2025年09月
2025年09月20日
三島由紀夫論
2週間のご無沙汰で、とーとつですが・・・

三島由紀夫論であります
今年は三島由紀夫の生誕100年にあたるそうですが、それとは関係なく・・・
以前紹介したこちらの小説を薦めてくれた知人が、この著者の小説も薦めてくれたのですが、
わたくし純文学の世界は苦手、小説なら芥川賞作家のより直木賞作家のほうが・・・
つーことで、昔から不思議な読後感が残っている三島作品について、その再来とも言われる
この著者の作品論・作家論を選んでみた次第
裏表紙カバーにあった惹句

そう、実証性に裏づけられた透徹した分析と考察、実作者ならではの理解によって解明する、
「決定的三島論」であります
表表紙カバー裏にあった著者紹介

1999年に当時史上最年少で芥川賞を受賞されてたんですね
奥付

目次



ちなみに、
「仮面の告白」論は新潮2015年2月号、
「金閣寺」論は群像2005年12月号、
「英霊の声」論は文學界2000年11月号、
「豊饒の海」論は新潮2020年12月号~2021年11月号に、
それぞれ初出とあり23年間を要して書き上げた、本文だけでも600頁を超える大作で、
その後半300頁以上が「豊饒の海」論になってました
わたくし上記作品の中では「金閣寺」の文庫本と「豊饒の海」の単行本(全巻箱入初版本!!!)が
実家にあるので読んでるはずですが、読んだのは半世紀以上前で記憶は殆ど消え去ってます
(「金閣寺」の映画化作品「炎上」(1958)は最近テレビで視聴したけど記憶が・・・
)
ただし「午後の曳航」など他の作品も含め、なぜか物語のワンシーンだけが画像として
脳裏に焼き付いているようなのでありますね
実際の風景や人物、風景写真や人物写真、風景画や人物画を眺めてて、ふと小説の中の
ワンシーンが蘇ってくることもあり、これが三島作品の文章表現のなせる技なのかと・・・
例えば水に浮かぶ寺院とか宮殿とか、高台から望む港とか残照とか、はたまた人物でいえば、
庭に遊ぶお姫様とか窓辺に佇む美貌の未亡人とか焚火に映える少女とか彷徨う老紳士とかで、
小説のワンシーンが、映像作品を観たわけでもないのに浮かぶことがあります
(「金閣寺」も映画作品とは異なる寺や炎上シーンが何となく脳裏に残ってます)
画像と文章では記憶・認識する脳の領域も異なるはずなんですが不思議な話です
いっぽう本書は最低でも上記4作品の内容をしっかりと記憶している前提で書かれており、
著者の文章構成も文体も三島作品の影響なのか相当に高度なので、その論考をある程度でも
理解するには、まず作品を再読した上で本書を丹念に読み解いていく必要があります
とーぜん、今のわたくしにそんな気力はないので、全てを読み解くのはあきらめて・・・
本論では「豊饒の海」論だけを飛ばし読みしましたが、それでもその全60項目を理解し、
メモしていくなんて、とても不可能であり・・・くどくどくど・・・
閑話休題
以下は目次にある「序論」と「豊饒の海」論(全60項目)のうち2項目だけと「結論」と
「あとがき」からだけの、じつにてきとーな読後メモです
「結論」にもありましたが本著の真骨頂は本文各論にある詳細に分析された作品内容と
その背景にある思想追及なので、少しでも興味を持たれた方は本書をご熟読くださいね
(いちおー著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
序論(9頁分)より
・4作品の各論で他の作品全般を論じ対談等での発言にも言及し伝記的事実も参照しており、
全体としては作家論となっているので「三島由紀夫論」とした
・三島の創作活動はおおよそ4期に区分できる
①「花ざかりの森」を発表した16歳から20歳の敗戦まで(1941~45)
⇒日本浪漫派界隈で天才少年としてデビュー、思春期、現人神、戦時中の死の緊張感、
②「仮面の告白」で再デビューした24歳から「鏡子の家」の34歳まで(1949~59)
⇒生きよう、戦後社会に適応しようと努めていた時期で結婚し生還を期さない特攻を否定、
③「宴のあと」からはじまる35歳から40歳まで(1960~65)
⇒文壇内外のトラブルで居場所を喪失し新たな主題にも取り組んだが深刻なスランプを自覚、
④「豊饒の海」執筆開始の41歳から「英霊の声」、自決に至る45歳まで(1966~70)
⇒「英霊の声」の反響に後押しされて急激に①の10代へ回帰、楯の会結成から死へ・・・
・この4つの作品論で描くのは①から④にかけての三島の生と死、思想の軌跡
・三島文学の愛読者は天皇主義者としての彼の行動には目を瞑り、その行動に賛同する三島の
賛美者は文学には目を向けず、メディアの寵児イメージは軽薄な姿と受け止められる
⇒しかし三島の思想がそれら個々に分裂し、排他的に完結していたわけではない
⇒言語によって生と死の全体を思想化しようとし、その思想と一致するよう行動したのが三島
・本書は著作を精読して作者の意図を考えるという反動的な方法だが(中略)三島由紀夫論
・本書の構成
①対の作品としての「仮面の告白」と「金閣寺」の論考
「仮面の告白」⇒「禁色」、「金閣寺」⇒「鏡子の家」という二系統で三島の戦後思想の基礎とし、
②第二期、第三期にあたる彼の30代を検討した後、
③第四期への転機のきっかけとなった「英霊の声」を論じる
④第一期から第三期までの仕事の集大成という観がある「豊饒の海」について、論考では
生と死を巡る三島の思想の限界と可能性を検討した
・「英霊の声」で第一期の少年時代(戦中)に回帰し政治思想運動を開始するが、この活動が
第四期の文武両道の「武」を担うとするなら「文」を担うのが「豊饒の海」
⇒「鏡子の家」の挫折後、三島は存在論への関心を深め、小説構成の野心としては「転生」を
物語の中心に据えつつ「唯識」を全編にわたる主題に定めた
・本書の構想から実現まで20年余を要し、この間に三島の生涯について多くの事実が知られる
こととなったが、それらが参照可能なので本書では生涯を仔細に辿ることはしない
・・・
で、膨大な資料から詳細に分析された各論(600頁分)を殆ど省略して
「豊饒の海」論・目次項目の4「日本文学小史と豊饒の海との構造的類似点」5頁分からのメモ
・ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」やユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」が
世界的ベストセラーになり数万年単位の歴史認識が教養化した今日、遺伝子研究による個人
の同一性、グローバル化、国際交流、資本主義とセットとなった音楽、映画、ファッションなどの
文化の世界的な流行などで、ナショナル・ヒストリーは相対化・脱中心化され、ナショナリズムの
足許は(反動的な高揚とは裏腹に)危うくなっている
⇒同じ人間という視点は双方向から私たちを人類というカテゴリーに還元しようとする
⇒こうした考え方に三島は当時から徹底して否定的だった
・三島は「人類共有の暗い巨大な岩層」を認め、その先に「底辺の国際主義」があると説明
⇒なるほど今日「底辺の国際主義」に積極的な価値を与えるとしても「日本文学」や「韓国文学」
といったカテゴリー自体が、ただちに無効になるわけではない
・「大衆社会は全てを呑み尽くす怪物で一国の民族の問題ではなく全世界的普遍的現象」とも批判
⇒「文化」と「文化意志以前」という積層型の構造を前提に下層を実体化し歴史的な持続に
委ねてしまっている
⇒上層は相対的に移ろいゆく文化であり、下層は「人類共有の暗い巨大な岩層」
⇒文化は各時代を特徴付ける文化意志でブロック化されるが、それは一貫した日本・日本人の
イメージからは乖離した多様性で提示され、その文化意志の特徴はしばしば輸入思想
・この時点では後の日本回帰は全く準備されてなかったはずで「文化的国家日本のアプローチ」
の限界に突き当たっていた(福田恆存や大島渚との対談より)
⇒殊に「豊饒の海」のために唯識の勉強に取りかかってからは、西洋思想と仏教思想を
取り除いて日本に何が残るのか、という焦燥が看て取れる
・言語活動は文化意志や日常的なおしゃべりの更に下層に設定されていて、それが解体されると
何も「ありはしない」非存在の最底辺の領域
⇒時間的に持続しているのは、その非存在と考えざるを得ない
⇒この構造は終戦を挟んで戦中・戦後を生きてきた三島という個人の生の持続に直結するもの
・・・
「豊饒の海」論・目次項目の40「10.21国際反戦デー以降の急進化」8頁分からのメモ
・三島は明治維新を担ったのが「不正規軍」であったことに共感している
⇒しかし明治政府が士族の反乱を恐れ鎮台を設置して「不正規軍」を徹底的に弾圧した結果、
排他的な正規軍思想になり中国の八路軍に対処する術がなく苦戦した、というのが彼の認識
・戦後、徴兵制がなくなり正規軍思想だけが残ったので国民と自衛隊(軍)との関係は絶たれ、
安保闘争での「非正規軍」としての全学連に手を焼くこととなった、
⇒そこで「非正規軍」に対処し国民と自衛隊を接合する祖国防衛隊の必要性を訴えた
⇒しかしそれは後の「戦士共同体」の夢想(略)とは著しくトーンが異なる
⇒この真の急進化は1968年後半以降で、それはまさしく「奔馬」の連載終盤から、
「暁の寺」の連載序盤にかけての時期だった
・祖国防衛隊から楯の会にかけて三島に共感し支援した自衛隊関係者もいた(略)
⇒1961年の閣僚暗殺計画(三無事件)とも接点があった一派が存在し、安保闘争が長期化すれば
治安出動に乗じたクーデター計画も燻っており、利用されたのが三島とする関係者も(略)
・祖国防衛隊は資金も隊員集めも叶わず、中核要員だけ、学生中心の楯の会へと変貌してゆく
⇒もともと三島が大規模な組織のマネージメントをできたとは思えないが・・・
・1968年「10.21国際反戦デー」新宿騒乱の渦中で情報収集訓練を行い刺激を受けている
⇒翌年に向けた行動が計画されたが、圧倒的に力を増した機動隊によって新左翼は一網打尽、
三島は深い失意を味わう
⇒65年不況から時代の雰囲気は70年万博景気により決定的に好転、三島が敵と見定めた
「共産主義が間接侵略で日本を乗っ取る」可能性はなくなり、自民党による統治は盤石となり、
彼は死の機会を逸してしまった
⇒これが三島の「実に実に実に不快だった」という言葉の真意とされてきた
・森田必勝は「奔馬」の飯沼勲さながらの要人暗殺質問を関係者にしており、楯の会は
自衛隊での実射訓練やボウガン訓練も画策していた
⇒自衛隊にも三島のシンパや批判者がいて「奔馬」の飯沼勲にも心境が反映されている
・70年11月25日の蹶起には「豊饒の海」完結や事件後に届く遺書など周到な計画が練られていたが、
69年10月21日の国際反戦デーに関しては事前準備の形跡がまるで見えない
⇒何より「豊饒の海」は「暁の寺」の途中で未完のまま残されることになっており、三島は
治安出動からクーデターへ持っていく計画をあきらめなかったが、楯の会の会員の殆どが
クーデターの実感を得られなかったとの証言もある
(三島裁判での古賀正義の証言⇒国際反戦デー後の会議では憲法改正意見には消極的だった)
・そもそも自衛隊治安出動の捨て石となってクーデター、憲法改正実現というのは、三島が
したかったことだろうか、それは彼の理想的な死たり得たのか・・・
・「檄」より
⇒国体を守るのは軍隊であり政体を守るのは警察である
⇒政体を警察力で守り切れない段階で軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の
本義を回復するであろう
⇒建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しない
・69年10月21日に治安出動の必要がなかったことは事実であり、自衛隊にとって決定的に
改憲の希望が断たれたこの日以降、自衛隊は自ら蹶起すべきだったと叱咤する
⇒「話が違う」と咎めているようにも聞こえる
・三島が新左翼を過大評価していたとの見方もあるが、彼が強調したのは「間接侵略」の
脅威であり、彼らの背後に巨大な共産主義国が控えるからこそ「身を挺して」向かうべき
敵に値するはずだった
・三島はなぜ「暁の寺」脱稿時に「実に実に実に不快だった」のか
⇒自衛隊内部にあったクーデター計画を実現可能とは考えていなかったのではないか
⇒凡そ実現可能性がないからこそ「身を挺する」に値したのだろう
⇒彼自身が覚悟を決めているのに肝心の自衛隊に裏切られ、憤ったのではあるまいか
・飯沼勲が急進化するのは、彼が軍人ではなく「一般の民草」で軍人のコピーだから
⇒この本物に憧れ過剰反応しようとする人間という主題は、三島のセクシュアリティを通じた
「男らしさ」への憧れ、徴兵されずに生き残った人間としての大義への憧れと一貫している
⇒清顕と勲、「たおやめぶり」と「ますらおぶり」
⇒自衛隊に楯の会を認めてもらえないという経験は、三島にとって二度目の徴兵検査落第で
あったかもしれない
・三島は単にクーデター計画が頓挫したから「実に実に実に不快だった」のではあるまい
⇒こうした状況下で奔走し、結局、半ば見放されたような格好で行動に移れず、その事実を
「小説執筆のための主体的選択」と自らに言い聞かせ続けていた状況に終わりが来たことを
そう表現したのではなかったか・・・
・・・
たまたま項目4は、わたくしが興味のある文化のグローバル化とナショナリズムについての
三島の見方が分析されてましたし(彼がダイアモンドやハラリ、アセモグルを知っていたら、
あるいは最新の文明研究の成果を知っていたら、どんな作品を書いたかと夢想しました)、
たまたま項目40は、事実からの論考が多くて分かりやすく、わたくしと同時代的な感覚も
あったので、てきとーにメモした次第です
他の項目でも三島の思想の背景にある思想、例えば仏教の唯識や転生などについての彼の誤解や
理解不足、あるいは当時の翻訳の精度など資料限界による間違った経典解釈などへの指摘、
アジアでの加害者としての意識欠落への指摘などもあり、読み込めばさらに深い内容なので
しょうが、わたくしの読解能力の限界と図書館の貸出期限もあり・・・
とーとつに・・・
結論(7頁分)より
・三島由紀夫の実存の根底には幾重にも折り重なった疎外感があった
⇒自分がいるはずの場所で自分が不在である現実を想像したであろう
⇒二層化された世界像は、その後の三島の一生を貫き「覗き」への拘りは屈折した現れ
・20世紀前半のヨーロッパの思想的潮流の影響(略)
・戦後の「生きたい」は孤立した生ではなく他者と生きることが前提で詩小説戯曲を書いた
⇒行動と創作は、自分が不在の場所(現実)への出現の欲望
⇒しかし30代後半から現実への幻滅を深め、理想の日本を追い求めてゆく
⇒世界の階層的構造を分析する一方で精神的には10代の戦争体験へ回帰していった
⇒政治化したが文学の多様性は最後まで失わなかった
・戦争から排除され生き残った者の苦悩と死の美化と小説執筆(略)
⇒戦後社会の「生命尊重」は資本主義への隷属であることを高度経済成長で痛感した
⇒共産主義を否定する彼にとって荷担せざるを得ないシステムであり対する批評は死のみ
⇒それを文化として実体化する存在が一度は決別したはずの天皇だった
⇒天皇に生の原理として期待したのは彼のセクシュアリティから(以下略)
・彼の社会への適応努力は民主主義への政治的適応でもなければ、資本主義への経済的適応
でもなく、創作活動か、マスメディアを介した大衆文化への適応
⇒両者は対極的だが、どちらも彼が求める他者からの承認を可能とする場所
・学生運動の激化を通じ戦後社会への適応ではなく批判による共同性に可能性を見いだそうとした
⇒しかし拠るところは共産主義ではなく、死と癒着した天皇主義だった
・三島は強さと弱さという単純に序列化された価値観に固執した
⇒現実への幻滅が強まるほど弱さから強さへ、少数の被圧迫者から少数の圧迫者へ
・創作を通じた言語による現実の価値化は「文武両道」で並行的に継続された
⇒「金閣寺」から「鏡子の家」でニヒリズムを極め、社会批判への不信から存在論的な不信へ
⇒「空」を言語で実体化した大乗仏教であり、唯識思想を「豊饒の海」の構造に適用した
⇒唯識思想に同意しなかったのは、それが言語による世界認識を徹底的に否定するため
⇒三島にとって言葉はどれほど虚無に浸食されようと、その極限で実在を保ち続けている何か
⇒それが最後まで小説家を断念しなかった理由
・三島が興味を寄せたのは唯識の教義より「空」を目指す自己否定の言語化というあり方で
その意味で「豊饒の海」のあり方は相似形を成している
⇒しかし放火前の金閣寺がそうであったように、最後の崩壊の瞬間には言語の構築物として
その存在が疑うべくもなく価値化され、輝きを放つべきであった
・死は虚無に呑み込まれそうになりながら運動し続ける彼に生の絶頂を約束するもの
⇒最後に叫んだ「天皇陛下万歳」は政治的主張であり彼が20歳の時に大義による死とともに
叫びそこなった言葉
⇒一人の人間の存在の全体性が託された言葉で、表向きの大義のみならず彼が生涯、抑圧
されつつ生きてきたエロティシズムをも同時に顕現させようとするものだった
⇒一生を象徴するためには不十分で不適当とさえ思われる言葉
⇒しかしそれしか口にされようがない言葉であり、その歴史的事実もまた、三島が死によって
体現したことの一つだった
・結論は作家論的に要約されたが本書の意義は作品論としての各ページの細部にこそある
と信じたい
あとがき(12頁分)より
・10代の頃に読んだ「金閣寺」ほど衝撃を受けた本はない
⇒三島作品に夢中になって以後、読書で知る三島像と人から聞く三島像の違いに気づいた
⇒日記や読書録で三島を「カッコいい」と思うようになった
⇒三島作品と三島が影響を受けた作品を読み続け、小説とは相互に有機的に結び合った、
広大な「文学の森(ボルヘス)」の一部ということを実感とともに理解した
・三島への最も強い共感は、彼が戦後社会に抱いていたニヒリズムの感覚であり、それを
表現する思想的で美的な文体だった
⇒境遇も時代も違うのに、痛切に「わかる」と読者が感じるのが文学
⇒自己と世界、両方の実在の不確かさに苦しみ、世界崩壊を信じ社会から孤立する人物たち
⇒いよいよ自分に近しい存在と感じられていった
・「日蝕」で文壇デビューして以来、三島由紀夫の再来とか三島と比較されることがよくある
⇒三島好きで強いシンパシーを感じていることは公言している
・本書は三島と私との長い長い対話の産物
⇒作者の意図の追求という、ほとんど反動的な態度は「到達不可能なもの」への運動という
意味で三島的ともいえるが、到達可能な他者ネットワーク「文学の森」が存在する
・私自身は三島に圧倒的な影響を受けつつ、その思想を批判的に克服する上で、やはり
アイデンティティの捉え方を梃子にした
⇒個人と対応する一なる存在(日本/天皇)への帰属を本質主義的に求めるのか、対人関係毎に
分化した主体(分人)と他者との相互依存関係を重視するのかが、その最大の相違点
・分人主義の構想に於ける三島の死に方への問い(略)
(本書を自己の思想の展開の場にはしたくなかった)
・最後の行動に至る軌跡(略)
・三島の楯の会会員への遺書
「あれほど左翼学生の行動責任のなさを弾劾してきた小生としては、とるべき道は一つでした」
⇒(あえて無体なことを言うなら)
⇒私は、もし本書を三島が読んだなら、自殺を踏み止まったかもしれないという一念で
これを書いたのである
⇒私はやはり三島という人に会って話をしてみたかった
・・・
結論の末尾にもありましたが、確かに本書の意義は作品論としての各ページの細部にあり、
目次を見ても明らかなように、まさに全作品を精読熟読し、その背景をじつに念入りに
探っていくという作家論で、序論や結論だけ読み飛ばしても理解できないのですが、
不思議な感動の記憶が残っている「豊饒の海」について、少しは納得できたかもです
三島作品や彼の作品に影響を受けた作品に興味のある方には必読の書ですね

三島由紀夫論であります
今年は三島由紀夫の生誕100年にあたるそうですが、それとは関係なく・・・
以前紹介したこちらの小説を薦めてくれた知人が、この著者の小説も薦めてくれたのですが、
わたくし純文学の世界は苦手、小説なら芥川賞作家のより直木賞作家のほうが・・・

つーことで、昔から不思議な読後感が残っている三島作品について、その再来とも言われる
この著者の作品論・作家論を選んでみた次第
裏表紙カバーにあった惹句

そう、実証性に裏づけられた透徹した分析と考察、実作者ならではの理解によって解明する、
「決定的三島論」であります
表表紙カバー裏にあった著者紹介

1999年に当時史上最年少で芥川賞を受賞されてたんですね
奥付

目次



ちなみに、
「仮面の告白」論は新潮2015年2月号、
「金閣寺」論は群像2005年12月号、
「英霊の声」論は文學界2000年11月号、
「豊饒の海」論は新潮2020年12月号~2021年11月号に、
それぞれ初出とあり23年間を要して書き上げた、本文だけでも600頁を超える大作で、
その後半300頁以上が「豊饒の海」論になってました
わたくし上記作品の中では「金閣寺」の文庫本と「豊饒の海」の単行本(全巻箱入初版本!!!)が
実家にあるので読んでるはずですが、読んだのは半世紀以上前で記憶は殆ど消え去ってます
(「金閣寺」の映画化作品「炎上」(1958)は最近テレビで視聴したけど記憶が・・・
)ただし「午後の曳航」など他の作品も含め、なぜか物語のワンシーンだけが画像として
脳裏に焼き付いているようなのでありますね
実際の風景や人物、風景写真や人物写真、風景画や人物画を眺めてて、ふと小説の中の
ワンシーンが蘇ってくることもあり、これが三島作品の文章表現のなせる技なのかと・・・
例えば水に浮かぶ寺院とか宮殿とか、高台から望む港とか残照とか、はたまた人物でいえば、
庭に遊ぶお姫様とか窓辺に佇む美貌の未亡人とか焚火に映える少女とか彷徨う老紳士とかで、
小説のワンシーンが、映像作品を観たわけでもないのに浮かぶことがあります
(「金閣寺」も映画作品とは異なる寺や炎上シーンが何となく脳裏に残ってます)
画像と文章では記憶・認識する脳の領域も異なるはずなんですが不思議な話です
いっぽう本書は最低でも上記4作品の内容をしっかりと記憶している前提で書かれており、
著者の文章構成も文体も三島作品の影響なのか相当に高度なので、その論考をある程度でも
理解するには、まず作品を再読した上で本書を丹念に読み解いていく必要があります
とーぜん、今のわたくしにそんな気力はないので、全てを読み解くのはあきらめて・・・
本論では「豊饒の海」論だけを飛ばし読みしましたが、それでもその全60項目を理解し、
メモしていくなんて、とても不可能であり・・・くどくどくど・・・
閑話休題
以下は目次にある「序論」と「豊饒の海」論(全60項目)のうち2項目だけと「結論」と
「あとがき」からだけの、じつにてきとーな読後メモです

「結論」にもありましたが本著の真骨頂は本文各論にある詳細に分析された作品内容と
その背景にある思想追及なので、少しでも興味を持たれた方は本書をご熟読くださいね
(いちおー著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
序論(9頁分)より
・4作品の各論で他の作品全般を論じ対談等での発言にも言及し伝記的事実も参照しており、
全体としては作家論となっているので「三島由紀夫論」とした
・三島の創作活動はおおよそ4期に区分できる
①「花ざかりの森」を発表した16歳から20歳の敗戦まで(1941~45)
⇒日本浪漫派界隈で天才少年としてデビュー、思春期、現人神、戦時中の死の緊張感、
②「仮面の告白」で再デビューした24歳から「鏡子の家」の34歳まで(1949~59)
⇒生きよう、戦後社会に適応しようと努めていた時期で結婚し生還を期さない特攻を否定、
③「宴のあと」からはじまる35歳から40歳まで(1960~65)
⇒文壇内外のトラブルで居場所を喪失し新たな主題にも取り組んだが深刻なスランプを自覚、
④「豊饒の海」執筆開始の41歳から「英霊の声」、自決に至る45歳まで(1966~70)
⇒「英霊の声」の反響に後押しされて急激に①の10代へ回帰、楯の会結成から死へ・・・
・この4つの作品論で描くのは①から④にかけての三島の生と死、思想の軌跡
・三島文学の愛読者は天皇主義者としての彼の行動には目を瞑り、その行動に賛同する三島の
賛美者は文学には目を向けず、メディアの寵児イメージは軽薄な姿と受け止められる
⇒しかし三島の思想がそれら個々に分裂し、排他的に完結していたわけではない
⇒言語によって生と死の全体を思想化しようとし、その思想と一致するよう行動したのが三島
・本書は著作を精読して作者の意図を考えるという反動的な方法だが(中略)三島由紀夫論
・本書の構成
①対の作品としての「仮面の告白」と「金閣寺」の論考
「仮面の告白」⇒「禁色」、「金閣寺」⇒「鏡子の家」という二系統で三島の戦後思想の基礎とし、
②第二期、第三期にあたる彼の30代を検討した後、
③第四期への転機のきっかけとなった「英霊の声」を論じる
④第一期から第三期までの仕事の集大成という観がある「豊饒の海」について、論考では
生と死を巡る三島の思想の限界と可能性を検討した
・「英霊の声」で第一期の少年時代(戦中)に回帰し政治思想運動を開始するが、この活動が
第四期の文武両道の「武」を担うとするなら「文」を担うのが「豊饒の海」
⇒「鏡子の家」の挫折後、三島は存在論への関心を深め、小説構成の野心としては「転生」を
物語の中心に据えつつ「唯識」を全編にわたる主題に定めた
・本書の構想から実現まで20年余を要し、この間に三島の生涯について多くの事実が知られる
こととなったが、それらが参照可能なので本書では生涯を仔細に辿ることはしない
・・・
で、膨大な資料から詳細に分析された各論(600頁分)を殆ど省略して

「豊饒の海」論・目次項目の4「日本文学小史と豊饒の海との構造的類似点」5頁分からのメモ
・ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」やユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」が
世界的ベストセラーになり数万年単位の歴史認識が教養化した今日、遺伝子研究による個人
の同一性、グローバル化、国際交流、資本主義とセットとなった音楽、映画、ファッションなどの
文化の世界的な流行などで、ナショナル・ヒストリーは相対化・脱中心化され、ナショナリズムの
足許は(反動的な高揚とは裏腹に)危うくなっている
⇒同じ人間という視点は双方向から私たちを人類というカテゴリーに還元しようとする
⇒こうした考え方に三島は当時から徹底して否定的だった
・三島は「人類共有の暗い巨大な岩層」を認め、その先に「底辺の国際主義」があると説明
⇒なるほど今日「底辺の国際主義」に積極的な価値を与えるとしても「日本文学」や「韓国文学」
といったカテゴリー自体が、ただちに無効になるわけではない
・「大衆社会は全てを呑み尽くす怪物で一国の民族の問題ではなく全世界的普遍的現象」とも批判
⇒「文化」と「文化意志以前」という積層型の構造を前提に下層を実体化し歴史的な持続に
委ねてしまっている
⇒上層は相対的に移ろいゆく文化であり、下層は「人類共有の暗い巨大な岩層」
⇒文化は各時代を特徴付ける文化意志でブロック化されるが、それは一貫した日本・日本人の
イメージからは乖離した多様性で提示され、その文化意志の特徴はしばしば輸入思想
・この時点では後の日本回帰は全く準備されてなかったはずで「文化的国家日本のアプローチ」
の限界に突き当たっていた(福田恆存や大島渚との対談より)
⇒殊に「豊饒の海」のために唯識の勉強に取りかかってからは、西洋思想と仏教思想を
取り除いて日本に何が残るのか、という焦燥が看て取れる
・言語活動は文化意志や日常的なおしゃべりの更に下層に設定されていて、それが解体されると
何も「ありはしない」非存在の最底辺の領域
⇒時間的に持続しているのは、その非存在と考えざるを得ない
⇒この構造は終戦を挟んで戦中・戦後を生きてきた三島という個人の生の持続に直結するもの
・・・
「豊饒の海」論・目次項目の40「10.21国際反戦デー以降の急進化」8頁分からのメモ
・三島は明治維新を担ったのが「不正規軍」であったことに共感している
⇒しかし明治政府が士族の反乱を恐れ鎮台を設置して「不正規軍」を徹底的に弾圧した結果、
排他的な正規軍思想になり中国の八路軍に対処する術がなく苦戦した、というのが彼の認識
・戦後、徴兵制がなくなり正規軍思想だけが残ったので国民と自衛隊(軍)との関係は絶たれ、
安保闘争での「非正規軍」としての全学連に手を焼くこととなった、
⇒そこで「非正規軍」に対処し国民と自衛隊を接合する祖国防衛隊の必要性を訴えた
⇒しかしそれは後の「戦士共同体」の夢想(略)とは著しくトーンが異なる
⇒この真の急進化は1968年後半以降で、それはまさしく「奔馬」の連載終盤から、
「暁の寺」の連載序盤にかけての時期だった
・祖国防衛隊から楯の会にかけて三島に共感し支援した自衛隊関係者もいた(略)
⇒1961年の閣僚暗殺計画(三無事件)とも接点があった一派が存在し、安保闘争が長期化すれば
治安出動に乗じたクーデター計画も燻っており、利用されたのが三島とする関係者も(略)
・祖国防衛隊は資金も隊員集めも叶わず、中核要員だけ、学生中心の楯の会へと変貌してゆく
⇒もともと三島が大規模な組織のマネージメントをできたとは思えないが・・・
・1968年「10.21国際反戦デー」新宿騒乱の渦中で情報収集訓練を行い刺激を受けている
⇒翌年に向けた行動が計画されたが、圧倒的に力を増した機動隊によって新左翼は一網打尽、
三島は深い失意を味わう
⇒65年不況から時代の雰囲気は70年万博景気により決定的に好転、三島が敵と見定めた
「共産主義が間接侵略で日本を乗っ取る」可能性はなくなり、自民党による統治は盤石となり、
彼は死の機会を逸してしまった
⇒これが三島の「実に実に実に不快だった」という言葉の真意とされてきた
・森田必勝は「奔馬」の飯沼勲さながらの要人暗殺質問を関係者にしており、楯の会は
自衛隊での実射訓練やボウガン訓練も画策していた
⇒自衛隊にも三島のシンパや批判者がいて「奔馬」の飯沼勲にも心境が反映されている
・70年11月25日の蹶起には「豊饒の海」完結や事件後に届く遺書など周到な計画が練られていたが、
69年10月21日の国際反戦デーに関しては事前準備の形跡がまるで見えない
⇒何より「豊饒の海」は「暁の寺」の途中で未完のまま残されることになっており、三島は
治安出動からクーデターへ持っていく計画をあきらめなかったが、楯の会の会員の殆どが
クーデターの実感を得られなかったとの証言もある
(三島裁判での古賀正義の証言⇒国際反戦デー後の会議では憲法改正意見には消極的だった)
・そもそも自衛隊治安出動の捨て石となってクーデター、憲法改正実現というのは、三島が
したかったことだろうか、それは彼の理想的な死たり得たのか・・・
・「檄」より
⇒国体を守るのは軍隊であり政体を守るのは警察である
⇒政体を警察力で守り切れない段階で軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の
本義を回復するであろう
⇒建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しない
・69年10月21日に治安出動の必要がなかったことは事実であり、自衛隊にとって決定的に
改憲の希望が断たれたこの日以降、自衛隊は自ら蹶起すべきだったと叱咤する
⇒「話が違う」と咎めているようにも聞こえる
・三島が新左翼を過大評価していたとの見方もあるが、彼が強調したのは「間接侵略」の
脅威であり、彼らの背後に巨大な共産主義国が控えるからこそ「身を挺して」向かうべき
敵に値するはずだった
・三島はなぜ「暁の寺」脱稿時に「実に実に実に不快だった」のか
⇒自衛隊内部にあったクーデター計画を実現可能とは考えていなかったのではないか
⇒凡そ実現可能性がないからこそ「身を挺する」に値したのだろう
⇒彼自身が覚悟を決めているのに肝心の自衛隊に裏切られ、憤ったのではあるまいか
・飯沼勲が急進化するのは、彼が軍人ではなく「一般の民草」で軍人のコピーだから
⇒この本物に憧れ過剰反応しようとする人間という主題は、三島のセクシュアリティを通じた
「男らしさ」への憧れ、徴兵されずに生き残った人間としての大義への憧れと一貫している
⇒清顕と勲、「たおやめぶり」と「ますらおぶり」
⇒自衛隊に楯の会を認めてもらえないという経験は、三島にとって二度目の徴兵検査落第で
あったかもしれない
・三島は単にクーデター計画が頓挫したから「実に実に実に不快だった」のではあるまい
⇒こうした状況下で奔走し、結局、半ば見放されたような格好で行動に移れず、その事実を
「小説執筆のための主体的選択」と自らに言い聞かせ続けていた状況に終わりが来たことを
そう表現したのではなかったか・・・
・・・
たまたま項目4は、わたくしが興味のある文化のグローバル化とナショナリズムについての
三島の見方が分析されてましたし(彼がダイアモンドやハラリ、アセモグルを知っていたら、
あるいは最新の文明研究の成果を知っていたら、どんな作品を書いたかと夢想しました)、
たまたま項目40は、事実からの論考が多くて分かりやすく、わたくしと同時代的な感覚も
あったので、てきとーにメモした次第です
他の項目でも三島の思想の背景にある思想、例えば仏教の唯識や転生などについての彼の誤解や
理解不足、あるいは当時の翻訳の精度など資料限界による間違った経典解釈などへの指摘、
アジアでの加害者としての意識欠落への指摘などもあり、読み込めばさらに深い内容なので
しょうが、わたくしの読解能力の限界と図書館の貸出期限もあり・・・
とーとつに・・・

結論(7頁分)より
・三島由紀夫の実存の根底には幾重にも折り重なった疎外感があった
⇒自分がいるはずの場所で自分が不在である現実を想像したであろう
⇒二層化された世界像は、その後の三島の一生を貫き「覗き」への拘りは屈折した現れ
・20世紀前半のヨーロッパの思想的潮流の影響(略)
・戦後の「生きたい」は孤立した生ではなく他者と生きることが前提で詩小説戯曲を書いた
⇒行動と創作は、自分が不在の場所(現実)への出現の欲望
⇒しかし30代後半から現実への幻滅を深め、理想の日本を追い求めてゆく
⇒世界の階層的構造を分析する一方で精神的には10代の戦争体験へ回帰していった
⇒政治化したが文学の多様性は最後まで失わなかった
・戦争から排除され生き残った者の苦悩と死の美化と小説執筆(略)
⇒戦後社会の「生命尊重」は資本主義への隷属であることを高度経済成長で痛感した
⇒共産主義を否定する彼にとって荷担せざるを得ないシステムであり対する批評は死のみ
⇒それを文化として実体化する存在が一度は決別したはずの天皇だった
⇒天皇に生の原理として期待したのは彼のセクシュアリティから(以下略)
・彼の社会への適応努力は民主主義への政治的適応でもなければ、資本主義への経済的適応
でもなく、創作活動か、マスメディアを介した大衆文化への適応
⇒両者は対極的だが、どちらも彼が求める他者からの承認を可能とする場所
・学生運動の激化を通じ戦後社会への適応ではなく批判による共同性に可能性を見いだそうとした
⇒しかし拠るところは共産主義ではなく、死と癒着した天皇主義だった
・三島は強さと弱さという単純に序列化された価値観に固執した
⇒現実への幻滅が強まるほど弱さから強さへ、少数の被圧迫者から少数の圧迫者へ
・創作を通じた言語による現実の価値化は「文武両道」で並行的に継続された
⇒「金閣寺」から「鏡子の家」でニヒリズムを極め、社会批判への不信から存在論的な不信へ
⇒「空」を言語で実体化した大乗仏教であり、唯識思想を「豊饒の海」の構造に適用した
⇒唯識思想に同意しなかったのは、それが言語による世界認識を徹底的に否定するため
⇒三島にとって言葉はどれほど虚無に浸食されようと、その極限で実在を保ち続けている何か
⇒それが最後まで小説家を断念しなかった理由
・三島が興味を寄せたのは唯識の教義より「空」を目指す自己否定の言語化というあり方で
その意味で「豊饒の海」のあり方は相似形を成している
⇒しかし放火前の金閣寺がそうであったように、最後の崩壊の瞬間には言語の構築物として
その存在が疑うべくもなく価値化され、輝きを放つべきであった
・死は虚無に呑み込まれそうになりながら運動し続ける彼に生の絶頂を約束するもの
⇒最後に叫んだ「天皇陛下万歳」は政治的主張であり彼が20歳の時に大義による死とともに
叫びそこなった言葉
⇒一人の人間の存在の全体性が託された言葉で、表向きの大義のみならず彼が生涯、抑圧
されつつ生きてきたエロティシズムをも同時に顕現させようとするものだった
⇒一生を象徴するためには不十分で不適当とさえ思われる言葉
⇒しかしそれしか口にされようがない言葉であり、その歴史的事実もまた、三島が死によって
体現したことの一つだった
・結論は作家論的に要約されたが本書の意義は作品論としての各ページの細部にこそある
と信じたい
あとがき(12頁分)より
・10代の頃に読んだ「金閣寺」ほど衝撃を受けた本はない
⇒三島作品に夢中になって以後、読書で知る三島像と人から聞く三島像の違いに気づいた
⇒日記や読書録で三島を「カッコいい」と思うようになった
⇒三島作品と三島が影響を受けた作品を読み続け、小説とは相互に有機的に結び合った、
広大な「文学の森(ボルヘス)」の一部ということを実感とともに理解した
・三島への最も強い共感は、彼が戦後社会に抱いていたニヒリズムの感覚であり、それを
表現する思想的で美的な文体だった
⇒境遇も時代も違うのに、痛切に「わかる」と読者が感じるのが文学
⇒自己と世界、両方の実在の不確かさに苦しみ、世界崩壊を信じ社会から孤立する人物たち
⇒いよいよ自分に近しい存在と感じられていった
・「日蝕」で文壇デビューして以来、三島由紀夫の再来とか三島と比較されることがよくある
⇒三島好きで強いシンパシーを感じていることは公言している
・本書は三島と私との長い長い対話の産物
⇒作者の意図の追求という、ほとんど反動的な態度は「到達不可能なもの」への運動という
意味で三島的ともいえるが、到達可能な他者ネットワーク「文学の森」が存在する
・私自身は三島に圧倒的な影響を受けつつ、その思想を批判的に克服する上で、やはり
アイデンティティの捉え方を梃子にした
⇒個人と対応する一なる存在(日本/天皇)への帰属を本質主義的に求めるのか、対人関係毎に
分化した主体(分人)と他者との相互依存関係を重視するのかが、その最大の相違点
・分人主義の構想に於ける三島の死に方への問い(略)
(本書を自己の思想の展開の場にはしたくなかった)
・最後の行動に至る軌跡(略)
・三島の楯の会会員への遺書
「あれほど左翼学生の行動責任のなさを弾劾してきた小生としては、とるべき道は一つでした」
⇒(あえて無体なことを言うなら)
⇒私は、もし本書を三島が読んだなら、自殺を踏み止まったかもしれないという一念で
これを書いたのである
⇒私はやはり三島という人に会って話をしてみたかった
・・・
結論の末尾にもありましたが、確かに本書の意義は作品論としての各ページの細部にあり、
目次を見ても明らかなように、まさに全作品を精読熟読し、その背景をじつに念入りに
探っていくという作家論で、序論や結論だけ読み飛ばしても理解できないのですが、
不思議な感動の記憶が残っている「豊饒の海」について、少しは納得できたかもです
三島作品や彼の作品に影響を受けた作品に興味のある方には必読の書ですね
2025年09月07日
大本営発表
とーとつですが・・・

9年前に出版された「大本営発表」であります
9年前の2016年といえば、2012年から2020年まで続く第二次安倍内閣の絶頂期であり、
そのメディア対策とメディア側の忖度や自己規制への警鐘として書かれた本でしょう
ちなみに先ほど石破首相辞任表明の発表記者会見があり、メディアはこの話題で溢れてますが、
わたくしはこれと大本営発表を重ねたわけではなく、戦後80年になる8月15日の前後に
放送されていた様々な特集番組を視聴していて、番組内容とは異なる戦場の実写映像が
多く流されてたのが気になって、本書を借りてみた次第です
裏表紙カバーにあった惹句

著者によれば1941年12月8日の真珠湾攻撃から敗戦までの大本営発表は合計847回、ただし
昭和の大本営は1937年の日中戦争から設置されており、当初から大本営発表はあったけど、
それが質量ともに大きく変わったのは太平洋戦争に突入してからであり、この変遷の歴史を知り
共有することで、政治と報道が一体化する悲劇的な事態を防ぐのが本書の目指すところ・・・
とありました(はじめに・第1章より)
表表紙カバー裏にあった著者紹介

著者の作品ではこちらの本も紹介してますが、右翼とか左翼とかイデオロギーとかとは
距離を置いた近代日本の見方には共感するところがあります
奥付

目次




847回の大本営発表を詳細に分析、それに関する歴史事実や関係者の証言、関係資料も
丹念に調べられた結果ですが、以下は例によって思いつくままのてきとーメモ・・・
特に第3章から第6章の大本営発表は殆ど省略してますので、発表項目は目次からご推測を、
それで興味を持たれた方は本書を熟読願います
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
はじめにより
・大本営発表によれば日本軍は連合軍の戦艦43隻、空母84隻を沈めたことになる
⇒事実は戦艦4隻、空母11隻で、戦艦は10.75倍、空母は7.6倍に水増しされている
⇒逆に喪失は戦艦8隻が4隻に、空母19隻が4隻に圧縮されている
⇒他の艦船や飛行機、地上兵力の数字も同じ
・デタラメ発表では、やがて辻褄が合わなくなることぐらい当時最高のエリート集団だった
大本営なら容易に想像できたはず・・・
(事実、末期には軍官僚の作文と化し国民の信頼を失っていた)
⇒日本軍の組織的な欠陥(組織対立や情報の軽視など)や戦局の急激な悪化もあったが、
⇒軍部と(大正デモクラシーや軍縮ムードで軍部に批判的だった)報道機関との一体化が、
この問題を何倍にも膨れ上がらせた
⇒ジャーナリズムのチェック機能が失われたからこそ縦横無尽にデタラメ発表ができた
・大本営発表の悪夢の再来が福島第一原発の事故だった
⇒あてにならない当局の発表、電力会社による広告費を使ったマスコミ懐柔・・・
⇒戦前のような言論統制もないのに、原発の「安全神話」が日本社会を覆っていた
⇒日本メディア史の最暗部である大本営発表の悲劇的な歴史を知り共有することで、
政治と報道が一体化するという事態を防ぐのが本書の目指すところ
第1章(1937年11月~1941年12月)より
・1941年12月8日からの大本営発表は846回とされている(著者の集計では847回)
・大本営は戦時にのみ設置される天皇に直属する軍の最高司令部
⇒昭和の大本営は1937年の日中戦争から1945年の敗戦まで設置された
(明治の大本営は首相も参加した戦争指導の中心機関だったが、昭和の大本営は天皇臨席の
形式的な会議を開くだけで、実態は陸海軍の寄り合い所帯だった)
・陸軍参謀本部が大本営陸軍部、海軍軍令部が大本営海軍部を構成し個別に戦争指導した
(どちらも陸軍省・海軍省とは独立しており、これら4者が対立していた)
⇒なので昭和の大本営は陸海軍を統合運用する機能は持たなかった
・大本営発表の実務を担った報道部も同じで個別に発表を行っていた
⇒当初熱心に宣伝報道に取り組んだのは陸軍報道部(母体は陸軍省新聞班)
⇒兵力を徴兵に依存する陸軍は世論に敏感で記者協力(癒着)や世論操作の実績があった
⇒サイレントネービーの海軍は報道宣伝部門をチンドン屋と称し人事面でも軽視していた
・大本営発表は作戦報道に関する最高権威の位置にあった
⇒前線部隊からの報告のうち定例幹部会議で公開可と判定された報告に、さらに作戦部はじめ
様々な部署の了解を経て作成された発表文が、記者クラブに配られて説明される
・批判記事で出入り禁止にされないよう記事が軍部寄りになる危険性はあったが、
⇒日中戦争の頃は虚偽発表をする必要もなかったので比較的正確な発表だった
(非戦闘員の殺傷は発表されず敵損害の過剰見積もり傾向もあったが虚偽ではなかった)
⇒むしろ南京攻略では新聞の暴走記事により国民が熱狂、政府・軍部がその対応に迫られた
・新聞暴走の背景
⇒各社の熾烈な部数拡大競争
⇒国民が注視する日中戦争で真っ先にスクープすれば部数が伸びる
⇒ラジオに対抗するため手間のかかる写真付き号外も乱発した
⇒競争に勝ち抜くには軍部との協力が不可欠
⇒大本営発表や軍部の行動を検証する報道本来の役割が置き去りに
⇒従軍記が売れるので新聞社も記者も作家も軍との関係を大事にして軍が威張る悪循環に
・その後の広東・武漢攻略では暴走記事はなくなっていた
⇒大本営報道部と新聞が持ちつ持たれつの関係になっていたから
⇒攻略後も戦争は終わらず大本営発表は日米開戦まで下火になり、ノモンハン事件などは当初
関東軍報道部発表で停戦協定時点でようやく大本営陸軍部発表、地味な扱いに終始していた
⇒この間に新聞用紙統制・新聞記者統制・海軍報道部の躍進(略)
第2章(1941年12月~1942年4月)より
・大本営発表は12月8日だけで10回、12月全体では90回にも及んだ
(連戦連勝を隠す必要はなく情報量とスピード感は開戦前の比ではなかったので、これ以降に、
大本営発表がはじまったと、記憶を上書きされている人も多い)
⇒戦争報道は新聞からラジオへと一変した
⇒12月11日からは大きな戦勝ニュースの前後に陸軍の戦果なら陸軍分列行進曲、海軍の戦果なら
軍艦行進曲、合同戦果の場合は敵は幾万が放送されることになった
・真珠湾攻撃の戦果(略)
⇒不鮮明な写真や物証のない証言などで判定せざるを得ない中、比較的正確な発表をしており、
その後の情報により、何度も修正発表している(下方修正発表もあった)
・マレー沖海戦の発表文(略)
⇒起草したのは吉川英治に師事しアドバイスを受けていた田中格中佐
⇒長文の物語調で「ラジオで聴く大本営発表」時代を象徴する事例
⇒日本放送協会の丸山鉄雄(丸山眞男の兄)は、さっそく作詞家の高橋掬太郎、作曲家の古関裕而、
歌手の藤山一郎に連絡し、僅か3時間後にニュース歌謡「英国東洋艦隊壊滅」を放送した
・香港攻略戦の発表文(略)
⇒それまで簡素な文章だった陸軍報道部は海軍に対抗し修飾語を乱用するようになった
⇒12月8日の発表文は「香港の攻撃を開始」だけだったが13日の発表文では香港要塞に対する
修飾語が明らかに過剰に、19日の香港島上陸ではさらに過剰修飾され意味不明の言葉も
⇒陸軍報道部員たちは海軍の華々しい発表に対抗するため涙ぐましい努力をしていた(略)
・開戦1ヶ月後の107回目の発表から「大本営発表」に統一されたが、組織は別々のままで、
発表文を読めば陸軍か海軍か分かり、その後も対抗が絶えることはなかった
(海軍落下傘部隊のセレベス島メナド攻略と陸軍落下傘部隊のスマトラ島パレンバン攻略など)
・特殊潜航艇による「特別攻撃隊」作戦行動発表の虚偽と捕虜隠蔽(略)
⇒これが後の「神風特別攻撃隊」の大きな悲劇の一因となる(略)
・開戦から翌年4月までの大本営発表は280回で月平均56回
⇒多少の間違いや判断ミスはあったが、この間の内容はおおむね正確だった
⇒連戦連勝で虚偽発表する必要もなく「信頼性の高い大本営発表」のイメージができた
⇒戦局の悪化とともに、このイメージが報道部のデタラメ発表を後押しすることになる
第3章(1942年5月~1943年1月)より
・この間に作戦が挫折し「でたらめ」と「ねつぞう」に転落していく過程(略)
⇒目次参照
第4章(1943年2月~1943年12月)より
・この間の総数は168回で月平均15回強
⇒ミッドウェー海戦後に激減していた時期から明らかに増加している
⇒米軍の本格的な反攻が各地ではじまったが撤退を転進といえば予定どおりの作戦となり、
全滅を玉砕といえば士気高揚に活用できるので米軍反攻情報を出しやすくなったから
⇒戦局の悪化を受け戦果発表より戦局説明を逐次発表したから
⇒この後さらに現実離れしたものへ変化していく
⇒目次参照
第5章(1944年1月~1944年10月)より
・陸海軍のさらなる衝突、官僚の作文化、神風特別攻撃隊出撃による発表増・・・
⇒1944年10月6日には「報道発表は事実を」と閣議決定するほどデタラメぶりが公然の秘密と
なっていたが、陸海軍からは完全に無視され、国民も発表を信用しなくなっていた
⇒目次参照
第6章(1944年11月~1945年8月)より
・米軍が主要都市への無差別絨毯爆撃に踏み切ると「損害は軽微」の誤魔化しが利かなくなり、
⇒「相当の被害」までは使うようになったが、被害の程度に言及することを放棄した
⇒さらに「戦果及被害に関しては調査中」として永遠に調査結果を公表しない姑息な手段も
・沖縄戦では「玉砕」を使わず「最後の攻撃」や「最後の斬り込み」で全滅を示唆している
(大本営発表に文官名(沖縄県知事)が出たのは最初で最後、それほど島民の犠牲が多かった)
・広島への投下が原子爆弾であることは知っていたが戦意を失わせると新型爆弾に言い換えた
(大本営発表を読みなれた記者たちは「新型爆弾」による「相当な被害」で重大さに気づいた)
⇒長崎投下について大本営は沈黙を守った(西部軍管区司令部の「損害は軽微」の発表のみ)
・8月14日深夜から翌15日未明にかけて起こった玉音放送レコード奪取未遂事件の2日前、
クーデター派による大本営発表の捏造原稿が記者たちに見破られ「全面的作戦を開始せり」
の部分が削除された
(8月15日の玉音放送時には開戦時とは異なり大本営報道部は蚊帳の外だった)
⇒目次参照
第7章(政治と報道の一体化がもたらした悲劇)より
・第一期はほぼ正確な発表だったが第二期で誤魔化しや戦果誤認、第三期で破綻が決定的に、
第四期で戦果の誇張と損害の隠蔽が増大、最期では本土空襲の事実が過剰表現を抑制した
・空母と戦艦の喪失数比較表⇒「はじめにより」を参照
・大本営発表の破綻の内的原因
①組織間の不和対立
⇒陸軍と海軍、陸軍参謀本部と陸軍省、海軍軍令部と海軍省、作戦部と情報部、報道部・・・
②情報の軽視
⇒対中国や対ソ連は一定の実績もあったが対米国情報の欠落が深刻だった
⇒航空戦の戦果確認はパイロット証言だが熟練パイロットが消耗すると精度は著しく低下、
それを疑わないほうが都合がいいので戦果が膨れ上がった
⇒戦果誇張の主因こそ情報の軽視
・大本営発表の破綻の外的原因
③戦局の悪化
⇒勝てば発表も揉めず、生還者も多いので比較的正確な情報も得られるが・・・
④軍部と報道機関の一体化
⇒報道機関が大本営報道部の下請けになりチェック機能を手放した
⇒第1章参照
・重要なのは報道機関の独立性
⇒2011年の原発事故で電力会社の広告費で安全神話を流してきた報道機関は、経済産業省、
原子力安全保安院、東京電力と並んで「大本営発表」の発信源だと批判されている
⇒2012年からの安倍政権の政治権力介入の動き(略)
・報道は政治との癒着のみが批判されるべきで政治との対決は批判されるべきではない
⇒これが政権交代があっても変わらない現代社会の大原則
・政治と報道の一体化の悲劇を教えてくれるのが大本営発表の歴史
⇒愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ・・・
おわりにより
・これを書いている2016年4月に熊本地震が発生した
⇒NHKの籾井会長は「地震に関連する原発報道は公式発表をベースに伝える」と発言した
⇒「ベースにする」だけで問題はないという意見もあったが戦時下にも独自記事はあった
⇒それが公式発表をベースにすると、それを側面支援する形での記事になった
⇒大本営報道部もそれに胡坐をかいてデタラメ記事をばら撒きはじめた
・安倍政権が成功したメディア対策は国内外で批判される一方、世論は批判的ではなく、
ネット上にはデタラメ報道を繰り返すマスコミには政治が介入して改善すべきとの極論もある
⇒安倍政権の強硬姿勢は、このような世論に支えられているといってもよい
⇒しかしメディアの独立性は特定企業の既得権などではなく社会の共有財産
⇒政治権力の監視というメディアの公共性を破壊することは論外
⇒ただ、こうした理屈だけではマスコミ批判に太刀打ちできないのも事実
・成功した安倍政権のメディア対策の手法は政権が変わっても応用可能で継承される
⇒いつの時代にも、どの政権にも応用できる、メディアとの正しい付き合い方を養わねばならない
⇒政治とメディアの問題について大本営発表は反面教師として役立つはず・・・
・・・
以前も書きましたが、今回も情報の氾濫の中から誤情報や偽情報を取り除くことの重要性を
再認識しました
メディアの独立性は特定企業の既得権などではなく社会の共有財産という原則は重要ですが
半世紀前にテレビや新聞など何らかのオーソリティを経由した情報が氾濫しだしたのが、
今やオーソリティとは何の関係もない情報が全く同列でネット上に氾濫しており、本書が
出版された9年前より、さらにその傾向は顕著になっています
もちろんマスメディアにも誤情報や意図的な誘導や隠蔽はあるでしょうが、それでも公開には

9年前に出版された「大本営発表」であります
9年前の2016年といえば、2012年から2020年まで続く第二次安倍内閣の絶頂期であり、
そのメディア対策とメディア側の忖度や自己規制への警鐘として書かれた本でしょう
ちなみに先ほど石破首相辞任表明の発表記者会見があり、メディアはこの話題で溢れてますが、
わたくしはこれと大本営発表を重ねたわけではなく、戦後80年になる8月15日の前後に
放送されていた様々な特集番組を視聴していて、番組内容とは異なる戦場の実写映像が
多く流されてたのが気になって、本書を借りてみた次第です

裏表紙カバーにあった惹句

著者によれば1941年12月8日の真珠湾攻撃から敗戦までの大本営発表は合計847回、ただし
昭和の大本営は1937年の日中戦争から設置されており、当初から大本営発表はあったけど、
それが質量ともに大きく変わったのは太平洋戦争に突入してからであり、この変遷の歴史を知り
共有することで、政治と報道が一体化する悲劇的な事態を防ぐのが本書の目指すところ・・・
とありました(はじめに・第1章より)
表表紙カバー裏にあった著者紹介

著者の作品ではこちらの本も紹介してますが、右翼とか左翼とかイデオロギーとかとは
距離を置いた近代日本の見方には共感するところがあります
奥付

目次




847回の大本営発表を詳細に分析、それに関する歴史事実や関係者の証言、関係資料も
丹念に調べられた結果ですが、以下は例によって思いつくままのてきとーメモ・・・

特に第3章から第6章の大本営発表は殆ど省略してますので、発表項目は目次からご推測を、
それで興味を持たれた方は本書を熟読願います
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
はじめにより
・大本営発表によれば日本軍は連合軍の戦艦43隻、空母84隻を沈めたことになる
⇒事実は戦艦4隻、空母11隻で、戦艦は10.75倍、空母は7.6倍に水増しされている
⇒逆に喪失は戦艦8隻が4隻に、空母19隻が4隻に圧縮されている
⇒他の艦船や飛行機、地上兵力の数字も同じ
・デタラメ発表では、やがて辻褄が合わなくなることぐらい当時最高のエリート集団だった
大本営なら容易に想像できたはず・・・
(事実、末期には軍官僚の作文と化し国民の信頼を失っていた)
⇒日本軍の組織的な欠陥(組織対立や情報の軽視など)や戦局の急激な悪化もあったが、
⇒軍部と(大正デモクラシーや軍縮ムードで軍部に批判的だった)報道機関との一体化が、
この問題を何倍にも膨れ上がらせた
⇒ジャーナリズムのチェック機能が失われたからこそ縦横無尽にデタラメ発表ができた
・大本営発表の悪夢の再来が福島第一原発の事故だった
⇒あてにならない当局の発表、電力会社による広告費を使ったマスコミ懐柔・・・
⇒戦前のような言論統制もないのに、原発の「安全神話」が日本社会を覆っていた
⇒日本メディア史の最暗部である大本営発表の悲劇的な歴史を知り共有することで、
政治と報道が一体化するという事態を防ぐのが本書の目指すところ
第1章(1937年11月~1941年12月)より
・1941年12月8日からの大本営発表は846回とされている(著者の集計では847回)
・大本営は戦時にのみ設置される天皇に直属する軍の最高司令部
⇒昭和の大本営は1937年の日中戦争から1945年の敗戦まで設置された
(明治の大本営は首相も参加した戦争指導の中心機関だったが、昭和の大本営は天皇臨席の
形式的な会議を開くだけで、実態は陸海軍の寄り合い所帯だった)
・陸軍参謀本部が大本営陸軍部、海軍軍令部が大本営海軍部を構成し個別に戦争指導した
(どちらも陸軍省・海軍省とは独立しており、これら4者が対立していた)
⇒なので昭和の大本営は陸海軍を統合運用する機能は持たなかった
・大本営発表の実務を担った報道部も同じで個別に発表を行っていた
⇒当初熱心に宣伝報道に取り組んだのは陸軍報道部(母体は陸軍省新聞班)
⇒兵力を徴兵に依存する陸軍は世論に敏感で記者協力(癒着)や世論操作の実績があった
⇒サイレントネービーの海軍は報道宣伝部門をチンドン屋と称し人事面でも軽視していた
・大本営発表は作戦報道に関する最高権威の位置にあった
⇒前線部隊からの報告のうち定例幹部会議で公開可と判定された報告に、さらに作戦部はじめ
様々な部署の了解を経て作成された発表文が、記者クラブに配られて説明される
・批判記事で出入り禁止にされないよう記事が軍部寄りになる危険性はあったが、
⇒日中戦争の頃は虚偽発表をする必要もなかったので比較的正確な発表だった
(非戦闘員の殺傷は発表されず敵損害の過剰見積もり傾向もあったが虚偽ではなかった)
⇒むしろ南京攻略では新聞の暴走記事により国民が熱狂、政府・軍部がその対応に迫られた
・新聞暴走の背景
⇒各社の熾烈な部数拡大競争
⇒国民が注視する日中戦争で真っ先にスクープすれば部数が伸びる
⇒ラジオに対抗するため手間のかかる写真付き号外も乱発した
⇒競争に勝ち抜くには軍部との協力が不可欠
⇒大本営発表や軍部の行動を検証する報道本来の役割が置き去りに
⇒従軍記が売れるので新聞社も記者も作家も軍との関係を大事にして軍が威張る悪循環に
・その後の広東・武漢攻略では暴走記事はなくなっていた
⇒大本営報道部と新聞が持ちつ持たれつの関係になっていたから
⇒攻略後も戦争は終わらず大本営発表は日米開戦まで下火になり、ノモンハン事件などは当初
関東軍報道部発表で停戦協定時点でようやく大本営陸軍部発表、地味な扱いに終始していた
⇒この間に新聞用紙統制・新聞記者統制・海軍報道部の躍進(略)
第2章(1941年12月~1942年4月)より
・大本営発表は12月8日だけで10回、12月全体では90回にも及んだ
(連戦連勝を隠す必要はなく情報量とスピード感は開戦前の比ではなかったので、これ以降に、
大本営発表がはじまったと、記憶を上書きされている人も多い)
⇒戦争報道は新聞からラジオへと一変した
⇒12月11日からは大きな戦勝ニュースの前後に陸軍の戦果なら陸軍分列行進曲、海軍の戦果なら
軍艦行進曲、合同戦果の場合は敵は幾万が放送されることになった
・真珠湾攻撃の戦果(略)
⇒不鮮明な写真や物証のない証言などで判定せざるを得ない中、比較的正確な発表をしており、
その後の情報により、何度も修正発表している(下方修正発表もあった)
・マレー沖海戦の発表文(略)
⇒起草したのは吉川英治に師事しアドバイスを受けていた田中格中佐
⇒長文の物語調で「ラジオで聴く大本営発表」時代を象徴する事例
⇒日本放送協会の丸山鉄雄(丸山眞男の兄)は、さっそく作詞家の高橋掬太郎、作曲家の古関裕而、
歌手の藤山一郎に連絡し、僅か3時間後にニュース歌謡「英国東洋艦隊壊滅」を放送した
・香港攻略戦の発表文(略)
⇒それまで簡素な文章だった陸軍報道部は海軍に対抗し修飾語を乱用するようになった
⇒12月8日の発表文は「香港の攻撃を開始」だけだったが13日の発表文では香港要塞に対する
修飾語が明らかに過剰に、19日の香港島上陸ではさらに過剰修飾され意味不明の言葉も
⇒陸軍報道部員たちは海軍の華々しい発表に対抗するため涙ぐましい努力をしていた(略)
・開戦1ヶ月後の107回目の発表から「大本営発表」に統一されたが、組織は別々のままで、
発表文を読めば陸軍か海軍か分かり、その後も対抗が絶えることはなかった
(海軍落下傘部隊のセレベス島メナド攻略と陸軍落下傘部隊のスマトラ島パレンバン攻略など)
・特殊潜航艇による「特別攻撃隊」作戦行動発表の虚偽と捕虜隠蔽(略)
⇒これが後の「神風特別攻撃隊」の大きな悲劇の一因となる(略)
・開戦から翌年4月までの大本営発表は280回で月平均56回
⇒多少の間違いや判断ミスはあったが、この間の内容はおおむね正確だった
⇒連戦連勝で虚偽発表する必要もなく「信頼性の高い大本営発表」のイメージができた
⇒戦局の悪化とともに、このイメージが報道部のデタラメ発表を後押しすることになる
第3章(1942年5月~1943年1月)より
・この間に作戦が挫折し「でたらめ」と「ねつぞう」に転落していく過程(略)
⇒目次参照
第4章(1943年2月~1943年12月)より
・この間の総数は168回で月平均15回強
⇒ミッドウェー海戦後に激減していた時期から明らかに増加している
⇒米軍の本格的な反攻が各地ではじまったが撤退を転進といえば予定どおりの作戦となり、
全滅を玉砕といえば士気高揚に活用できるので米軍反攻情報を出しやすくなったから
⇒戦局の悪化を受け戦果発表より戦局説明を逐次発表したから
⇒この後さらに現実離れしたものへ変化していく
⇒目次参照
第5章(1944年1月~1944年10月)より
・陸海軍のさらなる衝突、官僚の作文化、神風特別攻撃隊出撃による発表増・・・
⇒1944年10月6日には「報道発表は事実を」と閣議決定するほどデタラメぶりが公然の秘密と
なっていたが、陸海軍からは完全に無視され、国民も発表を信用しなくなっていた
⇒目次参照
第6章(1944年11月~1945年8月)より
・米軍が主要都市への無差別絨毯爆撃に踏み切ると「損害は軽微」の誤魔化しが利かなくなり、
⇒「相当の被害」までは使うようになったが、被害の程度に言及することを放棄した
⇒さらに「戦果及被害に関しては調査中」として永遠に調査結果を公表しない姑息な手段も
・沖縄戦では「玉砕」を使わず「最後の攻撃」や「最後の斬り込み」で全滅を示唆している
(大本営発表に文官名(沖縄県知事)が出たのは最初で最後、それほど島民の犠牲が多かった)
・広島への投下が原子爆弾であることは知っていたが戦意を失わせると新型爆弾に言い換えた
(大本営発表を読みなれた記者たちは「新型爆弾」による「相当な被害」で重大さに気づいた)
⇒長崎投下について大本営は沈黙を守った(西部軍管区司令部の「損害は軽微」の発表のみ)
・8月14日深夜から翌15日未明にかけて起こった玉音放送レコード奪取未遂事件の2日前、
クーデター派による大本営発表の捏造原稿が記者たちに見破られ「全面的作戦を開始せり」
の部分が削除された
(8月15日の玉音放送時には開戦時とは異なり大本営報道部は蚊帳の外だった)
⇒目次参照
第7章(政治と報道の一体化がもたらした悲劇)より
・第一期はほぼ正確な発表だったが第二期で誤魔化しや戦果誤認、第三期で破綻が決定的に、
第四期で戦果の誇張と損害の隠蔽が増大、最期では本土空襲の事実が過剰表現を抑制した
・空母と戦艦の喪失数比較表⇒「はじめにより」を参照
・大本営発表の破綻の内的原因
①組織間の不和対立
⇒陸軍と海軍、陸軍参謀本部と陸軍省、海軍軍令部と海軍省、作戦部と情報部、報道部・・・
②情報の軽視
⇒対中国や対ソ連は一定の実績もあったが対米国情報の欠落が深刻だった
⇒航空戦の戦果確認はパイロット証言だが熟練パイロットが消耗すると精度は著しく低下、
それを疑わないほうが都合がいいので戦果が膨れ上がった
⇒戦果誇張の主因こそ情報の軽視
・大本営発表の破綻の外的原因
③戦局の悪化
⇒勝てば発表も揉めず、生還者も多いので比較的正確な情報も得られるが・・・
④軍部と報道機関の一体化
⇒報道機関が大本営報道部の下請けになりチェック機能を手放した
⇒第1章参照
・重要なのは報道機関の独立性
⇒2011年の原発事故で電力会社の広告費で安全神話を流してきた報道機関は、経済産業省、
原子力安全保安院、東京電力と並んで「大本営発表」の発信源だと批判されている
⇒2012年からの安倍政権の政治権力介入の動き(略)
・報道は政治との癒着のみが批判されるべきで政治との対決は批判されるべきではない
⇒これが政権交代があっても変わらない現代社会の大原則
・政治と報道の一体化の悲劇を教えてくれるのが大本営発表の歴史
⇒愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ・・・
おわりにより
・これを書いている2016年4月に熊本地震が発生した
⇒NHKの籾井会長は「地震に関連する原発報道は公式発表をベースに伝える」と発言した
⇒「ベースにする」だけで問題はないという意見もあったが戦時下にも独自記事はあった
⇒それが公式発表をベースにすると、それを側面支援する形での記事になった
⇒大本営報道部もそれに胡坐をかいてデタラメ記事をばら撒きはじめた
・安倍政権が成功したメディア対策は国内外で批判される一方、世論は批判的ではなく、
ネット上にはデタラメ報道を繰り返すマスコミには政治が介入して改善すべきとの極論もある
⇒安倍政権の強硬姿勢は、このような世論に支えられているといってもよい
⇒しかしメディアの独立性は特定企業の既得権などではなく社会の共有財産
⇒政治権力の監視というメディアの公共性を破壊することは論外
⇒ただ、こうした理屈だけではマスコミ批判に太刀打ちできないのも事実
・成功した安倍政権のメディア対策の手法は政権が変わっても応用可能で継承される
⇒いつの時代にも、どの政権にも応用できる、メディアとの正しい付き合い方を養わねばならない
⇒政治とメディアの問題について大本営発表は反面教師として役立つはず・・・
・・・
以前も書きましたが、今回も情報の氾濫の中から誤情報や偽情報を取り除くことの重要性を
再認識しました
メディアの独立性は特定企業の既得権などではなく社会の共有財産という原則は重要ですが
半世紀前にテレビや新聞など何らかのオーソリティを経由した情報が氾濫しだしたのが、
今やオーソリティとは何の関係もない情報が全く同列でネット上に氾濫しており、本書が
出版された9年前より、さらにその傾向は顕著になっています
もちろんマスメディアにも誤情報や意図的な誘導や隠蔽はあるでしょうが、それでも公開には
一定のファクトチェック手続きを経ているはずで、これが他のSNS情報などとの大きな違いですね
もちろん政府や自治体の公式発表にも意図的な誘導や隠蔽はあるでしょうが、例えば末期の
大本営発表でも、広島が「新型爆弾」で爆撃され「相当な被害」という事実はあるわけで、
これはSNSなどネット上に氾濫する流言飛語とはまったく異なる事実情報です
大本営発表でも、広島が「新型爆弾」で爆撃され「相当な被害」という事実はあるわけで、
これはSNSなどネット上に氾濫する流言飛語とはまったく異なる事実情報です
政府や自治体の公式発表と(それらから独立してファクトチェックされた)マスメディアからの
情報を比較検討することを基本に、それ以外の情報はあくまでメタ情報の部分として
全体から方向を掴む程度で利用する、という前提を常に意識しておこうと思っています
それにしても・・・
番組で解説している内容と、その際に流される戦場実写映像の時期や場所とが、まったく
異なってる場合、せめて(まともなマスメディアなら)「イメージ画像です」ぐらい・・・
情報を比較検討することを基本に、それ以外の情報はあくまでメタ情報の部分として
全体から方向を掴む程度で利用する、という前提を常に意識しておこうと思っています
それにしても・・・
番組で解説している内容と、その際に流される戦場実写映像の時期や場所とが、まったく
異なってる場合、せめて(まともなマスメディアなら)「イメージ画像です」ぐらい・・・

