2026年04月16日
「あの戦争」は何だったのか
引き続きの読書メモになりますが・・・

辻田真佐憲著~「あの戦争」は何だったのか~であります
わたくしが「ホノルルの休日」から2月末に帰国して最初に読みはじめていた本で、たまたま
アメリカとイスラエルによるイラン攻撃の開始時期と重なってて、まさに「あの戦争」後の
世界の仕組みが崩れていく現状を予測しているかのような内容で驚いています
あらためての著者紹介

著者の本は何冊か紹介してるので著者名などで「当サイトの記事検索」をご利用ください
奥付

2025年7月の発行なので第2次トランプ政権発足後の世界情勢までは反映されてました
目次


この著者の目次は内容を簡潔にまとめてあるので、目次だけでも概要がわかりますが、
今回も視点が比較的まともだと感じました
(以下てきとー読書メモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開にします)
はじめにより
・「あの戦争」はなぜ起きたのか?と、よく問われるが、
⇒日本が米国の石油禁輸で追い詰められたから、というのが一般的な答えだろう
⇒では、なぜ石油が禁輸されたのか
⇒日本が仏領インドシナまで進駐したから
⇒では、なぜ進駐したのか、軍を引き上げればよかったのか
⇒そんな単純な問題ではなく・・・と芋づる式に関連事項がつながり時間がかかる
・そもそも、「あの戦争」とは何を指すのか?
⇒大東亜戦争?太平洋戦争?十五年戦争?アジア太平洋戦争?第二次世界大戦?
・いつ始まったのか(第1章)、どこで間違ったのか(第2章)などから「何だったか」の核心に迫る
⇒歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈なのだから
⇒PTSD概念がなかった頃の兵士の心的外傷を現在の立場から再発見するのと同じ
・ウクライナ、中東、新トランプ政権の米国、中国と台湾、グローバルサウスの躍進
⇒「あの戦争」後の国際秩序の枠組みは明らかに揺らいできている
⇒まさに2022年末に翌年の展望を問われたタモリが答えていたとおり「新しい戦前」に
・中国ではこれまで戦前の排日運動や蒋介石の対日攻勢に触れることは日本の侵略責任を
相対化することになる、戦争の原因はすべて日本の侵略であり中国人は受け身の被害者である、
という立場だったので、ずっと忌避されていた
⇒だが現在では、これらを中国側の主体的な動きと見る視点が受け入れられている
⇒新資料の発掘に加え中国が経済的・軍事的に台頭していることが影響している
⇒「これだけ積極的な中国人が当時だけ受け身だったとは考えられない」という感覚
・ヨーロッパでは第三世界の台頭で植民地支配の責任問題が問われ始めている
⇒近代日本の歩みやアジア主義の理想には欧米の植民地支配の被害者としての側面もある
⇒それで日本の軍事行動が全面的に正当化されるわけではないが、加害か被害か・正義か悪か、
の二者択一ではない、多角的に再検討する姿勢が求められている(第3章)
・かつて「大東亜」と呼んだ国々の歴史博物館や記念碑は冷戦後のものが多い
⇒それら現在の「大東亜」では日本をどう見てるのか(第4章)、
⇒「あの戦争」はいつ終わるのか(第5章)という問いで、日本の「国民の物語」に向き合う
⇒日本では未だに近代を包括する物語が共有されておらず国立の近現代歴史博物館もない
・過去を糾弾するだけでも賞賛するだけでもなく、小さく否定し大きく肯定する
⇒(国民という枠組みなど幻想とは理解しつつも)国際秩序は国民国家単位で成り立っており、
戦争が国民国家の行為とされる以上、それを抜きに当時の歴史を語るのは現実的ではない
・本書は「あの戦争」を我々の物語として再受容し、表題の究極の問いに答える試み・・・
第1章より
・「日中戦争」は1937年7月7日の盧溝橋(支那事変)から?
・「太平洋戦争」は1941年12月8日の真珠湾から?(実際には1時間前の英領マレー半島上陸から?)
⇒政府が1941年12月12日に対米英戦を「大東亜戦争」とした際に支那事変を含むとした
⇒ところが閣議決定による平時と戦時の区切りは12月8日午前1時30分(給与・刑法上)
⇒今も政府は「先の大戦の戦没者は約310万人(うち軍人・軍属は約230万人)」としているが、
これは1937年7月(支那事変)から起算した戦没者数
・平成天皇や左派の「15年戦争」は1931年9月18日の柳条湖(満州事変)から(加害者の視点)
・林房雄の「東亜百年戦争」は欧米列強の来航(1844~1848)への反撃から(被害者の視点)
・「アジア・太平洋戦争」と「アジア太平洋戦争」と「大東亜戦争」(略)
・第一次世界大戦の陸軍中堅幕僚への衝撃
⇒これからの戦争は総力戦になり資源確保が不可欠になる
⇒関東軍の暴走(日本に独裁者はおらず様々な勢力が加担)
⇒戦後のパリ講和会議での民族自決・ナショナリズム⇒日本の中国権益への不安感も
⇒強硬論で蒋介石の主要都市を攻略占領した
⇒それでも足りない資源が石油やゴムなど⇒南進へ
・東南アジアでは緩衝地帯のタイ以外はフランス・オランダ・米国・英国の植民地だった
⇒1939年9月に第二次世界大戦がはじまった
⇒この機に乗じ南進して資源を確保、蒋介石支援ルートを遮断して日中戦争も解決
⇒参戦していない米国には大きく依存しており対立は避けたかった(が楽観的だった)
・1941年7月に仏領インドシナ南部に進駐(南進の足場確保)
⇒南部の中心サイゴンはバンコク・シンガポール・蘭領インドシナなどへの戦略的な要衝
⇒連合国への直接的な脅威と受け止められた⇒石油の全面禁輸へ
・1941年11月の事実上の最後通牒であるハル・ノート⇒全面撤兵などを要求
⇒第一次世界大戦からの総力戦体制の整備が否定されるに等しい
⇒避けるべきはずの米国との戦争に
⇒司令塔が不在で場当たり的な対外政策だった
・「あの戦争」筆者の考え
⇒形式的なはじまりは1941年12月8日だが、実質的なはじまりは1937年7月7日
(その前には継続的で大規模な軍事衝突がなかったから)
⇒戦争名称としては日中戦争、対米英開戦以降は日中戦争を含め大東亜戦争と呼称する
(大東亜は歴史上の名称として使われており戦争だけ太平洋に置き換える空気支配こそが問題)
⇒原因は黒船来航まで遡ることに賛同する(内在的な論理として理解する)
⇒愚かだった、狂気だった、だけでは有益な教訓は引き出せない
⇒物語の否定ではなく物語の絶え間ない選択が必要
第2章より
・どこが間違っていたかを様々な「IF」から検証(略)
(どれもなるほどと納得できたので目次の小項目から推測して下さいね)
⇒結論的には小林秀雄の「歴史の必然性」になるが、
(歴史とは無数の要因が絡み合って展開するもので過去を変えることはできないが、)
⇒戦争への道を振り返り様々な可能性を考えることで、未来を変えるための努力はできる
第3章より
・当時の理想は単なるプロパガンダだったのか?
⇒日米開戦で「アジアの解放」という聖戦の意義がはっきりしたと多数の知識人が歓喜した
(それまでの日中戦争でいくら聖戦と言われても中国のナショナリズムに対抗して日本の権益を
守ろうとする、弱い者いじめの主張に過ぎず、すっきりしなかった)
⇒脱亜入欧とアジア主義の相克
⇒欧米からの人種的・文化的な差別と朝鮮や台湾での欧米式植民地支配
⇒大東亜新秩序建設のため邪悪な存在(欧米)に立ち向かう正義の開戦
⇒プロパガンダで強調されたにしても、この構図が大多数に支えられていたのではないか
・1905年の日露戦争の勝利
⇒アジアの弱小国が白人帝国に勝利した事実は欧米の植民地支配に苦しむ人々に影響した
・1919年パリ講和会議における国際連盟規約への日本の「人種差別撤廃」内容追加要求
⇒正邪だけでなく米国の日系移民排斥など国益上の動機もあったが強い共感を呼んだ
(結果的には白豪主義のオーストラリア首相ヒューズを中心に英米が反対して否決された)
(日本も支配地域で他民族を差別的に扱っていた事実もあり評価はその間ですべき)
(アフリカ系米国人に当時の日本への共感や期待があったのも事実だが批判もあった)
・1932年3月の満洲国建国では「王道楽土」や「五族協和」だった
⇒1937年7月の日中戦争勃発では「横暴な中国を懲らしめる」になったが、長期化が決定的に
なった同年11月には近衛文麿首相により「東亜新秩序建設」が新しい戦争目的に
⇒いわば付け焼刃的にアジア主義が台頭した
⇒この流れで登場したのが日本書紀で神武天皇の言葉とされる「八紘一(為)宇」(略)
・1942年1月21日の東条英機首相の衆議院本会議演説
⇒大東亜共栄圏の建設とは日本を中心に道義的秩序の形成を目指すもの⇒八紘一宇
・1943年11月の大東亜会議における共同宣言
⇒日本・中華民国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(陪席)による
(ベトナム・カンボジア・ラオス・マレーシア・インドネシアに該当する地域は直接支配していた)
⇒共存共栄、独立親和、文化高揚、経済繁栄、人種差別撤廃による世界貢献の五原則
⇒戦局の悪化で形式的にせよ占領地に独立や自主性を与える方針になったもの
⇒大東亜政略指導大綱では逆にアジア諸民族を日本に従属させる構造になっている
・過酷な植民地支配や占領統治の事実を率直に認めたうえで、世界に先駆け人種差別撤廃を
国際連盟に提案しアジアで共同宣言した日本として、外国人差別・人種差別に反対すべき
⇒このアジア主義こそ新たな「国民の物語」ではないか・・・
第4章より
・東条英機の外遊ルート1943
南京・上海・新京(長春)・奉天(潘陽)・マニラ・サイゴン(ホーチミン)・バンコク・シンガポール・
パレンバン・ジャカルタ・クチン・ラブアン・(日本領だった)京城(ソウル)・台北・高雄
⇒そのすべてを巡って東条の大東亜外交がどう評価されているかを確認した(内容は略)
・シンガポール⇒ディスカバリーセンターとフォード旧工場で
・ジャカルタ⇒国家記念塔モナス地下の51のジオラマで
・パレンバン⇒製油所内よりも戦争賠償のアンペラ橋で
・クチン⇒ボルネオ守備隊の司令官官邸となった旧王宮アスタナと対岸の司令部となった
裁判所と増設されたジャパニーズ・ビルディングとマレーシア最大のボルネオ文化博物館で
・ラブアン島⇒ヴィクトリアのラブアン歴史博物館とその前庭にある司令官・前田大将記念碑と
マレーシア最大の戦争記念墓地で英豪兵3908名が眠るラブアン第二次世界大戦墓地で
・バンコク⇒ドンムアン空港北にあるナショナルメモリアル併設の軍事博物館とアユタヤ⇒
日本人村公園にある歴史研究センター別館で
・新京(長春)⇒満州国皇帝溥儀の宮殿跡である偽満皇宮博物院で
・奉天(潘陽)⇒柳条湖事件(満州事変)の現場近くにある9.18歴史博物館で
・南京⇒2017年にリニューアルされた大虐殺記念館と、もと国民政府外交部(外務省)庁舎⇒
支那派遣軍総司令部⇒現在は江蘇省人民常務委員会庁舎で
・マニラ⇒マニラ市街戦では10万人以上の市民、フィリピン全体では100万人以上が犠牲に
⇒なのでモニュメントや歴史解説は数多い⇒「許そう、だが忘れない」⇒和解の道へ
⇒2024年11月、宮崎駿監督がアジアのノーベル賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞を
受賞した際、2016年の天皇皇后のマニラ訪問時の哀悼に触れ「多くの民間人を殺害したことを
日本人は忘れてはならないのです、その事実はいつまでも残ります」と発言した
⇒この発言は戦争をめぐる記憶のあり方として、ひとつの模範的なかたちといえる
⇒被害を受けた側が「許そう、だが忘れない」という物語を紡いでいるときに、加害側が
「忘れた」と応じてしまえば和解の前提が成り立たない
⇒「知らなかった」ではなく「忘れない」と応じて共有し、その後に知ればよい
(フィリピン、ベトナム、台湾などについては前著「ルポ国威発揚」を参照)
⇒若い国家では「国民の物語」を構築しやすいが日本ではどうか
第5章より
・「あの戦争」はいつ歴史の出来事として「終わった」といえるのか
⇒国立歴史民俗博物館は2010年に現代をテーマとする第6展示室を新設したが「あの戦争」に
関する展示は驚くほどあっさりしている⇒まだ社会的合意が形成されていないから
⇒国立昭和館も展示の中心は戦時下の国民生活で多角的な視点がない⇒同様だから
・明確な歴史観を提示しているのは靖国神社の遊就館
⇒靖国史観は日本の行動を正当化・美化したものと思われやすいが「受け身史観」
⇒すべては自国を守るためのやむを得ない消極的な行動であったという史観
⇒明治期から第一次世界大戦までは説得力があるが、それ以降は単なる被害者ではない
⇒支援者の主流の保守派といっても親米から反米まであり歴史観も多様で一枚岩ではない
⇒民間の博物館なので自由だが日本の戦争博物館とされており、指摘による見直しもある
・靖国史観とは異なるのが東京大空襲・戦災資料センターの工夫
⇒日本も含む世界的な空襲の歴史を踏まえたうえでの東京・広島・長崎で被害者史観ではない
・国立アメリカ歴史博物館
⇒日本に関する説明には無理があるが・・・
(「悪者」の主語がヒトラー・ムッソリーニに較べ(司令塔不在で)東条から二転三転している)
⇒日系人12万人強制収容の負の歴史も原爆投下の両論もある⇒全肯定に傾かない展示
(ただしトランプ政権によるD多様性E公平性I包括性の見直しで変わる可能性もある)
・「あの戦争」は記憶の風化で終わるか、新たな戦争などで上書きされて終わるか
⇒どちらも希望のない終わり方
⇒だが「あの戦争」は政治的・経済的・軍事的に日本の黄金時代だった昭和の一大イベント
⇒さらに明治以降の近代国家建国史の総決算で歴史から消え去るとは想像しがたい
・近代日本の歩みを欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、
逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない
⇒国立博物館では基本的に自国の歩みを肯定し過ちや課題も正直に記して65点ぐらいで
・さらに肯定する立場なら、日本が列強の一員として主要な役割を果たしてきたこと、
その主体であり他者に影響を与える存在であったこと、その影響には肯定的な面も否定的な面も
存在したこと、その全体を引き受けるのが主体性であることを理解したうえで、日本は近代の
主人公の一人という自覚を持ってやればよい
(大東亜の理想に普遍性があるなら、それがどこで破綻し、どのような問題を生んだかを示し、
理想と現実の乖離を描くことで、理想の真価が際立つ)
・国立の歴史博物館は政府の立場になり中立には限界がある
⇒民間の博物館では右も左もあってよい
⇒この二重構造が歴史のあるべき姿と考えて私人としてこの本を記した
・「あの戦争」は日本の近現代史の流れの中で位置づけて、はじめて全体像が立ち上がる
⇒その視点に立つことで過剰な肯定にも否定にもならず落ち着くのではないか・・・
おわりにより
・小林秀雄の「歴史は因果の鎖ではなく愛惜の念により、はじめて意味を持つ」
⇒歴史に関心を抱くのは一個の主体が存在し、その主体に動機があるから
⇒かつての動機は多くに共有された戦争体験で、誰もが昭和史に関心を抱いた
⇒では、その共有体験が失われた今は歴史に無関心になったか
⇒エンタメやフィクションの物語で血の通った個々の人生に結びついてくる
・情念のない教科書形式の歴史ほど退屈な世界はない
⇒歴史は解釈であり現在の興味関心や価値観によってつねにかたちを変える
⇒本書もトランプ政権の再登場などで目次や内容がたびたび見直された・・・
・・・・・・
つーことで・・・
日本がこれまでの国際秩序が揺れ動く今の世界情勢の中で、どの方向に向かうべきかを考える
にあたっては、「あの戦争」を見返す必要があることだけは間違いないでしょう
最後に巻末にあった主要参考文献もメモしておきます
そう、わたくしに残された時間でこれだけ読めば・・・って、もう無理かな・・・




辻田真佐憲著~「あの戦争」は何だったのか~であります
わたくしが「ホノルルの休日」から2月末に帰国して最初に読みはじめていた本で、たまたま
アメリカとイスラエルによるイラン攻撃の開始時期と重なってて、まさに「あの戦争」後の
世界の仕組みが崩れていく現状を予測しているかのような内容で驚いています
あらためての著者紹介

著者の本は何冊か紹介してるので著者名などで「当サイトの記事検索」をご利用ください
奥付

2025年7月の発行なので第2次トランプ政権発足後の世界情勢までは反映されてました
目次


この著者の目次は内容を簡潔にまとめてあるので、目次だけでも概要がわかりますが、
今回も視点が比較的まともだと感じました
(以下てきとー読書メモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開にします)
はじめにより
・「あの戦争」はなぜ起きたのか?と、よく問われるが、
⇒日本が米国の石油禁輸で追い詰められたから、というのが一般的な答えだろう
⇒では、なぜ石油が禁輸されたのか
⇒日本が仏領インドシナまで進駐したから
⇒では、なぜ進駐したのか、軍を引き上げればよかったのか
⇒そんな単純な問題ではなく・・・と芋づる式に関連事項がつながり時間がかかる
・そもそも、「あの戦争」とは何を指すのか?
⇒大東亜戦争?太平洋戦争?十五年戦争?アジア太平洋戦争?第二次世界大戦?
・いつ始まったのか(第1章)、どこで間違ったのか(第2章)などから「何だったか」の核心に迫る
⇒歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈なのだから
⇒PTSD概念がなかった頃の兵士の心的外傷を現在の立場から再発見するのと同じ
・ウクライナ、中東、新トランプ政権の米国、中国と台湾、グローバルサウスの躍進
⇒「あの戦争」後の国際秩序の枠組みは明らかに揺らいできている
⇒まさに2022年末に翌年の展望を問われたタモリが答えていたとおり「新しい戦前」に
・中国ではこれまで戦前の排日運動や蒋介石の対日攻勢に触れることは日本の侵略責任を
相対化することになる、戦争の原因はすべて日本の侵略であり中国人は受け身の被害者である、
という立場だったので、ずっと忌避されていた
⇒だが現在では、これらを中国側の主体的な動きと見る視点が受け入れられている
⇒新資料の発掘に加え中国が経済的・軍事的に台頭していることが影響している
⇒「これだけ積極的な中国人が当時だけ受け身だったとは考えられない」という感覚
・ヨーロッパでは第三世界の台頭で植民地支配の責任問題が問われ始めている
⇒近代日本の歩みやアジア主義の理想には欧米の植民地支配の被害者としての側面もある
⇒それで日本の軍事行動が全面的に正当化されるわけではないが、加害か被害か・正義か悪か、
の二者択一ではない、多角的に再検討する姿勢が求められている(第3章)
・かつて「大東亜」と呼んだ国々の歴史博物館や記念碑は冷戦後のものが多い
⇒それら現在の「大東亜」では日本をどう見てるのか(第4章)、
⇒「あの戦争」はいつ終わるのか(第5章)という問いで、日本の「国民の物語」に向き合う
⇒日本では未だに近代を包括する物語が共有されておらず国立の近現代歴史博物館もない
・過去を糾弾するだけでも賞賛するだけでもなく、小さく否定し大きく肯定する
⇒(国民という枠組みなど幻想とは理解しつつも)国際秩序は国民国家単位で成り立っており、
戦争が国民国家の行為とされる以上、それを抜きに当時の歴史を語るのは現実的ではない
・本書は「あの戦争」を我々の物語として再受容し、表題の究極の問いに答える試み・・・
第1章より
・「日中戦争」は1937年7月7日の盧溝橋(支那事変)から?
・「太平洋戦争」は1941年12月8日の真珠湾から?(実際には1時間前の英領マレー半島上陸から?)
⇒政府が1941年12月12日に対米英戦を「大東亜戦争」とした際に支那事変を含むとした
⇒ところが閣議決定による平時と戦時の区切りは12月8日午前1時30分(給与・刑法上)
⇒今も政府は「先の大戦の戦没者は約310万人(うち軍人・軍属は約230万人)」としているが、
これは1937年7月(支那事変)から起算した戦没者数
・平成天皇や左派の「15年戦争」は1931年9月18日の柳条湖(満州事変)から(加害者の視点)
・林房雄の「東亜百年戦争」は欧米列強の来航(1844~1848)への反撃から(被害者の視点)
・「アジア・太平洋戦争」と「アジア太平洋戦争」と「大東亜戦争」(略)
・第一次世界大戦の陸軍中堅幕僚への衝撃
⇒これからの戦争は総力戦になり資源確保が不可欠になる
⇒関東軍の暴走(日本に独裁者はおらず様々な勢力が加担)
⇒戦後のパリ講和会議での民族自決・ナショナリズム⇒日本の中国権益への不安感も
⇒強硬論で蒋介石の主要都市を攻略占領した
⇒それでも足りない資源が石油やゴムなど⇒南進へ
・東南アジアでは緩衝地帯のタイ以外はフランス・オランダ・米国・英国の植民地だった
⇒1939年9月に第二次世界大戦がはじまった
⇒この機に乗じ南進して資源を確保、蒋介石支援ルートを遮断して日中戦争も解決
⇒参戦していない米国には大きく依存しており対立は避けたかった(が楽観的だった)
・1941年7月に仏領インドシナ南部に進駐(南進の足場確保)
⇒南部の中心サイゴンはバンコク・シンガポール・蘭領インドシナなどへの戦略的な要衝
⇒連合国への直接的な脅威と受け止められた⇒石油の全面禁輸へ
・1941年11月の事実上の最後通牒であるハル・ノート⇒全面撤兵などを要求
⇒第一次世界大戦からの総力戦体制の整備が否定されるに等しい
⇒避けるべきはずの米国との戦争に
⇒司令塔が不在で場当たり的な対外政策だった
・「あの戦争」筆者の考え
⇒形式的なはじまりは1941年12月8日だが、実質的なはじまりは1937年7月7日
(その前には継続的で大規模な軍事衝突がなかったから)
⇒戦争名称としては日中戦争、対米英開戦以降は日中戦争を含め大東亜戦争と呼称する
(大東亜は歴史上の名称として使われており戦争だけ太平洋に置き換える空気支配こそが問題)
⇒原因は黒船来航まで遡ることに賛同する(内在的な論理として理解する)
⇒愚かだった、狂気だった、だけでは有益な教訓は引き出せない
⇒物語の否定ではなく物語の絶え間ない選択が必要
第2章より
・どこが間違っていたかを様々な「IF」から検証(略)
(どれもなるほどと納得できたので目次の小項目から推測して下さいね)
⇒結論的には小林秀雄の「歴史の必然性」になるが、
(歴史とは無数の要因が絡み合って展開するもので過去を変えることはできないが、)
⇒戦争への道を振り返り様々な可能性を考えることで、未来を変えるための努力はできる
第3章より
・当時の理想は単なるプロパガンダだったのか?
⇒日米開戦で「アジアの解放」という聖戦の意義がはっきりしたと多数の知識人が歓喜した
(それまでの日中戦争でいくら聖戦と言われても中国のナショナリズムに対抗して日本の権益を
守ろうとする、弱い者いじめの主張に過ぎず、すっきりしなかった)
⇒脱亜入欧とアジア主義の相克
⇒欧米からの人種的・文化的な差別と朝鮮や台湾での欧米式植民地支配
⇒大東亜新秩序建設のため邪悪な存在(欧米)に立ち向かう正義の開戦
⇒プロパガンダで強調されたにしても、この構図が大多数に支えられていたのではないか
・1905年の日露戦争の勝利
⇒アジアの弱小国が白人帝国に勝利した事実は欧米の植民地支配に苦しむ人々に影響した
・1919年パリ講和会議における国際連盟規約への日本の「人種差別撤廃」内容追加要求
⇒正邪だけでなく米国の日系移民排斥など国益上の動機もあったが強い共感を呼んだ
(結果的には白豪主義のオーストラリア首相ヒューズを中心に英米が反対して否決された)
(日本も支配地域で他民族を差別的に扱っていた事実もあり評価はその間ですべき)
(アフリカ系米国人に当時の日本への共感や期待があったのも事実だが批判もあった)
・1932年3月の満洲国建国では「王道楽土」や「五族協和」だった
⇒1937年7月の日中戦争勃発では「横暴な中国を懲らしめる」になったが、長期化が決定的に
なった同年11月には近衛文麿首相により「東亜新秩序建設」が新しい戦争目的に
⇒いわば付け焼刃的にアジア主義が台頭した
⇒この流れで登場したのが日本書紀で神武天皇の言葉とされる「八紘一(為)宇」(略)
・1942年1月21日の東条英機首相の衆議院本会議演説
⇒大東亜共栄圏の建設とは日本を中心に道義的秩序の形成を目指すもの⇒八紘一宇
・1943年11月の大東亜会議における共同宣言
⇒日本・中華民国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(陪席)による
(ベトナム・カンボジア・ラオス・マレーシア・インドネシアに該当する地域は直接支配していた)
⇒共存共栄、独立親和、文化高揚、経済繁栄、人種差別撤廃による世界貢献の五原則
⇒戦局の悪化で形式的にせよ占領地に独立や自主性を与える方針になったもの
⇒大東亜政略指導大綱では逆にアジア諸民族を日本に従属させる構造になっている
・過酷な植民地支配や占領統治の事実を率直に認めたうえで、世界に先駆け人種差別撤廃を
国際連盟に提案しアジアで共同宣言した日本として、外国人差別・人種差別に反対すべき
⇒このアジア主義こそ新たな「国民の物語」ではないか・・・
第4章より
・東条英機の外遊ルート1943
南京・上海・新京(長春)・奉天(潘陽)・マニラ・サイゴン(ホーチミン)・バンコク・シンガポール・
パレンバン・ジャカルタ・クチン・ラブアン・(日本領だった)京城(ソウル)・台北・高雄
⇒そのすべてを巡って東条の大東亜外交がどう評価されているかを確認した(内容は略)
・シンガポール⇒ディスカバリーセンターとフォード旧工場で
・ジャカルタ⇒国家記念塔モナス地下の51のジオラマで
・パレンバン⇒製油所内よりも戦争賠償のアンペラ橋で
・クチン⇒ボルネオ守備隊の司令官官邸となった旧王宮アスタナと対岸の司令部となった
裁判所と増設されたジャパニーズ・ビルディングとマレーシア最大のボルネオ文化博物館で
・ラブアン島⇒ヴィクトリアのラブアン歴史博物館とその前庭にある司令官・前田大将記念碑と
マレーシア最大の戦争記念墓地で英豪兵3908名が眠るラブアン第二次世界大戦墓地で
・バンコク⇒ドンムアン空港北にあるナショナルメモリアル併設の軍事博物館とアユタヤ⇒
日本人村公園にある歴史研究センター別館で
・新京(長春)⇒満州国皇帝溥儀の宮殿跡である偽満皇宮博物院で
・奉天(潘陽)⇒柳条湖事件(満州事変)の現場近くにある9.18歴史博物館で
・南京⇒2017年にリニューアルされた大虐殺記念館と、もと国民政府外交部(外務省)庁舎⇒
支那派遣軍総司令部⇒現在は江蘇省人民常務委員会庁舎で
・マニラ⇒マニラ市街戦では10万人以上の市民、フィリピン全体では100万人以上が犠牲に
⇒なのでモニュメントや歴史解説は数多い⇒「許そう、だが忘れない」⇒和解の道へ
⇒2024年11月、宮崎駿監督がアジアのノーベル賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞を
受賞した際、2016年の天皇皇后のマニラ訪問時の哀悼に触れ「多くの民間人を殺害したことを
日本人は忘れてはならないのです、その事実はいつまでも残ります」と発言した
⇒この発言は戦争をめぐる記憶のあり方として、ひとつの模範的なかたちといえる
⇒被害を受けた側が「許そう、だが忘れない」という物語を紡いでいるときに、加害側が
「忘れた」と応じてしまえば和解の前提が成り立たない
⇒「知らなかった」ではなく「忘れない」と応じて共有し、その後に知ればよい
(フィリピン、ベトナム、台湾などについては前著「ルポ国威発揚」を参照)
⇒若い国家では「国民の物語」を構築しやすいが日本ではどうか
第5章より
・「あの戦争」はいつ歴史の出来事として「終わった」といえるのか
⇒国立歴史民俗博物館は2010年に現代をテーマとする第6展示室を新設したが「あの戦争」に
関する展示は驚くほどあっさりしている⇒まだ社会的合意が形成されていないから
⇒国立昭和館も展示の中心は戦時下の国民生活で多角的な視点がない⇒同様だから
・明確な歴史観を提示しているのは靖国神社の遊就館
⇒靖国史観は日本の行動を正当化・美化したものと思われやすいが「受け身史観」
⇒すべては自国を守るためのやむを得ない消極的な行動であったという史観
⇒明治期から第一次世界大戦までは説得力があるが、それ以降は単なる被害者ではない
⇒支援者の主流の保守派といっても親米から反米まであり歴史観も多様で一枚岩ではない
⇒民間の博物館なので自由だが日本の戦争博物館とされており、指摘による見直しもある
・靖国史観とは異なるのが東京大空襲・戦災資料センターの工夫
⇒日本も含む世界的な空襲の歴史を踏まえたうえでの東京・広島・長崎で被害者史観ではない
・国立アメリカ歴史博物館
⇒日本に関する説明には無理があるが・・・
(「悪者」の主語がヒトラー・ムッソリーニに較べ(司令塔不在で)東条から二転三転している)
⇒日系人12万人強制収容の負の歴史も原爆投下の両論もある⇒全肯定に傾かない展示
(ただしトランプ政権によるD多様性E公平性I包括性の見直しで変わる可能性もある)
・「あの戦争」は記憶の風化で終わるか、新たな戦争などで上書きされて終わるか
⇒どちらも希望のない終わり方
⇒だが「あの戦争」は政治的・経済的・軍事的に日本の黄金時代だった昭和の一大イベント
⇒さらに明治以降の近代国家建国史の総決算で歴史から消え去るとは想像しがたい
・近代日本の歩みを欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、
逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない
⇒国立博物館では基本的に自国の歩みを肯定し過ちや課題も正直に記して65点ぐらいで
・さらに肯定する立場なら、日本が列強の一員として主要な役割を果たしてきたこと、
その主体であり他者に影響を与える存在であったこと、その影響には肯定的な面も否定的な面も
存在したこと、その全体を引き受けるのが主体性であることを理解したうえで、日本は近代の
主人公の一人という自覚を持ってやればよい
(大東亜の理想に普遍性があるなら、それがどこで破綻し、どのような問題を生んだかを示し、
理想と現実の乖離を描くことで、理想の真価が際立つ)
・国立の歴史博物館は政府の立場になり中立には限界がある
⇒民間の博物館では右も左もあってよい
⇒この二重構造が歴史のあるべき姿と考えて私人としてこの本を記した
・「あの戦争」は日本の近現代史の流れの中で位置づけて、はじめて全体像が立ち上がる
⇒その視点に立つことで過剰な肯定にも否定にもならず落ち着くのではないか・・・
おわりにより
・小林秀雄の「歴史は因果の鎖ではなく愛惜の念により、はじめて意味を持つ」
⇒歴史に関心を抱くのは一個の主体が存在し、その主体に動機があるから
⇒かつての動機は多くに共有された戦争体験で、誰もが昭和史に関心を抱いた
⇒では、その共有体験が失われた今は歴史に無関心になったか
⇒エンタメやフィクションの物語で血の通った個々の人生に結びついてくる
・情念のない教科書形式の歴史ほど退屈な世界はない
⇒歴史は解釈であり現在の興味関心や価値観によってつねにかたちを変える
⇒本書もトランプ政権の再登場などで目次や内容がたびたび見直された・・・
・・・・・・
つーことで・・・
日本がこれまでの国際秩序が揺れ動く今の世界情勢の中で、どの方向に向かうべきかを考える
にあたっては、「あの戦争」を見返す必要があることだけは間違いないでしょう
最後に巻末にあった主要参考文献もメモしておきます
そう、わたくしに残された時間でこれだけ読めば・・・って、もう無理かな・・・




