2023年09月12日
住吉公園と住吉さんと謎の・・・
とーとつですが・・・
前回記事のヤマト王権とも関連がある・・・かも知れない・・・
「住吉公園と住吉さん~住吉大社から生まれて150年~」のご紹介であります
今回は読後メモだけでなく綿密な?現地調査も行い、本邦初公開かもの貴重な画像?も撮影、
謎についても記事の末尾に掲載してますので、ぜひ最後までご覧くださいね
本の表紙

奥付

今月7日の発行、まさに最新刊であります
執筆者一覧

例によって目次のみの紹介


目次が住吉大社の太鼓橋になってました
以下、わたくしが興味を持った部分のランダムなメモで、(カッコ内)は感想なり補足です
・明治6年(1873年)1月の太政官府達(3府へ)により8月に住吉大社の全域を公園地に指定
→9月に規則を制定して開設(12月には浜寺公園も開設)→大阪府で最初の公園となった
→明治8年10月には境内地、民有地、公園地に分けられた
・住吉大社周辺は江戸時代から紀州街道沿いに料亭が並ぶ繁華街だったが、明治時代になり
移動手段が駕籠から鉄道や人力車になって街道沿いは衰退、逆に公園内が有楽地になった
→温泉(潮湯)旅館、茶店、料理茶屋、料亭などが75軒もひしめく大歓楽街に・・・
(もともと住吉あたりの海岸は潮干狩の名所でもありアウトドア宴会や舟遊び、住吉大社への
参詣名目でインドア宴会を楽しむ、関西の大リゾート地だったのでありますね
)
・公園内に仲居、芸妓、ヤトナなどが出入りして風紀が大いに乱れた
→大正11年(1922年)には公園の隣接地に芸妓指定地を定めた
→大正13年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えた
→大正11年に公園の西側に住𠮷新地が指定され、昭和9年には芸妓指定地からも移転した
→その後、住𠮷新地は戦災を経て再開したが昭和33年に(売春防止法施行・赤線廃止により)
花街としての活動は消滅した
(わたくしが小学生の頃の住𠮷新地には、いかにも遊郭らしい雰囲気を残した木造建物が、
ビジネス旅館などになってはいたものの、まだまだ残ってました)
・明治18年(1885年)に阪堺鉄道(現・南海本線)が開通した
→開業当初は難波から大和川の北岸までの蒸気機関車による運行
→開業当初の停車場は難波・天下茶屋・住吉・大和川の4駅
→蒸気機関車の駅間は8km以上が効率的だったが沿線に人口が多く3km程度にした
→それでも不便だったので電化後は次々と駅が追加され、新しい粉浜駅と住吉公園駅の
中間にあった、開業当初の住吉駅は1917年に廃止された
(この100年前に廃止された住吉駅の痕跡を今回探りました)
(住吉公園駅は1979年に住吉大社駅に名称変更したけど昔は公園がメインだったんですね)
・住之江公園との関係
→大正9年(1920年)東京市から和歌山に至る国道(1号線経由)が路線認定される
(当初の路線名は国道16号線で後に国道26号線に名称変更)
→住吉公園が南海と国道で3つに分断されるので分断部分を払下げ、その資金も使って
新公園を建設し、その間を公園道路で結ぶことに
→住之江公園は昭和5年(1930年)に竣工したが公園道路は当初は高燈籠までだった
(この道路の園内部分を材木川と思い込んでたのを今回、現地で確認した次第です)
(住之江公園まで今は普通の道路で、替わりに?細井川・住吉川の一部が遊歩道になり、
本来の公園道路から住之江公園へ渡る橋だけが人道橋になってますね)
・住吉公園の児童遊園
→戦時中は高射砲陣地、鉄類回収、農園化、樹木の燃料化などで荒廃した
→戦後に電気自転車・電気自動車・メリーパーク・メリーロード・オーシャンウェーブなど
当時の日本では考えられない遊具が整備されており米駐留軍の関与が考えられるが詳細は不明
(このオーシャンウェーブ、三角錐のジャングルジムのようなものが中央の鉄塔に吊るして
ある感じの画像がありましたが、わたくしがよく覚えてるのは同じ位置にあった後継機種で、
球体のジャングルジムが中央鉄塔を芯にして、けっこう高速回転するタイプでした
中に乗るか、外で漕ぐ(回す)か、一人なら外で漕いでから乗り込むのですが、数人でめいっぱい
漕ぐ(回す)と、外で鉄棒に掴まってると身体が水平になって、やがて遠くへ飛ばされるし、
中に乗ってても、やがては放り出されるので、どこまで耐えられるかを競い合うとゆー、
まるで宇宙飛行士の訓練のような、低学年には極めて危険な遊具でした
)
・住吉の松
→古来の歌学では「住吉の松」は歌枕とされ神聖視されていた
→古来の絵画では白砂青松風景は「住吉模様」と呼ばれ日本の風景の原型とされた
→「あられ松原」は上町台地沿いの海岸線の松林
→「住吉の岸の姫松」は和歌や文学の世界で神格化された
→姫松一帯は住吉大社の飛地境内として保存されていたが明治以降に南部は民有地になり、
北部は保安林→クボタ創業家の邸宅→晴明丘南小学校になっている地域
→一帯の東端に上町線「姫松」停留所が設けられ住吉高校前などにも痕跡が残る
・住吉太神宮秘記(中世の説話で記紀とは異なる住吉大神の鎮座伝承)
→10代崇神天皇が「津守の浦に天より光が射す」夢を見て使者を遣わして確認したところ、
一晩のうちに松が三本生えており、これこそ住吉大神の降臨した松であると神木として崇めた
→影向(ようごう)の松、相生の松→松への憧憬と住吉信仰→謡曲高砂などへ
・上町線「神ノ木」停留所も神職の祖先を祀った神木の老松に由来している
・平安時代には天満砂州ができ松も生えたが平安前期までは「浜」ではなく「岸」だった
→すみのえの岸による波よるさへや→上町台地の古代の崖にふさわしい表現
→新古今集など鎌倉時代に近づくと「浜」の歌ばかりになる
・難波津からは難波大道、磯歯津道を経て、住吉津からは磯歯津道を経て奈良の都へ
→古代の海岸線では住吉津が重要だった
(伝承では住吉海神が住吉の津に祀られたのは、纏向でのヤマト王権成立とほぼ同時期、
倭国の北九州の津と山口の津に祀られていた海神が東遷したとすれば・・・わくわく
)
・明治4年(1871年)住吉神宮寺の堂塔徹却(神仏分離・廃仏毀釈)
(その後も広大な神宮寺跡は長年放置されていたようで、池泉回遊式の壮大な庭園跡などは、
わたくしが中学生の頃まで石組みが残ってて、よく戦争ごっことかで遊んでました)
云々・・・
ご近所の古い神社と公園つーこともあり興味津々、全編を大いに楽しみました
公園史・鉄道史・行楽史などに興味のある方にもオススメの一冊です
つーことで・・・
この本にも記載されてて、以前から知りたかった材木川と住吉駅の痕跡について、今回、
綿密なる???現地調査をしてきましたので、ご報告をば・・・
・住吉公園は東を南海本線、西を国道26号線、南を細井川(細江川)、北を材木川に囲まれた範囲
・わたくしは公園内の北部を通る道路が材木川の跡だと思い込んでたのですが、本書によれば、
この道路は住吉公園と住之江公園とを結ぶ「公園道路」として戦前に整備されたもので、
材木川は戦後も川として存在していた、とのことでした
・わたくしには全く川の記憶がなかったので、ほぼ同世代の粉浜商店街のK田さんに訊けば、
→昔は商店街の南端に幅2mほどのドブ川が流れていて、そこに石橋が架かっていた
→大雨の後は危ないので橋を渡ってはならないと、よく親から言われていた
→そのドブ川も石橋も、いつの間にかなくなっていた
→商店街から東(上流)には川の記憶がなく鉄道敷だったので、昔から暗渠だったのではないか
・・・とのことでした
(K田さんの記憶復活により9.13追記修正です
)
・小学6年の自主研究で「住吉公園駅の踏切について」調べており
、駅の北端(商店街の南端)
にあったドブ川は、線路の下を東西に流れていたことを思い出した
・第2室戸台風で氾濫していたので、少なくとも中学生の頃までは存在していたはず
・・・とのことでした
(わたくしは古い地図から線路の手前で北上していたと思ってましたが、はてさて・・・)
つーことで・・・
こちらが住吉公園の汐掛道から西へ出た国道26号線の交差点で、左が移転再建された高燈籠

ひとつ先の右折待ちしている交差点から右(東)が材木川だと思ってましたが、川跡にしては
西側に全く痕跡がないのが不思議と悩んでたのですが、もうひとつ北にある・・・

姫路ラー麺「ずんどう屋」駐車場の向かいあたりから東へ入る狭い道路が・・・

ぐねぐねと曲がってて、いかにも川筋の跡らしい道路です
しかも、この道路は26号線から西にも十三間堀川(今は阪神高速)まで続いてました
この道路を東(上流)へ進んで・・・

このあたりが公園内道路と最も近い部分で、ここにも石橋が架かっていたとのこと
で、こちらが公園内から見た様子

中央は材木川に架かっていた石橋の親柱でしょうが、今は公園内道路の内側にあります
本来は緑色のフェンスあたりにあったのでしょうが、わたくしは、この親柱の位置から
横断歩道のある道路が材木川だったと思い込んでいたようです
せっかくなので、さらに上流部へ・・・

左が材木川だった道路、右が公園内道路

いかにも川筋らしい曲がり方です
(公園内道路も同じように曲がってるので紛らわしいのですが・・・
)
中央下に見える集水桝は地下にある材木川へ繋がっているのでしょう
さらに進み、こちらが粉浜商店街の南端部

ここにも左右(南北)に石橋が架かってて、その先からは南海本線(現在は高架)に沿う形に
なるので、昔から暗渠だったのではないか、とのことでした
(追記修正→少なくとも第2室戸台風までは線路の下を東西に流れていたとも・・・)
こちらが粉浜商店街側・・・


こちらが材木川の上流側


古い地図では材木川はここからしばらく南海本線に沿う形で北上してるので・・・
(追記→線路の下を東西に流れていたとの記憶も・・・)

このあたりを流れていたことになるはずです
(追記→上記の記憶どおりなら線路の下を東に潜ってから北上してたことになります)
(右が南海本線の高架下、左が粉浜商店街東側店舗の裏です)
ともかく、これで長年の疑問のひとつが解決しました
粉浜商店街のK田さん、ありがとうございました
(9月23日さらに材木川についての追記
)
住吉大社の北隣、一運寺の前にあった案内板に本日気づきました

飛鳥への小径・・・住吉津から飛鳥へと続く古代の磯歯津路であります
ま、住吉大社あたりには何本もの古い小径があって、どの小径からも遺物が出てくるので、
未だに最古の磯歯津路は特定されていないようですが・・・
で、説明文にあった、なお書き以下の部分・・・

そう、一運寺の北側に沿った道は、もともと万代池から十三間(堀)川に流れる地溝だった!!!
で、1802年に住吉大社が焼失した際に、地溝を開削して再建のための材木を運んだことから、
材木川とも言われるようになったと!!!
そうだったのか、これで名前の由来についても上流部についても判明・・・とはいいつつ・・・
万代池から十三間(堀)川まで流れていたとなると・・・
①水の出入りのない池と言われてきた万代池から流れ出る川(地溝)があった?
②一運寺の北沿いから阪堺・上町線あたりまでは川筋を想像できるけど、さらに上流側、
万代池までの川筋(地溝)はどこを流れていたのか?
③逆に一運寺から下流側、粉浜商店街の南端までの川筋はどこを流れていたのか?
(9月24日、さらさらに万代池の近くに住む古老の証言による追記)
①万代池の南東に大領池(東池と西池で今は病院と公園)があり万代池と繋がっていた
②大雨でも各池が溢れることはなく、流れ出る川(地溝)はあったはず
とのことでした
(9月29日、さらさらさらにK田さん同級生のK浦さんに案内いただいての追記)
「今も南海本線から東に延びる川筋は残っている」とのことで現地案内いただきました

こちらが粉浜商店街の南端から東へ向かう材木川の川筋跡

先には南海本線の高架下を横切るかたちで道があります

その先は民有地になってるのですが、右側にある・・・

阪堺・上町線の住吉公園駅への延伸線跡地の先に道が続いています
で、ここには、

延伸線跡を横切るかたちでグレーチングが並べてあり・・・
その下には・・・

はっきりと古い川筋跡がありました!!!
さらに地上駅の北側にあった地下道は大雨の際にはいつも冠水してたとのことでしたから、
材木川は南海本線、上町線を潜って東に延びていたことが確認できました!!!
K田さんの同級生のK浦さん、現地案内までありがとうございました
もちろん、その先に見えるのは・・・

紀州街道と住吉大社であります
紀州街道を渡れば住吉大社の側溝(掘割)に合流・・・

排水溝のような石組みもありますが一運寺からの流れを考えると・・・

このあたりまでは北上していたはず・・・
でも、ここから先は・・・

北や東や北東へ至る道が何本もあって、どの道が川筋跡なのかは特定できませんでした
大海神社へ上る石段下にあった・・・



この道と北へ向かう空き地も怪しいし・・・
さらに一運寺の北側を流れてきて・・・


上町台地からの急坂を、どのように流れていたのか・・・
(2025年3月追記です)
明治42年測図の1/20000「大阪西南部」地図には、この合流部から住吉大社境内を斜めに
池の北側まで通じている道(谷筋?)のようなものがありましたが、今は建物敷地だし高低差も
今はかなり大きいので、これが川筋だったのかどうかは分からないままです)
と、さらにさらに興味は尽きなくなったのですが・・・
もうひとつの疑問だった・・・
・後にできた粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の間にあって100年前に廃止された住吉駅
についても、駅の痕跡が分かる場所があると、K田さんから教えていただきました
今は知る人も少ないとのことでしたので、廃線好きには貴重な画像かもです
左が南海本線の高架下で、南から北へ南海本線東側の道路を撮ったもの

粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の中間あたり、この部分だけ道路が盛り上がってます
そう、

ここが開業当初の住吉駅の駅舎とホームがあった場所だそうで、線路跡にできた駐車場や、
その西側の粉浜商店街とは、このあたりだけ0.5m~1mほど高くなってました
で、こちらがウィキペディアにあった住吉駅の古写真・・・

単線で片側だったはずの駅舎とホームの部分を、客車の乗降口に合わせ盛土してるように
見えますので、この古写真が住𠮷駅の南東から北西に向けて撮影されたものだとすると、
駅のあった場所は、ここで間違いないでしょう
この付近には紀州街道や住吉大社へ抜ける狭い旧道が何本も残っているのですが、
おそらく人口の多かった旧村の最寄に最初の参詣駅ができたからなんでしょうね
それにしても・・・
100年以上も前に廃止された駅の痕跡が、今も道路の高低差として残っているなんて・・・
確かに地元でも、今は知る人は少ないのかも知れません
ええ、わたくしも知らなかったし、とても貴重な情報でした
と・・・
これで長年の疑問のうち二つが解決したので、まずはめでたしめでたし・・・
ただし材木川の流路については、下流側の十三間堀川から紀州街道までと、上流側の神ノ木から
一運寺までのルートは判明したのですが、さらに上流側の万代池から神ノ木までのルートと、
一運寺から紀州街道までの(境内の池に繋がる?)ルートがわたくしには謎のままですので、
どなたかご存知であればコメント欄などでご教示願います
さらに・・・
前回記事のヤマト王権とも関連がある・・・かも知れない・・・
「住吉公園と住吉さん~住吉大社から生まれて150年~」のご紹介であります
今回は読後メモだけでなく綿密な?現地調査も行い、本邦初公開かもの貴重な画像?も撮影、
謎についても記事の末尾に掲載してますので、ぜひ最後までご覧くださいね
本の表紙

奥付

今月7日の発行、まさに最新刊であります
執筆者一覧

例によって目次のみの紹介


目次が住吉大社の太鼓橋になってました

以下、わたくしが興味を持った部分のランダムなメモで、(カッコ内)は感想なり補足です
・明治6年(1873年)1月の太政官府達(3府へ)により8月に住吉大社の全域を公園地に指定
→9月に規則を制定して開設(12月には浜寺公園も開設)→大阪府で最初の公園となった
→明治8年10月には境内地、民有地、公園地に分けられた
・住吉大社周辺は江戸時代から紀州街道沿いに料亭が並ぶ繁華街だったが、明治時代になり
移動手段が駕籠から鉄道や人力車になって街道沿いは衰退、逆に公園内が有楽地になった
→温泉(潮湯)旅館、茶店、料理茶屋、料亭などが75軒もひしめく大歓楽街に・・・

(もともと住吉あたりの海岸は潮干狩の名所でもありアウトドア宴会や舟遊び、住吉大社への
参詣名目でインドア宴会を楽しむ、関西の大リゾート地だったのでありますね

・公園内に仲居、芸妓、ヤトナなどが出入りして風紀が大いに乱れた

→大正11年(1922年)には公園の隣接地に芸妓指定地を定めた
→大正13年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えた

→大正11年に公園の西側に住𠮷新地が指定され、昭和9年には芸妓指定地からも移転した
→その後、住𠮷新地は戦災を経て再開したが昭和33年に(売春防止法施行・赤線廃止により)
花街としての活動は消滅した

(わたくしが小学生の頃の住𠮷新地には、いかにも遊郭らしい雰囲気を残した木造建物が、
ビジネス旅館などになってはいたものの、まだまだ残ってました)
・明治18年(1885年)に阪堺鉄道(現・南海本線)が開通した
→開業当初は難波から大和川の北岸までの蒸気機関車による運行
→開業当初の停車場は難波・天下茶屋・住吉・大和川の4駅
→蒸気機関車の駅間は8km以上が効率的だったが沿線に人口が多く3km程度にした
→それでも不便だったので電化後は次々と駅が追加され、新しい粉浜駅と住吉公園駅の
中間にあった、開業当初の住吉駅は1917年に廃止された
(この100年前に廃止された住吉駅の痕跡を今回探りました)
(住吉公園駅は1979年に住吉大社駅に名称変更したけど昔は公園がメインだったんですね)
・住之江公園との関係
→大正9年(1920年)東京市から和歌山に至る国道(1号線経由)が路線認定される
(当初の路線名は国道16号線で後に国道26号線に名称変更)
→住吉公園が南海と国道で3つに分断されるので分断部分を払下げ、その資金も使って
新公園を建設し、その間を公園道路で結ぶことに
→住之江公園は昭和5年(1930年)に竣工したが公園道路は当初は高燈籠までだった
(この道路の園内部分を材木川と思い込んでたのを今回、現地で確認した次第です)
(住之江公園まで今は普通の道路で、替わりに?細井川・住吉川の一部が遊歩道になり、
本来の公園道路から住之江公園へ渡る橋だけが人道橋になってますね)
・住吉公園の児童遊園
→戦時中は高射砲陣地、鉄類回収、農園化、樹木の燃料化などで荒廃した
→戦後に電気自転車・電気自動車・メリーパーク・メリーロード・オーシャンウェーブなど
当時の日本では考えられない遊具が整備されており米駐留軍の関与が考えられるが詳細は不明
(このオーシャンウェーブ、三角錐のジャングルジムのようなものが中央の鉄塔に吊るして
ある感じの画像がありましたが、わたくしがよく覚えてるのは同じ位置にあった後継機種で、
球体のジャングルジムが中央鉄塔を芯にして、けっこう高速回転するタイプでした
中に乗るか、外で漕ぐ(回す)か、一人なら外で漕いでから乗り込むのですが、数人でめいっぱい
漕ぐ(回す)と、外で鉄棒に掴まってると身体が水平になって、やがて遠くへ飛ばされるし、
中に乗ってても、やがては放り出されるので、どこまで耐えられるかを競い合うとゆー、
まるで宇宙飛行士の訓練のような、低学年には極めて危険な遊具でした

・住吉の松
→古来の歌学では「住吉の松」は歌枕とされ神聖視されていた
→古来の絵画では白砂青松風景は「住吉模様」と呼ばれ日本の風景の原型とされた
→「あられ松原」は上町台地沿いの海岸線の松林
→「住吉の岸の姫松」は和歌や文学の世界で神格化された
→姫松一帯は住吉大社の飛地境内として保存されていたが明治以降に南部は民有地になり、
北部は保安林→クボタ創業家の邸宅→晴明丘南小学校になっている地域
→一帯の東端に上町線「姫松」停留所が設けられ住吉高校前などにも痕跡が残る
・住吉太神宮秘記(中世の説話で記紀とは異なる住吉大神の鎮座伝承)
→10代崇神天皇が「津守の浦に天より光が射す」夢を見て使者を遣わして確認したところ、
一晩のうちに松が三本生えており、これこそ住吉大神の降臨した松であると神木として崇めた
→影向(ようごう)の松、相生の松→松への憧憬と住吉信仰→謡曲高砂などへ
・上町線「神ノ木」停留所も神職の祖先を祀った神木の老松に由来している
・平安時代には天満砂州ができ松も生えたが平安前期までは「浜」ではなく「岸」だった
→すみのえの岸による波よるさへや→上町台地の古代の崖にふさわしい表現
→新古今集など鎌倉時代に近づくと「浜」の歌ばかりになる
・難波津からは難波大道、磯歯津道を経て、住吉津からは磯歯津道を経て奈良の都へ
→古代の海岸線では住吉津が重要だった
(伝承では住吉海神が住吉の津に祀られたのは、纏向でのヤマト王権成立とほぼ同時期、
倭国の北九州の津と山口の津に祀られていた海神が東遷したとすれば・・・わくわく

・明治4年(1871年)住吉神宮寺の堂塔徹却(神仏分離・廃仏毀釈)
(その後も広大な神宮寺跡は長年放置されていたようで、池泉回遊式の壮大な庭園跡などは、
わたくしが中学生の頃まで石組みが残ってて、よく戦争ごっことかで遊んでました)
云々・・・
ご近所の古い神社と公園つーこともあり興味津々、全編を大いに楽しみました
公園史・鉄道史・行楽史などに興味のある方にもオススメの一冊です
つーことで・・・
この本にも記載されてて、以前から知りたかった材木川と住吉駅の痕跡について、今回、
綿密なる???現地調査をしてきましたので、ご報告をば・・・

・住吉公園は東を南海本線、西を国道26号線、南を細井川(細江川)、北を材木川に囲まれた範囲
・わたくしは公園内の北部を通る道路が材木川の跡だと思い込んでたのですが、本書によれば、
この道路は住吉公園と住之江公園とを結ぶ「公園道路」として戦前に整備されたもので、
材木川は戦後も川として存在していた、とのことでした
・わたくしには全く川の記憶がなかったので、ほぼ同世代の粉浜商店街のK田さんに訊けば、
→昔は商店街の南端に幅2mほどのドブ川が流れていて、そこに石橋が架かっていた
→大雨の後は危ないので橋を渡ってはならないと、よく親から言われていた
→そのドブ川も石橋も、いつの間にかなくなっていた
→商店街から東(上流)には川の記憶がなく鉄道敷だったので、昔から暗渠だったのではないか
・・・とのことでした
(K田さんの記憶復活により9.13追記修正です

・小学6年の自主研究で「住吉公園駅の踏切について」調べており

にあったドブ川は、線路の下を東西に流れていたことを思い出した
・第2室戸台風で氾濫していたので、少なくとも中学生の頃までは存在していたはず
・・・とのことでした
(わたくしは古い地図から線路の手前で北上していたと思ってましたが、はてさて・・・)
つーことで・・・
こちらが住吉公園の汐掛道から西へ出た国道26号線の交差点で、左が移転再建された高燈籠

ひとつ先の右折待ちしている交差点から右(東)が材木川だと思ってましたが、川跡にしては
西側に全く痕跡がないのが不思議と悩んでたのですが、もうひとつ北にある・・・

姫路ラー麺「ずんどう屋」駐車場の向かいあたりから東へ入る狭い道路が・・・

ぐねぐねと曲がってて、いかにも川筋の跡らしい道路です
しかも、この道路は26号線から西にも十三間堀川(今は阪神高速)まで続いてました
この道路を東(上流)へ進んで・・・

このあたりが公園内道路と最も近い部分で、ここにも石橋が架かっていたとのこと
で、こちらが公園内から見た様子

中央は材木川に架かっていた石橋の親柱でしょうが、今は公園内道路の内側にあります
本来は緑色のフェンスあたりにあったのでしょうが、わたくしは、この親柱の位置から
横断歩道のある道路が材木川だったと思い込んでいたようです
せっかくなので、さらに上流部へ・・・

左が材木川だった道路、右が公園内道路

いかにも川筋らしい曲がり方です
(公園内道路も同じように曲がってるので紛らわしいのですが・・・

中央下に見える集水桝は地下にある材木川へ繋がっているのでしょう
さらに進み、こちらが粉浜商店街の南端部

ここにも左右(南北)に石橋が架かってて、その先からは南海本線(現在は高架)に沿う形に
なるので、昔から暗渠だったのではないか、とのことでした
(追記修正→少なくとも第2室戸台風までは線路の下を東西に流れていたとも・・・)
こちらが粉浜商店街側・・・


こちらが材木川の上流側


古い地図では材木川はここからしばらく南海本線に沿う形で北上してるので・・・
(追記→線路の下を東西に流れていたとの記憶も・・・)

このあたりを流れていたことになるはずです
(追記→上記の記憶どおりなら線路の下を東に潜ってから北上してたことになります)
(右が南海本線の高架下、左が粉浜商店街東側店舗の裏です)
ともかく、これで長年の疑問のひとつが解決しました
粉浜商店街のK田さん、ありがとうございました

(9月23日さらに材木川についての追記

住吉大社の北隣、一運寺の前にあった案内板に本日気づきました

飛鳥への小径・・・住吉津から飛鳥へと続く古代の磯歯津路であります
ま、住吉大社あたりには何本もの古い小径があって、どの小径からも遺物が出てくるので、
未だに最古の磯歯津路は特定されていないようですが・・・
で、説明文にあった、なお書き以下の部分・・・

そう、一運寺の北側に沿った道は、もともと万代池から十三間(堀)川に流れる地溝だった!!!
で、1802年に住吉大社が焼失した際に、地溝を開削して再建のための材木を運んだことから、
材木川とも言われるようになったと!!!
そうだったのか、これで名前の由来についても上流部についても判明・・・とはいいつつ・・・
万代池から十三間(堀)川まで流れていたとなると・・・
①水の出入りのない池と言われてきた万代池から流れ出る川(地溝)があった?
②一運寺の北沿いから阪堺・上町線あたりまでは川筋を想像できるけど、さらに上流側、
万代池までの川筋(地溝)はどこを流れていたのか?
③逆に一運寺から下流側、粉浜商店街の南端までの川筋はどこを流れていたのか?
(9月24日、さらさらに万代池の近くに住む古老の証言による追記)
①万代池の南東に大領池(東池と西池で今は病院と公園)があり万代池と繋がっていた
②大雨でも各池が溢れることはなく、流れ出る川(地溝)はあったはず
とのことでした
(9月29日、さらさらさらにK田さん同級生のK浦さんに案内いただいての追記)
「今も南海本線から東に延びる川筋は残っている」とのことで現地案内いただきました

こちらが粉浜商店街の南端から東へ向かう材木川の川筋跡

先には南海本線の高架下を横切るかたちで道があります

その先は民有地になってるのですが、右側にある・・・

阪堺・上町線の住吉公園駅への延伸線跡地の先に道が続いています
で、ここには、

延伸線跡を横切るかたちでグレーチングが並べてあり・・・
その下には・・・

はっきりと古い川筋跡がありました!!!
さらに地上駅の北側にあった地下道は大雨の際にはいつも冠水してたとのことでしたから、
材木川は南海本線、上町線を潜って東に延びていたことが確認できました!!!
K田さんの同級生のK浦さん、現地案内までありがとうございました

もちろん、その先に見えるのは・・・

紀州街道と住吉大社であります
紀州街道を渡れば住吉大社の側溝(掘割)に合流・・・

排水溝のような石組みもありますが一運寺からの流れを考えると・・・

このあたりまでは北上していたはず・・・
でも、ここから先は・・・

北や東や北東へ至る道が何本もあって、どの道が川筋跡なのかは特定できませんでした
大海神社へ上る石段下にあった・・・



この道と北へ向かう空き地も怪しいし・・・
さらに一運寺の北側を流れてきて・・・


上町台地からの急坂を、どのように流れていたのか・・・
(2025年3月追記です)
明治42年測図の1/20000「大阪西南部」地図には、この合流部から住吉大社境内を斜めに
池の北側まで通じている道(谷筋?)のようなものがありましたが、今は建物敷地だし高低差も
今はかなり大きいので、これが川筋だったのかどうかは分からないままです)
と、さらにさらに興味は尽きなくなったのですが・・・

もうひとつの疑問だった・・・
・後にできた粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の間にあって100年前に廃止された住吉駅
についても、駅の痕跡が分かる場所があると、K田さんから教えていただきました
今は知る人も少ないとのことでしたので、廃線好きには貴重な画像かもです
左が南海本線の高架下で、南から北へ南海本線東側の道路を撮ったもの

粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の中間あたり、この部分だけ道路が盛り上がってます
そう、

ここが開業当初の住吉駅の駅舎とホームがあった場所だそうで、線路跡にできた駐車場や、
その西側の粉浜商店街とは、このあたりだけ0.5m~1mほど高くなってました
で、こちらがウィキペディアにあった住吉駅の古写真・・・

単線で片側だったはずの駅舎とホームの部分を、客車の乗降口に合わせ盛土してるように
見えますので、この古写真が住𠮷駅の南東から北西に向けて撮影されたものだとすると、
駅のあった場所は、ここで間違いないでしょう
この付近には紀州街道や住吉大社へ抜ける狭い旧道が何本も残っているのですが、
おそらく人口の多かった旧村の最寄に最初の参詣駅ができたからなんでしょうね
それにしても・・・
100年以上も前に廃止された駅の痕跡が、今も道路の高低差として残っているなんて・・・
確かに地元でも、今は知る人は少ないのかも知れません
ええ、わたくしも知らなかったし、とても貴重な情報でした

と・・・
これで長年の疑問のうち二つが解決したので、まずはめでたしめでたし・・・

ただし材木川の流路については、下流側の十三間堀川から紀州街道までと、上流側の神ノ木から
一運寺までのルートは判明したのですが、さらに上流側の万代池から神ノ木までのルートと、
一運寺から紀州街道までの(境内の池に繋がる?)ルートがわたくしには謎のままですので、
どなたかご存知であればコメント欄などでご教示願います
さらに・・・
・上町線が最初に高野線を跨いだのはいつだったのか???馬車時代か電車時代か???