2022年06月
2022年06月28日
東アジアの農村
前回記事「日本の農村」の続きとゆーか・・・
「東アジアの農村」~農村社会学に見る東北と東南~であります
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
今年4月15日の初版第一刷発行、まさに最新刊であります。
じつはこの本を週刊誌の新刊紹介で知り、先に同じ著者の「日本の農村」を読んだので、
前回記事で紹介してたのでありますね。
そりゃあ、まずは日本の農村から理解しておかないとね・・・(^_^;
例によって目次のみご紹介
目次のとおり、東アジアでは北に位置する日本、韓国、中国・山東省の農村をまず比較、
そして南に位置するタイ、台湾、ラオス、中国・雲南省、ベトナム、ジャワ、バリの農村を
巡って、再び中国各地の農村を巡り、それらの特徴を把握するという大作であります。
とてもすべては読めませんでしたが、目を通した部分の読後メモです。
(わたくしの思い違いや読み飛ばしもありますので興味のある方は本書を熟読下さいね。)
日本の農村→長野県の瀬沢新田集落から
→武士の帰農による庇護と奉仕の生活集団から分家の自立発展、対等な同族関係に
→村の社、組の祠、家または同族の神の三重構造→仏教と神道、家と村の関連
→村の自治機能と祭祀機能
→家は柔構造で可塑性を持ち、村は固定した持続的な枠構造
韓国の農村→忠清南道の桃李里集落から
・韓国の宗族マウル(村)と日本の武士の帰農村との違い
→桃李里は国王から将軍に授けられた土地
→武士は帰農すれば農民になったが在郷両班(ヤンバン)は特権階級のままだった
→1950年の農地改革で小作農が自作農に→戦争で関係がさらに混乱→両班も自家経営に
→韓国の宗族村は血縁集団で日本の同族村は家来も含む生活共同集団
→村を出ても血縁は切れないが生活共同は村を出れば維持できない
→なので日本では村を出れば分家ではなく独立になる
・祭祀を行う単位としての家(チプ)、財産共有単位としての家族、居住単位としての家口
(世帯概念と重複する)→日本の農村の家は家族が営む農業経営体
→日本では先祖に対する仏教祭祀と氏神に対する神社祭祀
→韓国では朱子学に基づく儒教的先祖崇拝祭祀が根幹
(日本の朱子学は武士中心で農村の先祖崇拝に形式を与えたのは仏教)
→日本の神社(氏神)祭祀は村から拡大しないが韓国の先祖崇拝祭祀は全国的に拡大する
→個人を中心に置いた血縁による結びつきだから
中国の農村→山東省の房幹村集落から
→村の原型は19世紀から20世紀初頭→極貧の山村だった
→八路軍、土地改革、人民公社、文化大革命と激動の時代
→70年代の貯水湖築造、83年の公社解体、その後も村営企業を導入して発展した
→文化大革命後には村の土地廟(自然神と関帝を合祀したもの)再建や昔の墓地への墓参再開
→日本語の家族は法制的には戸口(戸籍)人数に該当するが一家子(中国語の家族)概念は異なる
→新中国以前の大家庭では居住は別でも食事や農作業は共同で男子均分相続、老母の輪住扶養
→日本の分家は本家を維持するために分与規模が小さい→家の存続が最重要
→中国では完全に均等→日本は家単位で中国は個人単位→一人一人の処遇が最重要
→父系出自の親族集団が「一家子」で系譜ごとに五代目となった時期に分化していくが、
親族集団の系譜は明確で連綿と続き、結びつきも強い
日韓中農村の比較
・「定住を前提としている日本」と「移住を常態としている中国・韓国」
→日本の同族団は生活共同体で必ずしも血統に制約されず地縁関係で成立する
→韓国の宗族は祭祀共同体で父系血族集団、居住地は問わない
→中国の一家子もそれに近いが農地解放以前は財産共有体として機能
→韓国でも中国でも村落を越えたネットワークと自己の帰属的地位の確認システムを確立
しており、どこに住んでいても血族が明確に繋がっている
・歴史的背景
→中国の自然災害、戦乱、商業化→農民の移住(パールバックの大地の例)
→韓国の異民族による侵攻、半島内の抗争→農民の大規模な移動→地縁より宗族
→日本では武士の領地は変わるが農民の個別経営は土地に定着して自然村落を形成
→中国のツオ・パン、韓国のウリ(対語はナム)は、どちらも移動に適合した扶助システムで
移動を前提としていない日本人には理解しにくい関係
・移動、定住と宗教、信仰
→定住社会では個人より集団での宗教、信仰が支配的
→仏教先進だった中国・韓国に寺の檀家組織は存在せず宗教そのものが消長、代替している
→韓国の祖先祭祀は盛大だが生活規範意識よりは宗族統合機能としての祭祀
(現在はキリスト教徒が6割以上で地域地縁の制約はなく個人本位、やはり移動に適合する)
→中国固有の道教や民間信仰も総じて個人本位で地域限定ではない
→日本の氏神(血縁神)と産土神(地縁神)、どちらが先か論争(略)
→ただし、それ以前の農耕民としての古層(自然信仰)は三国とも共通している
タイの農村
・つい最近まで東南アジアは東北アジアに較べて人口が少なく土地が広かった
→トンキン・デルタやジャワ島などを除き、少ない人口と豊富な土地を基層とする農業
→東北アジアでは17世紀までに一部貿易と小農社会の二重構造に
・東南アジアで15世紀から17世紀末まで都市国家を支えたのは農業ではなく貿易(琉球も)
→東南アジアの農民は重い税や直接支配を受けず半自給的な生活
→19世紀後半の東南アジア植民地時代→交易社会と農業社会の二重構造に
・植民地化の危機にタイ(当時シャム)では20世紀初頭に中央集権化・近代化(ラーマ5世)
→チャクリー改革→東南アジアでは稀有な植民地にならなかった国
→それ以前の伝統は成人男子農民と支配する地方王の直接関係で生涯続いた
→異なる地方王の農民が同じ集落(バーン)に住むこともあった
・妻方居住による親・娘関係、姉・妹関係で形成される屋敷地共住集団(これもバーン)
→8から10のバーンで構成される伝統的な村を20世紀初頭の地方制度改革で法制化
→2001年東北タイ中心部の農村(戸数170戸)の例→略
→近代化で父系制が始まったが伝統的な女系原理の優位性も残していた
→妻方の土地に夫が建てる新居、続く親娘関係、男女均分相続、夫婦別財システム・・・
→子供を親族に預けて夫婦で移動する複合家族→日本なら夫単身→家族概念の違い
台湾の農村
・台湾の四大族群(エスニック・グループ)
①原住民(漢民族が移住する明・清時代より前から住む民族)1.7%
②福建省南部から移住してきた漢民族73.3%
③広東省や福建省付近からやや遅れてやってきた客家系の漢民族12%
④国民党とともに移住してきた外省人13%
・漢民族の本格的な定住・開墾は明朝末期で宗族は東南中国と類似
→移民同士の争いが頻発したことから宗族で集住した→強固な宗族村に
→1895年からの50年に及ぶ日本皇民化による宗族の伝統破壊は大きなダメージ
→同じく50年に及ぶ治安の改善、行政機構やインフラの整備により宗族組織が衰退
→その後の国民党による思想改造、土地改革で伝統的地域秩序は解体へ向かう
→これらの歴史経過から社区(最も小さな自治体)発展事業へ
・台湾南部の客家村(社区)の例(2003年で人口1474、世帯数400)
→1976年からの前期社区発展事業ではインフラ整備と中華民国イデオロギー教化
→戒厳令解除までは北京語に似た国語が村の生活全般で強制されていた
→1991年からの後期では台湾本位イデオロギーと共同体意識の創生に
(1990年代に台湾社会統合の解決法として政治的な四大族群の概念)
→客家の言語や街並みなど伝統的文化も認める住民主導型地域作りへ
ラオス・雲南省・ベトナムの農村
・農耕による定住集落化→東アジアでは稲作中心→熱帯や亜熱帯では水害からの防御も重要
・メコン圏
→水の民→タイ系→水稲中心で焼畑中心の非タイ系と交易し村々のまとまりがクニに
→近代国家の中核を担うことはなく地方にとどまる
・ラオス北部の農山村の例
→先住民のクム、雲南系漢人、タイ系ヤンなどエスニシティはさまざまでモザイク状に点在
→農耕生活者の流入が多い→移動を特徴とするバンド(狩猟採集)の性格が残っている?
→稲作に加え焼畑、採集、牧畜も→バンドの定住集落化の過程か?
→重要な繋がりはやはり親族関係、お金はなくとも優しく親族の多い者が村長になる
・(ミャンマーに接する)雲南省保山市の回族(ムスリム)村
→甘粛省、新疆ウイグル自治区、雲南省が中国回族の三大集中地域
→モンゴル軍に従ったムスリムの高官が赴任した地方に集中
→民族ごとのマーバン(隊商)中継地→平野部か山腹に集住→交易拠点だった
(川が急峻で険しい陸路を馬で運ぶしかなかった)
・ベトナム北部の村落社会
(19世紀中葉までの南部は未開の地、その後別々に入植して定住した)
→村独自の防犯、財産、制裁機能、氏神、慣習を持つ強力な自治団体だった
→「王法も村の垣根まで」といわれ、北部の村はレンガ壁で覆われ、竹藪、村門、
狭い路地、集会所、寺(塔)、バニヤンの木、市場の存在が特徴
インドネシア・ジャワ島の農村→中部ジャワの農業集落
→肥沃な火山灰土の堆積地でジャワで最も収量の高い水稲地帯→超過密な人口
→結婚直後はどちらかの実家、同敷地に同居、歳とともに独立性を高めていく
→男女均分相続とイスラム法による男2女1相続がある
→相互扶助慣行とイスラム教が基調
→零細な所有構造の中に複雑な賃借関係がある
→一般の小作と異なり、安定収入のある持てる者が持たざる者を扶助する構造
→狭い耕地の割に屋敷地が広く果実、蔬菜、芋、鶏、羊など農業的利用もしている
→化学肥料、農薬、灌漑施設で二期作三期作と生産性を大幅に増大→人口増加
→人力による労働集約は過剰労働力の吸収と貧困からの解放に(インボリューション)
→緑の革命(エボリューション)による多収性品種や精米機の導入で仕事がなくなった
→零細化集約化、労働機会分散などで「貧困の共有」を行ってきたが行く先は袋小路
→それでも基本食糧と村内唯一の雇用労働を作り出す農業の意味は大きい
インドネシア・バリ島の集落
・韓国や中国の飢饉や戦乱による移動とは異なり、人が少なく豊かな条件での移住の繰り返し
→14世紀にジャワ・ヒンドゥーの影響が及び王朝に→宗教機能と政治機能
→英領ラッフルズ時代の1815年に村長が王を補佐するように
→村は特殊な慣習法と規則を持つ法共同体(小さな共和国)に
→1906~07に王が退位、オランダの植民地になり政府任命村長で慣習村と行政村の二重性に
→植民地化で慣習を端に追いやり、独立後の独裁で体制内化、制度化された
・農業と農村の変容
→本格的な観光地化は1980年代から
→水田は減少しているが高収量品種、化学肥料、農薬により収穫量は飛躍的に増加
→観光ルートに近い平野部では農地が宅地や道路や店舗や宿泊施設に
→ひとつの行政村にヒンドゥーの慣習村(パンジャール)やイスラムの慣習村(カンポン)がある
→水利組織(スバック)は行政村や慣習村から完全に独立している→日本と異なる
→スバックは寺院を共有する祭祀集団でもあり成員の権利と義務を定めた慣習法を持つ
→観光開発による宅地化、兼業化、ごみやバティック工房からの汚水・・・
→米の増産政策→化学肥料、農薬による影響、機械導入によるコスト増大
→圧倒的多数の小作人にとって農地の宅地化は失業を意味する
→インドネシアには300のエスニシティと200~400の言語集団がありバリも多様で複雑
→グローバル・ツーリズムはバリに格差拡大と新たな貧困層や失業層ももたらした
中国各地(具体例などはアルコール電池切れで大幅にカットしてます)
・1996年の調査時点のような農村の沸騰状態が続けば、当然に分解を引き起こす
→日本のように「家」の財産・家業ではないから、分解の進行と農民の性格変化が
急速な解体をもたらす可能性も否定できない
→沸騰しているのは農業ではなく農外の「郷鎮企業」に取り組む農民たちの熱気
→地下水位の低下の問題→水を買い、不足すれば荒れ地のまま放置する
→カリフォルニアの農業を想起させる
・日本の家業経営小団体である「家」と、それによって構成される「村」も中国にはない
→財産も男子均等配分が基本で生活原理は家ではなく個人であり、その家族の集住地が村
→生活原理が個人なので親族は家に関係なく平等→日本では家でいったん仕切られる
→個人原理だからこそ中国の親族組織は密接で活性化する
・三農問題→農業生産の停滞、農村の疲弊、農民の窮乏
→改革開放政策で都市の発展を優先→農民の困窮→人口流出→農村の超高齢化
税格差(2006年に廃止)、戸籍格差など→2000年代半ばからの新農村建設政策へ
・新農村建設政策
→小城鎮の建設→農村での小規模な(インフラ整備された)都市区域の形成
(純粋な農村地域が郷、少し都市化した地域が鎮、都市的な地域が城、都市は城市)
→全農家の賛成があれば国の補助で小城鎮(社区)に移転し集住化できる政策
→耕地は農業会社に賃貸、収入は賃貸収入と農業会社などで働く給料→家族経営の消滅
(農業会社は郷鎮企業・村営企業、個人経営・家族経営、大企業投資だが沿海部より劣る)
→都市化による生活費の上昇、さらなる農業離れ、急速な高齢化の恐れ
・離土離郷(脱農離村)
→1984年に都市戸籍と農村戸籍の間に自理口糧戸籍ができた(非農業への移籍を公認した)
→これは政府補助による低価格食糧の購入資格がない(自己入手を義務化した)戸籍
→1985年には出稼ぎ農民管理のための暫住戸籍ができたが、
→都市住民と同じ行政サービス(仕事・住宅など)や保護は受けられず教育も差別される
・2000年代の農村の変化
→村の合併再編整備、社区への転換、再開発による消滅
→過疎化→多くは出稼ぎによる減少で残るのは老人、子供、女性
→混住化→豊かな農村への労働移動、都市民の滞在や別荘購入など
・集住などに反対し北京に陳情に行く農民の観念
「中央政府には恩人がいる。省政府には親戚のように親しみやすい人がいる。
地方政府には好い人がいる。県政府には悪い人が多い。郷政府には敵しかいない。」
→中央から下への圧力体系で地方は義務ばかりなので、地方に圧力をかけるため中央へ
→道徳性の高い中央政府は道徳性の高い「老百姓」の要求に応じるはずと確信している
・1980年代から90年代に鎮政府主導で作られた8つの郷鎮企業の例
→90年代後半には次々倒産、2008年には1つだけに
→2006年に2000軒の団地移住計画→反対陳情へ
→反対事情は様々だが共通するのは生存を肯定する価値観の共有と「農民のまま移転させるなら、
その後の生き方を行政が考えねばならないはず」という規範化された行政観念の共有
「おわりに」より
・自然に基づく農業を基礎とする農村は(当然だが)自然環境条件により様々な姿を示す
→そこに歴史的経過の条件の違いが大きく作用している
・東南アジアの国々は気候温暖で森林の広がりに比べ人口は少ない
→移住して開墾してもすぐに緑は復活するが外国の植民地になった国も多い
・東北アジアの国々の自然条件はずっと厳しい
→自然災害による飢饉のほかに韓国や中国では度重なる戦乱
→移動せざるを得ない苦難の生活→これには日本にも大きな責任がある
・日本の場合は土地に定着する仕組みとして家が成立し村が形成された
→近世以降の農民は幕府支配により土地に縛り付けられ定住生活をしていた
→なので同族も血縁も地縁仲間だった
→韓国や中国では不安定な移動でぎりぎり個人が単位になった
→その間を結びつけるのは血縁の絆であり、形成される宗族は土地を超えて、
時には世界に拡がることもできた
・今はどの国でも近代化が進みグローバリゼーションの波の中にある
→東京でも北京でもソウルでもバンコクでも同じような高層ビルがならび違うように見えない
→しかし、人々が暮らす民家に入ってみるとすっかり違う
→東京の人と北京の人とソウルの人とバンコクの人は、やはり違うようである
→出会った時のすれ違う姿、交わす表情はそれぞれである
→だから、これらの人々が交わる社会関係も違う
→その個性はどこから来たか
→都市ではなく農村、地方的世界に基層があるのだろう
→外国との交流にあたっては表面の類似ではなく、また対立でもなく、その底にある「基層」
にまで分け入りながら、親しく交わるのでなければならないだろう。
「東アジアの農村」~農村社会学に見る東北と東南~であります
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
今年4月15日の初版第一刷発行、まさに最新刊であります。
じつはこの本を週刊誌の新刊紹介で知り、先に同じ著者の「日本の農村」を読んだので、
前回記事で紹介してたのでありますね。
そりゃあ、まずは日本の農村から理解しておかないとね・・・(^_^;
例によって目次のみご紹介
目次のとおり、東アジアでは北に位置する日本、韓国、中国・山東省の農村をまず比較、
そして南に位置するタイ、台湾、ラオス、中国・雲南省、ベトナム、ジャワ、バリの農村を
巡って、再び中国各地の農村を巡り、それらの特徴を把握するという大作であります。
とてもすべては読めませんでしたが、目を通した部分の読後メモです。
(わたくしの思い違いや読み飛ばしもありますので興味のある方は本書を熟読下さいね。)
日本の農村→長野県の瀬沢新田集落から
→武士の帰農による庇護と奉仕の生活集団から分家の自立発展、対等な同族関係に
→村の社、組の祠、家または同族の神の三重構造→仏教と神道、家と村の関連
→村の自治機能と祭祀機能
→家は柔構造で可塑性を持ち、村は固定した持続的な枠構造
韓国の農村→忠清南道の桃李里集落から
・韓国の宗族マウル(村)と日本の武士の帰農村との違い
→桃李里は国王から将軍に授けられた土地
→武士は帰農すれば農民になったが在郷両班(ヤンバン)は特権階級のままだった
→1950年の農地改革で小作農が自作農に→戦争で関係がさらに混乱→両班も自家経営に
→韓国の宗族村は血縁集団で日本の同族村は家来も含む生活共同集団
→村を出ても血縁は切れないが生活共同は村を出れば維持できない
→なので日本では村を出れば分家ではなく独立になる
・祭祀を行う単位としての家(チプ)、財産共有単位としての家族、居住単位としての家口
(世帯概念と重複する)→日本の農村の家は家族が営む農業経営体
→日本では先祖に対する仏教祭祀と氏神に対する神社祭祀
→韓国では朱子学に基づく儒教的先祖崇拝祭祀が根幹
(日本の朱子学は武士中心で農村の先祖崇拝に形式を与えたのは仏教)
→日本の神社(氏神)祭祀は村から拡大しないが韓国の先祖崇拝祭祀は全国的に拡大する
→個人を中心に置いた血縁による結びつきだから
中国の農村→山東省の房幹村集落から
→村の原型は19世紀から20世紀初頭→極貧の山村だった
→八路軍、土地改革、人民公社、文化大革命と激動の時代
→70年代の貯水湖築造、83年の公社解体、その後も村営企業を導入して発展した
→文化大革命後には村の土地廟(自然神と関帝を合祀したもの)再建や昔の墓地への墓参再開
→日本語の家族は法制的には戸口(戸籍)人数に該当するが一家子(中国語の家族)概念は異なる
→新中国以前の大家庭では居住は別でも食事や農作業は共同で男子均分相続、老母の輪住扶養
→日本の分家は本家を維持するために分与規模が小さい→家の存続が最重要
→中国では完全に均等→日本は家単位で中国は個人単位→一人一人の処遇が最重要
→父系出自の親族集団が「一家子」で系譜ごとに五代目となった時期に分化していくが、
親族集団の系譜は明確で連綿と続き、結びつきも強い
日韓中農村の比較
・「定住を前提としている日本」と「移住を常態としている中国・韓国」
→日本の同族団は生活共同体で必ずしも血統に制約されず地縁関係で成立する
→韓国の宗族は祭祀共同体で父系血族集団、居住地は問わない
→中国の一家子もそれに近いが農地解放以前は財産共有体として機能
→韓国でも中国でも村落を越えたネットワークと自己の帰属的地位の確認システムを確立
しており、どこに住んでいても血族が明確に繋がっている
・歴史的背景
→中国の自然災害、戦乱、商業化→農民の移住(パールバックの大地の例)
→韓国の異民族による侵攻、半島内の抗争→農民の大規模な移動→地縁より宗族
→日本では武士の領地は変わるが農民の個別経営は土地に定着して自然村落を形成
→中国のツオ・パン、韓国のウリ(対語はナム)は、どちらも移動に適合した扶助システムで
移動を前提としていない日本人には理解しにくい関係
・移動、定住と宗教、信仰
→定住社会では個人より集団での宗教、信仰が支配的
→仏教先進だった中国・韓国に寺の檀家組織は存在せず宗教そのものが消長、代替している
→韓国の祖先祭祀は盛大だが生活規範意識よりは宗族統合機能としての祭祀
(現在はキリスト教徒が6割以上で地域地縁の制約はなく個人本位、やはり移動に適合する)
→中国固有の道教や民間信仰も総じて個人本位で地域限定ではない
→日本の氏神(血縁神)と産土神(地縁神)、どちらが先か論争(略)
→ただし、それ以前の農耕民としての古層(自然信仰)は三国とも共通している
タイの農村
・つい最近まで東南アジアは東北アジアに較べて人口が少なく土地が広かった
→トンキン・デルタやジャワ島などを除き、少ない人口と豊富な土地を基層とする農業
→東北アジアでは17世紀までに一部貿易と小農社会の二重構造に
・東南アジアで15世紀から17世紀末まで都市国家を支えたのは農業ではなく貿易(琉球も)
→東南アジアの農民は重い税や直接支配を受けず半自給的な生活
→19世紀後半の東南アジア植民地時代→交易社会と農業社会の二重構造に
・植民地化の危機にタイ(当時シャム)では20世紀初頭に中央集権化・近代化(ラーマ5世)
→チャクリー改革→東南アジアでは稀有な植民地にならなかった国
→それ以前の伝統は成人男子農民と支配する地方王の直接関係で生涯続いた
→異なる地方王の農民が同じ集落(バーン)に住むこともあった
・妻方居住による親・娘関係、姉・妹関係で形成される屋敷地共住集団(これもバーン)
→8から10のバーンで構成される伝統的な村を20世紀初頭の地方制度改革で法制化
→2001年東北タイ中心部の農村(戸数170戸)の例→略
→近代化で父系制が始まったが伝統的な女系原理の優位性も残していた
→妻方の土地に夫が建てる新居、続く親娘関係、男女均分相続、夫婦別財システム・・・
→子供を親族に預けて夫婦で移動する複合家族→日本なら夫単身→家族概念の違い
台湾の農村
・台湾の四大族群(エスニック・グループ)
①原住民(漢民族が移住する明・清時代より前から住む民族)1.7%
②福建省南部から移住してきた漢民族73.3%
③広東省や福建省付近からやや遅れてやってきた客家系の漢民族12%
④国民党とともに移住してきた外省人13%
・漢民族の本格的な定住・開墾は明朝末期で宗族は東南中国と類似
→移民同士の争いが頻発したことから宗族で集住した→強固な宗族村に
→1895年からの50年に及ぶ日本皇民化による宗族の伝統破壊は大きなダメージ
→同じく50年に及ぶ治安の改善、行政機構やインフラの整備により宗族組織が衰退
→その後の国民党による思想改造、土地改革で伝統的地域秩序は解体へ向かう
→これらの歴史経過から社区(最も小さな自治体)発展事業へ
・台湾南部の客家村(社区)の例(2003年で人口1474、世帯数400)
→1976年からの前期社区発展事業ではインフラ整備と中華民国イデオロギー教化
→戒厳令解除までは北京語に似た国語が村の生活全般で強制されていた
→1991年からの後期では台湾本位イデオロギーと共同体意識の創生に
(1990年代に台湾社会統合の解決法として政治的な四大族群の概念)
→客家の言語や街並みなど伝統的文化も認める住民主導型地域作りへ
ラオス・雲南省・ベトナムの農村
・農耕による定住集落化→東アジアでは稲作中心→熱帯や亜熱帯では水害からの防御も重要
・メコン圏
→水の民→タイ系→水稲中心で焼畑中心の非タイ系と交易し村々のまとまりがクニに
→近代国家の中核を担うことはなく地方にとどまる
・ラオス北部の農山村の例
→先住民のクム、雲南系漢人、タイ系ヤンなどエスニシティはさまざまでモザイク状に点在
→農耕生活者の流入が多い→移動を特徴とするバンド(狩猟採集)の性格が残っている?
→稲作に加え焼畑、採集、牧畜も→バンドの定住集落化の過程か?
→重要な繋がりはやはり親族関係、お金はなくとも優しく親族の多い者が村長になる
・(ミャンマーに接する)雲南省保山市の回族(ムスリム)村
→甘粛省、新疆ウイグル自治区、雲南省が中国回族の三大集中地域
→モンゴル軍に従ったムスリムの高官が赴任した地方に集中
→民族ごとのマーバン(隊商)中継地→平野部か山腹に集住→交易拠点だった
(川が急峻で険しい陸路を馬で運ぶしかなかった)
・ベトナム北部の村落社会
(19世紀中葉までの南部は未開の地、その後別々に入植して定住した)
→村独自の防犯、財産、制裁機能、氏神、慣習を持つ強力な自治団体だった
→「王法も村の垣根まで」といわれ、北部の村はレンガ壁で覆われ、竹藪、村門、
狭い路地、集会所、寺(塔)、バニヤンの木、市場の存在が特徴
インドネシア・ジャワ島の農村→中部ジャワの農業集落
→肥沃な火山灰土の堆積地でジャワで最も収量の高い水稲地帯→超過密な人口
→結婚直後はどちらかの実家、同敷地に同居、歳とともに独立性を高めていく
→男女均分相続とイスラム法による男2女1相続がある
→相互扶助慣行とイスラム教が基調
→零細な所有構造の中に複雑な賃借関係がある
→一般の小作と異なり、安定収入のある持てる者が持たざる者を扶助する構造
→狭い耕地の割に屋敷地が広く果実、蔬菜、芋、鶏、羊など農業的利用もしている
→化学肥料、農薬、灌漑施設で二期作三期作と生産性を大幅に増大→人口増加
→人力による労働集約は過剰労働力の吸収と貧困からの解放に(インボリューション)
→緑の革命(エボリューション)による多収性品種や精米機の導入で仕事がなくなった
→零細化集約化、労働機会分散などで「貧困の共有」を行ってきたが行く先は袋小路
→それでも基本食糧と村内唯一の雇用労働を作り出す農業の意味は大きい
インドネシア・バリ島の集落
・韓国や中国の飢饉や戦乱による移動とは異なり、人が少なく豊かな条件での移住の繰り返し
→14世紀にジャワ・ヒンドゥーの影響が及び王朝に→宗教機能と政治機能
→英領ラッフルズ時代の1815年に村長が王を補佐するように
→村は特殊な慣習法と規則を持つ法共同体(小さな共和国)に
→1906~07に王が退位、オランダの植民地になり政府任命村長で慣習村と行政村の二重性に
→植民地化で慣習を端に追いやり、独立後の独裁で体制内化、制度化された
・農業と農村の変容
→本格的な観光地化は1980年代から
→水田は減少しているが高収量品種、化学肥料、農薬により収穫量は飛躍的に増加
→観光ルートに近い平野部では農地が宅地や道路や店舗や宿泊施設に
→ひとつの行政村にヒンドゥーの慣習村(パンジャール)やイスラムの慣習村(カンポン)がある
→水利組織(スバック)は行政村や慣習村から完全に独立している→日本と異なる
→スバックは寺院を共有する祭祀集団でもあり成員の権利と義務を定めた慣習法を持つ
→観光開発による宅地化、兼業化、ごみやバティック工房からの汚水・・・
→米の増産政策→化学肥料、農薬による影響、機械導入によるコスト増大
→圧倒的多数の小作人にとって農地の宅地化は失業を意味する
→インドネシアには300のエスニシティと200~400の言語集団がありバリも多様で複雑
→グローバル・ツーリズムはバリに格差拡大と新たな貧困層や失業層ももたらした
中国各地(具体例などは
・1996年の調査時点のような農村の沸騰状態が続けば、当然に分解を引き起こす
→日本のように「家」の財産・家業ではないから、分解の進行と農民の性格変化が
急速な解体をもたらす可能性も否定できない
→沸騰しているのは農業ではなく農外の「郷鎮企業」に取り組む農民たちの熱気
→地下水位の低下の問題→水を買い、不足すれば荒れ地のまま放置する
→カリフォルニアの農業を想起させる
・日本の家業経営小団体である「家」と、それによって構成される「村」も中国にはない
→財産も男子均等配分が基本で生活原理は家ではなく個人であり、その家族の集住地が村
→生活原理が個人なので親族は家に関係なく平等→日本では家でいったん仕切られる
→個人原理だからこそ中国の親族組織は密接で活性化する
・三農問題→農業生産の停滞、農村の疲弊、農民の窮乏
→改革開放政策で都市の発展を優先→農民の困窮→人口流出→農村の超高齢化
税格差(2006年に廃止)、戸籍格差など→2000年代半ばからの新農村建設政策へ
・新農村建設政策
→小城鎮の建設→農村での小規模な(インフラ整備された)都市区域の形成
(純粋な農村地域が郷、少し都市化した地域が鎮、都市的な地域が城、都市は城市)
→全農家の賛成があれば国の補助で小城鎮(社区)に移転し集住化できる政策
→耕地は農業会社に賃貸、収入は賃貸収入と農業会社などで働く給料→家族経営の消滅
(農業会社は郷鎮企業・村営企業、個人経営・家族経営、大企業投資だが沿海部より劣る)
→都市化による生活費の上昇、さらなる農業離れ、急速な高齢化の恐れ
・離土離郷(脱農離村)
→1984年に都市戸籍と農村戸籍の間に自理口糧戸籍ができた(非農業への移籍を公認した)
→これは政府補助による低価格食糧の購入資格がない(自己入手を義務化した)戸籍
→1985年には出稼ぎ農民管理のための暫住戸籍ができたが、
→都市住民と同じ行政サービス(仕事・住宅など)や保護は受けられず教育も差別される
・2000年代の農村の変化
→村の合併再編整備、社区への転換、再開発による消滅
→過疎化→多くは出稼ぎによる減少で残るのは老人、子供、女性
→混住化→豊かな農村への労働移動、都市民の滞在や別荘購入など
・集住などに反対し北京に陳情に行く農民の観念
「中央政府には恩人がいる。省政府には親戚のように親しみやすい人がいる。
地方政府には好い人がいる。県政府には悪い人が多い。郷政府には敵しかいない。」
→中央から下への圧力体系で地方は義務ばかりなので、地方に圧力をかけるため中央へ
→道徳性の高い中央政府は道徳性の高い「老百姓」の要求に応じるはずと確信している
・1980年代から90年代に鎮政府主導で作られた8つの郷鎮企業の例
→90年代後半には次々倒産、2008年には1つだけに
→2006年に2000軒の団地移住計画→反対陳情へ
→反対事情は様々だが共通するのは生存を肯定する価値観の共有と「農民のまま移転させるなら、
その後の生き方を行政が考えねばならないはず」という規範化された行政観念の共有
「おわりに」より
・自然に基づく農業を基礎とする農村は(当然だが)自然環境条件により様々な姿を示す
→そこに歴史的経過の条件の違いが大きく作用している
・東南アジアの国々は気候温暖で森林の広がりに比べ人口は少ない
→移住して開墾してもすぐに緑は復活するが外国の植民地になった国も多い
・東北アジアの国々の自然条件はずっと厳しい
→自然災害による飢饉のほかに韓国や中国では度重なる戦乱
→移動せざるを得ない苦難の生活→これには日本にも大きな責任がある
・日本の場合は土地に定着する仕組みとして家が成立し村が形成された
→近世以降の農民は幕府支配により土地に縛り付けられ定住生活をしていた
→なので同族も血縁も地縁仲間だった
→韓国や中国では不安定な移動でぎりぎり個人が単位になった
→その間を結びつけるのは血縁の絆であり、形成される宗族は土地を超えて、
時には世界に拡がることもできた
・今はどの国でも近代化が進みグローバリゼーションの波の中にある
→東京でも北京でもソウルでもバンコクでも同じような高層ビルがならび違うように見えない
→しかし、人々が暮らす民家に入ってみるとすっかり違う
→東京の人と北京の人とソウルの人とバンコクの人は、やはり違うようである
→出会った時のすれ違う姿、交わす表情はそれぞれである
→だから、これらの人々が交わる社会関係も違う
→その個性はどこから来たか
→都市ではなく農村、地方的世界に基層があるのだろう
→外国との交流にあたっては表面の類似ではなく、また対立でもなく、その底にある「基層」
にまで分け入りながら、親しく交わるのでなければならないだろう。
2022年06月23日
日本の農村・・・
とーとつですが・・・
日本の農村~農村社会学に見る東西南北~とゆー本を読みました
著者、発行所、発行年月日などは奥付にあるとおり・・・
昨年5月の第1刷発行なので、けっこう新しい本です
表紙カバー裏にあった惹句
ええ、日本農村社会学の総括だそうであります
裏表紙カバーにあった著者紹介
例によって目次のご紹介
著者自身の研究も含め、日本の農村に関する古今の研究を総括されてます。
わたくしには農業や農村暮らしの経験はありませんが、子どもの頃によく訪れていた
泉州にある親の郷でも、高度成長期半ばぐらいまでは(兼業でしたが)農業をしてましたし、
山歩きや川下りで小さな農村集落に入ると、なぜかとても懐かしい気持ちになりますし、
これは植林ボランティアで行ったアジアの農村でも同じでした。
それで自分が知っているつもりの昔の泉州の農村との違いや、各地での生活、歴史などに
興味もあったので、たまたま雑誌の紹介で知って読んでみた次第。
目次でもおわかりのとおり、専門家が日本各地の農村の成立や特徴などの様々な研究を
整理紹介された本ですが、以下はわたくしが興味があった部分のランダムなメモです。
・岩手県八幡平市「石神集落」の研究(1935~有賀喜左衛門)→同族団の農村として
・江戸時代の村の範囲は明治の町村制で大字の範囲に(一般には部落に)
→その中に組や小字がある
→生産と生活を営むためのまとまり→水利、入会林野、共同作業など→自然村
・東北型と西南型→この分類には対比的把握の課題が残る・・・
→秋田県下川村T集落と岡山県吉備町旧川入村の研究(1946~福武直)
・東北型→村は郷中→同族団と地主小作関係→本家、分家、同族神、産土神
→同族結合的部落
・西南型→分家は妻帯直後になされ土地の分与も多い→東北型とは逆
→土地の生産力が高く(多くの労力を要さず)貨幣経済の酷さが流出を促進し余地もあるから?
→共同が同族団ではなく近隣組織で行われる→各講中→講組結合的部落
・農村変動の研究(1990松本通晴)
→近畿の村落の特徴は宮座、同族結合、親方子方、講組結合
→宮座→大字に存在する氏神の祭礼を主催する組織
→京都では株座の存続は弱く、滋賀では順番制で年齢順に役割分担、奈良では家筋が多く、
和歌山は三重同様に氏神整理が進んだので株座は少ない
→同族組織→北部と南部で呼び名が異なるが近畿にも存在する
→親方子方→同族は家単位だが親方は人望や経済力のある個人
→都市に出ても規範は残る→但馬出身者による京阪都市圏での餅系食堂の繁栄
→講組結合→葬式、盆踊り、寄り合い、共同作業などだが今は少ない
・京都府綾部市十倉集落の研究(鈴木俊道)
→4つの最寄があり、その下に組がある
→最寄は同族株から、株は本家と分家の連合から
・高知県仁淀村→田畑へのスギ植林規制→スギの単植が村の環境を破壊するから
・沖縄の農村→1609年の「薩摩入り」により大洋交易国家から農業国家に→村切り
→土地保有のできない小農請負制で家による格差は生じない→人頭割→核家族集団の村
→儀礼・祭祀では長男継承の直系家族だが経済的・法制的性格を欠く→耕地より位牌
→古琉球時代は小集落→村落→耕地や水系は周辺に分布→グスクを頂点とする組織の末端
→東南アジアにおける人口移動→開墾→新集落形成→障害発生による再移動のパターンに近い
・北海道の農村→アイヌ民族のイオール(漁猟圏)を開墾した農事組合型村落→農協に従属
→同じ区画道路沿いの自然発生的な付き合いと部落を越えた同じ郷里同士の付き合い
→府県では村落が農家を規定するが北海道では農家のあり方が村落のあり方を規定する
・白川村の大家族
→養子には使用人・奉公人も含まれており血縁関係だけではない
→母屋での共同作業時以外は小屋で別に暮らしており同居大家族でもない
→大家族がピークになったのは明治30年代で生糸など近代日本資本主義の成立期
→与えられた厳しい環境に対処するための生活の仕組み
・西南九州の末子相続
→薩摩の門割制、生産性の低いシラス地帯→経営体としての家は確立していない
→子孫に残す緊要性はなく、末子に限らず並列的
・鹿児島・沖縄・東南アジア・タイの類似性
→日本の他地域との対比で言えば「家の不成立」が特徴的
・家と村の成立(庄内地方)
→弥生時代の土木技術では広い水田で粗放な稲作
→室町時代には農民の水の神様が上部権力によって八幡神社として上書きされた
→田地や居住地は水利条件によって、あちこちに散在していた
→江戸時代初期に検地や村切り、村の連帯責任としての年貢
→元禄に入る頃、下人労働による粗放な大規模経営から規模を縮小、集約化した家族経営へ
→不足する季節労働力は奉公人の雇用、すけ、ゆいなど→村が重要な役割に
→稲作の集約化が進む元禄年間、一子相続の藩規制もあり日本的意味での家が始まった
・地主制(庄内地方)
→元禄期に米の需要が増加、奉公人の年給高騰・減少で地主が田地を貸す小作が広がった
→地主は本家分家での家族経営から小作料経営に、一子相続による家の安定を目指す
・村の設定、村請制(庄内地方)
→中世以降の検地と年貢→村を越える有力者は大きな障害で基本単位を村請に→村切り
→村の協議で選ばれた肝煎(村役人)が村の代表になり事実上の自治が認められていた
→有力者の意向ではなく村中の家々の協議によって意思決定される
→重要なのは水(稲作)草(餌・肥料)人(労力)だが、すべて公平な方法で慎重に決めていた
→萱草刈なども何年も試してみて環境破壊・資源枯渇がないことを確認し実施していた
→近世江戸時代の村は作られたものだが、その後の自治で形成された自然村でもある
・神社と寺(庄内地方)
→村の神社はひとつだが寺は家によって異なる→家の成立歴史が異なるため
→全戸が同一檀家の村もある
→村の同族団に関わるのが寺であり、地縁組織としての村に関わるのが神社
・家と村の近代(庄内地方)
→明治初年の地租改正・村合併→その後の町村制→行政区画としての村の規模は大きくなり、
農民の生活と生産の場としての村は大字(一般には部落)になった。
→なので地縁に関わる神社の合併には容易な同意は得られなかった
・家の後継者と婿取り(庄内地方)
→近世末から明治初年の当主と後継者の年齢差は27歳ぐらい
→当主が30半ばになっても男子が生まれなかった場合に養子を迎える事例が多い
→この年齢差で世代交代することが(男子労働力として)必要だったから
→直系家族が多いが養子に嫁を迎える例もあり、血統は切れても集団としての家は継承される
→非後継者で他家と縁組できなければ、家で配偶者を持たないまま一生を終えるしかない
→離縁も多いが再婚・再縁組も多く、離縁は決定的な否定評価ではなかった
→明治民法に規定された家ではなく、協業経営体・生活実態としての家
→明治民法に規定された嫡長男による相続は、農業経営の実態とたまたま一致した場合のみ
・地主と明治町村制(庄内地方)
→庄内地方は戦後の農地改革まで地主王国だったが規模は様々だった
→巨大地主は行政区画には関係なく、村の権力権威を追求したのは中小地主だった
→地主は農事改良(乾田馬耕)に熱心だったが、やがて寄生地主として安住するようになる
→乾田馬耕のための耕地整理がすすむ→稲作以外の畑や肥料飼料用原野などの減少
・小作農民の暮らし(庄内地方)
→稲作だけでは暮らせないので様々な副収入を探すが貧しいまま
→次三男が出ていく先は昭和初期には軍隊か大陸が多かった→侵略地は余剰人口の捌け口
→村の大部分が小作農民になり村ぐるみの小作争議に発展→大正末期は農民組合運動の高揚期
→性格の異なる産業組合に併合したが準戦時体制になり国が統制と貯蔵の奨励や融資を開始
→戦時体制になり交換分合と自作農創設が推進される
→戦地動員による労働力不足で交換分合は農民側としても必要になっていた
→所有権の論理と耕作の論理が交錯した
→自作農創設維持資金の活用で小作争議のあった地主などは次々と手放した
→最終的には占領軍の権力による農地改革により自作農の積極性が発揮され農業発展に
・地主小作関係のまとめ
→岩手県石神では本家分家関係と表裏一体の地主小作関係で家族的経営
→山形県庄内では小作料を収めるので貧しかったが自立的経営で地主とは利害が対立
→小作争議は全国で弾圧されたが庄内では国策に乗り産業組合に転進、戦後の農協を準備した
→農民運動といっても担い手の性格により様々な歴史的役割を果たしたのである
・家と村の戦後、そして今(庄内地方)
→大正生まれの女性は小学校高等科まで進むようになってたが、その後は裁縫などを習い、
20歳前に嫁に行くのが一般的だった→つらい嫁生活と戦時中の男子に替わる重労働
→復員した青年、新制中学を出た青年の多くは公民館などに開設された青年学級に通った
→新生活運動→嫁の待遇改善、公民館結婚式の普及、若勢部屋の待遇改善など
→農協青年部→自家労働評価→青色申告運動→経営実態の把握→共同多角経営へ
→どれも家の問題がネックで過剰投資、機械化貧乏、労働力の流失も農家経済を圧迫
(1960年からの数年は安保改定、一部農産物の輸入自由化、IMF勧告、農業基本法制定など、
農業・農村にとっても大きな転換点だった)
→集団栽培への期待→水稲集団栽培へ(共同の田植・防除・小型トラクター購入から)
→村(部落)単位の仕事として取り組まれたのが庄内の特徴
→法人ではなく、家を基本に村を場にして、協議、契約、共同する
→これは庄内の村が持つ長い経験を活用したもの
→集団栽培は使命を終えて解体したが家や村は残っている
(各地の動向)
・1965年に全国最高10アールあたり平均反収を記録した佐賀県
→新技術などの多面的な展開と米作り集団組織化→3段階
①県内2600の伝統的部落に依存した実行組合を目的集団化し実践組合を作る
②機能集団化、報酬化、役員などの組織整備、作業の共同、共同利用機械の購入、技術研究
③高度近代化、協業組織化、大型機械の導入、専門化、分担の明確化、裏作畜産園芸との結合
・富山県平坦部での構造改善を契機とする大型機械化(1969)
→労働力節減と機械化のための生産費増は兼業の内的要因になる→生産主体が消滅しつつある
・愛知県安城市からの大型機械化営農~集団栽培から作業委託へ~
→佐賀富山と同じく高水準化、増収を目指していたが、営農集団は無償を原則とする共同体
原理との矛盾がある
→これは専業農家と兼業農家との間に対立的なものがあることを示している
→集団栽培はいずれ崩壊し、完全な請負、信託にならざるを得ないのではないか
→機械オペレーター集団の収入の低さと不安定性(仕事は2ヶ月)
→名古屋市近郊で土地も高く資産管理目的も増え、耕作農民に寄生しているごとき層も
→集団営農は零細耕作を保障するとともに脱農してしかるべき層も抱え込んでいる
・新潟県蒲原における請負耕作
→他地方と異なり集団的方式の展開に先立ち個別規模拡大の展開が強く見られる
→拡大方法は土地購入と請負耕作
→農地改革に続く用排水分離、大型化、集団化などの土地基盤整備は経営意欲を刺激した
(庄内の基盤整備は明治大正期だった)
→農地改革の基盤整備は小型中型機械に最適で労働力の減少や賃金高騰をカバーした
→機械化は当然に生産費増をもたらし、さらなる経営規模拡大を要請した
→初期には農地拡大もあったが地価高騰で資産化し停滞、小規模農家や兼業農家は技術革新に
ついていけず、請負耕作が拡がることになる
→上層農家の個別経営型による前進意欲は強く依然として支配的だが今後も続くかは疑問
・夫婦家族連合としての家(庄内地方)
→1970年代初頭以降、日本の農政としては未曽有の米の生産調整に
→様々な就労構成になり家計構造も多元化したが持ち寄りによる家の家計は維持されていた
→生活水準を超えた利益は蓄積されず農業経営の目的は生活
→主会計は生活費で超えた所得は別勘定→後継者夫婦の農外収入や老夫婦の農業者年金など
→主会計は家長が管理するので世帯主が一番苦しいと聞かされたが、別勘定による夫婦での
余暇活動などは活発で、生活組織としての家を形成しながら夫婦単位の行動をしている
・家族内役割分担(庄内地方)
→多くの嫁は外で働き貴重な現金収入をもたらしていた
→家によっては稲作、畜産にも関わるが補助的、園芸では基幹的役割もあった
→専業主婦以上の責任と地位により自信と意欲がある
→家事労働の主役はむしろ姑たちで食事の支度や孫の養育
→高齢や介護でこの役割分担が崩れた場合には、嫁世代に過重な負担がかかる
→恋愛結婚で非農家からの嫁入り婿入りも増えており、結婚形態が変化すれば家も変化する
→世代間役割分担だけでなく性的役割分担もかなり明確に存在し、批判も肯定もあった
→今日でも村で家を代表する仕事は男性だが、家で重要な役割の果たすようになった女性の
日本の農業や農業経営に果たす役割はますます大きくなる
・村は今(庄内地方)
→庄内の村での同族団の力は弱く、村の寄り合い契約による規制が強かった
→水の苦労などはなくなり家の自立化は進んでいるが、村がなくなったわけではない
→しかし家の変化に対応して村も多元化した
→意思決定する自治組織が家長層が出る部落会と後継者層の生産組合に二元化
→家の最終責任を担う家長層と稲作の責任を担う後継者層という分化
→これも夫婦家族連合としての家の現況を反映している
・山形県櫛引町西荒屋の直売所の女性たち
→農業の中心は稲作だが野菜や果樹との複合経営が特徴で藩の時代から
→公設民営直売所は1997年からで、かつては女性が売りに行く振り売りが盛んだった
→初年度から剰余金を出すほど成功し、勤めを辞めて農業をする女性もでてきた
→参加農家の家族構成は5人から8人、夫婦2世代から3世代の直系家族
→他の集落では農業機械は個人所有が顕著だが西荒屋では2~3戸での共同所有が多い
→直売所に参加して収入は増えたが忙しくなったと答える人が多かった
→家族内に労力があるかどうかが直売所参加の分水嶺
→夫婦二人の労力が使えるのは親世代の母が家事基幹を引き受けているから
→農協は持って行くだけで売る喜びはない
→直売所は自分で値段を決められるが売れないリスクも負う
→直売所は各地でブームだが参加していない農家はどのような今後の方向を模索するのか
・集落営農の動向(庄内地方)
→共同化の範囲が担い手不足から部落間にまで拡がっている
→農業機械が一層大型化している
→担い手不足でも法人化で集落の誰かが経営を継承していける可能性が出てきた
→稲作だけでなく複合作物の導入や販売も必要
→高い地代を是正しオペレーター賃金や雇用労賃に配分して労働インセンティブを高める
・「おわりに」より
→様々な農業の姿があったが雇用労働力による大農場はなかった
→中世から近世初期には家来をともなう大規模経営、近世江戸時代初期でも非血縁を含む
同族団で形成される農村の地方があった
→しかし近世の過程を経る中で、耕作の集約化によって個別の家による経営が確立し、
それらの家々による村が時代・地方に適合化して、親から子へ継承される家が確立、
村も伝統的な習俗を蓄積して、その継承でそれ自体の存続が図られた(東海や関西)
→沖縄での家と村の未確立や白川村の大家族、西南九州の不定相続は生活条件によるもの
→どの地方でも雇用労働力による米の大農場は形成されなかった
(家々による自然村規模が最適だった?)
→1992年にアメリカ・カリフォルニアで米農場を経営していた鯨岡辰馬の「アメリカ式」
大農場(2800ha)を見学した
→水は遠くシェラネバダ山脈から引いた巨大水路から買い、時期をずらせた種蒔きは飛行機、
労働者は殆どがメキシカンだった
→この少し前に彼は「コメ自由化はおやめなさい」という著書を刊行している
→当時の日本は貿易自由化を推進するアメリカとの間で揺れ動いていた
→ほぼ30年後の2018年に国連で「小農と農村で働く人々の権利に関する宣言」が採択された
→小農とは、この本の主題である農村を形作っている農家のこと
→様々な歴史を経てきた農家と農村であるが、確固として存在しているのである
日本の農村~農村社会学に見る東西南北~とゆー本を読みました
著者、発行所、発行年月日などは奥付にあるとおり・・・
昨年5月の第1刷発行なので、けっこう新しい本です
表紙カバー裏にあった惹句
ええ、日本農村社会学の総括だそうであります
裏表紙カバーにあった著者紹介
例によって目次のご紹介
著者自身の研究も含め、日本の農村に関する古今の研究を総括されてます。
わたくしには農業や農村暮らしの経験はありませんが、子どもの頃によく訪れていた
泉州にある親の郷でも、高度成長期半ばぐらいまでは(兼業でしたが)農業をしてましたし、
山歩きや川下りで小さな農村集落に入ると、なぜかとても懐かしい気持ちになりますし、
これは植林ボランティアで行ったアジアの農村でも同じでした。
それで自分が知っているつもりの昔の泉州の農村との違いや、各地での生活、歴史などに
興味もあったので、たまたま雑誌の紹介で知って読んでみた次第。
目次でもおわかりのとおり、専門家が日本各地の農村の成立や特徴などの様々な研究を
整理紹介された本ですが、以下はわたくしが興味があった部分のランダムなメモです。
・岩手県八幡平市「石神集落」の研究(1935~有賀喜左衛門)→同族団の農村として
・江戸時代の村の範囲は明治の町村制で大字の範囲に(一般には部落に)
→その中に組や小字がある
→生産と生活を営むためのまとまり→水利、入会林野、共同作業など→自然村
・東北型と西南型→この分類には対比的把握の課題が残る・・・
→秋田県下川村T集落と岡山県吉備町旧川入村の研究(1946~福武直)
・東北型→村は郷中→同族団と地主小作関係→本家、分家、同族神、産土神
→同族結合的部落
・西南型→分家は妻帯直後になされ土地の分与も多い→東北型とは逆
→土地の生産力が高く(多くの労力を要さず)貨幣経済の酷さが流出を促進し余地もあるから?
→共同が同族団ではなく近隣組織で行われる→各講中→講組結合的部落
・農村変動の研究(1990松本通晴)
→近畿の村落の特徴は宮座、同族結合、親方子方、講組結合
→宮座→大字に存在する氏神の祭礼を主催する組織
→京都では株座の存続は弱く、滋賀では順番制で年齢順に役割分担、奈良では家筋が多く、
和歌山は三重同様に氏神整理が進んだので株座は少ない
→同族組織→北部と南部で呼び名が異なるが近畿にも存在する
→親方子方→同族は家単位だが親方は人望や経済力のある個人
→都市に出ても規範は残る→但馬出身者による京阪都市圏での餅系食堂の繁栄
→講組結合→葬式、盆踊り、寄り合い、共同作業などだが今は少ない
・京都府綾部市十倉集落の研究(鈴木俊道)
→4つの最寄があり、その下に組がある
→最寄は同族株から、株は本家と分家の連合から
・高知県仁淀村→田畑へのスギ植林規制→スギの単植が村の環境を破壊するから
・沖縄の農村→1609年の「薩摩入り」により大洋交易国家から農業国家に→村切り
→土地保有のできない小農請負制で家による格差は生じない→人頭割→核家族集団の村
→儀礼・祭祀では長男継承の直系家族だが経済的・法制的性格を欠く→耕地より位牌
→古琉球時代は小集落→村落→耕地や水系は周辺に分布→グスクを頂点とする組織の末端
→東南アジアにおける人口移動→開墾→新集落形成→障害発生による再移動のパターンに近い
・北海道の農村→アイヌ民族のイオール(漁猟圏)を開墾した農事組合型村落→農協に従属
→同じ区画道路沿いの自然発生的な付き合いと部落を越えた同じ郷里同士の付き合い
→府県では村落が農家を規定するが北海道では農家のあり方が村落のあり方を規定する
・白川村の大家族
→養子には使用人・奉公人も含まれており血縁関係だけではない
→母屋での共同作業時以外は小屋で別に暮らしており同居大家族でもない
→大家族がピークになったのは明治30年代で生糸など近代日本資本主義の成立期
→与えられた厳しい環境に対処するための生活の仕組み
・西南九州の末子相続
→薩摩の門割制、生産性の低いシラス地帯→経営体としての家は確立していない
→子孫に残す緊要性はなく、末子に限らず並列的
・鹿児島・沖縄・東南アジア・タイの類似性
→日本の他地域との対比で言えば「家の不成立」が特徴的
・家と村の成立(庄内地方)
→弥生時代の土木技術では広い水田で粗放な稲作
→室町時代には農民の水の神様が上部権力によって八幡神社として上書きされた
→田地や居住地は水利条件によって、あちこちに散在していた
→江戸時代初期に検地や村切り、村の連帯責任としての年貢
→元禄に入る頃、下人労働による粗放な大規模経営から規模を縮小、集約化した家族経営へ
→不足する季節労働力は奉公人の雇用、すけ、ゆいなど→村が重要な役割に
→稲作の集約化が進む元禄年間、一子相続の藩規制もあり日本的意味での家が始まった
・地主制(庄内地方)
→元禄期に米の需要が増加、奉公人の年給高騰・減少で地主が田地を貸す小作が広がった
→地主は本家分家での家族経営から小作料経営に、一子相続による家の安定を目指す
・村の設定、村請制(庄内地方)
→中世以降の検地と年貢→村を越える有力者は大きな障害で基本単位を村請に→村切り
→村の協議で選ばれた肝煎(村役人)が村の代表になり事実上の自治が認められていた
→有力者の意向ではなく村中の家々の協議によって意思決定される
→重要なのは水(稲作)草(餌・肥料)人(労力)だが、すべて公平な方法で慎重に決めていた
→萱草刈なども何年も試してみて環境破壊・資源枯渇がないことを確認し実施していた
→近世江戸時代の村は作られたものだが、その後の自治で形成された自然村でもある
・神社と寺(庄内地方)
→村の神社はひとつだが寺は家によって異なる→家の成立歴史が異なるため
→全戸が同一檀家の村もある
→村の同族団に関わるのが寺であり、地縁組織としての村に関わるのが神社
・家と村の近代(庄内地方)
→明治初年の地租改正・村合併→その後の町村制→行政区画としての村の規模は大きくなり、
農民の生活と生産の場としての村は大字(一般には部落)になった。
→なので地縁に関わる神社の合併には容易な同意は得られなかった
・家の後継者と婿取り(庄内地方)
→近世末から明治初年の当主と後継者の年齢差は27歳ぐらい
→当主が30半ばになっても男子が生まれなかった場合に養子を迎える事例が多い
→この年齢差で世代交代することが(男子労働力として)必要だったから
→直系家族が多いが養子に嫁を迎える例もあり、血統は切れても集団としての家は継承される
→非後継者で他家と縁組できなければ、家で配偶者を持たないまま一生を終えるしかない
→離縁も多いが再婚・再縁組も多く、離縁は決定的な否定評価ではなかった
→明治民法に規定された家ではなく、協業経営体・生活実態としての家
→明治民法に規定された嫡長男による相続は、農業経営の実態とたまたま一致した場合のみ
・地主と明治町村制(庄内地方)
→庄内地方は戦後の農地改革まで地主王国だったが規模は様々だった
→巨大地主は行政区画には関係なく、村の権力権威を追求したのは中小地主だった
→地主は農事改良(乾田馬耕)に熱心だったが、やがて寄生地主として安住するようになる
→乾田馬耕のための耕地整理がすすむ→稲作以外の畑や肥料飼料用原野などの減少
・小作農民の暮らし(庄内地方)
→稲作だけでは暮らせないので様々な副収入を探すが貧しいまま
→次三男が出ていく先は昭和初期には軍隊か大陸が多かった→侵略地は余剰人口の捌け口
→村の大部分が小作農民になり村ぐるみの小作争議に発展→大正末期は農民組合運動の高揚期
→性格の異なる産業組合に併合したが準戦時体制になり国が統制と貯蔵の奨励や融資を開始
→戦時体制になり交換分合と自作農創設が推進される
→戦地動員による労働力不足で交換分合は農民側としても必要になっていた
→所有権の論理と耕作の論理が交錯した
→自作農創設維持資金の活用で小作争議のあった地主などは次々と手放した
→最終的には占領軍の権力による農地改革により自作農の積極性が発揮され農業発展に
・地主小作関係のまとめ
→岩手県石神では本家分家関係と表裏一体の地主小作関係で家族的経営
→山形県庄内では小作料を収めるので貧しかったが自立的経営で地主とは利害が対立
→小作争議は全国で弾圧されたが庄内では国策に乗り産業組合に転進、戦後の農協を準備した
→農民運動といっても担い手の性格により様々な歴史的役割を果たしたのである
・家と村の戦後、そして今(庄内地方)
→大正生まれの女性は小学校高等科まで進むようになってたが、その後は裁縫などを習い、
20歳前に嫁に行くのが一般的だった→つらい嫁生活と戦時中の男子に替わる重労働
→復員した青年、新制中学を出た青年の多くは公民館などに開設された青年学級に通った
→新生活運動→嫁の待遇改善、公民館結婚式の普及、若勢部屋の待遇改善など
→農協青年部→自家労働評価→青色申告運動→経営実態の把握→共同多角経営へ
→どれも家の問題がネックで過剰投資、機械化貧乏、労働力の流失も農家経済を圧迫
(1960年からの数年は安保改定、一部農産物の輸入自由化、IMF勧告、農業基本法制定など、
農業・農村にとっても大きな転換点だった)
→集団栽培への期待→水稲集団栽培へ(共同の田植・防除・小型トラクター購入から)
→村(部落)単位の仕事として取り組まれたのが庄内の特徴
→法人ではなく、家を基本に村を場にして、協議、契約、共同する
→これは庄内の村が持つ長い経験を活用したもの
→集団栽培は使命を終えて解体したが家や村は残っている
(各地の動向)
・1965年に全国最高10アールあたり平均反収を記録した佐賀県
→新技術などの多面的な展開と米作り集団組織化→3段階
①県内2600の伝統的部落に依存した実行組合を目的集団化し実践組合を作る
②機能集団化、報酬化、役員などの組織整備、作業の共同、共同利用機械の購入、技術研究
③高度近代化、協業組織化、大型機械の導入、専門化、分担の明確化、裏作畜産園芸との結合
・富山県平坦部での構造改善を契機とする大型機械化(1969)
→労働力節減と機械化のための生産費増は兼業の内的要因になる→生産主体が消滅しつつある
・愛知県安城市からの大型機械化営農~集団栽培から作業委託へ~
→佐賀富山と同じく高水準化、増収を目指していたが、営農集団は無償を原則とする共同体
原理との矛盾がある
→これは専業農家と兼業農家との間に対立的なものがあることを示している
→集団栽培はいずれ崩壊し、完全な請負、信託にならざるを得ないのではないか
→機械オペレーター集団の収入の低さと不安定性(仕事は2ヶ月)
→名古屋市近郊で土地も高く資産管理目的も増え、耕作農民に寄生しているごとき層も
→集団営農は零細耕作を保障するとともに脱農してしかるべき層も抱え込んでいる
・新潟県蒲原における請負耕作
→他地方と異なり集団的方式の展開に先立ち個別規模拡大の展開が強く見られる
→拡大方法は土地購入と請負耕作
→農地改革に続く用排水分離、大型化、集団化などの土地基盤整備は経営意欲を刺激した
(庄内の基盤整備は明治大正期だった)
→農地改革の基盤整備は小型中型機械に最適で労働力の減少や賃金高騰をカバーした
→機械化は当然に生産費増をもたらし、さらなる経営規模拡大を要請した
→初期には農地拡大もあったが地価高騰で資産化し停滞、小規模農家や兼業農家は技術革新に
ついていけず、請負耕作が拡がることになる
→上層農家の個別経営型による前進意欲は強く依然として支配的だが今後も続くかは疑問
・夫婦家族連合としての家(庄内地方)
→1970年代初頭以降、日本の農政としては未曽有の米の生産調整に
→様々な就労構成になり家計構造も多元化したが持ち寄りによる家の家計は維持されていた
→生活水準を超えた利益は蓄積されず農業経営の目的は生活
→主会計は生活費で超えた所得は別勘定→後継者夫婦の農外収入や老夫婦の農業者年金など
→主会計は家長が管理するので世帯主が一番苦しいと聞かされたが、別勘定による夫婦での
余暇活動などは活発で、生活組織としての家を形成しながら夫婦単位の行動をしている
・家族内役割分担(庄内地方)
→多くの嫁は外で働き貴重な現金収入をもたらしていた
→家によっては稲作、畜産にも関わるが補助的、園芸では基幹的役割もあった
→専業主婦以上の責任と地位により自信と意欲がある
→家事労働の主役はむしろ姑たちで食事の支度や孫の養育
→高齢や介護でこの役割分担が崩れた場合には、嫁世代に過重な負担がかかる
→恋愛結婚で非農家からの嫁入り婿入りも増えており、結婚形態が変化すれば家も変化する
→世代間役割分担だけでなく性的役割分担もかなり明確に存在し、批判も肯定もあった
→今日でも村で家を代表する仕事は男性だが、家で重要な役割の果たすようになった女性の
日本の農業や農業経営に果たす役割はますます大きくなる
・村は今(庄内地方)
→庄内の村での同族団の力は弱く、村の寄り合い契約による規制が強かった
→水の苦労などはなくなり家の自立化は進んでいるが、村がなくなったわけではない
→しかし家の変化に対応して村も多元化した
→意思決定する自治組織が家長層が出る部落会と後継者層の生産組合に二元化
→家の最終責任を担う家長層と稲作の責任を担う後継者層という分化
→これも夫婦家族連合としての家の現況を反映している
・山形県櫛引町西荒屋の直売所の女性たち
→農業の中心は稲作だが野菜や果樹との複合経営が特徴で藩の時代から
→公設民営直売所は1997年からで、かつては女性が売りに行く振り売りが盛んだった
→初年度から剰余金を出すほど成功し、勤めを辞めて農業をする女性もでてきた
→参加農家の家族構成は5人から8人、夫婦2世代から3世代の直系家族
→他の集落では農業機械は個人所有が顕著だが西荒屋では2~3戸での共同所有が多い
→直売所に参加して収入は増えたが忙しくなったと答える人が多かった
→家族内に労力があるかどうかが直売所参加の分水嶺
→夫婦二人の労力が使えるのは親世代の母が家事基幹を引き受けているから
→農協は持って行くだけで売る喜びはない
→直売所は自分で値段を決められるが売れないリスクも負う
→直売所は各地でブームだが参加していない農家はどのような今後の方向を模索するのか
・集落営農の動向(庄内地方)
→共同化の範囲が担い手不足から部落間にまで拡がっている
→農業機械が一層大型化している
→担い手不足でも法人化で集落の誰かが経営を継承していける可能性が出てきた
→稲作だけでなく複合作物の導入や販売も必要
→高い地代を是正しオペレーター賃金や雇用労賃に配分して労働インセンティブを高める
・「おわりに」より
→様々な農業の姿があったが雇用労働力による大農場はなかった
→中世から近世初期には家来をともなう大規模経営、近世江戸時代初期でも非血縁を含む
同族団で形成される農村の地方があった
→しかし近世の過程を経る中で、耕作の集約化によって個別の家による経営が確立し、
それらの家々による村が時代・地方に適合化して、親から子へ継承される家が確立、
村も伝統的な習俗を蓄積して、その継承でそれ自体の存続が図られた(東海や関西)
→沖縄での家と村の未確立や白川村の大家族、西南九州の不定相続は生活条件によるもの
→どの地方でも雇用労働力による米の大農場は形成されなかった
(家々による自然村規模が最適だった?)
→1992年にアメリカ・カリフォルニアで米農場を経営していた鯨岡辰馬の「アメリカ式」
大農場(2800ha)を見学した
→水は遠くシェラネバダ山脈から引いた巨大水路から買い、時期をずらせた種蒔きは飛行機、
労働者は殆どがメキシカンだった
→この少し前に彼は「コメ自由化はおやめなさい」という著書を刊行している
→当時の日本は貿易自由化を推進するアメリカとの間で揺れ動いていた
→ほぼ30年後の2018年に国連で「小農と農村で働く人々の権利に関する宣言」が採択された
→小農とは、この本の主題である農村を形作っている農家のこと
→様々な歴史を経てきた農家と農村であるが、確固として存在しているのである
2022年06月20日
2022年06月14日
120年前のスコッチを開封!!!
とーとつですが・・・
日曜日に120年(以上)前のスコッチを開封して味わいました!!!
じゃーん
キング・ジョージ4世というスコッチ・ウイスキーで少なくとも120年以上前のもの。
まずは入手から開封までの経過であります。
わたくしが大正時代に貿易商をしていた親類宅の中二階にある納戸を探検していて発見、
有難くいただいて帰ったのが、もう50年近くも昔のハナシ・・・
で、「古いモノ」も趣味の家内の父親にプレゼントしたのも、40年近く昔のハナシ・・・
当初は「初孫が生まれたら開封して一緒に飲もう」と話してたのですが、お互いに多忙で
機会を逸し、その後も孫の入学から卒業、結婚からひ孫の誕生など、様々な機会があって、
その都度、二人で開封するつもりが、やはりタイミングが合わず、出入りの古物商からは
「20万円なら喜んで買い取ります」と言われていたそうで、それを聞いてたわたくしは、
「そんなに高価なら、もっと置いておきましょう」と逆提案してました。
で、父親も90歳になり、膨大なコレクションを処分したり寄付したりしている中で、今回、
孫やひ孫などが揃っての卒寿祝いとなったので、めでたく開封した次第です。
で、開封から味わいまで・・・
孫やひ孫からのプレゼントなどの卒寿セレモニーと(日本人らしく)冷えたビールでの乾杯を終え、
使い込んだワインオープナーのナイフで、こびりついた金属製の封印を少しずつ削っていくと、
かなり痩せたコルクの隙間からプチプチと120年前の空気が洩れ出て、同時にスコッチ特有の
スモーキーな香りが漂ってきました。
分量は120年で1割ほど減ってたものの、ショットグラスに注いでも濁りや澱は一切なく、
じつにまろやかでスモーキーな味わいでした。
ま、二人とも少し飲み過ぎましたが、それでも2/3ほどは残りました。ひっく
それにしても今回はじつにいい機会でした。めでたしめでたし
日曜日に120年(以上)前のスコッチを開封して味わいました!!!
じゃーん
キング・ジョージ4世というスコッチ・ウイスキーで少なくとも120年以上前のもの。
まずは入手から開封までの経過であります。
わたくしが大正時代に貿易商をしていた親類宅の中二階にある納戸を探検していて発見、
有難くいただいて帰ったのが、もう50年近くも昔のハナシ・・・
で、「古いモノ」も趣味の家内の父親にプレゼントしたのも、40年近く昔のハナシ・・・
当初は「初孫が生まれたら開封して一緒に飲もう」と話してたのですが、お互いに多忙で
機会を逸し、その後も孫の入学から卒業、結婚からひ孫の誕生など、様々な機会があって、
その都度、二人で開封するつもりが、やはりタイミングが合わず、出入りの古物商からは
「20万円なら喜んで買い取ります」と言われていたそうで、それを聞いてたわたくしは、
「そんなに高価なら、もっと置いておきましょう」と逆提案してました。
で、父親も90歳になり、膨大なコレクションを処分したり寄付したりしている中で、今回、
孫やひ孫などが揃っての卒寿祝いとなったので、めでたく開封した次第です。
で、開封から味わいまで・・・
孫やひ孫からのプレゼントなどの卒寿セレモニーと(日本人らしく)冷えたビールでの乾杯を終え、
使い込んだワインオープナーのナイフで、こびりついた金属製の封印を少しずつ削っていくと、
かなり痩せたコルクの隙間からプチプチと120年前の空気が洩れ出て、同時にスコッチ特有の
スモーキーな香りが漂ってきました。
分量は120年で1割ほど減ってたものの、ショットグラスに注いでも濁りや澱は一切なく、
じつにまろやかでスモーキーな味わいでした。
ま、二人とも少し飲み過ぎましたが、それでも2/3ほどは残りました。ひっく
それにしても今回はじつにいい機会でした。めでたしめでたし
2022年06月11日
ボルネオの熱帯雨林とか・・・
まずは「ボルネオの熱帯雨林~生命のふるさと~」
表表紙
裏表紙
横塚眞己人著 福音館書店 2004年5月20日初版第1刷発行
奥付にあった著者紹介
ちなみにこちらの本は、うちの奥様が2012年12月に来阪したご本人とお会いした際に、
サインをいただいたそうで、その時の記念写真も挟んでありました。
あとがき
謝辞と参考文献
わたくしも野村さん、酒井さん、鍋嶋さんにはお世話になってたし、今森さん、海野さん、
安間さんの本も参考にさせてもらってたけど、こんなに素晴らしい写真は撮れないし、こんなに
わかりやすい解説もできないのは何故なのか・・・あははは
で、こちらは同じ著者による「熱帯雨林のコレクション」・・・
表紙
裏表紙
フレーベル館 2012年6月初版第1刷発行
奥付
もくじ
こちらの本の主な取材地は、東南アジアではボルネオ島とニューギニア島、南米では
コスタリカとブラジルアマゾン、アマゾン上流のエクアドルだそうです。
どちらも子ども向け出版社の子ども向けの本で、子どもがワクワクするような本ですが、
大人でも「なるほど、そうだったのか・・・」と感心することもいっぱい・・・
そう、子どもにもわかりやすい写真や文章つーのは、作るのはとても難しいだろうけど、
質のいいものは大人でも充分に楽しめるんですよね。
いずれにしても・・・
はやくボルネオに行きたいなあ・・・うじうじ
表表紙
裏表紙
横塚眞己人著 福音館書店 2004年5月20日初版第1刷発行
奥付にあった著者紹介
ちなみにこちらの本は、うちの奥様が2012年12月に来阪したご本人とお会いした際に、
サインをいただいたそうで、その時の記念写真も挟んでありました。
あとがき
謝辞と参考文献
わたくしも野村さん、酒井さん、鍋嶋さんにはお世話になってたし、今森さん、海野さん、
安間さんの本も参考にさせてもらってたけど、こんなに素晴らしい写真は撮れないし、こんなに
わかりやすい解説もできないのは何故なのか・・・あははは
で、こちらは同じ著者による「熱帯雨林のコレクション」・・・
表紙
裏表紙
フレーベル館 2012年6月初版第1刷発行
奥付
もくじ
こちらの本の主な取材地は、東南アジアではボルネオ島とニューギニア島、南米では
コスタリカとブラジルアマゾン、アマゾン上流のエクアドルだそうです。
どちらも子ども向け出版社の子ども向けの本で、子どもがワクワクするような本ですが、
大人でも「なるほど、そうだったのか・・・」と感心することもいっぱい・・・
そう、子どもにもわかりやすい写真や文章つーのは、作るのはとても難しいだろうけど、
質のいいものは大人でも充分に楽しめるんですよね。
いずれにしても・・・
はやくボルネオに行きたいなあ・・・うじうじ