2023年06月02日
「遊ぶ」が勝ち
まだ台風2号による洪水警報・大雨注意報が発令中の大阪からですが、今回はお外で・・・
「遊ぶ」が勝ち・・・とゆー本のご紹介であります

Playing is a smart way・・・
表紙カバー裏にあった著者紹介

奥付


新装版・前書きからの読後メモ・・・
→英語で陸上競技場はplaygroundだし「スポーツをする」は play○○○○で、スポーツの本質は遊ぶこと
→本を上梓したのが2013年で7年たった今は、さらに効率的に真面目にを求める圧力が強くなっている
→「ホモ・ルーデンス」は僕の愛読書だが、その中に日本人は遊び上手だったという記述がある
→近代化する中で薄れているが、遊ぶ心は眠っているはずなので今一度呼び戻そう
→本書がそのきっかけになってくれたら嬉しい・・・
この新装版発行から3年なので最初の上梓は今から10年前、著者は引き続き活躍されてるようですが、
コロナ禍では運動会やお祭りは中止になって東京五輪は開催、キャンプがブームになったりしました
コロナ後の「遊び」の状況は、今後どのように変化していくのでしょう・・・
わたくしも「ホモ・ルーデンス」は愛読書つーか、若い頃に興味深く読んだ覚えがあります
著者も書いてましたが、文庫版でも分厚い哲学の専門書で確かにとっつきにくかったです
この本には著者なりの「ホモ・ルーデンス」の解釈もあり、さすがにプロ・アスリートの経験と発想だと
感心しましたが、本の内容をすっかり忘れてたので分かりやすい復習にもなりました
子どもの頃に身体を使った遊びをすることと自分で遊びを工夫することは、とても大事なことかも知れません
わたくしは生まれも育ちも大阪の下町ですが、まだ近所に遊べる空き地や廃墟が残ってる時代だったし、
母親の郷が泉州で、当時は田畑や山林もいっぱい残ってたので、けっこう屋外で遊んだほうだと思います
まあ、中学ぐらいまでずっと「秘密基地ごっこ」や「戦争ごっこ」がメインでしたが・・・
今ならサバイバルゲームをフィールド作り、道具作り、ルール作りまで全部自分たちでやってたようなもの
それで高校からは山歩きやキャンプ好きになり、社会人になってからはスキーや川下りなどが加わり、
やがてマルイの電動ガンが登場して一時期はサバイバルゲームに夢中でしたから、幅広い遊びとゆーより
子どもの頃からのアウトドア遊びがずっと続いてたことになりますね
なので球技には全く無縁・・・って、そーいやサバゲーは6mmBB弾を使う球技なのかっ???
以前も書きましたが、サバゲーつーのは究極の「ごっこ遊び」スポーツだと今も思ってます
球技としてはドッジボールに似てますが、はるかにリアルでフィールドも野山の自然地形がメイン、
仲間内ならルールやレギュレーションは自由に決められるけど、それを守ることが絶対条件になり、
あとは自分の役柄になり切って、自分の身体と頭と技術を極限まで使って何とか生き延びる、あるいは
チームとして敵に勝利する、その行為自体を目的として仲間と楽しむので、ハマると夢中になる・・・
これは他の球技にも共通するんでしょうが「ごっこ遊び」スポーツとしては、おそらく究極でしょう
閑話休題
例によって目次のみのご紹介




ハードル選手らしい目次構成であります・・・
「助走路」の読後メモから・・・(以下、正しくは本書をお読みくださいね)
・ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」のまとめ(略)
・僕の競技人生のスタートは「走りたいから走る」喜びだった
→やがて「走ると女の子にモテる」「走れると進学できる」になり、
→「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になる」の世界へ・・・
→とうとう「手に入れたものを失うのが怖い」世界が到来した
→その時すでに「結果を出せるから走る意味がある」というモデル自体が崩れかけていた
→それでも走った時、走る根本には喜びがあることが見えたから、走り続けることができた
→遊びは楽しい→スポーツでも人生でも「遊ぶが勝ち」・・・
「第1ハードル」からの読後メモ・・・
・高校3年で短距離では伸びず400mハードルに転向したが、心の葛藤は大学4年間続いていた
→人生には「仮置き」や「仮決め」があってもいいのではないか
→視点をずらすという、遊びの感覚で余白、ゆるみ、隙間を作ることが大事
・目の前の出来事は一時的な約束事で回っているに過ぎない
→それが全てじゃないと距離を取れば人生は概ね何とかなる
・「遊び」も「演じる」も「競技する」も英語ではPLAY→何かのために走ってはいけない
→外から期待されることに遊びの要素は入りにくい
→自分ではじめた能動的な作業なら遊びの感覚や楽しさを持ちやすい
→遊びには自発性が関係している→自由な行動
→「したい」と「しなくては」の差→義務化すれば楽しくない
→「ねばならない」の過去をいったん「なかったこと」にしてゼロからスタートする・・・
・スランプ脱出には「考えないこと」も重要
→遊びの世界に没頭した瞬間を思い出すこと→ZONEの状態
・当時の日本では選手が「オリンピックを楽しんできます」なんて言えない状態だった
→ところが選手村での海外選手は楽しんでいるように見えた
→結果的に彼らはいきいきと楽しく良い結果を出していた
・ハードルに転向して海外で東洋の無名選手として走る際は演じなくてもいいので楽だった
→また走るのが楽しくなった→日本の陸上界はまだまだ硬い空気だった
・「努力を実現するために人間に先天的に与えられている機能、それが遊び」(ホイジンガ)
→なので楽しさを殺しては絶対にダメ
→これを言葉に出して肯定できたのは、この本(ホモ・ルーデンス)に出合ってから
「第2ハードル」からの読後メモ・・・
・遊びのヘンな感じの身体感覚、トライ&エラーの楽しさ、夢中になるスイッチ・・・(略)
・枠組みの中で遊ぶのが楽しい人も、枠組みそのものを設計するのが楽しい人もいる
→「型にはめる」教え方をするなら「型を脱する」方法も一緒に教えることが絶対に必要
・日本のスポーツ選手の多くが多彩な身体経験をしていない→大学からは伸びない選手が多い
→アメリカでは多種多様なスポーツ経験からアスリートになり、ロシアでは基幹スポーツの体操から
枝葉が伸びていくので逆だが、どちらも自由度や広がりが貴重な体験になっている
・ハンマー投げとゴルフのインパクト、高跳びの踏み切りとサルサの感覚は同じだった
→子どもの頃に自転車に乗った感覚のように運動感覚は風化しない
→運動神経が開発される10歳ぐらいまでに様々に身体を動かす経験を蓄積すること
→それが子どもの遊び
・自転車を漕ぐ時は景色に没頭している方が早く漕げたりする
→これは意識で身体を動かすより感覚で身体が動いてしまうほうがスムースになる一例
・遊びで役を演じている自分を楽しむ→ごっこ遊びや仮面劇
→仮面で自分が消えるということは「こうふるまうべき」という自分の役割も消えること
→他人の目を気にせず熱中できる→ZONEの超集中状態にも通じる
→スポーツ選手は外見や形によって意識・精神も変わることに注意すべき
→試合前に意識的に勝負顔を作る
→昔の宗教的な仮面や顔面ペイントと同じでトランス状態や別人格のきっかけになる
・役割そのものを遊ぶということは日本人が得意なジャンルかも
→落語のように演じ分けることも得意で、関係性が変わってもあまり気にしない
→そのタイミングを上手に読み切ることが求められる→「空気を読む」
→ツイッターなどで一人あたりのアカウント数が多いのも日本の特徴で、欧米などとは逆
→演技的、多重人格的な感性は遊び感覚で、これはこれで面白い
→ひとつの自分にしがみつかない軽やかさを、もっと自分の力に変えていけばいいのにと思う
・自分とは何か
→引退前の4年間、アメリカのパラリンピリアンと同じグラウンドにいた
→義足を自分の身体の一部とし、視覚障害の選手はリズムで距離を測っていた
→身体感覚を極めていくと、まだまだ使っていない感覚があることに気づく・・・
「第3ハードル」からの読後メモ・・・
・広島生まれで幼い頃に原爆について立場の違う意見があることを知らされ困惑する体験をした
→とりあえず選択せざるを得ない際でも、立場を変えて批評的に見る態度が大事
→コミュニケーションの重要性
→身体で感じたことを言語にするのは難しいがツイッターで発信し続けている
→自分との会話が好きなので外部化するいい機会になっている
→伝えようとする行為はコミュニケーション的な遊びに近い
→ツイッターやSNSにハマるのは予測がつかず変化に対応できることが嬉しく面白く楽しいから
→僕にとっては大いなる遊び
・獲れると決まっているメダルを獲りに行くなら仕事(作業)で、不確実な緊張があるから面白い遊び
・熱狂の中に身を置くことは楽しいがクールダウンも大事
→コミュニケーションを「いかにとらないか」もコミュニケーション力の一つかも
・日米の距離の取り方の違い
→アメリカでは議論を楽しむディベートが娯楽になっている
→日本では相手と共感したり同調しがちになる
→日本人は「私」という主語のないところで遊ぶのが上手
→これは強さにも弱さにもなる
→リーダーのいないチームスポーツや渋滞時などでは、みんなが空気を読んで対応するので有利
→言語を介さないコミュニケーション術を日本の特性として磨いて戦術化すべき
・知恵の輪は外し方を考えるから楽しく、遊びとして成立する
→説明書があったり、あきらめてしまえば遊びは不成立
→外しても意味はなく報酬もない→レースに勝つのと同じ→1番になることが面白いだけ
・認識の違う世界でのコミュニケーションは互いに橋を架けることから始めるしかない
→完璧ではなくとも何とか架かって、互いが理解できそうになる瞬間ほど面白いものはない
(特にこの言葉に感動しました。経験から出た素直で素晴らしい言葉だと思います)
「第4ハードル」からの読後メモ・・・
・知識と体感のバランスをとることは難しい
→スランプに陥る選手の傾向は体感の量が少ないこと
→「気持ちいい/よくない」の境目が判断できないのは知識の詰め込み過ぎ
→大切なのは「気持ちよかった時の感覚」が記憶できているかどうか
→海外では読書、散歩、練習、読書の繰り返しで、頭と身体のバランスが心地よく流れていた
→役立つかどうかも分からず好奇心を満たしワクワクしたくて本を読んだ
→僕にとって走ることと本を読むことは似ている
・タオイズム(道教)、禅宗の世界観→意識しないで身体が動く→そのための教養(略)
・応用領域は遊びの領域
→発想力を磨き新しい方法をクリエイトすること
→強さは反復や基本の先にあるもの
・スポーツの根本は遊び
→だからこそ自分から努力し鍛錬する自発性が不可欠
→遊びもスポーツも本来は自発的な行為で目的は行為そのもの
→この視点を日本のスポーツ界が取り入れれば、選手の育成方法も、コーチと選手の関係も、
暴力による体罰も、必ず変化していくだろう
・俳句と欧米スポーツの共通点
→俳句には季語や五七五などのルールがある
→最初はルールに縛られ当然うまく作れない
→知識を増やし観察した風景を言葉に置き換える練習を続けながら磨きをかけていく
→仲間同士で評価し合うので緊張感もあり、比べられ優劣をつけるという競技性もある
→だが、俳句の基本は楽しさということは自然に共有されて浸透している
→だから、うまく作れた時もそうでない時も、その場は楽しさに満ちているのだろう
→スポーツもそうあってほしい
・クラブチームなら目的をはっきり掲げることができる
→人格形成、人と繋がること、日本の頂点に立つなど、様々な目的があってもいい
→それぞれがスポーツを自分の目的に沿って選択できる環境を整えることが基本
→句会のようにスポーツをもっと楽しむための会が各地域に作られる必要がある
→みんなが遊びとして俳句を楽しむ中で俳句文化が育ち磨かれたのではないか
・ツイッター上では辛辣なのにリアルではおとなしくなり、表面上の言葉しか出てこない
→本音を言おうとしない、議論が得意ではない
→その文化も素晴らしいが、世界が舞台では自分の意思を表示する必要に迫られる
→挙手でもツイッターでもいいので、まずは自分の考えをまとめて公にする訓練が大事
・学習の究極の形態は遊び
→遊びながら学ぶ、学びながら遊ぶ
→教養と遊びを融合させるような場になればと「為末大学」を続けている
「第5ハードル」からの読後メモ・・・
・仕事と遊びの違い
→欧州グランプリでは入賞賞金だけで生計を立てているプロもいた
→1位なら150万、2位なら100万といったシンプルなゲーム
→自分は大阪ガスの会社員選手だったので給料もカリキュラムも生活も安定していて確実だった
→ホイジンガによる遊びの要素は緊張、不確実、不安定性
→プロ選手は会社員に比べ格段に遊び的だったので賞金やスポンサー収入だけのプロになった
・アスリート外交、スポーツ交流の役割は大きい
→反日の雰囲気だった中国でも卓球・福原愛さんの人気は絶大で日本人への親近感が維持されていた
→もともと貴族の種目である近代五種やカヌー、フェンシングなどは外交上大きな力を発揮する
・引退後のセカンドキャリア
→サンク・コスト→なかったものとして考える→念を継がない
→競技の結果とは、ただ遊ぶ者自身の問題である(ホイジンガ)
→遊びが成功した、うまくいったという観念的事実である(ホイジンガ)
→遊びの成功は遊ぶ者に暫く持続する満足をもたらす(ホイジンガ)
→スポーツ選手にとって成功体験が大きいと、その体験が忘れられなくなり次の一歩の障害になる
・火焔型縄文土器からルイ・ヴィトンのバッグまで、ムダは遊びであり文化でもある
→生きることと遊びは分かちがたく結びついている
・ネイティブアメリカンの通過儀礼の例(略)
→僕にとっては遊びの時間が身体的体験を積み重ねていく通過儀礼だった
→無意識の中で獲得していく体感的な学びを子どもたちに何としても伝えたい
→今後も増える廃校を利用したキャンプや山歩きなど、身体的経験のできるプログラムを考えている
「ゴール」からの読後メモ・・・
・ジャマイカの19歳以下を対象とした陸上大会はテレビ視聴率が80%を超える
→彼らはひたすら早く走ることを楽しんでいる→ジャマイカが短距離王国になるはず
→「ホモ・ルーデンス」の世界は競技を始めた頃に僕が感じていた世界そのものだった
・遊びは真面目と共存しうる→何かに熱中すること
→遊びは遊び自体が目的で自主的であり義務感に弱い
→これまでの社会は人が淡々と作業をこなすことで産業が成り立ってきた
→今後はテクノロジーの発展で人の作業的部分は減っていく
(21世紀後半にはプロ・アスリートとプロ・アドベンチャーツアラー以外に肉体的労働で対価を得る人は、
ほとんどいなくなると、こちらの本にありましたね
)
→作業に遊び感は組み込みにくいがイノベーションやクリエイティビリティが大事な時代になる
→これらには遊び感が大きく影響してくる
→人間にしかできないことが求められるとしたら、遊びの五感的な直感と楽しい気持ちがヒント
・人間とは遊びたいもので、遊ぶことにより人間らしくなると思っている
・・・
いやあ、プロ・アスリートの世界なんて全く別世界と思ってましたが、大いに共感しました
「遊ぶ」が勝ち・・・とゆー本のご紹介であります

Playing is a smart way・・・
表紙カバー裏にあった著者紹介

奥付


新装版・前書きからの読後メモ・・・
→英語で陸上競技場はplaygroundだし「スポーツをする」は play○○○○で、スポーツの本質は遊ぶこと
→本を上梓したのが2013年で7年たった今は、さらに効率的に真面目にを求める圧力が強くなっている
→「ホモ・ルーデンス」は僕の愛読書だが、その中に日本人は遊び上手だったという記述がある
→近代化する中で薄れているが、遊ぶ心は眠っているはずなので今一度呼び戻そう
→本書がそのきっかけになってくれたら嬉しい・・・
この新装版発行から3年なので最初の上梓は今から10年前、著者は引き続き活躍されてるようですが、
コロナ禍では運動会やお祭りは中止になって東京五輪は開催、キャンプがブームになったりしました
コロナ後の「遊び」の状況は、今後どのように変化していくのでしょう・・・
わたくしも「ホモ・ルーデンス」は愛読書つーか、若い頃に興味深く読んだ覚えがあります
著者も書いてましたが、文庫版でも分厚い哲学の専門書で確かにとっつきにくかったです
この本には著者なりの「ホモ・ルーデンス」の解釈もあり、さすがにプロ・アスリートの経験と発想だと
感心しましたが、本の内容をすっかり忘れてたので分かりやすい復習にもなりました
子どもの頃に身体を使った遊びをすることと自分で遊びを工夫することは、とても大事なことかも知れません
わたくしは生まれも育ちも大阪の下町ですが、まだ近所に遊べる空き地や廃墟が残ってる時代だったし、
母親の郷が泉州で、当時は田畑や山林もいっぱい残ってたので、けっこう屋外で遊んだほうだと思います
まあ、中学ぐらいまでずっと「秘密基地ごっこ」や「戦争ごっこ」がメインでしたが・・・
今ならサバイバルゲームをフィールド作り、道具作り、ルール作りまで全部自分たちでやってたようなもの

それで高校からは山歩きやキャンプ好きになり、社会人になってからはスキーや川下りなどが加わり、
やがてマルイの電動ガンが登場して一時期はサバイバルゲームに夢中でしたから、幅広い遊びとゆーより
子どもの頃からのアウトドア遊びがずっと続いてたことになりますね
なので球技には全く無縁・・・って、そーいやサバゲーは6mmBB弾を使う球技なのかっ???
以前も書きましたが、サバゲーつーのは究極の「ごっこ遊び」スポーツだと今も思ってます
球技としてはドッジボールに似てますが、はるかにリアルでフィールドも野山の自然地形がメイン、
仲間内ならルールやレギュレーションは自由に決められるけど、それを守ることが絶対条件になり、
あとは自分の役柄になり切って、自分の身体と頭と技術を極限まで使って何とか生き延びる、あるいは
チームとして敵に勝利する、その行為自体を目的として仲間と楽しむので、ハマると夢中になる・・・
これは他の球技にも共通するんでしょうが「ごっこ遊び」スポーツとしては、おそらく究極でしょう
閑話休題
例によって目次のみのご紹介




ハードル選手らしい目次構成であります・・・

「助走路」の読後メモから・・・(以下、正しくは本書をお読みくださいね)
・ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」のまとめ(略)
・僕の競技人生のスタートは「走りたいから走る」喜びだった
→やがて「走ると女の子にモテる」「走れると進学できる」になり、
→「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になる」の世界へ・・・
→とうとう「手に入れたものを失うのが怖い」世界が到来した
→その時すでに「結果を出せるから走る意味がある」というモデル自体が崩れかけていた
→それでも走った時、走る根本には喜びがあることが見えたから、走り続けることができた
→遊びは楽しい→スポーツでも人生でも「遊ぶが勝ち」・・・
「第1ハードル」からの読後メモ・・・
・高校3年で短距離では伸びず400mハードルに転向したが、心の葛藤は大学4年間続いていた
→人生には「仮置き」や「仮決め」があってもいいのではないか
→視点をずらすという、遊びの感覚で余白、ゆるみ、隙間を作ることが大事
・目の前の出来事は一時的な約束事で回っているに過ぎない
→それが全てじゃないと距離を取れば人生は概ね何とかなる
・「遊び」も「演じる」も「競技する」も英語ではPLAY→何かのために走ってはいけない
→外から期待されることに遊びの要素は入りにくい
→自分ではじめた能動的な作業なら遊びの感覚や楽しさを持ちやすい
→遊びには自発性が関係している→自由な行動
→「したい」と「しなくては」の差→義務化すれば楽しくない
→「ねばならない」の過去をいったん「なかったこと」にしてゼロからスタートする・・・
・スランプ脱出には「考えないこと」も重要
→遊びの世界に没頭した瞬間を思い出すこと→ZONEの状態
・当時の日本では選手が「オリンピックを楽しんできます」なんて言えない状態だった
→ところが選手村での海外選手は楽しんでいるように見えた
→結果的に彼らはいきいきと楽しく良い結果を出していた
・ハードルに転向して海外で東洋の無名選手として走る際は演じなくてもいいので楽だった
→また走るのが楽しくなった→日本の陸上界はまだまだ硬い空気だった
・「努力を実現するために人間に先天的に与えられている機能、それが遊び」(ホイジンガ)
→なので楽しさを殺しては絶対にダメ
→これを言葉に出して肯定できたのは、この本(ホモ・ルーデンス)に出合ってから
「第2ハードル」からの読後メモ・・・
・遊びのヘンな感じの身体感覚、トライ&エラーの楽しさ、夢中になるスイッチ・・・(略)
・枠組みの中で遊ぶのが楽しい人も、枠組みそのものを設計するのが楽しい人もいる
→「型にはめる」教え方をするなら「型を脱する」方法も一緒に教えることが絶対に必要
・日本のスポーツ選手の多くが多彩な身体経験をしていない→大学からは伸びない選手が多い
→アメリカでは多種多様なスポーツ経験からアスリートになり、ロシアでは基幹スポーツの体操から
枝葉が伸びていくので逆だが、どちらも自由度や広がりが貴重な体験になっている
・ハンマー投げとゴルフのインパクト、高跳びの踏み切りとサルサの感覚は同じだった
→子どもの頃に自転車に乗った感覚のように運動感覚は風化しない
→運動神経が開発される10歳ぐらいまでに様々に身体を動かす経験を蓄積すること
→それが子どもの遊び
・自転車を漕ぐ時は景色に没頭している方が早く漕げたりする
→これは意識で身体を動かすより感覚で身体が動いてしまうほうがスムースになる一例
・遊びで役を演じている自分を楽しむ→ごっこ遊びや仮面劇
→仮面で自分が消えるということは「こうふるまうべき」という自分の役割も消えること
→他人の目を気にせず熱中できる→ZONEの超集中状態にも通じる
→スポーツ選手は外見や形によって意識・精神も変わることに注意すべき
→試合前に意識的に勝負顔を作る
→昔の宗教的な仮面や顔面ペイントと同じでトランス状態や別人格のきっかけになる
・役割そのものを遊ぶということは日本人が得意なジャンルかも
→落語のように演じ分けることも得意で、関係性が変わってもあまり気にしない
→そのタイミングを上手に読み切ることが求められる→「空気を読む」
→ツイッターなどで一人あたりのアカウント数が多いのも日本の特徴で、欧米などとは逆
→演技的、多重人格的な感性は遊び感覚で、これはこれで面白い
→ひとつの自分にしがみつかない軽やかさを、もっと自分の力に変えていけばいいのにと思う
・自分とは何か
→引退前の4年間、アメリカのパラリンピリアンと同じグラウンドにいた
→義足を自分の身体の一部とし、視覚障害の選手はリズムで距離を測っていた
→身体感覚を極めていくと、まだまだ使っていない感覚があることに気づく・・・
「第3ハードル」からの読後メモ・・・
・広島生まれで幼い頃に原爆について立場の違う意見があることを知らされ困惑する体験をした
→とりあえず選択せざるを得ない際でも、立場を変えて批評的に見る態度が大事
→コミュニケーションの重要性
→身体で感じたことを言語にするのは難しいがツイッターで発信し続けている
→自分との会話が好きなので外部化するいい機会になっている
→伝えようとする行為はコミュニケーション的な遊びに近い
→ツイッターやSNSにハマるのは予測がつかず変化に対応できることが嬉しく面白く楽しいから
→僕にとっては大いなる遊び
・獲れると決まっているメダルを獲りに行くなら仕事(作業)で、不確実な緊張があるから面白い遊び
・熱狂の中に身を置くことは楽しいがクールダウンも大事
→コミュニケーションを「いかにとらないか」もコミュニケーション力の一つかも
・日米の距離の取り方の違い
→アメリカでは議論を楽しむディベートが娯楽になっている
→日本では相手と共感したり同調しがちになる
→日本人は「私」という主語のないところで遊ぶのが上手
→これは強さにも弱さにもなる
→リーダーのいないチームスポーツや渋滞時などでは、みんなが空気を読んで対応するので有利
→言語を介さないコミュニケーション術を日本の特性として磨いて戦術化すべき
・知恵の輪は外し方を考えるから楽しく、遊びとして成立する
→説明書があったり、あきらめてしまえば遊びは不成立
→外しても意味はなく報酬もない→レースに勝つのと同じ→1番になることが面白いだけ
・認識の違う世界でのコミュニケーションは互いに橋を架けることから始めるしかない
→完璧ではなくとも何とか架かって、互いが理解できそうになる瞬間ほど面白いものはない
(特にこの言葉に感動しました。経験から出た素直で素晴らしい言葉だと思います)
「第4ハードル」からの読後メモ・・・
・知識と体感のバランスをとることは難しい
→スランプに陥る選手の傾向は体感の量が少ないこと
→「気持ちいい/よくない」の境目が判断できないのは知識の詰め込み過ぎ
→大切なのは「気持ちよかった時の感覚」が記憶できているかどうか
→海外では読書、散歩、練習、読書の繰り返しで、頭と身体のバランスが心地よく流れていた
→役立つかどうかも分からず好奇心を満たしワクワクしたくて本を読んだ
→僕にとって走ることと本を読むことは似ている
・タオイズム(道教)、禅宗の世界観→意識しないで身体が動く→そのための教養(略)
・応用領域は遊びの領域
→発想力を磨き新しい方法をクリエイトすること
→強さは反復や基本の先にあるもの
・スポーツの根本は遊び
→だからこそ自分から努力し鍛錬する自発性が不可欠
→遊びもスポーツも本来は自発的な行為で目的は行為そのもの
→この視点を日本のスポーツ界が取り入れれば、選手の育成方法も、コーチと選手の関係も、
暴力による体罰も、必ず変化していくだろう
・俳句と欧米スポーツの共通点
→俳句には季語や五七五などのルールがある
→最初はルールに縛られ当然うまく作れない
→知識を増やし観察した風景を言葉に置き換える練習を続けながら磨きをかけていく
→仲間同士で評価し合うので緊張感もあり、比べられ優劣をつけるという競技性もある
→だが、俳句の基本は楽しさということは自然に共有されて浸透している
→だから、うまく作れた時もそうでない時も、その場は楽しさに満ちているのだろう
→スポーツもそうあってほしい
・クラブチームなら目的をはっきり掲げることができる
→人格形成、人と繋がること、日本の頂点に立つなど、様々な目的があってもいい
→それぞれがスポーツを自分の目的に沿って選択できる環境を整えることが基本
→句会のようにスポーツをもっと楽しむための会が各地域に作られる必要がある
→みんなが遊びとして俳句を楽しむ中で俳句文化が育ち磨かれたのではないか
・ツイッター上では辛辣なのにリアルではおとなしくなり、表面上の言葉しか出てこない
→本音を言おうとしない、議論が得意ではない
→その文化も素晴らしいが、世界が舞台では自分の意思を表示する必要に迫られる
→挙手でもツイッターでもいいので、まずは自分の考えをまとめて公にする訓練が大事
・学習の究極の形態は遊び
→遊びながら学ぶ、学びながら遊ぶ
→教養と遊びを融合させるような場になればと「為末大学」を続けている
「第5ハードル」からの読後メモ・・・
・仕事と遊びの違い
→欧州グランプリでは入賞賞金だけで生計を立てているプロもいた
→1位なら150万、2位なら100万といったシンプルなゲーム
→自分は大阪ガスの会社員選手だったので給料もカリキュラムも生活も安定していて確実だった
→ホイジンガによる遊びの要素は緊張、不確実、不安定性
→プロ選手は会社員に比べ格段に遊び的だったので賞金やスポンサー収入だけのプロになった
・アスリート外交、スポーツ交流の役割は大きい
→反日の雰囲気だった中国でも卓球・福原愛さんの人気は絶大で日本人への親近感が維持されていた
→もともと貴族の種目である近代五種やカヌー、フェンシングなどは外交上大きな力を発揮する
・引退後のセカンドキャリア
→サンク・コスト→なかったものとして考える→念を継がない
→競技の結果とは、ただ遊ぶ者自身の問題である(ホイジンガ)
→遊びが成功した、うまくいったという観念的事実である(ホイジンガ)
→遊びの成功は遊ぶ者に暫く持続する満足をもたらす(ホイジンガ)
→スポーツ選手にとって成功体験が大きいと、その体験が忘れられなくなり次の一歩の障害になる
・火焔型縄文土器からルイ・ヴィトンのバッグまで、ムダは遊びであり文化でもある
→生きることと遊びは分かちがたく結びついている
・ネイティブアメリカンの通過儀礼の例(略)
→僕にとっては遊びの時間が身体的体験を積み重ねていく通過儀礼だった
→無意識の中で獲得していく体感的な学びを子どもたちに何としても伝えたい
→今後も増える廃校を利用したキャンプや山歩きなど、身体的経験のできるプログラムを考えている
「ゴール」からの読後メモ・・・
・ジャマイカの19歳以下を対象とした陸上大会はテレビ視聴率が80%を超える
→彼らはひたすら早く走ることを楽しんでいる→ジャマイカが短距離王国になるはず
→「ホモ・ルーデンス」の世界は競技を始めた頃に僕が感じていた世界そのものだった
・遊びは真面目と共存しうる→何かに熱中すること
→遊びは遊び自体が目的で自主的であり義務感に弱い
→これまでの社会は人が淡々と作業をこなすことで産業が成り立ってきた
→今後はテクノロジーの発展で人の作業的部分は減っていく
(21世紀後半にはプロ・アスリートとプロ・アドベンチャーツアラー以外に肉体的労働で対価を得る人は、
ほとんどいなくなると、こちらの本にありましたね

→作業に遊び感は組み込みにくいがイノベーションやクリエイティビリティが大事な時代になる
→これらには遊び感が大きく影響してくる
→人間にしかできないことが求められるとしたら、遊びの五感的な直感と楽しい気持ちがヒント
・人間とは遊びたいもので、遊ぶことにより人間らしくなると思っている
・・・
いやあ、プロ・アスリートの世界なんて全く別世界と思ってましたが、大いに共感しました