正倉院展 to クラフトビール・・・2020秋(こっそりと)熊野キャンプ・前篇

2020年11月13日

万葉集講義・・・

ええ、わたくし最近・・・

自由な日本語の書展や、奈良の正倉院展に行ったりしてたので・・・

今回は奥様が図書館から借りてた「万葉集講義」とゆー本のご紹介。

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万葉集講義~最古の歌集の素顔~

上野 誠著 中央公論新社 中公新書2608 2020年9月25日発行の最新刊であります。




例によって目次のみ・・・

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タイトルといい目次といい一見するとカタそうですが、ズブの素人でも面白く読めました。

また「最古の歌集の素顔」つーことで、当時の「ヤマト言葉・やまと歌」と漢字表記の関係や、
中国文化の東アジアでのグローバル化の中で、たまたま辺境メンバーだった日本・・・
といった見方についても、とても興味深かったです。

例によって、わたくしの読後メモから一部をご紹介・・・



「はじめに」よりのメモ

・東アジア漢字文化圏の文学・宮廷文学・律令官人文学・京と地方をつなぐ文学という性格
・言葉の一部に古代朝鮮語に由来するものはあり、前書きや序文は漢文、渡来人の歌も多いが
歌は日本語で詠まれたもので、ミステリー本にあるような「朝鮮語で書かれたもの」ではない。
・宮廷貴族の文学だが「全日本」を志向しているのが一つの性格をかたちづくっている。
・歌はホモ・サピエンスが普遍的に有している文化で、ウタウ・カタル・ハナスなどは
口から耳への情報を伝える方法の一つで、意味情報伝達と音楽情報伝達の二つの側面がある。
・歌は音楽情報伝達の側面が大きく、万葉集は五音句と七音句に整えられた歌で中心は短歌体。
・これは宮廷で歌われていた歌のかたちで、その後の「やまと歌」の伝統を形成することになる。


各章の冒頭に「前章のまとめ」があったので、それら中心のメモ・・・

第一章のまとめ(のまとめ)
①日本語を母語としていた人びとは漢字によって統合された東アジア漢字文化圏の一員となった。

(例として巻11の2514解説よりメモ)
・原文
雷神 小動 雖不零 吾将留 妹留者
・仮の訓読み
なるかみの すこしとよみて ふらずとも われはとどまらむ いもしとどめば
・意味
雷が少し鳴る(ぐらいで)雨が降らなくても、恋人が引き留めるなら、私は留まりましょう
・漢文の書き下し文
雷神 小動して 零らずと雖も 吾まさに留らむとす 妹留むれば

→この歌は中国語を母語として少し文語に通じている人なら、中国語で音読しても意味は
通じるだろうし、日本語を母語として漢文を学習している人も、返り点をつけて書き下し文で
訓めるだろう。だが奈良時代のやまと歌として読むためには、奈良時代の日本語の知識が必要。

→雷鳴は神が鳴る音だったので「雷神」はヤマト言葉では「ナルカミ」で、助詞の「ノ」を添え、
小は「スコシ」か「シマシ」、動は「トヨミ」で今ならドヨメキ、助詞の「テ」を添え・・・
と、「なんとなく」決定していくが、これは歌だからできること。
→なるべく五音か七音で歌の型にあわせて訓んでゆけば「なんとなく」訓めるのである。

(ひらがなカタカナが普及するとヤマト言葉を漢字のみで記した万葉集を読むのが難しくなり、
平安時代の文人たちでも、その殆どが読めなくなっていた。)

②万葉集は東アジア漢字文化圏の辺境の歌集で、表記方法は文脈によって決定するという、
きわめて不安定で、まったく法則性のない方法であった。

③歌が漢字で記されるようになると、一回生起的な感情を表現するものとなってゆく。
→つまり個人のものとなって「作者」が誕生した。

一回生起的な感情を残そうという欲求が生まれ、これが歌集を生み出す原動力になった。


第二章のまとめ(のまとめ)
①万葉集の巻1と2は基本的に歌によって宮廷の歴史を振り返る歌集

②当時の指標である「日本書紀」の流れに沿って歌を並べている

③巻1の1から27まで解説したが、すべて天皇と皇族の儀礼や宴、行幸に関わるもの

④宮廷社会で役割を果たす宮廷文学で、若菜摘みや行幸や狩りや国見など(野外宴会!!!)の賛歌


第三章のまとめ(のまとめ)
①万葉集は律令国家形成期の文学で、国家は漢字によって運営される法治国家を希求していた。

②漢字を学んだ律令国家の官人の地方赴任は、宮廷の文化と歌を伝えることになった。

③都からの国司と地方の郡司たちは歌でも交流した。

④律令官人には高い儒教的倫理規範が求められており、その文化は精神世界にまで及んだ。


第四章のまとめ(のまとめ)
①万葉集は宮廷文学で貴族文学だが、身分や性差を越えた心の交流が期待されており、
天皇から庶民まであるが、それはあくまで上位者の下位者に対する慈悲を指すものだった。

②都と地方の関係は支配と被支配など一方的なものでなく、交流と共感もあったはず。
→実質的に地方を治めていたのは地方の有力者で、エリート官僚の地方出向と同じく、
盛んに交流し共感を得ないとやっていけないし、地方の有力者も見返りを期待。

③地方赴任と上京者の増大には宮廷や都の文化を地方に浸透させる役割と、地方への関心を
喚起するという役割の二つの側面があった。
したがって防人歌も東歌も、浸透から生まれた地方文化の精華ということもできる。

④地方赴任の拡大から家族友人への文通も増大、読まれることを前提とした「書簡文学」も
万葉集において誕生している。

第五章のまとめ(のまとめ)
①各巻の形成について(略)
(本文より個人メモ)
・核となった巻1と巻2は明らかに「歴史による分類志向」で、歴史志向が顕著なのは1~6
個人の日記も一つの歴史志向と言えるので末4巻も歴史志向
・巻8と巻10は「四季による分類志向」が顕著
・「地理による分類志向」は畿内の長歌の巻13、東歌の巻14、巻16の末尾部、巻20の防人歌、
・「発想・技巧による分類志向」は巻11と12に顕著
・歌を年代順に並べることによって歴史を実感したいと分類して編纂したのが巻1と2で、
歌を楽しむ人が増えるとさらに広まり、四季や発想・技巧への関心も高まった。
・さらに地方赴任や地方からの上京によってもたらされた諸情報が地理への関心を高めていった。

②巻1から6までは歴史志向で編纂されており、これは全体に及ぶ志向性である
→歴史志向は「ものごと」への関心であり、そこから四季や発想・技巧などの「あや」へ、
関心が拡がっていったと見てよい。
→「古今和歌集」以降の「やまと歌」は「あや」の文学で、なかんずく四季の文学として、
その伝統を形成していくことになる。

第六章のまとめ(のまとめ)
①日本文学史1300年の歴史は「やまと歌」が中心で「古今和歌集」がその規範。
古今和歌集が万葉集から引き継いだのは短歌体という歌体、恋情発想、四季の文学という性格。

②古今和歌集の両序文は905年の「やまと歌の復興宣言文」のようなもので日本回帰精神の反映、
やがて、やまと歌は唐風文化に対する日本文化のシンボルになってゆく。

③古今和歌集は、やまと歌が隆盛を極めた万葉集から100年の暗黒時代を経て、やまと歌を
復興しようという歴史認識に基づくもの。

④万葉集の名義(タイトルについての論争→略)


終章のまとめ(・・・はなかったので、てきとーに他の章も含めてのメモ)

・言葉を使って生きるということは言葉に支配されるということ
・日本語を使って生きるということは日本語に支配されるということ
・漢字を使って生きるということは漢字に支配されるということ
(例→紀行文に使う気候・寄港・寄稿は日本語の文脈で判断するしかないが、漢字にしないと
ひらがなやローマ字では文脈を判断できない。その日本語で私たちは思考しているのだから、
漢字を抜きには思考できない→日本語は漢字を取り入れて発展した言語だから)

・日本の歌は、五世紀以前から歌い継がれた(万葉集から推定はできても)知りえない歌と、
六世紀前半に成立した中国「文選」の古典詩文を踏まえた歌の二つの源がある。

・万葉集は日中が同じ文化基盤を有していた時代の文学で、当時の機構は全て隋唐から
→グローバリズムの波→同調重圧が強くなる→ローカル化への同調重圧(日本回帰志向)も
強くして心のバランスをとってゆく。

・これは明治時代の正岡子規の俳句短歌の革新運動と同じで欧化に対する心のバランス
→「あや」を追求する前の自由な万葉歌を重視→近代の万葉礼賛はここにはじまる
→岡倉天心も内村鑑三も江戸後期の国学者の古典研究も同様
→戦時中にも万葉集がもてはやされたが、戦後もアメリカ文化の大波の中で右派も左派も
万葉集を持ち上げた。

・つまり外来文化の同調重圧が高まれば万葉集は脚光を浴びるが、それは日本的側面のみ。
(じつは六世紀前半の中国詩の文学理論にも、その源があるのだが。)

・今、万葉集に風が吹いているとすれば日常生活に押し寄せるネット化とAI化の重圧からだろう。
→ただしグローバル化の中での日本回帰、万葉回帰をあからさまに否定したくない。
→いつの時代でも文化の辺境に生きる私たちは、そうやって心のバランスをとってきたのだから
・いっぽうで、やみくもな礼賛に対しては「文選なくして万葉集なし」といいたい。

・今、本書を世に問う理由は、万葉集そのものが東アジア漢字文化圏(というグローバル化へ)
の同調重圧の中で、もがき苦しんだ先祖の文学であったということを、少しでも多くの人に
知ってほしかったから・・・


「あとがき」よりのメモ・・・

・日本は漢字を学ぶことによって歴史を持つ国になり、東アジア漢字文化圏の一員になったが、
辺境メンバーだったので、漢字も儒教も仏教も律令も、この国に入ると、みんなグダグダになって
日本化してしまうのである。(中略)

・私は今、(神棚も仏壇もマリア様もの)なんでも教→無限寛容教の信者であった祖母、父、母、
そして(子どもの頃にお世話になった)ゼノ修道士に対して謝りたい。

・外側からやって来た文化を受け入れて、やがて彼我の差をなくしてしまうのが、日本文化の
特性だということを「万葉集」を40年間研究して、ようやくわかりましたよ、と。

・冥界にいる皆様方の知的レベルに、ようやく追いつきましたよ、と。

・・・と、最後に報告されてたのには、すっかり胸が熱くなりました。




m98k at 00:03│Comments(2) mixiチェック 書斎 | わからないもの

この記事へのコメント

1. Posted by donchan   2020年11月13日 19:06
さすがは98Kさん。万葉集にまでウイングを広げるなんて凄い。
お仲間には西○東○という、相撲の花道のような方もいるので、コロナが収まった時には、万葉集で盛り上がるのでしょうか?
万葉集、エリートの中国風の歌からあずま歌と呼ばれる民謡風の歌、長歌、短歌、旋頭歌等々、バラエティに富んだ歌集というのは
授業で習った記憶がありましたが、今回、それ以上の勉強になりました。次は、ウィルスについて、よろしくお願いします🤲
2. Posted by 98k   2020年11月15日 21:52
>donchanさん
コメントありがとうございます。
金曜日から(ひっそりとこっそりと)熊野へキャンプに行ってまして、先ほど帰宅、すっかり返信が遅くなりました。
わたくし彼とは違って万葉集や「やまと歌」の世界はまったくの素人なんですが、
それまでのヤマト言葉・やまと歌と、当時の東アジア最先端だった漢字・中国詩との関係は面白かったですね。
さらに宮廷で歌われてた七五調の短歌体以外にも、様々な「やまと歌」があったはずだけど、
以降はそれだけが「やまと歌」として歌集にされていった、つーのも興味深かったです。

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