2026年08月
2026年08月31日
ウイスキーと私
とーとつですが・・・


竹鶴政孝著「ウイスキーと私」であります

そう、日本経済新聞「私の履歴書」への連載をニッカが小冊子にまとめたもので、

昭和47年発行の非売品・・・
たまたま読んだのですが、じつに味わい深い内容でした
目次


以下、本文からの一部メモです
(非売品ですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
まずはスコッチウイスキーについての本人による解説から・・・
・ウイスキーが琥珀色でピートの焦げ臭い香りの付いた酒になったのは300年前とか
400年前とかといわれているほどで、酒の中では比較的に新しい
⇒しかも産業革命の1830年頃まではスコットランドの一部を除き殆ど飲まれてなかった
・その頃のモルトウイスキーはハイランド地方でポットスチルを使って蒸留した原酒を
樽に入れて熟成させたもので香りや味はよかったが重くて万人向きではなかった
・ワットが蒸気機関を改良し1830年には蒸気を利用するカフェ式連続蒸留器が完成した
⇒2回の蒸留で少量しかできないモルトに代わり1回の蒸留で大量にできるグレーンの工場が
1830年から1860年の間にローランド地方に乱立し、たちまち生産過剰になった
・1860年頃にハイランド・モルトとグレーン・ウイスキーをブレンドしたのがアッシャ商会
⇒カフェ・グレーンがモルトの長所をのばし欠点であった重さや荒さをやわらげた
⇒これが今のスコッチ製法で飲みやすくなり全イギリスから世界に愛好されるようになった
⇒なので今のブレンデッド・ウイスキーには100年の歴史しかない
(50年前の本なので今なら150年の歴史ですね)
で、英国留学のきっかけ
・長兄はシンガポールでゴムの栽培、次兄は北海道炭鉱汽船に就職し北海道へ、
⇒なので家業の酒蔵を継ぐため(学問的興味もあり)大阪高等工業(今の大阪大学)醸造科へ
(大正2年当時に醸造学を修める学校はここしかなかった)
⇒大正5年4月に卒業して実家に帰り12月に1年志願で兵隊に行ってから家業を継ぐコース
⇒洋酒に興味があったので、この間だけでも洋酒づくりをやりたいと思った
・当時の洋酒メーカーの第一人者は大阪の住吉にあった摂津酒造
⇒学校の試験が終わり大江橋から電車に乗って醸造科大先輩の岩井常務に頼みに行った
⇒阿部社長の部屋に連れていかれ、すべてを話すと「明日からでも出社しなさい」となった
⇒小西儀助商店や鳥井さんの寿屋などが得意先で洋酒の中身は摂津酒造が製造していた
・12月の大阪での徴兵検査では検査官の中尉が最後に甲種合格のハンコを押す直前に、
私が摂津酒造のアルコール技師であることを知り乙種になった
⇒アルコールは火薬製造に不可欠で軍需産業の一端と考えたのか軍縮の時代だったからか
⇒阿部社長は喜び、後日にスコットランド留学を打診され返事ができないほど感激した
⇒家業を継ぐと期待していた父母は大反対したが阿部社長の説得で家業は親類に譲ることに
⇒これで手筈が整い英国に出発することになった
⇒大正7年(1918)7月に神戸港から出港
(サンフランシスコからニューヨークまで大陸横断、Uボート攻撃を避けながらリバプールへ)
・当時の日本は第一次世界大戦による成金時代で洋酒がよく売れた
⇒大正7年~9年(1918~1920)は摂津酒造の黄金時代で私の留学費と日本に残った後輩たちの
賞与の額がほぼ同じになったほどの好景気だった
⇒戦後この後輩とひさしぶりに会った際に「同じ金額を、あなたはウイスキーの勉強に、
われわれは住𠮷公園の料亭につぎ込んだことになるなあ」と言ったので二人で大笑いした
(追記です)
そう、大正時代の住𠮷公園は大歓楽地だったんですよね
閑話休題・・・
で、肝心のスコットランドの部分は省略して・・・
・1921年11月に妻のリタと阿部社長の三人で横浜港に帰国した(4年ぶりの日本)
(リタとの結婚も父母に反対され阿部社長が説得、本人を確認の上で連れ帰る約束だった)
⇒新婚生活は大阪の帝塚山で家賃は55円、待遇は技師長で月給は150円だった
⇒戦後の大不況で社長も推していた私の本格ウイスキー計画が役員会で否認された
⇒イミテーションなら高給の私がいなくても作れるので辞表を出して浪人になった
⇒1922年から1923年の初めまでの数ヶ月は近所の桃山中学で化学の教師をした
(校長のローリング氏と妻のリタが親しく私の失業を心配してくださったため)
(ローリング氏は1933年に亡くなり阿倍野の外人墓地に埋葬されている)
⇒妻のリタも近所の帝塚山学院で英語を教え英語とピアノの個人教授も引き受けていた
・1923年の梅の季節に寿屋の鳥井社長が自宅に来られた⇒三顧の礼で
⇒本格的ウイスキーをやってみたいと三井物産を通じムーア博士の招請を交渉していたが
博士本人から日本にいい技師がいると言われ、とんできたとのことだった
⇒ウイスキー工場には北海道が適地とすすめたが「工場を見てもらえないような商品は
これからは大きくならない、大阪の近くで探してほしい」といわれた
(鳥井さんの商品を育てるカンと努力は先天的でこれも好例であろう)
⇒年俸4000円はスコットランド技師招請の見込み金額と同額だった
⇒雇用10年はウイスキーが商品として完成するまでの期間で1923年6月に寿屋に入社した
・調査して適地と判断した山崎の用地買収が終わったのは1923年10月で大震災の直後だった
(鳥井さんは震災後、直ちに船をチャーターして赤玉ポートワインやヘルメス・ウイスキーを
東京に運び、これが大いに売れて関東にも飛躍するステップとなった)
⇒起工式は1924年4月で設計や設備機械の発注など全て一人だったので忙しい日々が続いた
⇒ポット・スチルは大阪市西区の渡辺銅工所で何か月もかかり、運ぶのも船で淀川を遡上、
陸揚げしてからは馬で東海道線を越えるのが難関だった
⇒竣工式は1924年11月で費用は200万円かかった
⇒郷里の広島から日本酒の杜氏を十数人呼んで手を取るようにして教え込んだ
⇒機械の名前が英語でスムーズに出るようになって、やっと手つきも慣れてきた
⇒すべてが日本初だった
・1929年4月に初めての本格ウイスキー「白札サントリー」を世に出した
⇒発売価格は3円50銭
⇒ジョニーウォーカー赤が5円(今なら5万円ぐらいの商品?)の時代
⇒その後に普及品の「赤札サントリー」も出したがいずれも売れ行きも評判もよくなかった
(ブレンドしようにも新しいモルトしかなく体験的知識もなかった)
⇒売れなかったので原酒が残り、10年前後の年月を経て立派な原酒になった
・長期型のウイスキー部門と量産型のビール部門は分離すべきとの意見は採用されなかった
⇒両工場長を兼任していたがビール工場拡張工事の最中にビール部門の売渡が決定した
⇒独立を決意したのはその時で10年の約束は保留されていたが12年で円満に退社した
⇒鳥井さんなしには民間のウイスキーは育たなかったし私のウイスキー人生もなかった
・余市
⇒あらかじめ決めていたので資金を工面して1934年10月に工場を建てた
(リタは故郷のスコットランドに似ていると、とても喜んでくれた)
⇒すぐに売れるリンゴ・ジュースを作ったがラムネ・サイダー時代の嗜好に合わず苦戦した
⇒熟成を要するウイスキーづくりは1936年の秋から蒸留に入った
⇒つなぎ商品として1937年にアップルゼリー・グレープゼリー・アップルソースを出した
(翌年に出したアップルワインは今もニッカ製品のひとつ)
⇒1940年の秋にニッカウヰスキー第一号を発売した
⇒まだ原酒が若くブレンドも会心とはいえなかったが独立後初めての作品で感激した
⇒その後の統制時代には海軍の指定工場になり原酒の貯蔵量は増えていった
・戦後の混乱
⇒占領軍幹部からの理不尽な通達には「髭のオヤジ」が法律用語を交えて断固はねつけたが、
インフレで偽物も溢れ、せめてモルトを各イミテーション・メーカーに売ることにした
(イミテーションでも少量のモルトを混ぜるだけで味は格段によくなる)
⇒さらにブレンダーとしての良心に反して3級ウイスキーを作らざるを得なくなったと、
全従業員を広場に集めて苦衷をぶちまけたのは昭和25年の春
⇒税法の最高率まで原酒を入れて高く売ったのが、せめてもの私の抵抗だった
⇒売り上げは伸びたが「容量が少なく値段が高い」ことが競争上は不利だったのも事実
・昭和27年8月に大日本果汁からニッカウヰスキーに社名を変えた
⇒昭和30年11月には2000円のゴールドニッカ、翌年には1500円のブラックニッカを出した
⇒戦後第一回の洋酒ブームでトリス・ニッカ・オーシャンの軽バーが増えた
⇒当時の2級ウイスキーはウイスキーとは程遠いものだったが、その浸透が次のステップへ
⇒ウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと思っている
・昭和36年(1961)1月17日にリタが急逝し、しばらくショック状態が続いた
⇒昭和40年にリタの好きだった余市工場の見える小高い丘に墓を作った
⇒リタほど日本人になりきった外国人は少ないと思うし考え方も日本人的だった
⇒母親の遺産は長女なのに面倒を見なかったからと固く辞退していたし、叔母の遺産も
その一部で余市に幼稚園をつくり、それはリタ幼稚園として今も続いている
・当時目指していたのは2級でも古い原酒を入れたウイスキーと、グレーン・スピリッツを
使ったソフトなウイスキーだった
⇒グレーン・スピリッツの製造設備には多額の資金が必要だった
⇒「スコッチに負けないために」と朝日麦酒の山本為三郎社長が積極的に援助してくださり、
昭和37年にグレーン・スピリッツの西宮工場が完成した
⇒グレーンの熟成を待って出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカ
⇒どちらも許される上限の原酒とカフェ・グレーンのブレンド製品だった
⇒それまで特級でしかつくれなかった味が熟成カフェ・グレーンのおかげで1級でも旨いと
自負できるものが生まれた
・1000円ウイスキー戦争ともいわれたが各社が品質競争をして戦後第二のブームに
⇒昭和43年の税制改正でホワイトニッカを出したが改正は今後の品質アップに貢献するだろう
・余市モルトはハイランド・タイプで仙台モルトはローランド・タイプ
⇒「ローランド・モルトは荒々しいハイランド・モルトと中性のグレーン・ウイスキーとの
橋渡しをする」(イーニアス・マクドナルド)
⇒仙台モルトの一部は立派に使用できるまで成長してきた(昭和46年現在)
⇒ウイスキーのブレンドが完成するひとときは敬虔な祈りそのものであり、このブレンドは
ブレンダーとしての私の最終の仕上げになると思う・・・
・昭和44年(1969)イギリスのデイリーエキスプレス紙は「日本、スコッチ市場に侵入」という
大きな記事を掲載した
⇒これはニューヨーク駐在の記者たちがニューヨークタイムズ紙にのったニッカの広告を見て、
1本58シリング4ペンスのニッカ1本スコッチ2本の各最高級品3本を買って帰り、新聞社で
ブラインド(目かくし)テストをしてみた結果、これが日本製だろうと全員が指摘したのは
悲しいことにスコッチ最高の12年物であったと書かれていた
⇒さらに「英国が持っていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、次に日本は
英国の最も神聖な輸出商品スコッチに殴り込みをかけてきた」という警告記事だった
⇒スコットランドでウイスキーを勉強したのが50余年前、北海道余市に工場を作って30余年、
日本でウイスキーを作ることしか考えなかった私には痛快なニュースであった
・スコットランドのウイスキーづくりを持ち帰ったのでイギリスから嫌われているのでは、
との質問には「スコットランドでしかできなかったウイスキーを日本でつくり、今や日本も
スコッチの大きな市場になっているのだから女王は勲章をくれてもよい」と冗談をいった
⇒黄綬褒章、瑞宝章に続き1970年には北海道開発功労賞をいただいた
⇒北海道の風土があったからこそニッカが生まれニッカが育ったので恐縮している
⇒ウイスキーづくりを知れば知るほど風土そのものがウイスキーだと知った
・学問も技術も進歩を続けているのに半世紀前の勉強がそのまま役に立つのがウイスキーづくり
⇒熟成を早める科学はすべて失敗しており、今も自然と時間だけが解決者
⇒昔からスコットランドに伝わる製造法が、今もよいウイスキーへのただ一つの道
・ウイスキーの正しい飲み方
⇒私によくある質問で嗜好品なので一番旨いと思う方法で楽しめばよいと思っているが、
⇒毎日飲む人とたまにしか飲まない人で味わい方は違ってくる
⇒香りや味を味わうならストレートがいいが、これを毎日やれば胃を痛める
⇒こんな人には水割りがよくウイスキー1に井戸水2がいい
⇒これでアルコール分が12度から13度ぐらいになる
⇒適温はビールと同じ7~8℃
⇒以前はスコットランドでも炭酸割を飲む人が多かったが最近では水割りが多い
⇒炭酸割は胃を刺激するからか酔いが早くまわる
⇒楽しみながら時間をかけて飲むこと⇒食事も同じ
⇒楽しく飲める自分の量を計算して飲むこと
⇒オーバーすればどんなにいい酒でも悪酔いする
⇒私がウイスキー一途といってもビールもワインも日本酒も楽しむ
⇒今の流行語
でいうTPOで飲み分け、楽しむのが酒と思っている
・舌と鼻
⇒私は目の前でつくる料理しか食べないので宴会料理には手を付けない
⇒自分で食べるものは今でも自分で材料を買いに行く
⇒文化国家というものは嗜好を高めることにある
⇒いいもの悪いもの、新しいもの古いものを見分ける舌と鼻の持ち主になってもらいたい
⇒鼻の能力は先天的で舌の能力は後天的なものが多いようで舌は訓練次第
⇒ウイスキーの「のど越し」も鼻に通じるので鼻で鑑別するもの
⇒最盛期の30代で十数種類のスコッチ銘柄を飲み分けられたが英国滞在中には40種類ぐらいを
当てるエキスパートもおり、これは灘の日本酒でも同じで相当の鑑別ができるようになる
⇒主体性を持って見分けられることは人生を楽しむことに通じていると思う
・・・・・・・
冒頭に書いておられたのが周囲に機会を与えられたことでした
⇒二人の兄が家業を継ぐことを嫌がったから醸造学を修めたこと
(自分もウイスキーになり家業は親類が継ぐことになったが)
⇒摂津酒造の阿部社長の決意がなければスコットランド留学などあり得なかったこと
⇒グラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長や多くの協力がなければ
ウイスキーづくりを覚えられなかったのはもちろん、モルト工場にさえ入れなかったこと
⇒時代的にも日英同盟の背景がなかったら工場が実習を許可してくれてたかどうか
⇒寿屋の鳥井社長の洋酒の将来性への確信による山崎工場がなかったら日本はウイスキーが
できる国になっていたかどうか
⇒独立時の協力、カフェ・グレーンへの援助etc
⇒皆さんの協力が私をこの道一本に導いてくれた・・・
と、決して自慢話ではなく淡々としながらも温かみ溢れる内容で、ひさしぶりに爽やかな
気持ちになれた本でした
最後に備忘のため年表もメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)


(ご本人は1979年(昭和54年)に85歳で亡くなられてますが、ウィキによれば・・・
酒量はウイスキー1日1本。晩酌にはハイニッカを好み、おつまみとして醤油味の薄焼き煎餅と
供に楽しみながら飲んでいた。ただし、晩年には3日で2本に減らしたという。とのことでした
)


竹鶴政孝著「ウイスキーと私」であります

そう、日本経済新聞「私の履歴書」への連載をニッカが小冊子にまとめたもので、

昭和47年発行の非売品・・・
たまたま読んだのですが、じつに味わい深い内容でした
目次


以下、本文からの一部メモです
(非売品ですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
まずはスコッチウイスキーについての本人による解説から・・・
・ウイスキーが琥珀色でピートの焦げ臭い香りの付いた酒になったのは300年前とか
400年前とかといわれているほどで、酒の中では比較的に新しい
⇒しかも産業革命の1830年頃まではスコットランドの一部を除き殆ど飲まれてなかった
・その頃のモルトウイスキーはハイランド地方でポットスチルを使って蒸留した原酒を
樽に入れて熟成させたもので香りや味はよかったが重くて万人向きではなかった
・ワットが蒸気機関を改良し1830年には蒸気を利用するカフェ式連続蒸留器が完成した
⇒2回の蒸留で少量しかできないモルトに代わり1回の蒸留で大量にできるグレーンの工場が
1830年から1860年の間にローランド地方に乱立し、たちまち生産過剰になった
・1860年頃にハイランド・モルトとグレーン・ウイスキーをブレンドしたのがアッシャ商会
⇒カフェ・グレーンがモルトの長所をのばし欠点であった重さや荒さをやわらげた
⇒これが今のスコッチ製法で飲みやすくなり全イギリスから世界に愛好されるようになった
⇒なので今のブレンデッド・ウイスキーには100年の歴史しかない
(50年前の本なので今なら150年の歴史ですね)
で、英国留学のきっかけ
・長兄はシンガポールでゴムの栽培、次兄は北海道炭鉱汽船に就職し北海道へ、
⇒なので家業の酒蔵を継ぐため(学問的興味もあり)大阪高等工業(今の大阪大学)醸造科へ
(大正2年当時に醸造学を修める学校はここしかなかった)
⇒大正5年4月に卒業して実家に帰り12月に1年志願で兵隊に行ってから家業を継ぐコース
⇒洋酒に興味があったので、この間だけでも洋酒づくりをやりたいと思った
・当時の洋酒メーカーの第一人者は大阪の住吉にあった摂津酒造
⇒学校の試験が終わり大江橋から電車に乗って醸造科大先輩の岩井常務に頼みに行った
⇒阿部社長の部屋に連れていかれ、すべてを話すと「明日からでも出社しなさい」となった
⇒小西儀助商店や鳥井さんの寿屋などが得意先で洋酒の中身は摂津酒造が製造していた
・12月の大阪での徴兵検査では検査官の中尉が最後に甲種合格のハンコを押す直前に、
私が摂津酒造のアルコール技師であることを知り乙種になった
⇒アルコールは火薬製造に不可欠で軍需産業の一端と考えたのか軍縮の時代だったからか
⇒阿部社長は喜び、後日にスコットランド留学を打診され返事ができないほど感激した
⇒家業を継ぐと期待していた父母は大反対したが阿部社長の説得で家業は親類に譲ることに
⇒これで手筈が整い英国に出発することになった
⇒大正7年(1918)7月に神戸港から出港
(サンフランシスコからニューヨークまで大陸横断、Uボート攻撃を避けながらリバプールへ)
・当時の日本は第一次世界大戦による成金時代で洋酒がよく売れた
⇒大正7年~9年(1918~1920)は摂津酒造の黄金時代で私の留学費と日本に残った後輩たちの
賞与の額がほぼ同じになったほどの好景気だった
⇒戦後この後輩とひさしぶりに会った際に「同じ金額を、あなたはウイスキーの勉強に、
われわれは住𠮷公園の料亭につぎ込んだことになるなあ」と言ったので二人で大笑いした

(追記です)
そう、大正時代の住𠮷公園は大歓楽地だったんですよね

マッサンが摂津酒造に入社したのが1916年、大阪府では初めて1873年にできた住𠮷公園は
すでに大歓楽地になっており、仲居、芸妓、ヤトナが出入りして風紀が大いに乱れたため
、
マッサンが帰国した翌年の1922年には公園の西側に花街として住𠮷新地が指定されており、
翌1923年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えたという、まさに「オトナの遊び場」
そこへ毎夜のように好景気に沸く地元有力企業のエリート社員で独身の美男子が・・・
おそらく住吉公園の芸舞妓や遊女たちにもめっちゃモテたんでしょうね
、マッサンが帰国した翌年の1922年には公園の西側に花街として住𠮷新地が指定されており、
翌1923年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えたという、まさに「オトナの遊び場」

そこへ毎夜のように好景気に沸く地元有力企業のエリート社員で独身の美男子が・・・
おそらく住吉公園の芸舞妓や遊女たちにもめっちゃモテたんでしょうね

閑話休題・・・
で、肝心のスコットランドの部分は省略して・・・
・1921年11月に妻のリタと阿部社長の三人で横浜港に帰国した(4年ぶりの日本)
(リタとの結婚も父母に反対され阿部社長が説得、本人を確認の上で連れ帰る約束だった)
⇒新婚生活は大阪の帝塚山で家賃は55円、待遇は技師長で月給は150円だった
⇒戦後の大不況で社長も推していた私の本格ウイスキー計画が役員会で否認された
⇒イミテーションなら高給の私がいなくても作れるので辞表を出して浪人になった
⇒1922年から1923年の初めまでの数ヶ月は近所の桃山中学で化学の教師をした
(校長のローリング氏と妻のリタが親しく私の失業を心配してくださったため)
(ローリング氏は1933年に亡くなり阿倍野の外人墓地に埋葬されている)
⇒妻のリタも近所の帝塚山学院で英語を教え英語とピアノの個人教授も引き受けていた
・1923年の梅の季節に寿屋の鳥井社長が自宅に来られた⇒三顧の礼で
⇒本格的ウイスキーをやってみたいと三井物産を通じムーア博士の招請を交渉していたが
博士本人から日本にいい技師がいると言われ、とんできたとのことだった
⇒ウイスキー工場には北海道が適地とすすめたが「工場を見てもらえないような商品は
これからは大きくならない、大阪の近くで探してほしい」といわれた
(鳥井さんの商品を育てるカンと努力は先天的でこれも好例であろう)
⇒年俸4000円はスコットランド技師招請の見込み金額と同額だった
⇒雇用10年はウイスキーが商品として完成するまでの期間で1923年6月に寿屋に入社した
・調査して適地と判断した山崎の用地買収が終わったのは1923年10月で大震災の直後だった
(鳥井さんは震災後、直ちに船をチャーターして赤玉ポートワインやヘルメス・ウイスキーを
東京に運び、これが大いに売れて関東にも飛躍するステップとなった)
⇒起工式は1924年4月で設計や設備機械の発注など全て一人だったので忙しい日々が続いた
⇒ポット・スチルは大阪市西区の渡辺銅工所で何か月もかかり、運ぶのも船で淀川を遡上、
陸揚げしてからは馬で東海道線を越えるのが難関だった
⇒竣工式は1924年11月で費用は200万円かかった
⇒郷里の広島から日本酒の杜氏を十数人呼んで手を取るようにして教え込んだ
⇒機械の名前が英語でスムーズに出るようになって、やっと手つきも慣れてきた
⇒すべてが日本初だった
・1929年4月に初めての本格ウイスキー「白札サントリー」を世に出した
⇒発売価格は3円50銭
⇒ジョニーウォーカー赤が5円(今なら5万円ぐらいの商品?)の時代
⇒その後に普及品の「赤札サントリー」も出したがいずれも売れ行きも評判もよくなかった
(ブレンドしようにも新しいモルトしかなく体験的知識もなかった)
⇒売れなかったので原酒が残り、10年前後の年月を経て立派な原酒になった
・長期型のウイスキー部門と量産型のビール部門は分離すべきとの意見は採用されなかった
⇒両工場長を兼任していたがビール工場拡張工事の最中にビール部門の売渡が決定した
⇒独立を決意したのはその時で10年の約束は保留されていたが12年で円満に退社した
⇒鳥井さんなしには民間のウイスキーは育たなかったし私のウイスキー人生もなかった
・余市
⇒あらかじめ決めていたので資金を工面して1934年10月に工場を建てた
(リタは故郷のスコットランドに似ていると、とても喜んでくれた)
⇒すぐに売れるリンゴ・ジュースを作ったがラムネ・サイダー時代の嗜好に合わず苦戦した
⇒熟成を要するウイスキーづくりは1936年の秋から蒸留に入った
⇒つなぎ商品として1937年にアップルゼリー・グレープゼリー・アップルソースを出した
(翌年に出したアップルワインは今もニッカ製品のひとつ)
⇒1940年の秋にニッカウヰスキー第一号を発売した
⇒まだ原酒が若くブレンドも会心とはいえなかったが独立後初めての作品で感激した
⇒その後の統制時代には海軍の指定工場になり原酒の貯蔵量は増えていった
・戦後の混乱
⇒占領軍幹部からの理不尽な通達には「髭のオヤジ」が法律用語を交えて断固はねつけたが、
インフレで偽物も溢れ、せめてモルトを各イミテーション・メーカーに売ることにした
(イミテーションでも少量のモルトを混ぜるだけで味は格段によくなる)
⇒さらにブレンダーとしての良心に反して3級ウイスキーを作らざるを得なくなったと、
全従業員を広場に集めて苦衷をぶちまけたのは昭和25年の春
⇒税法の最高率まで原酒を入れて高く売ったのが、せめてもの私の抵抗だった
⇒売り上げは伸びたが「容量が少なく値段が高い」ことが競争上は不利だったのも事実
・昭和27年8月に大日本果汁からニッカウヰスキーに社名を変えた
⇒昭和30年11月には2000円のゴールドニッカ、翌年には1500円のブラックニッカを出した
⇒戦後第一回の洋酒ブームでトリス・ニッカ・オーシャンの軽バーが増えた
⇒当時の2級ウイスキーはウイスキーとは程遠いものだったが、その浸透が次のステップへ
⇒ウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと思っている
・昭和36年(1961)1月17日にリタが急逝し、しばらくショック状態が続いた
⇒昭和40年にリタの好きだった余市工場の見える小高い丘に墓を作った
⇒リタほど日本人になりきった外国人は少ないと思うし考え方も日本人的だった
⇒母親の遺産は長女なのに面倒を見なかったからと固く辞退していたし、叔母の遺産も
その一部で余市に幼稚園をつくり、それはリタ幼稚園として今も続いている
・当時目指していたのは2級でも古い原酒を入れたウイスキーと、グレーン・スピリッツを
使ったソフトなウイスキーだった
⇒グレーン・スピリッツの製造設備には多額の資金が必要だった
⇒「スコッチに負けないために」と朝日麦酒の山本為三郎社長が積極的に援助してくださり、
昭和37年にグレーン・スピリッツの西宮工場が完成した
⇒グレーンの熟成を待って出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカ
⇒どちらも許される上限の原酒とカフェ・グレーンのブレンド製品だった
⇒それまで特級でしかつくれなかった味が熟成カフェ・グレーンのおかげで1級でも旨いと
自負できるものが生まれた
・1000円ウイスキー戦争ともいわれたが各社が品質競争をして戦後第二のブームに
⇒昭和43年の税制改正でホワイトニッカを出したが改正は今後の品質アップに貢献するだろう
・余市モルトはハイランド・タイプで仙台モルトはローランド・タイプ
⇒「ローランド・モルトは荒々しいハイランド・モルトと中性のグレーン・ウイスキーとの
橋渡しをする」(イーニアス・マクドナルド)
⇒仙台モルトの一部は立派に使用できるまで成長してきた(昭和46年現在)
⇒ウイスキーのブレンドが完成するひとときは敬虔な祈りそのものであり、このブレンドは
ブレンダーとしての私の最終の仕上げになると思う・・・
・昭和44年(1969)イギリスのデイリーエキスプレス紙は「日本、スコッチ市場に侵入」という
大きな記事を掲載した
⇒これはニューヨーク駐在の記者たちがニューヨークタイムズ紙にのったニッカの広告を見て、
1本58シリング4ペンスのニッカ1本スコッチ2本の各最高級品3本を買って帰り、新聞社で
ブラインド(目かくし)テストをしてみた結果、これが日本製だろうと全員が指摘したのは
悲しいことにスコッチ最高の12年物であったと書かれていた
⇒さらに「英国が持っていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、次に日本は
英国の最も神聖な輸出商品スコッチに殴り込みをかけてきた」という警告記事だった
⇒スコットランドでウイスキーを勉強したのが50余年前、北海道余市に工場を作って30余年、
日本でウイスキーを作ることしか考えなかった私には痛快なニュースであった
・スコットランドのウイスキーづくりを持ち帰ったのでイギリスから嫌われているのでは、
との質問には「スコットランドでしかできなかったウイスキーを日本でつくり、今や日本も
スコッチの大きな市場になっているのだから女王は勲章をくれてもよい」と冗談をいった
⇒黄綬褒章、瑞宝章に続き1970年には北海道開発功労賞をいただいた
⇒北海道の風土があったからこそニッカが生まれニッカが育ったので恐縮している
⇒ウイスキーづくりを知れば知るほど風土そのものがウイスキーだと知った
・学問も技術も進歩を続けているのに半世紀前の勉強がそのまま役に立つのがウイスキーづくり
⇒熟成を早める科学はすべて失敗しており、今も自然と時間だけが解決者
⇒昔からスコットランドに伝わる製造法が、今もよいウイスキーへのただ一つの道
・ウイスキーの正しい飲み方
⇒私によくある質問で嗜好品なので一番旨いと思う方法で楽しめばよいと思っているが、
⇒毎日飲む人とたまにしか飲まない人で味わい方は違ってくる
⇒香りや味を味わうならストレートがいいが、これを毎日やれば胃を痛める
⇒こんな人には水割りがよくウイスキー1に井戸水2がいい
⇒これでアルコール分が12度から13度ぐらいになる
⇒適温はビールと同じ7~8℃
⇒以前はスコットランドでも炭酸割を飲む人が多かったが最近では水割りが多い
⇒炭酸割は胃を刺激するからか酔いが早くまわる
⇒楽しみながら時間をかけて飲むこと⇒食事も同じ
⇒楽しく飲める自分の量を計算して飲むこと
⇒オーバーすればどんなにいい酒でも悪酔いする
⇒私がウイスキー一途といってもビールもワインも日本酒も楽しむ
⇒今の流行語
でいうTPOで飲み分け、楽しむのが酒と思っている・舌と鼻
⇒私は目の前でつくる料理しか食べないので宴会料理には手を付けない
⇒自分で食べるものは今でも自分で材料を買いに行く
⇒文化国家というものは嗜好を高めることにある
⇒いいもの悪いもの、新しいもの古いものを見分ける舌と鼻の持ち主になってもらいたい
⇒鼻の能力は先天的で舌の能力は後天的なものが多いようで舌は訓練次第
⇒ウイスキーの「のど越し」も鼻に通じるので鼻で鑑別するもの
⇒最盛期の30代で十数種類のスコッチ銘柄を飲み分けられたが英国滞在中には40種類ぐらいを
当てるエキスパートもおり、これは灘の日本酒でも同じで相当の鑑別ができるようになる
⇒主体性を持って見分けられることは人生を楽しむことに通じていると思う
・・・・・・・
冒頭に書いておられたのが周囲に機会を与えられたことでした
⇒二人の兄が家業を継ぐことを嫌がったから醸造学を修めたこと
(自分もウイスキーになり家業は親類が継ぐことになったが)
⇒摂津酒造の阿部社長の決意がなければスコットランド留学などあり得なかったこと
⇒グラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長や多くの協力がなければ
ウイスキーづくりを覚えられなかったのはもちろん、モルト工場にさえ入れなかったこと
⇒時代的にも日英同盟の背景がなかったら工場が実習を許可してくれてたかどうか
⇒寿屋の鳥井社長の洋酒の将来性への確信による山崎工場がなかったら日本はウイスキーが
できる国になっていたかどうか
⇒独立時の協力、カフェ・グレーンへの援助etc
⇒皆さんの協力が私をこの道一本に導いてくれた・・・
と、決して自慢話ではなく淡々としながらも温かみ溢れる内容で、ひさしぶりに爽やかな
気持ちになれた本でした
最後に備忘のため年表もメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)


(ご本人は1979年(昭和54年)に85歳で亡くなられてますが、ウィキによれば・・・
酒量はウイスキー1日1本。晩酌にはハイニッカを好み、おつまみとして醤油味の薄焼き煎餅と
供に楽しみながら飲んでいた。ただし、晩年には3日で2本に減らしたという。とのことでした
)2026年08月25日
ユダヤ人の歴史
とーとつですが・・・

ユダヤ人の歴史~古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで~
とゆー本を読みました
表紙カバー裏の惹句

そう、怪しげな「ユダヤ本」とは異なり、史実と判明したことを中心に書かれており、
わたくしがはじめて知る事実も多かったです
著者紹介と奥付

昨年1月の刊行をネットで知り、すぐ図書館に予約してから1年半以上待ちでした
目次




わたくしの後にも200人以上の予約待ちがあり貸出期間延長もできなかったし大著の荷風本と
重なってしまいナナメ読みでしたが(でも購入すれば逆にいつでも読めると「積ん読」に
)、
とりあえずのてきとーメモです
(以下てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
序章より
・ヴェニスの商人のシャイロックと杉原千畝にビザを与えられたユダヤ人⇒主体と構造
⇒シェイクスピア時代のイングランドにはユダヤ人は(追放されて)殆どおらず想像の産物だが、
主体として行動する典型的なユダヤ人のイメージ、杉原も近年の研究ではソ連の脅威から
逃れる人たちを救おうとしており、ユダヤ人の意識はなかったが(ホロコーストが知られるように
なったのは戦後)、これが当時の社会構造からのユダヤ人のイメージ
⇒実際のユダヤ人の歴史は主体と構造の関係で動いている
・ユダヤ人は歴史上でも地図上でも大部分はマイノリティ
⇒なので構造を描く世界史では一神教にとって重要なユダヤ教が始まる古代やホロコーストや
イスラエルのインパクトが強い現代にしかユダヤ人は登場しない
⇒しかし、その間にユダヤ人は自らも変貌を遂げ周囲に影響を与えている
⇒主体と構造が織りなす局面を紐解くことでヴェニスの商人やホロコーストのイメージだけ
ではないユダヤ人の実像と歴史の広がりが見えてくるだろう・・・
第1章 古代~王国とディアスポラ~より
・本書でいう聖書とはヘブライ語聖書でキリスト教の旧約聖書と大枠では同じもの
⇒聖書には事実・史実と整合する部分と神話部分があるがユダヤ人としてまとまっていく
過程の集積であり、思想や行動の参照軸つまり聖典となったもの
⇒古代オリエントで原形が組み合わさり、その核心部分が一神教としてまとめられていく
・ユダヤ人の祖先についても聖書についても最新研究では不明点が多い
⇒1980年代以降は他の資料の裏づけがあるもののみを史実としているから(略)
・出エジプト記
⇒イスラエル人が前11世紀にエジプト王国で暮らしていた史料はない
⇒パレスチナもエジプト新王国の支配下にあり圧制を逃れたかは疑問
⇒だが当時この地域で大きな移民が繰り返されたのは史実
⇒前12世紀の古代エジプトの碑文からイスラエルの名称が確認されており、前9世紀の別の
碑文からダビデを創始者とする王朝がこの地域にあったことを示している
⇒数世紀に渡り繁栄したという証拠はないが空想の物語というわけでもない
・エジプト全域とメソポタミア南部は砂漠気候で川からの治水灌漑農業で王国文明に
⇒カナンの中央から北部は地中海性気候で緑が豊かだった
⇒気候の恩恵により牧歌的な社会が形成されたが王国の抗争に何度も巻き込まれた
⇒多様な文化が交錯し聖書にも反映され、常に同盟先を探る習慣も身に付いた
・聖書の定義ではユダヤ人ではなくイスラエル人
⇒アダムとイブの子のうち⇒セト⇒ノア⇒セム⇒アブラハムの系統
⇒アブラハムとサラの子のうち⇒イサク⇒ヤコブ⇒この系統からユダヤ教・キリスト教へ
⇒アブラハムと女奴隷の子⇒イシュマエル(イスマーイール)⇒アラブ人⇒イスラム教へ
⇒アブラハムは神と契約を結びカナンの地を約束された(アブラハム契約)
⇒その後このイスラエルの民がエジプトに移民するまでが創世記
⇒エジプトで奴隷となりモーセが率い紅海を渡ってシナイ山で十戒を授かる(出エジプト記)
(⇒これがシナイ契約⇒以下略)
・独立国家を持たず農民や遊牧民の連合であるイスラエルの民をまとめるのが「神との契約」
⇒アブラハム契約は血縁が基礎だがシナイ契約は律法順守が基礎
⇒ユダヤ人の母から生まれた血縁ユダヤ人とユダヤ教に改宗した律法ユダヤ人
(ユダヤ教以外のユダヤ人も存在することになるが現在の国籍法上ではユダヤ教徒が条件)
・イスラエル(北)王国とユダ(南)王国
⇒ペリシテ人(パレスチナ人)などに侵略されるが存在したことは文字資料から事実
⇒北王国はアッシリアに征服され強制移住、南王国もアッシリアの属国に
⇒やがて南王国もバビロニアに征服されソロモン神殿は破壊、バビロニア捕囚へ
(これ以降は聖書以外の史料も増えるので史実を追う)
・新バビロニア王国でユダ王国の人々は比較的同一性を保ちユダヤ人と呼ばれるようになる
⇒まとめたのはイスラエルの宗教から発展成立したユダヤ教という排他的一神教
・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神が同じ神であることは相互に了解している
⇒異なるのは神の道に到達するための考え方や実践
・バビロン捕囚以降の聖書には唯一神以外は検閲排除されているが漏れはある(創世記など)
⇒唯一神を信じるようになったのは救済のため(救済史観)
⇒この救済史観を強く受け継いだのがキリスト教
⇒ユダヤ教では中世になるまでに表向きには強調されなくなった
・アケメネス朝ペルシャ帝国で律法が確定、宗教共同体としての自治が保たれた
⇒最後の審判や天国、死者の復活という概念はペルシャ人のゾロアスター教由来の可能性も
・ペルシャ帝国はアレクサンドロス大王に征服されヘレニズム文化へ
⇒プトレマイオス朝のアレクサンドリアはその中心の世界都市に
⇒ヘレニズムの影響を受けたギリシャ文化ユダヤ人も増加し伝統的ユダヤ文化と対立
⇒マカバイの反乱
⇒ユダヤ教の他の祭りとは異なる軍事的勝利を祝うハヌカの祭りへ(ギリシャの影響)
・ローマ帝国が介入しヘロデ王が承認され、その死去により直接統治に近くなった
⇒その頃にユダヤ教の改革(エルサレム権威主義批判)を行おうとしたのがナザレのイエス
⇒ユダヤ教の支配層もローマも秩序の乱れを恐れて処刑した
⇒イエスはメシアを自称することはなかったが弟子たちがメシアとして信仰を形成していった
(ユダヤ教では律法を守りながら今もメシアを待ち望んでいる)
⇒メシアはヘブライ語で(神から)油を注がれた者の意
⇒ギリシャ語ではクリストス⇒日本語ではキリスト
・ローマ帝国に反乱したヘロデ王が73年に集団自決、1948年のイスラエルまで国はなかったが、
はるか以前からオリエント各地に拡散してたので国家消滅は死活的な問題ではない
・ユダヤ教とキリスト教のあり方がある程度確立したのは中世以降
⇒ユダヤ教は律法中心主義でその実践を重視、キリスト教は内面重視
⇒ユダヤ教は実質的に血縁で結ばれる民族宗教、キリスト教は普遍宗教で積極的な布教活動が
政治や帝国主義とも結びついていく
(ユダヤ教のシナゴーグはキリスト教会のようなヒエラルキー構造を持たない)
・ユダヤ教はマイノリティで移動先で柔軟に共同体を形成したが、それ以上を望む原理は
持たなかったので権力から過度に危険視されることは少なく権力を味方につけて生き延びた
第2章 古代末期・中世~異教国家の中の法治民族~より
・周囲と自集団がお互いの特徴を維持しながら共栄する組み合わせを見つける
⇒このバビロニアからの傾向がパレスチナ追放(西洋史の古代末期)後には唯一の形態に
・西洋史では西ローマ帝国滅亡(476年)までが古代、東ローマ帝国滅亡(1453年)までが中世
⇒ユダヤ人の中心は西洋にはなく8世紀にイスラム諸国家と組み合わさりラビ・ユダヤ教が確立
⇒7世紀から13世紀まで世界のユダヤ人の9割がイスラム諸国で暮らすことになった
⇒イスラム世界を外敵とした中世ヨーロッパとの大きな違い
⇒イスラムも聖書を聖典の一つとする宗教でユダヤ教との類似点はキリスト教より多い
・パレスチナでのローマ帝国とのユダヤ戦争⇒ガリラヤ地方に集住⇒ラビに自治が認められる
⇒313年ローマ帝国がキリスト教を公認⇒392年には国教に
⇒ガリラヤ地方のユダヤ人の状況が悪化
⇒危機により4世紀末に学院で蓄積された最初の律法解釈書タルムードを編纂
⇒ペルシャ帝国下のバビロニアでは6世紀初頭に別の律法解釈書タルムードを編纂
・ユダヤ教では律法の学習が中心となるため子どもの教育にお金をかける
(キリスト教やイスラム教では読み書きは宗教の中心ではない)
⇒識字率が高くなる⇒金融や商業で成功する
⇒ラビ・ユダヤ教が確立した750年から900年の間にメソポタミアとペルシャのユダヤ人は
農業を離れ都市で暮らすようになる⇒中世までラビこそが大商人だった
・ユダヤ教のラビもイスラム教のウラマーも法学の解釈者であり聖職者ではない
⇒キリスト教は神といかに繋がるかという神学であり基本的に聖職者の領分
(教会は教皇に繋がるヒエラルキー構造の末端だがシナゴーグもモスクも主従関係はない)
・メッカに住むアラブ系の商人ムハンマドが610年頃に始めたのがイスラム
⇒メッカの有力者に迫害されアラビア半島のメディナで勢力を拡大した
⇒メディナはユダヤ人の文化的影響が強くユダヤ教と決別するため厳しい態度をとった
⇒ただし初期を除けばユダヤとムスリムは協調する場合が多かった
⇒イスラム勢力にとって最大の敵がキリスト教ビザンツ帝国とゾロアスター教ペルシャ帝国
だったから
⇒ムハンマドの後継者として最高位のカリフを設けたイスラムと一体化したアラブ人勢力は
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)からシリアやエジプトを奪い、エルサレムも支配下に置き、
バビロニアやペルシャも支配した
(651年ダマスカスにウマイヤ朝が成立、その後継者争いからスンナ派とシーア派が分裂)
・イスラム教国家ではユダヤ教徒やキリスト教徒はムスリムに服従し非イスラム税ジズヤを
納めれば、生命・財産の安全と宗教の自由が保障される
⇒迫害が激しくなったキリスト教国家より魅力的で各地で共通基盤が整備されていく
・イスラム化していたイベリア半島のユダヤ人社会が発展
⇒南進を狙うキリスト教王国も寛容になり半島中央のトレドはスペインのエルサレムに
⇒やがて十字軍の更なる南進で再び非寛容に⇒ただし宗派、時代、状況により多様
・キリスト教国でもイスラム教国でも権力者と一体化したユダヤ共同体
⇒ユダヤ人が庶民から得た儲けを税として吸い上げるシステムは権力者の重要な財産に
⇒それを癒着と捉える庶民に反ユダヤ感情が蓄積していく
・経済発展により商業分野でもキリスト教徒と競合するようになり、教会の腐敗を批判する
修道会が反ユダヤ的な言説を庶民に説教、ペストはユダヤ人の犯行とのデマも多く流布され
ユダヤ人は北西ヨーロッパから消えて行った
⇒1492年のレコンキスタ完了でスペインでも改宗か脱出かを迫られた
・(20世紀後半のアメリカ福音派の場合)
⇒新約聖書の「ローマ人への手紙11章」を根拠に終末の前段を「イスラエルの再興」とする
⇒つまりユダヤ人がパレスチナで神の国を建国することだとして支援している
⇒これがキリスト教シオニズム思想の核心
⇒現代アメリカではイスラエル・ロビーの影響もあり親イスラエル政策に傾く要因に
(歴史的にはユダヤ人を疎ましく感じる傾向が圧倒的)
第3章 近世~スファラディームとアシュケナジーム~より
・ヨーロッパ史ではearly modern近世は16世紀から19世紀初頭まで
(大航海での躍進⇒宗教改革と社会変革と戦争⇒主権国家体制の成立⇒近代化の準備)
⇒ユダヤ史ではディアスポラからのさらなるディアスポラ集団である、
⇒スファラディーム(スペイン系)とアシュケナジーム(ドイツ系)の確立
・スペイン追放後のスファラディーム
⇒ポルトガル⇒オランダ・オスマン帝国へ
⇒アムステルダムを起点に南米レシフェで奴隷・砂糖貿易
⇒レシフェのユダヤ共同体がポルトガルにより破壊され一部は北米ニューアムステルダムへ
⇒北米最初のユダヤ共同体となったがイギリス(⇒のちアメリカ)に占領されニューヨークに
⇒アムステルダムには30年戦争でドイツなどからアシュケナジームも多く流入
(この流れは20世紀まで続きアンネ・フランク一家もドイツから亡命している)
・アムステルダムのスピノザ(1632-77)
⇒汎神論による科学合理主義で共同体からは破門されたがユダヤ知識人に影響を与えた
⇒次章のユダヤ啓蒙主義の萌芽へ
・オスマン帝国へ移民したスファラディーム(略)
⇒フランス化したユダヤ人が旧オスマン北アフリカ植民地を経営
⇒ムスリムとの溝が生まれる遠因ともなる
・ポーランド王国のアシュケナジーム⇒18世紀後半には全ユダヤ人口の1/3を占めた
⇒ポーランド小規模貴族とユダヤ人の同盟関係はベラルーシやウクライナ中部まで進出
(商店や居酒屋も経営したが農民からは貴族の手先で自治権のある都市では排除傾向)
・1648年ウクライナでコサックとタタールの反乱⇒コサック国家が1世紀ほど続いた
⇒ポーランド貴族の請負で税を徴収するユダヤ人は農民搾取者として半数が殺された
(反乱指導者ボフダン・フメリニツィキーはユダヤ史では嫌われるがウクライナ史では英雄)
・16世紀モスクワ大公国(ロシア)成立と南部へのオスマン帝国侵略による不安定化
(西欧では30年戦争後の1648年ウェストファリア合議により国境が一応安定化した)
⇒18世紀末にはロシア・ドイツ・オーストリアに分割されポーランドは消滅
⇒一方ワルシャワでは1878年ポーランド語を使用するユダヤ富裕層の大シナゴーグが完成
⇒下層マイノリティは多数者に同化するが中間マイノリティは地位と経済充足から残る
⇒不安定化での怨念を真っ先に浴びるのが中間マイノリティという三者関係
⇒東欧ユダヤ人の繁栄と迫害はこうした構造から紐解ける
・ユダヤ教神秘主義(略)
第4章 近代~改革・革命・暴力~より
・ヨーロッパの近代は18世紀後半のフランス市民革命とイギリス産業革命から
⇒革命後の国家の政治と経済は絶大になり「国の法に従いながら自分の居場所を確保する」
ことが許されない状況が拡大していった
⇒反ユダヤ主義もポグロムからホロコーストの悲劇に拡大していく
⇒近世まではキリスト教を背景とした金持ち・特権階級への妬みだったが、
⇒20世紀の西欧では貧しい移民への嫌悪、東欧では民族対立を意識した憎悪の顕在化に
・ロシア帝国内での移動
⇒人口増や都市化によるリトアニア・ベラルーシからウクライナへ向けての国内移民
(北米やパレスチナへの移民はその延長)
・ヨーロッパ各国でも都市への移住が増え新たな摩擦の背景に
・近代の「ユダヤ人問題」
⇒伝統的キリスト教世界ではユダヤ人を道徳的に蔑みつつ経済的機能は利用していた
(イスラム世界でも「啓典の民」として位置づけられていた)
⇒ところが西欧ではキリスト教の権力と規範が弱体化し啓蒙主義的な普遍主義が浸透した
⇒伝統的な個別的なとらえ方は許されなくなった
⇒日本で江戸時代まで蔑まれながら独自の役割を持っていた「えた・ひにん」が、
明治の国民平準化政策で独自の位置づけを失い、特殊性が抜けない「部落民」として
激しい差別に遭う構造に似ている
⇒日本の被差別部落では同化を目指したり水平社運動を興したり様々な方向性に分かれた
⇒同様にロシア帝国下の精神的シオニズム創始者は西欧での同化指向を非難している(略)
・ユダヤ教は共同体や家族単位で律法を実践するもの
⇒宗教に関係なく国家法の下に一元化されると共同体の自治が脆弱になる
⇒差別されても逃げ込めた共同体の消滅でますますマジョリティに左右される⇒隷属
・1789年フランス、1812年プロイセン、1867年オーストリア・ハンガリー帝国とユダヤ人の
法的解放は続き、国内移民も増えたが都市住民はユダヤ人が大挙して押し寄せたと感じた
⇒解放によって生じたのはユダヤ人同士の格差と分断
(パリのユダヤ人はアルザス地方のユダヤ人を粗野で頑なと見て分断)
(ドイツ的教養を持つユダヤ人とロシア東欧からドイツに逃れてきた貧しいユダヤ人との格差)
(ヒトラーがウィーンで1910年から3年ほど暮らしたのはユダヤ人の貧困地区だった)
・1880年代のドイツでは、ロシア帝国でのポグロムから急増したユダヤ人の定義を、
それまでの宗派から人種としてとらえ、血統で国籍付与を控えようとした
⇒宗派でも人種でも経済と結びつける発想は同じで旧態依然⇒本質は変わらない
・近代の合理主義的な新傾向とユダヤ人は同一視され前者への反発が後者への反発に
⇒伝統的偏見だけでなく合理主義拡大への反発が反ユダヤ主義を喚起するパターンに
・1900年の時点でユダヤ人口の約半数520万人が暮らしていたのはロシア帝国
⇒オーストリア・ハンガリー帝国207万人、急増していたアメリカ100万人、ドイツ52万人
⇒拡大したロシア領土にポーランドが誘致したユダヤ人をそのまま呑み込んでいたから増えた
⇒ウクライナ人やベラルーシ人は独自の民族とされなかったが他の諸民族にはロシア化や
ロシア正教の強制は少なかった
⇒多民族・多宗教国家がロシア政府とユダヤ人の大前提
・1856年クリミア戦争敗北から1861年農奴解放、ユダヤ人の移動制限撤廃などの大改革
⇒ロシア・ユダヤ人としての政府と一体となった改革も
⇒一方でラビの家に生まれたが貧しくユダヤ共同体に反発してロシア正教に改宗したのが
ベラルーシ・ミンスク近郊のヤコブ・ブラフマン
⇒共同体の内部文書をロシア語に訳して1869年に出版したのが「カハルの書」
⇒ユダヤ人が異教徒を支配することを謀議していると吹聴した
⇒政府に重宝され各国語にも訳されて後の偽書「シオン長老の議定書」の種本になった
・農奴解放は農奴制度によるユダヤ人の手数料や調達先を喪失させた
⇒多くが従事していた家内制手工業も工業化し穀物運搬も鉄道化して職を失い工場労働者に
⇒「低所得者は子沢山」のとおり1800年から1900年の100年でユダヤ人は5倍に増えた
⇒労働者としての苦境から社会主義者に(ユダヤ精神とは別物でヒトラーの主張とは逆)
・ポグロムの責任転嫁と第一次世界大戦までの制限再強化(略)
・ポグロムの翌年から組織的なシオニズム運動が開始される
⇒東欧では主要な運動になったが西欧では鈍かった
⇒集合的運動でパレスチナを目指すのは西欧社会との決別になるから
⇒ロシア帝国ではユダヤ人が集合的存在であることは当然視されており、ポグロムの対象に
されるのは国を持たず放浪して農民に寄生するとされているからで、パレスチナで農業自活
することで民族として自立する能力と意志があることをロシアに証明しようとした
⇒なのでロシア・シオニストの想定では多数は帝国に残ることになっていた
・1894年フランス・ドレフェス大尉事件(冤罪)とシオニズム(略)
・1905年革命(国会開設と新たな分断)、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとユダヤ人、
労働運動組織ブンド、自由主義、伝統主義・・・(略)
・ロシア革命と内戦
⇒1917年2月革命は自由民主的でユダヤ人にとって歓迎すべきものだった
⇒10月革命でボルシェヴィキが乗っ取ってしまった
⇒国家秩序が大混乱に陥り結果的にユダヤ人に深い傷をもたらすことに
⇒赤軍と白軍の内戦
⇒依存していた農村経済は大きく転換し赤軍からは零細商店もブルジョワとして攻撃され、
白軍右翼は反ユダヤで、ボリシェヴィキはポグロムを仕掛けコサックも加勢した
・内戦が複雑化したのがウクライナ
⇒赤軍も白軍もウクライナは統一ロシアで一致、ウクライナ人の一部も同様だったが1918年に
独立したポーランドと同様の独立を目指す民族主義者も少なからずいた結果、凄惨なポグロムに
・内戦期のポグロム(民衆暴力)
⇒犠牲者数は政府が消滅しており不明だが5万~20万人とされ、その中心はウクライナ
⇒民族主義者にとってユダヤ人は自民族を脅かす敵でポグロムが最も多い⇒想像の民族対立
⇒次に反ユダヤ主義の白軍、次が民族主義者から赤軍に接近していった軍隊、赤軍の順
1970年までにイスラエルのユダヤ人口の半数が中東・北アフリカ系という構成になった
⇒思想や習慣の違いがあり政治やパレスチナ人との関係をさらに複雑化している
・ホロコーストの記憶
⇒シオニスト社会ではホロコーストはシオニストに従わなかった結果だとして当初は冷淡だった
⇒ホロコーストを生き延び、どの国も引き受けてくれなかった33万人がイスラエルに移民したが
彼らには深い傷もあり沈黙するしかなかった
⇒ところが1961年のアイヒマン裁判で世界的にホロコーストが注目され、生存者の証言で抵抗が
あったことも理解されるようになると、ホロコーストの捉え方も変わっていった
⇒次世代も親の経験を知りたいと思い、政治家もバビロン捕囚のような民族全体の記憶として
位置づけるようになった
・現在のイスラエルではアラブ人・アラブ諸国からの攻撃や非難をホロコーストのアナロジーで
理解する傾向がある
⇒シオニストの加害行為への応報さえ不当な被害とする理解(概念拡張)が常態化している
⇒2023年のハマスによる越境虐殺も拡張され長年続く抑圧への言及やパレスチナ人の犠牲への
懸念表明さえ忌避されることとなった
・1967年の第三次中東戦争でイスラエルはヨルダン、エジプト、シリアが統治していた
ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原を占領しシナイ半島までエジプトから奪った
⇒「虐げられたのち共産主義の理想でつくられた国家」のイメージはこれ以降消えていく
⇒国際政治でも決定的になるが世界のユダヤ人の一部には神の意思ではないかと捉えられた
⇒強硬な宗教シオニスト組織が生まれ、西岸やガザの占領地に入植地を建設していった
・ユダヤ教からはユダヤ人がパレスチナを排他的に所有する教義は生まれないはずだが、
現在の宗教シオニストはイスラエル政権にも参加しパレスチナ人の追放を公言している
・社会主義シオニズム労働党への支持率は低下している
⇒1977年に初めて政権交代がありリクード党首ペギンが首相に就任
⇒入植地拡大だけではなく1979年には最大の敵エジプトと平和条約を結び安全保障を確保しつつ
パレスチナ人をアラブ諸国から孤立させる戦略も経済自由化も進めていった
・占領の長期化で西岸・ガザはイスラエルに安価な労働力を提供しイスラエルから商品を
購入する事実上の植民地になっていた
⇒パレスチナ人の伝統的支配層がこれを変えられないなか、相互扶助組織としてイスラム系
組織が台頭(ハマスもそこに起源を持つ)、1987年のインティファーダ(蜂起)が紛争化すると、
世界中からイスラエルへの批判が集中した
・紛争は海外からの投資を鈍らせるので財界は和平を望み1992年に辛くもリクードから政権を
奪取した労働党のラビン首相は和平実現による支持の安定化を図った
・アラファトが率いる伝統的支配層もイスラム系新興組織の台頭に危機感があり、湾岸戦争で
フセインを支持したことによるアメリカや湾岸諸国の不興からの挽回も必要だった
⇒両支配層同士の利害が一致しアメリカなどの仲介で1993年にオスロ合意が結ばれたが、
両支配層以外の利益は一致していなかった
・大イスラエル主義者や宗教シオニストは無用な妥協としてラビンを非難し、ハマスなどの
イスラム組織やパレスチナの共産主義者も譲歩が大きく難民問題やエルサレム問題が全く
解決されていないと抗議した
⇒数年のうちに暴力対立はむしろ激化し、オスロ合意は形骸化していった
・1989年にはじまったソ連からイスラエルへの大移民の結果、2000年代の初頭までに
イスラエルのユダヤ人口の2割が旧ソ連出身者となった
⇒彼らは2つの点でパレスチナに対する強硬姿勢を強化する方向に動いた
①すでに社会主義に幻滅していたので右派政党を支持、ソ連での民族自決権を当然とし、
イスラエルではユダヤ人が優先されるべきとした
(チェチェン人とパレスチナ人を重ね合わせプーチンのような強硬策を適用すべきとした)
②監視の効率化などセキュリティ技術に実戦経験を持つ多数の人材を提供することになり、
この技術は世界から非難される中で外貨を稼ぐうえでもイスラエルの強みとなっている
・シオニズムの特徴はユダヤ人をドイツ人やポーランド人に匹敵するネーションとしたこと
⇒ネーションとは国を持つ価値と能力のある民族といった意味で、シオニズムはそれを最も
徹底して非ユダヤ人のネーションを模倣した
⇒ソ連の民族政策も国際連盟と少数民族条約の体制も国際秩序はネーションが基礎単位
⇒世界の「国の法」であるこの秩序に最も忠実な道を選んだのがシオニストだった
(パレスチナに固有のネーションは存在せずパレスチナにいるのはアラブ民族であり、彼らは
アラブの国々に行けばよいという、パレスチナを故郷とするアラブ人には無意味な論理)
⇒こうした論理を背景にした非道は糾さなければならないが、それは国際政治の「国の法」に
従った結果でもあった
・2024年現在、イスラエルのユダヤ人口700万人に拮抗する600万人を擁するアメリカは、
最大のイスラエル支援国となっているが、双方には微妙な緊張関係がある(略)
・ユダヤ人だけでなくアメリカ全体としてもイスラエルを支援する理由や背景は複数ある
⇒1973年の中東戦争に由来する石油危機、1979年のイラン・イスラム革命を受けた安全保障、
福音派による支持、アメリカ同様の迫害からの国家創生物語への親近感、9.11以降のイスラム・
テロリズムと戦う同盟相手・・・
⇒イスラエル・ロビーはアメリカの外交分野では最強ロビー団体といわれているが最近は
別団体も設立され個々の政策には批判的であることも多い(略)
⇒このような動向やイスラエル支持の多角化は、基本的にアメリカの「国の法」に順応した
ことにより、平均的なアメリカ都市民と同様になったことと関係している
・アメリカに渡った女性と男性(略)
⇒他国からの移民は出稼ぎ後に戻るつもりだったので男性が多いがユダヤ人移民はほぼ同数
・ユダヤ人がアメリカで成功を収めた背景
①充実したソーシャル・キャピタル(コネ)の存在
②同時期のヨーロッパより反ユダヤ主義が格段に弱かった
⇒アフリカ系やアジア系などが鬱憤の受け皿になったこと、新参者の社会だったことによる
(その後の大学優先枠などで両者との共闘には齟齬が生じていく⇒後述)
・東欧から多くのユダヤ人革命家もアメリカに流入しているのに革命運動は退潮した
⇒アメリカの労働運動は実利的でユダヤ人もよく組織された労働組合による「順法闘争」で
待遇は確実に改善されていったから(背景にユダヤ系弁護士の尽力も⇒ニューディール)
・上昇傾向はアメリカの価値観やルールを内面化した結果
⇒言語、安息日、食物の規定は守られなくなり雑婚も進み一部はユダヤ社会から離脱した
⇒それでも過半数はシナゴーグを中心としたつながりを維持し、20世紀後半にはむしろ
強化していった
⇒ユダヤ教がアメリカ・ユダヤ人の価値観や現状に歩み寄ったから(略)
(男女の同席・安息日のシナゴーグへの車の利用・女性ラビなど)
・文化多元主義
⇒異なる宗教、習慣、価値観といったエスニシティ(民族性)を持ちながらアメリカ人としての
共通部分で緩やかにつながり合う社会
⇒アメリカ国家に忠誠を誓い、その基本的価値観と法律に従う限り、好き勝手に生きることを
国家は邪魔をしないが補助もしないという自由放任主義が原則
⇒民族性による格差は各民族が自由に工夫する
・多文化主義
⇒カナダのケベックに配慮した公文書英仏語併記など民族性に富の再配分を含めるもの
・近年のアメリカでは多文化主義傾向のアフリカ系の権利向上運動と文化多元主義傾向の
ユダヤ人の間で齟齬が生じている
・アメリカ・ユダヤ人とアフリカ系アメリカ人の成り立ちの違い(略)
むすび より
・世界史上の大きな出来事にはユダヤ人が居合わせており表層だけ見ると暗躍しているという
陰謀論になるが、特性を生かせる「組み合わせ」を探求し続けてきたのがユダヤ人の歴史
⇒中世イスラム社会と組み合わさったときにユダヤ教は発展したし、近世ポーランド貴族と
組み合わさったときには、その後に続く「農民の搾取者」というイメージを形成した
・前著「イスラエルの起源」では個々のアイデンティティの次元で定式化した
⇒例えばロシア的側面とユダヤ的側面を両立させ、且つ両者が相互補完するように自己を
理解し行動するようなあり方
⇒ユダヤ現代史の三大拠点を生きる三名のユダヤ人もユダヤ的な程度などは異なる
①ヴォロディミル・ゼレンスキー
⇒イスラエル以外の国でトップになったユダヤ人ではイギリスのディズレーリ首相以来2人目
(ディズレーリは13歳の時にイングランド国教会に改宗しているが)
⇒ユダヤ教やコミュニティからは疎遠になっておりユダヤ人意識の程度はわからないが、
ポグロムやホロコーストが吹き荒れたウクライナでユダヤ人であることを公言したうえで
ウクライナ人の圧倒的な支持を得て大統領になったことは興味深い
⇒芸能界出身で腐敗政治経験がないことへの好感やユダヤ系オリガルヒの支援も大きいが、
⇒虐殺やソ連崩壊後のイスラエルへの移民でユダヤ人口が数万人まで減り反ユダヤ主義が
不要になり、21世紀のヨーロッパでは最も反ユダヤ主義の弱い地域になったこと、
⇒ロシアではロシア人が支配層を形成しがちだがウクライナでは異民族でも当然とする
雰囲気があったことも大きい(前ポロシェンコ政権でも首相はユダヤ人だった)
②ベンヤミン・ネタニヤフ
⇒イスラエルの通算最長首相ネタニヤフは近年のイスラエルのある部分を代表している
⇒国家の存在理由がユダヤ人を守ること以外に見出せなくなっていること
⇒ペングリオンの独立宣言ではアラブ住民を含めた差別のない民主国家を築く方向性を
掲げていた(ユダヤ人国家と明記されていることがこの理念を蝕んでいったが)
⇒1976年エンテベ空港の人質解放作戦で国防軍将校だった兄を失いテロリスト憎悪に
⇒研究者によればもともとイデオロギーではなく応酬に動かされる傾向を持っていた
⇒アメリカの制止も無視した懲罰的報復、入植地拡大、ガザへの徹底攻撃・・・
⇒敵を殲滅する意図以外はなくユダヤ人が従う「国の法」は何かという問いが抜けている
⇒ユダヤ人が何と組み合わせて生存するのかを考えない点でユダヤ史では例外的存在だが、
例外もユダヤ人が関わった歴史の一つの帰結である
③エレナ・ケイガン
⇒ユダヤ人女性としてはギンズバーグ以来2人目の連邦最高裁判事
⇒2018年にトランプ大統領のムスリム入国禁止方針に対し公聴会で、それは反ユダヤ主義の
大統領がイスラエルからの移民を禁止するようなものではないかと問うた
⇒ケイガンはユダヤ系判事の中で唯一、法判断でユダヤ人のエピソードを引き合いに出した
⇒1790年の初代大統領ジョージ・ワシントンとユダヤ教信徒団とのエピソード(略)
⇒これこそが翌年に付されたアメリカ合衆国憲法修正第1条の核心だと論じた
⇒今日まで残るその条文には、特定の宗教を国教とすることを禁じ、宗教の自由を保護する
内容を含む
⇒ケイガンの中でユダヤ史とアメリカ史が合流した瞬間だった
・まさに三者三様だが世界史の教科書からユダヤ人が姿を消しているあいだにも
ユダヤ人の歴史は周囲の歴史の流れと組み合わさりながら再び歴史をつくっていく
・・・・・・・・
冒頭にも書きましたが知らなかった史実も多く、あらためてユダヤ人(現在のイスラエルの
国籍法上ではユダヤ人の母親から生まれたユダヤ教徒とユダヤ教に改宗した人)の歴史について
全体的な理解が深まりました
客観的にユダヤ人の歴史を知りたい方には最適の入門書だと思いますので、興味を持たれた方は
ぜひ本書をご熟読下さい(当てきとーメモには思い違いも重要な欠落も多いので
)
最後に備忘のため末尾にあった歴史年表をメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)



ユダヤ人の歴史~古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで~
とゆー本を読みました
表紙カバー裏の惹句

そう、怪しげな「ユダヤ本」とは異なり、史実と判明したことを中心に書かれており、
わたくしがはじめて知る事実も多かったです
著者紹介と奥付

昨年1月の刊行をネットで知り、すぐ図書館に予約してから1年半以上待ちでした

目次




わたくしの後にも200人以上の予約待ちがあり貸出期間延長もできなかったし大著の荷風本と
重なってしまいナナメ読みでしたが(でも購入すれば逆にいつでも読めると「積ん読」に
)、とりあえずのてきとーメモです
(以下てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
序章より
・ヴェニスの商人のシャイロックと杉原千畝にビザを与えられたユダヤ人⇒主体と構造
⇒シェイクスピア時代のイングランドにはユダヤ人は(追放されて)殆どおらず想像の産物だが、
主体として行動する典型的なユダヤ人のイメージ、杉原も近年の研究ではソ連の脅威から
逃れる人たちを救おうとしており、ユダヤ人の意識はなかったが(ホロコーストが知られるように
なったのは戦後)、これが当時の社会構造からのユダヤ人のイメージ
⇒実際のユダヤ人の歴史は主体と構造の関係で動いている
・ユダヤ人は歴史上でも地図上でも大部分はマイノリティ
⇒なので構造を描く世界史では一神教にとって重要なユダヤ教が始まる古代やホロコーストや
イスラエルのインパクトが強い現代にしかユダヤ人は登場しない
⇒しかし、その間にユダヤ人は自らも変貌を遂げ周囲に影響を与えている
⇒主体と構造が織りなす局面を紐解くことでヴェニスの商人やホロコーストのイメージだけ
ではないユダヤ人の実像と歴史の広がりが見えてくるだろう・・・
第1章 古代~王国とディアスポラ~より
・本書でいう聖書とはヘブライ語聖書でキリスト教の旧約聖書と大枠では同じもの
⇒聖書には事実・史実と整合する部分と神話部分があるがユダヤ人としてまとまっていく
過程の集積であり、思想や行動の参照軸つまり聖典となったもの
⇒古代オリエントで原形が組み合わさり、その核心部分が一神教としてまとめられていく
・ユダヤ人の祖先についても聖書についても最新研究では不明点が多い
⇒1980年代以降は他の資料の裏づけがあるもののみを史実としているから(略)
・出エジプト記
⇒イスラエル人が前11世紀にエジプト王国で暮らしていた史料はない
⇒パレスチナもエジプト新王国の支配下にあり圧制を逃れたかは疑問
⇒だが当時この地域で大きな移民が繰り返されたのは史実
⇒前12世紀の古代エジプトの碑文からイスラエルの名称が確認されており、前9世紀の別の
碑文からダビデを創始者とする王朝がこの地域にあったことを示している
⇒数世紀に渡り繁栄したという証拠はないが空想の物語というわけでもない
・エジプト全域とメソポタミア南部は砂漠気候で川からの治水灌漑農業で王国文明に
⇒カナンの中央から北部は地中海性気候で緑が豊かだった
⇒気候の恩恵により牧歌的な社会が形成されたが王国の抗争に何度も巻き込まれた
⇒多様な文化が交錯し聖書にも反映され、常に同盟先を探る習慣も身に付いた
・聖書の定義ではユダヤ人ではなくイスラエル人
⇒アダムとイブの子のうち⇒セト⇒ノア⇒セム⇒アブラハムの系統
⇒アブラハムとサラの子のうち⇒イサク⇒ヤコブ⇒この系統からユダヤ教・キリスト教へ
⇒アブラハムと女奴隷の子⇒イシュマエル(イスマーイール)⇒アラブ人⇒イスラム教へ
⇒アブラハムは神と契約を結びカナンの地を約束された(アブラハム契約)
⇒その後このイスラエルの民がエジプトに移民するまでが創世記
⇒エジプトで奴隷となりモーセが率い紅海を渡ってシナイ山で十戒を授かる(出エジプト記)
(⇒これがシナイ契約⇒以下略)
・独立国家を持たず農民や遊牧民の連合であるイスラエルの民をまとめるのが「神との契約」
⇒アブラハム契約は血縁が基礎だがシナイ契約は律法順守が基礎
⇒ユダヤ人の母から生まれた血縁ユダヤ人とユダヤ教に改宗した律法ユダヤ人
(ユダヤ教以外のユダヤ人も存在することになるが現在の国籍法上ではユダヤ教徒が条件)
・イスラエル(北)王国とユダ(南)王国
⇒ペリシテ人(パレスチナ人)などに侵略されるが存在したことは文字資料から事実
⇒北王国はアッシリアに征服され強制移住、南王国もアッシリアの属国に
⇒やがて南王国もバビロニアに征服されソロモン神殿は破壊、バビロニア捕囚へ
(これ以降は聖書以外の史料も増えるので史実を追う)
・新バビロニア王国でユダ王国の人々は比較的同一性を保ちユダヤ人と呼ばれるようになる
⇒まとめたのはイスラエルの宗教から発展成立したユダヤ教という排他的一神教
・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神が同じ神であることは相互に了解している
⇒異なるのは神の道に到達するための考え方や実践
・バビロン捕囚以降の聖書には唯一神以外は検閲排除されているが漏れはある(創世記など)
⇒唯一神を信じるようになったのは救済のため(救済史観)
⇒この救済史観を強く受け継いだのがキリスト教
⇒ユダヤ教では中世になるまでに表向きには強調されなくなった
・アケメネス朝ペルシャ帝国で律法が確定、宗教共同体としての自治が保たれた
⇒最後の審判や天国、死者の復活という概念はペルシャ人のゾロアスター教由来の可能性も
・ペルシャ帝国はアレクサンドロス大王に征服されヘレニズム文化へ
⇒プトレマイオス朝のアレクサンドリアはその中心の世界都市に
⇒ヘレニズムの影響を受けたギリシャ文化ユダヤ人も増加し伝統的ユダヤ文化と対立
⇒マカバイの反乱
⇒ユダヤ教の他の祭りとは異なる軍事的勝利を祝うハヌカの祭りへ(ギリシャの影響)
・ローマ帝国が介入しヘロデ王が承認され、その死去により直接統治に近くなった
⇒その頃にユダヤ教の改革(エルサレム権威主義批判)を行おうとしたのがナザレのイエス
⇒ユダヤ教の支配層もローマも秩序の乱れを恐れて処刑した
⇒イエスはメシアを自称することはなかったが弟子たちがメシアとして信仰を形成していった
(ユダヤ教では律法を守りながら今もメシアを待ち望んでいる)
⇒メシアはヘブライ語で(神から)油を注がれた者の意
⇒ギリシャ語ではクリストス⇒日本語ではキリスト
・ローマ帝国に反乱したヘロデ王が73年に集団自決、1948年のイスラエルまで国はなかったが、
はるか以前からオリエント各地に拡散してたので国家消滅は死活的な問題ではない
・ユダヤ教とキリスト教のあり方がある程度確立したのは中世以降
⇒ユダヤ教は律法中心主義でその実践を重視、キリスト教は内面重視
⇒ユダヤ教は実質的に血縁で結ばれる民族宗教、キリスト教は普遍宗教で積極的な布教活動が
政治や帝国主義とも結びついていく
(ユダヤ教のシナゴーグはキリスト教会のようなヒエラルキー構造を持たない)
・ユダヤ教はマイノリティで移動先で柔軟に共同体を形成したが、それ以上を望む原理は
持たなかったので権力から過度に危険視されることは少なく権力を味方につけて生き延びた
第2章 古代末期・中世~異教国家の中の法治民族~より
・周囲と自集団がお互いの特徴を維持しながら共栄する組み合わせを見つける
⇒このバビロニアからの傾向がパレスチナ追放(西洋史の古代末期)後には唯一の形態に
・西洋史では西ローマ帝国滅亡(476年)までが古代、東ローマ帝国滅亡(1453年)までが中世
⇒ユダヤ人の中心は西洋にはなく8世紀にイスラム諸国家と組み合わさりラビ・ユダヤ教が確立
⇒7世紀から13世紀まで世界のユダヤ人の9割がイスラム諸国で暮らすことになった
⇒イスラム世界を外敵とした中世ヨーロッパとの大きな違い
⇒イスラムも聖書を聖典の一つとする宗教でユダヤ教との類似点はキリスト教より多い
・パレスチナでのローマ帝国とのユダヤ戦争⇒ガリラヤ地方に集住⇒ラビに自治が認められる
⇒313年ローマ帝国がキリスト教を公認⇒392年には国教に
⇒ガリラヤ地方のユダヤ人の状況が悪化
⇒危機により4世紀末に学院で蓄積された最初の律法解釈書タルムードを編纂
⇒ペルシャ帝国下のバビロニアでは6世紀初頭に別の律法解釈書タルムードを編纂
・ユダヤ教では律法の学習が中心となるため子どもの教育にお金をかける
(キリスト教やイスラム教では読み書きは宗教の中心ではない)
⇒識字率が高くなる⇒金融や商業で成功する
⇒ラビ・ユダヤ教が確立した750年から900年の間にメソポタミアとペルシャのユダヤ人は
農業を離れ都市で暮らすようになる⇒中世までラビこそが大商人だった
・ユダヤ教のラビもイスラム教のウラマーも法学の解釈者であり聖職者ではない
⇒キリスト教は神といかに繋がるかという神学であり基本的に聖職者の領分
(教会は教皇に繋がるヒエラルキー構造の末端だがシナゴーグもモスクも主従関係はない)
・メッカに住むアラブ系の商人ムハンマドが610年頃に始めたのがイスラム
⇒メッカの有力者に迫害されアラビア半島のメディナで勢力を拡大した
⇒メディナはユダヤ人の文化的影響が強くユダヤ教と決別するため厳しい態度をとった
⇒ただし初期を除けばユダヤとムスリムは協調する場合が多かった
⇒イスラム勢力にとって最大の敵がキリスト教ビザンツ帝国とゾロアスター教ペルシャ帝国
だったから
⇒ムハンマドの後継者として最高位のカリフを設けたイスラムと一体化したアラブ人勢力は
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)からシリアやエジプトを奪い、エルサレムも支配下に置き、
バビロニアやペルシャも支配した
(651年ダマスカスにウマイヤ朝が成立、その後継者争いからスンナ派とシーア派が分裂)
・イスラム教国家ではユダヤ教徒やキリスト教徒はムスリムに服従し非イスラム税ジズヤを
納めれば、生命・財産の安全と宗教の自由が保障される
⇒迫害が激しくなったキリスト教国家より魅力的で各地で共通基盤が整備されていく
・イスラム化していたイベリア半島のユダヤ人社会が発展
⇒南進を狙うキリスト教王国も寛容になり半島中央のトレドはスペインのエルサレムに
⇒やがて十字軍の更なる南進で再び非寛容に⇒ただし宗派、時代、状況により多様
・キリスト教国でもイスラム教国でも権力者と一体化したユダヤ共同体
⇒ユダヤ人が庶民から得た儲けを税として吸い上げるシステムは権力者の重要な財産に
⇒それを癒着と捉える庶民に反ユダヤ感情が蓄積していく
・経済発展により商業分野でもキリスト教徒と競合するようになり、教会の腐敗を批判する
修道会が反ユダヤ的な言説を庶民に説教、ペストはユダヤ人の犯行とのデマも多く流布され
ユダヤ人は北西ヨーロッパから消えて行った
⇒1492年のレコンキスタ完了でスペインでも改宗か脱出かを迫られた
・(20世紀後半のアメリカ福音派の場合)
⇒新約聖書の「ローマ人への手紙11章」を根拠に終末の前段を「イスラエルの再興」とする
⇒つまりユダヤ人がパレスチナで神の国を建国することだとして支援している
⇒これがキリスト教シオニズム思想の核心
⇒現代アメリカではイスラエル・ロビーの影響もあり親イスラエル政策に傾く要因に
(歴史的にはユダヤ人を疎ましく感じる傾向が圧倒的)
第3章 近世~スファラディームとアシュケナジーム~より
・ヨーロッパ史ではearly modern近世は16世紀から19世紀初頭まで
(大航海での躍進⇒宗教改革と社会変革と戦争⇒主権国家体制の成立⇒近代化の準備)
⇒ユダヤ史ではディアスポラからのさらなるディアスポラ集団である、
⇒スファラディーム(スペイン系)とアシュケナジーム(ドイツ系)の確立
・スペイン追放後のスファラディーム
⇒ポルトガル⇒オランダ・オスマン帝国へ
⇒アムステルダムを起点に南米レシフェで奴隷・砂糖貿易
⇒レシフェのユダヤ共同体がポルトガルにより破壊され一部は北米ニューアムステルダムへ
⇒北米最初のユダヤ共同体となったがイギリス(⇒のちアメリカ)に占領されニューヨークに
⇒アムステルダムには30年戦争でドイツなどからアシュケナジームも多く流入
(この流れは20世紀まで続きアンネ・フランク一家もドイツから亡命している)
・アムステルダムのスピノザ(1632-77)
⇒汎神論による科学合理主義で共同体からは破門されたがユダヤ知識人に影響を与えた
⇒次章のユダヤ啓蒙主義の萌芽へ
・オスマン帝国へ移民したスファラディーム(略)
⇒フランス化したユダヤ人が旧オスマン北アフリカ植民地を経営
⇒ムスリムとの溝が生まれる遠因ともなる
・ポーランド王国のアシュケナジーム⇒18世紀後半には全ユダヤ人口の1/3を占めた
⇒ポーランド小規模貴族とユダヤ人の同盟関係はベラルーシやウクライナ中部まで進出
(商店や居酒屋も経営したが農民からは貴族の手先で自治権のある都市では排除傾向)
・1648年ウクライナでコサックとタタールの反乱⇒コサック国家が1世紀ほど続いた
⇒ポーランド貴族の請負で税を徴収するユダヤ人は農民搾取者として半数が殺された
(反乱指導者ボフダン・フメリニツィキーはユダヤ史では嫌われるがウクライナ史では英雄)
・16世紀モスクワ大公国(ロシア)成立と南部へのオスマン帝国侵略による不安定化
(西欧では30年戦争後の1648年ウェストファリア合議により国境が一応安定化した)
⇒18世紀末にはロシア・ドイツ・オーストリアに分割されポーランドは消滅
⇒一方ワルシャワでは1878年ポーランド語を使用するユダヤ富裕層の大シナゴーグが完成
⇒下層マイノリティは多数者に同化するが中間マイノリティは地位と経済充足から残る
⇒不安定化での怨念を真っ先に浴びるのが中間マイノリティという三者関係
⇒東欧ユダヤ人の繁栄と迫害はこうした構造から紐解ける
・ユダヤ教神秘主義(略)
第4章 近代~改革・革命・暴力~より
・ヨーロッパの近代は18世紀後半のフランス市民革命とイギリス産業革命から
⇒革命後の国家の政治と経済は絶大になり「国の法に従いながら自分の居場所を確保する」
ことが許されない状況が拡大していった
⇒反ユダヤ主義もポグロムからホロコーストの悲劇に拡大していく
⇒近世まではキリスト教を背景とした金持ち・特権階級への妬みだったが、
⇒20世紀の西欧では貧しい移民への嫌悪、東欧では民族対立を意識した憎悪の顕在化に
・ロシア帝国内での移動
⇒人口増や都市化によるリトアニア・ベラルーシからウクライナへ向けての国内移民
(北米やパレスチナへの移民はその延長)
・ヨーロッパ各国でも都市への移住が増え新たな摩擦の背景に
・近代の「ユダヤ人問題」
⇒伝統的キリスト教世界ではユダヤ人を道徳的に蔑みつつ経済的機能は利用していた
(イスラム世界でも「啓典の民」として位置づけられていた)
⇒ところが西欧ではキリスト教の権力と規範が弱体化し啓蒙主義的な普遍主義が浸透した
⇒伝統的な個別的なとらえ方は許されなくなった
⇒日本で江戸時代まで蔑まれながら独自の役割を持っていた「えた・ひにん」が、
明治の国民平準化政策で独自の位置づけを失い、特殊性が抜けない「部落民」として
激しい差別に遭う構造に似ている
⇒日本の被差別部落では同化を目指したり水平社運動を興したり様々な方向性に分かれた
⇒同様にロシア帝国下の精神的シオニズム創始者は西欧での同化指向を非難している(略)
・ユダヤ教は共同体や家族単位で律法を実践するもの
⇒宗教に関係なく国家法の下に一元化されると共同体の自治が脆弱になる
⇒差別されても逃げ込めた共同体の消滅でますますマジョリティに左右される⇒隷属
・1789年フランス、1812年プロイセン、1867年オーストリア・ハンガリー帝国とユダヤ人の
法的解放は続き、国内移民も増えたが都市住民はユダヤ人が大挙して押し寄せたと感じた
⇒解放によって生じたのはユダヤ人同士の格差と分断
(パリのユダヤ人はアルザス地方のユダヤ人を粗野で頑なと見て分断)
(ドイツ的教養を持つユダヤ人とロシア東欧からドイツに逃れてきた貧しいユダヤ人との格差)
(ヒトラーがウィーンで1910年から3年ほど暮らしたのはユダヤ人の貧困地区だった)
・1880年代のドイツでは、ロシア帝国でのポグロムから急増したユダヤ人の定義を、
それまでの宗派から人種としてとらえ、血統で国籍付与を控えようとした
⇒宗派でも人種でも経済と結びつける発想は同じで旧態依然⇒本質は変わらない
・近代の合理主義的な新傾向とユダヤ人は同一視され前者への反発が後者への反発に
⇒伝統的偏見だけでなく合理主義拡大への反発が反ユダヤ主義を喚起するパターンに
・1900年の時点でユダヤ人口の約半数520万人が暮らしていたのはロシア帝国
⇒オーストリア・ハンガリー帝国207万人、急増していたアメリカ100万人、ドイツ52万人
⇒拡大したロシア領土にポーランドが誘致したユダヤ人をそのまま呑み込んでいたから増えた
⇒ウクライナ人やベラルーシ人は独自の民族とされなかったが他の諸民族にはロシア化や
ロシア正教の強制は少なかった
⇒多民族・多宗教国家がロシア政府とユダヤ人の大前提
・1856年クリミア戦争敗北から1861年農奴解放、ユダヤ人の移動制限撤廃などの大改革
⇒ロシア・ユダヤ人としての政府と一体となった改革も
⇒一方でラビの家に生まれたが貧しくユダヤ共同体に反発してロシア正教に改宗したのが
ベラルーシ・ミンスク近郊のヤコブ・ブラフマン
⇒共同体の内部文書をロシア語に訳して1869年に出版したのが「カハルの書」
⇒ユダヤ人が異教徒を支配することを謀議していると吹聴した
⇒政府に重宝され各国語にも訳されて後の偽書「シオン長老の議定書」の種本になった
・農奴解放は農奴制度によるユダヤ人の手数料や調達先を喪失させた
⇒多くが従事していた家内制手工業も工業化し穀物運搬も鉄道化して職を失い工場労働者に
⇒「低所得者は子沢山」のとおり1800年から1900年の100年でユダヤ人は5倍に増えた
⇒労働者としての苦境から社会主義者に(ユダヤ精神とは別物でヒトラーの主張とは逆)
・ポグロムの責任転嫁と第一次世界大戦までの制限再強化(略)
・ポグロムの翌年から組織的なシオニズム運動が開始される
⇒東欧では主要な運動になったが西欧では鈍かった
⇒集合的運動でパレスチナを目指すのは西欧社会との決別になるから
⇒ロシア帝国ではユダヤ人が集合的存在であることは当然視されており、ポグロムの対象に
されるのは国を持たず放浪して農民に寄生するとされているからで、パレスチナで農業自活
することで民族として自立する能力と意志があることをロシアに証明しようとした
⇒なのでロシア・シオニストの想定では多数は帝国に残ることになっていた
・1894年フランス・ドレフェス大尉事件(冤罪)とシオニズム(略)
・1905年革命(国会開設と新たな分断)、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとユダヤ人、
労働運動組織ブンド、自由主義、伝統主義・・・(略)
・ロシア革命と内戦
⇒1917年2月革命は自由民主的でユダヤ人にとって歓迎すべきものだった
⇒10月革命でボルシェヴィキが乗っ取ってしまった
⇒国家秩序が大混乱に陥り結果的にユダヤ人に深い傷をもたらすことに
⇒赤軍と白軍の内戦
⇒依存していた農村経済は大きく転換し赤軍からは零細商店もブルジョワとして攻撃され、
白軍右翼は反ユダヤで、ボリシェヴィキはポグロムを仕掛けコサックも加勢した
・内戦が複雑化したのがウクライナ
⇒赤軍も白軍もウクライナは統一ロシアで一致、ウクライナ人の一部も同様だったが1918年に
独立したポーランドと同様の独立を目指す民族主義者も少なからずいた結果、凄惨なポグロムに
・内戦期のポグロム(民衆暴力)
⇒犠牲者数は政府が消滅しており不明だが5万~20万人とされ、その中心はウクライナ
⇒民族主義者にとってユダヤ人は自民族を脅かす敵でポグロムが最も多い⇒想像の民族対立
⇒次に反ユダヤ主義の白軍、次が民族主義者から赤軍に接近していった軍隊、赤軍の順
(ウクライナ人が反ユダヤ的で異民族に不寛容だったわけではない)
⇒最終的にユダヤ人の多くが赤軍ボリシェヴィキに入ったのは「最もまし」だったから
⇒民族主義者や白軍への復讐目的もあった
⇒三者関係による不可避的な敵愾心は今も続く
・ホロコースト
⇒「想像の民族対立」はホロコーストを考えるうえでも重要なカギ
⇒犠牲者600万人のうちドイツ本国では16万人、ポーランドで300万人、ソ連で100万人、
以下、下図4-4のとおり(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)

⇒ナチ・ドイツの侵攻が最大要因だが現地人のホロコーストへの協力が多数報告され、
記憶されている⇒彼らの動機はナチ党員とは少なからず異なる
・ナチ・ドイツの反ユダヤ主義(略)
・独ソ戦が行われた地域
⇒主戦場となったポーランドでは600万人近くの市民が死亡した⇒半数近くはユダヤ人
⇒ソ連支配下やドイツとの係争地でホロコーストに加担する動機はソ連当局にはなかった
⇒焦点はソ連とドイツに挟まれた地域
・ポーランド・ソビエト戦争(1921)後に西ウクライナがポーランド領になった
⇒非ポーランド人が国民の1/3以上になり少なくともウクライナ人が14%、ユダヤ人が11%、
ベラルーシ人が4%、ドイツ人が4%を占めた
⇒独立後初の選挙(1922)ではこの少数民族連合が善戦した
⇒民族主義者にとって国境の向こう側に同胞がいる少数民族は安全保障上のリスク
・東欧に固有のホロコースト促進条件が「国境を跨いだ疑心暗鬼」
⇒ユダヤ人が劣るとかではなく、国境の向こう側のユダヤ人と結託して独立を阻むもの、
危険な敵と手を結ぶものと過大評価しており単体として危険視していたのではない
⇒1939年にはソ連が東部を占領し、1941年に独ソ戦が始まりドイツ軍が占領すると、
ソ連支配を嫌っていた国民はこれを歓迎した
・国境地域のホロコーストとされる虐殺のなかには地域住民主導のポグロムもあった(略)
⇒政治的脅威と認識されやすかった場合にポグロムが発生しがちになる
⇒ユダヤ人は事実としては国家の政治的脅威にはなり得ず、これは「想像の民族対立」
⇒ドイツ・ウクライナ・ポーランドの危険な三者関係によるもの
⇒ソ連とナチ・ドイツが一進一退した地域では疑心暗鬼が渦巻いた
⇒虐殺されたのはユダヤ人だけではなかった
⇒多方面での民族対立という状況が中東欧でのホロコーストの重要な背景
・人種という概念に憑りつかれたユダヤ人陰謀論のなれの果てが絶滅収容所
⇒戦後の西ドイツはホロコーストの全責任を被ることになったが、ソ連とドイツに挟まれた
地域では地域住民主導のポグロムも蔓延していた
⇒彼らの責任についてはいまだに曖昧なまま残されている
第5章 現代~新たな組み合わせを求めて~より
・西洋史では第一次世界大戦期からを現代と定義することが多い
⇒ソ連の発足、アメリカへの大量移民の制限、シオニズムの原型完成もこの頃
・1939年のユダヤ人口1700万人のうち600万人がホロコーストで死亡し、人口の中心は
450万人を擁していたアメリカに移った
⇒1947年には人口72万人でユダヤ人の主権国家イスラエルが建国された
⇒ソ連はホロコーストで100万人のユダヤ人を失ったものの200万人が残っていた
・本章ではこの3つの国家を中心に「国の法は法なり」という原則のその後に着目する
⇒ユダヤ教のなかの議論なので明示されることはなかったが支配原理に正面から対抗するより、
それとの組み合わせを工夫して普遍性で一致できるところは一致するという姿勢
⇒これは3つの国家でも三者三様で続いていた
・ソ連のソヴィエト体制と女性解放、持ち上げと梯子外し、現地化政策、多文化主義、
イギリスの庇護で進められていたパレスチナ入植に対抗するソ連極東での自治区の設置、
強引な農業集団化による大飢饉とユダヤ人・・・(いずれも省略)
・第二次世界大戦時にソ連はアメリカからの支援を欲していたのでユダヤ人優遇政策に
⇒国内のユダヤ人を懐柔すればアメリカのユダヤ人が親ソ連になり政府を動かすという発想
⇒このようにユダヤ人を過大評価するのは典型的な差別と同じ偏見からの発想
⇒大戦に勝利し冷戦になると逆に国内のユダヤ人はアメリカとつながり危険とされた(略)
・ホロコーストもポグロムと同様に民族融和に逆行するとして「大祖国戦争」に包括された
⇒独ソ戦ではソ連全体で2660万人が死亡しておりユダヤ人被害だけを強調できなかったのも確か
・ソ連の理念に沿って現状を批判する=国の法で国を批判するユダヤ人知識人が出現(略)
⇒スターリン憲法での人権が蹂躙されているという正論で当初は弾圧できなかった
⇒アメリカの知識人は西側の正義を認める動きとしたがソ連の人権概念を踏まえたもの
・経済が行き詰まり西側の支援を必要としたソ連は限定的に出国を認めていく
⇒イスラエルへの出国運動に拡大した
・1947年のイスラエル独立宣言時にはソ連もアメリカの直後に国家承認した
⇒中東でのイギリスの影響を挫くと考えたから
⇒ところが1967年の第三次中東戦争でイスラエルがソ連支援のアラブ連合軍に大勝すると、
一気に反イスラエルの急先鋒となった
⇒ソ連のユダヤ人の一部には昂揚感をもたらしシオニズムへの到達も
・ペレストロイカによる出国制限の大幅緩和
⇒1989年以降は経済混乱もありロシア帝国末期以来の大移動が始まった
⇒今日では旧ソ連地域のユダヤ人口は20万人程度まで激減し、この十数年で120万人の
ユダヤ人が押し寄せたイスラエルの趨勢に大きな影響を与えることになる
・社会主義シオニズム、ジェンダー(略)
・初期のパレスチナ先住民との関係
⇒土地をアラブ人から購入して入植していたが売ったのはシリアやレバノンの不在地主
⇒パレスチナの小作農は失業しオスマン法上は合法でも移民ではなく植民だった
⇒アラブ人とは「アラビア語を話すもの」で元来はユダヤ教徒も含んでいた
⇒ユダヤ教徒とユダヤ民族の両方を意味するユダヤ人と同列ではない
⇒それを同列と錯覚させているのは民族概念しか持たなかったシオニストの色眼鏡
・アラブ人との対立激化、決裂、労働シオニストと修正主義シオニストの対立(いずれも省略)
・1947年のイスラエル建国
⇒イギリス委託統治終了に合わせ独立宣言、翌日からの第一次中東戦争に大勝し翌年に
分割決議以上の停戦ラインを得た(想定される国境線⇒グリーンライン)
⇒少なくとも70万人のアラブ人がグリーンライン外側のヨルダン川西岸地区やガザ地区、
シリア、レバノンなどに逃れ、辛くも残ったアラブ人は16万人でイスラエル国籍を付与された
(国際的な体面と懐柔によるアラブ人の分断が得策という判断もあった)
⇒この難民70万人と残った16万人がやがてパレスチナ人と呼ばれるようになった
⇒この大災厄経験の共通性によりパレスチナ人としてのアイデンティティが高められていく
・新生イスラエルは労働シオニズムの方針どおり世俗的民主国家を目指したが、伝統的な
ラビ・ユダヤ教体制とも妥協することになった(略)
・1967年以降の展開
⇒モロッコ・チュニジア・アルジェリアがフランスから独立し、フランスの市民権を持つ
アルジェリアのユダヤ人の多くはフランスに移民したが、そうでないモロッコ系や
チュニジア系のユダヤ人は、おもにイスラエルに移民した
⇒ほかにもイラン、イラク、トルコ、イエメン、エジプトなどからも多くの移民があり、⇒最終的にユダヤ人の多くが赤軍ボリシェヴィキに入ったのは「最もまし」だったから
⇒民族主義者や白軍への復讐目的もあった
⇒三者関係による不可避的な敵愾心は今も続く
・ホロコースト
⇒「想像の民族対立」はホロコーストを考えるうえでも重要なカギ
⇒犠牲者600万人のうちドイツ本国では16万人、ポーランドで300万人、ソ連で100万人、
以下、下図4-4のとおり(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)

⇒ナチ・ドイツの侵攻が最大要因だが現地人のホロコーストへの協力が多数報告され、
記憶されている⇒彼らの動機はナチ党員とは少なからず異なる
・ナチ・ドイツの反ユダヤ主義(略)
・独ソ戦が行われた地域
⇒主戦場となったポーランドでは600万人近くの市民が死亡した⇒半数近くはユダヤ人
⇒ソ連支配下やドイツとの係争地でホロコーストに加担する動機はソ連当局にはなかった
⇒焦点はソ連とドイツに挟まれた地域
・ポーランド・ソビエト戦争(1921)後に西ウクライナがポーランド領になった
⇒非ポーランド人が国民の1/3以上になり少なくともウクライナ人が14%、ユダヤ人が11%、
ベラルーシ人が4%、ドイツ人が4%を占めた
⇒独立後初の選挙(1922)ではこの少数民族連合が善戦した
⇒民族主義者にとって国境の向こう側に同胞がいる少数民族は安全保障上のリスク
・東欧に固有のホロコースト促進条件が「国境を跨いだ疑心暗鬼」
⇒ユダヤ人が劣るとかではなく、国境の向こう側のユダヤ人と結託して独立を阻むもの、
危険な敵と手を結ぶものと過大評価しており単体として危険視していたのではない
⇒1939年にはソ連が東部を占領し、1941年に独ソ戦が始まりドイツ軍が占領すると、
ソ連支配を嫌っていた国民はこれを歓迎した
・国境地域のホロコーストとされる虐殺のなかには地域住民主導のポグロムもあった(略)
⇒政治的脅威と認識されやすかった場合にポグロムが発生しがちになる
⇒ユダヤ人は事実としては国家の政治的脅威にはなり得ず、これは「想像の民族対立」
⇒ドイツ・ウクライナ・ポーランドの危険な三者関係によるもの
⇒ソ連とナチ・ドイツが一進一退した地域では疑心暗鬼が渦巻いた
⇒虐殺されたのはユダヤ人だけではなかった
⇒多方面での民族対立という状況が中東欧でのホロコーストの重要な背景
・人種という概念に憑りつかれたユダヤ人陰謀論のなれの果てが絶滅収容所
⇒戦後の西ドイツはホロコーストの全責任を被ることになったが、ソ連とドイツに挟まれた
地域では地域住民主導のポグロムも蔓延していた
⇒彼らの責任についてはいまだに曖昧なまま残されている
第5章 現代~新たな組み合わせを求めて~より
・西洋史では第一次世界大戦期からを現代と定義することが多い
⇒ソ連の発足、アメリカへの大量移民の制限、シオニズムの原型完成もこの頃
・1939年のユダヤ人口1700万人のうち600万人がホロコーストで死亡し、人口の中心は
450万人を擁していたアメリカに移った
⇒1947年には人口72万人でユダヤ人の主権国家イスラエルが建国された
⇒ソ連はホロコーストで100万人のユダヤ人を失ったものの200万人が残っていた
・本章ではこの3つの国家を中心に「国の法は法なり」という原則のその後に着目する
⇒ユダヤ教のなかの議論なので明示されることはなかったが支配原理に正面から対抗するより、
それとの組み合わせを工夫して普遍性で一致できるところは一致するという姿勢
⇒これは3つの国家でも三者三様で続いていた
・ソ連のソヴィエト体制と女性解放、持ち上げと梯子外し、現地化政策、多文化主義、
イギリスの庇護で進められていたパレスチナ入植に対抗するソ連極東での自治区の設置、
強引な農業集団化による大飢饉とユダヤ人・・・(いずれも省略)
・第二次世界大戦時にソ連はアメリカからの支援を欲していたのでユダヤ人優遇政策に
⇒国内のユダヤ人を懐柔すればアメリカのユダヤ人が親ソ連になり政府を動かすという発想
⇒このようにユダヤ人を過大評価するのは典型的な差別と同じ偏見からの発想
⇒大戦に勝利し冷戦になると逆に国内のユダヤ人はアメリカとつながり危険とされた(略)
・ホロコーストもポグロムと同様に民族融和に逆行するとして「大祖国戦争」に包括された
⇒独ソ戦ではソ連全体で2660万人が死亡しておりユダヤ人被害だけを強調できなかったのも確か
・ソ連の理念に沿って現状を批判する=国の法で国を批判するユダヤ人知識人が出現(略)
⇒スターリン憲法での人権が蹂躙されているという正論で当初は弾圧できなかった
⇒アメリカの知識人は西側の正義を認める動きとしたがソ連の人権概念を踏まえたもの
・経済が行き詰まり西側の支援を必要としたソ連は限定的に出国を認めていく
⇒イスラエルへの出国運動に拡大した
・1947年のイスラエル独立宣言時にはソ連もアメリカの直後に国家承認した
⇒中東でのイギリスの影響を挫くと考えたから
⇒ところが1967年の第三次中東戦争でイスラエルがソ連支援のアラブ連合軍に大勝すると、
一気に反イスラエルの急先鋒となった
⇒ソ連のユダヤ人の一部には昂揚感をもたらしシオニズムへの到達も
・ペレストロイカによる出国制限の大幅緩和
⇒1989年以降は経済混乱もありロシア帝国末期以来の大移動が始まった
⇒今日では旧ソ連地域のユダヤ人口は20万人程度まで激減し、この十数年で120万人の
ユダヤ人が押し寄せたイスラエルの趨勢に大きな影響を与えることになる
・社会主義シオニズム、ジェンダー(略)
・初期のパレスチナ先住民との関係
⇒土地をアラブ人から購入して入植していたが売ったのはシリアやレバノンの不在地主
⇒パレスチナの小作農は失業しオスマン法上は合法でも移民ではなく植民だった
⇒アラブ人とは「アラビア語を話すもの」で元来はユダヤ教徒も含んでいた
⇒ユダヤ教徒とユダヤ民族の両方を意味するユダヤ人と同列ではない
⇒それを同列と錯覚させているのは民族概念しか持たなかったシオニストの色眼鏡
・アラブ人との対立激化、決裂、労働シオニストと修正主義シオニストの対立(いずれも省略)
・1947年のイスラエル建国
⇒イギリス委託統治終了に合わせ独立宣言、翌日からの第一次中東戦争に大勝し翌年に
分割決議以上の停戦ラインを得た(想定される国境線⇒グリーンライン)
⇒少なくとも70万人のアラブ人がグリーンライン外側のヨルダン川西岸地区やガザ地区、
シリア、レバノンなどに逃れ、辛くも残ったアラブ人は16万人でイスラエル国籍を付与された
(国際的な体面と懐柔によるアラブ人の分断が得策という判断もあった)
⇒この難民70万人と残った16万人がやがてパレスチナ人と呼ばれるようになった
⇒この大災厄経験の共通性によりパレスチナ人としてのアイデンティティが高められていく
・新生イスラエルは労働シオニズムの方針どおり世俗的民主国家を目指したが、伝統的な
ラビ・ユダヤ教体制とも妥協することになった(略)
・1967年以降の展開
⇒モロッコ・チュニジア・アルジェリアがフランスから独立し、フランスの市民権を持つ
アルジェリアのユダヤ人の多くはフランスに移民したが、そうでないモロッコ系や
チュニジア系のユダヤ人は、おもにイスラエルに移民した
1970年までにイスラエルのユダヤ人口の半数が中東・北アフリカ系という構成になった
⇒思想や習慣の違いがあり政治やパレスチナ人との関係をさらに複雑化している
・ホロコーストの記憶
⇒シオニスト社会ではホロコーストはシオニストに従わなかった結果だとして当初は冷淡だった
⇒ホロコーストを生き延び、どの国も引き受けてくれなかった33万人がイスラエルに移民したが
彼らには深い傷もあり沈黙するしかなかった
⇒ところが1961年のアイヒマン裁判で世界的にホロコーストが注目され、生存者の証言で抵抗が
あったことも理解されるようになると、ホロコーストの捉え方も変わっていった
⇒次世代も親の経験を知りたいと思い、政治家もバビロン捕囚のような民族全体の記憶として
位置づけるようになった
・現在のイスラエルではアラブ人・アラブ諸国からの攻撃や非難をホロコーストのアナロジーで
理解する傾向がある
⇒シオニストの加害行為への応報さえ不当な被害とする理解(概念拡張)が常態化している
⇒2023年のハマスによる越境虐殺も拡張され長年続く抑圧への言及やパレスチナ人の犠牲への
懸念表明さえ忌避されることとなった
・1967年の第三次中東戦争でイスラエルはヨルダン、エジプト、シリアが統治していた
ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原を占領しシナイ半島までエジプトから奪った
⇒「虐げられたのち共産主義の理想でつくられた国家」のイメージはこれ以降消えていく
⇒国際政治でも決定的になるが世界のユダヤ人の一部には神の意思ではないかと捉えられた
⇒強硬な宗教シオニスト組織が生まれ、西岸やガザの占領地に入植地を建設していった
・ユダヤ教からはユダヤ人がパレスチナを排他的に所有する教義は生まれないはずだが、
現在の宗教シオニストはイスラエル政権にも参加しパレスチナ人の追放を公言している
・社会主義シオニズム労働党への支持率は低下している
⇒1977年に初めて政権交代がありリクード党首ペギンが首相に就任
⇒入植地拡大だけではなく1979年には最大の敵エジプトと平和条約を結び安全保障を確保しつつ
パレスチナ人をアラブ諸国から孤立させる戦略も経済自由化も進めていった
・占領の長期化で西岸・ガザはイスラエルに安価な労働力を提供しイスラエルから商品を
購入する事実上の植民地になっていた
⇒パレスチナ人の伝統的支配層がこれを変えられないなか、相互扶助組織としてイスラム系
組織が台頭(ハマスもそこに起源を持つ)、1987年のインティファーダ(蜂起)が紛争化すると、
世界中からイスラエルへの批判が集中した
・紛争は海外からの投資を鈍らせるので財界は和平を望み1992年に辛くもリクードから政権を
奪取した労働党のラビン首相は和平実現による支持の安定化を図った
・アラファトが率いる伝統的支配層もイスラム系新興組織の台頭に危機感があり、湾岸戦争で
フセインを支持したことによるアメリカや湾岸諸国の不興からの挽回も必要だった
⇒両支配層同士の利害が一致しアメリカなどの仲介で1993年にオスロ合意が結ばれたが、
両支配層以外の利益は一致していなかった
・大イスラエル主義者や宗教シオニストは無用な妥協としてラビンを非難し、ハマスなどの
イスラム組織やパレスチナの共産主義者も譲歩が大きく難民問題やエルサレム問題が全く
解決されていないと抗議した
⇒数年のうちに暴力対立はむしろ激化し、オスロ合意は形骸化していった
・1989年にはじまったソ連からイスラエルへの大移民の結果、2000年代の初頭までに
イスラエルのユダヤ人口の2割が旧ソ連出身者となった
⇒彼らは2つの点でパレスチナに対する強硬姿勢を強化する方向に動いた
①すでに社会主義に幻滅していたので右派政党を支持、ソ連での民族自決権を当然とし、
イスラエルではユダヤ人が優先されるべきとした
(チェチェン人とパレスチナ人を重ね合わせプーチンのような強硬策を適用すべきとした)
②監視の効率化などセキュリティ技術に実戦経験を持つ多数の人材を提供することになり、
この技術は世界から非難される中で外貨を稼ぐうえでもイスラエルの強みとなっている
・シオニズムの特徴はユダヤ人をドイツ人やポーランド人に匹敵するネーションとしたこと
⇒ネーションとは国を持つ価値と能力のある民族といった意味で、シオニズムはそれを最も
徹底して非ユダヤ人のネーションを模倣した
⇒ソ連の民族政策も国際連盟と少数民族条約の体制も国際秩序はネーションが基礎単位
⇒世界の「国の法」であるこの秩序に最も忠実な道を選んだのがシオニストだった
(パレスチナに固有のネーションは存在せずパレスチナにいるのはアラブ民族であり、彼らは
アラブの国々に行けばよいという、パレスチナを故郷とするアラブ人には無意味な論理)
⇒こうした論理を背景にした非道は糾さなければならないが、それは国際政治の「国の法」に
従った結果でもあった
・2024年現在、イスラエルのユダヤ人口700万人に拮抗する600万人を擁するアメリカは、
最大のイスラエル支援国となっているが、双方には微妙な緊張関係がある(略)
・ユダヤ人だけでなくアメリカ全体としてもイスラエルを支援する理由や背景は複数ある
⇒1973年の中東戦争に由来する石油危機、1979年のイラン・イスラム革命を受けた安全保障、
福音派による支持、アメリカ同様の迫害からの国家創生物語への親近感、9.11以降のイスラム・
テロリズムと戦う同盟相手・・・
⇒イスラエル・ロビーはアメリカの外交分野では最強ロビー団体といわれているが最近は
別団体も設立され個々の政策には批判的であることも多い(略)
⇒このような動向やイスラエル支持の多角化は、基本的にアメリカの「国の法」に順応した
ことにより、平均的なアメリカ都市民と同様になったことと関係している
・アメリカに渡った女性と男性(略)
⇒他国からの移民は出稼ぎ後に戻るつもりだったので男性が多いがユダヤ人移民はほぼ同数
・ユダヤ人がアメリカで成功を収めた背景
①充実したソーシャル・キャピタル(コネ)の存在
②同時期のヨーロッパより反ユダヤ主義が格段に弱かった
⇒アフリカ系やアジア系などが鬱憤の受け皿になったこと、新参者の社会だったことによる
(その後の大学優先枠などで両者との共闘には齟齬が生じていく⇒後述)
・東欧から多くのユダヤ人革命家もアメリカに流入しているのに革命運動は退潮した
⇒アメリカの労働運動は実利的でユダヤ人もよく組織された労働組合による「順法闘争」で
待遇は確実に改善されていったから(背景にユダヤ系弁護士の尽力も⇒ニューディール)
・上昇傾向はアメリカの価値観やルールを内面化した結果
⇒言語、安息日、食物の規定は守られなくなり雑婚も進み一部はユダヤ社会から離脱した
⇒それでも過半数はシナゴーグを中心としたつながりを維持し、20世紀後半にはむしろ
強化していった
⇒ユダヤ教がアメリカ・ユダヤ人の価値観や現状に歩み寄ったから(略)
(男女の同席・安息日のシナゴーグへの車の利用・女性ラビなど)
・文化多元主義
⇒異なる宗教、習慣、価値観といったエスニシティ(民族性)を持ちながらアメリカ人としての
共通部分で緩やかにつながり合う社会
⇒アメリカ国家に忠誠を誓い、その基本的価値観と法律に従う限り、好き勝手に生きることを
国家は邪魔をしないが補助もしないという自由放任主義が原則
⇒民族性による格差は各民族が自由に工夫する
・多文化主義
⇒カナダのケベックに配慮した公文書英仏語併記など民族性に富の再配分を含めるもの
・近年のアメリカでは多文化主義傾向のアフリカ系の権利向上運動と文化多元主義傾向の
ユダヤ人の間で齟齬が生じている
・アメリカ・ユダヤ人とアフリカ系アメリカ人の成り立ちの違い(略)
むすび より
・世界史上の大きな出来事にはユダヤ人が居合わせており表層だけ見ると暗躍しているという
陰謀論になるが、特性を生かせる「組み合わせ」を探求し続けてきたのがユダヤ人の歴史
⇒中世イスラム社会と組み合わさったときにユダヤ教は発展したし、近世ポーランド貴族と
組み合わさったときには、その後に続く「農民の搾取者」というイメージを形成した
・前著「イスラエルの起源」では個々のアイデンティティの次元で定式化した
⇒例えばロシア的側面とユダヤ的側面を両立させ、且つ両者が相互補完するように自己を
理解し行動するようなあり方
⇒ユダヤ現代史の三大拠点を生きる三名のユダヤ人もユダヤ的な程度などは異なる
①ヴォロディミル・ゼレンスキー
⇒イスラエル以外の国でトップになったユダヤ人ではイギリスのディズレーリ首相以来2人目
(ディズレーリは13歳の時にイングランド国教会に改宗しているが)
⇒ユダヤ教やコミュニティからは疎遠になっておりユダヤ人意識の程度はわからないが、
ポグロムやホロコーストが吹き荒れたウクライナでユダヤ人であることを公言したうえで
ウクライナ人の圧倒的な支持を得て大統領になったことは興味深い
⇒芸能界出身で腐敗政治経験がないことへの好感やユダヤ系オリガルヒの支援も大きいが、
⇒虐殺やソ連崩壊後のイスラエルへの移民でユダヤ人口が数万人まで減り反ユダヤ主義が
不要になり、21世紀のヨーロッパでは最も反ユダヤ主義の弱い地域になったこと、
⇒ロシアではロシア人が支配層を形成しがちだがウクライナでは異民族でも当然とする
雰囲気があったことも大きい(前ポロシェンコ政権でも首相はユダヤ人だった)
②ベンヤミン・ネタニヤフ
⇒イスラエルの通算最長首相ネタニヤフは近年のイスラエルのある部分を代表している
⇒国家の存在理由がユダヤ人を守ること以外に見出せなくなっていること
⇒ペングリオンの独立宣言ではアラブ住民を含めた差別のない民主国家を築く方向性を
掲げていた(ユダヤ人国家と明記されていることがこの理念を蝕んでいったが)
⇒1976年エンテベ空港の人質解放作戦で国防軍将校だった兄を失いテロリスト憎悪に
⇒研究者によればもともとイデオロギーではなく応酬に動かされる傾向を持っていた
⇒アメリカの制止も無視した懲罰的報復、入植地拡大、ガザへの徹底攻撃・・・
⇒敵を殲滅する意図以外はなくユダヤ人が従う「国の法」は何かという問いが抜けている
⇒ユダヤ人が何と組み合わせて生存するのかを考えない点でユダヤ史では例外的存在だが、
例外もユダヤ人が関わった歴史の一つの帰結である
③エレナ・ケイガン
⇒ユダヤ人女性としてはギンズバーグ以来2人目の連邦最高裁判事
⇒2018年にトランプ大統領のムスリム入国禁止方針に対し公聴会で、それは反ユダヤ主義の
大統領がイスラエルからの移民を禁止するようなものではないかと問うた
⇒ケイガンはユダヤ系判事の中で唯一、法判断でユダヤ人のエピソードを引き合いに出した
⇒1790年の初代大統領ジョージ・ワシントンとユダヤ教信徒団とのエピソード(略)
⇒これこそが翌年に付されたアメリカ合衆国憲法修正第1条の核心だと論じた
⇒今日まで残るその条文には、特定の宗教を国教とすることを禁じ、宗教の自由を保護する
内容を含む
⇒ケイガンの中でユダヤ史とアメリカ史が合流した瞬間だった
・まさに三者三様だが世界史の教科書からユダヤ人が姿を消しているあいだにも
ユダヤ人の歴史は周囲の歴史の流れと組み合わさりながら再び歴史をつくっていく
・・・・・・・・
冒頭にも書きましたが知らなかった史実も多く、あらためてユダヤ人(現在のイスラエルの
国籍法上ではユダヤ人の母親から生まれたユダヤ教徒とユダヤ教に改宗した人)の歴史について
全体的な理解が深まりました
客観的にユダヤ人の歴史を知りたい方には最適の入門書だと思いますので、興味を持たれた方は
ぜひ本書をご熟読下さい(当てきとーメモには思い違いも重要な欠落も多いので
)最後に備忘のため末尾にあった歴史年表をメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)


2026年08月21日
アンブロのサコッシュ
とーとつですが・・・
4年前から愛用していたキャリングポーチのファスナーがイカれたので・・・

Umbroアンブロのサコッシュつーのを買ってみました

タテヨコのサイズはキャリングポーチとあまり変わりませんが、

ボトムの厚みが僅か2cmになり、さすがにカメラまでは入りませんが・・・

内ポケットも多く使い勝手はなかなかのもので、
今後のお出かけは、この4種類からの選択つーことに・・・

左からアルファのカメラバッグ、今回のサコッシュとリンク記事でも紹介したダンプポーチ、
ユニクロのショルダーバッグであります
って、ポーチとサコッシュとショルダーバッグの区分がわからずタグもてきとーでしゅが、
わたくしは高齢なので中年男性の必須アイテムである?ボディバッグは持ってましぇん
4年前から愛用していたキャリングポーチのファスナーがイカれたので・・・

Umbroアンブロのサコッシュつーのを買ってみました

タテヨコのサイズはキャリングポーチとあまり変わりませんが、

ボトムの厚みが僅か2cmになり、さすがにカメラまでは入りませんが・・・

内ポケットも多く使い勝手はなかなかのもので、
今後のお出かけは、この4種類からの選択つーことに・・・

左からアルファのカメラバッグ、今回のサコッシュとリンク記事でも紹介したダンプポーチ、
ユニクロのショルダーバッグであります
って、ポーチとサコッシュとショルダーバッグの区分がわからずタグもてきとーでしゅが、
わたくしは高齢なので中年男性の必須アイテムである?ボディバッグは持ってましぇん

2026年08月13日
「荷風と東京」と「荷風の昭和」
この間ずっと(上方大阪から江戸東京へ
)
くだらないようなことで悩んでおり、記事更新ができてませんが・・・
とりあえずは荷風本を2冊
まずは前回記事の本でもオススメとして紹介されてた、

川本三郎著「荷風と東京「断腸亭日乗」私註」であります
裏表紙カバーにあった惹句

そう、永井荷風の40年に及ぶ毎日の日記「断腸亭日乗」を中心に東京を舞台にした作品から、
彼が愛した東京の細部を浮かび上がらせるとゆー大著であります
上巻の奥付

30年前の1996年に刊行され、文庫化されたのが2009年
上巻の目次(眺めるだけでも全体の構成がわかります)


下巻の目次



明治・大正・昭和の「東京」を歩き回った都市散策者・永井荷風の足跡をたどるつーか、
東京文学散歩のガイドブックにもなってます
わたくしは東京も荷風作品も殆ど知らないのですが前回記事の本と同様に楽しめました
とても全章はメモできないので荷風とカメラに関する26章と、わたくしの大好きな滝田ゆうと
荷風に関する32章からのてきとーメモです
(以下てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
26「見る人」の写真道楽 より
・萩原朔太郎の写真が芸術写真だったのに比べ永井荷風の写真は写実写真だった
⇒朔太郎が強烈に自己主張しているのに対し荷風は風景が主で自分は風景から退いている
⇒朔太郎が幻視者だったとすれば荷風は観察者だったといえるかも・・・
・第一次世界大戦後のマルク安でドイツ製高級カメラやレンズが相対的に安くなり、さらに
コダックなどのアメリカ製やイギリス製が大量に輸入されて、写真熱がアマチュアにも
広がっていったのは1920年代から30年代(大正後期から昭和前期)
⇒エノケンの最新型ライカや寺田寅彦の随筆「カメラを提げて」もこの頃・・・
・荷風は大正3~4年にはカメラを持っていた
(はじめは友人市川左団次の明治40年アメリカ土産の手札型12枚巻きフィルム暗箱写真機)
・写真機についてはっきり書かれるのは昭和11年10月26日で、中古のローライコードⅠ型を
104円で買ったとある(⇒エリート会社員の月給が60〜90円だった頃)
⇒墨東奇譚の草稿完成の翌日であり、その昂揚感が新しいカメラを購入させたのだろう
⇒さらに昭和12年2月1日には室内撮影にも適したローライフレックスを310円で購入
(翌日にはさっそく玉の井に持参している)
・自分で現像もやったのは現像所に出せないような猥褻写真もあったから
⇒澁澤龍彦は荷風のカメラ好きを「スコプトフィリア」(のぞく人)と呼んだ
⇒カメラは現実をレンズ越しに(遮蔽物から)見る内密的な道具だったから愛した
⇒人は愛せなかったが町や人の生活を距離を置いて見るのは好きだった
⇒孤独癖の強い「見る人」にとってカメラは絶好の同行者だった・・・
32「墨東奇譚」と「寺島町奇譚」 より
・漫画家の滝田ゆうが向島区寺島町(玉の井)に生まれたのは昭和7年
⇒荷風が玉の井に足繁く通い「墨東奇譚」を書いたのは昭和11年頃
・滝田ゆうは「寺島町奇譚」を幼少期の記憶だけを頼りに描いたので時代設定に無理がある、
と作品集のあとがきに書いているが、細部まで描き込まれ「墨東奇譚」と合わせ読むと面白い
⇒荷風が玉の井を外側から見たのに対し滝田ゆうは内側から見た
・玉の井は東京大空襲で殆どが焼失し「寺島町奇譚」は焼け野原の絵で終わっている
⇒荷風が「墨東奇譚」で描いた玉の井だけが残り一編の誌的散文として屹立している
・現在の玉の井には無論、どぶも銘酒屋もないし京成白髭線跡の土手もない
⇒残っているのは京成本線の線路脇に10mほど壁のようになっている向島駅ホーム跡のみ
・・・・・
解説にも「荷風はむずかしいから川本さんのを読む」という人もあり、荷風を読んだこともない
読者にも東京という大都市の強烈なイメージを与える、だから多くの人に読まれ続ける、
とありましたが、まさに大正昭和の都市探索者としての荷風と、その時代の東京と人とを、
部外者にもわかりやすく現代に蘇らせた本でした
で、さらにこちらが・・・

同著者による最新刊「荷風の昭和」であります
裏表紙カバーにあった惹句

前書から30年を経て昨年刊行され、こちらは東京という都市に限らず、昭和という時代と
断腸亭日乗に記された荷風の行動や意見との関係を多岐にわたり、しかもじつに綿密に
たどっていて、さらに読みごたえがありました
荷風が生きた「昭和」(本書では大正12年の関東大震災後から荷風の没する昭和34年まで)の
文学、映画、飲食、風俗、街並み、政治体制、空襲、疎開先、闇市など、荷風を軸にあらゆる
事象と関係者を網羅してあり、惹句にあった「昭和をまるごと描き出した文芸評論の到達点」や
「荷風論にして昭和論の金字塔」つーのも決して過言ではないと感動しました
あらためて著者紹介

惹句にも著者自ら「これを書き上げたらいつ死んでもいい」と筆を振るったとありますが、
まさに決定版ですね
前篇の奥付

後編の奥付

前篇の目次(各章の小見出しを追うだけでも多岐にわたる内容が窺い知れます)




後編の目次




全75章で前作よりさらに大著になっており、荷風以外に関係する数多くの人物についても、
詳しく書かれており、わたくしがはじめて知ったことも多かったです
(戦前の「いわゆる文化人たち」同士の関連は、けっこう濃厚だったんですね)
漢文調の断腸亭日乗を日々ごとにわかりやすく解説、当日の食事、会った人物、観た映画や
演劇などの詳細、散歩したルートや車窓から見えていたはずの風景から思想の背景まで、
ともかくもの凄い情報量で、その根拠となる資料の量も実地踏査の量も凄かったのですが、
著者の荷風や昭和への思いの「さりげない記述」がとても素敵でした
濃い内容でじっくりと読むことに専念、今回はメモしませんでしたが荷風に興味がなくても、
昭和の暮らしぶりが生々しく伝わってきて生活史・文化史としても興味深い本でした
(ちなみに「奇行」とされる戦後の荷風の行動について著者は、戦時中に東京や岡山で4度も
空襲に遭い、命からがら逃げ延びた経験からのPTSDによるものではないかと推測、荷風は
世情に背を向け泰然としている一方で生への執着が強く、特に高齢になってから連続した
空襲体験が大きなトラウマになり戦後の奇行として現れたのではないかと・・・)
ともかく(荷風を知らなくとも)昭和に興味がある方には必読の書だと思いました
)くだらないようなことで悩んでおり、記事更新ができてませんが・・・
とりあえずは荷風本を2冊
まずは前回記事の本でもオススメとして紹介されてた、

川本三郎著「荷風と東京「断腸亭日乗」私註」であります
裏表紙カバーにあった惹句

そう、永井荷風の40年に及ぶ毎日の日記「断腸亭日乗」を中心に東京を舞台にした作品から、
彼が愛した東京の細部を浮かび上がらせるとゆー大著であります
上巻の奥付

30年前の1996年に刊行され、文庫化されたのが2009年
上巻の目次(眺めるだけでも全体の構成がわかります)


下巻の目次



明治・大正・昭和の「東京」を歩き回った都市散策者・永井荷風の足跡をたどるつーか、
東京文学散歩のガイドブックにもなってます
わたくしは東京も荷風作品も殆ど知らないのですが前回記事の本と同様に楽しめました
とても全章はメモできないので荷風とカメラに関する26章と、わたくしの大好きな滝田ゆうと
荷風に関する32章からのてきとーメモです
(以下てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
26「見る人」の写真道楽 より
・萩原朔太郎の写真が芸術写真だったのに比べ永井荷風の写真は写実写真だった
⇒朔太郎が強烈に自己主張しているのに対し荷風は風景が主で自分は風景から退いている
⇒朔太郎が幻視者だったとすれば荷風は観察者だったといえるかも・・・
・第一次世界大戦後のマルク安でドイツ製高級カメラやレンズが相対的に安くなり、さらに
コダックなどのアメリカ製やイギリス製が大量に輸入されて、写真熱がアマチュアにも
広がっていったのは1920年代から30年代(大正後期から昭和前期)
⇒エノケンの最新型ライカや寺田寅彦の随筆「カメラを提げて」もこの頃・・・
・荷風は大正3~4年にはカメラを持っていた
(はじめは友人市川左団次の明治40年アメリカ土産の手札型12枚巻きフィルム暗箱写真機)
・写真機についてはっきり書かれるのは昭和11年10月26日で、中古のローライコードⅠ型を
104円で買ったとある(⇒エリート会社員の月給が60〜90円だった頃)
⇒墨東奇譚の草稿完成の翌日であり、その昂揚感が新しいカメラを購入させたのだろう
⇒さらに昭和12年2月1日には室内撮影にも適したローライフレックスを310円で購入
(翌日にはさっそく玉の井に持参している)
・自分で現像もやったのは現像所に出せないような猥褻写真もあったから
⇒澁澤龍彦は荷風のカメラ好きを「スコプトフィリア」(のぞく人)と呼んだ
⇒カメラは現実をレンズ越しに(遮蔽物から)見る内密的な道具だったから愛した
⇒人は愛せなかったが町や人の生活を距離を置いて見るのは好きだった
⇒孤独癖の強い「見る人」にとってカメラは絶好の同行者だった・・・
32「墨東奇譚」と「寺島町奇譚」 より
・漫画家の滝田ゆうが向島区寺島町(玉の井)に生まれたのは昭和7年
⇒荷風が玉の井に足繁く通い「墨東奇譚」を書いたのは昭和11年頃
・滝田ゆうは「寺島町奇譚」を幼少期の記憶だけを頼りに描いたので時代設定に無理がある、
と作品集のあとがきに書いているが、細部まで描き込まれ「墨東奇譚」と合わせ読むと面白い
⇒荷風が玉の井を外側から見たのに対し滝田ゆうは内側から見た
・玉の井は東京大空襲で殆どが焼失し「寺島町奇譚」は焼け野原の絵で終わっている
⇒荷風が「墨東奇譚」で描いた玉の井だけが残り一編の誌的散文として屹立している
・現在の玉の井には無論、どぶも銘酒屋もないし京成白髭線跡の土手もない
⇒残っているのは京成本線の線路脇に10mほど壁のようになっている向島駅ホーム跡のみ
・・・・・
解説にも「荷風はむずかしいから川本さんのを読む」という人もあり、荷風を読んだこともない
読者にも東京という大都市の強烈なイメージを与える、だから多くの人に読まれ続ける、
とありましたが、まさに大正昭和の都市探索者としての荷風と、その時代の東京と人とを、
部外者にもわかりやすく現代に蘇らせた本でした
で、さらにこちらが・・・

同著者による最新刊「荷風の昭和」であります
裏表紙カバーにあった惹句

前書から30年を経て昨年刊行され、こちらは東京という都市に限らず、昭和という時代と
断腸亭日乗に記された荷風の行動や意見との関係を多岐にわたり、しかもじつに綿密に
たどっていて、さらに読みごたえがありました
荷風が生きた「昭和」(本書では大正12年の関東大震災後から荷風の没する昭和34年まで)の
文学、映画、飲食、風俗、街並み、政治体制、空襲、疎開先、闇市など、荷風を軸にあらゆる
事象と関係者を網羅してあり、惹句にあった「昭和をまるごと描き出した文芸評論の到達点」や
「荷風論にして昭和論の金字塔」つーのも決して過言ではないと感動しました
あらためて著者紹介

惹句にも著者自ら「これを書き上げたらいつ死んでもいい」と筆を振るったとありますが、
まさに決定版ですね
前篇の奥付

後編の奥付

前篇の目次(各章の小見出しを追うだけでも多岐にわたる内容が窺い知れます)




後編の目次




全75章で前作よりさらに大著になっており、荷風以外に関係する数多くの人物についても、
詳しく書かれており、わたくしがはじめて知ったことも多かったです
(戦前の「いわゆる文化人たち」同士の関連は、けっこう濃厚だったんですね)
漢文調の断腸亭日乗を日々ごとにわかりやすく解説、当日の食事、会った人物、観た映画や
演劇などの詳細、散歩したルートや車窓から見えていたはずの風景から思想の背景まで、
ともかくもの凄い情報量で、その根拠となる資料の量も実地踏査の量も凄かったのですが、
著者の荷風や昭和への思いの「さりげない記述」がとても素敵でした
濃い内容でじっくりと読むことに専念、今回はメモしませんでしたが荷風に興味がなくても、
昭和の暮らしぶりが生々しく伝わってきて生活史・文化史としても興味深い本でした
(ちなみに「奇行」とされる戦後の荷風の行動について著者は、戦時中に東京や岡山で4度も
空襲に遭い、命からがら逃げ延びた経験からのPTSDによるものではないかと推測、荷風は
世情に背を向け泰然としている一方で生への執着が強く、特に高齢になってから連続した
空襲体験が大きなトラウマになり戦後の奇行として現れたのではないかと・・・)
ともかく(荷風を知らなくとも)昭和に興味がある方には必読の書だと思いました
