2024年08月16日
人類学者と言語学者が森に入って考えたこと
(期間限定のお知らせ)
2024.8/18(日) まで 京都市京セラ美術館で開催されている有道佐一回顧展の案内記事はこちらです
つーことで今、京都五山の送り火への点火を(大阪から中継で)眺めつつ・・・

「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」のご紹介であります
まあ、せっかくの送り火なので精霊つながりつーことで・・・
著者つーか対談者の紹介

ボルネオ島のプナンの人たちを研究する人類学者と、タイ・ラオスのムラブリの人たちを
研究する言語学者との対談を中心に両者の論考を加えた本であります
森を遊動していた狩猟採集民たちの研究者が、その生き方の共通点や相違点などから、
我々が現代をよりよく生きるための方法を探っていく、とイントロダクションにありました
奥付

例によって目次のみ



奥野克巳氏の著書については、こちらの記事や、こちらの記事でも一部紹介してますが、
伊藤雄馬氏の本はまだ読んだことがありません
本書で見る限り、その生き方をはじめ言語表現に関する考察などについても興味津々で、
いつかは読んでみたいと思った次第です
なので今回はそちらを中心に、ごく一部をランダムにメモしました
以下、発言者名・論考者名などはメモしてませんし、例によって読み違いとか読み飛ばしも
多いので興味を持たれた方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
・ムラブリ語では完了形と未来形が同じ→過去も未来も曖昧
→ワールは「帰る(最中)」だがア・ワールは「もう帰った」か「これから帰る」なのか不明
→基本的に「今、ここ」か、それ以外で言い分ける→今とここで生きている
(プナン語(マレー語インドネシア語も)では「帰る」はムリー、それに明日か昨日をつけて
未来・過去にしてるが、プナンも過去・未来の時間軸は薄い)
・おそらく世界初のムラブリ語とプナン語による会話セッションを二人でやってみた(略)
→どちらにも挨拶語はなかった
→どちらにもお金という抽象概念はなかった
(プナン語ではリンギを使うがマレーシアの通貨単位で具体概念)
(ムラブリ語ではタイの通貨単位バーツではなくサタンを使うがコインの意味で具体概念)
・ムラブリ語で誰かに自分の意見を言う時は必ず「私は怒ってないよ」を加える
→怒ることは何か悪いことを生むと考えているのではないか
・ムラブリのDNA研究から
→500~600年前に女性1男性2の焼畑民3人が森に入り狩猟採集民になったのがルーツと判明
→進化論的には逆流だが文化的再適応と呼んでいる
(プナンにも同様の仮説はあるが検証はない→思考法は他の狩猟採集民に似ている)
・プナンは年中6時に夜が明け7時に日が暮れる世界で暮らしており時間の長短がない
→季節は「葉っぱ」で「花の季節」と「実の季節」があるが、それがいつ来るかはわからない
→なので「葉っぱ」は「もし~ならば」という仮定法ifとしても使われる
(ムラブリには「雨の季節」と「日の照る季節」があるが仮定法ifはなくwhenで代用する)
・ボルネオ島には4万2千年前、アジア大陸には4万5千年前に現人類が到達したとされる
→東南アジア大陸部ではホアビン文化が紀元前1万年前頃からだが先史時代には諸説ある
・プナンが農耕以前に散らばった人類の末裔なのか農耕民から特化したのかは不明だが、
農耕民とは決定的に異なる「エートス」を持っている→森での歴史が長いからかも
(森のムラブリは農耕民から特化したという説が有力)
・ムラブリには専門家がいない→依存関係・権利構造を無意識に避けているのではないか
→その延長として自分の生に関わる部分は分業をしない
→村の大きな家は分業で作るが自分の寝床やバッグは一人で作る
(今はムラブリの手作りバッグが土産として売れ、上手に作れる人の現金収入が増えてるので、
→やがて上手な人が他の村人にも教えるようになり分業にも移行するかも→商品化?)
・プナンにも専門分化の否定、教師と生徒の関係で学ぶことの否定がある
→料理も薪割も子育ても子どもの頃から見て覚えており男女誰でも上手にやる
(「子どもの文化人類学」原ひろ子著・ちくま学芸文庫2023)
→生徒が先生から習って習得するのは、わりと新しい近代的なやり方
・人から教わるのではなくモノから学ぶのはプナンもムラブリも同じ
→アリストテレスの「質料形相モデル」ではモノを作っていない
→モノからの応答によって「学ばされている」
(「応答、しつづけよ」ティム・インゴルド著・亜紀書房2023)
→資本主義が導入された近代以降はその感覚がないので分業や生産効率へ
(分業しないとか目の前のモノから学ぶとか、なんかイタリアと似てるような・・・
)
・すり鉢状の世界の中で開口部に辿り着こうと努力し現実と認識のギャップに病む現代人
→その外側の世界に飛び出してみると、圧倒的な他者であるムラブリやプナンがいる
・今の自分は生きるために必要なこと全てを既存インフラに依存している
→食べ物、家、エネルギー、飲み水→全て買うしかない→これが一番大きなすり鉢
→すり鉢の外で一人で生きることはできるか
→ムラブリの感性と既存テクノロジーの組み合わせで結構いいところまで可能ではないか
・プロ奢ラレヤー君の二面性
→浄土系仏教では現世は濁世であり穢土→汚れた世界
→そこで生きていかざるを得ない感覚を逆手に取ったのが奢られ屋ではないか
→浄土系仏教では念仏によって、あの世(浄土)での安らかな生が保証される
→日蓮はそれを非難し、あくまで現世での浄土を目指した
→彼も仏国土を目指すのではなく濁世の中で救われようとしているように見える
・日蓮は念仏を非難したが法華経という本(モノ)に帰依する側に取り込まれた
→彼も奢られる生き方で資本主義は嫌だとしたが資本主義の親分になる可能性もある
→現世では救われないと決意しつつ現世に執着している二面性
・ぼくのムラブリ言語の研究はof→with→asへ(略)
・「ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」伊藤雄馬著
(集英社インターナショナル2023)
→言語の「習得」は無意識でブロークン「学習」は意識的で正確だがブロークンには話せない
・多文化主義と多自然主義(略)
・言語が異なれば認知が異なる→多自然主義と同じ→パースペクティブの世界
(アボリジニの言語には左右がなく全て方位で表す→方角を常に正確に認知している)
・多自然主義やパースペクティブでは「相手の立場」にはなれない
→客観的事実に辿り着けず共通の基盤がなくなる→別々の世界→科学的議論ができない
(「相手の立場になって考える」のではなく、同じ立場asで考える???)
・科学者の自己と芸術家の自己を区別する
→感覚の言語化テスト→例としてこの本に触った感覚を言葉にしてみる
→9割が触っている対象を主語にしたサラサラ平らなどの三人称(科学者の自己)で表現、
→1割が触っている自分を主語にした好き嫌いなどの一人称(芸術家の自己)で表現する
→水道水が冷たい(手が温かい)のは相対的な感覚(手が冷えている場合は逆)だが、
→水が冷たいと表現するのは外側を対象にした科学者の自己
→手が温かいと表現するのは内側の感覚に目を向けた芸術家の自己
→同時に存在していて、その都度個人が決めているのだが、
→科学者の自己として言語化することに慣れている人が多い(ので9割)
・科学者の自己と芸術家の自己が感じている世界は矛盾している
→夢の言語化の例→真偽が重要か、自分の感覚への誠実さが重要か
→植物の色の表現の違いの例→それが緑か青か
→正しいか否かなど→科学者の自己
→好きか嫌いかなど→芸術家の自己
→言語現象は同時存在している
・科学者の自己と多文化主義、芸術家の自己と多自然主義
→矛盾する自己が同時存在してるのに今はその分離が激しくなっている
→科学一辺倒と現代アートの横暴など
→統合には身体の復権が必要→of→with→asへ
・第二言語の習得はその言語の人たちの身体に近づこうとする身体改造
→パースペクティブの実践で感性がまるごと取り替えられる可能性もある
→精霊が見えるようになるとか・・・
・ムラブリ研究がof→with→asになって得たことと失ったことは表裏一体
→やりたいこと優先になり約束を履行しなくなったこととか
(日本では迂闊な約束をしないことでややマイルドになったけど
)
→お金や所有に対する違和感とか
(お金とは自分の代わりに他人に働いてもらう権利を生み出すメディア)
(車中泊で放浪していた頃、お腹が空けばポケットの所持金を確認して辺りのコンビニへ、
ムラブリはお腹が空けば食べ物を辺りで探すか、食べ物を獲る道具を作る)
・ぼくはぼくなのでムラブリには「なれないけど、なれる」
→この矛盾した感性は科学者の自己と芸術家の自己の反映→言語の可能性
→今の日本にいるぼく自身の生き方が「ムラブリとして生きる」ことの実践・・・
・我々の社会にはhaveとhave notの二軸の境界線が存在するが、これは恣意的なもの
→なので全てhaveはあり得ない
→ムラブリ語では「持つ」と「ある」は同じ動詞
→ぼくが文脈で判断していたのは、それをぼくが区別していたから
→誰が持っているかは問題にならない→「ある」から分け与える→太陽の恵みと同じ
→プロ奢ラレヤーの「お金は生えてくるもの」という発言も同じ視座か
(プナンも同様で頼まれて買ってあげても「ありがとう」はない)
(ムラブリは頼むときに少し遠慮が感じられるが、やはり「ありがとう」はない)
→逆にお金がなくて買えなくても悪びれずナチュラルなまま
(ムラブリと町に食事に行って、ぼくにお金がないことを伝えると「そうか」とゆー感じで、
アイスキャンデーを買ってくれて二人で食べて帰ったが、それだけだった)
・マルセル・モースの贈与論、マオリの贈与交換、モノの循環・・・
→資本の蓄積と投下による貧富格差を循環(持つ人からのマイルドなカツアゲ
)で防いでいる
・1990年代ぐらいからの社会的な弱者のための配慮
→それで全ては解決せず他の問題が出てきた→結局以前より息苦しくなってしまった
→あらゆるものが吹き溜まりになり生きづらい→解決の枠組みすら見当たらない
→フィールド言語学や人類学で外側の世界を知り探れば脱出法があるかも・・・
・すり鉢の向こうに行くこと自体は解決にはならないし別のすり鉢にも苦しみはある
(今のままの自分に似合うすり鉢は見つかるかも知れないが・・・)
→すり鉢の向こうに行って(太陽の恵みとか)支えているものがあることに気づくことが重要
→それを実感するために、すり鉢状の世界の外側に行く経験は大事
(エピローグより)
・「本当の豊かさはブッシュマンが知っている」NHK出版2019
→狩猟採集は人類で最も長く続いた生業で最も持続可能な経済手法だった
→8000~4000年前からの農耕牧畜で人類は生産者・支配者になり自然を収奪する道に
→プナンもムラブリも自然と調和して持続可能な暮らしを続けてきた
・ofの人類学からwithの人類学へ(略)
・もっと知恵を
→現代世界は知識の生産で成り立っている
(ある程度の通信機器の知識がなければ入国審査も検疫手続も切り抜けられない
)
→知識社会に疑いを差し挟むのが知恵
→知恵とは経験に想像力が加わったもので、森の民には知恵が充ち満ちている
→知識に知恵を調和させることが人類学者の仕事とインゴルドは主張する
・ムラブリ「としてas」
→伊藤さんはwithを超えてasという概念を捻り出した
(ドキュメンタリー映画「森のムラブリ」)
→ムラブリを研究→ムラブリとともに研究→ムラブリとして研究へ
・「狩猟採集民的な何か」が現代人にいったい何をもたらすか
→「ムラブリとして」の試みは壮大で眩しく輝いて見え、今後も見守っていきたい・・・
2024.8/18(日) まで 京都市京セラ美術館で開催されている有道佐一回顧展の案内記事はこちらです
つーことで今、京都五山の送り火への点火を(大阪から中継で)眺めつつ・・・

「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」のご紹介であります
まあ、せっかくの送り火なので精霊つながりつーことで・・・

著者つーか対談者の紹介

ボルネオ島のプナンの人たちを研究する人類学者と、タイ・ラオスのムラブリの人たちを
研究する言語学者との対談を中心に両者の論考を加えた本であります
森を遊動していた狩猟採集民たちの研究者が、その生き方の共通点や相違点などから、
我々が現代をよりよく生きるための方法を探っていく、とイントロダクションにありました
奥付

例によって目次のみ



奥野克巳氏の著書については、こちらの記事や、こちらの記事でも一部紹介してますが、
伊藤雄馬氏の本はまだ読んだことがありません
本書で見る限り、その生き方をはじめ言語表現に関する考察などについても興味津々で、
いつかは読んでみたいと思った次第です
なので今回はそちらを中心に、ごく一部をランダムにメモしました
以下、発言者名・論考者名などはメモしてませんし、例によって読み違いとか読み飛ばしも
多いので興味を持たれた方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
・ムラブリ語では完了形と未来形が同じ→過去も未来も曖昧
→ワールは「帰る(最中)」だがア・ワールは「もう帰った」か「これから帰る」なのか不明
→基本的に「今、ここ」か、それ以外で言い分ける→今とここで生きている
(プナン語(マレー語インドネシア語も)では「帰る」はムリー、それに明日か昨日をつけて
未来・過去にしてるが、プナンも過去・未来の時間軸は薄い)
・おそらく世界初のムラブリ語とプナン語による会話セッションを二人でやってみた(略)

→どちらにも挨拶語はなかった
→どちらにもお金という抽象概念はなかった
(プナン語ではリンギを使うがマレーシアの通貨単位で具体概念)
(ムラブリ語ではタイの通貨単位バーツではなくサタンを使うがコインの意味で具体概念)
・ムラブリ語で誰かに自分の意見を言う時は必ず「私は怒ってないよ」を加える
→怒ることは何か悪いことを生むと考えているのではないか
・ムラブリのDNA研究から
→500~600年前に女性1男性2の焼畑民3人が森に入り狩猟採集民になったのがルーツと判明
→進化論的には逆流だが文化的再適応と呼んでいる
(プナンにも同様の仮説はあるが検証はない→思考法は他の狩猟採集民に似ている)
・プナンは年中6時に夜が明け7時に日が暮れる世界で暮らしており時間の長短がない
→季節は「葉っぱ」で「花の季節」と「実の季節」があるが、それがいつ来るかはわからない
→なので「葉っぱ」は「もし~ならば」という仮定法ifとしても使われる
(ムラブリには「雨の季節」と「日の照る季節」があるが仮定法ifはなくwhenで代用する)
・ボルネオ島には4万2千年前、アジア大陸には4万5千年前に現人類が到達したとされる
→東南アジア大陸部ではホアビン文化が紀元前1万年前頃からだが先史時代には諸説ある
・プナンが農耕以前に散らばった人類の末裔なのか農耕民から特化したのかは不明だが、
農耕民とは決定的に異なる「エートス」を持っている→森での歴史が長いからかも
(森のムラブリは農耕民から特化したという説が有力)
・ムラブリには専門家がいない→依存関係・権利構造を無意識に避けているのではないか
→その延長として自分の生に関わる部分は分業をしない
→村の大きな家は分業で作るが自分の寝床やバッグは一人で作る
(今はムラブリの手作りバッグが土産として売れ、上手に作れる人の現金収入が増えてるので、
→やがて上手な人が他の村人にも教えるようになり分業にも移行するかも→商品化?)
・プナンにも専門分化の否定、教師と生徒の関係で学ぶことの否定がある
→料理も薪割も子育ても子どもの頃から見て覚えており男女誰でも上手にやる
(「子どもの文化人類学」原ひろ子著・ちくま学芸文庫2023)
→生徒が先生から習って習得するのは、わりと新しい近代的なやり方
・人から教わるのではなくモノから学ぶのはプナンもムラブリも同じ
→アリストテレスの「質料形相モデル」ではモノを作っていない
→モノからの応答によって「学ばされている」
(「応答、しつづけよ」ティム・インゴルド著・亜紀書房2023)
→資本主義が導入された近代以降はその感覚がないので分業や生産効率へ
(分業しないとか目の前のモノから学ぶとか、なんかイタリアと似てるような・・・

・すり鉢状の世界の中で開口部に辿り着こうと努力し現実と認識のギャップに病む現代人
→その外側の世界に飛び出してみると、圧倒的な他者であるムラブリやプナンがいる
・今の自分は生きるために必要なこと全てを既存インフラに依存している
→食べ物、家、エネルギー、飲み水→全て買うしかない→これが一番大きなすり鉢
→すり鉢の外で一人で生きることはできるか
→ムラブリの感性と既存テクノロジーの組み合わせで結構いいところまで可能ではないか
・プロ奢ラレヤー君の二面性
→浄土系仏教では現世は濁世であり穢土→汚れた世界
→そこで生きていかざるを得ない感覚を逆手に取ったのが奢られ屋ではないか
→浄土系仏教では念仏によって、あの世(浄土)での安らかな生が保証される
→日蓮はそれを非難し、あくまで現世での浄土を目指した
→彼も仏国土を目指すのではなく濁世の中で救われようとしているように見える
・日蓮は念仏を非難したが法華経という本(モノ)に帰依する側に取り込まれた
→彼も奢られる生き方で資本主義は嫌だとしたが資本主義の親分になる可能性もある
→現世では救われないと決意しつつ現世に執着している二面性
・ぼくのムラブリ言語の研究はof→with→asへ(略)
・「ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」伊藤雄馬著
(集英社インターナショナル2023)
→言語の「習得」は無意識でブロークン「学習」は意識的で正確だがブロークンには話せない
・多文化主義と多自然主義(略)
・言語が異なれば認知が異なる→多自然主義と同じ→パースペクティブの世界
(アボリジニの言語には左右がなく全て方位で表す→方角を常に正確に認知している)
・多自然主義やパースペクティブでは「相手の立場」にはなれない
→客観的事実に辿り着けず共通の基盤がなくなる→別々の世界→科学的議論ができない
(「相手の立場になって考える」のではなく、同じ立場asで考える???)
・科学者の自己と芸術家の自己を区別する
→感覚の言語化テスト→例としてこの本に触った感覚を言葉にしてみる
→9割が触っている対象を主語にしたサラサラ平らなどの三人称(科学者の自己)で表現、
→1割が触っている自分を主語にした好き嫌いなどの一人称(芸術家の自己)で表現する
→水道水が冷たい(手が温かい)のは相対的な感覚(手が冷えている場合は逆)だが、
→水が冷たいと表現するのは外側を対象にした科学者の自己
→手が温かいと表現するのは内側の感覚に目を向けた芸術家の自己
→同時に存在していて、その都度個人が決めているのだが、
→科学者の自己として言語化することに慣れている人が多い(ので9割)
・科学者の自己と芸術家の自己が感じている世界は矛盾している
→夢の言語化の例→真偽が重要か、自分の感覚への誠実さが重要か
→植物の色の表現の違いの例→それが緑か青か
→正しいか否かなど→科学者の自己
→好きか嫌いかなど→芸術家の自己
→言語現象は同時存在している
・科学者の自己と多文化主義、芸術家の自己と多自然主義
→矛盾する自己が同時存在してるのに今はその分離が激しくなっている
→科学一辺倒と現代アートの横暴など
→統合には身体の復権が必要→of→with→asへ
・第二言語の習得はその言語の人たちの身体に近づこうとする身体改造
→パースペクティブの実践で感性がまるごと取り替えられる可能性もある
→精霊が見えるようになるとか・・・
・ムラブリ研究がof→with→asになって得たことと失ったことは表裏一体
→やりたいこと優先になり約束を履行しなくなったこととか
(日本では迂闊な約束をしないことでややマイルドになったけど

→お金や所有に対する違和感とか
(お金とは自分の代わりに他人に働いてもらう権利を生み出すメディア)
(車中泊で放浪していた頃、お腹が空けばポケットの所持金を確認して辺りのコンビニへ、
ムラブリはお腹が空けば食べ物を辺りで探すか、食べ物を獲る道具を作る)
・ぼくはぼくなのでムラブリには「なれないけど、なれる」
→この矛盾した感性は科学者の自己と芸術家の自己の反映→言語の可能性
→今の日本にいるぼく自身の生き方が「ムラブリとして生きる」ことの実践・・・
・我々の社会にはhaveとhave notの二軸の境界線が存在するが、これは恣意的なもの
→なので全てhaveはあり得ない
→ムラブリ語では「持つ」と「ある」は同じ動詞
→ぼくが文脈で判断していたのは、それをぼくが区別していたから
→誰が持っているかは問題にならない→「ある」から分け与える→太陽の恵みと同じ
→プロ奢ラレヤーの「お金は生えてくるもの」という発言も同じ視座か
(プナンも同様で頼まれて買ってあげても「ありがとう」はない)
(ムラブリは頼むときに少し遠慮が感じられるが、やはり「ありがとう」はない)
→逆にお金がなくて買えなくても悪びれずナチュラルなまま
(ムラブリと町に食事に行って、ぼくにお金がないことを伝えると「そうか」とゆー感じで、
アイスキャンデーを買ってくれて二人で食べて帰ったが、それだけだった)
・マルセル・モースの贈与論、マオリの贈与交換、モノの循環・・・
→資本の蓄積と投下による貧富格差を循環(持つ人からのマイルドなカツアゲ

・1990年代ぐらいからの社会的な弱者のための配慮
→それで全ては解決せず他の問題が出てきた→結局以前より息苦しくなってしまった
→あらゆるものが吹き溜まりになり生きづらい→解決の枠組みすら見当たらない
→フィールド言語学や人類学で外側の世界を知り探れば脱出法があるかも・・・
・すり鉢の向こうに行くこと自体は解決にはならないし別のすり鉢にも苦しみはある
(今のままの自分に似合うすり鉢は見つかるかも知れないが・・・)
→すり鉢の向こうに行って(太陽の恵みとか)支えているものがあることに気づくことが重要
→それを実感するために、すり鉢状の世界の外側に行く経験は大事
(エピローグより)
・「本当の豊かさはブッシュマンが知っている」NHK出版2019
→狩猟採集は人類で最も長く続いた生業で最も持続可能な経済手法だった
→8000~4000年前からの農耕牧畜で人類は生産者・支配者になり自然を収奪する道に
→プナンもムラブリも自然と調和して持続可能な暮らしを続けてきた
・ofの人類学からwithの人類学へ(略)
・もっと知恵を
→現代世界は知識の生産で成り立っている
(ある程度の通信機器の知識がなければ入国審査も検疫手続も切り抜けられない

→知識社会に疑いを差し挟むのが知恵
→知恵とは経験に想像力が加わったもので、森の民には知恵が充ち満ちている
→知識に知恵を調和させることが人類学者の仕事とインゴルドは主張する
・ムラブリ「としてas」
→伊藤さんはwithを超えてasという概念を捻り出した
(ドキュメンタリー映画「森のムラブリ」)
→ムラブリを研究→ムラブリとともに研究→ムラブリとして研究へ
・「狩猟採集民的な何か」が現代人にいったい何をもたらすか
→「ムラブリとして」の試みは壮大で眩しく輝いて見え、今後も見守っていきたい・・・