2019年02月14日
「トモダチ作戦」の本!!!
またまたとーとつではありますが今回は・・・
「トモダチ作戦~気仙沼大島と米軍海兵隊の奇跡の"絆"~」とゆー本の紹介であります。
ロバート・D・エルドリッヂ著 集英社文庫2017年2月25日第1刷の書下ろし作品で、
表紙カバーに、あのトモダチ作戦のパッチ!!!が使われています。
著者については・・・
経歴をもう少し詳しく、「まえがき」から一部引用させていただくと・・・
神戸大学大学院法学研究科に院生として在籍中の1995年に阪神・淡路大震災で被災、
大阪大学大学院に助教授として在籍中だった2004年に「在外研究休暇」を利用して、
ハワイにある米軍海兵隊・太平洋司令部に初の客員研究員として1年間勤務、
2006年に「日本における大規模災害救援活動における在日米軍の役割についての提言」を発表、
その後「2009年に日本に誕生した民主党政権に正しく米国政府や海兵隊を理解してもらうため」、
大阪大学を辞めて在日海兵隊・外交政策部の副部長に就任。
2011年の東日本大震災で米軍による「トモダチ作戦」の立案・実行に深く関わられた方であります。
で、内容については・・・
例によって目次のみご紹介・・・
前半は宮城県気仙沼市大島での震災時の海兵隊の活動を中心に、
後半はその後の大島の子どもたちへの支援と海兵隊との交流が描かれています。
まあ、当時の米軍の救援活動や地元との交流については様々な報道がされてましたし、
このサイトでも何度か紹介してますので、わたくしの読後のメモ書きだけ・・・
・自衛隊と米軍の関係→さすが戦後日米関係史の専門家で、わかりやすく書かれてました。
(以下、著者の意見として)
・工事車両や緊急車両などの民間(公共用)装備の開発は、今後は軍用ヘリなど他の輸送手段も
想定した設計が望まれるかもしれない。
(民間の電気工事用トラックをヘリで吊り下げて大島へ空輸する案は壊れるリスクが大きすぎた。)
・支援を提供する立場では「どんなに豊富な知識や経験を持っていても、今現場で何が起こっているかを
正確に理解しているのは地元の住民である。」ことを心に留めておくべき。
・受け入れる地元の立場では「正確な情報を適切な方法で収集し、地元の地理やインフラ環境、人々
について充分に理解し、救援が到着すればそれらの情報を素早く共有できるようにする。」ことが重要。
(大島での地元と海兵隊はうまくいったが、著者のいた日米調整センターが置かれていた仙台基地では、
こういった情報は常に「戦場の霧(fog of war)」の中にあり、正確な把握は困難だった。)
・日米同盟による米軍と自衛隊の長い共同運用の歴史は、迅速な災害対応を可能にしているが、
同盟(日米安全保障条約)が救援活動を行ったことの根拠ではない。
・米国国際開発庁が規定している大規模災害支援を行うための条件(1被災した国が支援を要請するか、
救援を受けることを望んでいること。2被災国が一国で対処できないほどの大規模災害であること。
3支援を提供することが米国の国益の範囲内であること。)のすべてに該当していたからである。
(以下、著者による事実として)
・沖縄に拠点を置く水陸両用即応群の指揮艦である強襲揚陸艦「エセックス」はカンボジアでの演習後、
マレーシアボルネオ・サバ州コタキナバルに寄港中だったが、地震発生直後に全員に帰艦命令が出され、
翌日には日本に向けて出港できた。
・ドック型揚陸艦「ハーパーズ・フェリー」はASEAN災害救援訓練参加のため、インドネシア到着まで
あと数時間の距離まで近づいていたが、地震発生の5分後に連絡が入り、その後「テーブルにあったものが
全て床に落ちる」全速急回頭をして針路を日本に戻した。
この瞬間、艦内では一斉に「日本を助けに戻るぞ!!!」という雄叫びが上がった。
・同じドック型揚陸艦「ジャーマンタウン」もインドネシアの別の海域にいて入港していなかったため、
すぐに日本へ針路を変更した。
・空母「ロナルド・レーガン」とその随伴艦隊、大型輸送機C-17なども発生直後に日本に向かった。
・日本政府からの正式な支援要請は11日の夜だったが、米軍は発生の十数分後には対策室を立ち上げ、
救援作戦の立案をはじめていた。
・結果的に「トモダチ作戦」で使用された艦船、航空機、人員の規模は、近年の人道支援・災害救援
活動の中で最大規模のものとなった。
・「エセックス」では大島上陸の前に「キャンディを持っている者はいないか」と艦内アナウンスがあり、
1時間後には箱一杯になり、被災した島内315人の子どもたちへの最初のプレゼントになった。
・空母「ロナルド・レーガン」やその他の艦船でも、乗員が自費で購入したプレゼントが多かった。
・上陸にはエアクッション型揚陸艇LCACの使用も候補に挙がったが、ヘリによる偵察の結果、
湾内には瓦礫や危険な浮遊物が多く、LCACではパンクの恐れがあった。
・結局「エセックス」から20km先の大島に向かったのは汎用揚陸艇LCUで、当初の海兵隊員は177名。
・夜明けと同時にLCUから強行上陸した177名の隊員が最初に重装備のまま徒歩で向かったのは、
キャンプ予定地の休暇村キャンプ場ではなく、犠牲者の最も多かった浦の浜だった。
・そこで全員が整列して黙祷を捧げていたので、見ていた住民たちが驚いた。
・その後は毎日、夜明け前にそれぞれの担当区域へ移動、夜明けから日没までひたすら作業を続け、
極寒の中をテントで寝ていた。逆に多くの被災者が気遣ってくれた。
・瓦礫を片付ける際に涙をこらえながら作業する隊員、使えそうな食器は同じものを重ねる隊員・・・
はじめて米軍海兵隊を見た住民たちは、この姿を見て同じ人間だと感じた。
・瓦礫を丁寧に取り分けて分別する方法は、その後のボランティア活動の方向性を決めた。
・海兵隊としては大島では第一陣300名、第二陣120名で、約3週間の任務だった。
・同年の「ホームステイ・プログラム」から2016年の基金設立など、交流や支援は今も続いている。
etc・・・
著者自ら「大島と海兵隊への深い愛情から(内容には)ある種のバイアスがかかっているかも・・・」
と書かれてて、思いや主張は確かにそんな感じもしましたが、詳細な「事実」には、あらためて
深い感銘を受けた次第です。
もうすぐ、あれから8年目の3月11日を迎えます。
著者はじめ現地への支援を続けておられる皆さん、引き続き復興に携わっておられる皆さんに、
心からの敬意を表しエールを送ります。わたくしも身近にできることを続けたいと思います。
この間にも多くの大規模自然災害があり、南海トラフやスーパー台風などが今後も想定されてますが、
それぞれの貴重な教訓を肝に銘じて、「備えあれば憂いなし」・・・とまでは言えないにしても、
せめて最低限のモノとココロの準備はしておきましょう!!!
「トモダチ作戦~気仙沼大島と米軍海兵隊の奇跡の"絆"~」とゆー本の紹介であります。
ロバート・D・エルドリッヂ著 集英社文庫2017年2月25日第1刷の書下ろし作品で、
表紙カバーに、あのトモダチ作戦のパッチ!!!が使われています。
著者については・・・
経歴をもう少し詳しく、「まえがき」から一部引用させていただくと・・・
神戸大学大学院法学研究科に院生として在籍中の1995年に阪神・淡路大震災で被災、
大阪大学大学院に助教授として在籍中だった2004年に「在外研究休暇」を利用して、
ハワイにある米軍海兵隊・太平洋司令部に初の客員研究員として1年間勤務、
2006年に「日本における大規模災害救援活動における在日米軍の役割についての提言」を発表、
その後「2009年に日本に誕生した民主党政権に正しく米国政府や海兵隊を理解してもらうため」、
大阪大学を辞めて在日海兵隊・外交政策部の副部長に就任。
2011年の東日本大震災で米軍による「トモダチ作戦」の立案・実行に深く関わられた方であります。
で、内容については・・・
例によって目次のみご紹介・・・
前半は宮城県気仙沼市大島での震災時の海兵隊の活動を中心に、
後半はその後の大島の子どもたちへの支援と海兵隊との交流が描かれています。
まあ、当時の米軍の救援活動や地元との交流については様々な報道がされてましたし、
このサイトでも何度か紹介してますので、わたくしの読後のメモ書きだけ・・・
・自衛隊と米軍の関係→さすが戦後日米関係史の専門家で、わかりやすく書かれてました。
(以下、著者の意見として)
・工事車両や緊急車両などの民間(公共用)装備の開発は、今後は軍用ヘリなど他の輸送手段も
想定した設計が望まれるかもしれない。
(民間の電気工事用トラックをヘリで吊り下げて大島へ空輸する案は壊れるリスクが大きすぎた。)
・支援を提供する立場では「どんなに豊富な知識や経験を持っていても、今現場で何が起こっているかを
正確に理解しているのは地元の住民である。」ことを心に留めておくべき。
・受け入れる地元の立場では「正確な情報を適切な方法で収集し、地元の地理やインフラ環境、人々
について充分に理解し、救援が到着すればそれらの情報を素早く共有できるようにする。」ことが重要。
(大島での地元と海兵隊はうまくいったが、著者のいた日米調整センターが置かれていた仙台基地では、
こういった情報は常に「戦場の霧(fog of war)」の中にあり、正確な把握は困難だった。)
・日米同盟による米軍と自衛隊の長い共同運用の歴史は、迅速な災害対応を可能にしているが、
同盟(日米安全保障条約)が救援活動を行ったことの根拠ではない。
・米国国際開発庁が規定している大規模災害支援を行うための条件(1被災した国が支援を要請するか、
救援を受けることを望んでいること。2被災国が一国で対処できないほどの大規模災害であること。
3支援を提供することが米国の国益の範囲内であること。)のすべてに該当していたからである。
(以下、著者による事実として)
・沖縄に拠点を置く水陸両用即応群の指揮艦である強襲揚陸艦「エセックス」はカンボジアでの演習後、
マレーシアボルネオ・サバ州コタキナバルに寄港中だったが、地震発生直後に全員に帰艦命令が出され、
翌日には日本に向けて出港できた。
・ドック型揚陸艦「ハーパーズ・フェリー」はASEAN災害救援訓練参加のため、インドネシア到着まで
あと数時間の距離まで近づいていたが、地震発生の5分後に連絡が入り、その後「テーブルにあったものが
全て床に落ちる」全速急回頭をして針路を日本に戻した。
この瞬間、艦内では一斉に「日本を助けに戻るぞ!!!」という雄叫びが上がった。
・同じドック型揚陸艦「ジャーマンタウン」もインドネシアの別の海域にいて入港していなかったため、
すぐに日本へ針路を変更した。
・空母「ロナルド・レーガン」とその随伴艦隊、大型輸送機C-17なども発生直後に日本に向かった。
・日本政府からの正式な支援要請は11日の夜だったが、米軍は発生の十数分後には対策室を立ち上げ、
救援作戦の立案をはじめていた。
・結果的に「トモダチ作戦」で使用された艦船、航空機、人員の規模は、近年の人道支援・災害救援
活動の中で最大規模のものとなった。
・「エセックス」では大島上陸の前に「キャンディを持っている者はいないか」と艦内アナウンスがあり、
1時間後には箱一杯になり、被災した島内315人の子どもたちへの最初のプレゼントになった。
・空母「ロナルド・レーガン」やその他の艦船でも、乗員が自費で購入したプレゼントが多かった。
・上陸にはエアクッション型揚陸艇LCACの使用も候補に挙がったが、ヘリによる偵察の結果、
湾内には瓦礫や危険な浮遊物が多く、LCACではパンクの恐れがあった。
・結局「エセックス」から20km先の大島に向かったのは汎用揚陸艇LCUで、当初の海兵隊員は177名。
・夜明けと同時にLCUから強行上陸した177名の隊員が最初に重装備のまま徒歩で向かったのは、
キャンプ予定地の休暇村キャンプ場ではなく、犠牲者の最も多かった浦の浜だった。
・そこで全員が整列して黙祷を捧げていたので、見ていた住民たちが驚いた。
・その後は毎日、夜明け前にそれぞれの担当区域へ移動、夜明けから日没までひたすら作業を続け、
極寒の中をテントで寝ていた。逆に多くの被災者が気遣ってくれた。
・瓦礫を片付ける際に涙をこらえながら作業する隊員、使えそうな食器は同じものを重ねる隊員・・・
はじめて米軍海兵隊を見た住民たちは、この姿を見て同じ人間だと感じた。
・瓦礫を丁寧に取り分けて分別する方法は、その後のボランティア活動の方向性を決めた。
・海兵隊としては大島では第一陣300名、第二陣120名で、約3週間の任務だった。
・同年の「ホームステイ・プログラム」から2016年の基金設立など、交流や支援は今も続いている。
etc・・・
著者自ら「大島と海兵隊への深い愛情から(内容には)ある種のバイアスがかかっているかも・・・」
と書かれてて、思いや主張は確かにそんな感じもしましたが、詳細な「事実」には、あらためて
深い感銘を受けた次第です。
もうすぐ、あれから8年目の3月11日を迎えます。
著者はじめ現地への支援を続けておられる皆さん、引き続き復興に携わっておられる皆さんに、
心からの敬意を表しエールを送ります。わたくしも身近にできることを続けたいと思います。
この間にも多くの大規模自然災害があり、南海トラフやスーパー台風などが今後も想定されてますが、
それぞれの貴重な教訓を肝に銘じて、「備えあれば憂いなし」・・・とまでは言えないにしても、
せめて最低限のモノとココロの準備はしておきましょう!!!
この記事へのコメント
1. Posted by バスウ 2019年02月15日 12:58
目頭が熱くなりました(><)
こういう恩は忘れてはいけませんね。
こういう恩は忘れてはいけませんね。
2. Posted by 98k 2019年02月15日 20:34
>バスウさん
コメントありがとうございます。
基地問題とか政治的にはいろいろとあったんでしょうが、作戦に携わった兵士たちが自らの意思でも積極的に活動してたのは事実。
ある指揮官が「危険な任務だったので志願制にしたが、すぐに定員が埋まってしまった。」とインタビューに答えてたそうですが、
米軍に限らず世界各国からの温かい支援は本当にありがたい話で、災害の教訓とともに決して忘れてはいけないことですね。
コメントありがとうございます。
基地問題とか政治的にはいろいろとあったんでしょうが、作戦に携わった兵士たちが自らの意思でも積極的に活動してたのは事実。
ある指揮官が「危険な任務だったので志願制にしたが、すぐに定員が埋まってしまった。」とインタビューに答えてたそうですが、
米軍に限らず世界各国からの温かい支援は本当にありがたい話で、災害の教訓とともに決して忘れてはいけないことですね。