2026年05月
2026年05月31日
サラワクと日本人
とーとつですが・・・
「サラワクと日本人」であります

サブタイトルどおりマレーシア・ボルネオ島・サラワク州と日本人の交流史をサラワク州と
深く関わった方々の手記を中心に歴史資料や写真と合わせて一冊にした本であります
裏表紙

白人ラジャ(英国人)が統治していた頃の移民・開拓から占領した日本軍による軍政へ、
そして敗戦による引揚から戦後の交流まで、ボルネオ島やサラワク州に興味のあるわたくしには
じつに稀少で貴重な内容でした
奥付

1998年ですから28年前に発行された本になります
日本サラワク協会は戦前からサラワク州と関わりのあった有志の方々を中心に、サラワクの
人たちとの友好親善と会員の親睦を目的に1986年に設立されたそうで、日本占領時代の記録を
残すべきというマレーシア特命全権大使の言葉により1998年に本書を発刊とありました
目次


メインになる第Ⅱ章の移民期から日本統治期の手記を書かれた方々は、現時点では多くが
故人となられてるでしょうし、まさに生き証人としての稀少な手記・・・なんですが、
軽々しく概要を紹介するのも憚られますので、以下はまえがきと解説からの読後メモです
(てきとーメモですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
ちなみにわたくしが植林ボランティア活動の都度サラワクでお世話になっていた現地旅行社の
S井さんも戦後サラワクの記録として手記を寄せておられますが、彼女がミリに来られたのが
1976年、ミリからクチンに移られたのが1981年とありましたから、今年でサラワクでの生活が
ちょうど50年、半世紀を迎えることになられたんですね
S井さん、あらためましてサラワク生活50周年おめでとうございます
まえがきより
・サラワクと日本人の交流がはじまって、もうかれこれ100年(以下1998年の発刊時点)
⇒プロパンガスがサラワクからのLNGによる都市ガスに代わり事故がなくなった
⇒ファックスの受信紙も木造建物もコンクリートパネルもサラワクの木材から
⇒ガラス原料のシリカも胡椒もツバメの巣もサラワクから・・・
(この時点でアブラヤシ油(パームオイル)についてはまだ触れられてませんでした)
・日本人とサラワクの出会いは明治時代
⇒貧しい農村からの移住先の一つがサラワクだった
(サンダカンの10年前からクチンにも「からゆきさん」がいた)
⇒南米やハワイほど多くはないが貧しい日系移民があったことは歴史的事実
⇒日本の占領時代にサラワクに派遣された日本人も多い
・サラワク王国(ホワイトラジャ)時代1841~1941
⇒日本の占領時代1941~1945
⇒英国直轄植民地時代1945~1962
⇒独立1962
⇒マレーシア連邦時代1963~
・戦後サラワク熱帯木材は1949年、はじめて大阪に出荷された
⇒州が林業の継続的な経営を成功させ今では日本唯一の丸太原木の供給源となっている
⇒サラワク州森林局との研修生交流や植林事業は伝統行事となっている
・バクン水力発電ダム計画が1997年の通貨危機により延期されたが、
⇒ビンツールのLNG工場群やパルプ工場群、州内の工場団地には重要なプロジェクト
・本書がサラワクへの進出企業、文化交流諸団体、文化人類学、生態学、医療薬剤関係者、
そして一般読者の役に立つことを期待してやまない・・・
解説より
1日本人移民期
・サラワク王国はイギリスによる東方支配の一拠点だった
⇒1884年の日清戦争で台湾を植民地にしてから日本も南方進出へ
⇒1896年に移民計画、1902年以降にはマレー半島でゴム園経営、サラワクでは1908年
⇒1910年前後から各企業が各地で活動している
⇒日露戦争後の軍需景気で特にゴムの市場価値が上がったから
・クチンの日本人墓地
⇒もっとも古い墓碑は1903年没⇒天草女・島原女で1890年代にはサラワクに来ていたはず
⇒1910年にクチンに渡ったゴム園(日沙商会)従者の報告書によるとクチン付近の日本人は、
「正業の6~7名を除き、すべて売春婦・女衒・売春宿主であった」とある
⇒シンガポールなどの大都市からサラワクに流れてきた「からゆきさん」たち
・日沙商会
⇒サラワク政府から許可された外国企業10社のうち唯一の日本企業
⇒本社は神戸、支店はクチン、事業所はサマラハン河の上流から
⇒1935年にはサラワク日本人会が設立され日沙商会の社員から官庁に報告している
・「サラワク王国在留邦人の状況1928」(台湾総督官房調査課)
⇒男52名・女38名・子供25名の115人
⇒農場(ゴム・ヤシ・果樹・コーヒー)は32か所で7524エーカー
⇒南進論が昭和に入り国策に⇒1940には基本国策要綱に
⇒1941大東亜戦争開始によりボルネオ武力平定戦へ⇒ミリ侵攻
2日本統治期
・サラワクのミリ、ブルネイのセリアに上陸したのは1941年12月16日
⇒まずは石油確保が目的⇒その後、軍司令部はクチンに移った
⇒1942年5月までに香港、マレー半島、シンガポール、ビルマ、オランダ領東インド諸島、
フィリピン諸島など広大な範囲を次々と占領した
⇒サラワク王国のラジャはオーストラリアに逃れ、1945年の敗戦までが日本統治期
・ボルネオ島を5州に分割、州に各県を置いた
①旧オランダ領西部ボルネオ・ポンチャナックを中心とする西部州
②旧英領北ボルネオ・サンダカンを中心とする西海岸州
③旧英領北ボルネオ・アピ(現コタキナバル)を中心とする東海岸州
④ブルネイと北部サラワクを含むミリ州
⑤クチンを中心としたサラワク南部のクチン州
・1942年7月15日の陸海軍の協定
⇒旧英領(北ボルネオ)は陸軍、旧蘭領(南ボルネオ)は海軍が担当することに
⇒西部州も海軍に移譲された
⇒陸軍は代わりにシブ州を設置して西部州の要員をレジャン河流域開発に配置した
・軍司令部がクチンに移動し軍政要員募集によりクチンの日本人数が膨張した
⇒派遣されたのは役人、企業や商社の派遣員、報道関係から文化人まで及んでいた
⇒1942年5月には大洋丸が米潜水艦に沈められ実務担当の官民1367名が犠牲になった
(このため日本の南方開発は2年遅れたとされている)
・1943年10月の孫文革命記念日にはアピ(現コタキナバル)の反日暴動で日本人50名が死亡
⇒フィリピンの米軍スパイと連絡をとった中国人による計画的なものだった
⇒鎮圧処理により250名の中国人・原住民が犠牲に・・・
・体験者の言葉からは占領の負い目を感じながら良好な人間関係を作ろうとする姿も
⇒電気・道路・食糧・医療などで現地住民に尽くしたとも
⇒それは占領者としての顔ではなく役人として市民の暮らしを守るという顔だった
⇒イギリスの政策の素晴らしさに出会った軍政要員の言葉もある
⇒軍政要員以外にも文化人やマスコミ関係者が報道要員として派遣されたが、国策の使命は
あったものの、他の占領地域とは異なる自由な作風でボルネオ独自の特徴がある
・軍政下ではゴム農園関係者などが軍政要員に協力させられ農園は荒れ果てた
・連合軍の攻撃が開始され1944年4月には軍司令部をクチンからアピへ
⇒10月には軍政要員は現地入隊になり戦場へ、行政としての機能を失っていく
⇒ラブアン島の守備隊は玉砕、ジャングルではマラリアと飢えで多くが死線を彷徨った
⇒クチンでは大規模戦闘はなく多くの生存者がバウなどの収容所に送られた(半年間)
(同じ収容所に開戦時には日本人、日本占領時には英国人、終戦時にまた日本人が収容された)
⇒クチン周辺での収容人数は約8100名うち日本に帰国できたのは約7400名だった
(残りの約700名は病死または戦犯として有罪になった)
・本書は日本人側からの発言が中心でありサラワク住民側からは記録されていない
⇒編者の日本サラワク協会が軍政要員・企業人としてサラワクに関わった人たちによるため
⇒しかし戦後50年が経過し今後は当時を語ることは不可能となるので実に貴重なもの
⇒侵略者とみなされる日本人の中にも情熱を持ってサラワクで生きた人たちがいたこと、
現地で徴兵され戦死・病死した日本人が多数いたことは本書が語るところ
・今後はマレーシア側・イギリス側からの、この時期についてのまとまったものが出版される
ことが期待される
・・・
本編の特に第2章「体験者は語る」の移民期・統治期・企業活動の手記はまさに歴史の証言で、
解説にもあったとおり今となっては当時を語ることなど不可能で、極めて貴重な資料です
また戦後から現在(1998年)までの手記も今から30年ほど前の歴史資料として貴重です
ボルネオ島やサラワク州の歴史に興味のある方には必読の書だと思います
最後に資料編にあった年表を紹介しておきます
(こちらも著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)








あらためてサラワクでの戦闘で犠牲となられた日英豪の軍人軍属や一般人、そして現地の
先住民はじめ中華系マレー系インド系など巻き添えとなった全ての人々に・・・合掌
「サラワクと日本人」であります

サブタイトルどおりマレーシア・ボルネオ島・サラワク州と日本人の交流史をサラワク州と
深く関わった方々の手記を中心に歴史資料や写真と合わせて一冊にした本であります
裏表紙

白人ラジャ(英国人)が統治していた頃の移民・開拓から占領した日本軍による軍政へ、
そして敗戦による引揚から戦後の交流まで、ボルネオ島やサラワク州に興味のあるわたくしには
じつに稀少で貴重な内容でした
奥付

1998年ですから28年前に発行された本になります
日本サラワク協会は戦前からサラワク州と関わりのあった有志の方々を中心に、サラワクの
人たちとの友好親善と会員の親睦を目的に1986年に設立されたそうで、日本占領時代の記録を
残すべきというマレーシア特命全権大使の言葉により1998年に本書を発刊とありました
目次


メインになる第Ⅱ章の移民期から日本統治期の手記を書かれた方々は、現時点では多くが
故人となられてるでしょうし、まさに生き証人としての稀少な手記・・・なんですが、
軽々しく概要を紹介するのも憚られますので、以下はまえがきと解説からの読後メモです
(てきとーメモですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
ちなみにわたくしが植林ボランティア活動の都度サラワクでお世話になっていた現地旅行社の
S井さんも戦後サラワクの記録として手記を寄せておられますが、彼女がミリに来られたのが
1976年、ミリからクチンに移られたのが1981年とありましたから、今年でサラワクでの生活が
ちょうど50年、半世紀を迎えることになられたんですね
S井さん、あらためましてサラワク生活50周年おめでとうございます
まえがきより
・サラワクと日本人の交流がはじまって、もうかれこれ100年(以下1998年の発刊時点)
⇒プロパンガスがサラワクからのLNGによる都市ガスに代わり事故がなくなった
⇒ファックスの受信紙も木造建物もコンクリートパネルもサラワクの木材から
⇒ガラス原料のシリカも胡椒もツバメの巣もサラワクから・・・
(この時点でアブラヤシ油(パームオイル)についてはまだ触れられてませんでした)
・日本人とサラワクの出会いは明治時代
⇒貧しい農村からの移住先の一つがサラワクだった
(サンダカンの10年前からクチンにも「からゆきさん」がいた)
⇒南米やハワイほど多くはないが貧しい日系移民があったことは歴史的事実
⇒日本の占領時代にサラワクに派遣された日本人も多い
・サラワク王国(ホワイトラジャ)時代1841~1941
⇒日本の占領時代1941~1945
⇒英国直轄植民地時代1945~1962
⇒独立1962
⇒マレーシア連邦時代1963~
・戦後サラワク熱帯木材は1949年、はじめて大阪に出荷された
⇒州が林業の継続的な経営を成功させ今では日本唯一の丸太原木の供給源となっている
⇒サラワク州森林局との研修生交流や植林事業は伝統行事となっている
・バクン水力発電ダム計画が1997年の通貨危機により延期されたが、
⇒ビンツールのLNG工場群やパルプ工場群、州内の工場団地には重要なプロジェクト
・本書がサラワクへの進出企業、文化交流諸団体、文化人類学、生態学、医療薬剤関係者、
そして一般読者の役に立つことを期待してやまない・・・
解説より
1日本人移民期
・サラワク王国はイギリスによる東方支配の一拠点だった
⇒1884年の日清戦争で台湾を植民地にしてから日本も南方進出へ
⇒1896年に移民計画、1902年以降にはマレー半島でゴム園経営、サラワクでは1908年
⇒1910年前後から各企業が各地で活動している
⇒日露戦争後の軍需景気で特にゴムの市場価値が上がったから
・クチンの日本人墓地
⇒もっとも古い墓碑は1903年没⇒天草女・島原女で1890年代にはサラワクに来ていたはず
⇒1910年にクチンに渡ったゴム園(日沙商会)従者の報告書によるとクチン付近の日本人は、
「正業の6~7名を除き、すべて売春婦・女衒・売春宿主であった」とある
⇒シンガポールなどの大都市からサラワクに流れてきた「からゆきさん」たち
・日沙商会
⇒サラワク政府から許可された外国企業10社のうち唯一の日本企業
⇒本社は神戸、支店はクチン、事業所はサマラハン河の上流から
⇒1935年にはサラワク日本人会が設立され日沙商会の社員から官庁に報告している
・「サラワク王国在留邦人の状況1928」(台湾総督官房調査課)
⇒男52名・女38名・子供25名の115人
⇒農場(ゴム・ヤシ・果樹・コーヒー)は32か所で7524エーカー
⇒南進論が昭和に入り国策に⇒1940には基本国策要綱に
⇒1941大東亜戦争開始によりボルネオ武力平定戦へ⇒ミリ侵攻
2日本統治期
・サラワクのミリ、ブルネイのセリアに上陸したのは1941年12月16日
⇒まずは石油確保が目的⇒その後、軍司令部はクチンに移った
⇒1942年5月までに香港、マレー半島、シンガポール、ビルマ、オランダ領東インド諸島、
フィリピン諸島など広大な範囲を次々と占領した
⇒サラワク王国のラジャはオーストラリアに逃れ、1945年の敗戦までが日本統治期
・ボルネオ島を5州に分割、州に各県を置いた
①旧オランダ領西部ボルネオ・ポンチャナックを中心とする西部州
②旧英領北ボルネオ・サンダカンを中心とする西海岸州
③旧英領北ボルネオ・アピ(現コタキナバル)を中心とする東海岸州
④ブルネイと北部サラワクを含むミリ州
⑤クチンを中心としたサラワク南部のクチン州
・1942年7月15日の陸海軍の協定
⇒旧英領(北ボルネオ)は陸軍、旧蘭領(南ボルネオ)は海軍が担当することに
⇒西部州も海軍に移譲された
⇒陸軍は代わりにシブ州を設置して西部州の要員をレジャン河流域開発に配置した
・軍司令部がクチンに移動し軍政要員募集によりクチンの日本人数が膨張した
⇒派遣されたのは役人、企業や商社の派遣員、報道関係から文化人まで及んでいた
⇒1942年5月には大洋丸が米潜水艦に沈められ実務担当の官民1367名が犠牲になった
(このため日本の南方開発は2年遅れたとされている)
・1943年10月の孫文革命記念日にはアピ(現コタキナバル)の反日暴動で日本人50名が死亡
⇒フィリピンの米軍スパイと連絡をとった中国人による計画的なものだった
⇒鎮圧処理により250名の中国人・原住民が犠牲に・・・
・体験者の言葉からは占領の負い目を感じながら良好な人間関係を作ろうとする姿も
⇒電気・道路・食糧・医療などで現地住民に尽くしたとも
⇒それは占領者としての顔ではなく役人として市民の暮らしを守るという顔だった
⇒イギリスの政策の素晴らしさに出会った軍政要員の言葉もある
⇒軍政要員以外にも文化人やマスコミ関係者が報道要員として派遣されたが、国策の使命は
あったものの、他の占領地域とは異なる自由な作風でボルネオ独自の特徴がある
・軍政下ではゴム農園関係者などが軍政要員に協力させられ農園は荒れ果てた
・連合軍の攻撃が開始され1944年4月には軍司令部をクチンからアピへ
⇒10月には軍政要員は現地入隊になり戦場へ、行政としての機能を失っていく
⇒ラブアン島の守備隊は玉砕、ジャングルではマラリアと飢えで多くが死線を彷徨った
⇒クチンでは大規模戦闘はなく多くの生存者がバウなどの収容所に送られた(半年間)
(同じ収容所に開戦時には日本人、日本占領時には英国人、終戦時にまた日本人が収容された)
⇒クチン周辺での収容人数は約8100名うち日本に帰国できたのは約7400名だった
(残りの約700名は病死または戦犯として有罪になった)
・本書は日本人側からの発言が中心でありサラワク住民側からは記録されていない
⇒編者の日本サラワク協会が軍政要員・企業人としてサラワクに関わった人たちによるため
⇒しかし戦後50年が経過し今後は当時を語ることは不可能となるので実に貴重なもの
⇒侵略者とみなされる日本人の中にも情熱を持ってサラワクで生きた人たちがいたこと、
現地で徴兵され戦死・病死した日本人が多数いたことは本書が語るところ
・今後はマレーシア側・イギリス側からの、この時期についてのまとまったものが出版される
ことが期待される
・・・
本編の特に第2章「体験者は語る」の移民期・統治期・企業活動の手記はまさに歴史の証言で、
解説にもあったとおり今となっては当時を語ることなど不可能で、極めて貴重な資料です
また戦後から現在(1998年)までの手記も今から30年ほど前の歴史資料として貴重です
ボルネオ島やサラワク州の歴史に興味のある方には必読の書だと思います
最後に資料編にあった年表を紹介しておきます
(こちらも著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)








あらためてサラワクでの戦闘で犠牲となられた日英豪の軍人軍属や一般人、そして現地の
先住民はじめ中華系マレー系インド系など巻き添えとなった全ての人々に・・・合掌
2026年05月27日
対決!日本史1~6
とーとつですが・・・
「対決!日本史」という対談集(現時点では1~6まで)であります
ええ、ようやく読み終えましたので・・・

「1戦国から鎖国編」の表紙

最新刊「6アジア・太平洋戦争編」の表紙
横になってますが第1巻の奥付

第6巻が2025年7月20日の発行なので、5年間で6冊が出てることになりますね
対談者紹介


こっちの方が見やすいかな・・・

ま、政党や団体に関する両者の意見については「そうかな?」と感じる部分もありましたが、
事実として紹介されている部分には知らなかったことも多く、まさに目からウロコで、
その根拠となる閲覧可能な資料文献なども列挙されてて納得できました
第1巻の目次





1より
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・イエズス会・十字軍・レコンキスタ・帝国主義・鉄砲伝来(売り込み)・薩摩の硫黄
・アジア支配⇒日本カトリック兵による中国征服を目指し布教していた
・理解していた信長・秀吉の重商主義・中央集権から家康の農本主義・地方分権へ

第2巻の目次





2より
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・幕末維新と明治の軍国主義には様々な問題があった⇒現在進行形の問題でもある
⇒なのでそれに陶酔するのはいけない
⇒司馬遼太郎の「坂の上の雲」は1968~1972の作品
⇒当時(高度成長期)にはよかったが現代人が司馬史観に心酔し過ぎるのは危険
・南北戦争(1861~1865)が終わり行き場のない南部系の武器と商人が日本へ
⇒西南戦争1877にも影響している
・なぜ人類は石油エネルギーから転換できないのか
⇒自動車や発電は再生エネルギーに転換できるがミサイルや戦闘機、戦車には
石油より効率的な燃料がまだ見つかっていないから(佐藤)
⇒兵器の問題も敵対心とエゴイズムの問題
・江戸時代は(明治の地租改正まで)公地公民制で社会主義に近い
⇒仏教思想により敵愾心とエゴイズムを制御し享保の改革ぐらいまでは理想社会だった
⇒商品流通の変化や飢饉・天災・人口(浪人)増加により崩れ、以後は次々と変革していく
⇒パクス・トクガワーナ265年といっても決して同じ体制ではなく長期的に見るべき
・なぜ孝明天皇毒殺説は避けられ事実を知った会津藩士は徹底的に弾圧されたか
⇒伊藤博文から戦後の岸信介・佐藤栄作・菅直人・安倍晋三まで長州藩出身の首相が多い
・薩摩藩の琉球を通じた清国密貿易と長州藩の対馬を通じた朝鮮密貿易(表面上は攘夷)
・江戸っ子の「宵越しのカネは持たねえ」
⇒貯金しなくても日当だけで銭湯・博打・浮世絵・床屋など豊かに暮らせたから
⇒なので薩摩長州と異なり経済合理主義や海外貿易による経済発展には消極的だった
⇒さらに150万都市江戸は循環型社会システムで継続できた
・当時のシャム(タイ)も日本も、どこかの国が植民地にすればアジアでのパワーバランスが
崩れる状況で各国の戦線は伸びきっており、僅かに余裕があったのは英仏のみ
⇒それでもフランスは1968年1月19日に徳川幕府に再挙を勧告したが拒絶された
(征夷大将軍は天皇には逆らえないと)
⇒直後の1968年1月25日に英米仏伊蘭普が局外中立を布告、英仏代理戦争は回避された
(江戸城無血開城がなければ江戸は廃墟になり英仏が介入していた)
(パリ万博出展や民衆の識字率の高さから植民地支配より貿易が有利と判断したとも)
・勝海舟vs西郷隆盛の政治が現代版新選組vs現代版奇兵隊にならないように・・・
・ゲベール銃の有効射程は100~300m、ミニエー銃やエンフィールド銃は300~900m
⇒同距離での命中率も大きく異なり鳥羽伏見では薩長3000:幕府15000でも薩長が有利に
・奈良の吉野だけは国家神道が入り込めず寺院は旅館になった⇒南朝の伝統が残っていた
・日本は1905年の日露戦争終結から1939年のノモンハン事件までの34年間、本格的な近代戦を
戦っていない⇒34年間といえば軍人のほぼ一生⇒軍人が完全に官僚化していった
⇒明治の学制改革と昭和20年の敗戦は一直線でつながっている
・明治4年の歳出の32%が藩主・士族への失業手当、19%が軍事費、あとはインフラ整備と
豪商からの借金返済で8割以上、地租改正したが何も反対給付はなく豪農による民権運動へ
・江戸から明治は緩やかなコミュニティから自発的なアソシエーションへの参加へ
・新島襄は国会の早期開設に反対していた⇒公民意識のある人材を育てるのが先だと
⇒身分関係が残る中の制限選挙ではアメリカのような金権政治が横行すると心配していた
・豪農やエリートの自由民権運動と民衆宗教の誕生はコインの裏表
⇒大正デモクラシーへ⇒それでも抜けてたのがジェンダー⇒民衆宗教へ
(今の時代のデモクラシーも「すべての動植物」が主体に入っていない人間中心の民主主義)
・農本主義から重商主義へ、分権主義から中央集権主義へ体制を大転換させた明治維新には
功も罪もあり等身大で見直して評価すべき・・・
・・・と、3~5は疲れてきたのでメモしませんでしたが目次だけでも・・・
各巻に国際情勢などの最新情報が、それと関係する歴史的事実と合わせて述べられており、
それが各巻の目次にも反映されてます

第3巻の目次






第4巻の目次





第5巻の目次





第6巻の目次






さすがに第6巻は最新刊だし戦後に直結するハナシなのでメモしました
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・満州事変(柳条湖事件1931)からノモンハン事件(1939)に至る歴史を9時間で学べる映画
⇒五味川順平原作・山本薩男監督の「戦争と人間」(全3部作1970~73)
(70年代の商業映画は関東軍の謀略や731部隊を描く大作が普通に成り立っていた)
・伊丹万作・アーノルド・ファンク共同監督・ヨセフ・ゲッペルス製作「新しき土」1937
⇒日本人もドイツ人もお互い「血と土と名誉を重んじ狭い国土なので植民すべき優秀な民族」
という宣伝映画でラストは16歳の主演女優・原節子が満洲でトラクターを・・・
・明治維新から支配してきた薩長中心の天皇側近・既成政党・財閥・官憲・特権階級
⇒これらを一掃しようとしたのが昭和維新
⇒日産(満洲)や石原産業(東南アジア)などベンチャー企業と結託した石原莞爾らの派閥
⇒5.15事件では青年将校が独走したが満州では成功した⇒財閥も一緒に乗ってきた
・「古代オリエント史と私」三笠宮崇仁著1984学生社
・農本主義
⇒天皇から幕府⇒各藩へと土地と農民を国替えしながら預かる体制⇒きわめて社会主義的
⇒これが北一輝らの国家社会主義の理想の原像ではなかったか
⇒戦後高度成長期のモノ作り労働者も根っこは農本主義だった⇒農作業のアナロジー(類比)
⇒モノ作りに喜びを見出していたのであって現金収入至上主義ではなかった
⇒なので証券業界などは不労所得を扱うので蔑視されていた
⇒今はサラリーマンから年金生活者までNISAが国から推奨される時代
・政党は本来「部分の代表」であり立憲政友会は地主、立憲民政党は中間層の代表だった
⇒どちらもが「全体の代表」を標榜して部分の折り合いをつける政党政治が機能しなくなった
⇒血盟団・5.15で政党政治が崩壊したのではなく政治家が変質して翼賛選挙・全体主義へ
⇒今の日本でも公明党と日本共産党以外は全て「全体の代表」を標榜する「無代表政党」に?
・石原莞爾には陸軍も海軍も新聞も国民も巻き込むイデオロギーを作る力があった
⇒当時の議会や政党には対抗できるイデオロギーを作る力がなかった
・2022年4月から公立高校の授業では「歴史総合」が必須科目となった
⇒山川出版社の教科書は大人が読んでも良い内容で簡単に入手できるのでオススメ
・日露戦争から28年間も二国間戦争をしていなかった軍隊は官僚化していた
⇒座学と演習で好成績の者を重用する組織に
⇒演習は局地戦であり近代的な物量戦の怖さは忘れ去られていた?
⇒官僚化すれば派閥もでき派閥抗争は軍隊としては致命的な欠陥
⇒それでも局地戦での連勝を美化して国際連盟脱退などの世論を醸成した
(中国北部の軍閥装備が関東軍より劣っていただけでソ連支援を受けた上海航空戦では互角)
⇒戦争の本当の怖さを知ったのは1939年(昭和14年)のノモンハン事件
⇒3万人の師団が壊滅したが報道管制してフェイクニュースを流し、その戦訓は無視された
⇒その後の日本軍に起きることを凝縮している事件
・明治憲法の議会制民主主義と政党政治の理論的基礎を担保していた天皇機関説
⇒1935年に政府が公式に否定した⇒ファシズム国家へ
(それまでは東京帝大法学部の憲法学でも天皇主権説と天皇機関説の2講座が必須科目で、
高等文官試験でも必ず2説から出題されていた)
・昭和9年(1934)に陸軍省新聞班が公表した各国陸軍の兵力
平時兵力 陸軍航空機数 戦車
ソ連 約130万人 約3000機 約3000両
中華民国 約200万人 約500機
アメリカ 約32万人 約2000機⇒3000機に拡張中 約500両
日本 約23万人 約1000機内外
⇒なので1国と戦うにしても強化のために国内統制しなければならないという理屈
⇒さらに強い兵員になるべき国民の健康強化のために昭和15年(1940)には厚生省も設置
⇒あとは日露戦争のように物資力の不足を精神力で補えば短期戦・殲滅戦なら勝てる
⇒殲滅戦で勝利できなければ被殲滅戦になる⇒それでも全滅(玉砕)すべき
(それで局面が変わるかもしれないから、という発想が当時からあった)
・満州国とソ連・モンゴル(ソ連の衛星国)との国境線は5000km
⇒1937年に113回、1938年には166回の国境紛争が起きている(1939年にノモンハン事件)
⇒戦争が始まるのは時間の問題なので中国とは早く手を握りたかった
⇒アメリカやイギリスは中国の抗日を支援し共産主義のソ連と一緒に日本包囲網を形成した
⇒この呉越同舟は日本軍の予想外だった
⇒この包囲網は主義主張に関係なく日本人を追い出したかった蒋介石の手腕かも
⇒1920年代にソ連で国民党の組織づくりを学び息子の蒋経国をモスクワに留学させている
⇒さらにプロテスタントでアメリカ・イギリスから宗教的に信頼されていた
・軍事用語の中立化する(ニュートラリゼーション)とは敵を捕虜にするか逃がすか殺すか
⇒敵かもしれない相手(便衣隊かも)⇒殺せば確実に中立化する⇒南京での三光作戦など
(戦時国際法でゲリラの抵抗権も一定認められるのは戦後から)
⇒犠牲者数が不明でも南京で虐殺があった事実は2022年度から文部省の学習指導要領にも
・ノモンハン物量戦の敗北を教訓にせずひた隠しにして現場の指揮官を自決させた
⇒その後の南洋諸島でも沖縄戦でも同じ
⇒ノモンハンを教訓にしていれば太平洋戦争突入にも慎重になってたかも
・ワシントン会議(1922)の戦艦5:5:3とロンドン海軍軍縮会議(1930)の補助艦10:10:7
⇒ランチェスターの法則からは25:25:9と100:100:49なので抗議した
(攻撃力は白兵戦では数に比例するが遠隔戦では数の二乗に比例する)
⇒戦艦を10:7(100:49)まで増強して残り半分は精神力(大和魂)で勝つのだと・・・
・「正常な判断力を失い対米戦に突入した」と言われてきたが対米戦への布石はあった
(なので東亜新秩序の建設に多くの日本人が熱狂した心情も少しはわかる気がする)
⇒1931年9月・満州事変⇒米国に頼っていたエネルギーや物資を中国大陸ルートに
⇒1940年3月・汪兆銘政権(南京政府)樹立⇒蒋介石政権(重慶政府)に対抗し傀儡中華民国に
⇒1940年9月・日独伊三国同盟締結⇒英米に対抗する
⇒1941年4月・日ソ中立条約締結⇒北方での満州国とソ連の棲み分け
⇒1940年9月・北部仏印に進駐⇒ゴムなどの入手と蒋介石援助ラインの遮断
⇒1941年7月・南部仏印に進駐⇒同上と蘭印・東南アジア全域への足がかり
⇒仏印も蘭印も母国はドイツに占領されており英国の占領も時間の問題だった
⇒東南アジアで英仏蘭が支配していた植民地の石油などの資源も全て日本の手中に
(それでも米国の植民地フィリピンさえ手を出さなければ対米戦はないという安易な前提)
・1941年6月に独ソ戦がはじまり、その想定シナリオが狂ったが・・・
⇒独ソ戦に合わせ(南方進出ではなく)満洲からソ連に侵攻しておれば・・・
⇒少なくとも対米戦はなかったはず
⇒逆に日ソ中立条約に矛盾するという理由で三国同盟を破棄しておれば・・・
⇒ソ連との関係を安定化して日米交渉もできたはず
(ハル・ノートの段階でも首脳会談はまだ可能で満洲での利権など条件交渉はできた)
(中国や東南アジアからの撤兵を約束して義勇兵として同数を送り込むこともできた)
⇒マレー半島でもシンガポール占領で「先には進出しない」と停戦を呼び掛けておれば・・・
⇒対ドイツ戦に集中したかったイギリスが応じていた可能性は高かったはず
・どれも実現せず結局は日米開戦から破滅の道へ・・・
・戦争を防ぎ平和に向かうための要因
①文民統制の徹底
⇒ロシア・ウクライナ戦争で防衛研究所の研究者や元自衛隊幹部が無責任な立場で不正確な
発言を繰り返しているが、彼らには国際政治の基本的知識が欠如している⇒監視批判が必要
(戦前は統帥権で文民統制の発想がなかった)
②軍産複合体の動きへの注視
⇒日本の安全保障に防衛産業の育成は重要だが野放しではなく国会のコントロールが必要
(防衛装備移転三原則の運用などは国家安全保障会議の役人が勝手に決めることではない)
⇒外務省は5000人だが防衛省は25万人の巨大組織であり利権構造への歯止めが必要
(戦前は財閥=軍事産業で戦争が金儲けの手段だった)
③国民によるメディア監視
⇒メディアと防衛省・自衛隊が一体化して勇ましい方向にむかうときに諫める
(戦前は戦争を批判する媒体が殆どなく、あれば徹底的に弾圧された)
・2024年11月に融通の利かない検察官カマラ・ハリスを破りトランプが大統領に当選した
⇒トランプはおかしなやつとカリカチュア化せず彼の心の善性に目を向けるべき???
「対決!日本史」という対談集(現時点では1~6まで)であります
ええ、ようやく読み終えましたので・・・


「1戦国から鎖国編」の表紙

最新刊「6アジア・太平洋戦争編」の表紙
横になってますが第1巻の奥付

第6巻が2025年7月20日の発行なので、5年間で6冊が出てることになりますね
対談者紹介


こっちの方が見やすいかな・・・

ま、政党や団体に関する両者の意見については「そうかな?」と感じる部分もありましたが、
事実として紹介されている部分には知らなかったことも多く、まさに目からウロコで、
その根拠となる閲覧可能な資料文献なども列挙されてて納得できました
第1巻の目次





1より
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・イエズス会・十字軍・レコンキスタ・帝国主義・鉄砲伝来(売り込み)・薩摩の硫黄
・アジア支配⇒日本カトリック兵による中国征服を目指し布教していた
・理解していた信長・秀吉の重商主義・中央集権から家康の農本主義・地方分権へ

第2巻の目次





2より
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・幕末維新と明治の軍国主義には様々な問題があった⇒現在進行形の問題でもある
⇒なのでそれに陶酔するのはいけない
⇒司馬遼太郎の「坂の上の雲」は1968~1972の作品
⇒当時(高度成長期)にはよかったが現代人が司馬史観に心酔し過ぎるのは危険
・南北戦争(1861~1865)が終わり行き場のない南部系の武器と商人が日本へ
⇒西南戦争1877にも影響している
・なぜ人類は石油エネルギーから転換できないのか
⇒自動車や発電は再生エネルギーに転換できるがミサイルや戦闘機、戦車には
石油より効率的な燃料がまだ見つかっていないから(佐藤)
⇒兵器の問題も敵対心とエゴイズムの問題
・江戸時代は(明治の地租改正まで)公地公民制で社会主義に近い
⇒仏教思想により敵愾心とエゴイズムを制御し享保の改革ぐらいまでは理想社会だった
⇒商品流通の変化や飢饉・天災・人口(浪人)増加により崩れ、以後は次々と変革していく
⇒パクス・トクガワーナ265年といっても決して同じ体制ではなく長期的に見るべき
・なぜ孝明天皇毒殺説は避けられ事実を知った会津藩士は徹底的に弾圧されたか
⇒伊藤博文から戦後の岸信介・佐藤栄作・菅直人・安倍晋三まで長州藩出身の首相が多い
・薩摩藩の琉球を通じた清国密貿易と長州藩の対馬を通じた朝鮮密貿易(表面上は攘夷)
・江戸っ子の「宵越しのカネは持たねえ」
⇒貯金しなくても日当だけで銭湯・博打・浮世絵・床屋など豊かに暮らせたから
⇒なので薩摩長州と異なり経済合理主義や海外貿易による経済発展には消極的だった
⇒さらに150万都市江戸は循環型社会システムで継続できた
・当時のシャム(タイ)も日本も、どこかの国が植民地にすればアジアでのパワーバランスが
崩れる状況で各国の戦線は伸びきっており、僅かに余裕があったのは英仏のみ
⇒それでもフランスは1968年1月19日に徳川幕府に再挙を勧告したが拒絶された
(征夷大将軍は天皇には逆らえないと)
⇒直後の1968年1月25日に英米仏伊蘭普が局外中立を布告、英仏代理戦争は回避された
(江戸城無血開城がなければ江戸は廃墟になり英仏が介入していた)
(パリ万博出展や民衆の識字率の高さから植民地支配より貿易が有利と判断したとも)
・勝海舟vs西郷隆盛の政治が現代版新選組vs現代版奇兵隊にならないように・・・
・ゲベール銃の有効射程は100~300m、ミニエー銃やエンフィールド銃は300~900m
⇒同距離での命中率も大きく異なり鳥羽伏見では薩長3000:幕府15000でも薩長が有利に
・奈良の吉野だけは国家神道が入り込めず寺院は旅館になった⇒南朝の伝統が残っていた
・日本は1905年の日露戦争終結から1939年のノモンハン事件までの34年間、本格的な近代戦を
戦っていない⇒34年間といえば軍人のほぼ一生⇒軍人が完全に官僚化していった
⇒明治の学制改革と昭和20年の敗戦は一直線でつながっている
・明治4年の歳出の32%が藩主・士族への失業手当、19%が軍事費、あとはインフラ整備と
豪商からの借金返済で8割以上、地租改正したが何も反対給付はなく豪農による民権運動へ
・江戸から明治は緩やかなコミュニティから自発的なアソシエーションへの参加へ
・新島襄は国会の早期開設に反対していた⇒公民意識のある人材を育てるのが先だと
⇒身分関係が残る中の制限選挙ではアメリカのような金権政治が横行すると心配していた
・豪農やエリートの自由民権運動と民衆宗教の誕生はコインの裏表
⇒大正デモクラシーへ⇒それでも抜けてたのがジェンダー⇒民衆宗教へ
(今の時代のデモクラシーも「すべての動植物」が主体に入っていない人間中心の民主主義)
・農本主義から重商主義へ、分権主義から中央集権主義へ体制を大転換させた明治維新には
功も罪もあり等身大で見直して評価すべき・・・
・・・と、3~5は疲れてきたのでメモしませんでしたが目次だけでも・・・
各巻に国際情勢などの最新情報が、それと関係する歴史的事実と合わせて述べられており、
それが各巻の目次にも反映されてます

第3巻の目次






第4巻の目次





第5巻の目次





第6巻の目次






さすがに第6巻は最新刊だし戦後に直結するハナシなのでメモしました

(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・満州事変(柳条湖事件1931)からノモンハン事件(1939)に至る歴史を9時間で学べる映画
⇒五味川順平原作・山本薩男監督の「戦争と人間」(全3部作1970~73)
(70年代の商業映画は関東軍の謀略や731部隊を描く大作が普通に成り立っていた)
・伊丹万作・アーノルド・ファンク共同監督・ヨセフ・ゲッペルス製作「新しき土」1937
⇒日本人もドイツ人もお互い「血と土と名誉を重んじ狭い国土なので植民すべき優秀な民族」
という宣伝映画でラストは16歳の主演女優・原節子が満洲でトラクターを・・・
・明治維新から支配してきた薩長中心の天皇側近・既成政党・財閥・官憲・特権階級
⇒これらを一掃しようとしたのが昭和維新
⇒日産(満洲)や石原産業(東南アジア)などベンチャー企業と結託した石原莞爾らの派閥
⇒5.15事件では青年将校が独走したが満州では成功した⇒財閥も一緒に乗ってきた
・「古代オリエント史と私」三笠宮崇仁著1984学生社
・農本主義
⇒天皇から幕府⇒各藩へと土地と農民を国替えしながら預かる体制⇒きわめて社会主義的
⇒これが北一輝らの国家社会主義の理想の原像ではなかったか
⇒戦後高度成長期のモノ作り労働者も根っこは農本主義だった⇒農作業のアナロジー(類比)
⇒モノ作りに喜びを見出していたのであって現金収入至上主義ではなかった
⇒なので証券業界などは不労所得を扱うので蔑視されていた
⇒今はサラリーマンから年金生活者までNISAが国から推奨される時代
・政党は本来「部分の代表」であり立憲政友会は地主、立憲民政党は中間層の代表だった
⇒どちらもが「全体の代表」を標榜して部分の折り合いをつける政党政治が機能しなくなった
⇒血盟団・5.15で政党政治が崩壊したのではなく政治家が変質して翼賛選挙・全体主義へ
⇒今の日本でも公明党と日本共産党以外は全て「全体の代表」を標榜する「無代表政党」に?
・石原莞爾には陸軍も海軍も新聞も国民も巻き込むイデオロギーを作る力があった
⇒当時の議会や政党には対抗できるイデオロギーを作る力がなかった
・2022年4月から公立高校の授業では「歴史総合」が必須科目となった
⇒山川出版社の教科書は大人が読んでも良い内容で簡単に入手できるのでオススメ
・日露戦争から28年間も二国間戦争をしていなかった軍隊は官僚化していた
⇒座学と演習で好成績の者を重用する組織に
⇒演習は局地戦であり近代的な物量戦の怖さは忘れ去られていた?
⇒官僚化すれば派閥もでき派閥抗争は軍隊としては致命的な欠陥
⇒それでも局地戦での連勝を美化して国際連盟脱退などの世論を醸成した
(中国北部の軍閥装備が関東軍より劣っていただけでソ連支援を受けた上海航空戦では互角)
⇒戦争の本当の怖さを知ったのは1939年(昭和14年)のノモンハン事件
⇒3万人の師団が壊滅したが報道管制してフェイクニュースを流し、その戦訓は無視された
⇒その後の日本軍に起きることを凝縮している事件
・明治憲法の議会制民主主義と政党政治の理論的基礎を担保していた天皇機関説
⇒1935年に政府が公式に否定した⇒ファシズム国家へ
(それまでは東京帝大法学部の憲法学でも天皇主権説と天皇機関説の2講座が必須科目で、
高等文官試験でも必ず2説から出題されていた)
・昭和9年(1934)に陸軍省新聞班が公表した各国陸軍の兵力
平時兵力 陸軍航空機数 戦車
ソ連 約130万人 約3000機 約3000両
中華民国 約200万人 約500機
アメリカ 約32万人 約2000機⇒3000機に拡張中 約500両
日本 約23万人 約1000機内外
⇒なので1国と戦うにしても強化のために国内統制しなければならないという理屈
⇒さらに強い兵員になるべき国民の健康強化のために昭和15年(1940)には厚生省も設置
⇒あとは日露戦争のように物資力の不足を精神力で補えば短期戦・殲滅戦なら勝てる
⇒殲滅戦で勝利できなければ被殲滅戦になる⇒それでも全滅(玉砕)すべき
(それで局面が変わるかもしれないから、という発想が当時からあった)
・満州国とソ連・モンゴル(ソ連の衛星国)との国境線は5000km
⇒1937年に113回、1938年には166回の国境紛争が起きている(1939年にノモンハン事件)
⇒戦争が始まるのは時間の問題なので中国とは早く手を握りたかった
⇒アメリカやイギリスは中国の抗日を支援し共産主義のソ連と一緒に日本包囲網を形成した
⇒この呉越同舟は日本軍の予想外だった
⇒この包囲網は主義主張に関係なく日本人を追い出したかった蒋介石の手腕かも
⇒1920年代にソ連で国民党の組織づくりを学び息子の蒋経国をモスクワに留学させている
⇒さらにプロテスタントでアメリカ・イギリスから宗教的に信頼されていた
・軍事用語の中立化する(ニュートラリゼーション)とは敵を捕虜にするか逃がすか殺すか
⇒敵かもしれない相手(便衣隊かも)⇒殺せば確実に中立化する⇒南京での三光作戦など
(戦時国際法でゲリラの抵抗権も一定認められるのは戦後から)
⇒犠牲者数が不明でも南京で虐殺があった事実は2022年度から文部省の学習指導要領にも
・ノモンハン物量戦の敗北を教訓にせずひた隠しにして現場の指揮官を自決させた
⇒その後の南洋諸島でも沖縄戦でも同じ
⇒ノモンハンを教訓にしていれば太平洋戦争突入にも慎重になってたかも
・ワシントン会議(1922)の戦艦5:5:3とロンドン海軍軍縮会議(1930)の補助艦10:10:7
⇒ランチェスターの法則からは25:25:9と100:100:49なので抗議した
(攻撃力は白兵戦では数に比例するが遠隔戦では数の二乗に比例する)
⇒戦艦を10:7(100:49)まで増強して残り半分は精神力(大和魂)で勝つのだと・・・
・「正常な判断力を失い対米戦に突入した」と言われてきたが対米戦への布石はあった
(なので東亜新秩序の建設に多くの日本人が熱狂した心情も少しはわかる気がする)
⇒1931年9月・満州事変⇒米国に頼っていたエネルギーや物資を中国大陸ルートに
⇒1940年3月・汪兆銘政権(南京政府)樹立⇒蒋介石政権(重慶政府)に対抗し傀儡中華民国に
⇒1940年9月・日独伊三国同盟締結⇒英米に対抗する
⇒1941年4月・日ソ中立条約締結⇒北方での満州国とソ連の棲み分け
⇒1940年9月・北部仏印に進駐⇒ゴムなどの入手と蒋介石援助ラインの遮断
⇒1941年7月・南部仏印に進駐⇒同上と蘭印・東南アジア全域への足がかり
⇒仏印も蘭印も母国はドイツに占領されており英国の占領も時間の問題だった
⇒東南アジアで英仏蘭が支配していた植民地の石油などの資源も全て日本の手中に
(それでも米国の植民地フィリピンさえ手を出さなければ対米戦はないという安易な前提)
・1941年6月に独ソ戦がはじまり、その想定シナリオが狂ったが・・・
⇒独ソ戦に合わせ(南方進出ではなく)満洲からソ連に侵攻しておれば・・・
⇒少なくとも対米戦はなかったはず
⇒逆に日ソ中立条約に矛盾するという理由で三国同盟を破棄しておれば・・・
⇒ソ連との関係を安定化して日米交渉もできたはず
(ハル・ノートの段階でも首脳会談はまだ可能で満洲での利権など条件交渉はできた)
(中国や東南アジアからの撤兵を約束して義勇兵として同数を送り込むこともできた)
⇒マレー半島でもシンガポール占領で「先には進出しない」と停戦を呼び掛けておれば・・・
⇒対ドイツ戦に集中したかったイギリスが応じていた可能性は高かったはず
・どれも実現せず結局は日米開戦から破滅の道へ・・・
・戦争を防ぎ平和に向かうための要因
①文民統制の徹底
⇒ロシア・ウクライナ戦争で防衛研究所の研究者や元自衛隊幹部が無責任な立場で不正確な
発言を繰り返しているが、彼らには国際政治の基本的知識が欠如している⇒監視批判が必要
(戦前は統帥権で文民統制の発想がなかった)
②軍産複合体の動きへの注視
⇒日本の安全保障に防衛産業の育成は重要だが野放しではなく国会のコントロールが必要
(防衛装備移転三原則の運用などは国家安全保障会議の役人が勝手に決めることではない)
⇒外務省は5000人だが防衛省は25万人の巨大組織であり利権構造への歯止めが必要
(戦前は財閥=軍事産業で戦争が金儲けの手段だった)
③国民によるメディア監視
⇒メディアと防衛省・自衛隊が一体化して勇ましい方向にむかうときに諫める
(戦前は戦争を批判する媒体が殆どなく、あれば徹底的に弾圧された)
・2024年11月に融通の利かない検察官カマラ・ハリスを破りトランプが大統領に当選した
⇒トランプはおかしなやつとカリカチュア化せず彼の心の善性に目を向けるべき???
2026年05月19日
世界史の食べ歩き方
とーとつですが・・・

世界「史」の食べ歩き方であります
著者紹介

そう、登録者30万人超のプロ・ユーチューバーで、You Tubeのコンプライアンス規定上、
ありのまま伝えても規制がかかることがあり、そのために配信できなかった部分も含めて
本書で詳しく紹介・・・
とありましたが著者はじめての本だそうで、国境エリアなど滅多に観光客が行かないエリアの
料理と、タイトルどおりそのエリアと世界史との関係が紹介されてました
奥付

目次



このうち第5章「内モンゴル自治区の最果てで」(142~165頁)の一部のみメモしました
そう、わたくし中国・内モンゴル自治区には植林ボランティア活動で1999年から2018年まで、
十数回は訪問しており、本書は2025年3月の訪問記録なので最新情報といえるでしょう
(以下てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第5章1より
・モンゴルは清朝の支配時代に内(皇帝の居住地に近い)と外(遠い)に分かれたとされる
⇒辛亥革命で清朝が崩壊し外蒙古のモンゴル族が独立を宣言
⇒1921年にソビエト連邦の支援を受け正式に独立国として承認された
(補足すれば帝政ロシア・中華民国・大日本帝国の一部支配時代もあり、戦後は中華人民共和国の
「内蒙古自治区」とソビエト連邦の衛星国としての「モンゴル人民共和国」に分断され、
ソ連崩壊により外モンゴルは1992年に社会主義を放棄して「モンゴル国」となったものの、
内モンゴルは中国の自治区のままでモンゴル族の割合が減少している状況です)
・モンゴルは中国に支配されたり支配したりを繰り返し、現在は外モンゴルだけがモンゴル国
⇒昔からロシアの影響が強く街並みが旧ソ連のようで独特な雰囲気
・内モンゴルは同じ民族だったエリアが分断されている状態とも言える
⇒中国政府から自治が与えられているがモンゴル族の文化や暮らしは薄れている
・内モンゴル自治区の中心都市は呼和浩特(フフホト)で、北京から高速鉄道で約3時間、
飛行機なら1時間と割と近い
(わたくしが通ってたのは呼和浩特(フフホト)西隣の大都市・包頭(バオトウ)から黄河を渡った
恩格貝の沙漠地域で、90年代には北京から包頭まででも夜行列車で15時間でした)
・今回の満洲里はフフホトからさらに飛行機で2時間、鉄道なら9時間の最果てにある
⇒中国・ロシア・モンゴルの交わる国境地で戦前には日本が深く関係していた
⇒ロシアと隣接しており極東ロシアの文化も入り混じった独特の文化圏
第5章2より
・満洲里はロシアのザバイカリスクという町に隣接しており商売や買い物のロシア人も多い
⇒シベリア鉄道の国際支線があり北京モスクワ間の入国審査や台車交換をする駅
⇒つまりアジアとヨーロッパの境界駅となる
・ホテルもロシア風で2軒目はマトリョーシカの形をした不思議系ホテルにしたが、
真横にあるマトリョーシカ・テーマパークも店も閉鎖されてた
・繁華街にはロシア風の建物もキリル文字の看板も多いのでロシアの田舎町の雰囲気
⇒本格的なロシア料理が楽しめるがグルメ記は別掲
・国境を見渡せるタワーには100元(2200円)で上れた
⇒中国は国境エリアを観光地化してるが何故かロシア国境は厳しめ
⇒ロシアへの経済制裁によりシベリア鉄道による中国や北朝鮮からの物資輸送が増えている
⇒モンゴル国境は平野の30km先なので見えなかった
第5章3より
・満洲里は満州族の村をあらわす地名でロシア語でもマンジュリ
⇒シベリア鉄道の国際支線があり日本から朝鮮・満州への輸送網の重要拠点だった
⇒南満州鉄道の玄関口で「満鉄付属地」として日本が管理しインフラ整備していった結果、
ロシア側のザバイカリスクより発展した
⇒東京から鉄道でパリへ行く場合、門司から大連までは客車を船に乗せ、大連から満洲里までは
満州鉄道、満洲里からはシベリア鉄道に客車を連結してヨーロッパへ
⇒東京からパリまで1枚の切符で行けた時代があった
・満洲里は軍事的にも重要拠点でハイラル・ノモンハン事件は有名
⇒現在の満洲里博物館は戦前の日本人小学校だが展示は日本の侵略がメインだった
⇒満洲里で金日成と毛沢東が協力し日本軍を追い出したというストーリー
⇒満州族エリアと朝鮮族エリアも吉林省など密接な関係がある
⇒戦後初めて満洲里からの国家主席外遊(ソ連へ)に使われた日本製蒸気機関車JFミカイ型
第5章4より
・中国人観光客はロシアショップでこぞって高級ウオッカ「ベルーガ」などを買っていた
⇒ショップの店員は一応ロシア語は通じるが殆どが漢民族系かモンゴル族系だった
⇒隣接するロシアの町で商品を仕入れ販売しているだけかも知れない
⇒だが出稼ぎや仕事の関係で来ているロシア人は他の街に較べてダントツに多い印象
・有名ロシア料理店の食のレベルは高く、どれもが美味しかった(略)
⇒旧共産圏の国の食事は美味しく今回の満洲里でも証明された
第5章5より
・内モンゴル自治区には多くの漢民族が流入し、モンゴル族の文化が薄れつつある
⇒モンゴルに近い満洲里でも街中にモンゴル感はあまりなく、むしろロシア感が強い
⇒これはモンゴルのウランバートルでも同じだった
⇒フルンボイル市ハイラル区には伝統的な内モンゴル文化が残ってるが今回は行けなかった
・満洲里で内モンゴル料理が食べられるローカル店にタクシーで案内してもらった
⇒店内は精肉店みたいな感じで肉と調理方法を選ぶ仕組み
⇒「羊のスペアリブを蒸す」を選択しオススメの麵料理も注文した
⇒麺は羊肉スープに白いうどんとパクチーのシンプルな料理だったが若干の羊臭がした
⇒スペアリブは蒸して余分な油が落ちたせいかジューシーさを残しつつ美味しかったが、
ニンニクとミントのソース、中華タレ、塩でも煮込み・茹で・蒸しでの獣臭は苦手だった
⇒だがモンゴルで食べた料理よりは美味しく感じた・・・
さてさて、わたくしの昔の経験とは全く逆の羊肉感想でしたが、いかがでしょう・・・
わたくしはモンゴルのキャンプ場で羊の石焼き(ミルク缶による蒸し焼き)をはじめて食べて
全く臭みのない岩塩のみのシンプルな美味しさに感動してました
その後に内モンゴルの賓館で同様のを食べましたが独特の羊臭を若干感じてました
(それでも美味しくて腹いっぱい食べたけど)
おそらく当時のモンゴルの羊は大草原で放牧され、その後に食べた内モンゴルの羊は飼料で
育てられた羊で、その差だと推測してましたが、今ではどうなんでしょうね
モンゴルでも草原放牧は減少してるらしいし、エーデルワイスやミントなどの高山植物を
食べて育った全く臭みのない羊肉なんて、今や稀少なのかも知れません
ちなみに「羊肉うどん」はモンゴルでは食べたけど、内モンゴルで食べた記憶がありません
甘粛省や寧夏回族自治区でも麺類はけっこう食べたけど、どれも麺がイマイチだったので、
中華麺も今のところ日本のが一番の好みですね

世界「史」の食べ歩き方であります
著者紹介

そう、登録者30万人超のプロ・ユーチューバーで、You Tubeのコンプライアンス規定上、
ありのまま伝えても規制がかかることがあり、そのために配信できなかった部分も含めて
本書で詳しく紹介・・・
とありましたが著者はじめての本だそうで、国境エリアなど滅多に観光客が行かないエリアの
料理と、タイトルどおりそのエリアと世界史との関係が紹介されてました
奥付

目次



このうち第5章「内モンゴル自治区の最果てで」(142~165頁)の一部のみメモしました
そう、わたくし中国・内モンゴル自治区には植林ボランティア活動で1999年から2018年まで、
十数回は訪問しており、本書は2025年3月の訪問記録なので最新情報といえるでしょう
(以下てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第5章1より
・モンゴルは清朝の支配時代に内(皇帝の居住地に近い)と外(遠い)に分かれたとされる
⇒辛亥革命で清朝が崩壊し外蒙古のモンゴル族が独立を宣言
⇒1921年にソビエト連邦の支援を受け正式に独立国として承認された
(補足すれば帝政ロシア・中華民国・大日本帝国の一部支配時代もあり、戦後は中華人民共和国の
「内蒙古自治区」とソビエト連邦の衛星国としての「モンゴル人民共和国」に分断され、
ソ連崩壊により外モンゴルは1992年に社会主義を放棄して「モンゴル国」となったものの、
内モンゴルは中国の自治区のままでモンゴル族の割合が減少している状況です)
・モンゴルは中国に支配されたり支配したりを繰り返し、現在は外モンゴルだけがモンゴル国
⇒昔からロシアの影響が強く街並みが旧ソ連のようで独特な雰囲気
・内モンゴルは同じ民族だったエリアが分断されている状態とも言える
⇒中国政府から自治が与えられているがモンゴル族の文化や暮らしは薄れている
・内モンゴル自治区の中心都市は呼和浩特(フフホト)で、北京から高速鉄道で約3時間、
飛行機なら1時間と割と近い
(わたくしが通ってたのは呼和浩特(フフホト)西隣の大都市・包頭(バオトウ)から黄河を渡った
恩格貝の沙漠地域で、90年代には北京から包頭まででも夜行列車で15時間でした)
・今回の満洲里はフフホトからさらに飛行機で2時間、鉄道なら9時間の最果てにある
⇒中国・ロシア・モンゴルの交わる国境地で戦前には日本が深く関係していた
⇒ロシアと隣接しており極東ロシアの文化も入り混じった独特の文化圏
第5章2より
・満洲里はロシアのザバイカリスクという町に隣接しており商売や買い物のロシア人も多い
⇒シベリア鉄道の国際支線があり北京モスクワ間の入国審査や台車交換をする駅
⇒つまりアジアとヨーロッパの境界駅となる
・ホテルもロシア風で2軒目はマトリョーシカの形をした不思議系ホテルにしたが、
真横にあるマトリョーシカ・テーマパークも店も閉鎖されてた
・繁華街にはロシア風の建物もキリル文字の看板も多いのでロシアの田舎町の雰囲気
⇒本格的なロシア料理が楽しめるがグルメ記は別掲
・国境を見渡せるタワーには100元(2200円)で上れた
⇒中国は国境エリアを観光地化してるが何故かロシア国境は厳しめ
⇒ロシアへの経済制裁によりシベリア鉄道による中国や北朝鮮からの物資輸送が増えている
⇒モンゴル国境は平野の30km先なので見えなかった
第5章3より
・満洲里は満州族の村をあらわす地名でロシア語でもマンジュリ
⇒シベリア鉄道の国際支線があり日本から朝鮮・満州への輸送網の重要拠点だった
⇒南満州鉄道の玄関口で「満鉄付属地」として日本が管理しインフラ整備していった結果、
ロシア側のザバイカリスクより発展した
⇒東京から鉄道でパリへ行く場合、門司から大連までは客車を船に乗せ、大連から満洲里までは
満州鉄道、満洲里からはシベリア鉄道に客車を連結してヨーロッパへ
⇒東京からパリまで1枚の切符で行けた時代があった
・満洲里は軍事的にも重要拠点でハイラル・ノモンハン事件は有名
⇒現在の満洲里博物館は戦前の日本人小学校だが展示は日本の侵略がメインだった
⇒満洲里で金日成と毛沢東が協力し日本軍を追い出したというストーリー
⇒満州族エリアと朝鮮族エリアも吉林省など密接な関係がある
⇒戦後初めて満洲里からの国家主席外遊(ソ連へ)に使われた日本製蒸気機関車JFミカイ型
第5章4より
・中国人観光客はロシアショップでこぞって高級ウオッカ「ベルーガ」などを買っていた
⇒ショップの店員は一応ロシア語は通じるが殆どが漢民族系かモンゴル族系だった
⇒隣接するロシアの町で商品を仕入れ販売しているだけかも知れない
⇒だが出稼ぎや仕事の関係で来ているロシア人は他の街に較べてダントツに多い印象
・有名ロシア料理店の食のレベルは高く、どれもが美味しかった(略)
⇒旧共産圏の国の食事は美味しく今回の満洲里でも証明された
第5章5より
・内モンゴル自治区には多くの漢民族が流入し、モンゴル族の文化が薄れつつある
⇒モンゴルに近い満洲里でも街中にモンゴル感はあまりなく、むしろロシア感が強い
⇒これはモンゴルのウランバートルでも同じだった
⇒フルンボイル市ハイラル区には伝統的な内モンゴル文化が残ってるが今回は行けなかった
・満洲里で内モンゴル料理が食べられるローカル店にタクシーで案内してもらった
⇒店内は精肉店みたいな感じで肉と調理方法を選ぶ仕組み
⇒「羊のスペアリブを蒸す」を選択しオススメの麵料理も注文した
⇒麺は羊肉スープに白いうどんとパクチーのシンプルな料理だったが若干の羊臭がした
⇒スペアリブは蒸して余分な油が落ちたせいかジューシーさを残しつつ美味しかったが、
ニンニクとミントのソース、中華タレ、塩でも煮込み・茹で・蒸しでの獣臭は苦手だった
⇒だがモンゴルで食べた料理よりは美味しく感じた・・・
さてさて、わたくしの昔の経験とは全く逆の羊肉感想でしたが、いかがでしょう・・・
わたくしはモンゴルのキャンプ場で羊の石焼き(ミルク缶による蒸し焼き)をはじめて食べて
全く臭みのない岩塩のみのシンプルな美味しさに感動してました
その後に内モンゴルの賓館で同様のを食べましたが独特の羊臭を若干感じてました
(それでも美味しくて腹いっぱい食べたけど)
おそらく当時のモンゴルの羊は大草原で放牧され、その後に食べた内モンゴルの羊は飼料で
育てられた羊で、その差だと推測してましたが、今ではどうなんでしょうね
モンゴルでも草原放牧は減少してるらしいし、エーデルワイスやミントなどの高山植物を
食べて育った全く臭みのない羊肉なんて、今や稀少なのかも知れません
ちなみに「羊肉うどん」はモンゴルでは食べたけど、内モンゴルで食べた記憶がありません
甘粛省や寧夏回族自治区でも麺類はけっこう食べたけど、どれも麺がイマイチだったので、
中華麺も今のところ日本のが一番の好みですね
2026年05月15日
バーエンド・ミラーその後
ええ、
先月末にダホン・ミューSP9(現エアスピードD9?)のグリップをエルゴンGP2に換装した、
・・・のですが、リンク記事のとおり右側バーエンド・ミラーが付けられなくなってました
ま、その後はGWを挟んで乾杯が続き、ポタリングに出かけることもなかったのですが、
ようやく半月ぶりに再開して、またふらふらと堺浜へ・・・
で、まずロードバイクに付けてたバーエンド・ミラーをセンター・ミラーにしてみたら、

誰かさんのビール腹が邪魔して、
後ろが殆ど見えねえ ううっ
腹が引き締まれば半分ぐらいは見えるのでしょうが、その可能性は極めて低いし・・・
つーことで今度はバーエンド部に装着してみると・・・

撮影時の腕が写ってますが通常姿勢だと後方視認性はロードバイクより高くなりました
・・・が、
バーエンド・ミラーをバーエンドに付けると
バーエンドが握れねえ ううっ
これではグリップ位置を変えたくてエルゴングリップにした意味がないか・・・
それでもロードバイクのブレーキブラケットを握る感覚には少し近づいたので、
とりあえず、この状態で試してみましたが・・・


やはり両手でグリップの先端を握れないという違和感が・・・
ま、実用としては、わたくしが車道を走行することは滅多にないので・・・
背後からの追い越しが多い歩道や自転車道で常時装着、グリップ位置を変えたくなったら、
その都度サイクルジャージのポケットに片手で収納することになりそうです
ま、片手のワンタッチ脱着ではガチガチに固定できないので衝撃で外れるかもですが、

どーせ折りたたむ際にはバッグなども外すことだし邪魔にはならないし・・・
当面はこれで・・・でも他にいい案はないのだろうか???
5/16追記です
4月1日から自転車の交通違反に対して交通反則通告制度(青切符)が適用されてますね
悪質・危険な違反が取り締まり対象とのことですが、マナーやエチケットどころかルールさえ
守らない(知らない?)自転車が確かに多いので、啓発にはいいことだと思ってます
わたくしはポタリングの際にも記事本文に書いたとおり、自転車専用道か「自転車通行可」の
表示のある歩道を走行するシーンが殆どです
歩道を走行する際の大原則は歩行者優先と徐行ですが、徐行とは「いつでも停まれる速度」、
ただし徐行を厳守するなら常に歩行者と同じ4km/h程度で走行しなければなりません
現実的には歩行者が多い歩道では徐行、少ない歩道では10km/hぐらいで漕いでますが、
歩行者の多少に関係なく、後ろからいきなり追い抜かれるシーンが多々あります
そう、電動ママチャリだと一瞬で15~20km/hぐらいまで加速できるんですね
交差点で青信号になり、ゆっくりスタートしてると電動ママチャリに追い抜かれますし、
その後も歩行者や自転車を左右に避けつつ、どんどん追い抜いてるシーンもよく見かけます
これが怖いので歩道や自転車道でもバックミラーは必携なのですが、さらに歩道で怖いのは
「自転車は左対向」の原則を知らない自転車が多いことです
「自転車通行可」の表示のある歩道では、自転車は歩道の車道側を走行するのが基本ですが
歩道上は逆走禁止ではないので、歩道上で自転車どうしが対向するシーンはよくあります
この際には、車道が歩道のどちら側にあるかは関係なく「自転車どうしは左対向」が基本です
(さらに言えば軽車両も逆走が禁止されている車道はもちろん歩車分離のない狭い道路でも
道路交通法・車両運送法が適用される道路であれば、たとえ道路法上の道路でなくても
「自転車どうしは左対向」が日本国内では基本です)
それなのに、いきなり車道側や右側に寄せて対向しようとする自転車も多く、「こっちが
先に(右側に)寄せてやってるのに、なんで同じ側に寄せてくるんやっ!!!」と睨み返してくる
連中のなんと多いことか!!!
その度に怒鳴り返す優しく「軽車両は左対向ですよ」と諭すのですが・・・
でも国や自治体がやるべきことは、本来は自転車通行可の歩道標識や自転車への青切符よりも
自転車専用道の整備、これを観光地だけでなく都市でも都市間でも最優先にすべきでしょう
スペインやオーストラリアのローディやマウンテンバイカーを案内してポタリングした際に
まず最初に驚かれたのが「自転車通行可の歩道」での歩行者を避けながらの走行でしたし、
日本のクルマの多い車道を自転車で走行するのは、まだまだ危険すぎますからね・・・
先月末にダホン・ミューSP9(現エアスピードD9?)のグリップをエルゴンGP2に換装した、
・・・のですが、リンク記事のとおり右側バーエンド・ミラーが付けられなくなってました
ま、その後はGWを挟んで乾杯が続き、ポタリングに出かけることもなかったのですが、
ようやく半月ぶりに再開して、またふらふらと堺浜へ・・・
で、まずロードバイクに付けてたバーエンド・ミラーをセンター・ミラーにしてみたら、

誰かさんのビール腹が邪魔して、
後ろが殆ど見えねえ ううっ
腹が引き締まれば半分ぐらいは見えるのでしょうが、その可能性は極めて低いし・・・
つーことで今度はバーエンド部に装着してみると・・・

撮影時の腕が写ってますが通常姿勢だと後方視認性はロードバイクより高くなりました
・・・が、
バーエンド・ミラーをバーエンドに付けると
バーエンドが握れねえ ううっ
これではグリップ位置を変えたくてエルゴングリップにした意味がないか・・・
それでもロードバイクのブレーキブラケットを握る感覚には少し近づいたので、
とりあえず、この状態で試してみましたが・・・


やはり両手でグリップの先端を握れないという違和感が・・・
ま、実用としては、わたくしが車道を走行することは滅多にないので・・・
背後からの追い越しが多い歩道や自転車道で常時装着、グリップ位置を変えたくなったら、
その都度サイクルジャージのポケットに片手で収納することになりそうです
ま、片手のワンタッチ脱着ではガチガチに固定できないので衝撃で外れるかもですが、

どーせ折りたたむ際にはバッグなども外すことだし邪魔にはならないし・・・
当面はこれで・・・でも他にいい案はないのだろうか???
5/16追記です
4月1日から自転車の交通違反に対して交通反則通告制度(青切符)が適用されてますね
悪質・危険な違反が取り締まり対象とのことですが、マナーやエチケットどころかルールさえ
守らない(知らない?)自転車が確かに多いので、啓発にはいいことだと思ってます
わたくしはポタリングの際にも記事本文に書いたとおり、自転車専用道か「自転車通行可」の
表示のある歩道を走行するシーンが殆どです
歩道を走行する際の大原則は歩行者優先と徐行ですが、徐行とは「いつでも停まれる速度」、
ただし徐行を厳守するなら常に歩行者と同じ4km/h程度で走行しなければなりません
現実的には歩行者が多い歩道では徐行、少ない歩道では10km/hぐらいで漕いでますが、
歩行者の多少に関係なく、後ろからいきなり追い抜かれるシーンが多々あります
そう、電動ママチャリだと一瞬で15~20km/hぐらいまで加速できるんですね
交差点で青信号になり、ゆっくりスタートしてると電動ママチャリに追い抜かれますし、
その後も歩行者や自転車を左右に避けつつ、どんどん追い抜いてるシーンもよく見かけます
これが怖いので歩道や自転車道でもバックミラーは必携なのですが、さらに歩道で怖いのは
「自転車は左対向」の原則を知らない自転車が多いことです
「自転車通行可」の表示のある歩道では、自転車は歩道の車道側を走行するのが基本ですが
歩道上は逆走禁止ではないので、歩道上で自転車どうしが対向するシーンはよくあります
この際には、車道が歩道のどちら側にあるかは関係なく「自転車どうしは左対向」が基本です
(さらに言えば軽車両も逆走が禁止されている車道はもちろん歩車分離のない狭い道路でも
道路交通法・車両運送法が適用される道路であれば、たとえ道路法上の道路でなくても
「自転車どうしは左対向」が日本国内では基本です)
それなのに、いきなり車道側や右側に寄せて対向しようとする自転車も多く、「こっちが
先に(右側に)寄せてやってるのに、なんで同じ側に寄せてくるんやっ!!!」と睨み返してくる
連中のなんと多いことか!!!
その度に

でも国や自治体がやるべきことは、本来は自転車通行可の歩道標識や自転車への青切符よりも
自転車専用道の整備、これを観光地だけでなく都市でも都市間でも最優先にすべきでしょう
スペインやオーストラリアのローディやマウンテンバイカーを案内してポタリングした際に
まず最初に驚かれたのが「自転車通行可の歩道」での歩行者を避けながらの走行でしたし、
日本のクルマの多い車道を自転車で走行するのは、まだまだ危険すぎますからね・・・
2026年05月10日
GW乾杯メモ
10日ぶりの記事更新となりましたが・・・
GWの10日間(とその前後も)あちこちで乾杯
してたので備忘のためメモしておきます
まず4月28日には前回記事のとおり「お花畑キャンプ」で何度も乾杯してました
で、5月2日には家内の妹(酒豪
)がひさしぶりに自宅に来てくれて・・・

まずは赤のスパークリングワインで乾杯
たちまち3人で1本を空け、とりあえずビールに切り替えて・・・

こちらもひさしぶりの家内手作り煮込みハンバーグなんぞで再び乾杯
・・・

やがて手作り茶碗蒸しなんぞが出るとビールから日本酒へ・・・

日本酒からハイボール、そして再びビールへとゆーメビウスの輪になり・・・

ついにこの夜はお土産の立町カヌレまで辿り着かず、5時間は乾杯を繰り返しましたとさ
で、翌3日の昼には近所に引っ越してきた妹の友人(酒豪
)も招いて・・・

ネパール料理「サウラハ」のテイクアウトで4人で乾杯
ばくばく食べてかぱかぱ呑んでから、わたくしは中座して実家に向かいましたが、
さらに3人は赤ワインなんぞで延々と盛り上がってたそうです
で、3時にはwingさんがわたくしの実家に到着、4時前には川端さんも到着して・・・

ひさしぶりのライトOFF会つーか、おなじみまったりダベり会
つーことで6時過ぎには3人でふらふら歩いて麵屋・爽月へ

カツオ出汁の効いた「だし巻き卵」なんぞで・・・

まずは「店主おまかせ試飲セット」この夜は計6種類で乾杯

わたくしはこちらの3種類でしたが、中でも左の「諸事情」つーのは・・・
諸事情により通常通りに作れなかったら案外美味しくできた銘柄、とのことでした
wingさんはこちらの3種類

で、お気に入りになった左の濁り酒「THE MOON」をショットで追加したりして・・・


ごぼう天は出汁の効いた餡も秀逸でした(背景は追加した「肉入りだし巻き卵」
)

おなじみ「とり天」と、ひさしぶりの「おでんコロッケ」で、こちらも出汁が秀逸です

wingさん好みのハムカツ
と、もちろん〆は、

ざる蕎麦で・・・
と、夜食・朝食・飲み物・甘味をスーパーで買い出しして実家に戻りましたが・・・

わたくしは甘味なんぞで軽くダベっただけで11時過ぎにはシュラフに潜り込みました
そう、さすがに「乾杯疲れ」が出てきたのでしょうか・・・げふっ
(ま、買ったはずの助六寿司とかが何故か深夜には消えてましたが
)
で、翌朝8時半にはごつほざさんも来てくれ、まともなライトOFF会になって盛り上がり、
皆さん昼食に外出するのもめんどーになって、かつやのカツ丼をテイクアウト・・・


誰かさんだけビールで、2名はノンアルで、呑まない川端さんはコーヒーで乾杯
と「3ヶ月でマスターする古代文明」全12回を観ながらダベり続け、夕方には解散しました
で、4日の昼前には長男家族が名古屋から帰阪、いつもの公園の児童遊園で合流し・・・

いつもの「どこでも宴会セット」を拡げて・・・



家内の手作り弁当で乾杯
孫たちは公園を駆けまわり、約3分間だけボール投げに付き合った大阪じいじは、
たちまち足腰だけでなく上半身にも激痛が・・・うぐぐぐ
と、思い切り遊びまわった後の自宅での夕食は・・・




大阪じいじ手作りの「すき焼き」で乾杯
この夜も長男の嫁(酒豪
)らと大いに吞んで食べたのですが、孫(次女のほう)がすっかり
肉好きになっているのに驚きました
今や食べ物で大好きなのは麺類と肉類だそうで、これが隔世遺伝つーやつなのか???
ちなみに〆にはきしめんを投入しましたが、嫁は名古屋でもあまり食べないとのことで、
これも驚きでした
ま、孫(次女のほう)は麺類なら何でもちゅるちゅるばくばく
だそうですが・・・
で、彼らは8時過ぎには近所に予約していたゲストハウスに戻って早めの就寝
そう、翌5日は早朝からUSJユニバーサルスタジオジャパンだったのでありますね
わたくしたちも誘ってくれてたのですが、連休中で凄い人出だろうし、孫たちのお目当ては
マリオとかミニオンとかだろうし、つーことでこの日は彼らだけで行ってもらいましたが、
ゲストハウスに戻ったのは9時半を過ぎてたそうで、たっぷりと楽しんだようです
と、翌6日は6人全員が長男のクルマで・・・

ザ・シンフォニーホールでのコンサート(午前の部)へ・・・
「0歳児からのオーケストラ」つーことでしたが大人も充分に楽しめました
つーことで、この日の昼食は・・・

(長男が予約してくれてた)グラングリーン大阪B1にある、お好み焼き屋さんへ
まずは焼きそばで乾杯

ま、運転する長男夫婦はノンアルでしたが



孫(次女のほう)は肉と麺だけを選んでばくばく
、大阪じいじは手当たり次第にばくばく

〆の抹茶パフェなんぞもばくばくばく
長男家族とは店の前で分かれ、彼らはクルマで名古屋へ帰宅・・・
わたくしたち夫婦はJR環状線と南海本線でのんびり帰宅しました
そう、今はJR大阪駅に新線の「うめきた地下口」ができてるんですね 知りませんでした
で、昨日の5月9日には・・・

夕方からチン電「北天下茶屋」電停前にあるイタリアン「タルタルーガ」の2階へ・・・
まずはスパークリングワインで、


4人で乾杯
そう、こちらの記事後半のとおり、たまたま公園で出会ったトレック乗りの彼女(酒豪
)と、
彼女の彼氏(酒豪
)とは、その後すっかり呑み友達になってて家内と4人、前回は肥田シェフの
ぽたじぇで、今回はこちらでの呑み会となった次第なのでありますね
で、

美味しい前菜を食べ終える前に最初のスパークリングワインが空いてしまい、

2本目の白(びみょーにオレンジ?)ワインで2度目の乾杯
さらに・・・


ピザとペンネを食べ終える頃には白ワインも空いたので・・・
メインの肉料理にあわせて赤ワインを注文・・・

3度目の乾杯
であります
で、メインの肉料理は・・・

食べる前に撮ればよかったものを・・・
と、〆はもちろん


美味しいピザとパスタでした めでたしめでたし
と、気づけばこの日も5時から9時前まで4時間近く楽しい会話で過ごしてました
帰りはチン電(阪堺線)の本数が少なかったので南海・天下茶屋駅まで見送ってくれて、
無事に帰宅することができました ありがとね
お二人とも当ブログサイトの記事で折りたたみ小径車(ミニベロ)にも興味を持たれたようで、
いつかお気楽ポタリングにご一緒できるといいなあ
でも彼らは日帰りで軽く100kmは漕ぐそうですから、わたくしは迷惑なだけか・・・
さてさて、次回はいつどこの呑み会で乾杯できるかな・・・わくわく
GWの10日間(とその前後も)あちこちで乾杯
してたので備忘のためメモしておきます
まず4月28日には前回記事のとおり「お花畑キャンプ」で何度も乾杯してました

で、5月2日には家内の妹(酒豪
)がひさしぶりに自宅に来てくれて・・・
まずは赤のスパークリングワインで乾杯

たちまち3人で1本を空け、とりあえずビールに切り替えて・・・

こちらもひさしぶりの家内手作り煮込みハンバーグなんぞで再び乾杯
・・・
やがて手作り茶碗蒸しなんぞが出るとビールから日本酒へ・・・

日本酒からハイボール、そして再びビールへとゆーメビウスの輪になり・・・

ついにこの夜はお土産の立町カヌレまで辿り着かず、5時間は乾杯を繰り返しましたとさ
で、翌3日の昼には近所に引っ越してきた妹の友人(酒豪
)も招いて・・・
ネパール料理「サウラハ」のテイクアウトで4人で乾杯

ばくばく食べてかぱかぱ呑んでから、わたくしは中座して実家に向かいましたが、
さらに3人は赤ワインなんぞで延々と盛り上がってたそうです
で、3時にはwingさんがわたくしの実家に到着、4時前には川端さんも到着して・・・

ひさしぶりのライトOFF会つーか、おなじみまったりダベり会

つーことで6時過ぎには3人でふらふら歩いて麵屋・爽月へ

カツオ出汁の効いた「だし巻き卵」なんぞで・・・

まずは「店主おまかせ試飲セット」この夜は計6種類で乾杯


わたくしはこちらの3種類でしたが、中でも左の「諸事情」つーのは・・・
諸事情により通常通りに作れなかったら案外美味しくできた銘柄、とのことでした

wingさんはこちらの3種類

で、お気に入りになった左の濁り酒「THE MOON」をショットで追加したりして・・・


ごぼう天は出汁の効いた餡も秀逸でした(背景は追加した「肉入りだし巻き卵」
)
おなじみ「とり天」と、ひさしぶりの「おでんコロッケ」で、こちらも出汁が秀逸です

wingさん好みのハムカツ
と、もちろん〆は、

ざる蕎麦で・・・

と、夜食・朝食・飲み物・甘味をスーパーで買い出しして実家に戻りましたが・・・

わたくしは甘味なんぞで軽くダベっただけで11時過ぎにはシュラフに潜り込みました
そう、さすがに「乾杯疲れ」が出てきたのでしょうか・・・げふっ

(ま、買ったはずの助六寿司とかが何故か深夜には消えてましたが
)で、翌朝8時半にはごつほざさんも来てくれ、まともなライトOFF会になって盛り上がり、
皆さん昼食に外出するのもめんどーになって、かつやのカツ丼をテイクアウト・・・


誰かさんだけビールで、2名はノンアルで、呑まない川端さんはコーヒーで乾杯

と「3ヶ月でマスターする古代文明」全12回を観ながらダベり続け、夕方には解散しました
で、4日の昼前には長男家族が名古屋から帰阪、いつもの公園の児童遊園で合流し・・・

いつもの「どこでも宴会セット」を拡げて・・・



家内の手作り弁当で乾杯

孫たちは公園を駆けまわり、約3分間だけボール投げに付き合った大阪じいじは、
たちまち足腰だけでなく上半身にも激痛が・・・うぐぐぐ

と、思い切り遊びまわった後の自宅での夕食は・・・




大阪じいじ手作りの「すき焼き」で乾杯

この夜も長男の嫁(酒豪
)らと大いに吞んで食べたのですが、孫(次女のほう)がすっかり肉好きになっているのに驚きました
今や食べ物で大好きなのは麺類と肉類だそうで、これが隔世遺伝つーやつなのか???

ちなみに〆にはきしめんを投入しましたが、嫁は名古屋でもあまり食べないとのことで、
これも驚きでした
ま、孫(次女のほう)は麺類なら何でもちゅるちゅるばくばく
だそうですが・・・で、彼らは8時過ぎには近所に予約していたゲストハウスに戻って早めの就寝
そう、翌5日は早朝からUSJユニバーサルスタジオジャパンだったのでありますね
わたくしたちも誘ってくれてたのですが、連休中で凄い人出だろうし、孫たちのお目当ては
マリオとかミニオンとかだろうし、つーことでこの日は彼らだけで行ってもらいましたが、
ゲストハウスに戻ったのは9時半を過ぎてたそうで、たっぷりと楽しんだようです
と、翌6日は6人全員が長男のクルマで・・・

ザ・シンフォニーホールでのコンサート(午前の部)へ・・・
「0歳児からのオーケストラ」つーことでしたが大人も充分に楽しめました
つーことで、この日の昼食は・・・

(長男が予約してくれてた)グラングリーン大阪B1にある、お好み焼き屋さんへ
まずは焼きそばで乾杯


ま、運転する長男夫婦はノンアルでしたが




孫(次女のほう)は肉と麺だけを選んでばくばく
、大阪じいじは手当たり次第にばくばく

〆の抹茶パフェなんぞもばくばくばく

長男家族とは店の前で分かれ、彼らはクルマで名古屋へ帰宅・・・
わたくしたち夫婦はJR環状線と南海本線でのんびり帰宅しました
そう、今はJR大阪駅に新線の「うめきた地下口」ができてるんですね 知りませんでした
で、昨日の5月9日には・・・

夕方からチン電「北天下茶屋」電停前にあるイタリアン「タルタルーガ」の2階へ・・・
まずはスパークリングワインで、


4人で乾杯

そう、こちらの記事後半のとおり、たまたま公園で出会ったトレック乗りの彼女(酒豪
)と、彼女の彼氏(酒豪
)とは、その後すっかり呑み友達になってて家内と4人、前回は肥田シェフのぽたじぇで、今回はこちらでの呑み会となった次第なのでありますね

で、

美味しい前菜を食べ終える前に最初のスパークリングワインが空いてしまい、

2本目の白(びみょーにオレンジ?)ワインで2度目の乾杯
さらに・・・


ピザとペンネを食べ終える頃には白ワインも空いたので・・・
メインの肉料理にあわせて赤ワインを注文・・・

3度目の乾杯
でありますで、メインの肉料理は・・・

食べる前に撮ればよかったものを・・・

と、〆はもちろん


美味しいピザとパスタでした めでたしめでたし

と、気づけばこの日も5時から9時前まで4時間近く楽しい会話で過ごしてました
帰りはチン電(阪堺線)の本数が少なかったので南海・天下茶屋駅まで見送ってくれて、
無事に帰宅することができました ありがとね
お二人とも当ブログサイトの記事で折りたたみ小径車(ミニベロ)にも興味を持たれたようで、
いつかお気楽ポタリングにご一緒できるといいなあ

でも彼らは日帰りで軽く100kmは漕ぐそうですから、わたくしは迷惑なだけか・・・

さてさて、次回はいつどこの呑み会で乾杯できるかな・・・わくわく

