ミリタリーグッズ
2026年06月23日
自転車で勝てた戦争があった
ええ、前回記事つーか前々回記事の続きつーか・・・

自転車で勝てた戦争があった~サイクルアーミーと新軍事モビリティー~
とゆー本のご紹介であります
表紙カバー裏にあった惹句

先の大戦での戦没日本兵165万人のうち37%(約61万人)が「広義の餓死者」とあり、
「押して歩く自転車」があれば、餓死者数をゼロにできた可能性が・・・とありますが、
他にも実際の戦場における様々な自転車の活用例が紹介されてました
著者略歴

そう、前々回記事で紹介した本と同じ著者の本です
奥付

目次




以下、序にあった各章の紹介を中心にしたメモです(⇒は各章からのメモ)
てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします
第1章では、まず諸作戦の中で失敗の代表とされる「インパール作戦」から
・インパール作戦(1944年3月~7月)には約10万人が動員され、うち戦没者は約3万人
⇒フィリピン防衛作戦10ヶ月での戦没者43万人には及ばないが約3万人の8割が餓死者だった
⇒糧食補給を軽視した点で特に無謀・愚劣な作戦と言われている
⇒ビルマ(現在のミャンマー)とインド東部(現在のバングラデシュ)を隔てるアラカン山脈は、
その東西で民族が異なる(インド人とビルマ人)ほどの難所で牛馬での物資輸送も困難だった
⇒英軍はインド植民地を防衛するには、この難所を越えてくる日本軍を西側で迎え撃つのが
合理的だと過去の歴史(攻め入った側が必ず負けている)からも理解していた
⇒事実そうなったのだが・・・
・当時でも日本の占領地から数千~数万台の自転車は搔き集められたはず
⇒基本「乗用」は考えないので金属リムさえしっかりしてたらいい
⇒コメ80kgを積載しても二人がかりで押し引きすれば急坂も通過できたはず(実験済み)
⇒これで前線への物資補給、後方への重傷者搬送を行っていたら・・・
・自転車が大発明なのは「前後二輪タンデムで地上障害があっても横転しない」こと
(四輪や左右二輪では通過できない道も通過でき歩行と同じ斜面トラバースも可能)
(さらに牛馬や自動車と異なり飼料や燃料とその中継点が不要)
⇒コンゴ民主共和国のチュクードゥー、ベトミン・ベトコンのプッシュバイク・・・
・戦前日本の農村社会は弥生時代以来の「重力灌漑式水稲作」に根ざした秩序感
⇒同じ灌漑水系の運命共同体では所属する集団の強い空気束縛がある
⇒明治以降の都市部でも軍隊など何らかの組織に属せば同様の同調圧を承知していた
⇒なので兵隊集団はどんな無理難題でも命令通り動いた
⇒ところが物資は物理法則でしか動かない
(なのでインパールでもニューギニアでもガダルカナルでも餓死者が続出した)
第2章では日露戦争(1904~05)で自転車を使わなかったことについての考察
・軍隊が自転車を本格的に使用したのは第二次ボーア戦争(1899~1902)から
⇒1885年に後輪チェーン駆動・中空鋼管ダイヤモンド型フレーム・ボールベアリングといった
安全型自転車ローバーが考案され英国BSA(バーミンガム・スモール・アームズ)社が大量生産
(中空鋼管などの技術で有利だったので各国とも銃器メーカーが自転車製造に参入した)
⇒1890年代は西洋市民にモビリティ革命が起きつつあった⇒当然軍事革命にも
(道さえあれば一日の行動範囲が徒歩20マイルから自転車100マイルへ)
・南アフリカの乾燥した土地では騎馬部隊より自転車部隊が有利だった
⇒馬には睡眠と餌と水が必要だが自転車は注油と空気ポンプだけ⇒噛まないし蹴らない
⇒大規模な騎兵部隊は池や川の近くしかパドックを設営できず乾燥地では位置が推定できる
⇒草原で騎兵は数マイル先から見えるが自転車兵は見えず馬は倒せないが自転車は倒せる
(当時の生ゴムチューブは棘でよくパンクしボーア軍コマンドーはレザー補強していたが、
英国軍は自転車使用をあきらめた⇒ただし棘では馬も動けなくなる)
・自転車は騎兵ではなく駄馬輜重隊や乗馬歩兵(ドラグーン)の有力な代替候補だったが、
1909年以降は全ての国が「自動車(四輪・二輪・装甲車・戦車)」に傾いていった
⇒後進工業国で石油輸入国だった日本の陸軍も同じ道を選んでしまった
(日露戦争の勝利で南満州鉄道も手に入り港湾との接続も可能になったと過信した?)
第3章では自転車の進化、製造制限と「マレー電撃戦」銀輪部隊の例外的な成功について
・西南戦争は輸送戦争
⇒官軍は兵員と弾薬を汽船で九州の海岸へ、兵員は徒歩で弾薬は人力車で最前線へ
⇒田原坂を迂回しなかったのは人力車(左右2輪)輸送できる唯一の道だったから
・ようやく大正11年に荷物運搬用リヤカーが市販された
⇒大正4年に10万台登録されていた人力車が昭和元年には5万台に
⇒無動力の荷車や自転車の普及が遅いのは江戸時代からの悪税のせいで昭和33年まで続いた
・マレー電撃戦前夜
⇒1940年5月にドイツがオランダ本国を占領⇒蘭領インドシナ(インドネシア)が宗主空白に
(それ以前にフランスがビシー政権になっており仏領インドシナ(ベトナム)北部には進駐済み)
⇒英国はまだドイツに屈していないが時間の問題と思われていた
⇒いずれ英領マレー半島やボルネオ島サバ・ブルネイ・サラワクも宗主空白になるはず
⇒日本がスマトラ島やボルネオ島の油田地帯を占領するには、当時の陸軍戦闘機「隼」の
航続距離からシンガポールの占領が必要
⇒シンガポール攻略のためにはインドシナ半島の南端部に航空基地が必要
⇒1941年7月に仏領インドシナ(ベトナム)南部にも進駐した
⇒植民地支配していた米英が日本に経済制裁を発動⇒開戦へ
・マレー電撃戦
⇒インドシナ半島南端部の航空基地からエアカバーできるタイ南部に上陸してシンガポールへ
⇒この1000kmを自動車と自転車だけで急進撃する研究と実験から可能と判断した
⇒第5第18の両師団に自動車各500台と自転車各6000台が装備された
⇒マレー半島には舗装された縦貫道があり道路から幅1kmはゴム園で部隊も入れるが、
その奥は移動も自活も不可能なジャングルで逃げた敵もやがて投降してきた
⇒55日間で1100km、1日平均20km、毎日2回ずつ敵と交戦、毎日4~5ヶ所の橋を修理
(自転車が官給品ではなく現地調達品だったので部品取りや使い捨てが自由にできた)
⇒電撃戦として成功した事例だったが以後の作戦には活かされなかった
第4章では「ニューギニア島ポートモレスビー攻略戦」と「ガダルカナル島攻防戦」から
・ニューギニア島北岸のブナからオーエンスタンレー山脈を越え南岸のポートモレスビーへ
⇒オーストラリアのブリスベンと東京との中間地点が日本の委任統治領だったトラック環礁
⇒トラック島の艦隊泊地を空襲から守るため1200km南方のニューブリテン島ラバウルを占領
⇒拡張中のポートモレスビー航空基地がラバウルから800km圏内だったので攻撃へ
⇒上陸からの直線距離は170kmだが実際には360km以上あり山脈の最高峰は4100m
⇒物資を運べず食糧も弾薬も尽きて6000人中4500人が死亡
⇒最終的に東部ニューギニアでは15~16万人のうち128000人が戦没、その殆どが餓死
・ガダルカナル島攻防戦
⇒ラバウルから1100km圏の航空基地適地がガダルカナル島だった
⇒B-17ならガダルカナル島からラバウルを爆撃可能で新型エセックス級空母が就航すれば
トラックの艦隊泊地も攻撃可能に
⇒日本はすでに正規空母4隻を喪失しており基地航空隊が頼りだった
⇒どちらにもガダルカナル島は航空基地として重要拠点だった
⇒1942年7月16日から日本の設営隊が飛行場設営開始
⇒8月7日には米海兵隊が航空支援を受け上陸占領、以後は激しい攻防戦に
⇒日本軍は夜間に潜水艦で揚陸した物資さえ海岸から運び出せず砲撃で焼失していた
(兵隊は歩けるが物資は⇒自転車(プッシュバイク)さえあれば・・・)
⇒上陸した総人員は31400人、うち死者は20800人だが純然たる戦死者は5~6000人で、
残りは栄養失調による病死と総括されている(米軍の戦死者は1000人で負傷は4245人)
第5章では1950~60年代のベトナム軍のプッシュバイクの成功原因から
・ディエンビエンフーの大勝利
⇒連合国はベトナム民主共和国の独立を認めず1946年に統治権をフランスに戻した
⇒1950年に中国とソ連が国家承認してベドミン軍に物資援助をはじめた
⇒1953年までに仏軍19万人のうち74000人が死傷していた
⇒仏軍はハノイ北のディエンビエンフー盆地に高台要塞を築き中国からの補給路を分断すれば
ベドミン軍は正面攻撃せざるを得ないので、集中したところを空軍で全滅させる作戦へ
(ベドミンが物資を集中させるのに幹線道路を使えば制空権がある空軍で攻撃できる前提)
・ボー・グエン・ザップは1台の自転車に物資を200kg以上吊るして、夜間にジャングルの
細道を進ませ、必要な物資を途切れなく最前線へ送り続けた
⇒仏軍は1953年3月13日の攻撃開始から5月7日に8000人が投降するまでに3000人が戦死した
・仏軍も毎日120トンの物資が空から投下されていたが、火力はベドミン軍の1/4だった
⇒この戦いで、その後にインドシナからフランスが出ていく流れも確定した
・当時ベトナムにありふれていたのはプジョーの乗用自転車
⇒基本はサドルを除去し坂道を肩で押す材木をシートポストに差し、左側のハンドルバーに
延長クロスバーを縛り付けて、左手で左右に大きく張り出した荷物のバランスをとった
(現ベトナム陸軍には最初から左ハンドルバーが長い輸送用自転車がある)
⇒さらに前輪フォークやリムを木材や鉄筋で強化して200kgを標準積載量とした
・第2次インドシナ戦争が「ベトナム戦争」
⇒1963年には米軍の「アドバイザー」12000人が南ベトナムに駐留していた
⇒それから6年間で最大50万人の米兵が投入されている
⇒ジャングル内の「ホーチミン・トレイル(日本のマスコミではルート)」が補給幹線に
⇒1965年以降はトラック輸送に変貌するがトラック困難地には引き続き自転車だった
⇒トラックにはヘリ攻撃が有効だったが道沿いに高射機関砲が配備されるとB-52爆撃へ
⇒空爆損耗は2%程度だったが自転車要員の1~2割は病気・疲労・野獣により死亡している
(必携品は防蚊ネットとビニールシート、廃タイヤから作ったホーチミン・サンダル・・・)
⇒一説ではベトコンは最盛期に20万人以上の自転車輜重兵を駆使していた
⇒1969年から日本製オートバイが東南アジアに大量に輸出された
⇒1970年以降はベトコンもオートバイを活用できるようになった
⇒自転車全盛期を終わらせたのは米軍ではなくホンダのカブだった・・・
第6章ではドイツ軍・イタリア軍・スイス軍の過去の自転車活用例を紹介
⇒そこから日本の国家非常事態と自転車との関係を展望する
・18世紀に登場した蒸気鉄道と自転車は大衆のモビリティを一変させた
⇒どちらも「中間デポ」なしで移動できて、すぐに修理できる移動機械
⇒砂漠のノマドが使っていたヒトコブラクダと同じ
⇒いずれもモータリゼーションが駆逐した
・軍の自動車化・機甲化は軍の移動を不自由にした
⇒自国内か植民地に油田と製油所がある国のみが耐えられるが、独ソ戦ではロシアでさえ
中間デポへの負担が大きく米軍の後方支援を必要とした
⇒自転車は中間デポなしで武器弾薬糧食とともに移動して、そのまま戦える
⇒鉄道も補給支援車両を呼べるので爆撃されても中間デポなしで修理できた
⇒中世イスラム軍もヒトコブラクダがあったので荷車も中間デポもなかった
⇒13世紀モンゴル軍も糧食である羊を自走させ後方兵站を省略できた
⇒「持たざる国」が自動車化したことが現代の罠だった
・ドイツ軍
⇒ヒトラーは大衆に自動車を持たせることで失業率も下げ人気を確定した
⇒それまでの蒸気機関車・馬車・自転車から自動車に変えることは大きなリスクだったが、
階級社会の解消にもモビリティ革命は必要で、軍も自動車化・機甲化したが、
⇒1939年ポーランド侵攻の直後から、すでにベルリンではガソリンが逼迫していた
(西部戦では侵攻先でガソリンスタンドを押収していたが独ソ戦では本国からで持続不可能に)
⇒1940年のオランダ占領で数百万台の自転車を押収した(1944年には全て消耗している)
⇒1941年のバルバロッサ作戦では数十万台の自転車を移動させ装甲師団の後を走らせた
・イタリア軍
⇒1890年代から自転車化歩兵を配置
⇒1912年には北アフリカでトルコと戦うためビアンキ社に6000台を発注(1912型)
⇒派手な帽子でスポーティな自転車部隊は国民に人気だった
⇒1912型はフロントフォークのバネや高い位置のクランク軸など現代マウンテンバイクの先祖
・スイス軍
⇒国内に山岳道路が発達しているが自動車燃料は100%輸入で備蓄が切れる危険もあり、
道路も自然災害や侵略などで車両通行困難になる可能性もある
⇒自転車なら斜面トラバースも担ぐことも修理も個人でできる
⇒自転車連隊専用のMO-05は1989年までに68000台が製造された
(戦後マイナーチェンジしたがシングルスピードのままで2種類のギア付きに)
⇒これに75kgの装備を積んで一晩で200km移動する訓練をしていた
(国際競技にエントリーできるレベルの身体能力を持つエリートばかりだった)
⇒1993年にシマノ製7段変速ギアの付いたMO-93にフルモデルチェンジした
⇒冷戦終了後は若者の身体機能が落ちたこともあり2003年に自転車連隊を廃止した
⇒ただし自転車装備は2012年にアルミフレーム・シマノ遊星ギアのMO-12に更新している
⇒車体が軽くなりギアが高性能化したことにより、現代の若者でも32kgの装備で山岳機動が
できるようになっている
⇒2014年のロシア軍クリミア侵攻により、2015年には自転車連隊の復活を公表した
・農林水産省は戦乱やパンデミックで輸入が急減するなどで1人1日1900kcalを割り込んだ場合、
農家にイモ類を強制作付させて燃料も重点的に配分しよう考えている(別の著書あり)
⇒出荷地から需要地(都市部)の消費者へどうやって運ぶのか
⇒平時なら耕地や加工場からトラックで都市や近郊の商店へ、消費者は自家用車で商店へ
⇒燃料が尽きればイモ類もそれを加熱する薪や柴も里山から運べない
⇒本書で紹介したプッシュバイク・リヤカー・チュクードゥーを最大限活用するしかない
(実際に難民キャンプではチュクードゥーが焚き木を配っている)
・江戸時代に自転車はなく先の大戦前後には車両登録税や鉄材統制で国民はフルに自転車を
輸送に用いる機会を与えられなかった
⇒自転車(輸送)により、どのぐらいの人口を地産地消で支え得るのか・・・
⇒じつは誰も知らない・・・
「あとがきにかえて」より
・陸上自衛隊が2024年1月1日の能登地震までプッシュバイクを知らなかったとしても
(実際に孤立した被災地に徒歩で物資を届けていた)、明治の八甲田山でノルディックスキーを
知らなかった青森歩兵連隊が、今では山スキーとフィンランド式の橇で迅速移動しているのと
同じように、1950年代からある「プッシュバイク」について今からでも学ぶことは可能
・人手不足がさらに深刻化する自衛隊では自転車の全面的な導入を考えるべき
⇒乗用機動と押して歩く輸送との両方の実験研究を進める必要がある
⇒体力検定も40歳以上は自転車可とか予備自衛官の補助老兵は手押し自転車とかも
・我が国が万一戦場となれば避難民が道路をうずめ大きな車両は移動困難に
⇒プッシュバイクなら移動可能で一人の押し手が一人の重患者を運び出して救出できる
⇒これができなかったビルマ・東部ニューギニア・ガダルカナル・比島で戦友をジャングルに
置き去りにするしかなくなり数十万人を見殺しにしたが、それらは自転車の準備さえあれば
回避できたカタストロフだった
・・・
はてさて・・・

自転車で勝てた戦争があった~サイクルアーミーと新軍事モビリティー~
とゆー本のご紹介であります
表紙カバー裏にあった惹句

先の大戦での戦没日本兵165万人のうち37%(約61万人)が「広義の餓死者」とあり、
「押して歩く自転車」があれば、餓死者数をゼロにできた可能性が・・・とありますが、
他にも実際の戦場における様々な自転車の活用例が紹介されてました
著者略歴

そう、前々回記事で紹介した本と同じ著者の本です
奥付

目次




以下、序にあった各章の紹介を中心にしたメモです(⇒は各章からのメモ)
てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします
第1章では、まず諸作戦の中で失敗の代表とされる「インパール作戦」から
・インパール作戦(1944年3月~7月)には約10万人が動員され、うち戦没者は約3万人
⇒フィリピン防衛作戦10ヶ月での戦没者43万人には及ばないが約3万人の8割が餓死者だった
⇒糧食補給を軽視した点で特に無謀・愚劣な作戦と言われている
⇒ビルマ(現在のミャンマー)とインド東部(現在のバングラデシュ)を隔てるアラカン山脈は、
その東西で民族が異なる(インド人とビルマ人)ほどの難所で牛馬での物資輸送も困難だった
⇒英軍はインド植民地を防衛するには、この難所を越えてくる日本軍を西側で迎え撃つのが
合理的だと過去の歴史(攻め入った側が必ず負けている)からも理解していた
⇒事実そうなったのだが・・・
・当時でも日本の占領地から数千~数万台の自転車は搔き集められたはず
⇒基本「乗用」は考えないので金属リムさえしっかりしてたらいい
⇒コメ80kgを積載しても二人がかりで押し引きすれば急坂も通過できたはず(実験済み)
⇒これで前線への物資補給、後方への重傷者搬送を行っていたら・・・
・自転車が大発明なのは「前後二輪タンデムで地上障害があっても横転しない」こと
(四輪や左右二輪では通過できない道も通過でき歩行と同じ斜面トラバースも可能)
(さらに牛馬や自動車と異なり飼料や燃料とその中継点が不要)
⇒コンゴ民主共和国のチュクードゥー、ベトミン・ベトコンのプッシュバイク・・・
・戦前日本の農村社会は弥生時代以来の「重力灌漑式水稲作」に根ざした秩序感
⇒同じ灌漑水系の運命共同体では所属する集団の強い空気束縛がある
⇒明治以降の都市部でも軍隊など何らかの組織に属せば同様の同調圧を承知していた
⇒なので兵隊集団はどんな無理難題でも命令通り動いた
⇒ところが物資は物理法則でしか動かない
(なのでインパールでもニューギニアでもガダルカナルでも餓死者が続出した)
第2章では日露戦争(1904~05)で自転車を使わなかったことについての考察
・軍隊が自転車を本格的に使用したのは第二次ボーア戦争(1899~1902)から
⇒1885年に後輪チェーン駆動・中空鋼管ダイヤモンド型フレーム・ボールベアリングといった
安全型自転車ローバーが考案され英国BSA(バーミンガム・スモール・アームズ)社が大量生産
(中空鋼管などの技術で有利だったので各国とも銃器メーカーが自転車製造に参入した)
⇒1890年代は西洋市民にモビリティ革命が起きつつあった⇒当然軍事革命にも
(道さえあれば一日の行動範囲が徒歩20マイルから自転車100マイルへ)
・南アフリカの乾燥した土地では騎馬部隊より自転車部隊が有利だった
⇒馬には睡眠と餌と水が必要だが自転車は注油と空気ポンプだけ⇒噛まないし蹴らない

⇒大規模な騎兵部隊は池や川の近くしかパドックを設営できず乾燥地では位置が推定できる
⇒草原で騎兵は数マイル先から見えるが自転車兵は見えず馬は倒せないが自転車は倒せる
(当時の生ゴムチューブは棘でよくパンクしボーア軍コマンドーはレザー補強していたが、
英国軍は自転車使用をあきらめた⇒ただし棘では馬も動けなくなる)
・自転車は騎兵ではなく駄馬輜重隊や乗馬歩兵(ドラグーン)の有力な代替候補だったが、
1909年以降は全ての国が「自動車(四輪・二輪・装甲車・戦車)」に傾いていった
⇒後進工業国で石油輸入国だった日本の陸軍も同じ道を選んでしまった
(日露戦争の勝利で南満州鉄道も手に入り港湾との接続も可能になったと過信した?)
第3章では自転車の進化、製造制限と「マレー電撃戦」銀輪部隊の例外的な成功について
・西南戦争は輸送戦争
⇒官軍は兵員と弾薬を汽船で九州の海岸へ、兵員は徒歩で弾薬は人力車で最前線へ
⇒田原坂を迂回しなかったのは人力車(左右2輪)輸送できる唯一の道だったから
・ようやく大正11年に荷物運搬用リヤカーが市販された
⇒大正4年に10万台登録されていた人力車が昭和元年には5万台に
⇒無動力の荷車や自転車の普及が遅いのは江戸時代からの悪税のせいで昭和33年まで続いた
・マレー電撃戦前夜
⇒1940年5月にドイツがオランダ本国を占領⇒蘭領インドシナ(インドネシア)が宗主空白に
(それ以前にフランスがビシー政権になっており仏領インドシナ(ベトナム)北部には進駐済み)
⇒英国はまだドイツに屈していないが時間の問題と思われていた
⇒いずれ英領マレー半島やボルネオ島サバ・ブルネイ・サラワクも宗主空白になるはず
⇒日本がスマトラ島やボルネオ島の油田地帯を占領するには、当時の陸軍戦闘機「隼」の
航続距離からシンガポールの占領が必要
⇒シンガポール攻略のためにはインドシナ半島の南端部に航空基地が必要
⇒1941年7月に仏領インドシナ(ベトナム)南部にも進駐した
⇒植民地支配していた米英が日本に経済制裁を発動⇒開戦へ
・マレー電撃戦
⇒インドシナ半島南端部の航空基地からエアカバーできるタイ南部に上陸してシンガポールへ
⇒この1000kmを自動車と自転車だけで急進撃する研究と実験から可能と判断した
⇒第5第18の両師団に自動車各500台と自転車各6000台が装備された
⇒マレー半島には舗装された縦貫道があり道路から幅1kmはゴム園で部隊も入れるが、
その奥は移動も自活も不可能なジャングルで逃げた敵もやがて投降してきた
⇒55日間で1100km、1日平均20km、毎日2回ずつ敵と交戦、毎日4~5ヶ所の橋を修理
(自転車が官給品ではなく現地調達品だったので部品取りや使い捨てが自由にできた)
⇒電撃戦として成功した事例だったが以後の作戦には活かされなかった
第4章では「ニューギニア島ポートモレスビー攻略戦」と「ガダルカナル島攻防戦」から
・ニューギニア島北岸のブナからオーエンスタンレー山脈を越え南岸のポートモレスビーへ
⇒オーストラリアのブリスベンと東京との中間地点が日本の委任統治領だったトラック環礁
⇒トラック島の艦隊泊地を空襲から守るため1200km南方のニューブリテン島ラバウルを占領
⇒拡張中のポートモレスビー航空基地がラバウルから800km圏内だったので攻撃へ
⇒上陸からの直線距離は170kmだが実際には360km以上あり山脈の最高峰は4100m
⇒物資を運べず食糧も弾薬も尽きて6000人中4500人が死亡
⇒最終的に東部ニューギニアでは15~16万人のうち128000人が戦没、その殆どが餓死
・ガダルカナル島攻防戦
⇒ラバウルから1100km圏の航空基地適地がガダルカナル島だった
⇒B-17ならガダルカナル島からラバウルを爆撃可能で新型エセックス級空母が就航すれば
トラックの艦隊泊地も攻撃可能に
⇒日本はすでに正規空母4隻を喪失しており基地航空隊が頼りだった
⇒どちらにもガダルカナル島は航空基地として重要拠点だった
⇒1942年7月16日から日本の設営隊が飛行場設営開始
⇒8月7日には米海兵隊が航空支援を受け上陸占領、以後は激しい攻防戦に
⇒日本軍は夜間に潜水艦で揚陸した物資さえ海岸から運び出せず砲撃で焼失していた
(兵隊は歩けるが物資は⇒自転車(プッシュバイク)さえあれば・・・)
⇒上陸した総人員は31400人、うち死者は20800人だが純然たる戦死者は5~6000人で、
残りは栄養失調による病死と総括されている(米軍の戦死者は1000人で負傷は4245人)
第5章では1950~60年代のベトナム軍のプッシュバイクの成功原因から
・ディエンビエンフーの大勝利
⇒連合国はベトナム民主共和国の独立を認めず1946年に統治権をフランスに戻した
⇒1950年に中国とソ連が国家承認してベドミン軍に物資援助をはじめた
⇒1953年までに仏軍19万人のうち74000人が死傷していた
⇒仏軍はハノイ北のディエンビエンフー盆地に高台要塞を築き中国からの補給路を分断すれば
ベドミン軍は正面攻撃せざるを得ないので、集中したところを空軍で全滅させる作戦へ
(ベドミンが物資を集中させるのに幹線道路を使えば制空権がある空軍で攻撃できる前提)
・ボー・グエン・ザップは1台の自転車に物資を200kg以上吊るして、夜間にジャングルの
細道を進ませ、必要な物資を途切れなく最前線へ送り続けた
⇒仏軍は1953年3月13日の攻撃開始から5月7日に8000人が投降するまでに3000人が戦死した
・仏軍も毎日120トンの物資が空から投下されていたが、火力はベドミン軍の1/4だった
⇒この戦いで、その後にインドシナからフランスが出ていく流れも確定した
・当時ベトナムにありふれていたのはプジョーの乗用自転車
⇒基本はサドルを除去し坂道を肩で押す材木をシートポストに差し、左側のハンドルバーに
延長クロスバーを縛り付けて、左手で左右に大きく張り出した荷物のバランスをとった
(現ベトナム陸軍には最初から左ハンドルバーが長い輸送用自転車がある)
⇒さらに前輪フォークやリムを木材や鉄筋で強化して200kgを標準積載量とした
・第2次インドシナ戦争が「ベトナム戦争」
⇒1963年には米軍の「アドバイザー」12000人が南ベトナムに駐留していた
⇒それから6年間で最大50万人の米兵が投入されている
⇒ジャングル内の「ホーチミン・トレイル(日本のマスコミではルート)」が補給幹線に
⇒1965年以降はトラック輸送に変貌するがトラック困難地には引き続き自転車だった
⇒トラックにはヘリ攻撃が有効だったが道沿いに高射機関砲が配備されるとB-52爆撃へ
⇒空爆損耗は2%程度だったが自転車要員の1~2割は病気・疲労・野獣により死亡している
(必携品は防蚊ネットとビニールシート、廃タイヤから作ったホーチミン・サンダル・・・)
⇒一説ではベトコンは最盛期に20万人以上の自転車輜重兵を駆使していた
⇒1969年から日本製オートバイが東南アジアに大量に輸出された
⇒1970年以降はベトコンもオートバイを活用できるようになった
⇒自転車全盛期を終わらせたのは米軍ではなくホンダのカブだった・・・
第6章ではドイツ軍・イタリア軍・スイス軍の過去の自転車活用例を紹介
⇒そこから日本の国家非常事態と自転車との関係を展望する
・18世紀に登場した蒸気鉄道と自転車は大衆のモビリティを一変させた
⇒どちらも「中間デポ」なしで移動できて、すぐに修理できる移動機械
⇒砂漠のノマドが使っていたヒトコブラクダと同じ
⇒いずれもモータリゼーションが駆逐した
・軍の自動車化・機甲化は軍の移動を不自由にした
⇒自国内か植民地に油田と製油所がある国のみが耐えられるが、独ソ戦ではロシアでさえ
中間デポへの負担が大きく米軍の後方支援を必要とした
⇒自転車は中間デポなしで武器弾薬糧食とともに移動して、そのまま戦える
⇒鉄道も補給支援車両を呼べるので爆撃されても中間デポなしで修理できた
⇒中世イスラム軍もヒトコブラクダがあったので荷車も中間デポもなかった
⇒13世紀モンゴル軍も糧食である羊を自走させ後方兵站を省略できた
⇒「持たざる国」が自動車化したことが現代の罠だった
・ドイツ軍
⇒ヒトラーは大衆に自動車を持たせることで失業率も下げ人気を確定した
⇒それまでの蒸気機関車・馬車・自転車から自動車に変えることは大きなリスクだったが、
階級社会の解消にもモビリティ革命は必要で、軍も自動車化・機甲化したが、
⇒1939年ポーランド侵攻の直後から、すでにベルリンではガソリンが逼迫していた
(西部戦では侵攻先でガソリンスタンドを押収していたが独ソ戦では本国からで持続不可能に)
⇒1940年のオランダ占領で数百万台の自転車を押収した(1944年には全て消耗している)
⇒1941年のバルバロッサ作戦では数十万台の自転車を移動させ装甲師団の後を走らせた
・イタリア軍
⇒1890年代から自転車化歩兵を配置
⇒1912年には北アフリカでトルコと戦うためビアンキ社に6000台を発注(1912型)
⇒派手な帽子でスポーティな自転車部隊は国民に人気だった
⇒1912型はフロントフォークのバネや高い位置のクランク軸など現代マウンテンバイクの先祖
・スイス軍
⇒国内に山岳道路が発達しているが自動車燃料は100%輸入で備蓄が切れる危険もあり、
道路も自然災害や侵略などで車両通行困難になる可能性もある
⇒自転車なら斜面トラバースも担ぐことも修理も個人でできる
⇒自転車連隊専用のMO-05は1989年までに68000台が製造された
(戦後マイナーチェンジしたがシングルスピードのままで2種類のギア付きに)
⇒これに75kgの装備を積んで一晩で200km移動する訓練をしていた
(国際競技にエントリーできるレベルの身体能力を持つエリートばかりだった)
⇒1993年にシマノ製7段変速ギアの付いたMO-93にフルモデルチェンジした
⇒冷戦終了後は若者の身体機能が落ちたこともあり2003年に自転車連隊を廃止した
⇒ただし自転車装備は2012年にアルミフレーム・シマノ遊星ギアのMO-12に更新している
⇒車体が軽くなりギアが高性能化したことにより、現代の若者でも32kgの装備で山岳機動が
できるようになっている
⇒2014年のロシア軍クリミア侵攻により、2015年には自転車連隊の復活を公表した
・農林水産省は戦乱やパンデミックで輸入が急減するなどで1人1日1900kcalを割り込んだ場合、
農家にイモ類を強制作付させて燃料も重点的に配分しよう考えている(別の著書あり)
⇒出荷地から需要地(都市部)の消費者へどうやって運ぶのか
⇒平時なら耕地や加工場からトラックで都市や近郊の商店へ、消費者は自家用車で商店へ
⇒燃料が尽きればイモ類もそれを加熱する薪や柴も里山から運べない
⇒本書で紹介したプッシュバイク・リヤカー・チュクードゥーを最大限活用するしかない
(実際に難民キャンプではチュクードゥーが焚き木を配っている)
・江戸時代に自転車はなく先の大戦前後には車両登録税や鉄材統制で国民はフルに自転車を
輸送に用いる機会を与えられなかった
⇒自転車(輸送)により、どのぐらいの人口を地産地消で支え得るのか・・・
⇒じつは誰も知らない・・・
「あとがきにかえて」より
・陸上自衛隊が2024年1月1日の能登地震までプッシュバイクを知らなかったとしても
(実際に孤立した被災地に徒歩で物資を届けていた)、明治の八甲田山でノルディックスキーを
知らなかった青森歩兵連隊が、今では山スキーとフィンランド式の橇で迅速移動しているのと
同じように、1950年代からある「プッシュバイク」について今からでも学ぶことは可能
・人手不足がさらに深刻化する自衛隊では自転車の全面的な導入を考えるべき
⇒乗用機動と押して歩く輸送との両方の実験研究を進める必要がある
⇒体力検定も40歳以上は自転車可とか予備自衛官の補助老兵は手押し自転車とかも
・我が国が万一戦場となれば避難民が道路をうずめ大きな車両は移動困難に
⇒プッシュバイクなら移動可能で一人の押し手が一人の重患者を運び出して救出できる
⇒これができなかったビルマ・東部ニューギニア・ガダルカナル・比島で戦友をジャングルに
置き去りにするしかなくなり数十万人を見殺しにしたが、それらは自転車の準備さえあれば
回避できたカタストロフだった
・・・
はてさて・・・
2026年06月17日
泥まみれの虎~宮崎駿の妄想ノート~
ええ、前回記事の続きつーか、ヨーロッパの戦車のオハナシ・・・

泥まみれの虎~宮崎駿の妄想ノート~とゆー本であります
目次

妄想ノート「泥まみれの虎」と雑想ノート「ハンスの帰還」の二作品がメインの本で、
それらのエピソードに関する史実や現地紀行などが併載されています
「泥まみれの虎」は、たった2両のティーガーⅠ型戦車でソ連軍大部隊の進撃を食い止めた
オットー・カリウスの実話で、こちらは自伝と綿密な現地取材から・・・
「ハンスの帰還」は、東部戦線にいたドイツ軍やドイツ人の西部戦線への(ソ連軍ではなく
アメリカ軍に投降するための)様々な脱出記録に取材した、(放棄されたⅣ号戦車を使った)
ハンスたちの逃避行を描く創作物語・・・
(飛行艇物語と同じくカリオストロのクラリスそっくりのヒロインも登場してました
)
連載中にご本人が「もう二度と戦車の話は描かない」と何度も書き込みを入れるほど
、
精緻で迫力のある描写でした
奥付

2002年の発行なので四半世紀前の本ですね
このシリーズの本は全4冊のはずで・・・
・陸海空・各時代まさに兵器に関する雑想が満載の「宮崎駿の雑想ノート」が1997年
・映画「紅の豚」に出てくる飛行艇が中心の「飛行艇時代」が2004年
・映画「風立ちぬ」に出てくる戦闘機が中心の「宮崎駿の妄想カムバック」が2015年
・・・ですから作品順では2冊目ですが、わたくしが読んだのは最後になりました
ちなみに当時のドイツ戦車が本来の性能を発揮するのは、その精緻なメカを優秀な整備兵が
きちんとメンテナンスできる場合に限られ、実際の戦場ではトラブルが多発していたそうで、
「ハンスの帰還」も、たまたま優秀な少年整備兵ハンスがいたお陰で、戦場に放棄されていた
Ⅳ号戦車での逃避行が続けられた、とゆーオハナシになってます
いっぽう米軍のM4シャーマン戦車などは性能は凡庸だけどメンテナンスフリーまたは簡単な
メンテナンスやパーツ交換で済み、戦場ではドイツ戦車よりはるかに稼働率が高かったそうで、
このあたりの設計思想の違いも興味津々でした
(以下、作品そのものではないけど著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
妄想ノート「泥まみれの虎」より


「エストニア・ドイツ紀行~鋼(ティーガー)の轍(あしあと)をゆく~」より


オットー・カリウスご本人と会われたんですね

ええ、詳細は紹介できませんが・・・
宮崎駿はホントに凄いクリエーターだと改めて感じました

泥まみれの虎~宮崎駿の妄想ノート~とゆー本であります
目次

妄想ノート「泥まみれの虎」と雑想ノート「ハンスの帰還」の二作品がメインの本で、
それらのエピソードに関する史実や現地紀行などが併載されています
「泥まみれの虎」は、たった2両のティーガーⅠ型戦車でソ連軍大部隊の進撃を食い止めた
オットー・カリウスの実話で、こちらは自伝と綿密な現地取材から・・・
「ハンスの帰還」は、東部戦線にいたドイツ軍やドイツ人の西部戦線への(ソ連軍ではなく
アメリカ軍に投降するための)様々な脱出記録に取材した、(放棄されたⅣ号戦車を使った)
ハンスたちの逃避行を描く創作物語・・・
(飛行艇物語と同じくカリオストロのクラリスそっくりのヒロインも登場してました
)連載中にご本人が「もう二度と戦車の話は描かない」と何度も書き込みを入れるほど
、精緻で迫力のある描写でした
奥付

2002年の発行なので四半世紀前の本ですね
このシリーズの本は全4冊のはずで・・・
・陸海空・各時代まさに兵器に関する雑想が満載の「宮崎駿の雑想ノート」が1997年
・映画「紅の豚」に出てくる飛行艇が中心の「飛行艇時代」が2004年
・映画「風立ちぬ」に出てくる戦闘機が中心の「宮崎駿の妄想カムバック」が2015年
・・・ですから作品順では2冊目ですが、わたくしが読んだのは最後になりました
ちなみに当時のドイツ戦車が本来の性能を発揮するのは、その精緻なメカを優秀な整備兵が
きちんとメンテナンスできる場合に限られ、実際の戦場ではトラブルが多発していたそうで、
「ハンスの帰還」も、たまたま優秀な少年整備兵ハンスがいたお陰で、戦場に放棄されていた
Ⅳ号戦車での逃避行が続けられた、とゆーオハナシになってます
いっぽう米軍のM4シャーマン戦車などは性能は凡庸だけどメンテナンスフリーまたは簡単な
メンテナンスやパーツ交換で済み、戦場ではドイツ戦車よりはるかに稼働率が高かったそうで、
このあたりの設計思想の違いも興味津々でした
(以下、作品そのものではないけど著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
妄想ノート「泥まみれの虎」より


「エストニア・ドイツ紀行~鋼(ティーガー)の轍(あしあと)をゆく~」より


オットー・カリウスご本人と会われたんですね

ええ、詳細は紹介できませんが・・・
宮崎駿はホントに凄いクリエーターだと改めて感じました
2026年06月14日
武器が語る日本史
とーとつですが・・・

武器が語る日本史とゆー本であります
表紙カバー裏の惹句

著者略歴と奥付

目次


以下、各章の節(小見出し)中心のてきとーメモです(⇒は補足メモ)
ちなみに後半部分に補足メモが多いのは個人的な興味の偏りによるものです
(じつにてきとーですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1章より
・日本では西暦300~450年と思われる長柄の鉾(槍)が出土している
⇒当時の朝鮮半島にはなかったもの
⇒大陸・半島の軍隊は複合素材短弓や弩が中心
⇒大陸の鐙と鞍なら騎兵が槍を構えることもできるが日本の地形・馬・鐙では不可能
⇒なので歩兵の長柄の鉾(槍)が騎兵に対し圧倒的に有利だった
・斬撃用長柄武器のメリット(略)
・古事記や日本書紀に投げ槍が出てこない理由
⇒クマソやハヤトが使うことはあったかも知れないが弓矢や長柄の鉄矛には全く抵抗できず、
大きな戦闘も起きなかった(ので記述もない)
・投げ槍も補助具も不要になった縄文時代
⇒15000~1万年前の日本の気候・風土・植生・動物相では70cmぐらいの丸木弓による猟が
あまりにも効率的だったのだろう
⇒なので狩猟用の投げ槍や投擲補助具などは淘汰された
(ただし沖縄では近代までイノシシを犬で囲い込み投げ槍で仕留める猟が残っていた)
・馬や鳥を捕捉する狩猟具ボラスはなぜ対騎兵手段として世界に拡がらなかったか(略)
⇒子どもがトンボを捕えるブリ(関東ではトリコ)は古代ボラスの名残
第2章より
・西暦400~404年の戦いでは高句麗の騎兵が優勢
⇒複合素材短弓・鏃のカエシの有無・・・
・633年「白村江の戦い」の武器体系(略)
・(唐軍侵攻の可能性がほぼ消えた)7世紀半ばから平安時代前の兵器体系の純化(略)
第3章より
・魏志倭人伝の倭人の武器(略)
・平安時代の槍や鉾の禁止(略)
⇒次の無秩序を平定したのは鉄炮プラス幕藩体制
・軍記物の槍・上から叩く長槍(略)
第4章より
・関ケ原以前の騎兵と歩兵の比較
⇒足軽の由来、馬当て、去勢しない理由・・・(略)
・30年戦争(1618~1648)から西洋で発達した野砲が幕末まで顧みられなかった理由
・騎兵や輓馬砲兵、馬車輜重が古代から一貫して西洋より小規模な理由
⇒農地の規模、地形、単位面積当たりの人口扶養力、水田と麦畑の違いなど
⇒道路整備の違いへ
第5章より
・各時代の和弓の有効射程
⇒参考になるクレシーの戦い(1346年に英軍がロングボウ部隊により仏軍に圧勝した)
⇒平家物語では屋島での那須与一と船の扇との距離は7段(約70m)
⇒壇ノ浦での浅利与一の遠矢は4町(約400m)とされているが狩り矢では2町以内とされており、
前時代の太平記でも遠矢は200m以上とされてるので壇ノ浦の400mは誇張かも
・軍記物では正確にわからない征矢(そや⇒合戦用の矢)の攻撃力と楯や甲冑の防護力
⇒当時の実物サンプルを調べて実験した(略)
⇒現代の射手・和弓では距離10mでも1.6mm厚のフライパンを貫通できなかった
⇒ただし旧陸軍でも重機関銃中隊には農村の出身者(背筋力が段違いだった)を優先的に配置
していたぐらいだから、現代和弓の3~4倍の弓力でも連続して操作できる武者が軍記物の
記述どおり慶長以前に実在していた可能性は大いにある
・複合素材弓はユーラシアではいつ出現したか
⇒ホメロスやヘロドトスの記述に複合素材弓(コンポジット・ボウ)がある
⇒おそらくスキタイ人などから東西に伝達した
⇒日本で開発・普及しなかった理由には多湿気候や甲冑の強靭度などが考えられる
・日本の矢には射手の名前が書かれていた
⇒武者の携帯数は通常24~30本なので可能だった
⇒誰の戦功かを確定するため⇒武者には手柄が最重要だった
⇒鉄炮時代には手柄首を確保させに中間を走らせた
・乱世に弩(クロスボウ)を日本向けに改良できていたら有利だったか
⇒鉄炮以前に鉄砲隊のように使えれば圧倒できたはず
⇒弩の弱点は反発力が強く発射速度が遅いこと(30秒に1発で火縄銃並み)
⇒火縄銃と同じで二人一組なら解決できたはず
⇒弩には限界応力がかかるので濡れると自損しやすい
⇒乾燥地で港からの硝石が入手困難で規律の高い甲府盆地の武田軍にぴったりかも
⇒長弓と異なり1週間の訓練で弩兵を臨時動員できるので知見と工夫があれば・・・
・日本では鉄炮以前には顔面保護に熱心ではなかった
⇒「日本の気候にフルフェイス・ヘルメットは向かない」といった記述が多い
・三十三間堂の通し矢(122m上下5m)で使われた弓矢(略)
⇒一晩8133本(総発射数13033本)が最高記録で特製の軽い弓矢が使用された
・毒矢
⇒東北以北の狩猟には使われたが合戦では使用されなかった
⇒鏃のカエシと同様に事故や誤射、合戦後の怨恨の永続などから忌避したか
⇒鎌倉時代中期以降の蒙古襲来を記した書物に毒矢の記述がある⇒確認例を知りたい
⇒蒙古襲来前の宇治拾遺物語にも新羅の矢には毒が塗られていたとの記述がある
第6章より
・平安時代以降の武士階級は楯にこだわっていない
⇒日本国土の運輸事情による
⇒近畿の次に水田開発された伊勢や美濃との間にも荷車が通行できる峠道はなかった
⇒荷車も馬車も重輓馬も発達せず大八車の発明は江戸時代になってから
⇒江戸時代の後半でも大八車・大七車は江戸・京都・駿府の外では原則禁止だった
⇒街道が狭く車両が邪魔になるから
(役畜輸送の基本知識すらなく自滅したのがインパール作戦で大兵団の補給も250kmまでなら
大八車で可能としていた⇒日露戦争の朝鮮半島では有効だった)
・太平記の楯⇒一枚楯<持楯<掻楯<畳楯⇒荷夫もいたが前線では歩兵が担いだ
⇒平治物語では五条大橋の板を剥がしており戦乱期には住宅寺社の板や畳などで代用
⇒荷車や馬車が使えなかったので嵩張る楯は輸送できなかった
・防弾竹束の発明⇒ライフル弾の発明までは有効だった
第7章より
・長篠合戦の勝因と敗因(甲陽軍鑑から)
⇒武田軍は敵陣偵察・情報収集をロクにしていなかった
⇒徳川・織田連合軍は最重要情報(陣地前の頑丈な三重柵)を最後まで隠せた
⇒なので防御戦でありながら奇襲的勝利を得た
・同様の罠を近代戦で再現できるか
⇒1942年ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場前に隠された海兵隊の機関銃陣地がその再現
⇒日本軍は1937年第2次上海事変での成功(蒋介石軍の堅固な機関銃陣地が見えていたので
アウトレンジから制圧できた)が仇となり、歩兵攻撃で勝てると思っていたのかも・・・
・野戦で梯子を使えば・・・(江戸の捕り物だけで軍記物には登場しないけど)
⇒二人で荷物用「御輿台」として、一人で背負子として運搬道具に
⇒崖地では梯子に、小河川では架け橋に、大河川では浮き橋に、下から支えれば物見に、
二人で運ぶ担架にも、一人で引きずる修羅にもなったはず
第8章より
・ペリー艦隊が江戸湾に入れないような射程2km以上の国産大砲は可能だったか
⇒鉄製は素材も鋳造も国内ではまだ不可能
⇒青銅製は不純物で破裂することがあるが梵鐘や燈籠などを溶かせば素材はあった
⇒砲全体を鋳造容易な球形にすれば長射程でも安全で砲架も不要だったはず
・台場以外の海防案
⇒ありあわせの小口径砲を備えた「浮き砲台」なら少額で大量に準備できたはず
第9章より
・明治陸軍は白兵主義か火力主義か
⇒第一次大戦前までは堅固な火力主義だった
⇒軍神・橘中佐の首山堡強襲は準備不足の例外だったが町人兵への攻撃精神教育の見本になった
⇒日露戦争後に武道教育・銃剣術が重視され文部省・内務省も協力した
⇒トレンドが義務教育から大衆文芸まで広がった(宮本武蔵の発掘など)
・戦国時代の銃剣の工夫
⇒山鹿素行によれば足軽とは能動的な弓鉄炮組で、受動的な長柄組とは運用が区別されていた
⇒戦国末期には鉄砲隊に突撃する騎兵などおらず長柄組は武者自陣の前衛として重装備配置
⇒足軽戦闘は2町(218m)ぐらいからで50間(91m)から30間(54.6m)になると本格化する
⇒15間(27.3m)まで迫れば白兵戦で長柄組の出番だが、多くはそれまでに人数や弾薬量により
大勢が決しており、いずれかが敗走をはじめて以後は追撃戦になる
(追撃側の武者は手柄首や一番槍を求めて長柄組や足軽組をさしおき突進する)
⇒なので合戦で長柄組の出番が多ければ、人数の多い鉄炮組を槍組にトランスフォームできる
「銃剣」の工夫が必ずなされていたはずだが、出番が殆どなかったから工夫されなかった
・国産の火縄銃は足軽用小口径も武者用大口径もすべて狙撃銃(必中距離は50mまで)だった
⇒照準調整した銃口部にプラグ式でもソケット式でも銃剣を付けるのを嫌ったのだろう
(ナポレオン時代の歩兵用マスケット銃には照準器がなく照星に見えるのは銃剣用の金具)
(44式騎兵銃は折りたたみ銃槍で照準が狂うと不評、ソケット式の歩兵銃にもクレームがあった)
・日本軍の銃剣は長すぎるか
⇒銃剣の歴史は猟師のイノシシ防御用から
⇒単発後に手負いイノシシが向かってきたら銃口に腰の改造ダガー剣の木柄を差し込めば、
1.8mの槍に早変わりする⇒17世紀のドイツ猟師から欧州に普及した
⇒前装式単発銃隊は斎射直後に騎兵に襲われると反撃できず混乱するので歩兵銃にも応用した
⇒30年戦争1647年にはフランス軍のマスケット歩兵が銃剣突撃した記録がある
⇒英国も1672年にプラグ式銃剣を採用した
(1640年からこの頃までに欧州の主要陸軍は火縄式からフリント式に)
⇒1703年には固定できるソケット式がフランス軍に導入され1815年までほぼ同形式で定着した
⇒日本では銃が重く長くなるので敬遠され戊辰戦争では銃剣突撃もあったが西南戦争では皆無、
ひたすら小銃を乱射する日本独特の伝統が日露戦争まで続いた
⇒日露戦争でロシア兵の果敢な着剣突撃戦術に遭遇して驚いた
⇒戦後は反省から、やがて現実を無視した白兵信奉や小銃短小化の不徹底につながっていく
⇒小銃はライフリング、後装式、無煙火薬、連発式と進化していった
⇒日本でも村田銃(17年式・22年式)から有坂銃(30年式・南部がマイナーチェンジした38年式)へ
⇒ただし第一次世界大戦の塹壕戦を経験しなかったため銃剣や着剣全長の短縮化はなかった
⇒ドイツでは塹壕戦の経験により休戦までに短い銃剣(252mm)が設計されている
・旧歩兵銃Gew98(1.25m)+旧50cm銃剣=1.75m
・新歩兵銃Kar98k(1.1m)+新252mm銃剣=1.352m
第10章より
・旧日本軍の戦車
⇒対米戦時の中戦車(57mm砲47mm砲)軽戦車(37mm砲)は総生産数では約5000両
(トラックが4000円で97式中戦車は15万円、95式軽戦車でも7万円で航空機に次ぐ装備予算)
⇒集中せず分散した結果、ほとんど役に立たなかった
⇒しかも高速の駆逐艦では運べずクレーン付き低速輸送船から大型艀に移して揚陸していた
⇒輸送揚陸中に攻撃され海没した戦車も膨大な数に上る
・結果的に貴重な戦争資源を戦車のために無駄にした理由
⇒日本の戦車は対戦車兵器ではなく直接歩兵支援兵器だった
⇒ソ連軍のトーチカ(ロシア語で点)陣地や塹壕を無力化して歩兵が一気に突破できないと
戦線が膠着化して砲撃物量戦になる⇒日本の工業資本力では砲弾がすぐに尽きる
⇒なので中戦車の57mm砲も軽戦車の37mm砲もトーチカ銃眼向けの近距離水平射撃専用で、
ノモンハンで鹵獲したソ連BT-7M戦車の装甲を貫通できないことは実験済みだった
⇒フィリピンで鹵獲した米軍M3軽戦車の背面すら貫通できずM3の37mm砲は95式軽戦車の
正面装甲を貫通することも実験済みだった
(ちなみに上記リンク記事にはトーチカや投げ槍や銃剣などの画像もあります)
⇒なので日本では重戦車になるM4シャーマン中戦車とは勝負にならないことは自明だったが、
ようやく方針転換したミッドウェー海戦以降は、それに対抗できる砲や戦車の製造や輸送が
できる状況ではなくなっていた
・ソ連軍の45mm砲やBT-7に対抗する手段はなかったのか
⇒ノモンハン事件後の1938年に47mm対戦車砲を試製し1942年に牽引用として制式化
⇒97式中戦車の新砲塔用として制式化したのも1942年
(ただしソ連軍は1940年には高速76mm砲搭載のT-34Aを大量生産している)
⇒ドイツでは旧式になった3号戦車の砲塔を外し、前面50mm装甲と75mm砲を装備して
とりあえずT-34に対抗できる3号突撃砲に改造して量産した
⇒ところが日本では旧式のBT-7にさえ対抗できない戦車の量産を続けていた
⇒戦車などの機甲兵器を理解し工学的センスを持ち開発に口と顔を出し裁決し監督していた
ヒトラーやスターリンと異なり、軍のエリートが担当セクションに丸投げしていたから
・殆ど役に立たなかった戦車予算を別の兵器や装備に転用していたら
⇒悪路も走行できた国産6輪4駆トラック94式は1万円で97式中戦車は15万円
⇒ただしトラック量産工場の新設に2年はかかる
⇒装軌式の牽引車や海軍で試作中だったブルドーザーなら戦車工場を転用できる
⇒牽引車で砲や弾薬を運びブルドーザで飛行基地の増設や修復、掩蔽壕ができたはず
・戦車予算のすべてを高射砲部隊に使っていたら
⇒蒋介石軍から鹵獲したドイツ製88mm高射砲をコピーした99式88mm高射砲
(ただし光学照準器が旧式で高度6000mまでしか対応できなかったが)
⇒大量生産され充分に配備されていたら東京大空襲などあり得ない話になってたはずだが、
⇒大阪造兵工廠はお役所工場で前年度に予算が決まるため設備拡大も増産もできない
(ドイツでは都市の中心部に多くの高射砲用巨塔「フラックタワー」を建てたが日本では
検討した記録もない⇒地上高射砲の衝撃波で窓ガラスが割れて配置できなかったのに)
・軍事組織に必要な才能とは(略)
・本土防空失敗の原因は
⇒1944年6月には成都のB-29編隊20機が北九州を爆撃して成都に帰投した
⇒それまでに邀撃可能な戦闘機もしくは島嶼防衛兵器を完成していなったのが原因
(わずかな可能性として1940年から非レシプロ系の航空機動力研究を推進していたら、
日本の技術だけを前提にしても秋水や桜花に類似したものが1942年末には完成していたかも)
⇒1941年12月の対米開戦は日本の軍事技術陣にとっての「奇襲」だった
⇒それから防衛戦の兵器システムを開発しろといわれても1年や2年でモノになるはずもなく、
さらにその間に連合軍の反転攻勢により輸送船が枯渇して物資が窮乏することも明白
⇒敗戦は開戦と同時に確約されていたのである・・・
おわりにより
・まもなく先進諸国軍隊はレーザー光・マイクロ波・中性子ビームを使う「エネルギー指向兵器」
を兵器システムに実装する
⇒とうとう「人類が槍を突き出すスピード」が光速になる
⇒なのに日本の武器メーカー・ユーザー(自衛隊)・整備計画者(政府・防衛省)は傍観している
⇒兵器システムの進化競争は敗戦を共有してから計画しても間に合わない、という反省が
先の大戦でなされたはずなのに・・・
⇒近未来の無慚な破滅を回避するため武器政策のセンスが磨かれる書籍がもっと書かれるべき
・・・・・
さてさて・・・

武器が語る日本史とゆー本であります
表紙カバー裏の惹句

著者略歴と奥付

目次


以下、各章の節(小見出し)中心のてきとーメモです(⇒は補足メモ)
ちなみに後半部分に補足メモが多いのは個人的な興味の偏りによるものです

(じつにてきとーですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1章より
・日本では西暦300~450年と思われる長柄の鉾(槍)が出土している
⇒当時の朝鮮半島にはなかったもの
⇒大陸・半島の軍隊は複合素材短弓や弩が中心
⇒大陸の鐙と鞍なら騎兵が槍を構えることもできるが日本の地形・馬・鐙では不可能
⇒なので歩兵の長柄の鉾(槍)が騎兵に対し圧倒的に有利だった
・斬撃用長柄武器のメリット(略)
・古事記や日本書紀に投げ槍が出てこない理由
⇒クマソやハヤトが使うことはあったかも知れないが弓矢や長柄の鉄矛には全く抵抗できず、
大きな戦闘も起きなかった(ので記述もない)
・投げ槍も補助具も不要になった縄文時代
⇒15000~1万年前の日本の気候・風土・植生・動物相では70cmぐらいの丸木弓による猟が
あまりにも効率的だったのだろう
⇒なので狩猟用の投げ槍や投擲補助具などは淘汰された
(ただし沖縄では近代までイノシシを犬で囲い込み投げ槍で仕留める猟が残っていた)
・馬や鳥を捕捉する狩猟具ボラスはなぜ対騎兵手段として世界に拡がらなかったか(略)
⇒子どもがトンボを捕えるブリ(関東ではトリコ)は古代ボラスの名残
第2章より
・西暦400~404年の戦いでは高句麗の騎兵が優勢
⇒複合素材短弓・鏃のカエシの有無・・・
・633年「白村江の戦い」の武器体系(略)
・(唐軍侵攻の可能性がほぼ消えた)7世紀半ばから平安時代前の兵器体系の純化(略)
第3章より
・魏志倭人伝の倭人の武器(略)
・平安時代の槍や鉾の禁止(略)
⇒次の無秩序を平定したのは鉄炮プラス幕藩体制
・軍記物の槍・上から叩く長槍(略)
第4章より
・関ケ原以前の騎兵と歩兵の比較
⇒足軽の由来、馬当て、去勢しない理由・・・(略)
・30年戦争(1618~1648)から西洋で発達した野砲が幕末まで顧みられなかった理由
・騎兵や輓馬砲兵、馬車輜重が古代から一貫して西洋より小規模な理由
⇒農地の規模、地形、単位面積当たりの人口扶養力、水田と麦畑の違いなど
⇒道路整備の違いへ
第5章より
・各時代の和弓の有効射程
⇒参考になるクレシーの戦い(1346年に英軍がロングボウ部隊により仏軍に圧勝した)
⇒平家物語では屋島での那須与一と船の扇との距離は7段(約70m)
⇒壇ノ浦での浅利与一の遠矢は4町(約400m)とされているが狩り矢では2町以内とされており、
前時代の太平記でも遠矢は200m以上とされてるので壇ノ浦の400mは誇張かも
・軍記物では正確にわからない征矢(そや⇒合戦用の矢)の攻撃力と楯や甲冑の防護力
⇒当時の実物サンプルを調べて実験した(略)
⇒現代の射手・和弓では距離10mでも1.6mm厚のフライパンを貫通できなかった
⇒ただし旧陸軍でも重機関銃中隊には農村の出身者(背筋力が段違いだった)を優先的に配置
していたぐらいだから、現代和弓の3~4倍の弓力でも連続して操作できる武者が軍記物の
記述どおり慶長以前に実在していた可能性は大いにある
・複合素材弓はユーラシアではいつ出現したか
⇒ホメロスやヘロドトスの記述に複合素材弓(コンポジット・ボウ)がある
⇒おそらくスキタイ人などから東西に伝達した
⇒日本で開発・普及しなかった理由には多湿気候や甲冑の強靭度などが考えられる
・日本の矢には射手の名前が書かれていた
⇒武者の携帯数は通常24~30本なので可能だった
⇒誰の戦功かを確定するため⇒武者には手柄が最重要だった
⇒鉄炮時代には手柄首を確保させに中間を走らせた
・乱世に弩(クロスボウ)を日本向けに改良できていたら有利だったか
⇒鉄炮以前に鉄砲隊のように使えれば圧倒できたはず
⇒弩の弱点は反発力が強く発射速度が遅いこと(30秒に1発で火縄銃並み)
⇒火縄銃と同じで二人一組なら解決できたはず
⇒弩には限界応力がかかるので濡れると自損しやすい
⇒乾燥地で港からの硝石が入手困難で規律の高い甲府盆地の武田軍にぴったりかも
⇒長弓と異なり1週間の訓練で弩兵を臨時動員できるので知見と工夫があれば・・・
・日本では鉄炮以前には顔面保護に熱心ではなかった
⇒「日本の気候にフルフェイス・ヘルメットは向かない」といった記述が多い
・三十三間堂の通し矢(122m上下5m)で使われた弓矢(略)
⇒一晩8133本(総発射数13033本)が最高記録で特製の軽い弓矢が使用された
・毒矢
⇒東北以北の狩猟には使われたが合戦では使用されなかった
⇒鏃のカエシと同様に事故や誤射、合戦後の怨恨の永続などから忌避したか
⇒鎌倉時代中期以降の蒙古襲来を記した書物に毒矢の記述がある⇒確認例を知りたい
⇒蒙古襲来前の宇治拾遺物語にも新羅の矢には毒が塗られていたとの記述がある
第6章より
・平安時代以降の武士階級は楯にこだわっていない
⇒日本国土の運輸事情による
⇒近畿の次に水田開発された伊勢や美濃との間にも荷車が通行できる峠道はなかった
⇒荷車も馬車も重輓馬も発達せず大八車の発明は江戸時代になってから
⇒江戸時代の後半でも大八車・大七車は江戸・京都・駿府の外では原則禁止だった
⇒街道が狭く車両が邪魔になるから
(役畜輸送の基本知識すらなく自滅したのがインパール作戦で大兵団の補給も250kmまでなら
大八車で可能としていた⇒日露戦争の朝鮮半島では有効だった)
・太平記の楯⇒一枚楯<持楯<掻楯<畳楯⇒荷夫もいたが前線では歩兵が担いだ
⇒平治物語では五条大橋の板を剥がしており戦乱期には住宅寺社の板や畳などで代用
⇒荷車や馬車が使えなかったので嵩張る楯は輸送できなかった
・防弾竹束の発明⇒ライフル弾の発明までは有効だった
第7章より
・長篠合戦の勝因と敗因(甲陽軍鑑から)
⇒武田軍は敵陣偵察・情報収集をロクにしていなかった
⇒徳川・織田連合軍は最重要情報(陣地前の頑丈な三重柵)を最後まで隠せた
⇒なので防御戦でありながら奇襲的勝利を得た
・同様の罠を近代戦で再現できるか
⇒1942年ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場前に隠された海兵隊の機関銃陣地がその再現
⇒日本軍は1937年第2次上海事変での成功(蒋介石軍の堅固な機関銃陣地が見えていたので
アウトレンジから制圧できた)が仇となり、歩兵攻撃で勝てると思っていたのかも・・・
・野戦で梯子を使えば・・・(江戸の捕り物だけで軍記物には登場しないけど)
⇒二人で荷物用「御輿台」として、一人で背負子として運搬道具に
⇒崖地では梯子に、小河川では架け橋に、大河川では浮き橋に、下から支えれば物見に、
二人で運ぶ担架にも、一人で引きずる修羅にもなったはず
第8章より
・ペリー艦隊が江戸湾に入れないような射程2km以上の国産大砲は可能だったか
⇒鉄製は素材も鋳造も国内ではまだ不可能
⇒青銅製は不純物で破裂することがあるが梵鐘や燈籠などを溶かせば素材はあった
⇒砲全体を鋳造容易な球形にすれば長射程でも安全で砲架も不要だったはず
・台場以外の海防案
⇒ありあわせの小口径砲を備えた「浮き砲台」なら少額で大量に準備できたはず
第9章より
・明治陸軍は白兵主義か火力主義か
⇒第一次大戦前までは堅固な火力主義だった
⇒軍神・橘中佐の首山堡強襲は準備不足の例外だったが町人兵への攻撃精神教育の見本になった
⇒日露戦争後に武道教育・銃剣術が重視され文部省・内務省も協力した
⇒トレンドが義務教育から大衆文芸まで広がった(宮本武蔵の発掘など)
・戦国時代の銃剣の工夫
⇒山鹿素行によれば足軽とは能動的な弓鉄炮組で、受動的な長柄組とは運用が区別されていた
⇒戦国末期には鉄砲隊に突撃する騎兵などおらず長柄組は武者自陣の前衛として重装備配置
⇒足軽戦闘は2町(218m)ぐらいからで50間(91m)から30間(54.6m)になると本格化する
⇒15間(27.3m)まで迫れば白兵戦で長柄組の出番だが、多くはそれまでに人数や弾薬量により
大勢が決しており、いずれかが敗走をはじめて以後は追撃戦になる
(追撃側の武者は手柄首や一番槍を求めて長柄組や足軽組をさしおき突進する)
⇒なので合戦で長柄組の出番が多ければ、人数の多い鉄炮組を槍組にトランスフォームできる
「銃剣」の工夫が必ずなされていたはずだが、出番が殆どなかったから工夫されなかった
・国産の火縄銃は足軽用小口径も武者用大口径もすべて狙撃銃(必中距離は50mまで)だった
⇒照準調整した銃口部にプラグ式でもソケット式でも銃剣を付けるのを嫌ったのだろう
(ナポレオン時代の歩兵用マスケット銃には照準器がなく照星に見えるのは銃剣用の金具)
(44式騎兵銃は折りたたみ銃槍で照準が狂うと不評、ソケット式の歩兵銃にもクレームがあった)
・日本軍の銃剣は長すぎるか
⇒銃剣の歴史は猟師のイノシシ防御用から
⇒単発後に手負いイノシシが向かってきたら銃口に腰の改造ダガー剣の木柄を差し込めば、
1.8mの槍に早変わりする⇒17世紀のドイツ猟師から欧州に普及した
⇒前装式単発銃隊は斎射直後に騎兵に襲われると反撃できず混乱するので歩兵銃にも応用した
⇒30年戦争1647年にはフランス軍のマスケット歩兵が銃剣突撃した記録がある
⇒英国も1672年にプラグ式銃剣を採用した
(1640年からこの頃までに欧州の主要陸軍は火縄式からフリント式に)
⇒1703年には固定できるソケット式がフランス軍に導入され1815年までほぼ同形式で定着した
⇒日本では銃が重く長くなるので敬遠され戊辰戦争では銃剣突撃もあったが西南戦争では皆無、
ひたすら小銃を乱射する日本独特の伝統が日露戦争まで続いた
⇒日露戦争でロシア兵の果敢な着剣突撃戦術に遭遇して驚いた
⇒戦後は反省から、やがて現実を無視した白兵信奉や小銃短小化の不徹底につながっていく
⇒小銃はライフリング、後装式、無煙火薬、連発式と進化していった
⇒日本でも村田銃(17年式・22年式)から有坂銃(30年式・南部がマイナーチェンジした38年式)へ
⇒ただし第一次世界大戦の塹壕戦を経験しなかったため銃剣や着剣全長の短縮化はなかった
⇒ドイツでは塹壕戦の経験により休戦までに短い銃剣(252mm)が設計されている
・旧歩兵銃Gew98(1.25m)+旧50cm銃剣=1.75m
・新歩兵銃Kar98k(1.1m)+新252mm銃剣=1.352m
第10章より
・旧日本軍の戦車
⇒対米戦時の中戦車(57mm砲47mm砲)軽戦車(37mm砲)は総生産数では約5000両
(トラックが4000円で97式中戦車は15万円、95式軽戦車でも7万円で航空機に次ぐ装備予算)
⇒集中せず分散した結果、ほとんど役に立たなかった
⇒しかも高速の駆逐艦では運べずクレーン付き低速輸送船から大型艀に移して揚陸していた
⇒輸送揚陸中に攻撃され海没した戦車も膨大な数に上る
・結果的に貴重な戦争資源を戦車のために無駄にした理由
⇒日本の戦車は対戦車兵器ではなく直接歩兵支援兵器だった
⇒ソ連軍のトーチカ(ロシア語で点)陣地や塹壕を無力化して歩兵が一気に突破できないと
戦線が膠着化して砲撃物量戦になる⇒日本の工業資本力では砲弾がすぐに尽きる
⇒なので中戦車の57mm砲も軽戦車の37mm砲もトーチカ銃眼向けの近距離水平射撃専用で、
ノモンハンで鹵獲したソ連BT-7M戦車の装甲を貫通できないことは実験済みだった
⇒フィリピンで鹵獲した米軍M3軽戦車の背面すら貫通できずM3の37mm砲は95式軽戦車の
正面装甲を貫通することも実験済みだった
(ちなみに上記リンク記事にはトーチカや投げ槍や銃剣などの画像もあります)
⇒なので日本では重戦車になるM4シャーマン中戦車とは勝負にならないことは自明だったが、
ようやく方針転換したミッドウェー海戦以降は、それに対抗できる砲や戦車の製造や輸送が
できる状況ではなくなっていた
・ソ連軍の45mm砲やBT-7に対抗する手段はなかったのか
⇒ノモンハン事件後の1938年に47mm対戦車砲を試製し1942年に牽引用として制式化
⇒97式中戦車の新砲塔用として制式化したのも1942年
(ただしソ連軍は1940年には高速76mm砲搭載のT-34Aを大量生産している)
⇒ドイツでは旧式になった3号戦車の砲塔を外し、前面50mm装甲と75mm砲を装備して
とりあえずT-34に対抗できる3号突撃砲に改造して量産した
⇒ところが日本では旧式のBT-7にさえ対抗できない戦車の量産を続けていた
⇒戦車などの機甲兵器を理解し工学的センスを持ち開発に口と顔を出し裁決し監督していた
ヒトラーやスターリンと異なり、軍のエリートが担当セクションに丸投げしていたから
・殆ど役に立たなかった戦車予算を別の兵器や装備に転用していたら
⇒悪路も走行できた国産6輪4駆トラック94式は1万円で97式中戦車は15万円
⇒ただしトラック量産工場の新設に2年はかかる
⇒装軌式の牽引車や海軍で試作中だったブルドーザーなら戦車工場を転用できる
⇒牽引車で砲や弾薬を運びブルドーザで飛行基地の増設や修復、掩蔽壕ができたはず
・戦車予算のすべてを高射砲部隊に使っていたら
⇒蒋介石軍から鹵獲したドイツ製88mm高射砲をコピーした99式88mm高射砲
(ただし光学照準器が旧式で高度6000mまでしか対応できなかったが)
⇒大量生産され充分に配備されていたら東京大空襲などあり得ない話になってたはずだが、
⇒大阪造兵工廠はお役所工場で前年度に予算が決まるため設備拡大も増産もできない
(ドイツでは都市の中心部に多くの高射砲用巨塔「フラックタワー」を建てたが日本では
検討した記録もない⇒地上高射砲の衝撃波で窓ガラスが割れて配置できなかったのに)
・軍事組織に必要な才能とは(略)
・本土防空失敗の原因は
⇒1944年6月には成都のB-29編隊20機が北九州を爆撃して成都に帰投した
⇒それまでに邀撃可能な戦闘機もしくは島嶼防衛兵器を完成していなったのが原因
(わずかな可能性として1940年から非レシプロ系の航空機動力研究を推進していたら、
日本の技術だけを前提にしても秋水や桜花に類似したものが1942年末には完成していたかも)
⇒1941年12月の対米開戦は日本の軍事技術陣にとっての「奇襲」だった
⇒それから防衛戦の兵器システムを開発しろといわれても1年や2年でモノになるはずもなく、
さらにその間に連合軍の反転攻勢により輸送船が枯渇して物資が窮乏することも明白
⇒敗戦は開戦と同時に確約されていたのである・・・
おわりにより
・まもなく先進諸国軍隊はレーザー光・マイクロ波・中性子ビームを使う「エネルギー指向兵器」
を兵器システムに実装する
⇒とうとう「人類が槍を突き出すスピード」が光速になる
⇒なのに日本の武器メーカー・ユーザー(自衛隊)・整備計画者(政府・防衛省)は傍観している
⇒兵器システムの進化競争は敗戦を共有してから計画しても間に合わない、という反省が
先の大戦でなされたはずなのに・・・
⇒近未来の無慚な破滅を回避するため武器政策のセンスが磨かれる書籍がもっと書かれるべき
・・・・・
さてさて・・・
2026年05月27日
対決!日本史1~6
とーとつですが・・・
「対決!日本史」という対談集(現時点では1~6まで)であります
ええ、ようやく読み終えましたので・・・

「1戦国から鎖国編」の表紙

最新刊「6アジア・太平洋戦争編」の表紙
横になってますが第1巻の奥付

第6巻が2025年7月20日の発行なので、5年間で6冊が出てることになりますね
対談者紹介


こっちの方が見やすいかな・・・

ま、政党や団体に関する両者の意見については「そうかな?」と感じる部分もありましたが、
事実として紹介されている部分には知らなかったことも多く、まさに目からウロコで、
その根拠となる閲覧可能な資料文献なども列挙されてて納得できました
第1巻の目次





1より
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・イエズス会・十字軍・レコンキスタ・帝国主義・鉄砲伝来(売り込み)・薩摩の硫黄
・アジア支配⇒日本カトリック兵による中国征服を目指し布教していた
・理解していた信長・秀吉の重商主義・中央集権から家康の農本主義・地方分権へ

第2巻の目次





2より
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・幕末維新と明治の軍国主義には様々な問題があった⇒現在進行形の問題でもある
⇒なのでそれに陶酔するのはいけない
⇒司馬遼太郎の「坂の上の雲」は1968~1972の作品
⇒当時(高度成長期)にはよかったが現代人が司馬史観に心酔し過ぎるのは危険
・南北戦争(1861~1865)が終わり行き場のない南部系の武器と商人が日本へ
⇒西南戦争1877にも影響している
・なぜ人類は石油エネルギーから転換できないのか
⇒自動車や発電は再生エネルギーに転換できるがミサイルや戦闘機、戦車には
石油より効率的な燃料がまだ見つかっていないから(佐藤)
⇒兵器の問題も敵対心とエゴイズムの問題
・江戸時代は(明治の地租改正まで)公地公民制で社会主義に近い
⇒仏教思想により敵愾心とエゴイズムを制御し享保の改革ぐらいまでは理想社会だった
⇒商品流通の変化や飢饉・天災・人口(浪人)増加により崩れ、以後は次々と変革していく
⇒パクス・トクガワーナ265年といっても決して同じ体制ではなく長期的に見るべき
・なぜ孝明天皇毒殺説は避けられ事実を知った会津藩士は徹底的に弾圧されたか
⇒伊藤博文から戦後の岸信介・佐藤栄作・菅直人・安倍晋三まで長州藩出身の首相が多い
・薩摩藩の琉球を通じた清国密貿易と長州藩の対馬を通じた朝鮮密貿易(表面上は攘夷)
・江戸っ子の「宵越しのカネは持たねえ」
⇒貯金しなくても日当だけで銭湯・博打・浮世絵・床屋など豊かに暮らせたから
⇒なので薩摩長州と異なり経済合理主義や海外貿易による経済発展には消極的だった
⇒さらに150万都市江戸は循環型社会システムで継続できた
・当時のシャム(タイ)も日本も、どこかの国が植民地にすればアジアでのパワーバランスが
崩れる状況で各国の戦線は伸びきっており、僅かに余裕があったのは英仏のみ
⇒それでもフランスは1968年1月19日に徳川幕府に再挙を勧告したが拒絶された
(征夷大将軍は天皇には逆らえないと)
⇒直後の1968年1月25日に英米仏伊蘭普が局外中立を布告、英仏代理戦争は回避された
(江戸城無血開城がなければ江戸は廃墟になり英仏が介入していた)
(パリ万博出展や民衆の識字率の高さから植民地支配より貿易が有利と判断したとも)
・勝海舟vs西郷隆盛の政治が現代版新選組vs現代版奇兵隊にならないように・・・
・ゲベール銃の有効射程は100~300m、ミニエー銃やエンフィールド銃は300~900m
⇒同距離での命中率も大きく異なり鳥羽伏見では薩長3000:幕府15000でも薩長が有利に
・奈良の吉野だけは国家神道が入り込めず寺院は旅館になった⇒南朝の伝統が残っていた
・日本は1905年の日露戦争終結から1939年のノモンハン事件までの34年間、本格的な近代戦を
戦っていない⇒34年間といえば軍人のほぼ一生⇒軍人が完全に官僚化していった
⇒明治の学制改革と昭和20年の敗戦は一直線でつながっている
・明治4年の歳出の32%が藩主・士族への失業手当、19%が軍事費、あとはインフラ整備と
豪商からの借金返済で8割以上、地租改正したが何も反対給付はなく豪農による民権運動へ
・江戸から明治は緩やかなコミュニティから自発的なアソシエーションへの参加へ
・新島襄は国会の早期開設に反対していた⇒公民意識のある人材を育てるのが先だと
⇒身分関係が残る中の制限選挙ではアメリカのような金権政治が横行すると心配していた
・豪農やエリートの自由民権運動と民衆宗教の誕生はコインの裏表
⇒大正デモクラシーへ⇒それでも抜けてたのがジェンダー⇒民衆宗教へ
(今の時代のデモクラシーも「すべての動植物」が主体に入っていない人間中心の民主主義)
・農本主義から重商主義へ、分権主義から中央集権主義へ体制を大転換させた明治維新には
功も罪もあり等身大で見直して評価すべき・・・
・・・と、3~5は疲れてきたのでメモしませんでしたが目次だけでも・・・
各巻に国際情勢などの最新情報が、それと関係する歴史的事実と合わせて述べられており、
それが各巻の目次にも反映されてます

第3巻の目次






第4巻の目次





第5巻の目次





第6巻の目次






さすがに第6巻は最新刊だし戦後に直結するハナシなのでメモしました
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・満州事変(柳条湖事件1931)からノモンハン事件(1939)に至る歴史を9時間で学べる映画
⇒五味川順平原作・山本薩男監督の「戦争と人間」(全3部作1970~73)
(70年代の商業映画は関東軍の謀略や731部隊を描く大作が普通に成り立っていた)
・伊丹万作・アーノルド・ファンク共同監督・ヨセフ・ゲッペルス製作「新しき土」1937
⇒日本人もドイツ人もお互い「血と土と名誉を重んじ狭い国土なので植民すべき優秀な民族」
という宣伝映画でラストは16歳の主演女優・原節子が満洲でトラクターを・・・
・明治維新から支配してきた薩長中心の天皇側近・既成政党・財閥・官憲・特権階級
⇒これらを一掃しようとしたのが昭和維新
⇒日産(満洲)や石原産業(東南アジア)などベンチャー企業と結託した石原莞爾らの派閥
⇒5.15事件では青年将校が独走したが満州では成功した⇒財閥も一緒に乗ってきた
・「古代オリエント史と私」三笠宮崇仁著1984学生社
・農本主義
⇒天皇から幕府⇒各藩へと土地と農民を国替えしながら預かる体制⇒きわめて社会主義的
⇒これが北一輝らの国家社会主義の理想の原像ではなかったか
⇒戦後高度成長期のモノ作り労働者も根っこは農本主義だった⇒農作業のアナロジー(類比)
⇒モノ作りに喜びを見出していたのであって現金収入至上主義ではなかった
⇒なので証券業界などは不労所得を扱うので蔑視されていた
⇒今はサラリーマンから年金生活者までNISAが国から推奨される時代
・政党は本来「部分の代表」であり立憲政友会は地主、立憲民政党は中間層の代表だった
⇒どちらもが「全体の代表」を標榜して部分の折り合いをつける政党政治が機能しなくなった
⇒血盟団・5.15で政党政治が崩壊したのではなく政治家が変質して翼賛選挙・全体主義へ
⇒今の日本でも公明党と日本共産党以外は全て「全体の代表」を標榜する「無代表政党」に?
・石原莞爾には陸軍も海軍も新聞も国民も巻き込むイデオロギーを作る力があった
⇒当時の議会や政党には対抗できるイデオロギーを作る力がなかった
・2022年4月から公立高校の授業では「歴史総合」が必須科目となった
⇒山川出版社の教科書は大人が読んでも良い内容で簡単に入手できるのでオススメ
・日露戦争から28年間も二国間戦争をしていなかった軍隊は官僚化していた
⇒座学と演習で好成績の者を重用する組織に
⇒演習は局地戦であり近代的な物量戦の怖さは忘れ去られていた?
⇒官僚化すれば派閥もでき派閥抗争は軍隊としては致命的な欠陥
⇒それでも局地戦での連勝を美化して国際連盟脱退などの世論を醸成した
(中国北部の軍閥装備が関東軍より劣っていただけでソ連支援を受けた上海航空戦では互角)
⇒戦争の本当の怖さを知ったのは1939年(昭和14年)のノモンハン事件
⇒3万人の師団が壊滅したが報道管制してフェイクニュースを流し、その戦訓は無視された
⇒その後の日本軍に起きることを凝縮している事件
・明治憲法の議会制民主主義と政党政治の理論的基礎を担保していた天皇機関説
⇒1935年に政府が公式に否定した⇒ファシズム国家へ
(それまでは東京帝大法学部の憲法学でも天皇主権説と天皇機関説の2講座が必須科目で、
高等文官試験でも必ず2説から出題されていた)
・昭和9年(1934)に陸軍省新聞班が公表した各国陸軍の兵力
平時兵力 陸軍航空機数 戦車
ソ連 約130万人 約3000機 約3000両
中華民国 約200万人 約500機
アメリカ 約32万人 約2000機⇒3000機に拡張中 約500両
日本 約23万人 約1000機内外
⇒なので1国と戦うにしても強化のために国内統制しなければならないという理屈
⇒さらに強い兵員になるべき国民の健康強化のために昭和15年(1940)には厚生省も設置
⇒あとは日露戦争のように物資力の不足を精神力で補えば短期戦・殲滅戦なら勝てる
⇒殲滅戦で勝利できなければ被殲滅戦になる⇒それでも全滅(玉砕)すべき
(それで局面が変わるかもしれないから、という発想が当時からあった)
・満州国とソ連・モンゴル(ソ連の衛星国)との国境線は5000km
⇒1937年に113回、1938年には166回の国境紛争が起きている(1939年にノモンハン事件)
⇒戦争が始まるのは時間の問題なので中国とは早く手を握りたかった
⇒アメリカやイギリスは中国の抗日を支援し共産主義のソ連と一緒に日本包囲網を形成した
⇒この呉越同舟は日本軍の予想外だった
⇒この包囲網は主義主張に関係なく日本人を追い出したかった蒋介石の手腕かも
⇒1920年代にソ連で国民党の組織づくりを学び息子の蒋経国をモスクワに留学させている
⇒さらにプロテスタントでアメリカ・イギリスから宗教的に信頼されていた
・軍事用語の中立化する(ニュートラリゼーション)とは敵を捕虜にするか逃がすか殺すか
⇒敵かもしれない相手(便衣隊かも)⇒殺せば確実に中立化する⇒南京での三光作戦など
(戦時国際法でゲリラの抵抗権も一定認められるのは戦後から)
⇒犠牲者数が不明でも南京で虐殺があった事実は2022年度から文部省の学習指導要領にも
・ノモンハン物量戦の敗北を教訓にせずひた隠しにして現場の指揮官を自決させた
⇒その後の南洋諸島でも沖縄戦でも同じ
⇒ノモンハンを教訓にしていれば太平洋戦争突入にも慎重になってたかも
・ワシントン会議(1922)の戦艦5:5:3とロンドン海軍軍縮会議(1930)の補助艦10:10:7
⇒ランチェスターの法則からは25:25:9と100:100:49なので抗議した
(攻撃力は白兵戦では数に比例するが遠隔戦では数の二乗に比例する)
⇒戦艦を10:7(100:49)まで増強して残り半分は精神力(大和魂)で勝つのだと・・・
・「正常な判断力を失い対米戦に突入した」と言われてきたが対米戦への布石はあった
(なので東亜新秩序の建設に多くの日本人が熱狂した心情も少しはわかる気がする)
⇒1931年9月・満州事変⇒米国に頼っていたエネルギーや物資を中国大陸ルートに
⇒1940年3月・汪兆銘政権(南京政府)樹立⇒蒋介石政権(重慶政府)に対抗し傀儡中華民国に
⇒1940年9月・日独伊三国同盟締結⇒英米に対抗する
⇒1941年4月・日ソ中立条約締結⇒北方での満州国とソ連の棲み分け
⇒1940年9月・北部仏印に進駐⇒ゴムなどの入手と蒋介石援助ラインの遮断
⇒1941年7月・南部仏印に進駐⇒同上と蘭印・東南アジア全域への足がかり
⇒仏印も蘭印も母国はドイツに占領されており英国の占領も時間の問題だった
⇒東南アジアで英仏蘭が支配していた植民地の石油などの資源も全て日本の手中に
(それでも米国の植民地フィリピンさえ手を出さなければ対米戦はないという安易な前提)
・1941年6月に独ソ戦がはじまり、その想定シナリオが狂ったが・・・
⇒独ソ戦に合わせ(南方進出ではなく)満洲からソ連に侵攻しておれば・・・
⇒少なくとも対米戦はなかったはず
⇒逆に日ソ中立条約に矛盾するという理由で三国同盟を破棄しておれば・・・
⇒ソ連との関係を安定化して日米交渉もできたはず
(ハル・ノートの段階でも首脳会談はまだ可能で満洲での利権など条件交渉はできた)
(中国や東南アジアからの撤兵を約束して義勇兵として同数を送り込むこともできた)
⇒マレー半島でもシンガポール占領で「先には進出しない」と停戦を呼び掛けておれば・・・
⇒対ドイツ戦に集中したかったイギリスが応じていた可能性は高かったはず
・どれも実現せず結局は日米開戦から破滅の道へ・・・
・戦争を防ぎ平和に向かうための要因
①文民統制の徹底
⇒ロシア・ウクライナ戦争で防衛研究所の研究者や元自衛隊幹部が無責任な立場で不正確な
発言を繰り返しているが、彼らには国際政治の基本的知識が欠如している⇒監視批判が必要
(戦前は統帥権で文民統制の発想がなかった)
②軍産複合体の動きへの注視
⇒日本の安全保障に防衛産業の育成は重要だが野放しではなく国会のコントロールが必要
(防衛装備移転三原則の運用などは国家安全保障会議の役人が勝手に決めることではない)
⇒外務省は5000人だが防衛省は25万人の巨大組織であり利権構造への歯止めが必要
(戦前は財閥=軍事産業で戦争が金儲けの手段だった)
③国民によるメディア監視
⇒メディアと防衛省・自衛隊が一体化して勇ましい方向にむかうときに諫める
(戦前は戦争を批判する媒体が殆どなく、あれば徹底的に弾圧された)
・2024年11月に融通の利かない検察官カマラ・ハリスを破りトランプが大統領に当選した
⇒トランプはおかしなやつとカリカチュア化せず彼の心の善性に目を向けるべき???
「対決!日本史」という対談集(現時点では1~6まで)であります
ええ、ようやく読み終えましたので・・・


「1戦国から鎖国編」の表紙

最新刊「6アジア・太平洋戦争編」の表紙
横になってますが第1巻の奥付

第6巻が2025年7月20日の発行なので、5年間で6冊が出てることになりますね
対談者紹介


こっちの方が見やすいかな・・・

ま、政党や団体に関する両者の意見については「そうかな?」と感じる部分もありましたが、
事実として紹介されている部分には知らなかったことも多く、まさに目からウロコで、
その根拠となる閲覧可能な資料文献なども列挙されてて納得できました
第1巻の目次





1より
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・イエズス会・十字軍・レコンキスタ・帝国主義・鉄砲伝来(売り込み)・薩摩の硫黄
・アジア支配⇒日本カトリック兵による中国征服を目指し布教していた
・理解していた信長・秀吉の重商主義・中央集権から家康の農本主義・地方分権へ

第2巻の目次





2より
(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・幕末維新と明治の軍国主義には様々な問題があった⇒現在進行形の問題でもある
⇒なのでそれに陶酔するのはいけない
⇒司馬遼太郎の「坂の上の雲」は1968~1972の作品
⇒当時(高度成長期)にはよかったが現代人が司馬史観に心酔し過ぎるのは危険
・南北戦争(1861~1865)が終わり行き場のない南部系の武器と商人が日本へ
⇒西南戦争1877にも影響している
・なぜ人類は石油エネルギーから転換できないのか
⇒自動車や発電は再生エネルギーに転換できるがミサイルや戦闘機、戦車には
石油より効率的な燃料がまだ見つかっていないから(佐藤)
⇒兵器の問題も敵対心とエゴイズムの問題
・江戸時代は(明治の地租改正まで)公地公民制で社会主義に近い
⇒仏教思想により敵愾心とエゴイズムを制御し享保の改革ぐらいまでは理想社会だった
⇒商品流通の変化や飢饉・天災・人口(浪人)増加により崩れ、以後は次々と変革していく
⇒パクス・トクガワーナ265年といっても決して同じ体制ではなく長期的に見るべき
・なぜ孝明天皇毒殺説は避けられ事実を知った会津藩士は徹底的に弾圧されたか
⇒伊藤博文から戦後の岸信介・佐藤栄作・菅直人・安倍晋三まで長州藩出身の首相が多い
・薩摩藩の琉球を通じた清国密貿易と長州藩の対馬を通じた朝鮮密貿易(表面上は攘夷)
・江戸っ子の「宵越しのカネは持たねえ」
⇒貯金しなくても日当だけで銭湯・博打・浮世絵・床屋など豊かに暮らせたから
⇒なので薩摩長州と異なり経済合理主義や海外貿易による経済発展には消極的だった
⇒さらに150万都市江戸は循環型社会システムで継続できた
・当時のシャム(タイ)も日本も、どこかの国が植民地にすればアジアでのパワーバランスが
崩れる状況で各国の戦線は伸びきっており、僅かに余裕があったのは英仏のみ
⇒それでもフランスは1968年1月19日に徳川幕府に再挙を勧告したが拒絶された
(征夷大将軍は天皇には逆らえないと)
⇒直後の1968年1月25日に英米仏伊蘭普が局外中立を布告、英仏代理戦争は回避された
(江戸城無血開城がなければ江戸は廃墟になり英仏が介入していた)
(パリ万博出展や民衆の識字率の高さから植民地支配より貿易が有利と判断したとも)
・勝海舟vs西郷隆盛の政治が現代版新選組vs現代版奇兵隊にならないように・・・
・ゲベール銃の有効射程は100~300m、ミニエー銃やエンフィールド銃は300~900m
⇒同距離での命中率も大きく異なり鳥羽伏見では薩長3000:幕府15000でも薩長が有利に
・奈良の吉野だけは国家神道が入り込めず寺院は旅館になった⇒南朝の伝統が残っていた
・日本は1905年の日露戦争終結から1939年のノモンハン事件までの34年間、本格的な近代戦を
戦っていない⇒34年間といえば軍人のほぼ一生⇒軍人が完全に官僚化していった
⇒明治の学制改革と昭和20年の敗戦は一直線でつながっている
・明治4年の歳出の32%が藩主・士族への失業手当、19%が軍事費、あとはインフラ整備と
豪商からの借金返済で8割以上、地租改正したが何も反対給付はなく豪農による民権運動へ
・江戸から明治は緩やかなコミュニティから自発的なアソシエーションへの参加へ
・新島襄は国会の早期開設に反対していた⇒公民意識のある人材を育てるのが先だと
⇒身分関係が残る中の制限選挙ではアメリカのような金権政治が横行すると心配していた
・豪農やエリートの自由民権運動と民衆宗教の誕生はコインの裏表
⇒大正デモクラシーへ⇒それでも抜けてたのがジェンダー⇒民衆宗教へ
(今の時代のデモクラシーも「すべての動植物」が主体に入っていない人間中心の民主主義)
・農本主義から重商主義へ、分権主義から中央集権主義へ体制を大転換させた明治維新には
功も罪もあり等身大で見直して評価すべき・・・
・・・と、3~5は疲れてきたのでメモしませんでしたが目次だけでも・・・
各巻に国際情勢などの最新情報が、それと関係する歴史的事実と合わせて述べられており、
それが各巻の目次にも反映されてます

第3巻の目次






第4巻の目次





第5巻の目次





第6巻の目次






さすがに第6巻は最新刊だし戦後に直結するハナシなのでメモしました

(てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・満州事変(柳条湖事件1931)からノモンハン事件(1939)に至る歴史を9時間で学べる映画
⇒五味川順平原作・山本薩男監督の「戦争と人間」(全3部作1970~73)
(70年代の商業映画は関東軍の謀略や731部隊を描く大作が普通に成り立っていた)
・伊丹万作・アーノルド・ファンク共同監督・ヨセフ・ゲッペルス製作「新しき土」1937
⇒日本人もドイツ人もお互い「血と土と名誉を重んじ狭い国土なので植民すべき優秀な民族」
という宣伝映画でラストは16歳の主演女優・原節子が満洲でトラクターを・・・
・明治維新から支配してきた薩長中心の天皇側近・既成政党・財閥・官憲・特権階級
⇒これらを一掃しようとしたのが昭和維新
⇒日産(満洲)や石原産業(東南アジア)などベンチャー企業と結託した石原莞爾らの派閥
⇒5.15事件では青年将校が独走したが満州では成功した⇒財閥も一緒に乗ってきた
・「古代オリエント史と私」三笠宮崇仁著1984学生社
・農本主義
⇒天皇から幕府⇒各藩へと土地と農民を国替えしながら預かる体制⇒きわめて社会主義的
⇒これが北一輝らの国家社会主義の理想の原像ではなかったか
⇒戦後高度成長期のモノ作り労働者も根っこは農本主義だった⇒農作業のアナロジー(類比)
⇒モノ作りに喜びを見出していたのであって現金収入至上主義ではなかった
⇒なので証券業界などは不労所得を扱うので蔑視されていた
⇒今はサラリーマンから年金生活者までNISAが国から推奨される時代
・政党は本来「部分の代表」であり立憲政友会は地主、立憲民政党は中間層の代表だった
⇒どちらもが「全体の代表」を標榜して部分の折り合いをつける政党政治が機能しなくなった
⇒血盟団・5.15で政党政治が崩壊したのではなく政治家が変質して翼賛選挙・全体主義へ
⇒今の日本でも公明党と日本共産党以外は全て「全体の代表」を標榜する「無代表政党」に?
・石原莞爾には陸軍も海軍も新聞も国民も巻き込むイデオロギーを作る力があった
⇒当時の議会や政党には対抗できるイデオロギーを作る力がなかった
・2022年4月から公立高校の授業では「歴史総合」が必須科目となった
⇒山川出版社の教科書は大人が読んでも良い内容で簡単に入手できるのでオススメ
・日露戦争から28年間も二国間戦争をしていなかった軍隊は官僚化していた
⇒座学と演習で好成績の者を重用する組織に
⇒演習は局地戦であり近代的な物量戦の怖さは忘れ去られていた?
⇒官僚化すれば派閥もでき派閥抗争は軍隊としては致命的な欠陥
⇒それでも局地戦での連勝を美化して国際連盟脱退などの世論を醸成した
(中国北部の軍閥装備が関東軍より劣っていただけでソ連支援を受けた上海航空戦では互角)
⇒戦争の本当の怖さを知ったのは1939年(昭和14年)のノモンハン事件
⇒3万人の師団が壊滅したが報道管制してフェイクニュースを流し、その戦訓は無視された
⇒その後の日本軍に起きることを凝縮している事件
・明治憲法の議会制民主主義と政党政治の理論的基礎を担保していた天皇機関説
⇒1935年に政府が公式に否定した⇒ファシズム国家へ
(それまでは東京帝大法学部の憲法学でも天皇主権説と天皇機関説の2講座が必須科目で、
高等文官試験でも必ず2説から出題されていた)
・昭和9年(1934)に陸軍省新聞班が公表した各国陸軍の兵力
平時兵力 陸軍航空機数 戦車
ソ連 約130万人 約3000機 約3000両
中華民国 約200万人 約500機
アメリカ 約32万人 約2000機⇒3000機に拡張中 約500両
日本 約23万人 約1000機内外
⇒なので1国と戦うにしても強化のために国内統制しなければならないという理屈
⇒さらに強い兵員になるべき国民の健康強化のために昭和15年(1940)には厚生省も設置
⇒あとは日露戦争のように物資力の不足を精神力で補えば短期戦・殲滅戦なら勝てる
⇒殲滅戦で勝利できなければ被殲滅戦になる⇒それでも全滅(玉砕)すべき
(それで局面が変わるかもしれないから、という発想が当時からあった)
・満州国とソ連・モンゴル(ソ連の衛星国)との国境線は5000km
⇒1937年に113回、1938年には166回の国境紛争が起きている(1939年にノモンハン事件)
⇒戦争が始まるのは時間の問題なので中国とは早く手を握りたかった
⇒アメリカやイギリスは中国の抗日を支援し共産主義のソ連と一緒に日本包囲網を形成した
⇒この呉越同舟は日本軍の予想外だった
⇒この包囲網は主義主張に関係なく日本人を追い出したかった蒋介石の手腕かも
⇒1920年代にソ連で国民党の組織づくりを学び息子の蒋経国をモスクワに留学させている
⇒さらにプロテスタントでアメリカ・イギリスから宗教的に信頼されていた
・軍事用語の中立化する(ニュートラリゼーション)とは敵を捕虜にするか逃がすか殺すか
⇒敵かもしれない相手(便衣隊かも)⇒殺せば確実に中立化する⇒南京での三光作戦など
(戦時国際法でゲリラの抵抗権も一定認められるのは戦後から)
⇒犠牲者数が不明でも南京で虐殺があった事実は2022年度から文部省の学習指導要領にも
・ノモンハン物量戦の敗北を教訓にせずひた隠しにして現場の指揮官を自決させた
⇒その後の南洋諸島でも沖縄戦でも同じ
⇒ノモンハンを教訓にしていれば太平洋戦争突入にも慎重になってたかも
・ワシントン会議(1922)の戦艦5:5:3とロンドン海軍軍縮会議(1930)の補助艦10:10:7
⇒ランチェスターの法則からは25:25:9と100:100:49なので抗議した
(攻撃力は白兵戦では数に比例するが遠隔戦では数の二乗に比例する)
⇒戦艦を10:7(100:49)まで増強して残り半分は精神力(大和魂)で勝つのだと・・・
・「正常な判断力を失い対米戦に突入した」と言われてきたが対米戦への布石はあった
(なので東亜新秩序の建設に多くの日本人が熱狂した心情も少しはわかる気がする)
⇒1931年9月・満州事変⇒米国に頼っていたエネルギーや物資を中国大陸ルートに
⇒1940年3月・汪兆銘政権(南京政府)樹立⇒蒋介石政権(重慶政府)に対抗し傀儡中華民国に
⇒1940年9月・日独伊三国同盟締結⇒英米に対抗する
⇒1941年4月・日ソ中立条約締結⇒北方での満州国とソ連の棲み分け
⇒1940年9月・北部仏印に進駐⇒ゴムなどの入手と蒋介石援助ラインの遮断
⇒1941年7月・南部仏印に進駐⇒同上と蘭印・東南アジア全域への足がかり
⇒仏印も蘭印も母国はドイツに占領されており英国の占領も時間の問題だった
⇒東南アジアで英仏蘭が支配していた植民地の石油などの資源も全て日本の手中に
(それでも米国の植民地フィリピンさえ手を出さなければ対米戦はないという安易な前提)
・1941年6月に独ソ戦がはじまり、その想定シナリオが狂ったが・・・
⇒独ソ戦に合わせ(南方進出ではなく)満洲からソ連に侵攻しておれば・・・
⇒少なくとも対米戦はなかったはず
⇒逆に日ソ中立条約に矛盾するという理由で三国同盟を破棄しておれば・・・
⇒ソ連との関係を安定化して日米交渉もできたはず
(ハル・ノートの段階でも首脳会談はまだ可能で満洲での利権など条件交渉はできた)
(中国や東南アジアからの撤兵を約束して義勇兵として同数を送り込むこともできた)
⇒マレー半島でもシンガポール占領で「先には進出しない」と停戦を呼び掛けておれば・・・
⇒対ドイツ戦に集中したかったイギリスが応じていた可能性は高かったはず
・どれも実現せず結局は日米開戦から破滅の道へ・・・
・戦争を防ぎ平和に向かうための要因
①文民統制の徹底
⇒ロシア・ウクライナ戦争で防衛研究所の研究者や元自衛隊幹部が無責任な立場で不正確な
発言を繰り返しているが、彼らには国際政治の基本的知識が欠如している⇒監視批判が必要
(戦前は統帥権で文民統制の発想がなかった)
②軍産複合体の動きへの注視
⇒日本の安全保障に防衛産業の育成は重要だが野放しではなく国会のコントロールが必要
(防衛装備移転三原則の運用などは国家安全保障会議の役人が勝手に決めることではない)
⇒外務省は5000人だが防衛省は25万人の巨大組織であり利権構造への歯止めが必要
(戦前は財閥=軍事産業で戦争が金儲けの手段だった)
③国民によるメディア監視
⇒メディアと防衛省・自衛隊が一体化して勇ましい方向にむかうときに諫める
(戦前は戦争を批判する媒体が殆どなく、あれば徹底的に弾圧された)
・2024年11月に融通の利かない検察官カマラ・ハリスを破りトランプが大統領に当選した
⇒トランプはおかしなやつとカリカチュア化せず彼の心の善性に目を向けるべき???
2026年04月16日
「あの戦争」は何だったのか
引き続きの読書メモになりますが・・・

辻田真佐憲著~「あの戦争」は何だったのか~であります
わたくしが「ホノルルの休日」から2月末に帰国して最初に読みはじめていた本で、たまたま
アメリカとイスラエルによるイラン攻撃の開始時期と重なってて、まさに「あの戦争」後の
世界の仕組みが崩れていく現状を予測しているかのような内容で驚いています
あらためての著者紹介

著者の本は何冊か紹介してるので著者名などで「当サイトの記事検索」をご利用ください
奥付

2025年7月の発行なので第2次トランプ政権発足後の世界情勢までは反映されてました
目次


この著者の目次は内容を簡潔にまとめてあるので、目次だけでも概要がわかりますが、
今回も視点が比較的まともだと感じました
(以下てきとー読書メモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開にします)
はじめにより
・「あの戦争」はなぜ起きたのか?と、よく問われるが、
⇒日本が米国の石油禁輸で追い詰められたから、というのが一般的な答えだろう
⇒では、なぜ石油が禁輸されたのか
⇒日本が仏領インドシナまで進駐したから
⇒では、なぜ進駐したのか、軍を引き上げればよかったのか
⇒そんな単純な問題ではなく・・・と芋づる式に関連事項がつながり時間がかかる
・そもそも、「あの戦争」とは何を指すのか?
⇒大東亜戦争?太平洋戦争?十五年戦争?アジア太平洋戦争?第二次世界大戦?
・いつ始まったのか(第1章)、どこで間違ったのか(第2章)などから「何だったか」の核心に迫る
⇒歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈なのだから
⇒PTSD概念がなかった頃の兵士の心的外傷を現在の立場から再発見するのと同じ
・ウクライナ、中東、新トランプ政権の米国、中国と台湾、グローバルサウスの躍進
⇒「あの戦争」後の国際秩序の枠組みは明らかに揺らいできている
⇒まさに2022年末に翌年の展望を問われたタモリが答えていたとおり「新しい戦前」に
・中国ではこれまで戦前の排日運動や蒋介石の対日攻勢に触れることは日本の侵略責任を
相対化することになる、戦争の原因はすべて日本の侵略であり中国人は受け身の被害者である、
という立場だったので、ずっと忌避されていた
⇒だが現在では、これらを中国側の主体的な動きと見る視点が受け入れられている
⇒新資料の発掘に加え中国が経済的・軍事的に台頭していることが影響している
⇒「これだけ積極的な中国人が当時だけ受け身だったとは考えられない」という感覚
・ヨーロッパでは第三世界の台頭で植民地支配の責任問題が問われ始めている
⇒近代日本の歩みやアジア主義の理想には欧米の植民地支配の被害者としての側面もある
⇒それで日本の軍事行動が全面的に正当化されるわけではないが、加害か被害か・正義か悪か、
の二者択一ではない、多角的に再検討する姿勢が求められている(第3章)
・かつて「大東亜」と呼んだ国々の歴史博物館や記念碑は冷戦後のものが多い
⇒それら現在の「大東亜」では日本をどう見てるのか(第4章)、
⇒「あの戦争」はいつ終わるのか(第5章)という問いで、日本の「国民の物語」に向き合う
⇒日本では未だに近代を包括する物語が共有されておらず国立の近現代歴史博物館もない
・過去を糾弾するだけでも賞賛するだけでもなく、小さく否定し大きく肯定する
⇒(国民という枠組みなど幻想とは理解しつつも)国際秩序は国民国家単位で成り立っており、
戦争が国民国家の行為とされる以上、それを抜きに当時の歴史を語るのは現実的ではない
・本書は「あの戦争」を我々の物語として再受容し、表題の究極の問いに答える試み・・・
第1章より
・「日中戦争」は1937年7月7日の盧溝橋(支那事変)から?
・「太平洋戦争」は1941年12月8日の真珠湾から?(実際には1時間前の英領マレー半島上陸から?)
⇒政府が1941年12月12日に対米英戦を「大東亜戦争」とした際に支那事変を含むとした
⇒ところが閣議決定による平時と戦時の区切りは12月8日午前1時30分(給与・刑法上)
⇒今も政府は「先の大戦の戦没者は約310万人(うち軍人・軍属は約230万人)」としているが、
これは1937年7月(支那事変)から起算した戦没者数
・平成天皇や左派の「15年戦争」は1931年9月18日の柳条湖(満州事変)から(加害者の視点)
・林房雄の「東亜百年戦争」は欧米列強の来航(1844~1848)への反撃から(被害者の視点)
・「アジア・太平洋戦争」と「アジア太平洋戦争」と「大東亜戦争」(略)
・第一次世界大戦の陸軍中堅幕僚への衝撃
⇒これからの戦争は総力戦になり資源確保が不可欠になる
⇒関東軍の暴走(日本に独裁者はおらず様々な勢力が加担)
⇒戦後のパリ講和会議での民族自決・ナショナリズム⇒日本の中国権益への不安感も
⇒強硬論で蒋介石の主要都市を攻略占領した
⇒それでも足りない資源が石油やゴムなど⇒南進へ
・東南アジアでは緩衝地帯のタイ以外はフランス・オランダ・米国・英国の植民地だった
⇒1939年9月に第二次世界大戦がはじまった
⇒この機に乗じ南進して資源を確保、蒋介石支援ルートを遮断して日中戦争も解決
⇒参戦していない米国には大きく依存しており対立は避けたかった(が楽観的だった)
・1941年7月に仏領インドシナ南部に進駐(南進の足場確保)
⇒南部の中心サイゴンはバンコク・シンガポール・蘭領インドシナなどへの戦略的な要衝
⇒連合国への直接的な脅威と受け止められた⇒石油の全面禁輸へ
・1941年11月の事実上の最後通牒であるハル・ノート⇒全面撤兵などを要求
⇒第一次世界大戦からの総力戦体制の整備が否定されるに等しい
⇒避けるべきはずの米国との戦争に
⇒司令塔が不在で場当たり的な対外政策だった
・「あの戦争」筆者の考え
⇒形式的なはじまりは1941年12月8日だが、実質的なはじまりは1937年7月7日
(その前には継続的で大規模な軍事衝突がなかったから)
⇒戦争名称としては日中戦争、対米英開戦以降は日中戦争を含め大東亜戦争と呼称する
(大東亜は歴史上の名称として使われており戦争だけ太平洋に置き換える空気支配こそが問題)
⇒原因は黒船来航まで遡ることに賛同する(内在的な論理として理解する)
⇒愚かだった、狂気だった、だけでは有益な教訓は引き出せない
⇒物語の否定ではなく物語の絶え間ない選択が必要
第2章より
・どこが間違っていたかを様々な「IF」から検証(略)
(どれもなるほどと納得できたので目次の小項目から推測して下さいね)
⇒結論的には小林秀雄の「歴史の必然性」になるが、
(歴史とは無数の要因が絡み合って展開するもので過去を変えることはできないが、)
⇒戦争への道を振り返り様々な可能性を考えることで、未来を変えるための努力はできる
第3章より
・当時の理想は単なるプロパガンダだったのか?
⇒日米開戦で「アジアの解放」という聖戦の意義がはっきりしたと多数の知識人が歓喜した
(それまでの日中戦争でいくら聖戦と言われても中国のナショナリズムに対抗して日本の権益を
守ろうとする、弱い者いじめの主張に過ぎず、すっきりしなかった)
⇒脱亜入欧とアジア主義の相克
⇒欧米からの人種的・文化的な差別と朝鮮や台湾での欧米式植民地支配
⇒大東亜新秩序建設のため邪悪な存在(欧米)に立ち向かう正義の開戦
⇒プロパガンダで強調されたにしても、この構図が大多数に支えられていたのではないか
・1905年の日露戦争の勝利
⇒アジアの弱小国が白人帝国に勝利した事実は欧米の植民地支配に苦しむ人々に影響した
・1919年パリ講和会議における国際連盟規約への日本の「人種差別撤廃」内容追加要求
⇒正邪だけでなく米国の日系移民排斥など国益上の動機もあったが強い共感を呼んだ
(結果的には白豪主義のオーストラリア首相ヒューズを中心に英米が反対して否決された)
(日本も支配地域で他民族を差別的に扱っていた事実もあり評価はその間ですべき)
(アフリカ系米国人に当時の日本への共感や期待があったのも事実だが批判もあった)
・1932年3月の満洲国建国では「王道楽土」や「五族協和」だった
⇒1937年7月の日中戦争勃発では「横暴な中国を懲らしめる」になったが、長期化が決定的に
なった同年11月には近衛文麿首相により「東亜新秩序建設」が新しい戦争目的に
⇒いわば付け焼刃的にアジア主義が台頭した
⇒この流れで登場したのが日本書紀で神武天皇の言葉とされる「八紘一(為)宇」(略)
・1942年1月21日の東条英機首相の衆議院本会議演説
⇒大東亜共栄圏の建設とは日本を中心に道義的秩序の形成を目指すもの⇒八紘一宇
・1943年11月の大東亜会議における共同宣言
⇒日本・中華民国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(陪席)による
(ベトナム・カンボジア・ラオス・マレーシア・インドネシアに該当する地域は直接支配していた)
⇒共存共栄、独立親和、文化高揚、経済繁栄、人種差別撤廃による世界貢献の五原則
⇒戦局の悪化で形式的にせよ占領地に独立や自主性を与える方針になったもの
⇒大東亜政略指導大綱では逆にアジア諸民族を日本に従属させる構造になっている
・過酷な植民地支配や占領統治の事実を率直に認めたうえで、世界に先駆け人種差別撤廃を
国際連盟に提案しアジアで共同宣言した日本として、外国人差別・人種差別に反対すべき
⇒このアジア主義こそ新たな「国民の物語」ではないか・・・
第4章より
・東条英機の外遊ルート1943
南京・上海・新京(長春)・奉天(潘陽)・マニラ・サイゴン(ホーチミン)・バンコク・シンガポール・
パレンバン・ジャカルタ・クチン・ラブアン・(日本領だった)京城(ソウル)・台北・高雄
⇒そのすべてを巡って東条の大東亜外交がどう評価されているかを確認した(内容は略)
・シンガポール⇒ディスカバリーセンターとフォード旧工場で
・ジャカルタ⇒国家記念塔モナス地下の51のジオラマで
・パレンバン⇒製油所内よりも戦争賠償のアンペラ橋で
・クチン⇒ボルネオ守備隊の司令官官邸となった旧王宮アスタナと対岸の司令部となった
裁判所と増設されたジャパニーズ・ビルディングとマレーシア最大のボルネオ文化博物館で
・ラブアン島⇒ヴィクトリアのラブアン歴史博物館とその前庭にある司令官・前田大将記念碑と
マレーシア最大の戦争記念墓地で英豪兵3908名が眠るラブアン第二次世界大戦墓地で
・バンコク⇒ドンムアン空港北にあるナショナルメモリアル併設の軍事博物館とアユタヤ⇒
日本人村公園にある歴史研究センター別館で
・新京(長春)⇒満州国皇帝溥儀の宮殿跡である偽満皇宮博物院で
・奉天(潘陽)⇒柳条湖事件(満州事変)の現場近くにある9.18歴史博物館で
・南京⇒2017年にリニューアルされた大虐殺記念館と、もと国民政府外交部(外務省)庁舎⇒
支那派遣軍総司令部⇒現在は江蘇省人民常務委員会庁舎で
・マニラ⇒マニラ市街戦では10万人以上の市民、フィリピン全体では100万人以上が犠牲に
⇒なのでモニュメントや歴史解説は数多い⇒「許そう、だが忘れない」⇒和解の道へ
⇒2024年11月、宮崎駿監督がアジアのノーベル賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞を
受賞した際、2016年の天皇皇后のマニラ訪問時の哀悼に触れ「多くの民間人を殺害したことを
日本人は忘れてはならないのです、その事実はいつまでも残ります」と発言した
⇒この発言は戦争をめぐる記憶のあり方として、ひとつの模範的なかたちといえる
⇒被害を受けた側が「許そう、だが忘れない」という物語を紡いでいるときに、加害側が
「忘れた」と応じてしまえば和解の前提が成り立たない
⇒「知らなかった」ではなく「忘れない」と応じて共有し、その後に知ればよい
(フィリピン、ベトナム、台湾などについては前著「ルポ国威発揚」を参照)
⇒若い国家では「国民の物語」を構築しやすいが日本ではどうか
第5章より
・「あの戦争」はいつ歴史の出来事として「終わった」といえるのか
⇒国立歴史民俗博物館は2010年に現代をテーマとする第6展示室を新設したが「あの戦争」に
関する展示は驚くほどあっさりしている⇒まだ社会的合意が形成されていないから
⇒国立昭和館も展示の中心は戦時下の国民生活で多角的な視点がない⇒同様だから
・明確な歴史観を提示しているのは靖国神社の遊就館
⇒靖国史観は日本の行動を正当化・美化したものと思われやすいが「受け身史観」
⇒すべては自国を守るためのやむを得ない消極的な行動であったという史観
⇒明治期から第一次世界大戦までは説得力があるが、それ以降は単なる被害者ではない
⇒支援者の主流の保守派といっても親米から反米まであり歴史観も多様で一枚岩ではない
⇒民間の博物館なので自由だが日本の戦争博物館とされており、指摘による見直しもある
・靖国史観とは異なるのが東京大空襲・戦災資料センターの工夫
⇒日本も含む世界的な空襲の歴史を踏まえたうえでの東京・広島・長崎で被害者史観ではない
・国立アメリカ歴史博物館
⇒日本に関する説明には無理があるが・・・
(「悪者」の主語がヒトラー・ムッソリーニに較べ(司令塔不在で)東条から二転三転している)
⇒日系人12万人強制収容の負の歴史も原爆投下の両論もある⇒全肯定に傾かない展示
(ただしトランプ政権によるD多様性E公平性I包括性の見直しで変わる可能性もある)
・「あの戦争」は記憶の風化で終わるか、新たな戦争などで上書きされて終わるか
⇒どちらも希望のない終わり方
⇒だが「あの戦争」は政治的・経済的・軍事的に日本の黄金時代だった昭和の一大イベント
⇒さらに明治以降の近代国家建国史の総決算で歴史から消え去るとは想像しがたい
・近代日本の歩みを欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、
逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない
⇒国立博物館では基本的に自国の歩みを肯定し過ちや課題も正直に記して65点ぐらいで
・さらに肯定する立場なら、日本が列強の一員として主要な役割を果たしてきたこと、
その主体であり他者に影響を与える存在であったこと、その影響には肯定的な面も否定的な面も
存在したこと、その全体を引き受けるのが主体性であることを理解したうえで、日本は近代の
主人公の一人という自覚を持ってやればよい
(大東亜の理想に普遍性があるなら、それがどこで破綻し、どのような問題を生んだかを示し、
理想と現実の乖離を描くことで、理想の真価が際立つ)
・国立の歴史博物館は政府の立場になり中立には限界がある
⇒民間の博物館では右も左もあってよい
⇒この二重構造が歴史のあるべき姿と考えて私人としてこの本を記した
・「あの戦争」は日本の近現代史の流れの中で位置づけて、はじめて全体像が立ち上がる
⇒その視点に立つことで過剰な肯定にも否定にもならず落ち着くのではないか・・・
おわりにより
・小林秀雄の「歴史は因果の鎖ではなく愛惜の念により、はじめて意味を持つ」
⇒歴史に関心を抱くのは一個の主体が存在し、その主体に動機があるから
⇒かつての動機は多くに共有された戦争体験で、誰もが昭和史に関心を抱いた
⇒では、その共有体験が失われた今は歴史に無関心になったか
⇒エンタメやフィクションの物語で血の通った個々の人生に結びついてくる
・情念のない教科書形式の歴史ほど退屈な世界はない
⇒歴史は解釈であり現在の興味関心や価値観によってつねにかたちを変える
⇒本書もトランプ政権の再登場などで目次や内容がたびたび見直された・・・
・・・・・・
つーことで・・・
日本がこれまでの国際秩序が揺れ動く今の世界情勢の中で、どの方向に向かうべきかを考える
にあたっては、「あの戦争」を見返す必要があることだけは間違いないでしょう
最後に巻末にあった主要参考文献もメモしておきます
そう、わたくしに残された時間でこれだけ読めば・・・って、もう無理かな・・・




辻田真佐憲著~「あの戦争」は何だったのか~であります
わたくしが「ホノルルの休日」から2月末に帰国して最初に読みはじめていた本で、たまたま
アメリカとイスラエルによるイラン攻撃の開始時期と重なってて、まさに「あの戦争」後の
世界の仕組みが崩れていく現状を予測しているかのような内容で驚いています
あらためての著者紹介

著者の本は何冊か紹介してるので著者名などで「当サイトの記事検索」をご利用ください
奥付

2025年7月の発行なので第2次トランプ政権発足後の世界情勢までは反映されてました
目次


この著者の目次は内容を簡潔にまとめてあるので、目次だけでも概要がわかりますが、
今回も視点が比較的まともだと感じました
(以下てきとー読書メモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開にします)
はじめにより
・「あの戦争」はなぜ起きたのか?と、よく問われるが、
⇒日本が米国の石油禁輸で追い詰められたから、というのが一般的な答えだろう
⇒では、なぜ石油が禁輸されたのか
⇒日本が仏領インドシナまで進駐したから
⇒では、なぜ進駐したのか、軍を引き上げればよかったのか
⇒そんな単純な問題ではなく・・・と芋づる式に関連事項がつながり時間がかかる
・そもそも、「あの戦争」とは何を指すのか?
⇒大東亜戦争?太平洋戦争?十五年戦争?アジア太平洋戦争?第二次世界大戦?
・いつ始まったのか(第1章)、どこで間違ったのか(第2章)などから「何だったか」の核心に迫る
⇒歴史は客観的なものではなく、つねに現在からの解釈なのだから
⇒PTSD概念がなかった頃の兵士の心的外傷を現在の立場から再発見するのと同じ
・ウクライナ、中東、新トランプ政権の米国、中国と台湾、グローバルサウスの躍進
⇒「あの戦争」後の国際秩序の枠組みは明らかに揺らいできている
⇒まさに2022年末に翌年の展望を問われたタモリが答えていたとおり「新しい戦前」に
・中国ではこれまで戦前の排日運動や蒋介石の対日攻勢に触れることは日本の侵略責任を
相対化することになる、戦争の原因はすべて日本の侵略であり中国人は受け身の被害者である、
という立場だったので、ずっと忌避されていた
⇒だが現在では、これらを中国側の主体的な動きと見る視点が受け入れられている
⇒新資料の発掘に加え中国が経済的・軍事的に台頭していることが影響している
⇒「これだけ積極的な中国人が当時だけ受け身だったとは考えられない」という感覚
・ヨーロッパでは第三世界の台頭で植民地支配の責任問題が問われ始めている
⇒近代日本の歩みやアジア主義の理想には欧米の植民地支配の被害者としての側面もある
⇒それで日本の軍事行動が全面的に正当化されるわけではないが、加害か被害か・正義か悪か、
の二者択一ではない、多角的に再検討する姿勢が求められている(第3章)
・かつて「大東亜」と呼んだ国々の歴史博物館や記念碑は冷戦後のものが多い
⇒それら現在の「大東亜」では日本をどう見てるのか(第4章)、
⇒「あの戦争」はいつ終わるのか(第5章)という問いで、日本の「国民の物語」に向き合う
⇒日本では未だに近代を包括する物語が共有されておらず国立の近現代歴史博物館もない
・過去を糾弾するだけでも賞賛するだけでもなく、小さく否定し大きく肯定する
⇒(国民という枠組みなど幻想とは理解しつつも)国際秩序は国民国家単位で成り立っており、
戦争が国民国家の行為とされる以上、それを抜きに当時の歴史を語るのは現実的ではない
・本書は「あの戦争」を我々の物語として再受容し、表題の究極の問いに答える試み・・・
第1章より
・「日中戦争」は1937年7月7日の盧溝橋(支那事変)から?
・「太平洋戦争」は1941年12月8日の真珠湾から?(実際には1時間前の英領マレー半島上陸から?)
⇒政府が1941年12月12日に対米英戦を「大東亜戦争」とした際に支那事変を含むとした
⇒ところが閣議決定による平時と戦時の区切りは12月8日午前1時30分(給与・刑法上)
⇒今も政府は「先の大戦の戦没者は約310万人(うち軍人・軍属は約230万人)」としているが、
これは1937年7月(支那事変)から起算した戦没者数
・平成天皇や左派の「15年戦争」は1931年9月18日の柳条湖(満州事変)から(加害者の視点)
・林房雄の「東亜百年戦争」は欧米列強の来航(1844~1848)への反撃から(被害者の視点)
・「アジア・太平洋戦争」と「アジア太平洋戦争」と「大東亜戦争」(略)
・第一次世界大戦の陸軍中堅幕僚への衝撃
⇒これからの戦争は総力戦になり資源確保が不可欠になる
⇒関東軍の暴走(日本に独裁者はおらず様々な勢力が加担)
⇒戦後のパリ講和会議での民族自決・ナショナリズム⇒日本の中国権益への不安感も
⇒強硬論で蒋介石の主要都市を攻略占領した
⇒それでも足りない資源が石油やゴムなど⇒南進へ
・東南アジアでは緩衝地帯のタイ以外はフランス・オランダ・米国・英国の植民地だった
⇒1939年9月に第二次世界大戦がはじまった
⇒この機に乗じ南進して資源を確保、蒋介石支援ルートを遮断して日中戦争も解決
⇒参戦していない米国には大きく依存しており対立は避けたかった(が楽観的だった)
・1941年7月に仏領インドシナ南部に進駐(南進の足場確保)
⇒南部の中心サイゴンはバンコク・シンガポール・蘭領インドシナなどへの戦略的な要衝
⇒連合国への直接的な脅威と受け止められた⇒石油の全面禁輸へ
・1941年11月の事実上の最後通牒であるハル・ノート⇒全面撤兵などを要求
⇒第一次世界大戦からの総力戦体制の整備が否定されるに等しい
⇒避けるべきはずの米国との戦争に
⇒司令塔が不在で場当たり的な対外政策だった
・「あの戦争」筆者の考え
⇒形式的なはじまりは1941年12月8日だが、実質的なはじまりは1937年7月7日
(その前には継続的で大規模な軍事衝突がなかったから)
⇒戦争名称としては日中戦争、対米英開戦以降は日中戦争を含め大東亜戦争と呼称する
(大東亜は歴史上の名称として使われており戦争だけ太平洋に置き換える空気支配こそが問題)
⇒原因は黒船来航まで遡ることに賛同する(内在的な論理として理解する)
⇒愚かだった、狂気だった、だけでは有益な教訓は引き出せない
⇒物語の否定ではなく物語の絶え間ない選択が必要
第2章より
・どこが間違っていたかを様々な「IF」から検証(略)
(どれもなるほどと納得できたので目次の小項目から推測して下さいね)
⇒結論的には小林秀雄の「歴史の必然性」になるが、
(歴史とは無数の要因が絡み合って展開するもので過去を変えることはできないが、)
⇒戦争への道を振り返り様々な可能性を考えることで、未来を変えるための努力はできる
第3章より
・当時の理想は単なるプロパガンダだったのか?
⇒日米開戦で「アジアの解放」という聖戦の意義がはっきりしたと多数の知識人が歓喜した
(それまでの日中戦争でいくら聖戦と言われても中国のナショナリズムに対抗して日本の権益を
守ろうとする、弱い者いじめの主張に過ぎず、すっきりしなかった)
⇒脱亜入欧とアジア主義の相克
⇒欧米からの人種的・文化的な差別と朝鮮や台湾での欧米式植民地支配
⇒大東亜新秩序建設のため邪悪な存在(欧米)に立ち向かう正義の開戦
⇒プロパガンダで強調されたにしても、この構図が大多数に支えられていたのではないか
・1905年の日露戦争の勝利
⇒アジアの弱小国が白人帝国に勝利した事実は欧米の植民地支配に苦しむ人々に影響した
・1919年パリ講和会議における国際連盟規約への日本の「人種差別撤廃」内容追加要求
⇒正邪だけでなく米国の日系移民排斥など国益上の動機もあったが強い共感を呼んだ
(結果的には白豪主義のオーストラリア首相ヒューズを中心に英米が反対して否決された)
(日本も支配地域で他民族を差別的に扱っていた事実もあり評価はその間ですべき)
(アフリカ系米国人に当時の日本への共感や期待があったのも事実だが批判もあった)
・1932年3月の満洲国建国では「王道楽土」や「五族協和」だった
⇒1937年7月の日中戦争勃発では「横暴な中国を懲らしめる」になったが、長期化が決定的に
なった同年11月には近衛文麿首相により「東亜新秩序建設」が新しい戦争目的に
⇒いわば付け焼刃的にアジア主義が台頭した
⇒この流れで登場したのが日本書紀で神武天皇の言葉とされる「八紘一(為)宇」(略)
・1942年1月21日の東条英機首相の衆議院本会議演説
⇒大東亜共栄圏の建設とは日本を中心に道義的秩序の形成を目指すもの⇒八紘一宇
・1943年11月の大東亜会議における共同宣言
⇒日本・中華民国・タイ・満州国・フィリピン・ビルマ・自由インド仮政府(陪席)による
(ベトナム・カンボジア・ラオス・マレーシア・インドネシアに該当する地域は直接支配していた)
⇒共存共栄、独立親和、文化高揚、経済繁栄、人種差別撤廃による世界貢献の五原則
⇒戦局の悪化で形式的にせよ占領地に独立や自主性を与える方針になったもの
⇒大東亜政略指導大綱では逆にアジア諸民族を日本に従属させる構造になっている
・過酷な植民地支配や占領統治の事実を率直に認めたうえで、世界に先駆け人種差別撤廃を
国際連盟に提案しアジアで共同宣言した日本として、外国人差別・人種差別に反対すべき
⇒このアジア主義こそ新たな「国民の物語」ではないか・・・
第4章より
・東条英機の外遊ルート1943
南京・上海・新京(長春)・奉天(潘陽)・マニラ・サイゴン(ホーチミン)・バンコク・シンガポール・
パレンバン・ジャカルタ・クチン・ラブアン・(日本領だった)京城(ソウル)・台北・高雄
⇒そのすべてを巡って東条の大東亜外交がどう評価されているかを確認した(内容は略)
・シンガポール⇒ディスカバリーセンターとフォード旧工場で
・ジャカルタ⇒国家記念塔モナス地下の51のジオラマで
・パレンバン⇒製油所内よりも戦争賠償のアンペラ橋で
・クチン⇒ボルネオ守備隊の司令官官邸となった旧王宮アスタナと対岸の司令部となった
裁判所と増設されたジャパニーズ・ビルディングとマレーシア最大のボルネオ文化博物館で
・ラブアン島⇒ヴィクトリアのラブアン歴史博物館とその前庭にある司令官・前田大将記念碑と
マレーシア最大の戦争記念墓地で英豪兵3908名が眠るラブアン第二次世界大戦墓地で
・バンコク⇒ドンムアン空港北にあるナショナルメモリアル併設の軍事博物館とアユタヤ⇒
日本人村公園にある歴史研究センター別館で
・新京(長春)⇒満州国皇帝溥儀の宮殿跡である偽満皇宮博物院で
・奉天(潘陽)⇒柳条湖事件(満州事変)の現場近くにある9.18歴史博物館で
・南京⇒2017年にリニューアルされた大虐殺記念館と、もと国民政府外交部(外務省)庁舎⇒
支那派遣軍総司令部⇒現在は江蘇省人民常務委員会庁舎で
・マニラ⇒マニラ市街戦では10万人以上の市民、フィリピン全体では100万人以上が犠牲に
⇒なのでモニュメントや歴史解説は数多い⇒「許そう、だが忘れない」⇒和解の道へ
⇒2024年11月、宮崎駿監督がアジアのノーベル賞といわれるフィリピンのマグサイサイ賞を
受賞した際、2016年の天皇皇后のマニラ訪問時の哀悼に触れ「多くの民間人を殺害したことを
日本人は忘れてはならないのです、その事実はいつまでも残ります」と発言した
⇒この発言は戦争をめぐる記憶のあり方として、ひとつの模範的なかたちといえる
⇒被害を受けた側が「許そう、だが忘れない」という物語を紡いでいるときに、加害側が
「忘れた」と応じてしまえば和解の前提が成り立たない
⇒「知らなかった」ではなく「忘れない」と応じて共有し、その後に知ればよい
(フィリピン、ベトナム、台湾などについては前著「ルポ国威発揚」を参照)
⇒若い国家では「国民の物語」を構築しやすいが日本ではどうか
第5章より
・「あの戦争」はいつ歴史の出来事として「終わった」といえるのか
⇒国立歴史民俗博物館は2010年に現代をテーマとする第6展示室を新設したが「あの戦争」に
関する展示は驚くほどあっさりしている⇒まだ社会的合意が形成されていないから
⇒国立昭和館も展示の中心は戦時下の国民生活で多角的な視点がない⇒同様だから
・明確な歴史観を提示しているのは靖国神社の遊就館
⇒靖国史観は日本の行動を正当化・美化したものと思われやすいが「受け身史観」
⇒すべては自国を守るためのやむを得ない消極的な行動であったという史観
⇒明治期から第一次世界大戦までは説得力があるが、それ以降は単なる被害者ではない
⇒支援者の主流の保守派といっても親米から反米まであり歴史観も多様で一枚岩ではない
⇒民間の博物館なので自由だが日本の戦争博物館とされており、指摘による見直しもある
・靖国史観とは異なるのが東京大空襲・戦災資料センターの工夫
⇒日本も含む世界的な空襲の歴史を踏まえたうえでの東京・広島・長崎で被害者史観ではない
・国立アメリカ歴史博物館
⇒日本に関する説明には無理があるが・・・
(「悪者」の主語がヒトラー・ムッソリーニに較べ(司令塔不在で)東条から二転三転している)
⇒日系人12万人強制収容の負の歴史も原爆投下の両論もある⇒全肯定に傾かない展示
(ただしトランプ政権によるD多様性E公平性I包括性の見直しで変わる可能性もある)
・「あの戦争」は記憶の風化で終わるか、新たな戦争などで上書きされて終わるか
⇒どちらも希望のない終わり方
⇒だが「あの戦争」は政治的・経済的・軍事的に日本の黄金時代だった昭和の一大イベント
⇒さらに明治以降の近代国家建国史の総決算で歴史から消え去るとは想像しがたい
・近代日本の歩みを欧米列強に抗った正義の歴史として全面的に肯定する必要もなければ、
逆にアジアを侵略した暗黒の歴史として一方的に断罪する必要もない
⇒国立博物館では基本的に自国の歩みを肯定し過ちや課題も正直に記して65点ぐらいで
・さらに肯定する立場なら、日本が列強の一員として主要な役割を果たしてきたこと、
その主体であり他者に影響を与える存在であったこと、その影響には肯定的な面も否定的な面も
存在したこと、その全体を引き受けるのが主体性であることを理解したうえで、日本は近代の
主人公の一人という自覚を持ってやればよい
(大東亜の理想に普遍性があるなら、それがどこで破綻し、どのような問題を生んだかを示し、
理想と現実の乖離を描くことで、理想の真価が際立つ)
・国立の歴史博物館は政府の立場になり中立には限界がある
⇒民間の博物館では右も左もあってよい
⇒この二重構造が歴史のあるべき姿と考えて私人としてこの本を記した
・「あの戦争」は日本の近現代史の流れの中で位置づけて、はじめて全体像が立ち上がる
⇒その視点に立つことで過剰な肯定にも否定にもならず落ち着くのではないか・・・
おわりにより
・小林秀雄の「歴史は因果の鎖ではなく愛惜の念により、はじめて意味を持つ」
⇒歴史に関心を抱くのは一個の主体が存在し、その主体に動機があるから
⇒かつての動機は多くに共有された戦争体験で、誰もが昭和史に関心を抱いた
⇒では、その共有体験が失われた今は歴史に無関心になったか
⇒エンタメやフィクションの物語で血の通った個々の人生に結びついてくる
・情念のない教科書形式の歴史ほど退屈な世界はない
⇒歴史は解釈であり現在の興味関心や価値観によってつねにかたちを変える
⇒本書もトランプ政権の再登場などで目次や内容がたびたび見直された・・・
・・・・・・
つーことで・・・
日本がこれまでの国際秩序が揺れ動く今の世界情勢の中で、どの方向に向かうべきかを考える
にあたっては、「あの戦争」を見返す必要があることだけは間違いないでしょう
最後に巻末にあった主要参考文献もメモしておきます
そう、わたくしに残された時間でこれだけ読めば・・・って、もう無理かな・・・




