2026年08月31日
ウイスキーと私
とーとつですが・・・


竹鶴政孝著「ウイスキーと私」であります

そう、日本経済新聞「私の履歴書」への連載をニッカが小冊子にまとめたもので、

昭和47年発行の非売品・・・
たまたま読んだのですが、じつに味わい深い内容でした
目次


以下、本文からの一部メモです
(非売品ですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
まずはスコッチウイスキーについての本人による解説から・・・
・ウイスキーが琥珀色でピートの焦げ臭い香りの付いた酒になったのは300年前とか
400年前とかといわれているほどで、酒の中では比較的に新しい
⇒しかも産業革命の1830年頃まではスコットランドの一部を除き殆ど飲まれてなかった
・その頃のモルトウイスキーはハイランド地方でポットスチルを使って蒸留した原酒を
樽に入れて熟成させたもので香りや味はよかったが重くて万人向きではなかった
・ワットが蒸気機関を改良し1830年には蒸気を利用するカフェ式連続蒸留器が完成した
⇒2回の蒸留で少量しかできないモルトに代わり1回の蒸留で大量にできるグレーンの工場が
1830年から1860年の間にローランド地方に乱立し、たちまち生産過剰になった
・1860年頃にハイランド・モルトとグレーン・ウイスキーをブレンドしたのがアッシャ商会
⇒カフェ・グレーンがモルトの長所をのばし欠点であった重さや荒さをやわらげた
⇒これが今のスコッチ製法で飲みやすくなり全イギリスから世界に愛好されるようになった
⇒なので今のブレンデッド・ウイスキーには100年の歴史しかない
(50年前の本なので今なら150年の歴史ですね)
で、英国留学のきっかけ
・長兄はシンガポールでゴムの栽培、次兄は北海道炭鉱汽船に就職し北海道へ、
⇒なので家業の酒蔵を継ぐため(学問的興味もあり)大阪高等工業(今の大阪大学)醸造科へ
(大正2年当時に醸造学を修める学校はここしかなかった)
⇒大正5年4月に卒業して実家に帰り12月に1年志願で兵隊に行ってから家業を継ぐコース
⇒洋酒に興味があったので、この間だけでも洋酒づくりをやりたいと思った
・当時の洋酒メーカーの第一人者は大阪の住吉にあった摂津酒造
⇒学校の試験が終わり大江橋から電車に乗って醸造科大先輩の岩井常務に頼みに行った
⇒阿部社長の部屋に連れていかれ、すべてを話すと「明日からでも出社しなさい」となった
⇒小西儀助商店や鳥井さんの寿屋などが得意先で洋酒の中身は摂津酒造が製造していた
・12月の大阪での徴兵検査では検査官の中尉が最後に甲種合格のハンコを押す直前に、
私が摂津酒造のアルコール技師であることを知り乙種になった
⇒アルコールは火薬製造に不可欠で軍需産業の一端と考えたのか軍縮の時代だったからか
⇒阿部社長は喜び、後日にスコットランド留学を打診され返事ができないほど感激した
⇒家業を継ぐと期待していた父母は大反対したが阿部社長の説得で家業は親類に譲ることに
⇒これで手筈が整い英国に出発することになった
⇒大正7年(1918)7月に神戸港から出港
(サンフランシスコからニューヨークまで大陸横断、Uボート攻撃を避けながらリバプールへ)
・当時の日本は第一次世界大戦による成金時代で洋酒がよく売れた
⇒大正7年~9年(1918~1920)は摂津酒造の黄金時代で私の留学費と日本に残った後輩たちの
賞与の額がほぼ同じになったほどの好景気だった
⇒戦後この後輩とひさしぶりに会った際に「同じ金額を、あなたはウイスキーの勉強に、
われわれは住𠮷公園の料亭につぎ込んだことになるなあ」と言ったので二人で大笑いした
(追記です)
そう、大正時代の住𠮷公園は大歓楽地だったんですよね
閑話休題・・・
で、肝心のスコットランドの部分は省略して・・・
・1921年11月に妻のリタと阿部社長の三人で横浜港に帰国した(4年ぶりの日本)
(リタとの結婚も父母に反対され阿部社長が説得、本人を確認の上で連れ帰る約束だった)
⇒新婚生活は大阪の帝塚山で家賃は55円、待遇は技師長で月給は150円だった
⇒戦後の大不況で社長も推していた私の本格ウイスキー計画が役員会で否認された
⇒イミテーションなら高給の私がいなくても作れるので辞表を出して浪人になった
⇒1922年から1923年の初めまでの数ヶ月は近所の桃山中学で化学の教師をした
(校長のローリング氏と妻のリタが親しく私の失業を心配してくださったため)
(ローリング氏は1933年に亡くなり阿倍野の外人墓地に埋葬されている)
⇒妻のリタも近所の帝塚山学院で英語を教え英語とピアノの個人教授も引き受けていた
・1923年の梅の季節に寿屋の鳥井社長が自宅に来られた⇒三顧の礼で
⇒本格的ウイスキーをやってみたいと三井物産を通じムーア博士の招請を交渉していたが
博士本人から日本にいい技師がいると言われ、とんできたとのことだった
⇒ウイスキー工場には北海道が適地とすすめたが「工場を見てもらえないような商品は
これからは大きくならない、大阪の近くで探してほしい」といわれた
(鳥井さんの商品を育てるカンと努力は先天的でこれも好例であろう)
⇒年俸4000円はスコットランド技師招請の見込み金額と同額だった
⇒雇用10年はウイスキーが商品として完成するまでの期間で1923年6月に寿屋に入社した
・調査して適地と判断した山崎の用地買収が終わったのは1923年10月で大震災の直後だった
(鳥井さんは震災後、直ちに船をチャーターして赤玉ポートワインやヘルメス・ウイスキーを
東京に運び、これが大いに売れて関東にも飛躍するステップとなった)
⇒起工式は1924年4月で設計や設備機械の発注など全て一人だったので忙しい日々が続いた
⇒ポット・スチルは大阪市西区の渡辺銅工所で何か月もかかり、運ぶのも船で淀川を遡上、
陸揚げしてからは馬で東海道線を越えるのが難関だった
⇒竣工式は1924年11月で費用は200万円かかった
⇒郷里の広島から日本酒の杜氏を十数人呼んで手を取るようにして教え込んだ
⇒機械の名前が英語でスムーズに出るようになって、やっと手つきも慣れてきた
⇒すべてが日本初だった
・1929年4月に初めての本格ウイスキー「白札サントリー」を世に出した
⇒発売価格は3円50銭
⇒ジョニーウォーカー赤が5円(今なら5万円ぐらいの商品?)の時代
⇒その後に普及品の「赤札サントリー」も出したがいずれも売れ行きも評判もよくなかった
(ブレンドしようにも新しいモルトしかなく体験的知識もなかった)
⇒売れなかったので原酒が残り、10年前後の年月を経て立派な原酒になった
・長期型のウイスキー部門と量産型のビール部門は分離すべきとの意見は採用されなかった
⇒両工場長を兼任していたがビール工場拡張工事の最中にビール部門の売渡が決定した
⇒独立を決意したのはその時で10年の約束は保留されていたが12年で円満に退社した
⇒鳥井さんなしには民間のウイスキーは育たなかったし私のウイスキー人生もなかった
・余市
⇒あらかじめ決めていたので資金を工面して1934年10月に工場を建てた
(リタは故郷のスコットランドに似ていると、とても喜んでくれた)
⇒すぐに売れるリンゴ・ジュースを作ったがラムネ・サイダー時代の嗜好に合わず苦戦した
⇒熟成を要するウイスキーづくりは1936年の秋から蒸留に入った
⇒つなぎ商品として1937年にアップルゼリー・グレープゼリー・アップルソースを出した
(翌年に出したアップルワインは今もニッカ製品のひとつ)
⇒1940年の秋にニッカウヰスキー第一号を発売した
⇒まだ原酒が若くブレンドも会心とはいえなかったが独立後初めての作品で感激した
⇒その後の統制時代には海軍の指定工場になり原酒の貯蔵量は増えていった
・戦後の混乱
⇒占領軍幹部からの理不尽な通達には「髭のオヤジ」が法律用語を交えて断固はねつけたが、
インフレで偽物も溢れ、せめてモルトを各イミテーション・メーカーに売ることにした
(イミテーションでも少量のモルトを混ぜるだけで味は格段によくなる)
⇒さらにブレンダーとしての良心に反して3級ウイスキーを作らざるを得なくなったと、
全従業員を広場に集めて苦衷をぶちまけたのは昭和25年の春
⇒税法の最高率まで原酒を入れて高く売ったのが、せめてもの私の抵抗だった
⇒売り上げは伸びたが「容量が少なく値段が高い」ことが競争上は不利だったのも事実
・昭和27年8月に大日本果汁からニッカウヰスキーに社名を変えた
⇒昭和30年11月には2000円のゴールドニッカ、翌年には1500円のブラックニッカを出した
⇒戦後第一回の洋酒ブームでトリス・ニッカ・オーシャンの軽バーが増えた
⇒当時の2級ウイスキーはウイスキーとは程遠いものだったが、その浸透が次のステップへ
⇒ウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと思っている
・昭和36年(1961)1月17日にリタが急逝し、しばらくショック状態が続いた
⇒昭和40年にリタの好きだった余市工場の見える小高い丘に墓を作った
⇒リタほど日本人になりきった外国人は少ないと思うし考え方も日本人的だった
⇒母親の遺産は長女なのに面倒を見なかったからと固く辞退していたし、叔母の遺産も
その一部で余市に幼稚園をつくり、それはリタ幼稚園として今も続いている
・当時目指していたのは2級でも古い原酒を入れたウイスキーと、グレーン・スピリッツを
使ったソフトなウイスキーだった
⇒グレーン・スピリッツの製造設備には多額の資金が必要だった
⇒「スコッチに負けないために」と朝日麦酒の山本為三郎社長が積極的に援助してくださり、
昭和37年にグレーン・スピリッツの西宮工場が完成した
⇒グレーンの熟成を待って出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカ
⇒どちらも許される上限の原酒とカフェ・グレーンのブレンド製品だった
⇒それまで特級でしかつくれなかった味が熟成カフェ・グレーンのおかげで1級でも旨いと
自負できるものが生まれた
・1000円ウイスキー戦争ともいわれたが各社が品質競争をして戦後第二のブームに
⇒昭和43年の税制改正でホワイトニッカを出したが改正は今後の品質アップに貢献するだろう
・余市モルトはハイランド・タイプで仙台モルトはローランド・タイプ
⇒「ローランド・モルトは荒々しいハイランド・モルトと中性のグレーン・ウイスキーとの
橋渡しをする」(イーニアス・マクドナルド)
⇒仙台モルトの一部は立派に使用できるまで成長してきた(昭和46年現在)
⇒ウイスキーのブレンドが完成するひとときは敬虔な祈りそのものであり、このブレンドは
ブレンダーとしての私の最終の仕上げになると思う・・・
・昭和44年(1969)イギリスのデイリーエキスプレス紙は「日本、スコッチ市場に侵入」という
大きな記事を掲載した
⇒これはニューヨーク駐在の記者たちがニューヨークタイムズ紙にのったニッカの広告を見て、
1本58シリング4ペンスのニッカ1本スコッチ2本の各最高級品3本を買って帰り、新聞社で
ブラインド(目かくし)テストをしてみた結果、これが日本製だろうと全員が指摘したのは
悲しいことにスコッチ最高の12年物であったと書かれていた
⇒さらに「英国が持っていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、次に日本は
英国の最も神聖な輸出商品スコッチに殴り込みをかけてきた」という警告記事だった
⇒スコットランドでウイスキーを勉強したのが50余年前、北海道余市に工場を作って30余年、
日本でウイスキーを作ることしか考えなかった私には痛快なニュースであった
・スコットランドのウイスキーづくりを持ち帰ったのでイギリスから嫌われているのでは、
との質問には「スコットランドでしかできなかったウイスキーを日本でつくり、今や日本も
スコッチの大きな市場になっているのだから女王は勲章をくれてもよい」と冗談をいった
⇒黄綬褒章、瑞宝章に続き1970年には北海道開発功労賞をいただいた
⇒北海道の風土があったからこそニッカが生まれニッカが育ったので恐縮している
⇒ウイスキーづくりを知れば知るほど風土そのものがウイスキーだと知った
・学問も技術も進歩を続けているのに半世紀前の勉強がそのまま役に立つのがウイスキーづくり
⇒熟成を早める科学はすべて失敗しており、今も自然と時間だけが解決者
⇒昔からスコットランドに伝わる製造法が、今もよいウイスキーへのただ一つの道
・ウイスキーの正しい飲み方
⇒私によくある質問で嗜好品なので一番旨いと思う方法で楽しめばよいと思っているが、
⇒毎日飲む人とたまにしか飲まない人で味わい方は違ってくる
⇒香りや味を味わうならストレートがいいが、これを毎日やれば胃を痛める
⇒こんな人には水割りがよくウイスキー1に井戸水2がいい
⇒これでアルコール分が12度から13度ぐらいになる
⇒適温はビールと同じ7~8℃
⇒以前はスコットランドでも炭酸割を飲む人が多かったが最近では水割りが多い
⇒炭酸割は胃を刺激するからか酔いが早くまわる
⇒楽しみながら時間をかけて飲むこと⇒食事も同じ
⇒楽しく飲める自分の量を計算して飲むこと
⇒オーバーすればどんなにいい酒でも悪酔いする
⇒私がウイスキー一途といってもビールもワインも日本酒も楽しむ
⇒今の流行語
でいうTPOで飲み分け、楽しむのが酒と思っている
・舌と鼻
⇒私は目の前でつくる料理しか食べないので宴会料理には手を付けない
⇒自分で食べるものは今でも自分で材料を買いに行く
⇒文化国家というものは嗜好を高めることにある
⇒いいもの悪いもの、新しいもの古いものを見分ける舌と鼻の持ち主になってもらいたい
⇒鼻の能力は先天的で舌の能力は後天的なものが多いようで舌は訓練次第
⇒ウイスキーの「のど越し」も鼻に通じるので鼻で鑑別するもの
⇒最盛期の30代で十数種類のスコッチ銘柄を飲み分けられたが英国滞在中には40種類ぐらいを
当てるエキスパートもおり、これは灘の日本酒でも同じで相当の鑑別ができるようになる
⇒主体性を持って見分けられることは人生を楽しむことに通じていると思う
・・・・・・・
冒頭に書いておられたのが周囲に機会を与えられたことでした
⇒二人の兄が家業を継ぐことを嫌がったから醸造学を修めたこと
(自分もウイスキーになり家業は親類が継ぐことになったが)
⇒摂津酒造の阿部社長の決意がなければスコットランド留学などあり得なかったこと
⇒グラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長や多くの協力がなければ
ウイスキーづくりを覚えられなかったのはもちろん、モルト工場にさえ入れなかったこと
⇒時代的にも日英同盟の背景がなかったら工場が実習を許可してくれてたかどうか
⇒寿屋の鳥井社長の洋酒の将来性への確信による山崎工場がなかったら日本はウイスキーが
できる国になっていたかどうか
⇒独立時の協力、カフェ・グレーンへの援助etc
⇒皆さんの協力が私をこの道一本に導いてくれた・・・
と、決して自慢話ではなく淡々としながらも温かみ溢れる内容で、ひさしぶりに爽やかな
気持ちになれた本でした
最後に備忘のため年表もメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)


(ご本人は1979年(昭和54年)に85歳で亡くなられてますが、ウィキによれば・・・
酒量はウイスキー1日1本。晩酌にはハイニッカを好み、おつまみとして醤油味の薄焼き煎餅と
供に楽しみながら飲んでいた。ただし、晩年には3日で2本に減らしたという。とのことでした
)


竹鶴政孝著「ウイスキーと私」であります

そう、日本経済新聞「私の履歴書」への連載をニッカが小冊子にまとめたもので、

昭和47年発行の非売品・・・
たまたま読んだのですが、じつに味わい深い内容でした
目次


以下、本文からの一部メモです
(非売品ですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
まずはスコッチウイスキーについての本人による解説から・・・
・ウイスキーが琥珀色でピートの焦げ臭い香りの付いた酒になったのは300年前とか
400年前とかといわれているほどで、酒の中では比較的に新しい
⇒しかも産業革命の1830年頃まではスコットランドの一部を除き殆ど飲まれてなかった
・その頃のモルトウイスキーはハイランド地方でポットスチルを使って蒸留した原酒を
樽に入れて熟成させたもので香りや味はよかったが重くて万人向きではなかった
・ワットが蒸気機関を改良し1830年には蒸気を利用するカフェ式連続蒸留器が完成した
⇒2回の蒸留で少量しかできないモルトに代わり1回の蒸留で大量にできるグレーンの工場が
1830年から1860年の間にローランド地方に乱立し、たちまち生産過剰になった
・1860年頃にハイランド・モルトとグレーン・ウイスキーをブレンドしたのがアッシャ商会
⇒カフェ・グレーンがモルトの長所をのばし欠点であった重さや荒さをやわらげた
⇒これが今のスコッチ製法で飲みやすくなり全イギリスから世界に愛好されるようになった
⇒なので今のブレンデッド・ウイスキーには100年の歴史しかない
(50年前の本なので今なら150年の歴史ですね)
で、英国留学のきっかけ
・長兄はシンガポールでゴムの栽培、次兄は北海道炭鉱汽船に就職し北海道へ、
⇒なので家業の酒蔵を継ぐため(学問的興味もあり)大阪高等工業(今の大阪大学)醸造科へ
(大正2年当時に醸造学を修める学校はここしかなかった)
⇒大正5年4月に卒業して実家に帰り12月に1年志願で兵隊に行ってから家業を継ぐコース
⇒洋酒に興味があったので、この間だけでも洋酒づくりをやりたいと思った
・当時の洋酒メーカーの第一人者は大阪の住吉にあった摂津酒造
⇒学校の試験が終わり大江橋から電車に乗って醸造科大先輩の岩井常務に頼みに行った
⇒阿部社長の部屋に連れていかれ、すべてを話すと「明日からでも出社しなさい」となった
⇒小西儀助商店や鳥井さんの寿屋などが得意先で洋酒の中身は摂津酒造が製造していた
・12月の大阪での徴兵検査では検査官の中尉が最後に甲種合格のハンコを押す直前に、
私が摂津酒造のアルコール技師であることを知り乙種になった
⇒アルコールは火薬製造に不可欠で軍需産業の一端と考えたのか軍縮の時代だったからか
⇒阿部社長は喜び、後日にスコットランド留学を打診され返事ができないほど感激した
⇒家業を継ぐと期待していた父母は大反対したが阿部社長の説得で家業は親類に譲ることに
⇒これで手筈が整い英国に出発することになった
⇒大正7年(1918)7月に神戸港から出港
(サンフランシスコからニューヨークまで大陸横断、Uボート攻撃を避けながらリバプールへ)
・当時の日本は第一次世界大戦による成金時代で洋酒がよく売れた
⇒大正7年~9年(1918~1920)は摂津酒造の黄金時代で私の留学費と日本に残った後輩たちの
賞与の額がほぼ同じになったほどの好景気だった
⇒戦後この後輩とひさしぶりに会った際に「同じ金額を、あなたはウイスキーの勉強に、
われわれは住𠮷公園の料亭につぎ込んだことになるなあ」と言ったので二人で大笑いした

(追記です)
そう、大正時代の住𠮷公園は大歓楽地だったんですよね

マッサンが摂津酒造に入社したのが1916年、大阪府では初めて1873年にできた住𠮷公園は
すでに大歓楽地になっており、仲居、芸妓、ヤトナが出入りして風紀が大いに乱れたため
、
マッサンが帰国した翌年の1922年には公園の西側に花街として住𠮷新地が指定されており、
翌1923年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えたという、まさに「オトナの遊び場」
そこへ毎夜のように好景気に沸く地元有力企業のエリート社員で独身の美男子が・・・
おそらく住吉公園の芸舞妓や遊女たちにもめっちゃモテたんでしょうね
、マッサンが帰国した翌年の1922年には公園の西側に花街として住𠮷新地が指定されており、
翌1923年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えたという、まさに「オトナの遊び場」

そこへ毎夜のように好景気に沸く地元有力企業のエリート社員で独身の美男子が・・・
おそらく住吉公園の芸舞妓や遊女たちにもめっちゃモテたんでしょうね

閑話休題・・・
で、肝心のスコットランドの部分は省略して・・・
・1921年11月に妻のリタと阿部社長の三人で横浜港に帰国した(4年ぶりの日本)
(リタとの結婚も父母に反対され阿部社長が説得、本人を確認の上で連れ帰る約束だった)
⇒新婚生活は大阪の帝塚山で家賃は55円、待遇は技師長で月給は150円だった
⇒戦後の大不況で社長も推していた私の本格ウイスキー計画が役員会で否認された
⇒イミテーションなら高給の私がいなくても作れるので辞表を出して浪人になった
⇒1922年から1923年の初めまでの数ヶ月は近所の桃山中学で化学の教師をした
(校長のローリング氏と妻のリタが親しく私の失業を心配してくださったため)
(ローリング氏は1933年に亡くなり阿倍野の外人墓地に埋葬されている)
⇒妻のリタも近所の帝塚山学院で英語を教え英語とピアノの個人教授も引き受けていた
・1923年の梅の季節に寿屋の鳥井社長が自宅に来られた⇒三顧の礼で
⇒本格的ウイスキーをやってみたいと三井物産を通じムーア博士の招請を交渉していたが
博士本人から日本にいい技師がいると言われ、とんできたとのことだった
⇒ウイスキー工場には北海道が適地とすすめたが「工場を見てもらえないような商品は
これからは大きくならない、大阪の近くで探してほしい」といわれた
(鳥井さんの商品を育てるカンと努力は先天的でこれも好例であろう)
⇒年俸4000円はスコットランド技師招請の見込み金額と同額だった
⇒雇用10年はウイスキーが商品として完成するまでの期間で1923年6月に寿屋に入社した
・調査して適地と判断した山崎の用地買収が終わったのは1923年10月で大震災の直後だった
(鳥井さんは震災後、直ちに船をチャーターして赤玉ポートワインやヘルメス・ウイスキーを
東京に運び、これが大いに売れて関東にも飛躍するステップとなった)
⇒起工式は1924年4月で設計や設備機械の発注など全て一人だったので忙しい日々が続いた
⇒ポット・スチルは大阪市西区の渡辺銅工所で何か月もかかり、運ぶのも船で淀川を遡上、
陸揚げしてからは馬で東海道線を越えるのが難関だった
⇒竣工式は1924年11月で費用は200万円かかった
⇒郷里の広島から日本酒の杜氏を十数人呼んで手を取るようにして教え込んだ
⇒機械の名前が英語でスムーズに出るようになって、やっと手つきも慣れてきた
⇒すべてが日本初だった
・1929年4月に初めての本格ウイスキー「白札サントリー」を世に出した
⇒発売価格は3円50銭
⇒ジョニーウォーカー赤が5円(今なら5万円ぐらいの商品?)の時代
⇒その後に普及品の「赤札サントリー」も出したがいずれも売れ行きも評判もよくなかった
(ブレンドしようにも新しいモルトしかなく体験的知識もなかった)
⇒売れなかったので原酒が残り、10年前後の年月を経て立派な原酒になった
・長期型のウイスキー部門と量産型のビール部門は分離すべきとの意見は採用されなかった
⇒両工場長を兼任していたがビール工場拡張工事の最中にビール部門の売渡が決定した
⇒独立を決意したのはその時で10年の約束は保留されていたが12年で円満に退社した
⇒鳥井さんなしには民間のウイスキーは育たなかったし私のウイスキー人生もなかった
・余市
⇒あらかじめ決めていたので資金を工面して1934年10月に工場を建てた
(リタは故郷のスコットランドに似ていると、とても喜んでくれた)
⇒すぐに売れるリンゴ・ジュースを作ったがラムネ・サイダー時代の嗜好に合わず苦戦した
⇒熟成を要するウイスキーづくりは1936年の秋から蒸留に入った
⇒つなぎ商品として1937年にアップルゼリー・グレープゼリー・アップルソースを出した
(翌年に出したアップルワインは今もニッカ製品のひとつ)
⇒1940年の秋にニッカウヰスキー第一号を発売した
⇒まだ原酒が若くブレンドも会心とはいえなかったが独立後初めての作品で感激した
⇒その後の統制時代には海軍の指定工場になり原酒の貯蔵量は増えていった
・戦後の混乱
⇒占領軍幹部からの理不尽な通達には「髭のオヤジ」が法律用語を交えて断固はねつけたが、
インフレで偽物も溢れ、せめてモルトを各イミテーション・メーカーに売ることにした
(イミテーションでも少量のモルトを混ぜるだけで味は格段によくなる)
⇒さらにブレンダーとしての良心に反して3級ウイスキーを作らざるを得なくなったと、
全従業員を広場に集めて苦衷をぶちまけたのは昭和25年の春
⇒税法の最高率まで原酒を入れて高く売ったのが、せめてもの私の抵抗だった
⇒売り上げは伸びたが「容量が少なく値段が高い」ことが競争上は不利だったのも事実
・昭和27年8月に大日本果汁からニッカウヰスキーに社名を変えた
⇒昭和30年11月には2000円のゴールドニッカ、翌年には1500円のブラックニッカを出した
⇒戦後第一回の洋酒ブームでトリス・ニッカ・オーシャンの軽バーが増えた
⇒当時の2級ウイスキーはウイスキーとは程遠いものだったが、その浸透が次のステップへ
⇒ウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと思っている
・昭和36年(1961)1月17日にリタが急逝し、しばらくショック状態が続いた
⇒昭和40年にリタの好きだった余市工場の見える小高い丘に墓を作った
⇒リタほど日本人になりきった外国人は少ないと思うし考え方も日本人的だった
⇒母親の遺産は長女なのに面倒を見なかったからと固く辞退していたし、叔母の遺産も
その一部で余市に幼稚園をつくり、それはリタ幼稚園として今も続いている
・当時目指していたのは2級でも古い原酒を入れたウイスキーと、グレーン・スピリッツを
使ったソフトなウイスキーだった
⇒グレーン・スピリッツの製造設備には多額の資金が必要だった
⇒「スコッチに負けないために」と朝日麦酒の山本為三郎社長が積極的に援助してくださり、
昭和37年にグレーン・スピリッツの西宮工場が完成した
⇒グレーンの熟成を待って出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカ
⇒どちらも許される上限の原酒とカフェ・グレーンのブレンド製品だった
⇒それまで特級でしかつくれなかった味が熟成カフェ・グレーンのおかげで1級でも旨いと
自負できるものが生まれた
・1000円ウイスキー戦争ともいわれたが各社が品質競争をして戦後第二のブームに
⇒昭和43年の税制改正でホワイトニッカを出したが改正は今後の品質アップに貢献するだろう
・余市モルトはハイランド・タイプで仙台モルトはローランド・タイプ
⇒「ローランド・モルトは荒々しいハイランド・モルトと中性のグレーン・ウイスキーとの
橋渡しをする」(イーニアス・マクドナルド)
⇒仙台モルトの一部は立派に使用できるまで成長してきた(昭和46年現在)
⇒ウイスキーのブレンドが完成するひとときは敬虔な祈りそのものであり、このブレンドは
ブレンダーとしての私の最終の仕上げになると思う・・・
・昭和44年(1969)イギリスのデイリーエキスプレス紙は「日本、スコッチ市場に侵入」という
大きな記事を掲載した
⇒これはニューヨーク駐在の記者たちがニューヨークタイムズ紙にのったニッカの広告を見て、
1本58シリング4ペンスのニッカ1本スコッチ2本の各最高級品3本を買って帰り、新聞社で
ブラインド(目かくし)テストをしてみた結果、これが日本製だろうと全員が指摘したのは
悲しいことにスコッチ最高の12年物であったと書かれていた
⇒さらに「英国が持っていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、次に日本は
英国の最も神聖な輸出商品スコッチに殴り込みをかけてきた」という警告記事だった
⇒スコットランドでウイスキーを勉強したのが50余年前、北海道余市に工場を作って30余年、
日本でウイスキーを作ることしか考えなかった私には痛快なニュースであった
・スコットランドのウイスキーづくりを持ち帰ったのでイギリスから嫌われているのでは、
との質問には「スコットランドでしかできなかったウイスキーを日本でつくり、今や日本も
スコッチの大きな市場になっているのだから女王は勲章をくれてもよい」と冗談をいった
⇒黄綬褒章、瑞宝章に続き1970年には北海道開発功労賞をいただいた
⇒北海道の風土があったからこそニッカが生まれニッカが育ったので恐縮している
⇒ウイスキーづくりを知れば知るほど風土そのものがウイスキーだと知った
・学問も技術も進歩を続けているのに半世紀前の勉強がそのまま役に立つのがウイスキーづくり
⇒熟成を早める科学はすべて失敗しており、今も自然と時間だけが解決者
⇒昔からスコットランドに伝わる製造法が、今もよいウイスキーへのただ一つの道
・ウイスキーの正しい飲み方
⇒私によくある質問で嗜好品なので一番旨いと思う方法で楽しめばよいと思っているが、
⇒毎日飲む人とたまにしか飲まない人で味わい方は違ってくる
⇒香りや味を味わうならストレートがいいが、これを毎日やれば胃を痛める
⇒こんな人には水割りがよくウイスキー1に井戸水2がいい
⇒これでアルコール分が12度から13度ぐらいになる
⇒適温はビールと同じ7~8℃
⇒以前はスコットランドでも炭酸割を飲む人が多かったが最近では水割りが多い
⇒炭酸割は胃を刺激するからか酔いが早くまわる
⇒楽しみながら時間をかけて飲むこと⇒食事も同じ
⇒楽しく飲める自分の量を計算して飲むこと
⇒オーバーすればどんなにいい酒でも悪酔いする
⇒私がウイスキー一途といってもビールもワインも日本酒も楽しむ
⇒今の流行語
でいうTPOで飲み分け、楽しむのが酒と思っている・舌と鼻
⇒私は目の前でつくる料理しか食べないので宴会料理には手を付けない
⇒自分で食べるものは今でも自分で材料を買いに行く
⇒文化国家というものは嗜好を高めることにある
⇒いいもの悪いもの、新しいもの古いものを見分ける舌と鼻の持ち主になってもらいたい
⇒鼻の能力は先天的で舌の能力は後天的なものが多いようで舌は訓練次第
⇒ウイスキーの「のど越し」も鼻に通じるので鼻で鑑別するもの
⇒最盛期の30代で十数種類のスコッチ銘柄を飲み分けられたが英国滞在中には40種類ぐらいを
当てるエキスパートもおり、これは灘の日本酒でも同じで相当の鑑別ができるようになる
⇒主体性を持って見分けられることは人生を楽しむことに通じていると思う
・・・・・・・
冒頭に書いておられたのが周囲に機会を与えられたことでした
⇒二人の兄が家業を継ぐことを嫌がったから醸造学を修めたこと
(自分もウイスキーになり家業は親類が継ぐことになったが)
⇒摂津酒造の阿部社長の決意がなければスコットランド留学などあり得なかったこと
⇒グラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長や多くの協力がなければ
ウイスキーづくりを覚えられなかったのはもちろん、モルト工場にさえ入れなかったこと
⇒時代的にも日英同盟の背景がなかったら工場が実習を許可してくれてたかどうか
⇒寿屋の鳥井社長の洋酒の将来性への確信による山崎工場がなかったら日本はウイスキーが
できる国になっていたかどうか
⇒独立時の協力、カフェ・グレーンへの援助etc
⇒皆さんの協力が私をこの道一本に導いてくれた・・・
と、決して自慢話ではなく淡々としながらも温かみ溢れる内容で、ひさしぶりに爽やかな
気持ちになれた本でした
最後に備忘のため年表もメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)


(ご本人は1979年(昭和54年)に85歳で亡くなられてますが、ウィキによれば・・・
酒量はウイスキー1日1本。晩酌にはハイニッカを好み、おつまみとして醤油味の薄焼き煎餅と
供に楽しみながら飲んでいた。ただし、晩年には3日で2本に減らしたという。とのことでした
)