治体職員の作文でもシンクタンクの提案書でもなく市民の力の結集(内容は略)
→ここに至るまでに10年に及ぶ市民の取り組みが存在している(内容は略)
・フェアレス・シティには相互扶助だけでなく都市間の協力関係があり、新自由主義の時代に
民営化されてしまった水道事業などの公共サービスを再び公営化するノウハウなども共有される
→国際的に開かれた自治体主義→ミュニシパリズム
・国家に依存しない参加型民主主義や共同管理の例
→メキシコ・チアパス州サパティスタの抵抗運動は北米自由貿易協定から(内容は略)
→国際農民組織ヴィア・カンペシーナは中南米を中心に2億人以上(内容は略)
→資本主義の外部(今はグローバル・サウス)における残虐性への反資本主義運動
→まさに晩年のマルクスがインドやロシアの運動から摂取した脱成長コミュニズム
・気候正義と食料主権の例
→南アフリカ食糧主権運動→石炭石油化企業の操業停止運動も→運動の国際化へ
・従来マルクス主義の成長論理による将来社会は資本家と搾取がないだけで今と変わらない
→実際にソ連の場合は官僚による国営企業管理の「国家資本主義」になってしまった
・新自由主義の緊縮政策(社会保障費の削減、非正規雇用の増大による賃金低下、民営化による
公共サービスの解体などの推進)には、左派が抵抗しようとしているが・・・
→財政出動で多くを生産し蓄積し経済成長すれば潤沢になるのなら今までどおりの思考
→反緊縮だけでは自然からの収奪は止まらない
→経済を回すだけでは人新世の危機は乗り越えられない
→気候危機の時代には政策の転換より一歩進んだ社会システムの転換を志す必要がある
・緑の経済成長グリーンニューディールも夢の技術ジオエンジニアリングもMMT経済政策も、
大転換を要求する裏で、その危機を生み出している資本主義の根本原因を維持しようとしている
→これが究極の矛盾
・政府ができるのは問題の先送り対策ぐらいで、この時間稼ぎが地球環境には致命傷になる
→国連のSDGsも同じで、中途半端な解決策で人々が安心してしまうと致命傷になる
→石油メジャー、大銀行、GAFAなどデジタルインフラの社会的所有こそが必要なのだ
・私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理コモンがコミュニズムの基盤
→これは国家を拒絶することを意味しない→アナーキズムでは気候変動に対処できない
→インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば解決手段の国家を拒否することは愚かでさえある
→ただし国家に頼り過ぎると気候毛沢東主義に陥る危険がある
・国家の力を前提にしながらコモンの領域を広げていく
→民主主義を議会の外へ、生産の次元へと拡張していく
→協同組合、社会的所有、市民営化・・・
→議会制民主主義そのものも大きく変容しなくてはならない
→地方自治体レベルではミュニシパリズム、国家レベルでは市民議会がモデルになる
・資本主義の超克(経済)、民主主義の刷新(政治)、社会の脱炭素化(環境)の三位一体の大転換
→このプロジェクトの基礎となるのが信頼と相互扶助
→それがなければ非民主的トップダウン型の解決策しか出てこない
→ところが他者への信頼や相互扶助は今は新自由主義で徹底的に解体されている
→なので顔の見えるコミュニティーや地方自治体をベースに回復するしかない
・希望はローカルレベルの運動が、いまや世界中の仲間と繋がっているということ
→「希望をグローバル化するために、たたかいをグローバル化しよう」
(ヴィア・カンペシーナのメッセージ)
→国際的連帯による経験は価値観を変え想像力が広がって今までにない行動ができる
・コミュニティーや社会運動が大きく動けば政治家も大きな変化を恐れなくなる
(バルセロナの市政やフランスの市民議会などの例)
→社会運動と政治の相互作用は促進されボトムアップの社会運動とトップダウンの政党政治は
お互いの力を最大限に発揮できるようになる
→ここまでくれば無限の経済成長と決別した持続可能で公正な社会が実現する
→もちろん着地点は相互扶助と自治に基づいた脱成長コミュニズムである
おわりにより
・マルクスで脱成長なんて正気か・・・との批判を覚悟の上で執筆を始めた
→左派の常識ではマルクスは脱成長など唱えていないということになっている
→右派はソ連の失敗を繰り返すのかと嘲笑するだろう
→さらに脱成長という言葉への反感はリベラルのあいだに非常に根強い
→それでも最新マルクス研究の成果を踏まえ、これが最善の道と確信した
・冷戦終結直後にフランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を唱え、ポストモダンは
「大きな物語の失効」を宣言した
→だが、その後の30年で明らかになったように、資本主義を等閑視した冷笑主義の先に
待っているのは「文明の終わり」である
→だからこそ連帯して脱成長コミュニズムを打ち立てなければならない
・3.5%の人が非暴力な方法で本気で立ち上がると社会が大きく変わるという研究がある
→フィリピンのピープルパワー革命やグルジアのバラ革命など
→ニューヨークのウォール街占拠もバルセロナの座り込みも最初は少人数だった
→グレタ・トゥーンベリの学校ストライキなど「たったひとり」だった
→課題が大きいことを何もしないことの言い訳にしてはいけない
・わたしたちが無関心だったせいで、1%の富裕層・エリート層が好き勝手に、自分たちの
価値観に合わせて社会の仕組みや利害を作り上げてしまったが、はっきりNOを突き付けるとき
→3.5%の動きが大きなうねりになれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、
脱炭素社会も実現されるに違いない・・・
以上、わたくしが分かる範囲での疑問を交えない読書メモですが勘違いもあるので、
興味を持たれた方は本書をお読みくださいね
斎藤幸平著『人新世の「資本論」』とゆー本を読み終えました
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、この種の本としてはベストセラーで僅か半年で九刷まで増刷されてますね
テレビ番組などでも紹介され興味があったので外出自粛直前に借りてた次第
例によって目次のみの紹介
難しそうな単語が並んでますが文章は分かりやすく、著者が発掘したマルクス晩年の膨大な
研究ノートや手紙を読み解き、彼が最晩年に目指していた新しいコミュニズムを解き明かす、
つーのが新鮮で、さらにその思想で環境危機に立ち向かおうという内容も新鮮でした
主張の是非は別としても、わたくしがこれまでの様々な気候変動対策に何となく感じていた
モヤモヤを、ある意味スッキリさせてくれたのは確かです
ま、たとえスッキリしても前々回記事と同様に、それを行動に移さなければ無関心と同じで
あまり意味がないのかも知れませんが・・・
わたくしが次に現地の子どもたちと一緒に木を植える日はくるのだろうか・・・
以下、思いつくままのてきとーな読後メモです
はじめにより
・個人が温暖化対策として環境配慮商品を買うことに意味はあるか???
→それだけなら無意味であり、むしろ有害
→真に必要な行動をしなくなる「免罪符」としての消費行動は、資本の側が我々を欺く
グリーンウォッシュに、いとも簡単に取り込まれるから
・国連のSDGsで地球全体の環境を変えていくことができるか???
→政府や企業が行動指針をいくつかなぞっても気候変動は止められない
→目下の危機から目を背けさせる効果しかない
→資本主義社会の苦悩を和らげる「宗教」をマルクスは「大衆のアヘン」とした
→SDGsは現代版「大衆のアヘン」である
・アヘンに逃げずに直視しなければならない現実とは、
→人間が地球環境を取り返しのつかないほど大きく変えてしまっているということ
・ノーベル化学賞受賞者パウル・クルッツェンが名付けた人新世(Anthropecene)
→地質学的に人間活動の痕跡が地球表面を覆い尽くした年代という意味
→人工物が地球を大きく変え、とりわけ増大しているのが温暖化を招く二酸化炭素
→産業革命・資本主義の始動から大きく増えており、直後にマルクスの資本論が出た
→マルクスの全く新しい面を発掘し展開して、気候危機の時代のより良い社会を・・・
第1章より
・2018年ノーベル経済学賞(ウィリアム・ノードハウス)の罪
→経済成長と新技術で気候変動に対処できるとした気候経済学
→彼のモデルではアジア・アフリカの途上国に壊滅的な被害が及ぶが、彼らの世界GDPに
占める割合は僅かで、農業にも深刻なダメージがあるが、農業は世界GDPの4%のみ
→この程度の被害を前提としたモデルが国際基準にも採用され、今は批判されている
・帝国的生活様式
→グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費社会
→グローバル・サウスからの収奪で成り立っており、彼らにもこれを押しつけている
→犠牲が多いほど収益が上がる→資本主義の前提(ファストファッションの例)
→労働者も地球環境も搾取の対象(パーム油の例)
→その暴力性は遠くの地で発揮されるので不可視化され続けてきた
→それを「知らない」から「知りたくない」へ
→不公正に加担しているが、少しでも先延ばしにして秩序維持したいから
→マルクスはこの資本家の態度を「大洪水よ、我が亡き後に来たれ」と皮肉っている
→今は気候変動と環境難民が可視化して帝国的生活様式秩序を転覆しようとしている
→転嫁困難が判明した危機感や不安から右派ポピュリズムへ→気候ファシズム
・オランダの誤謬
→国際的な転嫁を無視して先進国が環境問題を解決したと思い込むこと
・人類が使用した化石燃料の半分は冷戦終結(1989)以降
→アメリカ型の新自由主義が世界を覆ったから
・マルクスによる環境危機の予言→資本による転嫁は最終的に破綻する
→技術的転嫁、空間的転嫁、時間的転嫁(略)
第2章より
・負荷を外部転嫁することで経済成長を続ける資本主義
→新自由主義からグリーン・ニューディール(気候ケインズ主義)へ
・2009年ヨハン・ロックストロームのプラネタリー・バウンダリー(地球の限界)概念
→地球の限界に配慮した「気候ケインズ主義による緑の経済成長」へ
→SDGsにも大きな影響を与え、技術革新や効率化の目標値になったが、
→2019年に自己批判し、経済成長と環境負荷の相対的デカップリングは困難と判断した
→経済成長の罠と労働生産性の罠→資本主義の限界
・再生可能エネルギーとジェヴォンズのパラドックス
→テレビの省エネ化と廉価大型化、自動車の燃費向上と大型化・SUVの普及・・・
→効率化による収入の再投資→節約分が帳消しに・・・
・石油価格が高騰すれば再生可能エネルギーが相対的に廉価になる???
→新技術の開発が進み、さらに廉価になり、石油消費量は減る(気候ケインズ主義)???
・現実はオイルサンドやオイルシェールに移った→価格の高騰は金儲けの機会だから
→価格崩壊前に掘り尽くそうとするので採掘ベースも上がる→市場外の強い強制力が必要
・裕福な帝国的生活様式
→富裕層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出している
→プライベートジェットやスポーツカーや大豪邸を多く持つ富裕層トップ0.1%なら?
→富裕層トップ10%の二酸化炭素排出量を平均的なヨーロッパ人のレベルに減らすだけで
排出量は2/3になる
→先進国は殆どがトップ20%に入っており、日本なら大勢がトップ10%に入っている
→当事者として帝国的生活様式を変えなければ気候危機に立ち向かうことは不可能
・電気自動車の本当のコスト
→リチウム・コバルト採掘による環境破壊や劣悪な労働条件はコスト外
→その対極にいる大企業トップがSDGsを技術革新で推進すると吹聴している
→19世紀のペルー沖グアノ採掘と同じ生態学的帝国主義
→バッテリー大型化で製造工程で発生する二酸化炭素量も増大している
・電気自動車や再生可能エネルギーへ100%移行するという気候ケインズ主義
→自分たちの帝国的生活様式を変えずに(自分たちは何もせずに)持続可能な未来を約束するもの
→まさに現実逃避
・大気中から二酸化炭素を除去するNET技術の代表例BECCS
→バイオマスBEで排出量ゼロにし大気中の二酸化炭素を地中や海中に貯留する技術CCS
→大量の農地や水が必要でマルクスが問題視した転嫁を大規模に行うだけの技術
→経済成長を前提とする限り、これをIPCCも取り入れざるを得ない
・エネルギー転換は必要だが今の生活様式維持を目指している限り、資本の論理による
経済成長の罠に陥る
→気候変動対策は経済成長の手段ではなく止めること自体が目的
→「絶滅への道は善意で敷き詰められている」
・非物質化もIoTもクラウド化も製造や稼働に膨大なエネルギーと資源が消費されている
第3章より
・脱成長が気候変動対策の本命だが南北問題解決には南の経済成長が必要???
→ケイト・ラワースの議論→ドーナツ経済の概念図
→環境的な上限と社会的な土台(下限)の間に全ての人が入るグローバルな経済システムの設計
→先進国はドーナツの上限を超えている(途上国は逆)
→先進国の経済成長をモデルに途上国への開発援助を行えば破滅の道を辿る
→経済成長と環境破壊に頼らなくても、僅かな再分配で食糧や電力は供給できる
・あるレベルを超えると経済成長と生活向上の相関が見られなくなる
→アメリカとヨーロッパの社会福祉の比較、アメリカと日本の平均寿命の比較など
・経済成長しても一部が独占し再分配されないなら大勢の人が不幸になる
→逆に経済成長しなくても、うまく分配できれば社会は今以上に繫栄する可能性がある
→公正な資源配分が資本主義システムのもとで恒常的に達成できるか
→外部化と転嫁に依拠した資本主義ではグローバルな公正さを実現できない
・今のところは世界の所得トップ10~20%に入る多くの日本人の生活は安泰
→グローバルな環境危機によりトップ1%の超富裕層しか今の生活はできなくなる
→自分自身が生き残るためにも公正で持続可能な社会を志向する必要がある
・四つの未来の選択肢
(横線を平等さ、縦線を権力の強さにした十字グラフ)
①右上(権力が強く不平等)が「気候ファシズム」で、資本主義と経済成長の行き着く先
(一部の超富裕層を除き多くが環境難民になる)
②右下(権力が弱く不平等)が「野蛮状態」で、環境難民の反乱により体制崩壊した状態
(万人の万人に対する闘争というホッブズの自然状態に逆戻りした未来)
③左上(権力が強く平等)が「気候毛沢東主義」で、トップダウン型で貧富格差を緩和
(自由市場や自由民主主義を捨てた独裁国家が効率の良い平等主義的な対策を進める)
④左下(権力が弱く平等)をXとする
→専制国家に依存せず人々が自発的に気候変動に取り組む公正で持続可能な未来社会
・Xのヒントは脱成長
→無限の経済成長を追い求める資本主義システムが環境危機の原因
→対策の目安はポスト資本主義で先進国の生活レベルを1970年代後半の水準に落とすこと
(資本主義のままだと唯一の延命策だった新自由主義になり同じ道を辿るから)
・経済成長を前提とした現在の制度設計で成長が止まれば、もちろん悲惨な事態になるが、
いくら経済成長を目指し続けても、労働分配率は低下し格差は拡大し続けている
・日本の脱成長vs経済成長の対立は、経済的に恵まれた団塊世代と困窮する氷河期世代との
対立に矮小化され、脱成長は緊縮政策と結びつけられた(本来は人類の生存を巡る対立)
→脱成長論へのアンチテーゼとして反緊縮が紹介され氷河期世代に支持されているが、
日本の議論で欠けているのは気候変動問題でありグリーン・ニューディール
→本来は気候変動対策としてのインフラ改革であり生産方法の改革
→日本での反緊縮は金融緩和・財政出動で経済成長を追求するものに・・・
・デジタル・ネイティブのZ世代は世界の仲間と繋がったグローバル市民
→新自由主義が規制緩和や民営化を推し進めた結果、格差や環境破壊が深刻化していく様を
体感しながら育った
→このまま資本主義を続けても明るい展望はなく大人たちの振る舞いの尻拭いをするだけ
→このZ世代とミレニアル世代が左派ポピュリズムを最も熱心に支えている
→なので反緊縮の経済成長での雇用と再分配には同調しなかった
→欧米では脱成長が新世代の理論として台頭してきている
(日本での脱成長は団塊の世代、失われた30年と結びつけられ旧世代の理論として定着)
・ジジェクのスティグリッツ批判(略)
・資本主義を維持したままの脱成長であれば、日本の失われた30年のような状態
→成長できないのは最悪で賃金を下げたりリストラ・非正規雇用化で経費削減する
→国内では階級分断が拡張し、グローバル・サウスからの掠奪も激しさを増す
・日本の長期停滞や景気後退と、定常状態や脱成長とを混同してはならない
→脱成長資本主義は実現不可能な空想主義
→資本主義のままで低成長ゼロ成長になれば生態学的帝国主義や気候ファシズムの激化に
・新世代の脱成長論はカールマルクスのコミュニズムだ!!!
→マルクス主義は階級闘争で環境問題は扱えない?
→実際にソ連でも経済成長に拘り環境破壊してたではないか?
→マルクス主義と脱成長は水と油ではないか?
→それが違うのだ!!! 眠っているマルクスを人新世に呼び起こそう!!!
第4章より
・なぜ、いまさらマルクスなのか
→マルクス主義といえばソ連や中国の共産党の独裁で生産手段の国有化のイメージ
→時代遅れで危険なものと感じる読者も多いだろう
→日本ではソ連崩壊から左派であってもマルクスを擁護し使おうとする人は極めて少ない
→世界では資本主義の矛盾の深まりでマルクスの思想が再び大きな注目を浴びている
→新資料で人新世の新しいマルクス像を提示する
・マルクス再解釈のカギのひとつが「コモン」の概念
→社会的に共有され管理されるべき富を指す
→アメリカ型新自由主義とソ連型国有化に対峙する第三の道
→水や電力、住居、医療、教育などを公共財として民主主義的に自分たちで管理することを目指す
→専門家ではなく市民が共同管理に参加し、これを拡張することで資本主義を超克する
→マルクスにとってのコミュニズムとは一党独裁や国営化の体制ではなく、生産者たちが
コモンとして生産手段を共同管理・運営する社会
→さらにマルクスは地球をもコモンとして管理する社会をコミュニズムとして構想していた
→知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されたコモンを再建する試み
→マルクスはコモンが再建された社会をアソシエーションと呼んでいた
→自発的な相互扶助(アソシエーション)がコモンを実現する
→社会保障サービスなどは20世紀の福祉国家で制度化されたにすぎない
→1980年代以降の新自由主義の緊縮政策で労働組合や公共医療などのアソシエーションが
解体・弱体化され、コモンは市場に吞み込まれていった
(高度経済成長や南北格差が前提の福祉国家に逆戻りするだけでは気候危機に有効ではない)
・MEGAと呼ばれる新しいマルクス・エンゲルス全集が現在刊行中
(これまで入ってなかった晩年や最晩年の膨大な研究ノートと書簡を網羅した全集)
→これで可能になるのが新しい資本論の解釈
→これまでのマルクス像(略)
→晩期マルクスの大転換が理解されずスターリン主義や環境危機に(略)
・初期「共産党宣言」の楽観的進歩史観(史的唯物論)の特徴(略)
・20年後の「資本論」に取り込んだ「人間と自然の物質代謝の循環的な相互作用」
→人間の特徴的な活動である労働が人間と自然の物質代謝を制御・媒介する
→資本は価値増殖を最優先にするから人も自然も徹底的に利用する
→資本はより短期間で価値を獲得しようとするから人間と自然の物質代謝を攪乱する
→資本の無限運動で物質代謝は変容させられるが最終的に自然のサイクルと相容れない
→なので資本主義は自然の物質代謝に修復不可能な亀裂を生み出すと警告している
・晩年マルクスのエコロジー思想
→資本論第一巻刊行以降、1883年に亡くなるまでの15年間、自然科学研究を続けていた
→過剰な森林伐採、化石燃料の乱費、種の絶滅のテーマを資本主義の矛盾として扱っていた
→晩年のノートでは、生産力の上昇が自然支配を可能にして資本主義を乗り越えるという
楽観論とは大きく異なっている
→資本は修復不可能な亀裂を世界規模で深め、最終的には資本主義も存続できなくなると
・マルクスは転嫁の過程を資本論第一巻刊行以降、具体的に検討しようとしていた
→資本主義で生産力を向上しても社会主義にはならないと転換していた
→晩年には持続可能な経済成長を求める「エコ社会主義」のビジョン
→ところが最晩年には、この「エコ社会主義」をも超えていた
・生産力至上主義とヨーロッパ中心主義を捨てた晩年のマルクスは進歩史観から決別する
→むしろ非西欧を中心とした共同体の積極的評価へと転換している
→史的唯物論がすべてやり直しになる過程(略)
・マルクスが進歩史観を捨て、新しい歴史観を打ち立てるために絶対的に必要だったのが
エコロジー研究と非西欧・前資本主義社会の共同体研究だった(略)
・ゲルマン民族マルク協同体における共有地管理の平等主義
→新しいコミュニズムの基礎となる持続可能性と社会的平等は密接に関係している
・「資本主義との闘争状態にある労働者大衆と科学と・・・」の科学とはエコロジー
・共同体は経済成長をしない循環型の定常型経済
→未開や無知からではなく、生産力を上げられる場合にも権力関係が発生し支配従属関係へと
転化することを防ごうとしていたから
・初期のマルクスが定常型経済であることを理由に切り捨てていたインドの共同体
→この定常性こそが植民地支配への抵抗力になり資本を打ち破りコミュニズムの歴史を作ると
最晩年には主張している
→この認識を可能にしたのが晩年のエコロジー研究で共同体研究とつながっている
・14年の研究の結果、定常型経済に依拠した持続可能性と平等が資本主義への抵抗になり、
将来社会の基礎になると、マルクスは結論づけた
→マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ
→盟友エンゲルスさえ理解できなかった西欧資本主義を乗り越える脱成長コミュニズム
→この思想が見落とされていたことが現在のマルクス主義の停滞と環境危機を招いている
・資本主義が人類の生存そのものを脅かす今こそ、脱成長コミュニズムが追及されねばならず、
最晩年に書かれたザスリーチ宛の手紙は、人新世を生き延びるためのマルクスの遺言である
第5章より
・加速主義批判
→バスターニの「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」
→ムーアの法則による技術革新で稀少性や貨幣の価値がなくなる潤沢な経済に?
→それを推進する政府に投票すればいいだけ?
→これこそ「各人がその必要に応じて受け取る」マルクスのコミュニズムの実現?
→資本は政治では超克できず全て資本主義に取り込まれる→資本による包摂から専制へ
→晩期マルクスが決別した生産力至上主義の典型でエコ近代主義の開き直り
・イギリス・フランスの気候市民議会(略)
・ゴルツの開放的技術と閉鎖的技術(略)
・最も裕福な資本家26人が貧困層38億人(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占
第6章より
・豊かさをもたらすのは資本主義か
→99%の人にとって欠乏をもたらしているのが資本主義
→ニューヨークやロンドンの不動産の例など(略)
・マルクスの本源的蓄積(エンクロージャー)論
→資本がコモンの潤沢さを解体し人工的希少性を増大させていく過程
→なぜ無償の共有地や水力が都市や石炭へと排除されたのか
→潤沢なものを排除した希少性による独占が資本主義には欠かせないから
・ローダデールのパラドックス(略)
・マルクスの「価値と使用価値の対立」
→貧しさに耐える緊縮システムは人工的希少性に依拠した資本主義のシステム
→生産してないから貧しいのではなく、資本主義が希少性を本質とするから貧しいのだ
→新自由主義の緊縮政策が終わっても資本主義が続く限り本源的蓄積は継続する
→希少性を維持増大することで資本は利益を上げ、99%にとっては欠乏が永続化する
→負債→長時間労働→過剰生産→環境破壊→商品依存→負債・・・
・資本の希少性とコモンの潤沢さ→水や電力の民営化ではなく市民営化
・ワーカーズコープなど生産手段の共同所有・管理→私有でも国営でもない社会的所有
・コモンの潤沢さが回復されるほど商品化領域が減りGDPは減少する→これが脱成長
→現物給付の領域が増え貨幣に依存しない領域が増えることは貧しさを意味しない
→相互扶助の余裕が生まれ消費的ではない活動への余地が生まれる
→消費する化石燃料エネルギーは減るが、社会的文化的エネルギーは増大していく
・自然的限界は、どのような社会を望むかによって設定される決断を伴う政治的産物
→どのような社会を望むかは将来世代の声も反映しながら民主的に決定されるべき
→限界設定を専門家や政治家に任せれば、彼らの利害関心世界観が反映される
→ノードハウスが経済成長を気候変動より優先した結果がパリ協定の数値目標になっている
・マルクスの「必然の国と自由の国」
→自己抑制を自発的に行う自制により必然の国を縮小していくことが自由の国の拡大につながる
→人々が自己抑制しないことが資本蓄積と経済成長の条件になっている
→逆に自己抑制を自発的に選択すれば資本主義に抗う革命的な行為になる
→無限の経済成長を断念し万人の繁栄と持続可能性に重きを置く脱成長コミュニズムへ
第7章より
・コロナ禍も気候変動も人新世の矛盾の顕在化という意味では資本主義の産物
→どちらも以前から警告されていたが「人命か経済か」で、行き過ぎた対策は景気を悪くすると
根本的問題への取り組みは先延ばしにされている
・危機が深まれば国家による強い介入規制が専門家から要請され個人も自由の制約を受け入れる
・コロナ戦略を第3章「四つの未来の選択肢」でいえば、
→アメリカ・トランプ大統領やブラジル・ボルソナロ大統領は右上①気候ファシズムにあたる
→資本主義の経済活動を最優先し、反対する大臣や専門家を更迭して突き進んだ
→高額な医療費の支払いやリモートワークで自己防衛できる人だけが救われればいいとか、
アマゾン開発に反対する先住民への感染拡大を好機として伐採規制を撤廃しようとか・・・
→いっぽうで中国や欧州諸国は③気候毛沢東主義にあたる
→移動の自由、集会の自由などが国家によって大幅に制限された
→香港では民主化運動の抑圧に利用され、ハンガリーでは政権がフェイクとみなす情報を
流した者を禁固に処する法案が可決された
・新自由主義は社会の関係を商品化し、相互扶助の関係も貨幣・商品関係に置き換えてきた
→相互扶助や思いやりは根こそぎにされてるので不安な人々は国家に頼るしかない
→気候変動についても①になるのか③になるのか、どちらも国家とテクノクラートの支配
→さらに危機が深まると国家さえ機能しなくなり、右下②野蛮状態へと落ちてゆく
・マスクも消毒液も海外アウトソーシングで手に入らず、先進国の巨大製薬会社は儲かる薬に
特化していて、抗生物質や抗ウィルス薬の研究開発から撤退していた
→商品としての価値を重視し使用価値(有用性)を蔑ろにする資本主義では常に起きること
→食糧も高く売れる商品が重視される資本主義と決別し使用価値を重視する社会に移行すべき
・トマ・ピケティの「資本とイデオロギー」2019年刊行(略)
・従来の脱成長派は消費次元での自発的抑制(節電節水・中古・菜食・物シェアなど)が中心
→ところが所有・分配・価値観の変化だけでは資本主義に立ち向かえない
→労働の場(生産・再生産次元)における変革こそが大転換になる
→自動車産業衰退で破綻したデトロイト市のワーカーズコープなどによる都市有機農業の例
→コペンハーゲン市の都市果樹園の例→入会地・コモンズの復権への一歩
→生産次元に蒔かれた種は、消費次元では生まなかった希望という果実を実らせる
・晩年マルクスの脱成長コミュニズムは大きく以下の5点にまとめられる
①使用価値経済への転換
→使用価値に重きを置いた経済に転換して大量生産・大量消費から脱却する
②労働時間の短縮
→労働時間を短縮して生活の質を向上させる(GDPからQOLへ)
③画一的な分業の廃止
→画一的な労働をもたらす分業を廃止して労働の創造性を回復させる
④生産過程の民主化
→生産プロセスの民主化を進め経済を減速させる→社会的所有(アソシエーション)
⑤エッシェンシャル・ワークの重視
→使用価値経済へ転換して労働集約型エッシェンシャル・ワークを重視する
(使用価値を生み出さないブルシットジョブほど高給で人が集まり、社会の再生産に必須な
使用価値の高いものを生み出すエッセンシャルワークほど低賃金で人手不足になっている
→役に立つ、やりがいのある仕事をしているという理由で低賃金・長時間労働に)
・これまでのマルクス主義者の解釈には経済成長を減速させるという文脈はなかった
→脱成長コミュニズムにより物質代謝の亀裂を修復するべき
・グローバル資本主義で疲弊した都市では新しい経済を求める動きが世界で起きている
→脱成長コミュニズムを掲げているわけでも目指しているわけでもないが、その運動
・エクアドル憲法のブエン・ビビール(良く生きる)、ブータン憲法のGNH・・・
→(晩年のマルクスが願っていた)これまでのヨーロッパ中心主義を改めグローバル・サウス
から学ぼうとする、新しい運動も出てきている→21世紀の環境革命に
第8章より
・晩期マルクスの主張は都市の生活や技術を捨てて農耕共同体に戻るというものではない
→都市や技術発展の合理性を完全に否定する必要はないが、都市には問題点も多い
→現在の都市は相互扶助が解体され大量のエネルギーと資源を浪費している
→ただし合理的でエコロジカルな都市改革の動きが地方自治体に芽生えつつある
・スペイン・バルセロナ市とともに闘う各国の自治体
→フェアレス・シティ→国家の新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自治体
→国家もグローバル企業も恐れずに住民のために行動することを目指す都市
→アムステルダム、パリ、グルノーブルなど世界77都市の政党や市民団体が参加している
・バルセロナ市の気候非常事態宣言の例
→声掛けだけでなく数値目標、分析、行動計画を備えたマニフェスト
→自治体職員の作文でもシンクタンクの提案書でもなく市民の力の結集(内容は略)
→ここに至るまでに10年に及ぶ市民の取り組みが存在している(内容は略)
・フェアレス・シティには相互扶助だけでなく都市間の協力関係があり、新自由主義の時代に
民営化されてしまった水道事業などの公共サービスを再び公営化するノウハウなども共有される
→国際的に開かれた自治体主義→ミュニシパリズム
・国家に依存しない参加型民主主義や共同管理の例
→メキシコ・チアパス州サパティスタの抵抗運動は北米自由貿易協定から(内容は略)
→国際農民組織ヴィア・カンペシーナは中南米を中心に2億人以上(内容は略)
→資本主義の外部(今はグローバル・サウス)における残虐性への反資本主義運動
→まさに晩年のマルクスがインドやロシアの運動から摂取した脱成長コミュニズム
・気候正義と食料主権の例
→南アフリカ食糧主権運動→石炭石油化企業の操業停止運動も→運動の国際化へ
・従来マルクス主義の成長論理による将来社会は資本家と搾取がないだけで今と変わらない
→実際にソ連の場合は官僚による国営企業管理の「国家資本主義」になってしまった
・新自由主義の緊縮政策(社会保障費の削減、非正規雇用の増大による賃金低下、民営化による
公共サービスの解体などの推進)には、左派が抵抗しようとしているが・・・
→財政出動で多くを生産し蓄積し経済成長すれば潤沢になるのなら今までどおりの思考
→反緊縮だけでは自然からの収奪は止まらない
→経済を回すだけでは人新世の危機は乗り越えられない
→気候危機の時代には政策の転換より一歩進んだ社会システムの転換を志す必要がある
・緑の経済成長グリーンニューディールも夢の技術ジオエンジニアリングもMMT経済政策も、
大転換を要求する裏で、その危機を生み出している資本主義の根本原因を維持しようとしている
→これが究極の矛盾
・政府ができるのは問題の先送り対策ぐらいで、この時間稼ぎが地球環境には致命傷になる
→国連のSDGsも同じで、中途半端な解決策で人々が安心してしまうと致命傷になる
→石油メジャー、大銀行、GAFAなどデジタルインフラの社会的所有こそが必要なのだ
・私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理コモンがコミュニズムの基盤
→これは国家を拒絶することを意味しない→アナーキズムでは気候変動に対処できない
→インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば解決手段の国家を拒否することは愚かでさえある
→ただし国家に頼り過ぎると気候毛沢東主義に陥る危険がある
・国家の力を前提にしながらコモンの領域を広げていく
→民主主義を議会の外へ、生産の次元へと拡張していく
→協同組合、社会的所有、市民営化・・・
→議会制民主主義そのものも大きく変容しなくてはならない
→地方自治体レベルではミュニシパリズム、国家レベルでは市民議会がモデルになる
・資本主義の超克(経済)、民主主義の刷新(政治)、社会の脱炭素化(環境)の三位一体の大転換
→このプロジェクトの基礎となるのが信頼と相互扶助
→それがなければ非民主的トップダウン型の解決策しか出てこない
→ところが他者への信頼や相互扶助は今は新自由主義で徹底的に解体されている
→なので顔の見えるコミュニティーや地方自治体をベースに回復するしかない
・希望はローカルレベルの運動が、いまや世界中の仲間と繋がっているということ
→「希望をグローバル化するために、たたかいをグローバル化しよう」
(ヴィア・カンペシーナのメッセージ)
→国際的連帯による経験は価値観を変え想像力が広がって今までにない行動ができる
・コミュニティーや社会運動が大きく動けば政治家も大きな変化を恐れなくなる
(バルセロナの市政やフランスの市民議会などの例)
→社会運動と政治の相互作用は促進されボトムアップの社会運動とトップダウンの政党政治は
お互いの力を最大限に発揮できるようになる
→ここまでくれば無限の経済成長と決別した持続可能で公正な社会が実現する
→もちろん着地点は相互扶助と自治に基づいた脱成長コミュニズムである
おわりにより
・マルクスで脱成長なんて正気か・・・との批判を覚悟の上で執筆を始めた
→左派の常識ではマルクスは脱成長など唱えていないということになっている
→右派はソ連の失敗を繰り返すのかと嘲笑するだろう
→さらに脱成長という言葉への反感はリベラルのあいだに非常に根強い
→それでも最新マルクス研究の成果を踏まえ、これが最善の道と確信した
・冷戦終結直後にフランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を唱え、ポストモダンは
「大きな物語の失効」を宣言した
→だが、その後の30年で明らかになったように、資本主義を等閑視した冷笑主義の先に
待っているのは「文明の終わり」である
→だからこそ連帯して脱成長コミュニズムを打ち立てなければならない
・3.5%の人が非暴力な方法で本気で立ち上がると社会が大きく変わるという研究がある
→フィリピンのピープルパワー革命やグルジアのバラ革命など
→ニューヨークのウォール街占拠もバルセロナの座り込みも最初は少人数だった
→グレタ・トゥーンベリの学校ストライキなど「たったひとり」だった
→課題が大きいことを何もしないことの言い訳にしてはいけない
・わたしたちが無関心だったせいで、1%の富裕層・エリート層が好き勝手に、自分たちの
価値観に合わせて社会の仕組みや利害を作り上げてしまったが、はっきりNOを突き付けるとき
→3.5%の動きが大きなうねりになれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、
脱炭素社会も実現されるに違いない・・・
以上、わたくしが分かる範囲での疑問を交えない読書メモですが勘違いもあるので、
興味を持たれた方は本書をお読みくださいね
2023年10月24日
【図解】新・地政学入門
とーとつですが・・・
【図解】新・地政学入門とゆー本であります
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
著者は大蔵(財務)官僚から小泉内閣・第一次安倍内閣・菅政権のブレーンになった人・・・
例によって目次のみ・・・
本章は中国、ロシア、ヨーロッパ、アメリカの4章で構成されてます
著者の政策や主張についてはさておき、とりあえず一部の概要メモです
まえがきより
・地政学とは世界の戦争の歴史を知ること
→地理的条件で一国の危機意識も戦略思想も何から何まで変わる
→危機意識や戦略思想が目に見える形で現れるのが戦争
→国民性とかお国柄とか呼ばれるものにも地理的条件が深く関わっている
→地理的条件により国の生き残りや発展をかけた野心が生まれ様々な戦争が起こってきた
→すべての戦争には地理的条件による各国なりの「切実な事情」が絡んでいる
→そうした戦争の歴史を知ることが地政学であり、この視点で世界の深層をとらえる
プロローグより
・国家・国境・民族という単位での戦争の歴史は現代を生きる知恵に直結する
→歴史の背景には国家の思惑、目論見、野心が存在する
→理解に必要なのは年号と出来事ぐらい、情緒を交えず冷徹に事実関係だけを把握する姿勢と
「大体の流れを把握する」という大雑把な視点
・戦争は領土および領土に付随するものを巡って起こってきた→地理的条件
→地政学的な視点を持つと、世界はどう動くか、我が国はどう立ち回るべきかまで、
地に足のついた思考力で考えることができる
・相手が引けば押すのが国際政治の常識→なめるか、なめられるか
・近代以降で重要なのは陸より海で本当は地政学というより海政学
→海外進出のためには海を制さねばならない
→地中海を制したパクス・ロマーナから世界を制した第一次世界大戦までのパクス・ブリタニカ、
第二次世界大戦後のパクス・アメリカーナ・・・
・「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー著)にある図表
(歴代上位21戦争の死者数と、その分母を20世紀中葉の人口に換算した図表)
→換算前の死者数トップは第二次世界大戦で20世紀だが、換算後は8世紀の安史の乱になる
→上位21戦争のうち2/3が19世紀以前で人口換算すれば上位8位までが19世紀以前の戦争
→これによりピンカーは20世紀以降、人類は平和になったと指摘している
・民主国家は独裁国家に比べ戦争を起こす確率が絶対的に低い
→民主主義という政治システムは根本的に戦争とは相容れない
→個の価値が高まり戦争抑止効果が政治家、民衆、軍部に働くのが民主主義国家
→自由貿易による現代の平和を資本主義的平和、自由主義的平和と呼ぶ学者もいる・・・
以下、各章は以前紹介したこちらの本と重なる部分もあり読み飛ばしもあるのでメモは省略、
第一次世界大戦から第二次世界大戦へのヨーロッパの流れのみ・・・
・1903年
→ドイツの3B政策(ベルリン・バグダッド・ビザンティウム(イスタンブール)を結ぶ鉄道敷設権)と
イギリスの3C政策(カルカッタ・カイロ・ケープタウンを結ぶ鉄道敷設権)の対立
→オスマン帝国領地へのロシアを含む各列強の進出と複雑化するバルカン半島問題も絡む
(オスマン帝国はイスラム以外の共同体自治も認めて共存していたが衰退し各国が独立)
・1908年
→オスマン帝国の青年トルコ革命に乗じたオーストリア=ハンガリー帝国によるボスニアと
ヘルツェゴビナの併合
・1912年
→ロシア支援によるセルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシャのバルカン同盟
(パン・スラブのロシアとパン・ゲルマンのオーストリア=ハンガリー帝国の対立)
→オスマン帝国対バルカン同盟国の第一次バルカン戦争
・1913年
→オスマン帝国に勝利したバルカン同盟国内のマケドニアをめぐる第二次バルカン戦争
(セルビア・ギリシャ側にオスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニアがつきブルガリアが敗北、
その後ブルガリアはドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国に近づく)
→イギリス、フランス、ロシアは三国協商、フランスはアルザス・ロレーヌ地方の領有権でも
ドイツと対立しており、ロシアもパン・スラブとパン・ゲルマンでドイツと対立していた
→連合国と同盟国の形成へ
・1914年
→サラエボ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアへ宣戦布告
→僅か一週間で列強すべてが参戦、連合国と同盟国に分かれた第一次世界大戦に
(ナポレオン戦争以来100年ぶりのヨーロッパ大戦争で世界中を巻き込んだ)
・1919年のベルサイユ条約
→オーストリア=ハンガリー帝国は解体、ドイツは領土縮小、巨額の賠償金、軍備制限
→ルーマニア、ポーランドに領土を割譲、チェコ人とスロバキア人によるチェコスロバキア、
クロアチア人、スロベニア人、セルビア、モンテネグロが合体したユーゴスラビアなどが独立
→英仏がロシア共産革命に対する防御壁として、小さな独立国家を乱立させた
→オスマン帝国も解体→英仏によるクルド人地域の分割統治など(略)
→さらにイギリスの多重外交などにより現代まで続く中東問題に(略)
・1929年の世界大恐慌
→巨額の賠償金をアメリカ資本に頼ろうとしていたドイツでのヒトラーの台頭
→公共事業で失業者を一挙に減らし軍備を増強、隣国への実力行使へ
→オーストリア、チェコスロバキアのズデーデン地方の併合(1938年)
・1939年~第二次世界大戦
→独ソ不可侵条約によってドイツがポーランドに侵攻
→ポーランド支援を約束していた英仏による宣戦布告
→イギリス上陸を阻まれたドイツは再び東欧、バルカン半島へ
→独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に侵攻(1941年6月)
→ドイツを止めたいアメリカ・イギリスの支援もあり1943年はじめに撤退
→1945年5月に無条件降伏
→1949年に東西に分断され冷戦構造に関わっていく・・・
・NATO
→今回フィンランド、スウェーデンが加盟したのは「戦争をしたくないから」
→集団的自衛権を認めた方が戦争確率が下がるから
→集団的自衛権推進派だった私を「戦争愛好者」と罵っていた人たちは何を思うだろう
→EUがギリシャ危機を見捨てなかったのもNATOとしての安全保障から
(ロバート・マンデルの最適通貨圏理論では最もユーロに適さない国)
・地理的条件によって左右されるエネルギーも地政学上の重要なファクター
→天然資源の乏しい国にとって原子力発電は虎の子
→廃炉してしまったドイツは地政学的リスクを甘く見すぎていた
エピローグより
・戦争の歴史は国家の領土拡大渇望の歴史だが国際社会の基本姿勢は今や「不戦」になっている
→不戦のためにすべきことは相手に思いとどまらせること→反撃能力を示すこと
→戦って自分を守るためではなく戦わずして自分を守るため、しっかり武装しておくこと
・地政学的リスクから集団的自衛権の是非は明確
→不戦が基本姿勢でも帝国主義的野心の国は存在するから牽制活動が必要
→戦後1000人以上の戦死者を出した軍事衝突39回のうち15回はアジア
→戦後の紛争地のうち39%がアジア(中東24%アフリカ16%ヨーロッパ13%)
→同盟国との集団的自衛権を「見せる」ことは自己防衛の基本
・国際政治では同盟と軍事力を強調するのがリアリズム、民主主義と貿易依存と国際機関を
強調するのがリベラルといわれ、これまで平和について論争してきた
→膨大な戦争データの分析で、どちらも正しいことが実証された(2001年)
(戦争リスクの減少割合)
・きちんとした同盟関係を結ぶことで40%
・相対的な軍事力が一定割合増すことで36%
・民主主義の程度が一定割合増すことで33%
・経済的依存関係が一定割合増すことで43%
・国際的組織加入が一定割合増すことで24%
→独立国にふさわしい軍備で牽制効果を高め、きちんとした同盟関係を結び、民主主義国同士で
自由貿易を行う関係を築き、国連に加盟すれば、世界の戦争リスクはぐんと下がる
→外交とは安全保障と貿易について話し合うこと・・・
云々・・・
著者の政策や主張については賛否両論でしょうが、ま、それも民主主義ですね・・・
【図解】新・地政学入門とゆー本であります
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
著者は大蔵(財務)官僚から小泉内閣・第一次安倍内閣・菅政権のブレーンになった人・・・
例によって目次のみ・・・
本章は中国、ロシア、ヨーロッパ、アメリカの4章で構成されてます
著者の政策や主張についてはさておき、とりあえず一部の概要メモです
まえがきより
・地政学とは世界の戦争の歴史を知ること
→地理的条件で一国の危機意識も戦略思想も何から何まで変わる
→危機意識や戦略思想が目に見える形で現れるのが戦争
→国民性とかお国柄とか呼ばれるものにも地理的条件が深く関わっている
→地理的条件により国の生き残りや発展をかけた野心が生まれ様々な戦争が起こってきた
→すべての戦争には地理的条件による各国なりの「切実な事情」が絡んでいる
→そうした戦争の歴史を知ることが地政学であり、この視点で世界の深層をとらえる
プロローグより
・国家・国境・民族という単位での戦争の歴史は現代を生きる知恵に直結する
→歴史の背景には国家の思惑、目論見、野心が存在する
→理解に必要なのは年号と出来事ぐらい、情緒を交えず冷徹に事実関係だけを把握する姿勢と
「大体の流れを把握する」という大雑把な視点
・戦争は領土および領土に付随するものを巡って起こってきた→地理的条件
→地政学的な視点を持つと、世界はどう動くか、我が国はどう立ち回るべきかまで、
地に足のついた思考力で考えることができる
・相手が引けば押すのが国際政治の常識→なめるか、なめられるか
・近代以降で重要なのは陸より海で本当は地政学というより海政学
→海外進出のためには海を制さねばならない
→地中海を制したパクス・ロマーナから世界を制した第一次世界大戦までのパクス・ブリタニカ、
第二次世界大戦後のパクス・アメリカーナ・・・
・「暴力の人類史」(スティーブン・ピンカー著)にある図表
(歴代上位21戦争の死者数と、その分母を20世紀中葉の人口に換算した図表)
→換算前の死者数トップは第二次世界大戦で20世紀だが、換算後は8世紀の安史の乱になる
→上位21戦争のうち2/3が19世紀以前で人口換算すれば上位8位までが19世紀以前の戦争
→これによりピンカーは20世紀以降、人類は平和になったと指摘している
・民主国家は独裁国家に比べ戦争を起こす確率が絶対的に低い
→民主主義という政治システムは根本的に戦争とは相容れない
→個の価値が高まり戦争抑止効果が政治家、民衆、軍部に働くのが民主主義国家
→自由貿易による現代の平和を資本主義的平和、自由主義的平和と呼ぶ学者もいる・・・
以下、各章は以前紹介したこちらの本と重なる部分もあり読み飛ばしもあるのでメモは省略、
第一次世界大戦から第二次世界大戦へのヨーロッパの流れのみ・・・
・1903年
→ドイツの3B政策(ベルリン・バグダッド・ビザンティウム(イスタンブール)を結ぶ鉄道敷設権)と
イギリスの3C政策(カルカッタ・カイロ・ケープタウンを結ぶ鉄道敷設権)の対立
→オスマン帝国領地へのロシアを含む各列強の進出と複雑化するバルカン半島問題も絡む
(オスマン帝国はイスラム以外の共同体自治も認めて共存していたが衰退し各国が独立)
・1908年
→オスマン帝国の青年トルコ革命に乗じたオーストリア=ハンガリー帝国によるボスニアと
ヘルツェゴビナの併合
・1912年
→ロシア支援によるセルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシャのバルカン同盟
(パン・スラブのロシアとパン・ゲルマンのオーストリア=ハンガリー帝国の対立)
→オスマン帝国対バルカン同盟国の第一次バルカン戦争
・1913年
→オスマン帝国に勝利したバルカン同盟国内のマケドニアをめぐる第二次バルカン戦争
(セルビア・ギリシャ側にオスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニアがつきブルガリアが敗北、
その後ブルガリアはドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国に近づく)
→イギリス、フランス、ロシアは三国協商、フランスはアルザス・ロレーヌ地方の領有権でも
ドイツと対立しており、ロシアもパン・スラブとパン・ゲルマンでドイツと対立していた
→連合国と同盟国の形成へ
・1914年
→サラエボ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアへ宣戦布告
→僅か一週間で列強すべてが参戦、連合国と同盟国に分かれた第一次世界大戦に
(ナポレオン戦争以来100年ぶりのヨーロッパ大戦争で世界中を巻き込んだ)
・1919年のベルサイユ条約
→オーストリア=ハンガリー帝国は解体、ドイツは領土縮小、巨額の賠償金、軍備制限
→ルーマニア、ポーランドに領土を割譲、チェコ人とスロバキア人によるチェコスロバキア、
クロアチア人、スロベニア人、セルビア、モンテネグロが合体したユーゴスラビアなどが独立
→英仏がロシア共産革命に対する防御壁として、小さな独立国家を乱立させた
→オスマン帝国も解体→英仏によるクルド人地域の分割統治など(略)
→さらにイギリスの多重外交などにより現代まで続く中東問題に(略)
・1929年の世界大恐慌
→巨額の賠償金をアメリカ資本に頼ろうとしていたドイツでのヒトラーの台頭
→公共事業で失業者を一挙に減らし軍備を増強、隣国への実力行使へ
→オーストリア、チェコスロバキアのズデーデン地方の併合(1938年)
・1939年~第二次世界大戦
→独ソ不可侵条約によってドイツがポーランドに侵攻
→ポーランド支援を約束していた英仏による宣戦布告
→イギリス上陸を阻まれたドイツは再び東欧、バルカン半島へ
→独ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連に侵攻(1941年6月)
→ドイツを止めたいアメリカ・イギリスの支援もあり1943年はじめに撤退
→1945年5月に無条件降伏
→1949年に東西に分断され冷戦構造に関わっていく・・・
・NATO
→今回フィンランド、スウェーデンが加盟したのは「戦争をしたくないから」
→集団的自衛権を認めた方が戦争確率が下がるから
→集団的自衛権推進派だった私を「戦争愛好者」と罵っていた人たちは何を思うだろう
→EUがギリシャ危機を見捨てなかったのもNATOとしての安全保障から
(ロバート・マンデルの最適通貨圏理論では最もユーロに適さない国)
・地理的条件によって左右されるエネルギーも地政学上の重要なファクター
→天然資源の乏しい国にとって原子力発電は虎の子
→廃炉してしまったドイツは地政学的リスクを甘く見すぎていた
エピローグより
・戦争の歴史は国家の領土拡大渇望の歴史だが国際社会の基本姿勢は今や「不戦」になっている
→不戦のためにすべきことは相手に思いとどまらせること→反撃能力を示すこと
→戦って自分を守るためではなく戦わずして自分を守るため、しっかり武装しておくこと
・地政学的リスクから集団的自衛権の是非は明確
→不戦が基本姿勢でも帝国主義的野心の国は存在するから牽制活動が必要
→戦後1000人以上の戦死者を出した軍事衝突39回のうち15回はアジア
→戦後の紛争地のうち39%がアジア(中東24%アフリカ16%ヨーロッパ13%)
→同盟国との集団的自衛権を「見せる」ことは自己防衛の基本
・国際政治では同盟と軍事力を強調するのがリアリズム、民主主義と貿易依存と国際機関を
強調するのがリベラルといわれ、これまで平和について論争してきた
→膨大な戦争データの分析で、どちらも正しいことが実証された(2001年)
(戦争リスクの減少割合)
・きちんとした同盟関係を結ぶことで40%
・相対的な軍事力が一定割合増すことで36%
・民主主義の程度が一定割合増すことで33%
・経済的依存関係が一定割合増すことで43%
・国際的組織加入が一定割合増すことで24%
→独立国にふさわしい軍備で牽制効果を高め、きちんとした同盟関係を結び、民主主義国同士で
自由貿易を行う関係を築き、国連に加盟すれば、世界の戦争リスクはぐんと下がる
→外交とは安全保障と貿易について話し合うこと・・・
云々・・・
著者の政策や主張については賛否両論でしょうが、ま、それも民主主義ですね・・・
2023年10月19日
地図は語る・・・
とーとつですが・・・
地図は語る~データがあぶり出す真実~ビジュアルで見る過去・現在・未来~
とゆー本のご紹介であります
冒頭にあった奥付
裏表紙カバー裏にあった著者略歴
例によって目次のみのご紹介・・・
まずは大項目の目次
続く小項目の目次・・・
そう、小項目の目次が全て地図と図表なのでありますね
項目によっては複数の地図と図表があり、それらが語るものを解説する、とゆーパターンで、
知らなかった事実も多く、確かに分かりやすかったです
もともと地図を眺めて、あれこれ想像するのは大好きなんですが、様々なビッグデータを
地図に落とし込むと、文章では理解しにくい事柄が一瞬で理解できるんですね
何せ「地図は語る」ですから文章でメモするのはあきらめましたが、ひとつだけ・・・
小項目の目次1枚目にある25「機密情報の暴露」であります
これはスマホ用ジョギングアプリのデータから得られたアフリカにある米軍の秘密基地の地図
そう、秘密基地内をジョギングしていた兵士たちの軌跡から秘密基地の姿がくっきりと・・・
こんなふうにデータを重ねていくと、衛星画像でも作れない地図も作成できるんですね
他の項目も面白かったので興味を持たれた方は本書のご一読を・・・
地図は語る~データがあぶり出す真実~ビジュアルで見る過去・現在・未来~
とゆー本のご紹介であります
冒頭にあった奥付
裏表紙カバー裏にあった著者略歴
例によって目次のみのご紹介・・・
まずは大項目の目次
続く小項目の目次・・・
そう、小項目の目次が全て地図と図表なのでありますね
項目によっては複数の地図と図表があり、それらが語るものを解説する、とゆーパターンで、
知らなかった事実も多く、確かに分かりやすかったです
もともと地図を眺めて、あれこれ想像するのは大好きなんですが、様々なビッグデータを
地図に落とし込むと、文章では理解しにくい事柄が一瞬で理解できるんですね
何せ「地図は語る」ですから文章でメモするのはあきらめましたが、ひとつだけ・・・
小項目の目次1枚目にある25「機密情報の暴露」であります
これはスマホ用ジョギングアプリのデータから得られたアフリカにある米軍の秘密基地の地図
そう、秘密基地内をジョギングしていた兵士たちの軌跡から秘密基地の姿がくっきりと・・・
こんなふうにデータを重ねていくと、衛星画像でも作れない地図も作成できるんですね
他の項目も面白かったので興味を持たれた方は本書のご一読を・・・
2023年09月21日
人類の起源
とーとつですが・・・
人類の起源~古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」~
とゆー本のご紹介であります(備忘のための読書メモです)
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、こちらの記事の続きとゆーか、前回記事、前々回記事の前段階とゆーか・・・
日本などの古代史も含んだ最新研究による「人類の起源」であります
例によって目次のみ
以下、脳の外部記憶としてのメモ書きです
まず「はじめに」にあった本書のダイジェストより
・これまで現生人類ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで生まれたとされてきたが、
→ネアンデルタール人のDNA解析により彼らの祖先と分かれたのは60万年前と判明した
→別れた後も交雑を繰り返し他の絶滅人類とも交雑していたことも判明しつつある
・現代人DNAとの比較研究で、現生人類はアフリカ→中東→ヨーロッパや南アジア→
東南アジアやオセアニア→東アジア→南北アメリカ大陸へと拡がったことが判明した
・どのように現代の地域集団を形成していったのか
→古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは集団の大きな遺伝的変化があった
・世界各地の人類集団(民族)は、ある地域における「ヒトの移動の総和」といえる
→特定の遺伝子分布の地域差は集団成立の有力な手がかりになる
・1980年代に発明されたPCR法はウィルス検知だけでなく人類学にも多大な恩恵をもたらした
→古代DNA研究は考古学・歴史学・言語学の分野にも大きなインパクトを与えている
→「人間とは何か」→現時点で何が明らかになり、研究は何を目指しているのか・・・
第一章「人類の登場」より
・1859年のダーウィンの進化論→ヒトの祖先は?→神から化石人類学へ
→約700万年に及ぶ人類進化が大まかに示された
・神話と科学の違い
→科学は間違いと訂正の歴史
→なので科学を間違いないと信奉することは理解の障害にもなる
→本書の古代ゲノム解析による説明も現時点での結論であり将来反証されることもある
・ホモ属にはいくつもの種があったが、現在生存しているのはサピエンス種だけ
・人類の定義→本書では「生物学的に自由に交配して子孫を残せるグループ」という視点
→この視点は世界の集団形成を理解する際にも重要
・人類の祖先とチンパンジーの祖先が分かれたのは700万年前
→ホモ属が登場するのは250~200万年前
→サピエンス種が登場するのは30~20万年前
→ホモ・サピエンスの出アフリカは6万年前、顕著な文化発展は5万年前(異説あり)
→どの時点をもって人類の誕生としているか→読み手の注意が必要
・文明が農耕からなら1万年、文字に残る「人類の歴史」からなら5000年・・・
→歴史的な経緯や地域環境による文明の違いはヒトの選択による「多様性」であり、
→世界中の文明はヒトという共通の基盤に立っている
→この認識は現実世界を理解するうえでも欠かせない視点
・現在では、異なる進化段階の種が同時代に生きていたこともわかっているが、
→進化傾向を捉えるためには初期猿人→猿人→原人→旧人→新人という段階は便利な考え方
→それでも同時代・同所に多数の化石人類が見つかっているので状況は混乱している
・約200万年前に登場したホモ・エレクトスは最初に出アフリカを果たした原人
→アフリカ・西アジア・中国・ジャワ島などで発見されている人類
→20万年前の化石もあり180万年も生存していた(ホモ・サピエンスは20万年程度)
→フローレス島で発見されたホモ・エレクトスから進化したホビットは6万年前まで生存
・ネアンデルタール人は旧人とされてきたが2016年のDNA分析の成功で大きく変わった
→これ以降、人類進化はDNAデータで語られるようになる
→ネアンデルタールで発達したのは主に視覚に関わる後頭葉部分
→ホモ・サピエンスで発達したのは思考や創造性などの前頭葉部分
→どちらも脳の容量はほぼ同じで交雑していた
(コラム1より)
・ホモ・サピエンスの大脳新皮質で共同体を構成する人の顔・名前・考え・バックグラウンドが
理解できる人数は150人程度
→なので狩猟採集社会から現代社会まで150人程度を社会構成の単位としてきた(ダンパー数)
→言語・文字・物語・宗教・歌・音楽といった文化要素により、時間や空間を超えて概念や
考え方を共有するハードウェアで、なんとか複雑な社会を形成していった
→現在は(脳の容量は変わらないのに)通信ネットワークで何百人(何千人)が同時につながりあい、
それらの大量のデータが行き交う高度な社会環境
→自分の脳の処理能力より、はるかに多量のデータにさらされている状況
→バランスのとれた情報処理ができずに社会が混乱しているのも至極当然・・・
第二章「私たちの隠れた祖先」より
・2010年以降に核DNA分析が可能になり、次々と新たな事実が明らかになっている
→1980年代からコンタミネーション(混入)が問題だったがDNA分析を前提とした発掘に
・ネアンデルタール人はユーラシア大陸の西半分に分布していた
→ホモ・サピエンス集団のひとつがネアンデルタールと交雑して世界に拡がった
→交雑しなかった集団もコーカサスや中東、北イランに存在しており現在のヨーロッパ人の
形成に関与したので、現代ヨーロッパ人のネアンデルタールDNAは相対的に少ない
・ホモ・サピエンスとネアンデルタールは数十万年も交雑している
→初期の交雑はアフリカとは考えにくく、ホモ・サピエンスの出アフリカが6万年前ではなく
40万年前よりやや新しい時代だったのか、あるいはホモ・サピエンスがユーラシア大陸で
他の未知の人類から進化したのか→まだ完全解明には至っていない
・デニソワ洞窟ではデニソワ人とネアンデルタール人の混血少女の化石が確認されている
→パプア人DNAの3~6%はデニソワ人DNAに由来
→東アジア・南アジア・アメリカ先住民もパプア人の1/20程度のデニソワ人DNAを共有
→東アジアのゲノムはパプアとは別で、少なくとも2回は別々にデニソワ人と交雑していた
→チベット人にもデニソワ人DNAがあるが、ホモ・サピエンスがチベット高原に来たのは11000年前
→これらから、デニソワ人は数万年前まで生きていた可能性が示された
・サハラ以南のアフリカ人ではデニソワ人と未知の人類との混血が推察される
→3人類とは別の人類がいてデニソワ人と交雑した可能性
→異なる系統人類の混血が長期間続いた結果がホモ・サピエンス遺伝子にも残っている
・ユーラシア大陸に拡散した人類は単一種ではなく各段階が同時期・同所に存在
→20世紀の終わりまでホモ・サピエンスは他地域進化説だった
→21世紀になると6万年前にアフリカを出て他の人類を駆逐したというアフリカ起源説
→2010年以降は拡散過程で他の人類の遺伝子を取り込んだことが明らかになった
→アフリカ起源説が他地域進化説の一部を取り込む形で収束した
・生存に不利な遺伝子は徐々に集団から取り除かれる
→アフリカでも世界展開の途中でも交雑は長期に繰り返されている
→iPS細胞や遺伝子編集技術で理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人の復活も可能
第三章「人類揺籃の地アフリカ」より
・アフリカでのホモ・サピエンス拡散の様子(略)
・ホモ・サピエンスが30万年前にアフリカで誕生したことはほぼ定説になっているが、
→ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先から分岐したのは60万年前と判明してるのに、
→長期間にわたるホモ・サピエンスの祖先の化石がアフリカにないこと
→数十万年前にはネアンデルタール人と交雑があったことを考えると、
→最初の祖先はユーラシア大陸の原人で、
→そこから3人類が生まれ30万年前以降にアフリカに移動したグループが世界に拡がり、
→残ったグループはネアンデルタールと交雑した後に絶滅した、とも考えられる
・異なる人類の交雑が明らかになったので、起源はアフリカだけでなく広範囲で考えるべき
→イスラエルでは古いネアンデルタールよりも古いホモ・サピエンスが発見されている
→古い交雑はこの地域だった可能性がある
・ホモ・サピエンスの世界展開は、現代人のゲノム解析から6万年前以降とされてきたが、
中国・ギリシャ・東南アジア・オーストラリアから、それよりも古い化石の報告がある
・農耕民と牧畜民の起源
→アフリカ西部の農耕による人口拡大→移動→集団(言語)の分化
(世界各地でも初期農耕民の拡大が言語族の分布と結びついている)
→牧畜民には乳糖耐性遺伝子が必要→牧畜とともにヨーロッパに(新石器時代にはなかった)
→生業と遺伝子と言語には密接な関係がある
・現代人のゲノムにはネアンデルタール人やデニソワ人とは異なる人類との交雑を認める結果も
示されており、アフリカには30万年前の謎の人類ホモ・ナレディもいた・・・
第四章「ヨーロッパへの進出」より
・ホモ・サピエンスの出アフリカは20万年前以降に何度か試みられていた
→我々につながる祖先の出アフリカは6~5万年前
→シベリアでのネアンデルタールとの交雑時期は52000~58000年前
→中東での交雑は出アフリカの初期と考えられるので6万年前が妥当
→ただし南アジア・オーストラリアなどで6万年前より古い化石や石器が見つかっている
→6万年前より以前は放射性炭素年代測定が困難なので各説がある
→これ以降1万年前の農業生産まで(後期旧石器時代)の気候変動が離散と集合を促した
・現代人につながる系統だけでも、出アフリカから1万年の間に東アジア系・ヨーロッパ系・
ユーラシア基層集団の3系統が成立した
・出アフリカ集団は単一系統ではなく現在の集団はそれらの離合拡散・交雑・隔離を経たもの
・最も研究の進んでいるヨーロッパ集団について(略)
・ヨーロッパでも日本でも狩猟採集民のゲノムは10%から25%
→基本的に狩猟採集民は農耕民の社会に飲み込まれている
・5300年前のアイスマンのゲノムはアルプス人ではなくサルディニア人と近縁だった
→サルディニア人は8000年前に移住して混合しなかったヨーロッパ初期農耕民の子孫
→移住前の農耕民のゲノムを残しており現代ヨーロッパ人とは異なる→なぜか?
→5000年前にヨーロッパ人の遺伝的な構成が大きく変わったから
→その原因は東のステップ地域から来た牧畜民
→ヨーロッパ人の地域差は狩猟採集民と農耕民と牧畜民の混合の仕方の違い
→牧畜民のゲノムの割合が高いほど身長が高いなど・・・
→牧畜民ゲノムからはペスト菌DNAの断片が検出されており農耕民に大打撃を与えた可能性
→古代ゲノム解析は疫病研究にも重要な知見をもたらす
第五章「アジア集団の成立」より
・1万年前より古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析は一部しか行われていないが、
→出アフリカ集団は中東で1万年ほど停滞していた
→5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまで拡散した
・ユーラシア東部へは北ルートと南ルートが考えられている
→南ルートでは古代南インド狩猟民集団→一部が東南アジアへ→デニソワ人と混血?
→一部がパプアニューギニア、オーストラリアへ
→北ルートで北上したグループが古代東アジア集団を形成した?
・ヒントは縄文人のゲノム
→日本列島にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前
→16000年前に土器が作られ3000年前に稲作が入るまでの13000年の間が縄文時代
→この間に遺伝組成を変えるような外部からの流入はなかったので縄文人ゲノムがヒントに
・縄文人のゲノムを共有している現在の東アジア人
多い順にアイヌ集団→沖縄の人→本州・四国・九州の日本人
→沿海州の先住民、韓国人、台湾の先住民も僅かに共有している
→アムール流域の先住民、新石器・鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団とは非常に古い
時代に分岐した同じ系統に属することも判明している
→古代南インド狩猟民集団→チベットや東アジアの沿岸地域へ→日本では縄文人に
・縄文人は4万年前以降に異なるふたつの系統が合流して形成された
→別々に南北から流入したのか大陸沿岸部で合流してから流入したのかは不明
・シベリア集団の変遷、アメリカ大陸集団の起源・・・
→複雑な集団の置換によりユーラシア北部から南北アメリカのモザイク状の遺伝構成へ
・1万年前以降は解析できる人骨も多く、1万年前には遺伝的に区別できる9集団がいた
→これらの離合集散が青銅器時代以降の集団形成に関わることになる
→スキタイ、匈奴、フン族などの遊牧騎馬民族も異なる遺伝的特徴を持った集団の連合体
→なので中央アジアの広大なステップを遺伝的に単一の集団が支配したことはない
・3回にわたる移住の波が南アジア集団の遺伝的構成を決定した
→9000年前の狩猟採集民と初期農耕民の混合
→7400~5700年前の混合完成と、その後の北方集団との混合
→4600~3900年前のインダス文明の初期農耕民にはイラン牧畜民や狩猟採集民ゲノムもある
・南アジアから東南アジアには5万年前
→どちらもDNA保存に適した地域ではないので現代人DNAからの考察
→遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応している
→東南アジアの半島部と島嶼部は、ホモ・サピエンスが最初に拡散した氷河期には
スンダランドで一つの陸塊だった
→ヨーロッパ同様、農耕以前の狩猟採集民ゲノムは伝わっていない
・南太平洋・オセアニア(略)
・中国の南北地域集団
→今も言語的にも遺伝的にも異なり過去の違いはさらに大きい
→黄河流域と福建省では1万年~6000年前まで遺伝的に区別しうる集団だった
→北方集団と東南アジア集団
・日本への渡来の起源
→内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部に流れる西遼河流域の雑穀農耕民の古代ゲノムには
日本や韓国の現代人ゲノムとの共通性を見いだせる
→日本語や韓国語の起源地と考えられるが、それ以外との関係はない
→なぜ朝鮮半島の方向だけに拡散したのかは、さらに多くの古代ゲノムが必要
→この集団の動きが弥生時代初期の日本列島への農耕民の流入に(拡散から約2000年後)
→ところが弥生時代初期の日本列島での農耕の始まりは水田稲作→なぜか?
→この分析には稲作起源地の長江流域の古代ゲノムが入っていないから
→長江流域の古代ゲノム解析が進めば日本への複雑な渡来経路が見えてくるはず
・東アジアの大陸部では北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大した
→それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成された
・東南アジアや東アジアの沿岸部では初期拡散定着民と農耕民の混合で現代人集団が形成された
・1万年前以降に起こった各地の農耕は集団の拡散を促し様々な言語グループを生み出した
第六章「日本列島集団の起源」より
・二重構造モデル説
→縄文時代と弥生時代の人骨の違い
(旧石器時代に直接来た集団と北東アジアで新石器時代に形質変化してから来た集団の違い)
→現代の北海道アイヌ集団・琉球列島集団と本州四国九州を中心とする集団の違い
(稲作のなかった北海道と、北部九州より稲作が2000年遅かった琉球列島との違い)
→古代ゲノム解析からは単純すぎる説と指摘されている→地域差が大きいから
・縄文時代
→旧石器時代の後半から縄文時代までの形質は連続している
→縄文人のゲノム解析からは現代の東アジア集団とはかけ離れた特徴が見られる
→礼文島の縄文人からは極北集団に見られる脂肪代謝遺伝子の有利な異常が見られる
→現代日本人でも3割に見られ韓国や中国には殆ど見られないハプログループは縄文人由来
→東南アジアからの初期拡散で北上した中の沿岸集団が縄文人の母体だが均一ではない
・弥生時代
→縄文時代にも農耕はあったので水田稲作農耕より金属器使用を弥生時代の特徴とすべき
→日本では、たまたま同じ時期に入ってきただけ(世界では別のルートで別の時期に)
→稲作農耕は長江中流域から拡散したもので、日本の青銅器の源流は北東アジアのもの
→異なる集団が渡来した?
→長江流域からの稲作農耕民集団と、西遼河から移動中に青銅器文化を得た雑穀農耕民集団が
朝鮮半島経由で別々に渡来した?(長江沿岸部やオホーツクから直接伝播したルートもあった?)
→稲作の東進により縄文人との混合が進んでいったのなら、東に行くほど縄文系ゲノムに
寄った位置になるはずだが、そうはなっていない
→弥生時代の中期以降も各地に多くの渡来があったと想定しないと説明できない
→弥生時代から古墳時代における大陸からの渡来集団の影響を考慮すべき
→ただし古墳時代の人骨は階級の出現によってランダムなサンプルとはなりえない
・琉球列島集団
→旧石器人骨との関係は不明だが、縄文時代以降は日本列島からの集団の移住があった
→7300年前の喜界カルデラ爆発により九州と途絶して独自集団となった
→弥生時代から再び本土の影響を受けグスク時代の南九州からの農耕民流入で加速され現在に至る
→縄文ゲノムが30%残っているのは後の集団の影響が本土よりは小さかったから
・北海道集団
→アイヌ集団は縄文人を基盤にオホーツク文化人の遺伝子を受け取り成立したもの
→縄文ゲノムが70%残っており大陸北方系ゲノムも引き継いでいる
(琉球列島集団には台湾より南のゲノムの影響がないのとは対照的)
・二重構造モデルでは稲作を受け入れた中央と遅れた周辺で形質の違いが生じたと考えるが、
この発想からは、周辺集団と他の地域集団との交流の姿を捉えることはできない
(コラム4より)
・鳥取市青谷上寺地遺跡の32個体の人骨分析(単一遺跡では日本最大規模の分析)
→9割に母系の血縁がなく、すべて現代日本人の範疇に入るものだった
→しかも縄文遺伝子が強い者から大陸遺伝子が強い者まで様々だった
→長く維持された村落だと同族婚が増えて核ゲノムも似たものになるはず
→木製容器や管玉の生産も考えると流入や離散を繰り返す古代都市だった可能性が高い
→多数の創傷もあるが解体痕もあり戦闘被害者だけではなかった可能性がある
→死亡時期は放射性炭素年代測定法により2世紀の後半と判明している
→2世紀の後半は複数の史書にある「倭国大乱」の時期
→混乱した社会状況を示す代表的な遺跡といえる
2023年12月追記です
フロンティア第1回「日本人とは何者なのか」という番組で、著者らが語っておられたのは、
①縄文人は4~5万年前にアフリカからアジアにはじめて到着し、その後の農耕民の進出で、
東南アジアではほぼ消滅した(タイのマニ族に近い)古いホアビニアン文化を持つ狩猟採集民で、
東アジアでは存在しないDNAの集団
→その一部が東南アジアから沿岸沿いを北上、当時は寒冷期で今より100m以上も海面が低く、
大陸と陸続きだった日本にやってきた
→その後の海進により孤立し、1万年以上も他集団と混交せず発展した世界でも稀な集団
→日本にやってきた集団は1000人→今の日本人は1億人以上
②弥生人は、3000年前の北東アジアから稲作と金属器を(別々に?)持ってきた(別々の?)集団と
縄文人との混交集団
(日本人はこの二重構造と考えられてきたが古墳人DNAの6割以上は別物なので三重構造)
③古墳人(庶民)は、戦乱が続いていた東アジアの様々な地域から様々な時代の様々な地域に
1000年~1500年間に渡り(おそらく中世まで)流入した様々な集団と縄文弥生人との混交集団
→今の日本人よりはるかにDNA・文化・言語など多様性のある集団で錯綜していたはず
→なので今後(科博に)予算があれば、最も研究したいのが古墳人(庶民)のDNA
→東ユーラシアのあらゆる集団のDNAが古墳人を形成していたかも知れないから・・・
第七章「新大陸アメリカへ」より
・アメリカ大陸はホモ・サピエンスが最後に到達した大陸
→これまではベーリング陸橋からアラスカの無氷回廊をとおり拡散したと考えられてきた
→13000年前から3度の移住がありクロヴィス文化などが形成されたと・・・
→ところが南米最南端でクロヴィス文化より古い遺跡が発見された
→無氷回廊も寒冷すぎるので現在では海沿いのルートで移動したと考えられている
・新大陸の先住民の共通祖先はすべて24000年前だった
→アジアの同一系統の共通祖先はさらに数千年前で、進出した初期集団は5000人未満
→その後、爆発的に人口を増やした状況が明らかになった(略)
・2014年にバイカル湖周辺の古人骨の核ゲノム解析が行われた
→新大陸の先住民にも共有されていることが判明した
→東アジア集団からの分離ではなくユーラシア西部集団との共通遺伝子
(それまでヨーロッパ人の遺伝子はコロンブス以降の混血と考えられていた)
・北米では、さらに古い人類の痕跡も報告されている
→現在の先住民とは別系統のホモ・サピエンスがいたのかも?
終章「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」より
・ゴーギャンがこのタイトルの大作を描いたのは19世紀の終わり
→ネアンデルタール人の化石に続きジャワ原人の化石が発見された時期
→直近10年の古代ゲノム解析で化石だけでは知れなかった事実が明らかになっている
・19世紀前半にヨーロッパとは異なる人類集団の研究が始まった→「人種」という概念
→20世紀後半の遺伝学研究で人種は連続しており区分できないことが明確になった
・種の定義を「自由に交配し生殖能力のある子孫を残す集団」とする考え方
→これに時間軸を入れると旧人や原人も同じ種になるので、便宜上分けているだけ
→種の下位としての「人種」という概念は、さらに生物学的な実体のないもの
・現代のヨーロッパ人・東アジア人・アフリカ人のSNP分析は明確に区分できるように見える
→それに様々な地域集団のSNP分析を加えると、どこにも境界がないことが見えてくる
→人為的な基準を導入しない限り「人種」を定義することは不可能
・同じ集団の中の個人間の遺伝子の違いのほうが、集団間の遺伝子の違いよりはるかに大きい
→もともとホモ・サピエンス遺伝子の99.9%は共通で、残りが個人あるいは集団の違い
→この0.1%を研究し、個人あるいは集団の違いを明らかにしているだけ
→違いの原因となる変異があるのは事実だが、大部分は交配集団に生まれるランダムな変化で、
→基本的な能力の違いを表すものではない→このことが結果を理解する上で重要
・ある環境下で有利あるいは不利になる遺伝子の違いがあることも事実
→特定の集団にだけ有利な遺伝子が共有されていることもあり、これが集団優劣の根拠だが、
→集団の持つ遺伝子構成は時間で大きく変化するので、集団優劣に意味はない
・0.1%の違いで人の優劣を決める能力主義か、99.9%の共通性を重視する平等主義か
→現実の社会は違いのほうに価値を持たせ過ぎているように思える・・・
・遺伝子の流れを糸にたとえると・・・
→それぞれの個人はホモ・サピエンスという巨大なネットを構成する結び目のひとつ
→様々な色があるが全体を構成する要素では個々の色ではなく「結び目があること」が重要
→個人はネットを構成する上では等しい価値を持っている
・言語や宗教など文化的な違いによって定義される「民族」に生物学的な基礎はあるか
→ゲノム解析により地域集団の成立は古いものでも数千年前と判明した
→人類集団は6万年の間に集合と離散を繰り返しているので時間軸では1割程度の長さ
→他集団との混合を経ない集団を「純粋な民族」としても数千年レベルでしか存在しない
(例・漢民族は5000年前から北東と南部の3集団が緩慢に融合する過程から生み出された概念で、
今もそのプロセスは続いている→遺伝的にまとまった集団ではない)
→今後も他の地域集団との混合は進み「民族」は生物学的な実態を失っていく
→民族と遺伝子を混同した議論は、さらに意味のないものになっていく
・現在の研究対象は(民族ではなく)地域の集団で3世代程度までの人々の集合
→遺伝的な特徴はこのレベルでの時代幅で議論されているもの
→このレベルでも疫病や戦争で変化しており異なる集団になっていることも多い
→数千年前から16世紀までは遺伝的な特徴をあまり変えずに存続してきた
→その後の変化は加速しており日本列島も例外ではない
・ヨーロッパ北方では青銅器時代以降に集団の交代に近い変化があった
→日本でも縄文時代から弥生・古墳時代にかけて大規模な遺伝的変化があった
→弥生時代にクニができた→その時代にクニという体制を持った集団が渡来したということ
→文化だけ取り入れるパターン、集団間で混血するパターン、集団が置換するパターン・・・
→文化の変遷と集団の遺伝的な変化との関係は様々でケースバイケース
→普遍的な法則は見出されていないが両者の関係が明らかになれば新たな解釈が生まれるはず
・人類集団の起源と拡散
→現時点ではホモ・サピエンス誕生の経緯と出アフリカ後の初期拡散状況の再現の研究
→将来的に数百体レベルでネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解析ができれば、
ホモ・サピエンス特有のゲノムが明確になり「私たちは何者か」の答えが出る
→化石記録が貧弱で不明だった6~2万年前の初期拡散状況もゲノム解析でシナリオができた
→特に気温の低い高緯度地域では詳しい分析が可能になり精度の高いものになってきている
→今後は低緯度地域で変性の進んだDNAデータを取り出す技術革新の進展がカギ・・・
・古代ゲノム研究の意義
→現在の歴史教科書は「アフリカでの人類の誕生」から、いきなり「四大文明の発展」に跳ぶ
→人類の道のりを通史として捉えることのない、このような記述に欠けているのは、
→「世界に展開したホモ・サピエンスは遺伝的にはほぼ均一な集団だった」という視点と、
→「文化は同じ起源から生まれ、文明の違いは環境や経緯と人々の選択の結果」という認識
・古代ゲノム研究は、その地に人類が到達した時点から現在までを通史として明らかにする
→その地の人骨さえそろえば、集団成立のシナリオを提供できる
→歴史や文明に対する認識も必然的に変えていくのが古代ゲノム研究・・・
「おわりに」より
・本書は2021年現在の情報によるもので今後の研究次第で異なるシナリオになる可能性もある
・2010年以降は次世代シークエンサの実用化により核ゲノムが取り扱えるようになったが、
→共同研究と巨額資金が必要で大部分はビッグラボといわれる世界で十指もない施設による研究
→考古学や形質人類学などのデータが抜け落ちる危険性もある→共同研究の重要性
→たとえば東アジア古代集団と渡来系弥生人との関係はドイツ・韓国の研究者との共同研究
・古代ゲノム研究は最新成果を常に把握していないとついていけなくなる分野
→なので著者が読みためた論文メモを地域別に再構成したのが本書
・・・
古代ゲノム研究・・・よくわからないけど、じつに興味深い分野でした・・・
人類の起源~古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」~
とゆー本のご紹介であります(備忘のための読書メモです)
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、こちらの記事の続きとゆーか、前回記事、前々回記事の前段階とゆーか・・・
日本などの古代史も含んだ最新研究による「人類の起源」であります
例によって目次のみ
以下、脳の外部記憶としてのメモ書きです
まず「はじめに」にあった本書のダイジェストより
・これまで現生人類ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで生まれたとされてきたが、
→ネアンデルタール人のDNA解析により彼らの祖先と分かれたのは60万年前と判明した
→別れた後も交雑を繰り返し他の絶滅人類とも交雑していたことも判明しつつある
・現代人DNAとの比較研究で、現生人類はアフリカ→中東→ヨーロッパや南アジア→
東南アジアやオセアニア→東アジア→南北アメリカ大陸へと拡がったことが判明した
・どのように現代の地域集団を形成していったのか
→古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは集団の大きな遺伝的変化があった
・世界各地の人類集団(民族)は、ある地域における「ヒトの移動の総和」といえる
→特定の遺伝子分布の地域差は集団成立の有力な手がかりになる
・1980年代に発明されたPCR法はウィルス検知だけでなく人類学にも多大な恩恵をもたらした
→古代DNA研究は考古学・歴史学・言語学の分野にも大きなインパクトを与えている
→「人間とは何か」→現時点で何が明らかになり、研究は何を目指しているのか・・・
第一章「人類の登場」より
・1859年のダーウィンの進化論→ヒトの祖先は?→神から化石人類学へ
→約700万年に及ぶ人類進化が大まかに示された
・神話と科学の違い
→科学は間違いと訂正の歴史
→なので科学を間違いないと信奉することは理解の障害にもなる
→本書の古代ゲノム解析による説明も現時点での結論であり将来反証されることもある
・ホモ属にはいくつもの種があったが、現在生存しているのはサピエンス種だけ
・人類の定義→本書では「生物学的に自由に交配して子孫を残せるグループ」という視点
→この視点は世界の集団形成を理解する際にも重要
・人類の祖先とチンパンジーの祖先が分かれたのは700万年前
→ホモ属が登場するのは250~200万年前
→サピエンス種が登場するのは30~20万年前
→ホモ・サピエンスの出アフリカは6万年前、顕著な文化発展は5万年前(異説あり)
→どの時点をもって人類の誕生としているか→読み手の注意が必要
・文明が農耕からなら1万年、文字に残る「人類の歴史」からなら5000年・・・
→歴史的な経緯や地域環境による文明の違いはヒトの選択による「多様性」であり、
→世界中の文明はヒトという共通の基盤に立っている
→この認識は現実世界を理解するうえでも欠かせない視点
・現在では、異なる進化段階の種が同時代に生きていたこともわかっているが、
→進化傾向を捉えるためには初期猿人→猿人→原人→旧人→新人という段階は便利な考え方
→それでも同時代・同所に多数の化石人類が見つかっているので状況は混乱している
・約200万年前に登場したホモ・エレクトスは最初に出アフリカを果たした原人
→アフリカ・西アジア・中国・ジャワ島などで発見されている人類
→20万年前の化石もあり180万年も生存していた(ホモ・サピエンスは20万年程度)
→フローレス島で発見されたホモ・エレクトスから進化したホビットは6万年前まで生存
・ネアンデルタール人は旧人とされてきたが2016年のDNA分析の成功で大きく変わった
→これ以降、人類進化はDNAデータで語られるようになる
→ネアンデルタールで発達したのは主に視覚に関わる後頭葉部分
→ホモ・サピエンスで発達したのは思考や創造性などの前頭葉部分
→どちらも脳の容量はほぼ同じで交雑していた
(コラム1より)
・ホモ・サピエンスの大脳新皮質で共同体を構成する人の顔・名前・考え・バックグラウンドが
理解できる人数は150人程度
→なので狩猟採集社会から現代社会まで150人程度を社会構成の単位としてきた(ダンパー数)
→言語・文字・物語・宗教・歌・音楽といった文化要素により、時間や空間を超えて概念や
考え方を共有するハードウェアで、なんとか複雑な社会を形成していった
→現在は(脳の容量は変わらないのに)通信ネットワークで何百人(何千人)が同時につながりあい、
それらの大量のデータが行き交う高度な社会環境
→自分の脳の処理能力より、はるかに多量のデータにさらされている状況
→バランスのとれた情報処理ができずに社会が混乱しているのも至極当然・・・
第二章「私たちの隠れた祖先」より
・2010年以降に核DNA分析が可能になり、次々と新たな事実が明らかになっている
→1980年代からコンタミネーション(混入)が問題だったがDNA分析を前提とした発掘に
・ネアンデルタール人はユーラシア大陸の西半分に分布していた
→ホモ・サピエンス集団のひとつがネアンデルタールと交雑して世界に拡がった
→交雑しなかった集団もコーカサスや中東、北イランに存在しており現在のヨーロッパ人の
形成に関与したので、現代ヨーロッパ人のネアンデルタールDNAは相対的に少ない
・ホモ・サピエンスとネアンデルタールは数十万年も交雑している
→初期の交雑はアフリカとは考えにくく、ホモ・サピエンスの出アフリカが6万年前ではなく
40万年前よりやや新しい時代だったのか、あるいはホモ・サピエンスがユーラシア大陸で
他の未知の人類から進化したのか→まだ完全解明には至っていない
・デニソワ洞窟ではデニソワ人とネアンデルタール人の混血少女の化石が確認されている
→パプア人DNAの3~6%はデニソワ人DNAに由来
→東アジア・南アジア・アメリカ先住民もパプア人の1/20程度のデニソワ人DNAを共有
→東アジアのゲノムはパプアとは別で、少なくとも2回は別々にデニソワ人と交雑していた
→チベット人にもデニソワ人DNAがあるが、ホモ・サピエンスがチベット高原に来たのは11000年前
→これらから、デニソワ人は数万年前まで生きていた可能性が示された
・サハラ以南のアフリカ人ではデニソワ人と未知の人類との混血が推察される
→3人類とは別の人類がいてデニソワ人と交雑した可能性
→異なる系統人類の混血が長期間続いた結果がホモ・サピエンス遺伝子にも残っている
・ユーラシア大陸に拡散した人類は単一種ではなく各段階が同時期・同所に存在
→20世紀の終わりまでホモ・サピエンスは他地域進化説だった
→21世紀になると6万年前にアフリカを出て他の人類を駆逐したというアフリカ起源説
→2010年以降は拡散過程で他の人類の遺伝子を取り込んだことが明らかになった
→アフリカ起源説が他地域進化説の一部を取り込む形で収束した
・生存に不利な遺伝子は徐々に集団から取り除かれる
→アフリカでも世界展開の途中でも交雑は長期に繰り返されている
→iPS細胞や遺伝子編集技術で理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人の復活も可能
第三章「人類揺籃の地アフリカ」より
・アフリカでのホモ・サピエンス拡散の様子(略)
・ホモ・サピエンスが30万年前にアフリカで誕生したことはほぼ定説になっているが、
→ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先から分岐したのは60万年前と判明してるのに、
→長期間にわたるホモ・サピエンスの祖先の化石がアフリカにないこと
→数十万年前にはネアンデルタール人と交雑があったことを考えると、
→最初の祖先はユーラシア大陸の原人で、
→そこから3人類が生まれ30万年前以降にアフリカに移動したグループが世界に拡がり、
→残ったグループはネアンデルタールと交雑した後に絶滅した、とも考えられる
・異なる人類の交雑が明らかになったので、起源はアフリカだけでなく広範囲で考えるべき
→イスラエルでは古いネアンデルタールよりも古いホモ・サピエンスが発見されている
→古い交雑はこの地域だった可能性がある
・ホモ・サピエンスの世界展開は、現代人のゲノム解析から6万年前以降とされてきたが、
中国・ギリシャ・東南アジア・オーストラリアから、それよりも古い化石の報告がある
・農耕民と牧畜民の起源
→アフリカ西部の農耕による人口拡大→移動→集団(言語)の分化
(世界各地でも初期農耕民の拡大が言語族の分布と結びついている)
→牧畜民には乳糖耐性遺伝子が必要→牧畜とともにヨーロッパに(新石器時代にはなかった)
→生業と遺伝子と言語には密接な関係がある
・現代人のゲノムにはネアンデルタール人やデニソワ人とは異なる人類との交雑を認める結果も
示されており、アフリカには30万年前の謎の人類ホモ・ナレディもいた・・・
第四章「ヨーロッパへの進出」より
・ホモ・サピエンスの出アフリカは20万年前以降に何度か試みられていた
→我々につながる祖先の出アフリカは6~5万年前
→シベリアでのネアンデルタールとの交雑時期は52000~58000年前
→中東での交雑は出アフリカの初期と考えられるので6万年前が妥当
→ただし南アジア・オーストラリアなどで6万年前より古い化石や石器が見つかっている
→6万年前より以前は放射性炭素年代測定が困難なので各説がある
→これ以降1万年前の農業生産まで(後期旧石器時代)の気候変動が離散と集合を促した
・現代人につながる系統だけでも、出アフリカから1万年の間に東アジア系・ヨーロッパ系・
ユーラシア基層集団の3系統が成立した
・出アフリカ集団は単一系統ではなく現在の集団はそれらの離合拡散・交雑・隔離を経たもの
・最も研究の進んでいるヨーロッパ集団について(略)
・ヨーロッパでも日本でも狩猟採集民のゲノムは10%から25%
→基本的に狩猟採集民は農耕民の社会に飲み込まれている
・5300年前のアイスマンのゲノムはアルプス人ではなくサルディニア人と近縁だった
→サルディニア人は8000年前に移住して混合しなかったヨーロッパ初期農耕民の子孫
→移住前の農耕民のゲノムを残しており現代ヨーロッパ人とは異なる→なぜか?
→5000年前にヨーロッパ人の遺伝的な構成が大きく変わったから
→その原因は東のステップ地域から来た牧畜民
→ヨーロッパ人の地域差は狩猟採集民と農耕民と牧畜民の混合の仕方の違い
→牧畜民のゲノムの割合が高いほど身長が高いなど・・・
→牧畜民ゲノムからはペスト菌DNAの断片が検出されており農耕民に大打撃を与えた可能性
→古代ゲノム解析は疫病研究にも重要な知見をもたらす
第五章「アジア集団の成立」より
・1万年前より古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析は一部しか行われていないが、
→出アフリカ集団は中東で1万年ほど停滞していた
→5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまで拡散した
・ユーラシア東部へは北ルートと南ルートが考えられている
→南ルートでは古代南インド狩猟民集団→一部が東南アジアへ→デニソワ人と混血?
→一部がパプアニューギニア、オーストラリアへ
→北ルートで北上したグループが古代東アジア集団を形成した?
・ヒントは縄文人のゲノム
→日本列島にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前
→16000年前に土器が作られ3000年前に稲作が入るまでの13000年の間が縄文時代
→この間に遺伝組成を変えるような外部からの流入はなかったので縄文人ゲノムがヒントに
・縄文人のゲノムを共有している現在の東アジア人
多い順にアイヌ集団→沖縄の人→本州・四国・九州の日本人
→沿海州の先住民、韓国人、台湾の先住民も僅かに共有している
→アムール流域の先住民、新石器・鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団とは非常に古い
時代に分岐した同じ系統に属することも判明している
→古代南インド狩猟民集団→チベットや東アジアの沿岸地域へ→日本では縄文人に
・縄文人は4万年前以降に異なるふたつの系統が合流して形成された
→別々に南北から流入したのか大陸沿岸部で合流してから流入したのかは不明
・シベリア集団の変遷、アメリカ大陸集団の起源・・・
→複雑な集団の置換によりユーラシア北部から南北アメリカのモザイク状の遺伝構成へ
・1万年前以降は解析できる人骨も多く、1万年前には遺伝的に区別できる9集団がいた
→これらの離合集散が青銅器時代以降の集団形成に関わることになる
→スキタイ、匈奴、フン族などの遊牧騎馬民族も異なる遺伝的特徴を持った集団の連合体
→なので中央アジアの広大なステップを遺伝的に単一の集団が支配したことはない
・3回にわたる移住の波が南アジア集団の遺伝的構成を決定した
→9000年前の狩猟採集民と初期農耕民の混合
→7400~5700年前の混合完成と、その後の北方集団との混合
→4600~3900年前のインダス文明の初期農耕民にはイラン牧畜民や狩猟採集民ゲノムもある
・南アジアから東南アジアには5万年前
→どちらもDNA保存に適した地域ではないので現代人DNAからの考察
→遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応している
→東南アジアの半島部と島嶼部は、ホモ・サピエンスが最初に拡散した氷河期には
スンダランドで一つの陸塊だった
→ヨーロッパ同様、農耕以前の狩猟採集民ゲノムは伝わっていない
・南太平洋・オセアニア(略)
・中国の南北地域集団
→今も言語的にも遺伝的にも異なり過去の違いはさらに大きい
→黄河流域と福建省では1万年~6000年前まで遺伝的に区別しうる集団だった
→北方集団と東南アジア集団
・日本への渡来の起源
→内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部に流れる西遼河流域の雑穀農耕民の古代ゲノムには
日本や韓国の現代人ゲノムとの共通性を見いだせる
→日本語や韓国語の起源地と考えられるが、それ以外との関係はない
→なぜ朝鮮半島の方向だけに拡散したのかは、さらに多くの古代ゲノムが必要
→この集団の動きが弥生時代初期の日本列島への農耕民の流入に(拡散から約2000年後)
→ところが弥生時代初期の日本列島での農耕の始まりは水田稲作→なぜか?
→この分析には稲作起源地の長江流域の古代ゲノムが入っていないから
→長江流域の古代ゲノム解析が進めば日本への複雑な渡来経路が見えてくるはず
・東アジアの大陸部では北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大した
→それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成された
・東南アジアや東アジアの沿岸部では初期拡散定着民と農耕民の混合で現代人集団が形成された
・1万年前以降に起こった各地の農耕は集団の拡散を促し様々な言語グループを生み出した
第六章「日本列島集団の起源」より
・二重構造モデル説
→縄文時代と弥生時代の人骨の違い
(旧石器時代に直接来た集団と北東アジアで新石器時代に形質変化してから来た集団の違い)
→現代の北海道アイヌ集団・琉球列島集団と本州四国九州を中心とする集団の違い
(稲作のなかった北海道と、北部九州より稲作が2000年遅かった琉球列島との違い)
→古代ゲノム解析からは単純すぎる説と指摘されている→地域差が大きいから
・縄文時代
→旧石器時代の後半から縄文時代までの形質は連続している
→縄文人のゲノム解析からは現代の東アジア集団とはかけ離れた特徴が見られる
→礼文島の縄文人からは極北集団に見られる脂肪代謝遺伝子の有利な異常が見られる
→現代日本人でも3割に見られ韓国や中国には殆ど見られないハプログループは縄文人由来
→東南アジアからの初期拡散で北上した中の沿岸集団が縄文人の母体だが均一ではない
・弥生時代
→縄文時代にも農耕はあったので水田稲作農耕より金属器使用を弥生時代の特徴とすべき
→日本では、たまたま同じ時期に入ってきただけ(世界では別のルートで別の時期に)
→稲作農耕は長江中流域から拡散したもので、日本の青銅器の源流は北東アジアのもの
→異なる集団が渡来した?
→長江流域からの稲作農耕民集団と、西遼河から移動中に青銅器文化を得た雑穀農耕民集団が
朝鮮半島経由で別々に渡来した?(長江沿岸部やオホーツクから直接伝播したルートもあった?)
→稲作の東進により縄文人との混合が進んでいったのなら、東に行くほど縄文系ゲノムに
寄った位置になるはずだが、そうはなっていない
→弥生時代の中期以降も各地に多くの渡来があったと想定しないと説明できない
→弥生時代から古墳時代における大陸からの渡来集団の影響を考慮すべき
→ただし古墳時代の人骨は階級の出現によってランダムなサンプルとはなりえない
・琉球列島集団
→旧石器人骨との関係は不明だが、縄文時代以降は日本列島からの集団の移住があった
→7300年前の喜界カルデラ爆発により九州と途絶して独自集団となった
→弥生時代から再び本土の影響を受けグスク時代の南九州からの農耕民流入で加速され現在に至る
→縄文ゲノムが30%残っているのは後の集団の影響が本土よりは小さかったから
・北海道集団
→アイヌ集団は縄文人を基盤にオホーツク文化人の遺伝子を受け取り成立したもの
→縄文ゲノムが70%残っており大陸北方系ゲノムも引き継いでいる
(琉球列島集団には台湾より南のゲノムの影響がないのとは対照的)
・二重構造モデルでは稲作を受け入れた中央と遅れた周辺で形質の違いが生じたと考えるが、
この発想からは、周辺集団と他の地域集団との交流の姿を捉えることはできない
(コラム4より)
・鳥取市青谷上寺地遺跡の32個体の人骨分析(単一遺跡では日本最大規模の分析)
→9割に母系の血縁がなく、すべて現代日本人の範疇に入るものだった
→しかも縄文遺伝子が強い者から大陸遺伝子が強い者まで様々だった
→長く維持された村落だと同族婚が増えて核ゲノムも似たものになるはず
→木製容器や管玉の生産も考えると流入や離散を繰り返す古代都市だった可能性が高い
→多数の創傷もあるが解体痕もあり戦闘被害者だけではなかった可能性がある
→死亡時期は放射性炭素年代測定法により2世紀の後半と判明している
→2世紀の後半は複数の史書にある「倭国大乱」の時期
→混乱した社会状況を示す代表的な遺跡といえる
2023年12月追記です
フロンティア第1回「日本人とは何者なのか」という番組で、著者らが語っておられたのは、
①縄文人は4~5万年前にアフリカからアジアにはじめて到着し、その後の農耕民の進出で、
東南アジアではほぼ消滅した(タイのマニ族に近い)古いホアビニアン文化を持つ狩猟採集民で、
東アジアでは存在しないDNAの集団
→その一部が東南アジアから沿岸沿いを北上、当時は寒冷期で今より100m以上も海面が低く、
大陸と陸続きだった日本にやってきた
→その後の海進により孤立し、1万年以上も他集団と混交せず発展した世界でも稀な集団
→日本にやってきた集団は1000人→今の日本人は1億人以上
②弥生人は、3000年前の北東アジアから稲作と金属器を(別々に?)持ってきた(別々の?)集団と
縄文人との混交集団
(日本人はこの二重構造と考えられてきたが古墳人DNAの6割以上は別物なので三重構造)
③古墳人(庶民)は、戦乱が続いていた東アジアの様々な地域から様々な時代の様々な地域に
1000年~1500年間に渡り(おそらく中世まで)流入した様々な集団と縄文弥生人との混交集団
→今の日本人よりはるかにDNA・文化・言語など多様性のある集団で錯綜していたはず
→なので今後(科博に)予算があれば、最も研究したいのが古墳人(庶民)のDNA
→東ユーラシアのあらゆる集団のDNAが古墳人を形成していたかも知れないから・・・
第七章「新大陸アメリカへ」より
・アメリカ大陸はホモ・サピエンスが最後に到達した大陸
→これまではベーリング陸橋からアラスカの無氷回廊をとおり拡散したと考えられてきた
→13000年前から3度の移住がありクロヴィス文化などが形成されたと・・・
→ところが南米最南端でクロヴィス文化より古い遺跡が発見された
→無氷回廊も寒冷すぎるので現在では海沿いのルートで移動したと考えられている
・新大陸の先住民の共通祖先はすべて24000年前だった
→アジアの同一系統の共通祖先はさらに数千年前で、進出した初期集団は5000人未満
→その後、爆発的に人口を増やした状況が明らかになった(略)
・2014年にバイカル湖周辺の古人骨の核ゲノム解析が行われた
→新大陸の先住民にも共有されていることが判明した
→東アジア集団からの分離ではなくユーラシア西部集団との共通遺伝子
(それまでヨーロッパ人の遺伝子はコロンブス以降の混血と考えられていた)
・北米では、さらに古い人類の痕跡も報告されている
→現在の先住民とは別系統のホモ・サピエンスがいたのかも?
終章「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」より
・ゴーギャンがこのタイトルの大作を描いたのは19世紀の終わり
→ネアンデルタール人の化石に続きジャワ原人の化石が発見された時期
→直近10年の古代ゲノム解析で化石だけでは知れなかった事実が明らかになっている
・19世紀前半にヨーロッパとは異なる人類集団の研究が始まった→「人種」という概念
→20世紀後半の遺伝学研究で人種は連続しており区分できないことが明確になった
・種の定義を「自由に交配し生殖能力のある子孫を残す集団」とする考え方
→これに時間軸を入れると旧人や原人も同じ種になるので、便宜上分けているだけ
→種の下位としての「人種」という概念は、さらに生物学的な実体のないもの
・現代のヨーロッパ人・東アジア人・アフリカ人のSNP分析は明確に区分できるように見える
→それに様々な地域集団のSNP分析を加えると、どこにも境界がないことが見えてくる
→人為的な基準を導入しない限り「人種」を定義することは不可能
・同じ集団の中の個人間の遺伝子の違いのほうが、集団間の遺伝子の違いよりはるかに大きい
→もともとホモ・サピエンス遺伝子の99.9%は共通で、残りが個人あるいは集団の違い
→この0.1%を研究し、個人あるいは集団の違いを明らかにしているだけ
→違いの原因となる変異があるのは事実だが、大部分は交配集団に生まれるランダムな変化で、
→基本的な能力の違いを表すものではない→このことが結果を理解する上で重要
・ある環境下で有利あるいは不利になる遺伝子の違いがあることも事実
→特定の集団にだけ有利な遺伝子が共有されていることもあり、これが集団優劣の根拠だが、
→集団の持つ遺伝子構成は時間で大きく変化するので、集団優劣に意味はない
・0.1%の違いで人の優劣を決める能力主義か、99.9%の共通性を重視する平等主義か
→現実の社会は違いのほうに価値を持たせ過ぎているように思える・・・
・遺伝子の流れを糸にたとえると・・・
→それぞれの個人はホモ・サピエンスという巨大なネットを構成する結び目のひとつ
→様々な色があるが全体を構成する要素では個々の色ではなく「結び目があること」が重要
→個人はネットを構成する上では等しい価値を持っている
・言語や宗教など文化的な違いによって定義される「民族」に生物学的な基礎はあるか
→ゲノム解析により地域集団の成立は古いものでも数千年前と判明した
→人類集団は6万年の間に集合と離散を繰り返しているので時間軸では1割程度の長さ
→他集団との混合を経ない集団を「純粋な民族」としても数千年レベルでしか存在しない
(例・漢民族は5000年前から北東と南部の3集団が緩慢に融合する過程から生み出された概念で、
今もそのプロセスは続いている→遺伝的にまとまった集団ではない)
→今後も他の地域集団との混合は進み「民族」は生物学的な実態を失っていく
→民族と遺伝子を混同した議論は、さらに意味のないものになっていく
・現在の研究対象は(民族ではなく)地域の集団で3世代程度までの人々の集合
→遺伝的な特徴はこのレベルでの時代幅で議論されているもの
→このレベルでも疫病や戦争で変化しており異なる集団になっていることも多い
→数千年前から16世紀までは遺伝的な特徴をあまり変えずに存続してきた
→その後の変化は加速しており日本列島も例外ではない
・ヨーロッパ北方では青銅器時代以降に集団の交代に近い変化があった
→日本でも縄文時代から弥生・古墳時代にかけて大規模な遺伝的変化があった
→弥生時代にクニができた→その時代にクニという体制を持った集団が渡来したということ
→文化だけ取り入れるパターン、集団間で混血するパターン、集団が置換するパターン・・・
→文化の変遷と集団の遺伝的な変化との関係は様々でケースバイケース
→普遍的な法則は見出されていないが両者の関係が明らかになれば新たな解釈が生まれるはず
・人類集団の起源と拡散
→現時点ではホモ・サピエンス誕生の経緯と出アフリカ後の初期拡散状況の再現の研究
→将来的に数百体レベルでネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解析ができれば、
ホモ・サピエンス特有のゲノムが明確になり「私たちは何者か」の答えが出る
→化石記録が貧弱で不明だった6~2万年前の初期拡散状況もゲノム解析でシナリオができた
→特に気温の低い高緯度地域では詳しい分析が可能になり精度の高いものになってきている
→今後は低緯度地域で変性の進んだDNAデータを取り出す技術革新の進展がカギ・・・
・古代ゲノム研究の意義
→現在の歴史教科書は「アフリカでの人類の誕生」から、いきなり「四大文明の発展」に跳ぶ
→人類の道のりを通史として捉えることのない、このような記述に欠けているのは、
→「世界に展開したホモ・サピエンスは遺伝的にはほぼ均一な集団だった」という視点と、
→「文化は同じ起源から生まれ、文明の違いは環境や経緯と人々の選択の結果」という認識
・古代ゲノム研究は、その地に人類が到達した時点から現在までを通史として明らかにする
→その地の人骨さえそろえば、集団成立のシナリオを提供できる
→歴史や文明に対する認識も必然的に変えていくのが古代ゲノム研究・・・
「おわりに」より
・本書は2021年現在の情報によるもので今後の研究次第で異なるシナリオになる可能性もある
・2010年以降は次世代シークエンサの実用化により核ゲノムが取り扱えるようになったが、
→共同研究と巨額資金が必要で大部分はビッグラボといわれる世界で十指もない施設による研究
→考古学や形質人類学などのデータが抜け落ちる危険性もある→共同研究の重要性
→たとえば東アジア古代集団と渡来系弥生人との関係はドイツ・韓国の研究者との共同研究
・古代ゲノム研究は最新成果を常に把握していないとついていけなくなる分野
→なので著者が読みためた論文メモを地域別に再構成したのが本書
・・・
古代ゲノム研究・・・よくわからないけど、じつに興味深い分野でした・・・