2022年08月23日
ジブリの教科書2
前回記事からの続き・・・
ジブリの教科書2「天空の城ラピュタ」(1986年公開)のご紹介であります。

文芸春秋社2013年5月10日第1刷発行で、ナビゲーターは森絵都
恒例により目次のみのご紹介



ラピュタや飛行機械、スラッグ渓谷などの図解もいっぱいで楽しめましたが、以下は
わたくしの部分的な読後メモから・・・(てきとーなので正確には本書を熟読下さいね)
・宮崎駿による企画覚書より(本作品の目指すもの)
→若い観客が心をほぐし、楽しみ、よろこぶ映画
→笑いと涙、真情あふれる素直な心
→現在もっともクサイとされるものだが、観客が気づいていなくても最も望んでいるもの
→相手への献身、友情、信ずるものへ、ひたすらに進んでいく少年の熱意・・・
→(それらを)てらわずに、しかも今日の観客に通ずる言葉で語ること
・ナビゲーター森絵都による、パズーの意識の変化より
→親方のおかみさんから「守っておやり」といわれ、はじめて自分の役割に目覚める
→シータを置いて帰り、ドーラからシータの本心を教えられ、守るための力をつける
(自分一人では助けられないので一時的に海賊の仲間にもなる)
→タイガーモス号でシータのポテンシャリティーと頼もしさを認める
→「守らなければならない少女」から「ともに何かを乗り越えていく同士」へ
→さらなるシータへの信頼の深まり(ラピュタでの木登りなど・・・)
→究極の信頼へ→滅びの言葉を二人で・・・
・鈴木敏夫による、制作に至る経過(の一部)より
ナウシカ後にジブリを設立、柳川を舞台にした青春物語が候補になったが、ロケハン過程で
掘割を再生した人々の実写記録のほうが魅力的となり、ナウシカの利益配分が入った宮崎駿の
個人事務所である二馬力の自主制作、高畑勲監督による記録映画「柳川掘割物語」になった
→結局四年かけて完成したが途中で資金がなくなり、ジブリ次回作の収入で賄えると提案
→宮崎駿がラピュタの企画書を提出
(「柳川掘割物語」はテレビ放映されたのをVHSビデオ!に録画して、何度も観てましたが、
柳川市役所の下水道係長がドブ川と化していた掘割の暗渠化を命ぜられ、調べて行くうちに
昔ながらの掘割の有効性に気づき、市長から一年間の猶予期間を得て、当初はたった一人で
掘割の清掃作業をはじめ、やがて賛同した市民も協力するようになり、最終的には市議会も
動かして暗渠化を廃案に持ち込み掘割を再生したもので、掘割の仕組みの説明に使われてた
アニメーションは「さすが二馬力!」でしたが、むしろ一人の係長の努力がきっかけで守られた、
という事実そのものに(当時、某自治体の係長だったもので)大きな衝撃を受けてました。
ロケハン過程で掘割再生の記録映画に変更したことも、作品完成までに4年の歳月をかけたことも、
この本ではじめて知りました)
・金原瑞人「児童文学のふたつの潮流」より
→昔のイギリスの児童文学は圧倒的にファンタジーが多い
→アメリカ(とカナダ)では比較的リアリズムの小説が多い(案外女性が活躍している)
→どちらも初期作品の主人公の多くが孤児である(シータとパズーも孤児)
・同「なぜ孤児なのか」
→まず19世紀に孤児が多かった時代背景がある
→孤児を主人公にすると「家族をテーマ」にした小説がダイナミックに展開する
→孤児は動かしやすくて活躍できる→「冒険をテーマ」にできる
(ラピュタも家族テーマ(ドーラなど)と冒険テーマが融合して展開する)
・同「子どもが救いうる世界」
→おそらく「ナルニア国物語」と「指輪物語」で生まれた
→ルイスとトールキンは子どもに救えるような世界を丁寧に作り込んだ
→ハイファンタジー(延長線上が「ゲド戦記」など)へ
・同(本作品について)
→19世紀からの孤児物語と(ルイスやトールキンからの)ハイファンタジーの流れを踏まえた
日本の子ども向けアニメの傑作
→(19世紀からの)科学技術は後の大戦や環境問題で翳りが差したが、そのやりきれなさと切なさの
歴史を細かく描くことなく、ロボット兵の数場面だけで語り尽くしている
→それをしっかりパズーとシータに受けとめさせ、新しい世界への希望をつむいでくれる
・大塚英志「解題」より(ジブリの高畑的なものと宮崎的なものの拮抗)
1.ナウシカの中で未消化の問題だった「活劇」
→高畑のリアリズムを宮崎のアニメーションの想像力がふり切っていく過程
→プロデューサーの高畑が認め宮崎が選択したのが徹底した活劇マンガ映画
→活劇とリアリズムの矛盾を「マンガ映画」であることによって乗り越えようとしてみせた
→理詰めで理屈をふり切っていくのが高畑的であり宮崎的
→マンガ映画だから(押井守が批判した)武装しない子供が、武器を持つ大人に対抗しうる
→これは子供に武器を持たせて戦わせるよりはるかに興味深い選択
→ラストで生き残るのはパズーとシータとドーラ一味だけ
→マンガ映画(のアニメーション法則)なので、落ちて行った人たちは描かれない
→以降は天の宮崎と地の高畑に・・・それぞれのリアリズム・・・
2.主人公の「責任」
→ナウシカの解題では王家の者として民草への責任を負わせたことと犠牲死の問題を述べた
→ラピュタでは王は消滅し、働く主人公が誕生している
→ナウシカの責任は共同体の王としてのもので、必然的に犠牲死と再生という結末に収斂
→ナウシカは社会的な存在としての主人公が前提で、アニメでは新しい問いかけだった
→ラピュタ冒頭のシータの描かれ方も意図的な繰り返し?(飛行石と巨神兵)
→しかしシータはナウシカのように王としての責任を負っているわけではなく働いている
→パズーはナウシカのような剣も王家の血もなく、働くことによって成長していく
3.ジブリの物語の中で、男性から女性に様々な要素が移植されていく出発点となっている
→ドーラはジブリ作品における女性原理の優位という問題に直結している(母性回帰)
→ドーラはやがて銭婆になりジーナにもなる(シータもいずれは・・・
)
→ナウシカでは母性はまだ王蟲の形だし、クシャナもナウシカを導くほどではなかった
・働いてちゃんとした大人になったパズーと、王になろうと逆に退行して破綻したムスカ
・ラピュタでジブリは王の物語から解放され、主人公が共同体のために死ぬことはなくなる
・パズーの「働いて大人になる物語」は、この先の宮崎作品では女の子によって担われる
・これらから、ラピュタはジブリの出発点であるように感じる・・・
云々・・・
P.S
過日テレビ放映されてたのを、またまた夢中になって観てましたが、やはり何度観ても
気持ちよくワクワク・ドキドキ・ウルウルさせてくれる作品ですねえ・・・
前回記事で紹介した岡田斗司夫チャンネルで、ラピュタの大きさをタイガーモス号の
見張り台(凧)のコックピットの横幅から(ひと晩かけて)導き出したとゆー話がありましたが、
それによると、現存していた!!!ラピュタの大きさは、ちょうど大阪城や江戸城の範囲ぐらい、
さらにその800年前の最盛期では富士山の大きさと高さぐらいになると、計算過程や地図と
重ね合わせての比較など、じつに詳細に説明してました。
「いやあ、あの計算は楽しかったなあ」と嬉しそうに話してましたが、スラッグ渓谷の街の
歴史や飛行機械のメカ、飛行石の伝説や空に浮かぶ都市の伝説など、この本にもいっぱい
解説(諸説)があって興味は尽きませんでした。
(次回「紅の豚」に続きます)
ジブリの教科書2「天空の城ラピュタ」(1986年公開)のご紹介であります。

文芸春秋社2013年5月10日第1刷発行で、ナビゲーターは森絵都
恒例により目次のみのご紹介



ラピュタや飛行機械、スラッグ渓谷などの図解もいっぱいで楽しめましたが、以下は
わたくしの部分的な読後メモから・・・(てきとーなので正確には本書を熟読下さいね)
・宮崎駿による企画覚書より(本作品の目指すもの)
→若い観客が心をほぐし、楽しみ、よろこぶ映画
→笑いと涙、真情あふれる素直な心
→現在もっともクサイとされるものだが、観客が気づいていなくても最も望んでいるもの
→相手への献身、友情、信ずるものへ、ひたすらに進んでいく少年の熱意・・・
→(それらを)てらわずに、しかも今日の観客に通ずる言葉で語ること
・ナビゲーター森絵都による、パズーの意識の変化より
→親方のおかみさんから「守っておやり」といわれ、はじめて自分の役割に目覚める
→シータを置いて帰り、ドーラからシータの本心を教えられ、守るための力をつける
(自分一人では助けられないので一時的に海賊の仲間にもなる)
→タイガーモス号でシータのポテンシャリティーと頼もしさを認める
→「守らなければならない少女」から「ともに何かを乗り越えていく同士」へ
→さらなるシータへの信頼の深まり(ラピュタでの木登りなど・・・)
→究極の信頼へ→滅びの言葉を二人で・・・
・鈴木敏夫による、制作に至る経過(の一部)より
ナウシカ後にジブリを設立、柳川を舞台にした青春物語が候補になったが、ロケハン過程で
掘割を再生した人々の実写記録のほうが魅力的となり、ナウシカの利益配分が入った宮崎駿の
個人事務所である二馬力の自主制作、高畑勲監督による記録映画「柳川掘割物語」になった
→結局四年かけて完成したが途中で資金がなくなり、ジブリ次回作の収入で賄えると提案
→宮崎駿がラピュタの企画書を提出
(「柳川掘割物語」はテレビ放映されたのをVHSビデオ!に録画して、何度も観てましたが、
柳川市役所の下水道係長がドブ川と化していた掘割の暗渠化を命ぜられ、調べて行くうちに
昔ながらの掘割の有効性に気づき、市長から一年間の猶予期間を得て、当初はたった一人で
掘割の清掃作業をはじめ、やがて賛同した市民も協力するようになり、最終的には市議会も
動かして暗渠化を廃案に持ち込み掘割を再生したもので、掘割の仕組みの説明に使われてた
アニメーションは「さすが二馬力!」でしたが、むしろ一人の係長の努力がきっかけで守られた、
という事実そのものに(当時、某自治体の係長だったもので)大きな衝撃を受けてました。
ロケハン過程で掘割再生の記録映画に変更したことも、作品完成までに4年の歳月をかけたことも、
この本ではじめて知りました)
・金原瑞人「児童文学のふたつの潮流」より
→昔のイギリスの児童文学は圧倒的にファンタジーが多い
→アメリカ(とカナダ)では比較的リアリズムの小説が多い(案外女性が活躍している)
→どちらも初期作品の主人公の多くが孤児である(シータとパズーも孤児)
・同「なぜ孤児なのか」
→まず19世紀に孤児が多かった時代背景がある
→孤児を主人公にすると「家族をテーマ」にした小説がダイナミックに展開する
→孤児は動かしやすくて活躍できる→「冒険をテーマ」にできる
(ラピュタも家族テーマ(ドーラなど)と冒険テーマが融合して展開する)
・同「子どもが救いうる世界」
→おそらく「ナルニア国物語」と「指輪物語」で生まれた
→ルイスとトールキンは子どもに救えるような世界を丁寧に作り込んだ
→ハイファンタジー(延長線上が「ゲド戦記」など)へ
・同(本作品について)
→19世紀からの孤児物語と(ルイスやトールキンからの)ハイファンタジーの流れを踏まえた
日本の子ども向けアニメの傑作
→(19世紀からの)科学技術は後の大戦や環境問題で翳りが差したが、そのやりきれなさと切なさの
歴史を細かく描くことなく、ロボット兵の数場面だけで語り尽くしている
→それをしっかりパズーとシータに受けとめさせ、新しい世界への希望をつむいでくれる
・大塚英志「解題」より(ジブリの高畑的なものと宮崎的なものの拮抗)
1.ナウシカの中で未消化の問題だった「活劇」
→高畑のリアリズムを宮崎のアニメーションの想像力がふり切っていく過程
→プロデューサーの高畑が認め宮崎が選択したのが徹底した活劇マンガ映画
→活劇とリアリズムの矛盾を「マンガ映画」であることによって乗り越えようとしてみせた
→理詰めで理屈をふり切っていくのが高畑的であり宮崎的
→マンガ映画だから(押井守が批判した)武装しない子供が、武器を持つ大人に対抗しうる
→これは子供に武器を持たせて戦わせるよりはるかに興味深い選択
→ラストで生き残るのはパズーとシータとドーラ一味だけ
→マンガ映画(のアニメーション法則)なので、落ちて行った人たちは描かれない
→以降は天の宮崎と地の高畑に・・・それぞれのリアリズム・・・
2.主人公の「責任」
→ナウシカの解題では王家の者として民草への責任を負わせたことと犠牲死の問題を述べた
→ラピュタでは王は消滅し、働く主人公が誕生している
→ナウシカの責任は共同体の王としてのもので、必然的に犠牲死と再生という結末に収斂
→ナウシカは社会的な存在としての主人公が前提で、アニメでは新しい問いかけだった
→ラピュタ冒頭のシータの描かれ方も意図的な繰り返し?(飛行石と巨神兵)
→しかしシータはナウシカのように王としての責任を負っているわけではなく働いている
→パズーはナウシカのような剣も王家の血もなく、働くことによって成長していく
3.ジブリの物語の中で、男性から女性に様々な要素が移植されていく出発点となっている
→ドーラはジブリ作品における女性原理の優位という問題に直結している(母性回帰)
→ドーラはやがて銭婆になりジーナにもなる(シータもいずれは・・・

→ナウシカでは母性はまだ王蟲の形だし、クシャナもナウシカを導くほどではなかった
・働いてちゃんとした大人になったパズーと、王になろうと逆に退行して破綻したムスカ
・ラピュタでジブリは王の物語から解放され、主人公が共同体のために死ぬことはなくなる
・パズーの「働いて大人になる物語」は、この先の宮崎作品では女の子によって担われる
・これらから、ラピュタはジブリの出発点であるように感じる・・・
云々・・・
P.S
過日テレビ放映されてたのを、またまた夢中になって観てましたが、やはり何度観ても
気持ちよくワクワク・ドキドキ・ウルウルさせてくれる作品ですねえ・・・
前回記事で紹介した岡田斗司夫チャンネルで、ラピュタの大きさをタイガーモス号の
見張り台(凧)のコックピットの横幅から(ひと晩かけて)導き出したとゆー話がありましたが、
それによると、現存していた!!!ラピュタの大きさは、ちょうど大阪城や江戸城の範囲ぐらい、
さらにその800年前の最盛期では富士山の大きさと高さぐらいになると、計算過程や地図と
重ね合わせての比較など、じつに詳細に説明してました。
「いやあ、あの計算は楽しかったなあ」と嬉しそうに話してましたが、スラッグ渓谷の街の
歴史や飛行機械のメカ、飛行石の伝説や空に浮かぶ都市の伝説など、この本にもいっぱい
解説(諸説)があって興味は尽きませんでした。
(次回「紅の豚」に続きます)