2023年09月
2023年09月30日
近つ飛鳥・・・
とーとつに前置きが長くなりますが・・・
幼少期からお世話になってた隣人で、わたくしが学生の頃には愛車スバル360での撮影取材に
あちこち同行させてもらい、今は小金井市にお住いの方が所用のため河南町に滞在されてて
「周辺を巡りたいけどクルマがなく、バスもタクシーも運転手不足で」とのことだったので、
ならばせめてもの恩返しにと・・・
はじめての近つ飛鳥博物館と、ひさしぶりの竹内街道資料館を巡ってきた次第
なので今回はスペシャライズドやダホンではなく、新車のスバル・レックスでした
まずは安藤忠雄の設計による近つ飛鳥博物館へ・・・
確かに個性的な建物でした
ま、平日の博物館なので・・・
こんな感じで、のんびりと見学できました
展示物などはネット検索いただくとして、わたくしの琴線に触れた画像のみご紹介
フィギュア
武器と武具
ジオラマ
で、最もわたくしの琴線に触れたのが・・・
この博物館の中心にある仁徳天皇陵の巨大ジオラマでした
なにせ1/150スケールで周辺の陪墳や集落から人の暮らしまで再現してあって・・・
ついつい夢中になりました
古代史に興味がなくてもジオラマ好きには必見の作品ですね
さらに・・・
ジオラマを囲むテーブル上に南海本線・高野線・JR阪和線・阪堺チンチン電車を走らせたら、
まさにNゲージの「堺の鉄道ジオラマ」になるんだけどなあ・・・
ちなみに保存処理された巨大な「修羅」の展示前で、我々二人以外では唯一の来館者から、
「これは何ですか?」と英語で訊かれ「キャリア、ビッグストーンキャリアやね」とか答えて、
ついでに怪しい英語風大阪語で仁徳陵の説明とかをして話が弾みました
訊けば日本の古代史が好きで韓国から来られたそうで、今回は橿原神宮に4日間だけの滞在、
古代史に関するオススメの博物館を訊かれたので堺市立博物館と大阪歴史博物館を紹介、
さっそくスマホで検索して、今日は堺市立博物館に行ってみますとのことでした
あそこなら仁徳陵はじめ百舌鳥古墳群に隣接してて築造過程の展示もあり楽しめそうですね
と、朝からまったり見学して気づけば昼を過ぎてたので、館内の軽食喫茶へ・・・
コースターにも埴輪が・・・って飲む前に撮ればよいものを・・・
さらにデザートメニューには・・・
前方後円墳がいっぱいでした
我々以外では唯一の入館者だった韓国からの彼女も、ここでサンドイッチを食べてましたが、
館のスタッフが呼びに来て、食べてる途中で慌てて走り去っていきました
おそらく本数の少ない路線バスが来たのを知らせてくれたのでしょうね
無事に堺市立博物館まで行けたのかなあ・・・
と、食後はまったりと退館・・・
入館時とは、びみょーに雰囲気が変わってました
で、周辺の旧街道や古墳などにも寄りたかったのですが、まだ新車のナビに慣れておらず、
何とか入力できた道の駅「近つ飛鳥の里・太子」にスバル・レックスを置いて・・・
(もと隣人は飛鳥ワイン各種を土産に買ってましたがロードバイクとかでは無理ですね)
過去には何度もスペシャライズド・ルーベSL4やブリヂストン・シルヴァF8Fを駆って、
ひいひいと上がってきた旧竹内街道を、今回はまったりと歩いて・・・
竹内街道歴史資料館へ
こちらも平日なのでまったり見学できましたが、内部は撮影禁止だし何度か紹介してるので
詳しくはネット検索してくださいね
と、クルマでも1日では廻りきれないほど多くの古代遺跡がある近つ飛鳥でした
さらにクルマでは旧街道や古い集落の風情を楽しむことはできませんでした
やはりポタリングやハイキングで何日もかけて、まったり廻るのが一番・・・
ところが今のわたくしには、その気力と体力が・・・ううっ
幼少期からお世話になってた隣人で、わたくしが学生の頃には愛車スバル360での撮影取材に
あちこち同行させてもらい、今は小金井市にお住いの方が所用のため河南町に滞在されてて
「周辺を巡りたいけどクルマがなく、バスもタクシーも運転手不足で」とのことだったので、
ならばせめてもの恩返しにと・・・
はじめての近つ飛鳥博物館と、ひさしぶりの竹内街道資料館を巡ってきた次第
なので今回はスペシャライズドやダホンではなく、新車のスバル・レックスでした
まずは安藤忠雄の設計による近つ飛鳥博物館へ・・・
確かに個性的な建物でした
ま、平日の博物館なので・・・
こんな感じで、のんびりと見学できました
展示物などはネット検索いただくとして、わたくしの琴線に触れた画像のみご紹介
フィギュア
武器と武具
ジオラマ
で、最もわたくしの琴線に触れたのが・・・
この博物館の中心にある仁徳天皇陵の巨大ジオラマでした
なにせ1/150スケールで周辺の陪墳や集落から人の暮らしまで再現してあって・・・
ついつい夢中になりました
古代史に興味がなくてもジオラマ好きには必見の作品ですね
さらに・・・
ジオラマを囲むテーブル上に南海本線・高野線・JR阪和線・阪堺チンチン電車を走らせたら、
まさにNゲージの「堺の鉄道ジオラマ」になるんだけどなあ・・・
ちなみに保存処理された巨大な「修羅」の展示前で、我々二人以外では唯一の来館者から、
「これは何ですか?」と英語で訊かれ「キャリア、ビッグストーンキャリアやね」とか答えて、
ついでに怪しい英語風大阪語で仁徳陵の説明とかをして話が弾みました
訊けば日本の古代史が好きで韓国から来られたそうで、今回は橿原神宮に4日間だけの滞在、
古代史に関するオススメの博物館を訊かれたので堺市立博物館と大阪歴史博物館を紹介、
さっそくスマホで検索して、今日は堺市立博物館に行ってみますとのことでした
あそこなら仁徳陵はじめ百舌鳥古墳群に隣接してて築造過程の展示もあり楽しめそうですね
と、朝からまったり見学して気づけば昼を過ぎてたので、館内の軽食喫茶へ・・・
コースターにも埴輪が・・・って飲む前に撮ればよいものを・・・
さらにデザートメニューには・・・
前方後円墳がいっぱいでした
我々以外では唯一の入館者だった韓国からの彼女も、ここでサンドイッチを食べてましたが、
館のスタッフが呼びに来て、食べてる途中で慌てて走り去っていきました
おそらく本数の少ない路線バスが来たのを知らせてくれたのでしょうね
無事に堺市立博物館まで行けたのかなあ・・・
と、食後はまったりと退館・・・
入館時とは、びみょーに雰囲気が変わってました
で、周辺の旧街道や古墳などにも寄りたかったのですが、まだ新車のナビに慣れておらず、
何とか入力できた道の駅「近つ飛鳥の里・太子」にスバル・レックスを置いて・・・
(もと隣人は飛鳥ワイン各種を土産に買ってましたがロードバイクとかでは無理ですね)
過去には何度もスペシャライズド・ルーベSL4やブリヂストン・シルヴァF8Fを駆って、
ひいひいと上がってきた旧竹内街道を、今回はまったりと歩いて・・・
竹内街道歴史資料館へ
こちらも平日なのでまったり見学できましたが、内部は撮影禁止だし何度か紹介してるので
詳しくはネット検索してくださいね
と、クルマでも1日では廻りきれないほど多くの古代遺跡がある近つ飛鳥でした
さらにクルマでは旧街道や古い集落の風情を楽しむことはできませんでした
やはりポタリングやハイキングで何日もかけて、まったり廻るのが一番・・・
ところが今のわたくしには、その気力と体力が・・・ううっ
2023年09月21日
人類の起源
とーとつですが・・・
人類の起源~古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」~
とゆー本のご紹介であります(備忘のための読書メモです)
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、こちらの記事の続きとゆーか、前回記事、前々回記事の前段階とゆーか・・・
日本などの古代史も含んだ最新研究による「人類の起源」であります
例によって目次のみ
以下、脳の外部記憶としてのメモ書きです
まず「はじめに」にあった本書のダイジェストより
・これまで現生人類ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで生まれたとされてきたが、
→ネアンデルタール人のDNA解析により彼らの祖先と分かれたのは60万年前と判明した
→別れた後も交雑を繰り返し他の絶滅人類とも交雑していたことも判明しつつある
・現代人DNAとの比較研究で、現生人類はアフリカ→中東→ヨーロッパや南アジア→
東南アジアやオセアニア→東アジア→南北アメリカ大陸へと拡がったことが判明した
・どのように現代の地域集団を形成していったのか
→古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは集団の大きな遺伝的変化があった
・世界各地の人類集団(民族)は、ある地域における「ヒトの移動の総和」といえる
→特定の遺伝子分布の地域差は集団成立の有力な手がかりになる
・1980年代に発明されたPCR法はウィルス検知だけでなく人類学にも多大な恩恵をもたらした
→古代DNA研究は考古学・歴史学・言語学の分野にも大きなインパクトを与えている
→「人間とは何か」→現時点で何が明らかになり、研究は何を目指しているのか・・・
第一章「人類の登場」より
・1859年のダーウィンの進化論→ヒトの祖先は?→神から化石人類学へ
→約700万年に及ぶ人類進化が大まかに示された
・神話と科学の違い
→科学は間違いと訂正の歴史
→なので科学を間違いないと信奉することは理解の障害にもなる
→本書の古代ゲノム解析による説明も現時点での結論であり将来反証されることもある
・ホモ属にはいくつもの種があったが、現在生存しているのはサピエンス種だけ
・人類の定義→本書では「生物学的に自由に交配して子孫を残せるグループ」という視点
→この視点は世界の集団形成を理解する際にも重要
・人類の祖先とチンパンジーの祖先が分かれたのは700万年前
→ホモ属が登場するのは250~200万年前
→サピエンス種が登場するのは30~20万年前
→ホモ・サピエンスの出アフリカは6万年前、顕著な文化発展は5万年前(異説あり)
→どの時点をもって人類の誕生としているか→読み手の注意が必要
・文明が農耕からなら1万年、文字に残る「人類の歴史」からなら5000年・・・
→歴史的な経緯や地域環境による文明の違いはヒトの選択による「多様性」であり、
→世界中の文明はヒトという共通の基盤に立っている
→この認識は現実世界を理解するうえでも欠かせない視点
・現在では、異なる進化段階の種が同時代に生きていたこともわかっているが、
→進化傾向を捉えるためには初期猿人→猿人→原人→旧人→新人という段階は便利な考え方
→それでも同時代・同所に多数の化石人類が見つかっているので状況は混乱している
・約200万年前に登場したホモ・エレクトスは最初に出アフリカを果たした原人
→アフリカ・西アジア・中国・ジャワ島などで発見されている人類
→20万年前の化石もあり180万年も生存していた(ホモ・サピエンスは20万年程度)
→フローレス島で発見されたホモ・エレクトスから進化したホビットは6万年前まで生存
・ネアンデルタール人は旧人とされてきたが2016年のDNA分析の成功で大きく変わった
→これ以降、人類進化はDNAデータで語られるようになる
→ネアンデルタールで発達したのは主に視覚に関わる後頭葉部分
→ホモ・サピエンスで発達したのは思考や創造性などの前頭葉部分
→どちらも脳の容量はほぼ同じで交雑していた
(コラム1より)
・ホモ・サピエンスの大脳新皮質で共同体を構成する人の顔・名前・考え・バックグラウンドが
理解できる人数は150人程度
→なので狩猟採集社会から現代社会まで150人程度を社会構成の単位としてきた(ダンパー数)
→言語・文字・物語・宗教・歌・音楽といった文化要素により、時間や空間を超えて概念や
考え方を共有するハードウェアで、なんとか複雑な社会を形成していった
→現在は(脳の容量は変わらないのに)通信ネットワークで何百人(何千人)が同時につながりあい、
それらの大量のデータが行き交う高度な社会環境
→自分の脳の処理能力より、はるかに多量のデータにさらされている状況
→バランスのとれた情報処理ができずに社会が混乱しているのも至極当然・・・
第二章「私たちの隠れた祖先」より
・2010年以降に核DNA分析が可能になり、次々と新たな事実が明らかになっている
→1980年代からコンタミネーション(混入)が問題だったがDNA分析を前提とした発掘に
・ネアンデルタール人はユーラシア大陸の西半分に分布していた
→ホモ・サピエンス集団のひとつがネアンデルタールと交雑して世界に拡がった
→交雑しなかった集団もコーカサスや中東、北イランに存在しており現在のヨーロッパ人の
形成に関与したので、現代ヨーロッパ人のネアンデルタールDNAは相対的に少ない
・ホモ・サピエンスとネアンデルタールは数十万年も交雑している
→初期の交雑はアフリカとは考えにくく、ホモ・サピエンスの出アフリカが6万年前ではなく
40万年前よりやや新しい時代だったのか、あるいはホモ・サピエンスがユーラシア大陸で
他の未知の人類から進化したのか→まだ完全解明には至っていない
・デニソワ洞窟ではデニソワ人とネアンデルタール人の混血少女の化石が確認されている
→パプア人DNAの3~6%はデニソワ人DNAに由来
→東アジア・南アジア・アメリカ先住民もパプア人の1/20程度のデニソワ人DNAを共有
→東アジアのゲノムはパプアとは別で、少なくとも2回は別々にデニソワ人と交雑していた
→チベット人にもデニソワ人DNAがあるが、ホモ・サピエンスがチベット高原に来たのは11000年前
→これらから、デニソワ人は数万年前まで生きていた可能性が示された
・サハラ以南のアフリカ人ではデニソワ人と未知の人類との混血が推察される
→3人類とは別の人類がいてデニソワ人と交雑した可能性
→異なる系統人類の混血が長期間続いた結果がホモ・サピエンス遺伝子にも残っている
・ユーラシア大陸に拡散した人類は単一種ではなく各段階が同時期・同所に存在
→20世紀の終わりまでホモ・サピエンスは他地域進化説だった
→21世紀になると6万年前にアフリカを出て他の人類を駆逐したというアフリカ起源説
→2010年以降は拡散過程で他の人類の遺伝子を取り込んだことが明らかになった
→アフリカ起源説が他地域進化説の一部を取り込む形で収束した
・生存に不利な遺伝子は徐々に集団から取り除かれる
→アフリカでも世界展開の途中でも交雑は長期に繰り返されている
→iPS細胞や遺伝子編集技術で理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人の復活も可能
第三章「人類揺籃の地アフリカ」より
・アフリカでのホモ・サピエンス拡散の様子(略)
・ホモ・サピエンスが30万年前にアフリカで誕生したことはほぼ定説になっているが、
→ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先から分岐したのは60万年前と判明してるのに、
→長期間にわたるホモ・サピエンスの祖先の化石がアフリカにないこと
→数十万年前にはネアンデルタール人と交雑があったことを考えると、
→最初の祖先はユーラシア大陸の原人で、
→そこから3人類が生まれ30万年前以降にアフリカに移動したグループが世界に拡がり、
→残ったグループはネアンデルタールと交雑した後に絶滅した、とも考えられる
・異なる人類の交雑が明らかになったので、起源はアフリカだけでなく広範囲で考えるべき
→イスラエルでは古いネアンデルタールよりも古いホモ・サピエンスが発見されている
→古い交雑はこの地域だった可能性がある
・ホモ・サピエンスの世界展開は、現代人のゲノム解析から6万年前以降とされてきたが、
中国・ギリシャ・東南アジア・オーストラリアから、それよりも古い化石の報告がある
・農耕民と牧畜民の起源
→アフリカ西部の農耕による人口拡大→移動→集団(言語)の分化
(世界各地でも初期農耕民の拡大が言語族の分布と結びついている)
→牧畜民には乳糖耐性遺伝子が必要→牧畜とともにヨーロッパに(新石器時代にはなかった)
→生業と遺伝子と言語には密接な関係がある
・現代人のゲノムにはネアンデルタール人やデニソワ人とは異なる人類との交雑を認める結果も
示されており、アフリカには30万年前の謎の人類ホモ・ナレディもいた・・・
第四章「ヨーロッパへの進出」より
・ホモ・サピエンスの出アフリカは20万年前以降に何度か試みられていた
→我々につながる祖先の出アフリカは6~5万年前
→シベリアでのネアンデルタールとの交雑時期は52000~58000年前
→中東での交雑は出アフリカの初期と考えられるので6万年前が妥当
→ただし南アジア・オーストラリアなどで6万年前より古い化石や石器が見つかっている
→6万年前より以前は放射性炭素年代測定が困難なので各説がある
→これ以降1万年前の農業生産まで(後期旧石器時代)の気候変動が離散と集合を促した
・現代人につながる系統だけでも、出アフリカから1万年の間に東アジア系・ヨーロッパ系・
ユーラシア基層集団の3系統が成立した
・出アフリカ集団は単一系統ではなく現在の集団はそれらの離合拡散・交雑・隔離を経たもの
・最も研究の進んでいるヨーロッパ集団について(略)
・ヨーロッパでも日本でも狩猟採集民のゲノムは10%から25%
→基本的に狩猟採集民は農耕民の社会に飲み込まれている
・5300年前のアイスマンのゲノムはアルプス人ではなくサルディニア人と近縁だった
→サルディニア人は8000年前に移住して混合しなかったヨーロッパ初期農耕民の子孫
→移住前の農耕民のゲノムを残しており現代ヨーロッパ人とは異なる→なぜか?
→5000年前にヨーロッパ人の遺伝的な構成が大きく変わったから
→その原因は東のステップ地域から来た牧畜民
→ヨーロッパ人の地域差は狩猟採集民と農耕民と牧畜民の混合の仕方の違い
→牧畜民のゲノムの割合が高いほど身長が高いなど・・・
→牧畜民ゲノムからはペスト菌DNAの断片が検出されており農耕民に大打撃を与えた可能性
→古代ゲノム解析は疫病研究にも重要な知見をもたらす
第五章「アジア集団の成立」より
・1万年前より古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析は一部しか行われていないが、
→出アフリカ集団は中東で1万年ほど停滞していた
→5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまで拡散した
・ユーラシア東部へは北ルートと南ルートが考えられている
→南ルートでは古代南インド狩猟民集団→一部が東南アジアへ→デニソワ人と混血?
→一部がパプアニューギニア、オーストラリアへ
→北ルートで北上したグループが古代東アジア集団を形成した?
・ヒントは縄文人のゲノム
→日本列島にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前
→16000年前に土器が作られ3000年前に稲作が入るまでの13000年の間が縄文時代
→この間に遺伝組成を変えるような外部からの流入はなかったので縄文人ゲノムがヒントに
・縄文人のゲノムを共有している現在の東アジア人
多い順にアイヌ集団→沖縄の人→本州・四国・九州の日本人
→沿海州の先住民、韓国人、台湾の先住民も僅かに共有している
→アムール流域の先住民、新石器・鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団とは非常に古い
時代に分岐した同じ系統に属することも判明している
→古代南インド狩猟民集団→チベットや東アジアの沿岸地域へ→日本では縄文人に
・縄文人は4万年前以降に異なるふたつの系統が合流して形成された
→別々に南北から流入したのか大陸沿岸部で合流してから流入したのかは不明
・シベリア集団の変遷、アメリカ大陸集団の起源・・・
→複雑な集団の置換によりユーラシア北部から南北アメリカのモザイク状の遺伝構成へ
・1万年前以降は解析できる人骨も多く、1万年前には遺伝的に区別できる9集団がいた
→これらの離合集散が青銅器時代以降の集団形成に関わることになる
→スキタイ、匈奴、フン族などの遊牧騎馬民族も異なる遺伝的特徴を持った集団の連合体
→なので中央アジアの広大なステップを遺伝的に単一の集団が支配したことはない
・3回にわたる移住の波が南アジア集団の遺伝的構成を決定した
→9000年前の狩猟採集民と初期農耕民の混合
→7400~5700年前の混合完成と、その後の北方集団との混合
→4600~3900年前のインダス文明の初期農耕民にはイラン牧畜民や狩猟採集民ゲノムもある
・南アジアから東南アジアには5万年前
→どちらもDNA保存に適した地域ではないので現代人DNAからの考察
→遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応している
→東南アジアの半島部と島嶼部は、ホモ・サピエンスが最初に拡散した氷河期には
スンダランドで一つの陸塊だった
→ヨーロッパ同様、農耕以前の狩猟採集民ゲノムは伝わっていない
・南太平洋・オセアニア(略)
・中国の南北地域集団
→今も言語的にも遺伝的にも異なり過去の違いはさらに大きい
→黄河流域と福建省では1万年~6000年前まで遺伝的に区別しうる集団だった
→北方集団と東南アジア集団
・日本への渡来の起源
→内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部に流れる西遼河流域の雑穀農耕民の古代ゲノムには
日本や韓国の現代人ゲノムとの共通性を見いだせる
→日本語や韓国語の起源地と考えられるが、それ以外との関係はない
→なぜ朝鮮半島の方向だけに拡散したのかは、さらに多くの古代ゲノムが必要
→この集団の動きが弥生時代初期の日本列島への農耕民の流入に(拡散から約2000年後)
→ところが弥生時代初期の日本列島での農耕の始まりは水田稲作→なぜか?
→この分析には稲作起源地の長江流域の古代ゲノムが入っていないから
→長江流域の古代ゲノム解析が進めば日本への複雑な渡来経路が見えてくるはず
・東アジアの大陸部では北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大した
→それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成された
・東南アジアや東アジアの沿岸部では初期拡散定着民と農耕民の混合で現代人集団が形成された
・1万年前以降に起こった各地の農耕は集団の拡散を促し様々な言語グループを生み出した
第六章「日本列島集団の起源」より
・二重構造モデル説
→縄文時代と弥生時代の人骨の違い
(旧石器時代に直接来た集団と北東アジアで新石器時代に形質変化してから来た集団の違い)
→現代の北海道アイヌ集団・琉球列島集団と本州四国九州を中心とする集団の違い
(稲作のなかった北海道と、北部九州より稲作が2000年遅かった琉球列島との違い)
→古代ゲノム解析からは単純すぎる説と指摘されている→地域差が大きいから
・縄文時代
→旧石器時代の後半から縄文時代までの形質は連続している
→縄文人のゲノム解析からは現代の東アジア集団とはかけ離れた特徴が見られる
→礼文島の縄文人からは極北集団に見られる脂肪代謝遺伝子の有利な異常が見られる
→現代日本人でも3割に見られ韓国や中国には殆ど見られないハプログループは縄文人由来
→東南アジアからの初期拡散で北上した中の沿岸集団が縄文人の母体だが均一ではない
・弥生時代
→縄文時代にも農耕はあったので水田稲作農耕より金属器使用を弥生時代の特徴とすべき
→日本では、たまたま同じ時期に入ってきただけ(世界では別のルートで別の時期に)
→稲作農耕は長江中流域から拡散したもので、日本の青銅器の源流は北東アジアのもの
→異なる集団が渡来した?
→長江流域からの稲作農耕民集団と、西遼河から移動中に青銅器文化を得た雑穀農耕民集団が
朝鮮半島経由で別々に渡来した?(長江沿岸部やオホーツクから直接伝播したルートもあった?)
→稲作の東進により縄文人との混合が進んでいったのなら、東に行くほど縄文系ゲノムに
寄った位置になるはずだが、そうはなっていない
→弥生時代の中期以降も各地に多くの渡来があったと想定しないと説明できない
→弥生時代から古墳時代における大陸からの渡来集団の影響を考慮すべき
→ただし古墳時代の人骨は階級の出現によってランダムなサンプルとはなりえない
・琉球列島集団
→旧石器人骨との関係は不明だが、縄文時代以降は日本列島からの集団の移住があった
→7300年前の喜界カルデラ爆発により九州と途絶して独自集団となった
→弥生時代から再び本土の影響を受けグスク時代の南九州からの農耕民流入で加速され現在に至る
→縄文ゲノムが30%残っているのは後の集団の影響が本土よりは小さかったから
・北海道集団
→アイヌ集団は縄文人を基盤にオホーツク文化人の遺伝子を受け取り成立したもの
→縄文ゲノムが70%残っており大陸北方系ゲノムも引き継いでいる
(琉球列島集団には台湾より南のゲノムの影響がないのとは対照的)
・二重構造モデルでは稲作を受け入れた中央と遅れた周辺で形質の違いが生じたと考えるが、
この発想からは、周辺集団と他の地域集団との交流の姿を捉えることはできない
(コラム4より)
・鳥取市青谷上寺地遺跡の32個体の人骨分析(単一遺跡では日本最大規模の分析)
→9割に母系の血縁がなく、すべて現代日本人の範疇に入るものだった
→しかも縄文遺伝子が強い者から大陸遺伝子が強い者まで様々だった
→長く維持された村落だと同族婚が増えて核ゲノムも似たものになるはず
→木製容器や管玉の生産も考えると流入や離散を繰り返す古代都市だった可能性が高い
→多数の創傷もあるが解体痕もあり戦闘被害者だけではなかった可能性がある
→死亡時期は放射性炭素年代測定法により2世紀の後半と判明している
→2世紀の後半は複数の史書にある「倭国大乱」の時期
→混乱した社会状況を示す代表的な遺跡といえる
2023年12月追記です
フロンティア第1回「日本人とは何者なのか」という番組で、著者らが語っておられたのは、
①縄文人は4~5万年前にアフリカからアジアにはじめて到着し、その後の農耕民の進出で、
東南アジアではほぼ消滅した(タイのマニ族に近い)古いホアビニアン文化を持つ狩猟採集民で、
東アジアでは存在しないDNAの集団
→その一部が東南アジアから沿岸沿いを北上、当時は寒冷期で今より100m以上も海面が低く、
大陸と陸続きだった日本にやってきた
→その後の海進により孤立し、1万年以上も他集団と混交せず発展した世界でも稀な集団
→日本にやってきた集団は1000人→今の日本人は1億人以上
②弥生人は、3000年前の北東アジアから稲作と金属器を(別々に?)持ってきた(別々の?)集団と
縄文人との混交集団
(日本人はこの二重構造と考えられてきたが古墳人DNAの6割以上は別物なので三重構造)
③古墳人(庶民)は、戦乱が続いていた東アジアの様々な地域から様々な時代の様々な地域に
1000年~1500年間に渡り(おそらく中世まで)流入した様々な集団と縄文弥生人との混交集団
→今の日本人よりはるかにDNA・文化・言語など多様性のある集団で錯綜していたはず
→なので今後(科博に)予算があれば、最も研究したいのが古墳人(庶民)のDNA
→東ユーラシアのあらゆる集団のDNAが古墳人を形成していたかも知れないから・・・
第七章「新大陸アメリカへ」より
・アメリカ大陸はホモ・サピエンスが最後に到達した大陸
→これまではベーリング陸橋からアラスカの無氷回廊をとおり拡散したと考えられてきた
→13000年前から3度の移住がありクロヴィス文化などが形成されたと・・・
→ところが南米最南端でクロヴィス文化より古い遺跡が発見された
→無氷回廊も寒冷すぎるので現在では海沿いのルートで移動したと考えられている
・新大陸の先住民の共通祖先はすべて24000年前だった
→アジアの同一系統の共通祖先はさらに数千年前で、進出した初期集団は5000人未満
→その後、爆発的に人口を増やした状況が明らかになった(略)
・2014年にバイカル湖周辺の古人骨の核ゲノム解析が行われた
→新大陸の先住民にも共有されていることが判明した
→東アジア集団からの分離ではなくユーラシア西部集団との共通遺伝子
(それまでヨーロッパ人の遺伝子はコロンブス以降の混血と考えられていた)
・北米では、さらに古い人類の痕跡も報告されている
→現在の先住民とは別系統のホモ・サピエンスがいたのかも?
終章「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」より
・ゴーギャンがこのタイトルの大作を描いたのは19世紀の終わり
→ネアンデルタール人の化石に続きジャワ原人の化石が発見された時期
→直近10年の古代ゲノム解析で化石だけでは知れなかった事実が明らかになっている
・19世紀前半にヨーロッパとは異なる人類集団の研究が始まった→「人種」という概念
→20世紀後半の遺伝学研究で人種は連続しており区分できないことが明確になった
・種の定義を「自由に交配し生殖能力のある子孫を残す集団」とする考え方
→これに時間軸を入れると旧人や原人も同じ種になるので、便宜上分けているだけ
→種の下位としての「人種」という概念は、さらに生物学的な実体のないもの
・現代のヨーロッパ人・東アジア人・アフリカ人のSNP分析は明確に区分できるように見える
→それに様々な地域集団のSNP分析を加えると、どこにも境界がないことが見えてくる
→人為的な基準を導入しない限り「人種」を定義することは不可能
・同じ集団の中の個人間の遺伝子の違いのほうが、集団間の遺伝子の違いよりはるかに大きい
→もともとホモ・サピエンス遺伝子の99.9%は共通で、残りが個人あるいは集団の違い
→この0.1%を研究し、個人あるいは集団の違いを明らかにしているだけ
→違いの原因となる変異があるのは事実だが、大部分は交配集団に生まれるランダムな変化で、
→基本的な能力の違いを表すものではない→このことが結果を理解する上で重要
・ある環境下で有利あるいは不利になる遺伝子の違いがあることも事実
→特定の集団にだけ有利な遺伝子が共有されていることもあり、これが集団優劣の根拠だが、
→集団の持つ遺伝子構成は時間で大きく変化するので、集団優劣に意味はない
・0.1%の違いで人の優劣を決める能力主義か、99.9%の共通性を重視する平等主義か
→現実の社会は違いのほうに価値を持たせ過ぎているように思える・・・
・遺伝子の流れを糸にたとえると・・・
→それぞれの個人はホモ・サピエンスという巨大なネットを構成する結び目のひとつ
→様々な色があるが全体を構成する要素では個々の色ではなく「結び目があること」が重要
→個人はネットを構成する上では等しい価値を持っている
・言語や宗教など文化的な違いによって定義される「民族」に生物学的な基礎はあるか
→ゲノム解析により地域集団の成立は古いものでも数千年前と判明した
→人類集団は6万年の間に集合と離散を繰り返しているので時間軸では1割程度の長さ
→他集団との混合を経ない集団を「純粋な民族」としても数千年レベルでしか存在しない
(例・漢民族は5000年前から北東と南部の3集団が緩慢に融合する過程から生み出された概念で、
今もそのプロセスは続いている→遺伝的にまとまった集団ではない)
→今後も他の地域集団との混合は進み「民族」は生物学的な実態を失っていく
→民族と遺伝子を混同した議論は、さらに意味のないものになっていく
・現在の研究対象は(民族ではなく)地域の集団で3世代程度までの人々の集合
→遺伝的な特徴はこのレベルでの時代幅で議論されているもの
→このレベルでも疫病や戦争で変化しており異なる集団になっていることも多い
→数千年前から16世紀までは遺伝的な特徴をあまり変えずに存続してきた
→その後の変化は加速しており日本列島も例外ではない
・ヨーロッパ北方では青銅器時代以降に集団の交代に近い変化があった
→日本でも縄文時代から弥生・古墳時代にかけて大規模な遺伝的変化があった
→弥生時代にクニができた→その時代にクニという体制を持った集団が渡来したということ
→文化だけ取り入れるパターン、集団間で混血するパターン、集団が置換するパターン・・・
→文化の変遷と集団の遺伝的な変化との関係は様々でケースバイケース
→普遍的な法則は見出されていないが両者の関係が明らかになれば新たな解釈が生まれるはず
・人類集団の起源と拡散
→現時点ではホモ・サピエンス誕生の経緯と出アフリカ後の初期拡散状況の再現の研究
→将来的に数百体レベルでネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解析ができれば、
ホモ・サピエンス特有のゲノムが明確になり「私たちは何者か」の答えが出る
→化石記録が貧弱で不明だった6~2万年前の初期拡散状況もゲノム解析でシナリオができた
→特に気温の低い高緯度地域では詳しい分析が可能になり精度の高いものになってきている
→今後は低緯度地域で変性の進んだDNAデータを取り出す技術革新の進展がカギ・・・
・古代ゲノム研究の意義
→現在の歴史教科書は「アフリカでの人類の誕生」から、いきなり「四大文明の発展」に跳ぶ
→人類の道のりを通史として捉えることのない、このような記述に欠けているのは、
→「世界に展開したホモ・サピエンスは遺伝的にはほぼ均一な集団だった」という視点と、
→「文化は同じ起源から生まれ、文明の違いは環境や経緯と人々の選択の結果」という認識
・古代ゲノム研究は、その地に人類が到達した時点から現在までを通史として明らかにする
→その地の人骨さえそろえば、集団成立のシナリオを提供できる
→歴史や文明に対する認識も必然的に変えていくのが古代ゲノム研究・・・
「おわりに」より
・本書は2021年現在の情報によるもので今後の研究次第で異なるシナリオになる可能性もある
・2010年以降は次世代シークエンサの実用化により核ゲノムが取り扱えるようになったが、
→共同研究と巨額資金が必要で大部分はビッグラボといわれる世界で十指もない施設による研究
→考古学や形質人類学などのデータが抜け落ちる危険性もある→共同研究の重要性
→たとえば東アジア古代集団と渡来系弥生人との関係はドイツ・韓国の研究者との共同研究
・古代ゲノム研究は最新成果を常に把握していないとついていけなくなる分野
→なので著者が読みためた論文メモを地域別に再構成したのが本書
・・・
古代ゲノム研究・・・よくわからないけど、じつに興味深い分野でした・・・
人類の起源~古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」~
とゆー本のご紹介であります(備忘のための読書メモです)
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、こちらの記事の続きとゆーか、前回記事、前々回記事の前段階とゆーか・・・
日本などの古代史も含んだ最新研究による「人類の起源」であります
例によって目次のみ
以下、脳の外部記憶としてのメモ書きです
まず「はじめに」にあった本書のダイジェストより
・これまで現生人類ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで生まれたとされてきたが、
→ネアンデルタール人のDNA解析により彼らの祖先と分かれたのは60万年前と判明した
→別れた後も交雑を繰り返し他の絶滅人類とも交雑していたことも判明しつつある
・現代人DNAとの比較研究で、現生人類はアフリカ→中東→ヨーロッパや南アジア→
東南アジアやオセアニア→東アジア→南北アメリカ大陸へと拡がったことが判明した
・どのように現代の地域集団を形成していったのか
→古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは集団の大きな遺伝的変化があった
・世界各地の人類集団(民族)は、ある地域における「ヒトの移動の総和」といえる
→特定の遺伝子分布の地域差は集団成立の有力な手がかりになる
・1980年代に発明されたPCR法はウィルス検知だけでなく人類学にも多大な恩恵をもたらした
→古代DNA研究は考古学・歴史学・言語学の分野にも大きなインパクトを与えている
→「人間とは何か」→現時点で何が明らかになり、研究は何を目指しているのか・・・
第一章「人類の登場」より
・1859年のダーウィンの進化論→ヒトの祖先は?→神から化石人類学へ
→約700万年に及ぶ人類進化が大まかに示された
・神話と科学の違い
→科学は間違いと訂正の歴史
→なので科学を間違いないと信奉することは理解の障害にもなる
→本書の古代ゲノム解析による説明も現時点での結論であり将来反証されることもある
・ホモ属にはいくつもの種があったが、現在生存しているのはサピエンス種だけ
・人類の定義→本書では「生物学的に自由に交配して子孫を残せるグループ」という視点
→この視点は世界の集団形成を理解する際にも重要
・人類の祖先とチンパンジーの祖先が分かれたのは700万年前
→ホモ属が登場するのは250~200万年前
→サピエンス種が登場するのは30~20万年前
→ホモ・サピエンスの出アフリカは6万年前、顕著な文化発展は5万年前(異説あり)
→どの時点をもって人類の誕生としているか→読み手の注意が必要
・文明が農耕からなら1万年、文字に残る「人類の歴史」からなら5000年・・・
→歴史的な経緯や地域環境による文明の違いはヒトの選択による「多様性」であり、
→世界中の文明はヒトという共通の基盤に立っている
→この認識は現実世界を理解するうえでも欠かせない視点
・現在では、異なる進化段階の種が同時代に生きていたこともわかっているが、
→進化傾向を捉えるためには初期猿人→猿人→原人→旧人→新人という段階は便利な考え方
→それでも同時代・同所に多数の化石人類が見つかっているので状況は混乱している
・約200万年前に登場したホモ・エレクトスは最初に出アフリカを果たした原人
→アフリカ・西アジア・中国・ジャワ島などで発見されている人類
→20万年前の化石もあり180万年も生存していた(ホモ・サピエンスは20万年程度)
→フローレス島で発見されたホモ・エレクトスから進化したホビットは6万年前まで生存
・ネアンデルタール人は旧人とされてきたが2016年のDNA分析の成功で大きく変わった
→これ以降、人類進化はDNAデータで語られるようになる
→ネアンデルタールで発達したのは主に視覚に関わる後頭葉部分
→ホモ・サピエンスで発達したのは思考や創造性などの前頭葉部分
→どちらも脳の容量はほぼ同じで交雑していた
(コラム1より)
・ホモ・サピエンスの大脳新皮質で共同体を構成する人の顔・名前・考え・バックグラウンドが
理解できる人数は150人程度
→なので狩猟採集社会から現代社会まで150人程度を社会構成の単位としてきた(ダンパー数)
→言語・文字・物語・宗教・歌・音楽といった文化要素により、時間や空間を超えて概念や
考え方を共有するハードウェアで、なんとか複雑な社会を形成していった
→現在は(脳の容量は変わらないのに)通信ネットワークで何百人(何千人)が同時につながりあい、
それらの大量のデータが行き交う高度な社会環境
→自分の脳の処理能力より、はるかに多量のデータにさらされている状況
→バランスのとれた情報処理ができずに社会が混乱しているのも至極当然・・・
第二章「私たちの隠れた祖先」より
・2010年以降に核DNA分析が可能になり、次々と新たな事実が明らかになっている
→1980年代からコンタミネーション(混入)が問題だったがDNA分析を前提とした発掘に
・ネアンデルタール人はユーラシア大陸の西半分に分布していた
→ホモ・サピエンス集団のひとつがネアンデルタールと交雑して世界に拡がった
→交雑しなかった集団もコーカサスや中東、北イランに存在しており現在のヨーロッパ人の
形成に関与したので、現代ヨーロッパ人のネアンデルタールDNAは相対的に少ない
・ホモ・サピエンスとネアンデルタールは数十万年も交雑している
→初期の交雑はアフリカとは考えにくく、ホモ・サピエンスの出アフリカが6万年前ではなく
40万年前よりやや新しい時代だったのか、あるいはホモ・サピエンスがユーラシア大陸で
他の未知の人類から進化したのか→まだ完全解明には至っていない
・デニソワ洞窟ではデニソワ人とネアンデルタール人の混血少女の化石が確認されている
→パプア人DNAの3~6%はデニソワ人DNAに由来
→東アジア・南アジア・アメリカ先住民もパプア人の1/20程度のデニソワ人DNAを共有
→東アジアのゲノムはパプアとは別で、少なくとも2回は別々にデニソワ人と交雑していた
→チベット人にもデニソワ人DNAがあるが、ホモ・サピエンスがチベット高原に来たのは11000年前
→これらから、デニソワ人は数万年前まで生きていた可能性が示された
・サハラ以南のアフリカ人ではデニソワ人と未知の人類との混血が推察される
→3人類とは別の人類がいてデニソワ人と交雑した可能性
→異なる系統人類の混血が長期間続いた結果がホモ・サピエンス遺伝子にも残っている
・ユーラシア大陸に拡散した人類は単一種ではなく各段階が同時期・同所に存在
→20世紀の終わりまでホモ・サピエンスは他地域進化説だった
→21世紀になると6万年前にアフリカを出て他の人類を駆逐したというアフリカ起源説
→2010年以降は拡散過程で他の人類の遺伝子を取り込んだことが明らかになった
→アフリカ起源説が他地域進化説の一部を取り込む形で収束した
・生存に不利な遺伝子は徐々に集団から取り除かれる
→アフリカでも世界展開の途中でも交雑は長期に繰り返されている
→iPS細胞や遺伝子編集技術で理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人の復活も可能
第三章「人類揺籃の地アフリカ」より
・アフリカでのホモ・サピエンス拡散の様子(略)
・ホモ・サピエンスが30万年前にアフリカで誕生したことはほぼ定説になっているが、
→ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先から分岐したのは60万年前と判明してるのに、
→長期間にわたるホモ・サピエンスの祖先の化石がアフリカにないこと
→数十万年前にはネアンデルタール人と交雑があったことを考えると、
→最初の祖先はユーラシア大陸の原人で、
→そこから3人類が生まれ30万年前以降にアフリカに移動したグループが世界に拡がり、
→残ったグループはネアンデルタールと交雑した後に絶滅した、とも考えられる
・異なる人類の交雑が明らかになったので、起源はアフリカだけでなく広範囲で考えるべき
→イスラエルでは古いネアンデルタールよりも古いホモ・サピエンスが発見されている
→古い交雑はこの地域だった可能性がある
・ホモ・サピエンスの世界展開は、現代人のゲノム解析から6万年前以降とされてきたが、
中国・ギリシャ・東南アジア・オーストラリアから、それよりも古い化石の報告がある
・農耕民と牧畜民の起源
→アフリカ西部の農耕による人口拡大→移動→集団(言語)の分化
(世界各地でも初期農耕民の拡大が言語族の分布と結びついている)
→牧畜民には乳糖耐性遺伝子が必要→牧畜とともにヨーロッパに(新石器時代にはなかった)
→生業と遺伝子と言語には密接な関係がある
・現代人のゲノムにはネアンデルタール人やデニソワ人とは異なる人類との交雑を認める結果も
示されており、アフリカには30万年前の謎の人類ホモ・ナレディもいた・・・
第四章「ヨーロッパへの進出」より
・ホモ・サピエンスの出アフリカは20万年前以降に何度か試みられていた
→我々につながる祖先の出アフリカは6~5万年前
→シベリアでのネアンデルタールとの交雑時期は52000~58000年前
→中東での交雑は出アフリカの初期と考えられるので6万年前が妥当
→ただし南アジア・オーストラリアなどで6万年前より古い化石や石器が見つかっている
→6万年前より以前は放射性炭素年代測定が困難なので各説がある
→これ以降1万年前の農業生産まで(後期旧石器時代)の気候変動が離散と集合を促した
・現代人につながる系統だけでも、出アフリカから1万年の間に東アジア系・ヨーロッパ系・
ユーラシア基層集団の3系統が成立した
・出アフリカ集団は単一系統ではなく現在の集団はそれらの離合拡散・交雑・隔離を経たもの
・最も研究の進んでいるヨーロッパ集団について(略)
・ヨーロッパでも日本でも狩猟採集民のゲノムは10%から25%
→基本的に狩猟採集民は農耕民の社会に飲み込まれている
・5300年前のアイスマンのゲノムはアルプス人ではなくサルディニア人と近縁だった
→サルディニア人は8000年前に移住して混合しなかったヨーロッパ初期農耕民の子孫
→移住前の農耕民のゲノムを残しており現代ヨーロッパ人とは異なる→なぜか?
→5000年前にヨーロッパ人の遺伝的な構成が大きく変わったから
→その原因は東のステップ地域から来た牧畜民
→ヨーロッパ人の地域差は狩猟採集民と農耕民と牧畜民の混合の仕方の違い
→牧畜民のゲノムの割合が高いほど身長が高いなど・・・
→牧畜民ゲノムからはペスト菌DNAの断片が検出されており農耕民に大打撃を与えた可能性
→古代ゲノム解析は疫病研究にも重要な知見をもたらす
第五章「アジア集団の成立」より
・1万年前より古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析は一部しか行われていないが、
→出アフリカ集団は中東で1万年ほど停滞していた
→5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまで拡散した
・ユーラシア東部へは北ルートと南ルートが考えられている
→南ルートでは古代南インド狩猟民集団→一部が東南アジアへ→デニソワ人と混血?
→一部がパプアニューギニア、オーストラリアへ
→北ルートで北上したグループが古代東アジア集団を形成した?
・ヒントは縄文人のゲノム
→日本列島にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前
→16000年前に土器が作られ3000年前に稲作が入るまでの13000年の間が縄文時代
→この間に遺伝組成を変えるような外部からの流入はなかったので縄文人ゲノムがヒントに
・縄文人のゲノムを共有している現在の東アジア人
多い順にアイヌ集団→沖縄の人→本州・四国・九州の日本人
→沿海州の先住民、韓国人、台湾の先住民も僅かに共有している
→アムール流域の先住民、新石器・鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団とは非常に古い
時代に分岐した同じ系統に属することも判明している
→古代南インド狩猟民集団→チベットや東アジアの沿岸地域へ→日本では縄文人に
・縄文人は4万年前以降に異なるふたつの系統が合流して形成された
→別々に南北から流入したのか大陸沿岸部で合流してから流入したのかは不明
・シベリア集団の変遷、アメリカ大陸集団の起源・・・
→複雑な集団の置換によりユーラシア北部から南北アメリカのモザイク状の遺伝構成へ
・1万年前以降は解析できる人骨も多く、1万年前には遺伝的に区別できる9集団がいた
→これらの離合集散が青銅器時代以降の集団形成に関わることになる
→スキタイ、匈奴、フン族などの遊牧騎馬民族も異なる遺伝的特徴を持った集団の連合体
→なので中央アジアの広大なステップを遺伝的に単一の集団が支配したことはない
・3回にわたる移住の波が南アジア集団の遺伝的構成を決定した
→9000年前の狩猟採集民と初期農耕民の混合
→7400~5700年前の混合完成と、その後の北方集団との混合
→4600~3900年前のインダス文明の初期農耕民にはイラン牧畜民や狩猟採集民ゲノムもある
・南アジアから東南アジアには5万年前
→どちらもDNA保存に適した地域ではないので現代人DNAからの考察
→遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応している
→東南アジアの半島部と島嶼部は、ホモ・サピエンスが最初に拡散した氷河期には
スンダランドで一つの陸塊だった
→ヨーロッパ同様、農耕以前の狩猟採集民ゲノムは伝わっていない
・南太平洋・オセアニア(略)
・中国の南北地域集団
→今も言語的にも遺伝的にも異なり過去の違いはさらに大きい
→黄河流域と福建省では1万年~6000年前まで遺伝的に区別しうる集団だった
→北方集団と東南アジア集団
・日本への渡来の起源
→内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部に流れる西遼河流域の雑穀農耕民の古代ゲノムには
日本や韓国の現代人ゲノムとの共通性を見いだせる
→日本語や韓国語の起源地と考えられるが、それ以外との関係はない
→なぜ朝鮮半島の方向だけに拡散したのかは、さらに多くの古代ゲノムが必要
→この集団の動きが弥生時代初期の日本列島への農耕民の流入に(拡散から約2000年後)
→ところが弥生時代初期の日本列島での農耕の始まりは水田稲作→なぜか?
→この分析には稲作起源地の長江流域の古代ゲノムが入っていないから
→長江流域の古代ゲノム解析が進めば日本への複雑な渡来経路が見えてくるはず
・東アジアの大陸部では北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大した
→それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成された
・東南アジアや東アジアの沿岸部では初期拡散定着民と農耕民の混合で現代人集団が形成された
・1万年前以降に起こった各地の農耕は集団の拡散を促し様々な言語グループを生み出した
第六章「日本列島集団の起源」より
・二重構造モデル説
→縄文時代と弥生時代の人骨の違い
(旧石器時代に直接来た集団と北東アジアで新石器時代に形質変化してから来た集団の違い)
→現代の北海道アイヌ集団・琉球列島集団と本州四国九州を中心とする集団の違い
(稲作のなかった北海道と、北部九州より稲作が2000年遅かった琉球列島との違い)
→古代ゲノム解析からは単純すぎる説と指摘されている→地域差が大きいから
・縄文時代
→旧石器時代の後半から縄文時代までの形質は連続している
→縄文人のゲノム解析からは現代の東アジア集団とはかけ離れた特徴が見られる
→礼文島の縄文人からは極北集団に見られる脂肪代謝遺伝子の有利な異常が見られる
→現代日本人でも3割に見られ韓国や中国には殆ど見られないハプログループは縄文人由来
→東南アジアからの初期拡散で北上した中の沿岸集団が縄文人の母体だが均一ではない
・弥生時代
→縄文時代にも農耕はあったので水田稲作農耕より金属器使用を弥生時代の特徴とすべき
→日本では、たまたま同じ時期に入ってきただけ(世界では別のルートで別の時期に)
→稲作農耕は長江中流域から拡散したもので、日本の青銅器の源流は北東アジアのもの
→異なる集団が渡来した?
→長江流域からの稲作農耕民集団と、西遼河から移動中に青銅器文化を得た雑穀農耕民集団が
朝鮮半島経由で別々に渡来した?(長江沿岸部やオホーツクから直接伝播したルートもあった?)
→稲作の東進により縄文人との混合が進んでいったのなら、東に行くほど縄文系ゲノムに
寄った位置になるはずだが、そうはなっていない
→弥生時代の中期以降も各地に多くの渡来があったと想定しないと説明できない
→弥生時代から古墳時代における大陸からの渡来集団の影響を考慮すべき
→ただし古墳時代の人骨は階級の出現によってランダムなサンプルとはなりえない
・琉球列島集団
→旧石器人骨との関係は不明だが、縄文時代以降は日本列島からの集団の移住があった
→7300年前の喜界カルデラ爆発により九州と途絶して独自集団となった
→弥生時代から再び本土の影響を受けグスク時代の南九州からの農耕民流入で加速され現在に至る
→縄文ゲノムが30%残っているのは後の集団の影響が本土よりは小さかったから
・北海道集団
→アイヌ集団は縄文人を基盤にオホーツク文化人の遺伝子を受け取り成立したもの
→縄文ゲノムが70%残っており大陸北方系ゲノムも引き継いでいる
(琉球列島集団には台湾より南のゲノムの影響がないのとは対照的)
・二重構造モデルでは稲作を受け入れた中央と遅れた周辺で形質の違いが生じたと考えるが、
この発想からは、周辺集団と他の地域集団との交流の姿を捉えることはできない
(コラム4より)
・鳥取市青谷上寺地遺跡の32個体の人骨分析(単一遺跡では日本最大規模の分析)
→9割に母系の血縁がなく、すべて現代日本人の範疇に入るものだった
→しかも縄文遺伝子が強い者から大陸遺伝子が強い者まで様々だった
→長く維持された村落だと同族婚が増えて核ゲノムも似たものになるはず
→木製容器や管玉の生産も考えると流入や離散を繰り返す古代都市だった可能性が高い
→多数の創傷もあるが解体痕もあり戦闘被害者だけではなかった可能性がある
→死亡時期は放射性炭素年代測定法により2世紀の後半と判明している
→2世紀の後半は複数の史書にある「倭国大乱」の時期
→混乱した社会状況を示す代表的な遺跡といえる
2023年12月追記です
フロンティア第1回「日本人とは何者なのか」という番組で、著者らが語っておられたのは、
①縄文人は4~5万年前にアフリカからアジアにはじめて到着し、その後の農耕民の進出で、
東南アジアではほぼ消滅した(タイのマニ族に近い)古いホアビニアン文化を持つ狩猟採集民で、
東アジアでは存在しないDNAの集団
→その一部が東南アジアから沿岸沿いを北上、当時は寒冷期で今より100m以上も海面が低く、
大陸と陸続きだった日本にやってきた
→その後の海進により孤立し、1万年以上も他集団と混交せず発展した世界でも稀な集団
→日本にやってきた集団は1000人→今の日本人は1億人以上
②弥生人は、3000年前の北東アジアから稲作と金属器を(別々に?)持ってきた(別々の?)集団と
縄文人との混交集団
(日本人はこの二重構造と考えられてきたが古墳人DNAの6割以上は別物なので三重構造)
③古墳人(庶民)は、戦乱が続いていた東アジアの様々な地域から様々な時代の様々な地域に
1000年~1500年間に渡り(おそらく中世まで)流入した様々な集団と縄文弥生人との混交集団
→今の日本人よりはるかにDNA・文化・言語など多様性のある集団で錯綜していたはず
→なので今後(科博に)予算があれば、最も研究したいのが古墳人(庶民)のDNA
→東ユーラシアのあらゆる集団のDNAが古墳人を形成していたかも知れないから・・・
第七章「新大陸アメリカへ」より
・アメリカ大陸はホモ・サピエンスが最後に到達した大陸
→これまではベーリング陸橋からアラスカの無氷回廊をとおり拡散したと考えられてきた
→13000年前から3度の移住がありクロヴィス文化などが形成されたと・・・
→ところが南米最南端でクロヴィス文化より古い遺跡が発見された
→無氷回廊も寒冷すぎるので現在では海沿いのルートで移動したと考えられている
・新大陸の先住民の共通祖先はすべて24000年前だった
→アジアの同一系統の共通祖先はさらに数千年前で、進出した初期集団は5000人未満
→その後、爆発的に人口を増やした状況が明らかになった(略)
・2014年にバイカル湖周辺の古人骨の核ゲノム解析が行われた
→新大陸の先住民にも共有されていることが判明した
→東アジア集団からの分離ではなくユーラシア西部集団との共通遺伝子
(それまでヨーロッパ人の遺伝子はコロンブス以降の混血と考えられていた)
・北米では、さらに古い人類の痕跡も報告されている
→現在の先住民とは別系統のホモ・サピエンスがいたのかも?
終章「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」より
・ゴーギャンがこのタイトルの大作を描いたのは19世紀の終わり
→ネアンデルタール人の化石に続きジャワ原人の化石が発見された時期
→直近10年の古代ゲノム解析で化石だけでは知れなかった事実が明らかになっている
・19世紀前半にヨーロッパとは異なる人類集団の研究が始まった→「人種」という概念
→20世紀後半の遺伝学研究で人種は連続しており区分できないことが明確になった
・種の定義を「自由に交配し生殖能力のある子孫を残す集団」とする考え方
→これに時間軸を入れると旧人や原人も同じ種になるので、便宜上分けているだけ
→種の下位としての「人種」という概念は、さらに生物学的な実体のないもの
・現代のヨーロッパ人・東アジア人・アフリカ人のSNP分析は明確に区分できるように見える
→それに様々な地域集団のSNP分析を加えると、どこにも境界がないことが見えてくる
→人為的な基準を導入しない限り「人種」を定義することは不可能
・同じ集団の中の個人間の遺伝子の違いのほうが、集団間の遺伝子の違いよりはるかに大きい
→もともとホモ・サピエンス遺伝子の99.9%は共通で、残りが個人あるいは集団の違い
→この0.1%を研究し、個人あるいは集団の違いを明らかにしているだけ
→違いの原因となる変異があるのは事実だが、大部分は交配集団に生まれるランダムな変化で、
→基本的な能力の違いを表すものではない→このことが結果を理解する上で重要
・ある環境下で有利あるいは不利になる遺伝子の違いがあることも事実
→特定の集団にだけ有利な遺伝子が共有されていることもあり、これが集団優劣の根拠だが、
→集団の持つ遺伝子構成は時間で大きく変化するので、集団優劣に意味はない
・0.1%の違いで人の優劣を決める能力主義か、99.9%の共通性を重視する平等主義か
→現実の社会は違いのほうに価値を持たせ過ぎているように思える・・・
・遺伝子の流れを糸にたとえると・・・
→それぞれの個人はホモ・サピエンスという巨大なネットを構成する結び目のひとつ
→様々な色があるが全体を構成する要素では個々の色ではなく「結び目があること」が重要
→個人はネットを構成する上では等しい価値を持っている
・言語や宗教など文化的な違いによって定義される「民族」に生物学的な基礎はあるか
→ゲノム解析により地域集団の成立は古いものでも数千年前と判明した
→人類集団は6万年の間に集合と離散を繰り返しているので時間軸では1割程度の長さ
→他集団との混合を経ない集団を「純粋な民族」としても数千年レベルでしか存在しない
(例・漢民族は5000年前から北東と南部の3集団が緩慢に融合する過程から生み出された概念で、
今もそのプロセスは続いている→遺伝的にまとまった集団ではない)
→今後も他の地域集団との混合は進み「民族」は生物学的な実態を失っていく
→民族と遺伝子を混同した議論は、さらに意味のないものになっていく
・現在の研究対象は(民族ではなく)地域の集団で3世代程度までの人々の集合
→遺伝的な特徴はこのレベルでの時代幅で議論されているもの
→このレベルでも疫病や戦争で変化しており異なる集団になっていることも多い
→数千年前から16世紀までは遺伝的な特徴をあまり変えずに存続してきた
→その後の変化は加速しており日本列島も例外ではない
・ヨーロッパ北方では青銅器時代以降に集団の交代に近い変化があった
→日本でも縄文時代から弥生・古墳時代にかけて大規模な遺伝的変化があった
→弥生時代にクニができた→その時代にクニという体制を持った集団が渡来したということ
→文化だけ取り入れるパターン、集団間で混血するパターン、集団が置換するパターン・・・
→文化の変遷と集団の遺伝的な変化との関係は様々でケースバイケース
→普遍的な法則は見出されていないが両者の関係が明らかになれば新たな解釈が生まれるはず
・人類集団の起源と拡散
→現時点ではホモ・サピエンス誕生の経緯と出アフリカ後の初期拡散状況の再現の研究
→将来的に数百体レベルでネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解析ができれば、
ホモ・サピエンス特有のゲノムが明確になり「私たちは何者か」の答えが出る
→化石記録が貧弱で不明だった6~2万年前の初期拡散状況もゲノム解析でシナリオができた
→特に気温の低い高緯度地域では詳しい分析が可能になり精度の高いものになってきている
→今後は低緯度地域で変性の進んだDNAデータを取り出す技術革新の進展がカギ・・・
・古代ゲノム研究の意義
→現在の歴史教科書は「アフリカでの人類の誕生」から、いきなり「四大文明の発展」に跳ぶ
→人類の道のりを通史として捉えることのない、このような記述に欠けているのは、
→「世界に展開したホモ・サピエンスは遺伝的にはほぼ均一な集団だった」という視点と、
→「文化は同じ起源から生まれ、文明の違いは環境や経緯と人々の選択の結果」という認識
・古代ゲノム研究は、その地に人類が到達した時点から現在までを通史として明らかにする
→その地の人骨さえそろえば、集団成立のシナリオを提供できる
→歴史や文明に対する認識も必然的に変えていくのが古代ゲノム研究・・・
「おわりに」より
・本書は2021年現在の情報によるもので今後の研究次第で異なるシナリオになる可能性もある
・2010年以降は次世代シークエンサの実用化により核ゲノムが取り扱えるようになったが、
→共同研究と巨額資金が必要で大部分はビッグラボといわれる世界で十指もない施設による研究
→考古学や形質人類学などのデータが抜け落ちる危険性もある→共同研究の重要性
→たとえば東アジア古代集団と渡来系弥生人との関係はドイツ・韓国の研究者との共同研究
・古代ゲノム研究は最新成果を常に把握していないとついていけなくなる分野
→なので著者が読みためた論文メモを地域別に再構成したのが本書
・・・
古代ゲノム研究・・・よくわからないけど、じつに興味深い分野でした・・・
2023年09月12日
住吉公園と住吉さんと謎の・・・
とーとつですが・・・
前回記事のヤマト王権とも関連がある・・・かも知れない・・・
「住吉公園と住吉さん~住吉大社から生まれて150年~」のご紹介であります
今回は読後メモだけでなく綿密な?現地調査も行い、本邦初公開かもの貴重な画像?も撮影、
謎についても記事の末尾に掲載してますので、ぜひ最後までご覧くださいね
本の表紙
奥付
今月7日の発行、まさに最新刊であります
執筆者一覧
例によって目次のみの紹介
目次が住吉大社の太鼓橋になってました
以下、わたくしが興味を持った部分のランダムなメモで、(カッコ内)は感想なり補足です
・明治6年(1873年)1月の太政官府達(3府へ)により8月に住吉大社の全域を公園地に指定
→9月に規則を制定して開設(12月には浜寺公園も開設)→大阪府で最初の公園となった
→明治8年10月には境内地、民有地、公園地に分けられた
・住吉大社周辺は江戸時代から紀州街道沿いに料亭が並ぶ繁華街だったが、明治時代になり
移動手段が駕籠から鉄道や人力車になって街道沿いは衰退、逆に公園内が有楽地になった
→温泉(潮湯)旅館、茶店、料理茶屋、料亭などが75軒もひしめく大歓楽街に・・・
(もともと住吉あたりの海岸は潮干狩の名所でもありアウトドア宴会や舟遊び、住吉大社への
参詣名目でインドア宴会を楽しむ、関西の大リゾート地だったのでありますね)
・公園内に仲居、芸妓、ヤトナなどが出入りして風紀が大いに乱れた
→大正11年(1922年)には公園の隣接地に芸妓指定地を定めた
→大正13年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えた
→大正11年に公園の西側に住𠮷新地が指定され、昭和9年には芸妓指定地からも移転した
→その後、住𠮷新地は戦災を経て再開したが昭和33年に(売春防止法施行・赤線廃止により)
花街としての活動は消滅した
(わたくしが小学生の頃の住𠮷新地には、いかにも遊郭らしい雰囲気を残した木造建物が、
ビジネス旅館などになってはいたものの、まだまだ残ってました)
・明治18年(1885年)に阪堺鉄道(現・南海本線)が開通した
→開業当初は難波から大和川の北岸までの蒸気機関車による運行
→開業当初の停車場は難波・天下茶屋・住吉・大和川の4駅
→蒸気機関車の駅間は8km以上が効率的だったが沿線に人口が多く3km程度にした
→それでも不便だったので電化後は次々と駅が追加され、新しい粉浜駅と住吉公園駅の
中間にあった、開業当初の住吉駅は1917年に廃止された
(この100年前に廃止された住吉駅の痕跡を今回探りました)
(住吉公園駅は1979年に住吉大社駅に名称変更したけど昔は公園がメインだったんですね)
・住之江公園との関係
→大正9年(1920年)東京市から和歌山に至る国道(1号線経由)が路線認定される
(当初の路線名は国道16号線で後に国道26号線に名称変更)
→住吉公園が南海と国道で3つに分断されるので分断部分を払下げ、その資金も使って
新公園を建設し、その間を公園道路で結ぶことに
→住之江公園は昭和5年(1930年)に竣工したが公園道路は当初は高燈籠までだった
(この道路の園内部分を材木川と思い込んでたのを今回、現地で確認した次第です)
(住之江公園まで今は普通の道路で、替わりに?細井川・住吉川の一部が遊歩道になり、
本来の公園道路から住之江公園へ渡る橋だけが人道橋になってますね)
・住吉公園の児童遊園
→戦時中は高射砲陣地、鉄類回収、農園化、樹木の燃料化などで荒廃した
→戦後に電気自転車・電気自動車・メリーパーク・メリーロード・オーシャンウェーブなど
当時の日本では考えられない遊具が整備されており米駐留軍の関与が考えられるが詳細は不明
(このオーシャンウェーブ、三角錐のジャングルジムのようなものが中央の鉄塔に吊るして
ある感じの画像がありましたが、わたくしがよく覚えてるのは同じ位置にあった後継機種で、
球体のジャングルジムが中央鉄塔を芯にして、けっこう高速回転するタイプでした
中に乗るか、外で漕ぐ(回す)か、一人なら外で漕いでから乗り込むのですが、数人でめいっぱい
漕ぐ(回す)と、外で鉄棒に掴まってると身体が水平になって、やがて遠くへ飛ばされるし、
中に乗ってても、やがては放り出されるので、どこまで耐えられるかを競い合うとゆー、
まるで宇宙飛行士の訓練のような、低学年には極めて危険な遊具でした)
・住吉の松
→古来の歌学では「住吉の松」は歌枕とされ神聖視されていた
→古来の絵画では白砂青松風景は「住吉模様」と呼ばれ日本の風景の原型とされた
→「あられ松原」は上町台地沿いの海岸線の松林
→「住吉の岸の姫松」は和歌や文学の世界で神格化された
→姫松一帯は住吉大社の飛地境内として保存されていたが明治以降に南部は民有地になり、
北部は保安林→クボタ創業家の邸宅→晴明丘南小学校になっている地域
→一帯の東端に上町線「姫松」停留所が設けられ住吉高校前などにも痕跡が残る
・住吉太神宮秘記(中世の説話で記紀とは異なる住吉大神の鎮座伝承)
→10代崇神天皇が「津守の浦に天より光が射す」夢を見て使者を遣わして確認したところ、
一晩のうちに松が三本生えており、これこそ住吉大神の降臨した松であると神木として崇めた
→影向(ようごう)の松、相生の松→松への憧憬と住吉信仰→謡曲高砂などへ
・上町線「神ノ木」停留所も神職の祖先を祀った神木の老松に由来している
・平安時代には天満砂州ができ松も生えたが平安前期までは「浜」ではなく「岸」だった
→すみのえの岸による波よるさへや→上町台地の古代の崖にふさわしい表現
→新古今集など鎌倉時代に近づくと「浜」の歌ばかりになる
・難波津からは難波大道、磯歯津道を経て、住吉津からは磯歯津道を経て奈良の都へ
→古代の海岸線では住吉津が重要だった
(伝承では住吉海神が住吉の津に祀られたのは、纏向でのヤマト王権成立とほぼ同時期、
倭国の北九州の津と山口の津に祀られていた海神が東遷したとすれば・・・わくわく)
・明治4年(1871年)住吉神宮寺の堂塔徹却(神仏分離・廃仏毀釈)
(その後も広大な神宮寺跡は長年放置されていたようで、池泉回遊式の壮大な庭園跡などは、
わたくしが中学生の頃まで石組みが残ってて、よく戦争ごっことかで遊んでました)
云々・・・
ご近所の古い神社と公園つーこともあり興味津々、全編を大いに楽しみました
公園史・鉄道史・行楽史などに興味のある方にもオススメの一冊です
つーことで・・・
この本にも記載されてて、以前から知りたかった材木川と住吉駅の痕跡について、今回、
綿密なる???現地調査をしてきましたので、ご報告をば・・・
・住吉公園は東を南海本線、西を国道26号線、南を細井川(細江川)、北を材木川に囲まれた範囲
・わたくしは公園内の北部を通る道路が材木川の跡だと思い込んでたのですが、本書によれば、
この道路は住吉公園と住之江公園とを結ぶ「公園道路」として戦前に整備されたもので、
材木川は戦後も川として存在していた、とのことでした
・わたくしには全く川の記憶がなかったので、ほぼ同世代の粉浜商店街のK田さんに訊けば、
→昔は商店街の南端に幅2mほどのドブ川が流れていて、そこに石橋が架かっていた
→大雨の後は危ないので橋を渡ってはならないと、よく親から言われていた
→そのドブ川も石橋も、いつの間にかなくなっていた
→商店街から東(上流)には川の記憶がなく鉄道敷だったので、昔から暗渠だったのではないか
・・・とのことでした
(K田さんの記憶復活により9.13追記修正です)
・小学6年の自主研究で「住吉公園駅の踏切について」調べており、駅の北端(商店街の南端)
にあったドブ川は、線路の下を東西に流れていたことを思い出した
・第2室戸台風で氾濫していたので、少なくとも中学生の頃までは存在していたはず
・・・とのことでした
(わたくしは古い地図から線路の手前で北上していたと思ってましたが、はてさて・・・)
つーことで・・・
こちらが住吉公園の汐掛道から西へ出た国道26号線の交差点で、左が移転再建された高燈籠
ひとつ先の右折待ちしている交差点から右(東)が材木川だと思ってましたが、川跡にしては
西側に全く痕跡がないのが不思議と悩んでたのですが、もうひとつ北にある・・・
姫路ラー麺「ずんどう屋」駐車場の向かいあたりから東へ入る狭い道路が・・・
ぐねぐねと曲がってて、いかにも川筋の跡らしい道路です
しかも、この道路は26号線から西にも十三間堀川(今は阪神高速)まで続いてました
この道路を東(上流)へ進んで・・・
このあたりが公園内道路と最も近い部分で、ここにも石橋が架かっていたとのこと
で、こちらが公園内から見た様子
中央は材木川に架かっていた石橋の親柱でしょうが、今は公園内道路の内側にあります
本来は緑色のフェンスあたりにあったのでしょうが、わたくしは、この親柱の位置から
横断歩道のある道路が材木川だったと思い込んでいたようです
せっかくなので、さらに上流部へ・・・
左が材木川だった道路、右が公園内道路
いかにも川筋らしい曲がり方です
(公園内道路も同じように曲がってるので紛らわしいのですが・・・)
中央下に見える集水桝は地下にある材木川へ繋がっているのでしょう
さらに進み、こちらが粉浜商店街の南端部
ここにも左右(南北)に石橋が架かってて、その先からは南海本線(現在は高架)に沿う形に
なるので、昔から暗渠だったのではないか、とのことでした
(追記修正→少なくとも第2室戸台風までは線路の下を東西に流れていたとも・・・)
こちらが粉浜商店街側・・・
こちらが材木川の上流側
古い地図では材木川はここからしばらく南海本線に沿う形で北上してるので・・・
(追記→線路の下を東西に流れていたとの記憶も・・・)
このあたりを流れていたことになるはずです
(追記→上記の記憶どおりなら線路の下を東に潜ってから北上してたことになります)
(右が南海本線の高架下、左が粉浜商店街東側店舗の裏です)
ともかく、これで長年の疑問のひとつが解決しました
粉浜商店街のK田さん、ありがとうございました
(9月23日さらに材木川についての追記)
住吉大社の北隣、一運寺の前にあった案内板に本日気づきました
飛鳥への小径・・・住吉津から飛鳥へと続く古代の磯歯津路であります
ま、住吉大社あたりには何本もの古い小径があって、どの小径からも遺物が出てくるので、
未だに最古の磯歯津路は特定されていないようですが・・・
で、説明文にあった、なお書き以下の部分・・・
そう、一運寺の北側に沿った道は、もともと万代池から十三間(堀)川に流れる地溝だった!!!
で、1802年に住吉大社が焼失した際に、地溝を開削して再建のための材木を運んだことから、
材木川とも言われるようになったと!!!
そうだったのか、これで名前の由来についても上流部についても判明・・・とはいいつつ・・・
万代池から十三間(堀)川まで流れていたとなると・・・
①水の出入りのない池と言われてきた万代池から流れ出る川(地溝)があった?
②一運寺の北沿いから阪堺・上町線あたりまでは川筋を想像できるけど、さらに上流側、
万代池までの川筋(地溝)はどこを流れていたのか?
③逆に一運寺から下流側、粉浜商店街の南端までの川筋はどこを流れていたのか?
(9月24日、さらさらに万代池の近くに住む古老の証言による追記)
①万代池の南東に大領池(東池と西池で今は病院と公園)があり万代池と繋がっていた
②大雨でも各池が溢れることはなく、流れ出る川(地溝)はあったはず
とのことでした
(9月29日、さらさらさらにK田さん同級生のK浦さんに案内いただいての追記)
「今も南海本線から東に延びる川筋は残っている」とのことで現地案内いただきました
こちらが粉浜商店街の南端から東へ向かう材木川の川筋跡
先には南海本線の高架下を横切るかたちで道があります
その先は民有地になってるのですが、右側にある・・・
阪堺・上町線の住吉公園駅への延伸線跡地の先に道が続いています
で、ここには、
延伸線跡を横切るかたちでグレーチングが並べてあり・・・
その下には・・・
はっきりと古い川筋跡がありました!!!
さらに地上駅の北側にあった地下道は大雨の際にはいつも冠水してたとのことでしたから、
材木川は南海本線、上町線を潜って東に延びていたことが確認できました!!!
K田さんの同級生のK浦さん、現地案内までありがとうございました
もちろん、その先に見えるのは・・・
紀州街道と住吉大社であります
紀州街道を渡れば住吉大社の側溝(掘割)に合流・・・
排水溝のような石組みもありますが一運寺からの流れを考えると・・・
このあたりまでは北上していたはず・・・
でも、ここから先は・・・
北や東や北東へ至る道が何本もあって、どの道が川筋跡なのかは特定できませんでした
大海神社へ上る石段下にあった・・・
この道と北へ向かう空き地も怪しいし・・・
さらに一運寺の北側を流れてきて・・・
上町台地からの急坂を、どのように流れていたのか・・・
と、さらにさらに興味は尽きなくなったのですが・・・
もうひとつの疑問だった・・・
・後にできた粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の間にあって100年前に廃止された住吉駅
についても、駅の痕跡が分かる場所があると、K田さんから教えていただきました
今は知る人も少ないとのことでしたので、廃線好きには貴重な画像かもです
左が南海本線の高架下で、南から北へ南海本線東側の道路を撮ったもの
粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の中間あたり、この部分だけ道路が盛り上がってます
そう、
ここが開業当初の住吉駅の駅舎とホームがあった場所だそうで、線路跡にできた駐車場や、
その西側の粉浜商店街とは、このあたりだけ0.5m~1mほど高くなってました
で、こちらがウィキペディアにあった住吉駅の古写真・・・
単線で片側だったはずの駅舎とホームの部分を、客車の乗降口に合わせ盛土してるように
見えますので、この古写真が住𠮷駅の南東から北西に向けて撮影されたものだとすると、
駅のあった場所は、ここで間違いないでしょう
この付近には紀州街道や住吉大社へ抜ける狭い旧道が何本も残っているのですが、
おそらく人口の多かった旧村の最寄に最初の参詣駅ができたからなんでしょうね
それにしても・・・
100年以上も前に廃止された駅の痕跡が、今も道路の高低差として残っているなんて・・・
確かに地元でも、今は知る人は少ないのかも知れません
ええ、わたくしも知らなかったし、とても貴重な情報でした
と・・・
これで長年の疑問のうち二つが解決したので、まずはめでたしめでたし・・・
ただまあ・・・
前回記事のヤマト王権とも関連がある・・・かも知れない・・・
「住吉公園と住吉さん~住吉大社から生まれて150年~」のご紹介であります
今回は読後メモだけでなく綿密な?現地調査も行い、本邦初公開かもの貴重な画像?も撮影、
謎についても記事の末尾に掲載してますので、ぜひ最後までご覧くださいね
本の表紙
奥付
今月7日の発行、まさに最新刊であります
執筆者一覧
例によって目次のみの紹介
目次が住吉大社の太鼓橋になってました
以下、わたくしが興味を持った部分のランダムなメモで、(カッコ内)は感想なり補足です
・明治6年(1873年)1月の太政官府達(3府へ)により8月に住吉大社の全域を公園地に指定
→9月に規則を制定して開設(12月には浜寺公園も開設)→大阪府で最初の公園となった
→明治8年10月には境内地、民有地、公園地に分けられた
・住吉大社周辺は江戸時代から紀州街道沿いに料亭が並ぶ繁華街だったが、明治時代になり
移動手段が駕籠から鉄道や人力車になって街道沿いは衰退、逆に公園内が有楽地になった
→温泉(潮湯)旅館、茶店、料理茶屋、料亭などが75軒もひしめく大歓楽街に・・・
(もともと住吉あたりの海岸は潮干狩の名所でもありアウトドア宴会や舟遊び、住吉大社への
参詣名目でインドア宴会を楽しむ、関西の大リゾート地だったのでありますね)
・公園内に仲居、芸妓、ヤトナなどが出入りして風紀が大いに乱れた
→大正11年(1922年)には公園の隣接地に芸妓指定地を定めた
→大正13年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えた
→大正11年に公園の西側に住𠮷新地が指定され、昭和9年には芸妓指定地からも移転した
→その後、住𠮷新地は戦災を経て再開したが昭和33年に(売春防止法施行・赤線廃止により)
花街としての活動は消滅した
(わたくしが小学生の頃の住𠮷新地には、いかにも遊郭らしい雰囲気を残した木造建物が、
ビジネス旅館などになってはいたものの、まだまだ残ってました)
・明治18年(1885年)に阪堺鉄道(現・南海本線)が開通した
→開業当初は難波から大和川の北岸までの蒸気機関車による運行
→開業当初の停車場は難波・天下茶屋・住吉・大和川の4駅
→蒸気機関車の駅間は8km以上が効率的だったが沿線に人口が多く3km程度にした
→それでも不便だったので電化後は次々と駅が追加され、新しい粉浜駅と住吉公園駅の
中間にあった、開業当初の住吉駅は1917年に廃止された
(この100年前に廃止された住吉駅の痕跡を今回探りました)
(住吉公園駅は1979年に住吉大社駅に名称変更したけど昔は公園がメインだったんですね)
・住之江公園との関係
→大正9年(1920年)東京市から和歌山に至る国道(1号線経由)が路線認定される
(当初の路線名は国道16号線で後に国道26号線に名称変更)
→住吉公園が南海と国道で3つに分断されるので分断部分を払下げ、その資金も使って
新公園を建設し、その間を公園道路で結ぶことに
→住之江公園は昭和5年(1930年)に竣工したが公園道路は当初は高燈籠までだった
(この道路の園内部分を材木川と思い込んでたのを今回、現地で確認した次第です)
(住之江公園まで今は普通の道路で、替わりに?細井川・住吉川の一部が遊歩道になり、
本来の公園道路から住之江公園へ渡る橋だけが人道橋になってますね)
・住吉公園の児童遊園
→戦時中は高射砲陣地、鉄類回収、農園化、樹木の燃料化などで荒廃した
→戦後に電気自転車・電気自動車・メリーパーク・メリーロード・オーシャンウェーブなど
当時の日本では考えられない遊具が整備されており米駐留軍の関与が考えられるが詳細は不明
(このオーシャンウェーブ、三角錐のジャングルジムのようなものが中央の鉄塔に吊るして
ある感じの画像がありましたが、わたくしがよく覚えてるのは同じ位置にあった後継機種で、
球体のジャングルジムが中央鉄塔を芯にして、けっこう高速回転するタイプでした
中に乗るか、外で漕ぐ(回す)か、一人なら外で漕いでから乗り込むのですが、数人でめいっぱい
漕ぐ(回す)と、外で鉄棒に掴まってると身体が水平になって、やがて遠くへ飛ばされるし、
中に乗ってても、やがては放り出されるので、どこまで耐えられるかを競い合うとゆー、
まるで宇宙飛行士の訓練のような、低学年には極めて危険な遊具でした)
・住吉の松
→古来の歌学では「住吉の松」は歌枕とされ神聖視されていた
→古来の絵画では白砂青松風景は「住吉模様」と呼ばれ日本の風景の原型とされた
→「あられ松原」は上町台地沿いの海岸線の松林
→「住吉の岸の姫松」は和歌や文学の世界で神格化された
→姫松一帯は住吉大社の飛地境内として保存されていたが明治以降に南部は民有地になり、
北部は保安林→クボタ創業家の邸宅→晴明丘南小学校になっている地域
→一帯の東端に上町線「姫松」停留所が設けられ住吉高校前などにも痕跡が残る
・住吉太神宮秘記(中世の説話で記紀とは異なる住吉大神の鎮座伝承)
→10代崇神天皇が「津守の浦に天より光が射す」夢を見て使者を遣わして確認したところ、
一晩のうちに松が三本生えており、これこそ住吉大神の降臨した松であると神木として崇めた
→影向(ようごう)の松、相生の松→松への憧憬と住吉信仰→謡曲高砂などへ
・上町線「神ノ木」停留所も神職の祖先を祀った神木の老松に由来している
・平安時代には天満砂州ができ松も生えたが平安前期までは「浜」ではなく「岸」だった
→すみのえの岸による波よるさへや→上町台地の古代の崖にふさわしい表現
→新古今集など鎌倉時代に近づくと「浜」の歌ばかりになる
・難波津からは難波大道、磯歯津道を経て、住吉津からは磯歯津道を経て奈良の都へ
→古代の海岸線では住吉津が重要だった
(伝承では住吉海神が住吉の津に祀られたのは、纏向でのヤマト王権成立とほぼ同時期、
倭国の北九州の津と山口の津に祀られていた海神が東遷したとすれば・・・わくわく)
・明治4年(1871年)住吉神宮寺の堂塔徹却(神仏分離・廃仏毀釈)
(その後も広大な神宮寺跡は長年放置されていたようで、池泉回遊式の壮大な庭園跡などは、
わたくしが中学生の頃まで石組みが残ってて、よく戦争ごっことかで遊んでました)
云々・・・
ご近所の古い神社と公園つーこともあり興味津々、全編を大いに楽しみました
公園史・鉄道史・行楽史などに興味のある方にもオススメの一冊です
つーことで・・・
この本にも記載されてて、以前から知りたかった材木川と住吉駅の痕跡について、今回、
綿密なる???現地調査をしてきましたので、ご報告をば・・・
・住吉公園は東を南海本線、西を国道26号線、南を細井川(細江川)、北を材木川に囲まれた範囲
・わたくしは公園内の北部を通る道路が材木川の跡だと思い込んでたのですが、本書によれば、
この道路は住吉公園と住之江公園とを結ぶ「公園道路」として戦前に整備されたもので、
材木川は戦後も川として存在していた、とのことでした
・わたくしには全く川の記憶がなかったので、ほぼ同世代の粉浜商店街のK田さんに訊けば、
→昔は商店街の南端に幅2mほどのドブ川が流れていて、そこに石橋が架かっていた
→大雨の後は危ないので橋を渡ってはならないと、よく親から言われていた
→そのドブ川も石橋も、いつの間にかなくなっていた
→商店街から東(上流)には川の記憶がなく鉄道敷だったので、昔から暗渠だったのではないか
・・・とのことでした
(K田さんの記憶復活により9.13追記修正です)
・小学6年の自主研究で「住吉公園駅の踏切について」調べており、駅の北端(商店街の南端)
にあったドブ川は、線路の下を東西に流れていたことを思い出した
・第2室戸台風で氾濫していたので、少なくとも中学生の頃までは存在していたはず
・・・とのことでした
(わたくしは古い地図から線路の手前で北上していたと思ってましたが、はてさて・・・)
つーことで・・・
こちらが住吉公園の汐掛道から西へ出た国道26号線の交差点で、左が移転再建された高燈籠
ひとつ先の右折待ちしている交差点から右(東)が材木川だと思ってましたが、川跡にしては
西側に全く痕跡がないのが不思議と悩んでたのですが、もうひとつ北にある・・・
姫路ラー麺「ずんどう屋」駐車場の向かいあたりから東へ入る狭い道路が・・・
ぐねぐねと曲がってて、いかにも川筋の跡らしい道路です
しかも、この道路は26号線から西にも十三間堀川(今は阪神高速)まで続いてました
この道路を東(上流)へ進んで・・・
このあたりが公園内道路と最も近い部分で、ここにも石橋が架かっていたとのこと
で、こちらが公園内から見た様子
中央は材木川に架かっていた石橋の親柱でしょうが、今は公園内道路の内側にあります
本来は緑色のフェンスあたりにあったのでしょうが、わたくしは、この親柱の位置から
横断歩道のある道路が材木川だったと思い込んでいたようです
せっかくなので、さらに上流部へ・・・
左が材木川だった道路、右が公園内道路
いかにも川筋らしい曲がり方です
(公園内道路も同じように曲がってるので紛らわしいのですが・・・)
中央下に見える集水桝は地下にある材木川へ繋がっているのでしょう
さらに進み、こちらが粉浜商店街の南端部
ここにも左右(南北)に石橋が架かってて、その先からは南海本線(現在は高架)に沿う形に
なるので、昔から暗渠だったのではないか、とのことでした
(追記修正→少なくとも第2室戸台風までは線路の下を東西に流れていたとも・・・)
こちらが粉浜商店街側・・・
こちらが材木川の上流側
古い地図では材木川はここからしばらく南海本線に沿う形で北上してるので・・・
(追記→線路の下を東西に流れていたとの記憶も・・・)
このあたりを流れていたことになるはずです
(追記→上記の記憶どおりなら線路の下を東に潜ってから北上してたことになります)
(右が南海本線の高架下、左が粉浜商店街東側店舗の裏です)
ともかく、これで長年の疑問のひとつが解決しました
粉浜商店街のK田さん、ありがとうございました
(9月23日さらに材木川についての追記)
住吉大社の北隣、一運寺の前にあった案内板に本日気づきました
飛鳥への小径・・・住吉津から飛鳥へと続く古代の磯歯津路であります
ま、住吉大社あたりには何本もの古い小径があって、どの小径からも遺物が出てくるので、
未だに最古の磯歯津路は特定されていないようですが・・・
で、説明文にあった、なお書き以下の部分・・・
そう、一運寺の北側に沿った道は、もともと万代池から十三間(堀)川に流れる地溝だった!!!
で、1802年に住吉大社が焼失した際に、地溝を開削して再建のための材木を運んだことから、
材木川とも言われるようになったと!!!
そうだったのか、これで名前の由来についても上流部についても判明・・・とはいいつつ・・・
万代池から十三間(堀)川まで流れていたとなると・・・
①水の出入りのない池と言われてきた万代池から流れ出る川(地溝)があった?
②一運寺の北沿いから阪堺・上町線あたりまでは川筋を想像できるけど、さらに上流側、
万代池までの川筋(地溝)はどこを流れていたのか?
③逆に一運寺から下流側、粉浜商店街の南端までの川筋はどこを流れていたのか?
(9月24日、さらさらに万代池の近くに住む古老の証言による追記)
①万代池の南東に大領池(東池と西池で今は病院と公園)があり万代池と繋がっていた
②大雨でも各池が溢れることはなく、流れ出る川(地溝)はあったはず
とのことでした
(9月29日、さらさらさらにK田さん同級生のK浦さんに案内いただいての追記)
「今も南海本線から東に延びる川筋は残っている」とのことで現地案内いただきました
こちらが粉浜商店街の南端から東へ向かう材木川の川筋跡
先には南海本線の高架下を横切るかたちで道があります
その先は民有地になってるのですが、右側にある・・・
阪堺・上町線の住吉公園駅への延伸線跡地の先に道が続いています
で、ここには、
延伸線跡を横切るかたちでグレーチングが並べてあり・・・
その下には・・・
はっきりと古い川筋跡がありました!!!
さらに地上駅の北側にあった地下道は大雨の際にはいつも冠水してたとのことでしたから、
材木川は南海本線、上町線を潜って東に延びていたことが確認できました!!!
K田さんの同級生のK浦さん、現地案内までありがとうございました
もちろん、その先に見えるのは・・・
紀州街道と住吉大社であります
紀州街道を渡れば住吉大社の側溝(掘割)に合流・・・
排水溝のような石組みもありますが一運寺からの流れを考えると・・・
このあたりまでは北上していたはず・・・
でも、ここから先は・・・
北や東や北東へ至る道が何本もあって、どの道が川筋跡なのかは特定できませんでした
大海神社へ上る石段下にあった・・・
この道と北へ向かう空き地も怪しいし・・・
さらに一運寺の北側を流れてきて・・・
上町台地からの急坂を、どのように流れていたのか・・・
と、さらにさらに興味は尽きなくなったのですが・・・
もうひとつの疑問だった・・・
・後にできた粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の間にあって100年前に廃止された住吉駅
についても、駅の痕跡が分かる場所があると、K田さんから教えていただきました
今は知る人も少ないとのことでしたので、廃線好きには貴重な画像かもです
左が南海本線の高架下で、南から北へ南海本線東側の道路を撮ったもの
粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の中間あたり、この部分だけ道路が盛り上がってます
そう、
ここが開業当初の住吉駅の駅舎とホームがあった場所だそうで、線路跡にできた駐車場や、
その西側の粉浜商店街とは、このあたりだけ0.5m~1mほど高くなってました
で、こちらがウィキペディアにあった住吉駅の古写真・・・
単線で片側だったはずの駅舎とホームの部分を、客車の乗降口に合わせ盛土してるように
見えますので、この古写真が住𠮷駅の南東から北西に向けて撮影されたものだとすると、
駅のあった場所は、ここで間違いないでしょう
この付近には紀州街道や住吉大社へ抜ける狭い旧道が何本も残っているのですが、
おそらく人口の多かった旧村の最寄に最初の参詣駅ができたからなんでしょうね
それにしても・・・
100年以上も前に廃止された駅の痕跡が、今も道路の高低差として残っているなんて・・・
確かに地元でも、今は知る人は少ないのかも知れません
ええ、わたくしも知らなかったし、とても貴重な情報でした
と・・・
これで長年の疑問のうち二つが解決したので、まずはめでたしめでたし・・・
ただまあ・・・
・上町線が最初に高野線を跨いだのはいつだったのか???馬車時代か電車時代か???
・上町線開業時の終点、上住吉(神ノ木)停留所はどこにあったのか???地上か高架上か???
とゆー長年の疑問は謎のままですので、ご存知の方があればコメントをお願いします
(2024年2月追記です)
Facebookで教えてもらったブログサイトに詳しく書かれてて長年の疑問がようやく解決し、
上記リンク記事の末尾に追記しました!!!
とゆー長年の疑問は謎のままですので、ご存知の方があればコメントをお願いします
(2024年2月追記です)
Facebookで教えてもらったブログサイトに詳しく書かれてて長年の疑問がようやく解決し、
上記リンク記事の末尾に追記しました!!!
2023年09月06日
卑弥呼とヤマト王権
とーとつですが・・・
卑弥呼とヤマト王権であります
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
著者は同志社大学考古学研究室・森浩一氏の愛弟子から千葉市の学芸員を経て橿考研へ入所、
長年にわたる研究から纏向遺跡がヤマト王権最初の大王都で卑弥呼の居所であったことを
明らかにし、その研究成果を一般向けにまとめた・・・とゆー新刊本であります
例によって目次のご紹介
日本の古代史についてはまだ謎の部分も多く、鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本や、
日本人=ユダヤ人説をメインにした小説本など、専門の研究者から在野のアマチュアまで、
あらゆる異説が飛び交う世界で、わたくしの好きな世界のひとつなのでありますね
本書は邪馬台国・卑弥呼・ヤマト王権に関する長年の論争に、そろそろ決着をつけようと、
考古学の専門家が一般読者向きにまとめられた今話題の新刊ですが、いくら一般向きとはいえ
自説以外の紹介も含めた400頁以上もある本ですから、全てのメモなどできませんでした
なので、まずは「本書の構成の説明」があったプロローグ部分のてきとーメモ
・大衆化し作家も加わった1960年代後半からの第一次邪馬台国ブーム
・吉野ケ里遺跡の調査と保存にはじまった1980年代後半からの第二次邪馬台国ブーム
→1976年に橿考研に入って、先輩からは邪馬台国と卑弥呼には関わるなと言われていたが、
纏向調査を四半世紀も続けた頃に一般読者向けの「日本の歴史」第二巻「王権誕生」の執筆を
担当することになり、はじめて明確に関わった
→邪馬台国とは奈良盆地の東南部を占める狭義の「ヤマト国」であり、卑弥呼は纏向にいたと
・邪馬台国や卑弥呼をめぐる論争は文献学上の問題であり、遺跡や遺物からの叙述は難しい
→ただし独断による文献解釈を、部分的な考古学データで取り繕うのは本末転倒である
→考古学の知見で歴史像を組み立て文献との整合性を検証し状況証拠と理論的説得力を得る
→それで邪馬台国論争にも王手を突き付けることができるはず・・・
・本書の構成の説明
第一章
いまだに知名度の低い纏向遺跡について、その考古学的な特徴の数々の積み上げが「ヤマト王権」
の実体を明らかにすること、この遺跡が「ヤマト王権」最初の大王都であったことを紹介
第二章と第三章
ヤマト王権の誕生が、この国の国家形成史においてどのような意味を持つのかの整理
→日本という国家は7世紀末の飛鳥浄御原宮からだが、倭国はそれ以前から対外交渉していた
→第二章で、この国の国家の起源や出現を正しくとらえる
→第三章で、王権誕生への飛躍の胎動を考古学の資料にもとづいて再現する
第四章
ヤマト王権の誕生を主導した勢力の由来、その舞台裏を系譜論として考察する
→ヤマト王権は弥生時代の奈良盆地や畿内の権力構成が継続的・発展的に成長したものではない
→考古学的な事実から全く別のすがたであったことを系譜論で提出する
第五章と第六章
魏志倭人伝の卑弥呼共立や卑弥呼政権の状況を整理し、文献の解釈と考古学上の事実関係に
もとづく解釈との整合性を追う
→考古学上の合理的な枠組みと文献学上の解釈との許容範囲が重なるところに、はじめて
学問としての客観性を獲得することができる
→それで邪馬台国の位置や卑弥呼共立や卑弥呼政権の実体にも迫る
→最後に卑弥呼とヤマト王権の関係を明らかにし、これまでの邪馬台国論争に区切りをつける
→これが本のタイトルを「卑弥呼と邪馬台国」にせず「卑弥呼とヤマト王権」にした理由
で・・・
以下は(著者が先輩から関わるなと言われていた)卑弥呼と邪馬台国に関する部分を中心に、
備忘のためランダムにメモした内容です
ますますてきとーで誤解もあるので、正しくは本書をお読み下さいね
・卑弥呼共立の舞台裏
→魏と呉の間にあった公孫氏にとって背後に位置する韓と倭は重要→帯方郡の設置
→公孫氏の外圧とイト国の失墜、部族国家間の牽制と閉塞状況→倭国乱から30年の空白
(倭国乱とは戦争状態ではなく大陸から見て国としての統一外交窓口がなかった状態)
→内部混乱と外部圧力から、イト国連合(イト倭国)・キビ国連合・イヅモ国連合による会盟
→ハリマ、サヌキ、アハ、イヨなど周辺の国も参加(明治維新の薩長同盟と似た感じ)
→祭祀的な女王の共立による倭国再編へ→新生倭国
・ヤマト国(邪馬台国)へ
→首都をイト国の三雲・井原からヤマト国(邪馬台国)の纏向へ(明治維新の東京遷都と似た感じ)
→それまでヤマト国の王都であった唐古・鍵にならなかったのは王権の権力構成でヤマト国の
比重がきわめて小さかったことと、新王都は新しい都市でなければならなかったことによる
(纏向川の扇状地には集落さえなかったのに忽然と出現した都)
→この遷都は現象面であり武力によるヤマト侵攻(東征論)ではない
→武力解決ではなく政治的駆け引きで解決した
→はじめての談合による日本型危機管理システムだった
→この古い伝承が神武東征神話として誇大に潤色されたことはありうる
・ヤマトに置かれた理由
→倭国の領域は3世紀前半では佐賀県から千葉県、後半では鹿児島県から山形県南部まで
→領域は面ではなくモザイク状で、造反勢力や王権とは無関係の社会も存在していた
→古墳も豊かな耕作地のある平野や盆地より、港市や河川や街道の付近など交通の要衝に多い
→地域勢力を線的にルートで押さえ関係強化することが王権にはきわめて重要だった
(やがてヤマト中心の律令国家形成の足がかりに)
→西日本の国家連合が西に睨みをきかせつつ東方進出できるヤマト国は最適位置だった
→ヤマト国は相対的に高い農業生産力と経済力、文化を持ちながら強力な部族国家がなかった
→大阪平野や京都盆地のような大規模開発できる空間も周辺にあった
→祭祀と神話の創出に最適な三輪山が纏向の東南にあった
→これが国つ神(土地神)統合神の象徴となる神奈備の山
・魏志倭人伝の卑弥呼と邪馬台国
・卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは一度も書かれていない
→倭王、倭女王、女王、女王国、倭国などの表現は複数あるが邪馬台国は一度だけで、
→「女王卑弥呼の都する所」(居所としている場所・国)を示しているにすぎない
→女王国は倭国(21国名)全体を指す場合と、女王国各国の地理的位置関係を示す場合がある
→「皆、女王国に統属す」の場合は卑弥呼の大王都の場所(ヤマト国=邪馬台国)を指す
→なので卑弥呼は倭国の女王であり邪馬台国の女王ではない
→邪馬台国とは新生倭国の大王都が置かれた国名(ヤマト国)の表現でしかない
→「東京都は日本国の首都で日本国の首相官邸は東京都にある」と同じ表現
→日本国の首相(卑弥呼)は東京都知事(ヤマト国=邪馬台国の王)ではないのと同じ
(ヤマト国の王(統治官)は倭国の官または副官がおそらく兼任していた)
・魏志倭人伝の城柵と楼観→卑弥呼の居所
→「宮室、楼観、城柵を厳かに設け・・・」の記載
→九州説では環濠集落の濠に付設する柵で纏向にはないとするが、文脈からは宮室の施設
→弥生時代中期後半から祭殿、巨大倉庫、首長居処の方形区画を囲む溝や柵、塀が作られ、
古墳時代には独立した首長館に発展する→卑弥呼の居処の城柵とは宮室などを囲むもの
→纏向遺跡の直線的な柱列(柵か塀)は、まさに倭人伝の城柵そのもの
→吉野ケ里遺跡の大規模建物跡が発掘され三階建てに復元され、楼観にも見立てられた
→楼は高層建物で復元が正しければクリアだが、観はマツリに際しカミが去来するシンボル塔
→唐古・鍵遺跡出土の大型壺に描かれた重層建物こそが楼観で、祭殿とともに建っていた
→岡山、鳥取出土の土器や福井県坂井市出土の銅鐸にも描かれている
→倭人伝が描く卑弥呼の宮殿の楼観は宮室(正殿)の付属的な建物で祭祀的機能を持つもの
→吉野ケ里遺跡で復元された建物は大きいが楼観の祭祀的機能を備えていたのか・・・
・魏志倭人伝の大倭と大率→新生倭国の支配機構(略)
→卑弥呼政権の地方支配が広域で、しかも整備されていたことが確認できる
→卑弥呼の邪馬台国が九州の小国でもかまわないとする九州説の根底を揺るがすもの
→王の名があるのは倭国の女王卑弥呼と女王に属さない狗奴国の卑弥弓呼(卑弓弥呼?)のみ
→部族国家の王は卑弥呼政権への参画によって国の統治官になったので官名のみ
→新生倭国の中枢に官が多いのは倭国の中枢とヤマト国(邪馬台国)の中枢の重層性による
→魏王朝の権威を背景に、鉄などの交易・航海権・流通機構を掌握しようと外交していた
・魏志倭人伝による卑弥呼の外交記述は当然に魏のみだが、最初の外交は公孫氏政権だった
→後漢末期の鉄刀が160年後に天理市東大寺山古墳(ヤマト国)に副葬されている(公孫氏経由?)
→卑弥呼の最初の魏への遣使は公孫氏滅亡の年(記述の誤りなら翌年)で極めて迅速
・魏志倭人伝・後漢東夷伝における倭国の地理的位置認識
→倭地(日本列島)は今の福建省福州市の東方海上にあり海南島の近くと考えられていた
→朝鮮半島から最初に到達する北九州から南へ伸びる列島と誤解していた(15世紀まで)
→倭国は大人口との誤解もあり呉の東南海上に位置する大国と認識していた
→呉・蜀と抗争する魏にとって、呉と倭が同盟することが懸念材料だった
→実際に238年、244年の銘を持つ呉の神獣鏡が、山梨と宝塚の古墳から出土している
→呉と倭の同盟を回避して君臣関係を結び、呉の背後を脅かすのが魏としては最善策だった
→いわゆる遠交近攻策
→なので外蕃の島国女王としては格段の親魏倭王の金印を授け軍事的なテコ入れまでした
(金印の真贋論争については、当時の中国製との結論がすでに出ている)
→卑弥呼政権には数世紀に渡る北部九州を中心とする外交ノウハウがあり戦略は的確迅速で
ただちに中華帝国の後ろ盾を取り付け、ヤマト王権は国家権力の整備を進めていく
・魏志倭人伝の銅鏡100枚=三角縁神獣鏡説について
→三角縁神獣鏡は中国の神獣鏡群を範型として日本で制作されたとみるほうが合理的
→古い古墳からは後漢式鏡のみで三角縁神獣鏡の出土はない
→卑弥呼に下賜された鏡なら1枚ぐらいあってもいいはず
→卑弥呼が下賜されたのは後漢式鏡が主体であったと考えているが決着はついていない
・長年にわたる纏向遺跡調査で畿内ヤマト説は確かな考古学的根拠を手にした
→だが畿内優越史観、ヤマト中心主義の先入観から、邪馬台国(ヤマト国)からヤマト王権への
発展を説明するため、邪馬台国連合なる発展段階を設定したストーリーが作り上げられた
→纏向のさらなる拡大が3世紀中頃から後葉における箸墓古墳の造営前後であったことは
否定しないが、3世紀はじめにこの遺跡が忽然と出現したことに比べれば小さな波に過ぎない
→纏向遺跡の出現から衰退までの3世紀史は時代区分としても国家体制としても分断できない
→纏向遺跡の出現こそ女王卑弥呼を擁する新たな倭国連合政権の誕生で古墳時代の幕開け
→二段階論からの「邪馬台国連合からヤマト政権へ」というフレーズが概説書や博物館の
展示解説で後を絶たないが、これは半世紀にわたる考古学の成果や研究蓄積を反故にする、
30年前のヤマト優越史観への回帰としか思えないが、はてさて読者の方々は・・・
・女王卑弥呼の実像
→自らの意志に関わりなく倭国王に祭り上げられ舵取りを担う、若く孤高な女性のイメージ
→神聖性だけでなく部族国家の世襲制王位継承から断ち切るための夫を持たない異常な選択
→卑弥呼の鬼道は初期道教の移入ではなく、高句麗・韓の「鬼神のマツリ」が参考となる(略)
→弥生時代の5月と10月の農耕のマツリでは大きな柱に銅鐸を吊るし、そのリズムで歌い踊る
→大きな柱は穀霊を招く標柱で、大地を踏み鳴らすのは地霊を奮い起こすため
(このあたりは鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本とは異なりますね)
→穀霊、地霊と共同体守護霊としての祖霊がマツリの根幹
→2世紀後半になると大きく変容する
→初期ヤマト政権のシンボルである纏向型前方後円墳の祭祀に引き継がれていく
→卑弥呼の祭祀はどの部族的国家祭祀の延長でもなく卑弥呼共立は宗教改革でもあった
→公孫氏との外交関係から道教思想がより整備されたかたちで取り入れられ前方後円墳という
この国独自の大王墓創出へつながったと理解したい
・ヒメ・ヒコ制と、卑弥呼と男弟の関係
→母系社会から父系社会へ移行し男系世襲王制が確立するまでの形態と考えられていた
→近年の文献史学では日本の古代社会は双系的とする見解が一般的
→考古学でも形質人類学による被葬者間の血縁関係の解明が進められている(略)
→3世紀から5世紀中頃までのキョウダイ同一墳墓はヒメ・ヒコ制と整合するようにも見える
→聖(祭祀)俗(政治軍事)の二重様相が現れた理由を聖俗二重王制とは異なる視点から考えるべき
→縄文時代は母親の確実性と父親の不確実性から女性優位だった
→弥生時代になると可耕地争奪が優先され出産は軽視、男性優位に
→女性性は祭祀の中で観念化され神秘化されていく
→魏志倭人伝による卑弥呼の男弟は執政を補佐する立場で聖俗分担の関係ではない
→卑弥呼の死後、男弟の擁立は部族王たちから猛反発され13歳の台与が共立される
→その後にヤマト王権が強力になり初代の男王が誕生(崇神?)
・卑弥呼の死と墓
→卑弥呼の死に関する魏志倭人伝の記述をめぐっては、さまざまな説があるが、(略)
→「墓の径は百余歩」とあり径144mの円墳になるが、日本最大の円墳は富雄丸山古墳で
径109mであり、しかも4世紀前葉の築造と推定される
→この規模の3世紀の古墳であれば前方後円墳と考えるのが自然のなりゆき
→箸墓古墳の築造は3世紀中葉とされ後円部の径は現在では165mとされる
→日本書紀の崇神紀にある箸墓に葬られた姫の伝承と卑弥呼の共通性
→同紀にある「大坂山(二上山北麓)から人々が並び石を運んだ」記述と宮内庁調査報告の一致
→これらから箸墓古墳=卑弥呼の墓は有力説だが、年代や墳型などに疑問点も多く残る
→もし箸墓古墳のような定形型前方後円墳ではなく石塚古墳・矢塚古墳・ホケノ山古墳のような
纏向型前方後円墳なら、どれも前方部が低く扁平で発掘調査までは円墳とされていたもの
→しかし、どれも後円部の径は60mほどしかなく魏志倭人伝の「径は百余歩」と合わない
→(魏志倭人伝には概数や誇張も多いが)これを実数として径を周壕を合わせた墓域とすれば、
(漢代から三国時代の中国では皇帝陵の規模は高さと兆域の広さで表すことが一般的だった)
石塚古墳・矢塚古墳の円域の径はほぼ百歩で、いずれも第一次大王宮の西方延長上にある
→今はいずれかが卑弥呼の墓と考えており、より大王宮に近い石塚古墳が第一候補
→土器類の評価に議論があり築造時期が確定していないが、埋葬までの時間幅の長さかも
(ホケノ山古墳はやや小さく副葬品から被葬者は男性の可能性が高いので除外)
・箸墓古墳の被葬者
→卑弥呼説、台与説が有力だが台与の後の男王説も考えている
→魏志倭人伝は台与で終わるが晋書武帝記や梁書諸夷伝には使者を送った男王の記述がある
→この男王を崇神に比定しヤマト王権最初の大王とする説→箸墓古墳の被葬者は崇神説
→文献上の男王系譜とは整合的だが、上記の姫の箸墓伝承とは合わない
→明らかになった築造年代からは男王の治世が短かったことになり決定打はまだない
・魏志倭人伝の邪馬台国が畿内ヤマトに比定されるなら投馬国と狗奴国の位置は・・・
→倭地(日本列島)は南北に長いと考えられていたから南を東に読み替える
→投馬国は不弥国(正確な位置には諸説あるが北部九州)から水行20日で沿岸航行なら340km
→日本海ルートではイヅモ、瀬戸内海ルートではキビになり、どちらも出土品から有力候補
→イヅモ説なら邪馬台国へ水行10日陸行1月で、水行10日を按分すれば鳥取・兵庫・京都に
陸行への中継点などの遺跡が残っており、船団や準構造船を描いた板材も出土している
→キビ説なら水行10日は陸伝い島伝いで、やはり各港津などに弥生時代後期の遺跡が残る
→旧イト倭国と新生倭国の中間点に位置する大国としてはキビがふさわしいのだが・・・
→卑弥呼共立に同調しなかった狗奴国は倭国と不和で邪馬台国(ヤマト国)との不和ではない
→狗奴国は新生倭国の南方(実際は東方)に位置する国との記述
→邪馬台国九州説では狗奴はクマ、クマソで熊本平野、球磨川の人吉盆地など
→畿内ヤマト説では熊野、駿河、関東など
→いずれも新生倭国と対抗できるほどの勢力はないので狗奴国ではないと考える
→最近では遺物や古墳から伊勢湾沿岸部や濃尾平野一帯が有力視されている(略)
・台与政権の実像(略)
・記紀の記載
→日本書紀の崇神紀には神武紀などにはない政治や軍事、経済などの時事が記載されている
→古事記にも「初国知らしし(崇神)・・・」とある
→第10代崇神が実在する初代の天皇とすれば崇神、垂仁、景行の初代三代の宮が纏向に造営
されたという記紀の記載が、纏向遺跡の大王宮の特徴と重なる
→ヤマト王権最初の男王のイメージが崇神に託され伝承と記録が崇神紀に集約されたのでは
・三輪山祭祀の成立
→崇神紀にある祭祀は大王宮で行われていたが纏向は3世紀末から4世紀初めに衰退した
→ちょうどその頃に三輪山西麓で三輪山の神を祭る祭祀が始まっている
→大神神社の祭神は(倭)大物主神だが、(出雲)大国主神と同神ともされる
→崇神紀の天照大神と倭大国魂神の分祀説話(略)
→天皇に祟る三輪山の神はヤマト王権に参加服属した地域神の統合神と考えられる
→出雲神と王権の対峙は記紀以外の文献にも見られる
→王権が制圧して取り込むべき神格として描かれている
・魏志倭人伝と記紀
→記紀には3~4世紀の記憶が伝承されモチーフになっているが歴史年表にはならない
→魏志倭人伝は暦年代が明らかで(民俗の信憑性はともかく)史書としての信頼度は高い
→ただし記紀にも3世紀の纏向王権時代の考古学的な事実と一致する記載もある(略)
→記紀は3~4世紀の伝承と記録が後の修史作業で三代天皇と神功皇后の事績に集約されたもの
・政権の安定期から分立期へ(略)
→ヤマト王権は朝鮮半島の部族的国家群との外交ルートを対馬→壱岐→伊都ルートから、
ヤマト→瀬戸内海→関門海峡→朝鮮半島ルートに変更し、コース上の孤島である沖ノ島で
境界祭祀をはじめ、これは10世紀前半まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の倭系祭祀は3世紀後半にはじまり6世紀まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の栄山川流域では十数基の前方後円墳が確認されており、部族的国家群の中に
ヤマト王権との政治関係を模索した王たちがいたことがわかる
→国内でも4世紀の大型前方後円墳の分布をみると王権の新たなパートナーが浮かび上がり、
それらは鉄や馬の生産地や潟湖・港市とも重なる
・飛鳥・奈良時代の17代のうち8代が女帝→他の時代には少ないのになぜ集中したか
→中継ぎとかではなく内政・外政の混乱期・緊張期に出現している
→卑弥呼共立も、これらの女帝擁立の時代背景と似ている
→政治的均衡と女性性による危機克服、王権伸張への期待による擁立
・エピローグ部分より(まとめ?)
1 国家の第二段階である王国の誕生こそヤマト王権の成立であり初代大王が卑弥呼という結論
→卑弥呼政権とヤマト王権は別物とする邪馬台国九州説や文献学的方法第一主義の諸説や、
卑弥呼政権からヤマト王権へ段階発展したという畿内ヤマト説(東遷説も時間関係は同じ)などは、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が、4世紀ではなく約100年(箸墓古墳からとしても約50年)
さかのぼることが明らかになっても、過去の年代観に固執したまま
(正しい年代にすると自説の修復が不可能になるから)
→疑義のある自然科学的年代決定と私の考古学的年代決定には、まだ2~30年の隔たりがあるが、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が4世紀以降とする邪馬台国論は議論の起点を誤っている
→批判や反批判は、まず同じ土俵に立つ者からはじめるのが正しい方法
→中国のどの史書にも卑弥呼が邪馬台国の女王とは書かれておらず、確実なのは倭の女王、
倭国女王で、邪馬台国(ヤマト国)とは倭国のヤマト王権が置かれた場所(国名)でしかない
→なので邪馬台国という倭国の一部族的国家に拘泥した議論はそろそろやめよう
2 倭国乱を乗り越えるために戦争という外的国家意思の発動ではなく、一国だけの独走でもなく、
各国が壮大な政治的談合(会同)を重ねた結論として卑弥呼共立がなされたという記述が重要
→談合や根回しにはマイナスイメージがあるが、Us vs. Them(我々か、あいつらか)の対立が
世界各地で噴出し奔流となっている21世紀の今こそ、談合とか根回しが、国際社会における
課題を解決する最も平和的な手段であるように思える
3 卑弥呼はヤマト王権最初の大王なので古代大王(天皇)系列の初代は女性ということになり、
その女性は会同によって共立されたということになる→皇室典範の議論にも新たな視野
4 ヤマト王権の象徴である前方後円墳祭祀の本質は首長霊の継承儀礼
→卑弥呼の鬼道とも関係の深い太陽(日神)祭祀で女性性観念、大嘗祭とも深く関わる問題
・・・
本章からのメモは五章と六章の一部だけですが、ともかく読みごたえのある本でした
写真や図表も多く分かりやすいので古代史に興味のある方には(意見の相違はあるとしても)
一読の価値のある労作だと思いました
卑弥呼とヤマト王権であります
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
著者は同志社大学考古学研究室・森浩一氏の愛弟子から千葉市の学芸員を経て橿考研へ入所、
長年にわたる研究から纏向遺跡がヤマト王権最初の大王都で卑弥呼の居所であったことを
明らかにし、その研究成果を一般向けにまとめた・・・とゆー新刊本であります
例によって目次のご紹介
日本の古代史についてはまだ謎の部分も多く、鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本や、
日本人=ユダヤ人説をメインにした小説本など、専門の研究者から在野のアマチュアまで、
あらゆる異説が飛び交う世界で、わたくしの好きな世界のひとつなのでありますね
本書は邪馬台国・卑弥呼・ヤマト王権に関する長年の論争に、そろそろ決着をつけようと、
考古学の専門家が一般読者向きにまとめられた今話題の新刊ですが、いくら一般向きとはいえ
自説以外の紹介も含めた400頁以上もある本ですから、全てのメモなどできませんでした
なので、まずは「本書の構成の説明」があったプロローグ部分のてきとーメモ
・大衆化し作家も加わった1960年代後半からの第一次邪馬台国ブーム
・吉野ケ里遺跡の調査と保存にはじまった1980年代後半からの第二次邪馬台国ブーム
→1976年に橿考研に入って、先輩からは邪馬台国と卑弥呼には関わるなと言われていたが、
纏向調査を四半世紀も続けた頃に一般読者向けの「日本の歴史」第二巻「王権誕生」の執筆を
担当することになり、はじめて明確に関わった
→邪馬台国とは奈良盆地の東南部を占める狭義の「ヤマト国」であり、卑弥呼は纏向にいたと
・邪馬台国や卑弥呼をめぐる論争は文献学上の問題であり、遺跡や遺物からの叙述は難しい
→ただし独断による文献解釈を、部分的な考古学データで取り繕うのは本末転倒である
→考古学の知見で歴史像を組み立て文献との整合性を検証し状況証拠と理論的説得力を得る
→それで邪馬台国論争にも王手を突き付けることができるはず・・・
・本書の構成の説明
第一章
いまだに知名度の低い纏向遺跡について、その考古学的な特徴の数々の積み上げが「ヤマト王権」
の実体を明らかにすること、この遺跡が「ヤマト王権」最初の大王都であったことを紹介
第二章と第三章
ヤマト王権の誕生が、この国の国家形成史においてどのような意味を持つのかの整理
→日本という国家は7世紀末の飛鳥浄御原宮からだが、倭国はそれ以前から対外交渉していた
→第二章で、この国の国家の起源や出現を正しくとらえる
→第三章で、王権誕生への飛躍の胎動を考古学の資料にもとづいて再現する
第四章
ヤマト王権の誕生を主導した勢力の由来、その舞台裏を系譜論として考察する
→ヤマト王権は弥生時代の奈良盆地や畿内の権力構成が継続的・発展的に成長したものではない
→考古学的な事実から全く別のすがたであったことを系譜論で提出する
第五章と第六章
魏志倭人伝の卑弥呼共立や卑弥呼政権の状況を整理し、文献の解釈と考古学上の事実関係に
もとづく解釈との整合性を追う
→考古学上の合理的な枠組みと文献学上の解釈との許容範囲が重なるところに、はじめて
学問としての客観性を獲得することができる
→それで邪馬台国の位置や卑弥呼共立や卑弥呼政権の実体にも迫る
→最後に卑弥呼とヤマト王権の関係を明らかにし、これまでの邪馬台国論争に区切りをつける
→これが本のタイトルを「卑弥呼と邪馬台国」にせず「卑弥呼とヤマト王権」にした理由
で・・・
以下は(著者が先輩から関わるなと言われていた)卑弥呼と邪馬台国に関する部分を中心に、
備忘のためランダムにメモした内容です
ますますてきとーで誤解もあるので、正しくは本書をお読み下さいね
・卑弥呼共立の舞台裏
→魏と呉の間にあった公孫氏にとって背後に位置する韓と倭は重要→帯方郡の設置
→公孫氏の外圧とイト国の失墜、部族国家間の牽制と閉塞状況→倭国乱から30年の空白
(倭国乱とは戦争状態ではなく大陸から見て国としての統一外交窓口がなかった状態)
→内部混乱と外部圧力から、イト国連合(イト倭国)・キビ国連合・イヅモ国連合による会盟
→ハリマ、サヌキ、アハ、イヨなど周辺の国も参加(明治維新の薩長同盟と似た感じ)
→祭祀的な女王の共立による倭国再編へ→新生倭国
・ヤマト国(邪馬台国)へ
→首都をイト国の三雲・井原からヤマト国(邪馬台国)の纏向へ(明治維新の東京遷都と似た感じ)
→それまでヤマト国の王都であった唐古・鍵にならなかったのは王権の権力構成でヤマト国の
比重がきわめて小さかったことと、新王都は新しい都市でなければならなかったことによる
(纏向川の扇状地には集落さえなかったのに忽然と出現した都)
→この遷都は現象面であり武力によるヤマト侵攻(東征論)ではない
→武力解決ではなく政治的駆け引きで解決した
→はじめての談合による日本型危機管理システムだった
→この古い伝承が神武東征神話として誇大に潤色されたことはありうる
・ヤマトに置かれた理由
→倭国の領域は3世紀前半では佐賀県から千葉県、後半では鹿児島県から山形県南部まで
→領域は面ではなくモザイク状で、造反勢力や王権とは無関係の社会も存在していた
→古墳も豊かな耕作地のある平野や盆地より、港市や河川や街道の付近など交通の要衝に多い
→地域勢力を線的にルートで押さえ関係強化することが王権にはきわめて重要だった
(やがてヤマト中心の律令国家形成の足がかりに)
→西日本の国家連合が西に睨みをきかせつつ東方進出できるヤマト国は最適位置だった
→ヤマト国は相対的に高い農業生産力と経済力、文化を持ちながら強力な部族国家がなかった
→大阪平野や京都盆地のような大規模開発できる空間も周辺にあった
→祭祀と神話の創出に最適な三輪山が纏向の東南にあった
→これが国つ神(土地神)統合神の象徴となる神奈備の山
・魏志倭人伝の卑弥呼と邪馬台国
・卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは一度も書かれていない
→倭王、倭女王、女王、女王国、倭国などの表現は複数あるが邪馬台国は一度だけで、
→「女王卑弥呼の都する所」(居所としている場所・国)を示しているにすぎない
→女王国は倭国(21国名)全体を指す場合と、女王国各国の地理的位置関係を示す場合がある
→「皆、女王国に統属す」の場合は卑弥呼の大王都の場所(ヤマト国=邪馬台国)を指す
→なので卑弥呼は倭国の女王であり邪馬台国の女王ではない
→邪馬台国とは新生倭国の大王都が置かれた国名(ヤマト国)の表現でしかない
→「東京都は日本国の首都で日本国の首相官邸は東京都にある」と同じ表現
→日本国の首相(卑弥呼)は東京都知事(ヤマト国=邪馬台国の王)ではないのと同じ
(ヤマト国の王(統治官)は倭国の官または副官がおそらく兼任していた)
・魏志倭人伝の城柵と楼観→卑弥呼の居所
→「宮室、楼観、城柵を厳かに設け・・・」の記載
→九州説では環濠集落の濠に付設する柵で纏向にはないとするが、文脈からは宮室の施設
→弥生時代中期後半から祭殿、巨大倉庫、首長居処の方形区画を囲む溝や柵、塀が作られ、
古墳時代には独立した首長館に発展する→卑弥呼の居処の城柵とは宮室などを囲むもの
→纏向遺跡の直線的な柱列(柵か塀)は、まさに倭人伝の城柵そのもの
→吉野ケ里遺跡の大規模建物跡が発掘され三階建てに復元され、楼観にも見立てられた
→楼は高層建物で復元が正しければクリアだが、観はマツリに際しカミが去来するシンボル塔
→唐古・鍵遺跡出土の大型壺に描かれた重層建物こそが楼観で、祭殿とともに建っていた
→岡山、鳥取出土の土器や福井県坂井市出土の銅鐸にも描かれている
→倭人伝が描く卑弥呼の宮殿の楼観は宮室(正殿)の付属的な建物で祭祀的機能を持つもの
→吉野ケ里遺跡で復元された建物は大きいが楼観の祭祀的機能を備えていたのか・・・
・魏志倭人伝の大倭と大率→新生倭国の支配機構(略)
→卑弥呼政権の地方支配が広域で、しかも整備されていたことが確認できる
→卑弥呼の邪馬台国が九州の小国でもかまわないとする九州説の根底を揺るがすもの
→王の名があるのは倭国の女王卑弥呼と女王に属さない狗奴国の卑弥弓呼(卑弓弥呼?)のみ
→部族国家の王は卑弥呼政権への参画によって国の統治官になったので官名のみ
→新生倭国の中枢に官が多いのは倭国の中枢とヤマト国(邪馬台国)の中枢の重層性による
→魏王朝の権威を背景に、鉄などの交易・航海権・流通機構を掌握しようと外交していた
・魏志倭人伝による卑弥呼の外交記述は当然に魏のみだが、最初の外交は公孫氏政権だった
→後漢末期の鉄刀が160年後に天理市東大寺山古墳(ヤマト国)に副葬されている(公孫氏経由?)
→卑弥呼の最初の魏への遣使は公孫氏滅亡の年(記述の誤りなら翌年)で極めて迅速
・魏志倭人伝・後漢東夷伝における倭国の地理的位置認識
→倭地(日本列島)は今の福建省福州市の東方海上にあり海南島の近くと考えられていた
→朝鮮半島から最初に到達する北九州から南へ伸びる列島と誤解していた(15世紀まで)
→倭国は大人口との誤解もあり呉の東南海上に位置する大国と認識していた
→呉・蜀と抗争する魏にとって、呉と倭が同盟することが懸念材料だった
→実際に238年、244年の銘を持つ呉の神獣鏡が、山梨と宝塚の古墳から出土している
→呉と倭の同盟を回避して君臣関係を結び、呉の背後を脅かすのが魏としては最善策だった
→いわゆる遠交近攻策
→なので外蕃の島国女王としては格段の親魏倭王の金印を授け軍事的なテコ入れまでした
(金印の真贋論争については、当時の中国製との結論がすでに出ている)
→卑弥呼政権には数世紀に渡る北部九州を中心とする外交ノウハウがあり戦略は的確迅速で
ただちに中華帝国の後ろ盾を取り付け、ヤマト王権は国家権力の整備を進めていく
・魏志倭人伝の銅鏡100枚=三角縁神獣鏡説について
→三角縁神獣鏡は中国の神獣鏡群を範型として日本で制作されたとみるほうが合理的
→古い古墳からは後漢式鏡のみで三角縁神獣鏡の出土はない
→卑弥呼に下賜された鏡なら1枚ぐらいあってもいいはず
→卑弥呼が下賜されたのは後漢式鏡が主体であったと考えているが決着はついていない
・長年にわたる纏向遺跡調査で畿内ヤマト説は確かな考古学的根拠を手にした
→だが畿内優越史観、ヤマト中心主義の先入観から、邪馬台国(ヤマト国)からヤマト王権への
発展を説明するため、邪馬台国連合なる発展段階を設定したストーリーが作り上げられた
→纏向のさらなる拡大が3世紀中頃から後葉における箸墓古墳の造営前後であったことは
否定しないが、3世紀はじめにこの遺跡が忽然と出現したことに比べれば小さな波に過ぎない
→纏向遺跡の出現から衰退までの3世紀史は時代区分としても国家体制としても分断できない
→纏向遺跡の出現こそ女王卑弥呼を擁する新たな倭国連合政権の誕生で古墳時代の幕開け
→二段階論からの「邪馬台国連合からヤマト政権へ」というフレーズが概説書や博物館の
展示解説で後を絶たないが、これは半世紀にわたる考古学の成果や研究蓄積を反故にする、
30年前のヤマト優越史観への回帰としか思えないが、はてさて読者の方々は・・・
・女王卑弥呼の実像
→自らの意志に関わりなく倭国王に祭り上げられ舵取りを担う、若く孤高な女性のイメージ
→神聖性だけでなく部族国家の世襲制王位継承から断ち切るための夫を持たない異常な選択
→卑弥呼の鬼道は初期道教の移入ではなく、高句麗・韓の「鬼神のマツリ」が参考となる(略)
→弥生時代の5月と10月の農耕のマツリでは大きな柱に銅鐸を吊るし、そのリズムで歌い踊る
→大きな柱は穀霊を招く標柱で、大地を踏み鳴らすのは地霊を奮い起こすため
(このあたりは鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本とは異なりますね)
→穀霊、地霊と共同体守護霊としての祖霊がマツリの根幹
→2世紀後半になると大きく変容する
→初期ヤマト政権のシンボルである纏向型前方後円墳の祭祀に引き継がれていく
→卑弥呼の祭祀はどの部族的国家祭祀の延長でもなく卑弥呼共立は宗教改革でもあった
→公孫氏との外交関係から道教思想がより整備されたかたちで取り入れられ前方後円墳という
この国独自の大王墓創出へつながったと理解したい
・ヒメ・ヒコ制と、卑弥呼と男弟の関係
→母系社会から父系社会へ移行し男系世襲王制が確立するまでの形態と考えられていた
→近年の文献史学では日本の古代社会は双系的とする見解が一般的
→考古学でも形質人類学による被葬者間の血縁関係の解明が進められている(略)
→3世紀から5世紀中頃までのキョウダイ同一墳墓はヒメ・ヒコ制と整合するようにも見える
→聖(祭祀)俗(政治軍事)の二重様相が現れた理由を聖俗二重王制とは異なる視点から考えるべき
→縄文時代は母親の確実性と父親の不確実性から女性優位だった
→弥生時代になると可耕地争奪が優先され出産は軽視、男性優位に
→女性性は祭祀の中で観念化され神秘化されていく
→魏志倭人伝による卑弥呼の男弟は執政を補佐する立場で聖俗分担の関係ではない
→卑弥呼の死後、男弟の擁立は部族王たちから猛反発され13歳の台与が共立される
→その後にヤマト王権が強力になり初代の男王が誕生(崇神?)
・卑弥呼の死と墓
→卑弥呼の死に関する魏志倭人伝の記述をめぐっては、さまざまな説があるが、(略)
→「墓の径は百余歩」とあり径144mの円墳になるが、日本最大の円墳は富雄丸山古墳で
径109mであり、しかも4世紀前葉の築造と推定される
→この規模の3世紀の古墳であれば前方後円墳と考えるのが自然のなりゆき
→箸墓古墳の築造は3世紀中葉とされ後円部の径は現在では165mとされる
→日本書紀の崇神紀にある箸墓に葬られた姫の伝承と卑弥呼の共通性
→同紀にある「大坂山(二上山北麓)から人々が並び石を運んだ」記述と宮内庁調査報告の一致
→これらから箸墓古墳=卑弥呼の墓は有力説だが、年代や墳型などに疑問点も多く残る
→もし箸墓古墳のような定形型前方後円墳ではなく石塚古墳・矢塚古墳・ホケノ山古墳のような
纏向型前方後円墳なら、どれも前方部が低く扁平で発掘調査までは円墳とされていたもの
→しかし、どれも後円部の径は60mほどしかなく魏志倭人伝の「径は百余歩」と合わない
→(魏志倭人伝には概数や誇張も多いが)これを実数として径を周壕を合わせた墓域とすれば、
(漢代から三国時代の中国では皇帝陵の規模は高さと兆域の広さで表すことが一般的だった)
石塚古墳・矢塚古墳の円域の径はほぼ百歩で、いずれも第一次大王宮の西方延長上にある
→今はいずれかが卑弥呼の墓と考えており、より大王宮に近い石塚古墳が第一候補
→土器類の評価に議論があり築造時期が確定していないが、埋葬までの時間幅の長さかも
(ホケノ山古墳はやや小さく副葬品から被葬者は男性の可能性が高いので除外)
・箸墓古墳の被葬者
→卑弥呼説、台与説が有力だが台与の後の男王説も考えている
→魏志倭人伝は台与で終わるが晋書武帝記や梁書諸夷伝には使者を送った男王の記述がある
→この男王を崇神に比定しヤマト王権最初の大王とする説→箸墓古墳の被葬者は崇神説
→文献上の男王系譜とは整合的だが、上記の姫の箸墓伝承とは合わない
→明らかになった築造年代からは男王の治世が短かったことになり決定打はまだない
・魏志倭人伝の邪馬台国が畿内ヤマトに比定されるなら投馬国と狗奴国の位置は・・・
→倭地(日本列島)は南北に長いと考えられていたから南を東に読み替える
→投馬国は不弥国(正確な位置には諸説あるが北部九州)から水行20日で沿岸航行なら340km
→日本海ルートではイヅモ、瀬戸内海ルートではキビになり、どちらも出土品から有力候補
→イヅモ説なら邪馬台国へ水行10日陸行1月で、水行10日を按分すれば鳥取・兵庫・京都に
陸行への中継点などの遺跡が残っており、船団や準構造船を描いた板材も出土している
→キビ説なら水行10日は陸伝い島伝いで、やはり各港津などに弥生時代後期の遺跡が残る
→旧イト倭国と新生倭国の中間点に位置する大国としてはキビがふさわしいのだが・・・
→卑弥呼共立に同調しなかった狗奴国は倭国と不和で邪馬台国(ヤマト国)との不和ではない
→狗奴国は新生倭国の南方(実際は東方)に位置する国との記述
→邪馬台国九州説では狗奴はクマ、クマソで熊本平野、球磨川の人吉盆地など
→畿内ヤマト説では熊野、駿河、関東など
→いずれも新生倭国と対抗できるほどの勢力はないので狗奴国ではないと考える
→最近では遺物や古墳から伊勢湾沿岸部や濃尾平野一帯が有力視されている(略)
・台与政権の実像(略)
・記紀の記載
→日本書紀の崇神紀には神武紀などにはない政治や軍事、経済などの時事が記載されている
→古事記にも「初国知らしし(崇神)・・・」とある
→第10代崇神が実在する初代の天皇とすれば崇神、垂仁、景行の初代三代の宮が纏向に造営
されたという記紀の記載が、纏向遺跡の大王宮の特徴と重なる
→ヤマト王権最初の男王のイメージが崇神に託され伝承と記録が崇神紀に集約されたのでは
・三輪山祭祀の成立
→崇神紀にある祭祀は大王宮で行われていたが纏向は3世紀末から4世紀初めに衰退した
→ちょうどその頃に三輪山西麓で三輪山の神を祭る祭祀が始まっている
→大神神社の祭神は(倭)大物主神だが、(出雲)大国主神と同神ともされる
→崇神紀の天照大神と倭大国魂神の分祀説話(略)
→天皇に祟る三輪山の神はヤマト王権に参加服属した地域神の統合神と考えられる
→出雲神と王権の対峙は記紀以外の文献にも見られる
→王権が制圧して取り込むべき神格として描かれている
・魏志倭人伝と記紀
→記紀には3~4世紀の記憶が伝承されモチーフになっているが歴史年表にはならない
→魏志倭人伝は暦年代が明らかで(民俗の信憑性はともかく)史書としての信頼度は高い
→ただし記紀にも3世紀の纏向王権時代の考古学的な事実と一致する記載もある(略)
→記紀は3~4世紀の伝承と記録が後の修史作業で三代天皇と神功皇后の事績に集約されたもの
・政権の安定期から分立期へ(略)
→ヤマト王権は朝鮮半島の部族的国家群との外交ルートを対馬→壱岐→伊都ルートから、
ヤマト→瀬戸内海→関門海峡→朝鮮半島ルートに変更し、コース上の孤島である沖ノ島で
境界祭祀をはじめ、これは10世紀前半まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の倭系祭祀は3世紀後半にはじまり6世紀まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の栄山川流域では十数基の前方後円墳が確認されており、部族的国家群の中に
ヤマト王権との政治関係を模索した王たちがいたことがわかる
→国内でも4世紀の大型前方後円墳の分布をみると王権の新たなパートナーが浮かび上がり、
それらは鉄や馬の生産地や潟湖・港市とも重なる
・飛鳥・奈良時代の17代のうち8代が女帝→他の時代には少ないのになぜ集中したか
→中継ぎとかではなく内政・外政の混乱期・緊張期に出現している
→卑弥呼共立も、これらの女帝擁立の時代背景と似ている
→政治的均衡と女性性による危機克服、王権伸張への期待による擁立
・エピローグ部分より(まとめ?)
1 国家の第二段階である王国の誕生こそヤマト王権の成立であり初代大王が卑弥呼という結論
→卑弥呼政権とヤマト王権は別物とする邪馬台国九州説や文献学的方法第一主義の諸説や、
卑弥呼政権からヤマト王権へ段階発展したという畿内ヤマト説(東遷説も時間関係は同じ)などは、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が、4世紀ではなく約100年(箸墓古墳からとしても約50年)
さかのぼることが明らかになっても、過去の年代観に固執したまま
(正しい年代にすると自説の修復が不可能になるから)
→疑義のある自然科学的年代決定と私の考古学的年代決定には、まだ2~30年の隔たりがあるが、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が4世紀以降とする邪馬台国論は議論の起点を誤っている
→批判や反批判は、まず同じ土俵に立つ者からはじめるのが正しい方法
→中国のどの史書にも卑弥呼が邪馬台国の女王とは書かれておらず、確実なのは倭の女王、
倭国女王で、邪馬台国(ヤマト国)とは倭国のヤマト王権が置かれた場所(国名)でしかない
→なので邪馬台国という倭国の一部族的国家に拘泥した議論はそろそろやめよう
2 倭国乱を乗り越えるために戦争という外的国家意思の発動ではなく、一国だけの独走でもなく、
各国が壮大な政治的談合(会同)を重ねた結論として卑弥呼共立がなされたという記述が重要
→談合や根回しにはマイナスイメージがあるが、Us vs. Them(我々か、あいつらか)の対立が
世界各地で噴出し奔流となっている21世紀の今こそ、談合とか根回しが、国際社会における
課題を解決する最も平和的な手段であるように思える
3 卑弥呼はヤマト王権最初の大王なので古代大王(天皇)系列の初代は女性ということになり、
その女性は会同によって共立されたということになる→皇室典範の議論にも新たな視野
4 ヤマト王権の象徴である前方後円墳祭祀の本質は首長霊の継承儀礼
→卑弥呼の鬼道とも関係の深い太陽(日神)祭祀で女性性観念、大嘗祭とも深く関わる問題
・・・
本章からのメモは五章と六章の一部だけですが、ともかく読みごたえのある本でした
写真や図表も多く分かりやすいので古代史に興味のある方には(意見の相違はあるとしても)
一読の価値のある労作だと思いました
2023年09月03日
スバル・レックス納車編
とーとつですが・・・
1月末の発注から7ヶ月待ち、8月末に納車されたスバル・レックスであります
(6か月後の2024年3月、記事末尾に仕様などを追記しました)
上記リンク記事と似たような絵柄ですが、こちらが納車時の様子・・・
ええ、リモコンキーが少しデカいでしゅが・・・
これは記念撮影用だそうで、せっかくなのでスバル屋さんに撮ってもらった1枚
で、左が8年乗ったXV(クロストレック)、右が新98k号になるレックス・・・
左のデザートカーキとゆーボディカラーがお気に入りだったのですがレックスにはなく、
仕方なく右のナチュラルベージュとゆーのにしました・・・
ま、タミヤカラーでいえばダークイエローからデザートイエローに替わったとゆー感じで、
どちらも砂漠では捕捉されにくい色合いであります・・・
って、8年前と同じく色合いのお話になりましたが、わたくしがクルマで説明できるのは
色合いやデザインといった外見と内装だけなので、今回はそちらだけ・・・
フロントビューは最初に紹介してるので・・・
サイドビュー
リアビュー
かがやく六連星とREXの文字・・・
ま、これがなければダイハツ・ロッキーなんでしゅが・・・
で、操縦席・・・
荷室・・・
ボトムはこのフラット状態から1段下げることもでき、さらに外せば・・・
こんな感じになります
リアシート左を倒した状態
右も倒した状態
フルフラットにはなりませんが斜めにマットを敷けば、何とか寝られるかと・・・
いずれ車中泊仕様も工夫しないとね
フロントシート・・・
リアシート
と、何せこの暑さなので屋外で画像を撮るのは、ここらであきらめました
で、室内に戻り、とりあえず使い方でも・・・
って、こちらもすぐに読むのをあきらめ・・・
とりあえずXVから下ろしてた車載品の整理でも・・・
さてさて、どれを再び車載すればいいのか・・・
あまりに暑いので、ま、今日はここまでにしてと・・・ぷしゅ
(9月4日に実走してみての追記です)
本日、所用で大阪から滋賀まで走行してきました(往復約250km)
殆どが高速道路走行でしたが、とりあえずのXVと比較した感想です
①さらに小型のSUVになったので、高速でのふらつきが心配だったけど、まあまあ安定しており、
カーブでの路面への吸いつきなどは、むしろ良くなった感じ→新品タイヤになったから???
②8年前のスバル・アイサイトから最新のダイハツ・スマートアシストになったのだけど、
やはり挙動が異なってて、慣れていないのでおろおろした
→特に前車追従モードで上り坂にさしかかった際の反応が遅くなった気がする
→その他の挙動にも(取説を読まないので)おろおろして慣れるまで時間がかかりそう
③水平対向4気筒2000cc4WDから直列3気筒1200ccFFになったのでパワー不足など心配してたけど、
エンジン音と追い越し加速と上り坂でやや不満があるものの、まあ許せる範囲か・・・
どうせパワーや4WDを必要とする道を走破することは今後ないだろうし・・・
(1ヶ月後の追記です。エアコンがフル稼働だと差が歴然でしたが、これも想定範囲内)
④電動パーキングブレーキになり前車追従で「停車維持」できるようになったのは便利
⑤ナビを安物にしたからか音声案内のレベルが変えられず、ほぼONかOFFだけみたいで、
ルート案内ONの際には、おねいさんが細かい注意まで延々としゃべり続けてる
(追記です。1ヶ月点検で少しは静かにしてもらいました)
⑥ドラレコや全方向カメラを付けたけど、まだ取説を読んでないので便利さは不明
⑦他にも様々なモード切替があるようだけど、今後も取説を読まないだろうから不明のまま
⑧普通車から小型車になり、取り回しはよくなったはずだけど、車両感覚がないので慎重なまま
といった感じですが、さてさて山道や雪道ではどうなんだろ・・・
(1ヶ月後の追記です。少しは慣れて小型車になった取り回しのよさを実感してます)
(6か月後、2024年3月の追記です)
スバルから以下の発表がありました
多大なるご迷惑・ご心配をおかけしておりますことを深くお詫び申し上げます。」
そう、4月下旬には生産終了(ダイハツ自体が小型車の生産から撤退?)つーことらしいので、
わたくしの現行レックスは永久に最新モデルつーことになります
これは手放すまで15年間ずっと最新モデルだったワーゲンビートル1976年式(最終型)と同じで、
ある意味レアなクルマになりそうです
つーことで備忘のため諸元表の一部をコピペ追加しておきます
1月末の発注から7ヶ月待ち、8月末に納車されたスバル・レックスであります
(6か月後の2024年3月、記事末尾に仕様などを追記しました)
上記リンク記事と似たような絵柄ですが、こちらが納車時の様子・・・
ええ、リモコンキーが少しデカいでしゅが・・・
これは記念撮影用だそうで、せっかくなのでスバル屋さんに撮ってもらった1枚
で、左が8年乗ったXV(クロストレック)、右が新98k号になるレックス・・・
左のデザートカーキとゆーボディカラーがお気に入りだったのですがレックスにはなく、
仕方なく右のナチュラルベージュとゆーのにしました・・・
ま、タミヤカラーでいえばダークイエローからデザートイエローに替わったとゆー感じで、
どちらも砂漠では捕捉されにくい色合いであります・・・
って、8年前と同じく色合いのお話になりましたが、わたくしがクルマで説明できるのは
色合いやデザインといった外見と内装だけなので、今回はそちらだけ・・・
フロントビューは最初に紹介してるので・・・
サイドビュー
リアビュー
かがやく六連星とREXの文字・・・
ま、これがなければダイハツ・ロッキーなんでしゅが・・・
で、操縦席・・・
荷室・・・
ボトムはこのフラット状態から1段下げることもでき、さらに外せば・・・
こんな感じになります
リアシート左を倒した状態
右も倒した状態
フルフラットにはなりませんが斜めにマットを敷けば、何とか寝られるかと・・・
いずれ車中泊仕様も工夫しないとね
フロントシート・・・
リアシート
と、何せこの暑さなので屋外で画像を撮るのは、ここらであきらめました
で、室内に戻り、とりあえず使い方でも・・・
って、こちらもすぐに読むのをあきらめ・・・
とりあえずXVから下ろしてた車載品の整理でも・・・
さてさて、どれを再び車載すればいいのか・・・
あまりに暑いので、ま、今日はここまでにしてと・・・ぷしゅ
(9月4日に実走してみての追記です)
本日、所用で大阪から滋賀まで走行してきました(往復約250km)
殆どが高速道路走行でしたが、とりあえずのXVと比較した感想です
①さらに小型のSUVになったので、高速でのふらつきが心配だったけど、まあまあ安定しており、
カーブでの路面への吸いつきなどは、むしろ良くなった感じ→新品タイヤになったから???
②8年前のスバル・アイサイトから最新のダイハツ・スマートアシストになったのだけど、
やはり挙動が異なってて、慣れていないのでおろおろした
→特に前車追従モードで上り坂にさしかかった際の反応が遅くなった気がする
→その他の挙動にも(取説を読まないので)おろおろして慣れるまで時間がかかりそう
③水平対向4気筒2000cc4WDから直列3気筒1200ccFFになったのでパワー不足など心配してたけど、
エンジン音と追い越し加速と上り坂でやや不満があるものの、まあ許せる範囲か・・・
どうせパワーや4WDを必要とする道を走破することは今後ないだろうし・・・
(1ヶ月後の追記です。エアコンがフル稼働だと差が歴然でしたが、これも想定範囲内)
④電動パーキングブレーキになり前車追従で「停車維持」できるようになったのは便利
⑤ナビを安物にしたからか音声案内のレベルが変えられず、ほぼONかOFFだけみたいで、
ルート案内ONの際には、おねいさんが細かい注意まで延々としゃべり続けてる
(追記です。1ヶ月点検で少しは静かにしてもらいました)
⑥ドラレコや全方向カメラを付けたけど、まだ取説を読んでないので便利さは不明
⑦他にも様々なモード切替があるようだけど、今後も取説を読まないだろうから不明のまま
⑧普通車から小型車になり、取り回しはよくなったはずだけど、車両感覚がないので慎重なまま
といった感じですが、さてさて山道や雪道ではどうなんだろ・・・
(1ヶ月後の追記です。少しは慣れて小型車になった取り回しのよさを実感してます)
(6か月後、2024年3月の追記です)
スバルから以下の発表がありました
「ダイハツ工業株式会社による不正行為に伴い、生産・出荷を停止しておりましたが、
2024年3月4日より出荷を再開し、3月18日より生産を再開いたします。
レックスは、4月下旬に現行モデルの生産を終了予定です。多大なるご迷惑・ご心配をおかけしておりますことを深くお詫び申し上げます。」
そう、4月下旬には生産終了(ダイハツ自体が小型車の生産から撤退?)つーことらしいので、
わたくしの現行レックスは永久に最新モデルつーことになります
これは手放すまで15年間ずっと最新モデルだったワーゲンビートル1976年式(最終型)と同じで、
ある意味レアなクルマになりそうです
つーことで備忘のため諸元表の一部をコピペ追加しておきます
車名・型式 スバル・5BA-A201F
車種 Z 1.2L DOHC 2WD
自動無段変速機 CVT
寸法・重量・定員
車種 Z 1.2L DOHC 2WD
自動無段変速機 CVT
寸法・重量・定員
全長×全幅×全高(mm) 3,995×1,695×1,620
室内長×室内幅×室内高(mm)1,955×1,420×1,250
ホイールベース(mm) 2,525
トレッド[前/後](mm)1,475/1,470
最低地上高(mm)185
車両重量(kg) 980
乗車定員(名) 5
車両総重量(kg) 1,255
性能
最小回転半径(m)5.0
燃料消費率(km/L)
(国土交通省審査値)JC08モード 23.6
(国土交通省審査値)WLTC8モード 20.7
市街地モード(WLTC-L) 15.9
郊外モード (WLTC-M) 21.9
高速道路モード(WLTC-H) 22.9
主要燃費向上対策
自動無段変速機:CVT、ロックアップ機構付トルコン、可変バルブタイミング、電動パワー
ステアリング、アイドリングストップ装置、オルタネータ回生制御、クールドEGR
自動無段変速機:CVT、ロックアップ機構付トルコン、可変バルブタイミング、電動パワー
ステアリング、アイドリングストップ装置、オルタネータ回生制御、クールドEGR
ステアリング・サスペンション・ブレーキ
ステアリング歯車形式 ラック&ピ二オン
サスペンション[前輪/後輪]
マクファーソン・ストラット式コイルスプリング/トーションビーム式コイルスプリング
ブレーキ[前/後] ベンチレーテッドディスク/リーディング・トレーリング
駐車ブレーキ形式 (後2輪制動)電気式
エンジン
型式・種類 WA-VE型 水冷直列3気筒12バルブDOHC横置
内径×行程(mm)73.5×94.0
総排気量(cc)1,196
圧縮比 12.8
最高出力[ネット][kW(PS)/rpm]64[87] / 6,000
最大トルク[ネット][N・m(kgf・m)/rpm]113[11.5] / 4,500
燃料供給装置 EGI(電子制御燃料噴射装置)
燃料タンク容量(L)36
燃料種類 無鉛レギュラーガソリン
トランスミッション
変速機形式 CVT[自動無段変速機/マニュアルモード(7速シーケンシャルシフト)付]
クラッチ形式 3要素1段2相形(ロックアップ機構付)
変速比(前進) 2.800〜0.425
変速比(後退) 4.784〜2.145
減速比 5.105
ま、何のことやら殆ど理解できませんが「永久に最新モデル」記念つーことで・・・
ま、何のことやら殆ど理解できませんが「永久に最新モデル」記念つーことで・・・