カメラ・映像・音楽
2025年04月22日
体験的女優論
とーとつですが・・・

「体験的女優論」とゆー本の読書記録であります
著者略歴と奥付

そう、スタジオジブリ代表取締役プロデューサー鈴木敏夫が2021年4月から2024年5月まで
「日刊ゲンダイ」に毎週連載していた記事をまとめた本であります
上の略歴に本文から少し補足すると・・・
1948年に名古屋市に生まれ子どもの頃から両親の影響で邦画・洋画に親しんでいたとあり、
1967年に大学進学で上京、1972年に徳間書店に入社して配属は「週刊アサヒ芸能」編集部、
やがて雑誌「アニメージュ」編集部の時代にスタジオジブリ創設に関わり・・・となります
著者の学生時代は70年安保に向け揺れ動いていた頃、いっぽう宮崎駿は彼の8歳年上ですから、
学生時代は60年安保の最中、わたくしの学生時代は70年安保のいわば「焼け跡派」になるので、
著者の世代は宮崎駿の世代とわたくしの世代の中間になり、本書に登場する映画やテレビドラマ、
監督さんや女優さんたちには、けっこう親近感がありました
例によって目次のみ


「体験的女優論」なので目次には女優が並んでますが、女優名はいわば索引のようなもので、
内容は映画やテレビドラマの作品、監督、脚本、時代背景や思想、ジブリ作品との関わりなど
多岐に渡っており、まさに映画ファンとしての面目躍如、特にわたくしが放送当時には殆ど
観てなかった「優れたテレビドラマ」の紹介が興味深く新鮮だったので、本書で秀作とされてた
邦画と合わせて、いずれ観てみたいと思った次第
以下、思いつくままの読後メモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・最初に好きになった女優はヘイリー・ミルズで初めて英語でファンレターを出した
⇒当時は中学生で返事はなかったが後年ジブリ映画の世界配給でディズニー本社に行った際に、
好きなディズニー作品を聞かれヘイリー・ミルズ作品と言ったら後日、本人から手紙が来た!!!
⇒ファンレターを出してから35年ぶりにもらった返事だった
・宮崎駿は「陽のあたる坂道」などの芦川いづみの大ファンで、ルパン三世のクラリスから
風立ちぬの菜穂子まで、すべてのヒロインに投影されている
⇒木之内みどりもその流れを感じさせる女優で、クラリスの飼ってる犬の名前もテレビドラマ
「刑事犬カール」から絶対に取っていると僕は思っている
(発想の影に好きな女優への想いがあるのもジブリ作品の魅力)
・梶芽衣子は野良猫ロックシリーズ(1970~71)で大好きになる
⇒このシリーズに影響を与えたのは「冒険者たち」(1967)だと思っている
・1972年の春に徳間書店に入社したが夏に盲腸破裂で緊急手術、高熱で入院が続いていた
⇒「女囚701号さそり」(1972)は篠原とおる原作からのファンで、どうしても映画が観たくて、
⇒こっそり病院を抜け出しタクシーで公開初日の映画館に行った
⇒上映が終了した瞬間に気を失い運ばれたが救急車だとバレるのでタクシーで病院に戻った
⇒その夜からさらに高熱になり苦しんだが医者に本当のことは言えなかった
⇒退院して最初に買いに行ったのは梶芽衣子が映画で着ていたコート(表紙絵)と映画LPレコード
・宮崎駿は倍賞千恵子が映画デビューしてから「下町の太陽」あたりまでは、おそらく観ている
⇒当時の青春スターは日活なら吉永小百合、東映なら本間千代子、松竹が倍賞千恵子らで、
宮崎駿の大好きな工場で働く若者の映画が多かったがブルーカラーは倍賞千恵子がうまかった
⇒ハウルの動く城のソフィーも帽子職人なので提案したと思うがファンなので大賛成した
⇒彼女の歌も大好きで歌うときは高音なので娘も老婆もやれると思って出演を依頼した
⇒ジブリ作品は吉岡秀隆に「天空の城ラピュタ」DVDをプレゼントされて以来よく観てたそうで
快く引き受けてくれたが、映画のイメージとは異なり細かいことを気にしない明るい人だった
・「家族」(1970)は山田洋二監督の最高傑作
・サントリーCMシリーズ(少し愛して、ながーく愛して)は大原麗子の本当の意味での代表作
・風吹ジュンとゲド戦記(略)
・おもひでぽろぽろと今井美樹(略)
・加藤登紀子と紅の豚
⇒ジーナが登場することになった時点で宮崎駿は加藤さんだといった
(宮崎駿は彼女の歌をカセットテープが緩むぐらい聞き込んでいる)
⇒高畑勲の「おもひでぽろぽろ」は声を事前に録って、それを参考に絵を描くプレスコ方式
⇒その直後の「紅の豚」だったので「俺もプレスコやってみたい」と宮崎駿が言い出した
⇒加藤さんのロシア料理店で「さくらんぼの実る頃」を歌うシーンを撮影した
⇒客もスタッフになじみの人ばかりで印象深い収録になった
⇒「時には昔の話を」はスタジオ録音したが声がハスキーになり・・・(以下略)
・「崖の上のポニョ」のフジモトの名前は加藤登紀子の夫の藤本敏夫から
⇒英語版でのフジモトのキャラクター説明は難しかったので・・・(以下略)
・神代辰巳、岸田理生、寺山修司・・・(略)
・テレビのシナリオライターで最も好きなのは山田太一
⇒男たちの旅路、岸辺のアルバム、ふぞろいの林檎たち、早春スケッチブック・・・
⇒「欠点を鋭く指摘して人に恥ずかしい思いをさせるなんてことは、実に下劣なことです
素晴らしいのは、誰にも恥ずかしい思いをさせないような人格だ」
⇒このセリフは山田太一の寺山修司批判でもあると思う(二人は学生時代の親友)
⇒その後「北国の春」をデュエットし、超人と凡人が自分を乗り越えようと必死に歌う
⇒平凡な生活を批判して最後は普通の人をフォローして終わらせているのがすごい
⇒どちらも否定しない最後の言葉は山田太一の寺山修司へのリスペクトであると思う
・山田太一と寺山修司とアフォリズム(略)
・八千草薫のエッセイ集「まあまあふうふう」(馬馬虎虎⇒良い加減の意味⇒略)
・若大将シリーズで星由里子がマドンナの時代(1961~1968)は中学・高校時代と重なる
⇒当時は名古屋にいたが若大将シリーズで、それまでの大学生のイメージが払拭された
⇒東京の大学に行けばスポーツ、歌、ギターで夏は海、冬はスキーで恋するイメージに
⇒大食漢の設定をはじめ加山雄三に合わせたキャラクターだったが大きな影響を受けた
⇒高校まで憧れていて、その先の大学生活をイメージしていた
⇒ところが加山雄三の慶応義塾大学に入ってみるとギターもスポーツもなく学生運動に
⇒映画の中だけと実感したがギターも恋愛も影響は大きく、気分的には冷めていったが
写真集やレコードはいまだに全部持っている
⇒思春期の鈴木にとって星由里子の澄ちゃんは永遠のマドンナ
・「男はつらいよ」のテレビシリーズが好きで学生時代の定食屋で毎週欠かさず観ていた
⇒長山藍子のさくらが印象的だったので映画がいいとは思わなかったが、だんだん倍賞千恵子の
さくらがいいと思うようになっていった⇒マドンナとさくらのやりとりがいい
⇒映画シリーズの本当のマドンナは倍賞千恵子のさくらで彼女がいるから寅さんも・・・
・小津安二郎「麦秋」の「私でよかったら」のセリフ
⇒山田洋次「寅次郎相合い傘」でも高畑勲「おもひでぽろぽろ」でも好みなので使っている
・今村昌平の作品
⇒安保闘争にも高度経済成長にも寄り添っていないものばかりで逆に刺激的だった
⇒週刊アサヒ芸能での仕事と今村監督の仕事は人間臭い業界を徹底的に調べる点で共通していた
・ATGの1000万円映画シリーズ⇒今村昌平の「人間蒸発」から
⇒その露口茂が声を担当した「シャーロック・ホームズの冒険」(1985~1995)は僕も宮崎駿も
大好きで「耳をすませば」(1995)のバロンの声をお願いしたがセリフについて質問攻めに・・・
・今村監督初のカラー映画が「神々の深き欲望」(1968)
⇒近代合理主義⇒資本主義・社会主義・サルトルの実存主義とストロースの構造主義
⇒レヴィ・ストロースのテーマを映像として具現化したのが「神々の深き欲望」
・「もののけ姫」(1997)のテーマと舞台設定を1995年に宮崎駿から聞いて「神々の深き欲望」
を思い出したので「今村さんの映画みたいですね」と言ったら、宮さんの顔つきが変わり、
「それって、神々の深き欲望だよね」とすぐに返ってきた
⇒あれだけ映画タイトルを覚えない人が覚えていたのだから、よほど印象に残ってたはず
⇒どちらも南の島から来た日本人の原型をシシ神の前後と近代化の前後で探す試み
⇒「太陽の王子ホルスの大冒険」と同年の公開なので高畑勲に勧められ観た可能性が高い
⇒高畑は論理で考えるが宮崎には概念がなく抽象化されない
⇒今村は観念的で、その観念の裏付けのために調べ尽くす
⇒宮崎は全部を妄想や想像で発想して調べない
⇒物事の核心テーマを、自分の妄想をコラージュして掴み取って描ける稀有な人
⇒その意味で「もののけ姫」は観念的な「神々の深き欲望」に勝ったと密かに思っている
・とか、続きは「新映画道楽 体験的女優論」で・・・
・あとがきより
⇒この夏に76歳になった(2024)
⇒堀田善衛の「生き延びることだけが勇者ではない」に倣い残り少ない人生を大事に・・・
・・・
こういった感じで映画やテレビドラマの作品、監督、脚本、時代背景や思想、ジブリ作品との
関わりなどから、映画に登場する女優についての「体験的女優論」が展開されてましたが、
自分がファンになった女優たちへの思い入れだけでなく、監督や脚本家などへの思い入れや
作品に対する鋭い考察についても興味津々、最後まで一気に読みました

「体験的女優論」とゆー本の読書記録であります
著者略歴と奥付

そう、スタジオジブリ代表取締役プロデューサー鈴木敏夫が2021年4月から2024年5月まで
「日刊ゲンダイ」に毎週連載していた記事をまとめた本であります
上の略歴に本文から少し補足すると・・・
1948年に名古屋市に生まれ子どもの頃から両親の影響で邦画・洋画に親しんでいたとあり、
1967年に大学進学で上京、1972年に徳間書店に入社して配属は「週刊アサヒ芸能」編集部、
やがて雑誌「アニメージュ」編集部の時代にスタジオジブリ創設に関わり・・・となります
著者の学生時代は70年安保に向け揺れ動いていた頃、いっぽう宮崎駿は彼の8歳年上ですから、
学生時代は60年安保の最中、わたくしの学生時代は70年安保のいわば「焼け跡派」になるので、
著者の世代は宮崎駿の世代とわたくしの世代の中間になり、本書に登場する映画やテレビドラマ、
監督さんや女優さんたちには、けっこう親近感がありました
例によって目次のみ


「体験的女優論」なので目次には女優が並んでますが、女優名はいわば索引のようなもので、
内容は映画やテレビドラマの作品、監督、脚本、時代背景や思想、ジブリ作品との関わりなど
多岐に渡っており、まさに映画ファンとしての面目躍如、特にわたくしが放送当時には殆ど
観てなかった「優れたテレビドラマ」の紹介が興味深く新鮮だったので、本書で秀作とされてた
邦画と合わせて、いずれ観てみたいと思った次第
以下、思いつくままの読後メモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・最初に好きになった女優はヘイリー・ミルズで初めて英語でファンレターを出した
⇒当時は中学生で返事はなかったが後年ジブリ映画の世界配給でディズニー本社に行った際に、
好きなディズニー作品を聞かれヘイリー・ミルズ作品と言ったら後日、本人から手紙が来た!!!
⇒ファンレターを出してから35年ぶりにもらった返事だった

・宮崎駿は「陽のあたる坂道」などの芦川いづみの大ファンで、ルパン三世のクラリスから
風立ちぬの菜穂子まで、すべてのヒロインに投影されている
⇒木之内みどりもその流れを感じさせる女優で、クラリスの飼ってる犬の名前もテレビドラマ
「刑事犬カール」から絶対に取っていると僕は思っている

(発想の影に好きな女優への想いがあるのもジブリ作品の魅力)
・梶芽衣子は野良猫ロックシリーズ(1970~71)で大好きになる

⇒このシリーズに影響を与えたのは「冒険者たち」(1967)だと思っている
・1972年の春に徳間書店に入社したが夏に盲腸破裂で緊急手術、高熱で入院が続いていた
⇒「女囚701号さそり」(1972)は篠原とおる原作からのファンで、どうしても映画が観たくて、
⇒こっそり病院を抜け出しタクシーで公開初日の映画館に行った
⇒上映が終了した瞬間に気を失い運ばれたが救急車だとバレるのでタクシーで病院に戻った
⇒その夜からさらに高熱になり苦しんだが医者に本当のことは言えなかった

⇒退院して最初に買いに行ったのは梶芽衣子が映画で着ていたコート(表紙絵)と映画LPレコード

・宮崎駿は倍賞千恵子が映画デビューしてから「下町の太陽」あたりまでは、おそらく観ている
⇒当時の青春スターは日活なら吉永小百合、東映なら本間千代子、松竹が倍賞千恵子らで、
宮崎駿の大好きな工場で働く若者の映画が多かったがブルーカラーは倍賞千恵子がうまかった
⇒ハウルの動く城のソフィーも帽子職人なので提案したと思うがファンなので大賛成した
⇒彼女の歌も大好きで歌うときは高音なので娘も老婆もやれると思って出演を依頼した
⇒ジブリ作品は吉岡秀隆に「天空の城ラピュタ」DVDをプレゼントされて以来よく観てたそうで
快く引き受けてくれたが、映画のイメージとは異なり細かいことを気にしない明るい人だった
・「家族」(1970)は山田洋二監督の最高傑作
・サントリーCMシリーズ(少し愛して、ながーく愛して)は大原麗子の本当の意味での代表作
・風吹ジュンとゲド戦記(略)
・おもひでぽろぽろと今井美樹(略)
・加藤登紀子と紅の豚
⇒ジーナが登場することになった時点で宮崎駿は加藤さんだといった
(宮崎駿は彼女の歌をカセットテープが緩むぐらい聞き込んでいる)
⇒高畑勲の「おもひでぽろぽろ」は声を事前に録って、それを参考に絵を描くプレスコ方式
⇒その直後の「紅の豚」だったので「俺もプレスコやってみたい」と宮崎駿が言い出した
⇒加藤さんのロシア料理店で「さくらんぼの実る頃」を歌うシーンを撮影した
⇒客もスタッフになじみの人ばかりで印象深い収録になった
⇒「時には昔の話を」はスタジオ録音したが声がハスキーになり・・・(以下略)
・「崖の上のポニョ」のフジモトの名前は加藤登紀子の夫の藤本敏夫から
⇒英語版でのフジモトのキャラクター説明は難しかったので・・・(以下略)
・神代辰巳、岸田理生、寺山修司・・・(略)
・テレビのシナリオライターで最も好きなのは山田太一
⇒男たちの旅路、岸辺のアルバム、ふぞろいの林檎たち、早春スケッチブック・・・
⇒「欠点を鋭く指摘して人に恥ずかしい思いをさせるなんてことは、実に下劣なことです
素晴らしいのは、誰にも恥ずかしい思いをさせないような人格だ」
⇒このセリフは山田太一の寺山修司批判でもあると思う(二人は学生時代の親友)
⇒その後「北国の春」をデュエットし、超人と凡人が自分を乗り越えようと必死に歌う
⇒平凡な生活を批判して最後は普通の人をフォローして終わらせているのがすごい
⇒どちらも否定しない最後の言葉は山田太一の寺山修司へのリスペクトであると思う
・山田太一と寺山修司とアフォリズム(略)
・八千草薫のエッセイ集「まあまあふうふう」(馬馬虎虎⇒良い加減の意味⇒略)
・若大将シリーズで星由里子がマドンナの時代(1961~1968)は中学・高校時代と重なる
⇒当時は名古屋にいたが若大将シリーズで、それまでの大学生のイメージが払拭された
⇒東京の大学に行けばスポーツ、歌、ギターで夏は海、冬はスキーで恋するイメージに
⇒大食漢の設定をはじめ加山雄三に合わせたキャラクターだったが大きな影響を受けた
⇒高校まで憧れていて、その先の大学生活をイメージしていた
⇒ところが加山雄三の慶応義塾大学に入ってみるとギターもスポーツもなく学生運動に
⇒映画の中だけと実感したがギターも恋愛も影響は大きく、気分的には冷めていったが
写真集やレコードはいまだに全部持っている
⇒思春期の鈴木にとって星由里子の澄ちゃんは永遠のマドンナ

・「男はつらいよ」のテレビシリーズが好きで学生時代の定食屋で毎週欠かさず観ていた
⇒長山藍子のさくらが印象的だったので映画がいいとは思わなかったが、だんだん倍賞千恵子の
さくらがいいと思うようになっていった⇒マドンナとさくらのやりとりがいい
⇒映画シリーズの本当のマドンナは倍賞千恵子のさくらで彼女がいるから寅さんも・・・
・小津安二郎「麦秋」の「私でよかったら」のセリフ
⇒山田洋次「寅次郎相合い傘」でも高畑勲「おもひでぽろぽろ」でも好みなので使っている
・今村昌平の作品
⇒安保闘争にも高度経済成長にも寄り添っていないものばかりで逆に刺激的だった
⇒週刊アサヒ芸能での仕事と今村監督の仕事は人間臭い業界を徹底的に調べる点で共通していた
・ATGの1000万円映画シリーズ⇒今村昌平の「人間蒸発」から
⇒その露口茂が声を担当した「シャーロック・ホームズの冒険」(1985~1995)は僕も宮崎駿も
大好きで「耳をすませば」(1995)のバロンの声をお願いしたがセリフについて質問攻めに・・・
・今村監督初のカラー映画が「神々の深き欲望」(1968)
⇒近代合理主義⇒資本主義・社会主義・サルトルの実存主義とストロースの構造主義
⇒レヴィ・ストロースのテーマを映像として具現化したのが「神々の深き欲望」
・「もののけ姫」(1997)のテーマと舞台設定を1995年に宮崎駿から聞いて「神々の深き欲望」
を思い出したので「今村さんの映画みたいですね」と言ったら、宮さんの顔つきが変わり、
「それって、神々の深き欲望だよね」とすぐに返ってきた
⇒あれだけ映画タイトルを覚えない人が覚えていたのだから、よほど印象に残ってたはず
⇒どちらも南の島から来た日本人の原型をシシ神の前後と近代化の前後で探す試み
⇒「太陽の王子ホルスの大冒険」と同年の公開なので高畑勲に勧められ観た可能性が高い
⇒高畑は論理で考えるが宮崎には概念がなく抽象化されない
⇒今村は観念的で、その観念の裏付けのために調べ尽くす
⇒宮崎は全部を妄想や想像で発想して調べない
⇒物事の核心テーマを、自分の妄想をコラージュして掴み取って描ける稀有な人
⇒その意味で「もののけ姫」は観念的な「神々の深き欲望」に勝ったと密かに思っている
・とか、続きは「新映画道楽 体験的女優論」で・・・
・あとがきより
⇒この夏に76歳になった(2024)
⇒堀田善衛の「生き延びることだけが勇者ではない」に倣い残り少ない人生を大事に・・・
・・・
こういった感じで映画やテレビドラマの作品、監督、脚本、時代背景や思想、ジブリ作品との
関わりなどから、映画に登場する女優についての「体験的女優論」が展開されてましたが、
自分がファンになった女優たちへの思い入れだけでなく、監督や脚本家などへの思い入れや
作品に対する鋭い考察についても興味津々、最後まで一気に読みました
2025年03月29日
スタジオジブリ全作品集(増補改訂版)
とーとつですが・・・

「スタジオジブリ全作品集」増補改訂版のご紹介であります
裏表紙カバー

奥付

そう「君たちはどう生きるか」の公開により増補改訂された最新版であります
例によって目次と・・・

今回は惹句がわりに「はじめに」と「各作品ページの読み方」もご紹介

こんな感じでジブリ側の立場から全作品が紹介されてて、制作秘話や注目ポイントなど、
知らなかったこと、気づかなかったこともけっこうあって熟読しました
作品紹介以外の読み物も興味深く、特に全く知らなかったのが、北米での配給を手がけた
GKIDS創設者兼CEOであるエリック・ベックマンからの寄稿内容でした
以下、その部分からのランダムなメモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・ディズニー社がジブリ作品を扱っていた1999年、2年前に共同で立ち上げたニューヨーク
国際子ども映画祭NYICFFで「魔女の宅急便」英語吹き替え版をプレミア上映した
⇒観客は魅了され涙を流しながら私に話しかけてきた
⇒翌年の日本アニメ特集のオープニングで「天空の城ラピュタ」英語吹き替え版をプレミア上映、
この時に初めてジブリの関係者(スティーブン・アルバート)と会った
・「崖の上のポニョ」が出品されていたロサンゼルス映画祭でスティーブン・アルバートから
ランチに招待され、映画芸術としてのアニメーションとか、アメリカのアニメーション映画は
事実上企業の商品だとか、実写映画のようにアニメーションでもインディペンデントが繁栄できる
環境づくりに貢献したいとか、いつものように延々と語りまくってたら、ジブリ作品の劇場権を
扱ってみないかと誘われた
⇒となりのトトロ、風の谷のナウシカ、千と千尋の神隠し、天空の城ラピュタ、魔女の宅急便、
もののけ姫・・・どれも重要で象徴的な傑作だったので、もちろんイエスと即答した
⇒35mmニュープリントを作りニューヨークIFCセンターで大掛かりに4週間、チケットは完売し、
その他の主要都市でも定期上映したがプレスにも観客にも好評でジブリも大満足だった
・スティーブン・アルバートの後任ジェフ・ウェクスラーから「コクリコ坂から」の配給を
やってみないかとの打診があった
⇒それまでは既存作品の劇場公開のみで新作はいつもディズニーだったので、これはジブリが
自分たちに映画を託すことを物語っている
⇒アカデミー賞でいくらか成功を収め、ジブリライブラリー作品でも良い仕事をしてきたが、
こちらはごく小さな会社でディズニーは世界一のアニメーション・スタジオ・・・
⇒それでもスタジオジブリが私たちを信じてくれたおかげで、多くの海外アニメーションの
アメリカ公開に繋がり、2016年末までに長編アニメーション部門にノミネートされた作品は
合計9本になった
・「かぐや姫の物語」は映画の最高傑作だと思うが誰もが受け入れるわけではない
(個人的にはその人の死に対する考え方(死を受け入れるかどうか)によると思う)
⇒トロント国際映画祭でのプレミア上映で私の真後ろにいた若いカップルの男性が映画のラストで
我慢できずにおいおいと泣き出し、あまり親しくなさそうな女性が懸命に慰めようとしていた
⇒それは胸に刺さる光景だった
⇒劇場を出てからTwitterでプレスの反応をチェックすると、
「この映画が私に何をもたらしたか、とても語り尽くせない」
「圧倒された」
「詳細を書く前に気持ちを落ち着かせる必要があるが、この作品は最高傑作だ」
「大泣きしてマスカラまみれの顔でトロントの街をふらふら歩き回っている」
といったものばかりで否定的なレビューはひとつもなかった
⇒この年のアカデミー賞にノミネートされ翌年は「思い出のマーニー」がノミネートされた
・2017年にはジブリライブラリー作品のホームビデオ権を打診されて権利を得た
⇒GKIDSはユニバーサル・ホームビデオと組んでいたがジブリ作品の契約合意ができず、
自分たちで全作品を再オーサリングして新しいジャケットにボーナス映像を入れて販売した
⇒最初の年でこれまでのディズニー年間売り上げの倍になり社内でも誰もがファンになり、
作品リリースに全身全霊を注いでいる⇒これは大きな配給会社ではできないこと
・その後の3年間でジブリに限らず日本アニメの観客が爆発的に増えた
(細田守の「未来のミライ」は、はじめてゴールデングローブ賞にノミネート、ジブリ以外で
はじめてのアカデミー賞長編アニメーション部門にもノミネート、新海誠の「天気の子」は
800万ドル近い興行収入を上げたがコロナで全米の映画館が閉館して公開が終了した)
・2019年1月にはジブリでは決してなかったデジタル・プラットフォーム化の打診があった
⇒1年後に配信、コロナで多くが家での視聴となり新しい観客がジブリと出会うことになった
・「君たちはどう生きるか」については別稿にまかせるが・・・
⇒スタジオジブリが私たちを信頼してくれたこと、この作品に関われたことに感謝している
⇒宮崎駿を他のアニメーション作家と較べないようにスタッフにメモした
⇒素晴らしい映画監督とさえ比較しないで欲しいとも・・・比較するならアインシュタイン、
マイケル・ジョーダン、ゴッホ、モーツァルトといった人たちで100年にひとりの逸材だと
⇒トロント映画祭プレミア上映のイントロダクションで「モーツァルトがまだ作曲している
時代に生きていることを、皆さんは幸せに思うべきだ」と、メモを渡したわけでもない
ギレルモ・デル・トロが全く同じことを言ってくれて本当に嬉しかった
・私は初め「君たちはどう生きるか」を大きな映画祭だけで上映して、それから予告編や
宣伝で盛り上げていこうと考えていた
⇒そうすれば限られた人数だけが作品を見るようコントロールできるからだ
(複雑な映画ゆえに公開前に少数でも否定的なレビューが出たらマイナスインパクトになる)
⇒しかし作品に衝撃を受けた配給部門のチャンス・ハスキーは、観客や批評家がこの作品を
理解できると信じるべきだと主張した
⇒アニメーションを見ない層からの支持も必要で、その強化には数ヶ月かかるだろうとも
⇒私は配給チームを信じることにし、多くの映画祭やイベントに参加して拡大公開の3週間前に
ニューヨークとロサンゼルスで試写会を開いた
⇒結果は報われ「君たちはどう生きるか」は全米初登場1位となった
・・・
ジブリ側への寄稿なので中にはヨイショもあるのでしょうが、北米での売り手側の熱意が
ひしひしと伝わってきて感動しました

「スタジオジブリ全作品集」増補改訂版のご紹介であります

裏表紙カバー

奥付

そう「君たちはどう生きるか」の公開により増補改訂された最新版であります
例によって目次と・・・

今回は惹句がわりに「はじめに」と「各作品ページの読み方」もご紹介

こんな感じでジブリ側の立場から全作品が紹介されてて、制作秘話や注目ポイントなど、
知らなかったこと、気づかなかったこともけっこうあって熟読しました
作品紹介以外の読み物も興味深く、特に全く知らなかったのが、北米での配給を手がけた
GKIDS創設者兼CEOであるエリック・ベックマンからの寄稿内容でした
以下、その部分からのランダムなメモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・ディズニー社がジブリ作品を扱っていた1999年、2年前に共同で立ち上げたニューヨーク
国際子ども映画祭NYICFFで「魔女の宅急便」英語吹き替え版をプレミア上映した
⇒観客は魅了され涙を流しながら私に話しかけてきた
⇒翌年の日本アニメ特集のオープニングで「天空の城ラピュタ」英語吹き替え版をプレミア上映、
この時に初めてジブリの関係者(スティーブン・アルバート)と会った
・「崖の上のポニョ」が出品されていたロサンゼルス映画祭でスティーブン・アルバートから
ランチに招待され、映画芸術としてのアニメーションとか、アメリカのアニメーション映画は
事実上企業の商品だとか、実写映画のようにアニメーションでもインディペンデントが繁栄できる
環境づくりに貢献したいとか、いつものように延々と語りまくってたら、ジブリ作品の劇場権を
扱ってみないかと誘われた
⇒となりのトトロ、風の谷のナウシカ、千と千尋の神隠し、天空の城ラピュタ、魔女の宅急便、
もののけ姫・・・どれも重要で象徴的な傑作だったので、もちろんイエスと即答した
⇒35mmニュープリントを作りニューヨークIFCセンターで大掛かりに4週間、チケットは完売し、
その他の主要都市でも定期上映したがプレスにも観客にも好評でジブリも大満足だった
・スティーブン・アルバートの後任ジェフ・ウェクスラーから「コクリコ坂から」の配給を
やってみないかとの打診があった
⇒それまでは既存作品の劇場公開のみで新作はいつもディズニーだったので、これはジブリが
自分たちに映画を託すことを物語っている
⇒アカデミー賞でいくらか成功を収め、ジブリライブラリー作品でも良い仕事をしてきたが、
こちらはごく小さな会社でディズニーは世界一のアニメーション・スタジオ・・・
⇒それでもスタジオジブリが私たちを信じてくれたおかげで、多くの海外アニメーションの
アメリカ公開に繋がり、2016年末までに長編アニメーション部門にノミネートされた作品は
合計9本になった
・「かぐや姫の物語」は映画の最高傑作だと思うが誰もが受け入れるわけではない
(個人的にはその人の死に対する考え方(死を受け入れるかどうか)によると思う)
⇒トロント国際映画祭でのプレミア上映で私の真後ろにいた若いカップルの男性が映画のラストで
我慢できずにおいおいと泣き出し、あまり親しくなさそうな女性が懸命に慰めようとしていた
⇒それは胸に刺さる光景だった
⇒劇場を出てからTwitterでプレスの反応をチェックすると、
「この映画が私に何をもたらしたか、とても語り尽くせない」
「圧倒された」
「詳細を書く前に気持ちを落ち着かせる必要があるが、この作品は最高傑作だ」
「大泣きしてマスカラまみれの顔でトロントの街をふらふら歩き回っている」
といったものばかりで否定的なレビューはひとつもなかった
⇒この年のアカデミー賞にノミネートされ翌年は「思い出のマーニー」がノミネートされた
・2017年にはジブリライブラリー作品のホームビデオ権を打診されて権利を得た
⇒GKIDSはユニバーサル・ホームビデオと組んでいたがジブリ作品の契約合意ができず、
自分たちで全作品を再オーサリングして新しいジャケットにボーナス映像を入れて販売した
⇒最初の年でこれまでのディズニー年間売り上げの倍になり社内でも誰もがファンになり、
作品リリースに全身全霊を注いでいる⇒これは大きな配給会社ではできないこと
・その後の3年間でジブリに限らず日本アニメの観客が爆発的に増えた
(細田守の「未来のミライ」は、はじめてゴールデングローブ賞にノミネート、ジブリ以外で
はじめてのアカデミー賞長編アニメーション部門にもノミネート、新海誠の「天気の子」は
800万ドル近い興行収入を上げたがコロナで全米の映画館が閉館して公開が終了した)
・2019年1月にはジブリでは決してなかったデジタル・プラットフォーム化の打診があった
⇒1年後に配信、コロナで多くが家での視聴となり新しい観客がジブリと出会うことになった
・「君たちはどう生きるか」については別稿にまかせるが・・・
⇒スタジオジブリが私たちを信頼してくれたこと、この作品に関われたことに感謝している
⇒宮崎駿を他のアニメーション作家と較べないようにスタッフにメモした
⇒素晴らしい映画監督とさえ比較しないで欲しいとも・・・比較するならアインシュタイン、
マイケル・ジョーダン、ゴッホ、モーツァルトといった人たちで100年にひとりの逸材だと
⇒トロント映画祭プレミア上映のイントロダクションで「モーツァルトがまだ作曲している
時代に生きていることを、皆さんは幸せに思うべきだ」と、メモを渡したわけでもない
ギレルモ・デル・トロが全く同じことを言ってくれて本当に嬉しかった
・私は初め「君たちはどう生きるか」を大きな映画祭だけで上映して、それから予告編や
宣伝で盛り上げていこうと考えていた
⇒そうすれば限られた人数だけが作品を見るようコントロールできるからだ
(複雑な映画ゆえに公開前に少数でも否定的なレビューが出たらマイナスインパクトになる)
⇒しかし作品に衝撃を受けた配給部門のチャンス・ハスキーは、観客や批評家がこの作品を
理解できると信じるべきだと主張した
⇒アニメーションを見ない層からの支持も必要で、その強化には数ヶ月かかるだろうとも
⇒私は配給チームを信じることにし、多くの映画祭やイベントに参加して拡大公開の3週間前に
ニューヨークとロサンゼルスで試写会を開いた
⇒結果は報われ「君たちはどう生きるか」は全米初登場1位となった
・・・
ジブリ側への寄稿なので中にはヨイショもあるのでしょうが、北米での売り手側の熱意が
ひしひしと伝わってきて感動しました

2025年01月10日
自分へのお年玉2025
とーとつですが自分へのお年玉2025であります
まずは・・・


乾電池型・直接充電・リチウムイオン充電池の追加であります
ロワジャパンの単三型と単四型それぞれ4本ずつのセットを買ってみました
ご覧のとおり1本あたり500円ほどで100均のアルカリ電池だと20本は買えるお値段ですが、
スペックには1000回は繰り返し使えるとあり、充電に要する電気代はほぼ無視できるので、
単純に考えると、コストはアルカリ電池の1/50・・・つーことになるはず
どちらにも二股の充電コードが付いてたのが便利です

(ちなみに充電には1A以上が推奨されてましたが使用中のは一応2Aです)
(1/13追記です)
自宅に3台あるAM/FMラジオで試してみると、AMもFMも聴けたラジオ、FMだけ聴けたラジオ、
AMもFMも聴けなくなったラジオに分かれました
ネット検索してみると、3.7vから1.5vに降圧するための電池内蔵の変圧器からのノイズが、
アナログの無線機やラジオには影響するとありました
ま、ラジオにより差が出る理由はわかりませんでしたが、いちおー追記しておきます
で、自分へのお年玉のふたつめは、


広角レンズ対応のレンズフードであります
(35mmフィルム換算)28mm以上の広角レンズに使える(ケラれない)とあったので購入しました
で、こちらが(35mmフィルム換算)28mm~300mmズームに付いてた純正レンズフード・・・

せっかくの小型軽量・高倍率ズームレンズなのに、フードを付けっぱだと長くなり嵩張るし、
いちいちフードを脱着するのは面倒だし、レンズ保護にはプラ製でハメ込み式つーのも
やや不安だったし・・・
そう、わたくしレンズをよくぶつけるので保護用としてフードかキャップは必須アイテム、
フードを付けっぱだと収納時にいちいちキャップを付けなくても済みます
で、今回のは・・・


最大径は同じ(72mm)ですが、かなり短くなって付けっぱでもそんなに嵩張りません
(じつは広角対応のラバーフードも探してたのですが、今回はたまたま品切れでした)
さらにプラ製からアルミ製に、ハメ込み式からしっかりした「ねじ式」
になったので、
強度的にも少しは増したかと期待していますメメクラゲに刺されても大丈夫
まあ泥酔してぶつけたらフードどころかレンズもカメラ本体も危ないでしゅが
で、お年玉の最後は(配送料の関係で)買い合わせた安物ショルダーバッグ


モンベルのランバーパックMでも大きすぎるような軽いお出かけ用に買ってみました
重さは280gでサイズは29×20×9cm、容量はランバーパックMのメインポケット部分だけと、
ほぼ同じぐらいですね
で、届くと同時にボトムのクッションを自作

ま、自作といっても古いマットをサイズに合わせてカットしただけでしゅが

内容物の保護だけでなく置いた際に安定しますし、わたくし全てのリュックやバッグに
底敷を入れることにしています
ま、メイン以外のポケットにはマチがなく薄物しか入らないし、ショルダーベルトはペラペラ、
生地も縫製もデザインも安っぽい感じ(お値段相当か
)でしたが・・・
ともかく色合いだけは許せるかと・・・
これでEDCするショルダーバッグも、お出かけ先に応じて・・・


3サイズ揃ったことだし、今年こそ頻繁に外出してリハビリせねばなるまいてベジテ
って、今日も一歩も自宅を出ず(飲みつつ)この記事を書いただけ・・・ひっく

まずは・・・


乾電池型・直接充電・リチウムイオン充電池の追加であります
ロワジャパンの単三型と単四型それぞれ4本ずつのセットを買ってみました
ご覧のとおり1本あたり500円ほどで100均のアルカリ電池だと20本は買えるお値段ですが、
スペックには1000回は繰り返し使えるとあり、充電に要する電気代はほぼ無視できるので、
単純に考えると、コストはアルカリ電池の1/50・・・つーことになるはず
どちらにも二股の充電コードが付いてたのが便利です

(ちなみに充電には1A以上が推奨されてましたが使用中のは一応2Aです)
(1/13追記です)
自宅に3台あるAM/FMラジオで試してみると、AMもFMも聴けたラジオ、FMだけ聴けたラジオ、
AMもFMも聴けなくなったラジオに分かれました
ネット検索してみると、3.7vから1.5vに降圧するための電池内蔵の変圧器からのノイズが、
アナログの無線機やラジオには影響するとありました
ま、ラジオにより差が出る理由はわかりませんでしたが、いちおー追記しておきます
で、自分へのお年玉のふたつめは、


広角レンズ対応のレンズフードであります
(35mmフィルム換算)28mm以上の広角レンズに使える(ケラれない)とあったので購入しました
で、こちらが(35mmフィルム換算)28mm~300mmズームに付いてた純正レンズフード・・・

せっかくの小型軽量・高倍率ズームレンズなのに、フードを付けっぱだと長くなり嵩張るし、
いちいちフードを脱着するのは面倒だし、レンズ保護にはプラ製でハメ込み式つーのも
やや不安だったし・・・
そう、わたくしレンズをよくぶつけるので保護用としてフードかキャップは必須アイテム、
フードを付けっぱだと収納時にいちいちキャップを付けなくても済みます
で、今回のは・・・


最大径は同じ(72mm)ですが、かなり短くなって付けっぱでもそんなに嵩張りません
(じつは広角対応のラバーフードも探してたのですが、今回はたまたま品切れでした)
さらにプラ製からアルミ製に、ハメ込み式からしっかりした「ねじ式」

強度的にも少しは増したかと期待していますメメクラゲに刺されても大丈夫
まあ泥酔してぶつけたらフードどころかレンズもカメラ本体も危ないでしゅが

で、お年玉の最後は(配送料の関係で)買い合わせた安物ショルダーバッグ



モンベルのランバーパックMでも大きすぎるような軽いお出かけ用に買ってみました
重さは280gでサイズは29×20×9cm、容量はランバーパックMのメインポケット部分だけと、
ほぼ同じぐらいですね
で、届くと同時にボトムのクッションを自作


ま、自作といっても古いマットをサイズに合わせてカットしただけでしゅが


内容物の保護だけでなく置いた際に安定しますし、わたくし全てのリュックやバッグに
底敷を入れることにしています
ま、メイン以外のポケットにはマチがなく薄物しか入らないし、ショルダーベルトはペラペラ、
生地も縫製もデザインも安っぽい感じ(お値段相当か

ともかく色合いだけは許せるかと・・・

これでEDCするショルダーバッグも、お出かけ先に応じて・・・


3サイズ揃ったことだし、今年こそ頻繁に外出してリハビリせねばなるまいてベジテ
って、今日も一歩も自宅を出ず(飲みつつ)この記事を書いただけ・・・ひっく

2024年12月25日
忘れられた日本史の現場を歩く
ええ、クリスマスから年末に向けて世間が慌ただしい中、わたくしはひっそりと、
忘れられた日本史の現場を歩いて・・・
・・・おられた方の写真エッセイ集を紹介しておきます
表紙

表紙カバー裏にあった惹句

著者(撮影者)紹介と奥付

恒例により目次のみご紹介


そう、日本史の表舞台にはまず登場しない「歴史の現場」を訪れた写真エッセイ集で、
わたくしが名前だけでも知ってたのは「大阪七墓」ぐらいでした
以下、わたくしの興味からのランダムな読書メモです
(紹介できないのが残念ですが写真作品も興味津々でした)
・遊女、からゆきさん、あめゆきさん・・・
→船泊(港)や宿場、都市の墓地周辺には色街が形成され、今もその名残をとどめている
・1920年(大正9年)に初めて国勢調査が行われ、無国籍者の存在が公のものとなった
→サンカ、木地師など100年前の日本では、今よりはるかに多様な生き方が存在していた
・戦国時代末期から近代にかけての色街の痕跡については、ある程度の記録が残ってるが、
古代から中世にかけての色街や遊女に触れている書物は少ない(鎌倉時代の吾妻鏡など)
→古代の官道沿いの宿場遊女たちは傀儡女、白拍子と呼ばれていた
・平安時代後期の傀儡子記より
→男は狩猟・操り人形・幻術など、女は淫らな歌や踊りで・・・
→今様、田楽、神歌、辻歌、催馬楽など・・・
→彼らは土地を持たずに流離う
→芸能に秀でており天幕と敷物の家に住み北方の騎馬民族のような異貌
(インドを発祥とし中東、ヨーロッパ、南米にも広がったロマとする研究もある)
・後白河法皇が撰した梁塵秘抄(今様)
→法皇の今様の師匠が傀儡女の乙前で岐阜県大垣市青墓町(東山道の宿場)の出身
・大阪七墓(江戸時代初期の再開発で大坂三郷の外縁部にまとめられた墓地)
→梅田・飛田・千日前・(最古の)南浜・(天神橋)葭原・小橋・蒲生の7ヶ所
→2020年、うめきた2期の開発区域から1500体以上の人骨や副葬品が見つかった
→1887年(明治20年)に有縁墓は移転してるので、この全ては遊女などの無縁仏
→梅田兎我野には今もラブホテルが立ち並び、飛田遊郭は今や外国人の観光スポットに
・福島県浪江町津島は天明の飢饉で地区が全滅した
→浄土真宗の信者が北陸から入植し、美しい里山風景の原型を作り上げた
→戦後には満洲からの引揚者も入植した→電気が通ったのは1959年(昭和34年)
→2011年の原発事故で無人となり水田は荒れ地に戻っている・・・
おわりにより
・(著者は)20代から30代は世界中を流離っていた
→東南アジア(特にタイがお気に入り)では女性だけでなく
時が止まった雰囲気に居心地の
良さを感じ、長く滞在はしていたものの暮らすことはなかった
→年を重ね、生まれ育った日本を巡りたいと思ったのも本にまとめた理由の一つ
・今回は40代から50代にかけての自分探しの旅でもあった
→歴史に埋もれた事象を辿りながら日本の素晴らしさを感じずにはいられなかった
・・・
特に平安時代の傀儡女や白拍子、大正時代に公になったサンカや木地師などの生き方について
の記述には興味津々でした
もちろん専門家による研究もあるのでしょうが、前回記事の狩猟採集民の文明と同様に、
ほんの100年前まで日本でも多様な生き方があったんですね
そーいや世界が国家(国民)中心になったのも僅か400年前からで、それまで人類の殆どは
国家や国境とは関係なく自由に生きてたんですよね
なので国家→国家同盟→同盟同士の対立という、今の道筋だけではないはずなのに・・・
と人類の迷走は来年も続きそうですが、殆どの時代、殆どの問題は戦争なしに解決してきた
のですから希望を持って、個人でできることから手を付けていきましょう!!!
来年が少しでも平和で良い年になりますように・・・
忘れられた日本史の現場を歩いて・・・
・・・おられた方の写真エッセイ集を紹介しておきます
表紙

表紙カバー裏にあった惹句

著者(撮影者)紹介と奥付

恒例により目次のみご紹介


そう、日本史の表舞台にはまず登場しない「歴史の現場」を訪れた写真エッセイ集で、
わたくしが名前だけでも知ってたのは「大阪七墓」ぐらいでした
以下、わたくしの興味からのランダムな読書メモです
(紹介できないのが残念ですが写真作品も興味津々でした)
・遊女、からゆきさん、あめゆきさん・・・
→船泊(港)や宿場、都市の墓地周辺には色街が形成され、今もその名残をとどめている
・1920年(大正9年)に初めて国勢調査が行われ、無国籍者の存在が公のものとなった
→サンカ、木地師など100年前の日本では、今よりはるかに多様な生き方が存在していた
・戦国時代末期から近代にかけての色街の痕跡については、ある程度の記録が残ってるが、
古代から中世にかけての色街や遊女に触れている書物は少ない(鎌倉時代の吾妻鏡など)
→古代の官道沿いの宿場遊女たちは傀儡女、白拍子と呼ばれていた
・平安時代後期の傀儡子記より
→男は狩猟・操り人形・幻術など、女は淫らな歌や踊りで・・・

→今様、田楽、神歌、辻歌、催馬楽など・・・
→彼らは土地を持たずに流離う
→芸能に秀でており天幕と敷物の家に住み北方の騎馬民族のような異貌
(インドを発祥とし中東、ヨーロッパ、南米にも広がったロマとする研究もある)
・後白河法皇が撰した梁塵秘抄(今様)
→法皇の今様の師匠が傀儡女の乙前で岐阜県大垣市青墓町(東山道の宿場)の出身
・大阪七墓(江戸時代初期の再開発で大坂三郷の外縁部にまとめられた墓地)
→梅田・飛田・千日前・(最古の)南浜・(天神橋)葭原・小橋・蒲生の7ヶ所
→2020年、うめきた2期の開発区域から1500体以上の人骨や副葬品が見つかった
→1887年(明治20年)に有縁墓は移転してるので、この全ては遊女などの無縁仏
→梅田兎我野には今もラブホテルが立ち並び、飛田遊郭は今や外国人の観光スポットに

・福島県浪江町津島は天明の飢饉で地区が全滅した
→浄土真宗の信者が北陸から入植し、美しい里山風景の原型を作り上げた
→戦後には満洲からの引揚者も入植した→電気が通ったのは1959年(昭和34年)
→2011年の原発事故で無人となり水田は荒れ地に戻っている・・・
おわりにより
・(著者は)20代から30代は世界中を流離っていた
→東南アジア(特にタイがお気に入り)では女性だけでなく

良さを感じ、長く滞在はしていたものの暮らすことはなかった
→年を重ね、生まれ育った日本を巡りたいと思ったのも本にまとめた理由の一つ
・今回は40代から50代にかけての自分探しの旅でもあった
→歴史に埋もれた事象を辿りながら日本の素晴らしさを感じずにはいられなかった
・・・
特に平安時代の傀儡女や白拍子、大正時代に公になったサンカや木地師などの生き方について
の記述には興味津々でした
もちろん専門家による研究もあるのでしょうが、前回記事の狩猟採集民の文明と同様に、
ほんの100年前まで日本でも多様な生き方があったんですね
そーいや世界が国家(国民)中心になったのも僅か400年前からで、それまで人類の殆どは
国家や国境とは関係なく自由に生きてたんですよね
なので国家→国家同盟→同盟同士の対立という、今の道筋だけではないはずなのに・・・
と人類の迷走は来年も続きそうですが、殆どの時代、殆どの問題は戦争なしに解決してきた
のですから希望を持って、個人でできることから手を付けていきましょう!!!
来年が少しでも平和で良い年になりますように・・・
2024年12月18日
フロンティア最古の巨石遺跡の謎・視聴メモ
正確な番組タイトルはフロンティア「最古の巨石遺跡が語る文明の起源」
12月17日に放映されたNHK番組の視聴メモです
そう、こちらの本「万物の黎明」でも取り上げられてたトルコ南東部(メソポタミアの北部)にある、
ギョベックリ・テペなど農耕以前の狩猟採集民の遺跡を紹介する番組で、以前から興味があったので
忘れないうちに概要をランダムにメモしておきます
「昔の人たちは原始的だったと考えがちだが、自分たちが最も優れていると決めつける傲慢な文明観は
この遺跡によって覆された」(トルコの考古学者)
Chapter1「丘に通う考古学者」より
・ギョベックリ・テペ遺跡の紹介
→動物のレリーフや人間の身体を表現したT字型石柱の巨大神殿など
→年代測定により建てられたのは12000年前の新石器時代初頭と判明している
→家畜や栽培植物の痕跡はまったく見られず神殿を築いたのは狩猟採集民だった
→発掘したのはドイツの考古学者クラウツ・シュミット(1990年代半ばからで2014年に60歳で死亡)
・文明の起源は農耕?
→農耕の起源と定住生活の開始はつながっていて文明を築くには農耕が必要というのがこれまでの定説
→しかしここでは狩猟採集民がすべてをやり遂げていた
→定説(狩猟採集では移動するため大きな建物を建てることはなく、1万年前に農耕が始まってから定住し、
やがて貧富の差が生まれて権力者が巨大建造物を造った、という説)は間違っていた
・シリアの新石器時代の集落遺跡などは川の近くにあって今も畑がある農村地帯
→ギョベックリ・テペ遺跡は丘の頂上にあり水利もなく灰や炭などの生活痕跡も発見されない謎
Chapter2「麦を愛でる考古学者」より
・2007年からギョベックリ・テペ遺跡を研究する日本の植物考古学者・丹野研一
→農耕の起源は人類史でも大きなイベントのはずだが研究者は比較的少ない
→様々の遺跡を調べたが10500年前より古い遺跡からは栽培種の麦は見つからなかった
→なのでギョベックリ・テペ遺跡の時代の麦はすべて野生種のはず
→野生種の麦がよく生える場所は各地にある
→すべてを刈らずに種を残し発芽すれば他の雑草さえ刈っておけば翌年も多く収穫できる
→最初はつらい「農耕」ではなく耕さず成長を楽しんでいたのではないか?(プレイファーミング?)
・シュミット博士は現場の研究者にビールのロング缶を振る舞ってくれ、自分も一気に4缶を空けてから
、
「この遺跡から植物の痕跡は出土していないが自分はビールを作っていたと思う」と言っていた
→ビールは5500年前のメソポタミア文明からとされてたがギョベックリ・テペ遺跡は11000年以上前
→だが2019年の論文で、それ以前にビールがなかったとは言えない結果が出てきた
・実際に新石器時代イスラエルの洞窟からも醸造の痕跡が発見されている(オーストリアの考古学者)
→ギョベックリ・テペ遺跡からは大量の石の道具が出土している
→麦など穀物を粉砕する石器が最も多く、穀物をすり潰した痕跡も発見された
→今のギョベックリ・テペ遺跡の周辺でも春には野生の穀物が一斉に生える
→おそらくこれが遺跡を築いた理由のひとつだろう
→出土した多くの石桶には160ℓもの水が入る
→石桶と挽いた麦と水で実験するとシチューやビールが簡単にできた
→シュミット博士の解釈では遺跡は狩猟採集民の小集団が集まる聖なる神殿とのことだったが、
→科学的に調理器具や穀物の痕跡から大量のシチューやビールが生産されていたことが確認された
→つまり、この世界最古の巨大建物はビール宴会とセットだったのだ!!!
(きつい仕事と宴会がセットになっている例は伝統的社会にもよく見られる)
Chapter3「新たな巨大神殿」より
(ギョベックリ・テペ遺跡周辺の同時代の遺跡)
・カラハンテペ遺跡
→トルコの研究チームが発掘している
→ギョベックリ・テペ遺跡と同じ巨大遺跡で現在発掘されているのは全体の2.5%
→ギョベックリ・テペ遺跡にはない、通過儀礼に使ったと思われる遺跡もあった
→儀礼だけに使われる神殿(宴会場)だったのか定住集落だったのか?
→日本の考古学者により発見された石器は狩猟用の矢じりや穀物収穫用の鎌先など、神殿建設用ではなく
日常生活に使う普通の石器ばかりだった
→ギョベックリ・テペ遺跡と同じ変わった遺跡だが、人が普通に定住していた
→居住用の建物もあり住居と巨大神殿は同時期に使用されていた
(ギョベックリ・テペ遺跡でも後に住居跡や貯水槽が発見された→特定時期の祭礼場ではなく定住集落?)
→「定住する狩猟採集民のコミュニティ」があったのだ
・カラハンテペ遺跡から1.5km先にあるV字型の長大な石組みの壁跡
→付近で狩猟用の罠も見つかっており、追い込んで動物を効率よく捕まえるためと考えられている
→単体ではなく群れ全体を捕まえるようになった→この先に動物の家畜化がある
→当時の環境はもっと湿潤で周りは森に覆われていたという研究もあるので定住可能だったのかも
→大勢が一緒に暮らすようになり社会秩序を保つ仕組みも必要になったはず
→神殿などにより過去の神話や物語を共有する儀式で絆を強めたのでは
・ハルベトスワン・テペシ遺跡
→日本の研究チームが発掘している
→3年目の今年、岩盤近くで人骨が見つかった→来年以降に他の遺跡との関係性などを分析する
→現在、同時代の遺跡8か所で発掘が行われている→2021年からの「石の丘プロジェクト」
・サイブルチ遺跡
→今も人が住む村の中にあり20km離れたギョベックリ遺跡より数百年後の遺跡
→ヒョウや雄牛と人間のレリーフがあるがギョベックリとは逆で動物より人間がリアルになっている
→カラハンテペ遺跡でも2年後にリアルな人間像が発見された
→ギョベックリから数百年後には人間を宇宙の中心に置き始めたことを反映している
→それまで自然の一部だった人間が自然に力を行使する存在に変わり始めた
「狩猟採集民が高度な遺跡を作って定住していたことが判明して、これまで信じられていた人類の歩みを
考え直さないといけない段階にきている」
「人類の歴史には様々な可能性があって、そのひとつがギョベックリ遺跡であり、たまたま現在の文明も
その可能性のひとつに過ぎない、ということが重要」
云々・・・
いやあ、じつに面白かったです
冒頭にリンクした本に書かれてたとおり、これまでの人類史・文明史を一変させる遺跡のひとつですね
狩猟採集とはいっても、狩猟は今でいう定置網のような感じで季節的に大量捕獲して、採集も季節的に
効率よく収穫できるよう工夫してやってたんですね
それなら農耕や牧畜などの重労働をしなくても済むので、みんなで集まってビールで大宴会!!!
6000年以上も続いた縄文集落のパターンといい、どれもが文明の一形態であって、農耕以降の文明も
産業革命以降の文明も、あくまで文明の一形態に過ぎない、というのは確かに重要な認識で、どの文明が
より優れているのか、より進化しているのかというハナシではないんですね・・・
それにしても・・・
人類は12000年も前の狩猟採集時代から定住してみんなでビール大宴会してたんですね!!!
しかも農耕や牧畜といった重労働はせず、狩猟採集時期以外の1年の殆どをのんびり遊んで暮らしてた
うーむ、現在のわたくしの暮らしそのものやな・・・
あっ、わたくしは一時的な狩猟採集さえせず、たまにビールやつまみを買いに行くだけか・・・
12月17日に放映されたNHK番組の視聴メモです
そう、こちらの本「万物の黎明」でも取り上げられてたトルコ南東部(メソポタミアの北部)にある、
ギョベックリ・テペなど農耕以前の狩猟採集民の遺跡を紹介する番組で、以前から興味があったので
忘れないうちに概要をランダムにメモしておきます
「昔の人たちは原始的だったと考えがちだが、自分たちが最も優れていると決めつける傲慢な文明観は
この遺跡によって覆された」(トルコの考古学者)
Chapter1「丘に通う考古学者」より
・ギョベックリ・テペ遺跡の紹介
→動物のレリーフや人間の身体を表現したT字型石柱の巨大神殿など
→年代測定により建てられたのは12000年前の新石器時代初頭と判明している
→家畜や栽培植物の痕跡はまったく見られず神殿を築いたのは狩猟採集民だった
→発掘したのはドイツの考古学者クラウツ・シュミット(1990年代半ばからで2014年に60歳で死亡)
・文明の起源は農耕?
→農耕の起源と定住生活の開始はつながっていて文明を築くには農耕が必要というのがこれまでの定説
→しかしここでは狩猟採集民がすべてをやり遂げていた
→定説(狩猟採集では移動するため大きな建物を建てることはなく、1万年前に農耕が始まってから定住し、
やがて貧富の差が生まれて権力者が巨大建造物を造った、という説)は間違っていた
・シリアの新石器時代の集落遺跡などは川の近くにあって今も畑がある農村地帯
→ギョベックリ・テペ遺跡は丘の頂上にあり水利もなく灰や炭などの生活痕跡も発見されない謎
Chapter2「麦を愛でる考古学者」より
・2007年からギョベックリ・テペ遺跡を研究する日本の植物考古学者・丹野研一
→農耕の起源は人類史でも大きなイベントのはずだが研究者は比較的少ない
→様々の遺跡を調べたが10500年前より古い遺跡からは栽培種の麦は見つからなかった
→なのでギョベックリ・テペ遺跡の時代の麦はすべて野生種のはず
→野生種の麦がよく生える場所は各地にある
→すべてを刈らずに種を残し発芽すれば他の雑草さえ刈っておけば翌年も多く収穫できる
→最初はつらい「農耕」ではなく耕さず成長を楽しんでいたのではないか?(プレイファーミング?)
・シュミット博士は現場の研究者にビールのロング缶を振る舞ってくれ、自分も一気に4缶を空けてから

「この遺跡から植物の痕跡は出土していないが自分はビールを作っていたと思う」と言っていた

→ビールは5500年前のメソポタミア文明からとされてたがギョベックリ・テペ遺跡は11000年以上前
→だが2019年の論文で、それ以前にビールがなかったとは言えない結果が出てきた

・実際に新石器時代イスラエルの洞窟からも醸造の痕跡が発見されている(オーストリアの考古学者)
→ギョベックリ・テペ遺跡からは大量の石の道具が出土している
→麦など穀物を粉砕する石器が最も多く、穀物をすり潰した痕跡も発見された
→今のギョベックリ・テペ遺跡の周辺でも春には野生の穀物が一斉に生える
→おそらくこれが遺跡を築いた理由のひとつだろう
→出土した多くの石桶には160ℓもの水が入る
→石桶と挽いた麦と水で実験するとシチューやビールが簡単にできた
→シュミット博士の解釈では遺跡は狩猟採集民の小集団が集まる聖なる神殿とのことだったが、
→科学的に調理器具や穀物の痕跡から大量のシチューやビールが生産されていたことが確認された
→つまり、この世界最古の巨大建物はビール宴会とセットだったのだ!!!

(きつい仕事と宴会がセットになっている例は伝統的社会にもよく見られる)
Chapter3「新たな巨大神殿」より
(ギョベックリ・テペ遺跡周辺の同時代の遺跡)
・カラハンテペ遺跡
→トルコの研究チームが発掘している
→ギョベックリ・テペ遺跡と同じ巨大遺跡で現在発掘されているのは全体の2.5%
→ギョベックリ・テペ遺跡にはない、通過儀礼に使ったと思われる遺跡もあった
→儀礼だけに使われる神殿(宴会場)だったのか定住集落だったのか?
→日本の考古学者により発見された石器は狩猟用の矢じりや穀物収穫用の鎌先など、神殿建設用ではなく
日常生活に使う普通の石器ばかりだった
→ギョベックリ・テペ遺跡と同じ変わった遺跡だが、人が普通に定住していた
→居住用の建物もあり住居と巨大神殿は同時期に使用されていた
(ギョベックリ・テペ遺跡でも後に住居跡や貯水槽が発見された→特定時期の祭礼場ではなく定住集落?)
→「定住する狩猟採集民のコミュニティ」があったのだ
・カラハンテペ遺跡から1.5km先にあるV字型の長大な石組みの壁跡
→付近で狩猟用の罠も見つかっており、追い込んで動物を効率よく捕まえるためと考えられている
→単体ではなく群れ全体を捕まえるようになった→この先に動物の家畜化がある
→当時の環境はもっと湿潤で周りは森に覆われていたという研究もあるので定住可能だったのかも
→大勢が一緒に暮らすようになり社会秩序を保つ仕組みも必要になったはず
→神殿などにより過去の神話や物語を共有する儀式で絆を強めたのでは
・ハルベトスワン・テペシ遺跡
→日本の研究チームが発掘している
→3年目の今年、岩盤近くで人骨が見つかった→来年以降に他の遺跡との関係性などを分析する
→現在、同時代の遺跡8か所で発掘が行われている→2021年からの「石の丘プロジェクト」
・サイブルチ遺跡
→今も人が住む村の中にあり20km離れたギョベックリ遺跡より数百年後の遺跡
→ヒョウや雄牛と人間のレリーフがあるがギョベックリとは逆で動物より人間がリアルになっている
→カラハンテペ遺跡でも2年後にリアルな人間像が発見された
→ギョベックリから数百年後には人間を宇宙の中心に置き始めたことを反映している
→それまで自然の一部だった人間が自然に力を行使する存在に変わり始めた
「狩猟採集民が高度な遺跡を作って定住していたことが判明して、これまで信じられていた人類の歩みを
考え直さないといけない段階にきている」
「人類の歴史には様々な可能性があって、そのひとつがギョベックリ遺跡であり、たまたま現在の文明も
その可能性のひとつに過ぎない、ということが重要」
云々・・・
いやあ、じつに面白かったです
冒頭にリンクした本に書かれてたとおり、これまでの人類史・文明史を一変させる遺跡のひとつですね
狩猟採集とはいっても、狩猟は今でいう定置網のような感じで季節的に大量捕獲して、採集も季節的に
効率よく収穫できるよう工夫してやってたんですね
それなら農耕や牧畜などの重労働をしなくても済むので、みんなで集まってビールで大宴会!!!

6000年以上も続いた縄文集落のパターンといい、どれもが文明の一形態であって、農耕以降の文明も
産業革命以降の文明も、あくまで文明の一形態に過ぎない、というのは確かに重要な認識で、どの文明が
より優れているのか、より進化しているのかというハナシではないんですね・・・
それにしても・・・
人類は12000年も前の狩猟採集時代から定住してみんなでビール大宴会してたんですね!!!

しかも農耕や牧畜といった重労働はせず、狩猟採集時期以外の1年の殆どをのんびり遊んで暮らしてた

うーむ、現在のわたくしの暮らしそのものやな・・・
あっ、わたくしは一時的な狩猟採集さえせず、たまにビールやつまみを買いに行くだけか・・・
