サバイバル
2023年07月15日
華竜の宮
華竜の宮・・・
まずは表紙カバー裏にあった著者紹介から
デビュー作で第4回小松左京賞、本作でベストSF2010・国内編の第1位と、
第32回日本SF大賞を受賞された作家
裏表紙カバーにあった惹句とゆーか、あらすじであります
奥付
2010年10月に刊行された単行本の文庫版ですが、わたくし著者の作品は初読でした
例によって目次のご紹介・・・
以下、プロローグのてきとーな要約・・・
・環太平洋で地震の頻発が続く2017年(本作では7年後の未来ですね)、学術会議を終えた
新進気鋭の学者二人(モデルあり)が、巨大地震で大陸棚が崩壊しメタンハイドレート層から
(二酸化炭素の20倍の温室効果を持つ)メタンガスが発生した場合の海面上昇は8mになるが、
それに続くポリネシア・ホットプルームの上昇による海面上昇は250mに達するはずだと、
議論しているあたりからはじまります
・この理論が現実となり、やがて海の広さは白亜紀なみになって(ウィキによれば白亜紀の
海面上昇は120mとされてますが、プルームテクトニクス理論による本書の設定では258m)、
平野部が大半だった国は機能崩壊、生き残った民族の大移動もあって臨時の海上都市だけでは
限界になり各地で武力衝突がエスカレート、世界はいくつかの連合に分かれて、遺伝子操作
による人工生命体や人工知性体まで使った大殺戮と破壊の時代が続きます
・人類滅亡直前で一応の停戦合意に達したものの、列島から小さな群島と化した日本では、
隙間の人工浮島を合わせても人口は1/10になり、大陸側からの災厄が多かったことから、
反ユーラシア側(アメリカ側)連合の一員になって、名目上の独立は維持しています
(まあ、今も似たようなものか・・・)
・海は生活空間になり、飼い馴らした巨大海洋生物への寄生に適した人工種族「海上民」が、
巨大サンショウウオに似た「魚舟」で暮らし、各領海を越えて公海にまで進出してますが、
海底に沈んだ都市や工場や研究所などから流出し続ける汚染物質や分子機械などにより、
海洋生物には様々な変異が起きています
(少数になった旧来の人類は「陸上民」と呼ばれるようになっています)
・これが最初のホットプルーム上昇から数百年の歳月が経過した25世紀の世界であり、
「人類の文明と科学技術は後退と進歩、つまり揺り戻しを経験しながら、新しい環境に徐々に
適応していって、人類が迎えた第二の繁栄時代」だったのですが・・・
と、この時代を舞台にした第1部に入って行きます
このプロローグつーか設定説明が、プルームテクトニクス理論や遺伝子操作による人工生命体、
分子レベルの機械進化など、当時最新の研究成果をもとに詳しく描かれてて、さすが本格SF、
これは竹内均教授などによるプレートテクトニクス理論が、まだ仮説だった頃に発表された、
小松左京氏による「日本沈没」と同じパターンで、数々の賞を総ナメしたのもなるほどと納得、
物語世界に惹き込まれていきました
小説なので本編までは紹介できませんが、わたくしの思いつくままの感想・・・
・主人公は優秀有能な外交官だけど、自分の良心に従う行動をして本省の出世街道を外され、
辺境をタライ廻しにされながらも、陸上民と海上民との交渉を続けているのですが、この姿が
とても爽やかで、主人公を陰ながら支援する人たちの姿も爽やか、逆に意思決定する側の汚さ
醜さが際立ってて、その点では気持ちのいい勧善懲悪・海洋冒険モノとして楽しめました
・組織に属する側の理想と現実、自由に生きようとする側の理想と現実が、現代社会の鏡として
未来の極限社会という設定にすることによって、見事に表現されてました
これは戦場という極限状況を設定することによって、究極の人間性を描く戦争映画と同じで、
わたくしがSFや戦争モノの小説や映画が大好きな理由のひとつなのかも知れません
・自然災害や環境破壊と人類の努力、さらに政治の駆け引きから地球生命体のあり方まで、
もちろん水上や水中の戦闘シーンもあって・・・まさに正統派SF小説の真骨頂ですね
ちなみに著者は、文庫版(2012年11月)のあとがきに・・・
・単行本は2010年10月、その後の2011年3月に東日本大震災があり、しばしばコメントを
求められたが、殆どのコメントを控えさせてもらっている
・自分は1995年1月の阪神淡路大震災の際、神戸に住んでいて震災の影響で家族を亡くしている
・なので本作は1995年当時の社会状況に対する返歌として書かれている部分がある
・個人の体験から人類としての未来を幻視するという、SF特有の発想で書かれた作品だが、
小説とはそのような要素だけで書けるものではない
・海洋世界への憧れ、地球や生命の不思議に対する感動、ヒトと他知性と機械の理想的な
共生関係など、SFの形をとったロマンティシズムの横溢する作品で、こちらのほうこそ
読者の心に残りますように・・・
・たぶん、空想する心、想像する心こそが、私たちが生きるこの情けない現実に対する、
最も強力なカウンターブローに成り得るのですから・・・
といった内容を書かれてましたが、なるほどと納得しました
さらに、物語を一人称で語るのは主人公のアシスタント知性体(ネットワーク上の仮想人格)で、
常に繋がっている主人公との脳内会話や他のアシスタント知性体との会話でも物語を進めて
いくのですが、このような小説手法は今回はじめて知りました
で、読み終わってから、この作品が10年以上前に書かれていることに、あらためて驚きました
そう、ChatGPTなどの普及でパーソナルAIつーのが、ごく身近に感じられる現時点では、
この手法に全く違和感はないけど、10年以上前ならどうだったかと・・・
まずは表紙カバー裏にあった著者紹介から
デビュー作で第4回小松左京賞、本作でベストSF2010・国内編の第1位と、
第32回日本SF大賞を受賞された作家
裏表紙カバーにあった惹句とゆーか、あらすじであります
奥付
2010年10月に刊行された単行本の文庫版ですが、わたくし著者の作品は初読でした
例によって目次のご紹介・・・
以下、プロローグのてきとーな要約・・・
・環太平洋で地震の頻発が続く2017年(本作では7年後の未来ですね)、学術会議を終えた
新進気鋭の学者二人(モデルあり)が、巨大地震で大陸棚が崩壊しメタンハイドレート層から
(二酸化炭素の20倍の温室効果を持つ)メタンガスが発生した場合の海面上昇は8mになるが、
それに続くポリネシア・ホットプルームの上昇による海面上昇は250mに達するはずだと、
議論しているあたりからはじまります
・この理論が現実となり、やがて海の広さは白亜紀なみになって(ウィキによれば白亜紀の
海面上昇は120mとされてますが、プルームテクトニクス理論による本書の設定では258m)、
平野部が大半だった国は機能崩壊、生き残った民族の大移動もあって臨時の海上都市だけでは
限界になり各地で武力衝突がエスカレート、世界はいくつかの連合に分かれて、遺伝子操作
による人工生命体や人工知性体まで使った大殺戮と破壊の時代が続きます
・人類滅亡直前で一応の停戦合意に達したものの、列島から小さな群島と化した日本では、
隙間の人工浮島を合わせても人口は1/10になり、大陸側からの災厄が多かったことから、
反ユーラシア側(アメリカ側)連合の一員になって、名目上の独立は維持しています
(まあ、今も似たようなものか・・・)
・海は生活空間になり、飼い馴らした巨大海洋生物への寄生に適した人工種族「海上民」が、
巨大サンショウウオに似た「魚舟」で暮らし、各領海を越えて公海にまで進出してますが、
海底に沈んだ都市や工場や研究所などから流出し続ける汚染物質や分子機械などにより、
海洋生物には様々な変異が起きています
(少数になった旧来の人類は「陸上民」と呼ばれるようになっています)
・これが最初のホットプルーム上昇から数百年の歳月が経過した25世紀の世界であり、
「人類の文明と科学技術は後退と進歩、つまり揺り戻しを経験しながら、新しい環境に徐々に
適応していって、人類が迎えた第二の繁栄時代」だったのですが・・・
と、この時代を舞台にした第1部に入って行きます
このプロローグつーか設定説明が、プルームテクトニクス理論や遺伝子操作による人工生命体、
分子レベルの機械進化など、当時最新の研究成果をもとに詳しく描かれてて、さすが本格SF、
これは竹内均教授などによるプレートテクトニクス理論が、まだ仮説だった頃に発表された、
小松左京氏による「日本沈没」と同じパターンで、数々の賞を総ナメしたのもなるほどと納得、
物語世界に惹き込まれていきました
小説なので本編までは紹介できませんが、わたくしの思いつくままの感想・・・
・主人公は優秀有能な外交官だけど、自分の良心に従う行動をして本省の出世街道を外され、
辺境をタライ廻しにされながらも、陸上民と海上民との交渉を続けているのですが、この姿が
とても爽やかで、主人公を陰ながら支援する人たちの姿も爽やか、逆に意思決定する側の汚さ
醜さが際立ってて、その点では気持ちのいい勧善懲悪・海洋冒険モノとして楽しめました
・組織に属する側の理想と現実、自由に生きようとする側の理想と現実が、現代社会の鏡として
未来の極限社会という設定にすることによって、見事に表現されてました
これは戦場という極限状況を設定することによって、究極の人間性を描く戦争映画と同じで、
わたくしがSFや戦争モノの小説や映画が大好きな理由のひとつなのかも知れません
・自然災害や環境破壊と人類の努力、さらに政治の駆け引きから地球生命体のあり方まで、
もちろん水上や水中の戦闘シーンもあって・・・まさに正統派SF小説の真骨頂ですね
ちなみに著者は、文庫版(2012年11月)のあとがきに・・・
・単行本は2010年10月、その後の2011年3月に東日本大震災があり、しばしばコメントを
求められたが、殆どのコメントを控えさせてもらっている
・自分は1995年1月の阪神淡路大震災の際、神戸に住んでいて震災の影響で家族を亡くしている
・なので本作は1995年当時の社会状況に対する返歌として書かれている部分がある
・個人の体験から人類としての未来を幻視するという、SF特有の発想で書かれた作品だが、
小説とはそのような要素だけで書けるものではない
・海洋世界への憧れ、地球や生命の不思議に対する感動、ヒトと他知性と機械の理想的な
共生関係など、SFの形をとったロマンティシズムの横溢する作品で、こちらのほうこそ
読者の心に残りますように・・・
・たぶん、空想する心、想像する心こそが、私たちが生きるこの情けない現実に対する、
最も強力なカウンターブローに成り得るのですから・・・
といった内容を書かれてましたが、なるほどと納得しました
さらに、物語を一人称で語るのは主人公のアシスタント知性体(ネットワーク上の仮想人格)で、
常に繋がっている主人公との脳内会話や他のアシスタント知性体との会話でも物語を進めて
いくのですが、このような小説手法は今回はじめて知りました
で、読み終わってから、この作品が10年以上前に書かれていることに、あらためて驚きました
そう、ChatGPTなどの普及でパーソナルAIつーのが、ごく身近に感じられる現時点では、
この手法に全く違和感はないけど、10年以上前ならどうだったかと・・・
2023年06月02日
「遊ぶ」が勝ち
まだ台風2号による洪水警報・大雨注意報が発令中の大阪からですが、今回はお外で・・・
「遊ぶ」が勝ち・・・とゆー本のご紹介であります
Playing is a smart way・・・
表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
新装版・前書きからの読後メモ・・・
→英語で陸上競技場はplaygroundだし「スポーツをする」は play○○○○で、スポーツの本質は遊ぶこと
→本を上梓したのが2013年で7年たった今は、さらに効率的に真面目にを求める圧力が強くなっている
→「ホモ・ルーデンス」は僕の愛読書だが、その中に日本人は遊び上手だったという記述がある
→近代化する中で薄れているが、遊ぶ心は眠っているはずなので今一度呼び戻そう
→本書がそのきっかけになってくれたら嬉しい・・・
この新装版発行から3年なので最初の上梓は今から10年前、著者は引き続き活躍されてるようですが、
コロナ禍では運動会やお祭りは中止になって東京五輪は開催、キャンプがブームになったりしました
コロナ後の「遊び」の状況は、今後どのように変化していくのでしょう・・・
わたくしも「ホモ・ルーデンス」は愛読書つーか、若い頃に興味深く読んだ覚えがあります
著者も書いてましたが、文庫版でも分厚い哲学の専門書で確かにとっつきにくかったです
この本には著者なりの「ホモ・ルーデンス」の解釈もあり、さすがにプロ・アスリートの経験と発想だと
感心しましたが、本の内容をすっかり忘れてたので分かりやすい復習にもなりました
子どもの頃に身体を使った遊びをすることと自分で遊びを工夫することは、とても大事なことかも知れません
わたくしは生まれも育ちも大阪の下町ですが、まだ近所に遊べる空き地や廃墟が残ってる時代だったし、
母親の郷が泉州で、当時は田畑や山林もいっぱい残ってたので、けっこう屋外で遊んだほうだと思います
まあ、中学ぐらいまでずっと「秘密基地ごっこ」や「戦争ごっこ」がメインでしたが・・・
今ならサバイバルゲームをフィールド作り、道具作り、ルール作りまで全部自分たちでやってたようなもの
それで高校からは山歩きやキャンプ好きになり、社会人になってからはスキーや川下りなどが加わり、
やがてマルイの電動ガンが登場して一時期はサバイバルゲームに夢中でしたから、幅広い遊びとゆーより
子どもの頃からのアウトドア遊びがずっと続いてたことになりますね
なので球技には全く無縁・・・って、そーいやサバゲーは6mmBB弾を使う球技なのかっ???
以前も書きましたが、サバゲーつーのは究極の「ごっこ遊び」スポーツだと今も思ってます
球技としてはドッジボールに似てますが、はるかにリアルでフィールドも野山の自然地形がメイン、
仲間内ならルールやレギュレーションは自由に決められるけど、それを守ることが絶対条件になり、
あとは自分の役柄になり切って、自分の身体と頭と技術を極限まで使って何とか生き延びる、あるいは
チームとして敵に勝利する、その行為自体を目的として仲間と楽しむので、ハマると夢中になる・・・
これは他の球技にも共通するんでしょうが「ごっこ遊び」スポーツとしては、おそらく究極でしょう
閑話休題
例によって目次のみのご紹介
ハードル選手らしい目次構成であります・・・
「助走路」の読後メモから・・・(以下、正しくは本書をお読みくださいね)
・ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」のまとめ(略)
・僕の競技人生のスタートは「走りたいから走る」喜びだった
→やがて「走ると女の子にモテる」「走れると進学できる」になり、
→「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になる」の世界へ・・・
→とうとう「手に入れたものを失うのが怖い」世界が到来した
→その時すでに「結果を出せるから走る意味がある」というモデル自体が崩れかけていた
→それでも走った時、走る根本には喜びがあることが見えたから、走り続けることができた
→遊びは楽しい→スポーツでも人生でも「遊ぶが勝ち」・・・
「第1ハードル」からの読後メモ・・・
・高校3年で短距離では伸びず400mハードルに転向したが、心の葛藤は大学4年間続いていた
→人生には「仮置き」や「仮決め」があってもいいのではないか
→視点をずらすという、遊びの感覚で余白、ゆるみ、隙間を作ることが大事
・目の前の出来事は一時的な約束事で回っているに過ぎない
→それが全てじゃないと距離を取れば人生は概ね何とかなる
・「遊び」も「演じる」も「競技する」も英語ではPLAY→何かのために走ってはいけない
→外から期待されることに遊びの要素は入りにくい
→自分ではじめた能動的な作業なら遊びの感覚や楽しさを持ちやすい
→遊びには自発性が関係している→自由な行動
→「したい」と「しなくては」の差→義務化すれば楽しくない
→「ねばならない」の過去をいったん「なかったこと」にしてゼロからスタートする・・・
・スランプ脱出には「考えないこと」も重要
→遊びの世界に没頭した瞬間を思い出すこと→ZONEの状態
・当時の日本では選手が「オリンピックを楽しんできます」なんて言えない状態だった
→ところが選手村での海外選手は楽しんでいるように見えた
→結果的に彼らはいきいきと楽しく良い結果を出していた
・ハードルに転向して海外で東洋の無名選手として走る際は演じなくてもいいので楽だった
→また走るのが楽しくなった→日本の陸上界はまだまだ硬い空気だった
・「努力を実現するために人間に先天的に与えられている機能、それが遊び」(ホイジンガ)
→なので楽しさを殺しては絶対にダメ
→これを言葉に出して肯定できたのは、この本(ホモ・ルーデンス)に出合ってから
「第2ハードル」からの読後メモ・・・
・遊びのヘンな感じの身体感覚、トライ&エラーの楽しさ、夢中になるスイッチ・・・(略)
・枠組みの中で遊ぶのが楽しい人も、枠組みそのものを設計するのが楽しい人もいる
→「型にはめる」教え方をするなら「型を脱する」方法も一緒に教えることが絶対に必要
・日本のスポーツ選手の多くが多彩な身体経験をしていない→大学からは伸びない選手が多い
→アメリカでは多種多様なスポーツ経験からアスリートになり、ロシアでは基幹スポーツの体操から
枝葉が伸びていくので逆だが、どちらも自由度や広がりが貴重な体験になっている
・ハンマー投げとゴルフのインパクト、高跳びの踏み切りとサルサの感覚は同じだった
→子どもの頃に自転車に乗った感覚のように運動感覚は風化しない
→運動神経が開発される10歳ぐらいまでに様々に身体を動かす経験を蓄積すること
→それが子どもの遊び
・自転車を漕ぐ時は景色に没頭している方が早く漕げたりする
→これは意識で身体を動かすより感覚で身体が動いてしまうほうがスムースになる一例
・遊びで役を演じている自分を楽しむ→ごっこ遊びや仮面劇
→仮面で自分が消えるということは「こうふるまうべき」という自分の役割も消えること
→他人の目を気にせず熱中できる→ZONEの超集中状態にも通じる
→スポーツ選手は外見や形によって意識・精神も変わることに注意すべき
→試合前に意識的に勝負顔を作る
→昔の宗教的な仮面や顔面ペイントと同じでトランス状態や別人格のきっかけになる
・役割そのものを遊ぶということは日本人が得意なジャンルかも
→落語のように演じ分けることも得意で、関係性が変わってもあまり気にしない
→そのタイミングを上手に読み切ることが求められる→「空気を読む」
→ツイッターなどで一人あたりのアカウント数が多いのも日本の特徴で、欧米などとは逆
→演技的、多重人格的な感性は遊び感覚で、これはこれで面白い
→ひとつの自分にしがみつかない軽やかさを、もっと自分の力に変えていけばいいのにと思う
・自分とは何か
→引退前の4年間、アメリカのパラリンピリアンと同じグラウンドにいた
→義足を自分の身体の一部とし、視覚障害の選手はリズムで距離を測っていた
→身体感覚を極めていくと、まだまだ使っていない感覚があることに気づく・・・
「第3ハードル」からの読後メモ・・・
・広島生まれで幼い頃に原爆について立場の違う意見があることを知らされ困惑する体験をした
→とりあえず選択せざるを得ない際でも、立場を変えて批評的に見る態度が大事
→コミュニケーションの重要性
→身体で感じたことを言語にするのは難しいがツイッターで発信し続けている
→自分との会話が好きなので外部化するいい機会になっている
→伝えようとする行為はコミュニケーション的な遊びに近い
→ツイッターやSNSにハマるのは予測がつかず変化に対応できることが嬉しく面白く楽しいから
→僕にとっては大いなる遊び
・獲れると決まっているメダルを獲りに行くなら仕事(作業)で、不確実な緊張があるから面白い遊び
・熱狂の中に身を置くことは楽しいがクールダウンも大事
→コミュニケーションを「いかにとらないか」もコミュニケーション力の一つかも
・日米の距離の取り方の違い
→アメリカでは議論を楽しむディベートが娯楽になっている
→日本では相手と共感したり同調しがちになる
→日本人は「私」という主語のないところで遊ぶのが上手
→これは強さにも弱さにもなる
→リーダーのいないチームスポーツや渋滞時などでは、みんなが空気を読んで対応するので有利
→言語を介さないコミュニケーション術を日本の特性として磨いて戦術化すべき
・知恵の輪は外し方を考えるから楽しく、遊びとして成立する
→説明書があったり、あきらめてしまえば遊びは不成立
→外しても意味はなく報酬もない→レースに勝つのと同じ→1番になることが面白いだけ
・認識の違う世界でのコミュニケーションは互いに橋を架けることから始めるしかない
→完璧ではなくとも何とか架かって、互いが理解できそうになる瞬間ほど面白いものはない
(特にこの言葉に感動しました。経験から出た素直で素晴らしい言葉だと思います)
「第4ハードル」からの読後メモ・・・
・知識と体感のバランスをとることは難しい
→スランプに陥る選手の傾向は体感の量が少ないこと
→「気持ちいい/よくない」の境目が判断できないのは知識の詰め込み過ぎ
→大切なのは「気持ちよかった時の感覚」が記憶できているかどうか
→海外では読書、散歩、練習、読書の繰り返しで、頭と身体のバランスが心地よく流れていた
→役立つかどうかも分からず好奇心を満たしワクワクしたくて本を読んだ
→僕にとって走ることと本を読むことは似ている
・タオイズム(道教)、禅宗の世界観→意識しないで身体が動く→そのための教養(略)
・応用領域は遊びの領域
→発想力を磨き新しい方法をクリエイトすること
→強さは反復や基本の先にあるもの
・スポーツの根本は遊び
→だからこそ自分から努力し鍛錬する自発性が不可欠
→遊びもスポーツも本来は自発的な行為で目的は行為そのもの
→この視点を日本のスポーツ界が取り入れれば、選手の育成方法も、コーチと選手の関係も、
暴力による体罰も、必ず変化していくだろう
・俳句と欧米スポーツの共通点
→俳句には季語や五七五などのルールがある
→最初はルールに縛られ当然うまく作れない
→知識を増やし観察した風景を言葉に置き換える練習を続けながら磨きをかけていく
→仲間同士で評価し合うので緊張感もあり、比べられ優劣をつけるという競技性もある
→だが、俳句の基本は楽しさということは自然に共有されて浸透している
→だから、うまく作れた時もそうでない時も、その場は楽しさに満ちているのだろう
→スポーツもそうあってほしい
・クラブチームなら目的をはっきり掲げることができる
→人格形成、人と繋がること、日本の頂点に立つなど、様々な目的があってもいい
→それぞれがスポーツを自分の目的に沿って選択できる環境を整えることが基本
→句会のようにスポーツをもっと楽しむための会が各地域に作られる必要がある
→みんなが遊びとして俳句を楽しむ中で俳句文化が育ち磨かれたのではないか
・ツイッター上では辛辣なのにリアルではおとなしくなり、表面上の言葉しか出てこない
→本音を言おうとしない、議論が得意ではない
→その文化も素晴らしいが、世界が舞台では自分の意思を表示する必要に迫られる
→挙手でもツイッターでもいいので、まずは自分の考えをまとめて公にする訓練が大事
・学習の究極の形態は遊び
→遊びながら学ぶ、学びながら遊ぶ
→教養と遊びを融合させるような場になればと「為末大学」を続けている
「第5ハードル」からの読後メモ・・・
・仕事と遊びの違い
→欧州グランプリでは入賞賞金だけで生計を立てているプロもいた
→1位なら150万、2位なら100万といったシンプルなゲーム
→自分は大阪ガスの会社員選手だったので給料もカリキュラムも生活も安定していて確実だった
→ホイジンガによる遊びの要素は緊張、不確実、不安定性
→プロ選手は会社員に比べ格段に遊び的だったので賞金やスポンサー収入だけのプロになった
・アスリート外交、スポーツ交流の役割は大きい
→反日の雰囲気だった中国でも卓球・福原愛さんの人気は絶大で日本人への親近感が維持されていた
→もともと貴族の種目である近代五種やカヌー、フェンシングなどは外交上大きな力を発揮する
・引退後のセカンドキャリア
→サンク・コスト→なかったものとして考える→念を継がない
→競技の結果とは、ただ遊ぶ者自身の問題である(ホイジンガ)
→遊びが成功した、うまくいったという観念的事実である(ホイジンガ)
→遊びの成功は遊ぶ者に暫く持続する満足をもたらす(ホイジンガ)
→スポーツ選手にとって成功体験が大きいと、その体験が忘れられなくなり次の一歩の障害になる
・火焔型縄文土器からルイ・ヴィトンのバッグまで、ムダは遊びであり文化でもある
→生きることと遊びは分かちがたく結びついている
・ネイティブアメリカンの通過儀礼の例(略)
→僕にとっては遊びの時間が身体的体験を積み重ねていく通過儀礼だった
→無意識の中で獲得していく体感的な学びを子どもたちに何としても伝えたい
→今後も増える廃校を利用したキャンプや山歩きなど、身体的経験のできるプログラムを考えている
「ゴール」からの読後メモ・・・
・ジャマイカの19歳以下を対象とした陸上大会はテレビ視聴率が80%を超える
→彼らはひたすら早く走ることを楽しんでいる→ジャマイカが短距離王国になるはず
→「ホモ・ルーデンス」の世界は競技を始めた頃に僕が感じていた世界そのものだった
・遊びは真面目と共存しうる→何かに熱中すること
→遊びは遊び自体が目的で自主的であり義務感に弱い
→これまでの社会は人が淡々と作業をこなすことで産業が成り立ってきた
→今後はテクノロジーの発展で人の作業的部分は減っていく
(21世紀後半にはプロ・アスリートとプロ・アドベンチャーツアラー以外に肉体的労働で対価を得る人は、
ほとんどいなくなると、こちらの本にありましたね)
→作業に遊び感は組み込みにくいがイノベーションやクリエイティビリティが大事な時代になる
→これらには遊び感が大きく影響してくる
→人間にしかできないことが求められるとしたら、遊びの五感的な直感と楽しい気持ちがヒント
・人間とは遊びたいもので、遊ぶことにより人間らしくなると思っている
・・・
いやあ、プロ・アスリートの世界なんて全く別世界と思ってましたが、大いに共感しました
「遊ぶ」が勝ち・・・とゆー本のご紹介であります
Playing is a smart way・・・
表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
新装版・前書きからの読後メモ・・・
→英語で陸上競技場はplaygroundだし「スポーツをする」は play○○○○で、スポーツの本質は遊ぶこと
→本を上梓したのが2013年で7年たった今は、さらに効率的に真面目にを求める圧力が強くなっている
→「ホモ・ルーデンス」は僕の愛読書だが、その中に日本人は遊び上手だったという記述がある
→近代化する中で薄れているが、遊ぶ心は眠っているはずなので今一度呼び戻そう
→本書がそのきっかけになってくれたら嬉しい・・・
この新装版発行から3年なので最初の上梓は今から10年前、著者は引き続き活躍されてるようですが、
コロナ禍では運動会やお祭りは中止になって東京五輪は開催、キャンプがブームになったりしました
コロナ後の「遊び」の状況は、今後どのように変化していくのでしょう・・・
わたくしも「ホモ・ルーデンス」は愛読書つーか、若い頃に興味深く読んだ覚えがあります
著者も書いてましたが、文庫版でも分厚い哲学の専門書で確かにとっつきにくかったです
この本には著者なりの「ホモ・ルーデンス」の解釈もあり、さすがにプロ・アスリートの経験と発想だと
感心しましたが、本の内容をすっかり忘れてたので分かりやすい復習にもなりました
子どもの頃に身体を使った遊びをすることと自分で遊びを工夫することは、とても大事なことかも知れません
わたくしは生まれも育ちも大阪の下町ですが、まだ近所に遊べる空き地や廃墟が残ってる時代だったし、
母親の郷が泉州で、当時は田畑や山林もいっぱい残ってたので、けっこう屋外で遊んだほうだと思います
まあ、中学ぐらいまでずっと「秘密基地ごっこ」や「戦争ごっこ」がメインでしたが・・・
今ならサバイバルゲームをフィールド作り、道具作り、ルール作りまで全部自分たちでやってたようなもの
それで高校からは山歩きやキャンプ好きになり、社会人になってからはスキーや川下りなどが加わり、
やがてマルイの電動ガンが登場して一時期はサバイバルゲームに夢中でしたから、幅広い遊びとゆーより
子どもの頃からのアウトドア遊びがずっと続いてたことになりますね
なので球技には全く無縁・・・って、そーいやサバゲーは6mmBB弾を使う球技なのかっ???
以前も書きましたが、サバゲーつーのは究極の「ごっこ遊び」スポーツだと今も思ってます
球技としてはドッジボールに似てますが、はるかにリアルでフィールドも野山の自然地形がメイン、
仲間内ならルールやレギュレーションは自由に決められるけど、それを守ることが絶対条件になり、
あとは自分の役柄になり切って、自分の身体と頭と技術を極限まで使って何とか生き延びる、あるいは
チームとして敵に勝利する、その行為自体を目的として仲間と楽しむので、ハマると夢中になる・・・
これは他の球技にも共通するんでしょうが「ごっこ遊び」スポーツとしては、おそらく究極でしょう
閑話休題
例によって目次のみのご紹介
ハードル選手らしい目次構成であります・・・
「助走路」の読後メモから・・・(以下、正しくは本書をお読みくださいね)
・ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」のまとめ(略)
・僕の競技人生のスタートは「走りたいから走る」喜びだった
→やがて「走ると女の子にモテる」「走れると進学できる」になり、
→「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になる」の世界へ・・・
→とうとう「手に入れたものを失うのが怖い」世界が到来した
→その時すでに「結果を出せるから走る意味がある」というモデル自体が崩れかけていた
→それでも走った時、走る根本には喜びがあることが見えたから、走り続けることができた
→遊びは楽しい→スポーツでも人生でも「遊ぶが勝ち」・・・
「第1ハードル」からの読後メモ・・・
・高校3年で短距離では伸びず400mハードルに転向したが、心の葛藤は大学4年間続いていた
→人生には「仮置き」や「仮決め」があってもいいのではないか
→視点をずらすという、遊びの感覚で余白、ゆるみ、隙間を作ることが大事
・目の前の出来事は一時的な約束事で回っているに過ぎない
→それが全てじゃないと距離を取れば人生は概ね何とかなる
・「遊び」も「演じる」も「競技する」も英語ではPLAY→何かのために走ってはいけない
→外から期待されることに遊びの要素は入りにくい
→自分ではじめた能動的な作業なら遊びの感覚や楽しさを持ちやすい
→遊びには自発性が関係している→自由な行動
→「したい」と「しなくては」の差→義務化すれば楽しくない
→「ねばならない」の過去をいったん「なかったこと」にしてゼロからスタートする・・・
・スランプ脱出には「考えないこと」も重要
→遊びの世界に没頭した瞬間を思い出すこと→ZONEの状態
・当時の日本では選手が「オリンピックを楽しんできます」なんて言えない状態だった
→ところが選手村での海外選手は楽しんでいるように見えた
→結果的に彼らはいきいきと楽しく良い結果を出していた
・ハードルに転向して海外で東洋の無名選手として走る際は演じなくてもいいので楽だった
→また走るのが楽しくなった→日本の陸上界はまだまだ硬い空気だった
・「努力を実現するために人間に先天的に与えられている機能、それが遊び」(ホイジンガ)
→なので楽しさを殺しては絶対にダメ
→これを言葉に出して肯定できたのは、この本(ホモ・ルーデンス)に出合ってから
「第2ハードル」からの読後メモ・・・
・遊びのヘンな感じの身体感覚、トライ&エラーの楽しさ、夢中になるスイッチ・・・(略)
・枠組みの中で遊ぶのが楽しい人も、枠組みそのものを設計するのが楽しい人もいる
→「型にはめる」教え方をするなら「型を脱する」方法も一緒に教えることが絶対に必要
・日本のスポーツ選手の多くが多彩な身体経験をしていない→大学からは伸びない選手が多い
→アメリカでは多種多様なスポーツ経験からアスリートになり、ロシアでは基幹スポーツの体操から
枝葉が伸びていくので逆だが、どちらも自由度や広がりが貴重な体験になっている
・ハンマー投げとゴルフのインパクト、高跳びの踏み切りとサルサの感覚は同じだった
→子どもの頃に自転車に乗った感覚のように運動感覚は風化しない
→運動神経が開発される10歳ぐらいまでに様々に身体を動かす経験を蓄積すること
→それが子どもの遊び
・自転車を漕ぐ時は景色に没頭している方が早く漕げたりする
→これは意識で身体を動かすより感覚で身体が動いてしまうほうがスムースになる一例
・遊びで役を演じている自分を楽しむ→ごっこ遊びや仮面劇
→仮面で自分が消えるということは「こうふるまうべき」という自分の役割も消えること
→他人の目を気にせず熱中できる→ZONEの超集中状態にも通じる
→スポーツ選手は外見や形によって意識・精神も変わることに注意すべき
→試合前に意識的に勝負顔を作る
→昔の宗教的な仮面や顔面ペイントと同じでトランス状態や別人格のきっかけになる
・役割そのものを遊ぶということは日本人が得意なジャンルかも
→落語のように演じ分けることも得意で、関係性が変わってもあまり気にしない
→そのタイミングを上手に読み切ることが求められる→「空気を読む」
→ツイッターなどで一人あたりのアカウント数が多いのも日本の特徴で、欧米などとは逆
→演技的、多重人格的な感性は遊び感覚で、これはこれで面白い
→ひとつの自分にしがみつかない軽やかさを、もっと自分の力に変えていけばいいのにと思う
・自分とは何か
→引退前の4年間、アメリカのパラリンピリアンと同じグラウンドにいた
→義足を自分の身体の一部とし、視覚障害の選手はリズムで距離を測っていた
→身体感覚を極めていくと、まだまだ使っていない感覚があることに気づく・・・
「第3ハードル」からの読後メモ・・・
・広島生まれで幼い頃に原爆について立場の違う意見があることを知らされ困惑する体験をした
→とりあえず選択せざるを得ない際でも、立場を変えて批評的に見る態度が大事
→コミュニケーションの重要性
→身体で感じたことを言語にするのは難しいがツイッターで発信し続けている
→自分との会話が好きなので外部化するいい機会になっている
→伝えようとする行為はコミュニケーション的な遊びに近い
→ツイッターやSNSにハマるのは予測がつかず変化に対応できることが嬉しく面白く楽しいから
→僕にとっては大いなる遊び
・獲れると決まっているメダルを獲りに行くなら仕事(作業)で、不確実な緊張があるから面白い遊び
・熱狂の中に身を置くことは楽しいがクールダウンも大事
→コミュニケーションを「いかにとらないか」もコミュニケーション力の一つかも
・日米の距離の取り方の違い
→アメリカでは議論を楽しむディベートが娯楽になっている
→日本では相手と共感したり同調しがちになる
→日本人は「私」という主語のないところで遊ぶのが上手
→これは強さにも弱さにもなる
→リーダーのいないチームスポーツや渋滞時などでは、みんなが空気を読んで対応するので有利
→言語を介さないコミュニケーション術を日本の特性として磨いて戦術化すべき
・知恵の輪は外し方を考えるから楽しく、遊びとして成立する
→説明書があったり、あきらめてしまえば遊びは不成立
→外しても意味はなく報酬もない→レースに勝つのと同じ→1番になることが面白いだけ
・認識の違う世界でのコミュニケーションは互いに橋を架けることから始めるしかない
→完璧ではなくとも何とか架かって、互いが理解できそうになる瞬間ほど面白いものはない
(特にこの言葉に感動しました。経験から出た素直で素晴らしい言葉だと思います)
「第4ハードル」からの読後メモ・・・
・知識と体感のバランスをとることは難しい
→スランプに陥る選手の傾向は体感の量が少ないこと
→「気持ちいい/よくない」の境目が判断できないのは知識の詰め込み過ぎ
→大切なのは「気持ちよかった時の感覚」が記憶できているかどうか
→海外では読書、散歩、練習、読書の繰り返しで、頭と身体のバランスが心地よく流れていた
→役立つかどうかも分からず好奇心を満たしワクワクしたくて本を読んだ
→僕にとって走ることと本を読むことは似ている
・タオイズム(道教)、禅宗の世界観→意識しないで身体が動く→そのための教養(略)
・応用領域は遊びの領域
→発想力を磨き新しい方法をクリエイトすること
→強さは反復や基本の先にあるもの
・スポーツの根本は遊び
→だからこそ自分から努力し鍛錬する自発性が不可欠
→遊びもスポーツも本来は自発的な行為で目的は行為そのもの
→この視点を日本のスポーツ界が取り入れれば、選手の育成方法も、コーチと選手の関係も、
暴力による体罰も、必ず変化していくだろう
・俳句と欧米スポーツの共通点
→俳句には季語や五七五などのルールがある
→最初はルールに縛られ当然うまく作れない
→知識を増やし観察した風景を言葉に置き換える練習を続けながら磨きをかけていく
→仲間同士で評価し合うので緊張感もあり、比べられ優劣をつけるという競技性もある
→だが、俳句の基本は楽しさということは自然に共有されて浸透している
→だから、うまく作れた時もそうでない時も、その場は楽しさに満ちているのだろう
→スポーツもそうあってほしい
・クラブチームなら目的をはっきり掲げることができる
→人格形成、人と繋がること、日本の頂点に立つなど、様々な目的があってもいい
→それぞれがスポーツを自分の目的に沿って選択できる環境を整えることが基本
→句会のようにスポーツをもっと楽しむための会が各地域に作られる必要がある
→みんなが遊びとして俳句を楽しむ中で俳句文化が育ち磨かれたのではないか
・ツイッター上では辛辣なのにリアルではおとなしくなり、表面上の言葉しか出てこない
→本音を言おうとしない、議論が得意ではない
→その文化も素晴らしいが、世界が舞台では自分の意思を表示する必要に迫られる
→挙手でもツイッターでもいいので、まずは自分の考えをまとめて公にする訓練が大事
・学習の究極の形態は遊び
→遊びながら学ぶ、学びながら遊ぶ
→教養と遊びを融合させるような場になればと「為末大学」を続けている
「第5ハードル」からの読後メモ・・・
・仕事と遊びの違い
→欧州グランプリでは入賞賞金だけで生計を立てているプロもいた
→1位なら150万、2位なら100万といったシンプルなゲーム
→自分は大阪ガスの会社員選手だったので給料もカリキュラムも生活も安定していて確実だった
→ホイジンガによる遊びの要素は緊張、不確実、不安定性
→プロ選手は会社員に比べ格段に遊び的だったので賞金やスポンサー収入だけのプロになった
・アスリート外交、スポーツ交流の役割は大きい
→反日の雰囲気だった中国でも卓球・福原愛さんの人気は絶大で日本人への親近感が維持されていた
→もともと貴族の種目である近代五種やカヌー、フェンシングなどは外交上大きな力を発揮する
・引退後のセカンドキャリア
→サンク・コスト→なかったものとして考える→念を継がない
→競技の結果とは、ただ遊ぶ者自身の問題である(ホイジンガ)
→遊びが成功した、うまくいったという観念的事実である(ホイジンガ)
→遊びの成功は遊ぶ者に暫く持続する満足をもたらす(ホイジンガ)
→スポーツ選手にとって成功体験が大きいと、その体験が忘れられなくなり次の一歩の障害になる
・火焔型縄文土器からルイ・ヴィトンのバッグまで、ムダは遊びであり文化でもある
→生きることと遊びは分かちがたく結びついている
・ネイティブアメリカンの通過儀礼の例(略)
→僕にとっては遊びの時間が身体的体験を積み重ねていく通過儀礼だった
→無意識の中で獲得していく体感的な学びを子どもたちに何としても伝えたい
→今後も増える廃校を利用したキャンプや山歩きなど、身体的経験のできるプログラムを考えている
「ゴール」からの読後メモ・・・
・ジャマイカの19歳以下を対象とした陸上大会はテレビ視聴率が80%を超える
→彼らはひたすら早く走ることを楽しんでいる→ジャマイカが短距離王国になるはず
→「ホモ・ルーデンス」の世界は競技を始めた頃に僕が感じていた世界そのものだった
・遊びは真面目と共存しうる→何かに熱中すること
→遊びは遊び自体が目的で自主的であり義務感に弱い
→これまでの社会は人が淡々と作業をこなすことで産業が成り立ってきた
→今後はテクノロジーの発展で人の作業的部分は減っていく
(21世紀後半にはプロ・アスリートとプロ・アドベンチャーツアラー以外に肉体的労働で対価を得る人は、
ほとんどいなくなると、こちらの本にありましたね)
→作業に遊び感は組み込みにくいがイノベーションやクリエイティビリティが大事な時代になる
→これらには遊び感が大きく影響してくる
→人間にしかできないことが求められるとしたら、遊びの五感的な直感と楽しい気持ちがヒント
・人間とは遊びたいもので、遊ぶことにより人間らしくなると思っている
・・・
いやあ、プロ・アスリートの世界なんて全く別世界と思ってましたが、大いに共感しました
2023年05月09日
「まあいっか」で楽に生きる・・・
(期間限定のお知らせ)
2023フラッシュ光ボルネオツアーのご案内はこちらの記事の末尾です
まあいっか・・・
東南アジア式「まあいっか」で楽に生きる本・・・であります
裏表紙カバー
表紙カバー裏にあった惹句
東南アジアでの暮らしぶり、特に働き方については、わたくしの昨年末バンコクでの思い
と見事に一致してて、大いに納得しました
やはり日本の働き方よりマレーシアなどの働き方の方が世界標準に近いようです
裏表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
例によって目次のみ
以下、ランダムに読後メモから抜粋・・・
1章より
・1990年代は東南アジアの若者と話をしていても「日本で働きたい」が多かった
→2010年頃には「日本に行くのは好きだけど日本で働くのは嫌」になってきた・・・
・GDPや安全度、健康寿命などを考慮に入れない幸福度調査が海外に住む自分の実感に近い
・2021年秋に行われたマレーシア統計局の「幸福度調査」(11州42246人)
→パンデミックや経済危機にもかかわらず全体的に幸福を感じていた
→日本より不平等なのに階層、民族、年齢層、性別、学歴、婚姻状況で有意なギャップがない
・英国バーキー財団の2017年の若者調査で1位だったインドネシアは幸福度が90%
→先進国より発展途上国の若者の方が幸福度は高い
→ヨーロッパの若者は世界平均レベル
→18位のトルコで50%
→韓国と日本が「最も不幸」で29%と28%
・CNBCの2021年「住みやすさランキング」(駐在員12000人を対象に57都市を比較)
→1位はクアラルンプール、東京は53位で最下位に近い
→東京の方が交通網、環境、経済などで勝るはずなのに「住み着きやすさ」では最下位
→外国人には親切だがコミュニティには受け入れてくれないから
・日本では子育て世代は少数派→社会から分断されている→子育てがしにくい
・マレーシアは日本より不平等だが言語や学校や仕事がバラバラで他人と比べる意味がない
→「正しさ競争」をしていない、ちゃんとしない人(子ども)を受け入れる、親が楽しむ・・・
→人もインフラも役所もちゃんとしていないが他人に期待し過ぎず自分の責任で行動している
・マレーシアでは社会も予定も急に変わる→まあいっかで適当にやらないとストレスになる
→背景のある移民や難民も多く、自分の常識や礼儀を押し付ける暴力性に気づかされた
→日本では家でも職場でも、ちゃんと、きちんと、笑顔で、が求められる
・日本の完璧主義でいくか、世界スタンダードに近い80%主義でいくか・・・
→スローリー、スローリー、ラーニング
2章より
・緻密さ完璧さの日本製品は昔は東南アジアのお手本だった
→潮目が変わったのは2000年代の中頃
→技術が進み製品の部品数が減り時代はソフトウェアに
→日本の顧客が求める(過剰)高品質は世界では売れなくなった→亀山モデルの例
・アジアに原材料や製品を発注しているのは日本だけではない
→クレームが多く発注が安定しない日本メーカーは切られる
・アジア航路の北東端にあり小規模港が多い日本はコンテナ船コストがかかるので抜港される
・製造業だけでなくサービス業にも完璧が求められる日本
→マレーシアでは学校でも病院でもスタッフにクレームの多い保護者や患者は切られる
→日本のコンビニやレストランでの接客は働く側の安い給料に釣り合っていない
→マレーシアでは高級店のみ→賃金以上のサービスはしない
→ちゃんと、きちんと、は人によって基準が違うので全て詳細な契約による(日本は逆)
・日本は時間や計画に正確で中国やマレーシアはフレキシブルだが最終的にどちらでも回る
・東南アジアの会社のチームワークの良さと日本の会社の和の重視の違い
・日本の序列競争、細かい差別待遇、謝罪の儀式、反省文・・・
3章より
・マレーシアには様々な宗教・民族の人が住み結論が異なる→答えはたくさんある
→学校も様々で転校も多い
→他人と比べなくていい→自分で自分の道を選択することになる
→重要なのは他人の選択に口を出さないこと→多様性を認め合う社会を生きる上での知恵
(この章のメインである教育制度や教育論のメモは、いずれ別の機会に)
4章より
・日本よりGDPが低く貧富の差も激しく犯罪も多いのに幸福度が高いのはなぜか
→とくにティーンエイジャーが精神的に落ち着いている
→自閉症の障害もマイルドで穏やか→社会の許容量の問題ではないか
→多国籍文化で自閉症も文化の一つとして受け入れ、多少の違いは気にしない優しさ
→外国人は日本のマナーの良さに驚嘆するが、ついていけない人も出てくる
・マレーシア人の幸福度には家族、宗教と精神、健康が重要な要素で、お金はあまり関係ない
→日本語学校で「お金と休みがたくさんあればどこへ行きたいか」と授業で訊いたら、
→マレー系の生徒ほぼ全員が「実家に帰る」と答えた→家族が一番
・日本では組織=システムにウェイトを置き、家庭も同じ経済的システム
→収入も家事も育児も互いに「ちゃんと」やるべき→家庭で安らぐことは難しいかも・・・
・怒りを正当化する人々
→マレーシアでは怒りで人を動かそうとすると自分が損をする
→日本は「叱られるのが当たり前の文化」
→「ちゃんとした基準」でないことを怒りミスを修正して教育してあげようという正義感から
→マレーシアの顧客対応では日本のようなクレーマーに出会った記憶がない
→家族関係に満足している人が多く、多様な人種や宗教で「正しさ」が異なるからでは・・・
→日本の大人社会の上下関係は子ども社会からずっと同じで、それが怒りにつながる
・日本のダメ出し文化(英語のnoteは良い点・悪い点の指摘だが日本ではダメ出しのみ)
→他人の目を気にする繊細な人には厳しい社会
・ミスや失敗に厳しい日本と緩いマレーシア
→厳しい方が便利快適で、緩い方は不便だけど生きるのは楽
→自分も間違えたらダメと思い、心が削られるのがつらいから
・マレーシアは多様な文化の社会で相手を完全に理解することは難しいと肌で知っている
→答えを決めつけない、価値観を押し付けない、ちゃんと、きちんとを要求しない・・・
・迷惑をかけてはいけない日本社会
→気を遣うのはいいが傾向が強まると「弱い立場の人は我慢が当たり前」になる
→日本で子育てしていた際のプレッシャーがマレーシアにはない
・どうにもならないことが当たり前
→迷惑をかけられても怒ったり叱ったりしない「まあいいか」があふれた社会は楽
・2021年の大洪水でのボランティア体験(近所のシク教寺院の無料食堂へ)
→参加資格、受付、分担、シフト・・・すべてがざっくりしていた
→他者への基本的な信頼があると社会のルールは少なくなる
→この寺院でのルールは髪を覆うこととアルコール・タバコの禁止のみ
→様々な宗教の信仰者が多いので「人間は完璧にできない」とゆったりしている
・予定は予定で時間はゴム→沖縄の島時間と同じ→南国共通?
→パンデミックも断水も洪水も生活は大変なのに面白動画のネタにしている
・マレーシアも少しずつ「ちゃんとする」社会に変わりつつあるが、
→緩さについていけず短期間で日本に帰国する人も多い
→完璧か不完全か、考え方や正解はいっぱいあっていいのだと思う・・・
・マレーシアでは人間関係の離脱戦略が簡単→友人を作りやすい
→あまりくっつかず「風船的」で気軽に離脱できる(寂しく感じるケースもある)
→日本の人間関係はぎっしり詰められた「ウニ的」
→狭い社会で距離が近く、お互いの棘が刺さらないよう気を遣っている
→人間関係や友人作りに慎重になる
・マレーシア人は寛容ではなく合理的なだけ?
→民族の排斥、華人の干支の犬飾りとムスリムなどなど・・・
→自分の正義を振りかざすと、すぐに別の正義とぶつかる→それで得られるものは少ない
→多民族なので責めたり怒ったりせず間違いや失敗にも寛容になる
→ちゃんとしていない自分は安心する
・マレーシアの全方位外交
→イスラム協力機構メンバーでイギリス連邦加盟国で一帯一路にも参加・・・
→2018年の政権交代の際も1969年の人種暴動を繰り返してはいけないと慎重になってた
→全てに寛容になるメリットを実感として国民が知っている
・「多様性とは相手を理解すること」と言われるが、実は非常に難しい
→できることは「理解はできないけど放っておく、口を出さない」こと
→Mind your own business(自分のことに集中せよ)→マレーシアで何度も言われた言葉
→自分の責任の範囲に集中し理解できない他人を必要以上に見ないこと
→正解が増えると勝ち組も負け組もなくなり他人の生き方に余計な口を出す人が減る
→自分の人生に集中する人が増えると、ようやく生きやすくなるのではないか
おわりにより
・視野が広がれば正解がわからなくなり、たどり着けなくなる
→マレーシアに来て11年になるが知らないことが増えるいっぽう
・2022年の夏に欧州を廻ったが様々なサービスは日本よりマレーシアに近いと感じた
→これが世界標準で日本のサービスが変わっているのではと書いたら欧州在住者の賛同を得た
・東南アジアに住む人たちからは「日本に旅行に行くのは最高、でも働くのは嫌」
→海外の日本人からも「母国ではもう働きたくないけど、住むだけなら安全快適で安心」
→サービスを受ける側には快適だが、提供する側は厳しい労働環境の日本・・・
・もう少し構成人員がリラックスすれば幸福度の高い社会が作れるのではないか
→安全で完璧なサービスを望む人にはオプションで残せばいい
→幸福度の高い生き方は外国の「いいとこ取り」をすればいい
・マレーシアは英語が通じ外国人が働きやすいが、宗教を中心とした民族コミュニティも健在
→友人の敬虔なマレー系ムスリムは子どもをドイツなどに留学させている
→グローバルとローカルも、いいとこ取り、ハイブリッド、グレーゾーンでいい
→二項対立ではない
・日本の良さを残しつつ、みなが楽になっていくことが実現できれば・・・
ちなみにわたくし98kは昔から・・・
まあいっか・てきとー・とーとつをモットーに暮らしてましゅが・・・
2023フラッシュ光ボルネオツアーのご案内はこちらの記事の末尾です
まあいっか・・・
東南アジア式「まあいっか」で楽に生きる本・・・であります
裏表紙カバー
表紙カバー裏にあった惹句
東南アジアでの暮らしぶり、特に働き方については、わたくしの昨年末バンコクでの思い
と見事に一致してて、大いに納得しました
やはり日本の働き方よりマレーシアなどの働き方の方が世界標準に近いようです
裏表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
例によって目次のみ
以下、ランダムに読後メモから抜粋・・・
1章より
・1990年代は東南アジアの若者と話をしていても「日本で働きたい」が多かった
→2010年頃には「日本に行くのは好きだけど日本で働くのは嫌」になってきた・・・
・GDPや安全度、健康寿命などを考慮に入れない幸福度調査が海外に住む自分の実感に近い
・2021年秋に行われたマレーシア統計局の「幸福度調査」(11州42246人)
→パンデミックや経済危機にもかかわらず全体的に幸福を感じていた
→日本より不平等なのに階層、民族、年齢層、性別、学歴、婚姻状況で有意なギャップがない
・英国バーキー財団の2017年の若者調査で1位だったインドネシアは幸福度が90%
→先進国より発展途上国の若者の方が幸福度は高い
→ヨーロッパの若者は世界平均レベル
→18位のトルコで50%
→韓国と日本が「最も不幸」で29%と28%
・CNBCの2021年「住みやすさランキング」(駐在員12000人を対象に57都市を比較)
→1位はクアラルンプール、東京は53位で最下位に近い
→東京の方が交通網、環境、経済などで勝るはずなのに「住み着きやすさ」では最下位
→外国人には親切だがコミュニティには受け入れてくれないから
・日本では子育て世代は少数派→社会から分断されている→子育てがしにくい
・マレーシアは日本より不平等だが言語や学校や仕事がバラバラで他人と比べる意味がない
→「正しさ競争」をしていない、ちゃんとしない人(子ども)を受け入れる、親が楽しむ・・・
→人もインフラも役所もちゃんとしていないが他人に期待し過ぎず自分の責任で行動している
・マレーシアでは社会も予定も急に変わる→まあいっかで適当にやらないとストレスになる
→背景のある移民や難民も多く、自分の常識や礼儀を押し付ける暴力性に気づかされた
→日本では家でも職場でも、ちゃんと、きちんと、笑顔で、が求められる
・日本の完璧主義でいくか、世界スタンダードに近い80%主義でいくか・・・
→スローリー、スローリー、ラーニング
2章より
・緻密さ完璧さの日本製品は昔は東南アジアのお手本だった
→潮目が変わったのは2000年代の中頃
→技術が進み製品の部品数が減り時代はソフトウェアに
→日本の顧客が求める(過剰)高品質は世界では売れなくなった→亀山モデルの例
・アジアに原材料や製品を発注しているのは日本だけではない
→クレームが多く発注が安定しない日本メーカーは切られる
・アジア航路の北東端にあり小規模港が多い日本はコンテナ船コストがかかるので抜港される
・製造業だけでなくサービス業にも完璧が求められる日本
→マレーシアでは学校でも病院でもスタッフにクレームの多い保護者や患者は切られる
→日本のコンビニやレストランでの接客は働く側の安い給料に釣り合っていない
→マレーシアでは高級店のみ→賃金以上のサービスはしない
→ちゃんと、きちんと、は人によって基準が違うので全て詳細な契約による(日本は逆)
・日本は時間や計画に正確で中国やマレーシアはフレキシブルだが最終的にどちらでも回る
・東南アジアの会社のチームワークの良さと日本の会社の和の重視の違い
・日本の序列競争、細かい差別待遇、謝罪の儀式、反省文・・・
3章より
・マレーシアには様々な宗教・民族の人が住み結論が異なる→答えはたくさんある
→学校も様々で転校も多い
→他人と比べなくていい→自分で自分の道を選択することになる
→重要なのは他人の選択に口を出さないこと→多様性を認め合う社会を生きる上での知恵
(この章のメインである教育制度や教育論のメモは、いずれ別の機会に)
4章より
・日本よりGDPが低く貧富の差も激しく犯罪も多いのに幸福度が高いのはなぜか
→とくにティーンエイジャーが精神的に落ち着いている
→自閉症の障害もマイルドで穏やか→社会の許容量の問題ではないか
→多国籍文化で自閉症も文化の一つとして受け入れ、多少の違いは気にしない優しさ
→外国人は日本のマナーの良さに驚嘆するが、ついていけない人も出てくる
・マレーシア人の幸福度には家族、宗教と精神、健康が重要な要素で、お金はあまり関係ない
→日本語学校で「お金と休みがたくさんあればどこへ行きたいか」と授業で訊いたら、
→マレー系の生徒ほぼ全員が「実家に帰る」と答えた→家族が一番
・日本では組織=システムにウェイトを置き、家庭も同じ経済的システム
→収入も家事も育児も互いに「ちゃんと」やるべき→家庭で安らぐことは難しいかも・・・
・怒りを正当化する人々
→マレーシアでは怒りで人を動かそうとすると自分が損をする
→日本は「叱られるのが当たり前の文化」
→「ちゃんとした基準」でないことを怒りミスを修正して教育してあげようという正義感から
→マレーシアの顧客対応では日本のようなクレーマーに出会った記憶がない
→家族関係に満足している人が多く、多様な人種や宗教で「正しさ」が異なるからでは・・・
→日本の大人社会の上下関係は子ども社会からずっと同じで、それが怒りにつながる
・日本のダメ出し文化(英語のnoteは良い点・悪い点の指摘だが日本ではダメ出しのみ)
→他人の目を気にする繊細な人には厳しい社会
・ミスや失敗に厳しい日本と緩いマレーシア
→厳しい方が便利快適で、緩い方は不便だけど生きるのは楽
→自分も間違えたらダメと思い、心が削られるのがつらいから
・マレーシアは多様な文化の社会で相手を完全に理解することは難しいと肌で知っている
→答えを決めつけない、価値観を押し付けない、ちゃんと、きちんとを要求しない・・・
・迷惑をかけてはいけない日本社会
→気を遣うのはいいが傾向が強まると「弱い立場の人は我慢が当たり前」になる
→日本で子育てしていた際のプレッシャーがマレーシアにはない
・どうにもならないことが当たり前
→迷惑をかけられても怒ったり叱ったりしない「まあいいか」があふれた社会は楽
・2021年の大洪水でのボランティア体験(近所のシク教寺院の無料食堂へ)
→参加資格、受付、分担、シフト・・・すべてがざっくりしていた
→他者への基本的な信頼があると社会のルールは少なくなる
→この寺院でのルールは髪を覆うこととアルコール・タバコの禁止のみ
→様々な宗教の信仰者が多いので「人間は完璧にできない」とゆったりしている
・予定は予定で時間はゴム→沖縄の島時間と同じ→南国共通?
→パンデミックも断水も洪水も生活は大変なのに面白動画のネタにしている
・マレーシアも少しずつ「ちゃんとする」社会に変わりつつあるが、
→緩さについていけず短期間で日本に帰国する人も多い
→完璧か不完全か、考え方や正解はいっぱいあっていいのだと思う・・・
・マレーシアでは人間関係の離脱戦略が簡単→友人を作りやすい
→あまりくっつかず「風船的」で気軽に離脱できる(寂しく感じるケースもある)
→日本の人間関係はぎっしり詰められた「ウニ的」
→狭い社会で距離が近く、お互いの棘が刺さらないよう気を遣っている
→人間関係や友人作りに慎重になる
・マレーシア人は寛容ではなく合理的なだけ?
→民族の排斥、華人の干支の犬飾りとムスリムなどなど・・・
→自分の正義を振りかざすと、すぐに別の正義とぶつかる→それで得られるものは少ない
→多民族なので責めたり怒ったりせず間違いや失敗にも寛容になる
→ちゃんとしていない自分は安心する
・マレーシアの全方位外交
→イスラム協力機構メンバーでイギリス連邦加盟国で一帯一路にも参加・・・
→2018年の政権交代の際も1969年の人種暴動を繰り返してはいけないと慎重になってた
→全てに寛容になるメリットを実感として国民が知っている
・「多様性とは相手を理解すること」と言われるが、実は非常に難しい
→できることは「理解はできないけど放っておく、口を出さない」こと
→Mind your own business(自分のことに集中せよ)→マレーシアで何度も言われた言葉
→自分の責任の範囲に集中し理解できない他人を必要以上に見ないこと
→正解が増えると勝ち組も負け組もなくなり他人の生き方に余計な口を出す人が減る
→自分の人生に集中する人が増えると、ようやく生きやすくなるのではないか
おわりにより
・視野が広がれば正解がわからなくなり、たどり着けなくなる
→マレーシアに来て11年になるが知らないことが増えるいっぽう
・2022年の夏に欧州を廻ったが様々なサービスは日本よりマレーシアに近いと感じた
→これが世界標準で日本のサービスが変わっているのではと書いたら欧州在住者の賛同を得た
・東南アジアに住む人たちからは「日本に旅行に行くのは最高、でも働くのは嫌」
→海外の日本人からも「母国ではもう働きたくないけど、住むだけなら安全快適で安心」
→サービスを受ける側には快適だが、提供する側は厳しい労働環境の日本・・・
・もう少し構成人員がリラックスすれば幸福度の高い社会が作れるのではないか
→安全で完璧なサービスを望む人にはオプションで残せばいい
→幸福度の高い生き方は外国の「いいとこ取り」をすればいい
・マレーシアは英語が通じ外国人が働きやすいが、宗教を中心とした民族コミュニティも健在
→友人の敬虔なマレー系ムスリムは子どもをドイツなどに留学させている
→グローバルとローカルも、いいとこ取り、ハイブリッド、グレーゾーンでいい
→二項対立ではない
・日本の良さを残しつつ、みなが楽になっていくことが実現できれば・・・
ちなみにわたくし98kは昔から・・・
まあいっか・てきとー・とーとつをモットーに暮らしてましゅが・・・
2023年05月03日
歴史の逆流
ええ、本日は憲法記念日つーことで・・・
歴史の逆流~時代の分水嶺を読み解く~とゆー本のご紹介
表紙カバー裏にあった惹句
惹句にもあるとおり「憲法学・政治学・歴史学の視点から、暴力の時代に抗する術を考える」本であります
著者紹介
奥付
例によって目次のみ・・・
以下、思いつくままの読後メモ
(わたくしがはたしてそうなの?と感じた部分も著者の趣旨をメモしたつもりです)
1章より
・日本の統治システムの宿痾は歴史から学ばないこと
・政治学を含め社会科学の特徴は自然科学と異なり実験できないこと→歴史が実験のかわり
・日本はデータをきちんと使えない国
→執着によって幻想が生まれ、都合のいい幻想はなかなか手放さない→ネーションの幻想も
→ジョンソンの早いコロナ規制解除、菅の東京オリンピック→楽観幻想にしがみついていた
・安倍政権とその人事権を握った菅官房長官、杉田副長官の振る舞いは、説明しないことによって、
権力を生じさせるというもの
→国民どころか官僚にも説明せず、人事権を使って忖度しろと迫る、新たな権力の磁場を作った
→官僚の党派的な中立を損ない個々の政治家の子分にする内閣人事局への干渉
→学術会議の会員も部下の任命と考えているから拒否にも一切説明はない
→国民も同じで、説明と納得で動いているのではなく命令と服従で動いていると思ってる
→安倍さんも同じだったが一部右派にとってはナショナリズムのアイドルで偶像であり得た
・偶像崇拝は自分の思いや迷い願いを投影しているだけなので結局は自分を拝んでいるだけ
→そんな役に立たないことはやめて自分の頭を使って自分で考えろというのが偶像崇拝禁止
→偶像崇拝せず直接神と対話する神秘主義は教団宗教から迫害されていた
→プロテスタントから立憲主義へ
→宗教上も偶像と象徴は異なる(十字架のペンダントは象徴、戦後の天皇も偶像から象徴に)
・反ユダヤ主義と反9条主義は似ている
→ユダヤ陰謀説が論破されても諦めないように、9条で専守防衛が可能といってもきかない
→因果関係などとは無関係なイデオロギー的幻想(ジジェク)だから
→今後どちらも根拠もなく盛り上がる可能性は否定できない
・病理学の進歩と地方自治制度の間のギャップ
→感染症は特定の地域で流行するので自治体が管轄すべきとの考え
→パンデミックに適した制度ではないのではないか
→制度設計が明治期の感染症(コレラや腸チフス)対策段階で止まってしまった
→大阪でコロナ事態がひどくなったのは保健所を無駄として整理したからという指摘がある
→公衆衛生はナショナルミニマムなので中央集権のほうがいいとの考え方も成り立つが・・・
→大阪の保健所統合などの間違いは地方に権限を委ねる中で折り込み済みの話でもある
・市場より国家が強力だった頃の革新自治体は国家政府に対抗するため自治体の自由を使うと言ってた
→だが、ここまで市場が強力になれば、その発想では無理
→大阪維新は自治体の自立性を市場原理と結びつけネオリベ的な政策の突破口にしている
・日本の学術レベルが落ちたのは2004年の国立大学法人化から→この検証が必要
・今の日本の為政者には学問体験が足りないので、彼らが専門知が大事といっても説得力がない
2章より
・ロシアで革命やソ連の崩壊があっても独裁体制が続いているように、日本の政治体制にも戦前からの
連続性と慣性力があるのではないか
→価値の多様性を前提とした競争(民主主義)という意識が、まだ根付いていないのではないか
・自分は現実的で多数派だから正解と思って与党に投票する与党支持者も多い
→その自分の後ろにいる支持者は有権者の20%に過ぎないことを彼らに知ってほしい
・多くの国では現状に不満のある人は第二党に投票する
→日本では無党派が最大で政党政治から離れている
→宗教と同じで特定の政党支持は異常とされるから、習俗として自民党を支持しているだけ
→党派性を持つことは悪と浸透しているので高校での有権者教育もできないし二大政党もできない
・1997年頃からの行政改革で、公務員を減らし公共を市民社会が引き受けることになった
→その結果、会社が請け負って中抜きする事態になった
・2022年から高校の科目に歴史総合ができた
→近現代史に限ってだが「世界とその中の日本を広く相互的な視野から捉える」科目
→これで多くの高校生が、日本の内政が外国の働きかけで動いていることが分かるようになる・・・
・コロナ禍で(立場により見える風景が全く異なる)パラレルワールドが広がった→これが本当の危機
3章より
・戦争指導者の説明と真の理由を区別し明らかにしたのが2400年前の古代アテナイ歴史学のはじまり
・ウクライナ侵攻でのNATOなどの支援は両者の「暗黙の了解」→38度線の休戦ラインと同じ
・橋下徹は戦うな、山東昭子は戦い抜けと言ってるが国のあり方を賭けた話でウクライナが決めること
→被害でいえば沖縄戦、原爆投下、加害でいえば南京戦
→日本では、これらの戦争終結への対立と混乱があったことから、早く降伏すべきとの議論が出てきやすい
・ホッブズの社会契約論は個人セキュリティと国家セキュリティの議論
→個人セキュリティのための国家との契約なのだから戦場で死ぬ義務はない
→殺し合う自然状態でのミニマムな国家との約束に過ぎない→国家から逃げればいい→ロシア
・ルソーの社会契約論は自由国家を守らねば個人セキュリティも守れないから戦って死ぬべき
→国民の意志により国家は運営されており国民の中長期の利害を見据えた決定がなされている
→そうである以上、国家を守るため国民全員が戦うべき→ウクライナ
・日本の歴史では、共同体のリーダー(天皇)を祭り上げた徴兵制から自衛隊になった
→ホッブズ型かルソー型か、国民動員をどう捉えるか・・・
・戦争の開戦法規は自衛が基本で交戦法規は戦闘員と非戦闘員の区別が基本
→経済封鎖は非戦闘員を苦しめるので戦争より悪い(マイケル・ウォルツァーの正戦論)
→マリウポリの封鎖は問題だが、ロシアへの経済制裁はまだ飢餓になってないので今は問題ない
→今後の制裁が強まり、ロシアの飢餓状況が報道されるようになればどうなるか・・・
・現代の戦争は核戦争かゲリラ戦になる(丸山真男)→群民蜂起→軍隊を否定したゲリラ戦のススメ
→しかし民間人が武装していたら交戦法規は・・・デスパレードだから仕方がない???
・戦争と冷戦を含む戦争状態は異なり、戦争よりマシだが深刻な戦争状態はリスキー
→法秩序の破壊を止めるためにどんな行動をとったかが為政者に問われる
→東京裁判では広田弘毅は不作為とされ有罪になった
・決闘ルールでは勝った方が正しいとされる→これが戦争のルール(グロティウス)
→ルールにより地獄を弱める効果はあるが、戦争犯罪さえなければ戦争で決めていいのか
→国際紛争を解決する手段としてウクライナ侵攻したとして、多くの国から非難されている
→パリ不戦条約から国連憲章(憲法9条も)への国際社会の秩序は揺らいでいない
(なのでロシアは国内問題であると主張している)
・NATO東進脅威に対するロシアの言い分と満州鉄道権益に対する日本の言い分
→どちらも欧米がもう少しコミットしていたら戦争にならなかったのでは・・・
4章より
・戦争は憲法原理の違いと歴史観の違いから
→それでも外部に喧伝している戦争目的と真の戦争目的には常にズレがある
→ロシアのウクライナ東部併合と日本の鮮満一如は同じもの
・西側が軍事的にロシアを圧倒できなければロシアの国民を覚醒させることはできないのか
→日本国民は原爆あるいは満蒙開拓民を捨てて逃げた関東軍によって明治以来の歴史観が変わった
・満州事変の意図は米ソへの戦争準備だったが、インテリ向けには「中国が条約を守らないから」であり、
農民向けには「満蒙の土地を手に入れて豊かに暮らすため」で、昭和恐慌時に計算され尽くしたもの
→プーチンの意図は「ウクライナがNATOに入れば安全が脅かされるのでウクライナを占領する」
→満州と同様に他国の土地を安全確保の目的にしており必ず滅びが始まる
・ウクライナはオーストリア・ハンガリー帝国に属したリビウとロシア帝国に属したキーウに分かれる
→ゼレンスキー政権はそれをまとめ上げているが言語はウクライナ語に統一しようとしている
・憲法改正(解釈を含む)により政治の劣化が急速に進む例→ロシア、ハンガリー、日本・・・
・国連の選択肢としてはロシアを安保理から排除するか現状維持か、しかない
→総会に来ているだけ現状のほうがマシか・・・
→ソ連は1949年に建国された中華人民共和国を認めないことを不満とし欠席し続けたため、拒否権を発動する
こともなく国連として朝鮮戦争に対応できた(当時の常任理事国は中華民国)
→当初は戦勝国の集まりだったのだから「当事者に議決権はない」と入れておけば→今では不可能
・これ以上の事態に進展すればNATOの集団的自衛権がうまく働くか→ロシアと全面戦争するか
→日米安保条約では日本が攻撃された場合に米軍が反撃するか否かはアメリカ議会の判断による
・ロシアは1937年の上海戦以降の日本と同じ失敗をしている→敵を侮っていた
・19世紀はじめにヘーゲルは戦争や革命で歴史は進むとした
→ファシズムやナチズムはヘーゲル右派、ソ連はヘーゲル左派で歪曲しているが共通している
→カントは何が正しいかは国によって異なり国内では法秩序、国際社会では秩序あるバランス尊重
→現在のロシアと西側諸国の対立はヘーゲルとカントの対立
・日本では防衛装備移転も反撃能力も法律として定まっていない
→相手の攻撃能力を全滅させられない先制攻撃は意味がない
・9条の内容は基本的に1928年の不戦条約や国連憲章で形成された侵略戦争の違法化
→戦後も海外で武力行使してきたアメリカの行動様式と専守防衛の日本の行動様式とは異なるもの
→そのハードルを下げるより、攻撃目標となる原発を撤去したりシェルターを整備する方がいい
→9条1項は侵略戦争を放棄した条文というのは誤解
・抑止力で侵略を抑止できるか
→アメリカは日本への抑止力として真珠湾に軍備したが、日本にそれさえ叩けばと思わせてしまった
・自衛隊のどこが違憲なのかは学者によって異なる
→憲法に自衛隊を書き込んだとしても憲法上の疑義がなくなるわけではない
→憲法に明記されている天皇制にも様々な疑義があるのと同じ
→侵略された場合は自衛し国際社会は侵略に抗議するという国際社会の前提は何も覆っていない
・ロシアはウクライナを国内問題と主張しており中国の台湾と同じ
→台湾有事に備え憲法改正しフルの集団的自衛権を持つべきとの議論
→バイデンが口先で牽制してるのは武力行使ができないから
・中国の海洋戦略上の脅威増大は事実だが・・・
→中国にとってアメリカは朝鮮戦争の際に台湾海峡を封鎖した国
→台湾を武力で統合する話も、すでに中国の一部なので武力で現状変更する必要はないとする話もある
→現状が続けば中国が民主化する可能性もあるがウクライナ侵攻で中国への警戒感が高まるのは当然
→アイルランドは1998年に北アイルランドを放棄し長く続いた戦争を収めた
→田中角栄は台湾について「ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」で周恩来と妥結した
・日本の安全保障の危機を叫ぶ人ほど現実を見ていない
→IEPの世界平和指数2021では日本は12位、ウクライナ142位、ロシア154位・・・
→リスクを考えるなら原発と近隣国との関係を悪化させないことを考えるべき
・世の中を動かしているのは既得権益ではなく思想(ケインズ)
5章より
・安倍元首相の国葬
→侵害留保説(権利制限には法的根拠が必要)では法的根拠は不要
→重要事項法理説では自衛隊出動と同じく国会承認が必要だが国葬は重要事項なのかどうか
→山本五十六の国葬は負け戦のターニングポイントだったが、同様に日本衰退のターニングポイントか
→日本の衰退は1990年代からの行政改革などの失敗の帰結で、個人に意味を持たせるのは危うい
→安倍政権に正当な政治批判をしてきた言論や報道を、テロを誘発したとして抑圧したい勢力に利するもの
→山本五十六の頃は民族精神フォルクスガイストがあったが戦後は各自が個人で判断するようになった
→これは「ミネルヴァのふくろうは黄昏になって飛び立つ(ヘーゲル)」歴史の終着点
→今の日本は闇夜の状態で変革も発展もなく偉人も英雄も現れない
→同じ行動という日本人のコンセンサスを分断線で壊そうとした人の国葬に全員が納得するのは困難
→ド・ゴール国葬時のフランスも今の日本と同じ闇夜の状態だった
→銃撃事件の動機が選挙演説の阻止であれば明らかに民主主義の危機だが今回は微妙
・戦前に弾圧された宗教団体はその後、権力との癒着に向かっている
→日本の政教分離原則は信仰の自由のための原則
→両者が衝突する場合は信仰の自由が確保されるかたちにすべき
→革命後のフランスでは政治を宗教から守るための政教分離原則
→宗教弾圧は問題だが外国の宗教団体が密かに日本の政治に食い込むのも問題
6章より
・この国はどこに向かうのか
→2022年7月の参院選では自民党は動かず固定化→政策ではなく自民党だから支持する→同調圧力
→自分が投票した候補者が当選すれば正答、落選すれば誤答と考える人もいるが間違い
→正答も誤答もなく、とりあえず任せているだけだがルソーの社会契約論にも正答にというのはある
→野党への支持も固定化している
→安倍政権は明らかに右寄りだったが自民党が元の中道勢力の連合体に戻るかが分岐点
・日本の選挙制度と集団
→保守合同による自民党と左右統一による社会党の「55年体制」以上にマシな政治にはならない
→大阪維新の2回目の住民投票での否決はどちらの陣営にも予想外だった
→選挙の票を読む技術がどちらにも蓄積されていないのではないか
→地方と大都市圏では同じ選挙制度でも全く違うかたちになっている
→組織化しやすい集団と非正規労働者のようにしにくい集団がある→棄権の多さにもつながる
→今の野党にカリスマ的なリーダーは見あたらない→属人的な部分もある
・少数政党の乱立
→ポピュリスト政党がここまで乱立している国は世界でも珍しい
→政党助成金は90年代の政治改革で成立した制度だが(これによる)少数政党の乱立は予測してなかった
→まともな政党に限定すべきだが野党乱立は自民党に都合がいいので改めることはないだろう
→政治家をいかに育てるか、松下政経塾も連携を目指したが結局バラバラに
・対案を出せ症候群
→野党も国立大学の教授会も「では対案を出せ」ばかりだと正しい批判ができなくなる
→ガバナンス、ステークホルダー、効率化、生産性など、いわばコンサル用語が大学に限らずあらゆる組織で
幅を利かせている
→そもそも発生経緯の異なる組織を一つの方向に押し込もうとしていることがおかしい
→中央省庁も内閣人事局ができて人事は官邸が行うようになり、失敗の痕跡や政権批判をしなくなった
→本来の公務員制度改革は人事の集権化と、内閣官房長官による人事管理についての国民への説明責任の確立
→幹部人事が官邸に掌握されただけで「ヒラメ官僚」が跋扈し、有権者の「それでも与党に投票する」に
→政治家は選挙で信任された一般意思を示すので官僚は機械的に執行すればよいという権力システムの
集権的な理解が広まった
→意見を言う官僚は民主的な権力行使に介入する雑音として排除される
→政治家が一般意思ではなく特殊意思に配慮しようとするときに、選挙に左右されず安定した身分で
一定の中立性を保つ官僚が、適切にブレーキをかけることは適切な権力行使に必要
(旧統一教会の名称変更を自分の見識で止めた当時の文部科学省宗務課長など)
→政治主導は進んだが政治家の要請をメモし全て公開する提案は制度化されないまま
→政治家は選挙で選ばれたことを正当性の根拠にするが、それは一般意思を体現している根拠にはならない
→そもそも一般意思を貫徹するかたちで政治主導を行うことなど原理的にできない
→なので権力を多元的な構造にしなければならない
(宗教団体の名称変更は選挙でお世話になってる政治家より宗務課長が判断する方がまともなシステム)
→内閣人事局は自民党が絶対に廃止しないので、可能なのは特殊意思を通す場合に公開することぐらい
・公文書管理
→福田康夫が尽力し麻生太郎内閣下で公布された公文書管理法の施行は2011年4月で東日本大震災は施行前、
菅直人首相は議事録を残す指示をしなかったが、野田佳彦内閣下の岡田克也副総理が指揮し大部分を復活させた
→しかし2012年12月からの安倍政権以降は公文書管理を重視する姿勢は一切なくなった
→公文書管理法の見直しや公務員制度改革など現実的に可能な問題提起をすべき
→官僚に過剰な統制機能が働いているのに政治家は統制されず選挙もチェック機能を果たせていない
・放送法
→放送行政を総理大臣や内閣の指揮が及ばない独立規制委員会に託す放送法の改正が必要
→NHKの受信料制度は政府や広告主に左右されない適切な制度だと思っているが、
→受信料は国会がNHK予算を承認しない限り受け取ることができない仕組みになっている
→国会多数派の意向が番組内容に及ぶことがないとは言い切れない(高市早苗総務相の発言など)
→なので国会権限から除外して独立した第三者機関に委ねるべき
→これは右派が叫ぶ「NHKの偏向」をなくすことにもなるはず・・・
・議論なき政治
→法的根拠を度外視し国会議論も国民説明もせず閣議決定で決めていく政治は安倍政権以降も続いている
→説明しなくても責任を問われることはなく選挙でも負けないと分かっているから
→内閣法制局も破壊し外務省出身者を起用して集団的自衛権の解釈改憲まで進んだ
→説明しない政治、国会軽視、役人の責任放棄・・・
→ボリス・ジョンソンは政府や議会に繰り返し嘘をついたと退陣させられたが、桜を見る会の国会答弁で
118回の嘘をついた安倍さんは退陣することはなかった
→サッチャー政権では大臣が次々と理由を公表して辞職して退陣に追いやり、トランプ政権の末期でも
政府高官や側近が多数辞めたが、日本では誰一人辞めない、保身しか考えていない
→日本の場合は「説明しなくても選挙では負けない」ことが大きい
・憲法的大問題
→国会審議を経ずに使途が決められる予備費の増大→使途が正確に特定できたのは6.5%のみ
→憲法上は国会の事後承諾が必要だが、承諾されなくとも無効にはならず戻す必要もない
→この上に緊急事態条項まで作って何をやりだすのか・・・
→財政民主主義の背景には戦費調達のため国債を乱発した戦前への反省がある
→行政権力の暴走を無関心な国民が傍観する流れを、このあたりで止めないと・・・
巻末より
・イギリス女王の国葬で軍が前面に出るのは、軍の統帥権が女王にあるのだから当然
→旧植民地からは歴史への反省がないとの批判もあった
・日本でも明治以降は軍の統帥権は天皇であり国葬で軍が前面に出るのは当然だった
→今は内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮権を持つが、国葬や私的な葬儀に自衛隊儀仗兵を出すということは、
国家の本質的な部分は軍事であるというイデオロギーを広めることにならないか・・・
→憲法により軍の正当性を否定していることと真っ向から対立することになる
・不幸な銃撃事件から社会の空気が変わった、違う風が吹きはじめた、みんながおかしいと言いはじめた
→岸田さんはしたたかな人ではないか→これを機会に安倍派つぶしとか・・・
・少数者の信条などは多数決の政治プロセスでは守れないので裁判所が守るというのが憲法学会の通念
→カルト宗教団体は信条による強力な統制・監視でサイズに見合わない政治的影響力を発揮していた
→少数派だから裁判所が守るということにはならない
(逆に非正規労働者やシングルマザーは多数派だがバラバラで共通の権利や利益のための協力が難しい)
・憲法の信仰の自由は宗教団体を国家権力の抑圧から守ること、政教分離は政治を特定の宗教団体の
過大な影響力から遮断することだが、両者の関係は書かれていない
→戦前に抑圧された宗教団体は、戦後は「政治は宗教に介入するな」でよかったのに、権力側につけば
抑圧されないというほうに進んで行った
→同じ政教分離のアメリカもフランスも同じで、そのこと自体が問題ではないが・・・
・戦前に弾圧されたのは伊藤博文らが考えた市民宗教としての天皇制の競争相手だったから
→戦後は市民宗教としての天皇制はなくなった
・冷戦終結後、「反共」アイデンティティーの中身は変わってきている
→多様性を否定し特定の価値観で社会を分断してきた
→安倍さんを支持してきた保守派は「リベラル派は旧統一教会を敵とみなし日本に分断を持ち込んでいる」
と言ってるが、分断という概念をはき違えている
→多様性を否定する考え方を多様性の名によって擁護すべきではない
・分断とは社会の中で許容可能な人たちを排除しようとすること
→許容できない泥棒を刑務所に入れるのを分断とはいわない
・安倍政権の負の遺産である分断の政治をどう乗り越えるのか、真剣に構想しなければならない
あとがきより
・新型コロナの諸問題は「政治が生活を左右するという意識」を持たせた
・ウクライナ侵攻は大多数のロシアの人たちを、はじめて独裁のリスクに向き合わせた
・一定の時代に現れた制度・組織・論理が、なぜその時代に、何のために創ろうとしたのかを考える歴史学
・社会の諸事情を規律という側面から考察しようとする憲法学の手法
・その規律を支える条件を考察しようとする政治学の手法
・エコーチェンバーとは正反対の多面的な議論になったが、1章では3人とも安倍晋三政権や菅義偉政権に対する
否定的評価を明確に出している
→政治の失敗は自然現象ではなく政治に関わる人々の行為の結果だから・・・
歴史の逆流~時代の分水嶺を読み解く~とゆー本のご紹介
表紙カバー裏にあった惹句
惹句にもあるとおり「憲法学・政治学・歴史学の視点から、暴力の時代に抗する術を考える」本であります
著者紹介
奥付
例によって目次のみ・・・
以下、思いつくままの読後メモ
(わたくしがはたしてそうなの?と感じた部分も著者の趣旨をメモしたつもりです)
1章より
・日本の統治システムの宿痾は歴史から学ばないこと
・政治学を含め社会科学の特徴は自然科学と異なり実験できないこと→歴史が実験のかわり
・日本はデータをきちんと使えない国
→執着によって幻想が生まれ、都合のいい幻想はなかなか手放さない→ネーションの幻想も
→ジョンソンの早いコロナ規制解除、菅の東京オリンピック→楽観幻想にしがみついていた
・安倍政権とその人事権を握った菅官房長官、杉田副長官の振る舞いは、説明しないことによって、
権力を生じさせるというもの
→国民どころか官僚にも説明せず、人事権を使って忖度しろと迫る、新たな権力の磁場を作った
→官僚の党派的な中立を損ない個々の政治家の子分にする内閣人事局への干渉
→学術会議の会員も部下の任命と考えているから拒否にも一切説明はない
→国民も同じで、説明と納得で動いているのではなく命令と服従で動いていると思ってる
→安倍さんも同じだったが一部右派にとってはナショナリズムのアイドルで偶像であり得た
・偶像崇拝は自分の思いや迷い願いを投影しているだけなので結局は自分を拝んでいるだけ
→そんな役に立たないことはやめて自分の頭を使って自分で考えろというのが偶像崇拝禁止
→偶像崇拝せず直接神と対話する神秘主義は教団宗教から迫害されていた
→プロテスタントから立憲主義へ
→宗教上も偶像と象徴は異なる(十字架のペンダントは象徴、戦後の天皇も偶像から象徴に)
・反ユダヤ主義と反9条主義は似ている
→ユダヤ陰謀説が論破されても諦めないように、9条で専守防衛が可能といってもきかない
→因果関係などとは無関係なイデオロギー的幻想(ジジェク)だから
→今後どちらも根拠もなく盛り上がる可能性は否定できない
・病理学の進歩と地方自治制度の間のギャップ
→感染症は特定の地域で流行するので自治体が管轄すべきとの考え
→パンデミックに適した制度ではないのではないか
→制度設計が明治期の感染症(コレラや腸チフス)対策段階で止まってしまった
→大阪でコロナ事態がひどくなったのは保健所を無駄として整理したからという指摘がある
→公衆衛生はナショナルミニマムなので中央集権のほうがいいとの考え方も成り立つが・・・
→大阪の保健所統合などの間違いは地方に権限を委ねる中で折り込み済みの話でもある
・市場より国家が強力だった頃の革新自治体は国家政府に対抗するため自治体の自由を使うと言ってた
→だが、ここまで市場が強力になれば、その発想では無理
→大阪維新は自治体の自立性を市場原理と結びつけネオリベ的な政策の突破口にしている
・日本の学術レベルが落ちたのは2004年の国立大学法人化から→この検証が必要
・今の日本の為政者には学問体験が足りないので、彼らが専門知が大事といっても説得力がない
2章より
・ロシアで革命やソ連の崩壊があっても独裁体制が続いているように、日本の政治体制にも戦前からの
連続性と慣性力があるのではないか
→価値の多様性を前提とした競争(民主主義)という意識が、まだ根付いていないのではないか
・自分は現実的で多数派だから正解と思って与党に投票する与党支持者も多い
→その自分の後ろにいる支持者は有権者の20%に過ぎないことを彼らに知ってほしい
・多くの国では現状に不満のある人は第二党に投票する
→日本では無党派が最大で政党政治から離れている
→宗教と同じで特定の政党支持は異常とされるから、習俗として自民党を支持しているだけ
→党派性を持つことは悪と浸透しているので高校での有権者教育もできないし二大政党もできない
・1997年頃からの行政改革で、公務員を減らし公共を市民社会が引き受けることになった
→その結果、会社が請け負って中抜きする事態になった
・2022年から高校の科目に歴史総合ができた
→近現代史に限ってだが「世界とその中の日本を広く相互的な視野から捉える」科目
→これで多くの高校生が、日本の内政が外国の働きかけで動いていることが分かるようになる・・・
・コロナ禍で(立場により見える風景が全く異なる)パラレルワールドが広がった→これが本当の危機
3章より
・戦争指導者の説明と真の理由を区別し明らかにしたのが2400年前の古代アテナイ歴史学のはじまり
・ウクライナ侵攻でのNATOなどの支援は両者の「暗黙の了解」→38度線の休戦ラインと同じ
・橋下徹は戦うな、山東昭子は戦い抜けと言ってるが国のあり方を賭けた話でウクライナが決めること
→被害でいえば沖縄戦、原爆投下、加害でいえば南京戦
→日本では、これらの戦争終結への対立と混乱があったことから、早く降伏すべきとの議論が出てきやすい
・ホッブズの社会契約論は個人セキュリティと国家セキュリティの議論
→個人セキュリティのための国家との契約なのだから戦場で死ぬ義務はない
→殺し合う自然状態でのミニマムな国家との約束に過ぎない→国家から逃げればいい→ロシア
・ルソーの社会契約論は自由国家を守らねば個人セキュリティも守れないから戦って死ぬべき
→国民の意志により国家は運営されており国民の中長期の利害を見据えた決定がなされている
→そうである以上、国家を守るため国民全員が戦うべき→ウクライナ
・日本の歴史では、共同体のリーダー(天皇)を祭り上げた徴兵制から自衛隊になった
→ホッブズ型かルソー型か、国民動員をどう捉えるか・・・
・戦争の開戦法規は自衛が基本で交戦法規は戦闘員と非戦闘員の区別が基本
→経済封鎖は非戦闘員を苦しめるので戦争より悪い(マイケル・ウォルツァーの正戦論)
→マリウポリの封鎖は問題だが、ロシアへの経済制裁はまだ飢餓になってないので今は問題ない
→今後の制裁が強まり、ロシアの飢餓状況が報道されるようになればどうなるか・・・
・現代の戦争は核戦争かゲリラ戦になる(丸山真男)→群民蜂起→軍隊を否定したゲリラ戦のススメ
→しかし民間人が武装していたら交戦法規は・・・デスパレードだから仕方がない???
・戦争と冷戦を含む戦争状態は異なり、戦争よりマシだが深刻な戦争状態はリスキー
→法秩序の破壊を止めるためにどんな行動をとったかが為政者に問われる
→東京裁判では広田弘毅は不作為とされ有罪になった
・決闘ルールでは勝った方が正しいとされる→これが戦争のルール(グロティウス)
→ルールにより地獄を弱める効果はあるが、戦争犯罪さえなければ戦争で決めていいのか
→国際紛争を解決する手段としてウクライナ侵攻したとして、多くの国から非難されている
→パリ不戦条約から国連憲章(憲法9条も)への国際社会の秩序は揺らいでいない
(なのでロシアは国内問題であると主張している)
・NATO東進脅威に対するロシアの言い分と満州鉄道権益に対する日本の言い分
→どちらも欧米がもう少しコミットしていたら戦争にならなかったのでは・・・
4章より
・戦争は憲法原理の違いと歴史観の違いから
→それでも外部に喧伝している戦争目的と真の戦争目的には常にズレがある
→ロシアのウクライナ東部併合と日本の鮮満一如は同じもの
・西側が軍事的にロシアを圧倒できなければロシアの国民を覚醒させることはできないのか
→日本国民は原爆あるいは満蒙開拓民を捨てて逃げた関東軍によって明治以来の歴史観が変わった
・満州事変の意図は米ソへの戦争準備だったが、インテリ向けには「中国が条約を守らないから」であり、
農民向けには「満蒙の土地を手に入れて豊かに暮らすため」で、昭和恐慌時に計算され尽くしたもの
→プーチンの意図は「ウクライナがNATOに入れば安全が脅かされるのでウクライナを占領する」
→満州と同様に他国の土地を安全確保の目的にしており必ず滅びが始まる
・ウクライナはオーストリア・ハンガリー帝国に属したリビウとロシア帝国に属したキーウに分かれる
→ゼレンスキー政権はそれをまとめ上げているが言語はウクライナ語に統一しようとしている
・憲法改正(解釈を含む)により政治の劣化が急速に進む例→ロシア、ハンガリー、日本・・・
・国連の選択肢としてはロシアを安保理から排除するか現状維持か、しかない
→総会に来ているだけ現状のほうがマシか・・・
→ソ連は1949年に建国された中華人民共和国を認めないことを不満とし欠席し続けたため、拒否権を発動する
こともなく国連として朝鮮戦争に対応できた(当時の常任理事国は中華民国)
→当初は戦勝国の集まりだったのだから「当事者に議決権はない」と入れておけば→今では不可能
・これ以上の事態に進展すればNATOの集団的自衛権がうまく働くか→ロシアと全面戦争するか
→日米安保条約では日本が攻撃された場合に米軍が反撃するか否かはアメリカ議会の判断による
・ロシアは1937年の上海戦以降の日本と同じ失敗をしている→敵を侮っていた
・19世紀はじめにヘーゲルは戦争や革命で歴史は進むとした
→ファシズムやナチズムはヘーゲル右派、ソ連はヘーゲル左派で歪曲しているが共通している
→カントは何が正しいかは国によって異なり国内では法秩序、国際社会では秩序あるバランス尊重
→現在のロシアと西側諸国の対立はヘーゲルとカントの対立
・日本では防衛装備移転も反撃能力も法律として定まっていない
→相手の攻撃能力を全滅させられない先制攻撃は意味がない
・9条の内容は基本的に1928年の不戦条約や国連憲章で形成された侵略戦争の違法化
→戦後も海外で武力行使してきたアメリカの行動様式と専守防衛の日本の行動様式とは異なるもの
→そのハードルを下げるより、攻撃目標となる原発を撤去したりシェルターを整備する方がいい
→9条1項は侵略戦争を放棄した条文というのは誤解
・抑止力で侵略を抑止できるか
→アメリカは日本への抑止力として真珠湾に軍備したが、日本にそれさえ叩けばと思わせてしまった
・自衛隊のどこが違憲なのかは学者によって異なる
→憲法に自衛隊を書き込んだとしても憲法上の疑義がなくなるわけではない
→憲法に明記されている天皇制にも様々な疑義があるのと同じ
→侵略された場合は自衛し国際社会は侵略に抗議するという国際社会の前提は何も覆っていない
・ロシアはウクライナを国内問題と主張しており中国の台湾と同じ
→台湾有事に備え憲法改正しフルの集団的自衛権を持つべきとの議論
→バイデンが口先で牽制してるのは武力行使ができないから
・中国の海洋戦略上の脅威増大は事実だが・・・
→中国にとってアメリカは朝鮮戦争の際に台湾海峡を封鎖した国
→台湾を武力で統合する話も、すでに中国の一部なので武力で現状変更する必要はないとする話もある
→現状が続けば中国が民主化する可能性もあるがウクライナ侵攻で中国への警戒感が高まるのは当然
→アイルランドは1998年に北アイルランドを放棄し長く続いた戦争を収めた
→田中角栄は台湾について「ポツダム宣言に基づく立場を堅持する」で周恩来と妥結した
・日本の安全保障の危機を叫ぶ人ほど現実を見ていない
→IEPの世界平和指数2021では日本は12位、ウクライナ142位、ロシア154位・・・
→リスクを考えるなら原発と近隣国との関係を悪化させないことを考えるべき
・世の中を動かしているのは既得権益ではなく思想(ケインズ)
5章より
・安倍元首相の国葬
→侵害留保説(権利制限には法的根拠が必要)では法的根拠は不要
→重要事項法理説では自衛隊出動と同じく国会承認が必要だが国葬は重要事項なのかどうか
→山本五十六の国葬は負け戦のターニングポイントだったが、同様に日本衰退のターニングポイントか
→日本の衰退は1990年代からの行政改革などの失敗の帰結で、個人に意味を持たせるのは危うい
→安倍政権に正当な政治批判をしてきた言論や報道を、テロを誘発したとして抑圧したい勢力に利するもの
→山本五十六の頃は民族精神フォルクスガイストがあったが戦後は各自が個人で判断するようになった
→これは「ミネルヴァのふくろうは黄昏になって飛び立つ(ヘーゲル)」歴史の終着点
→今の日本は闇夜の状態で変革も発展もなく偉人も英雄も現れない
→同じ行動という日本人のコンセンサスを分断線で壊そうとした人の国葬に全員が納得するのは困難
→ド・ゴール国葬時のフランスも今の日本と同じ闇夜の状態だった
→銃撃事件の動機が選挙演説の阻止であれば明らかに民主主義の危機だが今回は微妙
・戦前に弾圧された宗教団体はその後、権力との癒着に向かっている
→日本の政教分離原則は信仰の自由のための原則
→両者が衝突する場合は信仰の自由が確保されるかたちにすべき
→革命後のフランスでは政治を宗教から守るための政教分離原則
→宗教弾圧は問題だが外国の宗教団体が密かに日本の政治に食い込むのも問題
6章より
・この国はどこに向かうのか
→2022年7月の参院選では自民党は動かず固定化→政策ではなく自民党だから支持する→同調圧力
→自分が投票した候補者が当選すれば正答、落選すれば誤答と考える人もいるが間違い
→正答も誤答もなく、とりあえず任せているだけだがルソーの社会契約論にも正答にというのはある
→野党への支持も固定化している
→安倍政権は明らかに右寄りだったが自民党が元の中道勢力の連合体に戻るかが分岐点
・日本の選挙制度と集団
→保守合同による自民党と左右統一による社会党の「55年体制」以上にマシな政治にはならない
→大阪維新の2回目の住民投票での否決はどちらの陣営にも予想外だった
→選挙の票を読む技術がどちらにも蓄積されていないのではないか
→地方と大都市圏では同じ選挙制度でも全く違うかたちになっている
→組織化しやすい集団と非正規労働者のようにしにくい集団がある→棄権の多さにもつながる
→今の野党にカリスマ的なリーダーは見あたらない→属人的な部分もある
・少数政党の乱立
→ポピュリスト政党がここまで乱立している国は世界でも珍しい
→政党助成金は90年代の政治改革で成立した制度だが(これによる)少数政党の乱立は予測してなかった
→まともな政党に限定すべきだが野党乱立は自民党に都合がいいので改めることはないだろう
→政治家をいかに育てるか、松下政経塾も連携を目指したが結局バラバラに
・対案を出せ症候群
→野党も国立大学の教授会も「では対案を出せ」ばかりだと正しい批判ができなくなる
→ガバナンス、ステークホルダー、効率化、生産性など、いわばコンサル用語が大学に限らずあらゆる組織で
幅を利かせている
→そもそも発生経緯の異なる組織を一つの方向に押し込もうとしていることがおかしい
→中央省庁も内閣人事局ができて人事は官邸が行うようになり、失敗の痕跡や政権批判をしなくなった
→本来の公務員制度改革は人事の集権化と、内閣官房長官による人事管理についての国民への説明責任の確立
→幹部人事が官邸に掌握されただけで「ヒラメ官僚」が跋扈し、有権者の「それでも与党に投票する」に
→政治家は選挙で信任された一般意思を示すので官僚は機械的に執行すればよいという権力システムの
集権的な理解が広まった
→意見を言う官僚は民主的な権力行使に介入する雑音として排除される
→政治家が一般意思ではなく特殊意思に配慮しようとするときに、選挙に左右されず安定した身分で
一定の中立性を保つ官僚が、適切にブレーキをかけることは適切な権力行使に必要
(旧統一教会の名称変更を自分の見識で止めた当時の文部科学省宗務課長など)
→政治主導は進んだが政治家の要請をメモし全て公開する提案は制度化されないまま
→政治家は選挙で選ばれたことを正当性の根拠にするが、それは一般意思を体現している根拠にはならない
→そもそも一般意思を貫徹するかたちで政治主導を行うことなど原理的にできない
→なので権力を多元的な構造にしなければならない
(宗教団体の名称変更は選挙でお世話になってる政治家より宗務課長が判断する方がまともなシステム)
→内閣人事局は自民党が絶対に廃止しないので、可能なのは特殊意思を通す場合に公開することぐらい
・公文書管理
→福田康夫が尽力し麻生太郎内閣下で公布された公文書管理法の施行は2011年4月で東日本大震災は施行前、
菅直人首相は議事録を残す指示をしなかったが、野田佳彦内閣下の岡田克也副総理が指揮し大部分を復活させた
→しかし2012年12月からの安倍政権以降は公文書管理を重視する姿勢は一切なくなった
→公文書管理法の見直しや公務員制度改革など現実的に可能な問題提起をすべき
→官僚に過剰な統制機能が働いているのに政治家は統制されず選挙もチェック機能を果たせていない
・放送法
→放送行政を総理大臣や内閣の指揮が及ばない独立規制委員会に託す放送法の改正が必要
→NHKの受信料制度は政府や広告主に左右されない適切な制度だと思っているが、
→受信料は国会がNHK予算を承認しない限り受け取ることができない仕組みになっている
→国会多数派の意向が番組内容に及ぶことがないとは言い切れない(高市早苗総務相の発言など)
→なので国会権限から除外して独立した第三者機関に委ねるべき
→これは右派が叫ぶ「NHKの偏向」をなくすことにもなるはず・・・
・議論なき政治
→法的根拠を度外視し国会議論も国民説明もせず閣議決定で決めていく政治は安倍政権以降も続いている
→説明しなくても責任を問われることはなく選挙でも負けないと分かっているから
→内閣法制局も破壊し外務省出身者を起用して集団的自衛権の解釈改憲まで進んだ
→説明しない政治、国会軽視、役人の責任放棄・・・
→ボリス・ジョンソンは政府や議会に繰り返し嘘をついたと退陣させられたが、桜を見る会の国会答弁で
118回の嘘をついた安倍さんは退陣することはなかった
→サッチャー政権では大臣が次々と理由を公表して辞職して退陣に追いやり、トランプ政権の末期でも
政府高官や側近が多数辞めたが、日本では誰一人辞めない、保身しか考えていない
→日本の場合は「説明しなくても選挙では負けない」ことが大きい
・憲法的大問題
→国会審議を経ずに使途が決められる予備費の増大→使途が正確に特定できたのは6.5%のみ
→憲法上は国会の事後承諾が必要だが、承諾されなくとも無効にはならず戻す必要もない
→この上に緊急事態条項まで作って何をやりだすのか・・・
→財政民主主義の背景には戦費調達のため国債を乱発した戦前への反省がある
→行政権力の暴走を無関心な国民が傍観する流れを、このあたりで止めないと・・・
巻末より
・イギリス女王の国葬で軍が前面に出るのは、軍の統帥権が女王にあるのだから当然
→旧植民地からは歴史への反省がないとの批判もあった
・日本でも明治以降は軍の統帥権は天皇であり国葬で軍が前面に出るのは当然だった
→今は内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮権を持つが、国葬や私的な葬儀に自衛隊儀仗兵を出すということは、
国家の本質的な部分は軍事であるというイデオロギーを広めることにならないか・・・
→憲法により軍の正当性を否定していることと真っ向から対立することになる
・不幸な銃撃事件から社会の空気が変わった、違う風が吹きはじめた、みんながおかしいと言いはじめた
→岸田さんはしたたかな人ではないか→これを機会に安倍派つぶしとか・・・
・少数者の信条などは多数決の政治プロセスでは守れないので裁判所が守るというのが憲法学会の通念
→カルト宗教団体は信条による強力な統制・監視でサイズに見合わない政治的影響力を発揮していた
→少数派だから裁判所が守るということにはならない
(逆に非正規労働者やシングルマザーは多数派だがバラバラで共通の権利や利益のための協力が難しい)
・憲法の信仰の自由は宗教団体を国家権力の抑圧から守ること、政教分離は政治を特定の宗教団体の
過大な影響力から遮断することだが、両者の関係は書かれていない
→戦前に抑圧された宗教団体は、戦後は「政治は宗教に介入するな」でよかったのに、権力側につけば
抑圧されないというほうに進んで行った
→同じ政教分離のアメリカもフランスも同じで、そのこと自体が問題ではないが・・・
・戦前に弾圧されたのは伊藤博文らが考えた市民宗教としての天皇制の競争相手だったから
→戦後は市民宗教としての天皇制はなくなった
・冷戦終結後、「反共」アイデンティティーの中身は変わってきている
→多様性を否定し特定の価値観で社会を分断してきた
→安倍さんを支持してきた保守派は「リベラル派は旧統一教会を敵とみなし日本に分断を持ち込んでいる」
と言ってるが、分断という概念をはき違えている
→多様性を否定する考え方を多様性の名によって擁護すべきではない
・分断とは社会の中で許容可能な人たちを排除しようとすること
→許容できない泥棒を刑務所に入れるのを分断とはいわない
・安倍政権の負の遺産である分断の政治をどう乗り越えるのか、真剣に構想しなければならない
あとがきより
・新型コロナの諸問題は「政治が生活を左右するという意識」を持たせた
・ウクライナ侵攻は大多数のロシアの人たちを、はじめて独裁のリスクに向き合わせた
・一定の時代に現れた制度・組織・論理が、なぜその時代に、何のために創ろうとしたのかを考える歴史学
・社会の諸事情を規律という側面から考察しようとする憲法学の手法
・その規律を支える条件を考察しようとする政治学の手法
・エコーチェンバーとは正反対の多面的な議論になったが、1章では3人とも安倍晋三政権や菅義偉政権に対する
否定的評価を明確に出している
→政治の失敗は自然現象ではなく政治に関わる人々の行為の結果だから・・・
2023年04月28日
人類学者K
人類学者K・・・
ロスト・イン・ザ・フォレストとゆー本のご紹介であります
前回記事のとおり自宅療養中なので、じっくりと読ませていただきました
表紙カバー裏にあった惹句
裏表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
目次
舞台となるマレーシア・ボルネオ島・サラワク州北東部の略図
(掲載に問題があれば削除します)
そう、わたくしが2017年の植林ツアーでメリナウ川の居住地を訪れたプナンの人たちの中でも
さらに奥地のブラガ川上流域に暮らす人たちを中心に、その暮らしぶりや世界観を長年にわたり
調査研究されている奥野克巳教授(人類学者K)の体験記です
(ちなみにサラワク州クチン在住のN嶋さんによると、メリナウ川の居住地のプナンの人たちは、
1970年代の英国地質学会のムル洞窟調査時にポーターなどとして雇われたことがきっかけで、
周辺に住むようになり、その後、政府支援の定住化政策でロングハウス建設や農業指導などが
行われたとのことでした。情報ありがとうございました)
上記リンク記事にも書きましたが、ボルネオ島の熱帯雨林では川沿いの焼畑や漁労で暮らす
川の人(オラン・スンガイ)と、森で暮らす森の人(オラン・ウータン)以外にも、少数ですが
森を移動して狩猟採集で暮らしていた人たちもいて、そのひとつがプナンの人たち・・・
定住するまでのプナンの暮らしについて、はじめて知ることも多く、驚きの連続でしたが、
惹句にもあるとおり小説のような体験記で、読み物としても面白かったです
箸休めのインタールードも、ジャカルタの安宿で飲み続けたフレディ・マーキュリーの曲に
出てくるシャンパン、別れた彼女に書き続けたクリフォード・ブラウンやカミュ、ゴダール、
自分がバックパッカーになるきっかけになった美人生物教師の厚い唇など、興味津々でした
以下、わたくしが詳しく知らなかった部分のみの読後メモです
・ボルネオ島低地の混交フタバガキ林は、林床の草本層、花を咲かせる低木層、10m以上の
亜高木層、林冠を形成する高木層、60~70mに達する突出木層から構成される「空中の階層」
→上空から階層の高所を訪れる「トリたち」、地面から樹上まで階層を上下する「サルたち」、
高所で行われていることを地上から想像する人間、の三者で織りなされる森の世界
・ブラガ川上流域の森に住む狩猟採集民プナンはその世界を手に取るように眺めている
→Kは驚くべきことだと思った
・プナンは焼畑耕作民イバンとはまったく異なる独自の世界観を持っている
→狩りで死んだ動物には人間には使わない忌み名を使う
→彼らにサルという分類言語はなくマメジカやヒゲイノシシと同じ「動物」のみ
→フタバガキ林に住むサル5種は判別するが木に登る動物という共通性を感じているのは確か
・オオミツバチが来たら(開花・結実で動物が集まるので)狩猟の準備を始める
→ボルネオでは開花・結実の季節性がなく特定の場所で一斉に開花・結実するから
・1980年代の初頭までノマド(移動狩猟採集民)として暮らしてきた
・死者が出るとその場所に埋めて移動し、生前に使っていたものは焼き尽くす
(定住後でも死者の愛用品は全て取り去られ、居場所は完全に模様替えされていた)
→死者の実在も生前の実存もすべて否定する
→死者を祖先として祀る日本人とはまったく逆の習慣
→死者の名は決して口にしない
→死者の家族は自分たちの名前も一時的に変えて心を落ち着かせる
→体、魂、名の三要素を持つのは生身の人間と犬だけ(カミに体はなく赤ん坊に名はない)
・死者を思い出し耐えられなくなったときにノーズフルート(鼻笛)を奏でる
→鼻からの息の出し入れによる音色は死者と生者の交歓そのもの
→ノーズフルート(鼻笛)は死者と生者を繋げるシャーマン
・無文字社会で伝承されない過去は儚く消えていく→過去に深度はない
→過去を振り返らない→過去の過失に対する反省も謝罪もない
(森林伐採の賠償金を頭金にローンで買った四輪駆動車と、それで獲ったヒゲイノシシと、
その肉を町に売りに行った収入の関係などなど・・・)
・狩猟や用事での失敗も、その後の話し合いで個人を追及したり庇ったりすることは一切なく、
あまり期待できないと思われる適当な善後策が立てられるだけ
→Kの育った日本にも反省しない腹立たしい人はいたが、共同体として反省しない事態はなかった
・人類にとって反省する文化の誕生の意味とは・・・
→プナンの過去の描き方は絶対的な時間軸ではなく相対的な位置づけ
→それなら過去の行いを振り返って反省することが存在しないのも当たり前か・・・
・プナンの子どもたちに将来の夢や仕事を聞いても、誰も意味が分からず答えられない
→未来にも時間軸を伸ばし将来の自分を想像することは及びもつかないこと
→プナンにとっては過去と同じく未来もつかみどころのないもの
→未来への漠然とした不安のようなものはプナンにもあるが、未来を描くのは個人の意思
→ありのままの時間性を歪めることによってしか未来は想像し得ないから
・プナンの時間性は、季節性の希薄なボルネオ島の熱帯雨林の中を移動するという、
狩猟採集での暮らしによるもの(ブラガ川上流域では1980年代初頭まで)
→生きるうえで時間や暦で生活リズムを管理する必要がなく今日でもカレンダーはない
(Kの予定を書いた卓上カレンダーをはじめて見たプナンの反応は「明日や明後日の手紙」)
→農耕や牧畜では将来の作業に向け時間や暦が必要だがプナンに未来を分かる必要はない
(3日後に再会する約束をした場合は、お互いに枝に結び目を3つ作って毎朝それを解く)
・プナン語でも昔の時(過去)、この時(現在)という表現はあるが、未来は「もし(ダウン)」
→ダウンはマレー語でも名詞「葉っぱ」も意味し、プナン語では「季節」も意味する
→プナンにとっての季節とは不定場所での開花結実の時期で、森が楽園になる時期
→いつどうなるかわからない季節性の象徴である「葉っぱ」で未来をあらわす
→プナンに未来は予期されないし思考の対象でもなく「今とここ」を生きている
・タソン川河口のアブラヤシ・プランテーションで狩猟キャンプした際の現代人とプナンの対比
→毎日の賃金労働で収穫に来る人々と、食べ物が手に入れば後はぶらぶらと過ごす人々
→動き回って富を生み出し、その一部を手に入れる人たちと、自然の中に入り食べ物を取って、
それだけで生きていこうとする人たち
→未来を自らの意思で想像し行動する人たちと、ありのままの時間の中を生きる人たち
→Kはここでは後者のプナン側にいたが、本質的には前者側の現代人
→二者それぞれの生きざま死にざまは、それぞれの時間性に大きく関わっている
・狩猟キャンプでの夜の子どもたちへの語り聞かせ
→動物に託して人間の性格を語ることが多い
・プナンにも個人所有欲があるが生きていくための社会慣習として平等に分け与えている
→最初はKがよそ者だから何でもねだられると思ってたがプナン同士でも同じだった
→無所有が絶対的価値で、持つ者にねだるプナンと分け与えるプナンに分かれる
→分け与えられても(過去になるから?無所有が基本だから?)感謝は一切ない
→悪いヤマアラシ(自分だけ金持ちに)と良いマレーグマ(尻尾を分け与えた)のハナシ
・プナン語の懐中電灯pisitなどはマレー語からの借用語だろうが「損得」も外来語だろう
→損得はシェア原理で暮らす中にはなく、交換行為、蓄え、貨幣価値で発生するもの
→銃による猟に失敗すれば「銃弾(1発15リンギット450円!!!)を損した」というが、吹き矢猟で
失敗しても「毒矢を損した」とはいわない
→毒矢の材料が全て森にあるので損得勘定が入る余地がないから・・・
(材料は無料でも、それを探して作る手間はかかるので、銃弾と同じく毒矢も損しているはず、
と思ったわたくしは現代人で、手間に要する時間を食べるために働く労働時間と認識したから、
でも労働時間という感覚がなければ現代人の趣味や娯楽の時間と同じで損得はないのか)
→糧と財が無尽蔵に出てくる森は、プナンにとって損得で計られるものではない
・フィールドワークで聞き取ったプナンの神話や動物譚は100近くある
→カメとマメジカ、貝とマメジカの競争の話→集団は個に勝るという集団優先の話?
→マメジカとマレーグマの競争の話→別の機会には狡知に長けたマメジカが勝つこともある
・人間と動物の地上世界と、動物(の魂?)とカミの天空世界の二層構造
→動物を食べる以外でないがしろにすれば、その魂の告げ口により地上は嵐になる
→動物を食べて生きるプナンは不完全なアミニズムを生きる
・40年前までにノマドを経験したプナンは、概して今の定住暮らしのほうがいいというが、
インスタントラーメンや缶詰で太って病気で死ぬようになったので森に戻るべきとも
・レプトスピラ症(感染した齧歯類の尿を含む川の水などから経口経皮感染する)
→2008年のサバ州エコチャレンジで感染が報告されたが選手は川で水浴びしただけだった
→死亡報告はないが感染リスクがある旅では予防薬ドキシサイクリン200mgを週1回服用する
→この年はサラワク州でも流行していてKも感染した
→アレクサンダー・フレミングのペニシリン!!!で助かったが予防は迂闊だった
→流行地域では不用意に水に入らない、特に洪水の後は入らないことが重要とされている
・コロナ禍で半年ごとの訪問を中止していたが2022年8月に3年ぶりに現地に行った
→1年前から世界的に豚熱ウィルスも流行し現地のヒゲイノシシが死滅していた
→1年前から無料の電気とWiFiが来たがネット情報ではなく日本のエロ動画ばかり見てた
→2021年8月にはクラスターが発生、医師の指示で政府の支援物資を持って森に逃げ込んだ
・アブラヤシ企業の計らいで300人の居住地に10台ほどの四輪駆動車が並んでたのが衝撃的だった
→企業が保証人になり所有者はプランテーションに働きに出るプナンから乗車賃を取って、
毎月のローン返済の一部に充てていた
→以前は賠償金の支払いをビールや生活必需品に消費するだけだったが、プナンを労働者として
組織する方が遠くからの労働者より効率的だと考えたのかも知れない
・車で賃金労働に通い、WiFiでスマホのやりとりをはじめたプナンは今後どうなるか
→プナンの持つ独自の野生思考ロジックで外部のシステムを粉々に破壊するだろうか
→解体して自分たちに合うよう再構築するのがけっこううまいが、今後は誰にも分らない・・・
(エピローグ ロスト・イン・ザ・フォレストより)
・ある時、ジュラロン川のプナンの村に向かった
→アブラヤシの苗や稲がヒゲイノシシに荒らされる獣害が農村でも深刻化していた
(ムスリムへの改宗でヒゲイノシシを食べなくなったから?)
→2年前に焼失したロングハウスは、殆どが都市に働きに出てゴースト・ビレッジ化していた
→ジュラロン川のプナンは古くにウスン・アパウの森を出て焼畑技術を身につけており、
焼畑稲作民イバンとも交わり、近現代の流れに乗っている
(周辺に獣害や出稼ぎ先のないブラガ川上流域のプナンとは異なっている)
→しかしキリスト教やムスリムに改宗していてもカミや動物の忌み名などは同じだった
・狩猟キャンプで忘れ物に気づき取りに行って帰る途中で道に迷った
→4時間近く森をさまよい歩いて自分を見失い、身体中が擦り傷と打撲だらけになった
→最後は借りていたGPSのログ記録とプナンが探しに来てくれたおかげで助かった
→その夜、道に迷うことはよくあることで、それは邪悪な霊のせいだといわれた
→ロスト・イン・ザ・フォレスト・・・
ロスト・イン・ザ・フォレストとゆー本のご紹介であります
前回記事のとおり自宅療養中なので、じっくりと読ませていただきました
表紙カバー裏にあった惹句
裏表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
目次
舞台となるマレーシア・ボルネオ島・サラワク州北東部の略図
(掲載に問題があれば削除します)
そう、わたくしが2017年の植林ツアーでメリナウ川の居住地を訪れたプナンの人たちの中でも
さらに奥地のブラガ川上流域に暮らす人たちを中心に、その暮らしぶりや世界観を長年にわたり
調査研究されている奥野克巳教授(人類学者K)の体験記です
(ちなみにサラワク州クチン在住のN嶋さんによると、メリナウ川の居住地のプナンの人たちは、
1970年代の英国地質学会のムル洞窟調査時にポーターなどとして雇われたことがきっかけで、
周辺に住むようになり、その後、政府支援の定住化政策でロングハウス建設や農業指導などが
行われたとのことでした。情報ありがとうございました)
上記リンク記事にも書きましたが、ボルネオ島の熱帯雨林では川沿いの焼畑や漁労で暮らす
川の人(オラン・スンガイ)と、森で暮らす森の人(オラン・ウータン)以外にも、少数ですが
森を移動して狩猟採集で暮らしていた人たちもいて、そのひとつがプナンの人たち・・・
定住するまでのプナンの暮らしについて、はじめて知ることも多く、驚きの連続でしたが、
惹句にもあるとおり小説のような体験記で、読み物としても面白かったです
箸休めのインタールードも、ジャカルタの安宿で飲み続けたフレディ・マーキュリーの曲に
出てくるシャンパン、別れた彼女に書き続けたクリフォード・ブラウンやカミュ、ゴダール、
自分がバックパッカーになるきっかけになった美人生物教師の厚い唇など、興味津々でした
以下、わたくしが詳しく知らなかった部分のみの読後メモです
・ボルネオ島低地の混交フタバガキ林は、林床の草本層、花を咲かせる低木層、10m以上の
亜高木層、林冠を形成する高木層、60~70mに達する突出木層から構成される「空中の階層」
→上空から階層の高所を訪れる「トリたち」、地面から樹上まで階層を上下する「サルたち」、
高所で行われていることを地上から想像する人間、の三者で織りなされる森の世界
・ブラガ川上流域の森に住む狩猟採集民プナンはその世界を手に取るように眺めている
→Kは驚くべきことだと思った
・プナンは焼畑耕作民イバンとはまったく異なる独自の世界観を持っている
→狩りで死んだ動物には人間には使わない忌み名を使う
→彼らにサルという分類言語はなくマメジカやヒゲイノシシと同じ「動物」のみ
→フタバガキ林に住むサル5種は判別するが木に登る動物という共通性を感じているのは確か
・オオミツバチが来たら(開花・結実で動物が集まるので)狩猟の準備を始める
→ボルネオでは開花・結実の季節性がなく特定の場所で一斉に開花・結実するから
・1980年代の初頭までノマド(移動狩猟採集民)として暮らしてきた
・死者が出るとその場所に埋めて移動し、生前に使っていたものは焼き尽くす
(定住後でも死者の愛用品は全て取り去られ、居場所は完全に模様替えされていた)
→死者の実在も生前の実存もすべて否定する
→死者を祖先として祀る日本人とはまったく逆の習慣
→死者の名は決して口にしない
→死者の家族は自分たちの名前も一時的に変えて心を落ち着かせる
→体、魂、名の三要素を持つのは生身の人間と犬だけ(カミに体はなく赤ん坊に名はない)
・死者を思い出し耐えられなくなったときにノーズフルート(鼻笛)を奏でる
→鼻からの息の出し入れによる音色は死者と生者の交歓そのもの
→ノーズフルート(鼻笛)は死者と生者を繋げるシャーマン
・無文字社会で伝承されない過去は儚く消えていく→過去に深度はない
→過去を振り返らない→過去の過失に対する反省も謝罪もない
(森林伐採の賠償金を頭金にローンで買った四輪駆動車と、それで獲ったヒゲイノシシと、
その肉を町に売りに行った収入の関係などなど・・・)
・狩猟や用事での失敗も、その後の話し合いで個人を追及したり庇ったりすることは一切なく、
あまり期待できないと思われる適当な善後策が立てられるだけ
→Kの育った日本にも反省しない腹立たしい人はいたが、共同体として反省しない事態はなかった
・人類にとって反省する文化の誕生の意味とは・・・
→プナンの過去の描き方は絶対的な時間軸ではなく相対的な位置づけ
→それなら過去の行いを振り返って反省することが存在しないのも当たり前か・・・
・プナンの子どもたちに将来の夢や仕事を聞いても、誰も意味が分からず答えられない
→未来にも時間軸を伸ばし将来の自分を想像することは及びもつかないこと
→プナンにとっては過去と同じく未来もつかみどころのないもの
→未来への漠然とした不安のようなものはプナンにもあるが、未来を描くのは個人の意思
→ありのままの時間性を歪めることによってしか未来は想像し得ないから
・プナンの時間性は、季節性の希薄なボルネオ島の熱帯雨林の中を移動するという、
狩猟採集での暮らしによるもの(ブラガ川上流域では1980年代初頭まで)
→生きるうえで時間や暦で生活リズムを管理する必要がなく今日でもカレンダーはない
(Kの予定を書いた卓上カレンダーをはじめて見たプナンの反応は「明日や明後日の手紙」)
→農耕や牧畜では将来の作業に向け時間や暦が必要だがプナンに未来を分かる必要はない
(3日後に再会する約束をした場合は、お互いに枝に結び目を3つ作って毎朝それを解く)
・プナン語でも昔の時(過去)、この時(現在)という表現はあるが、未来は「もし(ダウン)」
→ダウンはマレー語でも名詞「葉っぱ」も意味し、プナン語では「季節」も意味する
→プナンにとっての季節とは不定場所での開花結実の時期で、森が楽園になる時期
→いつどうなるかわからない季節性の象徴である「葉っぱ」で未来をあらわす
→プナンに未来は予期されないし思考の対象でもなく「今とここ」を生きている
・タソン川河口のアブラヤシ・プランテーションで狩猟キャンプした際の現代人とプナンの対比
→毎日の賃金労働で収穫に来る人々と、食べ物が手に入れば後はぶらぶらと過ごす人々
→動き回って富を生み出し、その一部を手に入れる人たちと、自然の中に入り食べ物を取って、
それだけで生きていこうとする人たち
→未来を自らの意思で想像し行動する人たちと、ありのままの時間の中を生きる人たち
→Kはここでは後者のプナン側にいたが、本質的には前者側の現代人
→二者それぞれの生きざま死にざまは、それぞれの時間性に大きく関わっている
・狩猟キャンプでの夜の子どもたちへの語り聞かせ
→動物に託して人間の性格を語ることが多い
・プナンにも個人所有欲があるが生きていくための社会慣習として平等に分け与えている
→最初はKがよそ者だから何でもねだられると思ってたがプナン同士でも同じだった
→無所有が絶対的価値で、持つ者にねだるプナンと分け与えるプナンに分かれる
→分け与えられても(過去になるから?無所有が基本だから?)感謝は一切ない
→悪いヤマアラシ(自分だけ金持ちに)と良いマレーグマ(尻尾を分け与えた)のハナシ
・プナン語の懐中電灯pisitなどはマレー語からの借用語だろうが「損得」も外来語だろう
→損得はシェア原理で暮らす中にはなく、交換行為、蓄え、貨幣価値で発生するもの
→銃による猟に失敗すれば「銃弾(1発15リンギット450円!!!)を損した」というが、吹き矢猟で
失敗しても「毒矢を損した」とはいわない
→毒矢の材料が全て森にあるので損得勘定が入る余地がないから・・・
(材料は無料でも、それを探して作る手間はかかるので、銃弾と同じく毒矢も損しているはず、
と思ったわたくしは現代人で、手間に要する時間を食べるために働く労働時間と認識したから、
でも労働時間という感覚がなければ現代人の趣味や娯楽の時間と同じで損得はないのか)
→糧と財が無尽蔵に出てくる森は、プナンにとって損得で計られるものではない
・フィールドワークで聞き取ったプナンの神話や動物譚は100近くある
→カメとマメジカ、貝とマメジカの競争の話→集団は個に勝るという集団優先の話?
→マメジカとマレーグマの競争の話→別の機会には狡知に長けたマメジカが勝つこともある
・人間と動物の地上世界と、動物(の魂?)とカミの天空世界の二層構造
→動物を食べる以外でないがしろにすれば、その魂の告げ口により地上は嵐になる
→動物を食べて生きるプナンは不完全なアミニズムを生きる
・40年前までにノマドを経験したプナンは、概して今の定住暮らしのほうがいいというが、
インスタントラーメンや缶詰で太って病気で死ぬようになったので森に戻るべきとも
・レプトスピラ症(感染した齧歯類の尿を含む川の水などから経口経皮感染する)
→2008年のサバ州エコチャレンジで感染が報告されたが選手は川で水浴びしただけだった
→死亡報告はないが感染リスクがある旅では予防薬ドキシサイクリン200mgを週1回服用する
→この年はサラワク州でも流行していてKも感染した
→アレクサンダー・フレミングのペニシリン!!!で助かったが予防は迂闊だった
→流行地域では不用意に水に入らない、特に洪水の後は入らないことが重要とされている
・コロナ禍で半年ごとの訪問を中止していたが2022年8月に3年ぶりに現地に行った
→1年前から世界的に豚熱ウィルスも流行し現地のヒゲイノシシが死滅していた
→1年前から無料の電気とWiFiが来たがネット情報ではなく日本のエロ動画ばかり見てた
→2021年8月にはクラスターが発生、医師の指示で政府の支援物資を持って森に逃げ込んだ
・アブラヤシ企業の計らいで300人の居住地に10台ほどの四輪駆動車が並んでたのが衝撃的だった
→企業が保証人になり所有者はプランテーションに働きに出るプナンから乗車賃を取って、
毎月のローン返済の一部に充てていた
→以前は賠償金の支払いをビールや生活必需品に消費するだけだったが、プナンを労働者として
組織する方が遠くからの労働者より効率的だと考えたのかも知れない
・車で賃金労働に通い、WiFiでスマホのやりとりをはじめたプナンは今後どうなるか
→プナンの持つ独自の野生思考ロジックで外部のシステムを粉々に破壊するだろうか
→解体して自分たちに合うよう再構築するのがけっこううまいが、今後は誰にも分らない・・・
(エピローグ ロスト・イン・ザ・フォレストより)
・ある時、ジュラロン川のプナンの村に向かった
→アブラヤシの苗や稲がヒゲイノシシに荒らされる獣害が農村でも深刻化していた
(ムスリムへの改宗でヒゲイノシシを食べなくなったから?)
→2年前に焼失したロングハウスは、殆どが都市に働きに出てゴースト・ビレッジ化していた
→ジュラロン川のプナンは古くにウスン・アパウの森を出て焼畑技術を身につけており、
焼畑稲作民イバンとも交わり、近現代の流れに乗っている
(周辺に獣害や出稼ぎ先のないブラガ川上流域のプナンとは異なっている)
→しかしキリスト教やムスリムに改宗していてもカミや動物の忌み名などは同じだった
・狩猟キャンプで忘れ物に気づき取りに行って帰る途中で道に迷った
→4時間近く森をさまよい歩いて自分を見失い、身体中が擦り傷と打撲だらけになった
→最後は借りていたGPSのログ記録とプナンが探しに来てくれたおかげで助かった
→その夜、道に迷うことはよくあることで、それは邪悪な霊のせいだといわれた
→ロスト・イン・ザ・フォレスト・・・