ミリタリーグッズ
2026年06月14日
武器が語る日本史
とーとつですが・・・

武器が語る日本史とゆー本であります
表紙カバー裏の惹句

著者略歴と奥付

目次


以下、各章の節(小見出し)中心のてきとーメモです(⇒は補足メモ)
ちなみに後半部分に補足メモが多いのは個人的な興味の偏りによるものです
(じつにてきとーですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1章より
・日本では西暦300~450年と思われる長柄の鉾(槍)が出土している
⇒当時の朝鮮半島にはなかったもの
⇒大陸・半島の軍隊は複合素材短弓や弩が中心
⇒大陸の鐙と鞍なら騎兵が槍を構えることもできるが日本の地形・馬・鐙では不可能
⇒なので歩兵の長柄の鉾(槍)が騎兵に対し圧倒的に有利だった
・斬撃用長柄武器のメリット(略)
・古事記や日本書紀に投げ槍が出てこない理由
⇒クマソやハヤトが使うことはあったかも知れないが弓矢や長柄の鉄矛には全く抵抗できず、
大きな戦闘も起きなかった(ので記述もない)
・投げ槍も補助具も不要になった縄文時代
⇒15000~1万年前の日本の気候・風土・植生・動物相では70cmぐらいの丸木弓による猟が
あまりにも効率的だったのだろう
⇒なので狩猟用の投げ槍や投擲補助具などは淘汰された
(ただし沖縄では近代までイノシシを犬で囲い込み投げ槍で仕留める猟が残っていた)
・馬や鳥を捕捉する狩猟具ボラスはなぜ対騎兵手段として世界に拡がらなかったか(略)
⇒子どもがトンボを捕えるブリ(関東ではトリコ)は古代ボラスの名残
第2章より
・西暦400~404年の戦いでは高句麗の騎兵が優勢
⇒複合素材短弓・鏃のカエシの有無・・・
・633年「白村江の戦い」の武器体系(略)
・(唐軍侵攻の可能性がほぼ消えた)7世紀半ばから平安時代前の兵器体系の純化(略)
第3章より
・魏志倭人伝の倭人の武器(略)
・平安時代の槍や鉾の禁止(略)
⇒次の無秩序を平定したのは鉄炮プラス幕藩体制
・軍記物の槍・上から叩く長槍(略)
第4章より
・関ケ原以前の騎兵と歩兵の比較
⇒足軽の由来、馬当て、去勢しない理由・・・(略)
・30年戦争(1618~1648)から西洋で発達した野砲が幕末まで顧みられなかった理由
・騎兵や輓馬砲兵、馬車輜重が古代から一貫して西洋より小規模な理由
⇒農地の規模、地形、単位面積当たりの人口扶養力、水田と麦畑の違いなど
⇒道路整備の違いへ
第5章より
・各時代の和弓の有効射程
⇒参考になるクレシーの戦い(1346年に英軍がロングボウ部隊により仏軍に圧勝した)
⇒平家物語では屋島での那須与一と船の扇との距離は7段(約70m)
⇒壇ノ浦での浅利与一の遠矢は4町(約400m)とされているが狩り矢では2町以内とされており、
前時代の太平記でも遠矢は200m以上とされてるので壇ノ浦の400mは誇張かも
・軍記物では正確にわからない征矢(そや⇒合戦用の矢)の攻撃力と楯や甲冑の防護力
⇒当時の実物サンプルを調べて実験した(略)
⇒現代の射手・和弓では距離10mでも1.6mm厚のフライパンを貫通できなかった
⇒ただし旧陸軍でも重機関銃中隊には農村の出身者(背筋力が段違いだった)を優先的に配置
していたぐらいだから、現代和弓の3~4倍の弓力でも連続して操作できる武者が軍記物の
記述どおり慶長以前に実在していた可能性は大いにある
・複合素材弓はユーラシアではいつ出現したか
⇒ホメロスやヘロドトスの記述に複合素材弓(コンポジット・ボウ)がある
⇒おそらくスキタイ人などから東西に伝達した
⇒日本で開発・普及しなかった理由には多湿気候や甲冑の強靭度などが考えられる
・日本の矢には射手の名前が書かれていた
⇒武者の携帯数は通常24~30本なので可能だった
⇒誰の戦功かを確定するため⇒武者には手柄が最重要だった
⇒鉄炮時代には手柄首を確保させに中間を走らせた
・乱世に弩(クロスボウ)を日本向けに改良できていたら有利だったか
⇒鉄炮以前に鉄砲隊のように使えれば圧倒できたはず
⇒弩の弱点は反発力が強く発射速度が遅いこと(30秒に1発で火縄銃並み)
⇒火縄銃と同じで二人一組なら解決できたはず
⇒弩には限界応力がかかるので濡れると自損しやすい
⇒乾燥地で港からの硝石が入手困難で規律の高い甲府盆地の武田軍にぴったりかも
⇒長弓と異なり1週間の訓練で弩兵を臨時動員できるので知見と工夫があれば・・・
・日本では鉄炮以前には顔面保護に熱心ではなかった
⇒「日本の気候にフルフェイス・ヘルメットは向かない」といった記述が多い
・三十三間堂の通し矢(122m上下5m)で使われた弓矢(略)
⇒一晩8133本(総発射数13033本)が最高記録で特製の軽い弓矢が使用された
・毒矢
⇒東北以北の狩猟には使われたが合戦では使用されなかった
⇒鏃のカエシと同様に事故や誤射、合戦後の怨恨の永続などから忌避したか
⇒鎌倉時代中期以降の蒙古襲来を記した書物に毒矢の記述がある⇒確認例を知りたい
⇒蒙古襲来前の宇治拾遺物語にも新羅の矢には毒が塗られていたとの記述がある
第6章より
・平安時代以降の武士階級は楯にこだわっていない
⇒日本国土の運輸事情による
⇒近畿の次に水田開発された伊勢や美濃との間にも荷車が通行できる峠道はなかった
⇒荷車も馬車も重輓馬も発達せず大八車の発明は江戸時代になってから
⇒江戸時代の後半でも大八車・大七車は江戸・京都・駿府の外では原則禁止だった
⇒街道が狭く車両が邪魔になるから
(役畜輸送の基本知識すらなく自滅したのがインパール作戦で大兵団の補給も250kmまでなら
大八車で可能としていた⇒日露戦争の朝鮮半島では有効だった)
・太平記の楯⇒一枚楯<持楯<掻楯<畳楯⇒荷夫もいたが前線では歩兵が担いだ
⇒平治物語では五条大橋の板を剥がしており戦乱期には住宅寺社の板や畳などで代用
⇒荷車や馬車が使えなかったので嵩張る楯は輸送できなかった
・防弾竹束の発明⇒ライフル弾の発明までは有効だった
第7章より
・長篠合戦の勝因と敗因(甲陽軍鑑から)
⇒武田軍は敵陣偵察・情報収集をロクにしていなかった
⇒徳川・織田連合軍は最重要情報(陣地前の頑丈な三重柵)を最後まで隠せた
⇒なので防御戦でありながら奇襲的勝利を得た
・同様の罠を近代戦で再現できるか
⇒1942年ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場前に隠された海兵隊の機関銃陣地がその再現
⇒日本軍は1937年第2次上海事変での成功(蒋介石軍の堅固な機関銃陣地が見えていたので
アウトレンジから制圧できた)が仇となり、歩兵攻撃で勝てると思っていたのかも・・・
・野戦で梯子を使えば・・・(江戸の捕り物だけで軍記物には登場しないけど)
⇒二人で荷物用「御輿台」として、一人で背負子として運搬道具に
⇒崖地では梯子に、小河川では架け橋に、大河川では浮き橋に、下から支えれば物見に、
二人で運ぶ担架にも、一人で引きずる修羅にもなったはず
第8章より
・ペリー艦隊が江戸湾に入れないような射程2km以上の国産大砲は可能だったか
⇒鉄製は素材も鋳造も国内ではまだ不可能
⇒青銅製は不純物で破裂することがあるが梵鐘や燈籠などを溶かせば素材はあった
⇒砲全体を鋳造容易な球形にすれば長射程でも安全で砲架も不要だったはず
・台場以外の海防案
⇒ありあわせの小口径砲を備えた「浮き砲台」なら少額で大量に準備できたはず
第9章より
・明治陸軍は白兵主義か火力主義か
⇒第一次大戦前までは堅固な火力主義だった
⇒軍神・橘中佐の首山堡強襲は準備不足の例外だったが町人兵への攻撃精神教育の見本になった
⇒日露戦争後に武道教育・銃剣術が重視され文部省・内務省も協力した
⇒トレンドが義務教育から大衆文芸まで広がった(宮本武蔵の発掘など)
・戦国時代の銃剣の工夫
⇒山鹿素行によれば足軽とは能動的な弓鉄炮組で、受動的な長柄組とは運用が区別されていた
⇒戦国末期には鉄砲隊に突撃する騎兵などおらず長柄組は武者自陣の前衛として重装備配置
⇒足軽戦闘は2町(218m)ぐらいからで50間(91m)から30間(54.6m)になると本格化する
⇒15間(27.3m)まで迫れば白兵戦で長柄組の出番だが、多くはそれまでに人数や弾薬量により
大勢が決しており、いずれかが敗走をはじめて以後は追撃戦になる
(追撃側の武者は手柄首や一番槍を求めて長柄組や足軽組をさしおき突進する)
⇒なので合戦で長柄組の出番が多ければ、人数の多い鉄炮組を槍組にトランスフォームできる
「銃剣」の工夫が必ずなされていたはずだが、出番が殆どなかったから工夫されなかった
・国産の火縄銃は足軽用小口径も武者用大口径もすべて狙撃銃(必中距離は50mまで)だった
⇒照準調整した銃口部にプラグ式でもソケット式でも銃剣を付けるのを嫌ったのだろう
(ナポレオン時代の歩兵用マスケット銃には照準器がなく照星に見えるのは銃剣用の金具)
(44式騎兵銃は折りたたみ銃槍で照準が狂うと不評、ソケット式の歩兵銃にもクレームがあった)
・日本軍の銃剣は長すぎるか
⇒銃剣の歴史は猟師のイノシシ防御用から
⇒単発後に手負いイノシシが向かってきたら銃口に腰の改造ダガー剣の木柄を差し込めば、
1.8mの槍に早変わりする⇒17世紀のドイツ猟師から欧州に普及した
⇒前装式単発銃隊は斎射直後に騎兵に襲われると反撃できず混乱するので歩兵銃にも応用した
⇒30年戦争1647年にはフランス軍のマスケット歩兵が銃剣突撃した記録がある
⇒英国も1672年にプラグ式銃剣を採用した
(1640年からこの頃までに欧州の主要陸軍は火縄式からフリント式に)
⇒1703年には固定できるソケット式がフランス軍に導入され1815年までほぼ同形式で定着した
⇒日本では銃が重く長くなるので敬遠され戊辰戦争では銃剣突撃もあったが西南戦争では皆無、
ひたすら小銃を乱射する日本独特の伝統が日露戦争まで続いた
⇒ところが戦後にはロシア兵の果敢な着剣突撃戦術への反省が過ぎ、やがて現実を無視した
白兵信奉や小銃短小化の不徹底につながっていく
⇒小銃はライフリング、後装式、無煙火薬、連発式と進化していった
⇒日本でも村田銃(17年式・22年式)から有坂銃(30年式・南部がマイナーチェンジした38年式)へ
⇒ただし第一次世界大戦の塹壕戦を経験しなかったため銃剣や着剣全長の短縮化はなかった
⇒ドイツでは塹壕戦の経験により休戦までに短い銃剣(252mm)が設計されている
・旧歩兵銃Gew98(1.25m)+旧50cm銃剣=1.75m
・新歩兵銃Kar98k(1.1m)+新252mm銃剣=1.352m
第10章より
・旧日本軍の戦車
⇒対米戦時の中戦車(57mm砲47mm砲)軽戦車(37mm砲)は総生産数では約5000両
(トラックが4000円で97式中戦車は15万円、95式軽戦車でも7万円で航空機に次ぐ装備予算)
⇒集中せず分散した結果、ほとんど役に立たなかった
⇒しかも高速の駆逐艦では運べずクレーン付き低速輸送船から大型艀に移して揚陸していた
⇒輸送揚陸中に攻撃され海没した戦車も膨大な数に上る
・結果的に貴重な戦争資源を戦車のために無駄にした理由
⇒日本の戦車は対戦車兵器ではなく直接歩兵支援兵器だった
⇒ソ連軍のトーチカ(ロシア語で点)陣地や塹壕を無力化して歩兵が一気に突破できないと
戦線が膠着化して砲撃物量戦になる⇒日本の工業資本力では砲弾がすぐに尽きる
⇒なので中戦車の57mm砲も軽戦車の37mm砲もトーチカ銃眼向けの近距離水平射撃専用で、
ノモンハンで鹵獲したソ連BT-7M戦車の装甲を貫通できないことは実験済みだった
⇒フィリピンで鹵獲した米軍M3軽戦車の背面すら貫通できずM3の37mm砲は95式軽戦車の
正面装甲を貫通することも実験済みだった
(ちなみに上記リンク記事にはトーチカや投げ槍や銃剣などの画像もあります)
⇒なので日本では重戦車になるM4シャーマン中戦車とは勝負にならないことは自明だったが、
ようやく方針転換したミッドウェー海戦以降は、それに対抗できる砲や戦車の製造や輸送が
できる状況ではなくなっていた
・ソ連軍の45mm砲やBT-7に対抗する手段はなかったのか
⇒ノモンハン事件後の1938年に47mm対戦車砲を試製し1942年に牽引用として制式化
⇒97式中戦車の新砲塔用として制式化したのも1942年
(ただしソ連軍は1940年には高速76mm砲搭載のT-34Aを大量生産している)
⇒ドイツでは旧式になった3号戦車の砲塔を外し、前面50mm装甲と75mm砲を装備して
とりあえずT-34に対抗できる3号突撃砲に改造して量産した
⇒ところが日本では旧式のBT-7にさえ対抗できない戦車の量産を続けていた
⇒戦車などの機甲兵器を理解し工学的センスを持ち開発に口と顔を出し裁決し監督していた
ヒトラーやスターリンと異なり、軍のエリートが担当セクションに丸投げしていたから
・殆ど役に立たなかった戦車予算を別の兵器や装備に転用していたら
⇒悪路も走行できた国産6輪4駆トラック94式は1万円で97式中戦車は15万円
⇒ただしトラック量産工場の新設に2年はかかる
⇒装軌式の牽引車や海軍で試作中だったブルドーザーなら戦車工場を転用できる
⇒牽引車で砲や弾薬を運びブルドーザで飛行基地の増設や修復、掩蔽壕ができたはず
・戦車予算のすべてを高射砲部隊に使っていたら
⇒蒋介石軍から鹵獲したドイツ製88mm高射砲をコピーした99式88mm高射砲
(ただし光学照準器が旧式で高度6000mまでしか対応できなかったが)
⇒大量生産され充分に配備されていたら東京大空襲などあり得ない話になってたはずだが、
⇒大阪造兵工廠はお役所工場で前年度に予算が決まるため設備拡大も増産もできない
(ドイツでは都市の中心部に多くの高射砲用巨塔「フラックタワー」を建てたが日本では
検討した記録もない⇒地上高射砲の衝撃波で窓ガラスが割れて配置できなかったのに)
・軍事組織に必要な才能とは(略)
・本土防空失敗の原因は
⇒1944年6月には成都のB-29編隊20機が北九州を爆撃して成都に帰投した
⇒それまでに邀撃可能な戦闘機もしくは島嶼防衛兵器を完成していなったのが原因
(わずかな可能性として1940年から非レシプロ系の航空機動力研究を推進していたら、
日本の技術だけを前提にしても秋水や桜花に類似したものが1942年末には完成していたかも)
⇒1941年12月の対米開戦は日本の軍事技術陣にとっての「奇襲」だった
⇒それから防衛戦の兵器システムを開発しろといわれても1年や2年でモノになるはずもなく、
さらにその間に連合軍の反転攻勢により輸送船が枯渇して物資が窮乏することも明白
⇒敗戦は開戦と同時に確約されていたのである・・・
おわりにより
・まもなく先進諸国軍隊はレーザー光・マイクロ波・中性子ビームを使う「エネルギー指向兵器」
を兵器システムに実装する
⇒とうとう「人類が槍を突き出すスピード」が光速になる
⇒なのに日本の武器メーカー・ユーザー(自衛隊)・整備計画者(政府・防衛省)は傍観している
⇒兵器システムの進化競争は敗戦を共有してから計画しても間に合わない、という反省が
先の大戦でなされたはずなのに・・・
⇒近未来の無慚な破滅を回避するため武器政策のセンスが磨かれる書籍がもっと書かれるべき
・・・・・
さてさて・・・

武器が語る日本史とゆー本であります
表紙カバー裏の惹句

著者略歴と奥付

目次


以下、各章の節(小見出し)中心のてきとーメモです(⇒は補足メモ)
ちなみに後半部分に補足メモが多いのは個人的な興味の偏りによるものです

(じつにてきとーですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1章より
・日本では西暦300~450年と思われる長柄の鉾(槍)が出土している
⇒当時の朝鮮半島にはなかったもの
⇒大陸・半島の軍隊は複合素材短弓や弩が中心
⇒大陸の鐙と鞍なら騎兵が槍を構えることもできるが日本の地形・馬・鐙では不可能
⇒なので歩兵の長柄の鉾(槍)が騎兵に対し圧倒的に有利だった
・斬撃用長柄武器のメリット(略)
・古事記や日本書紀に投げ槍が出てこない理由
⇒クマソやハヤトが使うことはあったかも知れないが弓矢や長柄の鉄矛には全く抵抗できず、
大きな戦闘も起きなかった(ので記述もない)
・投げ槍も補助具も不要になった縄文時代
⇒15000~1万年前の日本の気候・風土・植生・動物相では70cmぐらいの丸木弓による猟が
あまりにも効率的だったのだろう
⇒なので狩猟用の投げ槍や投擲補助具などは淘汰された
(ただし沖縄では近代までイノシシを犬で囲い込み投げ槍で仕留める猟が残っていた)
・馬や鳥を捕捉する狩猟具ボラスはなぜ対騎兵手段として世界に拡がらなかったか(略)
⇒子どもがトンボを捕えるブリ(関東ではトリコ)は古代ボラスの名残
第2章より
・西暦400~404年の戦いでは高句麗の騎兵が優勢
⇒複合素材短弓・鏃のカエシの有無・・・
・633年「白村江の戦い」の武器体系(略)
・(唐軍侵攻の可能性がほぼ消えた)7世紀半ばから平安時代前の兵器体系の純化(略)
第3章より
・魏志倭人伝の倭人の武器(略)
・平安時代の槍や鉾の禁止(略)
⇒次の無秩序を平定したのは鉄炮プラス幕藩体制
・軍記物の槍・上から叩く長槍(略)
第4章より
・関ケ原以前の騎兵と歩兵の比較
⇒足軽の由来、馬当て、去勢しない理由・・・(略)
・30年戦争(1618~1648)から西洋で発達した野砲が幕末まで顧みられなかった理由
・騎兵や輓馬砲兵、馬車輜重が古代から一貫して西洋より小規模な理由
⇒農地の規模、地形、単位面積当たりの人口扶養力、水田と麦畑の違いなど
⇒道路整備の違いへ
第5章より
・各時代の和弓の有効射程
⇒参考になるクレシーの戦い(1346年に英軍がロングボウ部隊により仏軍に圧勝した)
⇒平家物語では屋島での那須与一と船の扇との距離は7段(約70m)
⇒壇ノ浦での浅利与一の遠矢は4町(約400m)とされているが狩り矢では2町以内とされており、
前時代の太平記でも遠矢は200m以上とされてるので壇ノ浦の400mは誇張かも
・軍記物では正確にわからない征矢(そや⇒合戦用の矢)の攻撃力と楯や甲冑の防護力
⇒当時の実物サンプルを調べて実験した(略)
⇒現代の射手・和弓では距離10mでも1.6mm厚のフライパンを貫通できなかった
⇒ただし旧陸軍でも重機関銃中隊には農村の出身者(背筋力が段違いだった)を優先的に配置
していたぐらいだから、現代和弓の3~4倍の弓力でも連続して操作できる武者が軍記物の
記述どおり慶長以前に実在していた可能性は大いにある
・複合素材弓はユーラシアではいつ出現したか
⇒ホメロスやヘロドトスの記述に複合素材弓(コンポジット・ボウ)がある
⇒おそらくスキタイ人などから東西に伝達した
⇒日本で開発・普及しなかった理由には多湿気候や甲冑の強靭度などが考えられる
・日本の矢には射手の名前が書かれていた
⇒武者の携帯数は通常24~30本なので可能だった
⇒誰の戦功かを確定するため⇒武者には手柄が最重要だった
⇒鉄炮時代には手柄首を確保させに中間を走らせた
・乱世に弩(クロスボウ)を日本向けに改良できていたら有利だったか
⇒鉄炮以前に鉄砲隊のように使えれば圧倒できたはず
⇒弩の弱点は反発力が強く発射速度が遅いこと(30秒に1発で火縄銃並み)
⇒火縄銃と同じで二人一組なら解決できたはず
⇒弩には限界応力がかかるので濡れると自損しやすい
⇒乾燥地で港からの硝石が入手困難で規律の高い甲府盆地の武田軍にぴったりかも
⇒長弓と異なり1週間の訓練で弩兵を臨時動員できるので知見と工夫があれば・・・
・日本では鉄炮以前には顔面保護に熱心ではなかった
⇒「日本の気候にフルフェイス・ヘルメットは向かない」といった記述が多い
・三十三間堂の通し矢(122m上下5m)で使われた弓矢(略)
⇒一晩8133本(総発射数13033本)が最高記録で特製の軽い弓矢が使用された
・毒矢
⇒東北以北の狩猟には使われたが合戦では使用されなかった
⇒鏃のカエシと同様に事故や誤射、合戦後の怨恨の永続などから忌避したか
⇒鎌倉時代中期以降の蒙古襲来を記した書物に毒矢の記述がある⇒確認例を知りたい
⇒蒙古襲来前の宇治拾遺物語にも新羅の矢には毒が塗られていたとの記述がある
第6章より
・平安時代以降の武士階級は楯にこだわっていない
⇒日本国土の運輸事情による
⇒近畿の次に水田開発された伊勢や美濃との間にも荷車が通行できる峠道はなかった
⇒荷車も馬車も重輓馬も発達せず大八車の発明は江戸時代になってから
⇒江戸時代の後半でも大八車・大七車は江戸・京都・駿府の外では原則禁止だった
⇒街道が狭く車両が邪魔になるから
(役畜輸送の基本知識すらなく自滅したのがインパール作戦で大兵団の補給も250kmまでなら
大八車で可能としていた⇒日露戦争の朝鮮半島では有効だった)
・太平記の楯⇒一枚楯<持楯<掻楯<畳楯⇒荷夫もいたが前線では歩兵が担いだ
⇒平治物語では五条大橋の板を剥がしており戦乱期には住宅寺社の板や畳などで代用
⇒荷車や馬車が使えなかったので嵩張る楯は輸送できなかった
・防弾竹束の発明⇒ライフル弾の発明までは有効だった
第7章より
・長篠合戦の勝因と敗因(甲陽軍鑑から)
⇒武田軍は敵陣偵察・情報収集をロクにしていなかった
⇒徳川・織田連合軍は最重要情報(陣地前の頑丈な三重柵)を最後まで隠せた
⇒なので防御戦でありながら奇襲的勝利を得た
・同様の罠を近代戦で再現できるか
⇒1942年ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場前に隠された海兵隊の機関銃陣地がその再現
⇒日本軍は1937年第2次上海事変での成功(蒋介石軍の堅固な機関銃陣地が見えていたので
アウトレンジから制圧できた)が仇となり、歩兵攻撃で勝てると思っていたのかも・・・
・野戦で梯子を使えば・・・(江戸の捕り物だけで軍記物には登場しないけど)
⇒二人で荷物用「御輿台」として、一人で背負子として運搬道具に
⇒崖地では梯子に、小河川では架け橋に、大河川では浮き橋に、下から支えれば物見に、
二人で運ぶ担架にも、一人で引きずる修羅にもなったはず
第8章より
・ペリー艦隊が江戸湾に入れないような射程2km以上の国産大砲は可能だったか
⇒鉄製は素材も鋳造も国内ではまだ不可能
⇒青銅製は不純物で破裂することがあるが梵鐘や燈籠などを溶かせば素材はあった
⇒砲全体を鋳造容易な球形にすれば長射程でも安全で砲架も不要だったはず
・台場以外の海防案
⇒ありあわせの小口径砲を備えた「浮き砲台」なら少額で大量に準備できたはず
第9章より
・明治陸軍は白兵主義か火力主義か
⇒第一次大戦前までは堅固な火力主義だった
⇒軍神・橘中佐の首山堡強襲は準備不足の例外だったが町人兵への攻撃精神教育の見本になった
⇒日露戦争後に武道教育・銃剣術が重視され文部省・内務省も協力した
⇒トレンドが義務教育から大衆文芸まで広がった(宮本武蔵の発掘など)
・戦国時代の銃剣の工夫
⇒山鹿素行によれば足軽とは能動的な弓鉄炮組で、受動的な長柄組とは運用が区別されていた
⇒戦国末期には鉄砲隊に突撃する騎兵などおらず長柄組は武者自陣の前衛として重装備配置
⇒足軽戦闘は2町(218m)ぐらいからで50間(91m)から30間(54.6m)になると本格化する
⇒15間(27.3m)まで迫れば白兵戦で長柄組の出番だが、多くはそれまでに人数や弾薬量により
大勢が決しており、いずれかが敗走をはじめて以後は追撃戦になる
(追撃側の武者は手柄首や一番槍を求めて長柄組や足軽組をさしおき突進する)
⇒なので合戦で長柄組の出番が多ければ、人数の多い鉄炮組を槍組にトランスフォームできる
「銃剣」の工夫が必ずなされていたはずだが、出番が殆どなかったから工夫されなかった
・国産の火縄銃は足軽用小口径も武者用大口径もすべて狙撃銃(必中距離は50mまで)だった
⇒照準調整した銃口部にプラグ式でもソケット式でも銃剣を付けるのを嫌ったのだろう
(ナポレオン時代の歩兵用マスケット銃には照準器がなく照星に見えるのは銃剣用の金具)
(44式騎兵銃は折りたたみ銃槍で照準が狂うと不評、ソケット式の歩兵銃にもクレームがあった)
・日本軍の銃剣は長すぎるか
⇒銃剣の歴史は猟師のイノシシ防御用から
⇒単発後に手負いイノシシが向かってきたら銃口に腰の改造ダガー剣の木柄を差し込めば、
1.8mの槍に早変わりする⇒17世紀のドイツ猟師から欧州に普及した
⇒前装式単発銃隊は斎射直後に騎兵に襲われると反撃できず混乱するので歩兵銃にも応用した
⇒30年戦争1647年にはフランス軍のマスケット歩兵が銃剣突撃した記録がある
⇒英国も1672年にプラグ式銃剣を採用した
(1640年からこの頃までに欧州の主要陸軍は火縄式からフリント式に)
⇒1703年には固定できるソケット式がフランス軍に導入され1815年までほぼ同形式で定着した
⇒日本では銃が重く長くなるので敬遠され戊辰戦争では銃剣突撃もあったが西南戦争では皆無、
ひたすら小銃を乱射する日本独特の伝統が日露戦争まで続いた
⇒ところが戦後にはロシア兵の果敢な着剣突撃戦術への反省が過ぎ、やがて現実を無視した
白兵信奉や小銃短小化の不徹底につながっていく
⇒小銃はライフリング、後装式、無煙火薬、連発式と進化していった
⇒日本でも村田銃(17年式・22年式)から有坂銃(30年式・南部がマイナーチェンジした38年式)へ
⇒ただし第一次世界大戦の塹壕戦を経験しなかったため銃剣や着剣全長の短縮化はなかった
⇒ドイツでは塹壕戦の経験により休戦までに短い銃剣(252mm)が設計されている
・旧歩兵銃Gew98(1.25m)+旧50cm銃剣=1.75m
・新歩兵銃Kar98k(1.1m)+新252mm銃剣=1.352m
第10章より
・旧日本軍の戦車
⇒対米戦時の中戦車(57mm砲47mm砲)軽戦車(37mm砲)は総生産数では約5000両
(トラックが4000円で97式中戦車は15万円、95式軽戦車でも7万円で航空機に次ぐ装備予算)
⇒集中せず分散した結果、ほとんど役に立たなかった
⇒しかも高速の駆逐艦では運べずクレーン付き低速輸送船から大型艀に移して揚陸していた
⇒輸送揚陸中に攻撃され海没した戦車も膨大な数に上る
・結果的に貴重な戦争資源を戦車のために無駄にした理由
⇒日本の戦車は対戦車兵器ではなく直接歩兵支援兵器だった
⇒ソ連軍のトーチカ(ロシア語で点)陣地や塹壕を無力化して歩兵が一気に突破できないと
戦線が膠着化して砲撃物量戦になる⇒日本の工業資本力では砲弾がすぐに尽きる
⇒なので中戦車の57mm砲も軽戦車の37mm砲もトーチカ銃眼向けの近距離水平射撃専用で、
ノモンハンで鹵獲したソ連BT-7M戦車の装甲を貫通できないことは実験済みだった
⇒フィリピンで鹵獲した米軍M3軽戦車の背面すら貫通できずM3の37mm砲は95式軽戦車の
正面装甲を貫通することも実験済みだった
(ちなみに上記リンク記事にはトーチカや投げ槍や銃剣などの画像もあります)
⇒なので日本では重戦車になるM4シャーマン中戦車とは勝負にならないことは自明だったが、
ようやく方針転換したミッドウェー海戦以降は、それに対抗できる砲や戦車の製造や輸送が
できる状況ではなくなっていた
・ソ連軍の45mm砲やBT-7に対抗する手段はなかったのか
⇒ノモンハン事件後の1938年に47mm対戦車砲を試製し1942年に牽引用として制式化
⇒97式中戦車の新砲塔用として制式化したのも1942年
(ただしソ連軍は1940年には高速76mm砲搭載のT-34Aを大量生産している)
⇒ドイツでは旧式になった3号戦車の砲塔を外し、前面50mm装甲と75mm砲を装備して
とりあえずT-34に対抗できる3号突撃砲に改造して量産した
⇒ところが日本では旧式のBT-7にさえ対抗できない戦車の量産を続けていた
⇒戦車などの機甲兵器を理解し工学的センスを持ち開発に口と顔を出し裁決し監督していた
ヒトラーやスターリンと異なり、軍のエリートが担当セクションに丸投げしていたから
・殆ど役に立たなかった戦車予算を別の兵器や装備に転用していたら
⇒悪路も走行できた国産6輪4駆トラック94式は1万円で97式中戦車は15万円
⇒ただしトラック量産工場の新設に2年はかかる
⇒装軌式の牽引車や海軍で試作中だったブルドーザーなら戦車工場を転用できる
⇒牽引車で砲や弾薬を運びブルドーザで飛行基地の増設や修復、掩蔽壕ができたはず
・戦車予算のすべてを高射砲部隊に使っていたら
⇒蒋介石軍から鹵獲したドイツ製88mm高射砲をコピーした99式88mm高射砲
(ただし光学照準器が旧式で高度6000mまでしか対応できなかったが)
⇒大量生産され充分に配備されていたら東京大空襲などあり得ない話になってたはずだが、
⇒大阪造兵工廠はお役所工場で前年度に予算が決まるため設備拡大も増産もできない
(ドイツでは都市の中心部に多くの高射砲用巨塔「フラックタワー」を建てたが日本では
検討した記録もない⇒地上高射砲の衝撃波で窓ガラスが割れて配置できなかったのに)
・軍事組織に必要な才能とは(略)
・本土防空失敗の原因は
⇒1944年6月には成都のB-29編隊20機が北九州を爆撃して成都に帰投した
⇒それまでに邀撃可能な戦闘機もしくは島嶼防衛兵器を完成していなったのが原因
(わずかな可能性として1940年から非レシプロ系の航空機動力研究を推進していたら、
日本の技術だけを前提にしても秋水や桜花に類似したものが1942年末には完成していたかも)
⇒1941年12月の対米開戦は日本の軍事技術陣にとっての「奇襲」だった
⇒それから防衛戦の兵器システムを開発しろといわれても1年や2年でモノになるはずもなく、
さらにその間に連合軍の反転攻勢により輸送船が枯渇して物資が窮乏することも明白
⇒敗戦は開戦と同時に確約されていたのである・・・
おわりにより
・まもなく先進諸国軍隊はレーザー光・マイクロ波・中性子ビームを使う「エネルギー指向兵器」
を兵器システムに実装する
⇒とうとう「人類が槍を突き出すスピード」が光速になる
⇒なのに日本の武器メーカー・ユーザー(自衛隊)・整備計画者(政府・防衛省)は傍観している
⇒兵器システムの進化競争は敗戦を共有してから計画しても間に合わない、という反省が
先の大戦でなされたはずなのに・・・
⇒近未来の無慚な破滅を回避するため武器政策のセンスが磨かれる書籍がもっと書かれるべき
・・・・・
さてさて・・・
2026年04月16日
「あの戦争」は何だったのか
引き続きの読書メモになりますが・・・

辻田真佐憲著~「あの戦争」は何だったのか~であります
わたくしが「ホノルルの休日」から2月末に帰国して最初に読みはじめていた本で、たまたま
アメリカとイスラエルによるイラン攻撃の開始時期と重なってて、まさに「あの戦争」後の
世界の仕組みが崩れていく現状を予測しているかのような内容で驚いています
あらためての著者紹介

著者の本は何冊か紹介してるので著者名などで「当サイトの記事検索」をご利用ください
奥付

2025年7月の発行なので第2次トランプ政権発足後の世界情勢までは反映されてました
目次


この著者の目次は内容を簡潔にまとめてあるので、目次だけでも概要がわかりますが、
今回も視点が比較的まともだと感じました
(以下てきとー読書メモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開にします)
はじめにより
・「あの戦争」はなぜ起きたのか?と、よく問われるが、
⇒日本が米国の石油禁輸で追い詰められたから、というのが一般的な答えだろう
⇒では、なぜ石油が禁輸されたのか
⇒日本が仏領インドシナまで進駐したから
⇒では、なぜ進駐したのか、軍を引き上げればよかったのか
⇒そんな単純な問題ではなく・・・と芋づる式に関連事項がつながり時間がかかる
・そもそも、「あの戦争」とは何を指すのか?
⇒大東亜戦争?太平洋戦争?十五年戦争?アジア太平洋戦争?第二次世界大戦?
・いつ始まったのか(第1章)、どこで間違ったのか(第2章)などから「何だったか」の核心に迫る
⇒歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈なのだから
⇒PTSD概念がなかった頃の兵士の心的外傷を現在の立場から再発見するのと同じ
・ウクライナ、中東、新トランプ政権の米国、中国と台湾、グローバルサウスの躍進
⇒「あの戦争」後の国際秩序の枠組みは明らかに揺らいできている
⇒まさに2022年末に翌年の展望を問われたタモリが答えていたとおり「新しい戦前」に
・中国ではこれまで戦前の排日運動や蒋介石の対日攻勢に触れることは日本の侵略責任を
相対化することになる、戦争の原因はすべて日本の侵略であり中国人は受け身の被害者である、
という立場だったので、ずっと忌避されていた
⇒だが現在では、これらを中国側の主体的な動きと見る視点が受け入れられている
⇒新資料の発掘に加え中国が経済的・軍事的に台頭していることが影響している
⇒「これだけ積極的な中国人が当時だけ受け身だったとは考えられない」という感覚
・ヨーロッパでは第三世界の台頭で植民地支配の責任問題が問われ始めている
⇒近代日本の歩みやアジア主義の理想には欧米の植民地支配の被害者としての側面もある
⇒それで日本の軍事行動が全面的に正当化されるわけではないが、加害か被害か・正義か悪か、
の二者択一ではない、多角的に再検討する姿勢が求められている(第3章)
・かつて「大東亜」と呼んだ国々の歴史博物館や記念碑は冷戦後のものが多い
⇒それら現在の「大東亜」では日本をどう見てるのか(第4章)、
⇒「あの戦争」はいつ終わるのか(第5章)という問いで、日本の「国民の物語」に向き合う
⇒日本では未だに近代を包括する物語が共有されておらず国立の近現代歴史博物館もない
・過去を糾弾するだけでも賞賛するだけでもなく、小さく否定し大きく肯定する
⇒(国民という枠組みなど幻想とは理解しつつも)国際秩序は国民国家単位で成り立っており、
戦争が国民国家の行為とされる以上、それを抜きに当時の歴史を語るのは現実的ではない
・本書は「あの戦争」を我々の物語として再受容し、表題の究極の問いに答える試み・・・
第1章より
・「日中戦争」は1937年7月7日の盧溝橋(支那事変)から?
・「太平洋戦争」は1941年12月8日の真珠湾から?(実際には1時間前の英領マレー半島上陸から?)
⇒政府が1941年12月12日に対米英戦を「大東亜戦争」とした際に支那事変を含むとした
⇒ところが閣議決定による平時と戦時の区切りは12月8日午前1時30分(給与・刑法上)
⇒今も政府は「先の大戦の戦没者は約310万人(うち軍人・軍属は約230万人)」としているが、
これは1937年7月(支那事変)から起算した戦没者数
・平成天皇や左派の「15年戦争」は1931年9月18日の柳条湖(満州事変)から(加害者の視点)
・林房雄の「東亜百年戦争」は欧米列強の来航(1844~1848)への反撃から(被害者の視点)
・「アジア・太平洋戦争」と「アジア太平洋戦争」と「大東亜戦争」(略)
・第一次世界大戦の陸軍中堅幕僚への衝撃
⇒これからの戦争は総力戦になり資源確保が不可欠になる
⇒関東軍の暴走(日本に独裁者はおらず様々な勢力が加担)
⇒戦後のパリ講和会議での民族自決・ナショナリズム⇒日本の中国権益への不安感も
⇒強硬論で蒋介石の主要都市を攻略占領した
⇒それでも足りない資源が石油やゴムなど⇒南進へ
・東南アジアでは緩衝地帯のタイ以外はフランス・オランダ・米国・英国の植民地だった
⇒1939年9月に第二次世界大戦がはじまった
⇒この機に乗じ南進して資源を確保、蒋介石支援ルートを遮断して日中戦争も解決
⇒参戦していない米国には大きく依存しており対立は避けたかった(が楽観的だった)
・1941年7月に仏領インドシナ南部に進駐(南進の足場確保)
⇒南部の中心サイゴンはバンコク・シンガポール・蘭領インドシナなどへの戦略的な要衝
⇒連合国への直接的な脅威と受け止められた⇒石油の全面禁輸へ
・1941年11月の事実上の最後通牒であるハル・ノート⇒全面撤兵などを要求
⇒第一次世界大戦からの総力戦体制の整備が否定されるに等しい
⇒避けるべきはずの米国との戦争に
⇒司令塔が不在で場当たり的な対外政策だった
・「あの戦争」筆者の考え
⇒形式的なはじまりは1941年12月8日だが、実質的なはじまりは1937年7月7日
(その前には継続的で大規模な軍事衝突がなかったから)
⇒戦争名称としては日中戦争、対米英開戦以降は日中戦争を含め大東亜戦争と呼称する
(大東亜は歴史上の名称として使われており戦争だけ太平洋に置き換える空気支配こそが問題)
⇒原因は黒船来航まで遡ることに賛同する(内在的な論理として理解する)
⇒愚かだった、狂気だった、だけでは有益な教訓は引き出せない
⇒物語の否定ではなく物語の絶え間ない選択が必要
第2章より
・どこが間違っていたかを様々な「IF」から検証(略)
(どれもなるほどと納得できたので目次の小項目から推測して下さいね)
⇒結論的には小林秀雄の「歴史の必然性」になるが、
(歴史とは無数の要因が絡み合って展開するもので過去を変えることはできないが、)
⇒戦争への道を振り返り様々な可能性を考えることで、未来を変えるための努力はできる
第3章より
・当時の理想は単なるプロパガンダだったのか?
⇒日米開戦で「アジアの解放」という聖戦の意義がはっきりしたと多数の知識人が歓喜した
(それまでの日中戦争でいくら聖戦と言われても中国のナショナリズムに対抗して日本の権益を
守ろうとする、弱い者いじめの主張に過ぎず、すっきりしなかった)
⇒脱亜入欧とアジア主義の相克
⇒欧米からの人種的・文化的な差別と朝鮮や台湾での欧米式植民地支配
⇒大東亜新秩序建設のため邪悪な存在(欧米)に立ち向かう正義の開戦
⇒プロパガンダで強調されたにしても、この構図が大多数に支えられていたのではないか
・1905年の日露戦争の勝利
⇒アジアの弱小国が白人帝国に勝利した事実は欧米の植民地支配に苦しむ人々に影響した
・1919年パリ講和会議における国際連盟規約への日本の「人種差別撤廃」内容追加要求
⇒正邪だけでなく米国の日系移民排斥など国益上の動機もあったが強い共感を呼んだ
(結果的には白豪主義のオーストラリア首相ヒューズを中心に英米が反対して否決された)
(日本も支配地域で他民族を差別的に扱っていた事実もあり評価はその間ですべき)
(アフリカ系米国人に当時の日本への共感や期待があったのも事実だが批判もあった)
・1932年3月の満洲国建国では「王道楽土」や「五族協和」だった
⇒1937年7月の日中戦争勃発では「横暴な中国を懲らしめる」になったが、長期化が決定的に
なった同年11月には近衛文麿首相により「東亜新秩序建設」が新しい戦争目的に
⇒いわば付け焼刃的にアジア主義が台頭した
⇒この流れで登場したのが日本書紀で神武天皇の言葉とされる「八紘一(為)宇」(略)
・1942年1月21日の東条英機首相の衆議院本会議演説
⇒大東亜共栄圏の建設とは日本を中心に道義的秩序の形成を目指すもの⇒八紘一宇
・1943年11月の大東亜会議における共同宣言
⇒日本・中華民国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(陪席)による
(ベトナム・カンボジア・ラオス・マレーシア・インドネシアに該当する地域は直接支配していた)
⇒共存共栄、独立親和、文化高揚、経済繁栄、人種差別撤廃による世界貢献の五原則
⇒戦局の悪化で形式的にせよ占領地に独立や自主性を与える方針になったもの
⇒大東亜政略指導大綱では逆にアジア諸民族を日本に従属させる構造になっている
・過酷な植民地支配や占領統治の事実を率直に認めたうえで、世界に先駆け人種差別撤廃を
国際連盟に提案しアジアで共同宣言した日本として、外国人差別・人種差別に反対すべき
⇒このアジア主義こそ新たな「国民の物語」ではないか・・・
第4章より
・東条英機の外遊ルート1943
南京・上海・新京(長春)・奉天(潘陽)・マニラ・サイゴン(ホーチミン)・バンコク・シンガポール・
パレンバン・ジャカルタ・クチン・ラブアン・(日本領だった)京城(ソウル)・台北・高雄
⇒そのすべてを巡って東条の大東亜外交がどう評価されているかを確認した(内容は略)
・シンガポール⇒ディスカバリーセンターとフォード旧工場で
・ジャカルタ⇒国家記念塔モナス地下の51のジオラマで
・パレンバン⇒製油所内よりも戦争賠償のアンペラ橋で
・クチン⇒ボルネオ守備隊の司令官官邸となった旧王宮アスタナと対岸の司令部となった
裁判所と増設されたジャパニーズ・ビルディングとマレーシア最大のボルネオ文化博物館で
・ラブアン島⇒ヴィクトリアのラブアン歴史博物館とその前庭にある司令官・前田大将記念碑と
マレーシア最大の戦争記念墓地で英豪兵3908名が眠るラブアン第二次世界大戦墓地で
・バンコク⇒ドンムアン空港北にあるナショナルメモリアル併設の軍事博物館とアユタヤ⇒
日本人村公園にある歴史研究センター別館で
・新京(長春)⇒満州国皇帝溥儀の宮殿跡である偽満皇宮博物院で
・奉天(潘陽)⇒柳条湖事件(満州事変)の現場近くにある9.18歴史博物館で
・南京⇒2017年にリニューアルされた大虐殺記念館と、もと国民政府外交部(外務省)庁舎⇒
支那派遣軍総司令部⇒現在は江蘇省人民常務委員会庁舎で
・マニラ⇒マニラ市街戦では10万人以上の市民、フィリピン全体では100万人以上が犠牲に
⇒なのでモニュメントや歴史解説は数多い⇒「許そう、だが忘れない」⇒和解の道へ
⇒2024年11月、宮崎駿監督がアジアのノーベル賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞を
受賞した際、2016年の天皇皇后のマニラ訪問時の哀悼に触れ「多くの民間人を殺害したことを
日本人は忘れてはならないのです、その事実はいつまでも残ります」と発言した
⇒この発言は戦争をめぐる記憶のあり方として、ひとつの模範的なかたちといえる
⇒被害を受けた側が「許そう、だが忘れない」という物語を紡いでいるときに、加害側が
「忘れた」と応じてしまえば和解の前提が成り立たない
⇒「知らなかった」ではなく「忘れない」と応じて共有し、その後に知ればよい
(フィリピン、ベトナム、台湾などについては前著「ルポ国威発揚」を参照)
⇒若い国家では「国民の物語」を構築しやすいが日本ではどうか
第5章より
・「あの戦争」はいつ歴史の出来事として「終わった」といえるのか
⇒国立歴史民俗博物館は2010年に現代をテーマとする第6展示室を新設したが「あの戦争」に
関する展示は驚くほどあっさりしている⇒まだ社会的合意が形成されていないから
⇒国立昭和館も展示の中心は戦時下の国民生活で多角的な視点がない⇒同様だから
・明確な歴史観を提示しているのは靖国神社の遊就館
⇒靖国史観は日本の行動を正当化・美化したものと思われやすいが「受け身史観」
⇒すべては自国を守るためのやむを得ない消極的な行動であったという史観
⇒明治期から第一次世界大戦までは説得力があるが、それ以降は単なる被害者ではない
⇒支援者の主流の保守派といっても親米から反米まであり歴史観も多様で一枚岩ではない
⇒民間の博物館なので自由だが日本の戦争博物館とされており、指摘による見直しもある
・靖国史観とは異なるのが東京大空襲・戦災資料センターの工夫
⇒日本も含む世界的な空襲の歴史を踏まえたうえでの東京・広島・長崎で被害者史観ではない
・国立アメリカ歴史博物館
⇒日本に関する説明には無理があるが・・・
(「悪者」の主語がヒトラー・ムッソリーニに較べ(司令塔不在で)東条から二転三転している)
⇒日系人12万人強制収容の負の歴史も原爆投下の両論もある⇒全肯定に傾かない展示
(ただしトランプ政権によるD多様性E公平性I包括性の見直しで変わる可能性もある)
・「あの戦争」は記憶の風化で終わるか、新たな戦争などで上書きされて終わるか
⇒どちらも希望のない終わり方
⇒だが「あの戦争」は政治的・経済的・軍事的に日本の黄金時代だった昭和の一大イベント
⇒さらに明治以降の近代国家建国史の総決算で歴史から消え去るとは想像しがたい
・近代日本の歩みを欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、
逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない
⇒国立博物館では基本的に自国の歩みを肯定し過ちや課題も正直に記して65点ぐらいで
・さらに肯定する立場なら、日本が列強の一員として主要な役割を果たしてきたこと、
その主体であり他者に影響を与える存在であったこと、その影響には肯定的な面も否定的な面も
存在したこと、その全体を引き受けるのが主体性であることを理解したうえで、日本は近代の
主人公の一人という自覚を持ってやればよい
(大東亜の理想に普遍性があるなら、それがどこで破綻し、どのような問題を生んだかを示し、
理想と現実の乖離を描くことで、理想の真価が際立つ)
・国立の歴史博物館は政府の立場になり中立には限界がある
⇒民間の博物館では右も左もあってよい
⇒この二重構造が歴史のあるべき姿と考えて私人としてこの本を記した
・「あの戦争」は日本の近現代史の流れの中で位置づけて、はじめて全体像が立ち上がる
⇒その視点に立つことで過剰な肯定にも否定にもならず落ち着くのではないか・・・
おわりにより
・小林秀雄の「歴史は因果の鎖ではなく愛惜の念により、はじめて意味を持つ」
⇒歴史に関心を抱くのは一個の主体が存在し、その主体に動機があるから
⇒かつての動機は多くに共有された戦争体験で、誰もが昭和史に関心を抱いた
⇒では、その共有体験が失われた今は歴史に無関心になったか
⇒エンタメやフィクションの物語で血の通った個々の人生に結びついてくる
・情念のない教科書形式の歴史ほど退屈な世界はない
⇒歴史は解釈であり現在の興味関心や価値観によってつねにかたちを変える
⇒本書もトランプ政権の再登場などで目次や内容がたびたび見直された・・・
・・・・・・
つーことで・・・
日本がこれまでの国際秩序が揺れ動く今の世界情勢の中で、どの方向に向かうべきかを考える
にあたっては、「あの戦争」を見返す必要があることだけは間違いないでしょう
最後に巻末にあった主要参考文献もメモしておきます
そう、わたくしに残された時間でこれだけ読めば・・・って、もう無理かな・・・




辻田真佐憲著~「あの戦争」は何だったのか~であります
わたくしが「ホノルルの休日」から2月末に帰国して最初に読みはじめていた本で、たまたま
アメリカとイスラエルによるイラン攻撃の開始時期と重なってて、まさに「あの戦争」後の
世界の仕組みが崩れていく現状を予測しているかのような内容で驚いています
あらためての著者紹介

著者の本は何冊か紹介してるので著者名などで「当サイトの記事検索」をご利用ください
奥付

2025年7月の発行なので第2次トランプ政権発足後の世界情勢までは反映されてました
目次


この著者の目次は内容を簡潔にまとめてあるので、目次だけでも概要がわかりますが、
今回も視点が比較的まともだと感じました
(以下てきとー読書メモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開にします)
はじめにより
・「あの戦争」はなぜ起きたのか?と、よく問われるが、
⇒日本が米国の石油禁輸で追い詰められたから、というのが一般的な答えだろう
⇒では、なぜ石油が禁輸されたのか
⇒日本が仏領インドシナまで進駐したから
⇒では、なぜ進駐したのか、軍を引き上げればよかったのか
⇒そんな単純な問題ではなく・・・と芋づる式に関連事項がつながり時間がかかる
・そもそも、「あの戦争」とは何を指すのか?
⇒大東亜戦争?太平洋戦争?十五年戦争?アジア太平洋戦争?第二次世界大戦?
・いつ始まったのか(第1章)、どこで間違ったのか(第2章)などから「何だったか」の核心に迫る
⇒歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈なのだから
⇒PTSD概念がなかった頃の兵士の心的外傷を現在の立場から再発見するのと同じ
・ウクライナ、中東、新トランプ政権の米国、中国と台湾、グローバルサウスの躍進
⇒「あの戦争」後の国際秩序の枠組みは明らかに揺らいできている
⇒まさに2022年末に翌年の展望を問われたタモリが答えていたとおり「新しい戦前」に
・中国ではこれまで戦前の排日運動や蒋介石の対日攻勢に触れることは日本の侵略責任を
相対化することになる、戦争の原因はすべて日本の侵略であり中国人は受け身の被害者である、
という立場だったので、ずっと忌避されていた
⇒だが現在では、これらを中国側の主体的な動きと見る視点が受け入れられている
⇒新資料の発掘に加え中国が経済的・軍事的に台頭していることが影響している
⇒「これだけ積極的な中国人が当時だけ受け身だったとは考えられない」という感覚
・ヨーロッパでは第三世界の台頭で植民地支配の責任問題が問われ始めている
⇒近代日本の歩みやアジア主義の理想には欧米の植民地支配の被害者としての側面もある
⇒それで日本の軍事行動が全面的に正当化されるわけではないが、加害か被害か・正義か悪か、
の二者択一ではない、多角的に再検討する姿勢が求められている(第3章)
・かつて「大東亜」と呼んだ国々の歴史博物館や記念碑は冷戦後のものが多い
⇒それら現在の「大東亜」では日本をどう見てるのか(第4章)、
⇒「あの戦争」はいつ終わるのか(第5章)という問いで、日本の「国民の物語」に向き合う
⇒日本では未だに近代を包括する物語が共有されておらず国立の近現代歴史博物館もない
・過去を糾弾するだけでも賞賛するだけでもなく、小さく否定し大きく肯定する
⇒(国民という枠組みなど幻想とは理解しつつも)国際秩序は国民国家単位で成り立っており、
戦争が国民国家の行為とされる以上、それを抜きに当時の歴史を語るのは現実的ではない
・本書は「あの戦争」を我々の物語として再受容し、表題の究極の問いに答える試み・・・
第1章より
・「日中戦争」は1937年7月7日の盧溝橋(支那事変)から?
・「太平洋戦争」は1941年12月8日の真珠湾から?(実際には1時間前の英領マレー半島上陸から?)
⇒政府が1941年12月12日に対米英戦を「大東亜戦争」とした際に支那事変を含むとした
⇒ところが閣議決定による平時と戦時の区切りは12月8日午前1時30分(給与・刑法上)
⇒今も政府は「先の大戦の戦没者は約310万人(うち軍人・軍属は約230万人)」としているが、
これは1937年7月(支那事変)から起算した戦没者数
・平成天皇や左派の「15年戦争」は1931年9月18日の柳条湖(満州事変)から(加害者の視点)
・林房雄の「東亜百年戦争」は欧米列強の来航(1844~1848)への反撃から(被害者の視点)
・「アジア・太平洋戦争」と「アジア太平洋戦争」と「大東亜戦争」(略)
・第一次世界大戦の陸軍中堅幕僚への衝撃
⇒これからの戦争は総力戦になり資源確保が不可欠になる
⇒関東軍の暴走(日本に独裁者はおらず様々な勢力が加担)
⇒戦後のパリ講和会議での民族自決・ナショナリズム⇒日本の中国権益への不安感も
⇒強硬論で蒋介石の主要都市を攻略占領した
⇒それでも足りない資源が石油やゴムなど⇒南進へ
・東南アジアでは緩衝地帯のタイ以外はフランス・オランダ・米国・英国の植民地だった
⇒1939年9月に第二次世界大戦がはじまった
⇒この機に乗じ南進して資源を確保、蒋介石支援ルートを遮断して日中戦争も解決
⇒参戦していない米国には大きく依存しており対立は避けたかった(が楽観的だった)
・1941年7月に仏領インドシナ南部に進駐(南進の足場確保)
⇒南部の中心サイゴンはバンコク・シンガポール・蘭領インドシナなどへの戦略的な要衝
⇒連合国への直接的な脅威と受け止められた⇒石油の全面禁輸へ
・1941年11月の事実上の最後通牒であるハル・ノート⇒全面撤兵などを要求
⇒第一次世界大戦からの総力戦体制の整備が否定されるに等しい
⇒避けるべきはずの米国との戦争に
⇒司令塔が不在で場当たり的な対外政策だった
・「あの戦争」筆者の考え
⇒形式的なはじまりは1941年12月8日だが、実質的なはじまりは1937年7月7日
(その前には継続的で大規模な軍事衝突がなかったから)
⇒戦争名称としては日中戦争、対米英開戦以降は日中戦争を含め大東亜戦争と呼称する
(大東亜は歴史上の名称として使われており戦争だけ太平洋に置き換える空気支配こそが問題)
⇒原因は黒船来航まで遡ることに賛同する(内在的な論理として理解する)
⇒愚かだった、狂気だった、だけでは有益な教訓は引き出せない
⇒物語の否定ではなく物語の絶え間ない選択が必要
第2章より
・どこが間違っていたかを様々な「IF」から検証(略)
(どれもなるほどと納得できたので目次の小項目から推測して下さいね)
⇒結論的には小林秀雄の「歴史の必然性」になるが、
(歴史とは無数の要因が絡み合って展開するもので過去を変えることはできないが、)
⇒戦争への道を振り返り様々な可能性を考えることで、未来を変えるための努力はできる
第3章より
・当時の理想は単なるプロパガンダだったのか?
⇒日米開戦で「アジアの解放」という聖戦の意義がはっきりしたと多数の知識人が歓喜した
(それまでの日中戦争でいくら聖戦と言われても中国のナショナリズムに対抗して日本の権益を
守ろうとする、弱い者いじめの主張に過ぎず、すっきりしなかった)
⇒脱亜入欧とアジア主義の相克
⇒欧米からの人種的・文化的な差別と朝鮮や台湾での欧米式植民地支配
⇒大東亜新秩序建設のため邪悪な存在(欧米)に立ち向かう正義の開戦
⇒プロパガンダで強調されたにしても、この構図が大多数に支えられていたのではないか
・1905年の日露戦争の勝利
⇒アジアの弱小国が白人帝国に勝利した事実は欧米の植民地支配に苦しむ人々に影響した
・1919年パリ講和会議における国際連盟規約への日本の「人種差別撤廃」内容追加要求
⇒正邪だけでなく米国の日系移民排斥など国益上の動機もあったが強い共感を呼んだ
(結果的には白豪主義のオーストラリア首相ヒューズを中心に英米が反対して否決された)
(日本も支配地域で他民族を差別的に扱っていた事実もあり評価はその間ですべき)
(アフリカ系米国人に当時の日本への共感や期待があったのも事実だが批判もあった)
・1932年3月の満洲国建国では「王道楽土」や「五族協和」だった
⇒1937年7月の日中戦争勃発では「横暴な中国を懲らしめる」になったが、長期化が決定的に
なった同年11月には近衛文麿首相により「東亜新秩序建設」が新しい戦争目的に
⇒いわば付け焼刃的にアジア主義が台頭した
⇒この流れで登場したのが日本書紀で神武天皇の言葉とされる「八紘一(為)宇」(略)
・1942年1月21日の東条英機首相の衆議院本会議演説
⇒大東亜共栄圏の建設とは日本を中心に道義的秩序の形成を目指すもの⇒八紘一宇
・1943年11月の大東亜会議における共同宣言
⇒日本・中華民国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(陪席)による
(ベトナム・カンボジア・ラオス・マレーシア・インドネシアに該当する地域は直接支配していた)
⇒共存共栄、独立親和、文化高揚、経済繁栄、人種差別撤廃による世界貢献の五原則
⇒戦局の悪化で形式的にせよ占領地に独立や自主性を与える方針になったもの
⇒大東亜政略指導大綱では逆にアジア諸民族を日本に従属させる構造になっている
・過酷な植民地支配や占領統治の事実を率直に認めたうえで、世界に先駆け人種差別撤廃を
国際連盟に提案しアジアで共同宣言した日本として、外国人差別・人種差別に反対すべき
⇒このアジア主義こそ新たな「国民の物語」ではないか・・・
第4章より
・東条英機の外遊ルート1943
南京・上海・新京(長春)・奉天(潘陽)・マニラ・サイゴン(ホーチミン)・バンコク・シンガポール・
パレンバン・ジャカルタ・クチン・ラブアン・(日本領だった)京城(ソウル)・台北・高雄
⇒そのすべてを巡って東条の大東亜外交がどう評価されているかを確認した(内容は略)
・シンガポール⇒ディスカバリーセンターとフォード旧工場で
・ジャカルタ⇒国家記念塔モナス地下の51のジオラマで
・パレンバン⇒製油所内よりも戦争賠償のアンペラ橋で
・クチン⇒ボルネオ守備隊の司令官官邸となった旧王宮アスタナと対岸の司令部となった
裁判所と増設されたジャパニーズ・ビルディングとマレーシア最大のボルネオ文化博物館で
・ラブアン島⇒ヴィクトリアのラブアン歴史博物館とその前庭にある司令官・前田大将記念碑と
マレーシア最大の戦争記念墓地で英豪兵3908名が眠るラブアン第二次世界大戦墓地で
・バンコク⇒ドンムアン空港北にあるナショナルメモリアル併設の軍事博物館とアユタヤ⇒
日本人村公園にある歴史研究センター別館で
・新京(長春)⇒満州国皇帝溥儀の宮殿跡である偽満皇宮博物院で
・奉天(潘陽)⇒柳条湖事件(満州事変)の現場近くにある9.18歴史博物館で
・南京⇒2017年にリニューアルされた大虐殺記念館と、もと国民政府外交部(外務省)庁舎⇒
支那派遣軍総司令部⇒現在は江蘇省人民常務委員会庁舎で
・マニラ⇒マニラ市街戦では10万人以上の市民、フィリピン全体では100万人以上が犠牲に
⇒なのでモニュメントや歴史解説は数多い⇒「許そう、だが忘れない」⇒和解の道へ
⇒2024年11月、宮崎駿監督がアジアのノーベル賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞を
受賞した際、2016年の天皇皇后のマニラ訪問時の哀悼に触れ「多くの民間人を殺害したことを
日本人は忘れてはならないのです、その事実はいつまでも残ります」と発言した
⇒この発言は戦争をめぐる記憶のあり方として、ひとつの模範的なかたちといえる
⇒被害を受けた側が「許そう、だが忘れない」という物語を紡いでいるときに、加害側が
「忘れた」と応じてしまえば和解の前提が成り立たない
⇒「知らなかった」ではなく「忘れない」と応じて共有し、その後に知ればよい
(フィリピン、ベトナム、台湾などについては前著「ルポ国威発揚」を参照)
⇒若い国家では「国民の物語」を構築しやすいが日本ではどうか
第5章より
・「あの戦争」はいつ歴史の出来事として「終わった」といえるのか
⇒国立歴史民俗博物館は2010年に現代をテーマとする第6展示室を新設したが「あの戦争」に
関する展示は驚くほどあっさりしている⇒まだ社会的合意が形成されていないから
⇒国立昭和館も展示の中心は戦時下の国民生活で多角的な視点がない⇒同様だから
・明確な歴史観を提示しているのは靖国神社の遊就館
⇒靖国史観は日本の行動を正当化・美化したものと思われやすいが「受け身史観」
⇒すべては自国を守るためのやむを得ない消極的な行動であったという史観
⇒明治期から第一次世界大戦までは説得力があるが、それ以降は単なる被害者ではない
⇒支援者の主流の保守派といっても親米から反米まであり歴史観も多様で一枚岩ではない
⇒民間の博物館なので自由だが日本の戦争博物館とされており、指摘による見直しもある
・靖国史観とは異なるのが東京大空襲・戦災資料センターの工夫
⇒日本も含む世界的な空襲の歴史を踏まえたうえでの東京・広島・長崎で被害者史観ではない
・国立アメリカ歴史博物館
⇒日本に関する説明には無理があるが・・・
(「悪者」の主語がヒトラー・ムッソリーニに較べ(司令塔不在で)東条から二転三転している)
⇒日系人12万人強制収容の負の歴史も原爆投下の両論もある⇒全肯定に傾かない展示
(ただしトランプ政権によるD多様性E公平性I包括性の見直しで変わる可能性もある)
・「あの戦争」は記憶の風化で終わるか、新たな戦争などで上書きされて終わるか
⇒どちらも希望のない終わり方
⇒だが「あの戦争」は政治的・経済的・軍事的に日本の黄金時代だった昭和の一大イベント
⇒さらに明治以降の近代国家建国史の総決算で歴史から消え去るとは想像しがたい
・近代日本の歩みを欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、
逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない
⇒国立博物館では基本的に自国の歩みを肯定し過ちや課題も正直に記して65点ぐらいで
・さらに肯定する立場なら、日本が列強の一員として主要な役割を果たしてきたこと、
その主体であり他者に影響を与える存在であったこと、その影響には肯定的な面も否定的な面も
存在したこと、その全体を引き受けるのが主体性であることを理解したうえで、日本は近代の
主人公の一人という自覚を持ってやればよい
(大東亜の理想に普遍性があるなら、それがどこで破綻し、どのような問題を生んだかを示し、
理想と現実の乖離を描くことで、理想の真価が際立つ)
・国立の歴史博物館は政府の立場になり中立には限界がある
⇒民間の博物館では右も左もあってよい
⇒この二重構造が歴史のあるべき姿と考えて私人としてこの本を記した
・「あの戦争」は日本の近現代史の流れの中で位置づけて、はじめて全体像が立ち上がる
⇒その視点に立つことで過剰な肯定にも否定にもならず落ち着くのではないか・・・
おわりにより
・小林秀雄の「歴史は因果の鎖ではなく愛惜の念により、はじめて意味を持つ」
⇒歴史に関心を抱くのは一個の主体が存在し、その主体に動機があるから
⇒かつての動機は多くに共有された戦争体験で、誰もが昭和史に関心を抱いた
⇒では、その共有体験が失われた今は歴史に無関心になったか
⇒エンタメやフィクションの物語で血の通った個々の人生に結びついてくる
・情念のない教科書形式の歴史ほど退屈な世界はない
⇒歴史は解釈であり現在の興味関心や価値観によってつねにかたちを変える
⇒本書もトランプ政権の再登場などで目次や内容がたびたび見直された・・・
・・・・・・
つーことで・・・
日本がこれまでの国際秩序が揺れ動く今の世界情勢の中で、どの方向に向かうべきかを考える
にあたっては、「あの戦争」を見返す必要があることだけは間違いないでしょう
最後に巻末にあった主要参考文献もメモしておきます
そう、わたくしに残された時間でこれだけ読めば・・・って、もう無理かな・・・




2026年03月28日
追憶のホノルル
まあ、前回記事からの続きとゆーか・・・
(ホノルル連載をはじめからご覧になるにはこちらのカテゴリから)
ささやかな自分へのお土産を眺めては、楽しかったホノルルでの日々を追憶しつつ・・・
備忘のため、ささやかなお土産たちをメモしておきます
まずはパールハーバーのビジターセンターで有料音声ガイドを借りるともらえた、


期間限定の???オリジナル・エコバッグ
(管制塔前に駐機してたのはフライングタイガースではなくブルーエンジェルスやったけど・・・)
で、ビジターセンターのミュージアムショップで買った

戦艦アリゾナと戦艦ミズーリのマグネット
戦艦ミズーリのミュージアムショップで買った、



戦艦ミズーリのショットグラス
航空博物館のミュージアムショップで買った、


カーチスP-40ウォーホークのショットグラス
陸軍博物館のミュージアムショップで買った、

デ・ルッシ要塞ランドルフ砲台のショットグラス
と、同じショップで買って一番のお気に入りになった・・・

タクティカル・ミニ・ベスト!!!
そう、機能は実物に近いのですが・・・

ま、

ボトルカバーですね
で、これを装着してるのは今回ツアーにも持参してたウィスキー500mlペットボトル
でも、せっかくサイズ調節が可能なベストなので・・・

サイズ違いのペットボトル入りヴォッカ(375mlと200ml)も!!!
そう、ワイキキのABCストアで買いましたとさ
で、こちらは空港に向かうタクシー内で知り、最後に空港のお店で買った、

フラガール2体
知らなかったけどソーラー仕様になってて光があたるとフラを踊ります
とまあ、ささやかなお土産でも思い出はよみがえるのでありますね
どっとはらい
(ホノルル連載をはじめからご覧になるにはこちらのカテゴリから)
ささやかな自分へのお土産を眺めては、楽しかったホノルルでの日々を追憶しつつ・・・
備忘のため、ささやかなお土産たちをメモしておきます
まずはパールハーバーのビジターセンターで有料音声ガイドを借りるともらえた、


期間限定の???オリジナル・エコバッグ
(管制塔前に駐機してたのはフライングタイガースではなくブルーエンジェルスやったけど・・・)
で、ビジターセンターのミュージアムショップで買った

戦艦アリゾナと戦艦ミズーリのマグネット
戦艦ミズーリのミュージアムショップで買った、



戦艦ミズーリのショットグラス
航空博物館のミュージアムショップで買った、


カーチスP-40ウォーホークのショットグラス
陸軍博物館のミュージアムショップで買った、

デ・ルッシ要塞ランドルフ砲台のショットグラス
と、同じショップで買って一番のお気に入りになった・・・


タクティカル・ミニ・ベスト!!!

そう、機能は実物に近いのですが・・・

ま、

ボトルカバーですね

で、これを装着してるのは今回ツアーにも持参してたウィスキー500mlペットボトル

でも、せっかくサイズ調節が可能なベストなので・・・

サイズ違いのペットボトル入りヴォッカ(375mlと200ml)も!!!

そう、ワイキキのABCストアで買いましたとさ

で、こちらは空港に向かうタクシー内で知り、最後に空港のお店で買った、

フラガール2体

知らなかったけどソーラー仕様になってて光があたるとフラを踊ります
とまあ、ささやかなお土産でも思い出はよみがえるのでありますね
どっとはらい2026年03月22日
ハワイ陸軍博物館その2
(前回記事からの続きです ホノルル連載をはじめからご覧になるにはこちらのカテゴリから)
引き続きハワイ陸軍博物館の展示を、さくさくっと・・・
陸軍航空隊の部隊マーク

と、ノーズアート

このあたりはヨーロッパ戦線での鹵獲品???






と、なるべくパネル展示などはカットしてきましたが、やはり・・

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団については何枚かアップしておきます





GO FOR BROKE・・・
そう、陸軍で最も死傷者の割合が高かった日系人を中心とする部隊で、銃剣突撃までやった
「Go for broke!!!」のスローガンでその勇名をはせ、フランス戦線でのテキサス大隊の救出、
イタリア戦線でのゴシックライン突破など、部隊規模と従軍期間に比し最も多くの勲章を受けた
部隊としても知られ、同時に偏見とも戦い、戦後の日系人の地位向上に大きく貢献した部隊で、
ホノルルの空港名となったダニエル・K・イノウエ議員もそのお一人ですね
(以下、9年前の当ブログ記事からの抜粋です 詳しくは上記リンクをクリック願います)

ま、たまに・・・

おねいさんジオラマは挟んで・・・



ようやくM1ガーランド・ライフルまできましたね
こちらは当時の鹵獲品コレクション?





フレーム・ガン(火炎放射器)M2A1

GOTTA MATCH?
こちらも向きを変えて

このあたりでライフルもM1カービンから



M14まできて・・・
ベトナム戦へ・・・









ま、このあたりまでにして・・・
少しはお楽しみも・・・







と、ミュージアムショップもさくさくっと・・・

厚木基地にもおられたという親切で陽気なベテランがやっておられました



じゅる

じゅるじゅる


じゅるじゅるじゅる



じゅるじゅるじゅるじゅる


特に中段左奥のL型ライトは悩みましたが・・・

こんなモノポリーがあるのね


さらに、


こんなのまであるんですね・・・
とか、ついつい時間を忘れてしまいました
で、陸軍の初期装備兵士と最新装備兵士に迎えられる・・・

ミュージアムショップのあるこちら側が・・・

正しいエントランスだったんですね
わたくしは砲台の二重壁から潜り込んで、このエントランスから出ることに・・・
(ホノルル記事は次回に続きます)
引き続きハワイ陸軍博物館の展示を、さくさくっと・・・
陸軍航空隊の部隊マーク

と、ノーズアート


このあたりはヨーロッパ戦線での鹵獲品???






と、なるべくパネル展示などはカットしてきましたが、やはり・・

第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団については何枚かアップしておきます





GO FOR BROKE・・・
そう、陸軍で最も死傷者の割合が高かった日系人を中心とする部隊で、銃剣突撃までやった
「Go for broke!!!」のスローガンでその勇名をはせ、フランス戦線でのテキサス大隊の救出、
イタリア戦線でのゴシックライン突破など、部隊規模と従軍期間に比し最も多くの勲章を受けた
部隊としても知られ、同時に偏見とも戦い、戦後の日系人の地位向上に大きく貢献した部隊で、
ホノルルの空港名となったダニエル・K・イノウエ議員もそのお一人ですね
(以下、9年前の当ブログ記事からの抜粋です 詳しくは上記リンクをクリック願います)
ここカステルヌォーボ・ディ・ガルファニャーナはゴシック・ラインの北西に位置しています
リボルノ記事でもちらっと書きましたが、米軍の日系人部隊・第442連隊がリボルノに再上陸して、
1945年4月5日からゴシック・ライン突破作戦に参加し、5ヶ月間膠着したままだった戦線を、
僅か32分で突破したのはけっこう有名な話で、その後4月25日にはマッサのドイツ軍を制圧して、
以後はリグリア海沿いにジェノバまで進撃しています(中略)
72年前にアメリカ国籍の日本人の若者たちが、まさにこのあたりでドイツ軍と戦っていた、
と思うと感慨深いものがあります・・・(中略)
閑話休題
と思うと感慨深いものがあります・・・(中略)
(たまたま)スペシャライズドのMTBに乗ったサイクリストがいたので・・・
「はーい、わたくしもスペシャライズドなんですよ、ロードだけど・・・」
「はーい、わたくしもスペシャライズドなんですよ、ロードだけど・・・」
とか声をかけると、なんとドイツから来てるとのこと・・・(中略)
同じ米国ブランドのバイクに乗るドイツ人と日本人が、72年前には互いに激戦を繰り広げていた
イタリアの小さな村で記念写真・・・

やはり平和な時代がいいですね・・・(後略) わたくし9年前とサイクルジャージは同じでも体形が・・・
イタリアの小さな村で記念写真・・・

やはり平和な時代がいいですね・・・(後略) わたくし9年前とサイクルジャージは同じでも体形が・・・
閑話休題

ま、たまに・・・

おねいさんジオラマは挟んで・・・




ようやくM1ガーランド・ライフルまできましたね
こちらは当時の鹵獲品コレクション?





フレーム・ガン(火炎放射器)M2A1

GOTTA MATCH?
こちらも向きを変えて

このあたりでライフルもM1カービンから



M14まできて・・・
ベトナム戦へ・・・









ま、このあたりまでにして・・・
少しはお楽しみも・・・








と、ミュージアムショップもさくさくっと・・・


厚木基地にもおられたという親切で陽気なベテランがやっておられました



じゅる


じゅるじゅる



じゅるじゅるじゅる




じゅるじゅるじゅるじゅる



特に中段左奥のL型ライトは悩みましたが・・・

こんなモノポリーがあるのね


さらに、


こんなのまであるんですね・・・

とか、ついつい時間を忘れてしまいました
で、陸軍の初期装備兵士と最新装備兵士に迎えられる・・・

ミュージアムショップのあるこちら側が・・・

正しいエントランスだったんですね
わたくしは砲台の二重壁から潜り込んで、このエントランスから出ることに・・・

(ホノルル記事は次回に続きます)
2026年03月21日
ハワイ陸軍博物館その1
(前回記事からの続きです ホノルル連載をはじめからご覧になるにはこちらのカテゴリから)
ホノルル5日目は朝からずっと快晴で、これは滞在中はじめてのことでした

この日はそれまでのイベントで疲れてたらのんびり過ごそうと、予定は一応フリー
ま、孫たちの通う小学校や幼稚園も一度は見ておきたいので、嫁と一緒にお迎えに行こうか、
それならそれまでどう過ごすか、わたくしはジャグジーでのんびり、家内はお土産ショッピング、
とゆー案もあったのですが、わたくし3日目の潜水艦ツアーの帰りにバスからちらっと見えた
陸軍博物館を思い出して提案したところ、家内も付き合ってくれることになった次第
で、まったりと朝食(さすがに5日目なので画像はなし
)の後にホテルを出たのは10時過ぎ、
ワイキキトロリー・ピンクラインのダブルデッカー2階に乗って・・・

座席にも別の優待案内がありますが、このピンクラインはJCB系カードを提示するだけで、
大人2人までなら何度乗っても無料、ワイキキ・エリアを一周約60分で周回し、15分おきに
来るのでエリア内の観光や買い物に便利、と長男と嫁がススメてくれてたのでありますね
で、ガイドマップで調べてた、


このホテル前のバス停で下車しました

ハワイで有名なギタリストの像を抜け・・・

角を曲がれば広大なフォート・デ・ルッシ公園で、名前のとおり陸軍の管理地・・・
その中にハワイ陸軍博物館があります

フォート・デ・ルッシ(デ・ルッシ要塞)にあったランドルフ砲台の構造物などを利用して博物館に、
ま、紀淡海峡でいえば由良要塞にあった友ヶ島砲台の一部を博物館にしたようなもので、
建物自体も軍事遺構なのでありますね わくわくわく
さっそく屋外展示から・・・









特に興味深かったのは、その隣にあったこちら・・・

なんと・・・

旋回銃座付きの鋼鉄製トーチカをごみ箱に!!!
真珠湾攻撃前にオアフ島の海岸などに大量に埋めて設置されてたそうです
と、そのまま隣の入口から建物に入ったのですが・・・

どうも博物館のエントランスではなかったようで・・・

とりあえずコブラ攻撃ヘリの展示があるとゆー2階へ・・




こちらも別の記念施設のようでした・・・
で、そのまま屋上???2階テラス???に出てみると・・・

眼の前にAH-1???コブラ攻撃ヘリが!!!
眼下には先ほどの地上展示が見えました

ま、せっかくなので・・・

記念写真を撮ってもらいました 長さのワリにめっちゃ薄っぺらなんですね
沿岸砲の砲台だった構造物なので・・・



立体構造が複雑になってるんですね
で、極厚コンクリートの二重構造になっている半地下へ・・・


こちらがランドルフ砲台の壁面コア・サンプルで、この厚さの壁が二重に
と二重壁の間を抜け、ようやく博物館施設内に入ったようです

これが砲台当時の全容???

左翼の砲台???

右翼の砲台???



この地下構造物の各室が陸軍博物館のメイン展示室になっており、

ここから奥に行くにつれ、現代に近づく展示になってるようでした
説明パネルやスケールモデルもいっぱい撮ったのですが、紹介してるとキリがないので、
当記事では実物展示をメインに、以下さくさくっと・・・


フリントロックのマスケット銃


M1896(はじめてのマガジン式?)ライフル


こちらはランドルフ砲台当時の様子を再現してますね
その隣


装薬室や砲弾室は砲台の中央に配置してたんですね


こちらはエンフィールドM1917ですね
このあたりは真珠湾攻撃前後の展示




と、これまでスケールモデルやジオラマはカットしてきたけど、これはぜひ・・・

そう、

イ-19などの潜水艦と・・・

二式飛行艇(二式大艇)による1942年3月のパールハーバー攻撃!!!
たまたま損害はなかったようですが、まさに脅威だったんですね
で、日本軍の空襲や上陸に備え、記事冒頭のトーチカや機関銃や鉄条網を・・・

ワイキキ・ビーチにも大量に配備してたそうです
(次号に続きます)
ホノルル5日目は朝からずっと快晴で、これは滞在中はじめてのことでした

この日はそれまでのイベントで疲れてたらのんびり過ごそうと、予定は一応フリー
ま、孫たちの通う小学校や幼稚園も一度は見ておきたいので、嫁と一緒にお迎えに行こうか、
それならそれまでどう過ごすか、わたくしはジャグジーでのんびり、家内はお土産ショッピング、
とゆー案もあったのですが、わたくし3日目の潜水艦ツアーの帰りにバスからちらっと見えた
陸軍博物館を思い出して提案したところ、家内も付き合ってくれることになった次第
で、まったりと朝食(さすがに5日目なので画像はなし
)の後にホテルを出たのは10時過ぎ、ワイキキトロリー・ピンクラインのダブルデッカー2階に乗って・・・

座席にも別の優待案内がありますが、このピンクラインはJCB系カードを提示するだけで、
大人2人までなら何度乗っても無料、ワイキキ・エリアを一周約60分で周回し、15分おきに
来るのでエリア内の観光や買い物に便利、と長男と嫁がススメてくれてたのでありますね
で、ガイドマップで調べてた、


このホテル前のバス停で下車しました

ハワイで有名なギタリストの像を抜け・・・

角を曲がれば広大なフォート・デ・ルッシ公園で、名前のとおり陸軍の管理地・・・
その中にハワイ陸軍博物館があります

フォート・デ・ルッシ(デ・ルッシ要塞)にあったランドルフ砲台の構造物などを利用して博物館に、
ま、紀淡海峡でいえば由良要塞にあった友ヶ島砲台の一部を博物館にしたようなもので、
建物自体も軍事遺構なのでありますね わくわくわく

さっそく屋外展示から・・・









特に興味深かったのは、その隣にあったこちら・・・

なんと・・・

旋回銃座付きの鋼鉄製トーチカをごみ箱に!!!
真珠湾攻撃前にオアフ島の海岸などに大量に埋めて設置されてたそうです
と、そのまま隣の入口から建物に入ったのですが・・・

どうも博物館のエントランスではなかったようで・・・

とりあえずコブラ攻撃ヘリの展示があるとゆー2階へ・・




こちらも別の記念施設のようでした・・・
で、そのまま屋上???2階テラス???に出てみると・・・

眼の前にAH-1???コブラ攻撃ヘリが!!!

眼下には先ほどの地上展示が見えました

ま、せっかくなので・・・

記念写真を撮ってもらいました 長さのワリにめっちゃ薄っぺらなんですね
沿岸砲の砲台だった構造物なので・・・



立体構造が複雑になってるんですね
で、極厚コンクリートの二重構造になっている半地下へ・・・


こちらがランドルフ砲台の壁面コア・サンプルで、この厚さの壁が二重に

と二重壁の間を抜け、ようやく博物館施設内に入ったようです

これが砲台当時の全容???

左翼の砲台???

右翼の砲台???



この地下構造物の各室が陸軍博物館のメイン展示室になっており、

ここから奥に行くにつれ、現代に近づく展示になってるようでした
説明パネルやスケールモデルもいっぱい撮ったのですが、紹介してるとキリがないので、
当記事では実物展示をメインに、以下さくさくっと・・・


フリントロックのマスケット銃


M1896(はじめてのマガジン式?)ライフル


こちらはランドルフ砲台当時の様子を再現してますね
その隣


装薬室や砲弾室は砲台の中央に配置してたんですね


こちらはエンフィールドM1917ですね
このあたりは真珠湾攻撃前後の展示




と、これまでスケールモデルやジオラマはカットしてきたけど、これはぜひ・・・

そう、

イ-19などの潜水艦と・・・

二式飛行艇(二式大艇)による1942年3月のパールハーバー攻撃!!!
たまたま損害はなかったようですが、まさに脅威だったんですね
で、日本軍の空襲や上陸に備え、記事冒頭のトーチカや機関銃や鉄条網を・・・

ワイキキ・ビーチにも大量に配備してたそうです
(次号に続きます)






