2023年09月06日
卑弥呼とヤマト王権
とーとつですが・・・

卑弥呼とヤマト王権であります
表紙カバー裏にあった惹句

著者紹介と奥付

著者は同志社大学考古学研究室・森浩一氏の愛弟子から千葉市の学芸員を経て橿考研へ入所、
長年にわたる研究から纏向遺跡がヤマト王権最初の大王都で卑弥呼の居所であったことを
明らかにし、その研究成果を一般向けにまとめた・・・とゆー新刊本であります
例によって目次のご紹介



日本の古代史についてはまだ謎の部分も多く、鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本や、
日本人=ユダヤ人説をメインにした小説本など、専門の研究者から在野のアマチュアまで、
あらゆる異説が飛び交う世界で、わたくしの好きな世界のひとつなのでありますね
本書は邪馬台国・卑弥呼・ヤマト王権に関する長年の論争に、そろそろ決着をつけようと、
考古学の専門家が一般読者向きにまとめられた今話題の新刊ですが、いくら一般向きとはいえ
自説以外の紹介も含めた400頁以上もある本ですから、全てのメモなどできませんでした
なので、まずは「本書の構成の説明」があったプロローグ部分のてきとーメモ
・大衆化し作家も加わった1960年代後半からの第一次邪馬台国ブーム
・吉野ケ里遺跡の調査と保存にはじまった1980年代後半からの第二次邪馬台国ブーム
→1976年に橿考研に入って、先輩からは邪馬台国と卑弥呼には関わるなと言われていたが、
纏向調査を四半世紀も続けた頃に一般読者向けの「日本の歴史」第二巻「王権誕生」の執筆を
担当することになり、はじめて明確に関わった
→邪馬台国とは奈良盆地の東南部を占める狭義の「ヤマト国」であり、卑弥呼は纏向にいたと
・邪馬台国や卑弥呼をめぐる論争は文献学上の問題であり、遺跡や遺物からの叙述は難しい
→ただし独断による文献解釈を、部分的な考古学データで取り繕うのは本末転倒である
→考古学の知見で歴史像を組み立て文献との整合性を検証し状況証拠と理論的説得力を得る
→それで邪馬台国論争にも王手を突き付けることができるはず・・・
・本書の構成の説明
第一章
いまだに知名度の低い纏向遺跡について、その考古学的な特徴の数々の積み上げが「ヤマト王権」
の実体を明らかにすること、この遺跡が「ヤマト王権」最初の大王都であったことを紹介
第二章と第三章
ヤマト王権の誕生が、この国の国家形成史においてどのような意味を持つのかの整理
→日本という国家は7世紀末の飛鳥浄御原宮からだが、倭国はそれ以前から対外交渉していた
→第二章で、この国の国家の起源や出現を正しくとらえる
→第三章で、王権誕生への飛躍の胎動を考古学の資料にもとづいて再現する
第四章
ヤマト王権の誕生を主導した勢力の由来、その舞台裏を系譜論として考察する
→ヤマト王権は弥生時代の奈良盆地や畿内の権力構成が継続的・発展的に成長したものではない
→考古学的な事実から全く別のすがたであったことを系譜論で提出する
第五章と第六章
魏志倭人伝の卑弥呼共立や卑弥呼政権の状況を整理し、文献の解釈と考古学上の事実関係に
もとづく解釈との整合性を追う
→考古学上の合理的な枠組みと文献学上の解釈との許容範囲が重なるところに、はじめて
学問としての客観性を獲得することができる
→それで邪馬台国の位置や卑弥呼共立や卑弥呼政権の実体にも迫る
→最後に卑弥呼とヤマト王権の関係を明らかにし、これまでの邪馬台国論争に区切りをつける
→これが本のタイトルを「卑弥呼と邪馬台国」にせず「卑弥呼とヤマト王権」にした理由
で・・・
以下は(著者が先輩から関わるなと言われていた
)卑弥呼と邪馬台国に関する部分を中心に、
備忘のためランダムにメモした内容です
ますますてきとーで誤解もあるので、正しくは本書をお読み下さいね
・卑弥呼共立の舞台裏
→魏と呉の間にあった公孫氏にとって背後に位置する韓と倭は重要→帯方郡の設置
→公孫氏の外圧とイト国の失墜、部族国家間の牽制と閉塞状況→倭国乱から30年の空白
(倭国乱とは戦争状態ではなく大陸から見て国としての統一外交窓口がなかった状態)
→内部混乱と外部圧力から、イト国連合(イト倭国)・キビ国連合・イヅモ国連合による会盟
→ハリマ、サヌキ、アハ、イヨなど周辺の国も参加(明治維新の薩長同盟と似た感じ)
→祭祀的な女王の共立による倭国再編へ→新生倭国
・ヤマト国(邪馬台国)へ
→首都をイト国の三雲・井原からヤマト国(邪馬台国)の纏向へ(明治維新の東京遷都と似た感じ)
→それまでヤマト国の王都であった唐古・鍵にならなかったのは王権の権力構成でヤマト国の
比重がきわめて小さかったことと、新王都は新しい都市でなければならなかったことによる
(纏向川の扇状地には集落さえなかったのに忽然と出現した都)
→この遷都は現象面であり武力によるヤマト侵攻(東征論)ではない
→武力解決ではなく政治的駆け引きで解決した
→はじめての談合による日本型危機管理システムだった
→この古い伝承が神武東征神話として誇大に潤色されたことはありうる
・ヤマトに置かれた理由
→倭国の領域は3世紀前半では佐賀県から千葉県、後半では鹿児島県から山形県南部まで
→領域は面ではなくモザイク状で、造反勢力や王権とは無関係の社会も存在していた
→古墳も豊かな耕作地のある平野や盆地より、港市や河川や街道の付近など交通の要衝に多い
→地域勢力を線的にルートで押さえ関係強化することが王権にはきわめて重要だった
(やがてヤマト中心の律令国家形成の足がかりに)
→西日本の国家連合が西に睨みをきかせつつ東方進出できるヤマト国は最適位置だった
→ヤマト国は相対的に高い農業生産力と経済力、文化を持ちながら強力な部族国家がなかった
→大阪平野や京都盆地のような大規模開発できる空間も周辺にあった
→祭祀と神話の創出に最適な三輪山が纏向の東南にあった
→これが国つ神(土地神)統合神の象徴となる神奈備の山
・魏志倭人伝の卑弥呼と邪馬台国
・卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは一度も書かれていない
→倭王、倭女王、女王、女王国、倭国などの表現は複数あるが邪馬台国は一度だけで、
→「女王卑弥呼の都する所」(居所としている場所・国)を示しているにすぎない
→女王国は倭国(21国名)全体を指す場合と、女王国各国の地理的位置関係を示す場合がある
→「皆、女王国に統属す」の場合は卑弥呼の大王都の場所(ヤマト国=邪馬台国)を指す
→なので卑弥呼は倭国の女王であり邪馬台国の女王ではない
→邪馬台国とは新生倭国の大王都が置かれた国名(ヤマト国)の表現でしかない
→「東京都は日本国の首都で日本国の首相官邸は東京都にある」と同じ表現
→日本国の首相(卑弥呼)は東京都知事(ヤマト国=邪馬台国の王)ではないのと同じ
(ヤマト国の王(統治官)は倭国の官または副官がおそらく兼任していた)
・魏志倭人伝の城柵と楼観→卑弥呼の居所
→「宮室、楼観、城柵を厳かに設け・・・」の記載
→九州説では環濠集落の濠に付設する柵で纏向にはないとするが、文脈からは宮室の施設
→弥生時代中期後半から祭殿、巨大倉庫、首長居処の方形区画を囲む溝や柵、塀が作られ、
古墳時代には独立した首長館に発展する→卑弥呼の居処の城柵とは宮室などを囲むもの
→纏向遺跡の直線的な柱列(柵か塀)は、まさに倭人伝の城柵そのもの
→吉野ケ里遺跡の大規模建物跡が発掘され三階建てに復元され、楼観にも見立てられた
→楼は高層建物で復元が正しければクリアだが、観はマツリに際しカミが去来するシンボル塔
→唐古・鍵遺跡出土の大型壺に描かれた重層建物こそが楼観で、祭殿とともに建っていた
→岡山、鳥取出土の土器や福井県坂井市出土の銅鐸にも描かれている
→倭人伝が描く卑弥呼の宮殿の楼観は宮室(正殿)の付属的な建物で祭祀的機能を持つもの
→吉野ケ里遺跡で復元された建物は大きいが楼観の祭祀的機能を備えていたのか・・・
・魏志倭人伝の大倭と大率→新生倭国の支配機構(略)
→卑弥呼政権の地方支配が広域で、しかも整備されていたことが確認できる
→卑弥呼の邪馬台国が九州の小国でもかまわないとする九州説の根底を揺るがすもの
→王の名があるのは倭国の女王卑弥呼と女王に属さない狗奴国の卑弥弓呼(卑弓弥呼?)のみ
→部族国家の王は卑弥呼政権への参画によって国の統治官になったので官名のみ
→新生倭国の中枢に官が多いのは倭国の中枢とヤマト国(邪馬台国)の中枢の重層性による
→魏王朝の権威を背景に、鉄などの交易・航海権・流通機構を掌握しようと外交していた
・魏志倭人伝による卑弥呼の外交記述は当然に魏のみだが、最初の外交は公孫氏政権だった
→後漢末期の鉄刀が160年後に天理市東大寺山古墳(ヤマト国)に副葬されている(公孫氏経由?)
→卑弥呼の最初の魏への遣使は公孫氏滅亡の年(記述の誤りなら翌年)で極めて迅速
・魏志倭人伝・後漢東夷伝における倭国の地理的位置認識
→倭地(日本列島)は今の福建省福州市の東方海上にあり海南島の近くと考えられていた
→朝鮮半島から最初に到達する北九州から南へ伸びる列島と誤解していた(15世紀まで)
→倭国は大人口との誤解もあり呉の東南海上に位置する大国と認識していた
→呉・蜀と抗争する魏にとって、呉と倭が同盟することが懸念材料だった
→実際に238年、244年の銘を持つ呉の神獣鏡が、山梨と宝塚の古墳から出土している
→呉と倭の同盟を回避して君臣関係を結び、呉の背後を脅かすのが魏としては最善策だった
→いわゆる遠交近攻策
→なので外蕃の島国女王としては格段の親魏倭王の金印を授け軍事的なテコ入れまでした
(金印の真贋論争については、当時の中国製との結論がすでに出ている)
→卑弥呼政権には数世紀に渡る北部九州を中心とする外交ノウハウがあり戦略は的確迅速で
ただちに中華帝国の後ろ盾を取り付け、ヤマト王権は国家権力の整備を進めていく
・魏志倭人伝の銅鏡100枚=三角縁神獣鏡説について
→三角縁神獣鏡は中国の神獣鏡群を範型として日本で制作されたとみるほうが合理的
→古い古墳からは後漢式鏡のみで三角縁神獣鏡の出土はない
→卑弥呼に下賜された鏡なら1枚ぐらいあってもいいはず
→卑弥呼が下賜されたのは後漢式鏡が主体であったと考えているが決着はついていない
・長年にわたる纏向遺跡調査で畿内ヤマト説は確かな考古学的根拠を手にした
→だが畿内優越史観、ヤマト中心主義の先入観から、邪馬台国(ヤマト国)からヤマト王権への
発展を説明するため、邪馬台国連合なる発展段階を設定したストーリーが作り上げられた
→纏向のさらなる拡大が3世紀中頃から後葉における箸墓古墳の造営前後であったことは
否定しないが、3世紀はじめにこの遺跡が忽然と出現したことに比べれば小さな波に過ぎない
→纏向遺跡の出現から衰退までの3世紀史は時代区分としても国家体制としても分断できない
→纏向遺跡の出現こそ女王卑弥呼を擁する新たな倭国連合政権の誕生で古墳時代の幕開け
→二段階論からの「邪馬台国連合からヤマト政権へ」というフレーズが概説書や博物館の
展示解説で後を絶たないが、これは半世紀にわたる考古学の成果や研究蓄積を反故にする、
30年前のヤマト優越史観への回帰としか思えないが、はてさて読者の方々は・・・
・女王卑弥呼の実像
→自らの意志に関わりなく倭国王に祭り上げられ舵取りを担う、若く孤高な女性のイメージ
→神聖性だけでなく部族国家の世襲制王位継承から断ち切るための夫を持たない異常な選択
→卑弥呼の鬼道は初期道教の移入ではなく、高句麗・韓の「鬼神のマツリ」が参考となる(略)
→弥生時代の5月と10月の農耕のマツリでは大きな柱に銅鐸を吊るし、そのリズムで歌い踊る
→大きな柱は穀霊を招く標柱で、大地を踏み鳴らすのは地霊を奮い起こすため
(このあたりは鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本とは異なりますね)
→穀霊、地霊と共同体守護霊としての祖霊がマツリの根幹
→2世紀後半になると大きく変容する
→初期ヤマト政権のシンボルである纏向型前方後円墳の祭祀に引き継がれていく
→卑弥呼の祭祀はどの部族的国家祭祀の延長でもなく卑弥呼共立は宗教改革でもあった
→公孫氏との外交関係から道教思想がより整備されたかたちで取り入れられ前方後円墳という
この国独自の大王墓創出へつながったと理解したい
・ヒメ・ヒコ制と、卑弥呼と男弟の関係
→母系社会から父系社会へ移行し男系世襲王制が確立するまでの形態と考えられていた
→近年の文献史学では日本の古代社会は双系的とする見解が一般的
→考古学でも形質人類学による被葬者間の血縁関係の解明が進められている(略)
→3世紀から5世紀中頃までのキョウダイ同一墳墓はヒメ・ヒコ制と整合するようにも見える
→聖(祭祀)俗(政治軍事)の二重様相が現れた理由を聖俗二重王制とは異なる視点から考えるべき
→縄文時代は母親の確実性と父親の不確実性から女性優位だった
→弥生時代になると可耕地争奪が優先され出産は軽視、男性優位に
→女性性は祭祀の中で観念化され神秘化されていく
→魏志倭人伝による卑弥呼の男弟は執政を補佐する立場で聖俗分担の関係ではない
→卑弥呼の死後、男弟の擁立は部族王たちから猛反発され13歳の台与が共立される
→その後にヤマト王権が強力になり初代の男王が誕生(崇神?)
・卑弥呼の死と墓
→卑弥呼の死に関する魏志倭人伝の記述をめぐっては、さまざまな説があるが、(略)
→「墓の径は百余歩」とあり径144mの円墳になるが、日本最大の円墳は富雄丸山古墳で
径109mであり、しかも4世紀前葉の築造と推定される
→この規模の3世紀の古墳であれば前方後円墳と考えるのが自然のなりゆき
→箸墓古墳の築造は3世紀中葉とされ後円部の径は現在では165mとされる
→日本書紀の崇神紀にある箸墓に葬られた姫の伝承と卑弥呼の共通性
→同紀にある「大坂山(二上山北麓)から人々が並び石を運んだ」記述と宮内庁調査報告の一致
→これらから箸墓古墳=卑弥呼の墓は有力説だが、年代や墳型などに疑問点も多く残る
→もし箸墓古墳のような定形型前方後円墳ではなく石塚古墳・矢塚古墳・ホケノ山古墳のような
纏向型前方後円墳なら、どれも前方部が低く扁平で発掘調査までは円墳とされていたもの
→しかし、どれも後円部の径は60mほどしかなく魏志倭人伝の「径は百余歩」と合わない
→(魏志倭人伝には概数や誇張も多いが)これを実数として径を周壕を合わせた墓域とすれば、
(漢代から三国時代の中国では皇帝陵の規模は高さと兆域の広さで表すことが一般的だった)
石塚古墳・矢塚古墳の円域の径はほぼ百歩で、いずれも第一次大王宮の西方延長上にある
→今はいずれかが卑弥呼の墓と考えており、より大王宮に近い石塚古墳が第一候補
→土器類の評価に議論があり築造時期が確定していないが、埋葬までの時間幅の長さかも
(ホケノ山古墳はやや小さく副葬品から被葬者は男性の可能性が高いので除外)
・箸墓古墳の被葬者
→卑弥呼説、台与説が有力だが台与の後の男王説も考えている
→魏志倭人伝は台与で終わるが晋書武帝記や梁書諸夷伝には使者を送った男王の記述がある
→この男王を崇神に比定しヤマト王権最初の大王とする説→箸墓古墳の被葬者は崇神説
→文献上の男王系譜とは整合的だが、上記の姫の箸墓伝承とは合わない
→明らかになった築造年代からは男王の治世が短かったことになり決定打はまだない
・魏志倭人伝の邪馬台国が畿内ヤマトに比定されるなら投馬国と狗奴国の位置は・・・
→倭地(日本列島)は南北に長いと考えられていたから南を東に読み替える
→投馬国は不弥国(正確な位置には諸説あるが北部九州)から水行20日で沿岸航行なら340km
→日本海ルートではイヅモ、瀬戸内海ルートではキビになり、どちらも出土品から有力候補
→イヅモ説なら邪馬台国へ水行10日陸行1月で、水行10日を按分すれば鳥取・兵庫・京都に
陸行への中継点などの遺跡が残っており、船団や準構造船を描いた板材も出土している
→キビ説なら水行10日は陸伝い島伝いで、やはり各港津などに弥生時代後期の遺跡が残る
→旧イト倭国と新生倭国の中間点に位置する大国としてはキビがふさわしいのだが・・・
→卑弥呼共立に同調しなかった狗奴国は倭国と不和で邪馬台国(ヤマト国)との不和ではない
→狗奴国は新生倭国の南方(実際は東方)に位置する国との記述
→邪馬台国九州説では狗奴はクマ、クマソで熊本平野、球磨川の人吉盆地など
→畿内ヤマト説では熊野、駿河、関東など
→いずれも新生倭国と対抗できるほどの勢力はないので狗奴国ではないと考える
→最近では遺物や古墳から伊勢湾沿岸部や濃尾平野一帯が有力視されている(略)
・台与政権の実像(略)
・記紀の記載
→日本書紀の崇神紀には神武紀などにはない政治や軍事、経済などの時事が記載されている
→古事記にも「初国知らしし(崇神)・・・」とある
→第10代崇神が実在する初代の天皇とすれば崇神、垂仁、景行の初代三代の宮が纏向に造営
されたという記紀の記載が、纏向遺跡の大王宮の特徴と重なる
→ヤマト王権最初の男王のイメージが崇神に託され伝承と記録が崇神紀に集約されたのでは
・三輪山祭祀の成立
→崇神紀にある祭祀は大王宮で行われていたが纏向は3世紀末から4世紀初めに衰退した
→ちょうどその頃に三輪山西麓で三輪山の神を祭る祭祀が始まっている
→大神神社の祭神は(倭)大物主神だが、(出雲)大国主神と同神ともされる
→崇神紀の天照大神と倭大国魂神の分祀説話(略)
→天皇に祟る三輪山の神はヤマト王権に参加服属した地域神の統合神と考えられる
→出雲神と王権の対峙は記紀以外の文献にも見られる
→王権が制圧して取り込むべき神格として描かれている
・魏志倭人伝と記紀
→記紀には3~4世紀の記憶が伝承されモチーフになっているが歴史年表にはならない
→魏志倭人伝は暦年代が明らかで(民俗の信憑性はともかく)史書としての信頼度は高い
→ただし記紀にも3世紀の纏向王権時代の考古学的な事実と一致する記載もある(略)
→記紀は3~4世紀の伝承と記録が後の修史作業で三代天皇と神功皇后の事績に集約されたもの
・政権の安定期から分立期へ(略)
→ヤマト王権は朝鮮半島の部族的国家群との外交ルートを対馬→壱岐→伊都ルートから、
ヤマト→瀬戸内海→関門海峡→朝鮮半島ルートに変更し、コース上の孤島である沖ノ島で
境界祭祀をはじめ、これは10世紀前半まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の倭系祭祀は3世紀後半にはじまり6世紀まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の栄山川流域では十数基の前方後円墳が確認されており、部族的国家群の中に
ヤマト王権との政治関係を模索した王たちがいたことがわかる
→国内でも4世紀の大型前方後円墳の分布をみると王権の新たなパートナーが浮かび上がり、
それらは鉄や馬の生産地や潟湖・港市とも重なる
・飛鳥・奈良時代の17代のうち8代が女帝→他の時代には少ないのになぜ集中したか
→中継ぎとかではなく内政・外政の混乱期・緊張期に出現している
→卑弥呼共立も、これらの女帝擁立の時代背景と似ている
→政治的均衡と女性性による危機克服、王権伸張への期待による擁立
・エピローグ部分より(まとめ?)
1 国家の第二段階である王国の誕生こそヤマト王権の成立であり初代大王が卑弥呼という結論
→卑弥呼政権とヤマト王権は別物とする邪馬台国九州説や文献学的方法第一主義の諸説や、
卑弥呼政権からヤマト王権へ段階発展したという畿内ヤマト説(東遷説も時間関係は同じ)などは、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が、4世紀ではなく約100年(箸墓古墳からとしても約50年)
さかのぼることが明らかになっても、過去の年代観に固執したまま
(正しい年代にすると自説の修復が不可能になるから)
→疑義のある自然科学的年代決定と私の考古学的年代決定には、まだ2~30年の隔たりがあるが、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が4世紀以降とする邪馬台国論は議論の起点を誤っている
→批判や反批判は、まず同じ土俵に立つ者からはじめるのが正しい方法
→中国のどの史書にも卑弥呼が邪馬台国の女王とは書かれておらず、確実なのは倭の女王、
倭国女王で、邪馬台国(ヤマト国)とは倭国のヤマト王権が置かれた場所(国名)でしかない
→なので邪馬台国という倭国の一部族的国家に拘泥した議論はそろそろやめよう
2 倭国乱を乗り越えるために戦争という外的国家意思の発動ではなく、一国だけの独走でもなく、
各国が壮大な政治的談合(会同)を重ねた結論として卑弥呼共立がなされたという記述が重要
→談合や根回しにはマイナスイメージがあるが、Us vs. Them(我々か、あいつらか)の対立が
世界各地で噴出し奔流となっている21世紀の今こそ、談合とか根回しが、国際社会における
課題を解決する最も平和的な手段であるように思える
3 卑弥呼はヤマト王権最初の大王なので古代大王(天皇)系列の初代は女性ということになり、
その女性は会同によって共立されたということになる→皇室典範の議論にも新たな視野
4 ヤマト王権の象徴である前方後円墳祭祀の本質は首長霊の継承儀礼
→卑弥呼の鬼道とも関係の深い太陽(日神)祭祀で女性性観念、大嘗祭とも深く関わる問題
・・・
本章からのメモは五章と六章の一部だけですが、ともかく読みごたえのある本でした
写真や図表も多く分かりやすいので古代史に興味のある方には(意見の相違はあるとしても)
一読の価値のある労作だと思いました

卑弥呼とヤマト王権であります
表紙カバー裏にあった惹句

著者紹介と奥付

著者は同志社大学考古学研究室・森浩一氏の愛弟子から千葉市の学芸員を経て橿考研へ入所、
長年にわたる研究から纏向遺跡がヤマト王権最初の大王都で卑弥呼の居所であったことを
明らかにし、その研究成果を一般向けにまとめた・・・とゆー新刊本であります
例によって目次のご紹介



日本の古代史についてはまだ謎の部分も多く、鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本や、
日本人=ユダヤ人説をメインにした小説本など、専門の研究者から在野のアマチュアまで、
あらゆる異説が飛び交う世界で、わたくしの好きな世界のひとつなのでありますね

本書は邪馬台国・卑弥呼・ヤマト王権に関する長年の論争に、そろそろ決着をつけようと、
考古学の専門家が一般読者向きにまとめられた今話題の新刊ですが、いくら一般向きとはいえ
自説以外の紹介も含めた400頁以上もある本ですから、全てのメモなどできませんでした
なので、まずは「本書の構成の説明」があったプロローグ部分のてきとーメモ
・大衆化し作家も加わった1960年代後半からの第一次邪馬台国ブーム
・吉野ケ里遺跡の調査と保存にはじまった1980年代後半からの第二次邪馬台国ブーム
→1976年に橿考研に入って、先輩からは邪馬台国と卑弥呼には関わるなと言われていたが、
纏向調査を四半世紀も続けた頃に一般読者向けの「日本の歴史」第二巻「王権誕生」の執筆を
担当することになり、はじめて明確に関わった
→邪馬台国とは奈良盆地の東南部を占める狭義の「ヤマト国」であり、卑弥呼は纏向にいたと
・邪馬台国や卑弥呼をめぐる論争は文献学上の問題であり、遺跡や遺物からの叙述は難しい
→ただし独断による文献解釈を、部分的な考古学データで取り繕うのは本末転倒である
→考古学の知見で歴史像を組み立て文献との整合性を検証し状況証拠と理論的説得力を得る
→それで邪馬台国論争にも王手を突き付けることができるはず・・・
・本書の構成の説明
第一章
いまだに知名度の低い纏向遺跡について、その考古学的な特徴の数々の積み上げが「ヤマト王権」
の実体を明らかにすること、この遺跡が「ヤマト王権」最初の大王都であったことを紹介
第二章と第三章
ヤマト王権の誕生が、この国の国家形成史においてどのような意味を持つのかの整理
→日本という国家は7世紀末の飛鳥浄御原宮からだが、倭国はそれ以前から対外交渉していた
→第二章で、この国の国家の起源や出現を正しくとらえる
→第三章で、王権誕生への飛躍の胎動を考古学の資料にもとづいて再現する
第四章
ヤマト王権の誕生を主導した勢力の由来、その舞台裏を系譜論として考察する
→ヤマト王権は弥生時代の奈良盆地や畿内の権力構成が継続的・発展的に成長したものではない
→考古学的な事実から全く別のすがたであったことを系譜論で提出する
第五章と第六章
魏志倭人伝の卑弥呼共立や卑弥呼政権の状況を整理し、文献の解釈と考古学上の事実関係に
もとづく解釈との整合性を追う
→考古学上の合理的な枠組みと文献学上の解釈との許容範囲が重なるところに、はじめて
学問としての客観性を獲得することができる
→それで邪馬台国の位置や卑弥呼共立や卑弥呼政権の実体にも迫る
→最後に卑弥呼とヤマト王権の関係を明らかにし、これまでの邪馬台国論争に区切りをつける
→これが本のタイトルを「卑弥呼と邪馬台国」にせず「卑弥呼とヤマト王権」にした理由
で・・・
以下は(著者が先輩から関わるなと言われていた

備忘のためランダムにメモした内容です
ますますてきとーで誤解もあるので、正しくは本書をお読み下さいね
・卑弥呼共立の舞台裏
→魏と呉の間にあった公孫氏にとって背後に位置する韓と倭は重要→帯方郡の設置
→公孫氏の外圧とイト国の失墜、部族国家間の牽制と閉塞状況→倭国乱から30年の空白
(倭国乱とは戦争状態ではなく大陸から見て国としての統一外交窓口がなかった状態)
→内部混乱と外部圧力から、イト国連合(イト倭国)・キビ国連合・イヅモ国連合による会盟
→ハリマ、サヌキ、アハ、イヨなど周辺の国も参加(明治維新の薩長同盟と似た感じ)
→祭祀的な女王の共立による倭国再編へ→新生倭国
・ヤマト国(邪馬台国)へ
→首都をイト国の三雲・井原からヤマト国(邪馬台国)の纏向へ(明治維新の東京遷都と似た感じ)
→それまでヤマト国の王都であった唐古・鍵にならなかったのは王権の権力構成でヤマト国の
比重がきわめて小さかったことと、新王都は新しい都市でなければならなかったことによる
(纏向川の扇状地には集落さえなかったのに忽然と出現した都)
→この遷都は現象面であり武力によるヤマト侵攻(東征論)ではない
→武力解決ではなく政治的駆け引きで解決した
→はじめての談合による日本型危機管理システムだった
→この古い伝承が神武東征神話として誇大に潤色されたことはありうる
・ヤマトに置かれた理由
→倭国の領域は3世紀前半では佐賀県から千葉県、後半では鹿児島県から山形県南部まで
→領域は面ではなくモザイク状で、造反勢力や王権とは無関係の社会も存在していた
→古墳も豊かな耕作地のある平野や盆地より、港市や河川や街道の付近など交通の要衝に多い
→地域勢力を線的にルートで押さえ関係強化することが王権にはきわめて重要だった
(やがてヤマト中心の律令国家形成の足がかりに)
→西日本の国家連合が西に睨みをきかせつつ東方進出できるヤマト国は最適位置だった
→ヤマト国は相対的に高い農業生産力と経済力、文化を持ちながら強力な部族国家がなかった
→大阪平野や京都盆地のような大規模開発できる空間も周辺にあった
→祭祀と神話の創出に最適な三輪山が纏向の東南にあった
→これが国つ神(土地神)統合神の象徴となる神奈備の山
・魏志倭人伝の卑弥呼と邪馬台国
・卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは一度も書かれていない
→倭王、倭女王、女王、女王国、倭国などの表現は複数あるが邪馬台国は一度だけで、
→「女王卑弥呼の都する所」(居所としている場所・国)を示しているにすぎない
→女王国は倭国(21国名)全体を指す場合と、女王国各国の地理的位置関係を示す場合がある
→「皆、女王国に統属す」の場合は卑弥呼の大王都の場所(ヤマト国=邪馬台国)を指す
→なので卑弥呼は倭国の女王であり邪馬台国の女王ではない
→邪馬台国とは新生倭国の大王都が置かれた国名(ヤマト国)の表現でしかない
→「東京都は日本国の首都で日本国の首相官邸は東京都にある」と同じ表現
→日本国の首相(卑弥呼)は東京都知事(ヤマト国=邪馬台国の王)ではないのと同じ
(ヤマト国の王(統治官)は倭国の官または副官がおそらく兼任していた)
・魏志倭人伝の城柵と楼観→卑弥呼の居所
→「宮室、楼観、城柵を厳かに設け・・・」の記載
→九州説では環濠集落の濠に付設する柵で纏向にはないとするが、文脈からは宮室の施設
→弥生時代中期後半から祭殿、巨大倉庫、首長居処の方形区画を囲む溝や柵、塀が作られ、
古墳時代には独立した首長館に発展する→卑弥呼の居処の城柵とは宮室などを囲むもの
→纏向遺跡の直線的な柱列(柵か塀)は、まさに倭人伝の城柵そのもの
→吉野ケ里遺跡の大規模建物跡が発掘され三階建てに復元され、楼観にも見立てられた
→楼は高層建物で復元が正しければクリアだが、観はマツリに際しカミが去来するシンボル塔
→唐古・鍵遺跡出土の大型壺に描かれた重層建物こそが楼観で、祭殿とともに建っていた
→岡山、鳥取出土の土器や福井県坂井市出土の銅鐸にも描かれている
→倭人伝が描く卑弥呼の宮殿の楼観は宮室(正殿)の付属的な建物で祭祀的機能を持つもの
→吉野ケ里遺跡で復元された建物は大きいが楼観の祭祀的機能を備えていたのか・・・
・魏志倭人伝の大倭と大率→新生倭国の支配機構(略)
→卑弥呼政権の地方支配が広域で、しかも整備されていたことが確認できる
→卑弥呼の邪馬台国が九州の小国でもかまわないとする九州説の根底を揺るがすもの
→王の名があるのは倭国の女王卑弥呼と女王に属さない狗奴国の卑弥弓呼(卑弓弥呼?)のみ
→部族国家の王は卑弥呼政権への参画によって国の統治官になったので官名のみ
→新生倭国の中枢に官が多いのは倭国の中枢とヤマト国(邪馬台国)の中枢の重層性による
→魏王朝の権威を背景に、鉄などの交易・航海権・流通機構を掌握しようと外交していた
・魏志倭人伝による卑弥呼の外交記述は当然に魏のみだが、最初の外交は公孫氏政権だった
→後漢末期の鉄刀が160年後に天理市東大寺山古墳(ヤマト国)に副葬されている(公孫氏経由?)
→卑弥呼の最初の魏への遣使は公孫氏滅亡の年(記述の誤りなら翌年)で極めて迅速
・魏志倭人伝・後漢東夷伝における倭国の地理的位置認識
→倭地(日本列島)は今の福建省福州市の東方海上にあり海南島の近くと考えられていた
→朝鮮半島から最初に到達する北九州から南へ伸びる列島と誤解していた(15世紀まで)
→倭国は大人口との誤解もあり呉の東南海上に位置する大国と認識していた
→呉・蜀と抗争する魏にとって、呉と倭が同盟することが懸念材料だった
→実際に238年、244年の銘を持つ呉の神獣鏡が、山梨と宝塚の古墳から出土している
→呉と倭の同盟を回避して君臣関係を結び、呉の背後を脅かすのが魏としては最善策だった
→いわゆる遠交近攻策
→なので外蕃の島国女王としては格段の親魏倭王の金印を授け軍事的なテコ入れまでした
(金印の真贋論争については、当時の中国製との結論がすでに出ている)
→卑弥呼政権には数世紀に渡る北部九州を中心とする外交ノウハウがあり戦略は的確迅速で
ただちに中華帝国の後ろ盾を取り付け、ヤマト王権は国家権力の整備を進めていく
・魏志倭人伝の銅鏡100枚=三角縁神獣鏡説について
→三角縁神獣鏡は中国の神獣鏡群を範型として日本で制作されたとみるほうが合理的
→古い古墳からは後漢式鏡のみで三角縁神獣鏡の出土はない
→卑弥呼に下賜された鏡なら1枚ぐらいあってもいいはず
→卑弥呼が下賜されたのは後漢式鏡が主体であったと考えているが決着はついていない
・長年にわたる纏向遺跡調査で畿内ヤマト説は確かな考古学的根拠を手にした
→だが畿内優越史観、ヤマト中心主義の先入観から、邪馬台国(ヤマト国)からヤマト王権への
発展を説明するため、邪馬台国連合なる発展段階を設定したストーリーが作り上げられた
→纏向のさらなる拡大が3世紀中頃から後葉における箸墓古墳の造営前後であったことは
否定しないが、3世紀はじめにこの遺跡が忽然と出現したことに比べれば小さな波に過ぎない
→纏向遺跡の出現から衰退までの3世紀史は時代区分としても国家体制としても分断できない
→纏向遺跡の出現こそ女王卑弥呼を擁する新たな倭国連合政権の誕生で古墳時代の幕開け
→二段階論からの「邪馬台国連合からヤマト政権へ」というフレーズが概説書や博物館の
展示解説で後を絶たないが、これは半世紀にわたる考古学の成果や研究蓄積を反故にする、
30年前のヤマト優越史観への回帰としか思えないが、はてさて読者の方々は・・・
・女王卑弥呼の実像
→自らの意志に関わりなく倭国王に祭り上げられ舵取りを担う、若く孤高な女性のイメージ
→神聖性だけでなく部族国家の世襲制王位継承から断ち切るための夫を持たない異常な選択
→卑弥呼の鬼道は初期道教の移入ではなく、高句麗・韓の「鬼神のマツリ」が参考となる(略)
→弥生時代の5月と10月の農耕のマツリでは大きな柱に銅鐸を吊るし、そのリズムで歌い踊る
→大きな柱は穀霊を招く標柱で、大地を踏み鳴らすのは地霊を奮い起こすため
(このあたりは鉄にまつわる神話や神事から解き明かす本とは異なりますね)
→穀霊、地霊と共同体守護霊としての祖霊がマツリの根幹
→2世紀後半になると大きく変容する
→初期ヤマト政権のシンボルである纏向型前方後円墳の祭祀に引き継がれていく
→卑弥呼の祭祀はどの部族的国家祭祀の延長でもなく卑弥呼共立は宗教改革でもあった
→公孫氏との外交関係から道教思想がより整備されたかたちで取り入れられ前方後円墳という
この国独自の大王墓創出へつながったと理解したい
・ヒメ・ヒコ制と、卑弥呼と男弟の関係
→母系社会から父系社会へ移行し男系世襲王制が確立するまでの形態と考えられていた
→近年の文献史学では日本の古代社会は双系的とする見解が一般的
→考古学でも形質人類学による被葬者間の血縁関係の解明が進められている(略)
→3世紀から5世紀中頃までのキョウダイ同一墳墓はヒメ・ヒコ制と整合するようにも見える
→聖(祭祀)俗(政治軍事)の二重様相が現れた理由を聖俗二重王制とは異なる視点から考えるべき
→縄文時代は母親の確実性と父親の不確実性から女性優位だった
→弥生時代になると可耕地争奪が優先され出産は軽視、男性優位に
→女性性は祭祀の中で観念化され神秘化されていく
→魏志倭人伝による卑弥呼の男弟は執政を補佐する立場で聖俗分担の関係ではない
→卑弥呼の死後、男弟の擁立は部族王たちから猛反発され13歳の台与が共立される
→その後にヤマト王権が強力になり初代の男王が誕生(崇神?)
・卑弥呼の死と墓
→卑弥呼の死に関する魏志倭人伝の記述をめぐっては、さまざまな説があるが、(略)
→「墓の径は百余歩」とあり径144mの円墳になるが、日本最大の円墳は富雄丸山古墳で
径109mであり、しかも4世紀前葉の築造と推定される
→この規模の3世紀の古墳であれば前方後円墳と考えるのが自然のなりゆき
→箸墓古墳の築造は3世紀中葉とされ後円部の径は現在では165mとされる
→日本書紀の崇神紀にある箸墓に葬られた姫の伝承と卑弥呼の共通性
→同紀にある「大坂山(二上山北麓)から人々が並び石を運んだ」記述と宮内庁調査報告の一致
→これらから箸墓古墳=卑弥呼の墓は有力説だが、年代や墳型などに疑問点も多く残る
→もし箸墓古墳のような定形型前方後円墳ではなく石塚古墳・矢塚古墳・ホケノ山古墳のような
纏向型前方後円墳なら、どれも前方部が低く扁平で発掘調査までは円墳とされていたもの
→しかし、どれも後円部の径は60mほどしかなく魏志倭人伝の「径は百余歩」と合わない
→(魏志倭人伝には概数や誇張も多いが)これを実数として径を周壕を合わせた墓域とすれば、
(漢代から三国時代の中国では皇帝陵の規模は高さと兆域の広さで表すことが一般的だった)
石塚古墳・矢塚古墳の円域の径はほぼ百歩で、いずれも第一次大王宮の西方延長上にある
→今はいずれかが卑弥呼の墓と考えており、より大王宮に近い石塚古墳が第一候補
→土器類の評価に議論があり築造時期が確定していないが、埋葬までの時間幅の長さかも
(ホケノ山古墳はやや小さく副葬品から被葬者は男性の可能性が高いので除外)
・箸墓古墳の被葬者
→卑弥呼説、台与説が有力だが台与の後の男王説も考えている
→魏志倭人伝は台与で終わるが晋書武帝記や梁書諸夷伝には使者を送った男王の記述がある
→この男王を崇神に比定しヤマト王権最初の大王とする説→箸墓古墳の被葬者は崇神説
→文献上の男王系譜とは整合的だが、上記の姫の箸墓伝承とは合わない
→明らかになった築造年代からは男王の治世が短かったことになり決定打はまだない
・魏志倭人伝の邪馬台国が畿内ヤマトに比定されるなら投馬国と狗奴国の位置は・・・
→倭地(日本列島)は南北に長いと考えられていたから南を東に読み替える
→投馬国は不弥国(正確な位置には諸説あるが北部九州)から水行20日で沿岸航行なら340km
→日本海ルートではイヅモ、瀬戸内海ルートではキビになり、どちらも出土品から有力候補
→イヅモ説なら邪馬台国へ水行10日陸行1月で、水行10日を按分すれば鳥取・兵庫・京都に
陸行への中継点などの遺跡が残っており、船団や準構造船を描いた板材も出土している
→キビ説なら水行10日は陸伝い島伝いで、やはり各港津などに弥生時代後期の遺跡が残る
→旧イト倭国と新生倭国の中間点に位置する大国としてはキビがふさわしいのだが・・・
→卑弥呼共立に同調しなかった狗奴国は倭国と不和で邪馬台国(ヤマト国)との不和ではない
→狗奴国は新生倭国の南方(実際は東方)に位置する国との記述
→邪馬台国九州説では狗奴はクマ、クマソで熊本平野、球磨川の人吉盆地など
→畿内ヤマト説では熊野、駿河、関東など
→いずれも新生倭国と対抗できるほどの勢力はないので狗奴国ではないと考える
→最近では遺物や古墳から伊勢湾沿岸部や濃尾平野一帯が有力視されている(略)
・台与政権の実像(略)
・記紀の記載
→日本書紀の崇神紀には神武紀などにはない政治や軍事、経済などの時事が記載されている
→古事記にも「初国知らしし(崇神)・・・」とある
→第10代崇神が実在する初代の天皇とすれば崇神、垂仁、景行の初代三代の宮が纏向に造営
されたという記紀の記載が、纏向遺跡の大王宮の特徴と重なる
→ヤマト王権最初の男王のイメージが崇神に託され伝承と記録が崇神紀に集約されたのでは
・三輪山祭祀の成立
→崇神紀にある祭祀は大王宮で行われていたが纏向は3世紀末から4世紀初めに衰退した
→ちょうどその頃に三輪山西麓で三輪山の神を祭る祭祀が始まっている
→大神神社の祭神は(倭)大物主神だが、(出雲)大国主神と同神ともされる
→崇神紀の天照大神と倭大国魂神の分祀説話(略)
→天皇に祟る三輪山の神はヤマト王権に参加服属した地域神の統合神と考えられる
→出雲神と王権の対峙は記紀以外の文献にも見られる
→王権が制圧して取り込むべき神格として描かれている
・魏志倭人伝と記紀
→記紀には3~4世紀の記憶が伝承されモチーフになっているが歴史年表にはならない
→魏志倭人伝は暦年代が明らかで(民俗の信憑性はともかく)史書としての信頼度は高い
→ただし記紀にも3世紀の纏向王権時代の考古学的な事実と一致する記載もある(略)
→記紀は3~4世紀の伝承と記録が後の修史作業で三代天皇と神功皇后の事績に集約されたもの
・政権の安定期から分立期へ(略)
→ヤマト王権は朝鮮半島の部族的国家群との外交ルートを対馬→壱岐→伊都ルートから、
ヤマト→瀬戸内海→関門海峡→朝鮮半島ルートに変更し、コース上の孤島である沖ノ島で
境界祭祀をはじめ、これは10世紀前半まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の倭系祭祀は3世紀後半にはじまり6世紀まで続いた(遺物より)
→朝鮮半島の栄山川流域では十数基の前方後円墳が確認されており、部族的国家群の中に
ヤマト王権との政治関係を模索した王たちがいたことがわかる
→国内でも4世紀の大型前方後円墳の分布をみると王権の新たなパートナーが浮かび上がり、
それらは鉄や馬の生産地や潟湖・港市とも重なる
・飛鳥・奈良時代の17代のうち8代が女帝→他の時代には少ないのになぜ集中したか
→中継ぎとかではなく内政・外政の混乱期・緊張期に出現している
→卑弥呼共立も、これらの女帝擁立の時代背景と似ている
→政治的均衡と女性性による危機克服、王権伸張への期待による擁立
・エピローグ部分より(まとめ?)
1 国家の第二段階である王国の誕生こそヤマト王権の成立であり初代大王が卑弥呼という結論
→卑弥呼政権とヤマト王権は別物とする邪馬台国九州説や文献学的方法第一主義の諸説や、
卑弥呼政権からヤマト王権へ段階発展したという畿内ヤマト説(東遷説も時間関係は同じ)などは、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が、4世紀ではなく約100年(箸墓古墳からとしても約50年)
さかのぼることが明らかになっても、過去の年代観に固執したまま
(正しい年代にすると自説の修復が不可能になるから)
→疑義のある自然科学的年代決定と私の考古学的年代決定には、まだ2~30年の隔たりがあるが、
纏向遺跡の成行期・古墳時代開始が4世紀以降とする邪馬台国論は議論の起点を誤っている
→批判や反批判は、まず同じ土俵に立つ者からはじめるのが正しい方法
→中国のどの史書にも卑弥呼が邪馬台国の女王とは書かれておらず、確実なのは倭の女王、
倭国女王で、邪馬台国(ヤマト国)とは倭国のヤマト王権が置かれた場所(国名)でしかない
→なので邪馬台国という倭国の一部族的国家に拘泥した議論はそろそろやめよう
2 倭国乱を乗り越えるために戦争という外的国家意思の発動ではなく、一国だけの独走でもなく、
各国が壮大な政治的談合(会同)を重ねた結論として卑弥呼共立がなされたという記述が重要
→談合や根回しにはマイナスイメージがあるが、Us vs. Them(我々か、あいつらか)の対立が
世界各地で噴出し奔流となっている21世紀の今こそ、談合とか根回しが、国際社会における
課題を解決する最も平和的な手段であるように思える
3 卑弥呼はヤマト王権最初の大王なので古代大王(天皇)系列の初代は女性ということになり、
その女性は会同によって共立されたということになる→皇室典範の議論にも新たな視野
4 ヤマト王権の象徴である前方後円墳祭祀の本質は首長霊の継承儀礼
→卑弥呼の鬼道とも関係の深い太陽(日神)祭祀で女性性観念、大嘗祭とも深く関わる問題
・・・
本章からのメモは五章と六章の一部だけですが、ともかく読みごたえのある本でした
写真や図表も多く分かりやすいので古代史に興味のある方には(意見の相違はあるとしても)
一読の価値のある労作だと思いました