2026年06月14日
武器が語る日本史
とーとつですが・・・

武器が語る日本史とゆー本であります
表紙カバー裏の惹句

著者略歴と奥付

目次


以下、各章の節(小見出し)中心のてきとーメモです(⇒は補足メモ)
ちなみに後半部分に補足メモが多いのは個人的な興味の偏りによるものです
(じつにてきとーですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1章より
・日本では西暦300~450年と思われる長柄の鉾(槍)が出土している
⇒当時の朝鮮半島にはなかったもの
⇒大陸・半島の軍隊は複合素材短弓や弩が中心
⇒大陸の鐙と鞍なら騎兵が槍を構えることもできるが日本の地形・馬・鐙では不可能
⇒なので歩兵の長柄の鉾(槍)が騎兵に対し圧倒的に有利だった
・斬撃用長柄武器のメリット(略)
・古事記や日本書紀に投げ槍が出てこない理由
⇒クマソやハヤトが使うことはあったかも知れないが弓矢や長柄の鉄矛には全く抵抗できず、
大きな戦闘も起きなかった(ので記述もない)
・投げ槍も補助具も不要になった縄文時代
⇒15000~1万年前の日本の気候・風土・植生・動物相では70cmぐらいの丸木弓による猟が
あまりにも効率的だったのだろう
⇒なので狩猟用の投げ槍や投擲補助具などは淘汰された
(ただし沖縄では近代までイノシシを犬で囲い込み投げ槍で仕留める猟が残っていた)
・馬や鳥を捕捉する狩猟具ボラスはなぜ対騎兵手段として世界に拡がらなかったか(略)
⇒子どもがトンボを捕えるブリ(関東ではトリコ)は古代ボラスの名残
第2章より
・西暦400~404年の戦いでは高句麗の騎兵が優勢
⇒複合素材短弓・鏃のカエシの有無・・・
・633年「白村江の戦い」の武器体系(略)
・(唐軍侵攻の可能性がほぼ消えた)7世紀半ばから平安時代前の兵器体系の純化(略)
第3章より
・魏志倭人伝の倭人の武器(略)
・平安時代の槍や鉾の禁止(略)
⇒次の無秩序を平定したのは鉄炮プラス幕藩体制
・軍記物の槍・上から叩く長槍(略)
第4章より
・関ケ原以前の騎兵と歩兵の比較
⇒足軽の由来、馬当て、去勢しない理由・・・(略)
・30年戦争(1618~1648)から西洋で発達した野砲が幕末まで顧みられなかった理由
・騎兵や輓馬砲兵、馬車輜重が古代から一貫して西洋より小規模な理由
⇒農地の規模、地形、単位面積当たりの人口扶養力、水田と麦畑の違いなど
⇒道路整備の違いへ
第5章より
・各時代の和弓の有効射程
⇒参考になるクレシーの戦い(1346年に英軍がロングボウ部隊により仏軍に圧勝した)
⇒平家物語では屋島での那須与一と船の扇との距離は7段(約70m)
⇒壇ノ浦での浅利与一の遠矢は4町(約400m)とされているが狩り矢では2町以内とされており、
前時代の太平記でも遠矢は200m以上とされてるので壇ノ浦の400mは誇張かも
・軍記物では正確にわからない征矢(そや⇒合戦用の矢)の攻撃力と楯や甲冑の防護力
⇒当時の実物サンプルを調べて実験した(略)
⇒現代の射手・和弓では距離10mでも1.6mm厚のフライパンを貫通できなかった
⇒ただし旧陸軍でも重機関銃中隊には農村の出身者(背筋力が段違いだった)を優先的に配置
していたぐらいだから、現代和弓の3~4倍の弓力でも連続して操作できる武者が軍記物の
記述どおり慶長以前に実在していた可能性は大いにある
・複合素材弓はユーラシアではいつ出現したか
⇒ホメロスやヘロドトスの記述に複合素材弓(コンポジット・ボウ)がある
⇒おそらくスキタイ人などから東西に伝達した
⇒日本で開発・普及しなかった理由には多湿気候や甲冑の強靭度などが考えられる
・日本の矢には射手の名前が書かれていた
⇒武者の携帯数は通常24~30本なので可能だった
⇒誰の戦功かを確定するため⇒武者には手柄が最重要だった
⇒鉄炮時代には手柄首を確保させに中間を走らせた
・乱世に弩(クロスボウ)を日本向けに改良できていたら有利だったか
⇒鉄炮以前に鉄砲隊のように使えれば圧倒できたはず
⇒弩の弱点は反発力が強く発射速度が遅いこと(30秒に1発で火縄銃並み)
⇒火縄銃と同じで二人一組なら解決できたはず
⇒弩には限界応力がかかるので濡れると自損しやすい
⇒乾燥地で港からの硝石が入手困難で規律の高い甲府盆地の武田軍にぴったりかも
⇒長弓と異なり1週間の訓練で弩兵を臨時動員できるので知見と工夫があれば・・・
・日本では鉄炮以前には顔面保護に熱心ではなかった
⇒「日本の気候にフルフェイス・ヘルメットは向かない」といった記述が多い
・三十三間堂の通し矢(122m上下5m)で使われた弓矢(略)
⇒一晩8133本(総発射数13033本)が最高記録で特製の軽い弓矢が使用された
・毒矢
⇒東北以北の狩猟には使われたが合戦では使用されなかった
⇒鏃のカエシと同様に事故や誤射、合戦後の怨恨の永続などから忌避したか
⇒鎌倉時代中期以降の蒙古襲来を記した書物に毒矢の記述がある⇒確認例を知りたい
⇒蒙古襲来前の宇治拾遺物語にも新羅の矢には毒が塗られていたとの記述がある
第6章より
・平安時代以降の武士階級は楯にこだわっていない
⇒日本国土の運輸事情による
⇒近畿の次に水田開発された伊勢や美濃との間にも荷車が通行できる峠道はなかった
⇒荷車も馬車も重輓馬も発達せず大八車の発明は江戸時代になってから
⇒江戸時代の後半でも大八車・大七車は江戸・京都・駿府の外では原則禁止だった
⇒街道が狭く車両が邪魔になるから
(役畜輸送の基本知識すらなく自滅したのがインパール作戦で大兵団の補給も250kmまでなら
大八車で可能としていた⇒日露戦争の朝鮮半島では有効だった)
・太平記の楯⇒一枚楯<持楯<掻楯<畳楯⇒荷夫もいたが前線では歩兵が担いだ
⇒平治物語では五条大橋の板を剥がしており戦乱期には住宅寺社の板や畳などで代用
⇒荷車や馬車が使えなかったので嵩張る楯は輸送できなかった
・防弾竹束の発明⇒ライフル弾の発明までは有効だった
第7章より
・長篠合戦の勝因と敗因(甲陽軍鑑から)
⇒武田軍は敵陣偵察・情報収集をロクにしていなかった
⇒徳川・織田連合軍は最重要情報(陣地前の頑丈な三重柵)を最後まで隠せた
⇒なので防御戦でありながら奇襲的勝利を得た
・同様の罠を近代戦で再現できるか
⇒1942年ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場前に隠された海兵隊の機関銃陣地がその再現
⇒日本軍は1937年第2次上海事変での成功(蒋介石軍の堅固な機関銃陣地が見えていたので
アウトレンジから制圧できた)が仇となり、歩兵攻撃で勝てると思っていたのかも・・・
・野戦で梯子を使えば・・・(江戸の捕り物だけで軍記物には登場しないけど)
⇒二人で荷物用「御輿台」として、一人で背負子として運搬道具に
⇒崖地では梯子に、小河川では架け橋に、大河川では浮き橋に、下から支えれば物見に、
二人で運ぶ担架にも、一人で引きずる修羅にもなったはず
第8章より
・ペリー艦隊が江戸湾に入れないような射程2km以上の国産大砲は可能だったか
⇒鉄製は素材も鋳造も国内ではまだ不可能
⇒青銅製は不純物で破裂することがあるが梵鐘や燈籠などを溶かせば素材はあった
⇒砲全体を鋳造容易な球形にすれば長射程でも安全で砲架も不要だったはず
・台場以外の海防案
⇒ありあわせの小口径砲を備えた「浮き砲台」なら少額で大量に準備できたはず
第9章より
・明治陸軍は白兵主義か火力主義か
⇒第一次大戦前までは堅固な火力主義だった
⇒軍神・橘中佐の首山堡強襲は準備不足の例外だったが町人兵への攻撃精神教育の見本になった
⇒日露戦争後に武道教育・銃剣術が重視され文部省・内務省も協力した
⇒トレンドが義務教育から大衆文芸まで広がった(宮本武蔵の発掘など)
・戦国時代の銃剣の工夫
⇒山鹿素行によれば足軽とは能動的な弓鉄炮組で、受動的な長柄組とは運用が区別されていた
⇒戦国末期には鉄砲隊に突撃する騎兵などおらず長柄組は武者自陣の前衛として重装備配置
⇒足軽戦闘は2町(218m)ぐらいからで50間(91m)から30間(54.6m)になると本格化する
⇒15間(27.3m)まで迫れば白兵戦で長柄組の出番だが、多くはそれまでに人数や弾薬量により
大勢が決しており、いずれかが敗走をはじめて以後は追撃戦になる
(追撃側の武者は手柄首や一番槍を求めて長柄組や足軽組をさしおき突進する)
⇒なので合戦で長柄組の出番が多ければ、人数の多い鉄炮組を槍組にトランスフォームできる
「銃剣」の工夫が必ずなされていたはずだが、出番が殆どなかったから工夫されなかった
・国産の火縄銃は足軽用小口径も武者用大口径もすべて狙撃銃(必中距離は50mまで)だった
⇒照準調整した銃口部にプラグ式でもソケット式でも銃剣を付けるのを嫌ったのだろう
(ナポレオン時代の歩兵用マスケット銃には照準器がなく照星に見えるのは銃剣用の金具)
(44式騎兵銃は折りたたみ銃槍で照準が狂うと不評、ソケット式の歩兵銃にもクレームがあった)
・日本軍の銃剣は長すぎるか
⇒銃剣の歴史は猟師のイノシシ防御用から
⇒単発後に手負いイノシシが向かってきたら銃口に腰の改造ダガー剣の木柄を差し込めば、
1.8mの槍に早変わりする⇒17世紀のドイツ猟師から欧州に普及した
⇒前装式単発銃隊は斎射直後に騎兵に襲われると反撃できず混乱するので歩兵銃にも応用した
⇒30年戦争1647年にはフランス軍のマスケット歩兵が銃剣突撃した記録がある
⇒英国も1672年にプラグ式銃剣を採用した
(1640年からこの頃までに欧州の主要陸軍は火縄式からフリント式に)
⇒1703年には固定できるソケット式がフランス軍に導入され1815年までほぼ同形式で定着した
⇒日本では銃が重く長くなるので敬遠され戊辰戦争では銃剣突撃もあったが西南戦争では皆無、
ひたすら小銃を乱射する日本独特の伝統が日露戦争まで続いた
⇒日露戦争でロシア兵の果敢な着剣突撃戦術に遭遇して驚いた
⇒戦後は反省から、やがて現実を無視した白兵信奉や小銃短小化の不徹底につながっていく
⇒小銃はライフリング、後装式、無煙火薬、連発式と進化していった
⇒日本でも村田銃(17年式・22年式)から有坂銃(30年式・南部がマイナーチェンジした38年式)へ
⇒ただし第一次世界大戦の塹壕戦を経験しなかったため銃剣や着剣全長の短縮化はなかった
⇒ドイツでは塹壕戦の経験により休戦までに短い銃剣(252mm)が設計されている
・旧歩兵銃Gew98(1.25m)+旧50cm銃剣=1.75m
・新歩兵銃Kar98k(1.1m)+新252mm銃剣=1.352m
第10章より
・旧日本軍の戦車
⇒対米戦時の中戦車(57mm砲47mm砲)軽戦車(37mm砲)は総生産数では約5000両
(トラックが4000円で97式中戦車は15万円、95式軽戦車でも7万円で航空機に次ぐ装備予算)
⇒集中せず分散した結果、ほとんど役に立たなかった
⇒しかも高速の駆逐艦では運べずクレーン付き低速輸送船から大型艀に移して揚陸していた
⇒輸送揚陸中に攻撃され海没した戦車も膨大な数に上る
・結果的に貴重な戦争資源を戦車のために無駄にした理由
⇒日本の戦車は対戦車兵器ではなく直接歩兵支援兵器だった
⇒ソ連軍のトーチカ(ロシア語で点)陣地や塹壕を無力化して歩兵が一気に突破できないと
戦線が膠着化して砲撃物量戦になる⇒日本の工業資本力では砲弾がすぐに尽きる
⇒なので中戦車の57mm砲も軽戦車の37mm砲もトーチカ銃眼向けの近距離水平射撃専用で、
ノモンハンで鹵獲したソ連BT-7M戦車の装甲を貫通できないことは実験済みだった
⇒フィリピンで鹵獲した米軍M3軽戦車の背面すら貫通できずM3の37mm砲は95式軽戦車の
正面装甲を貫通することも実験済みだった
(ちなみに上記リンク記事にはトーチカや投げ槍や銃剣などの画像もあります)
⇒なので日本では重戦車になるM4シャーマン中戦車とは勝負にならないことは自明だったが、
ようやく方針転換したミッドウェー海戦以降は、それに対抗できる砲や戦車の製造や輸送が
できる状況ではなくなっていた
・ソ連軍の45mm砲やBT-7に対抗する手段はなかったのか
⇒ノモンハン事件後の1938年に47mm対戦車砲を試製し1942年に牽引用として制式化
⇒97式中戦車の新砲塔用として制式化したのも1942年
(ただしソ連軍は1940年には高速76mm砲搭載のT-34Aを大量生産している)
⇒ドイツでは旧式になった3号戦車の砲塔を外し、前面50mm装甲と75mm砲を装備して
とりあえずT-34に対抗できる3号突撃砲に改造して量産した
⇒ところが日本では旧式のBT-7にさえ対抗できない戦車の量産を続けていた
⇒戦車などの機甲兵器を理解し工学的センスを持ち開発に口と顔を出し裁決し監督していた
ヒトラーやスターリンと異なり、軍のエリートが担当セクションに丸投げしていたから
・殆ど役に立たなかった戦車予算を別の兵器や装備に転用していたら
⇒悪路も走行できた国産6輪4駆トラック94式は1万円で97式中戦車は15万円
⇒ただしトラック量産工場の新設に2年はかかる
⇒装軌式の牽引車や海軍で試作中だったブルドーザーなら戦車工場を転用できる
⇒牽引車で砲や弾薬を運びブルドーザで飛行基地の増設や修復、掩蔽壕ができたはず
・戦車予算のすべてを高射砲部隊に使っていたら
⇒蒋介石軍から鹵獲したドイツ製88mm高射砲をコピーした99式88mm高射砲
(ただし光学照準器が旧式で高度6000mまでしか対応できなかったが)
⇒大量生産され充分に配備されていたら東京大空襲などあり得ない話になってたはずだが、
⇒大阪造兵工廠はお役所工場で前年度に予算が決まるため設備拡大も増産もできない
(ドイツでは都市の中心部に多くの高射砲用巨塔「フラックタワー」を建てたが日本では
検討した記録もない⇒地上高射砲の衝撃波で窓ガラスが割れて配置できなかったのに)
・軍事組織に必要な才能とは(略)
・本土防空失敗の原因は
⇒1944年6月には成都のB-29編隊20機が北九州を爆撃して成都に帰投した
⇒それまでに邀撃可能な戦闘機もしくは島嶼防衛兵器を完成していなったのが原因
(わずかな可能性として1940年から非レシプロ系の航空機動力研究を推進していたら、
日本の技術だけを前提にしても秋水や桜花に類似したものが1942年末には完成していたかも)
⇒1941年12月の対米開戦は日本の軍事技術陣にとっての「奇襲」だった
⇒それから防衛戦の兵器システムを開発しろといわれても1年や2年でモノになるはずもなく、
さらにその間に連合軍の反転攻勢により輸送船が枯渇して物資が窮乏することも明白
⇒敗戦は開戦と同時に確約されていたのである・・・
おわりにより
・まもなく先進諸国軍隊はレーザー光・マイクロ波・中性子ビームを使う「エネルギー指向兵器」
を兵器システムに実装する
⇒とうとう「人類が槍を突き出すスピード」が光速になる
⇒なのに日本の武器メーカー・ユーザー(自衛隊)・整備計画者(政府・防衛省)は傍観している
⇒兵器システムの進化競争は敗戦を共有してから計画しても間に合わない、という反省が
先の大戦でなされたはずなのに・・・
⇒近未来の無慚な破滅を回避するため武器政策のセンスが磨かれる書籍がもっと書かれるべき
・・・・・
さてさて・・・

武器が語る日本史とゆー本であります
表紙カバー裏の惹句

著者略歴と奥付

目次


以下、各章の節(小見出し)中心のてきとーメモです(⇒は補足メモ)
ちなみに後半部分に補足メモが多いのは個人的な興味の偏りによるものです

(じつにてきとーですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1章より
・日本では西暦300~450年と思われる長柄の鉾(槍)が出土している
⇒当時の朝鮮半島にはなかったもの
⇒大陸・半島の軍隊は複合素材短弓や弩が中心
⇒大陸の鐙と鞍なら騎兵が槍を構えることもできるが日本の地形・馬・鐙では不可能
⇒なので歩兵の長柄の鉾(槍)が騎兵に対し圧倒的に有利だった
・斬撃用長柄武器のメリット(略)
・古事記や日本書紀に投げ槍が出てこない理由
⇒クマソやハヤトが使うことはあったかも知れないが弓矢や長柄の鉄矛には全く抵抗できず、
大きな戦闘も起きなかった(ので記述もない)
・投げ槍も補助具も不要になった縄文時代
⇒15000~1万年前の日本の気候・風土・植生・動物相では70cmぐらいの丸木弓による猟が
あまりにも効率的だったのだろう
⇒なので狩猟用の投げ槍や投擲補助具などは淘汰された
(ただし沖縄では近代までイノシシを犬で囲い込み投げ槍で仕留める猟が残っていた)
・馬や鳥を捕捉する狩猟具ボラスはなぜ対騎兵手段として世界に拡がらなかったか(略)
⇒子どもがトンボを捕えるブリ(関東ではトリコ)は古代ボラスの名残
第2章より
・西暦400~404年の戦いでは高句麗の騎兵が優勢
⇒複合素材短弓・鏃のカエシの有無・・・
・633年「白村江の戦い」の武器体系(略)
・(唐軍侵攻の可能性がほぼ消えた)7世紀半ばから平安時代前の兵器体系の純化(略)
第3章より
・魏志倭人伝の倭人の武器(略)
・平安時代の槍や鉾の禁止(略)
⇒次の無秩序を平定したのは鉄炮プラス幕藩体制
・軍記物の槍・上から叩く長槍(略)
第4章より
・関ケ原以前の騎兵と歩兵の比較
⇒足軽の由来、馬当て、去勢しない理由・・・(略)
・30年戦争(1618~1648)から西洋で発達した野砲が幕末まで顧みられなかった理由
・騎兵や輓馬砲兵、馬車輜重が古代から一貫して西洋より小規模な理由
⇒農地の規模、地形、単位面積当たりの人口扶養力、水田と麦畑の違いなど
⇒道路整備の違いへ
第5章より
・各時代の和弓の有効射程
⇒参考になるクレシーの戦い(1346年に英軍がロングボウ部隊により仏軍に圧勝した)
⇒平家物語では屋島での那須与一と船の扇との距離は7段(約70m)
⇒壇ノ浦での浅利与一の遠矢は4町(約400m)とされているが狩り矢では2町以内とされており、
前時代の太平記でも遠矢は200m以上とされてるので壇ノ浦の400mは誇張かも
・軍記物では正確にわからない征矢(そや⇒合戦用の矢)の攻撃力と楯や甲冑の防護力
⇒当時の実物サンプルを調べて実験した(略)
⇒現代の射手・和弓では距離10mでも1.6mm厚のフライパンを貫通できなかった
⇒ただし旧陸軍でも重機関銃中隊には農村の出身者(背筋力が段違いだった)を優先的に配置
していたぐらいだから、現代和弓の3~4倍の弓力でも連続して操作できる武者が軍記物の
記述どおり慶長以前に実在していた可能性は大いにある
・複合素材弓はユーラシアではいつ出現したか
⇒ホメロスやヘロドトスの記述に複合素材弓(コンポジット・ボウ)がある
⇒おそらくスキタイ人などから東西に伝達した
⇒日本で開発・普及しなかった理由には多湿気候や甲冑の強靭度などが考えられる
・日本の矢には射手の名前が書かれていた
⇒武者の携帯数は通常24~30本なので可能だった
⇒誰の戦功かを確定するため⇒武者には手柄が最重要だった
⇒鉄炮時代には手柄首を確保させに中間を走らせた
・乱世に弩(クロスボウ)を日本向けに改良できていたら有利だったか
⇒鉄炮以前に鉄砲隊のように使えれば圧倒できたはず
⇒弩の弱点は反発力が強く発射速度が遅いこと(30秒に1発で火縄銃並み)
⇒火縄銃と同じで二人一組なら解決できたはず
⇒弩には限界応力がかかるので濡れると自損しやすい
⇒乾燥地で港からの硝石が入手困難で規律の高い甲府盆地の武田軍にぴったりかも
⇒長弓と異なり1週間の訓練で弩兵を臨時動員できるので知見と工夫があれば・・・
・日本では鉄炮以前には顔面保護に熱心ではなかった
⇒「日本の気候にフルフェイス・ヘルメットは向かない」といった記述が多い
・三十三間堂の通し矢(122m上下5m)で使われた弓矢(略)
⇒一晩8133本(総発射数13033本)が最高記録で特製の軽い弓矢が使用された
・毒矢
⇒東北以北の狩猟には使われたが合戦では使用されなかった
⇒鏃のカエシと同様に事故や誤射、合戦後の怨恨の永続などから忌避したか
⇒鎌倉時代中期以降の蒙古襲来を記した書物に毒矢の記述がある⇒確認例を知りたい
⇒蒙古襲来前の宇治拾遺物語にも新羅の矢には毒が塗られていたとの記述がある
第6章より
・平安時代以降の武士階級は楯にこだわっていない
⇒日本国土の運輸事情による
⇒近畿の次に水田開発された伊勢や美濃との間にも荷車が通行できる峠道はなかった
⇒荷車も馬車も重輓馬も発達せず大八車の発明は江戸時代になってから
⇒江戸時代の後半でも大八車・大七車は江戸・京都・駿府の外では原則禁止だった
⇒街道が狭く車両が邪魔になるから
(役畜輸送の基本知識すらなく自滅したのがインパール作戦で大兵団の補給も250kmまでなら
大八車で可能としていた⇒日露戦争の朝鮮半島では有効だった)
・太平記の楯⇒一枚楯<持楯<掻楯<畳楯⇒荷夫もいたが前線では歩兵が担いだ
⇒平治物語では五条大橋の板を剥がしており戦乱期には住宅寺社の板や畳などで代用
⇒荷車や馬車が使えなかったので嵩張る楯は輸送できなかった
・防弾竹束の発明⇒ライフル弾の発明までは有効だった
第7章より
・長篠合戦の勝因と敗因(甲陽軍鑑から)
⇒武田軍は敵陣偵察・情報収集をロクにしていなかった
⇒徳川・織田連合軍は最重要情報(陣地前の頑丈な三重柵)を最後まで隠せた
⇒なので防御戦でありながら奇襲的勝利を得た
・同様の罠を近代戦で再現できるか
⇒1942年ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場前に隠された海兵隊の機関銃陣地がその再現
⇒日本軍は1937年第2次上海事変での成功(蒋介石軍の堅固な機関銃陣地が見えていたので
アウトレンジから制圧できた)が仇となり、歩兵攻撃で勝てると思っていたのかも・・・
・野戦で梯子を使えば・・・(江戸の捕り物だけで軍記物には登場しないけど)
⇒二人で荷物用「御輿台」として、一人で背負子として運搬道具に
⇒崖地では梯子に、小河川では架け橋に、大河川では浮き橋に、下から支えれば物見に、
二人で運ぶ担架にも、一人で引きずる修羅にもなったはず
第8章より
・ペリー艦隊が江戸湾に入れないような射程2km以上の国産大砲は可能だったか
⇒鉄製は素材も鋳造も国内ではまだ不可能
⇒青銅製は不純物で破裂することがあるが梵鐘や燈籠などを溶かせば素材はあった
⇒砲全体を鋳造容易な球形にすれば長射程でも安全で砲架も不要だったはず
・台場以外の海防案
⇒ありあわせの小口径砲を備えた「浮き砲台」なら少額で大量に準備できたはず
第9章より
・明治陸軍は白兵主義か火力主義か
⇒第一次大戦前までは堅固な火力主義だった
⇒軍神・橘中佐の首山堡強襲は準備不足の例外だったが町人兵への攻撃精神教育の見本になった
⇒日露戦争後に武道教育・銃剣術が重視され文部省・内務省も協力した
⇒トレンドが義務教育から大衆文芸まで広がった(宮本武蔵の発掘など)
・戦国時代の銃剣の工夫
⇒山鹿素行によれば足軽とは能動的な弓鉄炮組で、受動的な長柄組とは運用が区別されていた
⇒戦国末期には鉄砲隊に突撃する騎兵などおらず長柄組は武者自陣の前衛として重装備配置
⇒足軽戦闘は2町(218m)ぐらいからで50間(91m)から30間(54.6m)になると本格化する
⇒15間(27.3m)まで迫れば白兵戦で長柄組の出番だが、多くはそれまでに人数や弾薬量により
大勢が決しており、いずれかが敗走をはじめて以後は追撃戦になる
(追撃側の武者は手柄首や一番槍を求めて長柄組や足軽組をさしおき突進する)
⇒なので合戦で長柄組の出番が多ければ、人数の多い鉄炮組を槍組にトランスフォームできる
「銃剣」の工夫が必ずなされていたはずだが、出番が殆どなかったから工夫されなかった
・国産の火縄銃は足軽用小口径も武者用大口径もすべて狙撃銃(必中距離は50mまで)だった
⇒照準調整した銃口部にプラグ式でもソケット式でも銃剣を付けるのを嫌ったのだろう
(ナポレオン時代の歩兵用マスケット銃には照準器がなく照星に見えるのは銃剣用の金具)
(44式騎兵銃は折りたたみ銃槍で照準が狂うと不評、ソケット式の歩兵銃にもクレームがあった)
・日本軍の銃剣は長すぎるか
⇒銃剣の歴史は猟師のイノシシ防御用から
⇒単発後に手負いイノシシが向かってきたら銃口に腰の改造ダガー剣の木柄を差し込めば、
1.8mの槍に早変わりする⇒17世紀のドイツ猟師から欧州に普及した
⇒前装式単発銃隊は斎射直後に騎兵に襲われると反撃できず混乱するので歩兵銃にも応用した
⇒30年戦争1647年にはフランス軍のマスケット歩兵が銃剣突撃した記録がある
⇒英国も1672年にプラグ式銃剣を採用した
(1640年からこの頃までに欧州の主要陸軍は火縄式からフリント式に)
⇒1703年には固定できるソケット式がフランス軍に導入され1815年までほぼ同形式で定着した
⇒日本では銃が重く長くなるので敬遠され戊辰戦争では銃剣突撃もあったが西南戦争では皆無、
ひたすら小銃を乱射する日本独特の伝統が日露戦争まで続いた
⇒日露戦争でロシア兵の果敢な着剣突撃戦術に遭遇して驚いた
⇒戦後は反省から、やがて現実を無視した白兵信奉や小銃短小化の不徹底につながっていく
⇒小銃はライフリング、後装式、無煙火薬、連発式と進化していった
⇒日本でも村田銃(17年式・22年式)から有坂銃(30年式・南部がマイナーチェンジした38年式)へ
⇒ただし第一次世界大戦の塹壕戦を経験しなかったため銃剣や着剣全長の短縮化はなかった
⇒ドイツでは塹壕戦の経験により休戦までに短い銃剣(252mm)が設計されている
・旧歩兵銃Gew98(1.25m)+旧50cm銃剣=1.75m
・新歩兵銃Kar98k(1.1m)+新252mm銃剣=1.352m
第10章より
・旧日本軍の戦車
⇒対米戦時の中戦車(57mm砲47mm砲)軽戦車(37mm砲)は総生産数では約5000両
(トラックが4000円で97式中戦車は15万円、95式軽戦車でも7万円で航空機に次ぐ装備予算)
⇒集中せず分散した結果、ほとんど役に立たなかった
⇒しかも高速の駆逐艦では運べずクレーン付き低速輸送船から大型艀に移して揚陸していた
⇒輸送揚陸中に攻撃され海没した戦車も膨大な数に上る
・結果的に貴重な戦争資源を戦車のために無駄にした理由
⇒日本の戦車は対戦車兵器ではなく直接歩兵支援兵器だった
⇒ソ連軍のトーチカ(ロシア語で点)陣地や塹壕を無力化して歩兵が一気に突破できないと
戦線が膠着化して砲撃物量戦になる⇒日本の工業資本力では砲弾がすぐに尽きる
⇒なので中戦車の57mm砲も軽戦車の37mm砲もトーチカ銃眼向けの近距離水平射撃専用で、
ノモンハンで鹵獲したソ連BT-7M戦車の装甲を貫通できないことは実験済みだった
⇒フィリピンで鹵獲した米軍M3軽戦車の背面すら貫通できずM3の37mm砲は95式軽戦車の
正面装甲を貫通することも実験済みだった
(ちなみに上記リンク記事にはトーチカや投げ槍や銃剣などの画像もあります)
⇒なので日本では重戦車になるM4シャーマン中戦車とは勝負にならないことは自明だったが、
ようやく方針転換したミッドウェー海戦以降は、それに対抗できる砲や戦車の製造や輸送が
できる状況ではなくなっていた
・ソ連軍の45mm砲やBT-7に対抗する手段はなかったのか
⇒ノモンハン事件後の1938年に47mm対戦車砲を試製し1942年に牽引用として制式化
⇒97式中戦車の新砲塔用として制式化したのも1942年
(ただしソ連軍は1940年には高速76mm砲搭載のT-34Aを大量生産している)
⇒ドイツでは旧式になった3号戦車の砲塔を外し、前面50mm装甲と75mm砲を装備して
とりあえずT-34に対抗できる3号突撃砲に改造して量産した
⇒ところが日本では旧式のBT-7にさえ対抗できない戦車の量産を続けていた
⇒戦車などの機甲兵器を理解し工学的センスを持ち開発に口と顔を出し裁決し監督していた
ヒトラーやスターリンと異なり、軍のエリートが担当セクションに丸投げしていたから
・殆ど役に立たなかった戦車予算を別の兵器や装備に転用していたら
⇒悪路も走行できた国産6輪4駆トラック94式は1万円で97式中戦車は15万円
⇒ただしトラック量産工場の新設に2年はかかる
⇒装軌式の牽引車や海軍で試作中だったブルドーザーなら戦車工場を転用できる
⇒牽引車で砲や弾薬を運びブルドーザで飛行基地の増設や修復、掩蔽壕ができたはず
・戦車予算のすべてを高射砲部隊に使っていたら
⇒蒋介石軍から鹵獲したドイツ製88mm高射砲をコピーした99式88mm高射砲
(ただし光学照準器が旧式で高度6000mまでしか対応できなかったが)
⇒大量生産され充分に配備されていたら東京大空襲などあり得ない話になってたはずだが、
⇒大阪造兵工廠はお役所工場で前年度に予算が決まるため設備拡大も増産もできない
(ドイツでは都市の中心部に多くの高射砲用巨塔「フラックタワー」を建てたが日本では
検討した記録もない⇒地上高射砲の衝撃波で窓ガラスが割れて配置できなかったのに)
・軍事組織に必要な才能とは(略)
・本土防空失敗の原因は
⇒1944年6月には成都のB-29編隊20機が北九州を爆撃して成都に帰投した
⇒それまでに邀撃可能な戦闘機もしくは島嶼防衛兵器を完成していなったのが原因
(わずかな可能性として1940年から非レシプロ系の航空機動力研究を推進していたら、
日本の技術だけを前提にしても秋水や桜花に類似したものが1942年末には完成していたかも)
⇒1941年12月の対米開戦は日本の軍事技術陣にとっての「奇襲」だった
⇒それから防衛戦の兵器システムを開発しろといわれても1年や2年でモノになるはずもなく、
さらにその間に連合軍の反転攻勢により輸送船が枯渇して物資が窮乏することも明白
⇒敗戦は開戦と同時に確約されていたのである・・・
おわりにより
・まもなく先進諸国軍隊はレーザー光・マイクロ波・中性子ビームを使う「エネルギー指向兵器」
を兵器システムに実装する
⇒とうとう「人類が槍を突き出すスピード」が光速になる
⇒なのに日本の武器メーカー・ユーザー(自衛隊)・整備計画者(政府・防衛省)は傍観している
⇒兵器システムの進化競争は敗戦を共有してから計画しても間に合わない、という反省が
先の大戦でなされたはずなのに・・・
⇒近未来の無慚な破滅を回避するため武器政策のセンスが磨かれる書籍がもっと書かれるべき
・・・・・
さてさて・・・
