その他アウトドア
2023年09月30日
近つ飛鳥・・・
とーとつに前置きが長くなりますが・・・
幼少期からお世話になってた隣人で、わたくしが学生の頃には愛車スバル360での撮影取材に
あちこち同行させてもらい、今は小金井市にお住いの方が所用のため河南町に滞在されてて
「周辺を巡りたいけどクルマがなく、バスもタクシーも運転手不足で」とのことだったので、
ならばせめてもの恩返しにと・・・
はじめての近つ飛鳥博物館と、ひさしぶりの竹内街道資料館を巡ってきた次第
なので今回はスペシャライズドやダホンではなく、新車のスバル・レックスでした
まずは安藤忠雄の設計による近つ飛鳥博物館へ・・・


確かに個性的な建物でした
ま、平日の博物館なので・・・

こんな感じで、のんびりと見学できました
展示物などはネット検索いただくとして、わたくしの琴線に触れた画像のみご紹介



フィギュア







武器と武具




ジオラマ
で、最もわたくしの琴線に触れたのが・・・



この博物館の中心にある仁徳天皇陵の巨大ジオラマでした
なにせ1/150スケールで周辺の陪墳や集落から人の暮らしまで再現してあって・・・








ついつい夢中になりました
古代史に興味がなくてもジオラマ好きには必見の作品ですね
さらに・・・
ジオラマを囲むテーブル上に南海本線・高野線・JR阪和線・阪堺チンチン電車を走らせたら、
まさにNゲージの「堺の鉄道ジオラマ」になるんだけどなあ・・・
ちなみに保存処理された巨大な「修羅」の展示前で、我々二人以外では唯一の来館者から、
「これは何ですか?」と英語で訊かれ「キャリア、ビッグストーンキャリアやね」とか答えて、
ついでに怪しい英語風大阪語で仁徳天皇陵の説明とかをして話が弾みました
訊けば日本の古代史が好きで韓国から来られたそうで、今回は橿原神宮に4日間の滞在、
オススメを訊かれ「サカイシティミュージアムかオオサカヒストリアルミュージアムやね」
とか紹介、さっそくスマホで検索して堺市立博物館に行ってみますとのことでした
あそこなら仁徳天皇陵はじめ古墳も近いし築造過程の展示もあって楽しめそうですね
と、朝からまったり見学して気づけば昼を過ぎてたので、館内の軽食喫茶へ・・・


コースターにも埴輪が・・・って飲む前に撮ればよいものを・・・
さらにデザートメニューには・・・

前方後円墳がいっぱいでした
我々以外では唯一の入館者だった韓国からの彼女も、ここでサンドイッチを食べてましたが、
館のスタッフが呼びに来て、食べてる途中で慌てて走り去っていきました
おそらく本数の少ない路線バスが来たのを知らせてくれたのでしょうね
無事に堺市立博物館まで行けたのかなあ・・・
と、食後はまったりと退館・・・

入館時とは、びみょーに雰囲気が変わってました
で、周辺の旧街道や古墳などにも寄りたかったのですが、まだ新車のナビに慣れておらず、
何とか入力できた道の駅「近つ飛鳥の里・太子」にスバル・レックスを置いて・・・
(隣人は飛鳥ワイン各種を土産に買っておられましたがロードバイクとかでは無理ですね
)


過去には何度もスペシャライズド・ルーベSL4やブリヂストン・シルヴァF8Fを駆って、
ひいひいと上がってきた旧竹内街道を、今回はまったりと歩いて・・・


竹内街道歴史資料館へ
こちらも平日なのでまったり見学できましたが、内部は撮影禁止だし何度か紹介してるので
詳しくはネット検索してくださいね
と、半日ではクルマでも廻りきれないほどの史跡が集中する近つ飛鳥でした
しかもクルマだけだと旧街道や古い集落の風情を楽しむことはできません
やはりポタリングやハイキングでまったりと廻るのが一番ですね・・・
ところが今のわたくしには、その気力と体力が・・・ううっ
幼少期からお世話になってた隣人で、わたくしが学生の頃には愛車スバル360での撮影取材に
あちこち同行させてもらい、今は小金井市にお住いの方が所用のため河南町に滞在されてて
「周辺を巡りたいけどクルマがなく、バスもタクシーも運転手不足で」とのことだったので、
ならばせめてもの恩返しにと・・・
はじめての近つ飛鳥博物館と、ひさしぶりの竹内街道資料館を巡ってきた次第
なので今回はスペシャライズドやダホンではなく、新車のスバル・レックスでした

まずは安藤忠雄の設計による近つ飛鳥博物館へ・・・


確かに個性的な建物でした
ま、平日の博物館なので・・・

こんな感じで、のんびりと見学できました
展示物などはネット検索いただくとして、わたくしの琴線に触れた画像のみご紹介



フィギュア







武器と武具




ジオラマ
で、最もわたくしの琴線に触れたのが・・・



この博物館の中心にある仁徳天皇陵の巨大ジオラマでした
なにせ1/150スケールで周辺の陪墳や集落から人の暮らしまで再現してあって・・・








ついつい夢中になりました
古代史に興味がなくてもジオラマ好きには必見の作品ですね
さらに・・・
ジオラマを囲むテーブル上に南海本線・高野線・JR阪和線・阪堺チンチン電車を走らせたら、
まさにNゲージの「堺の鉄道ジオラマ」になるんだけどなあ・・・

ちなみに保存処理された巨大な「修羅」の展示前で、我々二人以外では唯一の来館者から、
「これは何ですか?」と英語で訊かれ「キャリア、ビッグストーンキャリアやね」とか答えて、
ついでに怪しい英語風大阪語で仁徳天皇陵の説明とかをして話が弾みました
訊けば日本の古代史が好きで韓国から来られたそうで、今回は橿原神宮に4日間の滞在、
オススメを訊かれ「サカイシティミュージアムかオオサカヒストリアルミュージアムやね」
とか紹介、さっそくスマホで検索して堺市立博物館に行ってみますとのことでした
あそこなら仁徳天皇陵はじめ古墳も近いし築造過程の展示もあって楽しめそうですね
と、朝からまったり見学して気づけば昼を過ぎてたので、館内の軽食喫茶へ・・・


コースターにも埴輪が・・・って飲む前に撮ればよいものを・・・
さらにデザートメニューには・・・

前方後円墳がいっぱいでした

我々以外では唯一の入館者だった韓国からの彼女も、ここでサンドイッチを食べてましたが、
館のスタッフが呼びに来て、食べてる途中で慌てて走り去っていきました
おそらく本数の少ない路線バスが来たのを知らせてくれたのでしょうね
無事に堺市立博物館まで行けたのかなあ・・・
と、食後はまったりと退館・・・

入館時とは、びみょーに雰囲気が変わってました
で、周辺の旧街道や古墳などにも寄りたかったのですが、まだ新車のナビに慣れておらず、
何とか入力できた道の駅「近つ飛鳥の里・太子」にスバル・レックスを置いて・・・
(隣人は飛鳥ワイン各種を土産に買っておられましたがロードバイクとかでは無理ですね



過去には何度もスペシャライズド・ルーベSL4やブリヂストン・シルヴァF8Fを駆って、
ひいひいと上がってきた旧竹内街道を、今回はまったりと歩いて・・・


竹内街道歴史資料館へ
こちらも平日なのでまったり見学できましたが、内部は撮影禁止だし何度か紹介してるので
詳しくはネット検索してくださいね
と、半日ではクルマでも廻りきれないほどの史跡が集中する近つ飛鳥でした
しかもクルマだけだと旧街道や古い集落の風情を楽しむことはできません
やはりポタリングやハイキングでまったりと廻るのが一番ですね・・・
ところが今のわたくしには、その気力と体力が・・・ううっ

2023年09月12日
住吉公園と住吉さんと謎の・・・
とーとつですが・・・
前回記事のヤマト王権とも関連がある・・・かも知れない・・・
「住吉公園と住吉さん~住吉大社から生まれて150年~」のご紹介であります
今回は読後メモだけでなく綿密な?現地調査も行い、本邦初公開かもの貴重な画像?も撮影、
記事の末尾に掲載してますので、ぜひ最後までご覧くださいね
本の表紙

奥付

今月7日の発行、まさに最新刊であります
執筆者一覧

例によって目次のみの紹介


目次が住吉大社の太鼓橋になってました
以下、わたくしが興味を持った部分のランダムなメモで、(カッコ内)は感想なり補足です
・明治6年(1873年)1月の太政官府達(3府へ)により8月に住吉大社の全域を公園地に指定
→9月に規則を制定して開設(12月には浜寺公園も開設)→大阪府で最初の公園となった
→明治8年10月には境内地、民有地、公園地に分けられた
・住吉大社周辺は江戸時代から紀州街道沿いに料亭が並ぶ繁華街だったが、明治時代になり
移動手段が駕籠から鉄道や人力車になって街道沿いは衰退、逆に公園内が有楽地になった
→温泉(潮湯)旅館、茶店、料理茶屋、料亭などが75軒もひしめく大歓楽街に・・・
(もともと住吉あたりの海岸は潮干狩の名所でもありアウトドア宴会や舟遊び、住吉大社への
参詣名目でインドア宴会を楽しむ、関西の大リゾート地だったのでありますね
)
・公園内に仲居、芸妓、ヤトナなどが出入りして風紀が大いに乱れた
→大正11年(1922年)には公園の隣接地に芸妓指定地を定めた
→大正13年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えた
→大正11年に公園の西側に住𠮷新地が指定され、昭和9年には芸妓指定地からも移転した
→その後、住𠮷新地は戦災を経て再開したが昭和33年に(売春防止法施行・赤線廃止により)
花街としての活動は消滅した
(わたくしが小学生の頃の住𠮷新地には、いかにも遊郭らしい雰囲気を残した木造建物が、
ビジネス旅館などになってはいたものの、まだまだ残ってました)
・明治18年(1885年)に阪堺鉄道(現・南海本線)が開通した
→開業当初は難波から大和川の北岸までの蒸気機関車による運行
→開業当初の停車場は難波・天下茶屋・住吉・大和川の4駅
→蒸気機関車の駅間は8km以上が効率的だったが沿線に人口が多く3km程度にした
→それでも不便だったので電化後は次々と駅が追加され、新しい粉浜駅と住吉公園駅の
中間にあった、開業当初の住吉駅は1917年に廃止された
(この100年前に廃止された住吉駅の痕跡を今回探りました)
(住吉公園駅は1979年に住吉大社駅に名称変更したけど昔は公園がメインだったんですね)
・住之江公園との関係
→大正9年(1920年)東京市から和歌山に至る国道(1号線経由)が路線認定される
(当初の路線名は国道16号線で後に国道26号線に名称変更)
→住吉公園が南海と国道で3つに分断されるので分断部分を払下げ、その資金も使って
新公園を建設し、その間を公園道路で結ぶことに
→住之江公園は昭和5年(1930年)に竣工したが公園道路は当初は高燈籠までだった
(この道路の園内部分を材木川と思い込んでたのを今回、現地で確認した次第です)
(住之江公園まで今は普通の道路で、替わりに?細井川・住吉川の一部が遊歩道になり、
本来の公園道路から住之江公園へ渡る橋だけが人道橋になってますね)
・住吉公園の児童遊園
→戦時中は高射砲陣地、鉄類回収、農園化、樹木の燃料化などで荒廃した
→戦後に電気自転車・電気自動車・メリーパーク・メリーロード・オーシャンウェーブなど
当時の日本では考えられない遊具が整備されており米駐留軍の関与が考えられるが詳細は不明
(このオーシャンウェーブ、三角錐のジャングルジムのようなものが中央の鉄塔に吊るして
ある感じの画像がありましたが、わたくしがよく覚えてるのは同じ位置にあった後継機種で、
球体のジャングルジムが中央鉄塔を芯にして、けっこう高速回転するタイプでした
中に乗るか、外で漕ぐ(回す)か、一人なら外で漕いでから乗り込むのですが、数人でめいっぱい
漕ぐ(回す)と、外で鉄棒に掴まってると身体が水平になって、やがて遠くへ飛ばされるし、
中に乗ってても、やがては放り出されるので、どこまで耐えられるかを競い合うとゆー、
まるで宇宙飛行士の訓練のような、低学年には極めて危険な遊具でした
)
・住吉の松
→古来の歌学では「住吉の松」は歌枕とされ神聖視されていた
→古来の絵画では白砂青松風景は「住吉模様」と呼ばれ日本の風景の原型とされた
→「あられ松原」は上町台地沿いの海岸線の松林
→「住吉の岸の姫松」は和歌や文学の世界で神格化された
→姫松一帯は住吉大社の飛地境内として保存されていたが明治以降に南部は民有地になり、
北部は保安林→クボタ創業家の邸宅→晴明丘南小学校になっている地域
→一帯の東端に上町線「姫松」停留所が設けられ住吉高校前などにも痕跡が残る
・住吉太神宮秘記(中世の説話で記紀とは異なる住吉大神の鎮座伝承)
→10代崇神天皇が「津守の浦に天より光が射す」夢を見て使者を遣わして確認したところ、
一晩のうちに松が三本生えており、これこそ住吉大神の降臨した松であると神木として崇めた
→影向(ようごう)の松、相生の松→松への憧憬と住吉信仰→謡曲高砂などへ
・上町線「神ノ木」停留所も神職の祖先を祀った神木の老松に由来している
・平安時代には天満砂州ができ松も生えたが平安前期までは「浜」ではなく「岸」だった
→すみのえの岸による波よるさへや→上町台地の古代の崖にふさわしい表現
→新古今集など鎌倉時代に近づくと「浜」の歌ばかりになる
・難波津からは難波大道、磯歯津道を経て、住吉津からは磯歯津道を経て奈良の都へ
→古代の海岸線では住吉津が重要だった
(伝承では住吉海神が住吉の津に祀られたのは、纏向でのヤマト王権成立とほぼ同時期、
倭国の北九州の津と山口の津に祀られていた海神が東遷したとすれば・・・わくわく
)
・明治4年(1871年)住吉神宮寺の堂塔徹却(神仏分離・廃仏毀釈)
(その後も広大な神宮寺跡は長年放置されていたようで、池泉回遊式の壮大な庭園跡などは、
わたくしが中学生の頃まで石組みが残ってて、よく戦争ごっことかで遊んでました)
云々・・・
ご近所の古い神社と公園つーこともあり興味津々、全編を大いに楽しみました
公園史・鉄道史・行楽史などに興味のある方にもオススメの一冊です
つーことで・・・
この本にも記載されてて、以前から知りたかった材木川と住吉駅の痕跡について、今回、
綿密なる???現地調査をしてきましたので、ご報告をば・・・
・住吉公園は東を南海本線、西を国道26号線、南を細井川(細江川)、北を材木川に囲まれた範囲
・わたくしは公園内の北部を通る道路が材木川の跡だと思い込んでたのですが、本書によれば、
この道路は住吉公園と住之江公園とを結ぶ「公園道路」として戦前に整備されたもので、
材木川は戦後も川として存在していた、とのことでした
・わたくしには全く川の記憶がなかったので、ほぼ同世代の粉浜商店街のK田さんに訊けば、
→昔は商店街の南端に幅2mほどのドブ川が流れていて、そこに石橋が架かっていた
→大雨の後は危ないので橋を渡ってはならないと、よく親から言われていた
→そのドブ川も石橋も、いつの間にかなくなっていた
→商店街から東(上流)には川の記憶がなく鉄道敷だったので、昔から暗渠だったのではないか
・・・とのことでした
(K田さんの記憶復活により9.13追記修正です
)
・小学6年の自主研究で「住吉公園駅の踏切について」調べており
、駅の北端(商店街の南端)
にあったドブ川は、線路の下を東西に流れていたことを思い出した
・第2室戸台風で氾濫していたので、少なくとも中学生の頃までは存在していたはず
・・・とのことでした
(わたくしは古い地図から線路の手前で北上していたと思ってましたが、はてさて・・・)
つーことで・・・
こちらが住吉公園の汐掛道から西へ出た国道26号線の交差点で、左が移転再建された高燈籠

ひとつ先の右折待ちしている交差点から右(東)が材木川だと思ってましたが、川跡にしては
西側に全く痕跡がないのが不思議と悩んでたのですが、もうひとつ北にある・・・

姫路ラー麺「ずんどう屋」駐車場の向かいあたりから東へ入る狭い道路が・・・

ぐねぐねと曲がってて、いかにも川筋の跡らしい道路です
しかも、この道路は26号線から西にも十三間堀川(今は阪神高速)まで続いてました
この道路を東(上流)へ進んで・・・

このあたりが公園内道路と最も近い部分で、ここにも石橋が架かっていたとのこと
で、こちらが公園内から見た様子

中央は材木川に架かっていた石橋の親柱でしょうが、今は公園内道路の内側にあります
本来は緑色のフェンスあたりにあったのでしょうが、わたくしは、この親柱の位置から
横断歩道のある道路が材木川だったと思い込んでいたようです
せっかくなので、さらに上流部へ・・・

左が材木川だった道路、右が公園内道路

いかにも川筋らしい曲がり方です
(公園内道路も同じように曲がってるので紛らわしいのですが・・・
)
中央下に見える集水桝は地下にある材木川へ繋がっているのでしょう
さらに進み、こちらが粉浜商店街の南端部

ここにも左右(南北)に石橋が架かってて、その先からは南海本線(現在は高架)に沿う形に
なるので、昔から暗渠だったのではないか、とのことでした
(追記修正→少なくとも第2室戸台風までは線路の下を東西に流れていたとも・・・)
こちらが粉浜商店街側・・・


こちらが材木川の上流側


古い地図では材木川はここからしばらく南海本線に沿う形で北上してるので・・・
(追記→線路の下を東西に流れていたとの記憶も・・・)

このあたりを流れていたことになるはずです
(追記→上記の記憶どおりなら線路の下を東に潜ってから北上してたことになります)
(右が南海本線の高架下、左が粉浜商店街東側店舗の裏です)
ともかく、これで長年の疑問のひとつが解決しました
粉浜商店街のK田さん、ありがとうございました
(9月23日さらに材木川についての追記
)
住吉大社の北隣、一運寺の前にあった案内板に本日気づきました

飛鳥への小径・・・住吉津から飛鳥へと続く古代の磯歯津路であります
ま、住吉大社あたりには何本もの古い小径があって、どの小径からも遺物が出てくるので、
未だに最古の磯歯津路は特定されていないようですが・・・
で、説明文にあった、なお書き以下の部分・・・

そう、一運寺の北側に沿った道は、もともと万代池から十三間(堀)川に流れる地溝だった!!!
で、1802年に住吉大社が焼失した際に、地溝を開削して再建のための材木を運んだことから、
材木川とも言われるようになったと!!!
そうだったのか、これで名前の由来についても上流部についても判明・・・とはいいつつ・・・
万代池から十三間(堀)川まで流れていたとなると・・・
①水の出入りのない池と言われてきた万代池から流れ出る川(地溝)があった?
②一運寺の北沿いから阪堺・上町線あたりまでは川筋を想像できるけど、さらに上流側、
万代池までの川筋(地溝)はどこを流れていたのか?
③逆に一運寺から下流側、粉浜商店街の南端までの川筋はどこを流れていたのか?
(9月24日、さらさらに万代池の近くに住む古老の証言による追記)
①万代池の南東に大領池(東池と西池で今は病院と公園)があり万代池と繋がっていた
②大雨でも各池が溢れることはなく、流れ出る川(地溝)はあったはず
とのことでした
(9月29日、さらさらさらにK田さん同級生のK浦さんに案内いただいての追記)
「今も南海本線から東に延びる川筋は残っている」とのことで現地案内いただきました

こちらが粉浜商店街の南端から東へ向かう材木川の川筋跡

先には南海本線の高架下を横切るかたちで道があります

その先は民有地になってるのですが、右側にある・・・

阪堺・上町線の住吉公園駅への延伸線跡地の先に道が続いています
で、ここには、

延伸線跡を横切るかたちでグレーチングが並べてあり・・・
その下には・・・

はっきりと古い川筋跡がありました!!!
さらに地上駅の北側にあった地下道は大雨の際にはいつも冠水してたとのことでしたから、
材木川は南海本線、上町線を潜って東に延びていたことが確認できました!!!
K田さんの同級生のK浦さん、現地案内までありがとうございました
もちろん、その先に見えるのは・・・

紀州街道と住吉大社であります
紀州街道を渡れば住吉大社の側溝(掘割)に合流・・・

排水溝のような石組みもありますが一運寺からの流れを考えると・・・

このあたりまでは北上していたはず・・・
でも、ここから先は・・・

北や東や北東へ至る道が何本もあって、どの道が川筋跡なのかは特定できませんでした
大海神社へ上る石段下にあった・・・



この道と北へ向かう空き地も怪しいし・・・
さらに一運寺の北側を流れてきて・・・


上町台地からの急坂を、どのように流れていたのか・・・
と、さらにさらに興味は尽きなくなったのですが・・・
もうひとつの疑問だった・・・
・後にできた粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の間にあって100年前に廃止された住吉駅
についても、駅の痕跡が分かる場所があると、K田さんから教えていただきました
今は知る人も少ないとのことでしたので、廃線好きには貴重な画像かもです
左が南海本線の高架下で、南から北へ南海本線東側の道路を撮ったもの

粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の中間あたり、この部分だけ道路が盛り上がってます
そう、

ここが開業当初の住吉駅の駅舎とホームがあった場所だそうで、線路跡にできた駐車場や、
その西側の粉浜商店街とは、このあたりだけ0.5m~1mほど高くなってました
で、こちらがウィキペディアにあった住吉駅の古写真・・・

単線で片側だったはずの駅舎とホームの部分を、客車の乗降口に合わせ盛土してるように
見えますので、この古写真が住𠮷駅の南東から北西に向けて撮影されたものだとすると、
駅のあった場所は、ここで間違いないでしょう
この付近には、紀州街道や住吉大社などに抜ける狭い旧道が何本か残っているのですが、
おそらく人口の多かった旧村の最寄に参詣駅ができたからなんでしょうね
それにしても・・・
100年以上も前に廃止された駅の痕跡が、今も道路の高低差として残っているなんて・・・
確かに地元でも、今は知る人は少ないのかも知れません
ええ、わたくしも知らなかったし、とても貴重な情報でした
と・・・
これで長年の疑問のうち二つが解決したので、まずはめでたしめでたし・・・
ただまあ・・・
前回記事のヤマト王権とも関連がある・・・かも知れない・・・
「住吉公園と住吉さん~住吉大社から生まれて150年~」のご紹介であります
今回は読後メモだけでなく綿密な?現地調査も行い、本邦初公開かもの貴重な画像?も撮影、
記事の末尾に掲載してますので、ぜひ最後までご覧くださいね
本の表紙

奥付

今月7日の発行、まさに最新刊であります
執筆者一覧

例によって目次のみの紹介


目次が住吉大社の太鼓橋になってました

以下、わたくしが興味を持った部分のランダムなメモで、(カッコ内)は感想なり補足です
・明治6年(1873年)1月の太政官府達(3府へ)により8月に住吉大社の全域を公園地に指定
→9月に規則を制定して開設(12月には浜寺公園も開設)→大阪府で最初の公園となった
→明治8年10月には境内地、民有地、公園地に分けられた
・住吉大社周辺は江戸時代から紀州街道沿いに料亭が並ぶ繁華街だったが、明治時代になり
移動手段が駕籠から鉄道や人力車になって街道沿いは衰退、逆に公園内が有楽地になった
→温泉(潮湯)旅館、茶店、料理茶屋、料亭などが75軒もひしめく大歓楽街に・・・

(もともと住吉あたりの海岸は潮干狩の名所でもありアウトドア宴会や舟遊び、住吉大社への
参詣名目でインドア宴会を楽しむ、関西の大リゾート地だったのでありますね

・公園内に仲居、芸妓、ヤトナなどが出入りして風紀が大いに乱れた

→大正11年(1922年)には公園の隣接地に芸妓指定地を定めた
→大正13年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えた

→大正11年に公園の西側に住𠮷新地が指定され、昭和9年には芸妓指定地からも移転した
→その後、住𠮷新地は戦災を経て再開したが昭和33年に(売春防止法施行・赤線廃止により)
花街としての活動は消滅した

(わたくしが小学生の頃の住𠮷新地には、いかにも遊郭らしい雰囲気を残した木造建物が、
ビジネス旅館などになってはいたものの、まだまだ残ってました)
・明治18年(1885年)に阪堺鉄道(現・南海本線)が開通した
→開業当初は難波から大和川の北岸までの蒸気機関車による運行
→開業当初の停車場は難波・天下茶屋・住吉・大和川の4駅
→蒸気機関車の駅間は8km以上が効率的だったが沿線に人口が多く3km程度にした
→それでも不便だったので電化後は次々と駅が追加され、新しい粉浜駅と住吉公園駅の
中間にあった、開業当初の住吉駅は1917年に廃止された
(この100年前に廃止された住吉駅の痕跡を今回探りました)
(住吉公園駅は1979年に住吉大社駅に名称変更したけど昔は公園がメインだったんですね)
・住之江公園との関係
→大正9年(1920年)東京市から和歌山に至る国道(1号線経由)が路線認定される
(当初の路線名は国道16号線で後に国道26号線に名称変更)
→住吉公園が南海と国道で3つに分断されるので分断部分を払下げ、その資金も使って
新公園を建設し、その間を公園道路で結ぶことに
→住之江公園は昭和5年(1930年)に竣工したが公園道路は当初は高燈籠までだった
(この道路の園内部分を材木川と思い込んでたのを今回、現地で確認した次第です)
(住之江公園まで今は普通の道路で、替わりに?細井川・住吉川の一部が遊歩道になり、
本来の公園道路から住之江公園へ渡る橋だけが人道橋になってますね)
・住吉公園の児童遊園
→戦時中は高射砲陣地、鉄類回収、農園化、樹木の燃料化などで荒廃した
→戦後に電気自転車・電気自動車・メリーパーク・メリーロード・オーシャンウェーブなど
当時の日本では考えられない遊具が整備されており米駐留軍の関与が考えられるが詳細は不明
(このオーシャンウェーブ、三角錐のジャングルジムのようなものが中央の鉄塔に吊るして
ある感じの画像がありましたが、わたくしがよく覚えてるのは同じ位置にあった後継機種で、
球体のジャングルジムが中央鉄塔を芯にして、けっこう高速回転するタイプでした
中に乗るか、外で漕ぐ(回す)か、一人なら外で漕いでから乗り込むのですが、数人でめいっぱい
漕ぐ(回す)と、外で鉄棒に掴まってると身体が水平になって、やがて遠くへ飛ばされるし、
中に乗ってても、やがては放り出されるので、どこまで耐えられるかを競い合うとゆー、
まるで宇宙飛行士の訓練のような、低学年には極めて危険な遊具でした

・住吉の松
→古来の歌学では「住吉の松」は歌枕とされ神聖視されていた
→古来の絵画では白砂青松風景は「住吉模様」と呼ばれ日本の風景の原型とされた
→「あられ松原」は上町台地沿いの海岸線の松林
→「住吉の岸の姫松」は和歌や文学の世界で神格化された
→姫松一帯は住吉大社の飛地境内として保存されていたが明治以降に南部は民有地になり、
北部は保安林→クボタ創業家の邸宅→晴明丘南小学校になっている地域
→一帯の東端に上町線「姫松」停留所が設けられ住吉高校前などにも痕跡が残る
・住吉太神宮秘記(中世の説話で記紀とは異なる住吉大神の鎮座伝承)
→10代崇神天皇が「津守の浦に天より光が射す」夢を見て使者を遣わして確認したところ、
一晩のうちに松が三本生えており、これこそ住吉大神の降臨した松であると神木として崇めた
→影向(ようごう)の松、相生の松→松への憧憬と住吉信仰→謡曲高砂などへ
・上町線「神ノ木」停留所も神職の祖先を祀った神木の老松に由来している
・平安時代には天満砂州ができ松も生えたが平安前期までは「浜」ではなく「岸」だった
→すみのえの岸による波よるさへや→上町台地の古代の崖にふさわしい表現
→新古今集など鎌倉時代に近づくと「浜」の歌ばかりになる
・難波津からは難波大道、磯歯津道を経て、住吉津からは磯歯津道を経て奈良の都へ
→古代の海岸線では住吉津が重要だった
(伝承では住吉海神が住吉の津に祀られたのは、纏向でのヤマト王権成立とほぼ同時期、
倭国の北九州の津と山口の津に祀られていた海神が東遷したとすれば・・・わくわく

・明治4年(1871年)住吉神宮寺の堂塔徹却(神仏分離・廃仏毀釈)
(その後も広大な神宮寺跡は長年放置されていたようで、池泉回遊式の壮大な庭園跡などは、
わたくしが中学生の頃まで石組みが残ってて、よく戦争ごっことかで遊んでました)
云々・・・
ご近所の古い神社と公園つーこともあり興味津々、全編を大いに楽しみました
公園史・鉄道史・行楽史などに興味のある方にもオススメの一冊です
つーことで・・・
この本にも記載されてて、以前から知りたかった材木川と住吉駅の痕跡について、今回、
綿密なる???現地調査をしてきましたので、ご報告をば・・・

・住吉公園は東を南海本線、西を国道26号線、南を細井川(細江川)、北を材木川に囲まれた範囲
・わたくしは公園内の北部を通る道路が材木川の跡だと思い込んでたのですが、本書によれば、
この道路は住吉公園と住之江公園とを結ぶ「公園道路」として戦前に整備されたもので、
材木川は戦後も川として存在していた、とのことでした
・わたくしには全く川の記憶がなかったので、ほぼ同世代の粉浜商店街のK田さんに訊けば、
→昔は商店街の南端に幅2mほどのドブ川が流れていて、そこに石橋が架かっていた
→大雨の後は危ないので橋を渡ってはならないと、よく親から言われていた
→そのドブ川も石橋も、いつの間にかなくなっていた
→商店街から東(上流)には川の記憶がなく鉄道敷だったので、昔から暗渠だったのではないか
・・・とのことでした
(K田さんの記憶復活により9.13追記修正です

・小学6年の自主研究で「住吉公園駅の踏切について」調べており

にあったドブ川は、線路の下を東西に流れていたことを思い出した
・第2室戸台風で氾濫していたので、少なくとも中学生の頃までは存在していたはず
・・・とのことでした
(わたくしは古い地図から線路の手前で北上していたと思ってましたが、はてさて・・・)
つーことで・・・
こちらが住吉公園の汐掛道から西へ出た国道26号線の交差点で、左が移転再建された高燈籠

ひとつ先の右折待ちしている交差点から右(東)が材木川だと思ってましたが、川跡にしては
西側に全く痕跡がないのが不思議と悩んでたのですが、もうひとつ北にある・・・

姫路ラー麺「ずんどう屋」駐車場の向かいあたりから東へ入る狭い道路が・・・

ぐねぐねと曲がってて、いかにも川筋の跡らしい道路です
しかも、この道路は26号線から西にも十三間堀川(今は阪神高速)まで続いてました
この道路を東(上流)へ進んで・・・

このあたりが公園内道路と最も近い部分で、ここにも石橋が架かっていたとのこと
で、こちらが公園内から見た様子

中央は材木川に架かっていた石橋の親柱でしょうが、今は公園内道路の内側にあります
本来は緑色のフェンスあたりにあったのでしょうが、わたくしは、この親柱の位置から
横断歩道のある道路が材木川だったと思い込んでいたようです
せっかくなので、さらに上流部へ・・・

左が材木川だった道路、右が公園内道路

いかにも川筋らしい曲がり方です
(公園内道路も同じように曲がってるので紛らわしいのですが・・・

中央下に見える集水桝は地下にある材木川へ繋がっているのでしょう
さらに進み、こちらが粉浜商店街の南端部

ここにも左右(南北)に石橋が架かってて、その先からは南海本線(現在は高架)に沿う形に
なるので、昔から暗渠だったのではないか、とのことでした
(追記修正→少なくとも第2室戸台風までは線路の下を東西に流れていたとも・・・)
こちらが粉浜商店街側・・・


こちらが材木川の上流側


古い地図では材木川はここからしばらく南海本線に沿う形で北上してるので・・・
(追記→線路の下を東西に流れていたとの記憶も・・・)

このあたりを流れていたことになるはずです
(追記→上記の記憶どおりなら線路の下を東に潜ってから北上してたことになります)
(右が南海本線の高架下、左が粉浜商店街東側店舗の裏です)
ともかく、これで長年の疑問のひとつが解決しました
粉浜商店街のK田さん、ありがとうございました

(9月23日さらに材木川についての追記

住吉大社の北隣、一運寺の前にあった案内板に本日気づきました

飛鳥への小径・・・住吉津から飛鳥へと続く古代の磯歯津路であります
ま、住吉大社あたりには何本もの古い小径があって、どの小径からも遺物が出てくるので、
未だに最古の磯歯津路は特定されていないようですが・・・
で、説明文にあった、なお書き以下の部分・・・

そう、一運寺の北側に沿った道は、もともと万代池から十三間(堀)川に流れる地溝だった!!!
で、1802年に住吉大社が焼失した際に、地溝を開削して再建のための材木を運んだことから、
材木川とも言われるようになったと!!!
そうだったのか、これで名前の由来についても上流部についても判明・・・とはいいつつ・・・
万代池から十三間(堀)川まで流れていたとなると・・・
①水の出入りのない池と言われてきた万代池から流れ出る川(地溝)があった?
②一運寺の北沿いから阪堺・上町線あたりまでは川筋を想像できるけど、さらに上流側、
万代池までの川筋(地溝)はどこを流れていたのか?
③逆に一運寺から下流側、粉浜商店街の南端までの川筋はどこを流れていたのか?
(9月24日、さらさらに万代池の近くに住む古老の証言による追記)
①万代池の南東に大領池(東池と西池で今は病院と公園)があり万代池と繋がっていた
②大雨でも各池が溢れることはなく、流れ出る川(地溝)はあったはず
とのことでした
(9月29日、さらさらさらにK田さん同級生のK浦さんに案内いただいての追記)
「今も南海本線から東に延びる川筋は残っている」とのことで現地案内いただきました

こちらが粉浜商店街の南端から東へ向かう材木川の川筋跡

先には南海本線の高架下を横切るかたちで道があります

その先は民有地になってるのですが、右側にある・・・

阪堺・上町線の住吉公園駅への延伸線跡地の先に道が続いています
で、ここには、

延伸線跡を横切るかたちでグレーチングが並べてあり・・・
その下には・・・

はっきりと古い川筋跡がありました!!!
さらに地上駅の北側にあった地下道は大雨の際にはいつも冠水してたとのことでしたから、
材木川は南海本線、上町線を潜って東に延びていたことが確認できました!!!
K田さんの同級生のK浦さん、現地案内までありがとうございました

もちろん、その先に見えるのは・・・

紀州街道と住吉大社であります
紀州街道を渡れば住吉大社の側溝(掘割)に合流・・・

排水溝のような石組みもありますが一運寺からの流れを考えると・・・

このあたりまでは北上していたはず・・・
でも、ここから先は・・・

北や東や北東へ至る道が何本もあって、どの道が川筋跡なのかは特定できませんでした
大海神社へ上る石段下にあった・・・



この道と北へ向かう空き地も怪しいし・・・
さらに一運寺の北側を流れてきて・・・


上町台地からの急坂を、どのように流れていたのか・・・
と、さらにさらに興味は尽きなくなったのですが・・・

もうひとつの疑問だった・・・
・後にできた粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の間にあって100年前に廃止された住吉駅
についても、駅の痕跡が分かる場所があると、K田さんから教えていただきました
今は知る人も少ないとのことでしたので、廃線好きには貴重な画像かもです
左が南海本線の高架下で、南から北へ南海本線東側の道路を撮ったもの

粉浜駅と住吉公園駅(現住吉大社駅)の中間あたり、この部分だけ道路が盛り上がってます
そう、

ここが開業当初の住吉駅の駅舎とホームがあった場所だそうで、線路跡にできた駐車場や、
その西側の粉浜商店街とは、このあたりだけ0.5m~1mほど高くなってました
で、こちらがウィキペディアにあった住吉駅の古写真・・・

単線で片側だったはずの駅舎とホームの部分を、客車の乗降口に合わせ盛土してるように
見えますので、この古写真が住𠮷駅の南東から北西に向けて撮影されたものだとすると、
駅のあった場所は、ここで間違いないでしょう
この付近には、紀州街道や住吉大社などに抜ける狭い旧道が何本か残っているのですが、
おそらく人口の多かった旧村の最寄に参詣駅ができたからなんでしょうね
それにしても・・・
100年以上も前に廃止された駅の痕跡が、今も道路の高低差として残っているなんて・・・
確かに地元でも、今は知る人は少ないのかも知れません
ええ、わたくしも知らなかったし、とても貴重な情報でした

と・・・
これで長年の疑問のうち二つが解決したので、まずはめでたしめでたし・・・

ただまあ・・・
・上町線が最初に高野線を跨いだのはいつだったのか???馬車時代か電車時代か???
2023年09月03日
スバル・レックス納車編
とーとつですが・・・
1月末の発注から7ヶ月待ち、8月末に納車されたスバル・レックスであります
上記リンク記事と似たような絵柄ですが、こちらが納車時の様子・・・

ええ、リモコンキーが少しデカいでしゅが・・・
これは記念撮影用だそうで、せっかくなのでスバル屋さんに撮ってもらった1枚
で、左が8年乗ったXV(クロストレック)、右が新98k号になるレックス・・・
左のデザートカーキとゆーボディカラーがお気に入りだったのですがレックスにはなく、
仕方なく右のナチュラルベージュとゆーのにしました・・・
ま、タミヤカラーでいえばダークイエローからデザートイエローに替わったとゆー感じで、
どちらも砂漠では捕捉されにくい色合いであります・・・
って、8年前と同じく色合いのお話になりましたが、わたくしがクルマで説明できるのは
色合いやデザインといった外見と内装だけなので、今回はそちらだけ・・・
フロントビューは最初に紹介してるので・・・

サイドビュー

リアビュー

かがやく六連星とREXの文字・・・
ま、これがなければダイハツ・ロッキーなんでしゅが・・・
で、操縦席・・・

荷室・・・

ボトムはこのフラット状態から1段下げることもでき、さらに外せば・・・

こんな感じになります
リアシート左を倒した状態

右も倒した状態

フルフラットにはなりませんが斜めにマットを敷けば、何とか寝られるかと・・・
いずれ車中泊仕様も工夫しないとね
フロントシート・・・

リアシート

と、何せこの暑さなので屋外で画像を撮るのは、ここらであきらめました
で、室内に戻り、とりあえず使い方でも・・・


って、こちらもすぐに読むのをあきらめ・・・
とりあえずXVから下ろしてた車載品の整理でも・・・


さてさて、どれを再び車載すればいいのか・・・
あまりに暑いので、ま、今日はここまでにしてと・・・ぷしゅ
(9月4日に実走してみての追記です)
本日、所用で大阪から滋賀まで往復してきました(約250km)
殆どが高速道路走行でしたが、とりあえずのXVと比較した感想です
①さらに小型のSUVになったので、高速でのふらつきが心配だったけど、まあまあ安定しており、
カーブでの路面への吸いつきなどは、むしろ良くなった感じ→新品タイヤになったから???
②8年前のスバル・アイサイトから最新のダイハツ・スマートアシストになったのだけど、
やはり挙動が異なってて、慣れていないのでおろおろした
→特に前車追従モードで上り坂にさしかかった際の反応が遅くなった気がする
→その他の挙動にも(取説を読まないので)おろおろして慣れるまで時間がかかりそう
③水平対向4気筒2000ccから直列3気筒1200ccになったのでパワー不足などを心配してたけど、
エンジン音と追い越し加速と上り坂でやや不満があるものの、まあ許せる範囲か・・・
④電動パーキングブレーキになり前車追従で「停車維持」できるようになったのは便利
⑤ナビを安物にしたからか音声案内のレベルが変えられず、ほぼONかOFFだけみたいで、
ルート案内ONの際には、おねいさんが細かい注意まで延々としゃべり続けてる
⑥ドラレコや全方向カメラを付けたけど、まだ取説を読んでないので便利さは不明
⑦他にも様々なモード切替があるようだけど、今後も取説を読まないだろうから不明のまま
⑧普通車から小型車になり、取り回しはよくなったはずだけど、車両感覚がないので慎重なまま
といった感じですが、さてさて山道や雪道ではどうなんだろ・・・
1月末の発注から7ヶ月待ち、8月末に納車されたスバル・レックスであります
上記リンク記事と似たような絵柄ですが、こちらが納車時の様子・・・

ええ、リモコンキーが少しデカいでしゅが・・・
これは記念撮影用だそうで、せっかくなのでスバル屋さんに撮ってもらった1枚
で、左が8年乗ったXV(クロストレック)、右が新98k号になるレックス・・・
左のデザートカーキとゆーボディカラーがお気に入りだったのですがレックスにはなく、
仕方なく右のナチュラルベージュとゆーのにしました・・・
ま、タミヤカラーでいえばダークイエローからデザートイエローに替わったとゆー感じで、
どちらも砂漠では捕捉されにくい色合いであります・・・
って、8年前と同じく色合いのお話になりましたが、わたくしがクルマで説明できるのは
色合いやデザインといった外見と内装だけなので、今回はそちらだけ・・・
フロントビューは最初に紹介してるので・・・

サイドビュー

リアビュー

かがやく六連星とREXの文字・・・
ま、これがなければダイハツ・ロッキーなんでしゅが・・・
で、操縦席・・・

荷室・・・

ボトムはこのフラット状態から1段下げることもでき、さらに外せば・・・

こんな感じになります
リアシート左を倒した状態

右も倒した状態

フルフラットにはなりませんが斜めにマットを敷けば、何とか寝られるかと・・・
いずれ車中泊仕様も工夫しないとね
フロントシート・・・

リアシート

と、何せこの暑さなので屋外で画像を撮るのは、ここらであきらめました
で、室内に戻り、とりあえず使い方でも・・・


って、こちらもすぐに読むのをあきらめ・・・
とりあえずXVから下ろしてた車載品の整理でも・・・


さてさて、どれを再び車載すればいいのか・・・

あまりに暑いので、ま、今日はここまでにしてと・・・ぷしゅ

(9月4日に実走してみての追記です)
本日、所用で大阪から滋賀まで往復してきました(約250km)
殆どが高速道路走行でしたが、とりあえずのXVと比較した感想です
①さらに小型のSUVになったので、高速でのふらつきが心配だったけど、まあまあ安定しており、
カーブでの路面への吸いつきなどは、むしろ良くなった感じ→新品タイヤになったから???
②8年前のスバル・アイサイトから最新のダイハツ・スマートアシストになったのだけど、
やはり挙動が異なってて、慣れていないのでおろおろした
→特に前車追従モードで上り坂にさしかかった際の反応が遅くなった気がする
→その他の挙動にも(取説を読まないので)おろおろして慣れるまで時間がかかりそう

③水平対向4気筒2000ccから直列3気筒1200ccになったのでパワー不足などを心配してたけど、
エンジン音と追い越し加速と上り坂でやや不満があるものの、まあ許せる範囲か・・・
④電動パーキングブレーキになり前車追従で「停車維持」できるようになったのは便利
⑤ナビを安物にしたからか音声案内のレベルが変えられず、ほぼONかOFFだけみたいで、
ルート案内ONの際には、おねいさんが細かい注意まで延々としゃべり続けてる

⑥ドラレコや全方向カメラを付けたけど、まだ取説を読んでないので便利さは不明

⑦他にも様々なモード切替があるようだけど、今後も取説を読まないだろうから不明のまま

⑧普通車から小型車になり、取り回しはよくなったはずだけど、車両感覚がないので慎重なまま
といった感じですが、さてさて山道や雪道ではどうなんだろ・・・
2023年06月02日
「遊ぶ」が勝ち
まだ台風2号による洪水警報・大雨注意報が発令中の大阪からですが、今回はお外で・・・
「遊ぶ」が勝ち・・・とゆー本のご紹介であります

Playing is a smart way・・・
表紙カバー裏にあった著者紹介

奥付


新装版・前書きからの読後メモ・・・
→英語で陸上競技場はplaygroundだし「スポーツをする」は play○○○○で、スポーツの本質は遊ぶこと
→本を上梓したのが2013年で7年たった今は、さらに効率的に真面目にを求める圧力が強くなっている
→「ホモ・ルーデンス」は僕の愛読書だが、その中に日本人は遊び上手だったという記述がある
→近代化する中で薄れているが、遊ぶ心は眠っているはずなので今一度呼び戻そう
→本書がそのきっかけになってくれたら嬉しい・・・
この新装版発行から3年なので最初の上梓は今から10年前、著者は引き続き活躍されてるようですが、
コロナ禍では運動会やお祭りは中止になって東京五輪は開催、キャンプがブームになったりしました
コロナ後の「遊び」の状況は、今後どのように変化していくのでしょう・・・
わたくしも「ホモ・ルーデンス」は愛読書つーか、若い頃に興味深く読んだ覚えがあります
著者も書いてましたが、文庫版でも分厚い哲学の専門書で確かにとっつきにくかったです
この本には著者なりの「ホモ・ルーデンス」の解釈もあり、さすがにプロ・アスリートの経験と発想だと
感心しましたが、本の内容をすっかり忘れてたので分かりやすい復習にもなりました
子どもの頃に身体を使った遊びをすることと自分で遊びを工夫することは、とても大事なことかも知れません
わたくしは生まれも育ちも大阪の下町ですが、まだ近所に遊べる空き地や廃墟が残ってる時代だったし、
母親の郷が泉州で、当時は田畑や山林もいっぱい残ってたので、けっこう屋外で遊んだほうだと思います
まあ、中学ぐらいまでずっと「秘密基地ごっこ」や「戦争ごっこ」がメインでしたが・・・
今ならサバイバルゲームをフィールド作り、道具作り、ルール作りまで全部自分たちでやってたようなもの
それで高校からは山歩きやキャンプ好きになり、社会人になってからはスキーや川下りなどが加わり、
やがてマルイの電動ガンが登場して一時期はサバイバルゲームに夢中でしたから、幅広い遊びとゆーより
子どもの頃からのアウトドア遊びがずっと続いてたことになりますね
なので球技には全く無縁・・・って、そーいやサバゲーは6mmBB弾を使う球技なのかっ???
以前も書きましたが、サバゲーつーのは究極の「ごっこ遊び」スポーツだと今も思ってます
球技としてはドッジボールに似てますが、はるかにリアルでフィールドも野山の自然地形がメイン、
仲間内ならルールやレギュレーションは自由に決められるけど、それを守ることが絶対条件になり、
あとは自分の役柄になり切って、自分の身体と頭と技術を極限まで使って何とか生き延びる、あるいは
チームとして敵に勝利する、その行為自体を目的として仲間と楽しむので、ハマると夢中になる・・・
これは他の球技にも共通するんでしょうが「ごっこ遊び」スポーツとしては、おそらく究極でしょう
閑話休題
例によって目次のみのご紹介




ハードル選手らしい目次構成であります・・・
「助走路」の読後メモから・・・(以下、正しくは本書をお読みくださいね)
・ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」のまとめ(略)
・僕の競技人生のスタートは「走りたいから走る」喜びだった
→やがて「走ると女の子にモテる」「走れると進学できる」になり、
→「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になる」の世界へ・・・
→とうとう「手に入れたものを失うのが怖い」世界が到来した
→その時すでに「結果を出せるから走る意味がある」というモデル自体が崩れかけていた
→それでも走った時、走る根本には喜びがあることが見えたから、走り続けることができた
→遊びは楽しい→スポーツでも人生でも「遊ぶが勝ち」・・・
「第1ハードル」からの読後メモ・・・
・高校3年で短距離では伸びず400mハードルに転向したが、心の葛藤は大学4年間続いていた
→人生には「仮置き」や「仮決め」があってもいいのではないか
→視点をずらすという、遊びの感覚で余白、ゆるみ、隙間を作ることが大事
・目の前の出来事は一時的な約束事で回っているに過ぎない
→それが全てじゃないと距離を取れば人生は概ね何とかなる
・「遊び」も「演じる」も「競技する」も英語ではPLAY→何かのために走ってはいけない
→外から期待されることに遊びの要素は入りにくい
→自分ではじめた能動的な作業なら遊びの感覚や楽しさを持ちやすい
→遊びには自発性が関係している→自由な行動
→「したい」と「しなくては」の差→義務化すれば楽しくない
→「ねばならない」の過去をいったん「なかったこと」にしてゼロからスタートする・・・
・スランプ脱出には「考えないこと」も重要
→遊びの世界に没頭した瞬間を思い出すこと→ZONEの状態
・当時の日本では選手が「オリンピックを楽しんできます」なんて言えない状態だった
→ところが選手村での海外選手は楽しんでいるように見えた
→結果的に彼らはいきいきと楽しく良い結果を出していた
・ハードルに転向して海外で東洋の無名選手として走る際は演じなくてもいいので楽だった
→また走るのが楽しくなった→日本の陸上界はまだまだ硬い空気だった
・「努力を実現するために人間に先天的に与えられている機能、それが遊び」(ホイジンガ)
→なので楽しさを殺しては絶対にダメ
→これを言葉に出して肯定できたのは、この本(ホモ・ルーデンス)に出合ってから
「第2ハードル」からの読後メモ・・・
・遊びのヘンな感じの身体感覚、トライ&エラーの楽しさ、夢中になるスイッチ・・・(略)
・枠組みの中で遊ぶのが楽しい人も、枠組みそのものを設計するのが楽しい人もいる
→「型にはめる」教え方をするなら「型を脱する」方法も一緒に教えることが絶対に必要
・日本のスポーツ選手の多くが多彩な身体経験をしていない→大学からは伸びない選手が多い
→アメリカでは多種多様なスポーツ経験からアスリートになり、ロシアでは基幹スポーツの体操から
枝葉が伸びていくので逆だが、どちらも自由度や広がりが貴重な体験になっている
・ハンマー投げとゴルフのインパクト、高跳びの踏み切りとサルサの感覚は同じだった
→子どもの頃に自転車に乗った感覚のように運動感覚は風化しない
→運動神経が開発される10歳ぐらいまでに様々に身体を動かす経験を蓄積すること
→それが子どもの遊び
・自転車を漕ぐ時は景色に没頭している方が早く漕げたりする
→これは意識で身体を動かすより感覚で身体が動いてしまうほうがスムースになる一例
・遊びで役を演じている自分を楽しむ→ごっこ遊びや仮面劇
→仮面で自分が消えるということは「こうふるまうべき」という自分の役割も消えること
→他人の目を気にせず熱中できる→ZONEの超集中状態にも通じる
→スポーツ選手は外見や形によって意識・精神も変わることに注意すべき
→試合前に意識的に勝負顔を作る
→昔の宗教的な仮面や顔面ペイントと同じでトランス状態や別人格のきっかけになる
・役割そのものを遊ぶということは日本人が得意なジャンルかも
→落語のように演じ分けることも得意で、関係性が変わってもあまり気にしない
→そのタイミングを上手に読み切ることが求められる→「空気を読む」
→ツイッターなどで一人あたりのアカウント数が多いのも日本の特徴で、欧米などとは逆
→演技的、多重人格的な感性は遊び感覚で、これはこれで面白い
→ひとつの自分にしがみつかない軽やかさを、もっと自分の力に変えていけばいいのにと思う
・自分とは何か
→引退前の4年間、アメリカのパラリンピリアンと同じグラウンドにいた
→義足を自分の身体の一部とし、視覚障害の選手はリズムで距離を測っていた
→身体感覚を極めていくと、まだまだ使っていない感覚があることに気づく・・・
「第3ハードル」からの読後メモ・・・
・広島生まれで幼い頃に原爆について立場の違う意見があることを知らされ困惑する体験をした
→とりあえず選択せざるを得ない際でも、立場を変えて批評的に見る態度が大事
→コミュニケーションの重要性
→身体で感じたことを言語にするのは難しいがツイッターで発信し続けている
→自分との会話が好きなので外部化するいい機会になっている
→伝えようとする行為はコミュニケーション的な遊びに近い
→ツイッターやSNSにハマるのは予測がつかず変化に対応できることが嬉しく面白く楽しいから
→僕にとっては大いなる遊び
・獲れると決まっているメダルを獲りに行くなら仕事(作業)で、不確実な緊張があるから面白い遊び
・熱狂の中に身を置くことは楽しいがクールダウンも大事
→コミュニケーションを「いかにとらないか」もコミュニケーション力の一つかも
・日米の距離の取り方の違い
→アメリカでは議論を楽しむディベートが娯楽になっている
→日本では相手と共感したり同調しがちになる
→日本人は「私」という主語のないところで遊ぶのが上手
→これは強さにも弱さにもなる
→リーダーのいないチームスポーツや渋滞時などでは、みんなが空気を読んで対応するので有利
→言語を介さないコミュニケーション術を日本の特性として磨いて戦術化すべき
・知恵の輪は外し方を考えるから楽しく、遊びとして成立する
→説明書があったり、あきらめてしまえば遊びは不成立
→外しても意味はなく報酬もない→レースに勝つのと同じ→1番になることが面白いだけ
・認識の違う世界でのコミュニケーションは互いに橋を架けることから始めるしかない
→完璧ではなくとも何とか架かって、互いが理解できそうになる瞬間ほど面白いものはない
(特にこの言葉に感動しました。経験から出た素直で素晴らしい言葉だと思います)
「第4ハードル」からの読後メモ・・・
・知識と体感のバランスをとることは難しい
→スランプに陥る選手の傾向は体感の量が少ないこと
→「気持ちいい/よくない」の境目が判断できないのは知識の詰め込み過ぎ
→大切なのは「気持ちよかった時の感覚」が記憶できているかどうか
→海外では読書、散歩、練習、読書の繰り返しで、頭と身体のバランスが心地よく流れていた
→役立つかどうかも分からず好奇心を満たしワクワクしたくて本を読んだ
→僕にとって走ることと本を読むことは似ている
・タオイズム(道教)、禅宗の世界観→意識しないで身体が動く→そのための教養(略)
・応用領域は遊びの領域
→発想力を磨き新しい方法をクリエイトすること
→強さは反復や基本の先にあるもの
・スポーツの根本は遊び
→だからこそ自分から努力し鍛錬する自発性が不可欠
→遊びもスポーツも本来は自発的な行為で目的は行為そのもの
→この視点を日本のスポーツ界が取り入れれば、選手の育成方法も、コーチと選手の関係も、
暴力による体罰も、必ず変化していくだろう
・俳句と欧米スポーツの共通点
→俳句には季語や五七五などのルールがある
→最初はルールに縛られ当然うまく作れない
→知識を増やし観察した風景を言葉に置き換える練習を続けながら磨きをかけていく
→仲間同士で評価し合うので緊張感もあり、比べられ優劣をつけるという競技性もある
→だが、俳句の基本は楽しさということは自然に共有されて浸透している
→だから、うまく作れた時もそうでない時も、その場は楽しさに満ちているのだろう
→スポーツもそうあってほしい
・クラブチームなら目的をはっきり掲げることができる
→人格形成、人と繋がること、日本の頂点に立つなど、様々な目的があってもいい
→それぞれがスポーツを自分の目的に沿って選択できる環境を整えることが基本
→句会のようにスポーツをもっと楽しむための会が各地域に作られる必要がある
→みんなが遊びとして俳句を楽しむ中で俳句文化が育ち磨かれたのではないか
・ツイッター上では辛辣なのにリアルではおとなしくなり、表面上の言葉しか出てこない
→本音を言おうとしない、議論が得意ではない
→その文化も素晴らしいが、世界が舞台では自分の意思を表示する必要に迫られる
→挙手でもツイッターでもいいので、まずは自分の考えをまとめて公にする訓練が大事
・学習の究極の形態は遊び
→遊びながら学ぶ、学びながら遊ぶ
→教養と遊びを融合させるような場になればと「為末大学」を続けている
「第5ハードル」からの読後メモ・・・
・仕事と遊びの違い
→欧州グランプリでは入賞賞金だけで生計を立てているプロもいた
→1位なら150万、2位なら100万といったシンプルなゲーム
→自分は大阪ガスの会社員選手だったので給料もカリキュラムも生活も安定していて確実だった
→ホイジンガによる遊びの要素は緊張、不確実、不安定性
→プロ選手は会社員に比べ格段に遊び的だったので賞金やスポンサー収入だけのプロになった
・アスリート外交、スポーツ交流の役割は大きい
→反日の雰囲気だった中国でも卓球・福原愛さんの人気は絶大で日本人への親近感が維持されていた
→もともと貴族の種目である近代五種やカヌー、フェンシングなどは外交上大きな力を発揮する
・引退後のセカンドキャリア
→サンク・コスト→なかったものとして考える→念を継がない
→競技の結果とは、ただ遊ぶ者自身の問題である(ホイジンガ)
→遊びが成功した、うまくいったという観念的事実である(ホイジンガ)
→遊びの成功は遊ぶ者に暫く持続する満足をもたらす(ホイジンガ)
→スポーツ選手にとって成功体験が大きいと、その体験が忘れられなくなり次の一歩の障害になる
・火焔型縄文土器からルイ・ヴィトンのバッグまで、ムダは遊びであり文化でもある
→生きることと遊びは分かちがたく結びついている
・ネイティブアメリカンの通過儀礼の例(略)
→僕にとっては遊びの時間が身体的体験を積み重ねていく通過儀礼だった
→無意識の中で獲得していく体感的な学びを子どもたちに何としても伝えたい
→今後も増える廃校を利用したキャンプや山歩きなど、身体的経験のできるプログラムを考えている
「ゴール」からの読後メモ・・・
・ジャマイカの19歳以下を対象とした陸上大会はテレビ視聴率が80%を超える
→彼らはひたすら早く走ることを楽しんでいる→ジャマイカが短距離王国になるはず
→「ホモ・ルーデンス」の世界は競技を始めた頃に僕が感じていた世界そのものだった
・遊びは真面目と共存しうる→何かに熱中すること
→遊びは遊び自体が目的で自主的であり義務感に弱い
→これまでの社会は人が淡々と作業をこなすことで産業が成り立ってきた
→今後はテクノロジーの発展で人の作業的部分は減っていく
(21世紀後半にはプロ・アスリートとプロ・アドベンチャーツアラー以外に肉体的労働で対価を得る人は、
ほとんどいなくなると、こちらの本にありましたね
)
→作業に遊び感は組み込みにくいがイノベーションやクリエイティビリティが大事な時代になる
→これらには遊び感が大きく影響してくる
→人間にしかできないことが求められるとしたら、遊びの五感的な直感と楽しい気持ちがヒント
・人間とは遊びたいもので、遊ぶことにより人間らしくなると思っている
・・・
いやあ、プロ・アスリートの世界なんて全く別世界と思ってましたが、大いに共感しました
「遊ぶ」が勝ち・・・とゆー本のご紹介であります

Playing is a smart way・・・
表紙カバー裏にあった著者紹介

奥付


新装版・前書きからの読後メモ・・・
→英語で陸上競技場はplaygroundだし「スポーツをする」は play○○○○で、スポーツの本質は遊ぶこと
→本を上梓したのが2013年で7年たった今は、さらに効率的に真面目にを求める圧力が強くなっている
→「ホモ・ルーデンス」は僕の愛読書だが、その中に日本人は遊び上手だったという記述がある
→近代化する中で薄れているが、遊ぶ心は眠っているはずなので今一度呼び戻そう
→本書がそのきっかけになってくれたら嬉しい・・・
この新装版発行から3年なので最初の上梓は今から10年前、著者は引き続き活躍されてるようですが、
コロナ禍では運動会やお祭りは中止になって東京五輪は開催、キャンプがブームになったりしました
コロナ後の「遊び」の状況は、今後どのように変化していくのでしょう・・・
わたくしも「ホモ・ルーデンス」は愛読書つーか、若い頃に興味深く読んだ覚えがあります
著者も書いてましたが、文庫版でも分厚い哲学の専門書で確かにとっつきにくかったです
この本には著者なりの「ホモ・ルーデンス」の解釈もあり、さすがにプロ・アスリートの経験と発想だと
感心しましたが、本の内容をすっかり忘れてたので分かりやすい復習にもなりました
子どもの頃に身体を使った遊びをすることと自分で遊びを工夫することは、とても大事なことかも知れません
わたくしは生まれも育ちも大阪の下町ですが、まだ近所に遊べる空き地や廃墟が残ってる時代だったし、
母親の郷が泉州で、当時は田畑や山林もいっぱい残ってたので、けっこう屋外で遊んだほうだと思います
まあ、中学ぐらいまでずっと「秘密基地ごっこ」や「戦争ごっこ」がメインでしたが・・・
今ならサバイバルゲームをフィールド作り、道具作り、ルール作りまで全部自分たちでやってたようなもの

それで高校からは山歩きやキャンプ好きになり、社会人になってからはスキーや川下りなどが加わり、
やがてマルイの電動ガンが登場して一時期はサバイバルゲームに夢中でしたから、幅広い遊びとゆーより
子どもの頃からのアウトドア遊びがずっと続いてたことになりますね
なので球技には全く無縁・・・って、そーいやサバゲーは6mmBB弾を使う球技なのかっ???
以前も書きましたが、サバゲーつーのは究極の「ごっこ遊び」スポーツだと今も思ってます
球技としてはドッジボールに似てますが、はるかにリアルでフィールドも野山の自然地形がメイン、
仲間内ならルールやレギュレーションは自由に決められるけど、それを守ることが絶対条件になり、
あとは自分の役柄になり切って、自分の身体と頭と技術を極限まで使って何とか生き延びる、あるいは
チームとして敵に勝利する、その行為自体を目的として仲間と楽しむので、ハマると夢中になる・・・
これは他の球技にも共通するんでしょうが「ごっこ遊び」スポーツとしては、おそらく究極でしょう
閑話休題
例によって目次のみのご紹介




ハードル選手らしい目次構成であります・・・

「助走路」の読後メモから・・・(以下、正しくは本書をお読みくださいね)
・ヨハン・ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」のまとめ(略)
・僕の競技人生のスタートは「走りたいから走る」喜びだった
→やがて「走ると女の子にモテる」「走れると進学できる」になり、
→「プロになればお金が儲かる」「勝てば名誉が手に入る」「有名人になる」の世界へ・・・
→とうとう「手に入れたものを失うのが怖い」世界が到来した
→その時すでに「結果を出せるから走る意味がある」というモデル自体が崩れかけていた
→それでも走った時、走る根本には喜びがあることが見えたから、走り続けることができた
→遊びは楽しい→スポーツでも人生でも「遊ぶが勝ち」・・・
「第1ハードル」からの読後メモ・・・
・高校3年で短距離では伸びず400mハードルに転向したが、心の葛藤は大学4年間続いていた
→人生には「仮置き」や「仮決め」があってもいいのではないか
→視点をずらすという、遊びの感覚で余白、ゆるみ、隙間を作ることが大事
・目の前の出来事は一時的な約束事で回っているに過ぎない
→それが全てじゃないと距離を取れば人生は概ね何とかなる
・「遊び」も「演じる」も「競技する」も英語ではPLAY→何かのために走ってはいけない
→外から期待されることに遊びの要素は入りにくい
→自分ではじめた能動的な作業なら遊びの感覚や楽しさを持ちやすい
→遊びには自発性が関係している→自由な行動
→「したい」と「しなくては」の差→義務化すれば楽しくない
→「ねばならない」の過去をいったん「なかったこと」にしてゼロからスタートする・・・
・スランプ脱出には「考えないこと」も重要
→遊びの世界に没頭した瞬間を思い出すこと→ZONEの状態
・当時の日本では選手が「オリンピックを楽しんできます」なんて言えない状態だった
→ところが選手村での海外選手は楽しんでいるように見えた
→結果的に彼らはいきいきと楽しく良い結果を出していた
・ハードルに転向して海外で東洋の無名選手として走る際は演じなくてもいいので楽だった
→また走るのが楽しくなった→日本の陸上界はまだまだ硬い空気だった
・「努力を実現するために人間に先天的に与えられている機能、それが遊び」(ホイジンガ)
→なので楽しさを殺しては絶対にダメ
→これを言葉に出して肯定できたのは、この本(ホモ・ルーデンス)に出合ってから
「第2ハードル」からの読後メモ・・・
・遊びのヘンな感じの身体感覚、トライ&エラーの楽しさ、夢中になるスイッチ・・・(略)
・枠組みの中で遊ぶのが楽しい人も、枠組みそのものを設計するのが楽しい人もいる
→「型にはめる」教え方をするなら「型を脱する」方法も一緒に教えることが絶対に必要
・日本のスポーツ選手の多くが多彩な身体経験をしていない→大学からは伸びない選手が多い
→アメリカでは多種多様なスポーツ経験からアスリートになり、ロシアでは基幹スポーツの体操から
枝葉が伸びていくので逆だが、どちらも自由度や広がりが貴重な体験になっている
・ハンマー投げとゴルフのインパクト、高跳びの踏み切りとサルサの感覚は同じだった
→子どもの頃に自転車に乗った感覚のように運動感覚は風化しない
→運動神経が開発される10歳ぐらいまでに様々に身体を動かす経験を蓄積すること
→それが子どもの遊び
・自転車を漕ぐ時は景色に没頭している方が早く漕げたりする
→これは意識で身体を動かすより感覚で身体が動いてしまうほうがスムースになる一例
・遊びで役を演じている自分を楽しむ→ごっこ遊びや仮面劇
→仮面で自分が消えるということは「こうふるまうべき」という自分の役割も消えること
→他人の目を気にせず熱中できる→ZONEの超集中状態にも通じる
→スポーツ選手は外見や形によって意識・精神も変わることに注意すべき
→試合前に意識的に勝負顔を作る
→昔の宗教的な仮面や顔面ペイントと同じでトランス状態や別人格のきっかけになる
・役割そのものを遊ぶということは日本人が得意なジャンルかも
→落語のように演じ分けることも得意で、関係性が変わってもあまり気にしない
→そのタイミングを上手に読み切ることが求められる→「空気を読む」
→ツイッターなどで一人あたりのアカウント数が多いのも日本の特徴で、欧米などとは逆
→演技的、多重人格的な感性は遊び感覚で、これはこれで面白い
→ひとつの自分にしがみつかない軽やかさを、もっと自分の力に変えていけばいいのにと思う
・自分とは何か
→引退前の4年間、アメリカのパラリンピリアンと同じグラウンドにいた
→義足を自分の身体の一部とし、視覚障害の選手はリズムで距離を測っていた
→身体感覚を極めていくと、まだまだ使っていない感覚があることに気づく・・・
「第3ハードル」からの読後メモ・・・
・広島生まれで幼い頃に原爆について立場の違う意見があることを知らされ困惑する体験をした
→とりあえず選択せざるを得ない際でも、立場を変えて批評的に見る態度が大事
→コミュニケーションの重要性
→身体で感じたことを言語にするのは難しいがツイッターで発信し続けている
→自分との会話が好きなので外部化するいい機会になっている
→伝えようとする行為はコミュニケーション的な遊びに近い
→ツイッターやSNSにハマるのは予測がつかず変化に対応できることが嬉しく面白く楽しいから
→僕にとっては大いなる遊び
・獲れると決まっているメダルを獲りに行くなら仕事(作業)で、不確実な緊張があるから面白い遊び
・熱狂の中に身を置くことは楽しいがクールダウンも大事
→コミュニケーションを「いかにとらないか」もコミュニケーション力の一つかも
・日米の距離の取り方の違い
→アメリカでは議論を楽しむディベートが娯楽になっている
→日本では相手と共感したり同調しがちになる
→日本人は「私」という主語のないところで遊ぶのが上手
→これは強さにも弱さにもなる
→リーダーのいないチームスポーツや渋滞時などでは、みんなが空気を読んで対応するので有利
→言語を介さないコミュニケーション術を日本の特性として磨いて戦術化すべき
・知恵の輪は外し方を考えるから楽しく、遊びとして成立する
→説明書があったり、あきらめてしまえば遊びは不成立
→外しても意味はなく報酬もない→レースに勝つのと同じ→1番になることが面白いだけ
・認識の違う世界でのコミュニケーションは互いに橋を架けることから始めるしかない
→完璧ではなくとも何とか架かって、互いが理解できそうになる瞬間ほど面白いものはない
(特にこの言葉に感動しました。経験から出た素直で素晴らしい言葉だと思います)
「第4ハードル」からの読後メモ・・・
・知識と体感のバランスをとることは難しい
→スランプに陥る選手の傾向は体感の量が少ないこと
→「気持ちいい/よくない」の境目が判断できないのは知識の詰め込み過ぎ
→大切なのは「気持ちよかった時の感覚」が記憶できているかどうか
→海外では読書、散歩、練習、読書の繰り返しで、頭と身体のバランスが心地よく流れていた
→役立つかどうかも分からず好奇心を満たしワクワクしたくて本を読んだ
→僕にとって走ることと本を読むことは似ている
・タオイズム(道教)、禅宗の世界観→意識しないで身体が動く→そのための教養(略)
・応用領域は遊びの領域
→発想力を磨き新しい方法をクリエイトすること
→強さは反復や基本の先にあるもの
・スポーツの根本は遊び
→だからこそ自分から努力し鍛錬する自発性が不可欠
→遊びもスポーツも本来は自発的な行為で目的は行為そのもの
→この視点を日本のスポーツ界が取り入れれば、選手の育成方法も、コーチと選手の関係も、
暴力による体罰も、必ず変化していくだろう
・俳句と欧米スポーツの共通点
→俳句には季語や五七五などのルールがある
→最初はルールに縛られ当然うまく作れない
→知識を増やし観察した風景を言葉に置き換える練習を続けながら磨きをかけていく
→仲間同士で評価し合うので緊張感もあり、比べられ優劣をつけるという競技性もある
→だが、俳句の基本は楽しさということは自然に共有されて浸透している
→だから、うまく作れた時もそうでない時も、その場は楽しさに満ちているのだろう
→スポーツもそうあってほしい
・クラブチームなら目的をはっきり掲げることができる
→人格形成、人と繋がること、日本の頂点に立つなど、様々な目的があってもいい
→それぞれがスポーツを自分の目的に沿って選択できる環境を整えることが基本
→句会のようにスポーツをもっと楽しむための会が各地域に作られる必要がある
→みんなが遊びとして俳句を楽しむ中で俳句文化が育ち磨かれたのではないか
・ツイッター上では辛辣なのにリアルではおとなしくなり、表面上の言葉しか出てこない
→本音を言おうとしない、議論が得意ではない
→その文化も素晴らしいが、世界が舞台では自分の意思を表示する必要に迫られる
→挙手でもツイッターでもいいので、まずは自分の考えをまとめて公にする訓練が大事
・学習の究極の形態は遊び
→遊びながら学ぶ、学びながら遊ぶ
→教養と遊びを融合させるような場になればと「為末大学」を続けている
「第5ハードル」からの読後メモ・・・
・仕事と遊びの違い
→欧州グランプリでは入賞賞金だけで生計を立てているプロもいた
→1位なら150万、2位なら100万といったシンプルなゲーム
→自分は大阪ガスの会社員選手だったので給料もカリキュラムも生活も安定していて確実だった
→ホイジンガによる遊びの要素は緊張、不確実、不安定性
→プロ選手は会社員に比べ格段に遊び的だったので賞金やスポンサー収入だけのプロになった
・アスリート外交、スポーツ交流の役割は大きい
→反日の雰囲気だった中国でも卓球・福原愛さんの人気は絶大で日本人への親近感が維持されていた
→もともと貴族の種目である近代五種やカヌー、フェンシングなどは外交上大きな力を発揮する
・引退後のセカンドキャリア
→サンク・コスト→なかったものとして考える→念を継がない
→競技の結果とは、ただ遊ぶ者自身の問題である(ホイジンガ)
→遊びが成功した、うまくいったという観念的事実である(ホイジンガ)
→遊びの成功は遊ぶ者に暫く持続する満足をもたらす(ホイジンガ)
→スポーツ選手にとって成功体験が大きいと、その体験が忘れられなくなり次の一歩の障害になる
・火焔型縄文土器からルイ・ヴィトンのバッグまで、ムダは遊びであり文化でもある
→生きることと遊びは分かちがたく結びついている
・ネイティブアメリカンの通過儀礼の例(略)
→僕にとっては遊びの時間が身体的体験を積み重ねていく通過儀礼だった
→無意識の中で獲得していく体感的な学びを子どもたちに何としても伝えたい
→今後も増える廃校を利用したキャンプや山歩きなど、身体的経験のできるプログラムを考えている
「ゴール」からの読後メモ・・・
・ジャマイカの19歳以下を対象とした陸上大会はテレビ視聴率が80%を超える
→彼らはひたすら早く走ることを楽しんでいる→ジャマイカが短距離王国になるはず
→「ホモ・ルーデンス」の世界は競技を始めた頃に僕が感じていた世界そのものだった
・遊びは真面目と共存しうる→何かに熱中すること
→遊びは遊び自体が目的で自主的であり義務感に弱い
→これまでの社会は人が淡々と作業をこなすことで産業が成り立ってきた
→今後はテクノロジーの発展で人の作業的部分は減っていく
(21世紀後半にはプロ・アスリートとプロ・アドベンチャーツアラー以外に肉体的労働で対価を得る人は、
ほとんどいなくなると、こちらの本にありましたね

→作業に遊び感は組み込みにくいがイノベーションやクリエイティビリティが大事な時代になる
→これらには遊び感が大きく影響してくる
→人間にしかできないことが求められるとしたら、遊びの五感的な直感と楽しい気持ちがヒント
・人間とは遊びたいもので、遊ぶことにより人間らしくなると思っている
・・・
いやあ、プロ・アスリートの世界なんて全く別世界と思ってましたが、大いに共感しました
2023年05月26日
地霊を訪ねる
とーとつですが・・・

地霊を訪ねる~もうひとつの日本近代史~とゆー本のご紹介
著者略歴と奥付

目次であります

そう・・・
鉱山や鉱山跡を中心に辿った旅のエッセイであります・・・

「まえがき」よりの読後メモ・・・
・同じ技術で同じ製品を生産する同じ規模の企業組織であっても、そのために必要な人材を探し、
技能を高める方式は、日本と欧米、東南アジアとでは少なからぬ違いがある
→その差異と類似性をどう説明すればよいのか・・・
→日本社会を具体的に知るために歩いて旅をする、私流のブラタモリ、街道をゆく・・・
→近代日本の工業化の担い手のひとつ鉱業操業地跡への旅
→地霊(社会風土あるいは習俗)によって「もうひとつの日本の近代」を探ってみたい・・・
と、15年かけて40を超える鉱山跡地を訪れて綴ったのが本書
ちなみに鉱山跡地は地下遺構がメインの廃墟ですから、わたくしの大好きな場所ですし、
鉱山鉄道跡はサイクリング・ロードとして整備されてるところも多く、鉄道敷とゆーのは
そもそも勾配やカーブが緩いので、まったりポタリングにぴったりでこちらも大好きです
以下、最初の「伊那谷から中山道に出る」よりの読後メモ(福田恒存の言葉の紹介)
・日常的でないものにぶつかったとき即座に応用がきくということ、それが教養というものです
・あることを知ったということは、それを知る前に感じていた未知の世界より、
もっと大きな未知の世界を、眼前にひきすえたということであります
・さらにそれは、そのもっと大きな世界を知らなければならぬという責任を引き受けたことを意味します
・・・
で、各項の紀行内容は、メモするには濃かったので、この際どどんと省略して・・・
「あとがき」よりの読後メモのみ・・・
・どの棚に置けばよいのか、書店が困るような分類の難しい本になった
・旅という体験を通して「足から」しか学べないことは少なくない
・本を読め、人に会え、そして旅をしろ(池島信平の言葉)
・何を読んだか、どこを旅したかを話し合うことで、どのような人格の人物なのかを知ることができる
じっくりと読ませていただきましたが、まさに著者版の「街道をゆく」や「ブラタモリ」で、
経済学者としての深い知識知見だけでなく、幅広い教養と美的感覚と味覚に裏打ちされた、
格調高く味わい深い文章で楽しめました
特に柵原鉱山、生野銀山、紀和鉱山など西日本の鉱山跡については、ライトOFF会キャンプや
ポタリングなどで訪れたことがあるので、それらの歴史や文化、たたら製鉄に関する考察などは
とても興味深く読みました
ええ、当時は前知識なんか殆どなく、みんなでわいわいと坑道に入っては、
「わははは、こんな明るいライト軍団

が入ったのは、歴史上初めてのはずじゃあ!!!」
とか、大はしゃぎしてただけですから・・・

地霊を訪ねる~もうひとつの日本近代史~とゆー本のご紹介
著者略歴と奥付

目次であります

そう・・・
鉱山や鉱山跡を中心に辿った旅のエッセイであります・・・

「まえがき」よりの読後メモ・・・
・同じ技術で同じ製品を生産する同じ規模の企業組織であっても、そのために必要な人材を探し、
技能を高める方式は、日本と欧米、東南アジアとでは少なからぬ違いがある
→その差異と類似性をどう説明すればよいのか・・・
→日本社会を具体的に知るために歩いて旅をする、私流のブラタモリ、街道をゆく・・・
→近代日本の工業化の担い手のひとつ鉱業操業地跡への旅
→地霊(社会風土あるいは習俗)によって「もうひとつの日本の近代」を探ってみたい・・・
と、15年かけて40を超える鉱山跡地を訪れて綴ったのが本書
ちなみに鉱山跡地は地下遺構がメインの廃墟ですから、わたくしの大好きな場所ですし、
鉱山鉄道跡はサイクリング・ロードとして整備されてるところも多く、鉄道敷とゆーのは
そもそも勾配やカーブが緩いので、まったりポタリングにぴったりでこちらも大好きです
以下、最初の「伊那谷から中山道に出る」よりの読後メモ(福田恒存の言葉の紹介)
・日常的でないものにぶつかったとき即座に応用がきくということ、それが教養というものです
・あることを知ったということは、それを知る前に感じていた未知の世界より、
もっと大きな未知の世界を、眼前にひきすえたということであります
・さらにそれは、そのもっと大きな世界を知らなければならぬという責任を引き受けたことを意味します
・・・
で、各項の紀行内容は、メモするには濃かったので、この際どどんと省略して・・・

「あとがき」よりの読後メモのみ・・・
・どの棚に置けばよいのか、書店が困るような分類の難しい本になった
・旅という体験を通して「足から」しか学べないことは少なくない
・本を読め、人に会え、そして旅をしろ(池島信平の言葉)
・何を読んだか、どこを旅したかを話し合うことで、どのような人格の人物なのかを知ることができる
じっくりと読ませていただきましたが、まさに著者版の「街道をゆく」や「ブラタモリ」で、
経済学者としての深い知識知見だけでなく、幅広い教養と美的感覚と味覚に裏打ちされた、
格調高く味わい深い文章で楽しめました
特に柵原鉱山、生野銀山、紀和鉱山など西日本の鉱山跡については、ライトOFF会キャンプや
ポタリングなどで訪れたことがあるので、それらの歴史や文化、たたら製鉄に関する考察などは
とても興味深く読みました
ええ、当時は前知識なんか殆どなく、みんなでわいわいと坑道に入っては、
「わははは、こんな明るいライト軍団



とか、大はしゃぎしてただけですから・・・