2024年08月21日
最後はなぜかうまくいくイタリア人
とーとつですが・・・
前回記事の本にムラブリやプナンの人たちが「分業しない」とか「今、ここ」だけとかあって、
それでふと思い出したのが・・・
Alla fine gli italiani ce la fanno.
最後はなぜかうまくいくイタリア人・・・とゆー本であります

表紙カバー裏にあった惹句

裏表紙カバー裏にあった著者紹介

著者はローマの新聞社勤務からワインガイドやレストランガイドの執筆スタッフを経て、
日本とイタリアでワインと食について執筆活動中、2014年にはイタリア文化への貢献で
大統領から勲章を授章されてるとゆー、まさにホンモノのイタリア通ですね
奥付

第1刷は2015年9月、わたくしには初めての渡欧で、我が家にホームステイしていた青年の
シチリアでの結婚式に参列して、トスカーナにある実家にホームステイさせてもらったのは
2017年の夏ですから、その2年前に刊行された本とゆーことになります
当時は本書の存在を知りませんでしたが、なぜシチリアとトスカーナに住む新郎と新婦の
家族や知人が、わたくしたち夫婦の世話を親身になってしてくれたのか、なぜ家族全員で、
あるいは親族や友人、仕事関係者らと一緒に食卓を囲んでいたのか、が理解できました
さらにシチリアでもトスカーナでも嫌な思い出がひとつもないのは「よそ者」ではなく
グループの一員として、家族や知人に限らずお店の人まで対応してくれてたからかも・・・
彼らと行動を共にしている際はもちろん、一人で近所をポタリングしてる際でも、お店に入り、
「獣医の○○さんちにホームステイしてます」と伝えると、急にカタコト同士での会話が弾み、
「○○さんは知らないなあ」の場合でも、まったくの「よそ者」ではなさそうとの判断で、
やはり親切に対応してくれてたのかもとも、本書を読んで思いました
ただ、まったくの「よそ者」としてのシーンでも、けっこう「世話焼き」な印象を受けたので、
このあたりは大阪人にそっくりとも、当時のわたくしは感じてましたが・・・
閑話休題
例によって目次のご紹介(これだけ眺めてても面白いです)









コラム「見習ってはいけないイタリア①~④」とかも、めっちゃ面白かったのですが、
とりあえず一部だけの読後メモ・・・
例によって読み違いとか読み飛ばしも多いので興味のある方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
「はじめに」より
・30年前のはじめての通訳アルバイト経験から
→予定どおり物事が運ぶと考えるのはイタリアでは大きな間違いだった
→不測の事態が起こるのが普通と考えている(不測が予測できるという矛盾した状態)
→それで怒ったり慌てたりするのは愚か、より良い解決策を見いだす方が大切という考え方
→彼らは決してあきらめず、最後にはなんとかする(子どもの頃から慣れている)
・とんでもない行動規範にみえるが裏には彼らなりのロジックがあり機能している
→気楽で怠け者と思われがちだがEUの経済大国であり、各分野で世界をリードしている
・現在は日本とイタリアで仕事をしているが仕事のやり方は空港で切り替えている
→どちらが正しいとかではなく、そのほうがうまくいくから
→国際化で身近になったという錯覚もあるが歴史も文化も全て異なる遠い国
→日本と似ているところも多いが異なる部分がたくさんある
→22歳までイタリアと縁のなかった日本人が身につけた、生きていくための知恵・・・
1「仕事」より
・時間へのルーズさは南へ行くほど大きくなる→特にローマから南は・・・
→ただしルーズさには暗黙のロジックがあり、それに従っている
(記者会見、ディナーパーティー、自宅への招待、大学の授業などの例)
→重要なのは時間の遅れは予測可能であり、しかもかなり正確なルールで遅れること
(開始時刻は準備の目標であり、所要時間を訊いても最短時間(クルマなら渋滞も赤信号もなく
最速で到着する時間)しか答えてくれないので訊いてもムダ)
・公私混同しないこと、けじめをつけることは・・・
→いいことだと思っていた、イタリアという国を知るまでは
→公私混同が激しいほど社会に活気が出て、皆が生き生きとしているように思える
→公共窓口やレストランの例
→おしゃべりで待たされる側は不利益のはずだが、けじめが存在しないので客も参加する
→逆にプライベートな時間への仕事の割り込みにも寛容
→同様にけじめが存在せず労働時間への権利意識も低いから(フランス取材との違い)
→時間にルーズで自分に都合のいいように考えるが他人もそうだと理解しているので寛容
・仕事が労働時間なのは商品として資本に売買される「疎外された労働」のみ
→銀行の窓口担当と駄菓子屋の店先に座るお婆ちゃんの違い
→お婆ちゃんは知り合いとおしゃべりし子どもと遊び説教して、ついでに駄菓子も売る
→お婆ちゃんには人生そのものであり生きがい、仕事の時間と私の時間が溶けあっている
→イタリアは皆が駄菓子屋のお婆ちゃんのように働いている国と考えればわかりやすい
→資本により売買されたはずの労働が(労働者の勝手な解釈で)好き勝手に使われている
→労働の疎外レベルが低い(労働レベルも低いけど)恵まれた労働者と考えれば腹も立たない
・高度成長期に会社で長時間労働していた日本のお父さんたち
→世界中からバッシングされたが公私の区別がなく会社はお婆ちゃんの駄菓子屋と同じだった
→会社だけで充実しておりオフに自分を取り戻す必要はなかった(なので退職後は廃人に)
・イタリア経済を支える中小企業は大きな家族のようなもので分業も明確ではなく公私混同
→マルクス理論では商品化による労働疎外が極端に進めば革命が起こるが、
→イタリアでは労働時間を勝手に解釈して自分に使っており社会全体がそれを許容している
→実際に業務をきちんと遂行しない労働者へのイタリア人の寛容さは破格
→なし崩し的に資本主義の先鋭化を止め、いまだにのんびり楽しげに働いている
・近代的労働は労働に見合う対価を受け取る契約で成り立っている
→対価に見合う労働以上にする必要はなく人間関係がなくても成立する
→イタリア人は自分のものとして感情移入できないと関心を持てず熱中できない
→公共サービス窓口が典型で時間外の第二の仕事では生き生きと熱心に働いている
・対する家族工房的労働は友人家族のように公私の区別が曖昧で労働時間も曖昧
→イタリアの経済基盤を支える中小企業は多くがこのカテゴリー(ワイナリーなど)
→社長は親父、会社は第二の我が家で、高度成長期の日本の家族経営企業と同じ雰囲気
(映画「紅の豚」に出てくるミラノのピッコロ社は、まさに家族経営そのものでしたね)
→無機質な労働は苦手だが目に見えることは懸命にやり、残業代を言う人はまずいない
・危機的状況が常態化しているので、ひるまないしぶとさがイタリア最大の武器
・京都の「ぶぶ漬けでもどうどす」と同じで土地のルールを理解しておく必要がある
・フォルクスワーゲンとフェラーリの違い
→効率は悪いが全体が見える何でも屋さん→大きなバルの従業員でも分業しない
・先の段取りは苦手、今やるべきことに集中する→バック駐車しないとか
・何でもダメもとでトライするが親切に対応してくれることも多い(断られてもひるまない)
・「お客様は神様」と「店員は友達」の違い
→自分も友達といるときのようにおしゃべりしてるので客にも友達のように親身になる
コラム見習ってはいけないイタリア①より
・公共心がない
→仲間と見なせば必死で守るが国家など大きな組織は仲間と見なしていないから
・泥棒が多い、偽物が多い、脱税が多い
→「破格のお値打ち品」に弱いから
→脱税や盗品や偽物の取り締まりには賛成だが自分が得する場合は誘惑に負けてしまう
→公共心という絶対的価値判断基準がないので総論は賛成、各論は個人判断となる
・イタリア統一と近代国家の誕生は人民革命ではなかった
→統一はサルデーニャによる吸収合併で、国家はよそから来たサヴォイア家が押しつけたもの、
という意識が強い(特に中南部イタリアに多い)
→なので納税義務と国民の権利という民主主義の市民文化を確立できなかった
→この歴史的経緯は日本に似ているが結果の行動パターンがあまりにも異なるのが興味深い
・・・と、ここまでで全体の1/3ほど・・・
最後まで興味深く読みましたが、暑気払い飲酒が続き、全てはメモできませんでしたので
、
以下は思い切って2「人生」のメモを省略、3「家族と恋愛」の一部と、(わたくしの愛する
)
4「食事」、5「独断と偏見で考えるイタリア」の一部、「あとがき」からの一部メモ・・・
ちなみに目次の最後にある「不思議の国イタリアの"あるある"行動」もめっちゃ面白かったです
3「家族と恋愛」より一部
・ローマ・カトリックの影響
→清く正しい生き方を説く
→できるわけがないので
破った側も教会側も体裁だけ繕うことを選んできた
→なので体裁さえ繕えば何をしてもいいという偽善モラルが根付いたという説
→ダブルスタンダードの快感(映画山猫、トスカーナワインの規則、スピード違反など)
・家族一族の団結→同族企業が多い
→異国に支配され続けてきた歴史から、頼れるのは家族一族だけという考え方に
→シチリア・マフィアも支配民族に対する抵抗から生まれた構成員の多い大家族
→同じグループに所属するメンバーを優遇する→コネを使いまくる
→有力なコネだけでなく友人の友人でも便宜を図る→いつかそのコネを使えるから
→裏口を多く持つ人が尊敬され真面目に正門で待つ人はマヌケという矛盾した文化に
→なのでまったくの赤の他人は「よそ者」として不信感を持たれる
→曖昧で緩やかな関係が、じつは正確に等価交換され機能している国がイタリア
・個人的な問題を公にして解決しようとする
→グループ内のカップルは複数で行動し相手方がグループ内で変わることも多い
→グループ全員が(元カレや元カノを含め)葛藤を共有し温かく見守るシュールな状況
4「食事」
より
(イタリアの食についてはこちらの本も分かりやすかったです)
・イタリアは「食事の時間」が長いのではなく「食卓にいる時間」が長いだけ
→食卓に多義的な意味があるから(なのでスパゲッティを食べるスピードは早い)
→昼食と夕食で1日の活動時間の大半を食卓で過ごすこともある
・食卓とは人生のほとんどすべての問題を解決する場であり、人との出会いの場であり、
別れの場であり、相手を見定める場であり、就職活動の場であり、プロジェクトをスタート
させる場であり、打ち合わせの場でもある
→社会の重要な活動の多くが食卓で行われる→イタリアで食事をすることは重要な儀式
・イタリアのフォーマルなパーティーはヴィッラ(貴族の屋敷)やワイナリーを借りて行われる
①広い庭でのアペリティフから→だらだらとはじまる
(コネを作る場であり自由席の場合は同席する仲間を選ぶ場にもなる)
②8~10人テーブルの全員が揃ってはじめて着席し全員と握手して挨拶する(イタリアのみ)
③はじめての相手とも話題を探して延々と話し続ける
④伝統的にはアンティパスト→パスタ→メインディッシュ→ドルチェの構成(時間をかける)
⑤全員の同意を得てから一斉に席を立ち、また全員と握手してから別れる
⑥お開きになっても話が弾めばグラッパでも飲みながら話し続けて、だらだらと終わる
→フェードイン・フェードアウトが理想で、いただきます・ごちそうさま・締めの挨拶はない
・食事の誘いを断ったり食卓を囲むのが嫌いな人は信頼されない変な国
→食事に誘われるということは仲間として認められつつあるということ
→書類審査・筆記試験から面接に移る感じ(もちろんビジネスでは儀礼上の誘いもある)
→日本でいえば一緒に温泉に入る「裸の付き合い」のような、お互いをさらけ出す場
→ラテン語にIn vino veritas(ワインに真実がある)という諺があるが「食卓に真実がある」
・レストランでも自宅でも友達同士でも家族でも、食べる喜びは増えるが精神は同じ
→自宅で家族の場合
①それまで作業などに使っていた食卓を片付けてテーブルクロスを敷く
②人数分のフォーク・ナイフ・ナプキン・グラスをセットする
③パンを切って食卓の真ん中に置く
④皿を2枚ほど重ねてセットする
(1枚目が前菜やパスタ用で片付けた後に2枚目でメインを食べる)
⑤ようやく家族を呼び、全員が揃ったところでワインの栓を抜く
⑥全員がその日あったことや考えたことを家族と話し合う(話すことで頭の中が整理される)
(公式な食卓へのトレーニングでもあり、食卓が社会的パフォーマンスの場であることを学ぶ)
⑦前菜とパスタまでは調理に忙しいマンマもメインを出せばどっしり腰をおろして会話に加わる
⑧以後の議長役は当然マンマとなり、他のメンバー全員が従うのがイタリアらしい
・イタリアの食事の習慣で日本と最も異なるのは自宅での食事に招くことが、あらゆる接待の中で
(高級レストランに招くよりも)最高の接待とされていること
→基本的に招かれると招き返すのが礼儀なので連鎖は長く続く
(友人が多い場合は夕食に誰かが来ている頻度が高い)
→当日の「今夜うちに食べにくる?」といった軽い感じの誘いも多く、その際はふだんの料理
→自宅での食事では隠し事はできないので信頼できる証にもなる
・なぜか食卓の人数がどんどん膨れ上がる
→人数が多ければチャンスは増えるが、招く側も盛り上がってどんどん声をかけるから
→有名レストランに4人で予約して12人になったのはミシュラン2つ星の立派なシェフだが、
出会ったシェフたちに次々と声をかけてしまったので、と助けを求めてきた
→人気の有名レストランに4人の予約で12人は無理なことぐらいわかりそうなものだが、
うれしくてついつい、というのは子どもと変わらない発想
→本当に困った人と思いながら憎めず、30年もイタリアと仕事をすることができている
・イタリア人は仕事と同じく料理でもひとつに集中するタイプ
→日常生活では地元料理しか食べない(マンマの料理が世界一)→保守的
→味覚のレンジが狭い人が多い(寿司ブームだが食べるネタは限られる)
→選んだ一皿に集中してシェアしない(日本のイタリアンはシェアに対応している)
→シェアしたい場合は半分食べて皿ごと交換するしかない
→基本は4皿構成だがどれも量が多いので最近は2~3皿で済ませる人も多い
→ただし同じ食卓では皿数を一致することが望ましい(美しい)ので面倒くさい
→なので組み合わせは違ってもいいので「今日は何皿にしますか」と誰かが尋ねる
→合えばいいが合わない場合は(美しくないので)店が頼みもしない小皿を出すこともある
→ヨーロッパのレストランは舞台なので食卓の見た目も大切、客もほかの客に見られている
役者でもある
5「独断と偏見で考えるイタリア」より一部のみ
・イタリアが統一されてから僅か154年(2015年当時)
→イタリア人が現れるのは4年に一度だけ→サッカーワールドカップの応援時のみ
→知人はパレルモ人→シチリア人→ヨーロッパ人→イタリア人の順と言ってた
(我々なら大阪人→関西人→日本人→アジア人の順ですよね・・・)
→各地方ごとに大きく習慣、嗜好、特徴が異なり見誤ると大きな失敗をする
→「おらが村が一番」意識が強いので他の地方の悪口を言うのは国民的娯楽のひとつ
・各州の悪口(特徴)は略
・国全体の特徴
→1980年頃まではまったく人気がなく「イタ飯」ブームは1980年代末
→1980年代半ばからフランス的合理主義よりイタリア的直観感覚主義が評価されるように
→不思議で理解に苦しむことが多いが退屈だけは絶対にない
→合理的だが退屈な人生より、訳がわからなくても驚きに満ちた刺激的な人生がいいならイタリア
・イタリアの「あるある行動」
も略(目次参照)
「おわりに」より
・年に15回ぐらいイタリアに行くが日本に帰るたびに「いい国だなあ」と感動する
→空港は清潔で入国審査も荷物もスムーズ、電車も遅れない→イタリアはまったく逆
→それなのにイタリアのほうが楽しそうで時間と精神的余裕がありそうに思う
→効率的に動いている日本には、それを支える犠牲が必要で過酷な労働を課すシステム
・高レベルのサービスには過酷な労働が必要で、それを要求する限り働き方改革は難しい
→イタリア人は逆
→高レベルのサービスに苦労する気は毛頭ないし、それを受けられなくても文句は言わない
→あなたもわたしもつらい労働は嫌なのだから列車が汚くて遅れても、お互い我慢しましょう、
→上を目指して摩耗するより寛いでゆったり人生を過ごそうというスタンス
→なのでイタリアは何もうまくいっていないのに精神的余裕があって幸せそうなのだ
・完璧なサービスは、それで人が幸せになって初めて意味がある
→それが自己目的化してしまい、働く人にストレスを与え余裕がなくなれば意味がない
→日本人の完璧主義性向は素晴らしい誇りだが、もう少し手頃なレベルの幸せもいいかも
・両国を頻繁に往復してると、どちらがいいとか悪いとか、好きとか嫌いとかは、いかに
不毛の議論であるかがよくわかる
→それぞれの国が長い時間をかけて、それぞれのルールを築き上げた
→重要なことはそれをよく理解すること
→その上で好きになれないなら付き合わないのは人間関係と同じだが、やはり理解はしたい
→この本がイタリア理解の一助となれば、この上ない幸せ・・・
いかがでしょう?
もちろん本書にもあるとおり、イタリアとして統一されたのは僅か160年ほど前ですから、
同じイタリア人といっても地方によって大きく異なるのでしょうが、全体的にはなんとなく
ムラブリやプナンの人たちの生き方と似ていると思いませんでしたか?
どの人たちの生き方も今の日本人にはそれこそ前回記事にあった「すり鉢の外の世界」で、
今後の(特に若い人たちの)参考になるかと思いました
前回記事の本にムラブリやプナンの人たちが「分業しない」とか「今、ここ」だけとかあって、
それでふと思い出したのが・・・
Alla fine gli italiani ce la fanno.
最後はなぜかうまくいくイタリア人・・・とゆー本であります

表紙カバー裏にあった惹句

裏表紙カバー裏にあった著者紹介

著者はローマの新聞社勤務からワインガイドやレストランガイドの執筆スタッフを経て、
日本とイタリアでワインと食について執筆活動中、2014年にはイタリア文化への貢献で
大統領から勲章を授章されてるとゆー、まさにホンモノのイタリア通ですね
奥付

第1刷は2015年9月、わたくしには初めての渡欧で、我が家にホームステイしていた青年の
シチリアでの結婚式に参列して、トスカーナにある実家にホームステイさせてもらったのは
2017年の夏ですから、その2年前に刊行された本とゆーことになります
当時は本書の存在を知りませんでしたが、なぜシチリアとトスカーナに住む新郎と新婦の
家族や知人が、わたくしたち夫婦の世話を親身になってしてくれたのか、なぜ家族全員で、
あるいは親族や友人、仕事関係者らと一緒に食卓を囲んでいたのか、が理解できました
さらにシチリアでもトスカーナでも嫌な思い出がひとつもないのは「よそ者」ではなく
グループの一員として、家族や知人に限らずお店の人まで対応してくれてたからかも・・・
彼らと行動を共にしている際はもちろん、一人で近所をポタリングしてる際でも、お店に入り、
「獣医の○○さんちにホームステイしてます」と伝えると、急にカタコト同士での会話が弾み、
「○○さんは知らないなあ」の場合でも、まったくの「よそ者」ではなさそうとの判断で、
やはり親切に対応してくれてたのかもとも、本書を読んで思いました
ただ、まったくの「よそ者」としてのシーンでも、けっこう「世話焼き」な印象を受けたので、
このあたりは大阪人にそっくりとも、当時のわたくしは感じてましたが・・・

閑話休題
例によって目次のご紹介(これだけ眺めてても面白いです)









コラム「見習ってはいけないイタリア①~④」とかも、めっちゃ面白かったのですが、
とりあえず一部だけの読後メモ・・・
例によって読み違いとか読み飛ばしも多いので興味のある方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
「はじめに」より
・30年前のはじめての通訳アルバイト経験から
→予定どおり物事が運ぶと考えるのはイタリアでは大きな間違いだった
→不測の事態が起こるのが普通と考えている(不測が予測できるという矛盾した状態)
→それで怒ったり慌てたりするのは愚か、より良い解決策を見いだす方が大切という考え方
→彼らは決してあきらめず、最後にはなんとかする(子どもの頃から慣れている)
・とんでもない行動規範にみえるが裏には彼らなりのロジックがあり機能している
→気楽で怠け者と思われがちだがEUの経済大国であり、各分野で世界をリードしている
・現在は日本とイタリアで仕事をしているが仕事のやり方は空港で切り替えている
→どちらが正しいとかではなく、そのほうがうまくいくから
→国際化で身近になったという錯覚もあるが歴史も文化も全て異なる遠い国
→日本と似ているところも多いが異なる部分がたくさんある
→22歳までイタリアと縁のなかった日本人が身につけた、生きていくための知恵・・・
1「仕事」より
・時間へのルーズさは南へ行くほど大きくなる→特にローマから南は・・・

→ただしルーズさには暗黙のロジックがあり、それに従っている
(記者会見、ディナーパーティー、自宅への招待、大学の授業などの例)
→重要なのは時間の遅れは予測可能であり、しかもかなり正確なルールで遅れること

(開始時刻は準備の目標であり、所要時間を訊いても最短時間(クルマなら渋滞も赤信号もなく
最速で到着する時間)しか答えてくれないので訊いてもムダ)
・公私混同しないこと、けじめをつけることは・・・
→いいことだと思っていた、イタリアという国を知るまでは

→公私混同が激しいほど社会に活気が出て、皆が生き生きとしているように思える
→公共窓口やレストランの例
→おしゃべりで待たされる側は不利益のはずだが、けじめが存在しないので客も参加する
→逆にプライベートな時間への仕事の割り込みにも寛容
→同様にけじめが存在せず労働時間への権利意識も低いから(フランス取材との違い)
→時間にルーズで自分に都合のいいように考えるが他人もそうだと理解しているので寛容
・仕事が労働時間なのは商品として資本に売買される「疎外された労働」のみ
→銀行の窓口担当と駄菓子屋の店先に座るお婆ちゃんの違い
→お婆ちゃんは知り合いとおしゃべりし子どもと遊び説教して、ついでに駄菓子も売る
→お婆ちゃんには人生そのものであり生きがい、仕事の時間と私の時間が溶けあっている
→イタリアは皆が駄菓子屋のお婆ちゃんのように働いている国と考えればわかりやすい
→資本により売買されたはずの労働が(労働者の勝手な解釈で)好き勝手に使われている
→労働の疎外レベルが低い(労働レベルも低いけど)恵まれた労働者と考えれば腹も立たない
・高度成長期に会社で長時間労働していた日本のお父さんたち
→世界中からバッシングされたが公私の区別がなく会社はお婆ちゃんの駄菓子屋と同じだった
→会社だけで充実しておりオフに自分を取り戻す必要はなかった(なので退職後は廃人に)
・イタリア経済を支える中小企業は大きな家族のようなもので分業も明確ではなく公私混同
→マルクス理論では商品化による労働疎外が極端に進めば革命が起こるが、
→イタリアでは労働時間を勝手に解釈して自分に使っており社会全体がそれを許容している
→実際に業務をきちんと遂行しない労働者へのイタリア人の寛容さは破格
→なし崩し的に資本主義の先鋭化を止め、いまだにのんびり楽しげに働いている
・近代的労働は労働に見合う対価を受け取る契約で成り立っている
→対価に見合う労働以上にする必要はなく人間関係がなくても成立する
→イタリア人は自分のものとして感情移入できないと関心を持てず熱中できない
→公共サービス窓口が典型で時間外の第二の仕事では生き生きと熱心に働いている
・対する家族工房的労働は友人家族のように公私の区別が曖昧で労働時間も曖昧
→イタリアの経済基盤を支える中小企業は多くがこのカテゴリー(ワイナリーなど)
→社長は親父、会社は第二の我が家で、高度成長期の日本の家族経営企業と同じ雰囲気
(映画「紅の豚」に出てくるミラノのピッコロ社は、まさに家族経営そのものでしたね)
→無機質な労働は苦手だが目に見えることは懸命にやり、残業代を言う人はまずいない
・危機的状況が常態化しているので、ひるまないしぶとさがイタリア最大の武器
・京都の「ぶぶ漬けでもどうどす」と同じで土地のルールを理解しておく必要がある
・フォルクスワーゲンとフェラーリの違い
→効率は悪いが全体が見える何でも屋さん→大きなバルの従業員でも分業しない
・先の段取りは苦手、今やるべきことに集中する→バック駐車しないとか
・何でもダメもとでトライするが親切に対応してくれることも多い(断られてもひるまない)
・「お客様は神様」と「店員は友達」の違い
→自分も友達といるときのようにおしゃべりしてるので客にも友達のように親身になる
コラム見習ってはいけないイタリア①より
・公共心がない
→仲間と見なせば必死で守るが国家など大きな組織は仲間と見なしていないから
・泥棒が多い、偽物が多い、脱税が多い
→「破格のお値打ち品」に弱いから
→脱税や盗品や偽物の取り締まりには賛成だが自分が得する場合は誘惑に負けてしまう
→公共心という絶対的価値判断基準がないので総論は賛成、各論は個人判断となる
・イタリア統一と近代国家の誕生は人民革命ではなかった
→統一はサルデーニャによる吸収合併で、国家はよそから来たサヴォイア家が押しつけたもの、
という意識が強い(特に中南部イタリアに多い)
→なので納税義務と国民の権利という民主主義の市民文化を確立できなかった
→この歴史的経緯は日本に似ているが結果の行動パターンがあまりにも異なるのが興味深い
・・・と、ここまでで全体の1/3ほど・・・
最後まで興味深く読みましたが、暑気払い飲酒が続き、全てはメモできませんでしたので

以下は思い切って2「人生」のメモを省略、3「家族と恋愛」の一部と、(わたくしの愛する

4「食事」、5「独断と偏見で考えるイタリア」の一部、「あとがき」からの一部メモ・・・
ちなみに目次の最後にある「不思議の国イタリアの"あるある"行動」もめっちゃ面白かったです
3「家族と恋愛」より一部
・ローマ・カトリックの影響
→清く正しい生き方を説く
→できるわけがないので

→なので体裁さえ繕えば何をしてもいいという偽善モラルが根付いたという説
→ダブルスタンダードの快感(映画山猫、トスカーナワインの規則、スピード違反など)
・家族一族の団結→同族企業が多い
→異国に支配され続けてきた歴史から、頼れるのは家族一族だけという考え方に
→シチリア・マフィアも支配民族に対する抵抗から生まれた構成員の多い大家族
→同じグループに所属するメンバーを優遇する→コネを使いまくる
→有力なコネだけでなく友人の友人でも便宜を図る→いつかそのコネを使えるから
→裏口を多く持つ人が尊敬され真面目に正門で待つ人はマヌケという矛盾した文化に
→なのでまったくの赤の他人は「よそ者」として不信感を持たれる
→曖昧で緩やかな関係が、じつは正確に等価交換され機能している国がイタリア
・個人的な問題を公にして解決しようとする
→グループ内のカップルは複数で行動し相手方がグループ内で変わることも多い
→グループ全員が(元カレや元カノを含め)葛藤を共有し温かく見守るシュールな状況

4「食事」

(イタリアの食についてはこちらの本も分かりやすかったです)
・イタリアは「食事の時間」が長いのではなく「食卓にいる時間」が長いだけ
→食卓に多義的な意味があるから(なのでスパゲッティを食べるスピードは早い)
→昼食と夕食で1日の活動時間の大半を食卓で過ごすこともある
・食卓とは人生のほとんどすべての問題を解決する場であり、人との出会いの場であり、
別れの場であり、相手を見定める場であり、就職活動の場であり、プロジェクトをスタート
させる場であり、打ち合わせの場でもある
→社会の重要な活動の多くが食卓で行われる→イタリアで食事をすることは重要な儀式
・イタリアのフォーマルなパーティーはヴィッラ(貴族の屋敷)やワイナリーを借りて行われる
①広い庭でのアペリティフから→だらだらとはじまる
(コネを作る場であり自由席の場合は同席する仲間を選ぶ場にもなる)
②8~10人テーブルの全員が揃ってはじめて着席し全員と握手して挨拶する(イタリアのみ)
③はじめての相手とも話題を探して延々と話し続ける
④伝統的にはアンティパスト→パスタ→メインディッシュ→ドルチェの構成(時間をかける)
⑤全員の同意を得てから一斉に席を立ち、また全員と握手してから別れる
⑥お開きになっても話が弾めばグラッパでも飲みながら話し続けて、だらだらと終わる
→フェードイン・フェードアウトが理想で、いただきます・ごちそうさま・締めの挨拶はない
・食事の誘いを断ったり食卓を囲むのが嫌いな人は信頼されない変な国
→食事に誘われるということは仲間として認められつつあるということ
→書類審査・筆記試験から面接に移る感じ(もちろんビジネスでは儀礼上の誘いもある)
→日本でいえば一緒に温泉に入る「裸の付き合い」のような、お互いをさらけ出す場
→ラテン語にIn vino veritas(ワインに真実がある)という諺があるが「食卓に真実がある」
・レストランでも自宅でも友達同士でも家族でも、食べる喜びは増えるが精神は同じ
→自宅で家族の場合
①それまで作業などに使っていた食卓を片付けてテーブルクロスを敷く
②人数分のフォーク・ナイフ・ナプキン・グラスをセットする
③パンを切って食卓の真ん中に置く
④皿を2枚ほど重ねてセットする
(1枚目が前菜やパスタ用で片付けた後に2枚目でメインを食べる)
⑤ようやく家族を呼び、全員が揃ったところでワインの栓を抜く
⑥全員がその日あったことや考えたことを家族と話し合う(話すことで頭の中が整理される)
(公式な食卓へのトレーニングでもあり、食卓が社会的パフォーマンスの場であることを学ぶ)
⑦前菜とパスタまでは調理に忙しいマンマもメインを出せばどっしり腰をおろして会話に加わる
⑧以後の議長役は当然マンマとなり、他のメンバー全員が従うのがイタリアらしい
・イタリアの食事の習慣で日本と最も異なるのは自宅での食事に招くことが、あらゆる接待の中で
(高級レストランに招くよりも)最高の接待とされていること
→基本的に招かれると招き返すのが礼儀なので連鎖は長く続く
(友人が多い場合は夕食に誰かが来ている頻度が高い)
→当日の「今夜うちに食べにくる?」といった軽い感じの誘いも多く、その際はふだんの料理
→自宅での食事では隠し事はできないので信頼できる証にもなる
・なぜか食卓の人数がどんどん膨れ上がる
→人数が多ければチャンスは増えるが、招く側も盛り上がってどんどん声をかけるから
→有名レストランに4人で予約して12人になったのはミシュラン2つ星の立派なシェフだが、
出会ったシェフたちに次々と声をかけてしまったので、と助けを求めてきた
→人気の有名レストランに4人の予約で12人は無理なことぐらいわかりそうなものだが、
うれしくてついつい、というのは子どもと変わらない発想
→本当に困った人と思いながら憎めず、30年もイタリアと仕事をすることができている

・イタリア人は仕事と同じく料理でもひとつに集中するタイプ
→日常生活では地元料理しか食べない(マンマの料理が世界一)→保守的
→味覚のレンジが狭い人が多い(寿司ブームだが食べるネタは限られる)
→選んだ一皿に集中してシェアしない(日本のイタリアンはシェアに対応している)
→シェアしたい場合は半分食べて皿ごと交換するしかない
→基本は4皿構成だがどれも量が多いので最近は2~3皿で済ませる人も多い
→ただし同じ食卓では皿数を一致することが望ましい(美しい)ので面倒くさい
→なので組み合わせは違ってもいいので「今日は何皿にしますか」と誰かが尋ねる
→合えばいいが合わない場合は(美しくないので)店が頼みもしない小皿を出すこともある
→ヨーロッパのレストランは舞台なので食卓の見た目も大切、客もほかの客に見られている
役者でもある
5「独断と偏見で考えるイタリア」より一部のみ
・イタリアが統一されてから僅か154年(2015年当時)
→イタリア人が現れるのは4年に一度だけ→サッカーワールドカップの応援時のみ
→知人はパレルモ人→シチリア人→ヨーロッパ人→イタリア人の順と言ってた
(我々なら大阪人→関西人→日本人→アジア人の順ですよね・・・)
→各地方ごとに大きく習慣、嗜好、特徴が異なり見誤ると大きな失敗をする
→「おらが村が一番」意識が強いので他の地方の悪口を言うのは国民的娯楽のひとつ

・各州の悪口(特徴)は略

・国全体の特徴
→1980年頃まではまったく人気がなく「イタ飯」ブームは1980年代末
→1980年代半ばからフランス的合理主義よりイタリア的直観感覚主義が評価されるように
→不思議で理解に苦しむことが多いが退屈だけは絶対にない
→合理的だが退屈な人生より、訳がわからなくても驚きに満ちた刺激的な人生がいいならイタリア
・イタリアの「あるある行動」

「おわりに」より
・年に15回ぐらいイタリアに行くが日本に帰るたびに「いい国だなあ」と感動する
→空港は清潔で入国審査も荷物もスムーズ、電車も遅れない→イタリアはまったく逆
→それなのにイタリアのほうが楽しそうで時間と精神的余裕がありそうに思う
→効率的に動いている日本には、それを支える犠牲が必要で過酷な労働を課すシステム
・高レベルのサービスには過酷な労働が必要で、それを要求する限り働き方改革は難しい
→イタリア人は逆
→高レベルのサービスに苦労する気は毛頭ないし、それを受けられなくても文句は言わない
→あなたもわたしもつらい労働は嫌なのだから列車が汚くて遅れても、お互い我慢しましょう、
→上を目指して摩耗するより寛いでゆったり人生を過ごそうというスタンス
→なのでイタリアは何もうまくいっていないのに精神的余裕があって幸せそうなのだ
・完璧なサービスは、それで人が幸せになって初めて意味がある
→それが自己目的化してしまい、働く人にストレスを与え余裕がなくなれば意味がない
→日本人の完璧主義性向は素晴らしい誇りだが、もう少し手頃なレベルの幸せもいいかも
・両国を頻繁に往復してると、どちらがいいとか悪いとか、好きとか嫌いとかは、いかに
不毛の議論であるかがよくわかる
→それぞれの国が長い時間をかけて、それぞれのルールを築き上げた
→重要なことはそれをよく理解すること
→その上で好きになれないなら付き合わないのは人間関係と同じだが、やはり理解はしたい
→この本がイタリア理解の一助となれば、この上ない幸せ・・・
いかがでしょう?
もちろん本書にもあるとおり、イタリアとして統一されたのは僅か160年ほど前ですから、
同じイタリア人といっても地方によって大きく異なるのでしょうが、全体的にはなんとなく
ムラブリやプナンの人たちの生き方と似ていると思いませんでしたか?
どの人たちの生き方も今の日本人にはそれこそ前回記事にあった「すり鉢の外の世界」で、
今後の(特に若い人たちの)参考になるかと思いました