2026年04月
2026年04月19日
5ヶ月ぶりの堺浜ポタ
先週から(なんと5ヶ月ぶりに!!!)堺浜ポタリングを再開してます
大和川の右岸から

左岸へ

堺浜周回への往路で休憩して、

ま、堺浜周回5kmは1周から3周ぐらいで勘弁してやって・・・
突端の東屋でも休憩して・・・


さらに復路でも休憩、

そーいや昨年も春と秋、ほんの一時期だけの堺浜ポタリングやったな・・・
今年こそは梅雨も真夏も真冬も最低7周は毎日漕ぎ続け、脂肪を減らし筋肉を増やし・・・
とか毎年誓いつつも梅雨や真夏や真冬に限らず、毎日昼から・・・
ぷしゅ
、ごきゅごきゅごきゅ
、くはあ
、になってるのはなぜなのか???
ま、せっかくなので大和川にいた・・・

カモメさんたちもご紹介

顔の黒いのは幼鳥?
⇒訂正⇒黒いのはユリカモメさんの夏羽だそうです
カモさんとサギさんも

サギさんとカワウさん?も

で、いつもの公園いつもの場所のソメイヨシノはすっかり葉桜に・・・

で、今は・・・

サトザクラのカンザンだそうです・・・
そして・・・



ネモフィラも満開
つーことで、

有料BBQスペースはまだまだ盛況でした
って、このコールマンのタープ(パーティーシェード)、遮光・遮熱タイプもあって別売りの
サイドウォールをセットすれば冬でも使えそうで、ずっと買い物リストに入ってるんだけど、
やはり組み立てはイベントタープより手間かなあ・・・うじうじうじ・・・
大和川の右岸から

左岸へ

堺浜周回への往路で休憩して、

ま、堺浜周回5kmは1周から3周ぐらいで勘弁してやって・・・

突端の東屋でも休憩して・・・


さらに復路でも休憩、

そーいや昨年も春と秋、ほんの一時期だけの堺浜ポタリングやったな・・・
今年こそは梅雨も真夏も真冬も最低7周は毎日漕ぎ続け、脂肪を減らし筋肉を増やし・・・
とか毎年誓いつつも梅雨や真夏や真冬に限らず、毎日昼から・・・
ぷしゅ
、ごきゅごきゅごきゅ
、くはあ
、になってるのはなぜなのか???ま、せっかくなので大和川にいた・・・

カモメさんたちもご紹介

顔の黒いのは幼鳥?
⇒訂正⇒黒いのはユリカモメさんの夏羽だそうです
カモさんとサギさんも

サギさんとカワウさん?も

で、いつもの公園いつもの場所のソメイヨシノはすっかり葉桜に・・・

で、今は・・・

サトザクラのカンザンだそうです・・・
そして・・・



ネモフィラも満開
つーことで、

有料BBQスペースはまだまだ盛況でした
って、このコールマンのタープ(パーティーシェード)、遮光・遮熱タイプもあって別売りの
サイドウォールをセットすれば冬でも使えそうで、ずっと買い物リストに入ってるんだけど、
やはり組み立てはイベントタープより手間かなあ・・・うじうじうじ・・・
2026年04月16日
「あの戦争」は何だったのか
引き続きの読書メモになりますが・・・

辻田真佐憲著~「あの戦争」は何だったのか~であります
わたくしが「ホノルルの休日」から2月末に帰国して最初に読みはじめていた本で、たまたま
アメリカとイスラエルによるイラン攻撃の開始時期と重なってて、まさに「あの戦争」後の
世界の仕組みが崩れていく現状を予測しているかのような内容で驚いています
あらためての著者紹介

著者の本は何冊か紹介してるので著者名などで「当サイトの記事検索」をご利用ください
奥付

2025年7月の発行なので第2次トランプ政権発足後の世界情勢までは反映されてました
目次


この著者の目次は内容を簡潔にまとめてあるので、目次だけでも概要がわかりますが、
今回も視点が比較的まともだと感じました
(以下てきとー読書メモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開にします)
はじめにより
・「あの戦争」はなぜ起きたのか?と、よく問われるが、
⇒日本が米国の石油禁輸で追い詰められたから、というのが一般的な答えだろう
⇒では、なぜ石油が禁輸されたのか
⇒日本が仏領インドシナまで進駐したから
⇒では、なぜ進駐したのか、軍を引き上げればよかったのか
⇒そんな単純な問題ではなく・・・と芋づる式に関連事項がつながり時間がかかる
・そもそも、「あの戦争」とは何を指すのか?
⇒大東亜戦争?太平洋戦争?十五年戦争?アジア太平洋戦争?第二次世界大戦?
・いつ始まったのか(第1章)、どこで間違ったのか(第2章)などから「何だったか」の核心に迫る
⇒歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈なのだから
⇒PTSD概念がなかった頃の兵士の心的外傷を現在の立場から再発見するのと同じ
・ウクライナ、中東、新トランプ政権の米国、中国と台湾、グローバルサウスの躍進
⇒「あの戦争」後の国際秩序の枠組みは明らかに揺らいできている
⇒まさに2022年末に翌年の展望を問われたタモリが答えていたとおり「新しい戦前」に
・中国ではこれまで戦前の排日運動や蒋介石の対日攻勢に触れることは日本の侵略責任を
相対化することになる、戦争の原因はすべて日本の侵略であり中国人は受け身の被害者である、
という立場だったので、ずっと忌避されていた
⇒だが現在では、これらを中国側の主体的な動きと見る視点が受け入れられている
⇒新資料の発掘に加え中国が経済的・軍事的に台頭していることが影響している
⇒「これだけ積極的な中国人が当時だけ受け身だったとは考えられない」という感覚
・ヨーロッパでは第三世界の台頭で植民地支配の責任問題が問われ始めている
⇒近代日本の歩みやアジア主義の理想には欧米の植民地支配の被害者としての側面もある
⇒それで日本の軍事行動が全面的に正当化されるわけではないが、加害か被害か・正義か悪か、
の二者択一ではない、多角的に再検討する姿勢が求められている(第3章)
・かつて「大東亜」と呼んだ国々の歴史博物館や記念碑は冷戦後のものが多い
⇒それら現在の「大東亜」では日本をどう見てるのか(第4章)、
⇒「あの戦争」はいつ終わるのか(第5章)という問いで、日本の「国民の物語」に向き合う
⇒日本では未だに近代を包括する物語が共有されておらず国立の近現代歴史博物館もない
・過去を糾弾するだけでも賞賛するだけでもなく、小さく否定し大きく肯定する
⇒(国民という枠組みなど幻想とは理解しつつも)国際秩序は国民国家単位で成り立っており、
戦争が国民国家の行為とされる以上、それを抜きに当時の歴史を語るのは現実的ではない
・本書は「あの戦争」を我々の物語として再受容し、表題の究極の問いに答える試み・・・
第1章より
・「日中戦争」は1937年7月7日の盧溝橋(支那事変)から?
・「太平洋戦争」は1941年12月8日の真珠湾から?(実際には1時間前の英領マレー半島上陸から?)
⇒政府が1941年12月12日に対米英戦を「大東亜戦争」とした際に支那事変を含むとした
⇒ところが閣議決定による平時と戦時の区切りは12月8日午前1時30分(給与・刑法上)
⇒今も政府は「先の大戦の戦没者は約310万人(うち軍人・軍属は約230万人)」としているが、
これは1937年7月(支那事変)から起算した戦没者数
・平成天皇や左派の「15年戦争」は1931年9月18日の柳条湖(満州事変)から(加害者の視点)
・林房雄の「東亜百年戦争」は欧米列強の来航(1844~1848)への反撃から(被害者の視点)
・「アジア・太平洋戦争」と「アジア太平洋戦争」と「大東亜戦争」(略)
・第一次世界大戦の陸軍中堅幕僚への衝撃
⇒これからの戦争は総力戦になり資源確保が不可欠になる
⇒関東軍の暴走(日本に独裁者はおらず様々な勢力が加担)
⇒戦後のパリ講和会議での民族自決・ナショナリズム⇒日本の中国権益への不安感も
⇒強硬論で蒋介石の主要都市を攻略占領した
⇒それでも足りない資源が石油やゴムなど⇒南進へ
・東南アジアでは緩衝地帯のタイ以外はフランス・オランダ・米国・英国の植民地だった
⇒1939年9月に第二次世界大戦がはじまった
⇒この機に乗じ南進して資源を確保、蒋介石支援ルートを遮断して日中戦争も解決
⇒参戦していない米国には大きく依存しており対立は避けたかった(が楽観的だった)
・1941年7月に仏領インドシナ南部に進駐(南進の足場確保)
⇒南部の中心サイゴンはバンコク・シンガポール・蘭領インドシナなどへの戦略的な要衝
⇒連合国への直接的な脅威と受け止められた⇒石油の全面禁輸へ
・1941年11月の事実上の最後通牒であるハル・ノート⇒全面撤兵などを要求
⇒第一次世界大戦からの総力戦体制の整備が否定されるに等しい
⇒避けるべきはずの米国との戦争に
⇒司令塔が不在で場当たり的な対外政策だった
・「あの戦争」筆者の考え
⇒形式的なはじまりは1941年12月8日だが、実質的なはじまりは1937年7月7日
(その前には継続的で大規模な軍事衝突がなかったから)
⇒戦争名称としては日中戦争、対米英開戦以降は日中戦争を含め大東亜戦争と呼称する
(大東亜は歴史上の名称として使われており戦争だけ太平洋に置き換える空気支配こそが問題)
⇒原因は黒船来航まで遡ることに賛同する(内在的な論理として理解する)
⇒愚かだった、狂気だった、だけでは有益な教訓は引き出せない
⇒物語の否定ではなく物語の絶え間ない選択が必要
第2章より
・どこが間違っていたかを様々な「IF」から検証(略)
(どれもなるほどと納得できたので目次の小項目から推測して下さいね)
⇒結論的には小林秀雄の「歴史の必然性」になるが、
(歴史とは無数の要因が絡み合って展開するもので過去を変えることはできないが、)
⇒戦争への道を振り返り様々な可能性を考えることで、未来を変えるための努力はできる
第3章より
・当時の理想は単なるプロパガンダだったのか?
⇒日米開戦で「アジアの解放」という聖戦の意義がはっきりしたと多数の知識人が歓喜した
(それまでの日中戦争でいくら聖戦と言われても中国のナショナリズムに対抗して日本の権益を
守ろうとする、弱い者いじめの主張に過ぎず、すっきりしなかった)
⇒脱亜入欧とアジア主義の相克
⇒欧米からの人種的・文化的な差別と朝鮮や台湾での欧米式植民地支配
⇒大東亜新秩序建設のため邪悪な存在(欧米)に立ち向かう正義の開戦
⇒プロパガンダで強調されたにしても、この構図が大多数に支えられていたのではないか
・1905年の日露戦争の勝利
⇒アジアの弱小国が白人帝国に勝利した事実は欧米の植民地支配に苦しむ人々に影響した
・1919年パリ講和会議における国際連盟規約への日本の「人種差別撤廃」内容追加要求
⇒正邪だけでなく米国の日系移民排斥など国益上の動機もあったが強い共感を呼んだ
(結果的には白豪主義のオーストラリア首相ヒューズを中心に英米が反対して否決された)
(日本も支配地域で他民族を差別的に扱っていた事実もあり評価はその間ですべき)
(アフリカ系米国人に当時の日本への共感や期待があったのも事実だが批判もあった)
・1932年3月の満洲国建国では「王道楽土」や「五族協和」だった
⇒1937年7月の日中戦争勃発では「横暴な中国を懲らしめる」になったが、長期化が決定的に
なった同年11月には近衛文麿首相により「東亜新秩序建設」が新しい戦争目的に
⇒いわば付け焼刃的にアジア主義が台頭した
⇒この流れで登場したのが日本書紀で神武天皇の言葉とされる「八紘一(為)宇」(略)
・1942年1月21日の東条英機首相の衆議院本会議演説
⇒大東亜共栄圏の建設とは日本を中心に道義的秩序の形成を目指すもの⇒八紘一宇
・1943年11月の大東亜会議における共同宣言
⇒日本・中華民国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(陪席)による
(ベトナム・カンボジア・ラオス・マレーシア・インドネシアに該当する地域は直接支配していた)
⇒共存共栄、独立親和、文化高揚、経済繁栄、人種差別撤廃による世界貢献の五原則
⇒戦局の悪化で形式的にせよ占領地に独立や自主性を与える方針になったもの
⇒大東亜政略指導大綱では逆にアジア諸民族を日本に従属させる構造になっている
・過酷な植民地支配や占領統治の事実を率直に認めたうえで、世界に先駆け人種差別撤廃を
国際連盟に提案しアジアで共同宣言した日本として、外国人差別・人種差別に反対すべき
⇒このアジア主義こそ新たな「国民の物語」ではないか・・・
第4章より
・東条英機の外遊ルート1943
南京・上海・新京(長春)・奉天(潘陽)・マニラ・サイゴン(ホーチミン)・バンコク・シンガポール・
パレンバン・ジャカルタ・クチン・ラブアン・(日本領だった)京城(ソウル)・台北・高雄
⇒そのすべてを巡って東条の大東亜外交がどう評価されているかを確認した(内容は略)
・シンガポール⇒ディスカバリーセンターとフォード旧工場で
・ジャカルタ⇒国家記念塔モナス地下の51のジオラマで
・パレンバン⇒製油所内よりも戦争賠償のアンペラ橋で
・クチン⇒ボルネオ守備隊の司令官官邸となった旧王宮アスタナと対岸の司令部となった
裁判所と増設されたジャパニーズ・ビルディングとマレーシア最大のボルネオ文化博物館で
・ラブアン島⇒ヴィクトリアのラブアン歴史博物館とその前庭にある司令官・前田大将記念碑と
マレーシア最大の戦争記念墓地で英豪兵3908名が眠るラブアン第二次世界大戦墓地で
・バンコク⇒ドンムアン空港北にあるナショナルメモリアル併設の軍事博物館とアユタヤ⇒
日本人村公園にある歴史研究センター別館で
・新京(長春)⇒満州国皇帝溥儀の宮殿跡である偽満皇宮博物院で
・奉天(潘陽)⇒柳条湖事件(満州事変)の現場近くにある9.18歴史博物館で
・南京⇒2017年にリニューアルされた大虐殺記念館と、もと国民政府外交部(外務省)庁舎⇒
支那派遣軍総司令部⇒現在は江蘇省人民常務委員会庁舎で
・マニラ⇒マニラ市街戦では10万人以上の市民、フィリピン全体では100万人以上が犠牲に
⇒なのでモニュメントや歴史解説は数多い⇒「許そう、だが忘れない」⇒和解の道へ
⇒2024年11月、宮崎駿監督がアジアのノーベル賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞を
受賞した際、2016年の天皇皇后のマニラ訪問時の哀悼に触れ「多くの民間人を殺害したことを
日本人は忘れてはならないのです、その事実はいつまでも残ります」と発言した
⇒この発言は戦争をめぐる記憶のあり方として、ひとつの模範的なかたちといえる
⇒被害を受けた側が「許そう、だが忘れない」という物語を紡いでいるときに、加害側が
「忘れた」と応じてしまえば和解の前提が成り立たない
⇒「知らなかった」ではなく「忘れない」と応じて共有し、その後に知ればよい
(フィリピン、ベトナム、台湾などについては前著「ルポ国威発揚」を参照)
⇒若い国家では「国民の物語」を構築しやすいが日本ではどうか
第5章より
・「あの戦争」はいつ歴史の出来事として「終わった」といえるのか
⇒国立歴史民俗博物館は2010年に現代をテーマとする第6展示室を新設したが「あの戦争」に
関する展示は驚くほどあっさりしている⇒まだ社会的合意が形成されていないから
⇒国立昭和館も展示の中心は戦時下の国民生活で多角的な視点がない⇒同様だから
・明確な歴史観を提示しているのは靖国神社の遊就館
⇒靖国史観は日本の行動を正当化・美化したものと思われやすいが「受け身史観」
⇒すべては自国を守るためのやむを得ない消極的な行動であったという史観
⇒明治期から第一次世界大戦までは説得力があるが、それ以降は単なる被害者ではない
⇒支援者の主流の保守派といっても親米から反米まであり歴史観も多様で一枚岩ではない
⇒民間の博物館なので自由だが日本の戦争博物館とされており、指摘による見直しもある
・靖国史観とは異なるのが東京大空襲・戦災資料センターの工夫
⇒日本も含む世界的な空襲の歴史を踏まえたうえでの東京・広島・長崎で被害者史観ではない
・国立アメリカ歴史博物館
⇒日本に関する説明には無理があるが・・・
(「悪者」の主語がヒトラー・ムッソリーニに較べ(司令塔不在で)東条から二転三転している)
⇒日系人12万人強制収容の負の歴史も原爆投下の両論もある⇒全肯定に傾かない展示
(ただしトランプ政権によるD多様性E公平性I包括性の見直しで変わる可能性もある)
・「あの戦争」は記憶の風化で終わるか、新たな戦争などで上書きされて終わるか
⇒どちらも希望のない終わり方
⇒だが「あの戦争」は政治的・経済的・軍事的に日本の黄金時代だった昭和の一大イベント
⇒さらに明治以降の近代国家建国史の総決算で歴史から消え去るとは想像しがたい
・近代日本の歩みを欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、
逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない
⇒国立博物館では基本的に自国の歩みを肯定し過ちや課題も正直に記して65点ぐらいで
・さらに肯定する立場なら、日本が列強の一員として主要な役割を果たしてきたこと、
その主体であり他者に影響を与える存在であったこと、その影響には肯定的な面も否定的な面も
存在したこと、その全体を引き受けるのが主体性であることを理解したうえで、日本は近代の
主人公の一人という自覚を持ってやればよい
(大東亜の理想に普遍性があるなら、それがどこで破綻し、どのような問題を生んだかを示し、
理想と現実の乖離を描くことで、理想の真価が際立つ)
・国立の歴史博物館は政府の立場になり中立には限界がある
⇒民間の博物館では右も左もあってよい
⇒この二重構造が歴史のあるべき姿と考えて私人としてこの本を記した
・「あの戦争」は日本の近現代史の流れの中で位置づけて、はじめて全体像が立ち上がる
⇒その視点に立つことで過剰な肯定にも否定にもならず落ち着くのではないか・・・
おわりにより
・小林秀雄の「歴史は因果の鎖ではなく愛惜の念により、はじめて意味を持つ」
⇒歴史に関心を抱くのは一個の主体が存在し、その主体に動機があるから
⇒かつての動機は多くに共有された戦争体験で、誰もが昭和史に関心を抱いた
⇒では、その共有体験が失われた今は歴史に無関心になったか
⇒エンタメやフィクションの物語で血の通った個々の人生に結びついてくる
・情念のない教科書形式の歴史ほど退屈な世界はない
⇒歴史は解釈であり現在の興味関心や価値観によってつねにかたちを変える
⇒本書もトランプ政権の再登場などで目次や内容がたびたび見直された・・・
・・・・・・
つーことで・・・
日本がこれまでの国際秩序が揺れ動く今の世界情勢の中で、どの方向に向かうべきかを考える
にあたっては、「あの戦争」を見返す必要があることだけは間違いないでしょう
最後に巻末にあった主要参考文献もメモしておきます
そう、わたくしに残された時間でこれだけ読めば・・・って、もう無理かな・・・




辻田真佐憲著~「あの戦争」は何だったのか~であります
わたくしが「ホノルルの休日」から2月末に帰国して最初に読みはじめていた本で、たまたま
アメリカとイスラエルによるイラン攻撃の開始時期と重なってて、まさに「あの戦争」後の
世界の仕組みが崩れていく現状を予測しているかのような内容で驚いています
あらためての著者紹介

著者の本は何冊か紹介してるので著者名などで「当サイトの記事検索」をご利用ください
奥付

2025年7月の発行なので第2次トランプ政権発足後の世界情勢までは反映されてました
目次


この著者の目次は内容を簡潔にまとめてあるので、目次だけでも概要がわかりますが、
今回も視点が比較的まともだと感じました
(以下てきとー読書メモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開にします)
はじめにより
・「あの戦争」はなぜ起きたのか?と、よく問われるが、
⇒日本が米国の石油禁輸で追い詰められたから、というのが一般的な答えだろう
⇒では、なぜ石油が禁輸されたのか
⇒日本が仏領インドシナまで進駐したから
⇒では、なぜ進駐したのか、軍を引き上げればよかったのか
⇒そんな単純な問題ではなく・・・と芋づる式に関連事項がつながり時間がかかる
・そもそも、「あの戦争」とは何を指すのか?
⇒大東亜戦争?太平洋戦争?十五年戦争?アジア太平洋戦争?第二次世界大戦?
・いつ始まったのか(第1章)、どこで間違ったのか(第2章)などから「何だったか」の核心に迫る
⇒歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈なのだから
⇒PTSD概念がなかった頃の兵士の心的外傷を現在の立場から再発見するのと同じ
・ウクライナ、中東、新トランプ政権の米国、中国と台湾、グローバルサウスの躍進
⇒「あの戦争」後の国際秩序の枠組みは明らかに揺らいできている
⇒まさに2022年末に翌年の展望を問われたタモリが答えていたとおり「新しい戦前」に
・中国ではこれまで戦前の排日運動や蒋介石の対日攻勢に触れることは日本の侵略責任を
相対化することになる、戦争の原因はすべて日本の侵略であり中国人は受け身の被害者である、
という立場だったので、ずっと忌避されていた
⇒だが現在では、これらを中国側の主体的な動きと見る視点が受け入れられている
⇒新資料の発掘に加え中国が経済的・軍事的に台頭していることが影響している
⇒「これだけ積極的な中国人が当時だけ受け身だったとは考えられない」という感覚
・ヨーロッパでは第三世界の台頭で植民地支配の責任問題が問われ始めている
⇒近代日本の歩みやアジア主義の理想には欧米の植民地支配の被害者としての側面もある
⇒それで日本の軍事行動が全面的に正当化されるわけではないが、加害か被害か・正義か悪か、
の二者択一ではない、多角的に再検討する姿勢が求められている(第3章)
・かつて「大東亜」と呼んだ国々の歴史博物館や記念碑は冷戦後のものが多い
⇒それら現在の「大東亜」では日本をどう見てるのか(第4章)、
⇒「あの戦争」はいつ終わるのか(第5章)という問いで、日本の「国民の物語」に向き合う
⇒日本では未だに近代を包括する物語が共有されておらず国立の近現代歴史博物館もない
・過去を糾弾するだけでも賞賛するだけでもなく、小さく否定し大きく肯定する
⇒(国民という枠組みなど幻想とは理解しつつも)国際秩序は国民国家単位で成り立っており、
戦争が国民国家の行為とされる以上、それを抜きに当時の歴史を語るのは現実的ではない
・本書は「あの戦争」を我々の物語として再受容し、表題の究極の問いに答える試み・・・
第1章より
・「日中戦争」は1937年7月7日の盧溝橋(支那事変)から?
・「太平洋戦争」は1941年12月8日の真珠湾から?(実際には1時間前の英領マレー半島上陸から?)
⇒政府が1941年12月12日に対米英戦を「大東亜戦争」とした際に支那事変を含むとした
⇒ところが閣議決定による平時と戦時の区切りは12月8日午前1時30分(給与・刑法上)
⇒今も政府は「先の大戦の戦没者は約310万人(うち軍人・軍属は約230万人)」としているが、
これは1937年7月(支那事変)から起算した戦没者数
・平成天皇や左派の「15年戦争」は1931年9月18日の柳条湖(満州事変)から(加害者の視点)
・林房雄の「東亜百年戦争」は欧米列強の来航(1844~1848)への反撃から(被害者の視点)
・「アジア・太平洋戦争」と「アジア太平洋戦争」と「大東亜戦争」(略)
・第一次世界大戦の陸軍中堅幕僚への衝撃
⇒これからの戦争は総力戦になり資源確保が不可欠になる
⇒関東軍の暴走(日本に独裁者はおらず様々な勢力が加担)
⇒戦後のパリ講和会議での民族自決・ナショナリズム⇒日本の中国権益への不安感も
⇒強硬論で蒋介石の主要都市を攻略占領した
⇒それでも足りない資源が石油やゴムなど⇒南進へ
・東南アジアでは緩衝地帯のタイ以外はフランス・オランダ・米国・英国の植民地だった
⇒1939年9月に第二次世界大戦がはじまった
⇒この機に乗じ南進して資源を確保、蒋介石支援ルートを遮断して日中戦争も解決
⇒参戦していない米国には大きく依存しており対立は避けたかった(が楽観的だった)
・1941年7月に仏領インドシナ南部に進駐(南進の足場確保)
⇒南部の中心サイゴンはバンコク・シンガポール・蘭領インドシナなどへの戦略的な要衝
⇒連合国への直接的な脅威と受け止められた⇒石油の全面禁輸へ
・1941年11月の事実上の最後通牒であるハル・ノート⇒全面撤兵などを要求
⇒第一次世界大戦からの総力戦体制の整備が否定されるに等しい
⇒避けるべきはずの米国との戦争に
⇒司令塔が不在で場当たり的な対外政策だった
・「あの戦争」筆者の考え
⇒形式的なはじまりは1941年12月8日だが、実質的なはじまりは1937年7月7日
(その前には継続的で大規模な軍事衝突がなかったから)
⇒戦争名称としては日中戦争、対米英開戦以降は日中戦争を含め大東亜戦争と呼称する
(大東亜は歴史上の名称として使われており戦争だけ太平洋に置き換える空気支配こそが問題)
⇒原因は黒船来航まで遡ることに賛同する(内在的な論理として理解する)
⇒愚かだった、狂気だった、だけでは有益な教訓は引き出せない
⇒物語の否定ではなく物語の絶え間ない選択が必要
第2章より
・どこが間違っていたかを様々な「IF」から検証(略)
(どれもなるほどと納得できたので目次の小項目から推測して下さいね)
⇒結論的には小林秀雄の「歴史の必然性」になるが、
(歴史とは無数の要因が絡み合って展開するもので過去を変えることはできないが、)
⇒戦争への道を振り返り様々な可能性を考えることで、未来を変えるための努力はできる
第3章より
・当時の理想は単なるプロパガンダだったのか?
⇒日米開戦で「アジアの解放」という聖戦の意義がはっきりしたと多数の知識人が歓喜した
(それまでの日中戦争でいくら聖戦と言われても中国のナショナリズムに対抗して日本の権益を
守ろうとする、弱い者いじめの主張に過ぎず、すっきりしなかった)
⇒脱亜入欧とアジア主義の相克
⇒欧米からの人種的・文化的な差別と朝鮮や台湾での欧米式植民地支配
⇒大東亜新秩序建設のため邪悪な存在(欧米)に立ち向かう正義の開戦
⇒プロパガンダで強調されたにしても、この構図が大多数に支えられていたのではないか
・1905年の日露戦争の勝利
⇒アジアの弱小国が白人帝国に勝利した事実は欧米の植民地支配に苦しむ人々に影響した
・1919年パリ講和会議における国際連盟規約への日本の「人種差別撤廃」内容追加要求
⇒正邪だけでなく米国の日系移民排斥など国益上の動機もあったが強い共感を呼んだ
(結果的には白豪主義のオーストラリア首相ヒューズを中心に英米が反対して否決された)
(日本も支配地域で他民族を差別的に扱っていた事実もあり評価はその間ですべき)
(アフリカ系米国人に当時の日本への共感や期待があったのも事実だが批判もあった)
・1932年3月の満洲国建国では「王道楽土」や「五族協和」だった
⇒1937年7月の日中戦争勃発では「横暴な中国を懲らしめる」になったが、長期化が決定的に
なった同年11月には近衛文麿首相により「東亜新秩序建設」が新しい戦争目的に
⇒いわば付け焼刃的にアジア主義が台頭した
⇒この流れで登場したのが日本書紀で神武天皇の言葉とされる「八紘一(為)宇」(略)
・1942年1月21日の東条英機首相の衆議院本会議演説
⇒大東亜共栄圏の建設とは日本を中心に道義的秩序の形成を目指すもの⇒八紘一宇
・1943年11月の大東亜会議における共同宣言
⇒日本・中華民国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(陪席)による
(ベトナム・カンボジア・ラオス・マレーシア・インドネシアに該当する地域は直接支配していた)
⇒共存共栄、独立親和、文化高揚、経済繁栄、人種差別撤廃による世界貢献の五原則
⇒戦局の悪化で形式的にせよ占領地に独立や自主性を与える方針になったもの
⇒大東亜政略指導大綱では逆にアジア諸民族を日本に従属させる構造になっている
・過酷な植民地支配や占領統治の事実を率直に認めたうえで、世界に先駆け人種差別撤廃を
国際連盟に提案しアジアで共同宣言した日本として、外国人差別・人種差別に反対すべき
⇒このアジア主義こそ新たな「国民の物語」ではないか・・・
第4章より
・東条英機の外遊ルート1943
南京・上海・新京(長春)・奉天(潘陽)・マニラ・サイゴン(ホーチミン)・バンコク・シンガポール・
パレンバン・ジャカルタ・クチン・ラブアン・(日本領だった)京城(ソウル)・台北・高雄
⇒そのすべてを巡って東条の大東亜外交がどう評価されているかを確認した(内容は略)
・シンガポール⇒ディスカバリーセンターとフォード旧工場で
・ジャカルタ⇒国家記念塔モナス地下の51のジオラマで
・パレンバン⇒製油所内よりも戦争賠償のアンペラ橋で
・クチン⇒ボルネオ守備隊の司令官官邸となった旧王宮アスタナと対岸の司令部となった
裁判所と増設されたジャパニーズ・ビルディングとマレーシア最大のボルネオ文化博物館で
・ラブアン島⇒ヴィクトリアのラブアン歴史博物館とその前庭にある司令官・前田大将記念碑と
マレーシア最大の戦争記念墓地で英豪兵3908名が眠るラブアン第二次世界大戦墓地で
・バンコク⇒ドンムアン空港北にあるナショナルメモリアル併設の軍事博物館とアユタヤ⇒
日本人村公園にある歴史研究センター別館で
・新京(長春)⇒満州国皇帝溥儀の宮殿跡である偽満皇宮博物院で
・奉天(潘陽)⇒柳条湖事件(満州事変)の現場近くにある9.18歴史博物館で
・南京⇒2017年にリニューアルされた大虐殺記念館と、もと国民政府外交部(外務省)庁舎⇒
支那派遣軍総司令部⇒現在は江蘇省人民常務委員会庁舎で
・マニラ⇒マニラ市街戦では10万人以上の市民、フィリピン全体では100万人以上が犠牲に
⇒なのでモニュメントや歴史解説は数多い⇒「許そう、だが忘れない」⇒和解の道へ
⇒2024年11月、宮崎駿監督がアジアのノーベル賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞を
受賞した際、2016年の天皇皇后のマニラ訪問時の哀悼に触れ「多くの民間人を殺害したことを
日本人は忘れてはならないのです、その事実はいつまでも残ります」と発言した
⇒この発言は戦争をめぐる記憶のあり方として、ひとつの模範的なかたちといえる
⇒被害を受けた側が「許そう、だが忘れない」という物語を紡いでいるときに、加害側が
「忘れた」と応じてしまえば和解の前提が成り立たない
⇒「知らなかった」ではなく「忘れない」と応じて共有し、その後に知ればよい
(フィリピン、ベトナム、台湾などについては前著「ルポ国威発揚」を参照)
⇒若い国家では「国民の物語」を構築しやすいが日本ではどうか
第5章より
・「あの戦争」はいつ歴史の出来事として「終わった」といえるのか
⇒国立歴史民俗博物館は2010年に現代をテーマとする第6展示室を新設したが「あの戦争」に
関する展示は驚くほどあっさりしている⇒まだ社会的合意が形成されていないから
⇒国立昭和館も展示の中心は戦時下の国民生活で多角的な視点がない⇒同様だから
・明確な歴史観を提示しているのは靖国神社の遊就館
⇒靖国史観は日本の行動を正当化・美化したものと思われやすいが「受け身史観」
⇒すべては自国を守るためのやむを得ない消極的な行動であったという史観
⇒明治期から第一次世界大戦までは説得力があるが、それ以降は単なる被害者ではない
⇒支援者の主流の保守派といっても親米から反米まであり歴史観も多様で一枚岩ではない
⇒民間の博物館なので自由だが日本の戦争博物館とされており、指摘による見直しもある
・靖国史観とは異なるのが東京大空襲・戦災資料センターの工夫
⇒日本も含む世界的な空襲の歴史を踏まえたうえでの東京・広島・長崎で被害者史観ではない
・国立アメリカ歴史博物館
⇒日本に関する説明には無理があるが・・・
(「悪者」の主語がヒトラー・ムッソリーニに較べ(司令塔不在で)東条から二転三転している)
⇒日系人12万人強制収容の負の歴史も原爆投下の両論もある⇒全肯定に傾かない展示
(ただしトランプ政権によるD多様性E公平性I包括性の見直しで変わる可能性もある)
・「あの戦争」は記憶の風化で終わるか、新たな戦争などで上書きされて終わるか
⇒どちらも希望のない終わり方
⇒だが「あの戦争」は政治的・経済的・軍事的に日本の黄金時代だった昭和の一大イベント
⇒さらに明治以降の近代国家建国史の総決算で歴史から消え去るとは想像しがたい
・近代日本の歩みを欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、
逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない
⇒国立博物館では基本的に自国の歩みを肯定し過ちや課題も正直に記して65点ぐらいで
・さらに肯定する立場なら、日本が列強の一員として主要な役割を果たしてきたこと、
その主体であり他者に影響を与える存在であったこと、その影響には肯定的な面も否定的な面も
存在したこと、その全体を引き受けるのが主体性であることを理解したうえで、日本は近代の
主人公の一人という自覚を持ってやればよい
(大東亜の理想に普遍性があるなら、それがどこで破綻し、どのような問題を生んだかを示し、
理想と現実の乖離を描くことで、理想の真価が際立つ)
・国立の歴史博物館は政府の立場になり中立には限界がある
⇒民間の博物館では右も左もあってよい
⇒この二重構造が歴史のあるべき姿と考えて私人としてこの本を記した
・「あの戦争」は日本の近現代史の流れの中で位置づけて、はじめて全体像が立ち上がる
⇒その視点に立つことで過剰な肯定にも否定にもならず落ち着くのではないか・・・
おわりにより
・小林秀雄の「歴史は因果の鎖ではなく愛惜の念により、はじめて意味を持つ」
⇒歴史に関心を抱くのは一個の主体が存在し、その主体に動機があるから
⇒かつての動機は多くに共有された戦争体験で、誰もが昭和史に関心を抱いた
⇒では、その共有体験が失われた今は歴史に無関心になったか
⇒エンタメやフィクションの物語で血の通った個々の人生に結びついてくる
・情念のない教科書形式の歴史ほど退屈な世界はない
⇒歴史は解釈であり現在の興味関心や価値観によってつねにかたちを変える
⇒本書もトランプ政権の再登場などで目次や内容がたびたび見直された・・・
・・・・・・
つーことで・・・
日本がこれまでの国際秩序が揺れ動く今の世界情勢の中で、どの方向に向かうべきかを考える
にあたっては、「あの戦争」を見返す必要があることだけは間違いないでしょう
最後に巻末にあった主要参考文献もメモしておきます
そう、わたくしに残された時間でこれだけ読めば・・・って、もう無理かな・・・




2026年04月10日
世界のお弁当とソトごはん
ほぼ一週間ぶりの記事更新であります
なぜか画像が転んだままですが・・・

岡根谷実里著「世界のお弁当とソトごはん」とゆー本が面白かったのでご紹介
著者紹介と奥付・・・もなぜか転んだままですが・・・

著者の本は以前にも紹介してますが視点が面白く、他にも何冊か読んでてオススメです
目次


目次を眺めるだけでも腹が減ってきます
この本で訪れた国々・・・

わたくし前回記事のお花見宴会はもちろん、アウトドア飯もお弁当もソトごはんも、ついでに
キャンプで食べるBBQも鍋物も大好きなので・・・
本書の世界もじつに興味深く楽しめました
以下、てきとーな読書メモです(が著作物なので公開に問題があれば非公開にします)
第1章より
・フィンランド(東部サヴォ地方の一家)
⇒森歩きは夏も冬も素晴らしい⇒「悪い天気はない、間違った服装があるだけ」
⇒森仕事で食べるカラクッコ(略)は密閉されてて日持ちし皿も不要でナイフ1本で食べられる
⇒今は無償の温かい学校給食があり大人には安くて充実した街の食堂がある
・ブータン(首都ティンプーの市場)
⇒市場では古い天秤量りで量り売りしてるが、その支払いはスマホ決済用QRコードで!!!
⇒お弁当は市場で働く人の多くが「象印ランチジャー」の特大サイズだった
⇒エマ(唐辛子)とダツィ(チーズ)を煮込んだエマダツィ(略)を基本にした何かと大量のご飯
⇒エマダツィは完全に冷めるとチーズの油脂が固まるので温かい方がおいしいから
(探していたパンチュンという美しい竹籠の弁当箱は今はお菓子や小物入れに使われていた)
・オランダ(ライデンでの留学生活)
⇒アジアでは外食は日常的だがヨーロッパでは「ハレのもの」で高い
⇒学生も勤め人も昼食には簡素なチーズサンドを持参している
⇒プロセスチーズで育った私にはオランダで標準的なゴーダチーズのサンドはおいしいのだが、
誰もおいしいとは言わず飾り気もなく「燃料」扱い、それでも誰も飽きることはない
・パプアニューギニア(高地の山中の一家)
⇒高地では週に3日はイモとバナナ、2日はサゴヤシ澱粉、2日は市販のコメ、といった感じ
⇒それなのに6歳の少女でも驚くべき体幹と筋力を持ち、急斜面の畑で働いていた
⇒同行した低地出身者は、村では川魚とサゴヤシ澱粉で暮らせるから、こんな大変な畑仕事は
したことがないし、とてもできないと言っていた
⇒新しい焼畑には昼に弁当を届けみんなで食べるが内容は同じ(コメが一番人気だった)
・モンゴル(ズンハラから馬で1時間の草原の一家)
⇒夏は一番忙しい時期で子どもたちも学校の寮から帰って手伝う
⇒朝5時から前日に加熱し夜に水分を抜いていたチーズを糸でカットして天日干しに
⇒ウシとヤギとヒツジの搾乳作業
⇒その後に生乳の加熱・加工作業
⇒パンと乳製品の簡単な朝食
⇒男はウマの搾乳に、女は加工作業の続き
⇒アーロール(乾燥チーズ)・ボルソック(四角い揚げパン)・朝のミルクティーで2時のおやつ
(アーロールとボルソックは日持ちし作業の合間にも食べる高カロリーの携帯食・保存食で、
原料は毎日搾れる五畜の乳と小麦粉と油だけなので原料保管用の冷蔵庫も不要)
⇒午後も作業が続き日没前に干し肉と雑穀を煮たスープで(はじめての温かい)夕食
⇒夕食後も夜の搾乳作業が続く
・ノルウェー(スカンジナビア半島の北端カラショクの町はずれの一家)
⇒マイナス30度の世界では「凍らない弁当」が必要
⇒普段の寒さならダウンジャケットや動きやすい化学繊維だが、さらに寒いとトナカイの毛皮
⇒遠出の際にはトナカイコートのポケットにトナカイの干し肉(水分が少なく凍りにくい)を入れ
ナイフで削って食べる⇒塩気が強いので火が熾せるなら削ってスープにする
(先住民サーミ人も子どもの弁当はオスロと同じ「マートパッケ(伝統的なサンドイッチ)」に)
第2章より
・インドネシア(バリ島のビーチから外れた静かな村の一家)
⇒一日分作った朝食で余った分のおかずをガラス棚に入れ各自が弁当に詰めるシステム
⇒夕食は残ったおかずに簡単な一品を足すぐらい
⇒空いた時間は神様へのお供え花チャナン作りや寺院での踊りやガムランの稽古
⇒観光で豊かになり信仰や伝統が薄れるのではなく、逆に供物や祭りが豪華になっている
⇒昔は神様のいる火と水は数か所だったが今はガス台やウォーターサーバーもあるので多い
・トンガ(ヴァヴァウ島の村の大家族一家)
⇒伝統的な食文化は海で獲る魚・畑のイモ・生えているココナッツの実
⇒どれも貯蔵の必要がなく、いつでも入手できるので、みんなのんびりしている
(ビーチで網を入れ魚を獲るのさえめんどうだとサバ缶が大活躍している)
⇒シェア文化が徹底しており昼の弁当だけでなく安価で高脂質なスナックも子どもの頃から
分け合うので???肥満率77.1%は世界トップクラス(もともと遺伝的に体格も大きい)
・インド(南部タミルナドゥ州ニルギリ丘陵地域イルラ民族の一家とポンディシェリの一家)
⇒サンバル(スパイススープ)とチャパティとご飯の基本はほぼ同じでも、
⇒食べられる食材は同じヒンドゥー教徒の中でも異なりカーストでも民族でも地域でも異なる
⇒多様な食の要求に応えるためティフィン・ダッバー(三段ステンレス弁当箱)で、それぞれの
家から手作り弁当を届けるダッバー・ワーラーがムンバイで発達した
⇒他の地域でも惣菜の持ち帰りなどに大型が使われている
・ボツワナ
⇒首都ハボローネのビジネス街の昼だけの弁当屋(小150円大200円でも収入からは高い)
⇒主食(トウモロコシ練り粥やライスなど4種類から一品)・メイン(焼きチキンや煮込みビーフなど
3種類から一品)・野菜(炒め物、煮物、サラダなど5種類から好きなだけ)を選ぶ仕組み
⇒ただし、どれも家庭と同じものなのに、なぜ家から安い弁当を持ってこないのか?
⇒練り粥もインディカ米ライスも冷めると澱粉が老化するし気候的にも傷みやすいから
・ヨルダン(ワディ・ラム沙漠の四角いテントに住むベドウィン一家)
⇒ラクダが「砂漠の船」でナツメヤシが「生命の樹」の理由
⇒ラクダは沙漠を移動中でもミルクが搾れ、ナツメヤシはオアシスだけに生える木で、
実のデーツは収穫乾燥せずとも水分が抜けて、そのままドライフルーツになる
⇒どちらも砂漠を移動するのに不可欠の携行食だったから
・台湾
⇒世界でも有数の外食文化があり、温かい食事が基本
⇒職場でも学校でも昼食の弁当は近くで温かい弁当を買っている
⇒家から弁当を持参することはまずないので職場にも学校にも電子レンジはない
⇒基本の弁当はご飯の上に副菜の炒め野菜が1~2種類、その上に肉などの主菜がどーん
⇒「台湾鉄道の本業は弁当」と冗談を言われるほど台湾の駅弁は人気(略)
⇒台北で人気があるのはビュッフェ形式の「自助餐」(略)
(多くの品数から選べて安く持ち帰りもできるので昼食にも夕食にも利用されている)
⇒台湾語で弁当は「便當」だが今では日本の弁当とは意味が異なってきている
(昔の飯包が日本統治時代に便當になったが、)
⇒今では「ご飯と副菜と主菜のある「完全な食事」が箱に入ったテイクアウト品」が便當で、
麺など単品のテイクアウト品は便當とは言わないし、家から持っていく弁当のイメージもない
⇒惣菜店でも食堂でもテイクアウトメニューには品名(単品)と品名便當(ご飯と副菜入り)が
あり、便當は単品の倍の値段とかになっている(略)
・韓国
⇒小中高まで無償完全給食で内容も充実している(寮生活では一日3食)
⇒ただし遠足などでは弁当持参だがメニューはキンパ(韓国海苔巻き)が定番(略)
⇒韓国最大の弁当チェーンには広いイートインスペースがありインスタント麺と弁当が定番
⇒台湾とは対照的にコンビニ弁当も日本と同じ仕切りの多い弁当箱(小鉢料理の伝統から?)
⇒家から弁当を持参する人はいなくなったが昔のアルミ弁当箱がイカ・ゲームから流行中
(アルミ弁当箱をよく振ってご飯とおかずを混ぜて食べる⇒ビビンパの伝統から?)
第3章より
・ポーランド(シロンスク地方の親友夫婦)
⇒実家の庭での焚き火料理
⇒専用の「三本脚付き鋳物鍋」に様々な野菜類や肉類を入れ密閉して焚き火へ
⇒マシュマロやソーセージを焼きながら1時間ほどで焚火による圧力調理が完成(略)
⇒この地方は製鉄が盛んで、この焚き火専用の鋳物鍋も近くで作られたもの
・フィンランド(ヘルシンキ郊外の街に住む一家)
⇒日本のキャンプ飯の進化が凄いが、フィンランドのアウトドア飯はその逆をいくもの
⇒サウナ小屋と湖の往復の後には焚火台でマッカラ(大ぶりのソーセージ)を焼くだけ
⇒焚火台には焼き網もあり他のBBQもできるのに誰もがマッカラだけで満足している
⇒しかも使われるマッカラは自家製とかではなく普通のスーパーのパック品
⇒向うのベンチに座ってる海パン1枚のおじさんはビール片手にマッカラにかぶりついて、
満面の笑みを浮かべている
⇒もう、これ以上の幸せがあるかと、こっちが幸せな気持ちになる(わかるなあ
)
⇒別の家族のサマーコテージでも同じくマッカラだけだった(冬の自宅でも暖炉で焼いてたが)
⇒国立公園内にも焼き網付き焚火台があり「マッカラのために木の皮を剥ぐのは禁止」と
明記されており、それほどマッカラへの執着は強い
⇒サウナでも森でも湖でも焚火でマッカラだけなのはなぜか・・・
自然があまりにも美しく、それを存分に楽しめる夏があまりにも短いから
⇒料理を考えるなんてもったいない、これで十分だと・・・
(フィンランドの生活満足度が世界一高いのは「これで十分」を知っているから?)
⇒アウトドアアクティビティに事欠かないフィンランドらしい、アウトドアご飯の楽しみ方の
心構えを教えられた気がする
(わたくしも、日本のキャンプは殆どが1泊か2泊なんだから「これで十分」の心構えで???
ホントは作るのがめんどーで???いつもシンプルな焼き肉と鍋だけです
)
・ペルー(クスコから車で2時間の高地オクラ村の一家)
⇒ペルーはジャガイモの原産地で数千種類あると言われている
⇒訪問した6月は収穫期で畑で堀りたて各種をワティア(土焼き芋)にして食べた(略)
⇒仕事終わりに枯草混じりの土を被せておけば翌日も土焼き芋ができるので畑への弁当は不要
⇒芋は洗わず調理でき鍋も水も食器も不要で、余ればポケットに入れて持ち帰れる
⇒標高4000mで米を炊けば(88度で沸騰するので)芯が残るが芋なら60度前後で澱粉が固化する
⇒インカ帝国の繫栄もジャガイモがなければ成り立たなかったはず
・ヨルダン(ワディ・ラム沙漠の四角いテントに住むベドウィン一家)
⇒砂漠で枯れた小枝を集めて焚き火をして砂を熱し、灰を丁寧に崩して平らにする
⇒その上に鍋で水と塩で練った小麦粉を丸く伸ばし、上に熱い砂と灰を被せる
⇒15分ほどでひっくり返し、さらに10分ほどでパン(アルブード)が完成する(略)
⇒枯草の上に置き棒で叩いて灰と砂を落とし、こすって焦げを落として手で割って食べる
⇒これがオーブンも窯も使わない砂漠のパンの焼き方
・ウズベキスタン(サマルカンドの一家)
⇒大学生たちとバスで1時間ほどの郊外にある「ピクニック場」に行った
⇒森の中に一段高く整地したピクニック場があり、そこへ各自が持参した絨毯を広げる
⇒ドラム缶を切ったような窯が設置されており巨大中華鍋のようなカザンで女子が調理する
⇒大量の油にジャガイモ、牛肉と入れるが盛大に油が飛び散る⇒屋外でしかできない料理
⇒カザン(鍋)で作るカバブ(肉料理)なのでカザンカバブ(略)
(タンドール窯で焼くタンドールチキンと同じか)
⇒大皿に盛り、作ったサラダと持参したパンと自家製コンポートの瓶詰で食べた
⇒絨毯も食器もフォークもふだん家で使っているものを持参していた
⇒帰宅後の夕食は牛肉とジャガイモの煮物でおいしかったが、あの豪快に油を飛ばした
アウトドア飯とは全くの別物で、帰国後にも真似してみたが遠く及ばなかった
・インド(ミャンマーとの国境に接するナガランド州に多いアジア系の一家)
⇒街から車で30分の「ファーム」へ
⇒畑以外に動物エリアも宿泊小屋もあり「ファームステイ」も考えて開発中とのこと
⇒川魚に乾燥唐辛子・粉唐辛子・発酵タケノコ・バナナのつぼみなどをまぶし青唐辛子も
⇒裏の竹林で採ってきた1mほどの竹3本に詰めてバナナの葉で栓をする
⇒焚火の囲炉裏に立てかけ2時間で「ポンセン」が完成(略)
(竹の水分で蒸し焼きになるので水は不要)
⇒手でご飯と混ぜて食べるが、ナガ人はキリスト教なので左利きの人は左手で食べる
(留学生のお弁当⇒6人6地域6種類⇒略)
(世界で進化する日本のおにぎり)
⇒動画で見るコンビニ三角おにぎりが日本のイメージになっており最近は海苔巻きも多い
⇒ただし米にも味が付いてて米粒がやわらかくてつぶれている
⇒米自体を味わう感覚はなく具材のクッションのイメージ
⇒帰国してセブンイレブンのおにぎりの凛とした粒立ちに息を吞んだ
⇒世界各地のおにぎりは食べ応えもバリエーションもあって好きだが、それらに出会うにつけ、
日本人の米自体のおいしさに対する執着に向き合わされる
(日本で作る世界のお弁当レシピ5種類⇒略)
・・・・・・
わたくしが本書で紹介されてた国や地域で訪れたことがあるのはモンゴルの草原だけで、
15年前にゲルに暮らすご一家を家庭訪問、アーロール(乾燥チーズ)やボルソック(揚げパン)と
バター入りミルクティーで歓迎していただいたのが懐かしいです
まあ、今後は本書で紹介されてた他の地域を訪れることなど、もうないかも知れませんが、
これらの料理を日本で味わえる可能性は残っており、その際に基本の具材や調理法などを
知ってるだけでも、その国や地域出身の人たちと仲良くなれそうです
なぜか画像が転んだままですが・・・

岡根谷実里著「世界のお弁当とソトごはん」とゆー本が面白かったのでご紹介
著者紹介と奥付・・・もなぜか転んだままですが・・・

著者の本は以前にも紹介してますが視点が面白く、他にも何冊か読んでてオススメです
目次


目次を眺めるだけでも腹が減ってきます

この本で訪れた国々・・・

わたくし前回記事のお花見宴会はもちろん、アウトドア飯もお弁当もソトごはんも、ついでに
キャンプで食べるBBQも鍋物も大好きなので・・・
本書の世界もじつに興味深く楽しめました

以下、てきとーな読書メモです(が著作物なので公開に問題があれば非公開にします)
第1章より
・フィンランド(東部サヴォ地方の一家)
⇒森歩きは夏も冬も素晴らしい⇒「悪い天気はない、間違った服装があるだけ」
⇒森仕事で食べるカラクッコ(略)は密閉されてて日持ちし皿も不要でナイフ1本で食べられる
⇒今は無償の温かい学校給食があり大人には安くて充実した街の食堂がある
・ブータン(首都ティンプーの市場)
⇒市場では古い天秤量りで量り売りしてるが、その支払いはスマホ決済用QRコードで!!!
⇒お弁当は市場で働く人の多くが「象印ランチジャー」の特大サイズだった
⇒エマ(唐辛子)とダツィ(チーズ)を煮込んだエマダツィ(略)を基本にした何かと大量のご飯
⇒エマダツィは完全に冷めるとチーズの油脂が固まるので温かい方がおいしいから
(探していたパンチュンという美しい竹籠の弁当箱は今はお菓子や小物入れに使われていた)
・オランダ(ライデンでの留学生活)
⇒アジアでは外食は日常的だがヨーロッパでは「ハレのもの」で高い
⇒学生も勤め人も昼食には簡素なチーズサンドを持参している
⇒プロセスチーズで育った私にはオランダで標準的なゴーダチーズのサンドはおいしいのだが、
誰もおいしいとは言わず飾り気もなく「燃料」扱い、それでも誰も飽きることはない
・パプアニューギニア(高地の山中の一家)
⇒高地では週に3日はイモとバナナ、2日はサゴヤシ澱粉、2日は市販のコメ、といった感じ
⇒それなのに6歳の少女でも驚くべき体幹と筋力を持ち、急斜面の畑で働いていた
⇒同行した低地出身者は、村では川魚とサゴヤシ澱粉で暮らせるから、こんな大変な畑仕事は
したことがないし、とてもできないと言っていた
⇒新しい焼畑には昼に弁当を届けみんなで食べるが内容は同じ(コメが一番人気だった)
・モンゴル(ズンハラから馬で1時間の草原の一家)
⇒夏は一番忙しい時期で子どもたちも学校の寮から帰って手伝う
⇒朝5時から前日に加熱し夜に水分を抜いていたチーズを糸でカットして天日干しに
⇒ウシとヤギとヒツジの搾乳作業
⇒その後に生乳の加熱・加工作業
⇒パンと乳製品の簡単な朝食
⇒男はウマの搾乳に、女は加工作業の続き
⇒アーロール(乾燥チーズ)・ボルソック(四角い揚げパン)・朝のミルクティーで2時のおやつ
(アーロールとボルソックは日持ちし作業の合間にも食べる高カロリーの携帯食・保存食で、
原料は毎日搾れる五畜の乳と小麦粉と油だけなので原料保管用の冷蔵庫も不要)
⇒午後も作業が続き日没前に干し肉と雑穀を煮たスープで(はじめての温かい)夕食
⇒夕食後も夜の搾乳作業が続く
・ノルウェー(スカンジナビア半島の北端カラショクの町はずれの一家)
⇒マイナス30度の世界では「凍らない弁当」が必要
⇒普段の寒さならダウンジャケットや動きやすい化学繊維だが、さらに寒いとトナカイの毛皮
⇒遠出の際にはトナカイコートのポケットにトナカイの干し肉(水分が少なく凍りにくい)を入れ
ナイフで削って食べる⇒塩気が強いので火が熾せるなら削ってスープにする
(先住民サーミ人も子どもの弁当はオスロと同じ「マートパッケ(伝統的なサンドイッチ)」に)
第2章より
・インドネシア(バリ島のビーチから外れた静かな村の一家)
⇒一日分作った朝食で余った分のおかずをガラス棚に入れ各自が弁当に詰めるシステム
⇒夕食は残ったおかずに簡単な一品を足すぐらい
⇒空いた時間は神様へのお供え花チャナン作りや寺院での踊りやガムランの稽古
⇒観光で豊かになり信仰や伝統が薄れるのではなく、逆に供物や祭りが豪華になっている
⇒昔は神様のいる火と水は数か所だったが今はガス台やウォーターサーバーもあるので多い
・トンガ(ヴァヴァウ島の村の大家族一家)
⇒伝統的な食文化は海で獲る魚・畑のイモ・生えているココナッツの実
⇒どれも貯蔵の必要がなく、いつでも入手できるので、みんなのんびりしている
(ビーチで網を入れ魚を獲るのさえめんどうだとサバ缶が大活躍している)
⇒シェア文化が徹底しており昼の弁当だけでなく安価で高脂質なスナックも子どもの頃から
分け合うので???肥満率77.1%は世界トップクラス(もともと遺伝的に体格も大きい)
・インド(南部タミルナドゥ州ニルギリ丘陵地域イルラ民族の一家とポンディシェリの一家)
⇒サンバル(スパイススープ)とチャパティとご飯の基本はほぼ同じでも、
⇒食べられる食材は同じヒンドゥー教徒の中でも異なりカーストでも民族でも地域でも異なる
⇒多様な食の要求に応えるためティフィン・ダッバー(三段ステンレス弁当箱)で、それぞれの
家から手作り弁当を届けるダッバー・ワーラーがムンバイで発達した
⇒他の地域でも惣菜の持ち帰りなどに大型が使われている
・ボツワナ
⇒首都ハボローネのビジネス街の昼だけの弁当屋(小150円大200円でも収入からは高い)
⇒主食(トウモロコシ練り粥やライスなど4種類から一品)・メイン(焼きチキンや煮込みビーフなど
3種類から一品)・野菜(炒め物、煮物、サラダなど5種類から好きなだけ)を選ぶ仕組み
⇒ただし、どれも家庭と同じものなのに、なぜ家から安い弁当を持ってこないのか?
⇒練り粥もインディカ米ライスも冷めると澱粉が老化するし気候的にも傷みやすいから
・ヨルダン(ワディ・ラム沙漠の四角いテントに住むベドウィン一家)
⇒ラクダが「砂漠の船」でナツメヤシが「生命の樹」の理由
⇒ラクダは沙漠を移動中でもミルクが搾れ、ナツメヤシはオアシスだけに生える木で、
実のデーツは収穫乾燥せずとも水分が抜けて、そのままドライフルーツになる
⇒どちらも砂漠を移動するのに不可欠の携行食だったから
・台湾
⇒世界でも有数の外食文化があり、温かい食事が基本
⇒職場でも学校でも昼食の弁当は近くで温かい弁当を買っている
⇒家から弁当を持参することはまずないので職場にも学校にも電子レンジはない
⇒基本の弁当はご飯の上に副菜の炒め野菜が1~2種類、その上に肉などの主菜がどーん

⇒「台湾鉄道の本業は弁当」と冗談を言われるほど台湾の駅弁は人気(略)
⇒台北で人気があるのはビュッフェ形式の「自助餐」(略)
(多くの品数から選べて安く持ち帰りもできるので昼食にも夕食にも利用されている)
⇒台湾語で弁当は「便當」だが今では日本の弁当とは意味が異なってきている
(昔の飯包が日本統治時代に便當になったが、)
⇒今では「ご飯と副菜と主菜のある「完全な食事」が箱に入ったテイクアウト品」が便當で、
麺など単品のテイクアウト品は便當とは言わないし、家から持っていく弁当のイメージもない
⇒惣菜店でも食堂でもテイクアウトメニューには品名(単品)と品名便當(ご飯と副菜入り)が
あり、便當は単品の倍の値段とかになっている(略)
・韓国
⇒小中高まで無償完全給食で内容も充実している(寮生活では一日3食)
⇒ただし遠足などでは弁当持参だがメニューはキンパ(韓国海苔巻き)が定番(略)
⇒韓国最大の弁当チェーンには広いイートインスペースがありインスタント麺と弁当が定番
⇒台湾とは対照的にコンビニ弁当も日本と同じ仕切りの多い弁当箱(小鉢料理の伝統から?)
⇒家から弁当を持参する人はいなくなったが昔のアルミ弁当箱がイカ・ゲームから流行中
(アルミ弁当箱をよく振ってご飯とおかずを混ぜて食べる⇒ビビンパの伝統から?)
第3章より
・ポーランド(シロンスク地方の親友夫婦)
⇒実家の庭での焚き火料理
⇒専用の「三本脚付き鋳物鍋」に様々な野菜類や肉類を入れ密閉して焚き火へ
⇒マシュマロやソーセージを焼きながら1時間ほどで焚火による圧力調理が完成(略)
⇒この地方は製鉄が盛んで、この焚き火専用の鋳物鍋も近くで作られたもの
・フィンランド(ヘルシンキ郊外の街に住む一家)
⇒日本のキャンプ飯の進化が凄いが、フィンランドのアウトドア飯はその逆をいくもの
⇒サウナ小屋と湖の往復の後には焚火台でマッカラ(大ぶりのソーセージ)を焼くだけ
⇒焚火台には焼き網もあり他のBBQもできるのに誰もがマッカラだけで満足している
⇒しかも使われるマッカラは自家製とかではなく普通のスーパーのパック品
⇒向うのベンチに座ってる海パン1枚のおじさんはビール片手にマッカラにかぶりついて、
満面の笑みを浮かべている
⇒もう、これ以上の幸せがあるかと、こっちが幸せな気持ちになる(わかるなあ
)⇒別の家族のサマーコテージでも同じくマッカラだけだった(冬の自宅でも暖炉で焼いてたが)
⇒国立公園内にも焼き網付き焚火台があり「マッカラのために木の皮を剥ぐのは禁止」と
明記されており、それほどマッカラへの執着は強い
⇒サウナでも森でも湖でも焚火でマッカラだけなのはなぜか・・・
自然があまりにも美しく、それを存分に楽しめる夏があまりにも短いから
⇒料理を考えるなんてもったいない、これで十分だと・・・
(フィンランドの生活満足度が世界一高いのは「これで十分」を知っているから?)
⇒アウトドアアクティビティに事欠かないフィンランドらしい、アウトドアご飯の楽しみ方の
心構えを教えられた気がする
(わたくしも、日本のキャンプは殆どが1泊か2泊なんだから「これで十分」の心構えで???
ホントは作るのがめんどーで???いつもシンプルな焼き肉と鍋だけです
)・ペルー(クスコから車で2時間の高地オクラ村の一家)
⇒ペルーはジャガイモの原産地で数千種類あると言われている
⇒訪問した6月は収穫期で畑で堀りたて各種をワティア(土焼き芋)にして食べた(略)
⇒仕事終わりに枯草混じりの土を被せておけば翌日も土焼き芋ができるので畑への弁当は不要
⇒芋は洗わず調理でき鍋も水も食器も不要で、余ればポケットに入れて持ち帰れる
⇒標高4000mで米を炊けば(88度で沸騰するので)芯が残るが芋なら60度前後で澱粉が固化する
⇒インカ帝国の繫栄もジャガイモがなければ成り立たなかったはず
・ヨルダン(ワディ・ラム沙漠の四角いテントに住むベドウィン一家)
⇒砂漠で枯れた小枝を集めて焚き火をして砂を熱し、灰を丁寧に崩して平らにする
⇒その上に鍋で水と塩で練った小麦粉を丸く伸ばし、上に熱い砂と灰を被せる
⇒15分ほどでひっくり返し、さらに10分ほどでパン(アルブード)が完成する(略)
⇒枯草の上に置き棒で叩いて灰と砂を落とし、こすって焦げを落として手で割って食べる
⇒これがオーブンも窯も使わない砂漠のパンの焼き方
・ウズベキスタン(サマルカンドの一家)
⇒大学生たちとバスで1時間ほどの郊外にある「ピクニック場」に行った
⇒森の中に一段高く整地したピクニック場があり、そこへ各自が持参した絨毯を広げる
⇒ドラム缶を切ったような窯が設置されており巨大中華鍋のようなカザンで女子が調理する
⇒大量の油にジャガイモ、牛肉と入れるが盛大に油が飛び散る⇒屋外でしかできない料理
⇒カザン(鍋)で作るカバブ(肉料理)なのでカザンカバブ(略)
(タンドール窯で焼くタンドールチキンと同じか)
⇒大皿に盛り、作ったサラダと持参したパンと自家製コンポートの瓶詰で食べた
⇒絨毯も食器もフォークもふだん家で使っているものを持参していた
⇒帰宅後の夕食は牛肉とジャガイモの煮物でおいしかったが、あの豪快に油を飛ばした
アウトドア飯とは全くの別物で、帰国後にも真似してみたが遠く及ばなかった
・インド(ミャンマーとの国境に接するナガランド州に多いアジア系の一家)
⇒街から車で30分の「ファーム」へ
⇒畑以外に動物エリアも宿泊小屋もあり「ファームステイ」も考えて開発中とのこと
⇒川魚に乾燥唐辛子・粉唐辛子・発酵タケノコ・バナナのつぼみなどをまぶし青唐辛子も
⇒裏の竹林で採ってきた1mほどの竹3本に詰めてバナナの葉で栓をする
⇒焚火の囲炉裏に立てかけ2時間で「ポンセン」が完成(略)
(竹の水分で蒸し焼きになるので水は不要)
⇒手でご飯と混ぜて食べるが、ナガ人はキリスト教なので左利きの人は左手で食べる
(留学生のお弁当⇒6人6地域6種類⇒略)
(世界で進化する日本のおにぎり)
⇒動画で見るコンビニ三角おにぎりが日本のイメージになっており最近は海苔巻きも多い
⇒ただし米にも味が付いてて米粒がやわらかくてつぶれている
⇒米自体を味わう感覚はなく具材のクッションのイメージ
⇒帰国してセブンイレブンのおにぎりの凛とした粒立ちに息を吞んだ

⇒世界各地のおにぎりは食べ応えもバリエーションもあって好きだが、それらに出会うにつけ、
日本人の米自体のおいしさに対する執着に向き合わされる
(日本で作る世界のお弁当レシピ5種類⇒略)
・・・・・・
わたくしが本書で紹介されてた国や地域で訪れたことがあるのはモンゴルの草原だけで、
15年前にゲルに暮らすご一家を家庭訪問、アーロール(乾燥チーズ)やボルソック(揚げパン)と
バター入りミルクティーで歓迎していただいたのが懐かしいです
まあ、今後は本書で紹介されてた他の地域を訪れることなど、もうないかも知れませんが、
これらの料理を日本で味わえる可能性は残っており、その際に基本の具材や調理法などを
知ってるだけでも、その国や地域出身の人たちと仲良くなれそうです

2026年04月04日
2026春のお花見
今年も無事に(雨風の合間を縫って)お花見宴会ができたのでメモしておきます
一昨日の4月2日には中学の同期たちと、いつもの公園の、いつもの場所で・・・

朝10時に古いタープを敷いて自分たちの椅子とテーブルを準備
約10分で準備完了・・・つーことで・・・

まずは場所取り担当の2人だけで、ぷしゅ、ごきゅごきゅごきゅ、くはあ
そう、最初のビールと乾き物以外は参加者まかせとゆー仕組みなのであります
で、11時前には3人目が大量の飲み物・食べ物を持ってきてくれ・・・

とりあえず3人で乾杯
で、11時には・・・

4人で乾杯
この頃になると飲み物・食べ物も豪華になってます
で、お昼前には

6人で乾杯
そして正午過ぎには・・・

7人で乾杯
飲み物はビールから赤ワインや大吟醸まで大量になり、食べ物もうちの奥様が差し入れてくれた、
近所のネパール料理店のチキンティッカやシシケバブ、マトンスティックなどから皆さんの
豪華な持ち寄り品まで、たっぷりといただき、すっかり出来上がりました
3時に最後の一人が仕事の合間に顔を出してくれたのですが、ちょうどお開きの頃合いで、
飲まない彼とは片付けながらの立ち話になり、残った4人が別れたのは4時過ぎでした
なんだかんだで6時間は滞在してたことになりますね ひっく
で、昨日の4月3日はうちの奥様がひさしぶりに会うことになった中国からの友人と・・・
「二人で懐かしい幼稚園とか商店街とかを巡るので、あなたは先回りして場所取り」で、
「公園には12時に着くので早めにセットしておくように」とのご指示をいただき・・・
前日の「いつもの場所」には先客があったので、

11時40分には隣のスペースに3人分の椅子とテーブルをセットして、
一足先に飲みはじめようとしてると、

その横で、

トレックのロードバイクを下りた女子が縁石に腰かけて弁当を広げようとしたので、
「よかったら、この椅子とテーブルを使ってね、12時半までは誰も来ないし・・・」
と声掛けしました
そう、商店街のお店で昔話が盛り上がり30分は遅れると連絡があったのでありますね
「椅子とテーブルは助かります、ではお言葉に甘えて・・・」つーことで、

彼女は穴子の天ぷらとサイクルボトルのドリンク、わたくしは乾き物とビールで
楽しいロードバイク談義がはじまりました
この日は朝6時に大阪市内を出て岸和田漁港まで「シラスと穴子を食べに」往復してきたそうで、
彼氏の影響でロードバイクを始めたけど、すっかりハマってしまい、今は彼氏そっちのけで
一人でも走ってます、とのことだったので、旧街道を中心に大阪市内からの(もちろん平坦な)
コースをいくつかオススメしておきました(ただしあの暗峠を含む
)
彼女も坂道は嫌いとのことで意気投合、わたくしが定年退職を機会にロードバイクをはじめた
ハナシや、ビワイチやアワイチの(決して一周はしない)ハナシ、3年前の落車骨折以来ほとんど
漕がずに吞んだくれてるハナシなどを真剣に聴いてくれてました
で、奥様から、さらに30分は遅れそうと連絡が入ったのですが、
若い女性ローディと話す機会なんて滅多にないし
もっと遅れても、とか思ってたら
連絡どおり1時過ぎに到着しました
ま、彼女も二人に会いたいと言ってくれてたことだし・・・
つーことで、彼女には予備のスツールに移ってもらい、

仲良く4人で乾杯!!!

せっかくなので記念撮影も・・・
彼女にはノンアル・ビール、中国の友人にはトマトジュースで乾杯からは温かい烏龍茶、
もちろん、わたくしと奥様はビールからワインへ・・・ひっく
食べ物は商店街の名物コロッケや唐揚げ、寿司などをたっぷり買ってきてくれてました
ちなみに彼女も(彼氏も)呑むのが大好きとのことで、わりとお近くだし、いつか4人一緒でね!!!
と、この日も快晴・・・


まさにお花見日和でしたね
大阪ではこの両日以外の天気予報はずっとイマイチで貴重な二日間になりました
で、彼女が帰ってからも3時過ぎまで懐かしい話で盛り上がり、わたくしがのんびりと
片付け終わって帰宅したのは4時過ぎでした
(ちなみに中国からの友人とうちの奥様は再び商店街へ・・・)
と、この日も5時間近く滞在してたことになりますね
まあ、ママチャリを押して帰れる距離だし自分の裏庭だと思えばいいか どっとはらい

一昨日の4月2日には中学の同期たちと、いつもの公園の、いつもの場所で・・・

朝10時に古いタープを敷いて自分たちの椅子とテーブルを準備
約10分で準備完了・・・つーことで・・・

まずは場所取り担当の2人だけで、ぷしゅ、ごきゅごきゅごきゅ、くはあ

そう、最初のビールと乾き物以外は参加者まかせとゆー仕組みなのであります

で、11時前には3人目が大量の飲み物・食べ物を持ってきてくれ・・・

とりあえず3人で乾杯

で、11時には・・・

4人で乾杯
この頃になると飲み物・食べ物も豪華になってます

で、お昼前には

6人で乾杯
そして正午過ぎには・・・

7人で乾杯
飲み物はビールから赤ワインや大吟醸まで大量になり、食べ物もうちの奥様が差し入れてくれた、
近所のネパール料理店のチキンティッカやシシケバブ、マトンスティックなどから皆さんの
豪華な持ち寄り品まで、たっぷりといただき、すっかり出来上がりました
3時に最後の一人が仕事の合間に顔を出してくれたのですが、ちょうどお開きの頃合いで、
飲まない彼とは片付けながらの立ち話になり、残った4人が別れたのは4時過ぎでした
なんだかんだで6時間は滞在してたことになりますね ひっく
で、昨日の4月3日はうちの奥様がひさしぶりに会うことになった中国からの友人と・・・
「二人で懐かしい幼稚園とか商店街とかを巡るので、あなたは先回りして場所取り」で、
「公園には12時に着くので早めにセットしておくように」とのご指示をいただき・・・
前日の「いつもの場所」には先客があったので、

11時40分には隣のスペースに3人分の椅子とテーブルをセットして、
一足先に飲みはじめようとしてると、

その横で、

トレックのロードバイクを下りた女子が縁石に腰かけて弁当を広げようとしたので、
「よかったら、この椅子とテーブルを使ってね、12時半までは誰も来ないし・・・」
と声掛けしました
そう、商店街のお店で昔話が盛り上がり30分は遅れると連絡があったのでありますね
「椅子とテーブルは助かります、ではお言葉に甘えて・・・」つーことで、

彼女は穴子の天ぷらとサイクルボトルのドリンク、わたくしは乾き物とビールで

楽しいロードバイク談義がはじまりました

この日は朝6時に大阪市内を出て岸和田漁港まで「シラスと穴子を食べに」往復してきたそうで、
彼氏の影響でロードバイクを始めたけど、すっかりハマってしまい、今は彼氏そっちのけで
一人でも走ってます、とのことだったので、旧街道を中心に大阪市内からの(もちろん平坦な)
コースをいくつかオススメしておきました(ただしあの暗峠を含む
)彼女も坂道は嫌いとのことで意気投合、わたくしが定年退職を機会にロードバイクをはじめた
ハナシや、ビワイチやアワイチの(決して一周はしない)ハナシ、3年前の落車骨折以来ほとんど
漕がずに吞んだくれてるハナシなどを真剣に聴いてくれてました
で、奥様から、さらに30分は遅れそうと連絡が入ったのですが、
若い女性ローディと話す機会なんて滅多にないし
もっと遅れても、とか思ってたら連絡どおり1時過ぎに到着しました

ま、彼女も二人に会いたいと言ってくれてたことだし・・・
つーことで、彼女には予備のスツールに移ってもらい、

仲良く4人で乾杯!!!

せっかくなので記念撮影も・・・
彼女にはノンアル・ビール、中国の友人にはトマトジュースで乾杯からは温かい烏龍茶、
もちろん、わたくしと奥様はビールからワインへ・・・ひっく
食べ物は商店街の名物コロッケや唐揚げ、寿司などをたっぷり買ってきてくれてました

ちなみに彼女も(彼氏も)呑むのが大好きとのことで、わりとお近くだし、いつか4人一緒でね!!!
と、この日も快晴・・・


まさにお花見日和でしたね
大阪ではこの両日以外の天気予報はずっとイマイチで貴重な二日間になりました
で、彼女が帰ってからも3時過ぎまで懐かしい話で盛り上がり、わたくしがのんびりと
片付け終わって帰宅したのは4時過ぎでした
(ちなみに中国からの友人とうちの奥様は再び商店街へ・・・)
と、この日も5時間近く滞在してたことになりますね
まあ、ママチャリを押して帰れる距離だし自分の裏庭だと思えばいいか どっとはらい

2026年04月01日
新年度はパリャーソのライブで!
とーとつですが・・・
新年度はパリャーソのライブからはじまりました!!!
そう、本日4月1日は近所のうどん屋さん「麵屋・爽月」で・・・


ピアノの谷川賢作さんとハーモニカの続木力さんの「パリャーソ」ライブでした!!!
ちなみに明日4月2日の夜は・・・

神戸の御影で・・・
4月4日の夜は、なんと・・・

倉敷のワイナリーで開催されるそうです
(ご本人からも大いに宣伝しておいてね!!!とのことでしたので、間に合えばぜひ・・・)
ライブはもちろん素晴らしくて楽しくて、大いに感動しました
以下、アンコール以降は撮影可能とのことでしたので何枚か・・・


続木さんのハーモニカ(とブルーズ・ハープ)ライブは今回がはじめてでしたが、どちらも
素晴らしい演奏で、いつかコテコテのブルーズ・ハープもじっくり聴いてみたいですね












































じつは昨年の10月8日にもライブがあったのですが、続木さんが体調を崩されて、急きょ
谷川さんのソロ・ライブになり、リンク記事のとおり、CDにサインをいただく際に、
「続木もきっと元気になって、いつか一緒に来るので、そのときにもらってね」
と、CDの右側を空けてサインして下さったのですが・・・
ええ、今回しっかりと・・・


空白の右側を埋めていただきました 元気になられてほんとよかったです!!!
つーことで高齢もとい恒例により・・・

谷川さんとのツーショット!!!
いやあ八朔の搾りたてチューハイはじつに旨かったですね! どっとはらい
新年度はパリャーソのライブからはじまりました!!!
そう、本日4月1日は近所のうどん屋さん「麵屋・爽月」で・・・


ピアノの谷川賢作さんとハーモニカの続木力さんの「パリャーソ」ライブでした!!!
ちなみに明日4月2日の夜は・・・

神戸の御影で・・・
4月4日の夜は、なんと・・・

倉敷のワイナリーで開催されるそうです

(ご本人からも大いに宣伝しておいてね!!!とのことでしたので、間に合えばぜひ・・・)
ライブはもちろん素晴らしくて楽しくて、大いに感動しました
以下、アンコール以降は撮影可能とのことでしたので何枚か・・・


続木さんのハーモニカ(とブルーズ・ハープ)ライブは今回がはじめてでしたが、どちらも
素晴らしい演奏で、いつかコテコテのブルーズ・ハープもじっくり聴いてみたいですね













































じつは昨年の10月8日にもライブがあったのですが、続木さんが体調を崩されて、急きょ
谷川さんのソロ・ライブになり、リンク記事のとおり、CDにサインをいただく際に、
「続木もきっと元気になって、いつか一緒に来るので、そのときにもらってね」
と、CDの右側を空けてサインして下さったのですが・・・
ええ、今回しっかりと・・・


空白の右側を埋めていただきました 元気になられてほんとよかったです!!!
つーことで高齢もとい恒例により・・・

谷川さんとのツーショット!!!
いやあ八朔の搾りたてチューハイはじつに旨かったですね! どっとはらい
