2025年12月25日
ヤマト建国の真相
とーとつですがクリスマスに・・・

「~最新考古学が解き明かす~ヤマト建国の真相」のご紹介であります
監修者紹介と奥付

目次



目次からもおわかりのとおり、ヤマト王権と邪馬台国について網羅してあり、
素人にもわかるよう最新の研究成果をまとめた入門書であります
巻末にあった主な参考文献

当サイトで取り上げた本も何冊かありますね・・・
と、まずは第1章の冒頭部分からメモ・・・
・ヤマト王権が誕生したのは3世紀後半以降の奈良盆地というのが定説
⇒ところがこの期間の文字資料がないため「空白の4世紀」とされている
(266年の晋書・武帝紀から、369年の七支刀刻印、391年の碑文記録までない)
⇒文書資料で卑弥呼が共立されたのは190年頃とされている
(3世紀には西日本の大部分を統治下においていた)
・両者は個別に研究されてきたが奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘調査と研究が進んだ
⇒纏向遺跡は2世紀後半に突如出現した大規模な都市計画で3世紀後半にヤマト王権の王都
だったことはほぼ確定している
⇒纏向遺跡は卑弥呼政権の王都であり、その後のヤマト王権へ政権が何らかの形で直接継承
あるいは簒奪された可能性が高い
・だが魏志倭人伝の邪馬台国へ至るクニグニは北部九州が多く出土例も畿内より圧倒的に多い
⇒投馬国を除きいずれも玄界灘沿岸(畿内説では投馬国は吉備あるいは出雲)
⇒200年~260年(庄内期)の鏡の出土も北部九州に集中している
⇒これは何故なのか・・・
・・・
とはじまって寺沢薫説や、桃崎有一郎説が詳しく紹介され、九州説の矛盾を指摘する項もあり、
以降の章は邪馬台国畿内説で進みますが、以下わたくしが気になった一部のてきとーメモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・魏志倭人伝には倭国の内29国の盟主である卑弥呼の住む王都「ヤマト国」の長官はイコマ、
副官はミマス、ミマキ、ナカトの3人で、この4人がヤマト国を支配するとある
(他にもナ国やイト国など主な倭国内の国の長官と副官の名前が記されている)
⇒イコマ、ミマス、ミマキは記紀にある初期ヤマト王権の大王名と共通する(村井康彦説)
⇒イコマ垂仁天皇イクメイリヒコ、ミマス孝昭天皇ミマツヒコ、ミマキ崇神天皇ミマキイリヒコ
⇒この3人の御陵の地を当てるとイコマは奈良盆地の北東部、ミマスは南西部、ミマキは東部
⇒ナカトに該当する天皇名はないが「中処」とすると3地域の中央部になる
⇒イコマの生駒は当時の河内湾につながる大和川の要衝、ミマスの南西部は葛城氏の本拠地、
ミマキの東部は纏向遺跡や最初期の前方後円墳がある天理市から桜井市にかけて
⇒ナカトの中央部に鍵・唐古遺跡があり、卑弥呼以前の体制・社会状況を引き継いだものか
⇒他の国では長官1副官1で2人だがヤマト国のみ4人、しかも3人の副官に序列はない・・・
・北東部のイコマが長官で王都である纏向のある東部のミマキが副官なのは何故?
⇒記紀の神武東征では大阪に上陸したイワレヒコが生駒山の西麓でナガスネヒコに敗れている
⇒このナガスネヒコの根拠地がイコマのエリア
⇒現代なら都庁が生駒にあって国会議事堂が纏向にできた、ということになる
⇒イコマのエリア内にある富雄丸山古墳は(大王以上の副葬品があるのに)大王級の前方後円墳
ではなくランクが下の円墳
⇒被葬者は卑弥呼以前にヤマトを治めていたナガスネヒコのモデルとなった王を祖先とし、
その後ヤマト国の長官となったイコマの後裔だったからではないか・・・
・瀬戸内海沿岸部の鉄をめぐる第一次倭国乱で大和と吉備と淡路島が結びついた?(記紀)
⇒このとき北部九州は安定しており防備を固め静観していた(当時の遺跡から)
・181年のニュージーランド・タウポ火山噴火により184年には黄巾の乱、三国志の時代へ
⇒北部九州も難民や後漢の衰退で混乱し、交易をめぐり瀬戸内海中部・畿内連合の圧力も
⇒これが第二次倭国乱だが武力衝突はせず連合に加わり卑弥呼政権が形成された
⇒鉄を中心とする物流システムの再編成のために生まれた政権ともいえる
・なぜ畿内の纏向が王都に選ばれたのか
⇒北部九州の難民などによる社会変化の激しさ、岡山平野の少ない降水量に対する奈良盆地の
安定的な農業生産もあるが、大きな要因は強力な首長がいなかったからではないか
⇒400のムラ⇒11の共同体⇒3つの主要勢力で200年続いていたが、倭国乱以降の2世紀末に
拠点集落では環濠が埋められ、唐古・鍵では掘り直しもされるが規模は格段に縮小する
⇒奈良盆地の集落ネットワークは解体・再編成させられたのだ
・纏向王都の先進性
⇒吉備や讃岐の大規模土木技術、北部九州の大陸からもたらされた最先端知識の活用
⇒配置や建物D(出雲大社本殿の大社造りと共通)、建物C(伊勢神宮の神明造りにつながる)など
・纏向遺跡の外来形土器は2世紀末の5大勢力(北部九州・瀬戸内海中部・出雲・畿内・東海)を
もれなく網羅しており3世紀に日本の中心地だったことは明らか
⇒中国宮殿を模した桃、紅花、バジルなど西アジア原産種が出土している
⇒ところがイネや鍬など農業遺物が殆ど出ない(土木工事に使う鋤は多い)
・卑弥呼共立と銅鐸祭祀の破壊・消滅(略)
・瀬戸内海中部・畿内連合の前方後円墳に北部九州が加わった卑弥呼政権の纏向型前方後円墳、
そして出雲の勢力が加わって葺石が備えられたホケノ山古墳(卑弥呼の墓とも)、という発展
⇒箸墓古墳は諸勢力の首長霊祭祀を集約化し発展していったもので規模も魏志倭人伝と一致、
放射性炭素年代法による240~260年という推定も卑弥呼の死亡年とされる248年頃と一致し、
箸墓古墳の被葬者が卑弥呼と考えるのが自然・・・
と、ここまでで第3章まで、4章から7章も最新の研究成果をわかりやすくまとめてあり、
とても面白かったのですが、メモ能力よりアルコール勢力が拡大してきて・・・ひっく
ここまでのメモや目次を見て興味を持たれた方はぜひ本書をお読みくださいね
NHK教育の「3ヶ月でマスターする古代文明」も面白かったけど、日本の古代史も面白いなあ

「~最新考古学が解き明かす~ヤマト建国の真相」のご紹介であります
監修者紹介と奥付

目次



目次からもおわかりのとおり、ヤマト王権と邪馬台国について網羅してあり、
素人にもわかるよう最新の研究成果をまとめた入門書であります
巻末にあった主な参考文献

当サイトで取り上げた本も何冊かありますね・・・
と、まずは第1章の冒頭部分からメモ・・・
・ヤマト王権が誕生したのは3世紀後半以降の奈良盆地というのが定説
⇒ところがこの期間の文字資料がないため「空白の4世紀」とされている
(266年の晋書・武帝紀から、369年の七支刀刻印、391年の碑文記録までない)
⇒文書資料で卑弥呼が共立されたのは190年頃とされている
(3世紀には西日本の大部分を統治下においていた)
・両者は個別に研究されてきたが奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘調査と研究が進んだ
⇒纏向遺跡は2世紀後半に突如出現した大規模な都市計画で3世紀後半にヤマト王権の王都
だったことはほぼ確定している
⇒纏向遺跡は卑弥呼政権の王都であり、その後のヤマト王権へ政権が何らかの形で直接継承
あるいは簒奪された可能性が高い
・だが魏志倭人伝の邪馬台国へ至るクニグニは北部九州が多く出土例も畿内より圧倒的に多い
⇒投馬国を除きいずれも玄界灘沿岸(畿内説では投馬国は吉備あるいは出雲)
⇒200年~260年(庄内期)の鏡の出土も北部九州に集中している
⇒これは何故なのか・・・
・・・
とはじまって寺沢薫説や、桃崎有一郎説が詳しく紹介され、九州説の矛盾を指摘する項もあり、
以降の章は邪馬台国畿内説で進みますが、以下わたくしが気になった一部のてきとーメモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・魏志倭人伝には倭国の内29国の盟主である卑弥呼の住む王都「ヤマト国」の長官はイコマ、
副官はミマス、ミマキ、ナカトの3人で、この4人がヤマト国を支配するとある
(他にもナ国やイト国など主な倭国内の国の長官と副官の名前が記されている)
⇒イコマ、ミマス、ミマキは記紀にある初期ヤマト王権の大王名と共通する(村井康彦説)
⇒イコマ垂仁天皇イクメイリヒコ、ミマス孝昭天皇ミマツヒコ、ミマキ崇神天皇ミマキイリヒコ
⇒この3人の御陵の地を当てるとイコマは奈良盆地の北東部、ミマスは南西部、ミマキは東部
⇒ナカトに該当する天皇名はないが「中処」とすると3地域の中央部になる
⇒イコマの生駒は当時の河内湾につながる大和川の要衝、ミマスの南西部は葛城氏の本拠地、
ミマキの東部は纏向遺跡や最初期の前方後円墳がある天理市から桜井市にかけて
⇒ナカトの中央部に鍵・唐古遺跡があり、卑弥呼以前の体制・社会状況を引き継いだものか
⇒他の国では長官1副官1で2人だがヤマト国のみ4人、しかも3人の副官に序列はない・・・
・北東部のイコマが長官で王都である纏向のある東部のミマキが副官なのは何故?
⇒記紀の神武東征では大阪に上陸したイワレヒコが生駒山の西麓でナガスネヒコに敗れている
⇒このナガスネヒコの根拠地がイコマのエリア
⇒現代なら都庁が生駒にあって国会議事堂が纏向にできた、ということになる
⇒イコマのエリア内にある富雄丸山古墳は(大王以上の副葬品があるのに)大王級の前方後円墳
ではなくランクが下の円墳
⇒被葬者は卑弥呼以前にヤマトを治めていたナガスネヒコのモデルとなった王を祖先とし、
その後ヤマト国の長官となったイコマの後裔だったからではないか・・・
・瀬戸内海沿岸部の鉄をめぐる第一次倭国乱で大和と吉備と淡路島が結びついた?(記紀)
⇒このとき北部九州は安定しており防備を固め静観していた(当時の遺跡から)
・181年のニュージーランド・タウポ火山噴火により184年には黄巾の乱、三国志の時代へ
⇒北部九州も難民や後漢の衰退で混乱し、交易をめぐり瀬戸内海中部・畿内連合の圧力も
⇒これが第二次倭国乱だが武力衝突はせず連合に加わり卑弥呼政権が形成された
⇒鉄を中心とする物流システムの再編成のために生まれた政権ともいえる
・なぜ畿内の纏向が王都に選ばれたのか
⇒北部九州の難民などによる社会変化の激しさ、岡山平野の少ない降水量に対する奈良盆地の
安定的な農業生産もあるが、大きな要因は強力な首長がいなかったからではないか
⇒400のムラ⇒11の共同体⇒3つの主要勢力で200年続いていたが、倭国乱以降の2世紀末に
拠点集落では環濠が埋められ、唐古・鍵では掘り直しもされるが規模は格段に縮小する
⇒奈良盆地の集落ネットワークは解体・再編成させられたのだ
・纏向王都の先進性
⇒吉備や讃岐の大規模土木技術、北部九州の大陸からもたらされた最先端知識の活用
⇒配置や建物D(出雲大社本殿の大社造りと共通)、建物C(伊勢神宮の神明造りにつながる)など
・纏向遺跡の外来形土器は2世紀末の5大勢力(北部九州・瀬戸内海中部・出雲・畿内・東海)を
もれなく網羅しており3世紀に日本の中心地だったことは明らか
⇒中国宮殿を模した桃、紅花、バジルなど西アジア原産種が出土している
⇒ところがイネや鍬など農業遺物が殆ど出ない(土木工事に使う鋤は多い)
・卑弥呼共立と銅鐸祭祀の破壊・消滅(略)
・瀬戸内海中部・畿内連合の前方後円墳に北部九州が加わった卑弥呼政権の纏向型前方後円墳、
そして出雲の勢力が加わって葺石が備えられたホケノ山古墳(卑弥呼の墓とも)、という発展
⇒箸墓古墳は諸勢力の首長霊祭祀を集約化し発展していったもので規模も魏志倭人伝と一致、
放射性炭素年代法による240~260年という推定も卑弥呼の死亡年とされる248年頃と一致し、
箸墓古墳の被葬者が卑弥呼と考えるのが自然・・・
と、ここまでで第3章まで、4章から7章も最新の研究成果をわかりやすくまとめてあり、
とても面白かったのですが、メモ能力よりアルコール勢力が拡大してきて・・・ひっく
ここまでのメモや目次を見て興味を持たれた方はぜひ本書をお読みくださいね
NHK教育の「3ヶ月でマスターする古代文明」も面白かったけど、日本の古代史も面白いなあ

