2024年08月
2024年08月30日
戦争と交渉の経済学
とーとつに前回記事までとは真逆の世界・・・じつは同じ世界でもあるわけですが・・・

Why We Fight ~The Roots of War and the Paths to Peace~
戦争と交渉の経済学~人はなぜ戦うのか~とゆー本の(部分)紹介であります
表紙カバー裏にあった惹句

そう、この数十年間の経済学・政治学・心理学の研究結果は、これまでの直感とは異なり、
「人々はめったに戦わない」、「戦争の原因は少なくたった5つしかない」ということだった、
で、この5つの原因に取り組むことで暴力の動機を減らし取引に向かう動機を増やせることを
実例とともに明らかにする・・・という内容の本でした
裏表紙カバー裏にあった著者・翻訳者紹介

奥付

例によって目次のみ





本文だけでも450頁、原注や参考文献も含めると550頁ちかい大著でした
理屈だけでなく実際に現地で取材した事例が各章に出てくるので説得力がありましたが、
古今東西の戦争理論や経済理論の嚙み砕いた解説もあって、ともかく膨大な情報量・・・
つーことで・・・図書館への返却期限もあることだし・・・
第1部メインの2章から6章は飛ばし読み、第2部はキーワードのみ拾い読みしましたので、
以下はごく一部の読後メモになります
例によって読み違いも多いので、興味を持たれた方は本書の熟読をお願いしますね
(著作物からの自分用メモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1部の序章より
・シカゴの若者グループ同士の殺し合い、北部ウガンダの暴力で学んだこと
→社会の成功とは、単なる富の拡大ではなく、
→自分の11歳の娘が反政府組織によって奴隷にされないこと
→通り過ぎる車からの銃撃や流れ弾に怯えず家の前に座っていられること
→警察や裁判所や市役所に行けば曲がりなりにも正義を求められること
→政府に住んでいる場所から追い出されて強制収容所に押し込められないこと
→これが「自由としての開発」(アマルティア・セン)→暴力からの自由は重要
・武力紛争は人々を貧困に追い込み社会の発展を損なう
→これは国にも都市にも当てはまる
→「国家を最も野蛮な段階から最も豊かな段階に引き上げるのに必要なのは、
平和と安い税金と反発を招かない司法の運営だけである」アダム・スミス1755年
→繁栄と平等な権利と正義の実現には必然的に戦争について考えなければならない
・本書における戦争の意義(定義)
→「集団の間での、長期にわたる、あらゆる種類の暴力的な争い」
(集団には村、氏族、ギャング、民族、宗派、政治的党派、国家などを含む)
(個人の争い、短期間の小競り合い、暴力的ではない熾烈な競争などは含まない)
・具体的に考察するのは、
①北アイルランドの過激派
②コロンビアの麻薬カルテル
③ヨーロッパの専制君主
④リベリアの反乱軍
⑤古代ギリシャの寡頭政治家
⑥シカゴのギャング
⑦インドの暴徒
⑧ルワンダの大量虐殺者
⑨イギリスのサッカーのフーリガン
⑩侵略者としてのアメリカ
・戦争は例外であり通常は選択されない
→現実には最も激しく対立する敵同士でも非暴力的に争う方を選ぶ
→この事実は忘れられがちで回避された無数の衝突について書かれた本は少ない
・近接して対立する2つの集団で、実際に武力衝突が起きた組み合わせの数
→アフリカの民族抗争では2000組で年間1組
→インドの宗派衝突では年間1000万人あたり1件未満で死亡率はせいぜい16人
(アメリカ大都市の殺人発生率は少なくとも10万人あたり16人でインドの100倍)
・国家間レベルでも同じ
→アメリカとソ連、パキスタンとインド、南北朝鮮、南シナ海、アフリカ植民地・・・
→回避された武力衝突は無数にあるのに失敗だけに注目する選択バイアス
→この選択バイアスでは戦争の原因と平和への道筋を誤解してしまうことになる
→成功例にも失敗例にも見られる要素はおそらく戦争の原因ではない
・統計学者エイブラハム・ウォルドによる大戦中のB17爆撃機の補強への指摘
→帰還したB17の胴体と翼への弾痕が多かったので軍はその部分の補強を命じた
→ウォルドは逆に弾痕の少なかった操縦席やエンジンへの補強を主張した
→操縦席やエンジンへの被弾で撃墜されているのに軍が生存者バイアスで選択していたから
・戦争に関しては逆の失敗バイアスで選択しがち
→武力衝突の回避に失敗した(撃墜された)弾痕(貧困・不満・銃など)だけに注目している
→実際には虐げられた者が蜂起することはめったになく、若く貧しい民衆煽動家のほとんどは
反乱を起こさず、重武装した集団でも武力衝突より冷戦を選んでいることに注目すべきなのに
失敗バイアスで選択している→回避に成功した要因にも注目すべき
・重武装している集団が非難し合い、脅し合い、武器をひけらかすのは普通のことだが、
流血や破壊は普通のことではない
・私が望むのは、読者があらゆる場面でこの事実に注目することで、(それにより)
→多くの大言壮語や好戦的な言説の中に講和を主張する政治家の意見があることに気づくかも
→敵対する集団同士が短期間ミサイルを撃ち合ってから攻撃を止めた事例に目がとまるかも
→「陛下、和平です」と耳元でささやく顧問官、老練な将軍が若く血気はやる将校にどんな
悲惨な事態が待ってるかを気付かせるシーンにハッとするかも・・・
→一番わかりやすいのは「戦費が賄えません」と冷静に指摘する財務担当者や金庫番の姿かも
→こうした葛藤やコストが敵対し合う集団を妥協へと向かわせる
・殆どの状況で講和を求める声が勝るのは戦争が破滅を招くから
→互いにヒートアップして小競り合いが起きても殆どは冷静な判断が優勢になる
(1つの戦争の裏では1000の戦争が話し合いと譲歩で回避されてきた)
→戦争を長引かせて国の利益になったことはない(孫子)
→長い議論の方が長い戦争よりまし(戦前のウィンストン・チャーチル)
→政治は流血のない戦争で戦争は流血を伴う政治(毛沢東)
→戦争は他の手段による政治の継続(毛沢東が読んでいたカール・フォン・クラウゼヴィッツ)
・7000年前の都市文明では戦う騎馬遊牧民を常に金で追い払い略奪から都市を守っていた
→多くの帝国は戦うか服従して貢物を差し出すかの選択肢をまず小国に示した
→町や村で殺人を犯した者の一族は被害者の遺族に賠償金を払い報復の連鎖を避けた
・ヨーロッパの平民と貴族の何世紀にもわたる闘争
→歴史家は農民の反乱に注目しがちだが、それは貴族が譲歩を拒んだ僅かな事例にすぎない
→ヨーロッパのゆっくりした民主化は、反乱を伴わない長期にわたる革命の連続と言える
・各国は戦争より相手を懐柔することを選んだ
→しばしば強い国は弱い国の領土を銃を撃たずに奪ったが弱い国は不本意ながらも従った
→ヨーロッパでは植民地を巡る戦争を避けるため会議で穏便に分割した
→アメリカはロシアからアラスカ、フランスから中西部を買収して、スペインからキューバも
買収しようとしたけど・・・
・現代の領土問題はさらに微妙→埋蔵資源、水資源、海洋など・・・
→アメリカ・ロシア・中国などの覇権国家が弱小国に様々な圧力をかけている
→不公正だが弱小国の選択が武力行使であることは殆どない
→国内では政治的党派が巧妙な手段で不公正に再分配しているがこれも平和的な取引
・残念なことだが平和は必ずしも平等や公正を意味しない
→世界は残酷だが平和な不公平にあふれている
→軍と政府を掌握する少数民族による多数民族の支配、上流階級による生産設備などの独占、
軍事的超大国による他国への自国世界秩序の押し付け・・・
→それでも革命の犠牲とリスクは大きすぎるので反乱より妥協を選択している
・殆どの場合に妥協が選択されるのは双方の集団が戦略的に行動するから
→先を読み、相手を見極め、予測して行動を決める→ゲーム理論→完全ではない
(特殊な状況においては戦うことが最善の戦略になる→後述)
→本書の枠組みは基本的にシンプルな戦略ゲーム
→どんな事例にも根本には自分たちの利益を追求する人間の衝動があるから
・政治的解決が失敗する理由は5つに限られる(第1部の2章~6章で証明→略)
第1の理由 抑制されていない利益
→和平へのインセンティブは戦争による犠牲だが、それを決定する人々が集団の他の人々に対して
責任を負わない場合は、犠牲や苦難をある程度は無視できる
→彼らが武力衝突で利益を得ようとしている可能性もある
→このような抑制されていない支配者(の利益)が武力紛争の最大原因の1つ
第2の理由 無形のインセンティブ
→暴力により、復讐・地位の獲得・支配など「無形の目的」を達成できる場合がある
→神の栄光・自由・不正との戦いなど「無形の目的」を達成する手段が暴力の場合もある
→一部の集団にとって無形の報酬は戦いから苦しみや損失を取り除くものになる
→この無形の報酬を最優先する集団は戦争の犠牲をいとわず妥協を拒否する
第3の原因 不確実性
→敵の戦力や戦意の程度が分からない場合や、自分が相手と同じ情報を持っていない場合は
不利益であっても攻撃が最善の戦略になる場合がある(ポーカーのブラフで降りないのと同じ)
第4の原因 コミットメント(確約や公約)の問題
→双方が戦争による破滅を避けるための政治的取引を望んでいるが、その取引がまったく
信用できない状況
(こちらが攻撃しなければ敵は何を約束するか、敵とは約束できないし、たとえ約束しても、
それが信用できないことを、双方がわかっている場合)
第5の原因 誤認識が妥協の邪魔をする
→人間は自信過剰な生き物で、他の人々も自分と同じ考え、価値、世界だと決めつける
→大きな集団でも様々な誤った信念を持ってるので合意を見いだす能力を誤認識に奪われる
→敵を悪魔のように捉え邪悪な動機を持っていると決めつける
→競争や対立はこうした誤った判断をさらに悪化させる
・戦争に対する説明の殆どは、これら5つが姿を変えたもので、5つの分類は類型論
→すでに存在する膨大な理論や学説を整理したもの
→これら5つのいくつかが重なることで、平和の維持がますます困難になる
→脆弱なコミュニティや都市や国家で暮らすというのはそういうことなのだ
・原因ではないものを見分ける能力も必要
→貧困、資源、気候変動、民族分断、分極化、為政者の不正、武器拡散などは、少なくとも
それだけで平和インセンティブを阻害することはなく、武力衝突の火種はおそらく別にある
→戦争の回避に成功した例と失敗した例の両方に注目して戦略的思考を少し働かせる
(どの弾痕が生還した飛行機にあったもので、どの弾痕が撃墜された飛行機にあったものか)
→5つの基本原因に焦点を絞ること
・5つの論理について検討する最大の目的は、なぜ安定して平和で繁栄した社会が存在するのか
を理解し、どうすれば暴力的な社会をそうした社会に変えられるかを考えだすこと
→それが第2部のテーマで第2部のメッセージはシンプル
→「安定した社会の集団は激しく敵対していても武力衝突を起こさない」ということ
→村、ギャング、民族集団、都市、国家、世界は、武力衝突インセンティブを無効にする方法を
数えきれないほど編み出してきた・・・
第1部の第1章より(ガイダンス部分のみのメモ)
・コロンビア・メデジンの例(略)
→普通の本ならギャング抗争の流血の実態と原因を描くだろう
→公民権なき若者、銃、政治腐敗、秩序崩壊・・・
→実際には小競り合いが戦争にはならず99.9%をグループ間の交渉と取引で回避している
(殺人事件の発生率は多くのアメリカ大都市より低い)
・戦争より交渉と取引、長期ストライキより譲歩、訴訟より和解→これがゲーム理論だが、
→「戦争の5つの原因」がそれぞれ別の形で平和的なパイの分割を阻害している
・第2章から第6章は「戦争の5つの原因」の解説(略)で回避の失敗例を見ていくが、
①戦争は例外であって通常は選択されないこと
②悲惨な出来事ばかりが語られるが世界は意外に頑丈にできていること
③私たちの手には頼もしいツールがあり常に平和への引力が働いていること
→常にこれらを覚えていてほしい・・・
第2部からはキーワードのみランダムにメモ
・成功した社会が競争を平和裏に処理するために用いた方法
→①相互依存 ②抑制と均衡 ③規則の制定と執行 ④介入
①経済的、社会的、文化的に絡み合った「相互依存」(略)
②制度による「抑制と均衡」を通じた権力の分散
→選挙・多数決の民主主義国家でも権力集中の可能性はあり、非民主主義国家でも党組織、
地域の政治家、独立した軍部、大物資産家、巨大な官僚組織などによる権力分散もある
→制度による抑制と均衡が重要
→事実上の権力の源泉は軍事力・動員力・物資力→この抑制と均衡
③法、国家、社会規範といった「規則の制定と執行」のための制度
・メデジンの各ギャングは協定を制定して破った者に介入した→マシンガン協定
・人類最初の政府は、秩序を維持することで経済的利益を得る犯罪者の組織だった
→いずれも不平等で抑圧的だが有効性があり、秩序がないよりはましだった
・国連の安保理も不平等で一貫性がなく偏向しているが、あるからより平和になっている
(国連の人権に関する法と規範、妥協成立に向けての支援、制裁、調停、平和維持・・・)
・「国連が作られたのは人類を天国に連れていくためではなく、地獄から救うためだ」
(国連事務総長だったダグ・ハマーショルドの好んだ言い方)
・階層的な同盟の集合である世界の国際システムはメデジンのギャング組織と同じ
→無政府状態ではなく地域的に平和と協力が実現されていると考えるべき
④5つの原因を無効にする「介入」のためのツールセット(暴力が発生しても止められる準備)
・戦争に介入する5つの手段(懲罰、執行、調整、インセンティブ、社会化)→略
→効果は期待より小さいが一つ一つの動きが少しずつ平和へ近づけていく
・内戦の鎮静化は大量殺戮の阻止・クーデターの封殺・独裁政権の転覆などとは目的が異なる
→内戦の鎮静化に限れば、多くの場合は大規模な平和維持部隊が状況を改善する
・信頼とは裏切っても利益にならないと互いにわかること→信頼の醸成が調停者の役割
・腐敗した権力を取り込み新たな武力蜂起を防ぐ介入→平和の負の側面だが、
→腐敗の撲滅や民主化を急いで追求すれば、戦争に逆戻りする可能性もある
→短期的には武力抗争の終結を金で買うことができるが、それが安定して持続するかは不明
→レアルポリティークと理想主義のバランスが必要で、教育や小さな規則変更と並行して、
漸進的に改善していくことも・・・
・なぜ戦うのかを考える際に失敗に注目してはいけない(具体例は略)
→「○○が戦争を起こす」→それが妥協へのインセンティブになり得るかを考える
→貧しい人々が戦争を起こすのではなく、起きている戦争に加わって死傷者が増加する
→平和なときは飢えた人々を喜んで軍事組織に入れるが、行うのは戦闘ではなく訓練
→貧困の根絶などは戦争の終結には有効だが平和構築への効果は薄い→目的は暴力の回避
・武装勢力同士を戦わせて解決させる「決定的勝利説」には重要な視点が抜け落ちている
→解決までに果実を享受できず死んでいく人を無視している→生存者バイアスの一例
→戦争が平等社会、強い国家、技術革新を実現した時代だけに焦点をあてており、
それらに失敗した戦争は見過ごされている
・「戦争が国家を作る」説の対象は1400年代から1814年までの西ヨーロッパのみ
→それ以外の地域でも戦乱から、より適した政府やより平等な社会が生まれることもあったが、
殆どの長期間の戦争は、破壊により社会を脆弱にして没落や侵略を招き、一体性を崩壊させ
経済発展を遅らせただけ
・技術の進歩や強い国家など殆どの利益は実際の戦争ではなく(冷戦のような)激しい競争から
・戦争とは関係なく実現した安定性、平等、国家建設は膨大にある(特に戦後の平和な時代)
「結論」→すべての人のための原則として・・・私の「十戒」
①容易な問題と厄介な問題を見分けなさい
→天然痘の大規模予防接種は手順・成否・測定・追跡が容易だったが平和の創造は厄介な問題
→それをすぐに解決すると言う候補者には投票しない、性急な解決を求めない
②壮大な構想やベストプラクティスを崇拝してはならない
→大規模予防接種など定型的手法が功を奏するので、それらのベストプラクティスに幻惑され
あらゆる状況に適合するスキームがあると思ってしまいがち
→カスタマイズせずコピーしただけの憲法・法規・制度は身の丈に合わず機能しない
③すべての政策決定が政治的であることを忘れてはならない
→官僚が賞賛され正当性を保つのは中立的に規則に従うときだが、政治に無縁な計画はない
→どんな政策でも必ず利害が生じ、新しい規則や介入はパワーバランスを変化させる
→多くの計画立案者がそのことを忘れ技術的な側面だけで最適な解決策を見つけようとしている
④限界を重視しなさい
→単に徐々に進めるのではなく「限界主義者」になること(老子・道徳経)
→投入リソース全体と得られる成果全体を比べるのではなく、リソースを僅かに投入した際に
どれだけの成果が得られるかに注目する人に
→小規模であまり効果がなければ大規模に、小規模でも何も変わらないよりはまし・・・
⑤目指す道を見つけるためには、多くの道を探索しなければならない
→探索し実験すること
→ミズーリ州セントルイスからオレゴン州ポートランドに行くのに必要なものは?
→今なら答えは簡単だが1804年に大統領トマス・ジェファーソンが探検家に命令した時点では
試行錯誤を伴ういくつかのチーム・ルート・装備・スキル・計画の検討が必要だった
→これが厄介な問題に取り組むときのアプローチ
⑥失敗を喜んで受け入れなさい(漸進的な試行錯誤の繰り返し)
→公共政策の失敗プロジェクトは無数にあるが無難な政策がいいわけではない
→試行と失敗の繰り返しを定型化して実行し無効なアイデアをふるい落とす(イテレーション)
⑦忍耐強くありなさい
→プログラムが簡潔で結果が得られる災害救援や選挙監視は短期間でイテレーションができる
→統治能力の構築やギャング殺人の低減といった分野で短期間で実験を行うのは不可能
→現実にはあり得ない短期間を期待する集団妄想では平和への歩みは速まらない
⑧合理的な目標を立てなければいけない
・南スーダン自治政府の例(2008年)
→有権者が政府に望むのは小学校の運営、村の診療所、道路の修復だった
→政治家は電力事業の経営、港の再建など10以上の部門の整備を考えていた
→国際的な寄付団体は2年以内に貧困・栄養不良・汚職を半減させるよう求めていた
・非現実的な目標を設定すれば成功した改革にも失敗の烙印が押され、国家に対する集団的な
信頼は確実に削り取られる
→すべてを優先するのは何も優先しないのと同じ
→学校や診療所の運営は非営利団体でもできるが治安維持、裁判制度、財産保護、暴力制御は
政府にしかできない
→政府の守備範囲と能力を考慮し、試行錯誤に寛容になり軌道修正を非難せず称賛すること
⑨説明責任を負わなければならない
・なぜ官僚機構はベストプラクティスにはまるのか、なぜ実験やインテレーションが少ないのか、
なぜ月並みな成果で満足する組織が多いのか→説明責任が少なすぎるから
・説明責任は分散させることでも生じる→多中心主義(エリノア・オストロム)
→平和のような厄介な問題ほど、一番近くで実験している者の判断が重要になる
→成功している援助組織は意思決定をできるだけ中心から遠ざけている
→優れた組織は下部に権限を委譲し重要な説明責任は上部が負う
(国連やアメリカなどと援助を受ける側の中央政府との関係は逆で、中央政府の説明責任を
低減しており、地方政府への直接援助もできない仕組みになっている)
⑩限界を見つけなさい
→自分が影響を与えられる領域を見つけ、そこで世界に少しずつ働きかける
→次にどんな本を読むか、誰に投票するか、何に寄付するか、どこでボランティア活動するか、
あるいは政府や援助組織で働いているのなら、この「十戒」を取り入れて改善するか・・・
→あなたが踏み出すのは試行錯誤に満ちた自己発見の旅である
→あなたは自分で限界を見つけなければならない
→旅の幸運を祈る。そして、漸進的に平和を目指すことを忘れないように・・・
さてさて、この本を飛ばし読みした今の自分に何ができるか・・・
次にどんな本を読むか、誰に投票するか、何に寄付するか、どこでボランティア活動するか、
まずはそのあたりでしょうが、この選択を誤らないようにするためには氾濫する情報の中から
自分の選択バイアスをできる限り排除して冷静に取捨選択していかないといけませんね
判断できない場合は、とりあえず当サイトの読書メモのように並列しておくとか・・・

Why We Fight ~The Roots of War and the Paths to Peace~
戦争と交渉の経済学~人はなぜ戦うのか~とゆー本の(部分)紹介であります
表紙カバー裏にあった惹句

そう、この数十年間の経済学・政治学・心理学の研究結果は、これまでの直感とは異なり、
「人々はめったに戦わない」、「戦争の原因は少なくたった5つしかない」ということだった、
で、この5つの原因に取り組むことで暴力の動機を減らし取引に向かう動機を増やせることを
実例とともに明らかにする・・・という内容の本でした
裏表紙カバー裏にあった著者・翻訳者紹介

奥付

例によって目次のみ





本文だけでも450頁、原注や参考文献も含めると550頁ちかい大著でした
理屈だけでなく実際に現地で取材した事例が各章に出てくるので説得力がありましたが、
古今東西の戦争理論や経済理論の嚙み砕いた解説もあって、ともかく膨大な情報量・・・
つーことで・・・図書館への返却期限もあることだし・・・

第1部メインの2章から6章は飛ばし読み、第2部はキーワードのみ拾い読みしましたので、
以下はごく一部の読後メモになります
例によって読み違いも多いので、興味を持たれた方は本書の熟読をお願いしますね
(著作物からの自分用メモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1部の序章より
・シカゴの若者グループ同士の殺し合い、北部ウガンダの暴力で学んだこと
→社会の成功とは、単なる富の拡大ではなく、
→自分の11歳の娘が反政府組織によって奴隷にされないこと
→通り過ぎる車からの銃撃や流れ弾に怯えず家の前に座っていられること
→警察や裁判所や市役所に行けば曲がりなりにも正義を求められること
→政府に住んでいる場所から追い出されて強制収容所に押し込められないこと
→これが「自由としての開発」(アマルティア・セン)→暴力からの自由は重要
・武力紛争は人々を貧困に追い込み社会の発展を損なう
→これは国にも都市にも当てはまる
→「国家を最も野蛮な段階から最も豊かな段階に引き上げるのに必要なのは、
平和と安い税金と反発を招かない司法の運営だけである」アダム・スミス1755年
→繁栄と平等な権利と正義の実現には必然的に戦争について考えなければならない
・本書における戦争の意義(定義)
→「集団の間での、長期にわたる、あらゆる種類の暴力的な争い」
(集団には村、氏族、ギャング、民族、宗派、政治的党派、国家などを含む)
(個人の争い、短期間の小競り合い、暴力的ではない熾烈な競争などは含まない)
・具体的に考察するのは、
①北アイルランドの過激派
②コロンビアの麻薬カルテル
③ヨーロッパの専制君主
④リベリアの反乱軍
⑤古代ギリシャの寡頭政治家
⑥シカゴのギャング
⑦インドの暴徒
⑧ルワンダの大量虐殺者
⑨イギリスのサッカーのフーリガン
⑩侵略者としてのアメリカ
・戦争は例外であり通常は選択されない
→現実には最も激しく対立する敵同士でも非暴力的に争う方を選ぶ
→この事実は忘れられがちで回避された無数の衝突について書かれた本は少ない
・近接して対立する2つの集団で、実際に武力衝突が起きた組み合わせの数
→アフリカの民族抗争では2000組で年間1組
→インドの宗派衝突では年間1000万人あたり1件未満で死亡率はせいぜい16人
(アメリカ大都市の殺人発生率は少なくとも10万人あたり16人でインドの100倍)
・国家間レベルでも同じ
→アメリカとソ連、パキスタンとインド、南北朝鮮、南シナ海、アフリカ植民地・・・
→回避された武力衝突は無数にあるのに失敗だけに注目する選択バイアス
→この選択バイアスでは戦争の原因と平和への道筋を誤解してしまうことになる
→成功例にも失敗例にも見られる要素はおそらく戦争の原因ではない
・統計学者エイブラハム・ウォルドによる大戦中のB17爆撃機の補強への指摘
→帰還したB17の胴体と翼への弾痕が多かったので軍はその部分の補強を命じた
→ウォルドは逆に弾痕の少なかった操縦席やエンジンへの補強を主張した
→操縦席やエンジンへの被弾で撃墜されているのに軍が生存者バイアスで選択していたから
・戦争に関しては逆の失敗バイアスで選択しがち
→武力衝突の回避に失敗した(撃墜された)弾痕(貧困・不満・銃など)だけに注目している
→実際には虐げられた者が蜂起することはめったになく、若く貧しい民衆煽動家のほとんどは
反乱を起こさず、重武装した集団でも武力衝突より冷戦を選んでいることに注目すべきなのに
失敗バイアスで選択している→回避に成功した要因にも注目すべき
・重武装している集団が非難し合い、脅し合い、武器をひけらかすのは普通のことだが、
流血や破壊は普通のことではない
・私が望むのは、読者があらゆる場面でこの事実に注目することで、(それにより)
→多くの大言壮語や好戦的な言説の中に講和を主張する政治家の意見があることに気づくかも
→敵対する集団同士が短期間ミサイルを撃ち合ってから攻撃を止めた事例に目がとまるかも
→「陛下、和平です」と耳元でささやく顧問官、老練な将軍が若く血気はやる将校にどんな
悲惨な事態が待ってるかを気付かせるシーンにハッとするかも・・・
→一番わかりやすいのは「戦費が賄えません」と冷静に指摘する財務担当者や金庫番の姿かも
→こうした葛藤やコストが敵対し合う集団を妥協へと向かわせる
・殆どの状況で講和を求める声が勝るのは戦争が破滅を招くから
→互いにヒートアップして小競り合いが起きても殆どは冷静な判断が優勢になる
(1つの戦争の裏では1000の戦争が話し合いと譲歩で回避されてきた)
→戦争を長引かせて国の利益になったことはない(孫子)
→長い議論の方が長い戦争よりまし(戦前のウィンストン・チャーチル)
→政治は流血のない戦争で戦争は流血を伴う政治(毛沢東)
→戦争は他の手段による政治の継続(毛沢東が読んでいたカール・フォン・クラウゼヴィッツ)
・7000年前の都市文明では戦う騎馬遊牧民を常に金で追い払い略奪から都市を守っていた
→多くの帝国は戦うか服従して貢物を差し出すかの選択肢をまず小国に示した
→町や村で殺人を犯した者の一族は被害者の遺族に賠償金を払い報復の連鎖を避けた
・ヨーロッパの平民と貴族の何世紀にもわたる闘争
→歴史家は農民の反乱に注目しがちだが、それは貴族が譲歩を拒んだ僅かな事例にすぎない
→ヨーロッパのゆっくりした民主化は、反乱を伴わない長期にわたる革命の連続と言える
・各国は戦争より相手を懐柔することを選んだ
→しばしば強い国は弱い国の領土を銃を撃たずに奪ったが弱い国は不本意ながらも従った
→ヨーロッパでは植民地を巡る戦争を避けるため会議で穏便に分割した
→アメリカはロシアからアラスカ、フランスから中西部を買収して、スペインからキューバも
買収しようとしたけど・・・
・現代の領土問題はさらに微妙→埋蔵資源、水資源、海洋など・・・
→アメリカ・ロシア・中国などの覇権国家が弱小国に様々な圧力をかけている
→不公正だが弱小国の選択が武力行使であることは殆どない
→国内では政治的党派が巧妙な手段で不公正に再分配しているがこれも平和的な取引
・残念なことだが平和は必ずしも平等や公正を意味しない
→世界は残酷だが平和な不公平にあふれている
→軍と政府を掌握する少数民族による多数民族の支配、上流階級による生産設備などの独占、
軍事的超大国による他国への自国世界秩序の押し付け・・・
→それでも革命の犠牲とリスクは大きすぎるので反乱より妥協を選択している
・殆どの場合に妥協が選択されるのは双方の集団が戦略的に行動するから
→先を読み、相手を見極め、予測して行動を決める→ゲーム理論→完全ではない
(特殊な状況においては戦うことが最善の戦略になる→後述)
→本書の枠組みは基本的にシンプルな戦略ゲーム
→どんな事例にも根本には自分たちの利益を追求する人間の衝動があるから
・政治的解決が失敗する理由は5つに限られる(第1部の2章~6章で証明→略)
第1の理由 抑制されていない利益
→和平へのインセンティブは戦争による犠牲だが、それを決定する人々が集団の他の人々に対して
責任を負わない場合は、犠牲や苦難をある程度は無視できる
→彼らが武力衝突で利益を得ようとしている可能性もある
→このような抑制されていない支配者(の利益)が武力紛争の最大原因の1つ
第2の理由 無形のインセンティブ
→暴力により、復讐・地位の獲得・支配など「無形の目的」を達成できる場合がある
→神の栄光・自由・不正との戦いなど「無形の目的」を達成する手段が暴力の場合もある
→一部の集団にとって無形の報酬は戦いから苦しみや損失を取り除くものになる
→この無形の報酬を最優先する集団は戦争の犠牲をいとわず妥協を拒否する
第3の原因 不確実性
→敵の戦力や戦意の程度が分からない場合や、自分が相手と同じ情報を持っていない場合は
不利益であっても攻撃が最善の戦略になる場合がある(ポーカーのブラフで降りないのと同じ)
第4の原因 コミットメント(確約や公約)の問題
→双方が戦争による破滅を避けるための政治的取引を望んでいるが、その取引がまったく
信用できない状況
(こちらが攻撃しなければ敵は何を約束するか、敵とは約束できないし、たとえ約束しても、
それが信用できないことを、双方がわかっている場合)
第5の原因 誤認識が妥協の邪魔をする
→人間は自信過剰な生き物で、他の人々も自分と同じ考え、価値、世界だと決めつける
→大きな集団でも様々な誤った信念を持ってるので合意を見いだす能力を誤認識に奪われる
→敵を悪魔のように捉え邪悪な動機を持っていると決めつける
→競争や対立はこうした誤った判断をさらに悪化させる
・戦争に対する説明の殆どは、これら5つが姿を変えたもので、5つの分類は類型論
→すでに存在する膨大な理論や学説を整理したもの
→これら5つのいくつかが重なることで、平和の維持がますます困難になる
→脆弱なコミュニティや都市や国家で暮らすというのはそういうことなのだ
・原因ではないものを見分ける能力も必要
→貧困、資源、気候変動、民族分断、分極化、為政者の不正、武器拡散などは、少なくとも
それだけで平和インセンティブを阻害することはなく、武力衝突の火種はおそらく別にある
→戦争の回避に成功した例と失敗した例の両方に注目して戦略的思考を少し働かせる
(どの弾痕が生還した飛行機にあったもので、どの弾痕が撃墜された飛行機にあったものか)
→5つの基本原因に焦点を絞ること
・5つの論理について検討する最大の目的は、なぜ安定して平和で繁栄した社会が存在するのか
を理解し、どうすれば暴力的な社会をそうした社会に変えられるかを考えだすこと
→それが第2部のテーマで第2部のメッセージはシンプル
→「安定した社会の集団は激しく敵対していても武力衝突を起こさない」ということ
→村、ギャング、民族集団、都市、国家、世界は、武力衝突インセンティブを無効にする方法を
数えきれないほど編み出してきた・・・
第1部の第1章より(ガイダンス部分のみのメモ)
・コロンビア・メデジンの例(略)
→普通の本ならギャング抗争の流血の実態と原因を描くだろう
→公民権なき若者、銃、政治腐敗、秩序崩壊・・・
→実際には小競り合いが戦争にはならず99.9%をグループ間の交渉と取引で回避している
(殺人事件の発生率は多くのアメリカ大都市より低い)
・戦争より交渉と取引、長期ストライキより譲歩、訴訟より和解→これがゲーム理論だが、
→「戦争の5つの原因」がそれぞれ別の形で平和的なパイの分割を阻害している
・第2章から第6章は「戦争の5つの原因」の解説(略)で回避の失敗例を見ていくが、
①戦争は例外であって通常は選択されないこと
②悲惨な出来事ばかりが語られるが世界は意外に頑丈にできていること
③私たちの手には頼もしいツールがあり常に平和への引力が働いていること
→常にこれらを覚えていてほしい・・・
第2部からはキーワードのみランダムにメモ
・成功した社会が競争を平和裏に処理するために用いた方法
→①相互依存 ②抑制と均衡 ③規則の制定と執行 ④介入
①経済的、社会的、文化的に絡み合った「相互依存」(略)
②制度による「抑制と均衡」を通じた権力の分散
→選挙・多数決の民主主義国家でも権力集中の可能性はあり、非民主主義国家でも党組織、
地域の政治家、独立した軍部、大物資産家、巨大な官僚組織などによる権力分散もある
→制度による抑制と均衡が重要
→事実上の権力の源泉は軍事力・動員力・物資力→この抑制と均衡
③法、国家、社会規範といった「規則の制定と執行」のための制度
・メデジンの各ギャングは協定を制定して破った者に介入した→マシンガン協定
・人類最初の政府は、秩序を維持することで経済的利益を得る犯罪者の組織だった
→いずれも不平等で抑圧的だが有効性があり、秩序がないよりはましだった
・国連の安保理も不平等で一貫性がなく偏向しているが、あるからより平和になっている
(国連の人権に関する法と規範、妥協成立に向けての支援、制裁、調停、平和維持・・・)
・「国連が作られたのは人類を天国に連れていくためではなく、地獄から救うためだ」
(国連事務総長だったダグ・ハマーショルドの好んだ言い方)
・階層的な同盟の集合である世界の国際システムはメデジンのギャング組織と同じ
→無政府状態ではなく地域的に平和と協力が実現されていると考えるべき
④5つの原因を無効にする「介入」のためのツールセット(暴力が発生しても止められる準備)
・戦争に介入する5つの手段(懲罰、執行、調整、インセンティブ、社会化)→略
→効果は期待より小さいが一つ一つの動きが少しずつ平和へ近づけていく
・内戦の鎮静化は大量殺戮の阻止・クーデターの封殺・独裁政権の転覆などとは目的が異なる
→内戦の鎮静化に限れば、多くの場合は大規模な平和維持部隊が状況を改善する
・信頼とは裏切っても利益にならないと互いにわかること→信頼の醸成が調停者の役割
・腐敗した権力を取り込み新たな武力蜂起を防ぐ介入→平和の負の側面だが、
→腐敗の撲滅や民主化を急いで追求すれば、戦争に逆戻りする可能性もある
→短期的には武力抗争の終結を金で買うことができるが、それが安定して持続するかは不明
→レアルポリティークと理想主義のバランスが必要で、教育や小さな規則変更と並行して、
漸進的に改善していくことも・・・
・なぜ戦うのかを考える際に失敗に注目してはいけない(具体例は略)
→「○○が戦争を起こす」→それが妥協へのインセンティブになり得るかを考える
→貧しい人々が戦争を起こすのではなく、起きている戦争に加わって死傷者が増加する
→平和なときは飢えた人々を喜んで軍事組織に入れるが、行うのは戦闘ではなく訓練
→貧困の根絶などは戦争の終結には有効だが平和構築への効果は薄い→目的は暴力の回避
・武装勢力同士を戦わせて解決させる「決定的勝利説」には重要な視点が抜け落ちている
→解決までに果実を享受できず死んでいく人を無視している→生存者バイアスの一例
→戦争が平等社会、強い国家、技術革新を実現した時代だけに焦点をあてており、
それらに失敗した戦争は見過ごされている
・「戦争が国家を作る」説の対象は1400年代から1814年までの西ヨーロッパのみ
→それ以外の地域でも戦乱から、より適した政府やより平等な社会が生まれることもあったが、
殆どの長期間の戦争は、破壊により社会を脆弱にして没落や侵略を招き、一体性を崩壊させ
経済発展を遅らせただけ
・技術の進歩や強い国家など殆どの利益は実際の戦争ではなく(冷戦のような)激しい競争から
・戦争とは関係なく実現した安定性、平等、国家建設は膨大にある(特に戦後の平和な時代)
「結論」→すべての人のための原則として・・・私の「十戒」
①容易な問題と厄介な問題を見分けなさい
→天然痘の大規模予防接種は手順・成否・測定・追跡が容易だったが平和の創造は厄介な問題
→それをすぐに解決すると言う候補者には投票しない、性急な解決を求めない
②壮大な構想やベストプラクティスを崇拝してはならない
→大規模予防接種など定型的手法が功を奏するので、それらのベストプラクティスに幻惑され
あらゆる状況に適合するスキームがあると思ってしまいがち
→カスタマイズせずコピーしただけの憲法・法規・制度は身の丈に合わず機能しない
③すべての政策決定が政治的であることを忘れてはならない
→官僚が賞賛され正当性を保つのは中立的に規則に従うときだが、政治に無縁な計画はない
→どんな政策でも必ず利害が生じ、新しい規則や介入はパワーバランスを変化させる
→多くの計画立案者がそのことを忘れ技術的な側面だけで最適な解決策を見つけようとしている
④限界を重視しなさい
→単に徐々に進めるのではなく「限界主義者」になること(老子・道徳経)
→投入リソース全体と得られる成果全体を比べるのではなく、リソースを僅かに投入した際に
どれだけの成果が得られるかに注目する人に
→小規模であまり効果がなければ大規模に、小規模でも何も変わらないよりはまし・・・
⑤目指す道を見つけるためには、多くの道を探索しなければならない
→探索し実験すること
→ミズーリ州セントルイスからオレゴン州ポートランドに行くのに必要なものは?
→今なら答えは簡単だが1804年に大統領トマス・ジェファーソンが探検家に命令した時点では
試行錯誤を伴ういくつかのチーム・ルート・装備・スキル・計画の検討が必要だった
→これが厄介な問題に取り組むときのアプローチ
⑥失敗を喜んで受け入れなさい(漸進的な試行錯誤の繰り返し)
→公共政策の失敗プロジェクトは無数にあるが無難な政策がいいわけではない
→試行と失敗の繰り返しを定型化して実行し無効なアイデアをふるい落とす(イテレーション)
⑦忍耐強くありなさい
→プログラムが簡潔で結果が得られる災害救援や選挙監視は短期間でイテレーションができる
→統治能力の構築やギャング殺人の低減といった分野で短期間で実験を行うのは不可能
→現実にはあり得ない短期間を期待する集団妄想では平和への歩みは速まらない
⑧合理的な目標を立てなければいけない
・南スーダン自治政府の例(2008年)
→有権者が政府に望むのは小学校の運営、村の診療所、道路の修復だった
→政治家は電力事業の経営、港の再建など10以上の部門の整備を考えていた
→国際的な寄付団体は2年以内に貧困・栄養不良・汚職を半減させるよう求めていた
・非現実的な目標を設定すれば成功した改革にも失敗の烙印が押され、国家に対する集団的な
信頼は確実に削り取られる
→すべてを優先するのは何も優先しないのと同じ
→学校や診療所の運営は非営利団体でもできるが治安維持、裁判制度、財産保護、暴力制御は
政府にしかできない
→政府の守備範囲と能力を考慮し、試行錯誤に寛容になり軌道修正を非難せず称賛すること
⑨説明責任を負わなければならない
・なぜ官僚機構はベストプラクティスにはまるのか、なぜ実験やインテレーションが少ないのか、
なぜ月並みな成果で満足する組織が多いのか→説明責任が少なすぎるから
・説明責任は分散させることでも生じる→多中心主義(エリノア・オストロム)
→平和のような厄介な問題ほど、一番近くで実験している者の判断が重要になる
→成功している援助組織は意思決定をできるだけ中心から遠ざけている
→優れた組織は下部に権限を委譲し重要な説明責任は上部が負う
(国連やアメリカなどと援助を受ける側の中央政府との関係は逆で、中央政府の説明責任を
低減しており、地方政府への直接援助もできない仕組みになっている)
⑩限界を見つけなさい
→自分が影響を与えられる領域を見つけ、そこで世界に少しずつ働きかける
→次にどんな本を読むか、誰に投票するか、何に寄付するか、どこでボランティア活動するか、
あるいは政府や援助組織で働いているのなら、この「十戒」を取り入れて改善するか・・・
→あなたが踏み出すのは試行錯誤に満ちた自己発見の旅である
→あなたは自分で限界を見つけなければならない
→旅の幸運を祈る。そして、漸進的に平和を目指すことを忘れないように・・・
さてさて、この本を飛ばし読みした今の自分に何ができるか・・・
次にどんな本を読むか、誰に投票するか、何に寄付するか、どこでボランティア活動するか、
まずはそのあたりでしょうが、この選択を誤らないようにするためには氾濫する情報の中から
自分の選択バイアスをできる限り排除して冷静に取捨選択していかないといけませんね
判断できない場合は、とりあえず当サイトの読書メモのように並列しておくとか・・・

2024年08月25日
ムラブリ・・・
ええ、前々回記事からの続きとゆーか、前回記事からの続きとゆーか・・・

ムラブリ~文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと~であります
著者紹介

奥付

冒頭にあったムラブリの居住地(著作物なので問題があれば非公開にします)

例によって目次の紹介



山極寿一氏の若き日のフィールドワークを綴ったエッセイのように現地での滞在記や青春記の
世界もめっちゃ面白かったのですが、以下はムラブリや言語学といった全く知らない世界を
中心にした読後の部分メモであります
はじめにより
・ムラブリはタイやラオスの山岳地帯を遊動狩猟採集していた少数民族
(今は僅か500名前後の集団でタイでは殆どが定住して農耕もしている)
→ムラは人、ブリは森なので「森の人」の意味になる
(マレー語では人はオラン、森はウータンで「森の人」でしたね)
・ムラブリ語は危機言語に指定されていて、おそらく今世紀中には消える
→ぼくはムラブリ語を15年にわたって研究してきた世界で唯一のムラブリ語研究者だ
→ムラブリ語には文字がないので現地で調査研究を行うフィールド言語学になる
(現在世界で話されている6000~7000言語のうち文字のない言語は2982と推定されている)
・ムラブリ語を話せるということはムラブリの身体性を獲得することでもある
→周りにも日本語では温和なのに英語で話すときだけ大胆になる人がいるのでは?
→異なる身体性には異なる人格が宿るのだ
・日本に帰ってから物を持たなくなり生活がシンプルになった
→これまでの常識が崩れて大学教員も2年で辞めてしまった
・この本は論文ではないが紛れもなくぼくの研究成果
→ニッチで何の役にも立たない研究と言われ、これまでは苦笑いで半分同意していたが、
→今は「あなたを含む世界のためにやってます、ぼくがその成果です」と答えられる
→そんな研究報告を楽しんでもらいたい・・・
第1章より
・言語と方言の区別には言語学だけでなく話す人の意識や政治も絡む
→なので言語の数の数え方は難しい(まえがきのとおり)
・ムラブリ語との出会いは人類学の講義で視聴した「世界ウルルン滞在記」
→はじめての美しい言葉に「一目惚れ」ならぬ「一耳惚れ」して・・・
(以下はじめての滞在に至るまでの顛末がめっちゃ面白くて一気読みしたけど省略して)
第2章より
・ムラブリはタイ語・ラオス語ではピートンルアン(黄色い葉の精霊)と呼ばれる
→蔑称でもありピーは「精霊」よりは「お化け」のニュアンス
・未知の文字のない言語の調査は音韻から
→音素目録つくりが出発点で、まずは最小対を探す
→日本語なら手teと毛keは最小対で母音は同じでtとkが異なる
→日本語はtとkが語を区別する機能を持っている言語と判断する
(以下詳細な手法は略して)
→それを国際音声記号IPAで記録する
→最初は全ての単語や表現でこのプロセスを踏むので時間がかかる
→日本語の母音は5でタイ語は7だがムラブリ語は10あるので苦労した
→あ2い1う3え2お2の10種類
→何度も聞いて真似して確認してから記録するので最初は1時間に15~20だった
・貧しいムラブリの村への訪問者はタイ伝統の施しに来る人が殆ど
→お金を持たない日本人が来たと評判になったと数年後に聞いた
(卒論から院試、修士論文、結婚、博士論文も略して・・・)
・人類学専攻ムラブリ研究者との現地での共同研究
→自分もムラブリ語ではなくムラブリ自身について知る機会を増やすと、ムラブリ語が自然に
話せるようになり、聞き取りもできるようになった
・人類学者では彼のように「擬制家族」を持つことがあるが言語学者では少ない
→自分も擬制家族になってからは「よそ者」から「お兄さん」など人格を持つ名前で呼ばれた
第3章より
・ムラブリに挨拶語はなく、たいていは顎を上げるだけ
→声をかける際は「ご飯食べた?」か「どこ行くの?」
→挨拶なので真剣に考えずテキトーに答える(おはようの交換と同じ)
(大阪弁は「おはようさん」の後に「今日はどちらまで?」「へえ、ちょっとそこまで」ですね
)
→言語は情報交換のためのツールだが常に合理的で理想的な情報交換をしてるわけではない
→合理的ではないところにコミュニケーションの豊かさやおかしみがある
・言語は意味のある情報を交換をするためではなく他者と意思疎通を図るための道具
→言語は意味とは別の関係性メタメッセージを伝えている(グレゴリー・ベイトソン)
→一人称「ぼく」と「わたし」の意味は同じだがメタメッセージ(公私などの関係性)は異なる
→一人称の選択などによって暗に関係性を示すのが日本語社会のしきたりで難しい
→メタメッセージは言葉以外の動作でも発信され無自覚に受信している
→人は「自分と相手の関係」をその都度つくりあげることなしに、言語によって意思疎通を
図ることができない生き物なのである
・どうでもいい情報が仲を深める
→合理的コミュニケーションだけでは一定距離以上は親しくなれない
→儀礼的コミュニケーションが欠かせない
→人間はどうでもいい情報を交換し合うことで仲間意識を育む→最たるものが挨拶
→仲間だから意味のない情報交換をするのではなく、意味のない情報交換をすることで、
仲間になったと錯覚する(させる?)→儀礼的コミュニケーション
→ファミレスでの「このハンバーグ美味しいね」「美味しいね」「ね~」の会話例
→ビジネス会話には存在しない
・ムラブリとはじめて儀礼的コミュニケーションができた朝の会話は今も覚えている(略)
→殆ど意味はなかったが語学力指標では表せない何かが身についた手応えがあったから
・日本ではアイヌ語と琉球諸語が危機言語に認定されている
→母語を話し続けるかどうかは本人たちが決めることだが、言語の消滅はひとつの宇宙が
消えることで、すべての言語の歴史は地球の生命史に匹敵する
→生きることはコミュニケーションすることだから・・・
・最近の研究でムラブリ語が注目されている分野のひとつが感情表現
→トルコ語には感情に相当する語彙が3つありガーナのダバニ語やムラブリ語にはない
→感情表現には語彙と迂言的表現の2つがあり殆どの言語が両方を用いる
→日本語では「うれしい、悲しい」と「心が躍る、気分が沈む」など
・日本語の「幸せ」と英語の「happy」のニュアンスが異なるように感情表現の翻訳は難しい
→なので研究者は「好/悪」と「動/静」の二軸で平面上にマッピングする
(日本語の「幸せ」と英語の「happy」はポジティブなので、どちらも右側に入るが、
日本語の「幸せ」のほうが英語の「happy」より静的なので少し下側になるとか)
・ムラブリ語には感情語彙がなく「心が上がる、下がる」で迂言的に感情表現する
→ところが「心が上がる」は悲しいとか怒りでネガティブ、「心が下がる」はうれしいとか
楽しいでポジティブな意味になる
→認知言語学で世界の普遍的な特徴とされるUp is Good(happy)概念メタファーの例外
→上下ではなく別の意味とも考えたが表現の際に手を胸の上下に動かすので誤りではない
→ムラブリの概念メタファーにはDown is Goodがあるのかも・・・
→ムラブリ語には「興奮」もなく行為から感情を分離する感性がないのかもしれない
→「心が上がる、下がる」も身体的な行為に近い感覚かも・・・
→ムラブリ語の体系を通して彼らの感じている世界を想像することができるかも・・・
・ムラブリは感情を表に出すことが殆どない
→まだ森で遊動生活しているラオスのムラブリは、さらに表情が乏しく見えた
→主張や感情を表に出すことは一大事で、そんな事態は避けるべき悪いことだと捉える感性かも
(連れて行った学生が夜遅くまで騒いでて、意見しに来たのに何を言ってるのか分からない
ような遠回しな言い方で、何度も「怒ってないよ本当だよ」を繰り返していた)
→なので「心が下がる」ことがよいことなのかも
(会いたがってた遠くの親族と会わせてもハグなど身体接触はもちろん、一緒に食べることも
会話の盛り上がりもなく、顔も見ずに横に座っているだけだった)
→ぼく自身も変化しており、楽しく気分がいいと口数が少なくなり表情がぼーっとする
→日本でも最近は「チルい」という言葉が流行っており、その「脱力した心地よさ」は
ムラブリの「心が下がる」に通じるところがあるように思える
・SNSへの情熱や仲間とはしゃいだときに感じる楽しさは知っているし理解している
→でも感情を出して誰かに知られて幸福を感じられるのは一時的な流行りに過ぎない
→誰かといる、他人に認めてもらう以外の幸福がムラブリには見えている
→ムラブリ語の「心が下がる」瞬間は人類史的にはごくありふれた心の風景かも・・・
・ムラブリ語には暦も年齢もない
→季節には雨が降る季節・乾く季節・日差しの季節があるが人により呼び方は異なる
→森での収穫物が変わるので季節は重要だが、季節を決めるのは暦ではなく森の様子
→不思議なことに一昨日から5日後までの単語は規則的に存在する→昔は必要だった?
・人の暦はある→年齢ではなく成長段階による区別
→生まれたばかりの子どもは「レーン赤い」(日本語の赤ちゃんと同じで面白い)
→首が座り歩けるまでの子どもは「チョロン幼い子」
→歩き回る時期の子どもは「アイタック小さい」
→その後は「ナル・フルアック大人」で第二次性徴以降なので10代前半ぐらいから
→老人は「白い」を変化させた語彙で、おそらくは白髪のことだろう
・数詞はあるが10まで正確に数えられる人は稀
→知的威信を示す手段で、男たちは酔っぱらうと数えたがるが10までは行かない
→数えることで何かを教えるというより、宴会芸の一種というのが正確な理解
→時計をつける(電池がないか時刻が合っていない)のも時計の入れ墨をするのも知的威信
→森の生活では大きな数も時計も要らないのに、余計なもの無駄なことに価値を見いだすのが
普遍的な人類の特徴なのかも知れない
→女性に数詞を数えたり時計を見せたりはしないので、モテるためでもない男社会のあるある
・ムラブリ語の過去・完了相と未来・起動相(時制やアスペクトのハナシなので省略)
→世界の見え方は話している言語の影響を受けている
(言語相対論、青を区別する語彙があるロシア語話者の色彩識別テストなど)
・言語の持つ超越性とムラブリ語や南米ピダハン語の現前性(いま、ここ)
→ムラブリも定住し換金作物栽培を手伝うようになって計画性を求められるようになった
→ムラブリの村に一時期、自殺が増えた時期があった
→その理由を訊くと「長く考えたから」と答えたムラブリがいた
→「いま、ここ」の現前性では未来はわからず過去はとりかえせない、あるようでないもの
・ムラブリ語に竹という総称はなく7種類それぞれに単語がある
→それぞれで用途が異なり森で少しずつ見分けられるようになった
→論文を書くには写真と単語だけでいいのだが、自分で覚えて使えないと気が済まない
→理由は分からないけど、その方がぼくにとって楽しいのは間違いない
第4章より
・ムラブリが森に入る時は腰の刃物だけ
→採集物を持ち帰るカゴ、ロープ、寝床、焚火、食べ物など、すべては現地調達
→ところが村の家には服や衣類が山積みなのだが、なぜか森と変わらず落ち着いている
(ぼくはムラブリから「物が多い」といわれるが断捨離してから片付かないと落ち着かない)
・この理由を(言語学者なので)言語から考えてみる
→物を指すムラブリ語は複数あるが、よく使われるのはグルアで主に衣類の意味
→グルアの下位カテゴリーが衣類で上位カテゴリーが物
→日本語のご飯と食事の関係に近い→シネクドキ提喩
→衣類が典型的な物であるという感性はどこから生まれるのか?
・所有と匂い
→匂いは所有という抽象的な概念の入口ではないか(マーキングとか借りた服の違和感とか)
→所有のあるところに物が生まれる
→ムラブリの村や家の匂いは極めて均質(焚火の煙の影響も大きい)
→服は誰かが愛着して匂いがつくとその人のグルアになる
→家に山積みの服や衣類があってもどれも同じ(煙の)匂いなのでグルアにならない
→匂いの共有は森の中と同じなので落ち着いていられるのではないか・・・
・ムラブリの所有観(他動詞と自動詞のハナシなので省略)
→「米を持っている」と「米がある」の区別がない(森に木がある、森が木を持っている)
→私の父、私の手など親族と身体部位には「の」を使うが、私の米という使い方はない
→所有関係を表したいときはタイ語の構文を借用している
・ムラブリの一夫一妻、宗教(精霊信仰)、暴力・・・すべては「そいつ次第だ」
・自助と共助の共同体
→一人暮らしの老人でも助けを求めない限り誰も助けない
→人類学でいうシェアリングで富の集中や権力の発生を避ける仕組みを持っている
→分業しないので専門家もいない(バイク修理の講習会の例)
→徹底した個人主義の一方で獲物は平等に共有し、求められればできる範囲で助ける
→個人を生命として信頼し生命が儚いと自覚しているからの振る舞いだと感じる
(コラムより、森の中で火打石や火種の綿を濡らさないことがどれだけ大事か・・・)
第5章より
・博士論文とムラブリ語の方言差調査と子どもの誕生と大学院休学と富山への引っ越しと
29歳での日本学術振興会の特別研究員(学振3年)採用と富山大学の客員研究員・・・
→あらためて書いてみて、運だけで何とかなっているような人生だ
・2017年の春休みに富山大学の先生・学生とムラブリの村を訪れた際に金子游監督と出会った
→東南アジアの少数民族の映像を撮っていると知り(方言差調査で知った)分断されたムラブリを
消える前に引き合わせたいと考えていることや、その際の映像を残したいことを伝えた
→その日の夜にメールがきて映画のプロジェクトがはじまった・・・(略)
・ムラブリの歴史についての考察
→古くからの狩猟採集民のような高度な文化・精神世界とは異なり神話は散文的で儀礼も簡素
→いっぽうで玉鋼をつくる製鉄技術を持っている
→遺伝学や言語学の研究から農耕民が狩猟採集民になったと考えられている(略)
(遺伝的にも言語学的にも最も近い農耕民ティンの民話にも残っている)
→この逆行は人類史の中でも珍しく文化的言語的な特徴を説明する可能性がある
・ぼくのクレオール仮説
→日本語の「わたしの本」は英語では「my book」や「books of mine」
→日本語の語順は「わたしは本を持っている」主語→目的語→動でSOV言語
→英語の語順は「I have books」主語→動詞→目的語でSVO言語
→日本語のようなSOV言語の所有表現は(人→モノ)の語順が多い
→英語のようなSVO言語では所有表現に地域や語族で隔たりがある
(英語もmy book(人→モノ)とbooks of mine(モノ→人)の両方がある)
→文の基本語順と所有表現の類型論的含意と呼ばれる傾向
→オーストロアジア語族SVO言語の所有表現は唯一の例外を除いて(モノ→人)の語順
→その唯一の例外がムラブリ語
→ムラブリ語はSVO基本語順の一方で所有表現については(人→モノ)の語順を示す
(これはオーストロアジア語族の言語研究者には、そんなバカな!!!くらいの大事件だった)
→ムラブリ居住領域の周辺に(人→モノ)語順の言語はなく言語接触も殆どなかったはず
→他にも近親言語と共通する語彙が極端に少ないなど不思議な特徴がたくさんある
→中国語(人→モノ語順)の影響とか消えた言語の影響とか、イマイチな仮説ばかり・・・
(ここからがムラブリ語好きの著者の仮説)
・アジア大陸山岳部はゾミアと呼ばれ様々な少数民族が点在している地域
→平野部に比べコメの生産が難しく大きな王朝は築かれず負け組とされてきた
→歴史学者ジョージ・C・スコットは中央集権支配から逃れるため文字を捨て所有を嫌い
自由を求めて主体的に山岳部に移住したのがゾミアの民とした(2013)
→ムラブリはゾミアの民の典型例ではないかとぼくは考えている
・最初は少数のティンが祖先で、その噂に共感した他の民族からも人々が合流した
(遺伝学的にもクム族やタイ族など様々な民族と混血した痕跡がある)
→様々な民族の集まりだから、その都度、その場で通じる言葉を作り上げていく
(その場限りの必要性から生まれる言語はピジンと呼ばれ世界中で報告されている)
→ピジンは不完全な文法で語彙も限定的
→ピジンを母語として学んだ子どもたちは、やがて完全な言語体系をつくり出す
→ピジンを母語として生まれる言語をクレオールという
→つまりムラブリ語はクレオールではないか
・クレオールは元の言語や地域が違っても似たような特徴を持つ
→所有表現の語順が(人→モノ)であること、疑問詞が2つの要素からなっていること、
重複などの仕組みの乏しいことなど(偶然かも知れないが)ムラブリ語の特徴と一致する
→もちろん証明できないことであり学者として追いかける理由はないが、
→農耕から逃れ森の中で遊動生活をしながらゆるいつながりで形成していった共同幻想
→それがムラブリという民族だった可能性を想うと、なぜムラブリに出会い惹かれたのか
腑に落ちる気がするのだ・・・
(映画の撮影、ラオスのムラブリ、100年越しの再会、ムラブリ語の方言(方言には○○方言と
地名が付くが、ムラブリは移動するのでA方言B方言C方言となる)、などは省略して・・・)
・バベル的言語観、コーラン的言語観
→人々が統一言語で協力して天まで届く塔を作ろうとしたので神が怒り、天罰として塔を崩し
人々の言語をバラバラにしたというのが聖書
→「グローバルには統一言語としての英語」という風潮には反論できないが納得もできない
→言語学者としての応答は聖書と並ぶコーラン
→神が民族をバラバラにしたのは聖書と同じだが、理由はお互いをよく理解するため
→同じ言語だと個別性に気づくのは難しい→日本語同士なら同じ「おいしい」だけ
→タイ語で「アロイ」ムラブリ語で「ジョシ」という人がいれば、感じていることが違うかも
知れないという発想が湧いてくるのではないか
→味覚だけでなく感情や価値観、思想も同じこと
→言語はバベル的言語観もコーラン的言語観も同時に内包する
→同じだよね、違うよねというメタメッセージは言語を用いる限り常に存在する
→どっちも本当で同じだし、違う、そして、それは両立する
第6章より
・「ムラブリ語を話せるようになる過程で変化した自分自身」が何よりの研究成果
→2020年3月に大学教員を辞めて独立研究者になった
(プロ奢ラレヤーの「嫌なこと、全部やめても生きられる」を読んだ翌週に辞表を提出した)
・身体と言語
→武術の講座に通い稽古して、型を通じて身体性を養い、今は言語は型であると言える
→既存の言語を話すときは必ず誰かを引用している→その語も誰かがつくったもの
→ムラブリが雷の経験を誰かと共有したい、声にして表したいと思って出た音が「クルボッ」
→経験は認められ共有され、それまで意味のなかった音の配列が雷を意味するようになった
→現代言語学では単語の誕生に恣意性はないとされている
→日本語イヌ・英語ドッグ・ムラブリ語ブラン・・・
→この考え方はこれらが同じ意味であることを前提にしている→似ているが同じではない
→「クルボッ」の音やリズムがムラブリの身体性で感じる雷をよく表し一体感があったから
いままで使われてきたのではないか
→どんな音でもよかったのではなく生まれる瞬間の強度が死んでなお経験を伝える(武術の型?)
→話し手と聞き手は、語のつくり手の経験とつながっているから互いに理解できる
→ムラブリ語を理解したということは経験のアーカイブ、つまりムラブリの身体性にアクセス
することに慣れた、ということでもある
→そのアクセスがスムースになるほどムラブリ的なセンスで生きることが可能になる
→ムラブリ語を話しているときは深くしゃがめる、遠くに話そうとしている自分に気づく
(ムラブリは村では寡黙だが森では饒舌で話す距離は20~30m=ぼくが話そうとしている距離)
→給料、税金、モノやコトの値段、ご飯・・・ムラブリなら要るか要らないかだけ
→ムラブリは生きるのに必要なことを知ってて、すべて自分でできる
→ぼくは生きるのに必要なことすべてをお金で外注していることに気づいた
→まずは衣食住を身ひとつで賄えることを目指した・・・
・現代日本でムラブリのように生きるには
→バックミンスター・フラー唯一の共同研究者シナジェティクス研究所の梶川泰司所長に出会った
→梶川所長の目指す生き方
①無線→電線などを用いないオフグリッド
②無管→上下水道管を用いない
③無柱→住居に柱を用いない
④無軌道→道路などのインフラに左右されない移動
→これを達成するテクノロジーを発明することが、ぼくの理解する梶川所長の目標
(ぼくは工場規格ではなく自分で作れる環境に応じたものが理想的と思った)
→自分で作ることができ、環境と調和してお互いを活性化し、地球の(宇宙でも)どこでも
一人で生きていけるテクノロジーが、ムラブリの身体性を日本に持ち込んだぼくが心地よく
生きていく方法なのだと今は考えている→自活器self-livingry
→2022年1月にフラー式ドームの簡単な施工法を発明した(略)
→プロ奢ラレヤーと話して空き家・空きスペースに寝るスキルも面白いと思った
→寝るスキル、食事のスキル、服装のスキル・・・(略)
・友達のお父さんが急病になり二人で街の病院へ連れて行き病院の雑魚寝スペースに居たら
身なりのいいタイ人のおばさまが黙って菓子パンとアンマンの入ったコンビニ袋を渡してくれた
→泥まみれでタイ人らしくない顔つきでムラブリ語で話してたので貧しい少数民族に見えたのだ
→「ありがとうございます!!!儲かった!!!」という感情はなく、自然に二人で黙って食べた
→水が流れてきた、キノコが生えてきた、という感じで、とても自然だった
・ぼくの人生には不思議とタイミングよく身に余るオマケがついてくる
→以前ならムラブリを紹介しても「珍しい民族ですね」で終わっただろうが、映画が上映され
映画の感想が多いことに驚かされた。いまはこの本を執筆している
→おそらくこのタイミングで日本で紹介されたことに意味があったのだろう
・ムラブリはタイの少数民族の中でも地味で物質文化も乏しい
→視覚的に「これがムラブリです」と示せるものが極端に少ないが、
→若いムラブリは声を揃えて「自由が好き、強制は嫌い」と言う→これがムラブリなのだ
→この部分が現代日本でムラブリがウケている理由なのだろう
・この本に書かれていることはすべて偶然性や自由からの働きかけで起きたこと
→みんなももっと自由になれるんじゃないかと感じていたから書き上げることができたと思う
→あなたの心に小さなムラブリが芽生えることを祈っている
おわりにより
・2020年1月を最後にコロナ禍でムラブリを訪問できずにいた
→この「おわりに」を書くため3年ぶりに訪れる予定だったが出発2週間前にキャンセルした
→いまやりたいことがムラブリに会うことではないと気づいたから
・言語とは何かの本質的な問いに向かうため武術、詩、短歌、踊りをしてワークショップなどで
収入も得られるようになった
→富山での定住から車中泊生活を経て関東・関西を含む多拠点になり今は富山の山中が拠点
→ムラブリをof研究することからはじめ、ムラブリとともにwith、そしていまムラブリとしてas
研究することに挑戦している
・ぼくは孤独になり自由になったことで、なぜ専門を就職を所有やお金を嫌ったのかに気づいた
→専門ではなくそれが生む権威、働くことではなくそれの強制、所有やお金に絡む社会の
仕組みが気に入らず、身体に合わずうんざりしていたのだ
・いまは富山の山中で自活器self-livingryの開発を行っている
→自分で家を建て食を担いエネルギーをつくることができれば人はやりたいことに邁進するはず
→それがぼくのムラブリ研究でありムラブリへの恩返し
→どうかみなさん、自活器の開発に力を貸して下さい!!!

ムラブリ~文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと~であります
著者紹介

奥付

冒頭にあったムラブリの居住地(著作物なので問題があれば非公開にします)

例によって目次の紹介



山極寿一氏の若き日のフィールドワークを綴ったエッセイのように現地での滞在記や青春記の
世界もめっちゃ面白かったのですが、以下はムラブリや言語学といった全く知らない世界を
中心にした読後の部分メモであります
読み違いとかも多いので興味を持たれた方は本書の熟読をお願いしますね
(著作物からの自分用メモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
はじめにより
・ムラブリはタイやラオスの山岳地帯を遊動狩猟採集していた少数民族
(今は僅か500名前後の集団でタイでは殆どが定住して農耕もしている)
→ムラは人、ブリは森なので「森の人」の意味になる
(マレー語では人はオラン、森はウータンで「森の人」でしたね)
・ムラブリ語は危機言語に指定されていて、おそらく今世紀中には消える
→ぼくはムラブリ語を15年にわたって研究してきた世界で唯一のムラブリ語研究者だ
→ムラブリ語には文字がないので現地で調査研究を行うフィールド言語学になる
(現在世界で話されている6000~7000言語のうち文字のない言語は2982と推定されている)
・ムラブリ語を話せるということはムラブリの身体性を獲得することでもある
→周りにも日本語では温和なのに英語で話すときだけ大胆になる人がいるのでは?
→異なる身体性には異なる人格が宿るのだ
・日本に帰ってから物を持たなくなり生活がシンプルになった
→これまでの常識が崩れて大学教員も2年で辞めてしまった
・この本は論文ではないが紛れもなくぼくの研究成果
→ニッチで何の役にも立たない研究と言われ、これまでは苦笑いで半分同意していたが、
→今は「あなたを含む世界のためにやってます、ぼくがその成果です」と答えられる
→そんな研究報告を楽しんでもらいたい・・・
第1章より
・言語と方言の区別には言語学だけでなく話す人の意識や政治も絡む
→なので言語の数の数え方は難しい(まえがきのとおり)
・ムラブリ語との出会いは人類学の講義で視聴した「世界ウルルン滞在記」
→はじめての美しい言葉に「一目惚れ」ならぬ「一耳惚れ」して・・・
(以下はじめての滞在に至るまでの顛末がめっちゃ面白くて一気読みしたけど省略して)
第2章より
・ムラブリはタイ語・ラオス語ではピートンルアン(黄色い葉の精霊)と呼ばれる
→蔑称でもありピーは「精霊」よりは「お化け」のニュアンス
・未知の文字のない言語の調査は音韻から
→音素目録つくりが出発点で、まずは最小対を探す
→日本語なら手teと毛keは最小対で母音は同じでtとkが異なる
→日本語はtとkが語を区別する機能を持っている言語と判断する
(以下詳細な手法は略して)
→それを国際音声記号IPAで記録する
→最初は全ての単語や表現でこのプロセスを踏むので時間がかかる
→日本語の母音は5でタイ語は7だがムラブリ語は10あるので苦労した
→あ2い1う3え2お2の10種類
→何度も聞いて真似して確認してから記録するので最初は1時間に15~20だった
・貧しいムラブリの村への訪問者はタイ伝統の施しに来る人が殆ど
→お金を持たない日本人が来たと評判になったと数年後に聞いた
(卒論から院試、修士論文、結婚、博士論文も略して・・・)
・人類学専攻ムラブリ研究者との現地での共同研究
→自分もムラブリ語ではなくムラブリ自身について知る機会を増やすと、ムラブリ語が自然に
話せるようになり、聞き取りもできるようになった
・人類学者では彼のように「擬制家族」を持つことがあるが言語学者では少ない
→自分も擬制家族になってからは「よそ者」から「お兄さん」など人格を持つ名前で呼ばれた
第3章より
・ムラブリに挨拶語はなく、たいていは顎を上げるだけ
→声をかける際は「ご飯食べた?」か「どこ行くの?」
→挨拶なので真剣に考えずテキトーに答える(おはようの交換と同じ)
(大阪弁は「おはようさん」の後に「今日はどちらまで?」「へえ、ちょっとそこまで」ですね

→言語は情報交換のためのツールだが常に合理的で理想的な情報交換をしてるわけではない
→合理的ではないところにコミュニケーションの豊かさやおかしみがある
・言語は意味のある情報を交換をするためではなく他者と意思疎通を図るための道具
→言語は意味とは別の関係性メタメッセージを伝えている(グレゴリー・ベイトソン)
→一人称「ぼく」と「わたし」の意味は同じだがメタメッセージ(公私などの関係性)は異なる
→一人称の選択などによって暗に関係性を示すのが日本語社会のしきたりで難しい
→メタメッセージは言葉以外の動作でも発信され無自覚に受信している
→人は「自分と相手の関係」をその都度つくりあげることなしに、言語によって意思疎通を
図ることができない生き物なのである
・どうでもいい情報が仲を深める
→合理的コミュニケーションだけでは一定距離以上は親しくなれない
→儀礼的コミュニケーションが欠かせない
→人間はどうでもいい情報を交換し合うことで仲間意識を育む→最たるものが挨拶
→仲間だから意味のない情報交換をするのではなく、意味のない情報交換をすることで、
仲間になったと錯覚する(させる?)→儀礼的コミュニケーション
→ファミレスでの「このハンバーグ美味しいね」「美味しいね」「ね~」の会話例
→ビジネス会話には存在しない
・ムラブリとはじめて儀礼的コミュニケーションができた朝の会話は今も覚えている(略)
→殆ど意味はなかったが語学力指標では表せない何かが身についた手応えがあったから
・日本ではアイヌ語と琉球諸語が危機言語に認定されている
→母語を話し続けるかどうかは本人たちが決めることだが、言語の消滅はひとつの宇宙が
消えることで、すべての言語の歴史は地球の生命史に匹敵する
→生きることはコミュニケーションすることだから・・・
・最近の研究でムラブリ語が注目されている分野のひとつが感情表現
→トルコ語には感情に相当する語彙が3つありガーナのダバニ語やムラブリ語にはない
→感情表現には語彙と迂言的表現の2つがあり殆どの言語が両方を用いる
→日本語では「うれしい、悲しい」と「心が躍る、気分が沈む」など
・日本語の「幸せ」と英語の「happy」のニュアンスが異なるように感情表現の翻訳は難しい
→なので研究者は「好/悪」と「動/静」の二軸で平面上にマッピングする
(日本語の「幸せ」と英語の「happy」はポジティブなので、どちらも右側に入るが、
日本語の「幸せ」のほうが英語の「happy」より静的なので少し下側になるとか)
・ムラブリ語には感情語彙がなく「心が上がる、下がる」で迂言的に感情表現する
→ところが「心が上がる」は悲しいとか怒りでネガティブ、「心が下がる」はうれしいとか
楽しいでポジティブな意味になる
→認知言語学で世界の普遍的な特徴とされるUp is Good(happy)概念メタファーの例外
→上下ではなく別の意味とも考えたが表現の際に手を胸の上下に動かすので誤りではない
→ムラブリの概念メタファーにはDown is Goodがあるのかも・・・
→ムラブリ語には「興奮」もなく行為から感情を分離する感性がないのかもしれない
→「心が上がる、下がる」も身体的な行為に近い感覚かも・・・
→ムラブリ語の体系を通して彼らの感じている世界を想像することができるかも・・・
・ムラブリは感情を表に出すことが殆どない
→まだ森で遊動生活しているラオスのムラブリは、さらに表情が乏しく見えた
→主張や感情を表に出すことは一大事で、そんな事態は避けるべき悪いことだと捉える感性かも
(連れて行った学生が夜遅くまで騒いでて、意見しに来たのに何を言ってるのか分からない
ような遠回しな言い方で、何度も「怒ってないよ本当だよ」を繰り返していた)
→なので「心が下がる」ことがよいことなのかも
(会いたがってた遠くの親族と会わせてもハグなど身体接触はもちろん、一緒に食べることも
会話の盛り上がりもなく、顔も見ずに横に座っているだけだった)
→ぼく自身も変化しており、楽しく気分がいいと口数が少なくなり表情がぼーっとする
→日本でも最近は「チルい」という言葉が流行っており、その「脱力した心地よさ」は
ムラブリの「心が下がる」に通じるところがあるように思える
・SNSへの情熱や仲間とはしゃいだときに感じる楽しさは知っているし理解している
→でも感情を出して誰かに知られて幸福を感じられるのは一時的な流行りに過ぎない
→誰かといる、他人に認めてもらう以外の幸福がムラブリには見えている
→ムラブリ語の「心が下がる」瞬間は人類史的にはごくありふれた心の風景かも・・・
・ムラブリ語には暦も年齢もない
→季節には雨が降る季節・乾く季節・日差しの季節があるが人により呼び方は異なる
→森での収穫物が変わるので季節は重要だが、季節を決めるのは暦ではなく森の様子
→不思議なことに一昨日から5日後までの単語は規則的に存在する→昔は必要だった?
・人の暦はある→年齢ではなく成長段階による区別
→生まれたばかりの子どもは「レーン赤い」(日本語の赤ちゃんと同じで面白い)
→首が座り歩けるまでの子どもは「チョロン幼い子」
→歩き回る時期の子どもは「アイタック小さい」
→その後は「ナル・フルアック大人」で第二次性徴以降なので10代前半ぐらいから
→老人は「白い」を変化させた語彙で、おそらくは白髪のことだろう
・数詞はあるが10まで正確に数えられる人は稀
→知的威信を示す手段で、男たちは酔っぱらうと数えたがるが10までは行かない
→数えることで何かを教えるというより、宴会芸の一種というのが正確な理解

→時計をつける(電池がないか時刻が合っていない)のも時計の入れ墨をするのも知的威信
→森の生活では大きな数も時計も要らないのに、余計なもの無駄なことに価値を見いだすのが
普遍的な人類の特徴なのかも知れない
→女性に数詞を数えたり時計を見せたりはしないので、モテるためでもない男社会のあるある

・ムラブリ語の過去・完了相と未来・起動相(時制やアスペクトのハナシなので省略)
→世界の見え方は話している言語の影響を受けている
(言語相対論、青を区別する語彙があるロシア語話者の色彩識別テストなど)
・言語の持つ超越性とムラブリ語や南米ピダハン語の現前性(いま、ここ)
→ムラブリも定住し換金作物栽培を手伝うようになって計画性を求められるようになった
→ムラブリの村に一時期、自殺が増えた時期があった
→その理由を訊くと「長く考えたから」と答えたムラブリがいた
→「いま、ここ」の現前性では未来はわからず過去はとりかえせない、あるようでないもの
・ムラブリ語に竹という総称はなく7種類それぞれに単語がある
→それぞれで用途が異なり森で少しずつ見分けられるようになった
→論文を書くには写真と単語だけでいいのだが、自分で覚えて使えないと気が済まない
→理由は分からないけど、その方がぼくにとって楽しいのは間違いない
第4章より
・ムラブリが森に入る時は腰の刃物だけ
→採集物を持ち帰るカゴ、ロープ、寝床、焚火、食べ物など、すべては現地調達
→ところが村の家には服や衣類が山積みなのだが、なぜか森と変わらず落ち着いている
(ぼくはムラブリから「物が多い」といわれるが断捨離してから片付かないと落ち着かない)
・この理由を(言語学者なので)言語から考えてみる
→物を指すムラブリ語は複数あるが、よく使われるのはグルアで主に衣類の意味
→グルアの下位カテゴリーが衣類で上位カテゴリーが物
→日本語のご飯と食事の関係に近い→シネクドキ提喩
→衣類が典型的な物であるという感性はどこから生まれるのか?
・所有と匂い
→匂いは所有という抽象的な概念の入口ではないか(マーキングとか借りた服の違和感とか)
→所有のあるところに物が生まれる
→ムラブリの村や家の匂いは極めて均質(焚火の煙の影響も大きい)
→服は誰かが愛着して匂いがつくとその人のグルアになる
→家に山積みの服や衣類があってもどれも同じ(煙の)匂いなのでグルアにならない
→匂いの共有は森の中と同じなので落ち着いていられるのではないか・・・
・ムラブリの所有観(他動詞と自動詞のハナシなので省略)
→「米を持っている」と「米がある」の区別がない(森に木がある、森が木を持っている)
→私の父、私の手など親族と身体部位には「の」を使うが、私の米という使い方はない
→所有関係を表したいときはタイ語の構文を借用している
・ムラブリの一夫一妻、宗教(精霊信仰)、暴力・・・すべては「そいつ次第だ」
・自助と共助の共同体
→一人暮らしの老人でも助けを求めない限り誰も助けない
→人類学でいうシェアリングで富の集中や権力の発生を避ける仕組みを持っている
→分業しないので専門家もいない(バイク修理の講習会の例)
→徹底した個人主義の一方で獲物は平等に共有し、求められればできる範囲で助ける
→個人を生命として信頼し生命が儚いと自覚しているからの振る舞いだと感じる
(コラムより、森の中で火打石や火種の綿を濡らさないことがどれだけ大事か・・・)
第5章より
・博士論文とムラブリ語の方言差調査と子どもの誕生と大学院休学と富山への引っ越しと
29歳での日本学術振興会の特別研究員(学振3年)採用と富山大学の客員研究員・・・
→あらためて書いてみて、運だけで何とかなっているような人生だ

・2017年の春休みに富山大学の先生・学生とムラブリの村を訪れた際に金子游監督と出会った
→東南アジアの少数民族の映像を撮っていると知り(方言差調査で知った)分断されたムラブリを
消える前に引き合わせたいと考えていることや、その際の映像を残したいことを伝えた
→その日の夜にメールがきて映画のプロジェクトがはじまった・・・(略)
・ムラブリの歴史についての考察
→古くからの狩猟採集民のような高度な文化・精神世界とは異なり神話は散文的で儀礼も簡素
→いっぽうで玉鋼をつくる製鉄技術を持っている
→遺伝学や言語学の研究から農耕民が狩猟採集民になったと考えられている(略)
(遺伝的にも言語学的にも最も近い農耕民ティンの民話にも残っている)
→この逆行は人類史の中でも珍しく文化的言語的な特徴を説明する可能性がある
・ぼくのクレオール仮説
→日本語の「わたしの本」は英語では「my book」や「books of mine」
→日本語の語順は「わたしは本を持っている」主語→目的語→動でSOV言語
→英語の語順は「I have books」主語→動詞→目的語でSVO言語
→日本語のようなSOV言語の所有表現は(人→モノ)の語順が多い
→英語のようなSVO言語では所有表現に地域や語族で隔たりがある
(英語もmy book(人→モノ)とbooks of mine(モノ→人)の両方がある)
→文の基本語順と所有表現の類型論的含意と呼ばれる傾向
→オーストロアジア語族SVO言語の所有表現は唯一の例外を除いて(モノ→人)の語順
→その唯一の例外がムラブリ語
→ムラブリ語はSVO基本語順の一方で所有表現については(人→モノ)の語順を示す
(これはオーストロアジア語族の言語研究者には、そんなバカな!!!くらいの大事件だった)
→ムラブリ居住領域の周辺に(人→モノ)語順の言語はなく言語接触も殆どなかったはず
→他にも近親言語と共通する語彙が極端に少ないなど不思議な特徴がたくさんある
→中国語(人→モノ語順)の影響とか消えた言語の影響とか、イマイチな仮説ばかり・・・
(ここからがムラブリ語好きの著者の仮説)
・アジア大陸山岳部はゾミアと呼ばれ様々な少数民族が点在している地域
→平野部に比べコメの生産が難しく大きな王朝は築かれず負け組とされてきた
→歴史学者ジョージ・C・スコットは中央集権支配から逃れるため文字を捨て所有を嫌い
自由を求めて主体的に山岳部に移住したのがゾミアの民とした(2013)
→ムラブリはゾミアの民の典型例ではないかとぼくは考えている
・最初は少数のティンが祖先で、その噂に共感した他の民族からも人々が合流した
(遺伝学的にもクム族やタイ族など様々な民族と混血した痕跡がある)
→様々な民族の集まりだから、その都度、その場で通じる言葉を作り上げていく
(その場限りの必要性から生まれる言語はピジンと呼ばれ世界中で報告されている)
→ピジンは不完全な文法で語彙も限定的
→ピジンを母語として学んだ子どもたちは、やがて完全な言語体系をつくり出す
→ピジンを母語として生まれる言語をクレオールという
→つまりムラブリ語はクレオールではないか
・クレオールは元の言語や地域が違っても似たような特徴を持つ
→所有表現の語順が(人→モノ)であること、疑問詞が2つの要素からなっていること、
重複などの仕組みの乏しいことなど(偶然かも知れないが)ムラブリ語の特徴と一致する
→もちろん証明できないことであり学者として追いかける理由はないが、
→農耕から逃れ森の中で遊動生活をしながらゆるいつながりで形成していった共同幻想
→それがムラブリという民族だった可能性を想うと、なぜムラブリに出会い惹かれたのか
腑に落ちる気がするのだ・・・
(映画の撮影、ラオスのムラブリ、100年越しの再会、ムラブリ語の方言(方言には○○方言と
地名が付くが、ムラブリは移動するのでA方言B方言C方言となる)、などは省略して・・・)
・バベル的言語観、コーラン的言語観
→人々が統一言語で協力して天まで届く塔を作ろうとしたので神が怒り、天罰として塔を崩し
人々の言語をバラバラにしたというのが聖書
→「グローバルには統一言語としての英語」という風潮には反論できないが納得もできない
→言語学者としての応答は聖書と並ぶコーラン
→神が民族をバラバラにしたのは聖書と同じだが、理由はお互いをよく理解するため
→同じ言語だと個別性に気づくのは難しい→日本語同士なら同じ「おいしい」だけ
→タイ語で「アロイ」ムラブリ語で「ジョシ」という人がいれば、感じていることが違うかも
知れないという発想が湧いてくるのではないか
→味覚だけでなく感情や価値観、思想も同じこと
→言語はバベル的言語観もコーラン的言語観も同時に内包する
→同じだよね、違うよねというメタメッセージは言語を用いる限り常に存在する
→どっちも本当で同じだし、違う、そして、それは両立する
第6章より
・「ムラブリ語を話せるようになる過程で変化した自分自身」が何よりの研究成果
→2020年3月に大学教員を辞めて独立研究者になった
(プロ奢ラレヤーの「嫌なこと、全部やめても生きられる」を読んだ翌週に辞表を提出した)
・身体と言語
→武術の講座に通い稽古して、型を通じて身体性を養い、今は言語は型であると言える
→既存の言語を話すときは必ず誰かを引用している→その語も誰かがつくったもの
→ムラブリが雷の経験を誰かと共有したい、声にして表したいと思って出た音が「クルボッ」
→経験は認められ共有され、それまで意味のなかった音の配列が雷を意味するようになった
→現代言語学では単語の誕生に恣意性はないとされている
→日本語イヌ・英語ドッグ・ムラブリ語ブラン・・・
→この考え方はこれらが同じ意味であることを前提にしている→似ているが同じではない
→「クルボッ」の音やリズムがムラブリの身体性で感じる雷をよく表し一体感があったから
いままで使われてきたのではないか
→どんな音でもよかったのではなく生まれる瞬間の強度が死んでなお経験を伝える(武術の型?)
→話し手と聞き手は、語のつくり手の経験とつながっているから互いに理解できる
→ムラブリ語を理解したということは経験のアーカイブ、つまりムラブリの身体性にアクセス
することに慣れた、ということでもある
→そのアクセスがスムースになるほどムラブリ的なセンスで生きることが可能になる
→ムラブリ語を話しているときは深くしゃがめる、遠くに話そうとしている自分に気づく
(ムラブリは村では寡黙だが森では饒舌で話す距離は20~30m=ぼくが話そうとしている距離)
→給料、税金、モノやコトの値段、ご飯・・・ムラブリなら要るか要らないかだけ
→ムラブリは生きるのに必要なことを知ってて、すべて自分でできる
→ぼくは生きるのに必要なことすべてをお金で外注していることに気づいた
→まずは衣食住を身ひとつで賄えることを目指した・・・
・現代日本でムラブリのように生きるには
→バックミンスター・フラー唯一の共同研究者シナジェティクス研究所の梶川泰司所長に出会った
→梶川所長の目指す生き方
①無線→電線などを用いないオフグリッド
②無管→上下水道管を用いない
③無柱→住居に柱を用いない
④無軌道→道路などのインフラに左右されない移動
→これを達成するテクノロジーを発明することが、ぼくの理解する梶川所長の目標
(ぼくは工場規格ではなく自分で作れる環境に応じたものが理想的と思った)
→自分で作ることができ、環境と調和してお互いを活性化し、地球の(宇宙でも)どこでも
一人で生きていけるテクノロジーが、ムラブリの身体性を日本に持ち込んだぼくが心地よく
生きていく方法なのだと今は考えている→自活器self-livingry
→2022年1月にフラー式ドームの簡単な施工法を発明した(略)
→プロ奢ラレヤーと話して空き家・空きスペースに寝るスキルも面白いと思った
→寝るスキル、食事のスキル、服装のスキル・・・(略)
・友達のお父さんが急病になり二人で街の病院へ連れて行き病院の雑魚寝スペースに居たら
身なりのいいタイ人のおばさまが黙って菓子パンとアンマンの入ったコンビニ袋を渡してくれた
→泥まみれでタイ人らしくない顔つきでムラブリ語で話してたので貧しい少数民族に見えたのだ
→「ありがとうございます!!!儲かった!!!」という感情はなく、自然に二人で黙って食べた
→水が流れてきた、キノコが生えてきた、という感じで、とても自然だった
・ぼくの人生には不思議とタイミングよく身に余るオマケがついてくる
→以前ならムラブリを紹介しても「珍しい民族ですね」で終わっただろうが、映画が上映され
映画の感想が多いことに驚かされた。いまはこの本を執筆している
→おそらくこのタイミングで日本で紹介されたことに意味があったのだろう
・ムラブリはタイの少数民族の中でも地味で物質文化も乏しい
→視覚的に「これがムラブリです」と示せるものが極端に少ないが、
→若いムラブリは声を揃えて「自由が好き、強制は嫌い」と言う→これがムラブリなのだ
→この部分が現代日本でムラブリがウケている理由なのだろう
・この本に書かれていることはすべて偶然性や自由からの働きかけで起きたこと
→みんなももっと自由になれるんじゃないかと感じていたから書き上げることができたと思う
→あなたの心に小さなムラブリが芽生えることを祈っている
おわりにより
・2020年1月を最後にコロナ禍でムラブリを訪問できずにいた
→この「おわりに」を書くため3年ぶりに訪れる予定だったが出発2週間前にキャンセルした
→いまやりたいことがムラブリに会うことではないと気づいたから
・言語とは何かの本質的な問いに向かうため武術、詩、短歌、踊りをしてワークショップなどで
収入も得られるようになった
→富山での定住から車中泊生活を経て関東・関西を含む多拠点になり今は富山の山中が拠点
→ムラブリをof研究することからはじめ、ムラブリとともにwith、そしていまムラブリとしてas
研究することに挑戦している
・ぼくは孤独になり自由になったことで、なぜ専門を就職を所有やお金を嫌ったのかに気づいた
→専門ではなくそれが生む権威、働くことではなくそれの強制、所有やお金に絡む社会の
仕組みが気に入らず、身体に合わずうんざりしていたのだ
・いまは富山の山中で自活器self-livingryの開発を行っている
→自分で家を建て食を担いエネルギーをつくることができれば人はやりたいことに邁進するはず
→それがぼくのムラブリ研究でありムラブリへの恩返し
→どうかみなさん、自活器の開発に力を貸して下さい!!!
2024年08月21日
最後はなぜかうまくいくイタリア人
とーとつですが・・・
前回記事の本にムラブリやプナンの人たちが「分業しない」とか「今、ここ」だけとかあって、
それでふと思い出したのが・・・
Alla fine gli italiani ce la fanno.
最後はなぜかうまくいくイタリア人・・・とゆー本であります

表紙カバー裏にあった惹句

裏表紙カバー裏にあった著者紹介

著者はローマの新聞社勤務からワインガイドやレストランガイドの執筆スタッフを経て、
日本とイタリアでワインと食について執筆活動中、2014年にはイタリア文化への貢献で
大統領から勲章を授章されてるとゆー、まさにホンモノのイタリア通ですね
奥付

第1刷は2015年9月、わたくしには初めての渡欧で、我が家にホームステイしていた青年の
シチリアでの結婚式に参列して、トスカーナにある実家にホームステイさせてもらったのは
2017年の夏ですから、その2年前に刊行された本とゆーことになります
当時は本書の存在を知りませんでしたが、なぜシチリアとトスカーナに住む新郎と新婦の
家族や知人が、わたくしたち夫婦の世話を親身になってしてくれたのか、なぜ家族全員で、
あるいは親族や友人、仕事関係者らと一緒に食卓を囲んでいたのか、が理解できました
さらにシチリアでもトスカーナでも嫌な思い出がひとつもないのは「よそ者」ではなく
グループの一員として、家族や知人に限らずお店の人まで対応してくれてたからかも・・・
彼らと行動を共にしている際はもちろん、一人で近所をポタリングしてる際でも、お店に入り、
「獣医の○○さんちにホームステイしてます」と伝えると、急にカタコト同士での会話が弾み、
「○○さんは知らないなあ」の場合でも、まったくの「よそ者」ではなさそうとの判断で、
やはり親切に対応してくれてたのかもとも、本書を読んで思いました
ただ、まったくの「よそ者」としてのシーンでも、けっこう「世話焼き」な印象を受けたので、
このあたりは大阪人にそっくりとも、当時のわたくしは感じてましたが・・・
閑話休題
例によって目次のご紹介(これだけ眺めてても面白いです)









コラム「見習ってはいけないイタリア①~④」とかも、めっちゃ面白かったのですが、
とりあえず一部だけの読後メモ・・・
例によって読み違いとか読み飛ばしも多いので興味のある方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
「はじめに」より
・30年前のはじめての通訳アルバイト経験から
→予定どおり物事が運ぶと考えるのはイタリアでは大きな間違いだった
→不測の事態が起こるのが普通と考えている(不測が予測できるという矛盾した状態)
→それで怒ったり慌てたりするのは愚か、より良い解決策を見いだす方が大切という考え方
→彼らは決してあきらめず、最後にはなんとかする(子どもの頃から慣れている)
・とんでもない行動規範にみえるが裏には彼らなりのロジックがあり機能している
→気楽で怠け者と思われがちだがEUの経済大国であり、各分野で世界をリードしている
・現在は日本とイタリアで仕事をしているが仕事のやり方は空港で切り替えている
→どちらが正しいとかではなく、そのほうがうまくいくから
→国際化で身近になったという錯覚もあるが歴史も文化も全て異なる遠い国
→日本と似ているところも多いが異なる部分がたくさんある
→22歳までイタリアと縁のなかった日本人が身につけた、生きていくための知恵・・・
1「仕事」より
・時間へのルーズさは南へ行くほど大きくなる→特にローマから南は・・・
→ただしルーズさには暗黙のロジックがあり、それに従っている
(記者会見、ディナーパーティー、自宅への招待、大学の授業などの例)
→重要なのは時間の遅れは予測可能であり、しかもかなり正確なルールで遅れること
(開始時刻は準備の目標であり、所要時間を訊いても最短時間(クルマなら渋滞も赤信号もなく
最速で到着する時間)しか答えてくれないので訊いてもムダ)
・公私混同しないこと、けじめをつけることは・・・
→いいことだと思っていた、イタリアという国を知るまでは
→公私混同が激しいほど社会に活気が出て、皆が生き生きとしているように思える
→公共窓口やレストランの例
→おしゃべりで待たされる側は不利益のはずだが、けじめが存在しないので客も参加する
→逆にプライベートな時間への仕事の割り込みにも寛容
→同様にけじめが存在せず労働時間への権利意識も低いから(フランス取材との違い)
→時間にルーズで自分に都合のいいように考えるが他人もそうだと理解しているので寛容
・仕事が労働時間なのは商品として資本に売買される「疎外された労働」のみ
→銀行の窓口担当と駄菓子屋の店先に座るお婆ちゃんの違い
→お婆ちゃんは知り合いとおしゃべりし子どもと遊び説教して、ついでに駄菓子も売る
→お婆ちゃんには人生そのものであり生きがい、仕事の時間と私の時間が溶けあっている
→イタリアは皆が駄菓子屋のお婆ちゃんのように働いている国と考えればわかりやすい
→資本により売買されたはずの労働が(労働者の勝手な解釈で)好き勝手に使われている
→労働の疎外レベルが低い(労働レベルも低いけど)恵まれた労働者と考えれば腹も立たない
・高度成長期に会社で長時間労働していた日本のお父さんたち
→世界中からバッシングされたが公私の区別がなく会社はお婆ちゃんの駄菓子屋と同じだった
→会社だけで充実しておりオフに自分を取り戻す必要はなかった(なので退職後は廃人に)
・イタリア経済を支える中小企業は大きな家族のようなもので分業も明確ではなく公私混同
→マルクス理論では商品化による労働疎外が極端に進めば革命が起こるが、
→イタリアでは労働時間を勝手に解釈して自分に使っており社会全体がそれを許容している
→実際に業務をきちんと遂行しない労働者へのイタリア人の寛容さは破格
→なし崩し的に資本主義の先鋭化を止め、いまだにのんびり楽しげに働いている
・近代的労働は労働に見合う対価を受け取る契約で成り立っている
→対価に見合う労働以上にする必要はなく人間関係がなくても成立する
→イタリア人は自分のものとして感情移入できないと関心を持てず熱中できない
→公共サービス窓口が典型で時間外の第二の仕事では生き生きと熱心に働いている
・対する家族工房的労働は友人家族のように公私の区別が曖昧で労働時間も曖昧
→イタリアの経済基盤を支える中小企業は多くがこのカテゴリー(ワイナリーなど)
→社長は親父、会社は第二の我が家で、高度成長期の日本の家族経営企業と同じ雰囲気
(映画「紅の豚」に出てくるミラノのピッコロ社は、まさに家族経営そのものでしたね)
→無機質な労働は苦手だが目に見えることは懸命にやり、残業代を言う人はまずいない
・危機的状況が常態化しているので、ひるまないしぶとさがイタリア最大の武器
・京都の「ぶぶ漬けでもどうどす」と同じで土地のルールを理解しておく必要がある
・フォルクスワーゲンとフェラーリの違い
→効率は悪いが全体が見える何でも屋さん→大きなバルの従業員でも分業しない
・先の段取りは苦手、今やるべきことに集中する→バック駐車しないとか
・何でもダメもとでトライするが親切に対応してくれることも多い(断られてもひるまない)
・「お客様は神様」と「店員は友達」の違い
→自分も友達といるときのようにおしゃべりしてるので客にも友達のように親身になる
コラム見習ってはいけないイタリア①より
・公共心がない
→仲間と見なせば必死で守るが国家など大きな組織は仲間と見なしていないから
・泥棒が多い、偽物が多い、脱税が多い
→「破格のお値打ち品」に弱いから
→脱税や盗品や偽物の取り締まりには賛成だが自分が得する場合は誘惑に負けてしまう
→公共心という絶対的価値判断基準がないので総論は賛成、各論は個人判断となる
・イタリア統一と近代国家の誕生は人民革命ではなかった
→統一はサルデーニャによる吸収合併で、国家はよそから来たサヴォイア家が押しつけたもの、
という意識が強い(特に中南部イタリアに多い)
→なので納税義務と国民の権利という民主主義の市民文化を確立できなかった
→この歴史的経緯は日本に似ているが結果の行動パターンがあまりにも異なるのが興味深い
・・・と、ここまでで全体の1/3ほど・・・
最後まで興味深く読みましたが、暑気払い飲酒が続き、全てはメモできませんでしたので
、
以下は思い切って2「人生」のメモを省略、3「家族と恋愛」の一部と、(わたくしの愛する
)
4「食事」、5「独断と偏見で考えるイタリア」の一部、「あとがき」からの一部メモ・・・
ちなみに目次の最後にある「不思議の国イタリアの"あるある"行動」もめっちゃ面白かったです
3「家族と恋愛」より一部
・ローマ・カトリックの影響
→清く正しい生き方を説く
→できるわけがないので
破った側も教会側も体裁だけ繕うことを選んできた
→なので体裁さえ繕えば何をしてもいいという偽善モラルが根付いたという説
→ダブルスタンダードの快感(映画山猫、トスカーナワインの規則、スピード違反など)
・家族一族の団結→同族企業が多い
→異国に支配され続けてきた歴史から、頼れるのは家族一族だけという考え方に
→シチリア・マフィアも支配民族に対する抵抗から生まれた構成員の多い大家族
→同じグループに所属するメンバーを優遇する→コネを使いまくる
→有力なコネだけでなく友人の友人でも便宜を図る→いつかそのコネを使えるから
→裏口を多く持つ人が尊敬され真面目に正門で待つ人はマヌケという矛盾した文化に
→なのでまったくの赤の他人は「よそ者」として不信感を持たれる
→曖昧で緩やかな関係が、じつは正確に等価交換され機能している国がイタリア
・個人的な問題を公にして解決しようとする
→グループ内のカップルは複数で行動し相手方がグループ内で変わることも多い
→グループ全員が(元カレや元カノを含め)葛藤を共有し温かく見守るシュールな状況
4「食事」
より
(イタリアの食についてはこちらの本も分かりやすかったです)
・イタリアは「食事の時間」が長いのではなく「食卓にいる時間」が長いだけ
→食卓に多義的な意味があるから(なのでスパゲッティを食べるスピードは早い)
→昼食と夕食で1日の活動時間の大半を食卓で過ごすこともある
・食卓とは人生のほとんどすべての問題を解決する場であり、人との出会いの場であり、
別れの場であり、相手を見定める場であり、就職活動の場であり、プロジェクトをスタート
させる場であり、打ち合わせの場でもある
→社会の重要な活動の多くが食卓で行われる→イタリアで食事をすることは重要な儀式
・イタリアのフォーマルなパーティーはヴィッラ(貴族の屋敷)やワイナリーを借りて行われる
①広い庭でのアペリティフから→だらだらとはじまる
(コネを作る場であり自由席の場合は同席する仲間を選ぶ場にもなる)
②8~10人テーブルの全員が揃ってはじめて着席し全員と握手して挨拶する(イタリアのみ)
③はじめての相手とも話題を探して延々と話し続ける
④伝統的にはアンティパスト→パスタ→メインディッシュ→ドルチェの構成(時間をかける)
⑤全員の同意を得てから一斉に席を立ち、また全員と握手してから別れる
⑥お開きになっても話が弾めばグラッパでも飲みながら話し続けて、だらだらと終わる
→フェードイン・フェードアウトが理想で、いただきます・ごちそうさま・締めの挨拶はない
・食事の誘いを断ったり食卓を囲むのが嫌いな人は信頼されない変な国
→食事に誘われるということは仲間として認められつつあるということ
→書類審査・筆記試験から面接に移る感じ(もちろんビジネスでは儀礼上の誘いもある)
→日本でいえば一緒に温泉に入る「裸の付き合い」のような、お互いをさらけ出す場
→ラテン語にIn vino veritas(ワインに真実がある)という諺があるが「食卓に真実がある」
・レストランでも自宅でも友達同士でも家族でも、食べる喜びは増えるが精神は同じ
→自宅で家族の場合
①それまで作業などに使っていた食卓を片付けてテーブルクロスを敷く
②人数分のフォーク・ナイフ・ナプキン・グラスをセットする
③パンを切って食卓の真ん中に置く
④皿を2枚ほど重ねてセットする
(1枚目が前菜やパスタ用で片付けた後に2枚目でメインを食べる)
⑤ようやく家族を呼び、全員が揃ったところでワインの栓を抜く
⑥全員がその日あったことや考えたことを家族と話し合う(話すことで頭の中が整理される)
(公式な食卓へのトレーニングでもあり、食卓が社会的パフォーマンスの場であることを学ぶ)
⑦前菜とパスタまでは調理に忙しいマンマもメインを出せばどっしり腰をおろして会話に加わる
⑧以後の議長役は当然マンマとなり、他のメンバー全員が従うのがイタリアらしい
・イタリアの食事の習慣で日本と最も異なるのは自宅での食事に招くことが、あらゆる接待の中で
(高級レストランに招くよりも)最高の接待とされていること
→基本的に招かれると招き返すのが礼儀なので連鎖は長く続く
(友人が多い場合は夕食に誰かが来ている頻度が高い)
→当日の「今夜うちに食べにくる?」といった軽い感じの誘いも多く、その際はふだんの料理
→自宅での食事では隠し事はできないので信頼できる証にもなる
・なぜか食卓の人数がどんどん膨れ上がる
→人数が多ければチャンスは増えるが、招く側も盛り上がってどんどん声をかけるから
→有名レストランに4人で予約して12人になったのはミシュラン2つ星の立派なシェフだが、
出会ったシェフたちに次々と声をかけてしまったので、と助けを求めてきた
→人気の有名レストランに4人の予約で12人は無理なことぐらいわかりそうなものだが、
うれしくてついつい、というのは子どもと変わらない発想
→本当に困った人と思いながら憎めず、30年もイタリアと仕事をすることができている
・イタリア人は仕事と同じく料理でもひとつに集中するタイプ
→日常生活では地元料理しか食べない(マンマの料理が世界一)→保守的
→味覚のレンジが狭い人が多い(寿司ブームだが食べるネタは限られる)
→選んだ一皿に集中してシェアしない(日本のイタリアンはシェアに対応している)
→シェアしたい場合は半分食べて皿ごと交換するしかない
→基本は4皿構成だがどれも量が多いので最近は2~3皿で済ませる人も多い
→ただし同じ食卓では皿数を一致することが望ましい(美しい)ので面倒くさい
→なので組み合わせは違ってもいいので「今日は何皿にしますか」と誰かが尋ねる
→合えばいいが合わない場合は(美しくないので)店が頼みもしない小皿を出すこともある
→ヨーロッパのレストランは舞台なので食卓の見た目も大切、客もほかの客に見られている
役者でもある
5「独断と偏見で考えるイタリア」より一部のみ
・イタリアが統一されてから僅か154年(2015年当時)
→イタリア人が現れるのは4年に一度だけ→サッカーワールドカップの応援時のみ
→知人はパレルモ人→シチリア人→ヨーロッパ人→イタリア人の順と言ってた
(我々なら大阪人→関西人→日本人→アジア人の順ですよね・・・)
→各地方ごとに大きく習慣、嗜好、特徴が異なり見誤ると大きな失敗をする
→「おらが村が一番」意識が強いので他の地方の悪口を言うのは国民的娯楽のひとつ
・各州の悪口(特徴)は略
・国全体の特徴
→1980年頃まではまったく人気がなく「イタ飯」ブームは1980年代末
→1980年代半ばからフランス的合理主義よりイタリア的直観感覚主義が評価されるように
→不思議で理解に苦しむことが多いが退屈だけは絶対にない
→合理的だが退屈な人生より、訳がわからなくても驚きに満ちた刺激的な人生がいいならイタリア
・イタリアの「あるある行動」
も略(目次参照)
「おわりに」より
・年に15回ぐらいイタリアに行くが日本に帰るたびに「いい国だなあ」と感動する
→空港は清潔で入国審査も荷物もスムーズ、電車も遅れない→イタリアはまったく逆
→それなのにイタリアのほうが楽しそうで時間と精神的余裕がありそうに思う
→効率的に動いている日本には、それを支える犠牲が必要で過酷な労働を課すシステム
・高レベルのサービスには過酷な労働が必要で、それを要求する限り働き方改革は難しい
→イタリア人は逆
→高レベルのサービスに苦労する気は毛頭ないし、それを受けられなくても文句は言わない
→あなたもわたしもつらい労働は嫌なのだから列車が汚くて遅れても、お互い我慢しましょう、
→上を目指して摩耗するより寛いでゆったり人生を過ごそうというスタンス
→なのでイタリアは何もうまくいっていないのに精神的余裕があって幸せそうなのだ
・完璧なサービスは、それで人が幸せになって初めて意味がある
→それが自己目的化してしまい、働く人にストレスを与え余裕がなくなれば意味がない
→日本人の完璧主義性向は素晴らしい誇りだが、もう少し手頃なレベルの幸せもいいかも
・両国を頻繁に往復してると、どちらがいいとか悪いとか、好きとか嫌いとかは、いかに
不毛の議論であるかがよくわかる
→それぞれの国が長い時間をかけて、それぞれのルールを築き上げた
→重要なことはそれをよく理解すること
→その上で好きになれないなら付き合わないのは人間関係と同じだが、やはり理解はしたい
→この本がイタリア理解の一助となれば、この上ない幸せ・・・
いかがでしょう?
もちろん本書にもあるとおり、イタリアとして統一されたのは僅か160年ほど前ですから、
同じイタリア人といっても地方によって大きく異なるのでしょうが、全体的にはなんとなく
ムラブリやプナンの人たちの生き方と似ていると思いませんでしたか?
どの人たちの生き方も今の日本人にはそれこそ前回記事にあった「すり鉢の外の世界」で、
今後の(特に若い人たちの)参考になるかと思いました
前回記事の本にムラブリやプナンの人たちが「分業しない」とか「今、ここ」だけとかあって、
それでふと思い出したのが・・・
Alla fine gli italiani ce la fanno.
最後はなぜかうまくいくイタリア人・・・とゆー本であります

表紙カバー裏にあった惹句

裏表紙カバー裏にあった著者紹介

著者はローマの新聞社勤務からワインガイドやレストランガイドの執筆スタッフを経て、
日本とイタリアでワインと食について執筆活動中、2014年にはイタリア文化への貢献で
大統領から勲章を授章されてるとゆー、まさにホンモノのイタリア通ですね
奥付

第1刷は2015年9月、わたくしには初めての渡欧で、我が家にホームステイしていた青年の
シチリアでの結婚式に参列して、トスカーナにある実家にホームステイさせてもらったのは
2017年の夏ですから、その2年前に刊行された本とゆーことになります
当時は本書の存在を知りませんでしたが、なぜシチリアとトスカーナに住む新郎と新婦の
家族や知人が、わたくしたち夫婦の世話を親身になってしてくれたのか、なぜ家族全員で、
あるいは親族や友人、仕事関係者らと一緒に食卓を囲んでいたのか、が理解できました
さらにシチリアでもトスカーナでも嫌な思い出がひとつもないのは「よそ者」ではなく
グループの一員として、家族や知人に限らずお店の人まで対応してくれてたからかも・・・
彼らと行動を共にしている際はもちろん、一人で近所をポタリングしてる際でも、お店に入り、
「獣医の○○さんちにホームステイしてます」と伝えると、急にカタコト同士での会話が弾み、
「○○さんは知らないなあ」の場合でも、まったくの「よそ者」ではなさそうとの判断で、
やはり親切に対応してくれてたのかもとも、本書を読んで思いました
ただ、まったくの「よそ者」としてのシーンでも、けっこう「世話焼き」な印象を受けたので、
このあたりは大阪人にそっくりとも、当時のわたくしは感じてましたが・・・

閑話休題
例によって目次のご紹介(これだけ眺めてても面白いです)









コラム「見習ってはいけないイタリア①~④」とかも、めっちゃ面白かったのですが、
とりあえず一部だけの読後メモ・・・
例によって読み違いとか読み飛ばしも多いので興味のある方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
「はじめに」より
・30年前のはじめての通訳アルバイト経験から
→予定どおり物事が運ぶと考えるのはイタリアでは大きな間違いだった
→不測の事態が起こるのが普通と考えている(不測が予測できるという矛盾した状態)
→それで怒ったり慌てたりするのは愚か、より良い解決策を見いだす方が大切という考え方
→彼らは決してあきらめず、最後にはなんとかする(子どもの頃から慣れている)
・とんでもない行動規範にみえるが裏には彼らなりのロジックがあり機能している
→気楽で怠け者と思われがちだがEUの経済大国であり、各分野で世界をリードしている
・現在は日本とイタリアで仕事をしているが仕事のやり方は空港で切り替えている
→どちらが正しいとかではなく、そのほうがうまくいくから
→国際化で身近になったという錯覚もあるが歴史も文化も全て異なる遠い国
→日本と似ているところも多いが異なる部分がたくさんある
→22歳までイタリアと縁のなかった日本人が身につけた、生きていくための知恵・・・
1「仕事」より
・時間へのルーズさは南へ行くほど大きくなる→特にローマから南は・・・

→ただしルーズさには暗黙のロジックがあり、それに従っている
(記者会見、ディナーパーティー、自宅への招待、大学の授業などの例)
→重要なのは時間の遅れは予測可能であり、しかもかなり正確なルールで遅れること

(開始時刻は準備の目標であり、所要時間を訊いても最短時間(クルマなら渋滞も赤信号もなく
最速で到着する時間)しか答えてくれないので訊いてもムダ)
・公私混同しないこと、けじめをつけることは・・・
→いいことだと思っていた、イタリアという国を知るまでは

→公私混同が激しいほど社会に活気が出て、皆が生き生きとしているように思える
→公共窓口やレストランの例
→おしゃべりで待たされる側は不利益のはずだが、けじめが存在しないので客も参加する
→逆にプライベートな時間への仕事の割り込みにも寛容
→同様にけじめが存在せず労働時間への権利意識も低いから(フランス取材との違い)
→時間にルーズで自分に都合のいいように考えるが他人もそうだと理解しているので寛容
・仕事が労働時間なのは商品として資本に売買される「疎外された労働」のみ
→銀行の窓口担当と駄菓子屋の店先に座るお婆ちゃんの違い
→お婆ちゃんは知り合いとおしゃべりし子どもと遊び説教して、ついでに駄菓子も売る
→お婆ちゃんには人生そのものであり生きがい、仕事の時間と私の時間が溶けあっている
→イタリアは皆が駄菓子屋のお婆ちゃんのように働いている国と考えればわかりやすい
→資本により売買されたはずの労働が(労働者の勝手な解釈で)好き勝手に使われている
→労働の疎外レベルが低い(労働レベルも低いけど)恵まれた労働者と考えれば腹も立たない
・高度成長期に会社で長時間労働していた日本のお父さんたち
→世界中からバッシングされたが公私の区別がなく会社はお婆ちゃんの駄菓子屋と同じだった
→会社だけで充実しておりオフに自分を取り戻す必要はなかった(なので退職後は廃人に)
・イタリア経済を支える中小企業は大きな家族のようなもので分業も明確ではなく公私混同
→マルクス理論では商品化による労働疎外が極端に進めば革命が起こるが、
→イタリアでは労働時間を勝手に解釈して自分に使っており社会全体がそれを許容している
→実際に業務をきちんと遂行しない労働者へのイタリア人の寛容さは破格
→なし崩し的に資本主義の先鋭化を止め、いまだにのんびり楽しげに働いている
・近代的労働は労働に見合う対価を受け取る契約で成り立っている
→対価に見合う労働以上にする必要はなく人間関係がなくても成立する
→イタリア人は自分のものとして感情移入できないと関心を持てず熱中できない
→公共サービス窓口が典型で時間外の第二の仕事では生き生きと熱心に働いている
・対する家族工房的労働は友人家族のように公私の区別が曖昧で労働時間も曖昧
→イタリアの経済基盤を支える中小企業は多くがこのカテゴリー(ワイナリーなど)
→社長は親父、会社は第二の我が家で、高度成長期の日本の家族経営企業と同じ雰囲気
(映画「紅の豚」に出てくるミラノのピッコロ社は、まさに家族経営そのものでしたね)
→無機質な労働は苦手だが目に見えることは懸命にやり、残業代を言う人はまずいない
・危機的状況が常態化しているので、ひるまないしぶとさがイタリア最大の武器
・京都の「ぶぶ漬けでもどうどす」と同じで土地のルールを理解しておく必要がある
・フォルクスワーゲンとフェラーリの違い
→効率は悪いが全体が見える何でも屋さん→大きなバルの従業員でも分業しない
・先の段取りは苦手、今やるべきことに集中する→バック駐車しないとか
・何でもダメもとでトライするが親切に対応してくれることも多い(断られてもひるまない)
・「お客様は神様」と「店員は友達」の違い
→自分も友達といるときのようにおしゃべりしてるので客にも友達のように親身になる
コラム見習ってはいけないイタリア①より
・公共心がない
→仲間と見なせば必死で守るが国家など大きな組織は仲間と見なしていないから
・泥棒が多い、偽物が多い、脱税が多い
→「破格のお値打ち品」に弱いから
→脱税や盗品や偽物の取り締まりには賛成だが自分が得する場合は誘惑に負けてしまう
→公共心という絶対的価値判断基準がないので総論は賛成、各論は個人判断となる
・イタリア統一と近代国家の誕生は人民革命ではなかった
→統一はサルデーニャによる吸収合併で、国家はよそから来たサヴォイア家が押しつけたもの、
という意識が強い(特に中南部イタリアに多い)
→なので納税義務と国民の権利という民主主義の市民文化を確立できなかった
→この歴史的経緯は日本に似ているが結果の行動パターンがあまりにも異なるのが興味深い
・・・と、ここまでで全体の1/3ほど・・・
最後まで興味深く読みましたが、暑気払い飲酒が続き、全てはメモできませんでしたので

以下は思い切って2「人生」のメモを省略、3「家族と恋愛」の一部と、(わたくしの愛する

4「食事」、5「独断と偏見で考えるイタリア」の一部、「あとがき」からの一部メモ・・・
ちなみに目次の最後にある「不思議の国イタリアの"あるある"行動」もめっちゃ面白かったです
3「家族と恋愛」より一部
・ローマ・カトリックの影響
→清く正しい生き方を説く
→できるわけがないので

→なので体裁さえ繕えば何をしてもいいという偽善モラルが根付いたという説
→ダブルスタンダードの快感(映画山猫、トスカーナワインの規則、スピード違反など)
・家族一族の団結→同族企業が多い
→異国に支配され続けてきた歴史から、頼れるのは家族一族だけという考え方に
→シチリア・マフィアも支配民族に対する抵抗から生まれた構成員の多い大家族
→同じグループに所属するメンバーを優遇する→コネを使いまくる
→有力なコネだけでなく友人の友人でも便宜を図る→いつかそのコネを使えるから
→裏口を多く持つ人が尊敬され真面目に正門で待つ人はマヌケという矛盾した文化に
→なのでまったくの赤の他人は「よそ者」として不信感を持たれる
→曖昧で緩やかな関係が、じつは正確に等価交換され機能している国がイタリア
・個人的な問題を公にして解決しようとする
→グループ内のカップルは複数で行動し相手方がグループ内で変わることも多い
→グループ全員が(元カレや元カノを含め)葛藤を共有し温かく見守るシュールな状況

4「食事」

(イタリアの食についてはこちらの本も分かりやすかったです)
・イタリアは「食事の時間」が長いのではなく「食卓にいる時間」が長いだけ
→食卓に多義的な意味があるから(なのでスパゲッティを食べるスピードは早い)
→昼食と夕食で1日の活動時間の大半を食卓で過ごすこともある
・食卓とは人生のほとんどすべての問題を解決する場であり、人との出会いの場であり、
別れの場であり、相手を見定める場であり、就職活動の場であり、プロジェクトをスタート
させる場であり、打ち合わせの場でもある
→社会の重要な活動の多くが食卓で行われる→イタリアで食事をすることは重要な儀式
・イタリアのフォーマルなパーティーはヴィッラ(貴族の屋敷)やワイナリーを借りて行われる
①広い庭でのアペリティフから→だらだらとはじまる
(コネを作る場であり自由席の場合は同席する仲間を選ぶ場にもなる)
②8~10人テーブルの全員が揃ってはじめて着席し全員と握手して挨拶する(イタリアのみ)
③はじめての相手とも話題を探して延々と話し続ける
④伝統的にはアンティパスト→パスタ→メインディッシュ→ドルチェの構成(時間をかける)
⑤全員の同意を得てから一斉に席を立ち、また全員と握手してから別れる
⑥お開きになっても話が弾めばグラッパでも飲みながら話し続けて、だらだらと終わる
→フェードイン・フェードアウトが理想で、いただきます・ごちそうさま・締めの挨拶はない
・食事の誘いを断ったり食卓を囲むのが嫌いな人は信頼されない変な国
→食事に誘われるということは仲間として認められつつあるということ
→書類審査・筆記試験から面接に移る感じ(もちろんビジネスでは儀礼上の誘いもある)
→日本でいえば一緒に温泉に入る「裸の付き合い」のような、お互いをさらけ出す場
→ラテン語にIn vino veritas(ワインに真実がある)という諺があるが「食卓に真実がある」
・レストランでも自宅でも友達同士でも家族でも、食べる喜びは増えるが精神は同じ
→自宅で家族の場合
①それまで作業などに使っていた食卓を片付けてテーブルクロスを敷く
②人数分のフォーク・ナイフ・ナプキン・グラスをセットする
③パンを切って食卓の真ん中に置く
④皿を2枚ほど重ねてセットする
(1枚目が前菜やパスタ用で片付けた後に2枚目でメインを食べる)
⑤ようやく家族を呼び、全員が揃ったところでワインの栓を抜く
⑥全員がその日あったことや考えたことを家族と話し合う(話すことで頭の中が整理される)
(公式な食卓へのトレーニングでもあり、食卓が社会的パフォーマンスの場であることを学ぶ)
⑦前菜とパスタまでは調理に忙しいマンマもメインを出せばどっしり腰をおろして会話に加わる
⑧以後の議長役は当然マンマとなり、他のメンバー全員が従うのがイタリアらしい
・イタリアの食事の習慣で日本と最も異なるのは自宅での食事に招くことが、あらゆる接待の中で
(高級レストランに招くよりも)最高の接待とされていること
→基本的に招かれると招き返すのが礼儀なので連鎖は長く続く
(友人が多い場合は夕食に誰かが来ている頻度が高い)
→当日の「今夜うちに食べにくる?」といった軽い感じの誘いも多く、その際はふだんの料理
→自宅での食事では隠し事はできないので信頼できる証にもなる
・なぜか食卓の人数がどんどん膨れ上がる
→人数が多ければチャンスは増えるが、招く側も盛り上がってどんどん声をかけるから
→有名レストランに4人で予約して12人になったのはミシュラン2つ星の立派なシェフだが、
出会ったシェフたちに次々と声をかけてしまったので、と助けを求めてきた
→人気の有名レストランに4人の予約で12人は無理なことぐらいわかりそうなものだが、
うれしくてついつい、というのは子どもと変わらない発想
→本当に困った人と思いながら憎めず、30年もイタリアと仕事をすることができている

・イタリア人は仕事と同じく料理でもひとつに集中するタイプ
→日常生活では地元料理しか食べない(マンマの料理が世界一)→保守的
→味覚のレンジが狭い人が多い(寿司ブームだが食べるネタは限られる)
→選んだ一皿に集中してシェアしない(日本のイタリアンはシェアに対応している)
→シェアしたい場合は半分食べて皿ごと交換するしかない
→基本は4皿構成だがどれも量が多いので最近は2~3皿で済ませる人も多い
→ただし同じ食卓では皿数を一致することが望ましい(美しい)ので面倒くさい
→なので組み合わせは違ってもいいので「今日は何皿にしますか」と誰かが尋ねる
→合えばいいが合わない場合は(美しくないので)店が頼みもしない小皿を出すこともある
→ヨーロッパのレストランは舞台なので食卓の見た目も大切、客もほかの客に見られている
役者でもある
5「独断と偏見で考えるイタリア」より一部のみ
・イタリアが統一されてから僅か154年(2015年当時)
→イタリア人が現れるのは4年に一度だけ→サッカーワールドカップの応援時のみ
→知人はパレルモ人→シチリア人→ヨーロッパ人→イタリア人の順と言ってた
(我々なら大阪人→関西人→日本人→アジア人の順ですよね・・・)
→各地方ごとに大きく習慣、嗜好、特徴が異なり見誤ると大きな失敗をする
→「おらが村が一番」意識が強いので他の地方の悪口を言うのは国民的娯楽のひとつ

・各州の悪口(特徴)は略

・国全体の特徴
→1980年頃まではまったく人気がなく「イタ飯」ブームは1980年代末
→1980年代半ばからフランス的合理主義よりイタリア的直観感覚主義が評価されるように
→不思議で理解に苦しむことが多いが退屈だけは絶対にない
→合理的だが退屈な人生より、訳がわからなくても驚きに満ちた刺激的な人生がいいならイタリア
・イタリアの「あるある行動」

「おわりに」より
・年に15回ぐらいイタリアに行くが日本に帰るたびに「いい国だなあ」と感動する
→空港は清潔で入国審査も荷物もスムーズ、電車も遅れない→イタリアはまったく逆
→それなのにイタリアのほうが楽しそうで時間と精神的余裕がありそうに思う
→効率的に動いている日本には、それを支える犠牲が必要で過酷な労働を課すシステム
・高レベルのサービスには過酷な労働が必要で、それを要求する限り働き方改革は難しい
→イタリア人は逆
→高レベルのサービスに苦労する気は毛頭ないし、それを受けられなくても文句は言わない
→あなたもわたしもつらい労働は嫌なのだから列車が汚くて遅れても、お互い我慢しましょう、
→上を目指して摩耗するより寛いでゆったり人生を過ごそうというスタンス
→なのでイタリアは何もうまくいっていないのに精神的余裕があって幸せそうなのだ
・完璧なサービスは、それで人が幸せになって初めて意味がある
→それが自己目的化してしまい、働く人にストレスを与え余裕がなくなれば意味がない
→日本人の完璧主義性向は素晴らしい誇りだが、もう少し手頃なレベルの幸せもいいかも
・両国を頻繁に往復してると、どちらがいいとか悪いとか、好きとか嫌いとかは、いかに
不毛の議論であるかがよくわかる
→それぞれの国が長い時間をかけて、それぞれのルールを築き上げた
→重要なことはそれをよく理解すること
→その上で好きになれないなら付き合わないのは人間関係と同じだが、やはり理解はしたい
→この本がイタリア理解の一助となれば、この上ない幸せ・・・
いかがでしょう?
もちろん本書にもあるとおり、イタリアとして統一されたのは僅か160年ほど前ですから、
同じイタリア人といっても地方によって大きく異なるのでしょうが、全体的にはなんとなく
ムラブリやプナンの人たちの生き方と似ていると思いませんでしたか?
どの人たちの生き方も今の日本人にはそれこそ前回記事にあった「すり鉢の外の世界」で、
今後の(特に若い人たちの)参考になるかと思いました
2024年08月16日
人類学者と言語学者が森に入って考えたこと
(期間限定のお知らせ)
2024.8/18(日) まで 京都市京セラ美術館で開催されている有道佐一回顧展の案内記事はこちらです
つーことで今、京都五山の送り火への点火を(大阪から中継で)眺めつつ・・・

「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」のご紹介であります
まあ、せっかくの送り火なので精霊つながりつーことで・・・
著者つーか対談者の紹介

ボルネオ島のプナンの人たちを研究する人類学者と、タイ・ラオスのムラブリの人たちを
研究する言語学者との対談を中心に両者の論考を加えた本であります
森を遊動していた狩猟採集民たちの研究者が、その生き方の共通点や相違点などから、
我々が現代をよりよく生きるための方法を探っていく、とイントロダクションにありました
奥付

例によって目次のみ



奥野克巳氏の著書については、こちらの記事や、こちらの記事でも一部紹介してますが、
伊藤雄馬氏の本はまだ読んだことがありません
本書で見る限り、その生き方をはじめ言語表現に関する考察などについても興味津々で、
いつかは読んでみたいと思った次第です
なので今回はそちらを中心に、ごく一部をランダムにメモしました
以下、発言者名・論考者名などはメモしてませんし、例によって読み違いとか読み飛ばしも
多いので興味を持たれた方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
・ムラブリ語では完了形と未来形が同じ→過去も未来も曖昧
→ワールは「帰る(最中)」だがア・ワールは「もう帰った」か「これから帰る」なのか不明
→基本的に「今、ここ」か、それ以外で言い分ける→今とここで生きている
(プナン語(マレー語インドネシア語も)では「帰る」はムリー、それに明日か昨日をつけて
未来・過去にしてるが、プナンも過去・未来の時間軸は薄い)
・おそらく世界初のムラブリ語とプナン語による会話セッションを二人でやってみた(略)
→どちらにも挨拶語はなかった
→どちらにもお金という抽象概念はなかった
(プナン語ではリンギを使うがマレーシアの通貨単位で具体概念)
(ムラブリ語ではタイの通貨単位バーツではなくサタンを使うがコインの意味で具体概念)
・ムラブリ語で誰かに自分の意見を言う時は必ず「私は怒ってないよ」を加える
→怒ることは何か悪いことを生むと考えているのではないか
・ムラブリのDNA研究から
→500~600年前に女性1男性2の焼畑民3人が森に入り狩猟採集民になったのがルーツと判明
→進化論的には逆流だが文化的再適応と呼んでいる
(プナンにも同様の仮説はあるが検証はない→思考法は他の狩猟採集民に似ている)
・プナンは年中6時に夜が明け7時に日が暮れる世界で暮らしており時間の長短がない
→季節は「葉っぱ」で「花の季節」と「実の季節」があるが、それがいつ来るかはわからない
→なので「葉っぱ」は「もし~ならば」という仮定法ifとしても使われる
(ムラブリには「雨の季節」と「日の照る季節」があるが仮定法ifはなくwhenで代用する)
・ボルネオ島には4万2千年前、アジア大陸には4万5千年前に現人類が到達したとされる
→東南アジア大陸部ではホアビン文化が紀元前1万年前頃からだが先史時代には諸説ある
・プナンが農耕以前に散らばった人類の末裔なのか農耕民から特化したのかは不明だが、
農耕民とは決定的に異なる「エートス」を持っている→森での歴史が長いからかも
(森のムラブリは農耕民から特化したという説が有力)
・ムラブリには専門家がいない→依存関係・権利構造を無意識に避けているのではないか
→その延長として自分の生に関わる部分は分業をしない
→村の大きな家は分業で作るが自分の寝床やバッグは一人で作る
(今はムラブリの手作りバッグが土産として売れ、上手に作れる人の現金収入が増えてるので、
→やがて上手な人が他の村人にも教えるようになり分業にも移行するかも→商品化?)
・プナンにも専門分化の否定、教師と生徒の関係で学ぶことの否定がある
→料理も薪割も子育ても子どもの頃から見て覚えており男女誰でも上手にやる
(「子どもの文化人類学」原ひろ子著・ちくま学芸文庫2023)
→生徒が先生から習って習得するのは、わりと新しい近代的なやり方
・人から教わるのではなくモノから学ぶのはプナンもムラブリも同じ
→アリストテレスの「質料形相モデル」ではモノを作っていない
→モノからの応答によって「学ばされている」
(「応答、しつづけよ」ティム・インゴルド著・亜紀書房2023)
→資本主義が導入された近代以降はその感覚がないので分業や生産効率へ
(分業しないとか目の前のモノから学ぶとか、なんかイタリアと似てるような・・・
)
・すり鉢状の世界の中で開口部に辿り着こうと努力し現実と認識のギャップに病む現代人
→その外側の世界に飛び出してみると、圧倒的な他者であるムラブリやプナンがいる
・今の自分は生きるために必要なこと全てを既存インフラに依存している
→食べ物、家、エネルギー、飲み水→全て買うしかない→これが一番大きなすり鉢
→すり鉢の外で一人で生きることはできるか
→ムラブリの感性と既存テクノロジーの組み合わせで結構いいところまで可能ではないか
・プロ奢ラレヤー君の二面性
→浄土系仏教では現世は濁世であり穢土→汚れた世界
→そこで生きていかざるを得ない感覚を逆手に取ったのが奢られ屋ではないか
→浄土系仏教では念仏によって、あの世(浄土)での安らかな生が保証される
→日蓮はそれを非難し、あくまで現世での浄土を目指した
→彼も仏国土を目指すのではなく濁世の中で救われようとしているように見える
・日蓮は念仏を非難したが法華経という本(モノ)に帰依する側に取り込まれた
→彼も奢られる生き方で資本主義は嫌だとしたが資本主義の親分になる可能性もある
→現世では救われないと決意しつつ現世に執着している二面性
・ぼくのムラブリ言語の研究はof→with→asへ(略)
・「ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」伊藤雄馬著
(集英社インターナショナル2023)
→言語の「習得」は無意識でブロークン「学習」は意識的で正確だがブロークンには話せない
・多文化主義と多自然主義(略)
・言語が異なれば認知が異なる→多自然主義と同じ→パースペクティブの世界
(アボリジニの言語には左右がなく全て方位で表す→方角を常に正確に認知している)
・多自然主義やパースペクティブでは「相手の立場」にはなれない
→客観的事実に辿り着けず共通の基盤がなくなる→別々の世界→科学的議論ができない
(「相手の立場になって考える」のではなく、同じ立場asで考える???)
・科学者の自己と芸術家の自己を区別する
→感覚の言語化テスト→例としてこの本に触った感覚を言葉にしてみる
→9割が触っている対象を主語にしたサラサラ平らなどの三人称(科学者の自己)で表現、
→1割が触っている自分を主語にした好き嫌いなどの一人称(芸術家の自己)で表現する
→水道水が冷たい(手が温かい)のは相対的な感覚(手が冷えている場合は逆)だが、
→水が冷たいと表現するのは外側を対象にした科学者の自己
→手が温かいと表現するのは内側の感覚に目を向けた芸術家の自己
→同時に存在していて、その都度個人が決めているのだが、
→科学者の自己として言語化することに慣れている人が多い(ので9割)
・科学者の自己と芸術家の自己が感じている世界は矛盾している
→夢の言語化の例→真偽が重要か、自分の感覚への誠実さが重要か
→植物の色の表現の違いの例→それが緑か青か
→正しいか否かなど→科学者の自己
→好きか嫌いかなど→芸術家の自己
→言語現象は同時存在している
・科学者の自己と多文化主義、芸術家の自己と多自然主義
→矛盾する自己が同時存在してるのに今はその分離が激しくなっている
→科学一辺倒と現代アートの横暴など
→統合には身体の復権が必要→of→with→asへ
・第二言語の習得はその言語の人たちの身体に近づこうとする身体改造
→パースペクティブの実践で感性がまるごと取り替えられる可能性もある
→精霊が見えるようになるとか・・・
・ムラブリ研究がof→with→asになって得たことと失ったことは表裏一体
→やりたいこと優先になり約束を履行しなくなったこととか
(日本では迂闊な約束をしないことでややマイルドになったけど
)
→お金や所有に対する違和感とか
(お金とは自分の代わりに他人に働いてもらう権利を生み出すメディア)
(車中泊で放浪していた頃、お腹が空けばポケットの所持金を確認して辺りのコンビニへ、
ムラブリはお腹が空けば食べ物を辺りで探すか、食べ物を獲る道具を作る)
・ぼくはぼくなのでムラブリには「なれないけど、なれる」
→この矛盾した感性は科学者の自己と芸術家の自己の反映→言語の可能性
→今の日本にいるぼく自身の生き方が「ムラブリとして生きる」ことの実践・・・
・我々の社会にはhaveとhave notの二軸の境界線が存在するが、これは恣意的なもの
→なので全てhaveはあり得ない
→ムラブリ語では「持つ」と「ある」は同じ動詞
→ぼくが文脈で判断していたのは、それをぼくが区別していたから
→誰が持っているかは問題にならない→「ある」から分け与える→太陽の恵みと同じ
→プロ奢ラレヤーの「お金は生えてくるもの」という発言も同じ視座か
(プナンも同様で頼まれて買ってあげても「ありがとう」はない)
(ムラブリは頼むときに少し遠慮が感じられるが、やはり「ありがとう」はない)
→逆にお金がなくて買えなくても悪びれずナチュラルなまま
(ムラブリと町に食事に行って、ぼくにお金がないことを伝えると「そうか」とゆー感じで、
アイスキャンデーを買ってくれて二人で食べて帰ったが、それだけだった)
・マルセル・モースの贈与論、マオリの贈与交換、モノの循環・・・
→資本の蓄積と投下による貧富格差を循環(持つ人からのマイルドなカツアゲ
)で防いでいる
・1990年代ぐらいからの社会的な弱者のための配慮
→それで全ては解決せず他の問題が出てきた→結局以前より息苦しくなってしまった
→あらゆるものが吹き溜まりになり生きづらい→解決の枠組みすら見当たらない
→フィールド言語学や人類学で外側の世界を知り探れば脱出法があるかも・・・
・すり鉢の向こうに行くこと自体は解決にはならないし別のすり鉢にも苦しみはある
(今のままの自分に似合うすり鉢は見つかるかも知れないが・・・)
→すり鉢の向こうに行って(太陽の恵みとか)支えているものがあることに気づくことが重要
→それを実感するために、すり鉢状の世界の外側に行く経験は大事
(エピローグより)
・「本当の豊かさはブッシュマンが知っている」NHK出版2019
→狩猟採集は人類で最も長く続いた生業で最も持続可能な経済手法だった
→8000~4000年前からの農耕牧畜で人類は生産者・支配者になり自然を収奪する道に
→プナンもムラブリも自然と調和して持続可能な暮らしを続けてきた
・ofの人類学からwithの人類学へ(略)
・もっと知恵を
→現代世界は知識の生産で成り立っている
(ある程度の通信機器の知識がなければ入国審査も検疫手続も切り抜けられない
)
→知識社会に疑いを差し挟むのが知恵
→知恵とは経験に想像力が加わったもので、森の民には知恵が充ち満ちている
→知識に知恵を調和させることが人類学者の仕事とインゴルドは主張する
・ムラブリ「としてas」
→伊藤さんはwithを超えてasという概念を捻り出した
(ドキュメンタリー映画「森のムラブリ」)
→ムラブリを研究→ムラブリとともに研究→ムラブリとして研究へ
・「狩猟採集民的な何か」が現代人にいったい何をもたらすか
→「ムラブリとして」の試みは壮大で眩しく輝いて見え、今後も見守っていきたい・・・
2024.8/18(日) まで 京都市京セラ美術館で開催されている有道佐一回顧展の案内記事はこちらです
つーことで今、京都五山の送り火への点火を(大阪から中継で)眺めつつ・・・

「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」のご紹介であります
まあ、せっかくの送り火なので精霊つながりつーことで・・・

著者つーか対談者の紹介

ボルネオ島のプナンの人たちを研究する人類学者と、タイ・ラオスのムラブリの人たちを
研究する言語学者との対談を中心に両者の論考を加えた本であります
森を遊動していた狩猟採集民たちの研究者が、その生き方の共通点や相違点などから、
我々が現代をよりよく生きるための方法を探っていく、とイントロダクションにありました
奥付

例によって目次のみ



奥野克巳氏の著書については、こちらの記事や、こちらの記事でも一部紹介してますが、
伊藤雄馬氏の本はまだ読んだことがありません
本書で見る限り、その生き方をはじめ言語表現に関する考察などについても興味津々で、
いつかは読んでみたいと思った次第です
なので今回はそちらを中心に、ごく一部をランダムにメモしました
以下、発言者名・論考者名などはメモしてませんし、例によって読み違いとか読み飛ばしも
多いので興味を持たれた方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
・ムラブリ語では完了形と未来形が同じ→過去も未来も曖昧
→ワールは「帰る(最中)」だがア・ワールは「もう帰った」か「これから帰る」なのか不明
→基本的に「今、ここ」か、それ以外で言い分ける→今とここで生きている
(プナン語(マレー語インドネシア語も)では「帰る」はムリー、それに明日か昨日をつけて
未来・過去にしてるが、プナンも過去・未来の時間軸は薄い)
・おそらく世界初のムラブリ語とプナン語による会話セッションを二人でやってみた(略)

→どちらにも挨拶語はなかった
→どちらにもお金という抽象概念はなかった
(プナン語ではリンギを使うがマレーシアの通貨単位で具体概念)
(ムラブリ語ではタイの通貨単位バーツではなくサタンを使うがコインの意味で具体概念)
・ムラブリ語で誰かに自分の意見を言う時は必ず「私は怒ってないよ」を加える
→怒ることは何か悪いことを生むと考えているのではないか
・ムラブリのDNA研究から
→500~600年前に女性1男性2の焼畑民3人が森に入り狩猟採集民になったのがルーツと判明
→進化論的には逆流だが文化的再適応と呼んでいる
(プナンにも同様の仮説はあるが検証はない→思考法は他の狩猟採集民に似ている)
・プナンは年中6時に夜が明け7時に日が暮れる世界で暮らしており時間の長短がない
→季節は「葉っぱ」で「花の季節」と「実の季節」があるが、それがいつ来るかはわからない
→なので「葉っぱ」は「もし~ならば」という仮定法ifとしても使われる
(ムラブリには「雨の季節」と「日の照る季節」があるが仮定法ifはなくwhenで代用する)
・ボルネオ島には4万2千年前、アジア大陸には4万5千年前に現人類が到達したとされる
→東南アジア大陸部ではホアビン文化が紀元前1万年前頃からだが先史時代には諸説ある
・プナンが農耕以前に散らばった人類の末裔なのか農耕民から特化したのかは不明だが、
農耕民とは決定的に異なる「エートス」を持っている→森での歴史が長いからかも
(森のムラブリは農耕民から特化したという説が有力)
・ムラブリには専門家がいない→依存関係・権利構造を無意識に避けているのではないか
→その延長として自分の生に関わる部分は分業をしない
→村の大きな家は分業で作るが自分の寝床やバッグは一人で作る
(今はムラブリの手作りバッグが土産として売れ、上手に作れる人の現金収入が増えてるので、
→やがて上手な人が他の村人にも教えるようになり分業にも移行するかも→商品化?)
・プナンにも専門分化の否定、教師と生徒の関係で学ぶことの否定がある
→料理も薪割も子育ても子どもの頃から見て覚えており男女誰でも上手にやる
(「子どもの文化人類学」原ひろ子著・ちくま学芸文庫2023)
→生徒が先生から習って習得するのは、わりと新しい近代的なやり方
・人から教わるのではなくモノから学ぶのはプナンもムラブリも同じ
→アリストテレスの「質料形相モデル」ではモノを作っていない
→モノからの応答によって「学ばされている」
(「応答、しつづけよ」ティム・インゴルド著・亜紀書房2023)
→資本主義が導入された近代以降はその感覚がないので分業や生産効率へ
(分業しないとか目の前のモノから学ぶとか、なんかイタリアと似てるような・・・

・すり鉢状の世界の中で開口部に辿り着こうと努力し現実と認識のギャップに病む現代人
→その外側の世界に飛び出してみると、圧倒的な他者であるムラブリやプナンがいる
・今の自分は生きるために必要なこと全てを既存インフラに依存している
→食べ物、家、エネルギー、飲み水→全て買うしかない→これが一番大きなすり鉢
→すり鉢の外で一人で生きることはできるか
→ムラブリの感性と既存テクノロジーの組み合わせで結構いいところまで可能ではないか
・プロ奢ラレヤー君の二面性
→浄土系仏教では現世は濁世であり穢土→汚れた世界
→そこで生きていかざるを得ない感覚を逆手に取ったのが奢られ屋ではないか
→浄土系仏教では念仏によって、あの世(浄土)での安らかな生が保証される
→日蓮はそれを非難し、あくまで現世での浄土を目指した
→彼も仏国土を目指すのではなく濁世の中で救われようとしているように見える
・日蓮は念仏を非難したが法華経という本(モノ)に帰依する側に取り込まれた
→彼も奢られる生き方で資本主義は嫌だとしたが資本主義の親分になる可能性もある
→現世では救われないと決意しつつ現世に執着している二面性
・ぼくのムラブリ言語の研究はof→with→asへ(略)
・「ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」伊藤雄馬著
(集英社インターナショナル2023)
→言語の「習得」は無意識でブロークン「学習」は意識的で正確だがブロークンには話せない
・多文化主義と多自然主義(略)
・言語が異なれば認知が異なる→多自然主義と同じ→パースペクティブの世界
(アボリジニの言語には左右がなく全て方位で表す→方角を常に正確に認知している)
・多自然主義やパースペクティブでは「相手の立場」にはなれない
→客観的事実に辿り着けず共通の基盤がなくなる→別々の世界→科学的議論ができない
(「相手の立場になって考える」のではなく、同じ立場asで考える???)
・科学者の自己と芸術家の自己を区別する
→感覚の言語化テスト→例としてこの本に触った感覚を言葉にしてみる
→9割が触っている対象を主語にしたサラサラ平らなどの三人称(科学者の自己)で表現、
→1割が触っている自分を主語にした好き嫌いなどの一人称(芸術家の自己)で表現する
→水道水が冷たい(手が温かい)のは相対的な感覚(手が冷えている場合は逆)だが、
→水が冷たいと表現するのは外側を対象にした科学者の自己
→手が温かいと表現するのは内側の感覚に目を向けた芸術家の自己
→同時に存在していて、その都度個人が決めているのだが、
→科学者の自己として言語化することに慣れている人が多い(ので9割)
・科学者の自己と芸術家の自己が感じている世界は矛盾している
→夢の言語化の例→真偽が重要か、自分の感覚への誠実さが重要か
→植物の色の表現の違いの例→それが緑か青か
→正しいか否かなど→科学者の自己
→好きか嫌いかなど→芸術家の自己
→言語現象は同時存在している
・科学者の自己と多文化主義、芸術家の自己と多自然主義
→矛盾する自己が同時存在してるのに今はその分離が激しくなっている
→科学一辺倒と現代アートの横暴など
→統合には身体の復権が必要→of→with→asへ
・第二言語の習得はその言語の人たちの身体に近づこうとする身体改造
→パースペクティブの実践で感性がまるごと取り替えられる可能性もある
→精霊が見えるようになるとか・・・
・ムラブリ研究がof→with→asになって得たことと失ったことは表裏一体
→やりたいこと優先になり約束を履行しなくなったこととか
(日本では迂闊な約束をしないことでややマイルドになったけど

→お金や所有に対する違和感とか
(お金とは自分の代わりに他人に働いてもらう権利を生み出すメディア)
(車中泊で放浪していた頃、お腹が空けばポケットの所持金を確認して辺りのコンビニへ、
ムラブリはお腹が空けば食べ物を辺りで探すか、食べ物を獲る道具を作る)
・ぼくはぼくなのでムラブリには「なれないけど、なれる」
→この矛盾した感性は科学者の自己と芸術家の自己の反映→言語の可能性
→今の日本にいるぼく自身の生き方が「ムラブリとして生きる」ことの実践・・・
・我々の社会にはhaveとhave notの二軸の境界線が存在するが、これは恣意的なもの
→なので全てhaveはあり得ない
→ムラブリ語では「持つ」と「ある」は同じ動詞
→ぼくが文脈で判断していたのは、それをぼくが区別していたから
→誰が持っているかは問題にならない→「ある」から分け与える→太陽の恵みと同じ
→プロ奢ラレヤーの「お金は生えてくるもの」という発言も同じ視座か
(プナンも同様で頼まれて買ってあげても「ありがとう」はない)
(ムラブリは頼むときに少し遠慮が感じられるが、やはり「ありがとう」はない)
→逆にお金がなくて買えなくても悪びれずナチュラルなまま
(ムラブリと町に食事に行って、ぼくにお金がないことを伝えると「そうか」とゆー感じで、
アイスキャンデーを買ってくれて二人で食べて帰ったが、それだけだった)
・マルセル・モースの贈与論、マオリの贈与交換、モノの循環・・・
→資本の蓄積と投下による貧富格差を循環(持つ人からのマイルドなカツアゲ

・1990年代ぐらいからの社会的な弱者のための配慮
→それで全ては解決せず他の問題が出てきた→結局以前より息苦しくなってしまった
→あらゆるものが吹き溜まりになり生きづらい→解決の枠組みすら見当たらない
→フィールド言語学や人類学で外側の世界を知り探れば脱出法があるかも・・・
・すり鉢の向こうに行くこと自体は解決にはならないし別のすり鉢にも苦しみはある
(今のままの自分に似合うすり鉢は見つかるかも知れないが・・・)
→すり鉢の向こうに行って(太陽の恵みとか)支えているものがあることに気づくことが重要
→それを実感するために、すり鉢状の世界の外側に行く経験は大事
(エピローグより)
・「本当の豊かさはブッシュマンが知っている」NHK出版2019
→狩猟採集は人類で最も長く続いた生業で最も持続可能な経済手法だった
→8000~4000年前からの農耕牧畜で人類は生産者・支配者になり自然を収奪する道に
→プナンもムラブリも自然と調和して持続可能な暮らしを続けてきた
・ofの人類学からwithの人類学へ(略)
・もっと知恵を
→現代世界は知識の生産で成り立っている
(ある程度の通信機器の知識がなければ入国審査も検疫手続も切り抜けられない

→知識社会に疑いを差し挟むのが知恵
→知恵とは経験に想像力が加わったもので、森の民には知恵が充ち満ちている
→知識に知恵を調和させることが人類学者の仕事とインゴルドは主張する
・ムラブリ「としてas」
→伊藤さんはwithを超えてasという概念を捻り出した
(ドキュメンタリー映画「森のムラブリ」)
→ムラブリを研究→ムラブリとともに研究→ムラブリとして研究へ
・「狩猟採集民的な何か」が現代人にいったい何をもたらすか
→「ムラブリとして」の試みは壮大で眩しく輝いて見え、今後も見守っていきたい・・・
2024年08月11日
和泉葛城山deキャンプ宴会!!!
(期間限定のお知らせ)
2024.8.18(日) まで 京都市京セラ美術館で開催されている「有道佐一回顧展」の案内記事はこちらです
で、とーとつですが8月7日の夕方から和泉葛城山でキャンプ宴会してました!!!
そう、前回記事にも「飲んだら帰りに駅から自宅まで歩くのがつらい」と書いてますが、
キャンプ宴会なら、歩くことなく宴会タープ傍のテントに倒れ込むだけなので・・・
7日の3時半に和泉中央にあるスーパービバホームに集合、まずは買い出しであります

恒例によりwingさんからは「道迷った」連絡が入り
、ちょうど買い出しを終えた頃に到着、
この看板が見えてるのにナビは市街地へ案内、またまた周辺をぐるぐるしてたとか・・・
で、今回はクルマ6台で6人でしたが林道を上るにつれ、どんどん涼しくなり・・・


山頂(858m?)付近は大阪市内より10℃は低く感じられて風も爽やかでした
で、まずはテント設営やBBQ宴会の準備・・・


わたくしも前回は飲んでからのテント設営になり、ペグさえまともに打てなかったので・・・

今回は手堅くケシュアテント・フレッシュを張り終えてから・・・
そう、やはりテントは飲む前に張る、自転車は飲む前にたたむ、つーのが鉄則ですね
写真も飲む前に撮ればいいのでしょうが、ま、これは個人判断・・・

自分用の宴会セットもクルマから下ろせば・・・

待ちに待った乾杯であります
で、わたくしは焼き鳥なんぞをばくばくしながら、ひたすらかぱかぱやってたのですが、
野鳥好きのwingさんとN家さんは(飲んでから
)・・・(以下4枚はwingさん提供画像)




山頂付近に集まるサンショウクイとやらをばくばくぱしゃぱしゃ、やってたようです
で、暗くなれば本格BBQ宴会のはじまりはじまり・・・

サンショウクイの手羽なんぞを次々と・・・
ビールにマッコリの次は赤ワイン、その次は芋焼酎で・・・えとえと・・・ひっく


わたくしホッケがほくほくに焼けて食べたあたりまでは覚えてるのですが・・・
その後は例によってテントに倒れ込み爆睡・・・
1時間ほどで目覚めて戻ってみると・・・

皆さん長袖を羽織って焚火を囲んでおられました
そう、まさか8月の大阪で焚火の温もりを味わうなんて ぶるぶる
今回メンバーには前回キャンプで蒜山高原サイクリングコース約30kmを紹介してたのですが、
さっそく行かれたようで、当日にはアップダウンの激しい100kmコースのうち70kmを走破、
さらに翌日には蒜山にも登頂してから帰阪したとのことでした!!!
その行動力といい体力といい、世代はわたくしとあまり変わらないのに・・・いやはや
とか、焚火の炎を眺めつつ(wingさんは蟲さんを撮りつつ、N家さんは星空を撮りつつ)、
まったりとダベってると・・・

やがて焚火も熾火になって、日付が変わる頃には三々五々で就寝しました
で、例によってわたくしは、また1時間ほどで目覚めて・・・

黒霧島と残り物で2時から4時まで一人宴会してましたとさ どっとはらい
で、とーとつに翌朝であります

飲み物も黒霧島からコーヒーやお茶に変わっております
この日も朝から快晴、さすがに日差しを直接浴びると熱線を感じましたが・・・


遮熱遮光のタープの下やテントの中は涼しくて快適でした 風も心地よかったし・・・
下界だとすでに耐えられない暑さでしょうね 風もドライヤーなみの熱風で・・・
で、たっぷりの冷やしそうめんでまったりと朝食

この日は朝から山頂の葛城神社で豊穣祈願祭があったようで、JAいずみのなどの関係車両が
どんどん上がってきて、周辺もキャンプサイトもたちまち満車状態になりました
で、この日がお仕事だった1名を除き、残りは行事が終わって関係車両が全て退けてから
のんびりと撤収をはじめることにして・・・


たっぷりのデザートでまったりしてました
そう、涼しくて気持ちがいいので、誰も下界には戻りたくないと思ってたのですが、
ま、昼前には撤収を終え、林道を下りてすぐの牛滝温泉「四季まつり」へ・・・


ぬるっとした気持ちのいい温泉でしたが・・・
温泉分析書は付近の松葉温泉のと2枚が貼ってあって・・・


牛滝温泉のほうには湧出量が少なくなり井戸水や水道水を足しているとありましたから、
豊富な松葉温泉の源泉も引き込んでいるのか、はたまた足しているのか・・・
ともかくさっぱりして着替えたのですが、やはり下界は猛烈な暑さで駐車場へ出た途端、
たちまち汗まみれになりました うぐぐぐ
で、遅めの昼食はN家さんオススメのインド・パキスタン・アラビア料理店へ

(wingさん提供画像)
イスラム教徒へのハラル料理を提供できるお店なんですね
少し前まではメニューもなかったそうですが・・・


一番お安いAセットでも・・・


これに飲み物(ラッシー)が付き、マンゴークリームまでサービスしてくれました げふっ
で、食後に店の駐車場で残った食材などを分け合って、次回を楽しみに解散した次第
とまあ、今回のサイトは大阪の近郊で今のところは予約や料金も不要で一般開放されてて、
近くには古いけど水洗トイレもあり、夏は涼しくて下りてすぐに温泉もある・・・
といった点では、わたくしには理想的・・・なんですが・・・
何せ無人なので土日とかは混雑してトラブルもあるでしょうし、トイレマナーもやや心配、
さらにクルマもバイクも24時間いつでも入って来れますから、今回は平日でしたがそれでも
深夜に何台か出入りしてましたし、近くの駐車場では深夜に若者が集まって騒いでたので、
治安もやや心配です
ま、混み合う土日やソロでの利用を避ければいいのかも知れませんが、利用者のマナー次第で、
いつまで自由に使わせていただけるのかが気になるところです
(昔は管理人がいて有料だったようですが、今はおそらく地元財産区による無人管理)
そう、わたくしがキャンプをはじめて半世紀以上が経過しましたが、この間に自由に使えた
キャンプサイトの多くが、一部利用者のマナーの悪さに困った地元の人たちによって閉鎖され、
自由に利用できなくなってきてますので・・・
なので当サイトを見て行ってみようと思った方は最低限の自然キャンプ・マナー(ごみなどの
持ち帰りはもちろん、直火はしないなどキャンプした痕跡を絶対に残さない、トイレがあれば
来たときよりもきれいにして帰るなど)を厳守し、特に火元には常に細心の注意を払うよう、
くれぐれもお願いしておきます
2024.8.18(日) まで 京都市京セラ美術館で開催されている「有道佐一回顧展」の案内記事はこちらです
で、とーとつですが8月7日の夕方から和泉葛城山でキャンプ宴会してました!!!
そう、前回記事にも「飲んだら帰りに駅から自宅まで歩くのがつらい」と書いてますが、
キャンプ宴会なら、歩くことなく宴会タープ傍のテントに倒れ込むだけなので・・・

7日の3時半に和泉中央にあるスーパービバホームに集合、まずは買い出しであります

恒例によりwingさんからは「道迷った」連絡が入り

この看板が見えてるのにナビは市街地へ案内、またまた周辺をぐるぐるしてたとか・・・

で、今回はクルマ6台で6人でしたが林道を上るにつれ、どんどん涼しくなり・・・


山頂(858m?)付近は大阪市内より10℃は低く感じられて風も爽やかでした

で、まずはテント設営やBBQ宴会の準備・・・


わたくしも前回は飲んでからのテント設営になり、ペグさえまともに打てなかったので・・・

今回は手堅くケシュアテント・フレッシュを張り終えてから・・・
そう、やはりテントは飲む前に張る、自転車は飲む前にたたむ、つーのが鉄則ですね

写真も飲む前に撮ればいいのでしょうが、ま、これは個人判断・・・


自分用の宴会セットもクルマから下ろせば・・・

待ちに待った乾杯であります

で、わたくしは焼き鳥なんぞをばくばくしながら、ひたすらかぱかぱやってたのですが、
野鳥好きのwingさんとN家さんは(飲んでから





山頂付近に集まるサンショウクイとやらを

で、暗くなれば本格BBQ宴会のはじまりはじまり・・・


ビールにマッコリの次は赤ワイン、その次は芋焼酎で・・・えとえと・・・ひっく


わたくしホッケがほくほくに焼けて食べたあたりまでは覚えてるのですが・・・
その後は例によってテントに倒れ込み爆睡・・・
1時間ほどで目覚めて戻ってみると・・・

皆さん長袖を羽織って焚火を囲んでおられました
そう、まさか8月の大阪で焚火の温もりを味わうなんて ぶるぶる
今回メンバーには前回キャンプで蒜山高原サイクリングコース約30kmを紹介してたのですが、
さっそく行かれたようで、当日にはアップダウンの激しい100kmコースのうち70kmを走破、
さらに翌日には蒜山にも登頂してから帰阪したとのことでした!!!
その行動力といい体力といい、世代はわたくしとあまり変わらないのに・・・いやはや

とか、焚火の炎を眺めつつ(wingさんは蟲さんを撮りつつ、N家さんは星空を撮りつつ)、
まったりとダベってると・・・

やがて焚火も熾火になって、日付が変わる頃には三々五々で就寝しました
で、例によってわたくしは、また1時間ほどで目覚めて・・・

黒霧島と残り物で2時から4時まで一人宴会してましたとさ どっとはらい
で、とーとつに翌朝であります

飲み物も黒霧島からコーヒーやお茶に変わっております

この日も朝から快晴、さすがに日差しを直接浴びると熱線を感じましたが・・・


遮熱遮光のタープの下やテントの中は涼しくて快適でした 風も心地よかったし・・・
下界だとすでに耐えられない暑さでしょうね 風もドライヤーなみの熱風で・・・

で、たっぷりの冷やしそうめんでまったりと朝食

この日は朝から山頂の葛城神社で豊穣祈願祭があったようで、JAいずみのなどの関係車両が
どんどん上がってきて、周辺もキャンプサイトもたちまち満車状態になりました
で、この日がお仕事だった1名を除き、残りは行事が終わって関係車両が全て退けてから
のんびりと撤収をはじめることにして・・・


たっぷりのデザートでまったりしてました
そう、涼しくて気持ちがいいので、誰も下界には戻りたくないと思ってたのですが、
ま、昼前には撤収を終え、林道を下りてすぐの牛滝温泉「四季まつり」へ・・・


ぬるっとした気持ちのいい温泉でしたが・・・
温泉分析書は付近の松葉温泉のと2枚が貼ってあって・・・


牛滝温泉のほうには湧出量が少なくなり井戸水や水道水を足しているとありましたから、
豊富な松葉温泉の源泉も引き込んでいるのか、はたまた足しているのか・・・
ともかくさっぱりして着替えたのですが、やはり下界は猛烈な暑さで駐車場へ出た途端、
たちまち汗まみれになりました うぐぐぐ

で、遅めの昼食はN家さんオススメのインド・パキスタン・アラビア料理店へ

(wingさん提供画像)
イスラム教徒へのハラル料理を提供できるお店なんですね
少し前まではメニューもなかったそうですが・・・


一番お安いAセットでも・・・


これに飲み物(ラッシー)が付き、マンゴークリームまでサービスしてくれました げふっ
で、食後に店の駐車場で残った食材などを分け合って、次回を楽しみに解散した次第
とまあ、今回のサイトは大阪の近郊で今のところは予約や料金も不要で一般開放されてて、
近くには古いけど水洗トイレもあり、夏は涼しくて下りてすぐに温泉もある・・・
といった点では、わたくしには理想的・・・なんですが・・・
何せ無人なので土日とかは混雑してトラブルもあるでしょうし、トイレマナーもやや心配、
さらにクルマもバイクも24時間いつでも入って来れますから、今回は平日でしたがそれでも
深夜に何台か出入りしてましたし、近くの駐車場では深夜に若者が集まって騒いでたので、
治安もやや心配です
ま、混み合う土日やソロでの利用を避ければいいのかも知れませんが、利用者のマナー次第で、
いつまで自由に使わせていただけるのかが気になるところです
(昔は管理人がいて有料だったようですが、今はおそらく地元財産区による無人管理)
そう、わたくしがキャンプをはじめて半世紀以上が経過しましたが、この間に自由に使えた
キャンプサイトの多くが、一部利用者のマナーの悪さに困った地元の人たちによって閉鎖され、
自由に利用できなくなってきてますので・・・
なので当サイトを見て行ってみようと思った方は最低限の自然キャンプ・マナー(ごみなどの
持ち帰りはもちろん、直火はしないなどキャンプした痕跡を絶対に残さない、トイレがあれば
来たときよりもきれいにして帰るなど)を厳守し、特に火元には常に細心の注意を払うよう、
くれぐれもお願いしておきます
