糧食、飲料
2026年08月31日
ウイスキーと私
とーとつですが・・・


竹鶴政孝著「ウイスキーと私」であります

そう、日本経済新聞「私の履歴書」への連載をニッカが小冊子にまとめたもので、

昭和47年発行の非売品・・・
たまたま読んだのですが、じつに味わい深い内容でした
目次


以下、本文からの一部メモです
(非売品ですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
まずはスコッチウイスキーについての本人による解説から・・・
・ウイスキーが琥珀色でピートの焦げ臭い香りの付いた酒になったのは300年前とか
400年前とかといわれているほどで、酒の中では比較的に新しい
⇒しかも産業革命の1830年頃まではスコットランドの一部を除き殆ど飲まれてなかった
・その頃のモルトウイスキーはハイランド地方でポットスチルを使って蒸留した原酒を
樽に入れて熟成させたもので香りや味はよかったが重くて万人向きではなかった
・ワットが蒸気機関を改良し1830年には蒸気を利用するカフェ式連続蒸留器が完成した
⇒2回の蒸留で少量しかできないモルトに代わり1回の蒸留で大量にできるグレーンの工場が
1830年から1860年の間にローランド地方に乱立し、たちまち生産過剰になった
・1860年頃にハイランド・モルトとグレーン・ウイスキーをブレンドしたのがアッシャ商会
⇒カフェ・グレーンがモルトの長所をのばし欠点であった重さや荒さをやわらげた
⇒これが今のスコッチ製法で飲みやすくなり全イギリスから世界に愛好されるようになった
⇒なので今のブレンデッド・ウイスキーには100年の歴史しかない
(50年前の本なので今なら150年の歴史ですね)
で、英国留学のきっかけ
・長兄はシンガポールでゴムの栽培、次兄は北海道炭鉱汽船に就職し北海道へ、
⇒なので家業の酒蔵を継ぐため(学問的興味もあり)大阪高等工業(今の大阪大学)醸造科へ
(大正2年当時に醸造学を修める学校はここしかなかった)
⇒大正5年4月に卒業して実家に帰り12月に1年志願で兵隊に行ってから家業を継ぐコース
⇒洋酒に興味があったので、この間だけでも洋酒づくりをやりたいと思った
・当時の洋酒メーカーの第一人者は大阪の住吉にあった摂津酒造
⇒学校の試験が終わり大江橋から電車に乗って醸造科大先輩の岩井常務に頼みに行った
⇒阿部社長の部屋に連れていかれ、すべてを話すと「明日からでも出社しなさい」となった
⇒小西儀助商店や鳥井さんの寿屋などが得意先で洋酒の中身は摂津酒造が製造していた
・12月の大阪での徴兵検査では検査官の中尉が最後に甲種合格のハンコを押す直前に、
私が摂津酒造のアルコール技師であることを知り乙種になった
⇒アルコールは火薬製造に不可欠で軍需産業の一端と考えたのか軍縮の時代だったからか
⇒阿部社長は喜び、後日にスコットランド留学を打診され返事ができないほど感激した
⇒家業を継ぐと期待していた父母は大反対したが阿部社長の説得で家業は親類に譲ることに
⇒これで手筈が整い英国に出発することになった
⇒大正7年(1918)7月に神戸港から出港
(サンフランシスコからニューヨークまで大陸横断、Uボート攻撃を避けながらリバプールへ)
・当時の日本は第一次世界大戦による成金時代で洋酒がよく売れた
⇒大正7年~9年(1918~1920)は摂津酒造の黄金時代で私の留学費と日本に残った後輩たちの
賞与の額がほぼ同じになったほどの好景気だった
⇒戦後この後輩とひさしぶりに会った際に「同じ金額を、あなたはウイスキーの勉強に、
われわれは住𠮷公園の料亭につぎ込んだことになるなあ」と言ったので二人で大笑いした
(追記です)
そう、大正時代の住𠮷公園は大歓楽地だったんですよね
閑話休題・・・
で、肝心のスコットランドの部分は省略して・・・
・1921年11月に妻のリタと阿部社長の三人で横浜港に帰国した(4年ぶりの日本)
(リタとの結婚も父母に反対され阿部社長が説得、本人を確認の上で連れ帰る約束だった)
⇒新婚生活は大阪の帝塚山で家賃は55円、待遇は技師長で月給は150円だった
⇒戦後の大不況で社長も推していた私の本格ウイスキー計画が役員会で否認された
⇒イミテーションなら高給の私がいなくても作れるので辞表を出して浪人になった
⇒1922年から1923年の初めまでの数ヶ月は近所の桃山中学で化学の教師をした
(校長のローリング氏と妻のリタが親しく私の失業を心配してくださったため)
(ローリング氏は1933年に亡くなり阿倍野の外人墓地に埋葬されている)
⇒妻のリタも近所の帝塚山学院で英語を教え英語とピアノの個人教授も引き受けていた
・1923年の梅の季節に寿屋の鳥井社長が自宅に来られた⇒三顧の礼で
⇒本格的ウイスキーをやってみたいと三井物産を通じムーア博士の招請を交渉していたが
博士本人から日本にいい技師がいると言われ、とんできたとのことだった
⇒ウイスキー工場には北海道が適地とすすめたが「工場を見てもらえないような商品は
これからは大きくならない、大阪の近くで探してほしい」といわれた
(鳥井さんの商品を育てるカンと努力は先天的でこれも好例であろう)
⇒年俸4000円はスコットランド技師招請の見込み金額と同額だった
⇒雇用10年はウイスキーが商品として完成するまでの期間で1923年6月に寿屋に入社した
・調査して適地と判断した山崎の用地買収が終わったのは1923年10月で大震災の直後だった
(鳥井さんは震災後、直ちに船をチャーターして赤玉ポートワインやヘルメス・ウイスキーを
東京に運び、これが大いに売れて関東にも飛躍するステップとなった)
⇒起工式は1924年4月で設計や設備機械の発注など全て一人だったので忙しい日々が続いた
⇒ポット・スチルは大阪市西区の渡辺銅工所で何か月もかかり、運ぶのも船で淀川を遡上、
陸揚げしてからは馬で東海道線を越えるのが難関だった
⇒竣工式は1924年11月で費用は200万円かかった
⇒郷里の広島から日本酒の杜氏を十数人呼んで手を取るようにして教え込んだ
⇒機械の名前が英語でスムーズに出るようになって、やっと手つきも慣れてきた
⇒すべてが日本初だった
・1929年4月に初めての本格ウイスキー「白札サントリー」を世に出した
⇒発売価格は3円50銭
⇒ジョニーウォーカー赤が5円(今なら5万円ぐらいの商品?)の時代
⇒その後に普及品の「赤札サントリー」も出したがいずれも売れ行きも評判もよくなかった
(ブレンドしようにも新しいモルトしかなく体験的知識もなかった)
⇒売れなかったので原酒が残り、10年前後の年月を経て立派な原酒になった
・長期型のウイスキー部門と量産型のビール部門は分離すべきとの意見は採用されなかった
⇒両工場長を兼任していたがビール工場拡張工事の最中にビール部門の売渡が決定した
⇒独立を決意したのはその時で10年の約束は保留されていたが12年で円満に退社した
⇒鳥井さんなしには民間のウイスキーは育たなかったし私のウイスキー人生もなかった
・余市
⇒あらかじめ決めていたので資金を工面して1934年10月に工場を建てた
(リタは故郷のスコットランドに似ていると、とても喜んでくれた)
⇒すぐに売れるリンゴ・ジュースを作ったがラムネ・サイダー時代の嗜好に合わず苦戦した
⇒熟成を要するウイスキーづくりは1936年の秋から蒸留に入った
⇒つなぎ商品として1937年にアップルゼリー・グレープゼリー・アップルソースを出した
(翌年に出したアップルワインは今もニッカ製品のひとつ)
⇒1940年の秋にニッカウヰスキー第一号を発売した
⇒まだ原酒が若くブレンドも会心とはいえなかったが独立後初めての作品で感激した
⇒その後の統制時代には海軍の指定工場になり原酒の貯蔵量は増えていった
・戦後の混乱
⇒占領軍幹部からの理不尽な通達には「髭のオヤジ」が法律用語を交えて断固はねつけたが、
インフレで偽物も溢れ、せめてモルトを各イミテーション・メーカーに売ることにした
(イミテーションでも少量のモルトを混ぜるだけで味は格段によくなる)
⇒さらにブレンダーとしての良心に反して3級ウイスキーを作らざるを得なくなったと、
全従業員を広場に集めて苦衷をぶちまけたのは昭和25年の春
⇒税法の最高率まで原酒を入れて高く売ったのが、せめてもの私の抵抗だった
⇒売り上げは伸びたが「容量が少なく値段が高い」ことが競争上は不利だったのも事実
・昭和27年8月に大日本果汁からニッカウヰスキーに社名を変えた
⇒昭和30年11月には2000円のゴールドニッカ、翌年には1500円のブラックニッカを出した
⇒戦後第一回の洋酒ブームでトリス・ニッカ・オーシャンの軽バーが増えた
⇒当時の2級ウイスキーはウイスキーとは程遠いものだったが、その浸透が次のステップへ
⇒ウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと思っている
・昭和36年(1961)1月17日にリタが急逝し、しばらくショック状態が続いた
⇒昭和40年にリタの好きだった余市工場の見える小高い丘に墓を作った
⇒リタほど日本人になりきった外国人は少ないと思うし考え方も日本人的だった
⇒母親の遺産は長女なのに面倒を見なかったからと固く辞退していたし、叔母の遺産も
その一部で余市に幼稚園をつくり、それはリタ幼稚園として今も続いている
・当時目指していたのは2級でも古い原酒を入れたウイスキーと、グレーン・スピリッツを
使ったソフトなウイスキーだった
⇒グレーン・スピリッツの製造設備には多額の資金が必要だった
⇒「スコッチに負けないために」と朝日麦酒の山本為三郎社長が積極的に援助してくださり、
昭和37年にグレーン・スピリッツの西宮工場が完成した
⇒グレーンの熟成を待って出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカ
⇒どちらも許される上限の原酒とカフェ・グレーンのブレンド製品だった
⇒それまで特級でしかつくれなかった味が熟成カフェ・グレーンのおかげで1級でも旨いと
自負できるものが生まれた
・1000円ウイスキー戦争ともいわれたが各社が品質競争をして戦後第二のブームに
⇒昭和43年の税制改正でホワイトニッカを出したが改正は今後の品質アップに貢献するだろう
・余市モルトはハイランド・タイプで仙台モルトはローランド・タイプ
⇒「ローランド・モルトは荒々しいハイランド・モルトと中性のグレーン・ウイスキーとの
橋渡しをする」(イーニアス・マクドナルド)
⇒仙台モルトの一部は立派に使用できるまで成長してきた(昭和46年現在)
⇒ウイスキーのブレンドが完成するひとときは敬虔な祈りそのものであり、このブレンドは
ブレンダーとしての私の最終の仕上げになると思う・・・
・昭和44年(1969)イギリスのデイリーエキスプレス紙は「日本、スコッチ市場に侵入」という
大きな記事を掲載した
⇒これはニューヨーク駐在の記者たちがニューヨークタイムズ紙にのったニッカの広告を見て、
1本58シリング4ペンスのニッカ1本スコッチ2本の各最高級品3本を買って帰り、新聞社で
ブラインド(目かくし)テストをしてみた結果、これが日本製だろうと全員が指摘したのは
悲しいことにスコッチ最高の12年物であったと書かれていた
⇒さらに「英国が持っていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、次に日本は
英国の最も神聖な輸出商品スコッチに殴り込みをかけてきた」という警告記事だった
⇒スコットランドでウイスキーを勉強したのが50余年前、北海道余市に工場を作って30余年、
日本でウイスキーを作ることしか考えなかった私には痛快なニュースであった
・スコットランドのウイスキーづくりを持ち帰ったのでイギリスから嫌われているのでは、
との質問には「スコットランドでしかできなかったウイスキーを日本でつくり、今や日本も
スコッチの大きな市場になっているのだから女王は勲章をくれてもよい」と冗談をいった
⇒黄綬褒章、瑞宝章に続き1970年には北海道開発功労賞をいただいた
⇒北海道の風土があったからこそニッカが生まれニッカが育ったので恐縮している
⇒ウイスキーづくりを知れば知るほど風土そのものがウイスキーだと知った
・学問も技術も進歩を続けているのに半世紀前の勉強がそのまま役に立つのがウイスキーづくり
⇒熟成を早める科学はすべて失敗しており、今も自然と時間だけが解決者
⇒昔からスコットランドに伝わる製造法が、今もよいウイスキーへのただ一つの道
・ウイスキーの正しい飲み方
⇒私によくある質問で嗜好品なので一番旨いと思う方法で楽しめばよいと思っているが、
⇒毎日飲む人とたまにしか飲まない人で味わい方は違ってくる
⇒香りや味を味わうならストレートがいいが、これを毎日やれば胃を痛める
⇒こんな人には水割りがよくウイスキー1に井戸水2がいい
⇒これでアルコール分が12度から13度ぐらいになる
⇒適温はビールと同じ7~8℃
⇒以前はスコットランドでも炭酸割を飲む人が多かったが最近では水割りが多い
⇒炭酸割は胃を刺激するからか酔いが早くまわる
⇒楽しみながら時間をかけて飲むこと⇒食事も同じ
⇒楽しく飲める自分の量を計算して飲むこと
⇒オーバーすればどんなにいい酒でも悪酔いする
⇒私がウイスキー一途といってもビールもワインも日本酒も楽しむ
⇒今の流行語
でいうTPOで飲み分け、楽しむのが酒と思っている
・舌と鼻
⇒私は目の前でつくる料理しか食べないので宴会料理には手を付けない
⇒自分で食べるものは今でも自分で材料を買いに行く
⇒文化国家というものは嗜好を高めることにある
⇒いいもの悪いもの、新しいもの古いものを見分ける舌と鼻の持ち主になってもらいたい
⇒鼻の能力は先天的で舌の能力は後天的なものが多いようで舌は訓練次第
⇒ウイスキーの「のど越し」も鼻に通じるので鼻で鑑別するもの
⇒最盛期の30代で十数種類のスコッチ銘柄を飲み分けられたが英国滞在中には40種類ぐらいを
当てるエキスパートもおり、これは灘の日本酒でも同じで相当の鑑別ができるようになる
⇒主体性を持って見分けられることは人生を楽しむことに通じていると思う
・・・・・・・
冒頭に書いておられたのが周囲に機会を与えられたことでした
⇒二人の兄が家業を継ぐことを嫌がったから醸造学を修めたこと
(自分もウイスキーになり家業は親類が継ぐことになったが)
⇒摂津酒造の阿部社長の決意がなければスコットランド留学などあり得なかったこと
⇒グラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長や多くの協力がなければ
ウイスキーづくりを覚えられなかったのはもちろん、モルト工場にさえ入れなかったこと
⇒時代的にも日英同盟の背景がなかったら工場が実習を許可してくれてたかどうか
⇒寿屋の鳥井社長の洋酒の将来性への確信による山崎工場がなかったら日本はウイスキーが
できる国になっていたかどうか
⇒独立時の協力、カフェ・グレーンへの援助etc
⇒皆さんの協力が私をこの道一本に導いてくれた・・・
と、決して自慢話ではなく淡々としながらも温かみ溢れる内容で、ひさしぶりに爽やかな
気持ちになれた本でした
最後に備忘のため年表もメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)


(ご本人は1979年(昭和54年)に85歳で亡くなられてますが、ウィキによれば・・・
酒量はウイスキー1日1本。晩酌にはハイニッカを好み、おつまみとして醤油味の薄焼き煎餅と
供に楽しみながら飲んでいた。ただし、晩年には3日で2本に減らしたという。とのことでした
)


竹鶴政孝著「ウイスキーと私」であります

そう、日本経済新聞「私の履歴書」への連載をニッカが小冊子にまとめたもので、

昭和47年発行の非売品・・・
たまたま読んだのですが、じつに味わい深い内容でした
目次


以下、本文からの一部メモです
(非売品ですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
まずはスコッチウイスキーについての本人による解説から・・・
・ウイスキーが琥珀色でピートの焦げ臭い香りの付いた酒になったのは300年前とか
400年前とかといわれているほどで、酒の中では比較的に新しい
⇒しかも産業革命の1830年頃まではスコットランドの一部を除き殆ど飲まれてなかった
・その頃のモルトウイスキーはハイランド地方でポットスチルを使って蒸留した原酒を
樽に入れて熟成させたもので香りや味はよかったが重くて万人向きではなかった
・ワットが蒸気機関を改良し1830年には蒸気を利用するカフェ式連続蒸留器が完成した
⇒2回の蒸留で少量しかできないモルトに代わり1回の蒸留で大量にできるグレーンの工場が
1830年から1860年の間にローランド地方に乱立し、たちまち生産過剰になった
・1860年頃にハイランド・モルトとグレーン・ウイスキーをブレンドしたのがアッシャ商会
⇒カフェ・グレーンがモルトの長所をのばし欠点であった重さや荒さをやわらげた
⇒これが今のスコッチ製法で飲みやすくなり全イギリスから世界に愛好されるようになった
⇒なので今のブレンデッド・ウイスキーには100年の歴史しかない
(50年前の本なので今なら150年の歴史ですね)
で、英国留学のきっかけ
・長兄はシンガポールでゴムの栽培、次兄は北海道炭鉱汽船に就職し北海道へ、
⇒なので家業の酒蔵を継ぐため(学問的興味もあり)大阪高等工業(今の大阪大学)醸造科へ
(大正2年当時に醸造学を修める学校はここしかなかった)
⇒大正5年4月に卒業して実家に帰り12月に1年志願で兵隊に行ってから家業を継ぐコース
⇒洋酒に興味があったので、この間だけでも洋酒づくりをやりたいと思った
・当時の洋酒メーカーの第一人者は大阪の住吉にあった摂津酒造
⇒学校の試験が終わり大江橋から電車に乗って醸造科大先輩の岩井常務に頼みに行った
⇒阿部社長の部屋に連れていかれ、すべてを話すと「明日からでも出社しなさい」となった
⇒小西儀助商店や鳥井さんの寿屋などが得意先で洋酒の中身は摂津酒造が製造していた
・12月の大阪での徴兵検査では検査官の中尉が最後に甲種合格のハンコを押す直前に、
私が摂津酒造のアルコール技師であることを知り乙種になった
⇒アルコールは火薬製造に不可欠で軍需産業の一端と考えたのか軍縮の時代だったからか
⇒阿部社長は喜び、後日にスコットランド留学を打診され返事ができないほど感激した
⇒家業を継ぐと期待していた父母は大反対したが阿部社長の説得で家業は親類に譲ることに
⇒これで手筈が整い英国に出発することになった
⇒大正7年(1918)7月に神戸港から出港
(サンフランシスコからニューヨークまで大陸横断、Uボート攻撃を避けながらリバプールへ)
・当時の日本は第一次世界大戦による成金時代で洋酒がよく売れた
⇒大正7年~9年(1918~1920)は摂津酒造の黄金時代で私の留学費と日本に残った後輩たちの
賞与の額がほぼ同じになったほどの好景気だった
⇒戦後この後輩とひさしぶりに会った際に「同じ金額を、あなたはウイスキーの勉強に、
われわれは住𠮷公園の料亭につぎ込んだことになるなあ」と言ったので二人で大笑いした

(追記です)
そう、大正時代の住𠮷公園は大歓楽地だったんですよね

マッサンが摂津酒造に入社したのが1916年、大阪府では初めて1873年にできた住𠮷公園は
すでに大歓楽地になっており、仲居、芸妓、ヤトナが出入りして風紀が大いに乱れたため
、
マッサンが帰国した翌年の1922年には公園の西側に花街として住𠮷新地が指定されており、
翌1923年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えたという、まさに「オトナの遊び場」
そこへ毎夜のように好景気に沸く地元有力企業のエリート社員で独身の美男子が・・・
おそらく住吉公園の芸舞妓や遊女たちにもめっちゃモテたんでしょうね
、マッサンが帰国した翌年の1922年には公園の西側に花街として住𠮷新地が指定されており、
翌1923年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えたという、まさに「オトナの遊び場」

そこへ毎夜のように好景気に沸く地元有力企業のエリート社員で独身の美男子が・・・
おそらく住吉公園の芸舞妓や遊女たちにもめっちゃモテたんでしょうね

閑話休題・・・
で、肝心のスコットランドの部分は省略して・・・
・1921年11月に妻のリタと阿部社長の三人で横浜港に帰国した(4年ぶりの日本)
(リタとの結婚も父母に反対され阿部社長が説得、本人を確認の上で連れ帰る約束だった)
⇒新婚生活は大阪の帝塚山で家賃は55円、待遇は技師長で月給は150円だった
⇒戦後の大不況で社長も推していた私の本格ウイスキー計画が役員会で否認された
⇒イミテーションなら高給の私がいなくても作れるので辞表を出して浪人になった
⇒1922年から1923年の初めまでの数ヶ月は近所の桃山中学で化学の教師をした
(校長のローリング氏と妻のリタが親しく私の失業を心配してくださったため)
(ローリング氏は1933年に亡くなり阿倍野の外人墓地に埋葬されている)
⇒妻のリタも近所の帝塚山学院で英語を教え英語とピアノの個人教授も引き受けていた
・1923年の梅の季節に寿屋の鳥井社長が自宅に来られた⇒三顧の礼で
⇒本格的ウイスキーをやってみたいと三井物産を通じムーア博士の招請を交渉していたが
博士本人から日本にいい技師がいると言われ、とんできたとのことだった
⇒ウイスキー工場には北海道が適地とすすめたが「工場を見てもらえないような商品は
これからは大きくならない、大阪の近くで探してほしい」といわれた
(鳥井さんの商品を育てるカンと努力は先天的でこれも好例であろう)
⇒年俸4000円はスコットランド技師招請の見込み金額と同額だった
⇒雇用10年はウイスキーが商品として完成するまでの期間で1923年6月に寿屋に入社した
・調査して適地と判断した山崎の用地買収が終わったのは1923年10月で大震災の直後だった
(鳥井さんは震災後、直ちに船をチャーターして赤玉ポートワインやヘルメス・ウイスキーを
東京に運び、これが大いに売れて関東にも飛躍するステップとなった)
⇒起工式は1924年4月で設計や設備機械の発注など全て一人だったので忙しい日々が続いた
⇒ポット・スチルは大阪市西区の渡辺銅工所で何か月もかかり、運ぶのも船で淀川を遡上、
陸揚げしてからは馬で東海道線を越えるのが難関だった
⇒竣工式は1924年11月で費用は200万円かかった
⇒郷里の広島から日本酒の杜氏を十数人呼んで手を取るようにして教え込んだ
⇒機械の名前が英語でスムーズに出るようになって、やっと手つきも慣れてきた
⇒すべてが日本初だった
・1929年4月に初めての本格ウイスキー「白札サントリー」を世に出した
⇒発売価格は3円50銭
⇒ジョニーウォーカー赤が5円(今なら5万円ぐらいの商品?)の時代
⇒その後に普及品の「赤札サントリー」も出したがいずれも売れ行きも評判もよくなかった
(ブレンドしようにも新しいモルトしかなく体験的知識もなかった)
⇒売れなかったので原酒が残り、10年前後の年月を経て立派な原酒になった
・長期型のウイスキー部門と量産型のビール部門は分離すべきとの意見は採用されなかった
⇒両工場長を兼任していたがビール工場拡張工事の最中にビール部門の売渡が決定した
⇒独立を決意したのはその時で10年の約束は保留されていたが12年で円満に退社した
⇒鳥井さんなしには民間のウイスキーは育たなかったし私のウイスキー人生もなかった
・余市
⇒あらかじめ決めていたので資金を工面して1934年10月に工場を建てた
(リタは故郷のスコットランドに似ていると、とても喜んでくれた)
⇒すぐに売れるリンゴ・ジュースを作ったがラムネ・サイダー時代の嗜好に合わず苦戦した
⇒熟成を要するウイスキーづくりは1936年の秋から蒸留に入った
⇒つなぎ商品として1937年にアップルゼリー・グレープゼリー・アップルソースを出した
(翌年に出したアップルワインは今もニッカ製品のひとつ)
⇒1940年の秋にニッカウヰスキー第一号を発売した
⇒まだ原酒が若くブレンドも会心とはいえなかったが独立後初めての作品で感激した
⇒その後の統制時代には海軍の指定工場になり原酒の貯蔵量は増えていった
・戦後の混乱
⇒占領軍幹部からの理不尽な通達には「髭のオヤジ」が法律用語を交えて断固はねつけたが、
インフレで偽物も溢れ、せめてモルトを各イミテーション・メーカーに売ることにした
(イミテーションでも少量のモルトを混ぜるだけで味は格段によくなる)
⇒さらにブレンダーとしての良心に反して3級ウイスキーを作らざるを得なくなったと、
全従業員を広場に集めて苦衷をぶちまけたのは昭和25年の春
⇒税法の最高率まで原酒を入れて高く売ったのが、せめてもの私の抵抗だった
⇒売り上げは伸びたが「容量が少なく値段が高い」ことが競争上は不利だったのも事実
・昭和27年8月に大日本果汁からニッカウヰスキーに社名を変えた
⇒昭和30年11月には2000円のゴールドニッカ、翌年には1500円のブラックニッカを出した
⇒戦後第一回の洋酒ブームでトリス・ニッカ・オーシャンの軽バーが増えた
⇒当時の2級ウイスキーはウイスキーとは程遠いものだったが、その浸透が次のステップへ
⇒ウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと思っている
・昭和36年(1961)1月17日にリタが急逝し、しばらくショック状態が続いた
⇒昭和40年にリタの好きだった余市工場の見える小高い丘に墓を作った
⇒リタほど日本人になりきった外国人は少ないと思うし考え方も日本人的だった
⇒母親の遺産は長女なのに面倒を見なかったからと固く辞退していたし、叔母の遺産も
その一部で余市に幼稚園をつくり、それはリタ幼稚園として今も続いている
・当時目指していたのは2級でも古い原酒を入れたウイスキーと、グレーン・スピリッツを
使ったソフトなウイスキーだった
⇒グレーン・スピリッツの製造設備には多額の資金が必要だった
⇒「スコッチに負けないために」と朝日麦酒の山本為三郎社長が積極的に援助してくださり、
昭和37年にグレーン・スピリッツの西宮工場が完成した
⇒グレーンの熟成を待って出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカ
⇒どちらも許される上限の原酒とカフェ・グレーンのブレンド製品だった
⇒それまで特級でしかつくれなかった味が熟成カフェ・グレーンのおかげで1級でも旨いと
自負できるものが生まれた
・1000円ウイスキー戦争ともいわれたが各社が品質競争をして戦後第二のブームに
⇒昭和43年の税制改正でホワイトニッカを出したが改正は今後の品質アップに貢献するだろう
・余市モルトはハイランド・タイプで仙台モルトはローランド・タイプ
⇒「ローランド・モルトは荒々しいハイランド・モルトと中性のグレーン・ウイスキーとの
橋渡しをする」(イーニアス・マクドナルド)
⇒仙台モルトの一部は立派に使用できるまで成長してきた(昭和46年現在)
⇒ウイスキーのブレンドが完成するひとときは敬虔な祈りそのものであり、このブレンドは
ブレンダーとしての私の最終の仕上げになると思う・・・
・昭和44年(1969)イギリスのデイリーエキスプレス紙は「日本、スコッチ市場に侵入」という
大きな記事を掲載した
⇒これはニューヨーク駐在の記者たちがニューヨークタイムズ紙にのったニッカの広告を見て、
1本58シリング4ペンスのニッカ1本スコッチ2本の各最高級品3本を買って帰り、新聞社で
ブラインド(目かくし)テストをしてみた結果、これが日本製だろうと全員が指摘したのは
悲しいことにスコッチ最高の12年物であったと書かれていた
⇒さらに「英国が持っていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、次に日本は
英国の最も神聖な輸出商品スコッチに殴り込みをかけてきた」という警告記事だった
⇒スコットランドでウイスキーを勉強したのが50余年前、北海道余市に工場を作って30余年、
日本でウイスキーを作ることしか考えなかった私には痛快なニュースであった
・スコットランドのウイスキーづくりを持ち帰ったのでイギリスから嫌われているのでは、
との質問には「スコットランドでしかできなかったウイスキーを日本でつくり、今や日本も
スコッチの大きな市場になっているのだから女王は勲章をくれてもよい」と冗談をいった
⇒黄綬褒章、瑞宝章に続き1970年には北海道開発功労賞をいただいた
⇒北海道の風土があったからこそニッカが生まれニッカが育ったので恐縮している
⇒ウイスキーづくりを知れば知るほど風土そのものがウイスキーだと知った
・学問も技術も進歩を続けているのに半世紀前の勉強がそのまま役に立つのがウイスキーづくり
⇒熟成を早める科学はすべて失敗しており、今も自然と時間だけが解決者
⇒昔からスコットランドに伝わる製造法が、今もよいウイスキーへのただ一つの道
・ウイスキーの正しい飲み方
⇒私によくある質問で嗜好品なので一番旨いと思う方法で楽しめばよいと思っているが、
⇒毎日飲む人とたまにしか飲まない人で味わい方は違ってくる
⇒香りや味を味わうならストレートがいいが、これを毎日やれば胃を痛める
⇒こんな人には水割りがよくウイスキー1に井戸水2がいい
⇒これでアルコール分が12度から13度ぐらいになる
⇒適温はビールと同じ7~8℃
⇒以前はスコットランドでも炭酸割を飲む人が多かったが最近では水割りが多い
⇒炭酸割は胃を刺激するからか酔いが早くまわる
⇒楽しみながら時間をかけて飲むこと⇒食事も同じ
⇒楽しく飲める自分の量を計算して飲むこと
⇒オーバーすればどんなにいい酒でも悪酔いする
⇒私がウイスキー一途といってもビールもワインも日本酒も楽しむ
⇒今の流行語
でいうTPOで飲み分け、楽しむのが酒と思っている・舌と鼻
⇒私は目の前でつくる料理しか食べないので宴会料理には手を付けない
⇒自分で食べるものは今でも自分で材料を買いに行く
⇒文化国家というものは嗜好を高めることにある
⇒いいもの悪いもの、新しいもの古いものを見分ける舌と鼻の持ち主になってもらいたい
⇒鼻の能力は先天的で舌の能力は後天的なものが多いようで舌は訓練次第
⇒ウイスキーの「のど越し」も鼻に通じるので鼻で鑑別するもの
⇒最盛期の30代で十数種類のスコッチ銘柄を飲み分けられたが英国滞在中には40種類ぐらいを
当てるエキスパートもおり、これは灘の日本酒でも同じで相当の鑑別ができるようになる
⇒主体性を持って見分けられることは人生を楽しむことに通じていると思う
・・・・・・・
冒頭に書いておられたのが周囲に機会を与えられたことでした
⇒二人の兄が家業を継ぐことを嫌がったから醸造学を修めたこと
(自分もウイスキーになり家業は親類が継ぐことになったが)
⇒摂津酒造の阿部社長の決意がなければスコットランド留学などあり得なかったこと
⇒グラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長や多くの協力がなければ
ウイスキーづくりを覚えられなかったのはもちろん、モルト工場にさえ入れなかったこと
⇒時代的にも日英同盟の背景がなかったら工場が実習を許可してくれてたかどうか
⇒寿屋の鳥井社長の洋酒の将来性への確信による山崎工場がなかったら日本はウイスキーが
できる国になっていたかどうか
⇒独立時の協力、カフェ・グレーンへの援助etc
⇒皆さんの協力が私をこの道一本に導いてくれた・・・
と、決して自慢話ではなく淡々としながらも温かみ溢れる内容で、ひさしぶりに爽やかな
気持ちになれた本でした
最後に備忘のため年表もメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)


(ご本人は1979年(昭和54年)に85歳で亡くなられてますが、ウィキによれば・・・
酒量はウイスキー1日1本。晩酌にはハイニッカを好み、おつまみとして醤油味の薄焼き煎餅と
供に楽しみながら飲んでいた。ただし、晩年には3日で2本に減らしたという。とのことでした
)2026年07月25日
居酒屋ほろ酔い考現学
ええ、前回記事の続きつーか、同じ著者による・・・

居酒屋ほろ酔い考現学とゆー本であります
表表紙カバー裏にあった惹句

裏表紙カバー裏にあった著者紹介

そう、前回記事で取り上げた「新しい階級社会」の著者の別の本で、
わたくしこちらを読んで、この人は信頼できる社会学者だと確信しました
奥付


2008年に刊行された内容に2014年に加筆修正して文庫化した本だそうです
なので飲食物の値段は2008年当時、統計データなど文庫化時点での加筆修正もありますが、
いずれにしても10年以上前の社会状況や数値になります
その後に酒税の見直しをはじめインバウンド客の激増やコロナ禍など、居酒屋をとりまく
環境の変化もありましたが、全体として社会状況が好転しているとはとても言えないので、
現在でも充分示唆に富む内容で、特に著者の「居酒屋愛」がひしひしと伝わってくるのが、
前回記事の本との大きな違いでした
裏表紙カバーにあった目次

さらに詳細な目次



(以下てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
序より
・私は週に2~3日は居酒屋に行く
⇒行くと決まって梯子酒になるから居酒屋の数は週に6~7軒にもなる
⇒ぼーっとしていることもあれば、店の人やほかの客と話すこともある
⇒推敲したり校正したりすることもあれば、美酒と料理をじっくり味わうこともある
・いくつかの店を紹介しているが本書は居酒屋ガイドでもグルメガイドでもない
⇒居酒屋について考え、居酒屋を通じて東京を、そして現代日本を考えようとするものである
(以下の98kメモでは店の紹介などは(東京を知らないので)全て省略しています)
第1章より
・居酒屋通いを始めたのは大学院に入学して20代も半ばになった頃から
⇒年代でいえば1980年代の前半から
⇒当時は地酒ブームが始まってまもない頃だった
⇒私も美味い酒が飲みたくて(自分で買う方が安いが種類が限られるので)全国の地酒を
揃えた店へ(そんな店は貧乏学生には安くはなく、そうそう行けなかった)
⇒しばらくすると普通の値段の居酒屋でも数種類程度の地酒をおくことがおおくなった
⇒こうなれば安い店に限るので、ますます足繁く通うようになった
・美味い酒が飲みたくて行ってたのが、そのうち居酒屋に行きたくて行くようになった
⇒居酒屋で時間を過ごすことが自己目的になったのである
⇒こうなれば居心地の良さが最重要であって、それと酒と料理の最低条件に地の利があれば
「行きつけの店」の条件は整う⇒その日の気分などで使い分けることもある
(98kさんの場合は、学生時代にはまだ酒を殆ど飲まず、就職後も付き合い酒だけでしたが、
家族持ちになってから仕事帰りの短時間だけ立ち飲み屋に自主的に通うようになりました
たいてい職場の同僚と一緒でしたが、店の人やほかの客と話すことも多く、やはり家庭と職場
(と地域と趣味の世界)以外の居場所も必要だったのでしょうか・・・
居酒屋に限らず立ち飲み屋でも確かに居心地の良さが最重要でした
帰宅してからの夕食でも家内と飲むようになってたので(それで体重が激増してましたが)、
酒と料理といっても、せいぜいビールにポテサラと何か一品ぐらいだったし
)
(閑話休題)
・大学は特殊な世界で同僚たちは研究と教育と大学内部の雑務しか頭にない
⇒こんな世界に身を置いてると、この世のことがわからなくなってしまう
⇒数学者や哲学者ならともかく、社会学者としては死活問題である
⇒だが大衆酒場で酔いが回ってくると、私の社会に対する感覚の歪みが修正されていくのだ
・スーツ姿のサラリーマン(新中間階級)が集まる都心の大衆酒場と、工員など(労働者階級)が
集まる周辺部の大衆酒場では格差があり階級の区別があったが、大きな違いはなかった
⇒たとえばビール大瓶なら600円と500円、高い店と安い店でも680円と420円の差ぐらい
⇒どちらも「中流の暮らしをしている」といえなくもなかった
・世紀の変わり目あたりから客層が変わりはじめた
⇒周辺部の大衆酒場もサラリーマンやOLだけになった(都心の高級居酒屋は閉店していた)
⇒製造業が衰退し低賃金の派遣労働者になり、多くの自営業者が廃業して僅かな年金だけに
⇒その空白をサラリーマンとOLが埋め始めたのである
⇒多くの人が「普通の暮らし」からこぼれ落ち始めたことを意味する
・居酒屋で飲みたい男性が何日かに一度ぐらい居酒屋に行くのは「普通の暮らし」の一部
⇒「普通の暮らし」からこぼれ落ちることを貧困という
⇒憲法の「健康で文化的な生活」とは「普通の暮らし」であり「飢え死にしない生活」ではない
⇒正月ぐらいはおせちで朝酒、春には花見酒、自分の誕生日にはちょっといい酒を飲み、
友人の披露宴には祝儀を持って、親しかった人の弔いの酒席には喪服を着て顔を出すような、
貧しいなら貧しいなりの当たり前の習慣が維持できること
⇒それが「普通の暮らし」であり、たまに居酒屋に行くのもその一部である
・収入階級別1ヶ月あたり飲酒代支出の推移(1989~2009)
(収入階級を20%ずつ5段階に分け、外食費のうち飲酒代に使った支出の折れ線グラフ)
⇒20年間で最裕福階級5に大きな変化はないが、それ以外の階級では1/2以下に減少している
⇒決定的な変化は最貧階級1では1994年、階級2では1999年、そして階級3と4では2004年に
大幅な減少が起こっている
⇒減り方は収入の少ない階級ほど激しい
⇒収入に対する飲酒代の比率も同様で日本人の飲酒行動が激変している
⇒貧乏人は酒を飲むな⇒これが今の日本である
・立ち飲み屋の復活
⇒大阪や北九州ではずっと健在だったが見栄っ張りの東京では一時期、衰退していた
⇒経済成長そしてバブル景気でサラリーマンが寄りつかなくなったから
⇒ところが世紀の変わり目あたりから東京でも増殖し始めた
⇒小料理屋で飲んでたサラリーマンもカフェバーで飲んでた若者もレストラン巡りしていた
女性たちも立ち飲みに集まってくる
⇒不景気でも富裕層の所得が大幅に増えている反面、大多数の人々の所得が減っているから
⇒この格差拡大が立ち飲み復活の最大の要因
・居酒屋は社会を映し出す鏡であり行けば社会がわかる社会学者のフィールドなのだ
第2章より
・今和次郎の考現学(略)
⇒当時の社会主義思想の階級イメージとは一線を画するものだった
・松崎天民の銀座(略)
⇒震災後に様々な階級が集まるようになった⇒象徴するのがビヤホール
・草柳大蔵の大衆酒場論(略)
⇒朝鮮特需後の一時的なデフレに社用族は高級料亭からビヤホールへ⇒まるで現代の日本
・私の居酒屋観察記録フォーマット(略)
⇒小型のデジタルカメラと黒い目立たない手帳への書き込み
第3章より
・加太こうじの浅草物語
⇒震災後に学生、知識人、サラリーマンの多くは浅草から銀座、新宿へ
⇒銀座は上流階級の盛り場から少し大衆化して中流以上の街に
・映画に描かれる銀座
⇒小津安二郎の秋日和、秋刀魚の味、山田洋二の下町の太陽、市川準の会社物語(ガード下)、
山崎貴のALWAYS三丁目の夕日・・・
・銀座ライオン、ホッピーetc(以下略)
第4章より
・新宿駅東口の駅前にできた新宿マーケットが戦後ヤミ市の発祥
⇒敗戦の5日後に関東小津組の親分が多数の店を組織的に出店させた
(生産者から適正価格で買い取り2割の利益で売ることで警察や関係官庁に容認させていた)
(公定価格よりは高いが闇価格よりは安い「ヤミ市」は次第に正当化されていった)
⇒空襲で破壊された駅前商店街跡にはテキ屋以外に復員軍人や遺族や戦災者の素人も流れ込んだ
・ヤミ市の存続の仕方(店の紹介は略)
①戦災復興土地区画整理事業により新宿駅東口から代替地に早期移転した新宿ゴールデン街など
②1960年代以降も存続し駅の地下街や駅前ビルの地下飲食店街になった新橋駅前など
③建て替えられ現在も残っている新宿駅西口横の思い出横丁や吉祥寺駅北口のハモニカ横丁など
第5章より
・豚の臓物を串焼きにした「焼鳥」は戦前から一般的だった(鶏肉は高級品だった)
⇒1931年に草野心平が新宿の紀伊国屋書店裏に移転した「やきとり屋台」も豚の臓物
⇒ホルモン料理の名称も1920年代から存在しており俗説と異なり医学用語のホルモンから
(1937年には大阪の飲食店業者がホルモンを使った商標を登録している)
・ヤミ市の「やきとり=モツ焼き」文化が全ての階級へ⇒今日の大衆的な居酒屋へ
(98kさんの私見ですが・・・大阪では「串カツ」文化の影響も大きいでしょう
おそらく昭和30年代の小学生だった頃に(酒を飲まない)父親に連れられ市電やチン電に乗って、
新世界ジャンジャン横町の串カツ屋で食べたことが何度かあり、いつも大盛況だったことを
はっきりと覚えてますし、今も大阪の居酒屋や立ち飲み屋の定番メニューといえば、まずは
関東煮に串カツにどて焼ですし・・・
)
(閑話休題)
第6章より
・小林信彦「私説東京放浪記」
⇒山の手と下町の国境⇒今も格差は拡大している
・慶應義塾幼稚舎で寄宿舎生活をした獅子文六のエッセイ「山の手の子」と「町ッ子」
⇒山の手には田舎から出てきた下級武士の出身者が多く野暮なノテ気質と軽蔑されてたが、
二代目ともなると都会人になり下町のイキに対するハイカラになっていく
第7章より
・小林信彦「私説東京繁盛記」
⇒1980年以降に下町は素晴らしいところとして描かれるが、
⇒1960年代には「笑うべきアナクロニズム」の土地であり公害と悪臭の町とされていた
・1969年に始まる寅さん映画が柴又を舞台にしたのは、すでに旧下町が消滅し下町人情物語が
千葉との県境あたりまで行かないと成立しなくなったから
⇒1963年の「下町の太陽」も決して積極的なプラスイメージではない
・下町イメージの変化は1970年代後半から
⇒この時期から雑誌が下町を特集している
・格差が拡大するから富裕な地域はますます富裕になり貧しい地域はますます貧しくなる
⇒企業の低賃金パート労働や派遣労働、グローバル化による中小零細企業の経営悪化、これらを
国が規制緩和で後押ししていることによるもので、足立区など自治体の範囲を超えた問題
・永井荷風は山の手の小石川に士族の息子として生まれたが、新しい下町まで終生愛した
⇒川本三郎「荷風と東京~断腸亭日乗~私註」
⇒都心や西東京では急速に消えつつある昭和20~30年代の風景が残っている新しい下町
⇒その全域を丹念に追い続け、そして居酒屋に入ってビールを飲む
・下町の居酒屋では常連客を中心にゆるいコミュニティを感じる
⇒ビジネスでもプライベートでもないパブリックな空間
⇒サイデンステッカーは東京はアイルランドのダブリンに似ていると言っていた
⇒パブでみんなが仲間になるから⇒そんな居酒屋が多いのが下町
⇒日本がエリートやホワイトカラーだけの社会ではないこと、東京でもまだまだコミュニティと
いえるような人の繋がりがあることを知ることができるのである
第8章より
・東京山の手の内部は多様で格差は非常に大きい(略)
⇒下町の居酒屋には共通の良さ(略)があるが、山の手の居酒屋に共通の「らしさ」はない
⇒高級住宅地イメージが不動産業者やディベロッパーによる虚構であることを実感できる
・山の手の住宅地は職住分離で飲むなら会社近くの繁華街という前提
⇒一昔前なら夫は外で仕事、妻は自宅で家事と育児だったが、今の標準的な家庭ではない
⇒そもそも、この前提では引退した高齢者の行く場所がない
⇒多くの主婦たちも料理や片付けの手間を考えず夫婦でくつろげる場所を求めている
・下町は職住近接で地域社会に根ざした居酒屋文化が花開いた
⇒郊外の住宅地も成熟するにつれ下町的な商店街を周囲に形成する
⇒そこに不可欠な基礎インフラが居酒屋
・大ヒットした「ALWAYS三丁目の夕日」の舞台は古い下町の港区・芝
⇒寅さん映画が東京の東のはずれまで行かなければ成り立たなかったのと同様に、
時代を昭和30年代に設定することによって初めて成立した虚構の物語だが、
⇒人々がそれを求めること自体、現代の山の手に飽き足らなくなっていることの現れ
⇒下町が劣り山の手が優れるという価値序列のインチキさに気づき始めている
・地元の商店街と居酒屋を核とした下町的な共有空間が求められているのである
第9章より
・近年のビール消費の低迷(1990~2012)
⇒戦後日本では「とりあえずビール」が酒宴の始まりだった
⇒焼酎・酎ハイなどアルコールあたり単価の安い酒へシフトしている
・経済格差が一番小さかった1974年の収入階級別酒類消費額
(収入階級を20%ずつ5段階に分け、ウィスキー・特級1級・2級・焼酎・ビールで比較)
⇒最富裕階級と最貧階級ではウィスキーと焼酎がそれぞれ2倍の差で逆転しているが、
(当時ウィスキーはまだ高級品で焼酎は安酒だったので当然か)
⇒特級1級ではやや格差はあるが日本酒全体では階級差は大きくはなく大部分に飲まれていた
⇒ビールも同様で特に中間3階級が分厚いが最富裕階級も最貧階級もある程度は飲んでいた
⇒ビールと2級酒が飲酒のナショナルスタンダードあるいはナショナルミニマムだった
・収入階級別ビール消費額の推移(1969~2009)
⇒ビール消費額の格差は1969~1974で大幅に縮小したが1984年には豊かな2階級では消費量が
増加したのに対し、最貧階級では大幅に減少する
⇒2004年には最貧と最富裕の格差が1.72倍に、2009年には中間3階級がビール消費を減らし、
ビールはあたかも最富裕階級の酒に・・・
・2009年の収入階級別酒類消費額ではウィスキー・日本酒(等級が廃止された)・焼酎・
ワイン(消費量が増え追加された)・発泡酒(新設)で、各階級特有のパターンが現れる
(1974年ではウィスキーと焼酎の逆転以外に階級による違いはほぼなかった)
⇒最貧階級1ではどの酒の消費量も平均より少ない
⇒ひとつ上の階級2では発泡酒が突出しており焼酎がやや多い
⇒真ん中の階級3では発泡酒が平均よりやや多く、日本酒・焼酎・ビールは平均レベルで、
ウィスキーとワインは少ない
⇒収入がやや多い階級4ではどの酒も平均を僅かに上回る水準でバランスのとれた飲酒生活
⇒最富裕階級5ではワインとウィスキーが平均の2倍、日本酒とビールも平均を大きく上回る
・1974年には全ての階級で日本酒とビールが飲まれてたが2009年には階級で分化している
⇒最貧階級1では安い焼酎すら他の階級なみには飲めず、最富裕階級5ではビールと日本酒を
飲み続け、好みでウィスキーとワインを組み合わせる多彩で豊かな飲酒生活
⇒他の中間3階級もそれぞれ収入に見合った飲酒パターンを形成している
・昔のホワイトカラーサラリーマンにはサントリー・オールド(ダルマ)階級社会があった
⇒ダルマをキープできるのは課長以上(それまではホワイトあたり)、部長になればスコッチ
⇒今はウィスキー特に輸入ウィスキーが劇的に安くなってるのに売れなくなっている
⇒みんなが中流といえた時代の終わりと関係する可能性がある
(先日、NHKテレビ番組「探検ファクトリー」でウィスキー樽の製造工場をやってましたが、
ウィスキーの課税数量は2007年の最低時から3倍に回復しているとありました
2008年から回復を続けている背景には何があるのか???
あらためて棒グラフを見てみると2019年からのコロナ禍による外出自粛のせいなのか、
2020年と2021年はやや落ち込んでますが、その後は右肩上がりのまま・・・
さらに2019年を100とした家庭での実質購入量の別の折れ線グラフを見ると、コロナ禍で
2020年には家庭での酒類購入が急増、中でもウィスキーだけが突出しており、しかも
ウィスキーだけが高止まりで、ほぼ横ばいのまま推移しています・・・
酎ハイブームと同じくハイボールブームが続いているのか、興味津々の98kです)
(閑話休題)
・ビールのシェアは発泡酒と缶入り酎ハイへ
⇒飲食店で発泡酒などを出すことは少ないので家で飲む酒の内訳がよほど大きく変化している
・収入階級別酒税負担率は逆進的(税率はワインが安くビールや焼酎が高いから)
⇒年収450万までは35%を超え年収1500万を超えると30%まで下がる
(さらに年収2000万を超えるとワイン支出が跳ね上がるが税負担は少ないまま)
・居酒屋・ビヤホール等の売り上げの推移(1980~2013)
⇒1992年をピークに2013年には7割まで減った
⇒業界でのシェアもピーク1988年の5.4%から2013年には4.2%に
⇒高めの店と安価な立ち飲みに両極化している
・ワーキングプアでは居酒屋にも行けないが居酒屋で働いているのはワーキングプア
・日本の居酒屋文化・酒文化は崩壊の淵にある
⇒居酒屋で飲むのはささやかな贅沢
⇒なので分厚い中間階級が存在するときに豊かな居酒屋文化・酒文化が生まれるが、
⇒格差が拡大しビールから発泡酒・酎ハイへ(上級財から下級財へのシフト)、居酒屋離れに
・居酒屋には様々な社会的機能があり、安らぎを得る場所であり、人とのつながりを作り出す場所
⇒これが失われる損失は大きい
・酒税体系と酒販免許制度の抜本的な改革を
⇒従量税ではなく従価税に
(現状ではビール大瓶の酒税が139円で100万円のロマネコンティの酒税が60円)
⇒酒販免許が厳しく飲食店は卸売業者から直接買えないので酒の値段は高くなる
⇒酒の小売店も保護すべきなので、せめて庶民が飲む普通のビールや甲類焼酎ぐらいは
飲食店用の制限付き酒販免許制度の新設を
・居酒屋の経営が安定すれば非正規従業員の賃金引き上げや正規雇用にもなる
(最賃引き上げは零細圧迫だとストップをかけてるのは零細下請けから搾取している大企業)
・酒税体系と酒販免許制度の改善で下がった分の半分は経営の安定化と店員の待遇改善に
⇒居酒屋好きなら値下げは半分でも我慢し文句は言わないはずだ
⇒格差拡大への対策とともに居酒屋文化を守るための制度改革が必要
⇒多くの居酒屋経営者は高齢化しており後継者がおらず事態は急を要する・・・
あとがきにかえてより
・居酒屋以外では絶対に出会うはずのない数知れない人々に出会った
⇒バブル経済で大儲けした経営者、隣り合わせになった一週間後に逮捕された風俗業者、
出入り業者に飲食費を払わせている医学部教授、セクハラ建築家、窓際族、工務店主・・・
・公式の場より先に大学近くの居酒屋で知り合った同僚も多い
⇒会議で初めて会った人より親しくなる傾向があるが酒飲み同士だからというだけではない
⇒最初に作った人間関係が権力や利害とは無縁な対等な関係だから後まで続くのである
・居酒屋は人を平等にする
⇒大衆酒場では金も権力も全く意味を持たず、それが嫌な人は来ない
⇒人と人とが水平につながり、水平なのでさらに広がっていくこともある
⇒居酒屋はインターネットなのである
・16世紀の英国パブは身分を超えてたが18世紀には多様化し分裂しはじめる(海野弘)
⇒背景にあったのは階級的対立の激化
⇒現代日本の居酒屋にもその傾向がある
⇒格差の拡大で階級に沿って分化しはじめる
・インターネットが利用者の経済力で分断されたらインターネットではない
⇒人と人をつなぐ機能は極端に低下する
⇒居酒屋もそうなろうとしている
・すべての階級の人々が集まる大衆酒場は相互理解を生む
⇒大衆酒場こそ目指すべき社会のモデルなのだ
⇒それぞれが違う仕事をし地位や収入が多少は違っていても、極端な格差にはならず、
大衆酒場の同じカウンターを囲む者同士の関係を結べる社会でありたい
・そんな大衆酒場で私が飲んでる可能性は決して低くはないので、声をかけて下さい
⇒そこからまた、ネットワークが広がるだろうから・・・
・・・・・
いやあ、あらためて著者が信頼できる社会学者だと確信しました

居酒屋ほろ酔い考現学とゆー本であります
表表紙カバー裏にあった惹句

裏表紙カバー裏にあった著者紹介

そう、前回記事で取り上げた「新しい階級社会」の著者の別の本で、
わたくしこちらを読んで、この人は信頼できる社会学者だと確信しました

奥付


2008年に刊行された内容に2014年に加筆修正して文庫化した本だそうです
なので飲食物の値段は2008年当時、統計データなど文庫化時点での加筆修正もありますが、
いずれにしても10年以上前の社会状況や数値になります
その後に酒税の見直しをはじめインバウンド客の激増やコロナ禍など、居酒屋をとりまく
環境の変化もありましたが、全体として社会状況が好転しているとはとても言えないので、
現在でも充分示唆に富む内容で、特に著者の「居酒屋愛」がひしひしと伝わってくるのが、
前回記事の本との大きな違いでした

裏表紙カバーにあった目次

さらに詳細な目次



(以下てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
序より
・私は週に2~3日は居酒屋に行く
⇒行くと決まって梯子酒になるから居酒屋の数は週に6~7軒にもなる
⇒ぼーっとしていることもあれば、店の人やほかの客と話すこともある
⇒推敲したり校正したりすることもあれば、美酒と料理をじっくり味わうこともある
・いくつかの店を紹介しているが本書は居酒屋ガイドでもグルメガイドでもない
⇒居酒屋について考え、居酒屋を通じて東京を、そして現代日本を考えようとするものである
(以下の98kメモでは店の紹介などは(東京を知らないので)全て省略しています)
第1章より
・居酒屋通いを始めたのは大学院に入学して20代も半ばになった頃から
⇒年代でいえば1980年代の前半から
⇒当時は地酒ブームが始まってまもない頃だった
⇒私も美味い酒が飲みたくて(自分で買う方が安いが種類が限られるので)全国の地酒を
揃えた店へ(そんな店は貧乏学生には安くはなく、そうそう行けなかった)
⇒しばらくすると普通の値段の居酒屋でも数種類程度の地酒をおくことがおおくなった
⇒こうなれば安い店に限るので、ますます足繁く通うようになった
・美味い酒が飲みたくて行ってたのが、そのうち居酒屋に行きたくて行くようになった
⇒居酒屋で時間を過ごすことが自己目的になったのである
⇒こうなれば居心地の良さが最重要であって、それと酒と料理の最低条件に地の利があれば
「行きつけの店」の条件は整う⇒その日の気分などで使い分けることもある
(98kさんの場合は、学生時代にはまだ酒を殆ど飲まず、就職後も付き合い酒だけでしたが、
家族持ちになってから仕事帰りの短時間だけ立ち飲み屋に自主的に通うようになりました
たいてい職場の同僚と一緒でしたが、店の人やほかの客と話すことも多く、やはり家庭と職場
(と地域と趣味の世界)以外の居場所も必要だったのでしょうか・・・
居酒屋に限らず立ち飲み屋でも確かに居心地の良さが最重要でした
帰宅してからの夕食でも家内と飲むようになってたので(それで体重が激増してましたが)、
酒と料理といっても、せいぜいビールにポテサラと何か一品ぐらいだったし
)(閑話休題)
・大学は特殊な世界で同僚たちは研究と教育と大学内部の雑務しか頭にない
⇒こんな世界に身を置いてると、この世のことがわからなくなってしまう
⇒数学者や哲学者ならともかく、社会学者としては死活問題である
⇒だが大衆酒場で酔いが回ってくると、私の社会に対する感覚の歪みが修正されていくのだ

・スーツ姿のサラリーマン(新中間階級)が集まる都心の大衆酒場と、工員など(労働者階級)が
集まる周辺部の大衆酒場では格差があり階級の区別があったが、大きな違いはなかった
⇒たとえばビール大瓶なら600円と500円、高い店と安い店でも680円と420円の差ぐらい
⇒どちらも「中流の暮らしをしている」といえなくもなかった
・世紀の変わり目あたりから客層が変わりはじめた
⇒周辺部の大衆酒場もサラリーマンやOLだけになった(都心の高級居酒屋は閉店していた)
⇒製造業が衰退し低賃金の派遣労働者になり、多くの自営業者が廃業して僅かな年金だけに
⇒その空白をサラリーマンとOLが埋め始めたのである
⇒多くの人が「普通の暮らし」からこぼれ落ち始めたことを意味する
・居酒屋で飲みたい男性が何日かに一度ぐらい居酒屋に行くのは「普通の暮らし」の一部
⇒「普通の暮らし」からこぼれ落ちることを貧困という
⇒憲法の「健康で文化的な生活」とは「普通の暮らし」であり「飢え死にしない生活」ではない
⇒正月ぐらいはおせちで朝酒、春には花見酒、自分の誕生日にはちょっといい酒を飲み、
友人の披露宴には祝儀を持って、親しかった人の弔いの酒席には喪服を着て顔を出すような、
貧しいなら貧しいなりの当たり前の習慣が維持できること
⇒それが「普通の暮らし」であり、たまに居酒屋に行くのもその一部である
・収入階級別1ヶ月あたり飲酒代支出の推移(1989~2009)
(収入階級を20%ずつ5段階に分け、外食費のうち飲酒代に使った支出の折れ線グラフ)
⇒20年間で最裕福階級5に大きな変化はないが、それ以外の階級では1/2以下に減少している
⇒決定的な変化は最貧階級1では1994年、階級2では1999年、そして階級3と4では2004年に
大幅な減少が起こっている
⇒減り方は収入の少ない階級ほど激しい
⇒収入に対する飲酒代の比率も同様で日本人の飲酒行動が激変している
⇒貧乏人は酒を飲むな⇒これが今の日本である
・立ち飲み屋の復活
⇒大阪や北九州ではずっと健在だったが見栄っ張りの東京では一時期、衰退していた
⇒経済成長そしてバブル景気でサラリーマンが寄りつかなくなったから
⇒ところが世紀の変わり目あたりから東京でも増殖し始めた
⇒小料理屋で飲んでたサラリーマンもカフェバーで飲んでた若者もレストラン巡りしていた
女性たちも立ち飲みに集まってくる
⇒不景気でも富裕層の所得が大幅に増えている反面、大多数の人々の所得が減っているから
⇒この格差拡大が立ち飲み復活の最大の要因
・居酒屋は社会を映し出す鏡であり行けば社会がわかる社会学者のフィールドなのだ
第2章より
・今和次郎の考現学(略)
⇒当時の社会主義思想の階級イメージとは一線を画するものだった
・松崎天民の銀座(略)
⇒震災後に様々な階級が集まるようになった⇒象徴するのがビヤホール
・草柳大蔵の大衆酒場論(略)
⇒朝鮮特需後の一時的なデフレに社用族は高級料亭からビヤホールへ⇒まるで現代の日本
・私の居酒屋観察記録フォーマット(略)
⇒小型のデジタルカメラと黒い目立たない手帳への書き込み
第3章より
・加太こうじの浅草物語
⇒震災後に学生、知識人、サラリーマンの多くは浅草から銀座、新宿へ
⇒銀座は上流階級の盛り場から少し大衆化して中流以上の街に
・映画に描かれる銀座
⇒小津安二郎の秋日和、秋刀魚の味、山田洋二の下町の太陽、市川準の会社物語(ガード下)、
山崎貴のALWAYS三丁目の夕日・・・
・銀座ライオン、ホッピーetc(以下略)
第4章より
・新宿駅東口の駅前にできた新宿マーケットが戦後ヤミ市の発祥
⇒敗戦の5日後に関東小津組の親分が多数の店を組織的に出店させた
(生産者から適正価格で買い取り2割の利益で売ることで警察や関係官庁に容認させていた)
(公定価格よりは高いが闇価格よりは安い「ヤミ市」は次第に正当化されていった)
⇒空襲で破壊された駅前商店街跡にはテキ屋以外に復員軍人や遺族や戦災者の素人も流れ込んだ
・ヤミ市の存続の仕方(店の紹介は略)
①戦災復興土地区画整理事業により新宿駅東口から代替地に早期移転した新宿ゴールデン街など
②1960年代以降も存続し駅の地下街や駅前ビルの地下飲食店街になった新橋駅前など
③建て替えられ現在も残っている新宿駅西口横の思い出横丁や吉祥寺駅北口のハモニカ横丁など
第5章より
・豚の臓物を串焼きにした「焼鳥」は戦前から一般的だった(鶏肉は高級品だった)
⇒1931年に草野心平が新宿の紀伊国屋書店裏に移転した「やきとり屋台」も豚の臓物
⇒ホルモン料理の名称も1920年代から存在しており俗説と異なり医学用語のホルモンから
(1937年には大阪の飲食店業者がホルモンを使った商標を登録している)
・ヤミ市の「やきとり=モツ焼き」文化が全ての階級へ⇒今日の大衆的な居酒屋へ
(98kさんの私見ですが・・・大阪では「串カツ」文化の影響も大きいでしょう
おそらく昭和30年代の小学生だった頃に(酒を飲まない)父親に連れられ市電やチン電に乗って、
新世界ジャンジャン横町の串カツ屋で食べたことが何度かあり、いつも大盛況だったことを
はっきりと覚えてますし、今も大阪の居酒屋や立ち飲み屋の定番メニューといえば、まずは
関東煮に串カツにどて焼ですし・・・
)(閑話休題)
第6章より
・小林信彦「私説東京放浪記」
⇒山の手と下町の国境⇒今も格差は拡大している
・慶應義塾幼稚舎で寄宿舎生活をした獅子文六のエッセイ「山の手の子」と「町ッ子」
⇒山の手には田舎から出てきた下級武士の出身者が多く野暮なノテ気質と軽蔑されてたが、
二代目ともなると都会人になり下町のイキに対するハイカラになっていく
第7章より
・小林信彦「私説東京繁盛記」
⇒1980年以降に下町は素晴らしいところとして描かれるが、
⇒1960年代には「笑うべきアナクロニズム」の土地であり公害と悪臭の町とされていた
・1969年に始まる寅さん映画が柴又を舞台にしたのは、すでに旧下町が消滅し下町人情物語が
千葉との県境あたりまで行かないと成立しなくなったから
⇒1963年の「下町の太陽」も決して積極的なプラスイメージではない
・下町イメージの変化は1970年代後半から
⇒この時期から雑誌が下町を特集している
・格差が拡大するから富裕な地域はますます富裕になり貧しい地域はますます貧しくなる
⇒企業の低賃金パート労働や派遣労働、グローバル化による中小零細企業の経営悪化、これらを
国が規制緩和で後押ししていることによるもので、足立区など自治体の範囲を超えた問題
・永井荷風は山の手の小石川に士族の息子として生まれたが、新しい下町まで終生愛した
⇒川本三郎「荷風と東京~断腸亭日乗~私註」
⇒都心や西東京では急速に消えつつある昭和20~30年代の風景が残っている新しい下町
⇒その全域を丹念に追い続け、そして居酒屋に入ってビールを飲む
・下町の居酒屋では常連客を中心にゆるいコミュニティを感じる
⇒ビジネスでもプライベートでもないパブリックな空間
⇒サイデンステッカーは東京はアイルランドのダブリンに似ていると言っていた
⇒パブでみんなが仲間になるから⇒そんな居酒屋が多いのが下町
⇒日本がエリートやホワイトカラーだけの社会ではないこと、東京でもまだまだコミュニティと
いえるような人の繋がりがあることを知ることができるのである
第8章より
・東京山の手の内部は多様で格差は非常に大きい(略)
⇒下町の居酒屋には共通の良さ(略)があるが、山の手の居酒屋に共通の「らしさ」はない
⇒高級住宅地イメージが不動産業者やディベロッパーによる虚構であることを実感できる
・山の手の住宅地は職住分離で飲むなら会社近くの繁華街という前提
⇒一昔前なら夫は外で仕事、妻は自宅で家事と育児だったが、今の標準的な家庭ではない
⇒そもそも、この前提では引退した高齢者の行く場所がない
⇒多くの主婦たちも料理や片付けの手間を考えず夫婦でくつろげる場所を求めている
・下町は職住近接で地域社会に根ざした居酒屋文化が花開いた
⇒郊外の住宅地も成熟するにつれ下町的な商店街を周囲に形成する
⇒そこに不可欠な基礎インフラが居酒屋
・大ヒットした「ALWAYS三丁目の夕日」の舞台は古い下町の港区・芝
⇒寅さん映画が東京の東のはずれまで行かなければ成り立たなかったのと同様に、
時代を昭和30年代に設定することによって初めて成立した虚構の物語だが、
⇒人々がそれを求めること自体、現代の山の手に飽き足らなくなっていることの現れ
⇒下町が劣り山の手が優れるという価値序列のインチキさに気づき始めている
・地元の商店街と居酒屋を核とした下町的な共有空間が求められているのである
第9章より
・近年のビール消費の低迷(1990~2012)
⇒戦後日本では「とりあえずビール」が酒宴の始まりだった
⇒焼酎・酎ハイなどアルコールあたり単価の安い酒へシフトしている
・経済格差が一番小さかった1974年の収入階級別酒類消費額
(収入階級を20%ずつ5段階に分け、ウィスキー・特級1級・2級・焼酎・ビールで比較)
⇒最富裕階級と最貧階級ではウィスキーと焼酎がそれぞれ2倍の差で逆転しているが、
(当時ウィスキーはまだ高級品で焼酎は安酒だったので当然か)
⇒特級1級ではやや格差はあるが日本酒全体では階級差は大きくはなく大部分に飲まれていた
⇒ビールも同様で特に中間3階級が分厚いが最富裕階級も最貧階級もある程度は飲んでいた
⇒ビールと2級酒が飲酒のナショナルスタンダードあるいはナショナルミニマムだった
・収入階級別ビール消費額の推移(1969~2009)
⇒ビール消費額の格差は1969~1974で大幅に縮小したが1984年には豊かな2階級では消費量が
増加したのに対し、最貧階級では大幅に減少する
⇒2004年には最貧と最富裕の格差が1.72倍に、2009年には中間3階級がビール消費を減らし、
ビールはあたかも最富裕階級の酒に・・・
・2009年の収入階級別酒類消費額ではウィスキー・日本酒(等級が廃止された)・焼酎・
ワイン(消費量が増え追加された)・発泡酒(新設)で、各階級特有のパターンが現れる
(1974年ではウィスキーと焼酎の逆転以外に階級による違いはほぼなかった)
⇒最貧階級1ではどの酒の消費量も平均より少ない
⇒ひとつ上の階級2では発泡酒が突出しており焼酎がやや多い
⇒真ん中の階級3では発泡酒が平均よりやや多く、日本酒・焼酎・ビールは平均レベルで、
ウィスキーとワインは少ない
⇒収入がやや多い階級4ではどの酒も平均を僅かに上回る水準でバランスのとれた飲酒生活
⇒最富裕階級5ではワインとウィスキーが平均の2倍、日本酒とビールも平均を大きく上回る
・1974年には全ての階級で日本酒とビールが飲まれてたが2009年には階級で分化している
⇒最貧階級1では安い焼酎すら他の階級なみには飲めず、最富裕階級5ではビールと日本酒を
飲み続け、好みでウィスキーとワインを組み合わせる多彩で豊かな飲酒生活
⇒他の中間3階級もそれぞれ収入に見合った飲酒パターンを形成している
・昔のホワイトカラーサラリーマンにはサントリー・オールド(ダルマ)階級社会があった
⇒ダルマをキープできるのは課長以上(それまではホワイトあたり)、部長になればスコッチ
⇒今はウィスキー特に輸入ウィスキーが劇的に安くなってるのに売れなくなっている
⇒みんなが中流といえた時代の終わりと関係する可能性がある
(先日、NHKテレビ番組「探検ファクトリー」でウィスキー樽の製造工場をやってましたが、
ウィスキーの課税数量は2007年の最低時から3倍に回復しているとありました
2008年から回復を続けている背景には何があるのか???
あらためて棒グラフを見てみると2019年からのコロナ禍による外出自粛のせいなのか、
2020年と2021年はやや落ち込んでますが、その後は右肩上がりのまま・・・
さらに2019年を100とした家庭での実質購入量の別の折れ線グラフを見ると、コロナ禍で
2020年には家庭での酒類購入が急増、中でもウィスキーだけが突出しており、しかも
ウィスキーだけが高止まりで、ほぼ横ばいのまま推移しています・・・
酎ハイブームと同じくハイボールブームが続いているのか、興味津々の98kです)
(閑話休題)
・ビールのシェアは発泡酒と缶入り酎ハイへ
⇒飲食店で発泡酒などを出すことは少ないので家で飲む酒の内訳がよほど大きく変化している
・収入階級別酒税負担率は逆進的(税率はワインが安くビールや焼酎が高いから)
⇒年収450万までは35%を超え年収1500万を超えると30%まで下がる
(さらに年収2000万を超えるとワイン支出が跳ね上がるが税負担は少ないまま)
・居酒屋・ビヤホール等の売り上げの推移(1980~2013)
⇒1992年をピークに2013年には7割まで減った
⇒業界でのシェアもピーク1988年の5.4%から2013年には4.2%に
⇒高めの店と安価な立ち飲みに両極化している
・ワーキングプアでは居酒屋にも行けないが居酒屋で働いているのはワーキングプア
・日本の居酒屋文化・酒文化は崩壊の淵にある
⇒居酒屋で飲むのはささやかな贅沢
⇒なので分厚い中間階級が存在するときに豊かな居酒屋文化・酒文化が生まれるが、
⇒格差が拡大しビールから発泡酒・酎ハイへ(上級財から下級財へのシフト)、居酒屋離れに
・居酒屋には様々な社会的機能があり、安らぎを得る場所であり、人とのつながりを作り出す場所
⇒これが失われる損失は大きい
・酒税体系と酒販免許制度の抜本的な改革を
⇒従量税ではなく従価税に
(現状ではビール大瓶の酒税が139円で100万円のロマネコンティの酒税が60円)
⇒酒販免許が厳しく飲食店は卸売業者から直接買えないので酒の値段は高くなる
⇒酒の小売店も保護すべきなので、せめて庶民が飲む普通のビールや甲類焼酎ぐらいは
飲食店用の制限付き酒販免許制度の新設を
・居酒屋の経営が安定すれば非正規従業員の賃金引き上げや正規雇用にもなる
(最賃引き上げは零細圧迫だとストップをかけてるのは零細下請けから搾取している大企業)
・酒税体系と酒販免許制度の改善で下がった分の半分は経営の安定化と店員の待遇改善に
⇒居酒屋好きなら値下げは半分でも我慢し文句は言わないはずだ
⇒格差拡大への対策とともに居酒屋文化を守るための制度改革が必要
⇒多くの居酒屋経営者は高齢化しており後継者がおらず事態は急を要する・・・
あとがきにかえてより
・居酒屋以外では絶対に出会うはずのない数知れない人々に出会った
⇒バブル経済で大儲けした経営者、隣り合わせになった一週間後に逮捕された風俗業者、
出入り業者に飲食費を払わせている医学部教授、セクハラ建築家、窓際族、工務店主・・・
・公式の場より先に大学近くの居酒屋で知り合った同僚も多い
⇒会議で初めて会った人より親しくなる傾向があるが酒飲み同士だからというだけではない
⇒最初に作った人間関係が権力や利害とは無縁な対等な関係だから後まで続くのである
・居酒屋は人を平等にする
⇒大衆酒場では金も権力も全く意味を持たず、それが嫌な人は来ない
⇒人と人とが水平につながり、水平なのでさらに広がっていくこともある
⇒居酒屋はインターネットなのである
・16世紀の英国パブは身分を超えてたが18世紀には多様化し分裂しはじめる(海野弘)
⇒背景にあったのは階級的対立の激化
⇒現代日本の居酒屋にもその傾向がある
⇒格差の拡大で階級に沿って分化しはじめる
・インターネットが利用者の経済力で分断されたらインターネットではない
⇒人と人をつなぐ機能は極端に低下する
⇒居酒屋もそうなろうとしている
・すべての階級の人々が集まる大衆酒場は相互理解を生む
⇒大衆酒場こそ目指すべき社会のモデルなのだ
⇒それぞれが違う仕事をし地位や収入が多少は違っていても、極端な格差にはならず、
大衆酒場の同じカウンターを囲む者同士の関係を結べる社会でありたい
・そんな大衆酒場で私が飲んでる可能性は決して低くはないので、声をかけて下さい
⇒そこからまた、ネットワークが広がるだろうから・・・
・・・・・
いやあ、あらためて著者が信頼できる社会学者だと確信しました

2026年05月19日
世界史の食べ歩き方
とーとつですが・・・

世界「史」の食べ歩き方であります
著者紹介

そう、登録者30万人超のプロ・ユーチューバーで、You Tubeのコンプライアンス規定上、
ありのまま伝えても規制がかかることがあり、そのために配信できなかった部分も含めて
本書で詳しく紹介・・・
とありましたが著者はじめての本だそうで、国境エリアなど滅多に観光客が行かないエリアの
料理と、タイトルどおりそのエリアと世界史との関係が紹介されてました
奥付

目次



このうち第5章「内モンゴル自治区の最果てで」(142~165頁)の一部のみメモしました
そう、わたくし中国・内モンゴル自治区には植林ボランティア活動で1999年から2018年まで、
十数回は訪問しており、本書は2025年3月の訪問記録なので最新情報といえるでしょう
(以下てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第5章1より
・モンゴルは清朝の支配時代に内(皇帝の居住地に近い)と外(遠い)に分かれたとされる
⇒辛亥革命で清朝が崩壊し外蒙古のモンゴル族が独立を宣言
⇒1921年にソビエト連邦の支援を受け正式に独立国として承認された
(補足すれば帝政ロシア・中華民国・大日本帝国の一部支配時代もあり、戦後は中華人民共和国の
「内蒙古自治区」とソビエト連邦の衛星国としての「モンゴル人民共和国」に分断され、
ソ連崩壊により外モンゴルは1992年に社会主義を放棄して「モンゴル国」となったものの、
内モンゴルは中国の自治区のままでモンゴル族の割合が減少している状況です)
・モンゴルは中国に支配されたり支配したりを繰り返し、現在は外モンゴルだけがモンゴル国
⇒昔からロシアの影響が強く街並みが旧ソ連のようで独特な雰囲気
・内モンゴルは同じ民族だったエリアが分断されている状態とも言える
⇒中国政府から自治が与えられているがモンゴル族の文化や暮らしは薄れている
・内モンゴル自治区の中心都市は呼和浩特(フフホト)で、北京から高速鉄道で約3時間、
飛行機なら1時間と割と近い
(わたくしが通ってたのは呼和浩特(フフホト)西隣の大都市・包頭(バオトウ)から黄河を渡った
恩格貝の沙漠地域で、90年代には北京から包頭まででも夜行列車で15時間でした)
・今回の満洲里はフフホトからさらに飛行機で2時間、鉄道なら9時間の最果てにある
⇒中国・ロシア・モンゴルの交わる国境地で戦前には日本が深く関係していた
⇒ロシアと隣接しており極東ロシアの文化も入り混じった独特の文化圏
第5章2より
・満洲里はロシアのザバイカリスクという町に隣接しており商売や買い物のロシア人も多い
⇒シベリア鉄道の国際支線があり北京モスクワ間の入国審査や台車交換をする駅
⇒つまりアジアとヨーロッパの境界駅となる
・ホテルもロシア風で2軒目はマトリョーシカの形をした不思議系ホテルにしたが、
真横にあるマトリョーシカ・テーマパークも店も閉鎖されてた
・繁華街にはロシア風の建物もキリル文字の看板も多いのでロシアの田舎町の雰囲気
⇒本格的なロシア料理が楽しめるがグルメ記は別掲
・国境を見渡せるタワーには100元(2200円)で上れた
⇒中国は国境エリアを観光地化してるが何故かロシア国境は厳しめ
⇒ロシアへの経済制裁によりシベリア鉄道による中国や北朝鮮からの物資輸送が増えている
⇒モンゴル国境は平野の30km先なので見えなかった
第5章3より
・満洲里は満州族の村をあらわす地名でロシア語でもマンジュリ
⇒シベリア鉄道の国際支線があり日本から朝鮮・満州への輸送網の重要拠点だった
⇒南満州鉄道の玄関口で「満鉄付属地」として日本が管理しインフラ整備していった結果、
ロシア側のザバイカリスクより発展した
⇒東京から鉄道でパリへ行く場合、門司から大連までは客車を船に乗せ、大連から満洲里までは
満州鉄道、満洲里からはシベリア鉄道に客車を連結してヨーロッパへ
⇒東京からパリまで1枚の切符で行けた時代があった
・満洲里は軍事的にも重要拠点でハイラル・ノモンハン事件は有名
⇒現在の満洲里博物館は戦前の日本人小学校だが展示は日本の侵略がメインだった
⇒満洲里で金日成と毛沢東が協力し日本軍を追い出したというストーリー
⇒満州族エリアと朝鮮族エリアも吉林省など密接な関係がある
⇒戦後初めて満洲里からの国家主席外遊(ソ連へ)に使われた日本製蒸気機関車JFミカイ型
第5章4より
・中国人観光客はロシアショップでこぞって高級ウオッカ「ベルーガ」などを買っていた
⇒ショップの店員は一応ロシア語は通じるが殆どが漢民族系かモンゴル族系だった
⇒隣接するロシアの町で商品を仕入れ販売しているだけかも知れない
⇒だが出稼ぎや仕事の関係で来ているロシア人は他の街に較べてダントツに多い印象
・有名ロシア料理店の食のレベルは高く、どれもが美味しかった(略)
⇒旧共産圏の国の食事は美味しく今回の満洲里でも証明された
第5章5より
・内モンゴル自治区には多くの漢民族が流入し、モンゴル族の文化が薄れつつある
⇒モンゴルに近い満洲里でも街中にモンゴル感はあまりなく、むしろロシア感が強い
⇒これはモンゴルのウランバートルでも同じだった
⇒フルンボイル市ハイラル区には伝統的な内モンゴル文化が残ってるが今回は行けなかった
・満洲里で内モンゴル料理が食べられるローカル店にタクシーで案内してもらった
⇒店内は精肉店みたいな感じで肉と調理方法を選ぶ仕組み
⇒「羊のスペアリブを蒸す」を選択しオススメの麵料理も注文した
⇒麺は羊肉スープに白いうどんとパクチーのシンプルな料理だったが若干の羊臭がした
⇒スペアリブは蒸して余分な油が落ちたせいかジューシーさを残しつつ美味しかったが、
ニンニクとミントのソース、中華タレ、塩でも煮込み・茹で・蒸しでの獣臭は苦手だった
⇒だがモンゴルで食べた料理よりは美味しく感じた・・・
さてさて、わたくしの昔の経験とは全く逆の羊肉感想でしたが、いかがでしょう・・・
わたくしはモンゴルのキャンプ場で羊の石焼き(ミルク缶による蒸し焼き)をはじめて食べて
全く臭みのない岩塩のみのシンプルな美味しさに感動してました
その後に内モンゴルの賓館で同様のを食べましたが独特の羊臭を若干感じてました
(それでも美味しくて腹いっぱい食べたけど)
おそらく当時のモンゴルの羊は大草原で放牧され、その後に食べた内モンゴルの羊は飼料で
育てられた羊で、その差だと推測してましたが、今ではどうなんでしょうね
モンゴルでも草原放牧は減少してるらしいし、エーデルワイスやミントなどの高山植物を
食べて育った全く臭みのない羊肉なんて、今や稀少なのかも知れません
ちなみに「羊肉うどん」はモンゴルでは食べたけど、内モンゴルで食べた記憶がありません
甘粛省や寧夏回族自治区でも麺類はけっこう食べたけど、どれも麺がイマイチだったので、
中華麺も今のところ日本のが一番の好みですね

世界「史」の食べ歩き方であります
著者紹介

そう、登録者30万人超のプロ・ユーチューバーで、You Tubeのコンプライアンス規定上、
ありのまま伝えても規制がかかることがあり、そのために配信できなかった部分も含めて
本書で詳しく紹介・・・
とありましたが著者はじめての本だそうで、国境エリアなど滅多に観光客が行かないエリアの
料理と、タイトルどおりそのエリアと世界史との関係が紹介されてました
奥付

目次



このうち第5章「内モンゴル自治区の最果てで」(142~165頁)の一部のみメモしました
そう、わたくし中国・内モンゴル自治区には植林ボランティア活動で1999年から2018年まで、
十数回は訪問しており、本書は2025年3月の訪問記録なので最新情報といえるでしょう
(以下てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第5章1より
・モンゴルは清朝の支配時代に内(皇帝の居住地に近い)と外(遠い)に分かれたとされる
⇒辛亥革命で清朝が崩壊し外蒙古のモンゴル族が独立を宣言
⇒1921年にソビエト連邦の支援を受け正式に独立国として承認された
(補足すれば帝政ロシア・中華民国・大日本帝国の一部支配時代もあり、戦後は中華人民共和国の
「内蒙古自治区」とソビエト連邦の衛星国としての「モンゴル人民共和国」に分断され、
ソ連崩壊により外モンゴルは1992年に社会主義を放棄して「モンゴル国」となったものの、
内モンゴルは中国の自治区のままでモンゴル族の割合が減少している状況です)
・モンゴルは中国に支配されたり支配したりを繰り返し、現在は外モンゴルだけがモンゴル国
⇒昔からロシアの影響が強く街並みが旧ソ連のようで独特な雰囲気
・内モンゴルは同じ民族だったエリアが分断されている状態とも言える
⇒中国政府から自治が与えられているがモンゴル族の文化や暮らしは薄れている
・内モンゴル自治区の中心都市は呼和浩特(フフホト)で、北京から高速鉄道で約3時間、
飛行機なら1時間と割と近い
(わたくしが通ってたのは呼和浩特(フフホト)西隣の大都市・包頭(バオトウ)から黄河を渡った
恩格貝の沙漠地域で、90年代には北京から包頭まででも夜行列車で15時間でした)
・今回の満洲里はフフホトからさらに飛行機で2時間、鉄道なら9時間の最果てにある
⇒中国・ロシア・モンゴルの交わる国境地で戦前には日本が深く関係していた
⇒ロシアと隣接しており極東ロシアの文化も入り混じった独特の文化圏
第5章2より
・満洲里はロシアのザバイカリスクという町に隣接しており商売や買い物のロシア人も多い
⇒シベリア鉄道の国際支線があり北京モスクワ間の入国審査や台車交換をする駅
⇒つまりアジアとヨーロッパの境界駅となる
・ホテルもロシア風で2軒目はマトリョーシカの形をした不思議系ホテルにしたが、
真横にあるマトリョーシカ・テーマパークも店も閉鎖されてた
・繁華街にはロシア風の建物もキリル文字の看板も多いのでロシアの田舎町の雰囲気
⇒本格的なロシア料理が楽しめるがグルメ記は別掲
・国境を見渡せるタワーには100元(2200円)で上れた
⇒中国は国境エリアを観光地化してるが何故かロシア国境は厳しめ
⇒ロシアへの経済制裁によりシベリア鉄道による中国や北朝鮮からの物資輸送が増えている
⇒モンゴル国境は平野の30km先なので見えなかった
第5章3より
・満洲里は満州族の村をあらわす地名でロシア語でもマンジュリ
⇒シベリア鉄道の国際支線があり日本から朝鮮・満州への輸送網の重要拠点だった
⇒南満州鉄道の玄関口で「満鉄付属地」として日本が管理しインフラ整備していった結果、
ロシア側のザバイカリスクより発展した
⇒東京から鉄道でパリへ行く場合、門司から大連までは客車を船に乗せ、大連から満洲里までは
満州鉄道、満洲里からはシベリア鉄道に客車を連結してヨーロッパへ
⇒東京からパリまで1枚の切符で行けた時代があった
・満洲里は軍事的にも重要拠点でハイラル・ノモンハン事件は有名
⇒現在の満洲里博物館は戦前の日本人小学校だが展示は日本の侵略がメインだった
⇒満洲里で金日成と毛沢東が協力し日本軍を追い出したというストーリー
⇒満州族エリアと朝鮮族エリアも吉林省など密接な関係がある
⇒戦後初めて満洲里からの国家主席外遊(ソ連へ)に使われた日本製蒸気機関車JFミカイ型
第5章4より
・中国人観光客はロシアショップでこぞって高級ウオッカ「ベルーガ」などを買っていた
⇒ショップの店員は一応ロシア語は通じるが殆どが漢民族系かモンゴル族系だった
⇒隣接するロシアの町で商品を仕入れ販売しているだけかも知れない
⇒だが出稼ぎや仕事の関係で来ているロシア人は他の街に較べてダントツに多い印象
・有名ロシア料理店の食のレベルは高く、どれもが美味しかった(略)
⇒旧共産圏の国の食事は美味しく今回の満洲里でも証明された
第5章5より
・内モンゴル自治区には多くの漢民族が流入し、モンゴル族の文化が薄れつつある
⇒モンゴルに近い満洲里でも街中にモンゴル感はあまりなく、むしろロシア感が強い
⇒これはモンゴルのウランバートルでも同じだった
⇒フルンボイル市ハイラル区には伝統的な内モンゴル文化が残ってるが今回は行けなかった
・満洲里で内モンゴル料理が食べられるローカル店にタクシーで案内してもらった
⇒店内は精肉店みたいな感じで肉と調理方法を選ぶ仕組み
⇒「羊のスペアリブを蒸す」を選択しオススメの麵料理も注文した
⇒麺は羊肉スープに白いうどんとパクチーのシンプルな料理だったが若干の羊臭がした
⇒スペアリブは蒸して余分な油が落ちたせいかジューシーさを残しつつ美味しかったが、
ニンニクとミントのソース、中華タレ、塩でも煮込み・茹で・蒸しでの獣臭は苦手だった
⇒だがモンゴルで食べた料理よりは美味しく感じた・・・
さてさて、わたくしの昔の経験とは全く逆の羊肉感想でしたが、いかがでしょう・・・
わたくしはモンゴルのキャンプ場で羊の石焼き(ミルク缶による蒸し焼き)をはじめて食べて
全く臭みのない岩塩のみのシンプルな美味しさに感動してました
その後に内モンゴルの賓館で同様のを食べましたが独特の羊臭を若干感じてました
(それでも美味しくて腹いっぱい食べたけど)
おそらく当時のモンゴルの羊は大草原で放牧され、その後に食べた内モンゴルの羊は飼料で
育てられた羊で、その差だと推測してましたが、今ではどうなんでしょうね
モンゴルでも草原放牧は減少してるらしいし、エーデルワイスやミントなどの高山植物を
食べて育った全く臭みのない羊肉なんて、今や稀少なのかも知れません
ちなみに「羊肉うどん」はモンゴルでは食べたけど、内モンゴルで食べた記憶がありません
甘粛省や寧夏回族自治区でも麺類はけっこう食べたけど、どれも麺がイマイチだったので、
中華麺も今のところ日本のが一番の好みですね
2026年05月10日
GW乾杯メモ
10日ぶりの記事更新となりましたが・・・
GWの10日間(とその前後も)あちこちで乾杯
してたので備忘のためメモしておきます
まず4月28日には前回記事のとおり「お花畑キャンプ」で何度も乾杯してました
で、5月2日には家内の妹(酒豪
)がひさしぶりに自宅に来てくれて・・・

まずは赤のスパークリングワインで乾杯
たちまち3人で1本を空け、とりあえずビールに切り替えて・・・

こちらもひさしぶりの家内手作り煮込みハンバーグなんぞで再び乾杯
・・・

やがて手作り茶碗蒸しなんぞが出るとビールから日本酒へ・・・

日本酒からハイボール、そして再びビールへとゆーメビウスの輪になり・・・

ついにこの夜はお土産の立町カヌレまで辿り着かず、5時間は乾杯を繰り返しましたとさ
で、翌3日の昼には近所に引っ越してきた妹の友人(酒豪
)も招いて・・・

ネパール料理「サウラハ」のテイクアウトで4人で乾杯
ばくばく食べてかぱかぱ呑んでから、わたくしは中座して実家に向かいましたが、
さらに3人は赤ワインなんぞで延々と盛り上がってたそうです
で、3時にはwingさんがわたくしの実家に到着、4時前には川端さんも到着して・・・

ひさしぶりのライトOFF会つーか、おなじみまったりダベり会
つーことで6時過ぎには3人でふらふら歩いて麵屋・爽月へ

カツオ出汁の効いた「だし巻き卵」なんぞで・・・

まずは「店主おまかせ試飲セット」この夜は計6種類で乾杯

わたくしはこちらの3種類でしたが、中でも左の「諸事情」つーのは・・・
諸事情により通常通りに作れなかったら案外美味しくできた銘柄、とのことでした
wingさんはこちらの3種類

で、お気に入りになった左の濁り酒「THE MOON」をショットで追加したりして・・・


ごぼう天は出汁の効いた餡も秀逸でした(背景は追加した「肉入りだし巻き卵」
)

おなじみ「とり天」と、ひさしぶりの「おでんコロッケ」で、こちらも出汁が秀逸です

wingさん好みのハムカツ
と、もちろん〆は、

ざる蕎麦で・・・
と、夜食・朝食・飲み物・甘味をスーパーで買い出しして実家に戻りましたが・・・

わたくしは甘味なんぞで軽くダベっただけで11時過ぎにはシュラフに潜り込みました
そう、さすがに「乾杯疲れ」が出てきたのでしょうか・・・げふっ
(ま、買ったはずの助六寿司とかが何故か深夜には消えてましたが
)
で、翌朝8時半にはごつほざさんも来てくれ、まともなライトOFF会になって盛り上がり、
皆さん昼食に外出するのもめんどーになって、かつやのカツ丼をテイクアウト・・・


誰かさんだけビールで、2名はノンアルで、呑まない川端さんはコーヒーで乾杯
と「3ヶ月でマスターする古代文明」全12回を観ながらダベり続け、夕方には解散しました
で、4日の昼前には長男家族が名古屋から帰阪、いつもの公園の児童遊園で合流し・・・

いつもの「どこでも宴会セット」を拡げて・・・



家内の手作り弁当で乾杯
孫たちは公園を駆けまわり、約3分間だけボール投げに付き合った大阪じいじは、
たちまち足腰だけでなく上半身にも激痛が・・・うぐぐぐ
と、思い切り遊びまわった後の自宅での夕食は・・・




大阪じいじ手作りの「すき焼き」で乾杯
この夜も長男の嫁(酒豪
)らと大いに吞んで食べたのですが、孫(次女のほう)がすっかり
肉好きになっているのに驚きました
今や食べ物で大好きなのは麺類と肉類だそうで、これが隔世遺伝つーやつなのか???
ちなみに〆にはきしめんを投入しましたが、嫁は名古屋でもあまり食べないとのことで、
これも驚きでした
ま、孫(次女のほう)は麺類なら何でもちゅるちゅるばくばく
だそうですが・・・
で、彼らは8時過ぎには近所に予約していたゲストハウスに戻って早めの就寝
そう、翌5日は早朝からUSJユニバーサルスタジオジャパンだったのでありますね
わたくしたちも誘ってくれてたのですが、連休中で凄い人出だろうし、孫たちのお目当ては
マリオとかミニオンとかだろうし、つーことでこの日は彼らだけで行ってもらいましたが、
ゲストハウスに戻ったのは9時半を過ぎてたそうで、たっぷりと楽しんだようです
と、翌6日は6人全員が長男のクルマで・・・

ザ・シンフォニーホールでのコンサート(午前の部)へ・・・
「0歳児からのオーケストラ」つーことでしたが大人も充分に楽しめました
つーことで、この日の昼食は・・・

(長男が予約してくれてた)グラングリーン大阪B1にある、お好み焼き屋さんへ
まずは焼きそばで乾杯

ま、運転する長男夫婦はノンアルでしたが



孫(次女のほう)は肉と麺だけを選んでばくばく
、大阪じいじは手当たり次第にばくばく

〆の抹茶パフェなんぞもばくばくばく
長男家族とは店の前で分かれ、彼らはクルマで名古屋へ帰宅・・・
わたくしたち夫婦はJR環状線と南海本線でのんびり帰宅しました
そう、今はJR大阪駅に新線の「うめきた地下口」ができてるんですね 知りませんでした
で、昨日の5月9日には・・・

夕方からチン電「北天下茶屋」電停前にあるイタリアン「タルタルーガ」の2階へ・・・
まずはスパークリングワインで、


4人で乾杯
そう、こちらの記事後半のとおり、たまたま公園で出会ったトレック乗りの彼女(酒豪
)と、
彼女の彼氏(酒豪
)とは、その後すっかり呑み友達になってて家内と4人、前回は肥田シェフの
ぽたじぇで、今回はこちらでの呑み会となった次第なのでありますね
で、

美味しい前菜を食べ終える前に最初のスパークリングワインが空いてしまい、

2本目の白(びみょーにオレンジ?)ワインで2度目の乾杯
さらに・・・


ピザとペンネを食べ終える頃には白ワインも空いたので・・・
メインの肉料理にあわせて赤ワインを注文・・・

3度目の乾杯
であります
で、メインの肉料理は・・・

食べる前に撮ればよかったものを・・・
と、〆はもちろん


美味しいピザとパスタでした めでたしめでたし
と、気づけばこの日も5時から9時前まで4時間近く楽しい会話で過ごしてました
帰りはチン電(阪堺線)の本数が少なかったので南海・天下茶屋駅まで見送ってくれて、
無事に帰宅することができました ありがとね
お二人とも当ブログサイトの記事で折りたたみ小径車(ミニベロ)にも興味を持たれたようで、
いつかお気楽ポタリングにご一緒できるといいなあ
でも彼らは日帰りで軽く100kmは漕ぐそうですから、わたくしは迷惑なだけか・・・
さてさて、次回はいつどこの呑み会で乾杯できるかな・・・わくわく
GWの10日間(とその前後も)あちこちで乾杯
してたので備忘のためメモしておきます
まず4月28日には前回記事のとおり「お花畑キャンプ」で何度も乾杯してました

で、5月2日には家内の妹(酒豪
)がひさしぶりに自宅に来てくれて・・・
まずは赤のスパークリングワインで乾杯

たちまち3人で1本を空け、とりあえずビールに切り替えて・・・

こちらもひさしぶりの家内手作り煮込みハンバーグなんぞで再び乾杯
・・・
やがて手作り茶碗蒸しなんぞが出るとビールから日本酒へ・・・

日本酒からハイボール、そして再びビールへとゆーメビウスの輪になり・・・

ついにこの夜はお土産の立町カヌレまで辿り着かず、5時間は乾杯を繰り返しましたとさ
で、翌3日の昼には近所に引っ越してきた妹の友人(酒豪
)も招いて・・・
ネパール料理「サウラハ」のテイクアウトで4人で乾杯

ばくばく食べてかぱかぱ呑んでから、わたくしは中座して実家に向かいましたが、
さらに3人は赤ワインなんぞで延々と盛り上がってたそうです
で、3時にはwingさんがわたくしの実家に到着、4時前には川端さんも到着して・・・

ひさしぶりのライトOFF会つーか、おなじみまったりダベり会

つーことで6時過ぎには3人でふらふら歩いて麵屋・爽月へ

カツオ出汁の効いた「だし巻き卵」なんぞで・・・

まずは「店主おまかせ試飲セット」この夜は計6種類で乾杯


わたくしはこちらの3種類でしたが、中でも左の「諸事情」つーのは・・・
諸事情により通常通りに作れなかったら案外美味しくできた銘柄、とのことでした

wingさんはこちらの3種類

で、お気に入りになった左の濁り酒「THE MOON」をショットで追加したりして・・・


ごぼう天は出汁の効いた餡も秀逸でした(背景は追加した「肉入りだし巻き卵」
)
おなじみ「とり天」と、ひさしぶりの「おでんコロッケ」で、こちらも出汁が秀逸です

wingさん好みのハムカツ
と、もちろん〆は、

ざる蕎麦で・・・

と、夜食・朝食・飲み物・甘味をスーパーで買い出しして実家に戻りましたが・・・

わたくしは甘味なんぞで軽くダベっただけで11時過ぎにはシュラフに潜り込みました
そう、さすがに「乾杯疲れ」が出てきたのでしょうか・・・げふっ

(ま、買ったはずの助六寿司とかが何故か深夜には消えてましたが
)で、翌朝8時半にはごつほざさんも来てくれ、まともなライトOFF会になって盛り上がり、
皆さん昼食に外出するのもめんどーになって、かつやのカツ丼をテイクアウト・・・


誰かさんだけビールで、2名はノンアルで、呑まない川端さんはコーヒーで乾杯

と「3ヶ月でマスターする古代文明」全12回を観ながらダベり続け、夕方には解散しました
で、4日の昼前には長男家族が名古屋から帰阪、いつもの公園の児童遊園で合流し・・・

いつもの「どこでも宴会セット」を拡げて・・・



家内の手作り弁当で乾杯

孫たちは公園を駆けまわり、約3分間だけボール投げに付き合った大阪じいじは、
たちまち足腰だけでなく上半身にも激痛が・・・うぐぐぐ

と、思い切り遊びまわった後の自宅での夕食は・・・




大阪じいじ手作りの「すき焼き」で乾杯

この夜も長男の嫁(酒豪
)らと大いに吞んで食べたのですが、孫(次女のほう)がすっかり肉好きになっているのに驚きました
今や食べ物で大好きなのは麺類と肉類だそうで、これが隔世遺伝つーやつなのか???

ちなみに〆にはきしめんを投入しましたが、嫁は名古屋でもあまり食べないとのことで、
これも驚きでした
ま、孫(次女のほう)は麺類なら何でもちゅるちゅるばくばく
だそうですが・・・で、彼らは8時過ぎには近所に予約していたゲストハウスに戻って早めの就寝
そう、翌5日は早朝からUSJユニバーサルスタジオジャパンだったのでありますね
わたくしたちも誘ってくれてたのですが、連休中で凄い人出だろうし、孫たちのお目当ては
マリオとかミニオンとかだろうし、つーことでこの日は彼らだけで行ってもらいましたが、
ゲストハウスに戻ったのは9時半を過ぎてたそうで、たっぷりと楽しんだようです
と、翌6日は6人全員が長男のクルマで・・・

ザ・シンフォニーホールでのコンサート(午前の部)へ・・・
「0歳児からのオーケストラ」つーことでしたが大人も充分に楽しめました
つーことで、この日の昼食は・・・

(長男が予約してくれてた)グラングリーン大阪B1にある、お好み焼き屋さんへ
まずは焼きそばで乾杯


ま、運転する長男夫婦はノンアルでしたが




孫(次女のほう)は肉と麺だけを選んでばくばく
、大阪じいじは手当たり次第にばくばく

〆の抹茶パフェなんぞもばくばくばく

長男家族とは店の前で分かれ、彼らはクルマで名古屋へ帰宅・・・
わたくしたち夫婦はJR環状線と南海本線でのんびり帰宅しました
そう、今はJR大阪駅に新線の「うめきた地下口」ができてるんですね 知りませんでした
で、昨日の5月9日には・・・

夕方からチン電「北天下茶屋」電停前にあるイタリアン「タルタルーガ」の2階へ・・・
まずはスパークリングワインで、


4人で乾杯

そう、こちらの記事後半のとおり、たまたま公園で出会ったトレック乗りの彼女(酒豪
)と、彼女の彼氏(酒豪
)とは、その後すっかり呑み友達になってて家内と4人、前回は肥田シェフのぽたじぇで、今回はこちらでの呑み会となった次第なのでありますね

で、

美味しい前菜を食べ終える前に最初のスパークリングワインが空いてしまい、

2本目の白(びみょーにオレンジ?)ワインで2度目の乾杯
さらに・・・


ピザとペンネを食べ終える頃には白ワインも空いたので・・・
メインの肉料理にあわせて赤ワインを注文・・・

3度目の乾杯
でありますで、メインの肉料理は・・・

食べる前に撮ればよかったものを・・・

と、〆はもちろん


美味しいピザとパスタでした めでたしめでたし

と、気づけばこの日も5時から9時前まで4時間近く楽しい会話で過ごしてました
帰りはチン電(阪堺線)の本数が少なかったので南海・天下茶屋駅まで見送ってくれて、
無事に帰宅することができました ありがとね
お二人とも当ブログサイトの記事で折りたたみ小径車(ミニベロ)にも興味を持たれたようで、
いつかお気楽ポタリングにご一緒できるといいなあ

でも彼らは日帰りで軽く100kmは漕ぐそうですから、わたくしは迷惑なだけか・・・

さてさて、次回はいつどこの呑み会で乾杯できるかな・・・わくわく

2026年04月10日
世界のお弁当とソトごはん
ほぼ一週間ぶりの記事更新であります
なぜか画像が転んだままですが・・・

岡根谷実里著「世界のお弁当とソトごはん」とゆー本が面白かったのでご紹介
著者紹介と奥付・・・もなぜか転んだままですが・・・

著者の本は以前にも紹介してますが視点が面白く、他にも何冊か読んでてオススメです
目次


目次を眺めるだけでも腹が減ってきます
この本で訪れた国々・・・

わたくし前回記事のお花見宴会はもちろん、アウトドア飯もお弁当もソトごはんも、ついでに
キャンプで食べるBBQも鍋物も大好きなので・・・
本書の世界もじつに興味深く楽しめました
以下、てきとーな読書メモです(が著作物なので公開に問題があれば非公開にします)
第1章より
・フィンランド(東部サヴォ地方の一家)
⇒森歩きは夏も冬も素晴らしい⇒「悪い天気はない、間違った服装があるだけ」
⇒森仕事で食べるカラクッコ(略)は密閉されてて日持ちし皿も不要でナイフ1本で食べられる
⇒今は無償の温かい学校給食があり大人には安くて充実した街の食堂がある
・ブータン(首都ティンプーの市場)
⇒市場では古い天秤量りで量り売りしてるが、その支払いはスマホ決済用QRコードで!!!
⇒お弁当は市場で働く人の多くが「象印ランチジャー」の特大サイズだった
⇒エマ(唐辛子)とダツィ(チーズ)を煮込んだエマダツィ(略)を基本にした何かと大量のご飯
⇒エマダツィは完全に冷めるとチーズの油脂が固まるので温かい方がおいしいから
(探していたパンチュンという美しい竹籠の弁当箱は今はお菓子や小物入れに使われていた)
・オランダ(ライデンでの留学生活)
⇒アジアでは外食は日常的だがヨーロッパでは「ハレのもの」で高い
⇒学生も勤め人も昼食には簡素なチーズサンドを持参している
⇒プロセスチーズで育った私にはオランダで標準的なゴーダチーズのサンドはおいしいのだが、
誰もおいしいとは言わず飾り気もなく「燃料」扱い、それでも誰も飽きることはない
・パプアニューギニア(高地の山中の一家)
⇒高地では週に3日はイモとバナナ、2日はサゴヤシ澱粉、2日は市販のコメ、といった感じ
⇒それなのに6歳の少女でも驚くべき体幹と筋力を持ち、急斜面の畑で働いていた
⇒同行した低地出身者は、村では川魚とサゴヤシ澱粉で暮らせるから、こんな大変な畑仕事は
したことがないし、とてもできないと言っていた
⇒新しい焼畑には昼に弁当を届けみんなで食べるが内容は同じ(コメが一番人気だった)
・モンゴル(ズンハラから馬で1時間の草原の一家)
⇒夏は一番忙しい時期で子どもたちも学校の寮から帰って手伝う
⇒朝5時から前日に加熱し夜に水分を抜いていたチーズを糸でカットして天日干しに
⇒ウシとヤギとヒツジの搾乳作業
⇒その後に生乳の加熱・加工作業
⇒パンと乳製品の簡単な朝食
⇒男はウマの搾乳に、女は加工作業の続き
⇒アーロール(乾燥チーズ)・ボルソック(四角い揚げパン)・朝のミルクティーで2時のおやつ
(アーロールとボルソックは日持ちし作業の合間にも食べる高カロリーの携帯食・保存食で、
原料は毎日搾れる五畜の乳と小麦粉と油だけなので原料保管用の冷蔵庫も不要)
⇒午後も作業が続き日没前に干し肉と雑穀を煮たスープで(はじめての温かい)夕食
⇒夕食後も夜の搾乳作業が続く
・ノルウェー(スカンジナビア半島の北端カラショクの町はずれの一家)
⇒マイナス30度の世界では「凍らない弁当」が必要
⇒普段の寒さならダウンジャケットや動きやすい化学繊維だが、さらに寒いとトナカイの毛皮
⇒遠出の際にはトナカイコートのポケットにトナカイの干し肉(水分が少なく凍りにくい)を入れ
ナイフで削って食べる⇒塩気が強いので火が熾せるなら削ってスープにする
(先住民サーミ人も子どもの弁当はオスロと同じ「マートパッケ(伝統的なサンドイッチ)」に)
第2章より
・インドネシア(バリ島のビーチから外れた静かな村の一家)
⇒一日分作った朝食で余った分のおかずをガラス棚に入れ各自が弁当に詰めるシステム
⇒夕食は残ったおかずに簡単な一品を足すぐらい
⇒空いた時間は神様へのお供え花チャナン作りや寺院での踊りやガムランの稽古
⇒観光で豊かになり信仰や伝統が薄れるのではなく、逆に供物や祭りが豪華になっている
⇒昔は神様のいる火と水は数か所だったが今はガス台やウォーターサーバーもあるので多い
・トンガ(ヴァヴァウ島の村の大家族一家)
⇒伝統的な食文化は海で獲る魚・畑のイモ・生えているココナッツの実
⇒どれも貯蔵の必要がなく、いつでも入手できるので、みんなのんびりしている
(ビーチで網を入れ魚を獲るのさえめんどうだとサバ缶が大活躍している)
⇒シェア文化が徹底しており昼の弁当だけでなく安価で高脂質なスナックも子どもの頃から
分け合うので???肥満率77.1%は世界トップクラス(もともと遺伝的に体格も大きい)
・インド(南部タミルナドゥ州ニルギリ丘陵地域イルラ民族の一家とポンディシェリの一家)
⇒サンバル(スパイススープ)とチャパティとご飯の基本はほぼ同じでも、
⇒食べられる食材は同じヒンドゥー教徒の中でも異なりカーストでも民族でも地域でも異なる
⇒多様な食の要求に応えるためティフィン・ダッバー(三段ステンレス弁当箱)で、それぞれの
家から手作り弁当を届けるダッバー・ワーラーがムンバイで発達した
⇒他の地域でも惣菜の持ち帰りなどに大型が使われている
・ボツワナ
⇒首都ハボローネのビジネス街の昼だけの弁当屋(小150円大200円でも収入からは高い)
⇒主食(トウモロコシ練り粥やライスなど4種類から一品)・メイン(焼きチキンや煮込みビーフなど
3種類から一品)・野菜(炒め物、煮物、サラダなど5種類から好きなだけ)を選ぶ仕組み
⇒ただし、どれも家庭と同じものなのに、なぜ家から安い弁当を持ってこないのか?
⇒練り粥もインディカ米ライスも冷めると澱粉が老化するし気候的にも傷みやすいから
・ヨルダン(ワディ・ラム沙漠の四角いテントに住むベドウィン一家)
⇒ラクダが「砂漠の船」でナツメヤシが「生命の樹」の理由
⇒ラクダは沙漠を移動中でもミルクが搾れ、ナツメヤシはオアシスだけに生える木で、
実のデーツは収穫乾燥せずとも水分が抜けて、そのままドライフルーツになる
⇒どちらも砂漠を移動するのに不可欠の携行食だったから
・台湾
⇒世界でも有数の外食文化があり、温かい食事が基本
⇒職場でも学校でも昼食の弁当は近くで温かい弁当を買っている
⇒家から弁当を持参することはまずないので職場にも学校にも電子レンジはない
⇒基本の弁当はご飯の上に副菜の炒め野菜が1~2種類、その上に肉などの主菜がどーん
⇒「台湾鉄道の本業は弁当」と冗談を言われるほど台湾の駅弁は人気(略)
⇒台北で人気があるのはビュッフェ形式の「自助餐」(略)
(多くの品数から選べて安く持ち帰りもできるので昼食にも夕食にも利用されている)
⇒台湾語で弁当は「便當」だが今では日本の弁当とは意味が異なってきている
(昔の飯包が日本統治時代に便當になったが、)
⇒今では「ご飯と副菜と主菜のある「完全な食事」が箱に入ったテイクアウト品」が便當で、
麺など単品のテイクアウト品は便當とは言わないし、家から持っていく弁当のイメージもない
⇒惣菜店でも食堂でもテイクアウトメニューには品名(単品)と品名便當(ご飯と副菜入り)が
あり、便當は単品の倍の値段とかになっている(略)
・韓国
⇒小中高まで無償完全給食で内容も充実している(寮生活では一日3食)
⇒ただし遠足などでは弁当持参だがメニューはキンパ(韓国海苔巻き)が定番(略)
⇒韓国最大の弁当チェーンには広いイートインスペースがありインスタント麺と弁当が定番
⇒台湾とは対照的にコンビニ弁当も日本と同じ仕切りの多い弁当箱(小鉢料理の伝統から?)
⇒家から弁当を持参する人はいなくなったが昔のアルミ弁当箱がイカ・ゲームから流行中
(アルミ弁当箱をよく振ってご飯とおかずを混ぜて食べる⇒ビビンパの伝統から?)
第3章より
・ポーランド(シロンスク地方の親友夫婦)
⇒実家の庭での焚き火料理
⇒専用の「三本脚付き鋳物鍋」に様々な野菜類や肉類を入れ密閉して焚き火へ
⇒マシュマロやソーセージを焼きながら1時間ほどで焚火による圧力調理が完成(略)
⇒この地方は製鉄が盛んで、この焚き火専用の鋳物鍋も近くで作られたもの
・フィンランド(ヘルシンキ郊外の街に住む一家)
⇒日本のキャンプ飯の進化が凄いが、フィンランドのアウトドア飯はその逆をいくもの
⇒サウナ小屋と湖の往復の後には焚火台でマッカラ(大ぶりのソーセージ)を焼くだけ
⇒焚火台には焼き網もあり他のBBQもできるのに誰もがマッカラだけで満足している
⇒しかも使われるマッカラは自家製とかではなく普通のスーパーのパック品
⇒向うのベンチに座ってる海パン1枚のおじさんはビール片手にマッカラにかぶりついて、
満面の笑みを浮かべている
⇒もう、これ以上の幸せがあるかと、こっちが幸せな気持ちになる(わかるなあ
)
⇒別の家族のサマーコテージでも同じくマッカラだけだった(冬の自宅でも暖炉で焼いてたが)
⇒国立公園内にも焼き網付き焚火台があり「マッカラのために木の皮を剥ぐのは禁止」と
明記されており、それほどマッカラへの執着は強い
⇒サウナでも森でも湖でも焚火でマッカラだけなのはなぜか・・・
自然があまりにも美しく、それを存分に楽しめる夏があまりにも短いから
⇒料理を考えるなんてもったいない、これで十分だと・・・
(フィンランドの生活満足度が世界一高いのは「これで十分」を知っているから?)
⇒アウトドアアクティビティに事欠かないフィンランドらしい、アウトドアご飯の楽しみ方の
心構えを教えられた気がする
(わたくしも、日本のキャンプは殆どが1泊か2泊なんだから「これで十分」の心構えで???
ホントは作るのがめんどーで???いつもシンプルな焼き肉と鍋だけです
)
・ペルー(クスコから車で2時間の高地オクラ村の一家)
⇒ペルーはジャガイモの原産地で数千種類あると言われている
⇒訪問した6月は収穫期で畑で堀りたて各種をワティア(土焼き芋)にして食べた(略)
⇒仕事終わりに枯草混じりの土を被せておけば翌日も土焼き芋ができるので畑への弁当は不要
⇒芋は洗わず調理でき鍋も水も食器も不要で、余ればポケットに入れて持ち帰れる
⇒標高4000mで米を炊けば(88度で沸騰するので)芯が残るが芋なら60度前後で澱粉が固化する
⇒インカ帝国の繫栄もジャガイモがなければ成り立たなかったはず
・ヨルダン(ワディ・ラム沙漠の四角いテントに住むベドウィン一家)
⇒砂漠で枯れた小枝を集めて焚き火をして砂を熱し、灰を丁寧に崩して平らにする
⇒その上に鍋で水と塩で練った小麦粉を丸く伸ばし、上に熱い砂と灰を被せる
⇒15分ほどでひっくり返し、さらに10分ほどでパン(アルブード)が完成する(略)
⇒枯草の上に置き棒で叩いて灰と砂を落とし、こすって焦げを落として手で割って食べる
⇒これがオーブンも窯も使わない砂漠のパンの焼き方
・ウズベキスタン(サマルカンドの一家)
⇒大学生たちとバスで1時間ほどの郊外にある「ピクニック場」に行った
⇒森の中に一段高く整地したピクニック場があり、そこへ各自が持参した絨毯を広げる
⇒ドラム缶を切ったような窯が設置されており巨大中華鍋のようなカザンで女子が調理する
⇒大量の油にジャガイモ、牛肉と入れるが盛大に油が飛び散る⇒屋外でしかできない料理
⇒カザン(鍋)で作るカバブ(肉料理)なのでカザンカバブ(略)
(タンドール窯で焼くタンドールチキンと同じか)
⇒大皿に盛り、作ったサラダと持参したパンと自家製コンポートの瓶詰で食べた
⇒絨毯も食器もフォークもふだん家で使っているものを持参していた
⇒帰宅後の夕食は牛肉とジャガイモの煮物でおいしかったが、あの豪快に油を飛ばした
アウトドア飯とは全くの別物で、帰国後にも真似してみたが遠く及ばなかった
・インド(ミャンマーとの国境に接するナガランド州に多いアジア系の一家)
⇒街から車で30分の「ファーム」へ
⇒畑以外に動物エリアも宿泊小屋もあり「ファームステイ」も考えて開発中とのこと
⇒川魚に乾燥唐辛子・粉唐辛子・発酵タケノコ・バナナのつぼみなどをまぶし青唐辛子も
⇒裏の竹林で採ってきた1mほどの竹3本に詰めてバナナの葉で栓をする
⇒焚火の囲炉裏に立てかけ2時間で「ポンセン」が完成(略)
(竹の水分で蒸し焼きになるので水は不要)
⇒手でご飯と混ぜて食べるが、ナガ人はキリスト教なので左利きの人は左手で食べる
(留学生のお弁当⇒6人6地域6種類⇒略)
(世界で進化する日本のおにぎり)
⇒動画で見るコンビニ三角おにぎりが日本のイメージになっており最近は海苔巻きも多い
⇒ただし米にも味が付いてて米粒がやわらかくてつぶれている
⇒米自体を味わう感覚はなく具材のクッションのイメージ
⇒帰国してセブンイレブンのおにぎりの凛とした粒立ちに息を吞んだ
⇒世界各地のおにぎりは食べ応えもバリエーションもあって好きだが、それらに出会うにつけ、
日本人の米自体のおいしさに対する執着に向き合わされる
(日本で作る世界のお弁当レシピ5種類⇒略)
・・・・・・
わたくしが本書で紹介されてた国や地域で訪れたことがあるのはモンゴルの草原だけで、
15年前にゲルに暮らすご一家を家庭訪問、アーロール(乾燥チーズ)やボルソック(揚げパン)と
バター入りミルクティーで歓迎していただいたのが懐かしいです
まあ、今後は本書で紹介されてた他の地域を訪れることなど、もうないかも知れませんが、
これらの料理を日本で味わえる可能性は残っており、その際に基本の具材や調理法などを
知ってるだけでも、その国や地域出身の人たちと仲良くなれそうです
なぜか画像が転んだままですが・・・

岡根谷実里著「世界のお弁当とソトごはん」とゆー本が面白かったのでご紹介
著者紹介と奥付・・・もなぜか転んだままですが・・・

著者の本は以前にも紹介してますが視点が面白く、他にも何冊か読んでてオススメです
目次


目次を眺めるだけでも腹が減ってきます

この本で訪れた国々・・・

わたくし前回記事のお花見宴会はもちろん、アウトドア飯もお弁当もソトごはんも、ついでに
キャンプで食べるBBQも鍋物も大好きなので・・・
本書の世界もじつに興味深く楽しめました

以下、てきとーな読書メモです(が著作物なので公開に問題があれば非公開にします)
第1章より
・フィンランド(東部サヴォ地方の一家)
⇒森歩きは夏も冬も素晴らしい⇒「悪い天気はない、間違った服装があるだけ」
⇒森仕事で食べるカラクッコ(略)は密閉されてて日持ちし皿も不要でナイフ1本で食べられる
⇒今は無償の温かい学校給食があり大人には安くて充実した街の食堂がある
・ブータン(首都ティンプーの市場)
⇒市場では古い天秤量りで量り売りしてるが、その支払いはスマホ決済用QRコードで!!!
⇒お弁当は市場で働く人の多くが「象印ランチジャー」の特大サイズだった
⇒エマ(唐辛子)とダツィ(チーズ)を煮込んだエマダツィ(略)を基本にした何かと大量のご飯
⇒エマダツィは完全に冷めるとチーズの油脂が固まるので温かい方がおいしいから
(探していたパンチュンという美しい竹籠の弁当箱は今はお菓子や小物入れに使われていた)
・オランダ(ライデンでの留学生活)
⇒アジアでは外食は日常的だがヨーロッパでは「ハレのもの」で高い
⇒学生も勤め人も昼食には簡素なチーズサンドを持参している
⇒プロセスチーズで育った私にはオランダで標準的なゴーダチーズのサンドはおいしいのだが、
誰もおいしいとは言わず飾り気もなく「燃料」扱い、それでも誰も飽きることはない
・パプアニューギニア(高地の山中の一家)
⇒高地では週に3日はイモとバナナ、2日はサゴヤシ澱粉、2日は市販のコメ、といった感じ
⇒それなのに6歳の少女でも驚くべき体幹と筋力を持ち、急斜面の畑で働いていた
⇒同行した低地出身者は、村では川魚とサゴヤシ澱粉で暮らせるから、こんな大変な畑仕事は
したことがないし、とてもできないと言っていた
⇒新しい焼畑には昼に弁当を届けみんなで食べるが内容は同じ(コメが一番人気だった)
・モンゴル(ズンハラから馬で1時間の草原の一家)
⇒夏は一番忙しい時期で子どもたちも学校の寮から帰って手伝う
⇒朝5時から前日に加熱し夜に水分を抜いていたチーズを糸でカットして天日干しに
⇒ウシとヤギとヒツジの搾乳作業
⇒その後に生乳の加熱・加工作業
⇒パンと乳製品の簡単な朝食
⇒男はウマの搾乳に、女は加工作業の続き
⇒アーロール(乾燥チーズ)・ボルソック(四角い揚げパン)・朝のミルクティーで2時のおやつ
(アーロールとボルソックは日持ちし作業の合間にも食べる高カロリーの携帯食・保存食で、
原料は毎日搾れる五畜の乳と小麦粉と油だけなので原料保管用の冷蔵庫も不要)
⇒午後も作業が続き日没前に干し肉と雑穀を煮たスープで(はじめての温かい)夕食
⇒夕食後も夜の搾乳作業が続く
・ノルウェー(スカンジナビア半島の北端カラショクの町はずれの一家)
⇒マイナス30度の世界では「凍らない弁当」が必要
⇒普段の寒さならダウンジャケットや動きやすい化学繊維だが、さらに寒いとトナカイの毛皮
⇒遠出の際にはトナカイコートのポケットにトナカイの干し肉(水分が少なく凍りにくい)を入れ
ナイフで削って食べる⇒塩気が強いので火が熾せるなら削ってスープにする
(先住民サーミ人も子どもの弁当はオスロと同じ「マートパッケ(伝統的なサンドイッチ)」に)
第2章より
・インドネシア(バリ島のビーチから外れた静かな村の一家)
⇒一日分作った朝食で余った分のおかずをガラス棚に入れ各自が弁当に詰めるシステム
⇒夕食は残ったおかずに簡単な一品を足すぐらい
⇒空いた時間は神様へのお供え花チャナン作りや寺院での踊りやガムランの稽古
⇒観光で豊かになり信仰や伝統が薄れるのではなく、逆に供物や祭りが豪華になっている
⇒昔は神様のいる火と水は数か所だったが今はガス台やウォーターサーバーもあるので多い
・トンガ(ヴァヴァウ島の村の大家族一家)
⇒伝統的な食文化は海で獲る魚・畑のイモ・生えているココナッツの実
⇒どれも貯蔵の必要がなく、いつでも入手できるので、みんなのんびりしている
(ビーチで網を入れ魚を獲るのさえめんどうだとサバ缶が大活躍している)
⇒シェア文化が徹底しており昼の弁当だけでなく安価で高脂質なスナックも子どもの頃から
分け合うので???肥満率77.1%は世界トップクラス(もともと遺伝的に体格も大きい)
・インド(南部タミルナドゥ州ニルギリ丘陵地域イルラ民族の一家とポンディシェリの一家)
⇒サンバル(スパイススープ)とチャパティとご飯の基本はほぼ同じでも、
⇒食べられる食材は同じヒンドゥー教徒の中でも異なりカーストでも民族でも地域でも異なる
⇒多様な食の要求に応えるためティフィン・ダッバー(三段ステンレス弁当箱)で、それぞれの
家から手作り弁当を届けるダッバー・ワーラーがムンバイで発達した
⇒他の地域でも惣菜の持ち帰りなどに大型が使われている
・ボツワナ
⇒首都ハボローネのビジネス街の昼だけの弁当屋(小150円大200円でも収入からは高い)
⇒主食(トウモロコシ練り粥やライスなど4種類から一品)・メイン(焼きチキンや煮込みビーフなど
3種類から一品)・野菜(炒め物、煮物、サラダなど5種類から好きなだけ)を選ぶ仕組み
⇒ただし、どれも家庭と同じものなのに、なぜ家から安い弁当を持ってこないのか?
⇒練り粥もインディカ米ライスも冷めると澱粉が老化するし気候的にも傷みやすいから
・ヨルダン(ワディ・ラム沙漠の四角いテントに住むベドウィン一家)
⇒ラクダが「砂漠の船」でナツメヤシが「生命の樹」の理由
⇒ラクダは沙漠を移動中でもミルクが搾れ、ナツメヤシはオアシスだけに生える木で、
実のデーツは収穫乾燥せずとも水分が抜けて、そのままドライフルーツになる
⇒どちらも砂漠を移動するのに不可欠の携行食だったから
・台湾
⇒世界でも有数の外食文化があり、温かい食事が基本
⇒職場でも学校でも昼食の弁当は近くで温かい弁当を買っている
⇒家から弁当を持参することはまずないので職場にも学校にも電子レンジはない
⇒基本の弁当はご飯の上に副菜の炒め野菜が1~2種類、その上に肉などの主菜がどーん

⇒「台湾鉄道の本業は弁当」と冗談を言われるほど台湾の駅弁は人気(略)
⇒台北で人気があるのはビュッフェ形式の「自助餐」(略)
(多くの品数から選べて安く持ち帰りもできるので昼食にも夕食にも利用されている)
⇒台湾語で弁当は「便當」だが今では日本の弁当とは意味が異なってきている
(昔の飯包が日本統治時代に便當になったが、)
⇒今では「ご飯と副菜と主菜のある「完全な食事」が箱に入ったテイクアウト品」が便當で、
麺など単品のテイクアウト品は便當とは言わないし、家から持っていく弁当のイメージもない
⇒惣菜店でも食堂でもテイクアウトメニューには品名(単品)と品名便當(ご飯と副菜入り)が
あり、便當は単品の倍の値段とかになっている(略)
・韓国
⇒小中高まで無償完全給食で内容も充実している(寮生活では一日3食)
⇒ただし遠足などでは弁当持参だがメニューはキンパ(韓国海苔巻き)が定番(略)
⇒韓国最大の弁当チェーンには広いイートインスペースがありインスタント麺と弁当が定番
⇒台湾とは対照的にコンビニ弁当も日本と同じ仕切りの多い弁当箱(小鉢料理の伝統から?)
⇒家から弁当を持参する人はいなくなったが昔のアルミ弁当箱がイカ・ゲームから流行中
(アルミ弁当箱をよく振ってご飯とおかずを混ぜて食べる⇒ビビンパの伝統から?)
第3章より
・ポーランド(シロンスク地方の親友夫婦)
⇒実家の庭での焚き火料理
⇒専用の「三本脚付き鋳物鍋」に様々な野菜類や肉類を入れ密閉して焚き火へ
⇒マシュマロやソーセージを焼きながら1時間ほどで焚火による圧力調理が完成(略)
⇒この地方は製鉄が盛んで、この焚き火専用の鋳物鍋も近くで作られたもの
・フィンランド(ヘルシンキ郊外の街に住む一家)
⇒日本のキャンプ飯の進化が凄いが、フィンランドのアウトドア飯はその逆をいくもの
⇒サウナ小屋と湖の往復の後には焚火台でマッカラ(大ぶりのソーセージ)を焼くだけ
⇒焚火台には焼き網もあり他のBBQもできるのに誰もがマッカラだけで満足している
⇒しかも使われるマッカラは自家製とかではなく普通のスーパーのパック品
⇒向うのベンチに座ってる海パン1枚のおじさんはビール片手にマッカラにかぶりついて、
満面の笑みを浮かべている
⇒もう、これ以上の幸せがあるかと、こっちが幸せな気持ちになる(わかるなあ
)⇒別の家族のサマーコテージでも同じくマッカラだけだった(冬の自宅でも暖炉で焼いてたが)
⇒国立公園内にも焼き網付き焚火台があり「マッカラのために木の皮を剥ぐのは禁止」と
明記されており、それほどマッカラへの執着は強い
⇒サウナでも森でも湖でも焚火でマッカラだけなのはなぜか・・・
自然があまりにも美しく、それを存分に楽しめる夏があまりにも短いから
⇒料理を考えるなんてもったいない、これで十分だと・・・
(フィンランドの生活満足度が世界一高いのは「これで十分」を知っているから?)
⇒アウトドアアクティビティに事欠かないフィンランドらしい、アウトドアご飯の楽しみ方の
心構えを教えられた気がする
(わたくしも、日本のキャンプは殆どが1泊か2泊なんだから「これで十分」の心構えで???
ホントは作るのがめんどーで???いつもシンプルな焼き肉と鍋だけです
)・ペルー(クスコから車で2時間の高地オクラ村の一家)
⇒ペルーはジャガイモの原産地で数千種類あると言われている
⇒訪問した6月は収穫期で畑で堀りたて各種をワティア(土焼き芋)にして食べた(略)
⇒仕事終わりに枯草混じりの土を被せておけば翌日も土焼き芋ができるので畑への弁当は不要
⇒芋は洗わず調理でき鍋も水も食器も不要で、余ればポケットに入れて持ち帰れる
⇒標高4000mで米を炊けば(88度で沸騰するので)芯が残るが芋なら60度前後で澱粉が固化する
⇒インカ帝国の繫栄もジャガイモがなければ成り立たなかったはず
・ヨルダン(ワディ・ラム沙漠の四角いテントに住むベドウィン一家)
⇒砂漠で枯れた小枝を集めて焚き火をして砂を熱し、灰を丁寧に崩して平らにする
⇒その上に鍋で水と塩で練った小麦粉を丸く伸ばし、上に熱い砂と灰を被せる
⇒15分ほどでひっくり返し、さらに10分ほどでパン(アルブード)が完成する(略)
⇒枯草の上に置き棒で叩いて灰と砂を落とし、こすって焦げを落として手で割って食べる
⇒これがオーブンも窯も使わない砂漠のパンの焼き方
・ウズベキスタン(サマルカンドの一家)
⇒大学生たちとバスで1時間ほどの郊外にある「ピクニック場」に行った
⇒森の中に一段高く整地したピクニック場があり、そこへ各自が持参した絨毯を広げる
⇒ドラム缶を切ったような窯が設置されており巨大中華鍋のようなカザンで女子が調理する
⇒大量の油にジャガイモ、牛肉と入れるが盛大に油が飛び散る⇒屋外でしかできない料理
⇒カザン(鍋)で作るカバブ(肉料理)なのでカザンカバブ(略)
(タンドール窯で焼くタンドールチキンと同じか)
⇒大皿に盛り、作ったサラダと持参したパンと自家製コンポートの瓶詰で食べた
⇒絨毯も食器もフォークもふだん家で使っているものを持参していた
⇒帰宅後の夕食は牛肉とジャガイモの煮物でおいしかったが、あの豪快に油を飛ばした
アウトドア飯とは全くの別物で、帰国後にも真似してみたが遠く及ばなかった
・インド(ミャンマーとの国境に接するナガランド州に多いアジア系の一家)
⇒街から車で30分の「ファーム」へ
⇒畑以外に動物エリアも宿泊小屋もあり「ファームステイ」も考えて開発中とのこと
⇒川魚に乾燥唐辛子・粉唐辛子・発酵タケノコ・バナナのつぼみなどをまぶし青唐辛子も
⇒裏の竹林で採ってきた1mほどの竹3本に詰めてバナナの葉で栓をする
⇒焚火の囲炉裏に立てかけ2時間で「ポンセン」が完成(略)
(竹の水分で蒸し焼きになるので水は不要)
⇒手でご飯と混ぜて食べるが、ナガ人はキリスト教なので左利きの人は左手で食べる
(留学生のお弁当⇒6人6地域6種類⇒略)
(世界で進化する日本のおにぎり)
⇒動画で見るコンビニ三角おにぎりが日本のイメージになっており最近は海苔巻きも多い
⇒ただし米にも味が付いてて米粒がやわらかくてつぶれている
⇒米自体を味わう感覚はなく具材のクッションのイメージ
⇒帰国してセブンイレブンのおにぎりの凛とした粒立ちに息を吞んだ

⇒世界各地のおにぎりは食べ応えもバリエーションもあって好きだが、それらに出会うにつけ、
日本人の米自体のおいしさに対する執着に向き合わされる
(日本で作る世界のお弁当レシピ5種類⇒略)
・・・・・・
わたくしが本書で紹介されてた国や地域で訪れたことがあるのはモンゴルの草原だけで、
15年前にゲルに暮らすご一家を家庭訪問、アーロール(乾燥チーズ)やボルソック(揚げパン)と
バター入りミルクティーで歓迎していただいたのが懐かしいです
まあ、今後は本書で紹介されてた他の地域を訪れることなど、もうないかも知れませんが、
これらの料理を日本で味わえる可能性は残っており、その際に基本の具材や調理法などを
知ってるだけでも、その国や地域出身の人たちと仲良くなれそうです

