2026年06月23日
自転車で勝てた戦争があった
ええ、前回記事つーか前々回記事の続きつーか・・・

自転車で勝てた戦争があった~サイクルアーミーと新軍事モビリティー~
とゆー本のご紹介であります
表紙カバー裏にあった惹句

先の大戦での戦没日本兵165万人のうち37%(約61万人)が「広義の餓死者」とあり、
「押して歩く自転車」があれば、餓死者数をゼロにできた可能性が・・・とありますが、
他にも実際の戦場における様々な自転車の活用例が紹介されてました
著者略歴

そう、前々回記事で紹介した本と同じ著者の本です
奥付

目次




以下、序にあった各章の紹介を中心にしたメモです(⇒は各章からのメモ)
てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします
第1章では、まず諸作戦の中で失敗の代表とされる「インパール作戦」から
・インパール作戦(1944年3月~7月)には約10万人が動員され、うち戦没者は約3万人
⇒フィリピン防衛作戦10ヶ月での戦没者43万人には及ばないが約3万人の8割が餓死者だった
⇒糧食補給を軽視した点で特に無謀・愚劣な作戦と言われている
⇒ビルマ(現在のミャンマー)とインド東部(現在のバングラデシュ)を隔てるアラカン山脈は、
その東西で民族が異なる(インド人とビルマ人)ほどの難所で牛馬での物資輸送も困難だった
⇒英軍はインド植民地を防衛するには、この難所を越えてくる日本軍を西側で迎え撃つのが
合理的だと過去の歴史(攻め入った側が必ず負けている)からも理解していた
⇒事実そうなったのだが・・・
・当時でも日本の占領地から数千~数万台の自転車は搔き集められたはず
⇒基本「乗用」は考えないので金属リムさえしっかりしてたらいい
⇒コメ80kgを積載しても二人がかりで押し引きすれば急坂も通過できたはず(実験済み)
⇒これで前線への物資補給、後方への重傷者搬送を行っていたら・・・
・自転車が大発明なのは「前後二輪タンデムで地上障害があっても横転しない」こと
(四輪や左右二輪では通過できない道も通過でき歩行と同じ斜面トラバースも可能)
(さらに牛馬や自動車と異なり飼料や燃料とその中継点が不要)
⇒コンゴ民主共和国のチュクードゥー、ベトミン・ベトコンのプッシュバイク・・・
・戦前日本の農村社会は弥生時代以来の「重力灌漑式水稲作」に根ざした秩序感
⇒同じ灌漑水系の運命共同体では所属する集団の強い空気束縛がある
⇒明治以降の都市部でも軍隊など何らかの組織に属せば同様の同調圧を承知していた
⇒なので兵隊集団はどんな無理難題でも命令通り動いた
⇒ところが物資は物理法則でしか動かない
(なのでインパールでもニューギニアでもガダルカナルでも餓死者が続出した)
第2章では日露戦争(1904~05)で自転車を使わなかったことについての考察
・軍隊が自転車を本格的に使用したのは第二次ボーア戦争(1899~1902)から
⇒1885年に後輪チェーン駆動・中空鋼管ダイヤモンド型フレーム・ボールベアリングといった
安全型自転車ローバーが考案され英国BSA(バーミンガム・スモール・アームズ)社が大量生産
(中空鋼管などの技術で有利だったので各国とも銃器メーカーが自転車製造に参入した)
⇒1890年代は西洋市民にモビリティ革命が起きつつあった⇒当然軍事革命にも
(道さえあれば一日の行動範囲が徒歩20マイルから自転車100マイルへ)
・南アフリカの乾燥した土地では騎馬部隊より自転車部隊が有利だった
⇒馬には睡眠と餌と水が必要だが自転車は注油と空気ポンプだけ⇒噛まないし蹴らない
⇒大規模な騎兵部隊は池や川の近くしかパドックを設営できず乾燥地では位置が推定できる
⇒草原で騎兵は数マイル先から見えるが自転車兵は見えず馬は倒せないが自転車は倒せる
(当時の生ゴムチューブは棘でよくパンクしボーア軍コマンドーはレザー補強していたが、
英国軍は自転車使用をあきらめた⇒ただし棘では馬も動けなくなる)
・自転車は騎兵ではなく駄馬輜重隊や乗馬歩兵(ドラグーン)の有力な代替候補だったが、
1909年以降は全ての国が「自動車(四輪・二輪・装甲車・戦車)」に傾いていった
⇒後進工業国で石油輸入国だった日本の陸軍も同じ道を選んでしまった
(日露戦争の勝利で南満州鉄道も手に入り港湾との接続も可能になったと過信した?)
第3章では自転車の進化、製造制限と「マレー電撃戦」銀輪部隊の例外的な成功について
・西南戦争は輸送戦争
⇒官軍は兵員と弾薬を汽船で九州の海岸へ、兵員は徒歩で弾薬は人力車で最前線へ
⇒田原坂を迂回しなかったのは人力車(左右2輪)輸送できる唯一の道だったから
・ようやく大正11年に荷物運搬用リヤカーが市販された
⇒大正4年に10万台登録されていた人力車が昭和元年には5万台に
⇒無動力の荷車や自転車の普及が遅いのは江戸時代からの悪税のせいで昭和33年まで続いた
・マレー電撃戦前夜
⇒1940年5月にドイツがオランダ本国を占領⇒蘭領インドシナ(インドネシア)が宗主空白に
(それ以前にフランスがビシー政権になっており仏領インドシナ(ベトナム)北部には進駐済み)
⇒英国はまだドイツに屈していないが時間の問題と思われていた
⇒いずれ英領マレー半島やボルネオ島サバ・ブルネイ・サラワクも宗主空白になるはず
⇒日本がスマトラ島やボルネオ島の油田地帯を占領するには、当時の陸軍戦闘機「隼」の
航続距離からシンガポールの占領が必要
⇒シンガポール攻略のためにはインドシナ半島の南端部に航空基地が必要
⇒1941年7月に仏領インドシナ(ベトナム)南部にも進駐した
⇒植民地支配していた米英が日本に経済制裁を発動⇒開戦へ
・マレー電撃戦
⇒インドシナ半島南端部の航空基地からエアカバーできるタイ南部に上陸してシンガポールへ
⇒この1000kmを自動車と自転車だけで急進撃する研究と実験から可能と判断した
⇒第5第18の両師団に自動車各500台と自転車各6000台が装備された
⇒マレー半島には舗装された縦貫道があり道路から幅1kmはゴム園で部隊も入れるが、
その奥は移動も自活も不可能なジャングルで逃げた敵もやがて投降してきた
⇒55日間で1100km、1日平均20km、毎日2回ずつ敵と交戦、毎日4~5ヶ所の橋を修理
(自転車が官給品ではなく現地調達品だったので部品取りや使い捨てが自由にできた)
⇒電撃戦として成功した事例だったが以後の作戦には活かされなかった
第4章では「ニューギニア島ポートモレスビー攻略戦」と「ガダルカナル島攻防戦」から
・ニューギニア島北岸のブナからオーエンスタンレー山脈を越え南岸のポートモレスビーへ
⇒オーストラリアのブリスベンと東京との中間地点が日本の委任統治領だったトラック環礁
⇒トラック島の艦隊泊地を空襲から守るため1200km南方のニューブリテン島ラバウルを占領
⇒拡張中のポートモレスビー航空基地がラバウルから800km圏内だったので攻撃へ
⇒上陸からの直線距離は170kmだが実際には360km以上あり山脈の最高峰は4100m
⇒物資を運べず食糧も弾薬も尽きて6000人中4500人が死亡
⇒最終的に東部ニューギニアでは15~16万人のうち128000人が戦没、その殆どが餓死
・ガダルカナル島攻防戦
⇒ラバウルから1100km圏の航空基地適地がガダルカナル島だった
⇒B-17ならガダルカナル島からラバウルを爆撃可能で新型エセックス級空母が就航すれば
トラックの艦隊泊地も攻撃可能に
⇒日本はすでに正規空母4隻を喪失しており基地航空隊が頼りだった
⇒どちらにもガダルカナル島は航空基地として重要拠点だった
⇒1942年7月16日から日本の設営隊が飛行場設営開始
⇒8月7日には米海兵隊が航空支援を受け上陸占領、以後は激しい攻防戦に
⇒日本軍は夜間に潜水艦で揚陸した物資さえ海岸から運び出せず砲撃で焼失していた
(兵隊は歩けるが物資は⇒自転車(プッシュバイク)さえあれば・・・)
⇒上陸した総人員は31400人、うち死者は20800人だが純然たる戦死者は5~6000人で、
残りは栄養失調による病死と総括されている(米軍の戦死者は1000人で負傷は4245人)
第5章では1950~60年代のベトナム軍のプッシュバイクの成功原因から
・ディエンビエンフーの大勝利
⇒連合国はベトナム民主共和国の独立を認めず1946年に統治権をフランスに戻した
⇒1950年に中国とソ連が国家承認してベドミン軍に物資援助をはじめた
⇒1953年までに仏軍19万人のうち74000人が死傷していた
⇒仏軍はハノイ北のディエンビエンフー盆地に高台要塞を築き中国からの補給路を分断すれば
ベドミン軍は正面攻撃せざるを得ないので、集中したところを空軍で全滅させる作戦へ
(ベドミンが物資を集中させるのに幹線道路を使えば制空権がある空軍で攻撃できる前提)
・ボー・グエン・ザップは1台の自転車に物資を200kg以上吊るして、夜間にジャングルの
細道を進ませ、必要な物資を途切れなく最前線へ送り続けた
⇒仏軍は1953年3月13日の攻撃開始から5月7日に8000人が投降するまでに3000人が戦死した
・仏軍も毎日120トンの物資が空から投下されていたが、火力はベドミン軍の1/4だった
⇒この戦いで、その後にインドシナからフランスが出ていく流れも確定した
・当時ベトナムにありふれていたのはプジョーの乗用自転車
⇒基本はサドルを除去し坂道を肩で押す材木をシートポストに差し、左側のハンドルバーに
延長クロスバーを縛り付けて、左手で左右に大きく張り出した荷物のバランスをとった
(現ベトナム陸軍には最初から左ハンドルバーが長い輸送用自転車がある)
⇒さらに前輪フォークやリムを木材や鉄筋で強化して200kgを標準積載量とした
・第2次インドシナ戦争が「ベトナム戦争」
⇒1963年には米軍の「アドバイザー」12000人が南ベトナムに駐留していた
⇒それから6年間で最大50万人の米兵が投入されている
⇒ジャングル内の「ホーチミン・トレイル(日本のマスコミではルート)」が補給幹線に
⇒1965年以降はトラック輸送に変貌するがトラック困難地には引き続き自転車だった
⇒トラックにはヘリ攻撃が有効だったが道沿いに高射機関砲が配備されるとB-52爆撃へ
⇒空爆損耗は2%程度だったが自転車要員の1~2割は病気・疲労・野獣により死亡している
(必携品は防蚊ネットとビニールシート、廃タイヤから作ったホーチミン・サンダル・・・)
⇒一説ではベトコンは最盛期に20万人以上の自転車輜重兵を駆使していた
⇒1969年から日本製オートバイが東南アジアに大量に輸出された
⇒1970年以降はベトコンもオートバイを活用できるようになった
⇒自転車全盛期を終わらせたのは米軍ではなくホンダのカブだった・・・
第6章ではドイツ軍・イタリア軍・スイス軍の過去の自転車活用例を紹介
⇒そこから日本の国家非常事態と自転車との関係を展望する
・18世紀に登場した蒸気鉄道と自転車は大衆のモビリティを一変させた
⇒どちらも「中間デポ」なしで移動できて、すぐに修理できる移動機械
⇒砂漠のノマドが使っていたヒトコブラクダと同じ
⇒いずれもモータリゼーションが駆逐した
・軍の自動車化・機甲化は軍の移動を不自由にした
⇒自国内か植民地に油田と製油所がある国のみが耐えられるが、独ソ戦ではロシアでさえ
中間デポへの負担が大きく米軍の後方支援を必要とした
⇒自転車は中間デポなしで武器弾薬糧食とともに移動して、そのまま戦える
⇒鉄道も補給支援車両を呼べるので爆撃されても中間デポなしで修理できた
⇒中世イスラム軍もヒトコブラクダがあったので荷車も中間デポもなかった
⇒13世紀モンゴル軍も糧食である羊を自走させ後方兵站を省略できた
⇒「持たざる国」が自動車化したことが現代の罠だった
・ドイツ軍
⇒ヒトラーは大衆に自動車を持たせることで失業率も下げ人気を確定した
⇒それまでの蒸気機関車・馬車・自転車から自動車に変えることは大きなリスクだったが、
階級社会の解消にもモビリティ革命は必要で、軍も自動車化・機甲化したが、
⇒1939年ポーランド侵攻の直後から、すでにベルリンではガソリンが逼迫していた
(西部戦では侵攻先でガソリンスタンドを押収していたが独ソ戦では本国からで持続不可能に)
⇒1940年のオランダ占領で数百万台の自転車を押収した(1944年には全て消耗している)
⇒1941年のバルバロッサ作戦では数十万台の自転車を移動させ装甲師団の後を走らせた
・イタリア軍
⇒1890年代から自転車化歩兵を配置
⇒1912年には北アフリカでトルコと戦うためビアンキ社に6000台を発注(1912型)
⇒派手な帽子でスポーティな自転車部隊は国民に人気だった
⇒1912型はフロントフォークのバネや高い位置のクランク軸など現代マウンテンバイクの先祖
・スイス軍
⇒国内に山岳道路が発達しているが自動車燃料は100%輸入で備蓄が切れる危険もあり、
道路も自然災害や侵略などで車両通行困難になる可能性もある
⇒自転車なら斜面トラバースも担ぐことも修理も個人でできる
⇒自転車連隊専用のMO-05は1989年までに68000台が製造された
(戦後マイナーチェンジしたがシングルスピードのままで2種類のギア付きに)
⇒これに75kgの装備を積んで一晩で200km移動する訓練をしていた
(国際競技にエントリーできるレベルの身体能力を持つエリートばかりだった)
⇒1993年にシマノ製7段変速ギアの付いたMO-93にフルモデルチェンジした
⇒冷戦終了後は若者の身体機能が落ちたこともあり2003年に自転車連隊を廃止した
⇒ただし自転車装備は2012年にアルミフレーム・シマノ遊星ギアのMO-12に更新している
⇒車体が軽くなりギアが高性能化したことにより、現代の若者でも32kgの装備で山岳機動が
できるようになっている
⇒2014年のロシア軍クリミア侵攻により、2015年には自転車連隊の復活を公表した
・農林水産省は戦乱やパンデミックで輸入が急減するなどで1人1日1900kcalを割り込んだ場合、
農家にイモ類を強制作付させて燃料も重点的に配分しよう考えている(別の著書あり)
⇒出荷地から需要地(都市部)の消費者へどうやって運ぶのか
⇒平時なら耕地や加工場からトラックで都市や近郊の商店へ、消費者は自家用車で商店へ
⇒燃料が尽きればイモ類もそれを加熱する薪や柴も里山から運べない
⇒本書で紹介したプッシュバイク・リヤカー・チュクードゥーを最大限活用するしかない
(実際に難民キャンプではチュクードゥーが焚き木を配っている)
・江戸時代に自転車はなく先の大戦前後には車両登録税や鉄材統制で国民はフルに自転車を
輸送に用いる機会を与えられなかった
⇒自転車(輸送)により、どのぐらいの人口を地産地消で支え得るのか・・・
⇒じつは誰も知らない・・・
「あとがきにかえて」より
・陸上自衛隊が2024年1月1日の能登地震までプッシュバイクを知らなかったとしても
(実際に孤立した被災地に徒歩で物資を届けていた)、明治の八甲田山でノルディックスキーを
知らなかった青森歩兵連隊が、今では山スキーとフィンランド式の橇で迅速移動しているのと
同じように、1950年代からある「プッシュバイク」について今からでも学ぶことは可能
・人手不足がさらに深刻化する自衛隊では自転車の全面的な導入を考えるべき
⇒乗用機動と押して歩く輸送との両方の実験研究を進める必要がある
⇒体力検定も40歳以上は自転車可とか予備自衛官の補助老兵は手押し自転車とかも
・我が国が万一戦場となれば避難民が道路をうずめ大きな車両は移動困難に
⇒プッシュバイクなら移動可能で一人の押し手が一人の重患者を運び出して救出できる
⇒これができなかったビルマ・東部ニューギニア・ガダルカナル・比島で戦友をジャングルに
置き去りにするしかなくなり数十万人を見殺しにしたが、それらは自転車の準備さえあれば
回避できたカタストロフだった
・・・
はてさて・・・

自転車で勝てた戦争があった~サイクルアーミーと新軍事モビリティー~
とゆー本のご紹介であります
表紙カバー裏にあった惹句

先の大戦での戦没日本兵165万人のうち37%(約61万人)が「広義の餓死者」とあり、
「押して歩く自転車」があれば、餓死者数をゼロにできた可能性が・・・とありますが、
他にも実際の戦場における様々な自転車の活用例が紹介されてました
著者略歴

そう、前々回記事で紹介した本と同じ著者の本です
奥付

目次




以下、序にあった各章の紹介を中心にしたメモです(⇒は各章からのメモ)
てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします
第1章では、まず諸作戦の中で失敗の代表とされる「インパール作戦」から
・インパール作戦(1944年3月~7月)には約10万人が動員され、うち戦没者は約3万人
⇒フィリピン防衛作戦10ヶ月での戦没者43万人には及ばないが約3万人の8割が餓死者だった
⇒糧食補給を軽視した点で特に無謀・愚劣な作戦と言われている
⇒ビルマ(現在のミャンマー)とインド東部(現在のバングラデシュ)を隔てるアラカン山脈は、
その東西で民族が異なる(インド人とビルマ人)ほどの難所で牛馬での物資輸送も困難だった
⇒英軍はインド植民地を防衛するには、この難所を越えてくる日本軍を西側で迎え撃つのが
合理的だと過去の歴史(攻め入った側が必ず負けている)からも理解していた
⇒事実そうなったのだが・・・
・当時でも日本の占領地から数千~数万台の自転車は搔き集められたはず
⇒基本「乗用」は考えないので金属リムさえしっかりしてたらいい
⇒コメ80kgを積載しても二人がかりで押し引きすれば急坂も通過できたはず(実験済み)
⇒これで前線への物資補給、後方への重傷者搬送を行っていたら・・・
・自転車が大発明なのは「前後二輪タンデムで地上障害があっても横転しない」こと
(四輪や左右二輪では通過できない道も通過でき歩行と同じ斜面トラバースも可能)
(さらに牛馬や自動車と異なり飼料や燃料とその中継点が不要)
⇒コンゴ民主共和国のチュクードゥー、ベトミン・ベトコンのプッシュバイク・・・
・戦前日本の農村社会は弥生時代以来の「重力灌漑式水稲作」に根ざした秩序感
⇒同じ灌漑水系の運命共同体では所属する集団の強い空気束縛がある
⇒明治以降の都市部でも軍隊など何らかの組織に属せば同様の同調圧を承知していた
⇒なので兵隊集団はどんな無理難題でも命令通り動いた
⇒ところが物資は物理法則でしか動かない
(なのでインパールでもニューギニアでもガダルカナルでも餓死者が続出した)
第2章では日露戦争(1904~05)で自転車を使わなかったことについての考察
・軍隊が自転車を本格的に使用したのは第二次ボーア戦争(1899~1902)から
⇒1885年に後輪チェーン駆動・中空鋼管ダイヤモンド型フレーム・ボールベアリングといった
安全型自転車ローバーが考案され英国BSA(バーミンガム・スモール・アームズ)社が大量生産
(中空鋼管などの技術で有利だったので各国とも銃器メーカーが自転車製造に参入した)
⇒1890年代は西洋市民にモビリティ革命が起きつつあった⇒当然軍事革命にも
(道さえあれば一日の行動範囲が徒歩20マイルから自転車100マイルへ)
・南アフリカの乾燥した土地では騎馬部隊より自転車部隊が有利だった
⇒馬には睡眠と餌と水が必要だが自転車は注油と空気ポンプだけ⇒噛まないし蹴らない

⇒大規模な騎兵部隊は池や川の近くしかパドックを設営できず乾燥地では位置が推定できる
⇒草原で騎兵は数マイル先から見えるが自転車兵は見えず馬は倒せないが自転車は倒せる
(当時の生ゴムチューブは棘でよくパンクしボーア軍コマンドーはレザー補強していたが、
英国軍は自転車使用をあきらめた⇒ただし棘では馬も動けなくなる)
・自転車は騎兵ではなく駄馬輜重隊や乗馬歩兵(ドラグーン)の有力な代替候補だったが、
1909年以降は全ての国が「自動車(四輪・二輪・装甲車・戦車)」に傾いていった
⇒後進工業国で石油輸入国だった日本の陸軍も同じ道を選んでしまった
(日露戦争の勝利で南満州鉄道も手に入り港湾との接続も可能になったと過信した?)
第3章では自転車の進化、製造制限と「マレー電撃戦」銀輪部隊の例外的な成功について
・西南戦争は輸送戦争
⇒官軍は兵員と弾薬を汽船で九州の海岸へ、兵員は徒歩で弾薬は人力車で最前線へ
⇒田原坂を迂回しなかったのは人力車(左右2輪)輸送できる唯一の道だったから
・ようやく大正11年に荷物運搬用リヤカーが市販された
⇒大正4年に10万台登録されていた人力車が昭和元年には5万台に
⇒無動力の荷車や自転車の普及が遅いのは江戸時代からの悪税のせいで昭和33年まで続いた
・マレー電撃戦前夜
⇒1940年5月にドイツがオランダ本国を占領⇒蘭領インドシナ(インドネシア)が宗主空白に
(それ以前にフランスがビシー政権になっており仏領インドシナ(ベトナム)北部には進駐済み)
⇒英国はまだドイツに屈していないが時間の問題と思われていた
⇒いずれ英領マレー半島やボルネオ島サバ・ブルネイ・サラワクも宗主空白になるはず
⇒日本がスマトラ島やボルネオ島の油田地帯を占領するには、当時の陸軍戦闘機「隼」の
航続距離からシンガポールの占領が必要
⇒シンガポール攻略のためにはインドシナ半島の南端部に航空基地が必要
⇒1941年7月に仏領インドシナ(ベトナム)南部にも進駐した
⇒植民地支配していた米英が日本に経済制裁を発動⇒開戦へ
・マレー電撃戦
⇒インドシナ半島南端部の航空基地からエアカバーできるタイ南部に上陸してシンガポールへ
⇒この1000kmを自動車と自転車だけで急進撃する研究と実験から可能と判断した
⇒第5第18の両師団に自動車各500台と自転車各6000台が装備された
⇒マレー半島には舗装された縦貫道があり道路から幅1kmはゴム園で部隊も入れるが、
その奥は移動も自活も不可能なジャングルで逃げた敵もやがて投降してきた
⇒55日間で1100km、1日平均20km、毎日2回ずつ敵と交戦、毎日4~5ヶ所の橋を修理
(自転車が官給品ではなく現地調達品だったので部品取りや使い捨てが自由にできた)
⇒電撃戦として成功した事例だったが以後の作戦には活かされなかった
第4章では「ニューギニア島ポートモレスビー攻略戦」と「ガダルカナル島攻防戦」から
・ニューギニア島北岸のブナからオーエンスタンレー山脈を越え南岸のポートモレスビーへ
⇒オーストラリアのブリスベンと東京との中間地点が日本の委任統治領だったトラック環礁
⇒トラック島の艦隊泊地を空襲から守るため1200km南方のニューブリテン島ラバウルを占領
⇒拡張中のポートモレスビー航空基地がラバウルから800km圏内だったので攻撃へ
⇒上陸からの直線距離は170kmだが実際には360km以上あり山脈の最高峰は4100m
⇒物資を運べず食糧も弾薬も尽きて6000人中4500人が死亡
⇒最終的に東部ニューギニアでは15~16万人のうち128000人が戦没、その殆どが餓死
・ガダルカナル島攻防戦
⇒ラバウルから1100km圏の航空基地適地がガダルカナル島だった
⇒B-17ならガダルカナル島からラバウルを爆撃可能で新型エセックス級空母が就航すれば
トラックの艦隊泊地も攻撃可能に
⇒日本はすでに正規空母4隻を喪失しており基地航空隊が頼りだった
⇒どちらにもガダルカナル島は航空基地として重要拠点だった
⇒1942年7月16日から日本の設営隊が飛行場設営開始
⇒8月7日には米海兵隊が航空支援を受け上陸占領、以後は激しい攻防戦に
⇒日本軍は夜間に潜水艦で揚陸した物資さえ海岸から運び出せず砲撃で焼失していた
(兵隊は歩けるが物資は⇒自転車(プッシュバイク)さえあれば・・・)
⇒上陸した総人員は31400人、うち死者は20800人だが純然たる戦死者は5~6000人で、
残りは栄養失調による病死と総括されている(米軍の戦死者は1000人で負傷は4245人)
第5章では1950~60年代のベトナム軍のプッシュバイクの成功原因から
・ディエンビエンフーの大勝利
⇒連合国はベトナム民主共和国の独立を認めず1946年に統治権をフランスに戻した
⇒1950年に中国とソ連が国家承認してベドミン軍に物資援助をはじめた
⇒1953年までに仏軍19万人のうち74000人が死傷していた
⇒仏軍はハノイ北のディエンビエンフー盆地に高台要塞を築き中国からの補給路を分断すれば
ベドミン軍は正面攻撃せざるを得ないので、集中したところを空軍で全滅させる作戦へ
(ベドミンが物資を集中させるのに幹線道路を使えば制空権がある空軍で攻撃できる前提)
・ボー・グエン・ザップは1台の自転車に物資を200kg以上吊るして、夜間にジャングルの
細道を進ませ、必要な物資を途切れなく最前線へ送り続けた
⇒仏軍は1953年3月13日の攻撃開始から5月7日に8000人が投降するまでに3000人が戦死した
・仏軍も毎日120トンの物資が空から投下されていたが、火力はベドミン軍の1/4だった
⇒この戦いで、その後にインドシナからフランスが出ていく流れも確定した
・当時ベトナムにありふれていたのはプジョーの乗用自転車
⇒基本はサドルを除去し坂道を肩で押す材木をシートポストに差し、左側のハンドルバーに
延長クロスバーを縛り付けて、左手で左右に大きく張り出した荷物のバランスをとった
(現ベトナム陸軍には最初から左ハンドルバーが長い輸送用自転車がある)
⇒さらに前輪フォークやリムを木材や鉄筋で強化して200kgを標準積載量とした
・第2次インドシナ戦争が「ベトナム戦争」
⇒1963年には米軍の「アドバイザー」12000人が南ベトナムに駐留していた
⇒それから6年間で最大50万人の米兵が投入されている
⇒ジャングル内の「ホーチミン・トレイル(日本のマスコミではルート)」が補給幹線に
⇒1965年以降はトラック輸送に変貌するがトラック困難地には引き続き自転車だった
⇒トラックにはヘリ攻撃が有効だったが道沿いに高射機関砲が配備されるとB-52爆撃へ
⇒空爆損耗は2%程度だったが自転車要員の1~2割は病気・疲労・野獣により死亡している
(必携品は防蚊ネットとビニールシート、廃タイヤから作ったホーチミン・サンダル・・・)
⇒一説ではベトコンは最盛期に20万人以上の自転車輜重兵を駆使していた
⇒1969年から日本製オートバイが東南アジアに大量に輸出された
⇒1970年以降はベトコンもオートバイを活用できるようになった
⇒自転車全盛期を終わらせたのは米軍ではなくホンダのカブだった・・・
第6章ではドイツ軍・イタリア軍・スイス軍の過去の自転車活用例を紹介
⇒そこから日本の国家非常事態と自転車との関係を展望する
・18世紀に登場した蒸気鉄道と自転車は大衆のモビリティを一変させた
⇒どちらも「中間デポ」なしで移動できて、すぐに修理できる移動機械
⇒砂漠のノマドが使っていたヒトコブラクダと同じ
⇒いずれもモータリゼーションが駆逐した
・軍の自動車化・機甲化は軍の移動を不自由にした
⇒自国内か植民地に油田と製油所がある国のみが耐えられるが、独ソ戦ではロシアでさえ
中間デポへの負担が大きく米軍の後方支援を必要とした
⇒自転車は中間デポなしで武器弾薬糧食とともに移動して、そのまま戦える
⇒鉄道も補給支援車両を呼べるので爆撃されても中間デポなしで修理できた
⇒中世イスラム軍もヒトコブラクダがあったので荷車も中間デポもなかった
⇒13世紀モンゴル軍も糧食である羊を自走させ後方兵站を省略できた
⇒「持たざる国」が自動車化したことが現代の罠だった
・ドイツ軍
⇒ヒトラーは大衆に自動車を持たせることで失業率も下げ人気を確定した
⇒それまでの蒸気機関車・馬車・自転車から自動車に変えることは大きなリスクだったが、
階級社会の解消にもモビリティ革命は必要で、軍も自動車化・機甲化したが、
⇒1939年ポーランド侵攻の直後から、すでにベルリンではガソリンが逼迫していた
(西部戦では侵攻先でガソリンスタンドを押収していたが独ソ戦では本国からで持続不可能に)
⇒1940年のオランダ占領で数百万台の自転車を押収した(1944年には全て消耗している)
⇒1941年のバルバロッサ作戦では数十万台の自転車を移動させ装甲師団の後を走らせた
・イタリア軍
⇒1890年代から自転車化歩兵を配置
⇒1912年には北アフリカでトルコと戦うためビアンキ社に6000台を発注(1912型)
⇒派手な帽子でスポーティな自転車部隊は国民に人気だった
⇒1912型はフロントフォークのバネや高い位置のクランク軸など現代マウンテンバイクの先祖
・スイス軍
⇒国内に山岳道路が発達しているが自動車燃料は100%輸入で備蓄が切れる危険もあり、
道路も自然災害や侵略などで車両通行困難になる可能性もある
⇒自転車なら斜面トラバースも担ぐことも修理も個人でできる
⇒自転車連隊専用のMO-05は1989年までに68000台が製造された
(戦後マイナーチェンジしたがシングルスピードのままで2種類のギア付きに)
⇒これに75kgの装備を積んで一晩で200km移動する訓練をしていた
(国際競技にエントリーできるレベルの身体能力を持つエリートばかりだった)
⇒1993年にシマノ製7段変速ギアの付いたMO-93にフルモデルチェンジした
⇒冷戦終了後は若者の身体機能が落ちたこともあり2003年に自転車連隊を廃止した
⇒ただし自転車装備は2012年にアルミフレーム・シマノ遊星ギアのMO-12に更新している
⇒車体が軽くなりギアが高性能化したことにより、現代の若者でも32kgの装備で山岳機動が
できるようになっている
⇒2014年のロシア軍クリミア侵攻により、2015年には自転車連隊の復活を公表した
・農林水産省は戦乱やパンデミックで輸入が急減するなどで1人1日1900kcalを割り込んだ場合、
農家にイモ類を強制作付させて燃料も重点的に配分しよう考えている(別の著書あり)
⇒出荷地から需要地(都市部)の消費者へどうやって運ぶのか
⇒平時なら耕地や加工場からトラックで都市や近郊の商店へ、消費者は自家用車で商店へ
⇒燃料が尽きればイモ類もそれを加熱する薪や柴も里山から運べない
⇒本書で紹介したプッシュバイク・リヤカー・チュクードゥーを最大限活用するしかない
(実際に難民キャンプではチュクードゥーが焚き木を配っている)
・江戸時代に自転車はなく先の大戦前後には車両登録税や鉄材統制で国民はフルに自転車を
輸送に用いる機会を与えられなかった
⇒自転車(輸送)により、どのぐらいの人口を地産地消で支え得るのか・・・
⇒じつは誰も知らない・・・
「あとがきにかえて」より
・陸上自衛隊が2024年1月1日の能登地震までプッシュバイクを知らなかったとしても
(実際に孤立した被災地に徒歩で物資を届けていた)、明治の八甲田山でノルディックスキーを
知らなかった青森歩兵連隊が、今では山スキーとフィンランド式の橇で迅速移動しているのと
同じように、1950年代からある「プッシュバイク」について今からでも学ぶことは可能
・人手不足がさらに深刻化する自衛隊では自転車の全面的な導入を考えるべき
⇒乗用機動と押して歩く輸送との両方の実験研究を進める必要がある
⇒体力検定も40歳以上は自転車可とか予備自衛官の補助老兵は手押し自転車とかも
・我が国が万一戦場となれば避難民が道路をうずめ大きな車両は移動困難に
⇒プッシュバイクなら移動可能で一人の押し手が一人の重患者を運び出して救出できる
⇒これができなかったビルマ・東部ニューギニア・ガダルカナル・比島で戦友をジャングルに
置き去りにするしかなくなり数十万人を見殺しにしたが、それらは自転車の準備さえあれば
回避できたカタストロフだった
・・・
はてさて・・・
