2024年06月29日
日本とユダヤの古代史&世界史
とーとつですが・・・

日本とユダヤの古代史&世界史~縄文・神話から続く日本建国の真実~
とゆー本の読後メモであります
「日ユ同祖論」ではなく「日ユ同化論」だそうで、縄文時代から5つの大きな波を中心に、
何度も渡来していたユダヤ人が、唯一神の信仰を捨て日本に同化していく過程で、各時代に
大きな影響を与えていたことなどを対談形式で解説している本であります
著者つーか対談者の紹介


奥付

ま、著者つーか対談者の考え方については賛否両論でしょうし「ホントにそうなの?」と感じた
部分もありましたが、ともかく扱う時間と空間が広く、ユダヤと日本に限らず歴史上の関連が
豊富な図版や地図や年表で分かりやすく、日本史と世界史のおさらいにもなりました
例によって目次のみ・・・





それにしても目次最後の左に見えるユダヤ人埴輪は衝撃的でした!!!
以前読んだ「アマテラスの暗号」は小説なので、主人公たちが日本とユダヤの歴史の証拠を
各地で見つけていくとゆー展開でしたが、この本は対談なので会話の途中で時代が前後する
ことがあり、以下の読後メモにも何度か重複があります
わたくしが知らなかった事柄や脳の外部記憶として整理しておきたい部分だけのてきとーメモで
思い違いもありますので、興味を持たれた方は本書の熟読をお願いしますね
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
(1章から5章まではユダヤ人渡来5つの波の各時代に殆ど沿った内容になってます)
序章1より
フランクフルト学派による伝統文化の否定
→民族や国家が保守的な文化を持っているとナチスドイツのような考え方に行き着くと、
各国の文化を破壊し始めた
→OSSがGHQを通じて日本の戦後教育にも持ち込んだので歴史が歪められている
→本当の歴史を学び歴史を取り返すために・・・
序章2より
・世界史の教科書で最初にユダヤ人が出てくるのは古代オリエントの単元
→その後は20世紀まで完全に抜け落ちている(執筆者の意図を感じる)
→西暦135年から1948年まで国はなかったがネットワーク組織はあった
→国の政府や王様をサポートして利益を得る処世術で世界に君臨していた
→古代日本の秦氏(竹内宿祢ら)もユダヤ系の渡来人
→バイデンの国務長官もトランプの義理の息子も始皇帝の側近も・・・
・フランス革命は「ユダヤ人の解放」だった(市民革命は宣伝文句)
→ただし失敗も多い(ロシア革命、ソ連中国の共産主義、アメリカ社会・・・)
→今はグローバルユダヤとナショナルユダヤ(シオニズムユダヤ)に大きく分かれる
・秦氏など日本に同化したユダヤ人は唯一神ヤハウェを裏切ったことになる
→なので敬虔なユダヤ教徒は建前上は語れない
→日本に同化したユダヤ人も外国人には伝えない
・ユダヤ人渡来の5つの波
①紀元前13世紀→出エジプト/縄文時代・日高見国・スサノオ
②紀元前722年以降→アッシリア捕囚と失われた10支族/日本建国(紀元前660年)
③紀元前3~2世紀→秦の始皇帝・徐福と3000人/秦氏各地に渡来
④3~4世紀→弓月国から秦氏2万人/応神天皇が受け入れ
⑤431年以降→エフェソス公会議・キリスト教ネストリウス派の追放/蘇我氏
・日ユ同祖論ではなく縄文時代から5つの波で日本にきて同化したという日ユ同化論
→旧約聖書モーセ五書の最後の章「申命記」28章36節
「・・・王を携え、知らない国に移され、木や石で作った他の神々に仕えるであろう」
→神道儀礼、祭りや神社建築、記紀神話などの古代ユダヤ教との共通点
→国譲り、天孫降臨、巨大古墳、ユダヤ人埴輪・・・
第1章「縄文時代の日本文明とユダヤ人の出エジプト」紀元前3000~1000年頃
(縄文時代の日本文明)
・縄文食と神の存在
→食べ物は全て自然(神)が与えてくれる→拝んで食べて貝塚などに返す(ごみではない)
・太陽信仰と樹木信仰
→秋田のストーンサークルとウッドサークル、三内丸山遺跡の6本柱・・・
・土偶は古事記のヒルコであり愛と鎮魂の創造物
・縄文時代の日高見国と高天原
→日本書紀や古事記は誇張などはあるが伝承された事実
→大祓詞(祝詞)にある日高見国「オオヤマト・ヒダカの国を安国と定め奉りて・・・」
→縄文時代の中心は関東・東北で日高見国は大和国より古く寒冷化で両者合体したという認識
→ユーラシア大陸の最東端は銚子あたりで太陽が最初に上る聖なる場所
→日高、日田、飛騨、北上、日上、飯高など
→北海道の古い縄文遺跡から国生み神話の本州に北海道も含まれることは明らか
(アイヌは12世紀頃にモンゴルに追われて北海道へやってきた民族)
・太陽の国、エデンの園、日本
→エルサレムが中央で東端にあるエデンの園が日本→ヘレフォード図
→太陽信仰で日本には古代より渡来人が大勢来ている
・縄文後期の寒冷化による南下と天孫降臨の一致
・気候変動と古代文明興亡の連動性
田中説の世界三大文明は
①ギリシャ・ローマのヨーロッパ文明
②ユダヤ・キリスト・イスラムの中東文明
③古代日本を中心としたアジア文明
(西洋の都市・官僚制・青銅器・文字による文明の定義ではない)
・日本人の家族意識は竪穴式住居から
→神の基本「結び」は自然の恵みだけで安全に生きていけるという縄文の感覚
・日本最古の神社は鹿島神宮→太陽崇拝の神殿
①第1波 出エジプトとスサノオ
「荒ぶる神、スサノオ」(勉誠出版/2021)参照
・出エジプトのタイミングで第1波は日本に来ている→高天原のスサノオ
→スサノオとその一族が日本に来た最初のユダヤ人グループだった
→縄文的ではない遊牧民的な乱暴狼藉をはたらき神々(多神教)を破壊しようとする
→高天原(日高見国)を追放され、出雲国でヤマタノオロチと戦って勝つ
→なので出雲では国譲りまでユダヤ系日本人を中心とした渡来人が活動していた
・古事記を伝承した稗田阿礼はユダヤ民族の歴史や古代ギリシャ神話も知るユダヤ系の秦氏
→文字にした太安万侶も多氏でやはり秦氏→スサノオやサルタヒコなどの異形を物語にした
→古事記は連続性のある前半の神話と後半の歴史を分けないことが大事
・日本とユダヤの三種の神器
→富雄丸山古墳出土の盾型銅鏡とそっくりなモーセの十戒が書かれた石板
→太陽信仰(ピンホール観察?)の勾玉と食糧が無限に出るマナの壺
→ヤマタノオロチから出てきた天叢雲剣と霊力を持つアロンの杖(剣)
・神社、お神輿、わっしょい
→モーセの十戒が書かれた石板を収めた契約の箱(アーク)は神輿にそっくり
→三種の神器もアークも霊力が強く開けてはならずアークも神輿も戦いに使われる
→アークも神輿もわっしょい(ヘブライ語で神が来た)と担いで運ぶだけ
→ソロモン王のエルサレム神殿まで三種の神器はテントに祀られており今の神社の原型
→それまでの神社は自然の磐や巨木にしめ縄だけだった
→ユダヤ人がテントを持ち込んだので最初は困ったのではないか
・日本への定住を望んだ古代ユダヤ人
→ソロモン王が死ぬと王位継承争いと宗教対立で混乱が続いた
→戒律の緩い10支族の北イスラエル王国と一神教を守る2支族の南ユダ王国に割れた
→その混乱に乗じたアッシリアにより北イスラエル王国が滅亡(紀元前722年/アッシリア捕囚)
→捕えられ行方不明になった10支族が「失われた10支族」(多神教を受け入れていた支族)
→イザヤ書は「東の果て海沿いの国に行ってヤハウェを崇めなくなれば忘れ去られる」と嘆く
・イザヤは南ユダ王国の預言者で南ユダ王国も新バビロニア王国により滅亡する
→2支族は首都バビロンに連行され50年間辛酸を舐めた(紀元前586年/バビロン捕囚)
→バビロン捕囚時にアークが行方不明になっておりイザヤ書はアークの行先を暗示している
・ヘブライ人は十戒の4~10を守ってなかったので戒めた(1~3は唯一神ヤハウェを信じよ)
→渡来系秦氏の建てた広隆寺(603年)の十善戒もほぼ同様だがすでに1~3はない
→スサノオは高天原の多神を破壊しようとしていたが、この間に多神教に完全同化した
→アシラ・アーシラトはシュメール・パレスチナで崇拝されていた女神でアマテラスとも
・なぜ古代の渡来人はユダヤ人だったのか?
→故郷がなく第1波から第5波まで何度も離散しているから
→約束のカナンの地も神が決めただけで故郷ではない
(ギリシャ系、ペルシャ系、シュメール系などには故郷がある)
→世界に離散する中で日本に安楽の地を見つけた
(能登にあるモーセの墓、青森にあるキリストの墓、竹内文書・・・)
第2章「日本建国の真実と失われた10支族」紀元前660年~
②第2波 失われた10支族、日本へ
・アッシリア捕囚(紀元前722年)からバビロン捕囚(紀元前586年)までの時代と
→紀元前660年2月11日と定められている初代神武天皇の即位の時代は一致する
→日本神話は天津神と国津神に分けておりインド神話でも分けている
・東日本の高天原と西日本の出雲国
→古事記の国生み神話は国を発見した(征服した)順番ではないか
→淡路島(沼島)→四国→九州→壱岐→対馬→佐渡島→本州(西日本?)の順
(天津神が朝鮮半島経由で九州に渡来した神なら、この順番にはならない)
→東日本の本州はすでに発見(征服)しており西日本は出雲系に取られてるので取り返す
→その後は天孫降臨した彼らが地域を平定していく話につながっていく・・・
・国生み神話は高天原=日高見国が日本列島を統一する際に西の島から支配したという事実
→特に対馬は朝鮮半島に近く移民も多かった
→征服された側の代表が国津神の出雲大国主だが国譲りの前に祖先スサノオの出雲降臨がある
→出雲は渡来人が流れ着く場所でユダヤ人も多かったはず
→紀元前10世紀前後は船による物品や人の移動も活発化し島の防御も考え出した頃
→東日本の寒冷化に伴い西や南に移動して発展していった可能性が高い
・出雲の国譲り(略)
・諏訪大社の御頭祭の謎
→出雲で敗れたタケミナカタを祀るのが諏訪大社で上社のご神体は「守屋山」
→御頭祭は旧約聖書のイサクの燔祭と同じ少年(と鹿の頭)を神に捧げる奇祭
→アブラハムが息子イサクで燔祭を行ったのは「モリヤ山」
・長野県には船を運ぶ奇祭「お船祭り」が各地に残る
→出雲から彼らが日本海→信濃川(千曲川)を伝って船でこの地に入ったという伝承
→出雲に着いた渡来人は操船に優れており新潟平野は古代は海だった
→安曇野の安曇氏は海神を信仰する一族で祇園祭の山鉾にも舟形がある
・祇園祭の山鉾はノアの箱舟
→山鉾巡行は7月17日でノアの箱舟がアララト山に着いたのも7月17日
→ギオンとシオン、エルサレムのヘブライ語はエル・シャロームで平安な都
(バグダッドも正式名はマディーナ・アッサラームで平安な都なのだが・・・)
・船とユダヤ人
→ユダヤ人が同じくアッシリアや新バビロニアに滅ぼされた船の達人フェニキア人を吸収、
離散して船で長い旅に出て行った→天孫降臨→天も海も「あま」で同じ
→縄文時代に関東に渡来人が来たのは浜が多く浅瀬になっていたから(縄文海進)
→鹿島神宮が玄関口で高天原の本拠地である筑波山の麓まで船で行けた
→鹿島から鹿児島へ海流は逆だが小舟の港伝いで時間を要すれば可能→天孫降臨
・天孫降臨
→アマテラスの孫ニニギが高天原から九州に降りるのが天孫降臨
→その曾孫のイワレヒコ(神武)が大和に遠征するのが神武東征
→大和のナガスネヒコを滅ぼし橿原宮で即位したというのが日本神話の通説
→ところがナガスネヒコは主君ニギハヤヒも天孫族だという証拠を見せて抵抗するが、
最後はニギハヤヒに見捨てられて殺されるハナシになる(日本書紀)
・これはニニギの九州とニギハヤヒの大和で天孫降臨が2回あったという事実
→ニニギは日高見国(高天原)茨城の鹿島から九州の鹿児島へ船で降臨(鹿島の児で鹿児島)
(記紀にある筑紫日向の高千穂峰まで)
→ニギハヤヒは日高見国(高天原)千葉の香取から大和(大阪・奈良)へ降臨
・二つの天孫降臨ルート
→寒冷化による人の移動と大陸移民の増加で西日本は国譲り以降も治まらなくなってきた
→日高見国(高天原)は九州と関西に統治者グループを派遣した
→鹿島から鹿児島へ行ったニニギ・グループと香取から大和に行ったニギハヤヒ・グループ
→各グループがそれぞれ紀元前660年に出発し国を形成するが最初の統治はニギハヤヒの大和国
→ニニギ勢力は統治に苦労し4世代後、出雲勢力の跋扈する西日本にイワレビコの軍勢を送った
→なので初代の神武天皇は大和のニギハヤヒだった
・天孫降臨は日高見国(高天原)による日本列島統一の総仕上げ
→九州から東征したのは神武と同名(ハツクニシラス)の第十代崇神天皇(それまでは欠史八代)
→大和は2回天孫族に征服されたことになる
・ニニギの子孫エピソードは多いがニギハヤヒの歴史はなぜ消されたか
→大和の出雲系豪族ナガスネヒコはニギハヤヒの権威に従い側近として力をつけていった
(ナガスネヒコは長い脛を持つのでユダヤ系と考えていい)
→欠史八代は関東の人と思われるが形式的な天皇で出雲系の側近が実質支配していた
→ナガスネヒコ勢力が支配していた欠史八代はイワレビコ視点の記紀には書けなかった
・ニニギの息子である山幸彦と海幸彦のハナシ→明らかに海洋民族系の神話(竜宮伝説)
→浦島伝説の乙姫(山幸彦が結ばれる海の女神・豊玉姫)は亀姫でユダヤ人女性
→亀の甲羅も籠目模様も六角形、鶴は日本の象徴で「鶴と亀が統べった(統一した)」
→帰るまでに長期間を要しているのでイスラエルまで戻ってたのかも・・・
・九州と大和に長らく二政権が存在したが大和では出雲系=物部系が実権を握ってたので
九州のイワレヒコが挙兵したのが神武東征
→詳細は「決定版神武天皇の真実」や「新・日本古代史」(共に扶桑社2021年刊)を参照
・紀元前660年より前にユダヤ人は来ており天孫族、出雲族どちらにも船舶や武器の技術を
提供していたが少数派なので常に補佐役だった
→君主側には常にユダヤ系のガイド役がいた→国津神サルタヒコのニニギ案内の例
・中国河南省の開封はじめアジア・アフリカ各地に10支族の痕跡がある
→帰る国がないので移動する商人に一番向いている
→多くのユダヤ人が日本に残り同化するが、どの支族かは特定できていない
→ユダとハダ(秦氏)が近いことから南ユダ王国の2支族からの可能性も・・・
第3章「秦の始皇帝からキリストの時代へ」紀元前300年~
③第3波 秦の始皇帝と徐福伝説
・日本が弥生時代に移行した頃の中国は春秋戦国時代
→紀元前221年に秦の始皇帝が中華統一した
・ユダヤ人渡来の第3波は始皇帝の命を受け数千人の同志を連れてやってきた徐福
→司馬遷の史記によれば「方士(呪術医)の徐福が東方の三神山に霊薬があると具申したところ、
三千人の若い男女と技術者集団、財宝と財産と五穀の種を持たせ東方に向かって船出させた
三神山には着かなかったが広い平野と湿地の土地で王となり秦には戻らなかった」
・徐福伝説が残るのは丹後半島、男鹿半島、高知、和歌山、熊野、伊豆半島など20か所以上
→新宮市には徐福の墓と蓬莱山があり熊野市波田須町には徐福宮があり秦の古銭も出土
→秦の古銭は全国9か所の遺跡から25枚出ており波田須の原語は秦住→秦氏の住まい
→熊野は修験道の聖地だが山岳信仰がルーツの道教の方士が伝えて発展したもの
→徐福を個人ではなく方士の称号と考えれば各地に「徐福上陸の地」があってもおかしくない
・南宋時代の仏教書に958年に南宋に来ていた日本の僧・弘順大師から聞いた話として、
→秦の時代に徐福が各500人の童男童女を率いて倭国にとどまった
→徐福は富士山を蓬莱と呼び、徐福の子孫はみな秦氏という
(徐福は中国読みでシイフウでジョセフと関連する始皇帝側近のユダヤ系だった)
・始皇帝と呂不韋も漢人ではなかった
→漢人/漢民族は秦の次の漢時代に様々な民族が漢語を共通語にすることで徐々に形成された
→史記では秦は「西戎の覇者」で西方の遊牧民をまとめた国と書かれている
→明らかに別の人種という認識でイラン人やユダヤ人などのコーカソイド
・始皇帝の父王に仕えた呂不韋は中国読みでリュブウェイでヘブライ語系の男性名レヴィ
→呂不韋はチベット高原の少数民族チャン族の出身ともいわれている
→チャン族はイスラエルの10支族調査機関アミシャープが10支族の末裔と主張している民族
→呂不韋は始皇帝の父王に愛人を差し出したが、すでに自分の子を宿していたと史記にある
→なので始皇帝もユダヤ系で史記にある容貌の表記も漢人とは異なるコーカソイド系
→さらに始皇帝の息子の遺骨DNAからAI復元された顔はコーカソイドそのものだった
(漢族の初代王としては不都合なので「間違いかもしれない」との但し書が付いてる
)
→兵馬俑とともに出土した馬車を操る始皇帝も「みずら」をつけたユダヤ人風の顔
・初の中華統一を成し遂げたのは他の諸侯とは隔絶した実行力があったから
→一神教的な不寛容、焚書坑儒、郡県制、文字貨幣の統一、ペルシャやローマに似た中央集権、
巨大な公共工事など→配下の徐福のようなユダヤ人的情報網も活躍してたはず
→やはり相当な無理があり始皇帝の死とともに反乱がはじまり15年で瓦解した
→ユダヤ人自身が王になった例は稀で、この失敗教訓はロスチャイルド家にも残っているかも
・秦氏と重なる徐福伝説と富士山の謎
→始皇帝の始めた「丘を築いて天壇を祀る」宗教儀式は中国とは異次元で西アジア的
→古史古伝は江戸後期の偽書とされるが言い伝えを誰かが編纂したもの→徐福の富士文献
→北畠親房の神皇正統記には徐福の来日は第7代孝霊天皇の御代とある(富士山大噴火の頃)
→海外との関わりは第14代仲哀天皇(神功皇后の三韓征伐)以後とされるが以前から交流はあった
・日本のコメは東南アジア産なのでユダヤ商人が運んできたものだろう
→DNA研究で縄文前期には陸稲(ジャポニカイネ)が作られていたことが判明している
→水田に適した温帯ジャポニカイネが持つRM1-b遺伝子は長江下流域と同じものと判明
→東南アジア→長江流域→日本列島の伝来経路も判明しているが運んだ人々は・・・
→原産地の人ではなくユダヤ人たち船で運ぶ商人たち
→水田技術や醸造法は五穀の種と財宝を持ってきた徐福の大集団かも
・日本酒の起源説話
→スサノオがヤマタノオロチを酔わせた酒がコメの酒とは書かれていない
→大隅国風土記やアニメ「君の名は」に出てくる口噛み酒は海洋民族の文化
→古墳時代の第21代雄略天皇の時代に秦酒公がいて太秦の大酒神社に祀られている
→分散した秦氏を束ねることを許されたお礼としての絹などが朝廷にうず高く積まれたので
「うつまさ」の姓を天皇から賜り、これが太秦の地名になった
→畑、機織り、養蚕なども秦氏由来で秦氏の「はた」が地名や人名を含め歴史を紐解く鍵
・キリスト教の誕生とユダヤ戦争、ディアスポラ
→「はたもの」という古語は磔刑を意味するので「秦氏=キリスト教徒」説がある
→聖徳太子もイエスと同じ厩戸に生まれたことになっている
→イエスはユダヤ人でローマ人に処刑させたのもユダヤ人で活躍した期間は3年のみ
→ユダヤ教の戒律と選民思想を否定したので長老たちがローマ人に処刑させた
・民族性を問わないキリスト教は各地で信者を獲得していくが多神教ローマ帝国に迫害される
→ユダヤ教徒も一神教なのでローマ帝国と独立戦争する(66年~73年、132年~135年の2回)
→エルサレムは廃墟となり年に1回だけ嘆きの壁の前で祈る以外は退去を命じられる
→これがディアスポラ(離散)の決定的な始まりで国を亡くし世界中に散っていく
・キリスト教はマリア信仰を取り入れヨーロッパに広まった
→ユダヤ教は見えない神ヤハウェだけだがキリスト教は生身のイエスも神の子として祀る
→原始キリスト教はイエスの母マリアも祀るアナタシウス派(神ヤハウェが精霊という形で
マリアの腹に入ったのでマリアは神の母だから祀る)と、ネストリウス派(人間マリアが
人間イエスを生んだのちに神がイエスに降臨したのでイエスは祀るがマリアは祀らない)かで
派閥が分かれた
(父(神)と子(イエス)と精霊の名において三位一体という、のちのカトリックもプロテスタントも
ロシア正教会も根っこはアナタシウス派)
・キリスト教を公認したローマ帝国もネストリウス派を異端としたので東方に散っていく
→唐や飛鳥時代の日本にはネストリウス派が来ている→ザビエルの1000年前
・古い宗教と同じ女神(観音)としてマリアを取り入れキリスト教は広まっていく
→原始キリスト教はマリア信仰を、原始仏教は菩薩信仰を取り入れ俗人に妥協して発展した
・家族を捨てた釈迦とイエス
→マリアを認めないネストリウス派は家族を捨てた釈迦の仏教とシンクロする→個人宗教
→キリスト教では旧約聖書はユダヤ教の聖典で共同宗教、新約聖書がイエスの個人宗教
→日本では神道を共同宗教、仏教を個人宗教としてキリスト教と同じような構造になった
・個人宗教のキリスト教はカトリック教会が共同宗教に変質させ、これを破壊したルターや
カルビンの宗教改革で個人宗教に戻り、ここから西洋近代文明という病がはじまり、明治以降の
日本人もこれに毒されていく
→日本の神仏習合とキリスト教を「うまく飼い馴らした」ヨーロッパ
→重要なのは日本に仏教を持ち込んだのが渡来人の秦氏だったことと、あとの渡来人の蘇我氏が
ネストリウス派だったことで、その後のユダヤ渡来の波に続く・・・
第4章「巨大古墳の時代」200年~
④第4波 応神天皇の時代、弓月国からやって来た秦氏
・応神天皇14年に弓月君が百済から来て「120県の人民を率いてるが新羅人が邪魔をして、
みな加羅国に留まっている」と奏上した(日本書紀より)
→120県の人民は少なくとも1~2万人、秦氏のリーダーが弓月君で秦王朝の末裔と名乗った
→弓月国はシルクロード沿いの都市国家で現在は新疆ウイグル自治区に編入されている
・応神天皇は葛城氏(竹内宿祢の子孫)の軍勢を新羅に送り込んだ
→加羅国(伽耶国)で尽力したが3年は帰還できず、さらに強力な軍勢で新羅を降参させて
ようやく弓月国の民を日本に招くことができた(2万人なら徐福3000人の6倍以上)
→応神天皇は八幡宮の主祭神に祀られるが八幡はヤハタで多くのハタ(またはヤハウェ)
・巨大古墳は秦氏の公共事業
→5世紀は前方後円墳が超巨大化した時代→大阪平野など水田開発事業の記念碑説もある
→律令制は7世紀後半だが、それ以前に秦氏は各地に派遣され土木事業で統治者と結びついた
・出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓と出雲人の気風
→出雲系はスサノオ・大国主につながる
・外来思想の古墳は風土に合わず7世紀の仏教建築で消えた
・埴輪の起源とユダヤ人埴輪の発見
→古墳の造築を担当した土師氏(ユダヤ系の渡来人)が埴輪を提案した(日本書紀)
→従来武人埴輪と言われていた埴輪にはユダヤ教徒独自の三角帽、長い髭、みずらがある
→スサノオにはみずらがありアマテラスはみずらを結って戦う姿勢になる(古事記)
→スサノオはオロチに狙われる姫を櫛に変身させ、みずらに刺して守る(クシナダヒメ)
・ユダヤ人埴輪が多いのは関東だが九州や関西にもある(関西には人物埴輪自体が少ない)
→みずらは天武天皇が681年に禁止した(日本書紀)→古墳が終わり仏教が入る時期
→烏帽子の起源は謎だが古代ギリシャの帽子ベタソスと言われている
→キリスト教会では帽子を脱ぐがユダヤ教のキッパと貴族の烏帽子は逆で神聖な場で着用する
・古墳=石の文化は最新テクノロジーだった
→古墳前期は頂上部から石棺を埋めたが巨大化した中期以降は横穴式になる
→弥生時代とは異なるメイソンの石造技術
→古墳時代はインターナショナルで秦氏以外の外来文化も多く受け入れた
→仏教が入っても神社は残ったのに古墳は消えた→異質でなじまなかったから
→古墳はユダヤ資本が再調査して再建すべきなのだ
第5章「蘇我氏とは、いったい何者だったのか?」400年~
⑤第5波 キリスト教ネストリウス派と蘇我氏
・古墳時代が仏教普及とともに終わり聖徳太子が活躍した飛鳥時代へ→蘇我氏の隆盛
→431年のエフェソス公会議でネストリウス派が公式に異端とされ東へ
→シルクロードまたはステップロードを経て日本へ
→蘇我氏は葛城氏など渡来系の権力を奪い天皇に接近、政治を支配する
(弓月君はネストリウス派だったという説もあるが年代が合わず原始キリスト教のユダヤ人?)
・蘇我氏は日本でネストリウス派キリスト教を広めようとするが失敗し滅亡する
→蘇我氏は聖徳太子を日本のキリストにしたかった(厩戸皇子)がコントロールできなかった
→蘇我馬子は天皇も皇太子(聖徳太子など)も殺した日本史上最大級のテロリスト
・馬子の孫の入鹿は聖徳太子の子息王も攻めて斑鳩寺で自死させている
→なので中臣(藤原)鎌足ら新勢力が中大兄皇子を立て入鹿を斬り(645年)大化の改新へ
→天智・天武の時代となり正しい日本を取り戻したが、まさに危機的状況だった
・蘇我氏は5代ほど強い信仰が続き既存の仏教にキリスト教を上乗せしようとしていた
→蘇我氏による聖徳太子暗殺の根拠は法隆寺釈迦三尊像の光背銘に書かれた理由と翌日埋葬
→新勢力のクーデターに協力した一族のみ蘇我氏の血脈を保つが政治の表舞台からは消えた
・蘇我氏がユダヤ的であるとする理由
→旧約聖書にある暴力性と排他性、砂漠民やノマドなど遊牧民に必然の暗殺の多さ
→ただし一神教の押しつけはせず飛鳥寺や法隆寺も建築している→ユダヤ人の知恵
→ウマコ、エミシ、イルカといった不思議な名前
→秦氏と蘇我氏の内部分裂と派閥抗争もユダヤ人のお家芸(秦氏はうまく生き残る)
・蘇我氏なきあとの秦氏~土師氏と菅原道真~
→新しいDNA鑑定では日本人のD2遺伝子がユダヤ人に近く中国・韓国・朝鮮人とは異なる
→日本人・ユダヤ人・アラブ人・チベット人が共有するYAP遺伝子
→ユダヤ人埴輪とDNAが決定的な日本人とユダヤ人との関わりの証拠
→西洋人・中東人の容貌も日本の伎楽面、仏像、能面、鬼面、天狗面、歌舞伎顔にある
・蘇我氏を滅ぼした中臣氏=藤原氏は隆盛を極めるが秦氏の系統は政治からは徐々に消える
→菅原道真は土師氏で祖先は野見宿祢、スサノオ以来の古い秦氏の同族
→秦氏はその後、様々な開発分野で力をつけ商業芸術言語活動へ
・京都はユダヤ人秦氏がつくった(育鵬社/2021年)を参照
・一神教を捨てた秦氏の信仰スタイルは聖徳太子が目指した共同体をつくる信仰というより、
山に籠って個人を深く探求する山伏や天狗や鬼といった方向に発展する
→山岳信仰(修験道)の山伏や天狗の恰好はユダヤ教の祭司の格好と瓜二つ
→黒い小さな箱を頭に乗せ、角笛(法螺貝)を持つ先達・・・
・鳥居による高天原系神社と秦氏系神社の見分け方
→平安京を提供した秦氏は地元太秦を中心に八坂神社、伏見稲荷大社、松尾大社などを創建、
各地に前述の八幡神社と稲荷神社の数を増やしていく
・鳥居は伊勢神宮など素朴でシンプルな高天原系の神明鳥居と、伏見稲荷大社など赤くて
ゴージャスな7~8世紀以降の秦氏系の明神鳥居に大きく分かれる
→鹿島神宮は入口が神明鳥居で拝殿前は明神鳥居なので、日高見国の高天原系のあとから、
出雲系・秦氏系が入ってきたことがわかる
・明神鳥居の朱色はユダヤの過越祭ペサハに由来する
→稲荷神社のシンボルが狐になるのは神仏習合以降でイナリ神の正体は穀物神
→イナリは十字架にあるINRIという説もあり意味は「ユダヤの王、ナザレのイエス」
→伏見稲荷大社の祝詞には「神は唯一にして・・・」とあり旧約聖書のヤハウェ神と同じ
・八坂神社はノアの箱舟を模した祇園祭で有名なスサノオを祭神とする神社だが、
別のユダヤ系渡来人に伝わる物語を持っている
→日本の神々を借りてユダヤ人が本来持っている様々な物語を当てはめていった
・木島神社(蚤の社)には三柱鳥居があるがキリスト教主流派の三位一体?
→秦氏の中でもネストリウス派とアタナシウス派に分かれたのか?
・秦氏は信仰を強要せず神道に紛れ込ませて非常にうまくいった
→それ以前の神道は自然だけだったので逆に尊敬を集めた
→自然の前に「ほこら」や「やしろ」を作って継続化しようとしたのが神社
→弓月君一族が大量に渡って来た応神天皇の時代に仏教はなかったから体系化された宗教は
衝撃的で神社は古墳と同様徐々に大きくなっていく→左右対称のシンボル化へ
・群馬の田胡羊太夫の挑戦と和同開珎の登場
→田胡氏は秦氏系で純度の高い和銅を見つけ藤原不比等に貨幣づくりを提案して認められた
→富本銭は普及せず和同開珎はシステムも法律も含め全国流通を目指したが流通しなかった
→ユダヤ人ハラリのサピエンス全史のとおり貨幣は独立したフィクションに過ぎない
→貨幣より米を選択した
(サピエンス全史はユダヤ的世界から見た歴史の一面しか描いていない)
・日本人が保持し続けた一つが土地の個人所有でユダヤ人は貨幣流通の推奨と利息
→群馬、栃木の毛野、蝦夷、土蜘蛛族、手長族、足長族・・・
・田胡羊太夫碑の傍の石室にあった銅板の表題にJNRIとあった(甲子夜話73)
→十字架もあり銅板を調べれば古代にキリスト教徒が来たことが明らかになる
→十字架はハタモノと呼ばれてたが秦氏と関係するか、島津の家紋は・・・
→芝山遺跡周辺の埴輪には十字架のあるものが複数あるがネストリウス派か
・日本に古代からのキリスト教やユダヤ教の痕跡は残っていても信仰は残っていない
→秦氏、曽我氏などの考え方を骨抜きにしたから→神道的にいえば「祓った」から
→これが現代日本のキリスト教徒が1%以下でマルクス主義者も1%以下ということに通じる
第6章「中世以降のユダヤ人と世界史」1400年~
・ユダヤ人が二人集まると三つの政党ができる→多種多様で無宗教も多い
・世界史を学ぶ常識にしておくべきユダヤ人の種類
→本来のモーセやイエス・キリストは黒髪で褐色肌の中東人らしい顔立ち
→古代の日本に来たユダヤ人も同様でアシュケナージ(白人系)ではない
→各地を流浪していたので混血が進み「生物学的に純粋なユダヤ人」はほぼいない
・イスラエル政府のユダヤ人の定義
①民族を問わずユダヤ教徒であること
②父親を問わずユダヤ人の母親から生まれたこと
・流浪するユダヤ人はアシュケナージ、スファラディ、オリエントユダヤ、ファラシャの
4つのグループに分かれていく
①アシュケナージ→西欧・東欧・ロシアのユダヤ人
・十字軍時代に西洋各地で迫害され東欧ポーランドに逃げ込みヨーロッパ各国で混血した
→西欧出身のユダヤ人ではなく改宗したハザール人という説(ケストラー説)もある
→ロシア帝国のポグロム(破壊)で数十万が殺され数百万が欧州やアメリカに亡命した
→被害規模はナチス・ドイツのホロコーストと同様かそれ以上ともいわれている
・バイデン政権のブリンケン国務長官とヌーランド国務次官はユダヤ人だが祖父がロシア領
ウクライナからポグロムを逃れ移住した経過がありロシアに凄い怨念を持っている
→フランクフルト出身のロスチャイルド家もアシュケナージと思っていたが、祖先はイラクにいた
スファラディではないかと知り驚いている
②スファラディ→イベリア半島から地中海沿岸に広がったユダヤ人
・イベリア半島は長くイスラム教徒の支配下にあり一定の自治が認められていた
→レコンキスタで1492年にスペインが半島を統一しイスラム教徒とユダヤ教徒を追放した
→ギリシャからアルジェリアまで支配していたオスマン帝国に保護を求め、スペインから独立した
オランダや、それを助けたイギリス、イギリスの植民地だった北アメリカにも避難している
→オランダの哲学者スピノザ、イギリス首相ディズレーリ、ルーズベルトの母方デラノ家など
③オリエント・ユダヤ→エジプト、イラク、イラン、中央アジアのユダヤ人
・中東諸国で混血が進み見た目は殆どアラブ人
→バグダッドに大きなコミュニティがあり清国とのアヘン貿易で財を成したサスーン財閥など
→ユダヤ教の制度でスファラディの管轄下にあったため混同されるが別系統
④ファラシャ→東アフリカのエチオピアのユダヤ人
・エチオピア王国は古代イスラエルのソロモン王とシバの女王の間に生まれた王が開いた王国
→人種的にはアラブ人・ユダヤ人と同じセム系のコーカソイド
→ローマ時代にエチオピアがキリスト教に改宗した後も信仰を守った人々
→ファラシャ(流浪者)と呼ばれて迫害され一時は独立国家を建てた
→見た目は完全なエチオピア人で「黒いユダヤ人」とも呼ばれる
→イスラエル建国後、認定されたユダヤ人の85%はイスラエルに移住した
・世界に1500万人なのは殺されたからではなく各地で同化しユダヤ教から離れたから
→その中に日本のユダヤ系の人たちもいるが誰も気づかない・・・
・ユダヤ人を保護した国が経済的に栄える法則
→中世のポーランド王国はモンゴルに破壊され人口が激減、西欧諸国のユダヤ人を受け入れ、
中世ヨーロッパでは例外的なユダヤ人迫害のない国となった
→経済的に大発展し北はバルト海から南は黒海沿岸ウクライナにいたる大帝国になった
→モンゴル帝国から奪ったのがウクライナで地方行政官としてユダヤ人を送り込んだ
→ウクライナ人から見れば政治と経済を握るポーランドの手先で反ユダヤの根源になった
・18世紀後半のポーランド分割でロシア領となったのがウクライナとベラルーシ
→ユダヤ人がロシア帝国に従いウクライナを支配する図式になりウクライナ人のロシア帝国に
対する不満がユダヤ人に向けられた結果が19世紀後半のポグロムにつながる
・スラブ系ウクライナ人とロシア人が結託してユダヤ人を攻撃したのは僅か150年前
→1871年に最初のポグロム虐殺が起こったのがオデッサでユダヤ人はウクライナから脱出、
西ヨーロッパやアメリカに逃げた
→その半世紀後のロシア革命はユダヤ革命ともいわれている
→多くのユダヤ人が革命側・共産党側についたからでポグロムの反動、復讐ともいえる
・コンベルソ(改宗ユダヤ人)の役割
→レコンキスタによる異教徒追放で改宗してスペイン・ポルトガルに残ったユダヤ人をいう
→隠れユダヤ教徒と疑われ異端審問され拷問火あぶりに
・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の大審問官は彼自身がコンベルソだった
→ただしコンベルソには有力者、財界人も多く王室のスポンサーもいた
→その一人が財務長官サンタンヘルでコロンブスのスポンサー
・オランダ・イギリス・スペインとユダヤ人
→スペイン領オランダは宗教改革を受け入れ独立戦争を開始(1568年からの80年戦争)
→イギリスがオランダを支援、無敵艦隊を撃破しオランダは独立
→スペインを追放されたユダヤ人は敵の敵なのでオランダ・イギリスが迎えた
・1600年にイギリス、1602年にオランダが東インド会社を設立
→貿易覇権がユダヤ人を追放したスペイン・ポルトガルから迎えたイギリス・オランダへ
→迎えたアムステルダムやロンドンは経済金融が活性化し、難民を新大陸に送り込む
・ニューアムステルダムはマンハッタン島南部を先住民から安く買い取ったオランダ植民地
→毛皮貿易の拠点として港と砦を建設しスファラディたちが移住した
→17世紀後半の英蘭戦争でマンハッタン島を横断する壁を築いたがイギリスが勝利した
・イギリスはニューアムステルダムをニューヨークと改称し壁を撤去して道路にしたので、
→ウォール街となったがユダヤ人たちはそのまま残り銀行や証券会社を立ち上げていく
→隠れユダヤ人コロンブスが見つけた新大陸にユダヤ難民を送り込んで作った街がNY
→スペインにいたユダヤ人は200年かけてようやく居場所を見つけたといえる
→先住民はその犠牲となったが、その一部は縄文人の子孫・・・
・スペインと世界を二分していたのがポルトガル
→当時のカトリック教会はルターの宗教改革に対抗して世界のカトリック化を計画していた
→イエズス会はポルトガル勢力圏、フランシスコ会はスペイン勢力圏で布教した
→日本はポルトガル勢力圏とされてたので来たのはイエズス会
・イエズス会の活動は特に中南米・東南アジアでは完全に植民地支配と結びついていた
→彼らが持ち込んだ疫病で殆どの国の人口が減少し搾取され奴隷のように扱われた
→これが西洋資本主義を成立させた要因
→日本では秀吉や家康が策略に気づき撃退したので植民地にはならなかった
・ポルトガルの拠点となったマカオには600のファミリーがあり半分はコンベルソ
→日本では仏教神道との軋轢や島原の乱などでイエズス会とポルトガル貿易が禁止されるが
交易が許されたオランダから別のユダヤ人が来ることになる
・慶長遣欧使節団
→彼らを案内した宣教師ソテロはスペインのユダヤ人だった
→最新のガレオン船を日本人に建造させたり大平洋と大西洋を航海する技術も持つスパイ
→伊達政宗が次の日本の皇帝になると誤算して活動するが最後は火あぶりになる
→遠藤周作の「沈黙」のように棄教して日本人になる人も多い→古代の秦氏に近い
・アメリカに拠点を移したユダヤ人
→19世紀半ばのドイツ統一ナショナリズムでドイツ系ユダヤ人のアメリカ進出が加速
→ゴールドマン・サックス社、リーマン・ブラザース社の創業者など錚々たる顔ぶれ
→1880年代のポグロムで難民集団もNYに来たが金融界のトップがユダヤ人の新興財閥なので
自分もと最下層からはじめ、息子や孫たちは稼げる金融業界で働くようになる
・現在のユダヤ人の人口は約1500万人だが国籍は約半数がイスラエルで約半数がアメリカ
→アメリカ人口の2%にも満たないユダヤ人が世界の金融を動かす力を持っている
→移民国家アメリカでは成功したが日本では和同開珎のとおり成功しなかった
→ユダヤ思想が浸透せず癪に障る日本とドイツを破壊しようとしたのが第二次世界大戦とも
・陸軍中将 樋口李一郎(当時の関東軍・満洲ハルピン特務機関長)→後述
・アメリカのユダヤ人の政治指向
→アメリカは移民を受け入れ過ぎた結果、中西部や南部のイギリス系WASPの開拓農民の子孫と、
19世紀にNYやカリフォルニアに住み着いたユダヤ系イタリア系アジア系など新しい移民の子孫に
国が分断されている
→今のアメリカのユダヤ人から見ればイスラエルを建国したシオニストのユダヤをサポートする
トランプ共和党と、グローバル金融のユダヤをサポートするバイデン民主党の戦い
→イスラエル建国(1948年5月14日)でユダヤ人は完全に二つに分かれた
→(田中)今後世界はグローバリズムよりナショナリズムに変わるべきと信じている
第7章「新しい時代のための「日本人とユダヤ人」論」1900年~
・ユダヤ陰謀論の正体
→19世紀後半のロシアが発祥→ポグロムの根拠
→ポグロムの反動で一部ユダヤ人がグローバル革命運動へ走り世界中を巻き込んだ
・シオン賢者の議定書が生まれた背景
→1864年モーリス・ジョリ「マキャベリとモンテスキューの地獄での対話」(フランス)
(マスメディアが権力を握る話でナポレオン三世への批判小説)
→1868年ヘルマン・ゲルシュ「ビアリッツ」(ドイツ)
(ユダヤ長老秘密会議の話で世界征服を企むユダヤの陰謀を描いた最初の小説)
→合体してポグロムのあとの1890年代に作られたのが「シオン賢者の議定書」
・作ったのはロシア帝国のオフラーナ(秘密警察)パリ支部と推測されている
→大々的にマスメディアに載り世界中で翻訳されベストセラーになった
→この偽の議定書の流布で反ユダヤ思想の勢いが増したことは事実
・樋口李一郎の功績と日本精神(略→下記文献を参照)
「復刻新版 陸軍中将 樋口李一郎回想録」2022年/啓文社
「陸軍中将 樋口李一郎の遺訓~ユダヤ難民と北海道を救った将軍~」樋口隆一2020年/勉誠出版
(外交官の杉原千畝は個人の判断で動いたが樋口は満州を実質統治する関東軍として動いた)
(安江仙弘大佐は「シオン賢者の議定書」の翻訳者だが満洲のユダヤ難民救済に尽力した)
(ユダヤ民族基金が管理するゴールデンブックに記載されている日本人はこの3人)
・小野田寛郎少尉を描いた映画「ONODA」2021年フランス製作アルチュール・アラリ監督
・自然を神々として祀ってきた日本人と唯一神という人工的な宗教を作り上げたユダヤ人
→世界の対極にあるが日本に同化し多神教的日本文化を受け入れていった
→日本の多神教は神という概念がなく豊かな自然に現れているので(神道より)自然道
・日ユ同化論(とユダヤ人埴輪)が世界を変える・・・
・・・とまあ、日ユ同祖論についてはNHKのテレビ番組「ダークサイドミステリー」でも
取り上げられ謎解き解説がされてましたが、事実はともかく楽しめるのが何より・・・

日本とユダヤの古代史&世界史~縄文・神話から続く日本建国の真実~
とゆー本の読後メモであります
「日ユ同祖論」ではなく「日ユ同化論」だそうで、縄文時代から5つの大きな波を中心に、
何度も渡来していたユダヤ人が、唯一神の信仰を捨て日本に同化していく過程で、各時代に
大きな影響を与えていたことなどを対談形式で解説している本であります
著者つーか対談者の紹介


奥付

ま、著者つーか対談者の考え方については賛否両論でしょうし「ホントにそうなの?」と感じた
部分もありましたが、ともかく扱う時間と空間が広く、ユダヤと日本に限らず歴史上の関連が
豊富な図版や地図や年表で分かりやすく、日本史と世界史のおさらいにもなりました
例によって目次のみ・・・





それにしても目次最後の左に見えるユダヤ人埴輪は衝撃的でした!!!

以前読んだ「アマテラスの暗号」は小説なので、主人公たちが日本とユダヤの歴史の証拠を
各地で見つけていくとゆー展開でしたが、この本は対談なので会話の途中で時代が前後する
ことがあり、以下の読後メモにも何度か重複があります
わたくしが知らなかった事柄や脳の外部記憶として整理しておきたい部分だけのてきとーメモで
思い違いもありますので、興味を持たれた方は本書の熟読をお願いしますね
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
(1章から5章まではユダヤ人渡来5つの波の各時代に殆ど沿った内容になってます)
序章1より
フランクフルト学派による伝統文化の否定
→民族や国家が保守的な文化を持っているとナチスドイツのような考え方に行き着くと、
各国の文化を破壊し始めた
→OSSがGHQを通じて日本の戦後教育にも持ち込んだので歴史が歪められている
→本当の歴史を学び歴史を取り返すために・・・
序章2より
・世界史の教科書で最初にユダヤ人が出てくるのは古代オリエントの単元
→その後は20世紀まで完全に抜け落ちている(執筆者の意図を感じる)
→西暦135年から1948年まで国はなかったがネットワーク組織はあった
→国の政府や王様をサポートして利益を得る処世術で世界に君臨していた
→古代日本の秦氏(竹内宿祢ら)もユダヤ系の渡来人
→バイデンの国務長官もトランプの義理の息子も始皇帝の側近も・・・
・フランス革命は「ユダヤ人の解放」だった(市民革命は宣伝文句)
→ただし失敗も多い(ロシア革命、ソ連中国の共産主義、アメリカ社会・・・)
→今はグローバルユダヤとナショナルユダヤ(シオニズムユダヤ)に大きく分かれる
・秦氏など日本に同化したユダヤ人は唯一神ヤハウェを裏切ったことになる
→なので敬虔なユダヤ教徒は建前上は語れない
→日本に同化したユダヤ人も外国人には伝えない
・ユダヤ人渡来の5つの波
①紀元前13世紀→出エジプト/縄文時代・日高見国・スサノオ
②紀元前722年以降→アッシリア捕囚と失われた10支族/日本建国(紀元前660年)
③紀元前3~2世紀→秦の始皇帝・徐福と3000人/秦氏各地に渡来
④3~4世紀→弓月国から秦氏2万人/応神天皇が受け入れ
⑤431年以降→エフェソス公会議・キリスト教ネストリウス派の追放/蘇我氏
・日ユ同祖論ではなく縄文時代から5つの波で日本にきて同化したという日ユ同化論
→旧約聖書モーセ五書の最後の章「申命記」28章36節
「・・・王を携え、知らない国に移され、木や石で作った他の神々に仕えるであろう」
→神道儀礼、祭りや神社建築、記紀神話などの古代ユダヤ教との共通点
→国譲り、天孫降臨、巨大古墳、ユダヤ人埴輪・・・
第1章「縄文時代の日本文明とユダヤ人の出エジプト」紀元前3000~1000年頃
(縄文時代の日本文明)
・縄文食と神の存在
→食べ物は全て自然(神)が与えてくれる→拝んで食べて貝塚などに返す(ごみではない)
・太陽信仰と樹木信仰
→秋田のストーンサークルとウッドサークル、三内丸山遺跡の6本柱・・・
・土偶は古事記のヒルコであり愛と鎮魂の創造物
・縄文時代の日高見国と高天原
→日本書紀や古事記は誇張などはあるが伝承された事実
→大祓詞(祝詞)にある日高見国「オオヤマト・ヒダカの国を安国と定め奉りて・・・」
→縄文時代の中心は関東・東北で日高見国は大和国より古く寒冷化で両者合体したという認識
→ユーラシア大陸の最東端は銚子あたりで太陽が最初に上る聖なる場所
→日高、日田、飛騨、北上、日上、飯高など
→北海道の古い縄文遺跡から国生み神話の本州に北海道も含まれることは明らか
(アイヌは12世紀頃にモンゴルに追われて北海道へやってきた民族)
・太陽の国、エデンの園、日本
→エルサレムが中央で東端にあるエデンの園が日本→ヘレフォード図
→太陽信仰で日本には古代より渡来人が大勢来ている
・縄文後期の寒冷化による南下と天孫降臨の一致
・気候変動と古代文明興亡の連動性
田中説の世界三大文明は
①ギリシャ・ローマのヨーロッパ文明
②ユダヤ・キリスト・イスラムの中東文明
③古代日本を中心としたアジア文明
(西洋の都市・官僚制・青銅器・文字による文明の定義ではない)
・日本人の家族意識は竪穴式住居から
→神の基本「結び」は自然の恵みだけで安全に生きていけるという縄文の感覚
・日本最古の神社は鹿島神宮→太陽崇拝の神殿
①第1波 出エジプトとスサノオ
「荒ぶる神、スサノオ」(勉誠出版/2021)参照
・出エジプトのタイミングで第1波は日本に来ている→高天原のスサノオ
→スサノオとその一族が日本に来た最初のユダヤ人グループだった
→縄文的ではない遊牧民的な乱暴狼藉をはたらき神々(多神教)を破壊しようとする
→高天原(日高見国)を追放され、出雲国でヤマタノオロチと戦って勝つ
→なので出雲では国譲りまでユダヤ系日本人を中心とした渡来人が活動していた
・古事記を伝承した稗田阿礼はユダヤ民族の歴史や古代ギリシャ神話も知るユダヤ系の秦氏
→文字にした太安万侶も多氏でやはり秦氏→スサノオやサルタヒコなどの異形を物語にした
→古事記は連続性のある前半の神話と後半の歴史を分けないことが大事
・日本とユダヤの三種の神器
→富雄丸山古墳出土の盾型銅鏡とそっくりなモーセの十戒が書かれた石板
→太陽信仰(ピンホール観察?)の勾玉と食糧が無限に出るマナの壺
→ヤマタノオロチから出てきた天叢雲剣と霊力を持つアロンの杖(剣)
・神社、お神輿、わっしょい
→モーセの十戒が書かれた石板を収めた契約の箱(アーク)は神輿にそっくり
→三種の神器もアークも霊力が強く開けてはならずアークも神輿も戦いに使われる
→アークも神輿もわっしょい(ヘブライ語で神が来た)と担いで運ぶだけ
→ソロモン王のエルサレム神殿まで三種の神器はテントに祀られており今の神社の原型
→それまでの神社は自然の磐や巨木にしめ縄だけだった
→ユダヤ人がテントを持ち込んだので最初は困ったのではないか

・日本への定住を望んだ古代ユダヤ人
→ソロモン王が死ぬと王位継承争いと宗教対立で混乱が続いた
→戒律の緩い10支族の北イスラエル王国と一神教を守る2支族の南ユダ王国に割れた
→その混乱に乗じたアッシリアにより北イスラエル王国が滅亡(紀元前722年/アッシリア捕囚)
→捕えられ行方不明になった10支族が「失われた10支族」(多神教を受け入れていた支族)
→イザヤ書は「東の果て海沿いの国に行ってヤハウェを崇めなくなれば忘れ去られる」と嘆く
・イザヤは南ユダ王国の預言者で南ユダ王国も新バビロニア王国により滅亡する
→2支族は首都バビロンに連行され50年間辛酸を舐めた(紀元前586年/バビロン捕囚)
→バビロン捕囚時にアークが行方不明になっておりイザヤ書はアークの行先を暗示している
・ヘブライ人は十戒の4~10を守ってなかったので戒めた(1~3は唯一神ヤハウェを信じよ)
→渡来系秦氏の建てた広隆寺(603年)の十善戒もほぼ同様だがすでに1~3はない
→スサノオは高天原の多神を破壊しようとしていたが、この間に多神教に完全同化した
→アシラ・アーシラトはシュメール・パレスチナで崇拝されていた女神でアマテラスとも
・なぜ古代の渡来人はユダヤ人だったのか?
→故郷がなく第1波から第5波まで何度も離散しているから
→約束のカナンの地も神が決めただけで故郷ではない
(ギリシャ系、ペルシャ系、シュメール系などには故郷がある)
→世界に離散する中で日本に安楽の地を見つけた
(能登にあるモーセの墓、青森にあるキリストの墓、竹内文書・・・)
第2章「日本建国の真実と失われた10支族」紀元前660年~
②第2波 失われた10支族、日本へ
・アッシリア捕囚(紀元前722年)からバビロン捕囚(紀元前586年)までの時代と
→紀元前660年2月11日と定められている初代神武天皇の即位の時代は一致する
→日本神話は天津神と国津神に分けておりインド神話でも分けている
・東日本の高天原と西日本の出雲国
→古事記の国生み神話は国を発見した(征服した)順番ではないか
→淡路島(沼島)→四国→九州→壱岐→対馬→佐渡島→本州(西日本?)の順
(天津神が朝鮮半島経由で九州に渡来した神なら、この順番にはならない)
→東日本の本州はすでに発見(征服)しており西日本は出雲系に取られてるので取り返す
→その後は天孫降臨した彼らが地域を平定していく話につながっていく・・・
・国生み神話は高天原=日高見国が日本列島を統一する際に西の島から支配したという事実
→特に対馬は朝鮮半島に近く移民も多かった
→征服された側の代表が国津神の出雲大国主だが国譲りの前に祖先スサノオの出雲降臨がある
→出雲は渡来人が流れ着く場所でユダヤ人も多かったはず
→紀元前10世紀前後は船による物品や人の移動も活発化し島の防御も考え出した頃
→東日本の寒冷化に伴い西や南に移動して発展していった可能性が高い
・出雲の国譲り(略)
・諏訪大社の御頭祭の謎
→出雲で敗れたタケミナカタを祀るのが諏訪大社で上社のご神体は「守屋山」
→御頭祭は旧約聖書のイサクの燔祭と同じ少年(と鹿の頭)を神に捧げる奇祭
→アブラハムが息子イサクで燔祭を行ったのは「モリヤ山」
・長野県には船を運ぶ奇祭「お船祭り」が各地に残る
→出雲から彼らが日本海→信濃川(千曲川)を伝って船でこの地に入ったという伝承
→出雲に着いた渡来人は操船に優れており新潟平野は古代は海だった
→安曇野の安曇氏は海神を信仰する一族で祇園祭の山鉾にも舟形がある
・祇園祭の山鉾はノアの箱舟
→山鉾巡行は7月17日でノアの箱舟がアララト山に着いたのも7月17日
→ギオンとシオン、エルサレムのヘブライ語はエル・シャロームで平安な都
(バグダッドも正式名はマディーナ・アッサラームで平安な都なのだが・・・)
・船とユダヤ人
→ユダヤ人が同じくアッシリアや新バビロニアに滅ぼされた船の達人フェニキア人を吸収、
離散して船で長い旅に出て行った→天孫降臨→天も海も「あま」で同じ
→縄文時代に関東に渡来人が来たのは浜が多く浅瀬になっていたから(縄文海進)
→鹿島神宮が玄関口で高天原の本拠地である筑波山の麓まで船で行けた
→鹿島から鹿児島へ海流は逆だが小舟の港伝いで時間を要すれば可能→天孫降臨
・天孫降臨
→アマテラスの孫ニニギが高天原から九州に降りるのが天孫降臨
→その曾孫のイワレヒコ(神武)が大和に遠征するのが神武東征
→大和のナガスネヒコを滅ぼし橿原宮で即位したというのが日本神話の通説
→ところがナガスネヒコは主君ニギハヤヒも天孫族だという証拠を見せて抵抗するが、
最後はニギハヤヒに見捨てられて殺されるハナシになる(日本書紀)
・これはニニギの九州とニギハヤヒの大和で天孫降臨が2回あったという事実
→ニニギは日高見国(高天原)茨城の鹿島から九州の鹿児島へ船で降臨(鹿島の児で鹿児島)
(記紀にある筑紫日向の高千穂峰まで)
→ニギハヤヒは日高見国(高天原)千葉の香取から大和(大阪・奈良)へ降臨
・二つの天孫降臨ルート
→寒冷化による人の移動と大陸移民の増加で西日本は国譲り以降も治まらなくなってきた
→日高見国(高天原)は九州と関西に統治者グループを派遣した
→鹿島から鹿児島へ行ったニニギ・グループと香取から大和に行ったニギハヤヒ・グループ
→各グループがそれぞれ紀元前660年に出発し国を形成するが最初の統治はニギハヤヒの大和国
→ニニギ勢力は統治に苦労し4世代後、出雲勢力の跋扈する西日本にイワレビコの軍勢を送った
→なので初代の神武天皇は大和のニギハヤヒだった
・天孫降臨は日高見国(高天原)による日本列島統一の総仕上げ
→九州から東征したのは神武と同名(ハツクニシラス)の第十代崇神天皇(それまでは欠史八代)
→大和は2回天孫族に征服されたことになる
・ニニギの子孫エピソードは多いがニギハヤヒの歴史はなぜ消されたか
→大和の出雲系豪族ナガスネヒコはニギハヤヒの権威に従い側近として力をつけていった
(ナガスネヒコは長い脛を持つのでユダヤ系と考えていい)
→欠史八代は関東の人と思われるが形式的な天皇で出雲系の側近が実質支配していた
→ナガスネヒコ勢力が支配していた欠史八代はイワレビコ視点の記紀には書けなかった
・ニニギの息子である山幸彦と海幸彦のハナシ→明らかに海洋民族系の神話(竜宮伝説)
→浦島伝説の乙姫(山幸彦が結ばれる海の女神・豊玉姫)は亀姫でユダヤ人女性
→亀の甲羅も籠目模様も六角形、鶴は日本の象徴で「鶴と亀が統べった(統一した)」
→帰るまでに長期間を要しているのでイスラエルまで戻ってたのかも・・・
・九州と大和に長らく二政権が存在したが大和では出雲系=物部系が実権を握ってたので
九州のイワレヒコが挙兵したのが神武東征
→詳細は「決定版神武天皇の真実」や「新・日本古代史」(共に扶桑社2021年刊)を参照
・紀元前660年より前にユダヤ人は来ており天孫族、出雲族どちらにも船舶や武器の技術を
提供していたが少数派なので常に補佐役だった
→君主側には常にユダヤ系のガイド役がいた→国津神サルタヒコのニニギ案内の例
・中国河南省の開封はじめアジア・アフリカ各地に10支族の痕跡がある
→帰る国がないので移動する商人に一番向いている
→多くのユダヤ人が日本に残り同化するが、どの支族かは特定できていない
→ユダとハダ(秦氏)が近いことから南ユダ王国の2支族からの可能性も・・・
第3章「秦の始皇帝からキリストの時代へ」紀元前300年~
③第3波 秦の始皇帝と徐福伝説
・日本が弥生時代に移行した頃の中国は春秋戦国時代
→紀元前221年に秦の始皇帝が中華統一した
・ユダヤ人渡来の第3波は始皇帝の命を受け数千人の同志を連れてやってきた徐福
→司馬遷の史記によれば「方士(呪術医)の徐福が東方の三神山に霊薬があると具申したところ、
三千人の若い男女と技術者集団、財宝と財産と五穀の種を持たせ東方に向かって船出させた
三神山には着かなかったが広い平野と湿地の土地で王となり秦には戻らなかった」
・徐福伝説が残るのは丹後半島、男鹿半島、高知、和歌山、熊野、伊豆半島など20か所以上
→新宮市には徐福の墓と蓬莱山があり熊野市波田須町には徐福宮があり秦の古銭も出土
→秦の古銭は全国9か所の遺跡から25枚出ており波田須の原語は秦住→秦氏の住まい
→熊野は修験道の聖地だが山岳信仰がルーツの道教の方士が伝えて発展したもの
→徐福を個人ではなく方士の称号と考えれば各地に「徐福上陸の地」があってもおかしくない
・南宋時代の仏教書に958年に南宋に来ていた日本の僧・弘順大師から聞いた話として、
→秦の時代に徐福が各500人の童男童女を率いて倭国にとどまった
→徐福は富士山を蓬莱と呼び、徐福の子孫はみな秦氏という
(徐福は中国読みでシイフウでジョセフと関連する始皇帝側近のユダヤ系だった)
・始皇帝と呂不韋も漢人ではなかった
→漢人/漢民族は秦の次の漢時代に様々な民族が漢語を共通語にすることで徐々に形成された
→史記では秦は「西戎の覇者」で西方の遊牧民をまとめた国と書かれている
→明らかに別の人種という認識でイラン人やユダヤ人などのコーカソイド
・始皇帝の父王に仕えた呂不韋は中国読みでリュブウェイでヘブライ語系の男性名レヴィ
→呂不韋はチベット高原の少数民族チャン族の出身ともいわれている
→チャン族はイスラエルの10支族調査機関アミシャープが10支族の末裔と主張している民族
→呂不韋は始皇帝の父王に愛人を差し出したが、すでに自分の子を宿していたと史記にある
→なので始皇帝もユダヤ系で史記にある容貌の表記も漢人とは異なるコーカソイド系
→さらに始皇帝の息子の遺骨DNAからAI復元された顔はコーカソイドそのものだった
(漢族の初代王としては不都合なので「間違いかもしれない」との但し書が付いてる

→兵馬俑とともに出土した馬車を操る始皇帝も「みずら」をつけたユダヤ人風の顔
・初の中華統一を成し遂げたのは他の諸侯とは隔絶した実行力があったから
→一神教的な不寛容、焚書坑儒、郡県制、文字貨幣の統一、ペルシャやローマに似た中央集権、
巨大な公共工事など→配下の徐福のようなユダヤ人的情報網も活躍してたはず
→やはり相当な無理があり始皇帝の死とともに反乱がはじまり15年で瓦解した
→ユダヤ人自身が王になった例は稀で、この失敗教訓はロスチャイルド家にも残っているかも
・秦氏と重なる徐福伝説と富士山の謎
→始皇帝の始めた「丘を築いて天壇を祀る」宗教儀式は中国とは異次元で西アジア的
→古史古伝は江戸後期の偽書とされるが言い伝えを誰かが編纂したもの→徐福の富士文献
→北畠親房の神皇正統記には徐福の来日は第7代孝霊天皇の御代とある(富士山大噴火の頃)
→海外との関わりは第14代仲哀天皇(神功皇后の三韓征伐)以後とされるが以前から交流はあった
・日本のコメは東南アジア産なのでユダヤ商人が運んできたものだろう
→DNA研究で縄文前期には陸稲(ジャポニカイネ)が作られていたことが判明している
→水田に適した温帯ジャポニカイネが持つRM1-b遺伝子は長江下流域と同じものと判明
→東南アジア→長江流域→日本列島の伝来経路も判明しているが運んだ人々は・・・
→原産地の人ではなくユダヤ人たち船で運ぶ商人たち
→水田技術や醸造法は五穀の種と財宝を持ってきた徐福の大集団かも
・日本酒の起源説話
→スサノオがヤマタノオロチを酔わせた酒がコメの酒とは書かれていない
→大隅国風土記やアニメ「君の名は」に出てくる口噛み酒は海洋民族の文化
→古墳時代の第21代雄略天皇の時代に秦酒公がいて太秦の大酒神社に祀られている
→分散した秦氏を束ねることを許されたお礼としての絹などが朝廷にうず高く積まれたので
「うつまさ」の姓を天皇から賜り、これが太秦の地名になった
→畑、機織り、養蚕なども秦氏由来で秦氏の「はた」が地名や人名を含め歴史を紐解く鍵
・キリスト教の誕生とユダヤ戦争、ディアスポラ
→「はたもの」という古語は磔刑を意味するので「秦氏=キリスト教徒」説がある
→聖徳太子もイエスと同じ厩戸に生まれたことになっている
→イエスはユダヤ人でローマ人に処刑させたのもユダヤ人で活躍した期間は3年のみ
→ユダヤ教の戒律と選民思想を否定したので長老たちがローマ人に処刑させた
・民族性を問わないキリスト教は各地で信者を獲得していくが多神教ローマ帝国に迫害される
→ユダヤ教徒も一神教なのでローマ帝国と独立戦争する(66年~73年、132年~135年の2回)
→エルサレムは廃墟となり年に1回だけ嘆きの壁の前で祈る以外は退去を命じられる
→これがディアスポラ(離散)の決定的な始まりで国を亡くし世界中に散っていく
・キリスト教はマリア信仰を取り入れヨーロッパに広まった
→ユダヤ教は見えない神ヤハウェだけだがキリスト教は生身のイエスも神の子として祀る
→原始キリスト教はイエスの母マリアも祀るアナタシウス派(神ヤハウェが精霊という形で
マリアの腹に入ったのでマリアは神の母だから祀る)と、ネストリウス派(人間マリアが
人間イエスを生んだのちに神がイエスに降臨したのでイエスは祀るがマリアは祀らない)かで
派閥が分かれた
(父(神)と子(イエス)と精霊の名において三位一体という、のちのカトリックもプロテスタントも
ロシア正教会も根っこはアナタシウス派)
・キリスト教を公認したローマ帝国もネストリウス派を異端としたので東方に散っていく
→唐や飛鳥時代の日本にはネストリウス派が来ている→ザビエルの1000年前
・古い宗教と同じ女神(観音)としてマリアを取り入れキリスト教は広まっていく
→原始キリスト教はマリア信仰を、原始仏教は菩薩信仰を取り入れ俗人に妥協して発展した
・家族を捨てた釈迦とイエス
→マリアを認めないネストリウス派は家族を捨てた釈迦の仏教とシンクロする→個人宗教
→キリスト教では旧約聖書はユダヤ教の聖典で共同宗教、新約聖書がイエスの個人宗教
→日本では神道を共同宗教、仏教を個人宗教としてキリスト教と同じような構造になった
・個人宗教のキリスト教はカトリック教会が共同宗教に変質させ、これを破壊したルターや
カルビンの宗教改革で個人宗教に戻り、ここから西洋近代文明という病がはじまり、明治以降の
日本人もこれに毒されていく
→日本の神仏習合とキリスト教を「うまく飼い馴らした」ヨーロッパ
→重要なのは日本に仏教を持ち込んだのが渡来人の秦氏だったことと、あとの渡来人の蘇我氏が
ネストリウス派だったことで、その後のユダヤ渡来の波に続く・・・
第4章「巨大古墳の時代」200年~
④第4波 応神天皇の時代、弓月国からやって来た秦氏
・応神天皇14年に弓月君が百済から来て「120県の人民を率いてるが新羅人が邪魔をして、
みな加羅国に留まっている」と奏上した(日本書紀より)
→120県の人民は少なくとも1~2万人、秦氏のリーダーが弓月君で秦王朝の末裔と名乗った
→弓月国はシルクロード沿いの都市国家で現在は新疆ウイグル自治区に編入されている
・応神天皇は葛城氏(竹内宿祢の子孫)の軍勢を新羅に送り込んだ
→加羅国(伽耶国)で尽力したが3年は帰還できず、さらに強力な軍勢で新羅を降参させて
ようやく弓月国の民を日本に招くことができた(2万人なら徐福3000人の6倍以上)
→応神天皇は八幡宮の主祭神に祀られるが八幡はヤハタで多くのハタ(またはヤハウェ)
・巨大古墳は秦氏の公共事業
→5世紀は前方後円墳が超巨大化した時代→大阪平野など水田開発事業の記念碑説もある
→律令制は7世紀後半だが、それ以前に秦氏は各地に派遣され土木事業で統治者と結びついた
・出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓と出雲人の気風
→出雲系はスサノオ・大国主につながる
・外来思想の古墳は風土に合わず7世紀の仏教建築で消えた
・埴輪の起源とユダヤ人埴輪の発見
→古墳の造築を担当した土師氏(ユダヤ系の渡来人)が埴輪を提案した(日本書紀)
→従来武人埴輪と言われていた埴輪にはユダヤ教徒独自の三角帽、長い髭、みずらがある
→スサノオにはみずらがありアマテラスはみずらを結って戦う姿勢になる(古事記)
→スサノオはオロチに狙われる姫を櫛に変身させ、みずらに刺して守る(クシナダヒメ)
・ユダヤ人埴輪が多いのは関東だが九州や関西にもある(関西には人物埴輪自体が少ない)
→みずらは天武天皇が681年に禁止した(日本書紀)→古墳が終わり仏教が入る時期
→烏帽子の起源は謎だが古代ギリシャの帽子ベタソスと言われている
→キリスト教会では帽子を脱ぐがユダヤ教のキッパと貴族の烏帽子は逆で神聖な場で着用する
・古墳=石の文化は最新テクノロジーだった
→古墳前期は頂上部から石棺を埋めたが巨大化した中期以降は横穴式になる
→弥生時代とは異なるメイソンの石造技術
→古墳時代はインターナショナルで秦氏以外の外来文化も多く受け入れた
→仏教が入っても神社は残ったのに古墳は消えた→異質でなじまなかったから
→古墳はユダヤ資本が再調査して再建すべきなのだ
第5章「蘇我氏とは、いったい何者だったのか?」400年~
⑤第5波 キリスト教ネストリウス派と蘇我氏
・古墳時代が仏教普及とともに終わり聖徳太子が活躍した飛鳥時代へ→蘇我氏の隆盛
→431年のエフェソス公会議でネストリウス派が公式に異端とされ東へ
→シルクロードまたはステップロードを経て日本へ
→蘇我氏は葛城氏など渡来系の権力を奪い天皇に接近、政治を支配する
(弓月君はネストリウス派だったという説もあるが年代が合わず原始キリスト教のユダヤ人?)
・蘇我氏は日本でネストリウス派キリスト教を広めようとするが失敗し滅亡する
→蘇我氏は聖徳太子を日本のキリストにしたかった(厩戸皇子)がコントロールできなかった
→蘇我馬子は天皇も皇太子(聖徳太子など)も殺した日本史上最大級のテロリスト
・馬子の孫の入鹿は聖徳太子の子息王も攻めて斑鳩寺で自死させている
→なので中臣(藤原)鎌足ら新勢力が中大兄皇子を立て入鹿を斬り(645年)大化の改新へ
→天智・天武の時代となり正しい日本を取り戻したが、まさに危機的状況だった
・蘇我氏は5代ほど強い信仰が続き既存の仏教にキリスト教を上乗せしようとしていた
→蘇我氏による聖徳太子暗殺の根拠は法隆寺釈迦三尊像の光背銘に書かれた理由と翌日埋葬
→新勢力のクーデターに協力した一族のみ蘇我氏の血脈を保つが政治の表舞台からは消えた
・蘇我氏がユダヤ的であるとする理由
→旧約聖書にある暴力性と排他性、砂漠民やノマドなど遊牧民に必然の暗殺の多さ
→ただし一神教の押しつけはせず飛鳥寺や法隆寺も建築している→ユダヤ人の知恵
→ウマコ、エミシ、イルカといった不思議な名前
→秦氏と蘇我氏の内部分裂と派閥抗争もユダヤ人のお家芸(秦氏はうまく生き残る)
・蘇我氏なきあとの秦氏~土師氏と菅原道真~
→新しいDNA鑑定では日本人のD2遺伝子がユダヤ人に近く中国・韓国・朝鮮人とは異なる
→日本人・ユダヤ人・アラブ人・チベット人が共有するYAP遺伝子
→ユダヤ人埴輪とDNAが決定的な日本人とユダヤ人との関わりの証拠
→西洋人・中東人の容貌も日本の伎楽面、仏像、能面、鬼面、天狗面、歌舞伎顔にある
・蘇我氏を滅ぼした中臣氏=藤原氏は隆盛を極めるが秦氏の系統は政治からは徐々に消える
→菅原道真は土師氏で祖先は野見宿祢、スサノオ以来の古い秦氏の同族
→秦氏はその後、様々な開発分野で力をつけ商業芸術言語活動へ
・京都はユダヤ人秦氏がつくった(育鵬社/2021年)を参照
・一神教を捨てた秦氏の信仰スタイルは聖徳太子が目指した共同体をつくる信仰というより、
山に籠って個人を深く探求する山伏や天狗や鬼といった方向に発展する
→山岳信仰(修験道)の山伏や天狗の恰好はユダヤ教の祭司の格好と瓜二つ
→黒い小さな箱を頭に乗せ、角笛(法螺貝)を持つ先達・・・

・鳥居による高天原系神社と秦氏系神社の見分け方
→平安京を提供した秦氏は地元太秦を中心に八坂神社、伏見稲荷大社、松尾大社などを創建、
各地に前述の八幡神社と稲荷神社の数を増やしていく
・鳥居は伊勢神宮など素朴でシンプルな高天原系の神明鳥居と、伏見稲荷大社など赤くて
ゴージャスな7~8世紀以降の秦氏系の明神鳥居に大きく分かれる
→鹿島神宮は入口が神明鳥居で拝殿前は明神鳥居なので、日高見国の高天原系のあとから、
出雲系・秦氏系が入ってきたことがわかる
・明神鳥居の朱色はユダヤの過越祭ペサハに由来する
→稲荷神社のシンボルが狐になるのは神仏習合以降でイナリ神の正体は穀物神
→イナリは十字架にあるINRIという説もあり意味は「ユダヤの王、ナザレのイエス」
→伏見稲荷大社の祝詞には「神は唯一にして・・・」とあり旧約聖書のヤハウェ神と同じ
・八坂神社はノアの箱舟を模した祇園祭で有名なスサノオを祭神とする神社だが、
別のユダヤ系渡来人に伝わる物語を持っている
→日本の神々を借りてユダヤ人が本来持っている様々な物語を当てはめていった
・木島神社(蚤の社)には三柱鳥居があるがキリスト教主流派の三位一体?
→秦氏の中でもネストリウス派とアタナシウス派に分かれたのか?
・秦氏は信仰を強要せず神道に紛れ込ませて非常にうまくいった
→それ以前の神道は自然だけだったので逆に尊敬を集めた
→自然の前に「ほこら」や「やしろ」を作って継続化しようとしたのが神社
→弓月君一族が大量に渡って来た応神天皇の時代に仏教はなかったから体系化された宗教は
衝撃的で神社は古墳と同様徐々に大きくなっていく→左右対称のシンボル化へ
・群馬の田胡羊太夫の挑戦と和同開珎の登場
→田胡氏は秦氏系で純度の高い和銅を見つけ藤原不比等に貨幣づくりを提案して認められた
→富本銭は普及せず和同開珎はシステムも法律も含め全国流通を目指したが流通しなかった
→ユダヤ人ハラリのサピエンス全史のとおり貨幣は独立したフィクションに過ぎない
→貨幣より米を選択した
(サピエンス全史はユダヤ的世界から見た歴史の一面しか描いていない)
・日本人が保持し続けた一つが土地の個人所有でユダヤ人は貨幣流通の推奨と利息
→群馬、栃木の毛野、蝦夷、土蜘蛛族、手長族、足長族・・・
・田胡羊太夫碑の傍の石室にあった銅板の表題にJNRIとあった(甲子夜話73)
→十字架もあり銅板を調べれば古代にキリスト教徒が来たことが明らかになる
→十字架はハタモノと呼ばれてたが秦氏と関係するか、島津の家紋は・・・
→芝山遺跡周辺の埴輪には十字架のあるものが複数あるがネストリウス派か
・日本に古代からのキリスト教やユダヤ教の痕跡は残っていても信仰は残っていない
→秦氏、曽我氏などの考え方を骨抜きにしたから→神道的にいえば「祓った」から
→これが現代日本のキリスト教徒が1%以下でマルクス主義者も1%以下ということに通じる
第6章「中世以降のユダヤ人と世界史」1400年~
・ユダヤ人が二人集まると三つの政党ができる→多種多様で無宗教も多い
・世界史を学ぶ常識にしておくべきユダヤ人の種類
→本来のモーセやイエス・キリストは黒髪で褐色肌の中東人らしい顔立ち
→古代の日本に来たユダヤ人も同様でアシュケナージ(白人系)ではない
→各地を流浪していたので混血が進み「生物学的に純粋なユダヤ人」はほぼいない
・イスラエル政府のユダヤ人の定義
①民族を問わずユダヤ教徒であること
②父親を問わずユダヤ人の母親から生まれたこと
・流浪するユダヤ人はアシュケナージ、スファラディ、オリエントユダヤ、ファラシャの
4つのグループに分かれていく
①アシュケナージ→西欧・東欧・ロシアのユダヤ人
・十字軍時代に西洋各地で迫害され東欧ポーランドに逃げ込みヨーロッパ各国で混血した
→西欧出身のユダヤ人ではなく改宗したハザール人という説(ケストラー説)もある
→ロシア帝国のポグロム(破壊)で数十万が殺され数百万が欧州やアメリカに亡命した
→被害規模はナチス・ドイツのホロコーストと同様かそれ以上ともいわれている
・バイデン政権のブリンケン国務長官とヌーランド国務次官はユダヤ人だが祖父がロシア領
ウクライナからポグロムを逃れ移住した経過がありロシアに凄い怨念を持っている
→フランクフルト出身のロスチャイルド家もアシュケナージと思っていたが、祖先はイラクにいた
スファラディではないかと知り驚いている
②スファラディ→イベリア半島から地中海沿岸に広がったユダヤ人
・イベリア半島は長くイスラム教徒の支配下にあり一定の自治が認められていた
→レコンキスタで1492年にスペインが半島を統一しイスラム教徒とユダヤ教徒を追放した
→ギリシャからアルジェリアまで支配していたオスマン帝国に保護を求め、スペインから独立した
オランダや、それを助けたイギリス、イギリスの植民地だった北アメリカにも避難している
→オランダの哲学者スピノザ、イギリス首相ディズレーリ、ルーズベルトの母方デラノ家など
③オリエント・ユダヤ→エジプト、イラク、イラン、中央アジアのユダヤ人
・中東諸国で混血が進み見た目は殆どアラブ人
→バグダッドに大きなコミュニティがあり清国とのアヘン貿易で財を成したサスーン財閥など
→ユダヤ教の制度でスファラディの管轄下にあったため混同されるが別系統
④ファラシャ→東アフリカのエチオピアのユダヤ人
・エチオピア王国は古代イスラエルのソロモン王とシバの女王の間に生まれた王が開いた王国
→人種的にはアラブ人・ユダヤ人と同じセム系のコーカソイド
→ローマ時代にエチオピアがキリスト教に改宗した後も信仰を守った人々
→ファラシャ(流浪者)と呼ばれて迫害され一時は独立国家を建てた
→見た目は完全なエチオピア人で「黒いユダヤ人」とも呼ばれる
→イスラエル建国後、認定されたユダヤ人の85%はイスラエルに移住した
・世界に1500万人なのは殺されたからではなく各地で同化しユダヤ教から離れたから
→その中に日本のユダヤ系の人たちもいるが誰も気づかない・・・
・ユダヤ人を保護した国が経済的に栄える法則
→中世のポーランド王国はモンゴルに破壊され人口が激減、西欧諸国のユダヤ人を受け入れ、
中世ヨーロッパでは例外的なユダヤ人迫害のない国となった
→経済的に大発展し北はバルト海から南は黒海沿岸ウクライナにいたる大帝国になった
→モンゴル帝国から奪ったのがウクライナで地方行政官としてユダヤ人を送り込んだ
→ウクライナ人から見れば政治と経済を握るポーランドの手先で反ユダヤの根源になった
・18世紀後半のポーランド分割でロシア領となったのがウクライナとベラルーシ
→ユダヤ人がロシア帝国に従いウクライナを支配する図式になりウクライナ人のロシア帝国に
対する不満がユダヤ人に向けられた結果が19世紀後半のポグロムにつながる
・スラブ系ウクライナ人とロシア人が結託してユダヤ人を攻撃したのは僅か150年前
→1871年に最初のポグロム虐殺が起こったのがオデッサでユダヤ人はウクライナから脱出、
西ヨーロッパやアメリカに逃げた
→その半世紀後のロシア革命はユダヤ革命ともいわれている
→多くのユダヤ人が革命側・共産党側についたからでポグロムの反動、復讐ともいえる
・コンベルソ(改宗ユダヤ人)の役割
→レコンキスタによる異教徒追放で改宗してスペイン・ポルトガルに残ったユダヤ人をいう
→隠れユダヤ教徒と疑われ異端審問され拷問火あぶりに
・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の大審問官は彼自身がコンベルソだった
→ただしコンベルソには有力者、財界人も多く王室のスポンサーもいた
→その一人が財務長官サンタンヘルでコロンブスのスポンサー
・オランダ・イギリス・スペインとユダヤ人
→スペイン領オランダは宗教改革を受け入れ独立戦争を開始(1568年からの80年戦争)
→イギリスがオランダを支援、無敵艦隊を撃破しオランダは独立
→スペインを追放されたユダヤ人は敵の敵なのでオランダ・イギリスが迎えた
・1600年にイギリス、1602年にオランダが東インド会社を設立
→貿易覇権がユダヤ人を追放したスペイン・ポルトガルから迎えたイギリス・オランダへ
→迎えたアムステルダムやロンドンは経済金融が活性化し、難民を新大陸に送り込む
・ニューアムステルダムはマンハッタン島南部を先住民から安く買い取ったオランダ植民地
→毛皮貿易の拠点として港と砦を建設しスファラディたちが移住した
→17世紀後半の英蘭戦争でマンハッタン島を横断する壁を築いたがイギリスが勝利した
・イギリスはニューアムステルダムをニューヨークと改称し壁を撤去して道路にしたので、
→ウォール街となったがユダヤ人たちはそのまま残り銀行や証券会社を立ち上げていく
→隠れユダヤ人コロンブスが見つけた新大陸にユダヤ難民を送り込んで作った街がNY
→スペインにいたユダヤ人は200年かけてようやく居場所を見つけたといえる
→先住民はその犠牲となったが、その一部は縄文人の子孫・・・
・スペインと世界を二分していたのがポルトガル
→当時のカトリック教会はルターの宗教改革に対抗して世界のカトリック化を計画していた
→イエズス会はポルトガル勢力圏、フランシスコ会はスペイン勢力圏で布教した
→日本はポルトガル勢力圏とされてたので来たのはイエズス会
・イエズス会の活動は特に中南米・東南アジアでは完全に植民地支配と結びついていた
→彼らが持ち込んだ疫病で殆どの国の人口が減少し搾取され奴隷のように扱われた
→これが西洋資本主義を成立させた要因
→日本では秀吉や家康が策略に気づき撃退したので植民地にはならなかった
・ポルトガルの拠点となったマカオには600のファミリーがあり半分はコンベルソ
→日本では仏教神道との軋轢や島原の乱などでイエズス会とポルトガル貿易が禁止されるが
交易が許されたオランダから別のユダヤ人が来ることになる
・慶長遣欧使節団
→彼らを案内した宣教師ソテロはスペインのユダヤ人だった
→最新のガレオン船を日本人に建造させたり大平洋と大西洋を航海する技術も持つスパイ
→伊達政宗が次の日本の皇帝になると誤算して活動するが最後は火あぶりになる
→遠藤周作の「沈黙」のように棄教して日本人になる人も多い→古代の秦氏に近い
・アメリカに拠点を移したユダヤ人
→19世紀半ばのドイツ統一ナショナリズムでドイツ系ユダヤ人のアメリカ進出が加速
→ゴールドマン・サックス社、リーマン・ブラザース社の創業者など錚々たる顔ぶれ
→1880年代のポグロムで難民集団もNYに来たが金融界のトップがユダヤ人の新興財閥なので
自分もと最下層からはじめ、息子や孫たちは稼げる金融業界で働くようになる
・現在のユダヤ人の人口は約1500万人だが国籍は約半数がイスラエルで約半数がアメリカ
→アメリカ人口の2%にも満たないユダヤ人が世界の金融を動かす力を持っている
→移民国家アメリカでは成功したが日本では和同開珎のとおり成功しなかった
→ユダヤ思想が浸透せず癪に障る日本とドイツを破壊しようとしたのが第二次世界大戦とも
・陸軍中将 樋口李一郎(当時の関東軍・満洲ハルピン特務機関長)→後述
・アメリカのユダヤ人の政治指向
→アメリカは移民を受け入れ過ぎた結果、中西部や南部のイギリス系WASPの開拓農民の子孫と、
19世紀にNYやカリフォルニアに住み着いたユダヤ系イタリア系アジア系など新しい移民の子孫に
国が分断されている
→今のアメリカのユダヤ人から見ればイスラエルを建国したシオニストのユダヤをサポートする
トランプ共和党と、グローバル金融のユダヤをサポートするバイデン民主党の戦い
→イスラエル建国(1948年5月14日)でユダヤ人は完全に二つに分かれた
→(田中)今後世界はグローバリズムよりナショナリズムに変わるべきと信じている
第7章「新しい時代のための「日本人とユダヤ人」論」1900年~
・ユダヤ陰謀論の正体
→19世紀後半のロシアが発祥→ポグロムの根拠
→ポグロムの反動で一部ユダヤ人がグローバル革命運動へ走り世界中を巻き込んだ
・シオン賢者の議定書が生まれた背景
→1864年モーリス・ジョリ「マキャベリとモンテスキューの地獄での対話」(フランス)
(マスメディアが権力を握る話でナポレオン三世への批判小説)
→1868年ヘルマン・ゲルシュ「ビアリッツ」(ドイツ)
(ユダヤ長老秘密会議の話で世界征服を企むユダヤの陰謀を描いた最初の小説)
→合体してポグロムのあとの1890年代に作られたのが「シオン賢者の議定書」
・作ったのはロシア帝国のオフラーナ(秘密警察)パリ支部と推測されている
→大々的にマスメディアに載り世界中で翻訳されベストセラーになった
→この偽の議定書の流布で反ユダヤ思想の勢いが増したことは事実
・樋口李一郎の功績と日本精神(略→下記文献を参照)
「復刻新版 陸軍中将 樋口李一郎回想録」2022年/啓文社
「陸軍中将 樋口李一郎の遺訓~ユダヤ難民と北海道を救った将軍~」樋口隆一2020年/勉誠出版
(外交官の杉原千畝は個人の判断で動いたが樋口は満州を実質統治する関東軍として動いた)
(安江仙弘大佐は「シオン賢者の議定書」の翻訳者だが満洲のユダヤ難民救済に尽力した)
(ユダヤ民族基金が管理するゴールデンブックに記載されている日本人はこの3人)
・小野田寛郎少尉を描いた映画「ONODA」2021年フランス製作アルチュール・アラリ監督
・自然を神々として祀ってきた日本人と唯一神という人工的な宗教を作り上げたユダヤ人
→世界の対極にあるが日本に同化し多神教的日本文化を受け入れていった
→日本の多神教は神という概念がなく豊かな自然に現れているので(神道より)自然道
・日ユ同化論(とユダヤ人埴輪)が世界を変える・・・
・・・とまあ、日ユ同祖論についてはNHKのテレビ番組「ダークサイドミステリー」でも
取り上げられ謎解き解説がされてましたが、事実はともかく楽しめるのが何より・・・
