2024年04月19日
画期的新説!!!
とーとつですが「画期的新説」・・・
古代中世の礼制と法制・政治との関係史が専門の歴史学者が「邪馬台はヤマトである」ことを、
文献史学の立場から結論したとゆー、古代史の新説であります
文芸春秋3月特別号に掲載と教えてもらってて、ようやく図書館で借りることができました

ええ、

第170回芥川賞受賞作品なんぞを読むのは後回しにして・・・
ちなみに直木賞は万城目学の「八月の御所グラウンド」でしたね
本題

以下、掲載記事のうち個人的に興味のあった部分のみ、てきとーにメモしました
(著作物からのメモなので問題があれば非公開にします)
・魏志倭人伝の行程記事より
→朝鮮半島から伊都国(後の筑前国怡土郡、今の福岡県糸島市)までは疑問の余地はない
→その先のルートが曖昧(なので今も「決定版」が山ほどある
)
→古代中国史書の地理情報は儒教の世界観に基づく記述なので根本が机上の空論
→行程解釈で争う限り解決の見込みはない→それを離れて見つけるしかない
→自分は門外漢だと思っていたが古代中国「礼」文化の日本列島への影響を追跡していて、
行程記事に依存しない文献資料を見つけた
→証明は学術論文で発表した
→一般向け紹介は著書として書ける機会を待つことにして、あらましと結論を簡単に紹介
・邪馬台国論争最大の誤り→新井白石あたりがヤマタイと読んだこと
→三世紀中国語の「台」の発音はダとドゥの中間
→邪馬台は上代日本語のヤマトをヤマダ(ヤマドゥ)のように聞き取り音写したもの
→日本の正史でも日本全体や奈良地方を表すヤマトを野馬台や夜摩苔とも書いた
(九州の山門は甲類でヤマトとは上代の発音が違う)
→なので邪馬台は日本全体や奈良地方を表すヤマトしかないはず
→日本全体にしか結びつかなければ場所は特定できず、特定地域ならそこが邪馬台国
→私の説ではむしろ奈良地方以外を指すヤマトが重要になる
・ヤマトの伸縮が最大のカギ
→国号を指すヤマトを最上層、現在の奈良県地方(律令制の大和国)を指すヤマトを中間層、
奈良盆地東部(律令制の磯城郡と十市郡の領域→大和郷)を指すヤマトを最下層と呼ぶ
→これら三つのヤマトには日本・大和・大倭・倭などの漢字が宛てられた
→「日本」は日本書紀で一例だけ中間層を指すが残り218例は最上層を指す
・ヤマトの漢字表記の変遷
→日本書紀の本文(朝廷の公式見解)では倭の9割以上が中間層・最下層を指す
→注(中国・百済の外国典籍引用)では倭の全てが最上層を指す
→本文では国号を日本、それ以外を倭と書き分け、注の外国典籍引用では倭は国号→食い違う
→卑弥呼の時代に訓読みは存在せず、中国人も倭をヤマトではなくワに近い発音で読んだ
→ヤマトノクニの漢字表記は大倭国→大養徳国→大倭国→大和国と変遷した
→大も養徳(ヤウトク)も和も美称で、地名の本質に関わる漢字は倭
・マトリョーシカのような入れ子構造の発生
→行政区分の倭国と卑弥呼王朝として国交していた倭国との区別がつかないことが重要
→古事記には14例の倭が現れるが、うち12例は確実に中間層と最下層
(残り1例は解釈を確定できず、もう1例は国生み神話での本州を指す)
→日本語の地名ヤマトも漢字の地名倭も三つの異なるスケールで使われた
→別々に生まれたはずはなく残りが派生したと考えるのが自然
・倭には固有の意味がない
→倭は固有名詞を表すためだけに委に人偏をつけて生み出された字とされる
(正確には委という発音の人や土地を表す固有名詞)
→通常、訓を宛てる時は漢字が持つ意味に対応する日本語を宛てるが倭には意味がない
→日本語話者(倭人)が意図的に強い理由に基づいてヤマトという日本語を宛てた
→倭もヤマトも三つの規模の地域を指した
→倭はもともと後漢までに中国が日本列島・人を呼ぶ固有名詞と決めた言葉
→小さな国をいくつも内部に持つ民族全体と彼らの居住する地域全体を指した(最上層)
→なので中間層や最下層の倭は後から生まれたと考えるしかない
・ヤマトは狭い地域の地名
→国号をヤマトと呼んだ確実な用例は8世紀前半の日本書紀から
→万葉集などの「シキシマのヤマトの国」は国号か奈良地方かを問わない
→シキシマは古事記(崇神)や日本書紀(欽明)で王宮の所在地として現れる
→明らかに奈良地方磯城郡内(中間層)の地名で磯城郡にはヤマト(最下層)を含む
→なのでこの結合はこの狭い地域で起こり統一王朝の国号へ拡大したと考えるしかない
→アキツシマもヤマト(中間層)内部の狭い地域の地名だった→本州や国土全体を指す美称に
→これらが国号の代名詞となったのは枕詞として結びついていたヤマトが拡大した結果
→ヤマトはこの小さな地域名から出発した→まさしく魏志倭人伝の邪馬台(ヤマト)
→卑弥呼の時代には統一王朝全体を指す倭と、内部の小国を指すヤマトが別々に存在した
→倭は(国内で)最上層→中間層→最下層へと縮小方向の変化
→ヤマトは(国内で)最下層→中間層→最上層へと拡大方向の変化
→なぜ逆向きの変化が起こったか、どちらが先か・・・
・国の中に国がある二重構造
→統一王朝は中国が用いた倭をそのまま国号とした
→倭国の中に邪馬台国、奴国、伊都国など数十の国があり、これは律令制になってからも同じ
→遅くとも卑弥呼の時代から、明治まで16世紀以上も続いた国の二重構造
→東アジアで同じ二重構造を持つのは中国歴代王朝のみ→これをベースにした模倣
・中国の国号ルールと大倭と書かれた理由
→中国では統一王朝樹立直前の領地名(諸侯国としての国名)を国号とする
→周から唐までの不文律で例外のない鉄則
→諸侯国としての国名に大をつけて統一王朝の国名とする(大唐など)
→ならば大倭は倭から出発した統一王朝か?→倭という小国は日本にはなかった
→ところが倭という漢字にヤマトという日本語を宛てた事実がある
→そしてヤマトという小国が卑弥呼の邪馬台国として存在した事実がある
・女王卑弥呼のもと倭国は数十年ぶりに統一王朝となり二代続いた
→倭王には邪馬台国の出身者が就任するという方向性が生まれたはず
→その後、倭の五王が現れるまでの継承は分からないが、
→倭国が諸侯国の邪馬台国を出発点としたという形で記憶され倭の五王も朝廷も継承した
→国号の倭と出発点の邪馬台との齟齬の理由は、倭だけが中国語ということに尽きる
・中国王朝が黄河流域のみだった時代には、倭は大陸南部の異民族集団を指した
→王朝拡大に伴い大陸世界も拡大して、倭は東海の果ての異民族を指すに至った
→倭は中国の統治理念の都合と歴史で生まれた呼び名
→いっぽう邪馬台、奴、伊都などは日本語の地名を中国人が音写したもの
・倭王朝は邪馬台が発展したものだと統一王朝が主張するには、時代背景も民族も言語も違う
二つの地名を結合する荒業が必要だった
→倭国の朝廷は訓読という他国に類をみない手段で倭をヤマトと読むことにした
→これにより最上層から最下層まで全ての倭をヤマトと読み、ヤマトを倭と書けるようになった
→倭は最初からヤマトであったことにし、狭い地域ヤマトも最初から倭であったことにした
→国号の倭に国内向けの発音ヤマトを与え、地名のヤマトに倭という漢字表記を与えた
→情報の追加処理だけなので国際的にも国内的にも改変を要さず混乱もない解決法だった
・邪馬台国と纏向遺跡
→最も小さい地域名としての邪馬台ヤマトも倭という漢字表記を獲得した
→倭里→倭郷→大和郷になった
(その地名を代表させた律令制の行政区分ヤマトノクニは倭国→大倭国→大養徳国→大和国に)
→大和郷は垂仁・景行天皇の記紀伝承から纏向村(現在の桜井市北部)とされる(直木幸次郎説)
→最近の考古学の成果(纏向遺跡の規模と内容)と一致するが、まだ状況証拠だけ
→これまでの文献史学では箸墓古墳のサイズが魏志倭人伝の記述と一致するだけ
→私の推定により文献史学からの確かな補強を与えることができる
・奈良地方にヤマトという地名があったから邪馬台だと言っているのではない
→奈良のヤマトを倭と書くこと、倭という統一王朝全体をヤマトと読むことの二つが、
→前段階の諸侯国から統一王朝を樹立という中国的な構図でしか説明できないこと、
→その構図に合致する諸侯国の地が3世紀には邪馬台ヤマトしかなく、8世紀前後には確実に
纏向地域の倭ヤマトであることから、両者をイコールと推断して邪馬台=纏向地域と結論した
さてさて・・・
本になれば是非(借りて)読んでみたいと思いましたが、門外漢のさらに門外漢のわたくしには、
邪馬台国の話つーのは小松左京の邪馬台国=ハワイ説とか、あらゆる諸説が乱立してるから
じつに面白いとも思ってます
でも、実際の研究者からみれば、考古学と文献史学それぞれの最新成果にしても、その中から
自説に都合にいい部分だけを抽出して使う輩もいるようで、さらに発掘調査への厳しい制限
もあって、なかなか結論が出ないようですね
記事の最後にあった参考文献も面白そうだったのでメモしておきます

古代中世の礼制と法制・政治との関係史が専門の歴史学者が「邪馬台はヤマトである」ことを、
文献史学の立場から結論したとゆー、古代史の新説であります
文芸春秋3月特別号に掲載と教えてもらってて、ようやく図書館で借りることができました

ええ、

第170回芥川賞受賞作品なんぞを読むのは後回しにして・・・

ちなみに直木賞は万城目学の「八月の御所グラウンド」でしたね

本題

以下、掲載記事のうち個人的に興味のあった部分のみ、てきとーにメモしました
(著作物からのメモなので問題があれば非公開にします)
・魏志倭人伝の行程記事より
→朝鮮半島から伊都国(後の筑前国怡土郡、今の福岡県糸島市)までは疑問の余地はない
→その先のルートが曖昧(なので今も「決定版」が山ほどある

→古代中国史書の地理情報は儒教の世界観に基づく記述なので根本が机上の空論
→行程解釈で争う限り解決の見込みはない→それを離れて見つけるしかない
→自分は門外漢だと思っていたが古代中国「礼」文化の日本列島への影響を追跡していて、
行程記事に依存しない文献資料を見つけた
→証明は学術論文で発表した
→一般向け紹介は著書として書ける機会を待つことにして、あらましと結論を簡単に紹介
・邪馬台国論争最大の誤り→新井白石あたりがヤマタイと読んだこと
→三世紀中国語の「台」の発音はダとドゥの中間
→邪馬台は上代日本語のヤマトをヤマダ(ヤマドゥ)のように聞き取り音写したもの
→日本の正史でも日本全体や奈良地方を表すヤマトを野馬台や夜摩苔とも書いた
(九州の山門は甲類でヤマトとは上代の発音が違う)
→なので邪馬台は日本全体や奈良地方を表すヤマトしかないはず
→日本全体にしか結びつかなければ場所は特定できず、特定地域ならそこが邪馬台国
→私の説ではむしろ奈良地方以外を指すヤマトが重要になる
・ヤマトの伸縮が最大のカギ
→国号を指すヤマトを最上層、現在の奈良県地方(律令制の大和国)を指すヤマトを中間層、
奈良盆地東部(律令制の磯城郡と十市郡の領域→大和郷)を指すヤマトを最下層と呼ぶ
→これら三つのヤマトには日本・大和・大倭・倭などの漢字が宛てられた
→「日本」は日本書紀で一例だけ中間層を指すが残り218例は最上層を指す
・ヤマトの漢字表記の変遷
→日本書紀の本文(朝廷の公式見解)では倭の9割以上が中間層・最下層を指す
→注(中国・百済の外国典籍引用)では倭の全てが最上層を指す
→本文では国号を日本、それ以外を倭と書き分け、注の外国典籍引用では倭は国号→食い違う
→卑弥呼の時代に訓読みは存在せず、中国人も倭をヤマトではなくワに近い発音で読んだ
→ヤマトノクニの漢字表記は大倭国→大養徳国→大倭国→大和国と変遷した
→大も養徳(ヤウトク)も和も美称で、地名の本質に関わる漢字は倭
・マトリョーシカのような入れ子構造の発生
→行政区分の倭国と卑弥呼王朝として国交していた倭国との区別がつかないことが重要
→古事記には14例の倭が現れるが、うち12例は確実に中間層と最下層
(残り1例は解釈を確定できず、もう1例は国生み神話での本州を指す)
→日本語の地名ヤマトも漢字の地名倭も三つの異なるスケールで使われた
→別々に生まれたはずはなく残りが派生したと考えるのが自然
・倭には固有の意味がない
→倭は固有名詞を表すためだけに委に人偏をつけて生み出された字とされる
(正確には委という発音の人や土地を表す固有名詞)
→通常、訓を宛てる時は漢字が持つ意味に対応する日本語を宛てるが倭には意味がない
→日本語話者(倭人)が意図的に強い理由に基づいてヤマトという日本語を宛てた
→倭もヤマトも三つの規模の地域を指した
→倭はもともと後漢までに中国が日本列島・人を呼ぶ固有名詞と決めた言葉
→小さな国をいくつも内部に持つ民族全体と彼らの居住する地域全体を指した(最上層)
→なので中間層や最下層の倭は後から生まれたと考えるしかない
・ヤマトは狭い地域の地名
→国号をヤマトと呼んだ確実な用例は8世紀前半の日本書紀から
→万葉集などの「シキシマのヤマトの国」は国号か奈良地方かを問わない
→シキシマは古事記(崇神)や日本書紀(欽明)で王宮の所在地として現れる
→明らかに奈良地方磯城郡内(中間層)の地名で磯城郡にはヤマト(最下層)を含む
→なのでこの結合はこの狭い地域で起こり統一王朝の国号へ拡大したと考えるしかない
→アキツシマもヤマト(中間層)内部の狭い地域の地名だった→本州や国土全体を指す美称に
→これらが国号の代名詞となったのは枕詞として結びついていたヤマトが拡大した結果
→ヤマトはこの小さな地域名から出発した→まさしく魏志倭人伝の邪馬台(ヤマト)
→卑弥呼の時代には統一王朝全体を指す倭と、内部の小国を指すヤマトが別々に存在した
→倭は(国内で)最上層→中間層→最下層へと縮小方向の変化
→ヤマトは(国内で)最下層→中間層→最上層へと拡大方向の変化
→なぜ逆向きの変化が起こったか、どちらが先か・・・
・国の中に国がある二重構造
→統一王朝は中国が用いた倭をそのまま国号とした
→倭国の中に邪馬台国、奴国、伊都国など数十の国があり、これは律令制になってからも同じ
→遅くとも卑弥呼の時代から、明治まで16世紀以上も続いた国の二重構造
→東アジアで同じ二重構造を持つのは中国歴代王朝のみ→これをベースにした模倣
・中国の国号ルールと大倭と書かれた理由
→中国では統一王朝樹立直前の領地名(諸侯国としての国名)を国号とする
→周から唐までの不文律で例外のない鉄則
→諸侯国としての国名に大をつけて統一王朝の国名とする(大唐など)
→ならば大倭は倭から出発した統一王朝か?→倭という小国は日本にはなかった
→ところが倭という漢字にヤマトという日本語を宛てた事実がある
→そしてヤマトという小国が卑弥呼の邪馬台国として存在した事実がある
・女王卑弥呼のもと倭国は数十年ぶりに統一王朝となり二代続いた
→倭王には邪馬台国の出身者が就任するという方向性が生まれたはず
→その後、倭の五王が現れるまでの継承は分からないが、
→倭国が諸侯国の邪馬台国を出発点としたという形で記憶され倭の五王も朝廷も継承した
→国号の倭と出発点の邪馬台との齟齬の理由は、倭だけが中国語ということに尽きる
・中国王朝が黄河流域のみだった時代には、倭は大陸南部の異民族集団を指した
→王朝拡大に伴い大陸世界も拡大して、倭は東海の果ての異民族を指すに至った
→倭は中国の統治理念の都合と歴史で生まれた呼び名
→いっぽう邪馬台、奴、伊都などは日本語の地名を中国人が音写したもの
・倭王朝は邪馬台が発展したものだと統一王朝が主張するには、時代背景も民族も言語も違う
二つの地名を結合する荒業が必要だった
→倭国の朝廷は訓読という他国に類をみない手段で倭をヤマトと読むことにした
→これにより最上層から最下層まで全ての倭をヤマトと読み、ヤマトを倭と書けるようになった
→倭は最初からヤマトであったことにし、狭い地域ヤマトも最初から倭であったことにした
→国号の倭に国内向けの発音ヤマトを与え、地名のヤマトに倭という漢字表記を与えた
→情報の追加処理だけなので国際的にも国内的にも改変を要さず混乱もない解決法だった

・邪馬台国と纏向遺跡
→最も小さい地域名としての邪馬台ヤマトも倭という漢字表記を獲得した
→倭里→倭郷→大和郷になった
(その地名を代表させた律令制の行政区分ヤマトノクニは倭国→大倭国→大養徳国→大和国に)
→大和郷は垂仁・景行天皇の記紀伝承から纏向村(現在の桜井市北部)とされる(直木幸次郎説)
→最近の考古学の成果(纏向遺跡の規模と内容)と一致するが、まだ状況証拠だけ
→これまでの文献史学では箸墓古墳のサイズが魏志倭人伝の記述と一致するだけ
→私の推定により文献史学からの確かな補強を与えることができる
・奈良地方にヤマトという地名があったから邪馬台だと言っているのではない
→奈良のヤマトを倭と書くこと、倭という統一王朝全体をヤマトと読むことの二つが、
→前段階の諸侯国から統一王朝を樹立という中国的な構図でしか説明できないこと、
→その構図に合致する諸侯国の地が3世紀には邪馬台ヤマトしかなく、8世紀前後には確実に
纏向地域の倭ヤマトであることから、両者をイコールと推断して邪馬台=纏向地域と結論した
さてさて・・・
本になれば是非(借りて)読んでみたいと思いましたが、門外漢のさらに門外漢のわたくしには、
邪馬台国の話つーのは小松左京の邪馬台国=ハワイ説とか、あらゆる諸説が乱立してるから
じつに面白いとも思ってます
でも、実際の研究者からみれば、考古学と文献史学それぞれの最新成果にしても、その中から
自説に都合にいい部分だけを抽出して使う輩もいるようで、さらに発掘調査への厳しい制限
もあって、なかなか結論が出ないようですね
記事の最後にあった参考文献も面白そうだったのでメモしておきます
