反穀物の人類史(序章メモ)虫を食べる植物展と・・・

2022年09月22日

反穀物の人類史(本章メモ)

ようやく前回記事からの続き・・・

そう「反穀物の人類史~国家誕生のディープヒストリー~」

P9061172


の本章(1章~7章)からの読後メモであります
やっと全章を読み終えましたが、じつに濃い内容でした

序章メモと重なる内容
は省略してますし、わたくしが興味を持った部分だけのメモなので、
少しでも興味を持たれた方には本書の熟読をオススメします


1章「火と植物と動物と」より

・南アフリカの古い洞窟遺跡
→古い層には大型ネコ科動物の全身骨格と歯形が残されたホモ・エレクトスを含む動物の骨片が、
→新しい層には炭素堆積物(焚火跡)がありホモ・エレクトスの全身骨格と(
大型ネコ科動物を含む)
様々な動物の(齧った跡のある)骨片が・・・
→これは火の使用により関係が逆転したことの証拠

・火を使い獲物(動物・植物)を得やすい環境に作り変えた(景観修正)
→アマゾンやオーストラリアの環境も人類の火が影響してるが
北アメリカでは大規模だった
→その後ヨーロッパ人がもたらした疫病により先住狩猟採集焼畑民が壊滅して森林が広まった
→1500~1850の小氷期は、この森林化により大気中のCO2が減ったことが原因との説もある
→ニッチ構築で狩猟採集しやすいよう作り変えられたところでは極相林がなくなっている

・調理
→火を使った調理で消化が外化され消費カロリーは減り、多様な食物を食べられるように
→大地溝帯の23000年前の遺跡からは20種類の動物、16種類の鳥類、140種類のフルーツ、
ナッツ、豆類のほか、医療や工芸用の植物も見つかっている
→火で柔らかく調理することで離乳が容易になり、老人も食べられるように
→脳の拡大と炉床・食事の残骸とは適合し、このような変化は他の動物でも知られている
→食習慣と生態的地位の劇的な変化があれば僅か2万年ほどで変化する

・集中と定住→「湿地仮説」
→降水量の少ない土地で収穫するには灌漑しかなかった説→大規模労働力→国家形成???
→ところが最初の大規模定住地は湿地帯で、穀物ではなく狩猟採集、灌漑より排水だった
→自生植物や海洋資源だけでも人口は増え定住している
→ユーフラテス下流は氾濫原
→毎年、自然に種子が拡がり畑になり野生草食動物の餌も茂る
→なので生業資源は多様で量も豊富、安定していて回復力もあった
→狩猟採集民や遊牧民にとっては理想的だった

→大型の獲物を狙う狩猟採集民より、植物・貝・フルーツ・ナッツ・小型魚など栄養下位の
食物を摂取する狩猟採集民は移動が少なくてすむ
→メソポタミアの湿地帯には栄養下位の食物が豊富で、早い時期に多くが定住した
→農業するリスクより安定的で回復力があり、毎年ほとんど労働なしに再生可能だった
→ただし移動性の獲物を狩る短期間だけは労働力不足になり、その間は24時間働く
→毎日働く農耕民とのリズムの違い
→湿地帯は水上輸送、交易にも有利(陸路は輸送が高価で困難だった)

・なぜ(湿地帯への集中と定住については)無視されてきたか
→歴史的な主要穀物と文明(国家)の消しがたい結びつきから
→文書記録が一切ないから
→環境面での中央集権化、階級構造に抵抗し続けた歴史だから?
(メソポタミアだけでなくイエリコ川、ナイル川下流、杭州湾、インダス川、東南アジア各地、
メキシコやペルーの高地遺跡も、当時は豊かな湿地帯だった)

・ギャップに注目する
→作物化・家畜化から農耕・牧畜社会まで4000年のギャップがあるのは何故か
→遊牧も農耕も狩猟も採集もハイブリッドにおこなっていたから
→リスクを冒してまで労働集約的な農耕や家畜の世話だけに依存する理由がなかったから
→単一の技術や食料源に特化することを避けることが、安全と相対的な豊かさを保障する
最善の方法だったから

・そもそもなぜ植えたのか
→氾濫農法は狩猟採集や焼畑での火の利用と同じで、
最も労働力を節約できたから
→これなら「知的だが作業嫌いな狩猟採集民」でも採用するだろう


2章「世界の景観修正」より

・狩猟採集と農耕を隔てる、歴史以前と以後を隔てる、野蛮と文明を隔てる一線は存在しない
→ホモ・エレクトスが種子やイモを土壌に埋めた瞬間のほうが大事なイベント
→景観(環境)を修正する種はほぼすべての哺乳類や社会的昆虫などにも見られる
→ホモ・サピエンスの低強度の園耕は火のおかげで数万年かけて景観(環境)に影響した
→特に大きく変わったのはアマゾン氾濫原で、人為的な森林になった
→野生の植物や動物の生産性などを向上させるテクニックは昔から何百とある(略)
→ホモ・サピエンスは環境全体を(産業革命までは火により)飼い馴らしてきた

・完全栽培は他の選択肢がなくなり始まった説
→人口増加、野生植物・動物の減少、圧制などで仕方なく作業量を増やして農耕に・・・
→エデンの園からの追放物語・・・
→経済的な説だが、少なくともメソポタミアや肥沃な三角地帯での証拠とは整合しない
→耕作が始まったのは限界に達した地域ではなく最も豊かだった地域
→初期の農耕が狩猟採集の消失を伴ったという証拠もないが、満足できる代替説はまだない

・飼い馴らし(ドムス)の語源は「住居」だが、他に類をみないもの
→初期定住コミュニティでは数あるテクニックのひとつだったが穀物と動物の飼い馴らしへの
依存が高くなったことで、景観(環境)修正が量的変化した
→耕地、種子や穀物の蓄え、家畜動物が密集し、他の(片利共生も含む)生物も集まった
→ホモ・サピエンスも含み全てが形質転換された
→家畜化されると早く成熟するが幼形成熟になり脳が小さくなる(養殖魚も)
→脳で特に影響を受けるのは辺縁系(危険反応など)で、他にも多くの影響が・・・(略)

・ホモ・サピエンスも定住化により自己家畜化した→動物と相似プロセス

・狩猟採集民は短期間で集中的な活動で自然のリズムに合わせたもの
→どの活動にも多様なツールキットと技術と知識が必要(集合的記憶と口承で保存される)

・植物の作物化は義務的な年々のルーチンと一定パターンの協力協働を要求する
→ホモ・サピエンスが農業へ踏み出したことで、我々は「禁欲的な修道院」に入った
→そこでは植物に組み込まれた注文の多い遺伝子時計が常に我々の勤業を監視している
→特定種の耕作植物(と家畜動物)の繁栄のために重労働させられている

・初期の中東で穀類が主食として確立されると農事暦が儀式生活の大半を決定するようになり、
喩えにも穀物や家畜に関するものが急速に増えた→旧約聖書など
→多種多様な野生植物を一握りの穀草と交換し、僅かな種の家畜のために広範な野生動物を
手放したという強力な証拠・・・

・飼い馴らしは文明へのブレイクスルーとされるが、自然界への注意力と実践的知識を縮小
させたこと、食餌の多様性が乏しくなったこと、空間が小さくなったこと、そしておそらく
儀式生活の幅が狭まったことを意味している・・・


3章「動物原性感染症」より

・苦役とその歴史
→半農半牧は国家登場のはるか前にメソポタミアと肥沃な三日月地帯の大半に広がっていた
→氾濫農法の適地を除き、なぜ狩猟採集民は苦役を選択したのか
→野生植物が少なくなり、近隣との敵対もあって移動も制限されたからとする説
→証拠からも論理からも異論がある
→6000年かけて生業が強化されたという知的に満足のいく物語
→栄養価の高い大型獣が乱獲によって減り人口圧もあり他の資源を活用せざるを得なくなった説
→ところが農業革命は人口圧の少ない環境で起きている
→人口圧が高まったのは3000~4000年後で農業の発達と一致する
→後回しにされたのは作業の手間と農地は労働集約的なだけでなく脆く壊れやすかったから

・後期新石器時代の複数種定住キャンプ
→人口は紀元前1万年で推定400万、紀元前5000年でも500万、その後の5000年で1億に
→紀元前1万~5000年の間に技術進歩したのに滞ったのは、この間の致死率が最も高いから
→定住農耕で慢性急性の感染症が集中し繰り返し壊滅的な打撃を与えた
→伝染病は新石器農業革命の群集状態で初めて可能になったもの
→伝染病は密集するキャンプの家畜や作物も同じ→全滅すれば人口も激減する
→作物栽培が拡がる以前の定住だけでも群集状態はあり伝染病には理想的・・・
(中略)
→疾患をさらに悪化させたのは農業化による必須栄養素の不足
→同時代の農民と近隣の狩猟採集民を比較すると身長で5cmの差があった
→狩猟採集時代の地層で特定可能な142種の植物のうち118種を狩猟採集民が消費していた
→農民は炭水化物に偏り必須ビタミンもタンパク質(特に脂肪酸)も少なく・・・
(中略)
→新石器時代の農業は集中で格段に生産力が上がったが狩猟採集と比べると、はるかに脆弱で、
移動耕作(移動性と多様な食料依存の組み合わせ)にすら劣っていた
→それが覇権を握り世界の大半を作り変えたのは、ほとんど奇跡だったのである

・農耕生活が生き残り発展した端的な答えは定住それ自体にある
→定住農民は前例がないほど繁殖率が高く死亡率の高さを補って余りあるほどだった
→狩猟採集民が定期的に野営地を動かすことを考えると子どもを作るのはおよそ4年ごと
→激しい運動とタンパク質豊富な食事は思春期を遅らせ閉経を早める
→定住農民は定住で初潮が早まり排卵が促進され生殖寿命も延び、短期間に子どもを多く作れ
穀物食で子どもの離乳が早まり、子どもの労働力としての価値が高くなる
→これらの5000年間の差、免疫を持った農民との差、やむを得ずの農業選択・・・
→新石器時代の農業コミュニティは洪積層低地に(非定住民を犠牲にして)広がっていった


4章「初期国家の農業生態系」より

・萌芽的な国家は、後期新石器時代の「穀物とマンパワーのモジュール」を活用して、
支配と収奪の基盤とすることによって生まれた
→新石器時代の農業複合体は国家形成の必要条件であっても充分条件ではない
→定住農民が国家を作らず灌漑することは珍しい事でもなかった
→しかし国家らしきもので洪積層の穀物農民に依存していないものはなかった

・この本では国家を「税の査定と徴収を専門とし単数もしくは複数の支配者に対して責任を負う
役人階層を有する制度」として、
「明確な分業があって高度に複合的かつ階層的な階級社会での行政権力の行使」として考える
→バビロニア、シュメール、ギルガメシュ・・・ウルクが先駆けで20の都市国家・・・
(ウルクの詳細は略)
→自立していた耕作民が国家に集められた説明で説得力があるのは気候変動説
→急激な乾燥による水路周辺への集中=都市化、灌漑、運河へのアクセス・・・
→水不足は水の豊かな場所に人口を押し込め、狩猟採集などの代替存在を減少消滅させた
→気候変動により都市化が強要され、国家形成に理想的な「
穀物とマンパワーのモジュール」
が強化された
→結果として乾燥が人を集め穀物を集中させて国家空間に送り込んだ
→これには豊かな土壌と水、人口増を可能にする収容力が必須
→最適な環境下で紙一重で国家が生まれても、洪水・害虫・病気など何が起きても一掃され、
初期国家はきわめて短命だった

・群集状態の新石器時代複合体はそれだけでも危険だったが、国家が重なり脆弱性と不安定性に
新たな層が加わった
→税と戦争で農民は飢え、初期の国家は恩恵より生存への脅威を追加するものだった

・古代国家はすべて農耕国家で非生産者が収奪可能な余剰が必要になる
→輸送力を考えると耕作可能地と人間を可能な限り小さな半径に集めること

・農業地理
→メソポタミア、エジプト、インダス川流域、黄河流域・・・
→国家は豊かで多様な湿地帯の下流域ではなく耕作農業の上流域で発生した
→狩猟採集民とその収穫物は支配できなかったから

・穀物が国家を作る
→穀物だけが課税の基礎となり得るから(序章メモ参照)

・壁が国家を作る
→防御と閉じ込め
(序章メモ参照)

・文字が国家を作る
→小農にとっては国家の(理解を超えた)文書こそが抑圧の源だった
→なので反乱の最初に行うのは文書記録事務所への焼き討ち

→紀元前3300~2350にメソポタミア南部の権力者集団が権力構造の規模を拡大し制度化した
→多くの耕作者や労働者が数えられ、課税され、徴兵され、従属させられた
→文字が初めて登場したのはこの頃

→数値的な記録管理の体系的な技術がなければ、最初期の国家すら想像できない
→収奪の第一条件は利用可能な資源(人口、土地、作物収穫、家畜など)の一覧表
→収奪が進展すれば継続的な記録管理が必要になる
→記憶や口承を越えた、何らかの表記法と情報管理

→メソポタミアではほぼ簿記目的だけで文字が使われていた
→500年以上も経ってから、ようやく文章など「文明の栄光」としての文字に
→ギルガメシュ叙事詩は紀元前2100年まで遡るが、これは楔形文字が国家と商業の目的で
最初に使われてから1000年後・・・
→紀元前3300~3100頃の粘土板の解読からは頻度の高い順に、配給・税としてのオオムギ、
戦争捕虜、男女の奴隷・・・
→労働、穀物、土地など各単位を扱うのに必要な標準化、抽象化には標準となる術語体系の
発明が不可欠で、文字ですべてのカテゴリーを表し、文字で規範が創造され全土で強制され、
文字それ自体が距離を破壊するテクノロジーとなり、小さな領土全域を支配した
→中国でもメソポタミアでも文字は話を書き記すものではなかった(略)
→文字は税との結びつきが強く国家以外では抵抗されたのでは・・・
→文字に備わった抑圧的な指令構造を少なくとも500年は回避できたのだ・・・


5章「人口の管理」より

・初期国家では人口の獲得と管理が中心的関心事
→肥沃で水の充分ある沖積層を支配しても生産させ収奪しなければ意味がないから
→国家が生まれる前は、その資源を管理する集団の成員の誰もに開かれていた
→強制も資本主義的蓄積の機会もないので、重労働を増やす理由はなかった
→家族に働く者が増え被扶養者が減ると、必要量が確保された時点で作業量を減らす
→農民はわざわざ余剰を生産しないので生産させるには強制が必要
→初期国家が形成されたときには生産手段がまだ豊富にあり独占されておらず、
強制労働でしか余剰はもたらされなかった
→強制労働で余剰を最大化したいが逃避リスクとのバランスをとる必要があった
→生産手段(土地)の管理だけで余剰が引き出せるようになるのは世界が完全に占領され、
生産手段が私的所有されるか国家エリートが支配するようになってから
→自主耕作や採集などの選択肢があれば強制労働だが、それを取り上げれば働くしかない

・(特別な条件を除けば)農業も戦争もマンパワーに依存したものだった
→最も人口の多い国家が一般的には最も豊かなのが普通だった
→戦争の勝利品は領土ではなく捕虜で、人口を国家以外から得ることが戦争目的
→逃亡や死亡が多く、それまで課税も規制もされなかった人たちを囲い込んでいった

・国家と奴隷制
→奴隷制は国家の発明ではなく様々な形で存在していたが初期国家がスケールアップした
→軍事遠征では奴隷の略奪が主目的

・メソポタミアの奴隷制と束縛
(略)
・エジプトと中国
(略)
・「人的資源」戦略としての奴隷制
(略)

・略奪的資本主義と国家建設

→成功した遠征の勝利の記述で勇猛さを述べた後は戦利品の量と価値、とりわけ家畜と捕虜
→こうした戦争の大多数はマックス・ウエーバーの
略奪的資本主義の概念が適応できる
→利益を目的とした軍事遠征は、ある種の共同出資事業で事業内容が略奪
→初期の国家にとって略奪品とりわけ捕虜を手に入れることは重要な目的だった
→奴隷が(スキルを持った少数を除き)最も劣悪で危険な労働に集中していた事実
→国家が自国民から抽出すれば逃亡や反乱が起こるから

・メソポタミアの
奴隷制および束縛の特殊性(略)
・飼い馴らしと重労働と奴隷制に関する推測的覚書(略)


6章「初期国家の脆弱さ」より

・国家の前に5000年(日本やウクライナでの農耕以前の定住を含めれば7000年)におよぶ、
散発的な定住があったし、定住と放棄が繰り返された場所も多い
→その理由(略)

・初期国家の罹患率→急性疾患と慢性疾患
→病気→過度の定住、移動、国家(略)
→国家は同じ危険に加え特有の脆弱性も持っていた・・・
(序章メモ参照)

・政体の消滅→戦争とコアの搾取
→戦争も奴隷制と同じく国家の発明ではないが、やはりスケールアップしたのは国家
→獲物は壁に囲まれ人と家畜と備蓄を備え、余剰を生み出す「穀物コア」
→敗戦国はほぼ文字どおり「消滅」した→「崩壊」

・崩壊万歳
→様々な理由による国家の崩壊→巨大建築や宮廷記録がなくなり分散しただけ
→国家崩壊後は暗黒時代と呼ばれるが、分散は国家支配下での集中定住負担(課税、伝染病、
凶作、徴兵など)の軽減だけでなく平等主義の先駆けにもなり、暗黒時代ではない
→真の暗黒時代は国家を持たない狩猟採集民が穀物コアでの密集から生まれた病気と接触し
壊滅的な打撃を受けた時代、19世紀まで続いた無国家民を奴隷としてかき集める時代


第7章「野蛮人の黄金時代」より(全体の概要は
序章メモ参照)

・初期国家は権力基盤である労働力と穀物の密集を支えるのに充分な水と豊かな土壌のある
「スイートスポット」のみに存在し、世界の大部分は国家から見た「野蛮人」や「未開人」が
治めるゾーンだった→野蛮人とは単に国家を持たない人びと

・文明とその野蛮な周辺部(略)

・野蛮人の地理、野蛮人の生態系
→国家の
課税、伝染病、凶作、徴兵などから脱出した多くは野蛮人になった
→国家が存続すればするほど辺境への難民も多くなる→特に機能停止、空白期
→脱出により安全・栄養・社会秩序の大幅な改善があった→自発的な遊牧民化も多い
→国家周辺の野蛮人の大多数は政治難民、経済難民
→脱出は反乱よりは危険性の少ない救済への道だった

・部族
→部族とは国家による行政上のフィクションであり、反意語は小農(国家の臣民)
→国家への脅威として匈奴、モンゴル、フン、ゴートなどの部族が歴史書に登場するが、
ローマ帝国や唐王朝にとって部族は地域的な行政単位であり、人の特徴とは無関係
→部族名の多くは地名で行政目的は首長か指導者を見つけるか指名して責任を負わせること
→カエサルの進化論のように部族が国家に進歩したのではなく、国家が部族を発明した

・略奪(狩猟採集の一形態)
→略奪を繰り返せば定住地や交易路が消滅してしまう
→みかじめ料へ→見返りに他の略奪者から守る
→定住地から余剰物を抽出し攻撃から基盤を守るのは古代国家の収奪プロセスと同じ

・交易ルートと課税可能な穀物コア
→穀物コア以外の商品(鉱物資源や野生資源など)は国家では価値が高い
→周縁地域が高価値商品の産地となり交易が儲けの大きい商業活動に
(例→紀元9世紀に中国と東南アジアの交易が大きくなると、ボルネオの森林での狩猟採集が
爆発的に増え、交易を願う森林狩猟採集民であふれかえった)
→交易の拡大により野蛮人政体は各穀物国家を結合する細胞組織となった

・闇の双生児
→国家民と無国家民、農耕民と狩猟採集民、文明人と野蛮人は、実態でも記号としても双生児
→自分たちは進化した側だと認識してきたのは国家・農耕・文明人だが、じつはペア
→騎馬民族と定住国家も農業余剰物をめぐる最強のライバル同士だが、じつはペア
→略奪の変わりに協定で利益の一部を受け取る合同主権形態(匈奴・ウイグル・フンなど)
→遊牧民が征服して支配する形態(元・清・オスマンなど)
→野蛮人が傭兵となり他の野蛮人から守る形態(拡大する国家の軍事部門の一部に)
(カエサルのガリア兵、ロシアのコサック兵、ネパールのグルカ兵など)
→野蛮人の同盟は宿主である国家が崩壊するとたいてい消滅する
(匈奴と漢、チュルク系と唐、フンとローマ、海の民とエジプトなど)
→国家の歴史書は公平ではないので、それぞれのペアの歴史はわからない
→遊牧民の中央集権化の度合いは近隣の農耕文明の広がりと正比例する

・黄金時代だったか?
→国家の覇権が明確に見られるようになるのは紀元1600年頃から
→8~11世紀のバイキング、14世紀後半のティムール、オスマンの後継者による征服が終わった時期
→それまでの世界人口の大部分は国家から見れば「野蛮人」
→定住農業に伴う階層的な社会秩序や国家に従属することも飼い馴らされることもなかった
→生業の幅は広く特に女性は健康で長生きし、有利な条件での交易で余暇も増え、農民との
余暇⇔苦役比率では、さらに大きな差がついていた
→ただし国家への交易品の多くは他の「野蛮人」で、捕食の連鎖のようなものだった
→同じ野蛮人を犠牲にして国家の中枢部を強化することになった
→さらに自分たちの軍事技術を傭兵として国家に売った
→野蛮人の軍隊は国家を略奪するのと同じぐらい国家建設にも関わっていた
→奴隷狩りによって国家のマンパワー基盤を補充し、軍事面で国家を守り拡大させることで、
野蛮人は自ら自分たちの墓穴を掘っていったのである・・・





学生時代に習った国家や文明の起源とは異なる新しい視点で、まさに「目からウロコ」でした
メソポタミアはじめ世界各地の遺跡の発掘調査とかが、わたくしの学生時代に比べたら、
はるかに進んで、今や多くの新事実が明らかになってきてるんですねえ・・・

ま、わたくしが習ってから半世紀ちかく経ってるので、当然といえば当然でしゅか・・・



m98k at 09:22│Comments(0) mixiチェック 書斎 | 沙漠緑化・熱帯雨林再生

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