日本の農村・・・はじめてのテレビドラマ出演!!!

2022年06月28日

東アジアの農村

前回記事「日本の農村」の続きとゆーか・・・

「東アジアの農村」~農村社会学に見る東北と東南~であります

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表紙カバー裏にあった惹句

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著者紹介と奥付

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今年4月15日の初版第一刷発行、まさに最新刊であります。

じつはこの本を週刊誌の新刊紹介で知り、先に同じ著者の「日本の農村」を読んだので、
前回記事で紹介してたのでありますね。
そりゃあ、まずは日本の農村から理解しておかないとね・・・(^_^;


例によって目次のみご紹介

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目次のとおり、東アジアでは北に位置する日本、韓国、中国・山東省の農村をまず比較、
そして南に位置するタイ、台湾、ラオス、中国・雲南省、ベトナム、ジャワ、バリの農村を
巡って、再び中国各地の農村を巡り、それらの特徴を把握するという大作であります。

とてもすべては読めませんでしたが、目を通した部分の読後メモです。
(わたくしの思い違いや読み飛ばしもありますので興味のある方は本書を熟読下さいね。)


日本の農村→長野県の瀬沢新田集落から

→武士の帰農による庇護と奉仕の生活集団から分家の自立発展、対等な同族関係に
→村の社、組の祠、家または同族の神の三重構造→仏教と神道、家と村の関連
→村の自治機能と祭祀機能
→家は柔構造で可塑性を持ち、村は固定した持続的な枠構造


韓国の農村→忠清南道の桃李里集落から

・韓国の宗族マウル(村)と日本の武士の帰農村との違い
桃李里は国王から将軍に授けられた土地
→武士は帰農すれば農民になったが在郷両班(ヤンバン)は特権階級のままだった
→1950年の農地改革で小作農が自作農に→戦争で関係がさらに混乱→
両班も自家経営に
→韓国の宗族村は血縁集団で日本の同族村は家来も含む生活共同集団
→村を出ても血縁は切れないが生活共同は村を出れば維持できない
→なので日本では村を出れば分家ではなく独立になる

・祭祀を行う単位としての家(チプ)、財産共有単位としての家族、居住単位としての家口
(世帯概念と重複する)→日本の農村の家は家族が営む農業経営体
→日本では先祖に対する仏教祭祀と氏神に対する神社祭祀
→韓国では朱子学に基づく儒教的先祖崇拝祭祀が根幹
(日本の朱子学は武士中心で農村の先祖崇拝に形式を与えたのは仏教)
→日本の神社(氏神)祭祀は村から拡大しないが韓国の先祖崇拝祭祀は全国的に拡大する
→個人を中心に置いた血縁による結びつきだから


中国の農村→山東省の房幹村集落から

→村の原型は19世紀から20世紀初頭→極貧の山村だった
→八路軍、土地改革、人民公社、文化大革命と激動の時代
→70年代の貯水湖築造、83年の公社解体、その後も村営企業を導入して発展した
文化大革命後には村の土地廟(自然神と関帝を合祀したもの)再建や昔の墓地への墓参再開
→日本語の家族は法制的には戸口(戸籍)人数に該当するが
一家子(中国語の家族)概念は異なる
→新中国以前の大家庭では居住は別でも食事や農作業は共同で男子均分相続、老母の輪住扶養
→日本の分家は本家を維持するために分与規模が小さい→家の存続が最重要
→中国では完全に均等→日本は家単位で中国は個人単位→一人一人の処遇が最重要
→父系出自の親族集団が「一家子」で系譜ごとに五代目となった時期に分化していくが、
親族集団の系譜は明確で連綿と続き、結びつきも強い


日韓中農村の比較

・「定住を前提としている日本」と「移住を常態としている中国・韓国」
→日本の同族団は生活共同体で必ずしも血統に制約されず地縁関係で成立する
→韓国の宗族は祭祀共同体で父系血族集団、居住地は問わない
→中国の
一家子もそれに近いが農地解放以前は財産共有体として機能
→韓国でも中国でも村落を越えたネットワークと自己の帰属的地位の確認システムを確立
しており、どこに住んでいても血族が明確に繋がっている

・歴史的背景
→中国の自然災害、戦乱、商業化→農民の移住(パールバックの大地の例)
→韓国の異民族による侵攻、半島内の抗争→農民の大規模な移動→地縁より宗族
→日本では武士の領地は変わるが農民の個別経営は土地に定着して自然村落を形成
→中国のツオ・パン、韓国のウリ(対語はナム)は、どちらも移動に適合した扶助システムで
移動を前提としていない日本人には理解しにくい関係

・移動、定住と宗教、信仰
→定住社会では個人より集団での
宗教、信仰が支配的
→仏教先進だった中国・韓国に寺の檀家組織は存在せず宗教そのものが消長、代替している
→韓国の祖先祭祀は盛大だが生活規範意識よりは宗族統合機能としての祭祀
(現在はキリスト教徒が6割以上で地域地縁の制約はなく個人本位、やはり移動に適合する)
→中国固有の道教や民間信仰も総じて個人本位で地域限定ではない
→日本の氏神(血縁神)と産土神(地縁神)、どちらが先か論争(略)
→ただし、それ以前の農耕民としての古層(自然信仰)は三国とも共通している


タイの農村

・つい最近まで東南アジアは東北アジアに較べて人口が少なく土地が広かった
→トンキン・デルタやジャワ島などを除き、少ない人口と豊富な土地を基層とする農業
→東北アジアでは17世紀までに一部貿易と小農社会の二重構造に

・東南アジアで15世紀から17世紀末まで都市国家を支えたのは農業ではなく貿易(琉球も)
→東南アジアの農民は重い税や直接支配を受けず半自給的な生活
→19世紀後半の東南アジア植民地時代→交易社会と農業社会の二重構造に

・植民地化の危機にタイ(当時シャム)では20世紀初頭に中央集権化・近代化(ラーマ5世)
→チャクリー改革→東南アジアでは稀有な植民地にならなかった国
→それ以前の伝統は成人男子農民と支配する地方王の直接関係で生涯続いた
→異なる地方王の農民が同じ集落(バーン)に住むこともあった

・妻方居住による親・娘関係、姉・妹関係で形成される屋敷地共住集団(これもバーン)
→8から10のバーンで構成される伝統的な村を
20世紀初頭の地方制度改革で法制化
→2001年東北タイ中心部の農村(戸数170戸)の例→略
→近代化で父系制が始まったが伝統的な女系原理の優位性も残していた
→妻方の土地に夫が建てる新居、続く親娘関係、男女均分相続、夫婦別財システム・・・
→子供を親族に預けて夫婦で移動する複合家族→日本なら夫単身→家族概念の違い


台湾の農村

・台湾の四大族群(エスニック・グループ)
①原住民(漢民族が移住する明・清時代より前から住む民族)1.7%
②福建省南部から移住してきた漢民族73.3%
③広東省や福建省付近からやや遅れてやってきた客家系の漢民族12%
④国民党とともに移住してきた外省人13%

・漢民族の本格的な定住・開墾は明朝末期で宗族は東南中国と類似
→移民同士の争いが頻発したことから宗族で集住した→強固な宗族村に
→1895年からの50年に及ぶ日本皇民化による宗族の伝統破壊は大きなダメージ
→同じく50年に及ぶ治安の改善、行政機構やインフラの整備により宗族組織が衰退
→その後の国民党による思想改造、土地改革で伝統的地域秩序は解体へ向かう
→これらの歴史経過から社区(最も小さな自治体)発展事業へ

・台湾南部の客家村(社区)の例(2003年で人口1474、世帯数400)
→1976年からの前期社
区発展事業ではインフラ整備と中華民国イデオロギー教化
→戒厳令解除までは北京語に似た国語が村の生活全般で強制されていた
→1991年からの後期では台湾本位イデオロギーと共同体意識の創生に
(1990年代に台湾社会統合の解決法として政治的な
四大族群の概念)
→客家の言語や街並みなど伝統的文化も認める住民主導型地域作りへ


ラオス・雲南省・ベトナムの農村

・農耕による定住集落化→東アジアでは稲作中心→熱帯や亜熱帯では水害からの防御も重要

・メコン圏
→水の民→タイ系→水稲中心で焼畑中心の非タイ系と交易し村々のまとまりがクニに
→近代国家の中核を担うことはなく地方にとどまる

・ラオス北部の農山村の例
→先住民のクム、雲南系漢人、タイ系ヤンなどエスニシティはさまざまでモザイク状に点在
→農耕生活者の流入が多い→移動を特徴とするバンド(狩猟採集)の性格が残っている?
→稲作に加え焼畑、採集、牧畜も→バンドの定住集落化の過程か?
→重要な繋がりはやはり親族関係、お金はなくとも優しく親族の多い者が村長になる

・(
ミャンマーに接する)雲南省保山市の回族(ムスリム)村
→甘粛省、新疆ウイグル自治区、雲南省が中国回族の三大集中地域
→モンゴル軍に従ったムスリムの高官が赴任した地方に集中
→民族ごとのマーバン(隊商)中継地→平野部か山腹に集住→交易拠点だった
(川が急峻で険しい陸路を馬で運ぶしかなかった)

・ベトナム北部の村落社会
(19世紀中葉までの南部は未開の地、その後別々に入植して定住した)
→村独自の防犯、財産、制裁機能、氏神、慣習を持つ強力な自治団体だった
→「王法も村の垣根まで」といわれ、北部の村はレンガ壁で覆われ、竹藪、村門、
狭い路地、集会所、寺(塔)、バニヤンの木、市場の存在が特徴


インドネシア・ジャワ島の農村→中部ジャワの農業集落

→肥沃な火山灰土の堆積地でジャワで最も収量の高い水稲地帯→超過密な人口
→結婚直後はどちらかの実家、同敷地に同居、歳とともに独立性を高めていく
→男女均分相続とイスラム法による男2女1相続がある
→相互扶助慣行とイスラム教が基調
→零細な所有構造の中に複雑な賃借関係がある
→一般の小作と異なり、安定収入のある持てる者が持たざる者を扶助する構造
→狭い耕地の割に屋敷地が広く果実、蔬菜、芋、鶏、羊など農業的利用もしている
→化学肥料、農薬、灌漑施設で二期作三期作と生産性を大幅に増大→人口増加
→人力による労働集約は過剰労働力の吸収と貧困からの解放に(インボリューション)
→緑の革命(エボリューション)による多収性品種や精米機の導入で仕事がなくなった
→零細化集約化、労働機会分散などで「貧困の共有」を行ってきたが行く先は袋小路
→それでも基本食糧と村内唯一の雇用労働を作り出す農業の意味は大きい


インドネシア・バリ島の集落

・韓国や中国の飢饉や戦乱による移動とは異なり、人が少なく豊かな条件での移住の繰り返し
→14世紀にジャワ・ヒンドゥーの影響が及び王朝に→宗教機能と政治機能
→英領ラッフルズ時代の1815年に村長が王を補佐するように
→村は特殊な慣習法と規則を持つ法共同体(小さな共和国)に
→1906~07に王が退位、オランダの植民地になり政府任命村長で慣習村と行政村の二重性に
→植民地化で慣習を端に追いやり、独立後の独裁で体制内化、制度化された

・農業と農村の変容
→本格的な観光地化は1980年代から
→水田は減少しているが高収量品種、化学肥料、農薬により収穫量は飛躍的に増加
→観光ルートに近い平野部では農地が宅地や道路や店舗や宿泊施設に
→ひとつの行政村にヒンドゥーの慣習村(パンジャール)やイスラムの慣習村(カンポン)がある
→水利組織(スバック)は行政村や慣習村から完全に独立している→日本と異なる
→スバックは寺院を共有する祭祀集団でもあり成員の権利と義務を定めた慣習法を持つ
→観光開発による宅地化、兼業化、ごみやバティック工房からの汚水・・・
→米の増産政策→化学肥料、農薬による影響、機械導入によるコスト増大
→圧倒的多数の小作人にとって農地の宅地化は失業を意味する
→インドネシアには300のエスニシティと200~400の言語集団がありバリも多様で複雑
→グローバル・ツーリズムはバリに格差拡大と新たな貧困層や失業層ももたらした


中国各地(具体例などはアルコール電池切れで大幅にカットしてます)

・1996年の調査時点のような農村の沸騰状態が続けば、当然に分解を引き起こす
→日本のように「家」の財産・家業ではないから、分解の進行と農民の性格変化が
急速な解体をもたらす可能性も否定できない
→沸騰しているのは農業ではなく農外の「郷鎮企業」に取り組む農民たちの熱気
→地下水位の低下の問題→水を買い、不足すれば荒れ地のまま放置する
→カリフォルニアの農業を想起させる
・日本の家業経営小団体である「家」と、それによって構成される「村」も中国にはない
→財産も男子均等配分が基本で生活原理は家ではなく個人であり、その家族の集住地が村
→生活原理が個人なので親族は家に関係なく平等→日本では家でいったん仕切られる
→個人原理だからこそ中国の親族組織は密接で活性化する

・三農問題→農業生産の停滞、農村の疲弊、農民の窮乏
→改革開放政策で都市の発展を優先→農民の困窮→人口流出→農村の超高齢化
税格差(2006年に廃止)、戸籍格差など→2000年代半ばからの新農村建設政策へ

新農村建設政策
→小城鎮の建設→農村での小規模な(インフラ整備された)都市区域の形成
(純粋な農村地域が郷、少し都市化した地域が鎮、都市的な地域が城、都市は城市)
→全農家の賛成があれば国の補助で
小城鎮(社区)に移転し集住化できる政策
→耕地は農業会社に賃貸、収入は賃貸収入と
農業会社などで働く給料→家族経営の消滅
(農業会社は郷鎮企業・村営企業、個人経営・家族経営、大企業投資だが沿海部より劣る)
→都市化による生活費の上昇、さらなる農業離れ、急速な高齢化の恐れ

・離土離郷(脱農離村)
→1984年に都市戸籍と農村戸籍の間に自理口糧戸籍ができた(非農業への移籍を公認した)
→これは政府補助による低価格食糧の購入資格がない(自己入手を義務化した)戸籍
→1985年には出稼ぎ農民管理のための暫住戸籍ができたが、
→都市住民と同じ行政サービス(仕事・住宅など)や保護は受けられず教育も差別される

・2000年代の農村の変化
→村の合併再編整備、社区への転換、再開発による消滅
→過疎化→多くは出稼ぎによる減少で残るのは老人、子供、女性
→混住化→豊かな農村への労働移動、都市民の滞在や別荘購入など

・集住などに反対し北京に陳情に行く農民の観念
「中央政府には恩人がいる。省政府には親戚のように親しみやすい人がいる。
地方政府には好い人がいる。県政府には悪い人が多い。郷政府には敵しかいない。」
→中央から下への圧力体系で地方は義務ばかりなので、地方に圧力をかけるため中央へ
→道徳性の高い中央政府は道徳性の高い「老百姓」の要求に応じるはずと確信している

・1980年代から90年代に鎮政府主導で作られた8つの郷鎮企業の例
→90年代後半には次々倒産、2008年には1つだけに
→2006年に2000軒の団地移住計画→反対陳情へ
→反対事情は様々だが共通するのは生存を肯定する価値観の共有と「農民のまま移転させるなら、
その後の生き方を行政が考えねばならないはず」という規範化された行政観念の共有


「おわりに」より

・自然に基づく農業を基礎とする農村は(当然だが)自然環境条件により様々な姿を示す
→そこに歴史的経過の条件の違いが大きく作用している

・東南アジアの国々は気候温暖で
森林の広がりに比べ人口は少ない
→移住して開墾してもすぐに緑は復活するが外国の植民地になった国も多い

・東北アジアの国々の自然条件はずっと厳しい
→自然災害による飢饉のほかに韓国や中国では度重なる戦乱
→移動せざるを得ない苦難の生活→これには日本にも大きな責任がある

・日本の場合は土地に定着する仕組みとして家が成立し村が形成された
→近世以降の農民は幕府支配により土地に縛り付けられ定住生活をしていた
→なので同族も血縁も地縁仲間だった
韓国や中国では不安定な移動でぎりぎり個人が単位になった
→その間を結びつけるのは
血縁の絆であり、形成される宗族は土地を超えて、
時には世界に拡がることもできた

・今はどの国でも近代化が進みグローバリゼーションの波の中にある
→東京でも北京でもソウルでもバンコクでも同じような高層ビルがならび違うように見えない
→しかし、人々が暮らす民家に入ってみるとすっかり違う
→東京の人と北京の人とソウルの人とバンコクの人は、やはり違うようである
→出会った時のすれ違う姿、交わす表情はそれぞれである
→だから、これらの人々が交わる社会関係も違う
→その個性はどこから来たか
→都市ではなく農村、地方的世界に基層があるのだろう
→外国との交流にあたっては表面の類似ではなく、また対立でもなく、その底にある「基層」
にまで分け入りながら、親しく交わるのでなければならないだろう。




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