2023年09月21日
人類の起源
とーとつですが・・・
人類の起源~古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」~
とゆー本のご紹介であります(備忘のための読書メモです)
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、こちらの記事の続きとゆーか、前回記事、前々回記事の前段階とゆーか・・・
日本などの古代史も含んだ最新研究による「人類の起源」であります
例によって目次のみ
以下、脳の外部記憶としてのメモ書きです
まず「はじめに」にあった本書のダイジェストより
・これまで現生人類ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで生まれたとされてきたが、
→ネアンデルタール人のDNA解析により彼らの祖先と分かれたのは60万年前と判明した
→別れた後も交雑を繰り返し他の絶滅人類とも交雑していたことも判明しつつある
・現代人DNAとの比較研究で、現生人類はアフリカ→中東→ヨーロッパや南アジア→
東南アジアやオセアニア→東アジア→南北アメリカ大陸へと拡がったことが判明した
・どのように現代の地域集団を形成していったのか
→古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは集団の大きな遺伝的変化があった
・世界各地の人類集団(民族)は、ある地域における「ヒトの移動の総和」といえる
→特定の遺伝子分布の地域差は集団成立の有力な手がかりになる
・1980年代に発明されたPCR法はウィルス検知だけでなく人類学にも多大な恩恵をもたらした
→古代DNA研究は考古学・歴史学・言語学の分野にも大きなインパクトを与えている
→「人間とは何か」→現時点で何が明らかになり、研究は何を目指しているのか・・・
第一章「人類の登場」より
・1859年のダーウィンの進化論→ヒトの祖先は?→神から化石人類学へ
→約700万年に及ぶ人類進化が大まかに示された
・神話と科学の違い
→科学は間違いと訂正の歴史
→なので科学を間違いないと信奉することは理解の障害にもなる
→本書の古代ゲノム解析による説明も現時点での結論であり将来反証されることもある
・ホモ属にはいくつもの種があったが、現在生存しているのはサピエンス種だけ
・人類の定義→本書では「生物学的に自由に交配して子孫を残せるグループ」という視点
→この視点は世界の集団形成を理解する際にも重要
・人類の祖先とチンパンジーの祖先が分かれたのは700万年前
→ホモ属が登場するのは250~200万年前
→サピエンス種が登場するのは30~20万年前
→ホモ・サピエンスの出アフリカは6万年前、顕著な文化発展は5万年前(異説あり)
→どの時点をもって人類の誕生としているか→読み手の注意が必要
・文明が農耕からなら1万年、文字に残る「人類の歴史」からなら5000年・・・
→歴史的な経緯や地域環境による文明の違いはヒトの選択による「多様性」であり、
→世界中の文明はヒトという共通の基盤に立っている
→この認識は現実世界を理解するうえでも欠かせない視点
・現在では、異なる進化段階の種が同時代に生きていたこともわかっているが、
→進化傾向を捉えるためには初期猿人→猿人→原人→旧人→新人という段階は便利な考え方
→それでも同時代・同所に多数の化石人類が見つかっているので状況は混乱している
・約200万年前に登場したホモ・エレクトスは最初に出アフリカを果たした原人
→アフリカ・西アジア・中国・ジャワ島などで発見されている人類
→20万年前の化石もあり180万年も生存していた(ホモ・サピエンスは20万年程度)
→フローレス島で発見されたホモ・エレクトスから進化したホビットは6万年前まで生存
・ネアンデルタール人は旧人とされてきたが2016年のDNA分析の成功で大きく変わった
→これ以降、人類進化はDNAデータで語られるようになる
→ネアンデルタールで発達したのは主に視覚に関わる後頭葉部分
→ホモ・サピエンスで発達したのは思考や創造性などの前頭葉部分
→どちらも脳の容量はほぼ同じで交雑していた
(コラム1より)
・ホモ・サピエンスの大脳新皮質で共同体を構成する人の顔・名前・考え・バックグラウンドが
理解できる人数は150人程度
→なので狩猟採集社会から現代社会まで150人程度を社会構成の単位としてきた(ダンパー数)
→言語・文字・物語・宗教・歌・音楽といった文化要素により、時間や空間を超えて概念や
考え方を共有するハードウェアで、なんとか複雑な社会を形成していった
→現在は(脳の容量は変わらないのに)通信ネットワークで何百人(何千人)が同時につながりあい、
それらの大量のデータが行き交う高度な社会環境
→自分の脳の処理能力より、はるかに多量のデータにさらされている状況
→バランスのとれた情報処理ができずに社会が混乱しているのも至極当然・・・
第二章「私たちの隠れた祖先」より
・2010年以降に核DNA分析が可能になり、次々と新たな事実が明らかになっている
→1980年代からコンタミネーション(混入)が問題だったがDNA分析を前提とした発掘に
・ネアンデルタール人はユーラシア大陸の西半分に分布していた
→ホモ・サピエンス集団のひとつがネアンデルタールと交雑して世界に拡がった
→交雑しなかった集団もコーカサスや中東、北イランに存在しており現在のヨーロッパ人の
形成に関与したので、現代ヨーロッパ人のネアンデルタールDNAは相対的に少ない
・ホモ・サピエンスとネアンデルタールは数十万年も交雑している
→初期の交雑はアフリカとは考えにくく、ホモ・サピエンスの出アフリカが6万年前ではなく
40万年前よりやや新しい時代だったのか、あるいはホモ・サピエンスがユーラシア大陸で
他の未知の人類から進化したのか→まだ完全解明には至っていない
・デニソワ洞窟ではデニソワ人とネアンデルタール人の混血少女の化石が確認されている
→パプア人DNAの3~6%はデニソワ人DNAに由来
→東アジア・南アジア・アメリカ先住民もパプア人の1/20程度のデニソワ人DNAを共有
→東アジアのゲノムはパプアとは別で、少なくとも2回は別々にデニソワ人と交雑していた
→チベット人にもデニソワ人DNAがあるが、ホモ・サピエンスがチベット高原に来たのは11000年前
→これらから、デニソワ人は数万年前まで生きていた可能性が示された
・サハラ以南のアフリカ人ではデニソワ人と未知の人類との混血が推察される
→3人類とは別の人類がいてデニソワ人と交雑した可能性
→異なる系統人類の混血が長期間続いた結果がホモ・サピエンス遺伝子にも残っている
・ユーラシア大陸に拡散した人類は単一種ではなく各段階が同時期・同所に存在
→20世紀の終わりまでホモ・サピエンスは他地域進化説だった
→21世紀になると6万年前にアフリカを出て他の人類を駆逐したというアフリカ起源説
→2010年以降は拡散過程で他の人類の遺伝子を取り込んだことが明らかになった
→アフリカ起源説が他地域進化説の一部を取り込む形で収束した
・生存に不利な遺伝子は徐々に集団から取り除かれる
→アフリカでも世界展開の途中でも交雑は長期に繰り返されている
→iPS細胞や遺伝子編集技術で理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人の復活も可能
第三章「人類揺籃の地アフリカ」より
・アフリカでのホモ・サピエンス拡散の様子(略)
・ホモ・サピエンスが30万年前にアフリカで誕生したことはほぼ定説になっているが、
→ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先から分岐したのは60万年前と判明してるのに、
→長期間にわたるホモ・サピエンスの祖先の化石がアフリカにないこと
→数十万年前にはネアンデルタール人と交雑があったことを考えると、
→最初の祖先はユーラシア大陸の原人で、
→そこから3人類が生まれ30万年前以降にアフリカに移動したグループが世界に拡がり、
→残ったグループはネアンデルタールと交雑した後に絶滅した、とも考えられる
・異なる人類の交雑が明らかになったので、起源はアフリカだけでなく広範囲で考えるべき
→イスラエルでは古いネアンデルタールよりも古いホモ・サピエンスが発見されている
→古い交雑はこの地域だった可能性がある
・ホモ・サピエンスの世界展開は、現代人のゲノム解析から6万年前以降とされてきたが、
中国・ギリシャ・東南アジア・オーストラリアから、それよりも古い化石の報告がある
・農耕民と牧畜民の起源
→アフリカ西部の農耕による人口拡大→移動→集団(言語)の分化
(世界各地でも初期農耕民の拡大が言語族の分布と結びついている)
→牧畜民には乳糖耐性遺伝子が必要→牧畜とともにヨーロッパに(新石器時代にはなかった)
→生業と遺伝子と言語には密接な関係がある
・現代人のゲノムにはネアンデルタール人やデニソワ人とは異なる人類との交雑を認める結果も
示されており、アフリカには30万年前の謎の人類ホモ・ナレディもいた・・・
第四章「ヨーロッパへの進出」より
・ホモ・サピエンスの出アフリカは20万年前以降に何度か試みられていた
→我々につながる祖先の出アフリカは6~5万年前
→シベリアでのネアンデルタールとの交雑時期は52000~58000年前
→中東での交雑は出アフリカの初期と考えられるので6万年前が妥当
→ただし南アジア・オーストラリアなどで6万年前より古い化石や石器が見つかっている
→6万年前より以前は放射性炭素年代測定が困難なので各説がある
→これ以降1万年前の農業生産まで(後期旧石器時代)の気候変動が離散と集合を促した
・現代人につながる系統だけでも、出アフリカから1万年の間に東アジア系・ヨーロッパ系・
ユーラシア基層集団の3系統が成立した
・出アフリカ集団は単一系統ではなく現在の集団はそれらの離合拡散・交雑・隔離を経たもの
・最も研究の進んでいるヨーロッパ集団について(略)
・ヨーロッパでも日本でも狩猟採集民のゲノムは10%から25%
→基本的に狩猟採集民は農耕民の社会に飲み込まれている
・5300年前のアイスマンのゲノムはアルプス人ではなくサルディニア人と近縁だった
→サルディニア人は8000年前に移住して混合しなかったヨーロッパ初期農耕民の子孫
→移住前の農耕民のゲノムを残しており現代ヨーロッパ人とは異なる→なぜか?
→5000年前にヨーロッパ人の遺伝的な構成が大きく変わったから
→その原因は東のステップ地域から来た牧畜民
→ヨーロッパ人の地域差は狩猟採集民と農耕民と牧畜民の混合の仕方の違い
→牧畜民のゲノムの割合が高いほど身長が高いなど・・・
→牧畜民ゲノムからはペスト菌DNAの断片が検出されており農耕民に大打撃を与えた可能性
→古代ゲノム解析は疫病研究にも重要な知見をもたらす
第五章「アジア集団の成立」より
・1万年前より古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析は一部しか行われていないが、
→出アフリカ集団は中東で1万年ほど停滞していた
→5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまで拡散した
・ユーラシア東部へは北ルートと南ルートが考えられている
→南ルートでは古代南インド狩猟民集団→一部が東南アジアへ→デニソワ人と混血?
→一部がパプアニューギニア、オーストラリアへ
→北ルートで北上したグループが古代東アジア集団を形成した?
・ヒントは縄文人のゲノム
→日本列島にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前
→16000年前に土器が作られ3000年前に稲作が入るまでの13000年の間が縄文時代
→この間に遺伝組成を変えるような外部からの流入はなかったので縄文人ゲノムがヒントに
・縄文人のゲノムを共有している現在の東アジア人
多い順にアイヌ集団→沖縄の人→本州・四国・九州の日本人
→沿海州の先住民、韓国人、台湾の先住民も僅かに共有している
→アムール流域の先住民、新石器・鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団とは非常に古い
時代に分岐した同じ系統に属することも判明している
→古代南インド狩猟民集団→チベットや東アジアの沿岸地域へ→日本では縄文人に
・縄文人は4万年前以降に異なるふたつの系統が合流して形成された
→別々に南北から流入したのか大陸沿岸部で合流してから流入したのかは不明
・シベリア集団の変遷、アメリカ大陸集団の起源・・・
→複雑な集団の置換によりユーラシア北部から南北アメリカのモザイク状の遺伝構成へ
・1万年前以降は解析できる人骨も多く、1万年前には遺伝的に区別できる9集団がいた
→これらの離合集散が青銅器時代以降の集団形成に関わることになる
→スキタイ、匈奴、フン族などの遊牧騎馬民族も異なる遺伝的特徴を持った集団の連合体
→なので中央アジアの広大なステップを遺伝的に単一の集団が支配したことはない
・3回にわたる移住の波が南アジア集団の遺伝的構成を決定した
→9000年前の狩猟採集民と初期農耕民の混合
→7400~5700年前の混合完成と、その後の北方集団との混合
→4600~3900年前のインダス文明の初期農耕民にはイラン牧畜民や狩猟採集民ゲノムもある
・南アジアから東南アジアには5万年前
→どちらもDNA保存に適した地域ではないので現代人DNAからの考察
→遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応している
→東南アジアの半島部と島嶼部は、ホモ・サピエンスが最初に拡散した氷河期には
スンダランドで一つの陸塊だった
→ヨーロッパ同様、農耕以前の狩猟採集民ゲノムは伝わっていない
・南太平洋・オセアニア(略)
・中国の南北地域集団
→今も言語的にも遺伝的にも異なり過去の違いはさらに大きい
→黄河流域と福建省では1万年~6000年前まで遺伝的に区別しうる集団だった
→北方集団と東南アジア集団
・日本への渡来の起源
→内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部に流れる西遼河流域の雑穀農耕民の古代ゲノムには
日本や韓国の現代人ゲノムとの共通性を見いだせる
→日本語や韓国語の起源地と考えられるが、それ以外との関係はない
→なぜ朝鮮半島の方向だけに拡散したのかは、さらに多くの古代ゲノムが必要
→この集団の動きが弥生時代初期の日本列島への農耕民の流入に(拡散から約2000年後)
→ところが弥生時代初期の日本列島での農耕の始まりは水田稲作→なぜか?
→この分析には稲作起源地の長江流域の古代ゲノムが入っていないから
→長江流域の古代ゲノム解析が進めば日本への複雑な渡来経路が見えてくるはず
・東アジアの大陸部では北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大した
→それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成された
・東南アジアや東アジアの沿岸部では初期拡散定着民と農耕民の混合で現代人集団が形成された
・1万年前以降に起こった各地の農耕は集団の拡散を促し様々な言語グループを生み出した
第六章「日本列島集団の起源」より
・二重構造モデル説
→縄文時代と弥生時代の人骨の違い
(旧石器時代に直接来た集団と北東アジアで新石器時代に形質変化してから来た集団の違い)
→現代の北海道アイヌ集団・琉球列島集団と本州四国九州を中心とする集団の違い
(稲作のなかった北海道と、北部九州より稲作が2000年遅かった琉球列島との違い)
→古代ゲノム解析からは単純すぎる説と指摘されている→地域差が大きいから
・縄文時代
→旧石器時代の後半から縄文時代までの形質は連続している
→縄文人のゲノム解析からは現代の東アジア集団とはかけ離れた特徴が見られる
→礼文島の縄文人からは極北集団に見られる脂肪代謝遺伝子の有利な異常が見られる
→現代日本人でも3割に見られ韓国や中国には殆ど見られないハプログループは縄文人由来
→東南アジアからの初期拡散で北上した中の沿岸集団が縄文人の母体だが均一ではない
・弥生時代
→縄文時代にも農耕はあったので水田稲作農耕より金属器使用を弥生時代の特徴とすべき
→日本では、たまたま同じ時期に入ってきただけ(世界では別のルートで別の時期に)
→稲作農耕は長江中流域から拡散したもので、日本の青銅器の源流は北東アジアのもの
→異なる集団が渡来した?
→長江流域からの稲作農耕民集団と、西遼河から移動中に青銅器文化を得た雑穀農耕民集団が
朝鮮半島経由で別々に渡来した?(長江沿岸部やオホーツクから直接伝播したルートもあった?)
→稲作の東進により縄文人との混合が進んでいったのなら、東に行くほど縄文系ゲノムに
寄った位置になるはずだが、そうはなっていない
→弥生時代の中期以降も各地に多くの渡来があったと想定しないと説明できない
→弥生時代から古墳時代における大陸からの渡来集団の影響を考慮すべき
→ただし古墳時代の人骨は階級の出現によってランダムなサンプルとはなりえない
・琉球列島集団
→旧石器人骨との関係は不明だが、縄文時代以降は日本列島からの集団の移住があった
→7300年前の喜界カルデラ爆発により九州と途絶して独自集団となった
→弥生時代から再び本土の影響を受けグスク時代の南九州からの農耕民流入で加速され現在に至る
→縄文ゲノムが30%残っているのは後の集団の影響が本土よりは小さかったから
・北海道集団
→アイヌ集団は縄文人を基盤にオホーツク文化人の遺伝子を受け取り成立したもの
→縄文ゲノムが70%残っており大陸北方系ゲノムも引き継いでいる
(琉球列島集団には台湾より南のゲノムの影響がないのとは対照的)
・二重構造モデルでは稲作を受け入れた中央と遅れた周辺で形質の違いが生じたと考えるが、
この発想からは、周辺集団と他の地域集団との交流の姿を捉えることはできない
(コラム4より)
・鳥取市青谷上寺地遺跡の32個体の人骨分析(単一遺跡では日本最大規模の分析)
→9割に母系の血縁がなく、すべて現代日本人の範疇に入るものだった
→しかも縄文遺伝子が強い者から大陸遺伝子が強い者まで様々だった
→長く維持された村落だと同族婚が増えて核ゲノムも似たものになるはず
→木製容器や管玉の生産も考えると流入や離散を繰り返す古代都市だった可能性が高い
→多数の創傷もあるが解体痕もあり戦闘被害者だけではなかった可能性がある
→死亡時期は放射性炭素年代測定法により2世紀の後半と判明している
→2世紀の後半は複数の史書にある「倭国大乱」の時期
→混乱した社会状況を示す代表的な遺跡といえる
2023年12月追記です
フロンティア第1回「日本人とは何者なのか」という番組で、著者らが語っておられたのは、
①縄文人は4~5万年前にアフリカからアジアにはじめて到着し、その後の農耕民の進出で、
東南アジアではほぼ消滅した(タイのマニ族に近い)古いホアビニアン文化を持つ狩猟採集民で、
東アジアでは存在しないDNAの集団
→その一部が東南アジアから沿岸沿いを北上、当時は寒冷期で今より100m以上も海面が低く、
大陸と陸続きだった日本にやってきた
→その後の海進により孤立し、1万年以上も他集団と混交せず発展した世界でも稀な集団
→日本にやってきた集団は1000人→今の日本人は1億人以上
②弥生人は、3000年前の北東アジアから稲作と金属器を(別々に?)持ってきた(別々の?)集団と
縄文人との混交集団
(日本人はこの二重構造と考えられてきたが古墳人DNAの6割以上は別物なので三重構造)
③古墳人(庶民)は、戦乱が続いていた東アジアの様々な地域から様々な時代の様々な地域に
1000年~1500年間に渡り(おそらく中世まで)流入した様々な集団と縄文弥生人との混交集団
→今の日本人よりはるかにDNA・文化・言語など多様性のある集団で錯綜していたはず
→なので今後(科博に)予算があれば、最も研究したいのが古墳人(庶民)のDNA
→東ユーラシアのあらゆる集団のDNAが古墳人を形成していたかも知れないから・・・
第七章「新大陸アメリカへ」より
・アメリカ大陸はホモ・サピエンスが最後に到達した大陸
→これまではベーリング陸橋からアラスカの無氷回廊をとおり拡散したと考えられてきた
→13000年前から3度の移住がありクロヴィス文化などが形成されたと・・・
→ところが南米最南端でクロヴィス文化より古い遺跡が発見された
→無氷回廊も寒冷すぎるので現在では海沿いのルートで移動したと考えられている
・新大陸の先住民の共通祖先はすべて24000年前だった
→アジアの同一系統の共通祖先はさらに数千年前で、進出した初期集団は5000人未満
→その後、爆発的に人口を増やした状況が明らかになった(略)
・2014年にバイカル湖周辺の古人骨の核ゲノム解析が行われた
→新大陸の先住民にも共有されていることが判明した
→東アジア集団からの分離ではなくユーラシア西部集団との共通遺伝子
(それまでヨーロッパ人の遺伝子はコロンブス以降の混血と考えられていた)
・北米では、さらに古い人類の痕跡も報告されている
→現在の先住民とは別系統のホモ・サピエンスがいたのかも?
終章「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」より
・ゴーギャンがこのタイトルの大作を描いたのは19世紀の終わり
→ネアンデルタール人の化石に続きジャワ原人の化石が発見された時期
→直近10年の古代ゲノム解析で化石だけでは知れなかった事実が明らかになっている
・19世紀前半にヨーロッパとは異なる人類集団の研究が始まった→「人種」という概念
→20世紀後半の遺伝学研究で人種は連続しており区分できないことが明確になった
・種の定義を「自由に交配し生殖能力のある子孫を残す集団」とする考え方
→これに時間軸を入れると旧人や原人も同じ種になるので、便宜上分けているだけ
→種の下位としての「人種」という概念は、さらに生物学的な実体のないもの
・現代のヨーロッパ人・東アジア人・アフリカ人のSNP分析は明確に区分できるように見える
→それに様々な地域集団のSNP分析を加えると、どこにも境界がないことが見えてくる
→人為的な基準を導入しない限り「人種」を定義することは不可能
・同じ集団の中の個人間の遺伝子の違いのほうが、集団間の遺伝子の違いよりはるかに大きい
→もともとホモ・サピエンス遺伝子の99.9%は共通で、残りが個人あるいは集団の違い
→この0.1%を研究し、個人あるいは集団の違いを明らかにしているだけ
→違いの原因となる変異があるのは事実だが、大部分は交配集団に生まれるランダムな変化で、
→基本的な能力の違いを表すものではない→このことが結果を理解する上で重要
・ある環境下で有利あるいは不利になる遺伝子の違いがあることも事実
→特定の集団にだけ有利な遺伝子が共有されていることもあり、これが集団優劣の根拠だが、
→集団の持つ遺伝子構成は時間で大きく変化するので、集団優劣に意味はない
・0.1%の違いで人の優劣を決める能力主義か、99.9%の共通性を重視する平等主義か
→現実の社会は違いのほうに価値を持たせ過ぎているように思える・・・
・遺伝子の流れを糸にたとえると・・・
→それぞれの個人はホモ・サピエンスという巨大なネットを構成する結び目のひとつ
→様々な色があるが全体を構成する要素では個々の色ではなく「結び目があること」が重要
→個人はネットを構成する上では等しい価値を持っている
・言語や宗教など文化的な違いによって定義される「民族」に生物学的な基礎はあるか
→ゲノム解析により地域集団の成立は古いものでも数千年前と判明した
→人類集団は6万年の間に集合と離散を繰り返しているので時間軸では1割程度の長さ
→他集団との混合を経ない集団を「純粋な民族」としても数千年レベルでしか存在しない
(例・漢民族は5000年前から北東と南部の3集団が緩慢に融合する過程から生み出された概念で、
今もそのプロセスは続いている→遺伝的にまとまった集団ではない)
→今後も他の地域集団との混合は進み「民族」は生物学的な実態を失っていく
→民族と遺伝子を混同した議論は、さらに意味のないものになっていく
・現在の研究対象は(民族ではなく)地域の集団で3世代程度までの人々の集合
→遺伝的な特徴はこのレベルでの時代幅で議論されているもの
→このレベルでも疫病や戦争で変化しており異なる集団になっていることも多い
→数千年前から16世紀までは遺伝的な特徴をあまり変えずに存続してきた
→その後の変化は加速しており日本列島も例外ではない
・ヨーロッパ北方では青銅器時代以降に集団の交代に近い変化があった
→日本でも縄文時代から弥生・古墳時代にかけて大規模な遺伝的変化があった
→弥生時代にクニができた→その時代にクニという体制を持った集団が渡来したということ
→文化だけ取り入れるパターン、集団間で混血するパターン、集団が置換するパターン・・・
→文化の変遷と集団の遺伝的な変化との関係は様々でケースバイケース
→普遍的な法則は見出されていないが両者の関係が明らかになれば新たな解釈が生まれるはず
・人類集団の起源と拡散
→現時点ではホモ・サピエンス誕生の経緯と出アフリカ後の初期拡散状況の再現の研究
→将来的に数百体レベルでネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解析ができれば、
ホモ・サピエンス特有のゲノムが明確になり「私たちは何者か」の答えが出る
→化石記録が貧弱で不明だった6~2万年前の初期拡散状況もゲノム解析でシナリオができた
→特に気温の低い高緯度地域では詳しい分析が可能になり精度の高いものになってきている
→今後は低緯度地域で変性の進んだDNAデータを取り出す技術革新の進展がカギ・・・
・古代ゲノム研究の意義
→現在の歴史教科書は「アフリカでの人類の誕生」から、いきなり「四大文明の発展」に跳ぶ
→人類の道のりを通史として捉えることのない、このような記述に欠けているのは、
→「世界に展開したホモ・サピエンスは遺伝的にはほぼ均一な集団だった」という視点と、
→「文化は同じ起源から生まれ、文明の違いは環境や経緯と人々の選択の結果」という認識
・古代ゲノム研究は、その地に人類が到達した時点から現在までを通史として明らかにする
→その地の人骨さえそろえば、集団成立のシナリオを提供できる
→歴史や文明に対する認識も必然的に変えていくのが古代ゲノム研究・・・
「おわりに」より
・本書は2021年現在の情報によるもので今後の研究次第で異なるシナリオになる可能性もある
・2010年以降は次世代シークエンサの実用化により核ゲノムが取り扱えるようになったが、
→共同研究と巨額資金が必要で大部分はビッグラボといわれる世界で十指もない施設による研究
→考古学や形質人類学などのデータが抜け落ちる危険性もある→共同研究の重要性
→たとえば東アジア古代集団と渡来系弥生人との関係はドイツ・韓国の研究者との共同研究
・古代ゲノム研究は最新成果を常に把握していないとついていけなくなる分野
→なので著者が読みためた論文メモを地域別に再構成したのが本書
・・・
古代ゲノム研究・・・よくわからないけど、じつに興味深い分野でした・・・
人類の起源~古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」~
とゆー本のご紹介であります(備忘のための読書メモです)
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、こちらの記事の続きとゆーか、前回記事、前々回記事の前段階とゆーか・・・
日本などの古代史も含んだ最新研究による「人類の起源」であります
例によって目次のみ
以下、脳の外部記憶としてのメモ書きです
まず「はじめに」にあった本書のダイジェストより
・これまで現生人類ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカで生まれたとされてきたが、
→ネアンデルタール人のDNA解析により彼らの祖先と分かれたのは60万年前と判明した
→別れた後も交雑を繰り返し他の絶滅人類とも交雑していたことも判明しつつある
・現代人DNAとの比較研究で、現生人類はアフリカ→中東→ヨーロッパや南アジア→
東南アジアやオセアニア→東アジア→南北アメリカ大陸へと拡がったことが判明した
・どのように現代の地域集団を形成していったのか
→古代文明が誕生する直前のヨーロッパやインドでは集団の大きな遺伝的変化があった
・世界各地の人類集団(民族)は、ある地域における「ヒトの移動の総和」といえる
→特定の遺伝子分布の地域差は集団成立の有力な手がかりになる
・1980年代に発明されたPCR法はウィルス検知だけでなく人類学にも多大な恩恵をもたらした
→古代DNA研究は考古学・歴史学・言語学の分野にも大きなインパクトを与えている
→「人間とは何か」→現時点で何が明らかになり、研究は何を目指しているのか・・・
第一章「人類の登場」より
・1859年のダーウィンの進化論→ヒトの祖先は?→神から化石人類学へ
→約700万年に及ぶ人類進化が大まかに示された
・神話と科学の違い
→科学は間違いと訂正の歴史
→なので科学を間違いないと信奉することは理解の障害にもなる
→本書の古代ゲノム解析による説明も現時点での結論であり将来反証されることもある
・ホモ属にはいくつもの種があったが、現在生存しているのはサピエンス種だけ
・人類の定義→本書では「生物学的に自由に交配して子孫を残せるグループ」という視点
→この視点は世界の集団形成を理解する際にも重要
・人類の祖先とチンパンジーの祖先が分かれたのは700万年前
→ホモ属が登場するのは250~200万年前
→サピエンス種が登場するのは30~20万年前
→ホモ・サピエンスの出アフリカは6万年前、顕著な文化発展は5万年前(異説あり)
→どの時点をもって人類の誕生としているか→読み手の注意が必要
・文明が農耕からなら1万年、文字に残る「人類の歴史」からなら5000年・・・
→歴史的な経緯や地域環境による文明の違いはヒトの選択による「多様性」であり、
→世界中の文明はヒトという共通の基盤に立っている
→この認識は現実世界を理解するうえでも欠かせない視点
・現在では、異なる進化段階の種が同時代に生きていたこともわかっているが、
→進化傾向を捉えるためには初期猿人→猿人→原人→旧人→新人という段階は便利な考え方
→それでも同時代・同所に多数の化石人類が見つかっているので状況は混乱している
・約200万年前に登場したホモ・エレクトスは最初に出アフリカを果たした原人
→アフリカ・西アジア・中国・ジャワ島などで発見されている人類
→20万年前の化石もあり180万年も生存していた(ホモ・サピエンスは20万年程度)
→フローレス島で発見されたホモ・エレクトスから進化したホビットは6万年前まで生存
・ネアンデルタール人は旧人とされてきたが2016年のDNA分析の成功で大きく変わった
→これ以降、人類進化はDNAデータで語られるようになる
→ネアンデルタールで発達したのは主に視覚に関わる後頭葉部分
→ホモ・サピエンスで発達したのは思考や創造性などの前頭葉部分
→どちらも脳の容量はほぼ同じで交雑していた
(コラム1より)
・ホモ・サピエンスの大脳新皮質で共同体を構成する人の顔・名前・考え・バックグラウンドが
理解できる人数は150人程度
→なので狩猟採集社会から現代社会まで150人程度を社会構成の単位としてきた(ダンパー数)
→言語・文字・物語・宗教・歌・音楽といった文化要素により、時間や空間を超えて概念や
考え方を共有するハードウェアで、なんとか複雑な社会を形成していった
→現在は(脳の容量は変わらないのに)通信ネットワークで何百人(何千人)が同時につながりあい、
それらの大量のデータが行き交う高度な社会環境
→自分の脳の処理能力より、はるかに多量のデータにさらされている状況
→バランスのとれた情報処理ができずに社会が混乱しているのも至極当然・・・
第二章「私たちの隠れた祖先」より
・2010年以降に核DNA分析が可能になり、次々と新たな事実が明らかになっている
→1980年代からコンタミネーション(混入)が問題だったがDNA分析を前提とした発掘に
・ネアンデルタール人はユーラシア大陸の西半分に分布していた
→ホモ・サピエンス集団のひとつがネアンデルタールと交雑して世界に拡がった
→交雑しなかった集団もコーカサスや中東、北イランに存在しており現在のヨーロッパ人の
形成に関与したので、現代ヨーロッパ人のネアンデルタールDNAは相対的に少ない
・ホモ・サピエンスとネアンデルタールは数十万年も交雑している
→初期の交雑はアフリカとは考えにくく、ホモ・サピエンスの出アフリカが6万年前ではなく
40万年前よりやや新しい時代だったのか、あるいはホモ・サピエンスがユーラシア大陸で
他の未知の人類から進化したのか→まだ完全解明には至っていない
・デニソワ洞窟ではデニソワ人とネアンデルタール人の混血少女の化石が確認されている
→パプア人DNAの3~6%はデニソワ人DNAに由来
→東アジア・南アジア・アメリカ先住民もパプア人の1/20程度のデニソワ人DNAを共有
→東アジアのゲノムはパプアとは別で、少なくとも2回は別々にデニソワ人と交雑していた
→チベット人にもデニソワ人DNAがあるが、ホモ・サピエンスがチベット高原に来たのは11000年前
→これらから、デニソワ人は数万年前まで生きていた可能性が示された
・サハラ以南のアフリカ人ではデニソワ人と未知の人類との混血が推察される
→3人類とは別の人類がいてデニソワ人と交雑した可能性
→異なる系統人類の混血が長期間続いた結果がホモ・サピエンス遺伝子にも残っている
・ユーラシア大陸に拡散した人類は単一種ではなく各段階が同時期・同所に存在
→20世紀の終わりまでホモ・サピエンスは他地域進化説だった
→21世紀になると6万年前にアフリカを出て他の人類を駆逐したというアフリカ起源説
→2010年以降は拡散過程で他の人類の遺伝子を取り込んだことが明らかになった
→アフリカ起源説が他地域進化説の一部を取り込む形で収束した
・生存に不利な遺伝子は徐々に集団から取り除かれる
→アフリカでも世界展開の途中でも交雑は長期に繰り返されている
→iPS細胞や遺伝子編集技術で理論的にはネアンデルタール人やデニソワ人の復活も可能
第三章「人類揺籃の地アフリカ」より
・アフリカでのホモ・サピエンス拡散の様子(略)
・ホモ・サピエンスが30万年前にアフリカで誕生したことはほぼ定説になっているが、
→ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先から分岐したのは60万年前と判明してるのに、
→長期間にわたるホモ・サピエンスの祖先の化石がアフリカにないこと
→数十万年前にはネアンデルタール人と交雑があったことを考えると、
→最初の祖先はユーラシア大陸の原人で、
→そこから3人類が生まれ30万年前以降にアフリカに移動したグループが世界に拡がり、
→残ったグループはネアンデルタールと交雑した後に絶滅した、とも考えられる
・異なる人類の交雑が明らかになったので、起源はアフリカだけでなく広範囲で考えるべき
→イスラエルでは古いネアンデルタールよりも古いホモ・サピエンスが発見されている
→古い交雑はこの地域だった可能性がある
・ホモ・サピエンスの世界展開は、現代人のゲノム解析から6万年前以降とされてきたが、
中国・ギリシャ・東南アジア・オーストラリアから、それよりも古い化石の報告がある
・農耕民と牧畜民の起源
→アフリカ西部の農耕による人口拡大→移動→集団(言語)の分化
(世界各地でも初期農耕民の拡大が言語族の分布と結びついている)
→牧畜民には乳糖耐性遺伝子が必要→牧畜とともにヨーロッパに(新石器時代にはなかった)
→生業と遺伝子と言語には密接な関係がある
・現代人のゲノムにはネアンデルタール人やデニソワ人とは異なる人類との交雑を認める結果も
示されており、アフリカには30万年前の謎の人類ホモ・ナレディもいた・・・
第四章「ヨーロッパへの進出」より
・ホモ・サピエンスの出アフリカは20万年前以降に何度か試みられていた
→我々につながる祖先の出アフリカは6~5万年前
→シベリアでのネアンデルタールとの交雑時期は52000~58000年前
→中東での交雑は出アフリカの初期と考えられるので6万年前が妥当
→ただし南アジア・オーストラリアなどで6万年前より古い化石や石器が見つかっている
→6万年前より以前は放射性炭素年代測定が困難なので各説がある
→これ以降1万年前の農業生産まで(後期旧石器時代)の気候変動が離散と集合を促した
・現代人につながる系統だけでも、出アフリカから1万年の間に東アジア系・ヨーロッパ系・
ユーラシア基層集団の3系統が成立した
・出アフリカ集団は単一系統ではなく現在の集団はそれらの離合拡散・交雑・隔離を経たもの
・最も研究の進んでいるヨーロッパ集団について(略)
・ヨーロッパでも日本でも狩猟採集民のゲノムは10%から25%
→基本的に狩猟採集民は農耕民の社会に飲み込まれている
・5300年前のアイスマンのゲノムはアルプス人ではなくサルディニア人と近縁だった
→サルディニア人は8000年前に移住して混合しなかったヨーロッパ初期農耕民の子孫
→移住前の農耕民のゲノムを残しており現代ヨーロッパ人とは異なる→なぜか?
→5000年前にヨーロッパ人の遺伝的な構成が大きく変わったから
→その原因は東のステップ地域から来た牧畜民
→ヨーロッパ人の地域差は狩猟採集民と農耕民と牧畜民の混合の仕方の違い
→牧畜民のゲノムの割合が高いほど身長が高いなど・・・
→牧畜民ゲノムからはペスト菌DNAの断片が検出されており農耕民に大打撃を与えた可能性
→古代ゲノム解析は疫病研究にも重要な知見をもたらす
第五章「アジア集団の成立」より
・1万年前より古いユーラシア大陸の古代ゲノム解析は一部しか行われていないが、
→出アフリカ集団は中東で1万年ほど停滞していた
→5万年前より新しい時代にヨーロッパからシベリアまで拡散した
・ユーラシア東部へは北ルートと南ルートが考えられている
→南ルートでは古代南インド狩猟民集団→一部が東南アジアへ→デニソワ人と混血?
→一部がパプアニューギニア、オーストラリアへ
→北ルートで北上したグループが古代東アジア集団を形成した?
・ヒントは縄文人のゲノム
→日本列島にホモ・サピエンスが到達したのは4万年前
→16000年前に土器が作られ3000年前に稲作が入るまでの13000年の間が縄文時代
→この間に遺伝組成を変えるような外部からの流入はなかったので縄文人ゲノムがヒントに
・縄文人のゲノムを共有している現在の東アジア人
多い順にアイヌ集団→沖縄の人→本州・四国・九州の日本人
→沿海州の先住民、韓国人、台湾の先住民も僅かに共有している
→アムール流域の先住民、新石器・鉄器時代の台湾人、チベット高原の集団とは非常に古い
時代に分岐した同じ系統に属することも判明している
→古代南インド狩猟民集団→チベットや東アジアの沿岸地域へ→日本では縄文人に
・縄文人は4万年前以降に異なるふたつの系統が合流して形成された
→別々に南北から流入したのか大陸沿岸部で合流してから流入したのかは不明
・シベリア集団の変遷、アメリカ大陸集団の起源・・・
→複雑な集団の置換によりユーラシア北部から南北アメリカのモザイク状の遺伝構成へ
・1万年前以降は解析できる人骨も多く、1万年前には遺伝的に区別できる9集団がいた
→これらの離合集散が青銅器時代以降の集団形成に関わることになる
→スキタイ、匈奴、フン族などの遊牧騎馬民族も異なる遺伝的特徴を持った集団の連合体
→なので中央アジアの広大なステップを遺伝的に単一の集団が支配したことはない
・3回にわたる移住の波が南アジア集団の遺伝的構成を決定した
→9000年前の狩猟採集民と初期農耕民の混合
→7400~5700年前の混合完成と、その後の北方集団との混合
→4600~3900年前のインダス文明の初期農耕民にはイラン牧畜民や狩猟採集民ゲノムもある
・南アジアから東南アジアには5万年前
→どちらもDNA保存に適した地域ではないので現代人DNAからの考察
→遺伝的な分化は基本的に言語集団に対応している
→東南アジアの半島部と島嶼部は、ホモ・サピエンスが最初に拡散した氷河期には
スンダランドで一つの陸塊だった
→ヨーロッパ同様、農耕以前の狩猟採集民ゲノムは伝わっていない
・南太平洋・オセアニア(略)
・中国の南北地域集団
→今も言語的にも遺伝的にも異なり過去の違いはさらに大きい
→黄河流域と福建省では1万年~6000年前まで遺伝的に区別しうる集団だった
→北方集団と東南アジア集団
・日本への渡来の起源
→内モンゴル自治区東南部から遼寧省北部に流れる西遼河流域の雑穀農耕民の古代ゲノムには
日本や韓国の現代人ゲノムとの共通性を見いだせる
→日本語や韓国語の起源地と考えられるが、それ以外との関係はない
→なぜ朝鮮半島の方向だけに拡散したのかは、さらに多くの古代ゲノムが必要
→この集団の動きが弥生時代初期の日本列島への農耕民の流入に(拡散から約2000年後)
→ところが弥生時代初期の日本列島での農耕の始まりは水田稲作→なぜか?
→この分析には稲作起源地の長江流域の古代ゲノムが入っていないから
→長江流域の古代ゲノム解析が進めば日本への複雑な渡来経路が見えてくるはず
・東アジアの大陸部では北方のふたつの雑穀農耕民と南方の稲作農耕民が拡大した
→それぞれの混合が続くことで現代人集団が形成された
・東南アジアや東アジアの沿岸部では初期拡散定着民と農耕民の混合で現代人集団が形成された
・1万年前以降に起こった各地の農耕は集団の拡散を促し様々な言語グループを生み出した
第六章「日本列島集団の起源」より
・二重構造モデル説
→縄文時代と弥生時代の人骨の違い
(旧石器時代に直接来た集団と北東アジアで新石器時代に形質変化してから来た集団の違い)
→現代の北海道アイヌ集団・琉球列島集団と本州四国九州を中心とする集団の違い
(稲作のなかった北海道と、北部九州より稲作が2000年遅かった琉球列島との違い)
→古代ゲノム解析からは単純すぎる説と指摘されている→地域差が大きいから
・縄文時代
→旧石器時代の後半から縄文時代までの形質は連続している
→縄文人のゲノム解析からは現代の東アジア集団とはかけ離れた特徴が見られる
→礼文島の縄文人からは極北集団に見られる脂肪代謝遺伝子の有利な異常が見られる
→現代日本人でも3割に見られ韓国や中国には殆ど見られないハプログループは縄文人由来
→東南アジアからの初期拡散で北上した中の沿岸集団が縄文人の母体だが均一ではない
・弥生時代
→縄文時代にも農耕はあったので水田稲作農耕より金属器使用を弥生時代の特徴とすべき
→日本では、たまたま同じ時期に入ってきただけ(世界では別のルートで別の時期に)
→稲作農耕は長江中流域から拡散したもので、日本の青銅器の源流は北東アジアのもの
→異なる集団が渡来した?
→長江流域からの稲作農耕民集団と、西遼河から移動中に青銅器文化を得た雑穀農耕民集団が
朝鮮半島経由で別々に渡来した?(長江沿岸部やオホーツクから直接伝播したルートもあった?)
→稲作の東進により縄文人との混合が進んでいったのなら、東に行くほど縄文系ゲノムに
寄った位置になるはずだが、そうはなっていない
→弥生時代の中期以降も各地に多くの渡来があったと想定しないと説明できない
→弥生時代から古墳時代における大陸からの渡来集団の影響を考慮すべき
→ただし古墳時代の人骨は階級の出現によってランダムなサンプルとはなりえない
・琉球列島集団
→旧石器人骨との関係は不明だが、縄文時代以降は日本列島からの集団の移住があった
→7300年前の喜界カルデラ爆発により九州と途絶して独自集団となった
→弥生時代から再び本土の影響を受けグスク時代の南九州からの農耕民流入で加速され現在に至る
→縄文ゲノムが30%残っているのは後の集団の影響が本土よりは小さかったから
・北海道集団
→アイヌ集団は縄文人を基盤にオホーツク文化人の遺伝子を受け取り成立したもの
→縄文ゲノムが70%残っており大陸北方系ゲノムも引き継いでいる
(琉球列島集団には台湾より南のゲノムの影響がないのとは対照的)
・二重構造モデルでは稲作を受け入れた中央と遅れた周辺で形質の違いが生じたと考えるが、
この発想からは、周辺集団と他の地域集団との交流の姿を捉えることはできない
(コラム4より)
・鳥取市青谷上寺地遺跡の32個体の人骨分析(単一遺跡では日本最大規模の分析)
→9割に母系の血縁がなく、すべて現代日本人の範疇に入るものだった
→しかも縄文遺伝子が強い者から大陸遺伝子が強い者まで様々だった
→長く維持された村落だと同族婚が増えて核ゲノムも似たものになるはず
→木製容器や管玉の生産も考えると流入や離散を繰り返す古代都市だった可能性が高い
→多数の創傷もあるが解体痕もあり戦闘被害者だけではなかった可能性がある
→死亡時期は放射性炭素年代測定法により2世紀の後半と判明している
→2世紀の後半は複数の史書にある「倭国大乱」の時期
→混乱した社会状況を示す代表的な遺跡といえる
2023年12月追記です
フロンティア第1回「日本人とは何者なのか」という番組で、著者らが語っておられたのは、
①縄文人は4~5万年前にアフリカからアジアにはじめて到着し、その後の農耕民の進出で、
東南アジアではほぼ消滅した(タイのマニ族に近い)古いホアビニアン文化を持つ狩猟採集民で、
東アジアでは存在しないDNAの集団
→その一部が東南アジアから沿岸沿いを北上、当時は寒冷期で今より100m以上も海面が低く、
大陸と陸続きだった日本にやってきた
→その後の海進により孤立し、1万年以上も他集団と混交せず発展した世界でも稀な集団
→日本にやってきた集団は1000人→今の日本人は1億人以上
②弥生人は、3000年前の北東アジアから稲作と金属器を(別々に?)持ってきた(別々の?)集団と
縄文人との混交集団
(日本人はこの二重構造と考えられてきたが古墳人DNAの6割以上は別物なので三重構造)
③古墳人(庶民)は、戦乱が続いていた東アジアの様々な地域から様々な時代の様々な地域に
1000年~1500年間に渡り(おそらく中世まで)流入した様々な集団と縄文弥生人との混交集団
→今の日本人よりはるかにDNA・文化・言語など多様性のある集団で錯綜していたはず
→なので今後(科博に)予算があれば、最も研究したいのが古墳人(庶民)のDNA
→東ユーラシアのあらゆる集団のDNAが古墳人を形成していたかも知れないから・・・
第七章「新大陸アメリカへ」より
・アメリカ大陸はホモ・サピエンスが最後に到達した大陸
→これまではベーリング陸橋からアラスカの無氷回廊をとおり拡散したと考えられてきた
→13000年前から3度の移住がありクロヴィス文化などが形成されたと・・・
→ところが南米最南端でクロヴィス文化より古い遺跡が発見された
→無氷回廊も寒冷すぎるので現在では海沿いのルートで移動したと考えられている
・新大陸の先住民の共通祖先はすべて24000年前だった
→アジアの同一系統の共通祖先はさらに数千年前で、進出した初期集団は5000人未満
→その後、爆発的に人口を増やした状況が明らかになった(略)
・2014年にバイカル湖周辺の古人骨の核ゲノム解析が行われた
→新大陸の先住民にも共有されていることが判明した
→東アジア集団からの分離ではなくユーラシア西部集団との共通遺伝子
(それまでヨーロッパ人の遺伝子はコロンブス以降の混血と考えられていた)
・北米では、さらに古い人類の痕跡も報告されている
→現在の先住民とは別系統のホモ・サピエンスがいたのかも?
終章「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」より
・ゴーギャンがこのタイトルの大作を描いたのは19世紀の終わり
→ネアンデルタール人の化石に続きジャワ原人の化石が発見された時期
→直近10年の古代ゲノム解析で化石だけでは知れなかった事実が明らかになっている
・19世紀前半にヨーロッパとは異なる人類集団の研究が始まった→「人種」という概念
→20世紀後半の遺伝学研究で人種は連続しており区分できないことが明確になった
・種の定義を「自由に交配し生殖能力のある子孫を残す集団」とする考え方
→これに時間軸を入れると旧人や原人も同じ種になるので、便宜上分けているだけ
→種の下位としての「人種」という概念は、さらに生物学的な実体のないもの
・現代のヨーロッパ人・東アジア人・アフリカ人のSNP分析は明確に区分できるように見える
→それに様々な地域集団のSNP分析を加えると、どこにも境界がないことが見えてくる
→人為的な基準を導入しない限り「人種」を定義することは不可能
・同じ集団の中の個人間の遺伝子の違いのほうが、集団間の遺伝子の違いよりはるかに大きい
→もともとホモ・サピエンス遺伝子の99.9%は共通で、残りが個人あるいは集団の違い
→この0.1%を研究し、個人あるいは集団の違いを明らかにしているだけ
→違いの原因となる変異があるのは事実だが、大部分は交配集団に生まれるランダムな変化で、
→基本的な能力の違いを表すものではない→このことが結果を理解する上で重要
・ある環境下で有利あるいは不利になる遺伝子の違いがあることも事実
→特定の集団にだけ有利な遺伝子が共有されていることもあり、これが集団優劣の根拠だが、
→集団の持つ遺伝子構成は時間で大きく変化するので、集団優劣に意味はない
・0.1%の違いで人の優劣を決める能力主義か、99.9%の共通性を重視する平等主義か
→現実の社会は違いのほうに価値を持たせ過ぎているように思える・・・
・遺伝子の流れを糸にたとえると・・・
→それぞれの個人はホモ・サピエンスという巨大なネットを構成する結び目のひとつ
→様々な色があるが全体を構成する要素では個々の色ではなく「結び目があること」が重要
→個人はネットを構成する上では等しい価値を持っている
・言語や宗教など文化的な違いによって定義される「民族」に生物学的な基礎はあるか
→ゲノム解析により地域集団の成立は古いものでも数千年前と判明した
→人類集団は6万年の間に集合と離散を繰り返しているので時間軸では1割程度の長さ
→他集団との混合を経ない集団を「純粋な民族」としても数千年レベルでしか存在しない
(例・漢民族は5000年前から北東と南部の3集団が緩慢に融合する過程から生み出された概念で、
今もそのプロセスは続いている→遺伝的にまとまった集団ではない)
→今後も他の地域集団との混合は進み「民族」は生物学的な実態を失っていく
→民族と遺伝子を混同した議論は、さらに意味のないものになっていく
・現在の研究対象は(民族ではなく)地域の集団で3世代程度までの人々の集合
→遺伝的な特徴はこのレベルでの時代幅で議論されているもの
→このレベルでも疫病や戦争で変化しており異なる集団になっていることも多い
→数千年前から16世紀までは遺伝的な特徴をあまり変えずに存続してきた
→その後の変化は加速しており日本列島も例外ではない
・ヨーロッパ北方では青銅器時代以降に集団の交代に近い変化があった
→日本でも縄文時代から弥生・古墳時代にかけて大規模な遺伝的変化があった
→弥生時代にクニができた→その時代にクニという体制を持った集団が渡来したということ
→文化だけ取り入れるパターン、集団間で混血するパターン、集団が置換するパターン・・・
→文化の変遷と集団の遺伝的な変化との関係は様々でケースバイケース
→普遍的な法則は見出されていないが両者の関係が明らかになれば新たな解釈が生まれるはず
・人類集団の起源と拡散
→現時点ではホモ・サピエンス誕生の経緯と出アフリカ後の初期拡散状況の再現の研究
→将来的に数百体レベルでネアンデルタール人やデニソワ人のゲノム解析ができれば、
ホモ・サピエンス特有のゲノムが明確になり「私たちは何者か」の答えが出る
→化石記録が貧弱で不明だった6~2万年前の初期拡散状況もゲノム解析でシナリオができた
→特に気温の低い高緯度地域では詳しい分析が可能になり精度の高いものになってきている
→今後は低緯度地域で変性の進んだDNAデータを取り出す技術革新の進展がカギ・・・
・古代ゲノム研究の意義
→現在の歴史教科書は「アフリカでの人類の誕生」から、いきなり「四大文明の発展」に跳ぶ
→人類の道のりを通史として捉えることのない、このような記述に欠けているのは、
→「世界に展開したホモ・サピエンスは遺伝的にはほぼ均一な集団だった」という視点と、
→「文化は同じ起源から生まれ、文明の違いは環境や経緯と人々の選択の結果」という認識
・古代ゲノム研究は、その地に人類が到達した時点から現在までを通史として明らかにする
→その地の人骨さえそろえば、集団成立のシナリオを提供できる
→歴史や文明に対する認識も必然的に変えていくのが古代ゲノム研究・・・
「おわりに」より
・本書は2021年現在の情報によるもので今後の研究次第で異なるシナリオになる可能性もある
・2010年以降は次世代シークエンサの実用化により核ゲノムが取り扱えるようになったが、
→共同研究と巨額資金が必要で大部分はビッグラボといわれる世界で十指もない施設による研究
→考古学や形質人類学などのデータが抜け落ちる危険性もある→共同研究の重要性
→たとえば東アジア古代集団と渡来系弥生人との関係はドイツ・韓国の研究者との共同研究
・古代ゲノム研究は最新成果を常に把握していないとついていけなくなる分野
→なので著者が読みためた論文メモを地域別に再構成したのが本書
・・・
古代ゲノム研究・・・よくわからないけど、じつに興味深い分野でした・・・