書斎
2026年02月01日
世界の食卓から社会が見える
とーとつですが・・・

~世界の食卓から社会が見える~とゆー本の読書メモであります
著者紹介と奥付

目次


この本に出てくる国・地域
(著作物の一部なので公開に問題があれば非公開設定にします)

以下、てきとーな読後メモです
(やはり著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1章 食と政治より
・ブルガリアのヨーグルトは伝統食だったが重要な食物ではなかった
⇒社会主義政権の国策により1980年代には消費量が世界一に
⇒1991年のソ連崩壊で小規模になり消費量も半減、10年間は食料そのものが乏しかった
⇒その後に食料事情は改善したが資本主義化やEU衛生基準で工業生産・粗悪品も増加した
・メキシカンタコスとTEX-MEX(アメリカン)タコス(略)
⇒トルティーヤもアメリカから輸入した飼料用遺伝子組み換えとうもろこしに
⇒1994年のNAFTA(北米自由貿易協定)加盟から⇒地元農家の困窮も
・埼玉県本庄市のベトナム寺(駆け込み寺)のお盆料理⇒技能実習生の実態(略)
・スーダンの主食だったソルガム(こうりゃん)のアスィダ(練り粥)やキスラ(クレープ)
⇒余剰農産物協定によりアメリカから輸入した小麦製のパンに
⇒返済金による財政圧迫⇒社会混乱
⇒ロシア小麦とウクライナ小麦へ転換したが戦争で輸入困難に
⇒パン価格が4年で50倍に(コンビニの100円おにぎりが5000円になったようなもの)
第2章 食と宗教より
・ユダヤ教の食戒律コーシャ⇒同じ家族でも変わっていく(略)
・食戒律が最も厳しいとされるジャイナ教の生命体の分類レベル
5⇒触覚・味覚・臭覚・視覚・聴覚を持つ生命体⇒動物、人間
4⇒触覚・味覚・臭覚・視覚を持つ生命体⇒クモ、ハチ
3⇒触覚・味覚・臭覚を持つ生命体⇒アリ、ガ
2⇒触覚・味覚を持つ生命体⇒貝、細菌
1⇒触覚のみを持つ生命体⇒植物、水
⇒生きるためにレベル1(不動のもの)だけは食べざるを得ない
⇒植物でも地面の下のものなど他の生命を奪う可能性のあるものは避ける
・食べる/食べない、食べたい/食べたくないの線引きは変化する
第3章 食と地球環境より
・ボツワナのティラピア養殖
⇒内陸・高温・小資本・現地流通に向き高たんぱく低脂肪
⇒小骨が少なく身が骨から剝がれやすく、食べやすくておいしい
⇒アジア・アフリカでは未来の食を救うヒーローとも
・メキシコのアボガド
⇒海外需要で価格高騰・農地拡大
⇒森林伐採・水不足(トマトの100倍必要)・麻薬カルテルの資金源にも
⇒アボガド・大豆ミート・アーモンドミルクは環境にとって畜産よりましなのか?
第4章 食の創造性より
・フィンランドの教育(略)
⇒自分独自のパンケーキ生地を作り焼くリビア(8歳)とそれを見守る母親(略)
(ただし2012年あたりから教育格差問題も生じている)
・ベトナム・フエ・トーラウ寺に集まる人たちに供する精進料理(肉食もどき料理)
⇒菜食ルーツのインドに「肉食もどき料理」がなく東アジアだけなのは何故か
①インドから南伝の上座部仏教(ミャンマー・タイ・スリランカ)では托鉢で僧の(肉食を含む)
食料が得られたが、北伝の大乗仏教では国家宗教として僧院に富が集中し菜食や高級精進料理に
(中国・ベトナム・台湾・朝鮮・日本)
②インドの牧畜乳製品が稲作文化の東アジアでは稲と組み合わせやすい大豆製品に
③インドでは生涯ずっと菜食だが東アジアでは肉食が身近にあり行き来している
⇒菜食に慣れていない人に仏教に興味をもってもらうためにも発達した
⇒地球環境のための代替肉も最初の一歩として「僧からの優しさの贈り物」と同様に・・・
第5章 食料生産より
・キューバのオーガニック農業
⇒60年前のアメリカによる化学肥料・農薬・トラクター・燃料などの禁輸制裁から
⇒すべてを輸入に頼る日本が自立した農業を行うための「島国農業の先輩」でもある
・中国・上海の野菜事情から
⇒化学肥料・農薬の使用量・残留量の多さ⇒毒菜問題
⇒ともかく家庭でよく洗う(飲食店では洗わないとか)
⇒土壌劣化・水位低下などが生じており持続可能な農業ではない
⇒ただし中央集権国家なのでオーガニック農業への転換も早く耕地面積は世界一
・キューバ式は安心安全で持続可能だけど量が足りず(自給率30%)食事内容も選べない
⇒中国式は安全でも持続可能でもないけど飢える心配がなく食事の選択肢も多い
⇒どちらの社会で生きたいか、農業の未来はどこにあるか・・・
・ボツワナのモパネワーム(パニ)
⇒貴重な蛋白源で食糧危機を救うといわれているが・・・
⇒ボツワナは牛肉の輸出国であり国内消費量も中国やベトナムより多い
⇒隣国ジンバブエでは食べるためにモパネワームを捕る人は少ない
⇒故郷長野の山菜狩りと同じ季節の楽しみや気軽な現金収入の側面もあるのではと思った
・卵大国(世界1~2位)の日本は飼料が殆ど輸入で高いはずなのに世界比較では安い理由
⇒バタリーゲージ飼育で工業生産化しているから
⇒EUでは2012年から禁止されているが日本では平地飼い放し飼いする土地や人手が・・・
第6章 伝統食と課題より
・モルドバのワイン
⇒飲酒量は世界一でアルコール関連死は全死因の26%、社会的問題も多い
⇒記録されない自家製ワインが生産量の3~7割とされる
⇒ところが自家製ワインを規制すれば文化的にも経済的にも大きなダメージが生ずる
・中華文化圏の月餅
⇒中秋節に送り合うもので食品企業だけでなく各企業が売り出し法人需要が多い
⇒冷凍できればいいが食べきれず大量に廃棄される
⇒簡易パッケージ化などの規制も出るが伝統側からの反発もある
⇒「慣れたもの」への執着が時代遅れにならないように・・・
・イスラム圏のラマダンの時期
⇒じつはお菓子の需要や食の話題が一番盛り上がる時期
第7章 食と気候より
・ウズベキスタンの野菜に較べ日本の野菜が水っぽいと言われたのは何故か
⇒雨量、土壌、栽培方法などのせいではなく品種改良のせいだった
⇒その目的は「おいしくて扱いやすい」野菜を作ること
⇒NHK「今日の料理」でも野菜の下茹で・煮る時間とも半世紀間ずっと減り続けている
⇒消費者が求めるのは「手間をかけず」おいしく食べられる「味が薄い野菜」
(ウズベキスタンでは野菜も肉も火が通るのに時間がかかるので作れるのは一品だけ)
・素材の味を楽しむために「素材の味を薄くする品種改良」を求めたのが現代の日本料理とも
⇒スーパーの小松菜は茹でると鮮やかな緑になり噛んだ瞬間に甘くて口中で柔らかくなる
⇒低肥料無農薬の小松菜は茹でると茹で汁が苦く緑に染まりくすんだ黄緑になり、噛むと
苦みや酸味もあり、これを活かす調理には手間と工夫が必要
⇒食べやすくなって野菜嫌いも台所仕事の負担も減り「素材を活かした日本料理」が何品も並ぶ
⇒一方、ここ数十年で本来の野菜の味や栄養素も、それを活かした日本料理も家庭から消えた
⇒自分は何を食べて生きたいのか・・・
・コロンビアのスープ
⇒3種類のジャガイモを使うがスープに溶けるもの溶けないものなど全く別の食材として扱い
トウモロコシなど他の食材も種類が豊富だった
⇒ケッペンの気候区分でもコロンビアは全てが育ち単位面積当たりの生物多様性は世界一
⇒コロンブス大航海時代以降に持ち込まれたヨーロッパ産品も多い
⇒料理は地理と歴史でできている
・世界中の家庭の朝食がパンとシリアルになってきている
⇒エネルギー源の炭水化物が摂れて調理の手間がなく保存が効くから
⇒アンドリュー・ドルビー著「図説朝食の歴史」によれば、
・朝食の誕生は約9000年前の新石器時代で保存食料の登場による
・旧石器時代の調査をしたレヴィ・ストロースの記録に朝食という言葉はないそうだが、
これは朝すぐに食事ができることなどあり得なかったということと解釈できる
・新石器時代に農業がはじまり余剰農産物を貯蔵するようになって朝食の概念ができた
・パンやシリアル以外でも貯蔵に向く食物の組み合わせが世界の家庭でも多かった
⇒ハム、チーズ、卵、漬物、ジャムなどの果実保存食、冷ご飯、前日の残り物・・・
・栄養的に朝食に必要なのは脳のエネルギー源となる炭水化物、体温を上げるタンパク質、
それらを吸収するためのビタミンとミネラルと夜に失われた水分
⇒パンにハムやチーズとコーヒーや、シリアルにミルクの朝食は野菜保存食や果物ジャムとも
合わせやすく数分で用意できて合理的で完璧なので(悔しいけど)これが必然か・・・
第8章 食と民族より
・パレスチナのオリーブの塩漬け
(パレスチナ人家庭の実態とオリーブの木⇒略)
・ヨルダンのシリア菓子
(ヨルダンのシリア難民家庭の実態と料理⇒略)
おわりにより
・「おいしい/おいしくない」だけでない料理の味わい方を知ってほしいと思った
⇒アボガドやオリーブなどの食材や料理⇒その先を見つめてほしい
・あなたの明日からの食が「おいしい」を超えて世界への扉となることを・・・
・・・
各章タイトルにあった政治・宗教・地球環境・創造性・食料生産・伝統・気候・民族は、
確かにその地域の食と密接に関連しますし、それが世界の食を知る楽しみのひとつだと、
わたくしも思ってますので、なかなか興味深く読めました
この本では取り上げてないボルネオ島の食も、各先住民の伝統食材と調理法による食から、
マレー系や中華系やインド系の人たちの持ち込んだ様々な食材や調理法による食まで、
移民や植民や開発の歴史など様々な背景を知ることで、少しは食の現状が見えました
なので、どこでも現地で説明を聞きつつ現地の食を味わうのを楽しみにしてたのですが、
さすがに著者のようにホームステイして食材や調理まで詳しく知る機会は滅多に・・・
当記事では問題提起部分のメモが多いですが、著者が実際に世界各地でホームステイして
買い出し、調理、食事を共にした際の驚きや困惑や感動の部分もとても新鮮で魅力的でした
興味のある方は、ぜひご一読を・・・

~世界の食卓から社会が見える~とゆー本の読書メモであります
著者紹介と奥付

目次


この本に出てくる国・地域
(著作物の一部なので公開に問題があれば非公開設定にします)

以下、てきとーな読後メモです
(やはり著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第1章 食と政治より
・ブルガリアのヨーグルトは伝統食だったが重要な食物ではなかった
⇒社会主義政権の国策により1980年代には消費量が世界一に
⇒1991年のソ連崩壊で小規模になり消費量も半減、10年間は食料そのものが乏しかった
⇒その後に食料事情は改善したが資本主義化やEU衛生基準で工業生産・粗悪品も増加した
・メキシカンタコスとTEX-MEX(アメリカン)タコス(略)
⇒トルティーヤもアメリカから輸入した飼料用遺伝子組み換えとうもろこしに
⇒1994年のNAFTA(北米自由貿易協定)加盟から⇒地元農家の困窮も
・埼玉県本庄市のベトナム寺(駆け込み寺)のお盆料理⇒技能実習生の実態(略)
・スーダンの主食だったソルガム(こうりゃん)のアスィダ(練り粥)やキスラ(クレープ)
⇒余剰農産物協定によりアメリカから輸入した小麦製のパンに
⇒返済金による財政圧迫⇒社会混乱
⇒ロシア小麦とウクライナ小麦へ転換したが戦争で輸入困難に
⇒パン価格が4年で50倍に(コンビニの100円おにぎりが5000円になったようなもの)
第2章 食と宗教より
・ユダヤ教の食戒律コーシャ⇒同じ家族でも変わっていく(略)
・食戒律が最も厳しいとされるジャイナ教の生命体の分類レベル
5⇒触覚・味覚・臭覚・視覚・聴覚を持つ生命体⇒動物、人間
4⇒触覚・味覚・臭覚・視覚を持つ生命体⇒クモ、ハチ
3⇒触覚・味覚・臭覚を持つ生命体⇒アリ、ガ
2⇒触覚・味覚を持つ生命体⇒貝、細菌
1⇒触覚のみを持つ生命体⇒植物、水
⇒生きるためにレベル1(不動のもの)だけは食べざるを得ない
⇒植物でも地面の下のものなど他の生命を奪う可能性のあるものは避ける
・食べる/食べない、食べたい/食べたくないの線引きは変化する
第3章 食と地球環境より
・ボツワナのティラピア養殖
⇒内陸・高温・小資本・現地流通に向き高たんぱく低脂肪
⇒小骨が少なく身が骨から剝がれやすく、食べやすくておいしい
⇒アジア・アフリカでは未来の食を救うヒーローとも
・メキシコのアボガド
⇒海外需要で価格高騰・農地拡大
⇒森林伐採・水不足(トマトの100倍必要)・麻薬カルテルの資金源にも
⇒アボガド・大豆ミート・アーモンドミルクは環境にとって畜産よりましなのか?
第4章 食の創造性より
・フィンランドの教育(略)
⇒自分独自のパンケーキ生地を作り焼くリビア(8歳)とそれを見守る母親(略)
(ただし2012年あたりから教育格差問題も生じている)
・ベトナム・フエ・トーラウ寺に集まる人たちに供する精進料理(肉食もどき料理)
⇒菜食ルーツのインドに「肉食もどき料理」がなく東アジアだけなのは何故か
①インドから南伝の上座部仏教(ミャンマー・タイ・スリランカ)では托鉢で僧の(肉食を含む)
食料が得られたが、北伝の大乗仏教では国家宗教として僧院に富が集中し菜食や高級精進料理に
(中国・ベトナム・台湾・朝鮮・日本)
②インドの牧畜乳製品が稲作文化の東アジアでは稲と組み合わせやすい大豆製品に
③インドでは生涯ずっと菜食だが東アジアでは肉食が身近にあり行き来している
⇒菜食に慣れていない人に仏教に興味をもってもらうためにも発達した
⇒地球環境のための代替肉も最初の一歩として「僧からの優しさの贈り物」と同様に・・・
第5章 食料生産より
・キューバのオーガニック農業
⇒60年前のアメリカによる化学肥料・農薬・トラクター・燃料などの禁輸制裁から
⇒すべてを輸入に頼る日本が自立した農業を行うための「島国農業の先輩」でもある
・中国・上海の野菜事情から
⇒化学肥料・農薬の使用量・残留量の多さ⇒毒菜問題
⇒ともかく家庭でよく洗う(飲食店では洗わないとか)
⇒土壌劣化・水位低下などが生じており持続可能な農業ではない
⇒ただし中央集権国家なのでオーガニック農業への転換も早く耕地面積は世界一
・キューバ式は安心安全で持続可能だけど量が足りず(自給率30%)食事内容も選べない
⇒中国式は安全でも持続可能でもないけど飢える心配がなく食事の選択肢も多い
⇒どちらの社会で生きたいか、農業の未来はどこにあるか・・・
・ボツワナのモパネワーム(パニ)
⇒貴重な蛋白源で食糧危機を救うといわれているが・・・
⇒ボツワナは牛肉の輸出国であり国内消費量も中国やベトナムより多い
⇒隣国ジンバブエでは食べるためにモパネワームを捕る人は少ない
⇒故郷長野の山菜狩りと同じ季節の楽しみや気軽な現金収入の側面もあるのではと思った
・卵大国(世界1~2位)の日本は飼料が殆ど輸入で高いはずなのに世界比較では安い理由
⇒バタリーゲージ飼育で工業生産化しているから
⇒EUでは2012年から禁止されているが日本では平地飼い放し飼いする土地や人手が・・・
第6章 伝統食と課題より
・モルドバのワイン
⇒飲酒量は世界一でアルコール関連死は全死因の26%、社会的問題も多い
⇒記録されない自家製ワインが生産量の3~7割とされる
⇒ところが自家製ワインを規制すれば文化的にも経済的にも大きなダメージが生ずる
・中華文化圏の月餅
⇒中秋節に送り合うもので食品企業だけでなく各企業が売り出し法人需要が多い
⇒冷凍できればいいが食べきれず大量に廃棄される
⇒簡易パッケージ化などの規制も出るが伝統側からの反発もある
⇒「慣れたもの」への執着が時代遅れにならないように・・・
・イスラム圏のラマダンの時期
⇒じつはお菓子の需要や食の話題が一番盛り上がる時期
第7章 食と気候より
・ウズベキスタンの野菜に較べ日本の野菜が水っぽいと言われたのは何故か
⇒雨量、土壌、栽培方法などのせいではなく品種改良のせいだった
⇒その目的は「おいしくて扱いやすい」野菜を作ること
⇒NHK「今日の料理」でも野菜の下茹で・煮る時間とも半世紀間ずっと減り続けている
⇒消費者が求めるのは「手間をかけず」おいしく食べられる「味が薄い野菜」
(ウズベキスタンでは野菜も肉も火が通るのに時間がかかるので作れるのは一品だけ)
・素材の味を楽しむために「素材の味を薄くする品種改良」を求めたのが現代の日本料理とも
⇒スーパーの小松菜は茹でると鮮やかな緑になり噛んだ瞬間に甘くて口中で柔らかくなる
⇒低肥料無農薬の小松菜は茹でると茹で汁が苦く緑に染まりくすんだ黄緑になり、噛むと
苦みや酸味もあり、これを活かす調理には手間と工夫が必要
⇒食べやすくなって野菜嫌いも台所仕事の負担も減り「素材を活かした日本料理」が何品も並ぶ
⇒一方、ここ数十年で本来の野菜の味や栄養素も、それを活かした日本料理も家庭から消えた
⇒自分は何を食べて生きたいのか・・・
・コロンビアのスープ
⇒3種類のジャガイモを使うがスープに溶けるもの溶けないものなど全く別の食材として扱い
トウモロコシなど他の食材も種類が豊富だった
⇒ケッペンの気候区分でもコロンビアは全てが育ち単位面積当たりの生物多様性は世界一
⇒コロンブス大航海時代以降に持ち込まれたヨーロッパ産品も多い
⇒料理は地理と歴史でできている
・世界中の家庭の朝食がパンとシリアルになってきている
⇒エネルギー源の炭水化物が摂れて調理の手間がなく保存が効くから
⇒アンドリュー・ドルビー著「図説朝食の歴史」によれば、
・朝食の誕生は約9000年前の新石器時代で保存食料の登場による
・旧石器時代の調査をしたレヴィ・ストロースの記録に朝食という言葉はないそうだが、
これは朝すぐに食事ができることなどあり得なかったということと解釈できる
・新石器時代に農業がはじまり余剰農産物を貯蔵するようになって朝食の概念ができた
・パンやシリアル以外でも貯蔵に向く食物の組み合わせが世界の家庭でも多かった
⇒ハム、チーズ、卵、漬物、ジャムなどの果実保存食、冷ご飯、前日の残り物・・・
・栄養的に朝食に必要なのは脳のエネルギー源となる炭水化物、体温を上げるタンパク質、
それらを吸収するためのビタミンとミネラルと夜に失われた水分
⇒パンにハムやチーズとコーヒーや、シリアルにミルクの朝食は野菜保存食や果物ジャムとも
合わせやすく数分で用意できて合理的で完璧なので(悔しいけど)これが必然か・・・

第8章 食と民族より
・パレスチナのオリーブの塩漬け
(パレスチナ人家庭の実態とオリーブの木⇒略)
・ヨルダンのシリア菓子
(ヨルダンのシリア難民家庭の実態と料理⇒略)
おわりにより
・「おいしい/おいしくない」だけでない料理の味わい方を知ってほしいと思った
⇒アボガドやオリーブなどの食材や料理⇒その先を見つめてほしい
・あなたの明日からの食が「おいしい」を超えて世界への扉となることを・・・
・・・
各章タイトルにあった政治・宗教・地球環境・創造性・食料生産・伝統・気候・民族は、
確かにその地域の食と密接に関連しますし、それが世界の食を知る楽しみのひとつだと、
わたくしも思ってますので、なかなか興味深く読めました
この本では取り上げてないボルネオ島の食も、各先住民の伝統食材と調理法による食から、
マレー系や中華系やインド系の人たちの持ち込んだ様々な食材や調理法による食まで、
移民や植民や開発の歴史など様々な背景を知ることで、少しは食の現状が見えました
なので、どこでも現地で説明を聞きつつ現地の食を味わうのを楽しみにしてたのですが、
さすがに著者のようにホームステイして食材や調理まで詳しく知る機会は滅多に・・・

当記事では問題提起部分のメモが多いですが、著者が実際に世界各地でホームステイして
買い出し、調理、食事を共にした際の驚きや困惑や感動の部分もとても新鮮で魅力的でした
興味のある方は、ぜひご一読を・・・
2026年01月27日
没落官僚
とーとつですが・・・

「没落官僚~国家公務員志願者がゼロになる日~」とゆー本のご紹介であります
ま、「子や孫に入ってほしい勤め先」で国家公務員は常に上位に入ってるようですが、
本書はキャリア官僚への志願者が激減しており、このままだと霞が関が崩壊する、しかも
90年代半ばまでなら国民生活に大きな影響はなかったが今は、といった怖いオハナシ・・・
裏表紙カバー裏にあった内容紹介

著者紹介

1990年に旧労働省にキャリア官僚として入省、不人気だった労働省でも基本は東大生の世界で、
奈良県出身と言うと大学名ではなく「東大寺学園?」と中学や高校名を聞かれたとか
ちなみにわたくし1999年の秋から1年間ほど、厚生労働省に統合(2001年1月)される前の
厚生省と労働省へ別々に、けっこうお仕事で通ってました
当時急増していた大都市ホームレスへの緊急支援策について、厚生省からは基本は失業対策だから
メインは労働省だよと、いっぽう労働省からは基本は福祉対策だからメインは厚生省だよと、
お互い謙遜して
言っておられましたが、(統合目前だったからか?)両省の役割分担などは
きちんと調整されてたようで、その対応はけっこう素早かったです
そう、「縦割り行政が悪い」とかよくいわれますが、横の調整さえきちんと出来ておれば、
一気にトップまで上がる縦割り行政のメリットを充分に活かせるのでありますね
閑話休題
奥付であります

石破政権が2024年の10月からですから、岸田政権の末頃の出版物になりますね
目次



(以下てきとーメモですが著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
はじめにより
・霞が関の中央官庁は悲惨なブラック職場とされ、キャリア官僚の志願者は激減している
⇒これに抜本的な対策がされないのは人口減少や少子高齢化と同じ理由
⇒つまり短期的に目立った痛みがないからで、痛みを実感した時には手遅れになる
・霞が関の機能不全を導く要素
①現職官僚のモチベーションがガタ落ちになっている
⇒かつての敬意もなければ本省課長にもなれず仕事は激増し部下は増えず酷使されるだけ
②答弁資料など労働条件が過酷過ぎて政策立案など本来の知的業務に時間を割けない
(ただし能力が劣化しているのも事実で今の生え抜き官僚にDXを進める能力はない)
(巨大イベントも電通などの民間企業に委託するしかない⇒不祥事に)
③官邸主導(そのものは必要)の弊害
⇒首相の取り巻き官僚からのインフォーマル指示など
(政権に人事権を握られた官僚は委縮し、やがてやる気を失っていった)
④優秀な若手官僚が入ってこない
⇒志願者数が減少すると人材の質が低下するのは事実
・政治や官僚が機能不全になっても経済が自動成長していれば国民生活に影響はないが、今は
①官僚の単ミス②予算の空白③国会の空転で国民生活が混乱する
⇒やる気のない「ロボット官僚」と政治家・権力志向の「官邸官僚」だけになればリーク、
機密漏洩が蔓延し、国会は権力闘争の場に・・・
・官僚が激減して能力が地に落ちた場合、実務は国会議員が担わざるを得ない
⇒実際に民主党政権でやろうとして混乱を極めた
・国会議員にパワハラは適用されず今の官僚は恫喝すれば言いなりになると思っている
⇒彼らに官僚激減への危機意識はなく、官僚の主人である国民にもその自覚はない
・すべての始まりは90年代半ばから吹き荒れた行政改革の嵐だった・・・
第1章より
・81年の第二次臨時行政調査会⇒増税なき財政再建
⇒3公社(JR,NTT,JT)の経済規模を考えると成功だったと言える
⇒公務員数は総定員法もあり肥大化しないが特殊法人や公益法人は激増していた
・90年代中盤以降の「成熟社会」になると「行政の守備範囲」という考え方に
⇒自助努力、官から民、国から地方など
・NPMニューパブリックマネジメント
⇒民間原理を行政にも適用するアングロサクソン系国家の手法
⇒公務員を減らし、さらに公務の効率性を厳しく追及する
⇒市場メカニズム導入・業績と成果中心・顧客サービス中心・簡素化
・千葉県松戸市(マツモトキヨシ市長)の「すぐやる課」(69年)
⇒市民を顧客とみなして(お客様は神様として)何でも請け負う⇒その弊害も
・中央官庁の縮小、外郭団体の整理統合、民営化、規制緩和、許認可の廃止・・・
⇒規制緩和は経済規制だけでなく社会規制にも踏み込んだ
⇒医療、福祉、教育、公共施設も民間企業に⇒PFIが代表的
(まだ規制が強いとの批判もあるが郵政さえ民営化された日本は民営化大国だと思う)
・その後も公務員制度改革は続き、その典型が第二次安倍内閣の「内閣人事局」で人事を掌握した
⇒その歪みや忖度が話題になり、それまでずっと官僚の抵抗で行革が進まないと批判していた
マスコミがようやく官僚人事の自立性を言及するようになった(その豹変ぶりには呆れ返るが)
・96年の総選挙では行政改革が主な選挙の争点となっていた
⇒公務員の定数は法律で厳格に管理されており、国際比較でも少ないことは自明で、公務員の
給与が国民生活を圧迫することなどあり得ないのに、なぜ国民は行革に熱狂したのか?
⇒バブル以降の長期不況、正規と非正規の格差社会への不満感情から
⇒公務員は決して裕福層ではないが身分保障特権やリスクが少ないことへのバッシングだった
⇒なによりも長期不況をもたらしたのが霞が関の官僚だと見なされたこと
(グローバル化に対応できなかったなど民間企業の競争力が衰えた原因が官僚だったと?)
(政府自身も官僚や官僚が作った戦後システムが原因と報告⇒経済の中心は民間企業なのに?)
・小泉政権の構造改革も同様で「霞が関(特に財務省)を変えれば日本が変わる」と主張した
⇒その改革後もこれだけ長期不況が続いてるのが事実
⇒それなのに未だに「財務省陰謀説」は根強い(「まだ規制緩和が足りない説」も同じ)
・「政策形成の主体を(財務)官僚から政治家に移せば斬新な政策になり日本経済は復活する説」
⇒それで首相官邸に権限を集中させたが経済成長は鈍化したままなのも明らか
⇒それなら「鈍化で生じている社会問題を見据えた行革」になぜ変えなかったのか?
⇒予測できなかったからではなく人口減少や格差などの社会問題に手をつけなかっただけ
⇒景気回復すれば社会問題は解決すると、実現しない経済成長を待ち続けたのが現実
(例として失業率が上がると自殺率や犯罪率や児童虐待率は上がり、自殺対策、犯罪対策、
虐待対策の仕事量は激増してるのにマンパワーは圧倒的に不足したまま)
・官邸主導と首相権限強化の形が整ったのが2001年とすると、すでに20年が経過している
⇒この間に少なくとも経済成長に影響を与えていないのであれば改善する必要がある
第2章より
・行革で各省の利権が消滅しつつあり政治家も官僚も組織のためには働かなくなった
⇒天下りも出世もなくなれば出身省庁に忠誠を尽くす必要もない
・政治主導システムと小選挙区制度で首相官邸に権力が集中するようになった
⇒かつての族議員も姿を消した
・その結果、官邸に近い者が力を持つようになった
(戦前は内務省と大蔵省、戦後は大蔵省がトップといった序列の意味がなくなった)
・権力志向で有力政治家に近づくなどの官邸官僚(スーパーキャリア官僚)の誕生
(いっぽう受験秀才で真面目だけが取り柄の普通官僚にとってはブラック霞が関に)
・かつての横並び昇進、平等処遇といったキャリア官僚制度は崩壊し官僚の個人化が進む
⇒首相や官房長官との近さ、政策分野の重要度などから重用される官僚と普通官僚の格差が拡大
・軍と警察は政治から切り離すべきだが、今は警察庁が官邸で重きをなしている
⇒「首相、官房長官といった政治家を官邸官僚が補佐する政官融合体」を警察庁が守護する体制
⇒そんな官邸主導体制が日本をどういう方向に導くのか・・・
第3章より
・各省の再就職斡旋禁止が制定されたのが2007年
⇒一部の真面目な官僚にとっては厳しい老後が待ち受けている
⇒ところがごく一部の官僚は以前よりはるかに恵まれた再就職を享受している
・キャリア官僚の局長・審議官ポスト数などは法令で縛られている
⇒定年まで居座られると若手にポストが空かない
⇒辞める側にも生活があり関連企業や団体への再就職=天下り慣行が昭和初期にはあった
(今の年金制度は戦前の恩給制度ほどではなく退職後も働くことが前提となっている)
・天下りには組織影響力の拡大意図もあった
⇒許認可権のある民間企業や不要な外郭団体など
・2007年以降、キャリア官僚の天下りは壊滅しつつあり生活基盤が不安定化している
⇒キャリアで本省課長になれないまま60歳で定年退職して再就職先がないという状況
⇒ポストを空けるため外郭団体等に出向させ退職直前に呼び戻す手法が現在も続いている
・民間企業や経済界との接触が多い経産省や財務省は再就職の勝ち組
⇒許認可や利権と絡んだ国土交通省、旧郵政省も・・・
・能力やコネクションを利用して再就職する者とそうでない者との二分化
・生命保険・損害保険への再就職が多いのは何故か
⇒金融と同じく業界の垣根がなく、役立つかどうかわからなくとも余裕があるからでは
・大学教員への再就職も多い
⇒文献を読みデータで仮説を実証し、論文(企画書)を書く仕事は官僚と親和性がある
・現在の事後規制・斡旋禁止で、個人の再就職・転職は自由というのがいいと思う
⇒厳しい天下り規制より職業として官僚の魅力を高める方がよい
⇒ただし人材流動化によるロビイスト、機密漏洩などへの法整備が必要
第4章より
・バブル崩壊以降の不況⇒社会保障も公共事業も削れない⇒役所を減らせ
⇒行政改革⇒政治主導で痛みを伴う改革⇒反対する官僚は抵抗勢力
⇒内閣人事局の創設で官邸主導体制(首相や官房長官の圧倒的優位)が確立された
⇒各大臣・各省官僚・各族議員の三角関係の上に官邸が来た(それまではほぼ同列だった)
・安倍政権では官邸・内閣官房・内閣府の官僚が各省大臣よりも存在感があった
⇒彼らは政権と一体化した政治家と見なすべきではないのかという議論も
・行政改革の目的は行政のスリム化だが官僚の力を削ぐことが隠れた目的
⇒人事権を握った影響は絶大だった
⇒首相や官房長官や官邸官僚の影に怯える忖度官僚が続出した
・内閣人事局の創設までは(名目の人事権は各大臣だが)実質は各省の官僚案が承認されていた
・上級公務員(事務次官・局長・部長・審議官)を育成管理するのが内閣人事局の目的
⇒上級公務員は各省の都合ではなく日本全体の利益を考える「日の丸官僚」であるべき
⇒それは首相官邸の意向を受ける官僚ということになる
⇒なぜなら各省の政策を選ぶのは国家全体を俯瞰する首相であり官邸だから(という理屈)
・内閣人事局は官僚人事の「政治的応答性」を「中立性専門性」より重視した制度だったが、
当時は文科省の幼稚園と厚労省の保育園など各省のセクショナリズムと官僚の特権が大問題
となっており、ごく自然な流れであった
・内閣人事局制度運用の特徴(2018年4月23日付け日本経済新聞から)
①順送り人事をしない
②政権の政策目標を実現するための布陣
③政権の姿勢をアピールするノンキャリアや技官や制服組の抜擢
④情報が洩れれば人事を差し替える
⑤女性の活躍など
⇒批判されているのは、そのプロセスが曖昧で不透明な点
⇒水面下で様々な注文がついて決まっており、任命権者である大臣より官邸が優位に
・上位政策に人事が絡むことは本来は正常
⇒例えば安全保障に関し官邸の方針に従わない幹部官僚はすぐに更迭すべきだが、
⇒下位政策(個別案件)に官邸主導の人事が絡むと行政は歪んでしまう
⇒歪みの原因は総理の取り巻き政治家や官僚
⇒その取り巻き集団が官邸主導体制になってから跳梁跋扈している
⇒官邸、内閣官房、内閣府の幹部官僚で一部は政治任用だが虎の威を借る資格任用が問題
⇒官邸官僚とは首相秘書官、官房副長官、3人の副長官補、内閣審議官、内閣参事官(課長級)など
・政治任用でも使えるのは元官僚だから資格任用の一般職国家公務員とは明確に区別すべき
⇒政治との調整は政治任用と事務次官から局長まで、審議官以下は政策立案に専念するべき
⇒有名無実化している政官接触記録制度を厳格運用すべき
①公正中立な内閣人事局制度
②政治任用の拡充
③政官の完全分離
・・・だけでは済まない
⇒英国のような「政治家と官僚が守るべき規範」と「国会の監視機能」が必要
第5章より
①官僚の労働環境の悪化⇒長時間労働
②仕事の中身と質の変化
⇒官邸主導システム以降は政策の企画立案が官邸に独占され、根回しや調整だけが各省に
③未知の仕事に官僚が対応できなくなっている⇒デジタル化など
⇒外郭団体が少なくなり民間企業に頼らざるを得ない構造も影響
・この①②③の相乗効果で官僚がやる気を失い各省が制御不能になり政府が機能不全に?
⇒これが本書の提示する仮説
・これまでのキャリア官僚の人事慣行
(これが給料が安く長時間労働でもモチベーションが下がらなかった理由その1)
①同期横並びで本省課長クラスまではスピード昇進できる
②そこまでは後輩が先輩を追い抜くことはない
③それ以上もある程度は規則性のある予測可能な昇進レース
④降格などの不利益処分はない
⑤斡旋による天下りが保証される(本省課長以上)
⇒本省課長での勧奨退職と天下りがなくなり定年退職まで働くようになった
⇒ポストは増えないので管理職の年齢が上昇する⇒昇任までの年数が上昇する
⇒短期間スピード出世というエリートの証しが消えモチベーションも消える
・(公共心もあるが)自分主体で世の中に影響力を与える仕事をしたいのが官僚の本音
(これが給料が安く長時間労働でもモチベーションが下がらなかった理由その2)
⇒政策形成プロセスは①政策の企画立案②政策形成過程の調整③政策の執行の3段階だが、
③は出先や地方自治体なので、やりがいを感じる圧倒的比重は①政策の企画立案
⇒自分の考えた政策が法律や予算になり世の中に大きな影響を与えているという実感
⇒これで給料が安く長時間労働でパワハラ横行の霞が関で生きていこうと思えた(実体験から)
・政策決定についての各省割拠システム・小泉政権・第二次安倍政権の違い(略)
⇒第二次安倍政権の政策決定は官邸官僚
⇒それ以外の普通官僚は望みもしない政策の是非で人事評価された
・官邸主導体制の功罪
⇒トップダウンは政策決定スピードだけでなく各省の協力体制にも有利なのは事実
⇒ただし官邸案件だけが各省折衝の苦労もなく通ることへの不安もあった
⇒政策決定した官邸官僚は国会答弁に立つことなく吊るしあげられるのは各省の普通官僚だけ
⇒その前でふんぞり返る閣僚の多くは世襲議員で実力で勝ち取った地位ではない
⇒そんな哀れな姿を見て、それでも官僚になりたいと思う若者がいるだろうか?
・第二次安倍政権では自分たちが主体的に進めた政策でもないのに責任を追及され苦悩した
⇒ただし自分たちが消極的に加担したのも事実なので、さらに苦悩した
⇒各省の政策立案では(硬直的だったが)各省に責任感はあった
⇒官邸の政策立案では(変化とスピード感はあるが)責任は曖昧になる
・高市総務大臣(当時)と総務省の放送法に関する流出文書の問題
⇒本書では放送法解釈の変更そのものではなく首相補佐官が加わった政策形成に巻き込まれ、
与野党政争の狭間で立ち尽くさざるを得ない官僚の悲哀を問題にする
①これまで正義(秩序)とされてきたもの(放送法の解釈)を変更することの苦痛
⇒継続が正しいとは限らないが過去から続く解釈に一定の正義と合理性があるのも事実
⇒放送の中立については過去の情勢に影響を受けつつ困難の中で維持されてた経緯がある
⇒それを権力者の命令であっさり変えられてしまうと今までの先輩の仕事は何だったのかと
②政策形成プロセスの複雑さ
⇒官僚主導の政策であれば主体的に立案・根回しして総務大臣の了解を得れば終わりだった
⇒放送法解釈の変更は総務省への磯崎首相補佐官の指示で官僚が総務大臣にも納得してもらい、
最終的に国会で答弁を変更した
⇒放送法解釈の変更は総務大臣の権限だが本当に首相補佐官の背後に首相がいるのか不明
⇒菅官房長官や副長官、政務秘書官への説明がいるのかも不明
(首相補佐官から総務大臣らに話してもらえばいいのだが官僚は政治家に言えないので悩む)
(実際に流出文書でも局長が提案したが「それは俺と総理が決めることだ」と一蹴されている)
・本来の官邸主導システムであれば官邸が大方針を公にしたうえで政策を変えていくべき
⇒ところが総理本人でも公でもないところから大方針もない個別案件に近い政策変更を要求される
(各省割拠システムであれば業界や議員への根回し⇒研究会⇒審議会ではじめて解釈変更になる)
・霞が関では省内で「梯子を外される」ことはあるが官邸案件では国会に証人喚問される
⇒こんな状況がネット情報で流れる中、年収800万で長時間労働の官僚を選ぶ若者がいるか?
⇒どろどろ世界での権力者を目指さない限り民間企業に行くだろうし、不安定でも夢のある
起業家を選ぶだろう
⇒このことを良識ある政治家は、よくよく考えたほうがいい
・官邸主導システムにはネガティブな側面があるが各省割拠システムはそれ以上に時代に合わない
⇒官邸主導でもうまくいかないのは官僚の能力自体が劣化している、もしくは経済社会や
時代に追い付いていないからではないか
⇒人材不足・デジタルなどへの対応能力不足
⇒コンサルと広告代理店への委託料は総額の21%で独立行政法人と肩を並べる(2020)
⇒霞が関とコンサル・広告代理店の学歴も逆転しており、やがて官僚志望者はゼロに近づく
⇒その時に国会議員が自分でどこまで事務や調整ができるか、見てみたいものだ
第6章より
・霞が関の長時間労働
⇒規制緩和・小さな政府でも業務量は増え続けており総定員法で人員は増えないから当然
・働き方改革の厚労省自体、長時間労働が前提でブラックの筆頭だと思っている
⇒コロナ禍では2階大講堂の対策本部は24時間体制で体調を崩す職員が続出した
⇒緊急入院する妊娠中の女子職員もいたが、それで子育て支援策が作れるのか?
・2020年に民間企業と同様のパワハラ禁止規定が人事院規則に設けられた
⇒ところが大臣や国会議員などの政治家には適用されない
(官僚より選挙で苦労している政治家のほうが人間的にまともと思ってるがひどいのもいた
)
・厚労省若手改革チームの緊急提言(略)
⇒霞が関から続々と若者と女性が去っていく現状
⇒人手不足はより深刻になり、やがて無定限・無定量の文化も死に絶える
⇒報道は官僚のミスだけでなく、なぜミスが生じているのかを詳細に報じてほしい
終章より
・90年代半ばから本格化した行政改革で官僚は見事に没落した
⇒東大生の多くは外資系コンサルに流れ、早慶上智MARCH関関同立が大躍進する
⇒霞が関=最高学歴という図式は完全に消える
⇒日本では大学受験時の偏差値が優秀さを計る絶対的な基準になっているので、
⇒公務員試験は難関のままでもキャリア官僚はエリートではなくなる
・政治家と官僚は合わせ鏡で官僚が没落した分だけ権力を手中にしたのが政治家
⇒この30年で政治主導システムに改革したが、それは成功したのか?
・官僚は試験で選ばれ政治家は選挙で選ばれる
⇒民意を反映した政治家が政策の方向性を決定すべきというのが、この30年間のロジック
・目立ったのは国会議員の偉さより民意や世論の絶対化であり、それを体現するポピュリズム
⇒世論を煽り世論に迎合するポピュリストが政治の前面に出るようになった
⇒インターネットの勢いもあり4年に1度の選挙で選ばれる政治家に権力を集中させた結果、
政治家を抑えることができる対抗勢力はいなくなった
・いっぽう国民は政治家が最も信用できない人間で民意を体現した存在だとは思っていない
⇒政治家は信用できず直接民主主義も実現できないので「くじ引き民主主義」論が出る
⇒日本では欧米とは逆にボイコットやデモへの参加率は低下している
・政治主導体制に変えた根拠のひとつは政権交代だったはず
⇒二大政党の権力交代があるので官邸に権力を集中しても腐敗はないという前提
⇒その前提が崩れるどころか半永久的に実現しないのだから政治主導も見直すべき
⇒世間ウケのいいバラマキばかりの政治家に権限を集中させる必要はない
⇒財務省感覚ではなく日常生活感覚でみても、そろそろ限界ではないか
・政治主導を見直すといっても、文句を言わない国民や世論には期待できない
⇒吠えない犬となったマスコミにも期待はできない
⇒ならば政治家を縛る規範や制度を作るしかない
⇒内閣人事局制度と同様の権力抑止システムを作れば物事は動く
・政治家を縛る制度と合わせて政治家を評価する制度も必要
⇒民主党政権と一緒に追い払われた「マニフェスト」の復活
・官僚が復権することはないが特定政策分野に興味がある学生や官邸官僚を目指す学生は残る
⇒それでも東大生が減り官僚の権威は失墜する
(東大生が優秀とかのロジカルな理由ではなく権威の図式が壊れるだけ)
⇒やがて早慶上智MARCH関関同立も激減していくだろう
・90年代半ばから公務員制度を改革してきたが結果をみると明治以来の芸術作品を破壊した
にすぎなかったのかもしれない
⇒公務員制度の研究者として、制度を作り替える怖さを実感している・・・
・・・
ホントにそうなのとの部分もありましたが、なるほどと納得する部分が多かったです
前述のとおり岸田政権の終わりごろに書かれた本で、その後の国政は目まぐるしく動いてますね
さてさて今度の衆院選後に、この状況が改善されるのか、はたまた・・・

「没落官僚~国家公務員志願者がゼロになる日~」とゆー本のご紹介であります
ま、「子や孫に入ってほしい勤め先」で国家公務員は常に上位に入ってるようですが、
本書はキャリア官僚への志願者が激減しており、このままだと霞が関が崩壊する、しかも
90年代半ばまでなら国民生活に大きな影響はなかったが今は、といった怖いオハナシ・・・
裏表紙カバー裏にあった内容紹介

著者紹介

1990年に旧労働省にキャリア官僚として入省、不人気だった労働省でも基本は東大生の世界で、
奈良県出身と言うと大学名ではなく「東大寺学園?」と中学や高校名を聞かれたとか

ちなみにわたくし1999年の秋から1年間ほど、厚生労働省に統合(2001年1月)される前の
厚生省と労働省へ別々に、けっこうお仕事で通ってました
当時急増していた大都市ホームレスへの緊急支援策について、厚生省からは基本は失業対策だから
メインは労働省だよと、いっぽう労働省からは基本は福祉対策だからメインは厚生省だよと、
お互い謙遜して
言っておられましたが、(統合目前だったからか?)両省の役割分担などはきちんと調整されてたようで、その対応はけっこう素早かったです
そう、「縦割り行政が悪い」とかよくいわれますが、横の調整さえきちんと出来ておれば、
一気にトップまで上がる縦割り行政のメリットを充分に活かせるのでありますね
閑話休題
奥付であります

石破政権が2024年の10月からですから、岸田政権の末頃の出版物になりますね
目次



(以下てきとーメモですが著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
はじめにより
・霞が関の中央官庁は悲惨なブラック職場とされ、キャリア官僚の志願者は激減している
⇒これに抜本的な対策がされないのは人口減少や少子高齢化と同じ理由
⇒つまり短期的に目立った痛みがないからで、痛みを実感した時には手遅れになる
・霞が関の機能不全を導く要素
①現職官僚のモチベーションがガタ落ちになっている
⇒かつての敬意もなければ本省課長にもなれず仕事は激増し部下は増えず酷使されるだけ
②答弁資料など労働条件が過酷過ぎて政策立案など本来の知的業務に時間を割けない
(ただし能力が劣化しているのも事実で今の生え抜き官僚にDXを進める能力はない)
(巨大イベントも電通などの民間企業に委託するしかない⇒不祥事に)
③官邸主導(そのものは必要)の弊害
⇒首相の取り巻き官僚からのインフォーマル指示など
(政権に人事権を握られた官僚は委縮し、やがてやる気を失っていった)
④優秀な若手官僚が入ってこない
⇒志願者数が減少すると人材の質が低下するのは事実
・政治や官僚が機能不全になっても経済が自動成長していれば国民生活に影響はないが、今は
①官僚の単ミス②予算の空白③国会の空転で国民生活が混乱する
⇒やる気のない「ロボット官僚」と政治家・権力志向の「官邸官僚」だけになればリーク、
機密漏洩が蔓延し、国会は権力闘争の場に・・・
・官僚が激減して能力が地に落ちた場合、実務は国会議員が担わざるを得ない
⇒実際に民主党政権でやろうとして混乱を極めた
・国会議員にパワハラは適用されず今の官僚は恫喝すれば言いなりになると思っている
⇒彼らに官僚激減への危機意識はなく、官僚の主人である国民にもその自覚はない
・すべての始まりは90年代半ばから吹き荒れた行政改革の嵐だった・・・
第1章より
・81年の第二次臨時行政調査会⇒増税なき財政再建
⇒3公社(JR,NTT,JT)の経済規模を考えると成功だったと言える
⇒公務員数は総定員法もあり肥大化しないが特殊法人や公益法人は激増していた
・90年代中盤以降の「成熟社会」になると「行政の守備範囲」という考え方に
⇒自助努力、官から民、国から地方など
・NPMニューパブリックマネジメント
⇒民間原理を行政にも適用するアングロサクソン系国家の手法
⇒公務員を減らし、さらに公務の効率性を厳しく追及する
⇒市場メカニズム導入・業績と成果中心・顧客サービス中心・簡素化
・千葉県松戸市(マツモトキヨシ市長)の「すぐやる課」(69年)
⇒市民を顧客とみなして(お客様は神様として)何でも請け負う⇒その弊害も
・中央官庁の縮小、外郭団体の整理統合、民営化、規制緩和、許認可の廃止・・・
⇒規制緩和は経済規制だけでなく社会規制にも踏み込んだ
⇒医療、福祉、教育、公共施設も民間企業に⇒PFIが代表的
(まだ規制が強いとの批判もあるが郵政さえ民営化された日本は民営化大国だと思う)
・その後も公務員制度改革は続き、その典型が第二次安倍内閣の「内閣人事局」で人事を掌握した
⇒その歪みや忖度が話題になり、それまでずっと官僚の抵抗で行革が進まないと批判していた
マスコミがようやく官僚人事の自立性を言及するようになった(その豹変ぶりには呆れ返るが)
・96年の総選挙では行政改革が主な選挙の争点となっていた
⇒公務員の定数は法律で厳格に管理されており、国際比較でも少ないことは自明で、公務員の
給与が国民生活を圧迫することなどあり得ないのに、なぜ国民は行革に熱狂したのか?
⇒バブル以降の長期不況、正規と非正規の格差社会への不満感情から
⇒公務員は決して裕福層ではないが身分保障特権やリスクが少ないことへのバッシングだった
⇒なによりも長期不況をもたらしたのが霞が関の官僚だと見なされたこと
(グローバル化に対応できなかったなど民間企業の競争力が衰えた原因が官僚だったと?)
(政府自身も官僚や官僚が作った戦後システムが原因と報告⇒経済の中心は民間企業なのに?)
・小泉政権の構造改革も同様で「霞が関(特に財務省)を変えれば日本が変わる」と主張した
⇒その改革後もこれだけ長期不況が続いてるのが事実
⇒それなのに未だに「財務省陰謀説」は根強い(「まだ規制緩和が足りない説」も同じ)
・「政策形成の主体を(財務)官僚から政治家に移せば斬新な政策になり日本経済は復活する説」
⇒それで首相官邸に権限を集中させたが経済成長は鈍化したままなのも明らか
⇒それなら「鈍化で生じている社会問題を見据えた行革」になぜ変えなかったのか?
⇒予測できなかったからではなく人口減少や格差などの社会問題に手をつけなかっただけ
⇒景気回復すれば社会問題は解決すると、実現しない経済成長を待ち続けたのが現実
(例として失業率が上がると自殺率や犯罪率や児童虐待率は上がり、自殺対策、犯罪対策、
虐待対策の仕事量は激増してるのにマンパワーは圧倒的に不足したまま)
・官邸主導と首相権限強化の形が整ったのが2001年とすると、すでに20年が経過している
⇒この間に少なくとも経済成長に影響を与えていないのであれば改善する必要がある
第2章より
・行革で各省の利権が消滅しつつあり政治家も官僚も組織のためには働かなくなった
⇒天下りも出世もなくなれば出身省庁に忠誠を尽くす必要もない
・政治主導システムと小選挙区制度で首相官邸に権力が集中するようになった
⇒かつての族議員も姿を消した
・その結果、官邸に近い者が力を持つようになった
(戦前は内務省と大蔵省、戦後は大蔵省がトップといった序列の意味がなくなった)
・権力志向で有力政治家に近づくなどの官邸官僚(スーパーキャリア官僚)の誕生
(いっぽう受験秀才で真面目だけが取り柄の普通官僚にとってはブラック霞が関に)
・かつての横並び昇進、平等処遇といったキャリア官僚制度は崩壊し官僚の個人化が進む
⇒首相や官房長官との近さ、政策分野の重要度などから重用される官僚と普通官僚の格差が拡大
・軍と警察は政治から切り離すべきだが、今は警察庁が官邸で重きをなしている
⇒「首相、官房長官といった政治家を官邸官僚が補佐する政官融合体」を警察庁が守護する体制
⇒そんな官邸主導体制が日本をどういう方向に導くのか・・・
第3章より
・各省の再就職斡旋禁止が制定されたのが2007年
⇒一部の真面目な官僚にとっては厳しい老後が待ち受けている
⇒ところがごく一部の官僚は以前よりはるかに恵まれた再就職を享受している
・キャリア官僚の局長・審議官ポスト数などは法令で縛られている
⇒定年まで居座られると若手にポストが空かない
⇒辞める側にも生活があり関連企業や団体への再就職=天下り慣行が昭和初期にはあった
(今の年金制度は戦前の恩給制度ほどではなく退職後も働くことが前提となっている)
・天下りには組織影響力の拡大意図もあった
⇒許認可権のある民間企業や不要な外郭団体など
・2007年以降、キャリア官僚の天下りは壊滅しつつあり生活基盤が不安定化している
⇒キャリアで本省課長になれないまま60歳で定年退職して再就職先がないという状況
⇒ポストを空けるため外郭団体等に出向させ退職直前に呼び戻す手法が現在も続いている
・民間企業や経済界との接触が多い経産省や財務省は再就職の勝ち組
⇒許認可や利権と絡んだ国土交通省、旧郵政省も・・・
・能力やコネクションを利用して再就職する者とそうでない者との二分化
・生命保険・損害保険への再就職が多いのは何故か
⇒金融と同じく業界の垣根がなく、役立つかどうかわからなくとも余裕があるからでは
・大学教員への再就職も多い
⇒文献を読みデータで仮説を実証し、論文(企画書)を書く仕事は官僚と親和性がある
・現在の事後規制・斡旋禁止で、個人の再就職・転職は自由というのがいいと思う
⇒厳しい天下り規制より職業として官僚の魅力を高める方がよい
⇒ただし人材流動化によるロビイスト、機密漏洩などへの法整備が必要
第4章より
・バブル崩壊以降の不況⇒社会保障も公共事業も削れない⇒役所を減らせ
⇒行政改革⇒政治主導で痛みを伴う改革⇒反対する官僚は抵抗勢力
⇒内閣人事局の創設で官邸主導体制(首相や官房長官の圧倒的優位)が確立された
⇒各大臣・各省官僚・各族議員の三角関係の上に官邸が来た(それまではほぼ同列だった)
・安倍政権では官邸・内閣官房・内閣府の官僚が各省大臣よりも存在感があった
⇒彼らは政権と一体化した政治家と見なすべきではないのかという議論も
・行政改革の目的は行政のスリム化だが官僚の力を削ぐことが隠れた目的
⇒人事権を握った影響は絶大だった
⇒首相や官房長官や官邸官僚の影に怯える忖度官僚が続出した
・内閣人事局の創設までは(名目の人事権は各大臣だが)実質は各省の官僚案が承認されていた
・上級公務員(事務次官・局長・部長・審議官)を育成管理するのが内閣人事局の目的
⇒上級公務員は各省の都合ではなく日本全体の利益を考える「日の丸官僚」であるべき
⇒それは首相官邸の意向を受ける官僚ということになる
⇒なぜなら各省の政策を選ぶのは国家全体を俯瞰する首相であり官邸だから(という理屈)
・内閣人事局は官僚人事の「政治的応答性」を「中立性専門性」より重視した制度だったが、
当時は文科省の幼稚園と厚労省の保育園など各省のセクショナリズムと官僚の特権が大問題
となっており、ごく自然な流れであった
・内閣人事局制度運用の特徴(2018年4月23日付け日本経済新聞から)
①順送り人事をしない
②政権の政策目標を実現するための布陣
③政権の姿勢をアピールするノンキャリアや技官や制服組の抜擢
④情報が洩れれば人事を差し替える
⑤女性の活躍など
⇒批判されているのは、そのプロセスが曖昧で不透明な点
⇒水面下で様々な注文がついて決まっており、任命権者である大臣より官邸が優位に
・上位政策に人事が絡むことは本来は正常
⇒例えば安全保障に関し官邸の方針に従わない幹部官僚はすぐに更迭すべきだが、
⇒下位政策(個別案件)に官邸主導の人事が絡むと行政は歪んでしまう
⇒歪みの原因は総理の取り巻き政治家や官僚
⇒その取り巻き集団が官邸主導体制になってから跳梁跋扈している
⇒官邸、内閣官房、内閣府の幹部官僚で一部は政治任用だが虎の威を借る資格任用が問題
⇒官邸官僚とは首相秘書官、官房副長官、3人の副長官補、内閣審議官、内閣参事官(課長級)など
・政治任用でも使えるのは元官僚だから資格任用の一般職国家公務員とは明確に区別すべき
⇒政治との調整は政治任用と事務次官から局長まで、審議官以下は政策立案に専念するべき
⇒有名無実化している政官接触記録制度を厳格運用すべき
①公正中立な内閣人事局制度
②政治任用の拡充
③政官の完全分離
・・・だけでは済まない
⇒英国のような「政治家と官僚が守るべき規範」と「国会の監視機能」が必要
第5章より
①官僚の労働環境の悪化⇒長時間労働
②仕事の中身と質の変化
⇒官邸主導システム以降は政策の企画立案が官邸に独占され、根回しや調整だけが各省に
③未知の仕事に官僚が対応できなくなっている⇒デジタル化など
⇒外郭団体が少なくなり民間企業に頼らざるを得ない構造も影響
・この①②③の相乗効果で官僚がやる気を失い各省が制御不能になり政府が機能不全に?
⇒これが本書の提示する仮説
・これまでのキャリア官僚の人事慣行
(これが給料が安く長時間労働でもモチベーションが下がらなかった理由その1)
①同期横並びで本省課長クラスまではスピード昇進できる
②そこまでは後輩が先輩を追い抜くことはない
③それ以上もある程度は規則性のある予測可能な昇進レース
④降格などの不利益処分はない
⑤斡旋による天下りが保証される(本省課長以上)
⇒本省課長での勧奨退職と天下りがなくなり定年退職まで働くようになった
⇒ポストは増えないので管理職の年齢が上昇する⇒昇任までの年数が上昇する
⇒短期間スピード出世というエリートの証しが消えモチベーションも消える
・(公共心もあるが)自分主体で世の中に影響力を与える仕事をしたいのが官僚の本音
(これが給料が安く長時間労働でもモチベーションが下がらなかった理由その2)
⇒政策形成プロセスは①政策の企画立案②政策形成過程の調整③政策の執行の3段階だが、
③は出先や地方自治体なので、やりがいを感じる圧倒的比重は①政策の企画立案
⇒自分の考えた政策が法律や予算になり世の中に大きな影響を与えているという実感
⇒これで給料が安く長時間労働でパワハラ横行の霞が関で生きていこうと思えた(実体験から)
・政策決定についての各省割拠システム・小泉政権・第二次安倍政権の違い(略)
⇒第二次安倍政権の政策決定は官邸官僚
⇒それ以外の普通官僚は望みもしない政策の是非で人事評価された
・官邸主導体制の功罪
⇒トップダウンは政策決定スピードだけでなく各省の協力体制にも有利なのは事実
⇒ただし官邸案件だけが各省折衝の苦労もなく通ることへの不安もあった
⇒政策決定した官邸官僚は国会答弁に立つことなく吊るしあげられるのは各省の普通官僚だけ
⇒その前でふんぞり返る閣僚の多くは世襲議員で実力で勝ち取った地位ではない
⇒そんな哀れな姿を見て、それでも官僚になりたいと思う若者がいるだろうか?
・第二次安倍政権では自分たちが主体的に進めた政策でもないのに責任を追及され苦悩した
⇒ただし自分たちが消極的に加担したのも事実なので、さらに苦悩した
⇒各省の政策立案では(硬直的だったが)各省に責任感はあった
⇒官邸の政策立案では(変化とスピード感はあるが)責任は曖昧になる
・高市総務大臣(当時)と総務省の放送法に関する流出文書の問題
⇒本書では放送法解釈の変更そのものではなく首相補佐官が加わった政策形成に巻き込まれ、
与野党政争の狭間で立ち尽くさざるを得ない官僚の悲哀を問題にする
①これまで正義(秩序)とされてきたもの(放送法の解釈)を変更することの苦痛
⇒継続が正しいとは限らないが過去から続く解釈に一定の正義と合理性があるのも事実
⇒放送の中立については過去の情勢に影響を受けつつ困難の中で維持されてた経緯がある
⇒それを権力者の命令であっさり変えられてしまうと今までの先輩の仕事は何だったのかと
②政策形成プロセスの複雑さ
⇒官僚主導の政策であれば主体的に立案・根回しして総務大臣の了解を得れば終わりだった
⇒放送法解釈の変更は総務省への磯崎首相補佐官の指示で官僚が総務大臣にも納得してもらい、
最終的に国会で答弁を変更した
⇒放送法解釈の変更は総務大臣の権限だが本当に首相補佐官の背後に首相がいるのか不明
⇒菅官房長官や副長官、政務秘書官への説明がいるのかも不明
(首相補佐官から総務大臣らに話してもらえばいいのだが官僚は政治家に言えないので悩む)
(実際に流出文書でも局長が提案したが「それは俺と総理が決めることだ」と一蹴されている)
・本来の官邸主導システムであれば官邸が大方針を公にしたうえで政策を変えていくべき
⇒ところが総理本人でも公でもないところから大方針もない個別案件に近い政策変更を要求される
(各省割拠システムであれば業界や議員への根回し⇒研究会⇒審議会ではじめて解釈変更になる)
・霞が関では省内で「梯子を外される」ことはあるが官邸案件では国会に証人喚問される
⇒こんな状況がネット情報で流れる中、年収800万で長時間労働の官僚を選ぶ若者がいるか?
⇒どろどろ世界での権力者を目指さない限り民間企業に行くだろうし、不安定でも夢のある
起業家を選ぶだろう
⇒このことを良識ある政治家は、よくよく考えたほうがいい

・官邸主導システムにはネガティブな側面があるが各省割拠システムはそれ以上に時代に合わない
⇒官邸主導でもうまくいかないのは官僚の能力自体が劣化している、もしくは経済社会や
時代に追い付いていないからではないか
⇒人材不足・デジタルなどへの対応能力不足
⇒コンサルと広告代理店への委託料は総額の21%で独立行政法人と肩を並べる(2020)
⇒霞が関とコンサル・広告代理店の学歴も逆転しており、やがて官僚志望者はゼロに近づく
⇒その時に国会議員が自分でどこまで事務や調整ができるか、見てみたいものだ

第6章より
・霞が関の長時間労働
⇒規制緩和・小さな政府でも業務量は増え続けており総定員法で人員は増えないから当然
・働き方改革の厚労省自体、長時間労働が前提でブラックの筆頭だと思っている
⇒コロナ禍では2階大講堂の対策本部は24時間体制で体調を崩す職員が続出した
⇒緊急入院する妊娠中の女子職員もいたが、それで子育て支援策が作れるのか?
・2020年に民間企業と同様のパワハラ禁止規定が人事院規則に設けられた
⇒ところが大臣や国会議員などの政治家には適用されない
(官僚より選挙で苦労している政治家のほうが人間的にまともと思ってるがひどいのもいた
)・厚労省若手改革チームの緊急提言(略)
⇒霞が関から続々と若者と女性が去っていく現状
⇒人手不足はより深刻になり、やがて無定限・無定量の文化も死に絶える
⇒報道は官僚のミスだけでなく、なぜミスが生じているのかを詳細に報じてほしい
終章より
・90年代半ばから本格化した行政改革で官僚は見事に没落した
⇒東大生の多くは外資系コンサルに流れ、早慶上智MARCH関関同立が大躍進する
⇒霞が関=最高学歴という図式は完全に消える
⇒日本では大学受験時の偏差値が優秀さを計る絶対的な基準になっているので、
⇒公務員試験は難関のままでもキャリア官僚はエリートではなくなる
・政治家と官僚は合わせ鏡で官僚が没落した分だけ権力を手中にしたのが政治家
⇒この30年で政治主導システムに改革したが、それは成功したのか?
・官僚は試験で選ばれ政治家は選挙で選ばれる
⇒民意を反映した政治家が政策の方向性を決定すべきというのが、この30年間のロジック
・目立ったのは国会議員の偉さより民意や世論の絶対化であり、それを体現するポピュリズム
⇒世論を煽り世論に迎合するポピュリストが政治の前面に出るようになった
⇒インターネットの勢いもあり4年に1度の選挙で選ばれる政治家に権力を集中させた結果、
政治家を抑えることができる対抗勢力はいなくなった
・いっぽう国民は政治家が最も信用できない人間で民意を体現した存在だとは思っていない
⇒政治家は信用できず直接民主主義も実現できないので「くじ引き民主主義」論が出る
⇒日本では欧米とは逆にボイコットやデモへの参加率は低下している
・政治主導体制に変えた根拠のひとつは政権交代だったはず
⇒二大政党の権力交代があるので官邸に権力を集中しても腐敗はないという前提
⇒その前提が崩れるどころか半永久的に実現しないのだから政治主導も見直すべき
⇒世間ウケのいいバラマキばかりの政治家に権限を集中させる必要はない
⇒財務省感覚ではなく日常生活感覚でみても、そろそろ限界ではないか
・政治主導を見直すといっても、文句を言わない国民や世論には期待できない
⇒吠えない犬となったマスコミにも期待はできない
⇒ならば政治家を縛る規範や制度を作るしかない
⇒内閣人事局制度と同様の権力抑止システムを作れば物事は動く
・政治家を縛る制度と合わせて政治家を評価する制度も必要
⇒民主党政権と一緒に追い払われた「マニフェスト」の復活
・官僚が復権することはないが特定政策分野に興味がある学生や官邸官僚を目指す学生は残る
⇒それでも東大生が減り官僚の権威は失墜する
(東大生が優秀とかのロジカルな理由ではなく権威の図式が壊れるだけ)
⇒やがて早慶上智MARCH関関同立も激減していくだろう
・90年代半ばから公務員制度を改革してきたが結果をみると明治以来の芸術作品を破壊した
にすぎなかったのかもしれない
⇒公務員制度の研究者として、制度を作り替える怖さを実感している・・・
・・・
ホントにそうなのとの部分もありましたが、なるほどと納得する部分が多かったです
前述のとおり岸田政権の終わりごろに書かれた本で、その後の国政は目まぐるしく動いてますね
さてさて今度の衆院選後に、この状況が改善されるのか、はたまた・・・
2026年01月16日
宮崎駿の「罪」と「祈り」メモ後半
ええ、前回記事からの続きであります


宮崎駿の「罪」と「祈り」~アニミズムで読み解くジブリ作品史~
・・・の読書メモの後半であります
後半もてきとーメモですが前半同様、勝手に作品番号を付けてます
さらに宮崎駿本人の言葉には「」を付けたつもりです
(以下も著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第三章より
⑬千と千尋の神隠し2001~現代の子供たちが危機の時代を生きていくために~
・宮崎作品の折り返し点は漫画版ナウシカの完結1994と、もののけ姫1997だった
⇒科学や資本主義や戦争や過ちも含んだ人類史も自然と考える高次のアニミズムへ
⇒次の本作はアニミズム=自然=母の系列が中心の抜けと自由自在さがある快楽的な作品
・主人公の千尋は現代的で功利的な両親に育てられた陰鬱で活力のない人物として現れる
⇒古くからの信仰を蔑ろにした跡のある森を破壊した新興住宅地に向かっている
「善も悪も存在する世界(世の中)に投げ込まれ修行し友愛と献身を学び生還する少女」
⇒薄汚れた現実に接触するリハビリをして生命の活力を取り戻すこと
・地球全体の環境問題を考えるのではなく身近なところで手を動かす方がいい
⇒宮崎自身が川の掃除やごみ拾いを日常的にするようになっていた
⇒汚れた世界の肯定へのリハビリ、潔癖症克服のための訓練のような映画
⇒社会では善悪や敵味方だけでなく清潔と汚濁も曖昧で、それを呑み込む歩き方を教える映画
「環境問題を含め、すべてのコントロールに失敗したのが20世紀の結論」
⇒それが見えてきた時代に何を子どもに語るのか
⇒「何よりも丈夫にして知的好奇心を持ち続けるようにすること」
⇒「具体的にはこの世界と噛み合うようにすること、そのための子ども時代」
・巨樹を見に行く1994で、
⇒一本の樹を中心にした映画を作りたいと書いていた
⇒千と千尋の油屋、ハウルの城はこの樹を翻案したものではないか
⇒対立するもの、異なるものが共存している
⇒共存させるプラットフォームとしての樹=油屋=ハウルの城
・前半の油屋(スタジオジブリ?)での性風俗やアニメーション産業を思わせる
乱痴気騒ぎはカオナシ(観客)への千尋の行動によって転調する
⇒特別な英雄ではない千尋のひたむきな愛⇒千尋とハクの愛も
⇒愛による救済という主題が極点に達するのが次作ハウルの動く城
・電車シーンの解釈
⇒欲望の象徴になったカオナシ(観客)を千尋が澄み切った森へ連れていくという解釈
⇒紅の豚で無数の飛行機が向かう先と同じ死後の世界へ行って癒され戻ってくるという解釈
⑭めいとこねこバス2002(短編)~ジブリ作品におけるネコの系譜~(略)
・魔女の宅急便のジジ、トトロのネコバス、耳をすませばのムーン、猫の恩返しの猫たち、
アリエッティのニーヤ、アーヤと魔女のトーマス・・・(略)
⇒ファンタジーや魔法の世界へ導く通路として共通している(略)
⑮ハウルの動く城2004~父の系列と母の系列の統合~
・千と千尋の反対の極に振れて「父の罪」に近づいた作品
⇒強調されるのが愛による救済という主題
・モノトーンとカラフルなどが移り変わる不安定さ
⇒ソフィー(愛)とハウル(戦争)の間で揺れ動く宮崎の振れ幅(原作にはなかった要素)
・ソフィーは死(草原の小さい家)による安息以外の救済方法を探ろうとする
⇒それが愛による救済
⇒獣ハウルも荒地の魔女もサリマンのスパイ犬も助け、案山子カブも受け入れる
⇒ソフィーの血縁家族に対比される非血縁家族に
⇒城=樹の受容性が登場人物ソフィーに移行していく
・愛と信頼、過去に遡ってまで闇を共有する覚悟による癒しが奇蹟を起こす
⇒筆者の初見では戦争などの重さにこの結末は受け入れにくかった
⇒だが母の系列と父の系列のジレンマの統合として観た場合に心に深く響いた
⇒父と母に分裂していた葛藤の後に母=樹が全てを呑み込み解決するという結末
⇒愛や優しさが愚考の連鎖を止め得るのではないかという期待と夢を信じようという
覚悟に辿り着く物語であるように感じられた
⑯崖の上のポニョ2008~祝福と肯定の実現~
・老いと波とあの世の話で父の影を振り切り母の方向に突き進んだ極み
⇒筆者は本作が宮崎駿の動画面での最高到達点、最高傑作のひとつと考えている
・鞆の浦も水俣湾の残響も描かれた海は宮崎のアニミズムが最も発揮された場面
⇒樹=油屋=ハウルの城に該当するのが海
⇒生も死も包み込むグランマンマーレ(観音様・神渡りとも)はアニミズム的存在
⇒(中年になったハウルのような)魔法使いフジモトは科学との折衷で生きている
・本作のテーマは祝福と肯定
⇒「5歳はまだ神に属している最後の年で、笑えば世界は祝福される」
⇒赤ん坊や幼児たちの元気や笑顔にカミ=アニミズムを見る
⇒「友人の娘がチョコチョコ歩いてきたら生まれてきたことを肯定せざるを得ない」
⇒「エライときに生まれてきた」と真顔で言うか「生まれてきてよかった」と言えるか
⇒「どんな状態になっても世界を肯定したいという気持ちがあるから映画を作る」
・唯一水没しない宗介の家では生と死の二項対立や境界も曖昧になっている
⇒水没した世界では様々な生物が溢れ老婆たちが走れるようになっている
⇒トンネルを抜けた先で水の中に入るのはあの世の表現
⇒水中の老人ホームの庭は漫画版ナウシカの「墓所の庭」と同じ空間
・本作の異界や悟りの境地は千尋が電車で辿り着いたような静的なものとは異なる
⇒もっと動的で災害から立ち直る人間の生命力、子どもの活力を信頼することからくる悟り
⇒最後は水の中=死後の世界から帰還し陸に戻るが、船やヘリコプターや飛行機が多くある
⇒これら科学の象徴も否定的ではなく人を助けるものとして肯定的に描かれている
・戦争や災害で大勢が死ぬことさえも肯定し祝福している?
⇒5歳の男の子が命が危険な海で遊んでいる
⇒無邪気で無垢な自然の象徴ポニョは津波で街を沈めてしまう
⇒災害まで含む自然を肯定しようと徹底的に開き直っているのが本作の凄み
⇒筆者は実際に東日本大震災後の物凄い生命力も感じたので、それを描いて励まして信じたい
という宮崎の気持ちは疑わないが、2024年の能登地震で壊滅した家が1年以上も放置されている
状況を見ているとジレンマに引き裂かれる思いがする
・人間なのに人間を辞めようとするフジモトと積極的に人間になろうとするポニョ
⇒フジモトは潔癖症でポニョは水道水も平気で食品添加物入りのハムも大好物
⇒フジモトが科学で作った「生命の水」をポニョが解き放ち大災害が起こる
⇒漫画版ナウシカ後半やもののけ姫で描いた科学で汚染された世界を肯定しようとする思想を
悲壮な覚悟もなく実現してしまっているのがポニョで、人間になろうとする点ではサンの逆
・5歳の宗介は崖の上に住んでいる真面目で律儀な男の子
⇒下の湾にいるポニョが会いに来ようとして津波が起こる
⇒宗介の父が乗ってる船の電飾、リサの車、無線やモールス信号による愛情⇒科学
⇒グランマンマーレの金色の光、ポニョの暴走⇒自然
⇒どちらも良いものとして描かれている
・ポニョはグランマンマーレ(海・自然)とフジモト(人間・科学)の子供
⇒しかも生命の水(化学物質?)が大きく影響している半魚人
⇒それで街を水没させ壊滅させた罪は問われないのだから父の罪のトラウマもない
⇒すべてを母であり海の化身であるグランマンマーレが包み込む至福⇒祝福と肯定
・本作公開から3年後2011年の東日本大震災の津波と原発事故による複合災害との葛藤
⇒すべてをアニミズム的に受容することは可能なのか
⇒それは汚染や深刻な物事を宗教や神話で容認し事態を悪化させることに繋がらないか
⇒アニメーションやファンタジーによるイメージの誤魔化しなのではないか
⇒「どう生きるか」を次世代に教えようとした宮崎にとって今まで描いてきたことは
⇒「自然災害は大きな悲劇だが必ず立ち直れる、だが原発事故は・・・」
⇒この葛藤が次作の風立ちぬに・・・
第4章より
⑰風立ちぬ2013~反復される墜落~
・飛行機を作る夢を叶え零戦の設計者となり戦争に加担し国を亡ぼすという陰惨な内容
⇒未知の領域に挑戦し続ける創造性を肯定した陽画ポニョに対する陰画が本作
⇒色彩やモチーフの設計からもそれが窺い知れる
⇒墜落と機関車のイメージが何度も反復され黄色い光の両義性も封印されている
・これらが東日本大震災による変化であることは明白
「今はファンタジーが嘘になるところにいる、ファンタジーは作れない」
⇒ポニョにおける躁的な楽観と肯定から鬱的な悲観と否定に一挙に振れたのが本作
⇒東日本大震災を思わせる関東大震災が描かれ画面は躍動せず静的で童心的アニメーションや
アニミズム的活力のあるキャラクターは控えめでハウルの路線に戻った
・活劇ではなく青年男性を主人公に、その職業と性愛を描くという新たなチャレンジ
⇒これまでの作品(ある人物の冒険に寄り添って物語がある)とは違う文法で構成されている
⇒なので理解されにくい
・ポニョとの間には現実からの手痛いしっぺ返しを受けた苦く大きな認識の変更がある
⇒渋谷陽一インタビューでもポニョについては自信満々だったが本作は不安で自信がなく
終始懐疑的だったのが印象的
「二郎の人物造形は世界にあまり関心を持ってない日本人、つまり自分の親父です」
⇒関東大震災に遭遇し生き延び、かつ第二次世界大戦をやり過ごした人間
⇒戦争に向かう昭和前期を良い時代だったといい、国のためより女房が大切という親父
・東日本大震災を経験した日本で当時の日本を生きた父たちをモチーフに宮崎アニミズムを
もう一度点検する内容であり、そこには宮崎が大学時代に嫌悪し反発し罪の意識を抱いた父を
理解し罪を受容しようとする心理的な動機があるだろう
⇒敬愛する堀田善衛の透明なニヒリズムと予定調和的な生き方やマルクス主義の放棄
⇒享楽的な父をモデルに生きることを楽しむことを学ぼうとした⇒父の罪との和解の試み
「正しいことはあるけど正しい人はいない」
⇒正しいときとそうでないときが次々と変わるのが人間
⇒ハウルやポニョでは主人公がぐねぐねと姿を変えることで表そうとしていたが、
本作では意味・倫理でぐねぐねと二重に引き裂かれ移り変わる人格が描かれる
・本作の関東大震災の絵コンテを描き終えた際に東日本大震災が起きた
⇒紅の豚と同じように内容を変化させざるを得なかった
「軍閥時代末期の愚かさと原発利益集団の愚かさはそっくりです」
⇒宮崎は2006年に吉野源三郎「君たちはどう生きるか」についての文章を書いており、
映画化したい構想の一部は「風立ちぬ」で実現している⇒なので両者は対の作品
「この本が書かれるまでの昭和の12年間の近代史を見ると、弾圧があり少年を民族主義で
煽り立て、軍閥政治が異様な速さで破局に向かって突き進んでいる時代でした」
⇒その時代をどう生きたかを探り、どう生きるかを提示する
・「君たちはどう生きるか」と「風立ちぬ」は「次の戦争と災害」に向けた「児童文学」的な
教育的意義を持つ映画だと理解する
⇒だが本作は軽井沢での恋愛物語⇒なぜ戦争や政治への強い批判がないのか
⇒ただ生きること、時代の事実を受容しようとする視線
⇒アニミズム的な創造性が零戦を設計し戦争に加担する事態に繋がってしまう事実
・トトロ以降の自己受容、ポニョでの罪悪感の払拭は本作で反対側の極である自己否定に
⇒オタクの庵野秀明を堀越二郎の声優にしたことにも批判と自嘲の匂いを感じる
⇒夢を追うことは素晴らしいけど、好きなことばっかりやってると・・・
・描くはずだった零戦による重慶爆撃を宮崎はなぜ描けなかったのか
⇒零戦の最初の任務のひとつがスペイン・ゲルニカ爆撃に続く最初期の都市無差別爆撃となる
重慶爆撃だった(その後に世界中で都市への無差別爆撃が行われるようになった)
⇒爆撃で人々が無残に殺された後で二郎が何を言っても共感を得るのは難しい(鈴木敏夫)
⇒加害を描けなかった葛藤には宮崎のトラウマだけでなく日本の観客の感性の問題も・・・
・堀辰雄の小説をあえてタイトルにした理由
⇒小説に似ているのは結核の恋人と軽井沢で過ごし戦時中に外界を遮断して暮らすことぐらい
⇒堀辰雄(の愛読者=星菫派=戦時中を軽井沢で過ごした者たち)への批判を意識したのでは
⇒現実から目を逸らし理想世界に耽溺して逃避するのは現代のオタク文化と共通する
⇒それを批判しているのか肯定しているのか・・・そんな複雑な時代を描いている
(宮崎は堀辰雄が戦時中に政治に無関心ではなかったことを重視し評価している)
⇒美と政治の二項対立も崩れており現実は何重にも汚染されているというビジョンでは
・堀田善衛「方丈記私記」のアニメ化について(略)
・「異界」の先の「あの世」へ⇒最後の一連のシークエンス
⇒二郎の声優をやった庵野秀明が菜穂子のセリフを「来て」から「生きて」に変えさせた
⇒「失敗も罪も引き受けて生き続けることこそが、あなたの到達した思想ではないか」と
⇒それはまさに宮崎が育成した次世代からの、彼への返歌であった・・・
第5章より
⑱君たちはどう生きるか2023~破局へ向かっていく時代への警報~
・冒頭で主人公は母のところに行こうとする衝動と母との別れで目が覚める
⇒この構造が作品全体で繰り返され、これが本作の主題であることを示す
・宮崎駿は過酷な「戦争と災害の時代」が訪れると確信し、そのようなファシズムの時代を
どう生きるかを子どもたちに教えるために「風立ちぬ」以降の映画を作っている
・本作の塔は千尋の油屋、ハウルの城、ポニョの海に続く樹の象徴で前作にはなかったもの
・主人公は弱虫で噓つきで卑怯者の少年
⇒戦争の現実にも向き合えず、母の死と父の再婚も受容できず、内にこもっていく
⇒宮崎の自己投影であると同時に現代の少年を意識した人物造形
⇒この人物造形から、この時代を「どう生きるか」を伝えることが本作の狙いと推測する
・少年は母から送られた小説「君たちはどう生きるか」を読んで何かが変わる
⇒母を失った少年は地下ファンタジー世界を冒険し母と会い戻ってくる
⇒死=母=海=アニミズム=アニメというシンボル連合が提示される
⇒そこに一時的に退避もするが剣でアオサギに立ち向かう⇒機能せず父が代わりに
⇒戦う代わりに現実に戻って友達を作ると宣言する
・本作も戦争中なのに悲惨な戦争を描かない⇒語り落としている
⇒真に重い残酷さや残虐さを描かないのが宮崎作品の限界であり子どもたちへ使命感からの必然
・本作で提示しようとしているファンタジーは死生観
⇒千と千尋以降は子どもと老人を両立させた異界・死生観の表現だった
・お墓のシーンのモチーフとなったアルノルト・ベックリンの「死の島」(略)
・アニメ化を検討していた漱石の「草枕」の世界は俗世を離れた境地
⇒本作はその境地を否定し矛盾と葛藤と軋轢と対立の中で生きる覚悟を示すもの
⇒それは前半の絵画部分ではなく後半のアニメーション部分であり動画
・生と死の輪廻転生、あの世を美しく描くことの功罪(略)
・宮崎作品における救済のあり方の変化
⇒1993年のNHKスペシャル「チベット死者の書」を何度も繰り返し観たと言っている
(時期的にはもののけ姫、漫画版ナウシカに影響を与えたと推測される)
⇒自分に影響を与えたあらゆる死者たちと繋がっており輪廻転生することが救済となる死生観
⇒次世代に希望を託す血族を超えた儒教的仏教的な生命観
・大叔父から眞人が継承しなかったこと
⇒新海誠、庵野秀明、細田守が宮崎駿から継承しなかったこと
・非を認め、卑怯な嘘を止め、争うのではなく友達を作り、人の心を穏やかにすることで
調和を取り戻す可能性が、本作の結論で提示される
⇒現実に立ち向かう勇気によってこそ、その可能性が開かれる
⇒現実に向き合い続けて心が闇に染まればアニメーションやファンタジーの世界で心を自由に
遊ばせて浄化させて解放させて癒してから、また立ち向かったら良いということだろう
・映画やアニメーションを通じて次世代へのメッセージを伝えようとする思いやりが、
世代を超えた感謝や継承というアニミズムや素朴な神道の考え方に観客を開く
⇒その気づきによって世界への愛着を回復して引き受ける覚悟につながる構造
・生命の肯定、創造性の活性化を促すことが宮崎駿アニメーションの果たしてきた機能なのだ
あとがきより
・アニメーションやエンターテインメントで楽しく次世代を教育しようという宮崎駿の善意と
それが伝わらない絶望や達観に本書が注目したのは、自分の子育てと教務の経験から
・「だんだん忘れるさ、それでもいいんだ」(アオサギの言葉)
⇒子どもや学生にしてきたことはいずれ忘れ去られるだろう
⇒だが宮崎作品の情景のように無意識の底に断片的にでも残るかも・・・
⇒それでいいのかもしれない・・・
・・・・・
宮崎駿作品についてはこれまで何度も紹介してますが解説本は2冊、それぞれ異なった観点で
本書もアニミズムの発展史という全く異なる観点から読み解こうとするものでしたが、
現時点での全作品をアニミズムの発展とブレ幅から説明してるのが新鮮でした
前半記事の冒頭にも書いたように、いくつもの楽しみ方の「階層」があるのが宮崎作品で、
さらに何層にも隠された寓意や象徴や想いをどう読み解くかという解釈の楽しみもあります
なので、それぞれの解説本によって解釈が異なるのも当然、大好きな「紅の豚」についても、
この本のアニミズムからの解釈は新鮮でしたが、わたくしとは全く異なる解釈でした
そう、このような新たな驚きが何度も味わえるのが、まさに宮崎駿の作品なんですね
興味を持たれた方は本書をご熟読くださいね
最後に巻末にあった「主要参考文献」もメモしておきます


読んだ本や当サイトで紹介した本もけっこうありますが知らない本もいっぱい・・・
この中から未読を探すのも楽しみです


宮崎駿の「罪」と「祈り」~アニミズムで読み解くジブリ作品史~
・・・の読書メモの後半であります
後半もてきとーメモですが前半同様、勝手に作品番号を付けてます
さらに宮崎駿本人の言葉には「」を付けたつもりです
(以下も著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第三章より
⑬千と千尋の神隠し2001~現代の子供たちが危機の時代を生きていくために~
・宮崎作品の折り返し点は漫画版ナウシカの完結1994と、もののけ姫1997だった
⇒科学や資本主義や戦争や過ちも含んだ人類史も自然と考える高次のアニミズムへ
⇒次の本作はアニミズム=自然=母の系列が中心の抜けと自由自在さがある快楽的な作品
・主人公の千尋は現代的で功利的な両親に育てられた陰鬱で活力のない人物として現れる
⇒古くからの信仰を蔑ろにした跡のある森を破壊した新興住宅地に向かっている
「善も悪も存在する世界(世の中)に投げ込まれ修行し友愛と献身を学び生還する少女」
⇒薄汚れた現実に接触するリハビリをして生命の活力を取り戻すこと
・地球全体の環境問題を考えるのではなく身近なところで手を動かす方がいい
⇒宮崎自身が川の掃除やごみ拾いを日常的にするようになっていた
⇒汚れた世界の肯定へのリハビリ、潔癖症克服のための訓練のような映画
⇒社会では善悪や敵味方だけでなく清潔と汚濁も曖昧で、それを呑み込む歩き方を教える映画
「環境問題を含め、すべてのコントロールに失敗したのが20世紀の結論」
⇒それが見えてきた時代に何を子どもに語るのか
⇒「何よりも丈夫にして知的好奇心を持ち続けるようにすること」
⇒「具体的にはこの世界と噛み合うようにすること、そのための子ども時代」
・巨樹を見に行く1994で、
⇒一本の樹を中心にした映画を作りたいと書いていた
⇒千と千尋の油屋、ハウルの城はこの樹を翻案したものではないか
⇒対立するもの、異なるものが共存している
⇒共存させるプラットフォームとしての樹=油屋=ハウルの城
・前半の油屋(スタジオジブリ?)での性風俗やアニメーション産業を思わせる
乱痴気騒ぎはカオナシ(観客)への千尋の行動によって転調する
⇒特別な英雄ではない千尋のひたむきな愛⇒千尋とハクの愛も
⇒愛による救済という主題が極点に達するのが次作ハウルの動く城
・電車シーンの解釈
⇒欲望の象徴になったカオナシ(観客)を千尋が澄み切った森へ連れていくという解釈
⇒紅の豚で無数の飛行機が向かう先と同じ死後の世界へ行って癒され戻ってくるという解釈
⑭めいとこねこバス2002(短編)~ジブリ作品におけるネコの系譜~(略)
・魔女の宅急便のジジ、トトロのネコバス、耳をすませばのムーン、猫の恩返しの猫たち、
アリエッティのニーヤ、アーヤと魔女のトーマス・・・(略)
⇒ファンタジーや魔法の世界へ導く通路として共通している(略)
⑮ハウルの動く城2004~父の系列と母の系列の統合~
・千と千尋の反対の極に振れて「父の罪」に近づいた作品
⇒強調されるのが愛による救済という主題
・モノトーンとカラフルなどが移り変わる不安定さ
⇒ソフィー(愛)とハウル(戦争)の間で揺れ動く宮崎の振れ幅(原作にはなかった要素)
・ソフィーは死(草原の小さい家)による安息以外の救済方法を探ろうとする
⇒それが愛による救済
⇒獣ハウルも荒地の魔女もサリマンのスパイ犬も助け、案山子カブも受け入れる
⇒ソフィーの血縁家族に対比される非血縁家族に
⇒城=樹の受容性が登場人物ソフィーに移行していく
・愛と信頼、過去に遡ってまで闇を共有する覚悟による癒しが奇蹟を起こす
⇒筆者の初見では戦争などの重さにこの結末は受け入れにくかった
⇒だが母の系列と父の系列のジレンマの統合として観た場合に心に深く響いた
⇒父と母に分裂していた葛藤の後に母=樹が全てを呑み込み解決するという結末
⇒愛や優しさが愚考の連鎖を止め得るのではないかという期待と夢を信じようという
覚悟に辿り着く物語であるように感じられた
⑯崖の上のポニョ2008~祝福と肯定の実現~
・老いと波とあの世の話で父の影を振り切り母の方向に突き進んだ極み
⇒筆者は本作が宮崎駿の動画面での最高到達点、最高傑作のひとつと考えている
・鞆の浦も水俣湾の残響も描かれた海は宮崎のアニミズムが最も発揮された場面
⇒樹=油屋=ハウルの城に該当するのが海
⇒生も死も包み込むグランマンマーレ(観音様・神渡りとも)はアニミズム的存在
⇒(中年になったハウルのような)魔法使いフジモトは科学との折衷で生きている
・本作のテーマは祝福と肯定
⇒「5歳はまだ神に属している最後の年で、笑えば世界は祝福される」
⇒赤ん坊や幼児たちの元気や笑顔にカミ=アニミズムを見る
⇒「友人の娘がチョコチョコ歩いてきたら生まれてきたことを肯定せざるを得ない」
⇒「エライときに生まれてきた」と真顔で言うか「生まれてきてよかった」と言えるか
⇒「どんな状態になっても世界を肯定したいという気持ちがあるから映画を作る」
・唯一水没しない宗介の家では生と死の二項対立や境界も曖昧になっている
⇒水没した世界では様々な生物が溢れ老婆たちが走れるようになっている
⇒トンネルを抜けた先で水の中に入るのはあの世の表現
⇒水中の老人ホームの庭は漫画版ナウシカの「墓所の庭」と同じ空間
・本作の異界や悟りの境地は千尋が電車で辿り着いたような静的なものとは異なる
⇒もっと動的で災害から立ち直る人間の生命力、子どもの活力を信頼することからくる悟り
⇒最後は水の中=死後の世界から帰還し陸に戻るが、船やヘリコプターや飛行機が多くある
⇒これら科学の象徴も否定的ではなく人を助けるものとして肯定的に描かれている
・戦争や災害で大勢が死ぬことさえも肯定し祝福している?
⇒5歳の男の子が命が危険な海で遊んでいる
⇒無邪気で無垢な自然の象徴ポニョは津波で街を沈めてしまう
⇒災害まで含む自然を肯定しようと徹底的に開き直っているのが本作の凄み
⇒筆者は実際に東日本大震災後の物凄い生命力も感じたので、それを描いて励まして信じたい
という宮崎の気持ちは疑わないが、2024年の能登地震で壊滅した家が1年以上も放置されている
状況を見ているとジレンマに引き裂かれる思いがする
・人間なのに人間を辞めようとするフジモトと積極的に人間になろうとするポニョ
⇒フジモトは潔癖症でポニョは水道水も平気で食品添加物入りのハムも大好物
⇒フジモトが科学で作った「生命の水」をポニョが解き放ち大災害が起こる
⇒漫画版ナウシカ後半やもののけ姫で描いた科学で汚染された世界を肯定しようとする思想を
悲壮な覚悟もなく実現してしまっているのがポニョで、人間になろうとする点ではサンの逆
・5歳の宗介は崖の上に住んでいる真面目で律儀な男の子
⇒下の湾にいるポニョが会いに来ようとして津波が起こる
⇒宗介の父が乗ってる船の電飾、リサの車、無線やモールス信号による愛情⇒科学
⇒グランマンマーレの金色の光、ポニョの暴走⇒自然
⇒どちらも良いものとして描かれている
・ポニョはグランマンマーレ(海・自然)とフジモト(人間・科学)の子供
⇒しかも生命の水(化学物質?)が大きく影響している半魚人
⇒それで街を水没させ壊滅させた罪は問われないのだから父の罪のトラウマもない
⇒すべてを母であり海の化身であるグランマンマーレが包み込む至福⇒祝福と肯定
・本作公開から3年後2011年の東日本大震災の津波と原発事故による複合災害との葛藤
⇒すべてをアニミズム的に受容することは可能なのか
⇒それは汚染や深刻な物事を宗教や神話で容認し事態を悪化させることに繋がらないか
⇒アニメーションやファンタジーによるイメージの誤魔化しなのではないか
⇒「どう生きるか」を次世代に教えようとした宮崎にとって今まで描いてきたことは
⇒「自然災害は大きな悲劇だが必ず立ち直れる、だが原発事故は・・・」
⇒この葛藤が次作の風立ちぬに・・・
第4章より
⑰風立ちぬ2013~反復される墜落~
・飛行機を作る夢を叶え零戦の設計者となり戦争に加担し国を亡ぼすという陰惨な内容
⇒未知の領域に挑戦し続ける創造性を肯定した陽画ポニョに対する陰画が本作
⇒色彩やモチーフの設計からもそれが窺い知れる
⇒墜落と機関車のイメージが何度も反復され黄色い光の両義性も封印されている
・これらが東日本大震災による変化であることは明白
「今はファンタジーが嘘になるところにいる、ファンタジーは作れない」
⇒ポニョにおける躁的な楽観と肯定から鬱的な悲観と否定に一挙に振れたのが本作
⇒東日本大震災を思わせる関東大震災が描かれ画面は躍動せず静的で童心的アニメーションや
アニミズム的活力のあるキャラクターは控えめでハウルの路線に戻った
・活劇ではなく青年男性を主人公に、その職業と性愛を描くという新たなチャレンジ
⇒これまでの作品(ある人物の冒険に寄り添って物語がある)とは違う文法で構成されている
⇒なので理解されにくい
・ポニョとの間には現実からの手痛いしっぺ返しを受けた苦く大きな認識の変更がある
⇒渋谷陽一インタビューでもポニョについては自信満々だったが本作は不安で自信がなく
終始懐疑的だったのが印象的
「二郎の人物造形は世界にあまり関心を持ってない日本人、つまり自分の親父です」
⇒関東大震災に遭遇し生き延び、かつ第二次世界大戦をやり過ごした人間
⇒戦争に向かう昭和前期を良い時代だったといい、国のためより女房が大切という親父
・東日本大震災を経験した日本で当時の日本を生きた父たちをモチーフに宮崎アニミズムを
もう一度点検する内容であり、そこには宮崎が大学時代に嫌悪し反発し罪の意識を抱いた父を
理解し罪を受容しようとする心理的な動機があるだろう
⇒敬愛する堀田善衛の透明なニヒリズムと予定調和的な生き方やマルクス主義の放棄
⇒享楽的な父をモデルに生きることを楽しむことを学ぼうとした⇒父の罪との和解の試み
「正しいことはあるけど正しい人はいない」
⇒正しいときとそうでないときが次々と変わるのが人間
⇒ハウルやポニョでは主人公がぐねぐねと姿を変えることで表そうとしていたが、
本作では意味・倫理でぐねぐねと二重に引き裂かれ移り変わる人格が描かれる
・本作の関東大震災の絵コンテを描き終えた際に東日本大震災が起きた
⇒紅の豚と同じように内容を変化させざるを得なかった
「軍閥時代末期の愚かさと原発利益集団の愚かさはそっくりです」
⇒宮崎は2006年に吉野源三郎「君たちはどう生きるか」についての文章を書いており、
映画化したい構想の一部は「風立ちぬ」で実現している⇒なので両者は対の作品
「この本が書かれるまでの昭和の12年間の近代史を見ると、弾圧があり少年を民族主義で
煽り立て、軍閥政治が異様な速さで破局に向かって突き進んでいる時代でした」
⇒その時代をどう生きたかを探り、どう生きるかを提示する
・「君たちはどう生きるか」と「風立ちぬ」は「次の戦争と災害」に向けた「児童文学」的な
教育的意義を持つ映画だと理解する
⇒だが本作は軽井沢での恋愛物語⇒なぜ戦争や政治への強い批判がないのか
⇒ただ生きること、時代の事実を受容しようとする視線
⇒アニミズム的な創造性が零戦を設計し戦争に加担する事態に繋がってしまう事実
・トトロ以降の自己受容、ポニョでの罪悪感の払拭は本作で反対側の極である自己否定に
⇒オタクの庵野秀明を堀越二郎の声優にしたことにも批判と自嘲の匂いを感じる
⇒夢を追うことは素晴らしいけど、好きなことばっかりやってると・・・
・描くはずだった零戦による重慶爆撃を宮崎はなぜ描けなかったのか
⇒零戦の最初の任務のひとつがスペイン・ゲルニカ爆撃に続く最初期の都市無差別爆撃となる
重慶爆撃だった(その後に世界中で都市への無差別爆撃が行われるようになった)
⇒爆撃で人々が無残に殺された後で二郎が何を言っても共感を得るのは難しい(鈴木敏夫)
⇒加害を描けなかった葛藤には宮崎のトラウマだけでなく日本の観客の感性の問題も・・・
・堀辰雄の小説をあえてタイトルにした理由
⇒小説に似ているのは結核の恋人と軽井沢で過ごし戦時中に外界を遮断して暮らすことぐらい
⇒堀辰雄(の愛読者=星菫派=戦時中を軽井沢で過ごした者たち)への批判を意識したのでは
⇒現実から目を逸らし理想世界に耽溺して逃避するのは現代のオタク文化と共通する
⇒それを批判しているのか肯定しているのか・・・そんな複雑な時代を描いている
(宮崎は堀辰雄が戦時中に政治に無関心ではなかったことを重視し評価している)
⇒美と政治の二項対立も崩れており現実は何重にも汚染されているというビジョンでは
・堀田善衛「方丈記私記」のアニメ化について(略)
・「異界」の先の「あの世」へ⇒最後の一連のシークエンス
⇒二郎の声優をやった庵野秀明が菜穂子のセリフを「来て」から「生きて」に変えさせた
⇒「失敗も罪も引き受けて生き続けることこそが、あなたの到達した思想ではないか」と
⇒それはまさに宮崎が育成した次世代からの、彼への返歌であった・・・
第5章より
⑱君たちはどう生きるか2023~破局へ向かっていく時代への警報~
・冒頭で主人公は母のところに行こうとする衝動と母との別れで目が覚める
⇒この構造が作品全体で繰り返され、これが本作の主題であることを示す
・宮崎駿は過酷な「戦争と災害の時代」が訪れると確信し、そのようなファシズムの時代を
どう生きるかを子どもたちに教えるために「風立ちぬ」以降の映画を作っている
・本作の塔は千尋の油屋、ハウルの城、ポニョの海に続く樹の象徴で前作にはなかったもの
・主人公は弱虫で噓つきで卑怯者の少年
⇒戦争の現実にも向き合えず、母の死と父の再婚も受容できず、内にこもっていく
⇒宮崎の自己投影であると同時に現代の少年を意識した人物造形
⇒この人物造形から、この時代を「どう生きるか」を伝えることが本作の狙いと推測する
・少年は母から送られた小説「君たちはどう生きるか」を読んで何かが変わる
⇒母を失った少年は地下ファンタジー世界を冒険し母と会い戻ってくる
⇒死=母=海=アニミズム=アニメというシンボル連合が提示される
⇒そこに一時的に退避もするが剣でアオサギに立ち向かう⇒機能せず父が代わりに
⇒戦う代わりに現実に戻って友達を作ると宣言する
・本作も戦争中なのに悲惨な戦争を描かない⇒語り落としている
⇒真に重い残酷さや残虐さを描かないのが宮崎作品の限界であり子どもたちへ使命感からの必然
・本作で提示しようとしているファンタジーは死生観
⇒千と千尋以降は子どもと老人を両立させた異界・死生観の表現だった
・お墓のシーンのモチーフとなったアルノルト・ベックリンの「死の島」(略)
・アニメ化を検討していた漱石の「草枕」の世界は俗世を離れた境地
⇒本作はその境地を否定し矛盾と葛藤と軋轢と対立の中で生きる覚悟を示すもの
⇒それは前半の絵画部分ではなく後半のアニメーション部分であり動画
・生と死の輪廻転生、あの世を美しく描くことの功罪(略)
・宮崎作品における救済のあり方の変化
⇒1993年のNHKスペシャル「チベット死者の書」を何度も繰り返し観たと言っている
(時期的にはもののけ姫、漫画版ナウシカに影響を与えたと推測される)
⇒自分に影響を与えたあらゆる死者たちと繋がっており輪廻転生することが救済となる死生観
⇒次世代に希望を託す血族を超えた儒教的仏教的な生命観
・大叔父から眞人が継承しなかったこと
⇒新海誠、庵野秀明、細田守が宮崎駿から継承しなかったこと
・非を認め、卑怯な嘘を止め、争うのではなく友達を作り、人の心を穏やかにすることで
調和を取り戻す可能性が、本作の結論で提示される
⇒現実に立ち向かう勇気によってこそ、その可能性が開かれる
⇒現実に向き合い続けて心が闇に染まればアニメーションやファンタジーの世界で心を自由に
遊ばせて浄化させて解放させて癒してから、また立ち向かったら良いということだろう
・映画やアニメーションを通じて次世代へのメッセージを伝えようとする思いやりが、
世代を超えた感謝や継承というアニミズムや素朴な神道の考え方に観客を開く
⇒その気づきによって世界への愛着を回復して引き受ける覚悟につながる構造
・生命の肯定、創造性の活性化を促すことが宮崎駿アニメーションの果たしてきた機能なのだ
あとがきより
・アニメーションやエンターテインメントで楽しく次世代を教育しようという宮崎駿の善意と
それが伝わらない絶望や達観に本書が注目したのは、自分の子育てと教務の経験から
・「だんだん忘れるさ、それでもいいんだ」(アオサギの言葉)
⇒子どもや学生にしてきたことはいずれ忘れ去られるだろう
⇒だが宮崎作品の情景のように無意識の底に断片的にでも残るかも・・・
⇒それでいいのかもしれない・・・
・・・・・
宮崎駿作品についてはこれまで何度も紹介してますが解説本は2冊、それぞれ異なった観点で
本書もアニミズムの発展史という全く異なる観点から読み解こうとするものでしたが、
現時点での全作品をアニミズムの発展とブレ幅から説明してるのが新鮮でした
前半記事の冒頭にも書いたように、いくつもの楽しみ方の「階層」があるのが宮崎作品で、
さらに何層にも隠された寓意や象徴や想いをどう読み解くかという解釈の楽しみもあります
なので、それぞれの解説本によって解釈が異なるのも当然、大好きな「紅の豚」についても、
この本のアニミズムからの解釈は新鮮でしたが、わたくしとは全く異なる解釈でした
そう、このような新たな驚きが何度も味わえるのが、まさに宮崎駿の作品なんですね

興味を持たれた方は本書をご熟読くださいね
最後に巻末にあった「主要参考文献」もメモしておきます


読んだ本や当サイトで紹介した本もけっこうありますが知らない本もいっぱい・・・
この中から未読を探すのも楽しみです

2026年01月14日
宮崎駿の「罪」と「祈り」メモ前半
とーとつですが・・・

宮崎駿の「罪」と「祈り」~アニミズムで読み解くジブリ作品史~
・・・読書メモの前半であります
(長いメモなので前半と後半に分けました)
奥付

2025年6月30日の発行ですから「君たちはどう生きるか」公開後の著作になり、
おそらく現時点でも全ての宮崎駿作品を前提とした最新の論評でしょう
著者紹介がなかったので、ご存知ない方はこちら(ウィキ)をご覧くださいね
著者は筒井康隆作品に関する論文で博士号を取得されてるんですね
目次

まえがきより
・本書では宮崎駿の科学、戦争、資本主義などが複雑に結びついた主題系を「父の系列」とする
⇒彼のアニミズムはこの系列における罪との関係の中に存在している浄化であり希望
・宮崎作品で母はアニミズム的、民俗的、神秘的、精神的な救いと結びつけられる傾向がある
⇒そこには解放感、自由さ、救済感、祝福感がある⇒これを「母の系列」とする
⇒多くの観客に愛されているのは「母の系列」の性質を強くしている作品群
(トトロ、魔女の宅急便、千と千尋、ポニョ、君たちはどう生きるか・・・)
・本書では「宮崎駿のアニミズム」を「父の系列」と、その罪悪感や絶望感からの救済や
解放を志向するベクトルとしての「母の系列=アニミズム」の相克として描く
⇒その本格化は漫画版「ナウシカ」完結後だが、「ラピュタ」ぐらいからアニミズム=自然が善く、
人工=科学が悪いという二項対立を排し、どちらにもどちらの面もあるという二面性を複雑に
織り込むように変化してきている
⇒その対立と葛藤のドラマを本書では詳述していく
・「宮崎駿のアニミズム」の発展史として作品群を貫く思想を見ようとし、アニミズムを
「父の罪」との交互作用において読み解く作家論
⇒「君たちはどう生きるか」という最新長編を踏まえた一貫した視座での作家理解
・子供向きアニメーションにどのような寓意や象徴、想いが込められているのか
⇒きちんと知ると驚くことになる
⇒本書でその驚きと感動を伝えることができれば・・・
・・・・・
ええ、確かに作品に込められた寓意や象徴、想いを知ることの驚きと感動がありました
以前も書きましたが宮崎作品には何階層もの楽しみ方があるのが特徴ですね
以下もてきとーメモですが脳内整理のため勝手に作品番号を付けました
さらに宮崎駿本人の言葉には「」を付けたつもりです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば記事を非公開設定にします)
第1章 科学と自然
①未来少年コナン1978~コナンに託した生命力~
・作り手の心理で物語が作られ緻密なハリウッド作品と比較すれば作り方もアニミズム的
・文明崩壊後に自然が回復した場所だからこそ生まれた野生児がコナン
⇒コナン自体に野生・自然が宿っており、それは日本的な自然の回復力アニミズムの価値観
・戦後の逆境から立ち直る力、資本主義と科学の物質文明を再点検する外部の存在
⇒それが初期作品では少女ではなく少年に託されている
・インダストリアの否定⇒教条主義、全体主義、独裁現実のソビエトとの決別
・ラナもシータもクラリスも過去を背負わされた暗く陰りのあるヒロイン
⇒そこに活き活きと動くルパンやコナンたちが現れ、彼女たちを変え、浄化する物語が
初期作品では繰り返される
⇒よく言われるロリコンではなく少年も少女も宮崎の自己投影ではないか
⇒この両性具有性も繰り返される
②ルパン三世カリオストロの城1979
~学生運動的な活力を体現するキャラクターとしてのルパン~
・70年安保を境に「シラケ世代」になったルパンの性格を宮崎と高畑は払拭したかった
・カリオストロ家にもルパンにも峰不二子にも宮崎自身にも光と影の二面性がある
・シーズン2第145話「死の翼アルバトロス」のエロティシズムとラディカリズム
(以後は抑制され純粋な想いと信頼が強調されるが動画や主題の官能性の中に潜在する?)
・シーズン2第155話(最終話)「さらば愛しきルパンよ」の科学と贖罪という主題
(軍需によるリッチな生活への贖罪⇒共産主義へ⇒その弾圧や虐殺を知った衝撃と幻滅と後悔)
③風の谷のナウシカ1984~冷戦・全面戦争の寓話~
・様々な現代社会に対する寓話
⇒自然と暮らす風の谷が科学強国トルメキアに支配され巨神兵の復活に従事させられる
⇒アメリカの「アトムズ・フォー・ピース」を受けた日本の原子力政策の寓話とも
⇒「ナウシカの戦争モデルはロシア人だけで2千万人が死んだ独ソ戦」
・ナウシカは科学と自然の両方の要素を持っており最初は暗い影が少なくコナンに近い存在
⇒原作では大量破壊兵器の罪を背負いそれを食い止めようとする暗く儚げなラステルから
巨神兵の秘石を託され、その運命が変わる⇒ここから作品は動き出す
⇒クシャナは科学を戦争に利用しようとしている⇒どちらも両性具有的な存在
⇒ラステルの兄アスベルはコナンやルパンのような生命力=アニミズムの象徴ではない
⇒アニミズムはナウシカと蟲によって描かれ、その凶暴な側面も剝き出しになる
・ナウシカは罪を背負い贖罪しようとする少女とも男勝りに権力や科学を使う女性とも違う
⇒純粋に共感し助けようとする⇒蟲への愛
⇒「ナウシカはアニミズムに支配されている」
⇒ホルス・コナン・ルパンの少年的アニミズムから母性アニミズムに変化した?
⇒「ナウシカを作るきっかけは水俣湾が水銀で汚染され数年後に魚と牡蠣が戻ってきたこと」
・水俣病、核兵器、独ソ戦、冷戦・・・この困難な世界の寓話として機能する作品であり、
それらの悲劇を克服する方向の精神性を求めた祈りの作品でもある
⇒日本的なアニミズムに可能性を見いだすのは本人が言う通り民族主義的かも
⇒資本主義や科学を投げ捨て、自然と共存していたかつての日本の心を取り戻せば、
公害も戦争も解決するのか?
⇒この葛藤を含みながら宮崎作品は思想的に変遷していく・・・
④天空の城ラピュタ1986~科学と自然の二項対立の否定~
・落下が本作のモチーフであり、科学の二面性こそが本作の主題
⇒パズーの生命力はコナンやルパンほどではなく、無邪気さや楽天性を捨て、
科学の深刻な問題を理解し、シータとともに命を懸けて贖罪するように変化する
⇒活力アニミズムに近いのはドーラたちだが彼らも自然と科学の混ざった造形
・ドーラのモデルは宮崎の実母でありアニミズム的活力と結びつく
⇒慈悲深く受け入れ育てる想像の「母」とは異なる宮崎の母との個人的な結びつき
・パズーの村もラピュタも科学と自然が入り混じった状態で存在し続けるラスト
⇒科学・戦争・資本主義を象徴する父と、自然・土着・霊性を象徴する母の遺伝子と文化を
受け継いだ当然の帰結
⇒混ざり合いの肯定は自分自身を受容することに近い
・ラピュタに近づくと嵐の中にパズーの父の幻が現れる
⇒後期作品で中心的に描かれる、あの世・異界・死者という主題系の萌芽がここにある
第2章 受容と育成
⑤となりのトトロ1988~抱きとめてくれる自然=カミによる「救済」~
・代表作だが、かなりの異色作
⇒父の系列(科学・資本主義・戦争・罪)が徹底的に排除され、母の系列(自然・霊性・土着・受容)が
全開になっている
⇒宮崎の振れ幅のひとつの極で父の系列の問題からの精神的アジュールと言っていい作品
・トトロはオバケと宮崎は言ってるが、これはアニミズム的な自然信仰の「カミ」
⇒無理に頑張っていたサツキに必要なのはゆっくり休むこと
⇒雨の夜にメイを背負った孤独な場面にトトロが現れ、傘に雨が落ちることすら喜びに
⇒母がわりに頑張ってるサツキは宮崎であり少女に自己投影する傾向がここでも続いている
⇒「このままでは鬱屈し不良少女になってしまうから感情を爆発させてあげた」
・「トトロが存在すること」だけでサツキとメイは救われている
⇒日常で抱きとめてくれる自然=カミが存在することが救済なのだと、認識が移行した
⇒しかしトトロ(自然=カミ)も荒ぶれば王蟲にも台風にもなる
(トトロの廻すコマや電線を駆けるネコバスなど科学とのハイブリッドもある)
・日本と日本人を罪の意識から嫌っていた宮崎が日本に向き合った作品で、
⇒少年の自分に「こういう日本だったら好きになるのでは」と提示するつもりで作った作品
・「国家や民族を超えた単位で日本を眺める切り口が欲しかった」⇒縄文時代の研究へ
⇒「そうじゃないと僕の遭遇してきた日本は惨めでみすぼらしいものでしたから」
⇒「サツキとメイの父のモデルは藤森栄一」(縄文農耕論を立証しようとしていた)
⇒「それと母親が何度も聞かせてくれた山梨の山村の日常」
⇒「それらで日本の歴史が嫌だった自分の何かがわかった」
⇒縄文的なアニミズムの感覚⇒その象徴がトトロ
⇒戦争への国家神道と自然信仰アニミズムの分離が可能になったのかも
・縄文と照葉樹林(面白かったけど当サイトのおなじみ分野なので略)
・諏訪と宮崎駿と藤森栄一と中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」の関係(同じく略)
⇒諏訪明神(タケミナカタ神)、蒲池明弘「火山と断層から見えた神社のはじまり」、
小海町出身の新海誠「すずめの戸締り」、中央構造線と糸静構造線が交わる諏訪上社前宮・・・
⇒科学と自然の二項対立の破壊、前衛知識人の指導より民衆の生活そのものにある価値観へ
⑥柳川掘割物語1987~民衆たちによる新しい文明への希望~
・年代は逆になるが前述の民衆への評価と大きく関係する
⇒本作を作った3つの理由(高畑の文章より)
1昔から日本人が続けていた自然を破壊しないような循環型の付き合い
⇒「昔に戻ろう」ではなく柔軟性のある新技術と工夫で都市河川を復活させる
2行政と市民の連帯
⇒市民と一緒に水路を再生した柳川市職員・広松伝に高畑が出会って感動した
⇒新しい住民運動は行政への不信がベースだが柳川では行政と市民が共闘して計画を覆し、
新しい計画を立案して実行できてしまった⇒連帯とその事実に高畑は希望を感じた
3活き活きとした子どもたち
⇒その人懐こさにも驚いた
⇒子どもたちが個室化し社会や自然や現実から(自分たちが提供している)アニメーションに
逃げ込む傾向に歯止めをかけるような仕事をしたかった
・本作は宮崎のその後の思索や作品にも大きく影響していると推測する
⇒川の神だったことを忘れクライマックスで蘇るハク、ごみ拾いなど地域活動への参加、
その重要性や現代に活かす方法という方向にシフトしていくきっかけになったのでは?
⑦魔女の宅急便1989~工業と都市生活の受容~
・トトロ以降、日常や労働や自分を受容するという主題系が宮崎に浮上する
⇒その受容には資本主義や科学までも含まれ、その対立と葛藤、二面性に引き裂かれながら
進むドラマが「もののけ姫」までの宮崎
・トトロと同じ日常生活であり父の系列は薄く、キキが女性たちに助けられる物語
⇒この女性たちがトトロや自然が果たしてきた母として機能する
・時代の変化とその受容も本作の隠れた主題
⇒トトロ的な村を離れて田舎から都市へ⇒空間的・時間的な移動
⇒本作のアニミズム活力はキキの魔法や元気だが都会で萎えていくことが主題のひとつ
・トンボは科学の側に近いが人力で飛ぼうとしている(宮崎の科学の受容ライン?)
⇒二人の関係は田舎と都会、過去と未来、魔法と科学の複雑な関係の寓話
・画家のウルスラが本作が才能についての寓話であることを開示する
⇒宮崎は田舎から出てきた専門学校生などを想定しキキを造形しており、
(ある程度は絵が描ける(魔法が使える)という才能だけで都会に出てきた若者たちへの)
先輩絵描きとしてのメッセージをウルスラに託している
・飛行船は墜落するがテレビで多くの人がキキを見守り応援し評価する
⇒テレビというテクノロジーが多くの人たちを繋いでいる
⇒テクノロジーも含め多くの人たちが見守っている、というのが本作での救済ではないか
・最後にトンボは完成した人力飛行機で、魔法で飛ぶキキと二人で空を飛んでいる
⇒魔法(自然・アニミズム・古いもの)と科学(都会・人工・新しいもの)の和解
⇒ラピュタ・ネコバス系列の主題系がここでも続いている
⑧紅の豚1992~抱きとめてくれる「救済」としての「あの世」~
・赤い豚=共産主義者かつ資本家というアイロニカルなタイトル
⇒この時期の宮崎駿の思想の反映
⇒疲れた中年が次世代を育成し救済を見いだそうとする(作品の内容も作り方も)
・トトロで幼少期、魔女で思春期と新人の頃、本作では自身の年代に近い中年男性を描き、
それを受容しようとする試みがなされたのだと考えてよい
⇒結論として前二作のような「受容の物語」は本作では展開できなかった
⇒疑似ユートピアでバカ騒ぎするポルコの暗い影と重さが強い印象を与える結果
⇒罪の主題系が色濃く復活しているが直接に向き合うことはなく贖罪と救済の物語も不発
・疑似ユートピアで一時的な救済と解放を得る、そのことを受容しようと試みたが、
それは不可能だと直視せざるを得なかったのが本作ではないか
⇒これは当時の「戦争や国際政治に背を向け疑似ユートピアに閉じこもって良いのか」という
石黒昇「メガゾーン23」や押井守「機動警察パトレイバー2」などで繰り返された問いへの
宮崎なりの取り組みなのだろう
・本作、ハウル、風立ちぬは男性が主人公で一般評価が分かれる作品
⇒父側の主題で描けば重苦しい罪や絶望の重力が作動する
⇒逆に母側の主題では爽快に飛翔し受容や解放感が表現される
⇒その両方の緊張関係こそが宮崎作品
・本作で最も印象的なのがポルコが「あの世」を見るシーン
⇒真っ青な「清浄・救済」の中に無数の死者たちが向かい、ポルコは行くことができない
⇒彼を優しく抱きとめてくれるのは「あの世」なのだが、地上の責任のため戻ってくる
⇒「千と千尋」以降「あの世・異界」を中心の主題にしていくが、その折り返し点が本作
・民族主義・民衆への失望
⇒トトロ以降、日本のアニミズムや民衆に期待し信頼しようとし、そこに救済を求めていた
⇒ところが1991年にユーゴスラビアで紛争が起こり民族主義を民衆が支持した
⇒冷戦終結⇒社会主義の否定⇒民族同士の虐殺・民族浄化へ
⇒これは異質なものが理解し合い戦争を止める「ナウシカ」のビジョンとは正反対だった
⇒つくづく人間は複雑で愚かと思い知り、その答えとして本作を描いた
⇒宮崎はこれ以降、自他の愚かさを受容していく(努力をする)ようになる
(その受容はかならずしも肯定ではないという不思議な捻じれを本作以降は孕む)
・日本だけでなく人類全体の愚かさの連鎖が続くこと自体への受容の試みの本格的な展開は
漫画版「ナウシカ」で行われることになる・・・
⑨平成狸合戦ぽんぽこ1994~現代への敗北と受容~
・高畑作品だが「次世代・変化の受容」というこの時期の宮崎の主題系にとって重要な作品
⇒古いものや自然を守ろうとして敗北し、現代的な生活や開発や資本主義を受け入れて
生きざるを得ないこと、それを苦々しく受容しようとする物語
・狸の化学(ばけがく)は高畑アニメーション⇒消費されるエンターテインメントに過ぎない
⇒ジブリに対する高畑のアイロニーでありニヒリズムで高畑の受容の物語
・この後に高畑は「となりの山田くん」や「かぐや姫」などの方向へ、宮崎は逆にアイロニーや
シニシズムを拒否し、積極的に生きる者、現状などを受容する努力の方向へ向かう
⑩耳をすませば1995
~(カントリーロードではなく)コンクリートロードの肯定~
・監督は近藤喜文だが力の入れようから宮崎作品と考えていい
・ぽんぽこ狸の後にニュータウンに移り住んできた者たちの映画
(オープニングも似たカットで作品の連続性を感じさせる)
・少年はバイオリン作り、少女は創作に活力を発揮する
⇒図書館やアンティークなど様々な文化が自然に代わって少年少女を励ます
⇒自然ではなく人間の創造性にアニミズム的な活力や純粋さ=清浄さを見出すことで、
科学・近代・開発・資本主義を受容=肯定しようとする努力
・「もののけ姫と本作は同じ基盤で本作で触れなかった部分がもののけ姫の中にある」
⑪漫画版「風の谷のナウシカ」1982~1994
漫画版の要点は
・腐海は世界の汚染を浄化しており腐海の奥こそが「青き清浄の地」と呼ばれること
・ナウシカが擬人的な巨神兵の「母」になること
・科学技術が眠っている「墓所」が存在すること
・腐海や蟲たちが科学技術によって作られたものであることを知ること
・腐海の外の人類を含む動植物は浄化された世界では生きられないこと
⇒カントリーロード=トトロ的世界=浄化された世界
⇒コンクリートロード=ニュータウン的な現代社会=汚染された世界のメタファ
⇒(現代の)新しい人間たちは浄化された世界では生きられない
⇒ナウシカは悩み、苦しみや悲しみや死も受け入れ汚濁と共に生きていくことを選ぶ
⇒現に生きている「次世代」をナウシカ=宮崎は選ぶのである
・ナウシカと母(略)
・人類史的悲劇の受容
⇒トトロや魔女の宅急便での自己受容は戦争や資本主義や科学の問題を否認したところに存在した
⇒紅の豚はそれを否認しようと努力するが成功しない物語
⇒漫画版ナウシカはそのような愚考すら肯定し受容しようとする心理的な努力
⇒歴史へのペシミズムをどう乗り越えるか⇒そこにこそ宮崎のアニミズムがある
⇒人類の愚考も含めた生命のあり方そのものを受容し信じようとする宮崎アニミズム
・母のニヒリズム(略)
手塚治虫のニヒリズム、ぽんぽこの高畑のニヒリズム・シニシズム、変節への共感・・・
・後に宮崎は「安っぽいニヒリズム」と「生命根源への問いに発している深いニヒリズム」を
分けて述べるが宮崎アニミズムは後者で漫画版ナウシカで到達し、もののけ姫で全面展開する
⑫もののけ姫1997~善悪と二項対立を超えて~
・ナウシカ1984のリメイク的な側面があり漫画版ナウシカ1994の主題系が展開された作品
⇒ナウシカ=サンとクシャナ=エボシ御前の対立が主軸の物語だが違いもある
⇒ナウシカ1984での二項対立や理想といった逃げ道がなくなっている
⇒その怒りと憎悪のコントロールをしたのがアシタカ⇒水俣病の加害者と被害者と緒方正人
・登場人物は貴族・侍・農民ではなく蝦夷・白拍子・ハンセン病患者
⇒網野善彦史観であり黒澤明作品「七人の侍」への異議申し立て
・漫画版ナウシカの結末部で得られた認識の延長線上にある作品
⇒サンにもエボシ御前にも過酷な過去と現状があり、どちらの陣営も一枚岩ではない
・冷戦崩壊後のユーゴスラビアの憎悪の応酬の果ての大破壊
⇒自分をコントロールしなければならないという子どもたちへのメッセージ
・人類の矛盾と葛藤と拮抗を肯定せざるを得ないという達観と諦念の境地
⇒それがこの時期の宮崎アニミズム
⇒伊勢的な清浄を求める神道や、穢れや殺生を嫌う仏教とは異なる、諏訪的な信仰の影響
⇒愚かな人類や生命を丸ごと受容するような境地のアニミズム
・映画の結末で木々や神々や動物はいなくなる
⇒かつての信仰や文化を失い近代化した状況の隠喩
⇒だが一匹のコダマが残り新しい植物の芽が生える
⇒縄文の自然ではなく人工的に再生した関東近郊の自然⇒それを受容し癒される宮崎
⇒宮崎が「耳をすませば」と「もののけ姫」は対になる作品と言ってるのはそういうこと
・「サンは森で私はタタラ場で暮らそう、共に生きよう」
⇒矛盾や葛藤をそのままにしておくことが本作の落としどころ
⇒全面的な受容や融合ではなく殲滅し合うことなく異質性を保ちながら共存していこうとする
・理想も完璧な正も、排除すれば解決する悪も、存在しない世界で生きることを肯定すべき
⇒だからコントロールし理解し共感し許さなければならない
⇒これが21世紀をどう生きるかに対する宮崎の答え
「もう告発は済んだのです、後は日常生活の中で自分が何をするかを考える時です」
「ただの批判では何も生まれてこないから新しい感覚を作り出すことを考えるべきと思ってます」
・・・・・
以下、第3章以降のメモは次回記事に続きます

宮崎駿の「罪」と「祈り」~アニミズムで読み解くジブリ作品史~
・・・読書メモの前半であります
(長いメモなので前半と後半に分けました)
奥付

2025年6月30日の発行ですから「君たちはどう生きるか」公開後の著作になり、
おそらく現時点でも全ての宮崎駿作品を前提とした最新の論評でしょう
著者紹介がなかったので、ご存知ない方はこちら(ウィキ)をご覧くださいね
著者は筒井康隆作品に関する論文で博士号を取得されてるんですね
目次

まえがきより
・本書では宮崎駿の科学、戦争、資本主義などが複雑に結びついた主題系を「父の系列」とする
⇒彼のアニミズムはこの系列における罪との関係の中に存在している浄化であり希望
・宮崎作品で母はアニミズム的、民俗的、神秘的、精神的な救いと結びつけられる傾向がある
⇒そこには解放感、自由さ、救済感、祝福感がある⇒これを「母の系列」とする
⇒多くの観客に愛されているのは「母の系列」の性質を強くしている作品群
(トトロ、魔女の宅急便、千と千尋、ポニョ、君たちはどう生きるか・・・)
・本書では「宮崎駿のアニミズム」を「父の系列」と、その罪悪感や絶望感からの救済や
解放を志向するベクトルとしての「母の系列=アニミズム」の相克として描く
⇒その本格化は漫画版「ナウシカ」完結後だが、「ラピュタ」ぐらいからアニミズム=自然が善く、
人工=科学が悪いという二項対立を排し、どちらにもどちらの面もあるという二面性を複雑に
織り込むように変化してきている
⇒その対立と葛藤のドラマを本書では詳述していく
・「宮崎駿のアニミズム」の発展史として作品群を貫く思想を見ようとし、アニミズムを
「父の罪」との交互作用において読み解く作家論
⇒「君たちはどう生きるか」という最新長編を踏まえた一貫した視座での作家理解
・子供向きアニメーションにどのような寓意や象徴、想いが込められているのか
⇒きちんと知ると驚くことになる
⇒本書でその驚きと感動を伝えることができれば・・・
・・・・・
ええ、確かに作品に込められた寓意や象徴、想いを知ることの驚きと感動がありました
以前も書きましたが宮崎作品には何階層もの楽しみ方があるのが特徴ですね
以下もてきとーメモですが脳内整理のため勝手に作品番号を付けました
さらに宮崎駿本人の言葉には「」を付けたつもりです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば記事を非公開設定にします)
第1章 科学と自然
①未来少年コナン1978~コナンに託した生命力~
・作り手の心理で物語が作られ緻密なハリウッド作品と比較すれば作り方もアニミズム的
・文明崩壊後に自然が回復した場所だからこそ生まれた野生児がコナン
⇒コナン自体に野生・自然が宿っており、それは日本的な自然の回復力アニミズムの価値観
・戦後の逆境から立ち直る力、資本主義と科学の物質文明を再点検する外部の存在
⇒それが初期作品では少女ではなく少年に託されている
・インダストリアの否定⇒教条主義、全体主義、独裁現実のソビエトとの決別
・ラナもシータもクラリスも過去を背負わされた暗く陰りのあるヒロイン
⇒そこに活き活きと動くルパンやコナンたちが現れ、彼女たちを変え、浄化する物語が
初期作品では繰り返される
⇒よく言われるロリコンではなく少年も少女も宮崎の自己投影ではないか
⇒この両性具有性も繰り返される
②ルパン三世カリオストロの城1979
~学生運動的な活力を体現するキャラクターとしてのルパン~
・70年安保を境に「シラケ世代」になったルパンの性格を宮崎と高畑は払拭したかった
・カリオストロ家にもルパンにも峰不二子にも宮崎自身にも光と影の二面性がある
・シーズン2第145話「死の翼アルバトロス」のエロティシズムとラディカリズム
(以後は抑制され純粋な想いと信頼が強調されるが動画や主題の官能性の中に潜在する?)
・シーズン2第155話(最終話)「さらば愛しきルパンよ」の科学と贖罪という主題
(軍需によるリッチな生活への贖罪⇒共産主義へ⇒その弾圧や虐殺を知った衝撃と幻滅と後悔)
③風の谷のナウシカ1984~冷戦・全面戦争の寓話~
・様々な現代社会に対する寓話
⇒自然と暮らす風の谷が科学強国トルメキアに支配され巨神兵の復活に従事させられる
⇒アメリカの「アトムズ・フォー・ピース」を受けた日本の原子力政策の寓話とも
⇒「ナウシカの戦争モデルはロシア人だけで2千万人が死んだ独ソ戦」
・ナウシカは科学と自然の両方の要素を持っており最初は暗い影が少なくコナンに近い存在
⇒原作では大量破壊兵器の罪を背負いそれを食い止めようとする暗く儚げなラステルから
巨神兵の秘石を託され、その運命が変わる⇒ここから作品は動き出す
⇒クシャナは科学を戦争に利用しようとしている⇒どちらも両性具有的な存在
⇒ラステルの兄アスベルはコナンやルパンのような生命力=アニミズムの象徴ではない
⇒アニミズムはナウシカと蟲によって描かれ、その凶暴な側面も剝き出しになる
・ナウシカは罪を背負い贖罪しようとする少女とも男勝りに権力や科学を使う女性とも違う
⇒純粋に共感し助けようとする⇒蟲への愛
⇒「ナウシカはアニミズムに支配されている」
⇒ホルス・コナン・ルパンの少年的アニミズムから母性アニミズムに変化した?
⇒「ナウシカを作るきっかけは水俣湾が水銀で汚染され数年後に魚と牡蠣が戻ってきたこと」
・水俣病、核兵器、独ソ戦、冷戦・・・この困難な世界の寓話として機能する作品であり、
それらの悲劇を克服する方向の精神性を求めた祈りの作品でもある
⇒日本的なアニミズムに可能性を見いだすのは本人が言う通り民族主義的かも
⇒資本主義や科学を投げ捨て、自然と共存していたかつての日本の心を取り戻せば、
公害も戦争も解決するのか?
⇒この葛藤を含みながら宮崎作品は思想的に変遷していく・・・
④天空の城ラピュタ1986~科学と自然の二項対立の否定~
・落下が本作のモチーフであり、科学の二面性こそが本作の主題
⇒パズーの生命力はコナンやルパンほどではなく、無邪気さや楽天性を捨て、
科学の深刻な問題を理解し、シータとともに命を懸けて贖罪するように変化する
⇒活力アニミズムに近いのはドーラたちだが彼らも自然と科学の混ざった造形
・ドーラのモデルは宮崎の実母でありアニミズム的活力と結びつく
⇒慈悲深く受け入れ育てる想像の「母」とは異なる宮崎の母との個人的な結びつき
・パズーの村もラピュタも科学と自然が入り混じった状態で存在し続けるラスト
⇒科学・戦争・資本主義を象徴する父と、自然・土着・霊性を象徴する母の遺伝子と文化を
受け継いだ当然の帰結
⇒混ざり合いの肯定は自分自身を受容することに近い
・ラピュタに近づくと嵐の中にパズーの父の幻が現れる
⇒後期作品で中心的に描かれる、あの世・異界・死者という主題系の萌芽がここにある
第2章 受容と育成
⑤となりのトトロ1988~抱きとめてくれる自然=カミによる「救済」~
・代表作だが、かなりの異色作
⇒父の系列(科学・資本主義・戦争・罪)が徹底的に排除され、母の系列(自然・霊性・土着・受容)が
全開になっている
⇒宮崎の振れ幅のひとつの極で父の系列の問題からの精神的アジュールと言っていい作品
・トトロはオバケと宮崎は言ってるが、これはアニミズム的な自然信仰の「カミ」
⇒無理に頑張っていたサツキに必要なのはゆっくり休むこと
⇒雨の夜にメイを背負った孤独な場面にトトロが現れ、傘に雨が落ちることすら喜びに
⇒母がわりに頑張ってるサツキは宮崎であり少女に自己投影する傾向がここでも続いている
⇒「このままでは鬱屈し不良少女になってしまうから感情を爆発させてあげた」
・「トトロが存在すること」だけでサツキとメイは救われている
⇒日常で抱きとめてくれる自然=カミが存在することが救済なのだと、認識が移行した
⇒しかしトトロ(自然=カミ)も荒ぶれば王蟲にも台風にもなる
(トトロの廻すコマや電線を駆けるネコバスなど科学とのハイブリッドもある)
・日本と日本人を罪の意識から嫌っていた宮崎が日本に向き合った作品で、
⇒少年の自分に「こういう日本だったら好きになるのでは」と提示するつもりで作った作品
・「国家や民族を超えた単位で日本を眺める切り口が欲しかった」⇒縄文時代の研究へ
⇒「そうじゃないと僕の遭遇してきた日本は惨めでみすぼらしいものでしたから」
⇒「サツキとメイの父のモデルは藤森栄一」(縄文農耕論を立証しようとしていた)
⇒「それと母親が何度も聞かせてくれた山梨の山村の日常」
⇒「それらで日本の歴史が嫌だった自分の何かがわかった」
⇒縄文的なアニミズムの感覚⇒その象徴がトトロ
⇒戦争への国家神道と自然信仰アニミズムの分離が可能になったのかも
・縄文と照葉樹林(面白かったけど当サイトのおなじみ分野なので略)
・諏訪と宮崎駿と藤森栄一と中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」の関係(同じく略)
⇒諏訪明神(タケミナカタ神)、蒲池明弘「火山と断層から見えた神社のはじまり」、
小海町出身の新海誠「すずめの戸締り」、中央構造線と糸静構造線が交わる諏訪上社前宮・・・
⇒科学と自然の二項対立の破壊、前衛知識人の指導より民衆の生活そのものにある価値観へ
⑥柳川掘割物語1987~民衆たちによる新しい文明への希望~
・年代は逆になるが前述の民衆への評価と大きく関係する
⇒本作を作った3つの理由(高畑の文章より)
1昔から日本人が続けていた自然を破壊しないような循環型の付き合い
⇒「昔に戻ろう」ではなく柔軟性のある新技術と工夫で都市河川を復活させる
2行政と市民の連帯
⇒市民と一緒に水路を再生した柳川市職員・広松伝に高畑が出会って感動した
⇒新しい住民運動は行政への不信がベースだが柳川では行政と市民が共闘して計画を覆し、
新しい計画を立案して実行できてしまった⇒連帯とその事実に高畑は希望を感じた
3活き活きとした子どもたち
⇒その人懐こさにも驚いた
⇒子どもたちが個室化し社会や自然や現実から(自分たちが提供している)アニメーションに
逃げ込む傾向に歯止めをかけるような仕事をしたかった
・本作は宮崎のその後の思索や作品にも大きく影響していると推測する
⇒川の神だったことを忘れクライマックスで蘇るハク、ごみ拾いなど地域活動への参加、
その重要性や現代に活かす方法という方向にシフトしていくきっかけになったのでは?
⑦魔女の宅急便1989~工業と都市生活の受容~
・トトロ以降、日常や労働や自分を受容するという主題系が宮崎に浮上する
⇒その受容には資本主義や科学までも含まれ、その対立と葛藤、二面性に引き裂かれながら
進むドラマが「もののけ姫」までの宮崎
・トトロと同じ日常生活であり父の系列は薄く、キキが女性たちに助けられる物語
⇒この女性たちがトトロや自然が果たしてきた母として機能する
・時代の変化とその受容も本作の隠れた主題
⇒トトロ的な村を離れて田舎から都市へ⇒空間的・時間的な移動
⇒本作のアニミズム活力はキキの魔法や元気だが都会で萎えていくことが主題のひとつ
・トンボは科学の側に近いが人力で飛ぼうとしている(宮崎の科学の受容ライン?)
⇒二人の関係は田舎と都会、過去と未来、魔法と科学の複雑な関係の寓話
・画家のウルスラが本作が才能についての寓話であることを開示する
⇒宮崎は田舎から出てきた専門学校生などを想定しキキを造形しており、
(ある程度は絵が描ける(魔法が使える)という才能だけで都会に出てきた若者たちへの)
先輩絵描きとしてのメッセージをウルスラに託している
・飛行船は墜落するがテレビで多くの人がキキを見守り応援し評価する
⇒テレビというテクノロジーが多くの人たちを繋いでいる
⇒テクノロジーも含め多くの人たちが見守っている、というのが本作での救済ではないか
・最後にトンボは完成した人力飛行機で、魔法で飛ぶキキと二人で空を飛んでいる
⇒魔法(自然・アニミズム・古いもの)と科学(都会・人工・新しいもの)の和解
⇒ラピュタ・ネコバス系列の主題系がここでも続いている
⑧紅の豚1992~抱きとめてくれる「救済」としての「あの世」~
・赤い豚=共産主義者かつ資本家というアイロニカルなタイトル
⇒この時期の宮崎駿の思想の反映
⇒疲れた中年が次世代を育成し救済を見いだそうとする(作品の内容も作り方も)
・トトロで幼少期、魔女で思春期と新人の頃、本作では自身の年代に近い中年男性を描き、
それを受容しようとする試みがなされたのだと考えてよい
⇒結論として前二作のような「受容の物語」は本作では展開できなかった
⇒疑似ユートピアでバカ騒ぎするポルコの暗い影と重さが強い印象を与える結果
⇒罪の主題系が色濃く復活しているが直接に向き合うことはなく贖罪と救済の物語も不発
・疑似ユートピアで一時的な救済と解放を得る、そのことを受容しようと試みたが、
それは不可能だと直視せざるを得なかったのが本作ではないか
⇒これは当時の「戦争や国際政治に背を向け疑似ユートピアに閉じこもって良いのか」という
石黒昇「メガゾーン23」や押井守「機動警察パトレイバー2」などで繰り返された問いへの
宮崎なりの取り組みなのだろう
・本作、ハウル、風立ちぬは男性が主人公で一般評価が分かれる作品
⇒父側の主題で描けば重苦しい罪や絶望の重力が作動する
⇒逆に母側の主題では爽快に飛翔し受容や解放感が表現される
⇒その両方の緊張関係こそが宮崎作品
・本作で最も印象的なのがポルコが「あの世」を見るシーン
⇒真っ青な「清浄・救済」の中に無数の死者たちが向かい、ポルコは行くことができない
⇒彼を優しく抱きとめてくれるのは「あの世」なのだが、地上の責任のため戻ってくる
⇒「千と千尋」以降「あの世・異界」を中心の主題にしていくが、その折り返し点が本作
・民族主義・民衆への失望
⇒トトロ以降、日本のアニミズムや民衆に期待し信頼しようとし、そこに救済を求めていた
⇒ところが1991年にユーゴスラビアで紛争が起こり民族主義を民衆が支持した
⇒冷戦終結⇒社会主義の否定⇒民族同士の虐殺・民族浄化へ
⇒これは異質なものが理解し合い戦争を止める「ナウシカ」のビジョンとは正反対だった
⇒つくづく人間は複雑で愚かと思い知り、その答えとして本作を描いた
⇒宮崎はこれ以降、自他の愚かさを受容していく(努力をする)ようになる
(その受容はかならずしも肯定ではないという不思議な捻じれを本作以降は孕む)
・日本だけでなく人類全体の愚かさの連鎖が続くこと自体への受容の試みの本格的な展開は
漫画版「ナウシカ」で行われることになる・・・
⑨平成狸合戦ぽんぽこ1994~現代への敗北と受容~
・高畑作品だが「次世代・変化の受容」というこの時期の宮崎の主題系にとって重要な作品
⇒古いものや自然を守ろうとして敗北し、現代的な生活や開発や資本主義を受け入れて
生きざるを得ないこと、それを苦々しく受容しようとする物語
・狸の化学(ばけがく)は高畑アニメーション⇒消費されるエンターテインメントに過ぎない
⇒ジブリに対する高畑のアイロニーでありニヒリズムで高畑の受容の物語
・この後に高畑は「となりの山田くん」や「かぐや姫」などの方向へ、宮崎は逆にアイロニーや
シニシズムを拒否し、積極的に生きる者、現状などを受容する努力の方向へ向かう
⑩耳をすませば1995
~(カントリーロードではなく)コンクリートロードの肯定~
・監督は近藤喜文だが力の入れようから宮崎作品と考えていい
・ぽんぽこ狸の後にニュータウンに移り住んできた者たちの映画
(オープニングも似たカットで作品の連続性を感じさせる)
・少年はバイオリン作り、少女は創作に活力を発揮する
⇒図書館やアンティークなど様々な文化が自然に代わって少年少女を励ます
⇒自然ではなく人間の創造性にアニミズム的な活力や純粋さ=清浄さを見出すことで、
科学・近代・開発・資本主義を受容=肯定しようとする努力
・「もののけ姫と本作は同じ基盤で本作で触れなかった部分がもののけ姫の中にある」
⑪漫画版「風の谷のナウシカ」1982~1994
漫画版の要点は
・腐海は世界の汚染を浄化しており腐海の奥こそが「青き清浄の地」と呼ばれること
・ナウシカが擬人的な巨神兵の「母」になること
・科学技術が眠っている「墓所」が存在すること
・腐海や蟲たちが科学技術によって作られたものであることを知ること
・腐海の外の人類を含む動植物は浄化された世界では生きられないこと
⇒カントリーロード=トトロ的世界=浄化された世界
⇒コンクリートロード=ニュータウン的な現代社会=汚染された世界のメタファ
⇒(現代の)新しい人間たちは浄化された世界では生きられない
⇒ナウシカは悩み、苦しみや悲しみや死も受け入れ汚濁と共に生きていくことを選ぶ
⇒現に生きている「次世代」をナウシカ=宮崎は選ぶのである
・ナウシカと母(略)
・人類史的悲劇の受容
⇒トトロや魔女の宅急便での自己受容は戦争や資本主義や科学の問題を否認したところに存在した
⇒紅の豚はそれを否認しようと努力するが成功しない物語
⇒漫画版ナウシカはそのような愚考すら肯定し受容しようとする心理的な努力
⇒歴史へのペシミズムをどう乗り越えるか⇒そこにこそ宮崎のアニミズムがある
⇒人類の愚考も含めた生命のあり方そのものを受容し信じようとする宮崎アニミズム
・母のニヒリズム(略)
手塚治虫のニヒリズム、ぽんぽこの高畑のニヒリズム・シニシズム、変節への共感・・・
・後に宮崎は「安っぽいニヒリズム」と「生命根源への問いに発している深いニヒリズム」を
分けて述べるが宮崎アニミズムは後者で漫画版ナウシカで到達し、もののけ姫で全面展開する
⑫もののけ姫1997~善悪と二項対立を超えて~
・ナウシカ1984のリメイク的な側面があり漫画版ナウシカ1994の主題系が展開された作品
⇒ナウシカ=サンとクシャナ=エボシ御前の対立が主軸の物語だが違いもある
⇒ナウシカ1984での二項対立や理想といった逃げ道がなくなっている
⇒その怒りと憎悪のコントロールをしたのがアシタカ⇒水俣病の加害者と被害者と緒方正人
・登場人物は貴族・侍・農民ではなく蝦夷・白拍子・ハンセン病患者
⇒網野善彦史観であり黒澤明作品「七人の侍」への異議申し立て
・漫画版ナウシカの結末部で得られた認識の延長線上にある作品
⇒サンにもエボシ御前にも過酷な過去と現状があり、どちらの陣営も一枚岩ではない
・冷戦崩壊後のユーゴスラビアの憎悪の応酬の果ての大破壊
⇒自分をコントロールしなければならないという子どもたちへのメッセージ
・人類の矛盾と葛藤と拮抗を肯定せざるを得ないという達観と諦念の境地
⇒それがこの時期の宮崎アニミズム
⇒伊勢的な清浄を求める神道や、穢れや殺生を嫌う仏教とは異なる、諏訪的な信仰の影響
⇒愚かな人類や生命を丸ごと受容するような境地のアニミズム
・映画の結末で木々や神々や動物はいなくなる
⇒かつての信仰や文化を失い近代化した状況の隠喩
⇒だが一匹のコダマが残り新しい植物の芽が生える
⇒縄文の自然ではなく人工的に再生した関東近郊の自然⇒それを受容し癒される宮崎
⇒宮崎が「耳をすませば」と「もののけ姫」は対になる作品と言ってるのはそういうこと
・「サンは森で私はタタラ場で暮らそう、共に生きよう」
⇒矛盾や葛藤をそのままにしておくことが本作の落としどころ
⇒全面的な受容や融合ではなく殲滅し合うことなく異質性を保ちながら共存していこうとする
・理想も完璧な正も、排除すれば解決する悪も、存在しない世界で生きることを肯定すべき
⇒だからコントロールし理解し共感し許さなければならない
⇒これが21世紀をどう生きるかに対する宮崎の答え
「もう告発は済んだのです、後は日常生活の中で自分が何をするかを考える時です」
「ただの批判では何も生まれてこないから新しい感覚を作り出すことを考えるべきと思ってます」
・・・・・
以下、第3章以降のメモは次回記事に続きます
2025年12月25日
ヤマト建国の真相
とーとつですがクリスマスに・・・

「~最新考古学が解き明かす~ヤマト建国の真相」のご紹介であります
監修者紹介と奥付

目次



目次からもおわかりのとおり、ヤマト王権と邪馬台国について網羅してあり、
素人にもわかるよう最新の研究成果をまとめた入門書であります
巻末にあった主な参考文献

当サイトで取り上げた本も何冊かありますね・・・
と、まずは第1章の冒頭部分からメモ・・・
・ヤマト王権が誕生したのは3世紀後半以降の奈良盆地というのが定説
⇒ところがこの期間の文字資料がないため「空白の4世紀」とされている
(266年の晋書・武帝紀から、369年の七支刀刻印、391年の碑文記録までない)
⇒文書資料で卑弥呼が共立されたのは190年頃とされている
(3世紀には西日本の大部分を統治下においていた)
・両者は個別に研究されてきたが奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘調査と研究が進んだ
⇒纏向遺跡は2世紀後半に突如出現した大規模な都市計画で3世紀後半にヤマト王権の王都
だったことはほぼ確定している
⇒纏向遺跡は卑弥呼政権の王都であり、その後のヤマト王権へ政権が何らかの形で直接継承
あるいは簒奪された可能性が高い
・だが魏志倭人伝の邪馬台国へ至るクニグニは北部九州が多く出土例も畿内より圧倒的に多い
⇒投馬国を除きいずれも玄界灘沿岸(畿内説では投馬国は吉備あるいは出雲)
⇒200年~260年(庄内期)の鏡の出土も北部九州に集中している
⇒これは何故なのか・・・
・・・
とはじまって寺沢薫説や、桃崎有一郎説が詳しく紹介され、九州説の矛盾を指摘する項もあり、
以降の章は邪馬台国畿内説で進みますが、以下わたくしが気になった一部のてきとーメモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・魏志倭人伝には倭国の内29国の盟主である卑弥呼の住む王都「ヤマト国」の長官はイコマ、
副官はミマス、ミマキ、ナカトの3人で、この4人がヤマト国を支配するとある
(他にもナ国やイト国など主な倭国内の国の長官と副官の名前が記されている)
⇒イコマ、ミマス、ミマキは記紀にある初期ヤマト王権の大王名と共通する(村井康彦説)
⇒イコマ垂仁天皇イクメイリヒコ、ミマス孝昭天皇ミマツヒコ、ミマキ崇神天皇ミマキイリヒコ
⇒この3人の御陵の地を当てるとイコマは奈良盆地の北東部、ミマスは南西部、ミマキは東部
⇒ナカトに該当する天皇名はないが「中処」とすると3地域の中央部になる
⇒イコマの生駒は当時の河内湾につながる大和川の要衝、ミマスの南西部は葛城氏の本拠地、
ミマキの東部は纏向遺跡や最初期の前方後円墳がある天理市から桜井市にかけて
⇒ナカトの中央部に鍵・唐古遺跡があり、卑弥呼以前の体制・社会状況を引き継いだものか
⇒他の国では長官1副官1で2人だがヤマト国のみ4人、しかも3人の副官に序列はない・・・
・北東部のイコマが長官で王都である纏向のある東部のミマキが副官なのは何故?
⇒記紀の神武東征では大阪に上陸したイワレヒコが生駒山の西麓でナガスネヒコに敗れている
⇒このナガスネヒコの根拠地がイコマのエリア
⇒現代なら都庁が生駒にあって国会議事堂が纏向にできた、ということになる
⇒イコマのエリア内にある富雄丸山古墳は(大王以上の副葬品があるのに)大王級の前方後円墳
ではなくランクが下の円墳
⇒被葬者は卑弥呼以前にヤマトを治めていたナガスネヒコのモデルとなった王を祖先とし、
その後ヤマト国の長官となったイコマの後裔だったからではないか・・・
・瀬戸内海沿岸部の鉄をめぐる第一次倭国乱で大和と吉備と淡路島が結びついた?(記紀)
⇒このとき北部九州は安定しており防備を固め静観していた(当時の遺跡から)
・181年のニュージーランド・タウポ火山噴火により184年には黄巾の乱、三国志の時代へ
⇒北部九州も難民や後漢の衰退で混乱し、交易をめぐり瀬戸内海中部・畿内連合の圧力も
⇒これが第二次倭国乱だが武力衝突はせず連合に加わり卑弥呼政権が形成された
⇒鉄を中心とする物流システムの再編成のために生まれた政権ともいえる
・なぜ畿内の纏向が王都に選ばれたのか
⇒北部九州の難民などによる社会変化の激しさ、岡山平野の少ない降水量に対する奈良盆地の
安定的な農業生産もあるが、大きな要因は強力な首長がいなかったからではないか
⇒400のムラ⇒11の共同体⇒3つの主要勢力で200年続いていたが、倭国乱以降の2世紀末に
拠点集落では環濠が埋められ、唐古・鍵では掘り直しもされるが規模は格段に縮小する
⇒奈良盆地の集落ネットワークは解体・再編成させられたのだ
・纏向王都の先進性
⇒吉備や讃岐の大規模土木技術、北部九州の大陸からもたらされた最先端知識の活用
⇒配置や建物D(出雲大社本殿の大社造りと共通)、建物C(伊勢神宮の神明造りにつながる)など
・纏向遺跡の外来形土器は2世紀末の5大勢力(北部九州・瀬戸内海中部・出雲・畿内・東海)を
もれなく網羅しており3世紀に日本の中心地だったことは明らか
⇒中国宮殿を模した桃、紅花、バジルなど西アジア原産種が出土している
⇒ところがイネや鍬など農業遺物が殆ど出ない(土木工事に使う鋤は多い)
・卑弥呼共立と銅鐸祭祀の破壊・消滅(略)
・瀬戸内海中部・畿内連合の前方後円墳に北部九州が加わった卑弥呼政権の纏向型前方後円墳、
そして出雲の勢力が加わって葺石が備えられたホケノ山古墳(卑弥呼の墓とも)、という発展
⇒箸墓古墳は諸勢力の首長霊祭祀を集約化し発展していったもので規模も魏志倭人伝と一致、
放射性炭素年代法による240~260年という推定も卑弥呼の死亡年とされる248年頃と一致し、
箸墓古墳の被葬者が卑弥呼と考えるのが自然・・・
と、ここまでで第3章まで、4章から7章も最新の研究成果をわかりやすくまとめてあり、
とても面白かったのですが、メモ能力よりアルコール勢力が拡大してきて・・・ひっく
ここまでのメモや目次を見て興味を持たれた方はぜひ本書をお読みくださいね
NHK教育の「3ヶ月でマスターする古代文明」も面白かったけど、日本の古代史も面白いなあ

「~最新考古学が解き明かす~ヤマト建国の真相」のご紹介であります
監修者紹介と奥付

目次



目次からもおわかりのとおり、ヤマト王権と邪馬台国について網羅してあり、
素人にもわかるよう最新の研究成果をまとめた入門書であります
巻末にあった主な参考文献

当サイトで取り上げた本も何冊かありますね・・・
と、まずは第1章の冒頭部分からメモ・・・
・ヤマト王権が誕生したのは3世紀後半以降の奈良盆地というのが定説
⇒ところがこの期間の文字資料がないため「空白の4世紀」とされている
(266年の晋書・武帝紀から、369年の七支刀刻印、391年の碑文記録までない)
⇒文書資料で卑弥呼が共立されたのは190年頃とされている
(3世紀には西日本の大部分を統治下においていた)
・両者は個別に研究されてきたが奈良県桜井市の纏向遺跡の発掘調査と研究が進んだ
⇒纏向遺跡は2世紀後半に突如出現した大規模な都市計画で3世紀後半にヤマト王権の王都
だったことはほぼ確定している
⇒纏向遺跡は卑弥呼政権の王都であり、その後のヤマト王権へ政権が何らかの形で直接継承
あるいは簒奪された可能性が高い
・だが魏志倭人伝の邪馬台国へ至るクニグニは北部九州が多く出土例も畿内より圧倒的に多い
⇒投馬国を除きいずれも玄界灘沿岸(畿内説では投馬国は吉備あるいは出雲)
⇒200年~260年(庄内期)の鏡の出土も北部九州に集中している
⇒これは何故なのか・・・
・・・
とはじまって寺沢薫説や、桃崎有一郎説が詳しく紹介され、九州説の矛盾を指摘する項もあり、
以降の章は邪馬台国畿内説で進みますが、以下わたくしが気になった一部のてきとーメモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・魏志倭人伝には倭国の内29国の盟主である卑弥呼の住む王都「ヤマト国」の長官はイコマ、
副官はミマス、ミマキ、ナカトの3人で、この4人がヤマト国を支配するとある
(他にもナ国やイト国など主な倭国内の国の長官と副官の名前が記されている)
⇒イコマ、ミマス、ミマキは記紀にある初期ヤマト王権の大王名と共通する(村井康彦説)
⇒イコマ垂仁天皇イクメイリヒコ、ミマス孝昭天皇ミマツヒコ、ミマキ崇神天皇ミマキイリヒコ
⇒この3人の御陵の地を当てるとイコマは奈良盆地の北東部、ミマスは南西部、ミマキは東部
⇒ナカトに該当する天皇名はないが「中処」とすると3地域の中央部になる
⇒イコマの生駒は当時の河内湾につながる大和川の要衝、ミマスの南西部は葛城氏の本拠地、
ミマキの東部は纏向遺跡や最初期の前方後円墳がある天理市から桜井市にかけて
⇒ナカトの中央部に鍵・唐古遺跡があり、卑弥呼以前の体制・社会状況を引き継いだものか
⇒他の国では長官1副官1で2人だがヤマト国のみ4人、しかも3人の副官に序列はない・・・
・北東部のイコマが長官で王都である纏向のある東部のミマキが副官なのは何故?
⇒記紀の神武東征では大阪に上陸したイワレヒコが生駒山の西麓でナガスネヒコに敗れている
⇒このナガスネヒコの根拠地がイコマのエリア
⇒現代なら都庁が生駒にあって国会議事堂が纏向にできた、ということになる
⇒イコマのエリア内にある富雄丸山古墳は(大王以上の副葬品があるのに)大王級の前方後円墳
ではなくランクが下の円墳
⇒被葬者は卑弥呼以前にヤマトを治めていたナガスネヒコのモデルとなった王を祖先とし、
その後ヤマト国の長官となったイコマの後裔だったからではないか・・・
・瀬戸内海沿岸部の鉄をめぐる第一次倭国乱で大和と吉備と淡路島が結びついた?(記紀)
⇒このとき北部九州は安定しており防備を固め静観していた(当時の遺跡から)
・181年のニュージーランド・タウポ火山噴火により184年には黄巾の乱、三国志の時代へ
⇒北部九州も難民や後漢の衰退で混乱し、交易をめぐり瀬戸内海中部・畿内連合の圧力も
⇒これが第二次倭国乱だが武力衝突はせず連合に加わり卑弥呼政権が形成された
⇒鉄を中心とする物流システムの再編成のために生まれた政権ともいえる
・なぜ畿内の纏向が王都に選ばれたのか
⇒北部九州の難民などによる社会変化の激しさ、岡山平野の少ない降水量に対する奈良盆地の
安定的な農業生産もあるが、大きな要因は強力な首長がいなかったからではないか
⇒400のムラ⇒11の共同体⇒3つの主要勢力で200年続いていたが、倭国乱以降の2世紀末に
拠点集落では環濠が埋められ、唐古・鍵では掘り直しもされるが規模は格段に縮小する
⇒奈良盆地の集落ネットワークは解体・再編成させられたのだ
・纏向王都の先進性
⇒吉備や讃岐の大規模土木技術、北部九州の大陸からもたらされた最先端知識の活用
⇒配置や建物D(出雲大社本殿の大社造りと共通)、建物C(伊勢神宮の神明造りにつながる)など
・纏向遺跡の外来形土器は2世紀末の5大勢力(北部九州・瀬戸内海中部・出雲・畿内・東海)を
もれなく網羅しており3世紀に日本の中心地だったことは明らか
⇒中国宮殿を模した桃、紅花、バジルなど西アジア原産種が出土している
⇒ところがイネや鍬など農業遺物が殆ど出ない(土木工事に使う鋤は多い)
・卑弥呼共立と銅鐸祭祀の破壊・消滅(略)
・瀬戸内海中部・畿内連合の前方後円墳に北部九州が加わった卑弥呼政権の纏向型前方後円墳、
そして出雲の勢力が加わって葺石が備えられたホケノ山古墳(卑弥呼の墓とも)、という発展
⇒箸墓古墳は諸勢力の首長霊祭祀を集約化し発展していったもので規模も魏志倭人伝と一致、
放射性炭素年代法による240~260年という推定も卑弥呼の死亡年とされる248年頃と一致し、
箸墓古墳の被葬者が卑弥呼と考えるのが自然・・・
と、ここまでで第3章まで、4章から7章も最新の研究成果をわかりやすくまとめてあり、
とても面白かったのですが、メモ能力よりアルコール勢力が拡大してきて・・・ひっく
ここまでのメモや目次を見て興味を持たれた方はぜひ本書をお読みくださいね
NHK教育の「3ヶ月でマスターする古代文明」も面白かったけど、日本の古代史も面白いなあ

