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2020年01月26日

「阪堺電車177号の追憶」と上町線の謎???

今回はご近所を走る阪堺電車を題材にした小説のご紹介・・・と、

阪堺電車の上町線に関する、わたくし懸案の謎???についてであります。

まずは・・・

DSCN5089

「阪堺電車177号の追憶」山本巧次著 早川書房 2017年9月発行・・・


裏表紙・・・

DSCN5090

ひょんなことから阪堺電車の上町線についてネットで調べてて、この小説を知ったのですが、
今回ようやく読むことができた次第。


(2022年1月追記です)

たまたま撮ったモ161号(帝塚山4丁目停留所付近にて)

PC200661

ちなみに定期運用されている電車としては日本最古となった阪堺電気軌道のモ161型ですが、
実際に製造された車両は161号から176号までで、177号とゆー車両は存在しません。
(ただし、この小説が評判になり1日だけ177号に書き換えた同型車両がほんまに走ったようで、
阪堺はんも、なかなか粋なことをしはりますな・・・)


例によって目次のみ・・・

DSCN5091

小説作品なのでストーリーなんぞは紹介できませんが、昭和8年から平成29年まで、177号の
独白ではじまる各章が、その時代を反映した軽いミステリー仕立てになってて、各章の登場人物も
さりげに何人かが繋がっていたりと、とてもほっこりさせてくれる佳作・・・だったんですが・・・

何せ全編の舞台が阪堺電車の車中と沿線、しかも殆どが住吉交差から僅か数停留所の範囲内!!!
ええ、この辺りに長年住む者としては、沿線の情景描写がたまりませんでした。

車両や沿線はもちろん、時代も人物もストーリーも丁寧に描き込まれており、なじみのない方でも
充分に楽しめますが、身近な沿線住民からすれば、まさに珠玉の貴重な作品ですね。

わたくし作品では第三章つまり昭和34年ぐらいからしか実記憶がないのですが・・・

小学生の頃のテリトリーつーか遊びに行く範囲といえば、西は国道26号線まで、東は阿倍野筋
(当時は十三軒道路とか13号線とか呼んでましたね)まで、南はせいぜい細井川あたりまで、
北は塚西、姫松あたり(今で言う南港通り)まででしたから、まさにこの作品の舞台そのものですね。

たまに自転車で大和川まで行ったり長居公園まで行ったりするのは大冒険でしたし、上町線で
天王寺に出たり、南海で難波に出たりする際は、たいてい大人と一緒でした。

もちろん、その後の行動範囲は広がりましたが、天王寺に出る際は今でも上町線まで歩きますし、
自転車でふらふらしてても、必ず一度や二度は阪堺線・上町線の軌道を渡ったり並走したりします。
(ちなみに自転車で軌道を渡る際は直角に近い角度で渡らないと、必ずコケます。)
さらに息子たちが小さい頃は、せがまれてよく住吉交差まで行き交うチン電を見に行ってましたし、
数回の宿替えはありましたが、チン電はずっと身近な存在なのであります。

で、わたくしが小学生の頃の沿線風景は、大邸宅と商店と下町が混在してたものの、何となく
棲み分けてたような感じだったのが、中学生になる頃から大邸宅の跡地やそれまであった空き地に
一度に何十軒もの建売住宅ができたりして、古くからあった長屋以外にも小住宅や集合住宅が
一気に増えました。まさに高度成長期の真っ只中だったんですね。

当時の住吉大社はじめ神社やお寺の境内は荒れ放題、広大な邸宅の庭池跡も放置されたままで
探検したり秘密基地を作ったりの毎日、住吉公園や万代池公園で遊ぶよりずっと面白かったです。

また紀州街道・熊野街道・住吉街道などの沿道には、重厚な家並みも所々に残ってたのですが、
やはりバブル前後からでしょうか、特に表通りはすっかり様変わりしてしまいました。

ま、今は神社やお寺もきれいに整備され(秘密基地は作れなくなったけど)、街並みや道路も
明るくなって(探検する場所がなくなったけど)、住吉大社や粉浜商店街の外国人観光客も増え、
休日には史跡めぐりや撮り鉄のみなさんを数多く見かけますし、これはこれでよかったかと・・・
ただし住民は(わたくしも含め)高齢者が目立つようになりましたが・・・げほげほ

と、身近な存在のチン電と沿線の生活を、この作品であらためて振り返ることができました。



で、この阪堺電車に関する、わたくしの疑問つーのが・・・

上町線が高野線を跨いだのはいつなのか???であります!!!

ま、それが分かったからどーだ、つーこともないのですが・・・

とりあえずウィキの記述を時間軸で整理してみると・・・(カッコ内は現駅名・現停留所名)

・南海・高野線が(汐見橋)から(堺東)まで開業したのが1900年9月3日
・同線の住吉駅が(住吉東)駅に改名したのが同年9月11日
・上町線が天王寺南詰から上住吉(神ノ木)まで馬車鉄道で開業したのが1900年11月29日
・上住吉(神ノ木)から下住吉(住吉)まで馬車鉄道で延伸開業したのが1902年12月27日

つーことなんですが・・・

まず、高野線の開業から僅か3ヶ月後に馬車鉄道がその上を跨いだ!!!とは考えられないので、
・当時終点だった上住吉(神ノ木)停留所は高野線東側の地上にあったのではないか???
(「マッサン」竹鶴政孝がウィスキーの研究をすることになる摂津酒造の北隣あたり???)
で、開業の2年後には上住吉(神ノ木)から下住吉(住吉)までの区間を延伸開業してるので・・・
・この間に高野線を跨ぐ工事をして上住吉(神ノ木)停留所も高架上西側(現在地)に移設した???
と推測したのですが、上住吉(神ノ木)停留所を延伸後に高野線東側から西側(現在地)に移設した
といったハナシは、ネット上では見当たりませんでした。

仮に最初から上町線が高野線を跨いでて終点の上住吉(神ノ木)停留所も現在地だったとしても、
・電車でも難所になってる急なスロープを果たして馬車で上下できたのだろうか???
はたまた、
・下住吉(住吉)まで上町台地を下る急なスロープも馬車で上下できたのだろうか???
とゆー疑問が残ります。

ちなみにウィキでは、
・上町線の改軌・電化・複線化工事が完成したのは1910年で開業は10月1日
となってますので、遅くともこの時点では上町線が高野線を跨いでいたのは間違いないでしょうし、
電化・複線化されて対面式のホームを持った神ノ木停留所が高架の西側に存在していたことも、
間違いないのでしょうが、この間、つまり1900年の馬車鉄道開業から1910年の電化複線化まで
10年の間で、いつ路面電車が鉄道を跨ぐようになったのか、神ノ木停留所は当初どこにあったのか・・・

そう、わたくし・・・

Q1 上町線が最初に高野線を跨いだのはいつだったのか???馬車時代か電車時代か???
Q2 当初の終点、上住吉(神ノ木)停留所はどこにあったのか???地上か高架上か???

とゆー疑問が数年来ずっと頭の中に残っています。(だからどーだとゆーこともないけど・・・)

何せ路面電車が鉄道を跨ぐとゆー珍しい光景で、最近は撮り鉄の方々も多く来られてますので、
どなたか教えていただければと・・・


2021年1月追記です。
「阪堺電車物語」(長岡靖久著 論創社 2011年11月30日初版第一刷発行)によると、
本文には天王寺西門前から東天下茶屋まで馬車鉄道で開業したのが1900年9月20日で、
上住吉(神ノ木)までは1900年11月、下住吉(住吉)への延伸が1902年12月とありましたが、
各電停データでは、天王寺駅前から東天下茶屋までの開業は
1900年9月20日で本文と同じ
なんですが、
北畠から住吉までは全て1900年11月29日の開業となってました。
これはおそらく本文のほうが正しく、下住吉(住吉)の開業は1902年12月27日でしょう。
ちなみに住吉から住吉公園駅への延伸開業は1913年7月2日だそうです。
残念ながら上町線が高野線を跨いだ時期や上住吉(神ノ木)電停の開業当時の位置についての
記述はありませんでした。

ちなみにウィキによれば天王寺南詰(天王寺駅前)から天王寺西門前(当時は天王寺)への延伸は
1900年9月20日ではなく1900年11月29日から1902年12月27日までの間で、1921年10月21日に
その区間を大阪市電に譲渡したとなってましたが、はてさて・・・
同じくウィキには天王寺(西門前)から下住吉(住吉)間の馬車鉄道による旅客営業を廃止し、
改軌および電化・複線化工事に着手したのが1908年1月31日、電車の運転を開始したのが
前述のとおり1910年10月1日とありますから、少なくとも
1902年12月27日から1908年1月31日
までは
上住吉(神ノ木)~下住吉(住吉)間でも、単線の馬車鉄道が走ってたことになりますが、
1900年11月29日から南海高野線を跨いだ高架上に終点の上住吉(神ノ木)があったとしても、
それをわざわざ単線の馬車鉄道用から複線の電車用に作り直したのか???
それとも当初から改軌・電化・複線化を見越した現在の高架にしてたのか???
やはり謎は解けないままであります。


2022年11月追記です
路面電車(阪堺上町線)が鉄道(南海高野線)を跨ぐ神ノ木付近の画像を追加・・・

PB201943


PB201944



2024年2月追記です

Facebookで教えていただいたあくあさんのブログ記事「平面交差していた上町線と高野線」
により、長年の疑問がようやく解決しました!!!

やはりわたくしの推測どおり、当初は地上(熊野街道沿い
摂津酒造の前あたり?)に馬車鉄道の
上住吉(神ノ木)があり、南から延伸してきた高野線と5年間ほどは平面交差していたのが、
上町線の電化複線化により現在のかたちになったんですね!!!
平面なら馬車鉄道での上町台地の上り下りも可能だったので、そのまま下住吉(住吉)まで
延伸したのかも・・・

時系列で簡単に整理しておくと・・・
1900年9月3日
高野線が(堺東)から北進してきて(汐見橋)まで開業

1900年11月28日
上町線が天王寺南詰(天王寺駅前)から高野線東側の地上にあった上住吉(神ノ木)まで
馬車鉄道で暫定開業

(高野線との平面交差に関する協議に多大の時間を要し)
1902年12月27日
→上町線が高野線との平面交差し上住吉(神ノ木)から下住吉(住吉)まで馬車鉄道で延伸開業

1908年1月31日
→馬車鉄道を廃止し、改軌および電化・複線化(高架化も?)工事に着手

1910年10月1日
改軌および電化・複線化(高架化も?)が完成して路面電車として開業、現在に至る

つまり開業時(馬車鉄道)の上住吉(神ノ木)停留所高野線東側の地上にあって、下住吉(住吉)まで
延伸した際には
高野線と平面交差しており、その後の電化・複線化の際に立体交差になり、
(神ノ木)停留所も高野線西側の高架上に移ったとゆーことだったんですね・・・

ご教示ありがとうございました



m98k at 00:53│Comments(6) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 書斎 | わからないもの

この記事へのコメント

1. Posted by Yasshi   2020年01月26日 11:34
本文はともかく、美章園に住んでいた私にしてみれば、阪堺電車には、それなりに思い入れがあって、
「この電車が堺まで行くねんで」「うそやぁ」という会話も懐かしい。
西側は変わったなぁ、なんだよあの「キューズモール」ってのは。もっと早くに出来てれば、
「あべのベルタ」があそこまで寂れてまう事はなかったろーに。
胡乱で怪しい阿部野銀座、青木さんとこに遊びに行って夜になると、
イロイロ危ないからとアポロビル位までは送ってくれたっけ。
その阿部野銀座の入り口の三和銀行、何度も通用口から強盗に入られて、笑えたなぁ。
アポロビルに続く地下鉄からの通路、夜になると駅員さんが水を撒いていたっけ。「乞食が寝に来るから」と。
話を戻して、阿倍野の風情ある街並み。必ず立ち寄った短いエスカレーターで二階に上がるとあった書店。
旭屋だったか駸々堂だったか。どっちが先だったかなぁ、途中で入れ代わったよね。
「いつかSF運動会やろうぜ」と言っていた阿倍野体育館の先の交差点の所の古本屋3軒は良く行った。
東側には「あべのスキャンダル」があったなぁ。阪堺電車と阿部野界隈は、私の青春であります。
「やっし、あの電車でな、うちまで行けるねん、どや羨ましいやろ」
「う、羨ましい事なんかないわい、僕なんか阪和線やねんで」
という懐かしくも無意味な競い合いをしたような記憶があるような無いような。
すっかり変わっちゃった感のある天王寺・阿倍野だけれど、やっぱたまに行くと、
すげぇ懐かしくて、うきうきするのね。爺ぃになったものです。
どや、まいったか!
2. Posted by 98k   2020年01月26日 13:31
>Yasshiさん
今、起きました。長文コメントありがとうございます。(改行など一部編集しました。)
で、肝心の上町線が高野線を跨いだ時期についてのコメントがありませんが???
そっかぁ、そちらは作品では第四章つまり昭和40年代後半からの実記憶になるんですねえ。知らんはずやわ・・・
で、上町線の停留所で言えば天王寺駅前から阿倍野交差までの範囲やし・・・
あのあたり、阿倍野筋の西側は阿倍野再開発事業ですっかり変わりましたが、東側は北部の近鉄関係が変わったものの、
南部は天王寺ステンショの北側同様、まだ昔の面影を残してますね。ガンショップはなくなりましたが。
わたくし昭和40年代後半の天王寺界隈とゆーと、天王寺野外音楽堂(野音)のフェスと阿部野橋南詰西側の
きちゃないビルの地下でやってたライブが記憶に焼き付いてますねえ・・・
一番古い記憶だと、父親に阪堺線で連れて行ってもらった新世界の串カツ屋かなあ・・・昔は赤犬出してたんやで、とか・・・
ちなみに最近、実家で飲み会をやるようになったので、みなさんお誘いあわせのうえ是非(持ち寄りで)お越しください。
で、美章園周辺につきましては当時・・・
「阿倍野筋の東に法はなく、我孫子筋の東に神はいない」と教えられており遠巻きに眺めるだけでした。
なんでも東国からヤックルに乗ってやってきた夷が棲んでいたとか・・・ぶるぶる
3. Posted by Yasshi   2020年01月26日 23:15
整形、ありがとうございました。なるほど読みやすい。さすがだ、褒めてとらす。

私が住み始めた頃、まだ阪神高速松原線はなかったんですよ~。
それはさておき、ベルタの所の角を美章園方面に向かって歩いていくと、
辻調理師学園の手前にモデルガンショップが一軒ありますけど、それじゃないですよね?

あと、あの近所に末日聖徒イエス・キリスト教会の阿倍野ワードがあったはず。
4. Posted by 98k   2020年01月26日 23:51
>Yasshiさん
お褒めいただきありがとうございます。ゆるキャン実写版第3話まで一気に見てました。
そうなんですよ、そのお店が当初はもっと阿倍野交差寄りにあって、移転してから閉店したと思ってたけど・・・まだあったの???
社会人になって初めてもらった給料で、MGCのM16ベトナムバージョンを買った思い出のお店です。
あと、そのあたりから北へ上った狭い飲み屋街に裏難波から移転してきた「出会いのあい」とゆー占いのお店にも行ってました。
で、さらに北に上がったところに確かA木さんの事務所があって「日立ベーシックマスター」を触らせてもらったことがあります。
当時のあのあたりは当時の裏難波より、さらに怪しい雰囲気でしたね。
5. Posted by Yasshi   2020年01月27日 00:33
なんかね、変な張り紙してあったので覚えてるんですわ、モデルガンショップ...いろいろ売ってたなぁ、ちっちゃい店なのに。
6. Posted by 98k   2020年01月27日 00:58
>Yasshiさん
あそこで買ったのはMGCのM16とスリングショットと・・・あと、なんやったかいな・・・
遥か昔(阪堺電車・平野線があった頃ね)に移転先を探しあぐねた記憶が、かすかに残ってます。
そーいや「あべのスキャンダル」は社会人になってからのハナシではなかったか???

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