書斎

2026年09月10日

文明の衝突

とーとつですが「文明の衝突」であります・・・



表表紙

P7151275




裏表紙

P7151277

そう、1990年代(冷戦後)の国際情勢を「異なる文明同士の衝突」という観点から捉え、
1996年に刊行された「文明の衝突」、こちらは2017年に再刊された
文庫版です

この30年間には文明に関する多くの新発見があり様々な新説も提起され、さらに国際情勢も
大きく変わってますが、2017年にはアメリカのトランプ大統領就任、イギリスのEU離脱開始、
中国の一帯一路政策などがあって、日本でも本書が再び脚光を浴びて再刊されたとのこと

さらにウクライナをフォルト・ラインとする戦争勃発の可能性についても警告していたり、
刊行から30年後、文庫化から10年後に読んでも充分コンテンポラリーな内容でした
(刊行時に話題になったけど読んでなかったことを、ふと思い出して借りてみた次第です)


上巻の奥付と著者紹介

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上巻の目次

P7141270



下巻の目次

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以下、なにせ大著なので図書館への返却期限もあり・・・

本文をナナメ読みしたランダムなメモと、要点をわかりやすくまとめてあった
訳者あとがき、
そして文庫版(2017年)の新しい解説からのてきとーメモです
(てきとーですが著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)

・文明は文化的なまとまりであって政治的なまとまりではない
⇒ひとつの文明に含まれる政治単位は単数も複数もあり、その単位も都市国家、帝国、
連邦や連合、国民国家、多民族国家など様々
⇒たとえば中国は「一つの国を装っている文明」で、日本は「国すなわち文明」だが、
大部分の文明には二つ以上の国家が含まれている

・現代(1996年)の主要文明は8文明
(ただし仏教文明・周辺文明・混合文明をこれらと分けて11文明とする整理もある)
(過去に存在した主要文明は・メソポタミア・エジプト・クレタ・古代ギリシャローマ
・ビザンティン・中央アメリカ・アンデスの7文明)

1中華文明
BC2500年頃からの中国文明とBC1500年頃からの中国文明がAC数世紀の間に一方を承継し、
儒教を重要な要素としながら東南アジアなどの中国人社会と共通の文化、さらにはベトナムや
朝鮮の関連する文化
(政治的なまとまりとしての中国を超越しているので中華文明とした)

2日本文明
日本文化と中国文化を極東文明という見出しでひとくくりにする学者もいるが、ほとんどの
学者はAC100~400年の間に中国文明から派生した固有の文明と認識している

3ヒンドゥー文明
ヒンドゥー教はBC2000年以降のインド亜大陸文化の中心で中華文明と同様に国を超える

4イスラム文明
7世紀のアラビア半島から急激に世界に広がり様々な異なる文化(下位文明)が存在する

5西欧文明
AC700年~800年に現れたとされヨーロッパ・北アメリカ・ラテンアメリカが主要な構成要素

6東方正教会文明
ビザンティン文明を親とする西欧キリスト教文明とは異なる別個の文明
⇒200年間のトルコ支配、官僚的専制主義により、ルネサンス、宗教改革、啓蒙思想など、
西欧の根幹をなす歴史的経験からの影響がごく限られているから

7ラテンアメリカ文明
ヨーロッパ文明から生まれたが北アメリカとは異なる発展をした文明
⇒北アメリカには全くない協調組合主義的で権威主義的な文化
⇒カトリック一辺倒で土着文化と混じっている(北アメリカの土着文化は抹殺された)
⇒西欧文明の下位文明なのか密接に関わる別個の文明なのか
(文明の持つ国際政治上の意味合いからは別個の文明と考えた方が便利)

8アフリカ文明
アフリカ大陸の北部と東岸はイスラム文明、それ以外はヨーロッパの帝国主義と植民地政策により
西欧文明だったがアフリカ中で部族やアフリカ人としてのアイデンティティが発達しており、
サハラ以南のアフリカが固有の文明にまとまる可能性が考えられる

・世界的な五大宗教のうちキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、儒教の4つは主な文明と
結びついているが仏教だけはそうではない⇒なぜか
⇒大乗仏教は土地の文化(中国では儒教や道教)に同化したので重要な構成要素にも関わらず
仏教文明とは認識されない
⇒スリランカ・タイ・ミャンマー・ラオス・カンボジアには間違いなく小乗仏教文明が存在し、
チベット・モンゴル・ブータンのチベット仏教は仏教文明の第2地域だが、全般的にインドで
殆ど滅びていることや中国や日本で既存文化に組み込まれていることから、主要宗教だが
主要文明の基盤ではなかったと言える(が、別個の文明とする整理もある)

・20世紀の政治的イデオロギーはすべてが西欧のもの

・アジアの多くの国に広がる儒教的な特徴
⇒権威、階級、個人の権利や利害の軽視、合意の重要さ、対決を避けること、メンツを保つこと、
国家は社会に優先すること、社会は個人に優先すること、社会の発展を数百年、数千年の
オーダーで考え、長期的な利益を最大にすることを優先することなど

・アメリカ人は自由・平等・民主主義・個人主義などを重視し、政府を信用せず、権威に抵抗し、
権力の抑制と均衡を促進し、競争を奨励し、人権を尊重し、過去を忘れ、未来を見つめず、
現在の利益の追求に全力を挙げる
⇒なので紛争の根本にあるのは社会と文化の基本的な違い

・アフガニスタン戦争(1979~89)
⇒イスラム勢力が外国勢力に抵抗して初めて成功した例
⇒初めての文明間の戦争(ジハード)でありイスラムの自信と勢力が飛躍的に高まった
⇒1905年に日本がロシアに勝利した際の東洋世界への衝撃にも劣らぬものだった
⇒西欧は自由世界の勝利と思ったがイスラム教徒はイスラムの勝利と考えた

・フォルトライン戦争の特徴(略)
⇒戦闘を停止させるには・・・
・第二次、第三次レベルの当事者が積極的に介入すること
・第三次レベルの当事者がより広い視点で交渉する
第三次レベルの当事者が飴と鞭を使って第二次レベルの当事者に条件をのませ、
第一次レベルの当事者にこれを受け入れるよう圧力をかけさせる
第二次レベルの当事者が第一次レベルの当事者への支援を撤回する(つまり裏切る)
・この圧力により第一次レベルの当事者が条件を受け入れる(ボスニアの例⇒略)


・・・・・・・・・(以下略)


訳者あとがきより

・冷戦終結後の世界では著者はイデオロギーではなく文明のアイデンティティによって
統合や分裂のパターンが作られていると主張する⇒文明間の対立

・著者は文明間の戦争を避けるには、
第一に中核国が他の文明内の衝突への干渉を慎むこと
第二に中核国が交渉を通じて文明の断層線(フォルト・ライン)で起こる紛争を阻止すること
第三に普遍主義を放棄して文明の多様性を受け入れ、そのうえであらゆる文化の中にある
人間の普遍的な性質、つまり共通性を追求していくことが必要、としている

・文明にもとづく国際秩序こそが世界戦争を防ぐ最も確実な安全装置、という結論

・本書には西欧の優越性など多くの識者からの反論もあるが冷戦後の紛争を「文明の衝突」と
とらえたのは適切であり展開する議論は示唆に富むので「21世紀を目前にした今」多くの人に
読んでもらいたい一冊・・・


(2017年8月)文庫版の解説より

・ハンチントンは20年早かった
⇒冷戦の終焉⇒米国一極主義⇒世界大不況という点からみると、
⇒冷戦の終焉は亀裂を拡大させ周辺で不安定化を促進した
⇒それは米国の苛立ちと軍事行動を誘発し、
米国一極主義と一方的な行動主義を生む
⇒軍事費の乱費と緩んだ支出は2008年の世界大不況に

・ブッシュ(子)とオバマの16年間に世界で生起したこと
①デジタリゼーションとグローバリゼーション
⇒コミュニケーションと人と物の移動が迅速大量容易になり資本主義自体を大きく変化させた
②環境も関与する人も多様になり安定性、恒常性、予測可能性が削がれ、大きな対外戦争が
難しくなった反面、国境のない内戦のようなものが噴出し、2016年の米国大統領選挙では
ラストベルトの隠れシンパによる予想外の結果に

・刊行当時に浮かび上がってたのはバルト海からウクライナ、バルカンに至るフォルト・ライン
⇒その後の中国一帯一路、トランプ政権の自由世界秩序を崩壊させる政策、移民・難民の流れ、
テロリズムの蔓延により、本著が再び大きな脚光を浴びている

・アジアには中華文明・ヒンドゥー文明・ペルシャ文明・日本文明が存在する
(解説者も日本文明が中華文明に所属しないと考える根拠)
①徳川時代からある「成語林」17000のうち論語起源は200で儒教の考えが極端に少ないこと
②アジアバロメータ調査で東アジアでは独立・勤勉・正直が三大価値観・規範意識だが、
日本だけ「思いやり」が単独で突出し、
独立・勤勉・正直は21世紀にしつけとして子どもに
教えることはすくないこと、など

・20世紀後半には米国との同盟関係と相互依存をアジアの多くの国が維持していたので、
本書の構図の影は薄かった
⇒しかし最近(2017年)は中国との経済関係が急速に強くなり、米国とアジアの関係は薄くなり、
トランプ政権はそれを助長している
⇒アジア諸国の発展で自己主張が強まっているのも事実
⇒冷戦終焉直後のシナリオの一つだった本著が再び大きな脚光を浴びるのは今
(2017年8月)


・・・・・・・・


さてさて・・・
「21世紀を目前にした今(1996年)」ではなく、その後の「
中国との経済関係が強くなり、
米国とアジアの関係が薄くなり、アジア諸国の発展で自己主張が強まっている今
(2017年)」
でもなく、さらにそれから10年後の今・・・
21世紀もすでに四半世紀が過ぎた、2026年の状況をどう捉えるべきなのか・・・


と・・・最後に本書の冒頭にあった、
①西洋圏とその他の地域に分かれていた1920年の世界地図
②自由主義圏、共産主義圏、非同盟国に分かれていた1960年代(冷戦時代)の世界地図
③1990年以後のさまざまな文明からなる世界地図(1996年まで)
をメモしておきます
⇒30年後の今の世界地図はどんなもんでしょう・・・



(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)
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2026年08月31日

ウイスキーと私

とーとつですが・・・

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竹鶴政孝著「ウイスキーと私」であります




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そう、日本経済新聞「私の履歴書」への連載をニッカが小冊子にまとめたもので、


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昭和47年発行の非売品・・・
たまたま読んだのですが、じつに味わい深い内容でした



目次

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以下、本文からの一部メモです
(非売品ですが著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)

まずはスコッチウイスキーについての本人による解説から・・・

・ウイスキーが琥珀色でピートの焦げ臭い香りの付いた酒になったのは300年前とか
400年前とかといわれているほどで、酒の中では比較的に新しい
⇒しかも産業革命の1830年頃まではスコットランドの一部を除き殆ど飲まれてなかった

・その頃のモルトウイスキーはハイランド地方でポットスチルを使って蒸留した原酒を
樽に入れて熟成させたもので香りや味はよかったが重くて万人向きではなかった

・ワットが蒸気機関を改良し1830年には蒸気を利用するカフェ式連続蒸留器が完成した
⇒2回の蒸留で少量しかできないモルトに代わり1回の蒸留で大量にできるグレーンの工場が
1830年から1860年の間にローランド地方に乱立し、たちまち生産過剰になった

・1860年頃にハイランド・モルトとグレーン・ウイスキーをブレンドしたのがアッシャ商会
⇒カフェ・グレーンがモルトの長所をのばし欠点であった重さや荒さをやわらげた
⇒これが今のスコッチ製法で飲みやすくなり全イギリスから世界に愛好されるようになった
⇒なので今のブレンデッド・ウイスキーには100年の歴史しかない
(50年前の本なので今なら150年の歴史ですね)


で、英国留学のきっかけ

・長兄はシンガポールでゴムの栽培、次兄は北海道炭鉱汽船に就職し北海道へ、
⇒なので家業の酒蔵を継ぐため(学問的興味もあり)大阪高等工業(今の大阪大学)醸造科へ
(大正2年当時に醸造学を修める学校はここしかなかった)
⇒大正5年4月に卒業して実家に帰り12月に1年志願で兵隊に行ってから家業を継ぐコース
⇒洋酒に興味があったので、この間だけでも洋酒づくりをやりたいと思った

・当時の洋酒メーカーの第一人者は大阪の住吉にあった摂津酒造
⇒学校の試験が終わり大江橋から電車に乗って
醸造科大先輩の岩井常務に頼みに行った
⇒阿部社長の部屋に連れていかれ、すべてを話すと「明日からでも出社しなさい」となった
⇒小西儀助商店や鳥井さんの寿屋などが得意先で洋酒の中身は摂津酒造が製造していた

・12月の大阪での徴兵検査では検査官の中尉が最後に甲種合格のハンコを押す直前に、
私が摂津酒造のアルコール技師であることを知り乙種になった
⇒アルコールは火薬製造に不可欠で軍需産業の一端と考えたのか軍縮の時代だったからか
⇒阿部社長は喜び、後日にスコットランド留学を打診され返事ができないほど感激した
⇒家業を継ぐと期待していた父母は大反対したが阿部社長の説得で家業は親類に譲ることに
⇒これで手筈が整い英国に出発することになった
大正7年(1918)7月に神戸港から出港
(サンフランシスコからニューヨークまで大陸横断、Uボート攻撃を避けながらリバプールへ)

・当時の日本は第一次世界大戦による成金時代で洋酒がよく売れた
⇒大正7年~9年(1918~1920)は摂津酒造の黄金時代で私の留学費と日本に残った後輩たちの
賞与の額がほぼ同じになったほどの好景気だった
⇒戦後この後輩とひさしぶりに会った際に「同じ金額を、あなたはウイスキーの勉強に、
われわれは住𠮷公園の料亭につぎ込んだことになるなあ」と言ったので二人で大笑いした


(追記です)
そう、大正時代の住𠮷公園は大歓楽地だったんですよね

マッサンが摂津酒造に入社したのが1916年、大阪府では初めて1873年にできた住𠮷公園は
すでに大歓楽地になっており、仲居、芸妓、ヤトナが出入りして風紀が大いに乱れたため
マッサンが帰国した翌年の1922年には公園の西側に花街として住𠮷新地が指定されており、
1923年には芸舞妓467名、料理屋等138軒を数えたという、まさに「オトナの遊び場」

そこへ毎夜のように好景気に沸く地元有力企業のエリート社員で独身の美男子が・・・
おそらく住吉公園の芸舞妓や遊女たちにもめっちゃモテたんでしょうね


閑話休題・・・


で、肝心のスコットランドの部分は省略して・・・

・1921年11月に妻のリタと阿部社長の三人で横浜港に帰国した(4年ぶりの日本)
(リタとの結婚も父母に反対され阿部社長が説得、本人を確認の上で連れ帰る約束だった)
⇒新婚生活は大阪の帝塚山で家賃は55円、待遇は技師長で月給は150円だった
⇒戦後の大不況で社長も推していた私の本格ウイスキー計画が役員会で否認された
⇒イミテーションなら高給の私がいなくても作れるので辞表を出して浪人になった
⇒1922年から1923年の初めまでの数ヶ月は近所の桃山中学で化学の教師をした
(校長のローリング氏と妻のリタが親しく私の失業を心配してくださったため)
(ローリング氏は1933年に亡くなり阿倍野の外人墓地に埋葬されている)
⇒妻のリタも近所の帝塚山学院で英語を教え英語とピアノの個人教授も引き受けていた

・1923年の梅の季節に寿屋の鳥井社長が自宅に来られた⇒三顧の礼で
⇒本格的ウイスキーをやってみたいと三井物産を通じムーア博士の招請を交渉していたが
博士本人から日本にいい技師がいると言われ、とんできたとのことだった
⇒ウイスキー工場には北海道が適地とすすめたが「工場を見てもらえないような商品は
これからは大きくならない、大阪の近くで探してほしい」といわれた
(鳥井さんの商品を育てるカンと努力は先天的でこれも好例であろう)
⇒年俸4000円はスコットランド技師
招請の見込み金額と同額だった
⇒雇用10年はウイスキーが商品として完成するまでの期間で1923年6月に寿屋に入社した

・調査して適地と判断した山崎の用地買収が終わったのは1923年10月で大震災の直後だった
(鳥井さんは震災後、直ちに船をチャーターして赤玉ポートワインやヘルメス・ウイスキーを
東京に運び、これが大いに売れて関東にも飛躍するステップとなった)
⇒起工式は1924年4月で設計や設備機械の発注など全て一人だったので忙しい日々が続いた
⇒ポット・スチルは大阪市西区の渡辺銅工所で何か月もかかり、運ぶのも船で淀川を遡上、
陸揚げしてからは馬で東海道線を越えるのが難関だった
⇒竣工式は1924年11月で費用は200万円かかった
⇒郷里の広島から日本酒の杜氏を十数人呼んで手を取るようにして教え込んだ
⇒機械の名前が英語でスムーズに出るようになって、やっと手つきも慣れてきた
⇒すべてが日本初だった

・1929年4月に初めての本格ウイスキー「白札サントリー」を世に出した
⇒発売価格は3円50銭
⇒ジョニーウォーカー赤が5円(今なら5万円ぐらいの商品?)の時代
⇒その後に普及品の「赤札サントリー」も出したがいずれも売れ行きも評判もよくなかった
(ブレンドしようにも新しいモルトしかなく体験的知識もなかった)
⇒売れなかったので原酒が残り、10年前後の年月を経て立派な原酒になった

・長期型のウイスキー部門と量産型のビール部門は分離すべきとの意見は採用されなかった
⇒両工場長を兼任していたがビール工場拡張工事の最中にビール部門の売渡が決定した
⇒独立を決意したのはその時で10年の約束は保留されていたが12年で円満に退社した
⇒鳥井さんなしには民間のウイスキーは育たなかったし私のウイスキー人生もなかった

・余市
⇒あらかじめ決めていたので資金を工面して1934年10月に工場を建てた
(リタは故郷のスコットランドに似ていると、とても喜んでくれた)
⇒すぐに売れるリンゴ・ジュースを作ったがラムネ・サイダー時代の嗜好に合わず苦戦した
⇒熟成を要するウイスキーづくりは1936年の秋から蒸留に入った
⇒つなぎ商品として1937年にアップルゼリー・グレープゼリー・アップルソースを出した
(翌年に出したアップルワインは今もニッカ製品のひとつ)
⇒1940年の秋にニッカウヰスキー第一号を発売した
⇒まだ原酒が若くブレンドも会心とはいえなかったが独立後初めての作品で感激した
⇒その後の統制時代には海軍の指定工場になり原酒の貯蔵量は増えていった

・戦後の混乱
⇒占領軍幹部からの理不尽な通達には「髭のオヤジ」が法律用語を交えて断固はねつけたが、
インフレで偽物も溢れ、せめてモルトを各イミテーション・メーカーに売ることにした
(イミテーションでも少量のモルトを混ぜるだけで味は格段によくなる)
⇒さらにブレンダーとしての良心に反して3級ウイスキーを作らざるを得なくなったと、
全従業員を広場に集めて苦衷をぶちまけたのは昭和25年の春
⇒税法の最高率まで原酒を入れて高く売ったのが、せめてもの私の抵抗だった
⇒売り上げは伸びたが「容量が少なく値段が高い」ことが競争上は不利だったのも事実

・昭和27年8月に大日本果汁から
ニッカウヰスキーに社名を変えた
⇒昭和30年11月には2000円のゴールドニッカ、翌年には1500円のブラックニッカを出した
⇒戦後第一回の洋酒ブームでトリス・ニッカ・オーシャンの軽バーが増えた
⇒当時の2級ウイスキーはウイスキーとは程遠いものだったが、その浸透が次のステップへ
⇒ウイスキーに級別がなかったら業界はもっと進歩していたと思っている

・昭和36年(1961)1月17日にリタが急逝し、しばらくショック状態が続いた
⇒昭和40年にリタの好きだった余市工場の見える小高い丘に墓を作った
⇒リタほど日本人になりきった外国人は少ないと思うし考え方も日本人的だった
⇒母親の遺産は長女なのに面倒を見なかったからと固く辞退していたし、叔母の遺産も
その一部で余市に幼稚園をつくり、それは
リタ幼稚園として今も続いている

・当時目指していたのは2級でも古い原酒を入れたウイスキーと、グレーン・スピリッツを
使ったソフトなウイスキーだった
⇒グレーン・スピリッツの製造設備には多額の資金が必要だった
⇒「スコッチに負けないために」と朝日麦酒の山本為三郎社長が積極的に援助してくださり、
昭和37年に
グレーン・スピリッツの
西宮工場が完成した
⇒グレーンの熟成を待って出したのが500円のハイニッカと1000円のブラックニッカ
⇒どちらも許される上限の原酒とカフェ・グレーンのブレンド製品だった
⇒それまで特級でしかつくれなかった味が熟成カフェ・グレーンのおかげで1級でも旨いと
自負できるものが生まれた

・1000円ウイスキー戦争ともいわれたが各社が品質競争をして戦後第二のブームに
⇒昭和43年の税制改正でホワイトニッカを出したが改正は今後の品質アップに貢献するだろう

・余市モルトはハイランド・タイプで仙台モルトはローランド・タイプ
⇒「ローランド・モルトは荒々しいハイランド・モルトと中性のグレーン・ウイスキーとの
橋渡しをする」(イーニアス・マクドナルド)
⇒仙台モルトの一部は立派に使用できるまで成長してきた(昭和46年現在)
⇒ウイスキーのブレンドが完成するひとときは敬虔な祈りそのものであり、このブレンドは
ブレンダーとしての私の最終の仕上げになると思う・・・

・昭和44年(1969)イギリスのデイリーエキスプレス紙は「日本、スコッチ市場に侵入」という
大きな記事を掲載した
⇒これはニューヨーク駐在の記者たちがニューヨークタイムズ紙にのったニッカの広告を見て、
1本58シリング4ペンスのニッカ1本スコッチ2本の各最高級品3本を買って帰り、新聞社で
ブラインド(目かくし)テストをしてみた結果、これが日本製だろうと全員が指摘したのは
悲しいことにスコッチ最高の12年物であったと書かれていた
⇒さらに「英国が持っていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒らしたが、次に日本は
英国の最も神聖な輸出商品スコッチに殴り込みをかけてきた」という警告記事だった
⇒スコットランドでウイスキーを勉強したのが50余年前、北海道余市に工場を作って30余年、
日本でウイスキーを作ることしか考えなかった私には痛快なニュースであった

・スコットランドのウイスキーづくりを持ち帰ったのでイギリスから嫌われているのでは、
との質問には「スコットランドでしかできなかったウイスキーを日本でつくり、今や日本も
スコッチの大きな市場になっているのだから女王は勲章をくれてもよい」と冗談をいった
⇒黄綬褒章、瑞宝章に続き1970年には北海道開発功労賞をいただいた
⇒北海道の風土があったからこそニッカが生まれニッカが育ったので恐縮している
⇒ウイスキーづくりを知れば知るほど風土そのものがウイスキーだと知った

・学問も技術も進歩を続けているのに半世紀前の勉強がそのまま役に立つのがウイスキーづくり
⇒熟成を早める科学はすべて失敗しており、今も自然と時間だけが解決者
⇒昔からスコットランドに伝わる製造法が、今もよいウイスキーへのただ一つの道

・ウイスキーの正しい飲み方
⇒私によくある質問で嗜好品なので一番旨いと思う方法で楽しめばよいと思っているが、
⇒毎日飲む人とたまにしか飲まない人で味わい方は違ってくる
⇒香りや味を味わうならストレートがいいが、これを毎日やれば胃を痛める
⇒こんな人には水割りがよくウイスキー1に井戸水2がいい
⇒これでアルコール分が12度から13度ぐらいになる
⇒適温はビールと同じ7~8℃
⇒以前はスコットランドでも炭酸割を飲む人が多かったが最近では水割りが多い
⇒炭酸割は胃を刺激するからか酔いが早くまわる
⇒楽しみながら時間をかけて飲むこと⇒食事も同じ
⇒楽しく飲める自分の量を計算して飲むこと
⇒オーバーすればどんなにいい酒でも悪酔いする
⇒私がウイスキー一途といってもビールもワインも日本酒も楽しむ
⇒今の流行語でいうTPOで飲み分け、楽しむのが酒と思っている

・舌と鼻
⇒私は目の前でつくる料理しか食べないので宴会料理には手を付けない
⇒自分で食べるものは今でも自分で材料を買いに行く
⇒文化国家というものは嗜好を高めることにある
⇒いいもの悪いもの、新しいもの古いものを見分ける舌と鼻の持ち主になってもらいたい
⇒鼻の能力は先天的で舌の能力は後天的なものが多いようで舌は訓練次第
⇒ウイスキーの「のど越し」も鼻に通じるので鼻で鑑別するもの
⇒最盛期の30代で十数種類のスコッチ銘柄を飲み分けられたが英国滞在中には40種類ぐらいを
当てるエキスパートもおり、これは灘の日本酒でも同じで相当の鑑別ができるようになる
⇒主体性を持って見分けられることは人生を楽しむことに通じていると思う


・・・・・・・


冒頭に書いておられたのが周囲に機会を与えられたことでした
⇒二人の兄が家業を継ぐことを嫌がったから醸造学を修めたこと
(自分もウイスキーになり家業は親類が継ぐことになったが)
⇒摂津酒造の阿部社長の決意がなければスコットランド留学などあり得なかったこと
⇒グラスゴー大学のウィリアム博士やイネー博士、グラント工場長や多くの協力がなければ
ウイスキーづくりを覚えられなかったのはもちろん、モルト工場にさえ入れなかったこと
⇒時代的にも日英同盟の背景がなかったら工場が実習を許可してくれてたかどうか
⇒寿屋の鳥井社長の洋酒の将来性への確信による山崎工場がなかったら日本はウイスキーが
できる国になっていたかどうか
⇒独立時の協力、カフェ・グレーンへの援助etc
⇒皆さんの協力が私をこの道一本に導いてくれた・・・

と、決して自慢話ではなく淡々としながらも温かみ溢れる内容で、ひさしぶりに爽やかな
気持ちになれた本でした


最後に備忘のため年表もメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)

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(ご本人は1979年(昭和54年)に85歳で亡くなられてますが、ウィキによれば・・・
酒量はウイスキー1日1本。晩酌にはハイニッカを好み、おつまみとして醤油味の薄焼き煎餅と
供に楽しみながら飲んでいた。ただし、晩年には3日で2本に減らしたという。とのことでした)




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2026年08月25日

ユダヤ人の歴史

とーとつですが・・・

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ユダヤ人の歴史~古代の興亡から離散、ホロコースト、シオニズムまで~
とゆー本を読みました


表紙カバー裏の惹句

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そう、怪しげな「ユダヤ本」とは異なり、史実と判明したことを中心に書かれており、
わたくしがはじめて知る事実も多かったです


著者紹介と奥付

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昨年1月の刊行をネットで知り、すぐ図書館に予約してから1年半以上待ちでした



目次

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わたくしの後にも200人以上の予約待ちがあり貸出期間延長もできなかったし大著の荷風本
重なってしまいナナメ読みでしたが(でも購入すれば逆にいつでも読めると「積ん読」に)、
とりあえずのてきとーメモです

(以下てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)


序章より

・ヴェニスの商人のシャイロックと杉原千畝にビザを与えられたユダヤ人
⇒主体と構造
⇒シェイクスピア時代のイングランドにはユダヤ人は(追放されて)殆どおらず想像の産物だが、
主体として行動する典型的なユダヤ人のイメージ、杉原も近年の研究ではソ連の脅威から
逃れる人たちを救おうとしており、ユダヤ人の意識はなかったが(ホロコーストが知られるように
なったのは戦後)、これが当時の社会構造からのユダヤ人のイメージ
⇒実際のユダヤ人の歴史は主体と構造の関係で動いている

・ユダヤ人は歴史上でも地図上でも大部分はマイノリティ
⇒なので構造を描く世界史では一神教にとって重要なユダヤ教が始まる古代やホロコーストや
イスラエルのインパクトが強い現代にしかユダヤ人は登場しない
⇒しかし、その間にユダヤ人は自らも変貌を遂げ周囲に影響を与えている
⇒主体と構造が織りなす局面を紐解くことでヴェニスの商人やホロコーストのイメージだけ
ではないユダヤ人の実像と歴史の広がりが見えてくるだろう・・・


第1章 古代~王国とディアスポラ~より

・本書でいう聖書とはヘブライ語聖書でキリスト教の旧約聖書と大枠では同じもの
⇒聖書には事実・史実と整合する部分と神話部分があるがユダヤ人としてまとまっていく
過程の集積であり、思想や行動の参照軸つまり聖典となったもの
⇒古代オリエントで原形が組み合わさり、その核心部分が一神教としてまとめられていく

・ユダヤ人の祖先についても聖書についても最新研究では不明点が多い
⇒1980年代以降は他の資料の裏づけがあるもののみを史実としているから(略)

・出エジプト記
⇒イスラエル人が前11世紀にエジプト王国で暮らしていた史料はない
⇒パレスチナもエジプト新王国の支配下にあり圧制を逃れたかは疑問
⇒だが当時この地域で大きな移民が繰り返されたのは史実
⇒前12世紀の古代エジプトの碑文からイスラエルの名称が確認されており、前9世紀の別の
碑文からダビデを創始者とする王朝がこの地域にあったことを示している
⇒数世紀に渡り繁栄したという証拠はないが空想の物語というわけでもない

・エジプト全域とメソポタミア南部は砂漠気候で川からの治水灌漑農業で王国文明に
⇒カナンの中央から北部は地中海性気候で緑が豊かだった
⇒気候の恩恵により牧歌的な社会が形成されたが王国の抗争に何度も巻き込まれた
⇒多様な文化が交錯し聖書にも反映され、常に同盟先を探る習慣も身に付いた

・聖書の定義ではユダヤ人ではなくイスラエル人
⇒アダムとイブの子のうち⇒セト⇒ノア⇒セム⇒アブラハムの系統
⇒アブラハムとサラの子のうち⇒イサク⇒ヤコブ⇒この系統からユダヤ教・キリスト教へ
⇒アブラハムと女奴隷の子⇒イシュマエル(イスマーイール)⇒アラブ人⇒イスラム教へ
⇒アブラハムは神と契約を結びカナンの地を約束された(アブラハム契約)
⇒その後このイスラエルの民がエジプトに移民するまでが創世記
⇒エジプトで奴隷となりモーセが率い紅海を渡ってシナイ山で十戒を授かる(出エジプト記)
(⇒これがシナイ契約⇒以下略)

・独立国家を持たず農民や遊牧民の連合であるイスラエルの民をまとめるのが「神との契約」
⇒アブラハム契約は血縁が基礎だがシナイ契約は律法順守が基礎
⇒ユダヤ人の母から生まれた血縁ユダヤ人とユダヤ教に改宗した律法ユダヤ人
(ユダヤ教以外のユダヤ人も存在することになるが現在の国籍法上ではユダヤ教徒が条件)

・イスラエル(北)王国とユダ(南)王国
⇒ペリシテ人(パレスチナ人)などに侵略されるが存在したことは文字資料から事実
⇒北王国はアッシリアに征服され強制移住、南王国もアッシリアの属国に
⇒やがて南王国もバビロニアに征服されソロモン神殿は破壊、バビロニア捕囚へ
(これ以降は聖書以外の史料も増えるので史実を追う)

・新バビロニア王国でユダ王国の人々は比較的同一性を保ちユダヤ人と呼ばれるようになる
⇒まとめたのはイスラエルの宗教から発展成立したユダヤ教という排他的一神教

・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神が同じ神であることは相互に了解している
⇒異なるのは神の道に到達するための考え方や実践

・バビロン捕囚以降の聖書には唯一神以外は検閲排除されているが漏れはある(創世記など)
⇒唯一神を信じるようになったのは救済のため(救済史観)
⇒この救済史観を強く受け継いだのがキリスト教
⇒ユダヤ教では中世になるまでに表向きには強調されなくなった

・アケメネス朝ペルシャ帝国で律法が確定、宗教共同体としての自治が保たれた
⇒最後の審判や天国、死者の復活という概念はペルシャ人のゾロアスター教由来の可能性も

・ペルシャ帝国はアレクサンドロス大王に征服されヘレニズム文化へ
⇒プトレマイオス朝のアレクサンドリアはその中心の世界都市に
⇒ヘレニズムの影響を受けたギリシャ文化ユダヤ人も増加し伝統的ユダヤ文化と対立
⇒マカバイの反乱
⇒ユダヤ教の他の祭りとは異なる軍事的勝利を祝うハヌカの祭りへ(ギリシャの影響)

・ローマ帝国が介入しヘロデ王が承認され、その死去により直接統治に近くなった
⇒その頃にユダヤ教の改革(エルサレム権威主義批判)を行おうとしたのがナザレのイエス
⇒ユダヤ教の支配層もローマも秩序の乱れを恐れて処刑した
⇒イエスはメシアを自称することはなかったが弟子たちがメシアとして信仰を形成していった
(ユダヤ教では律法を守りながら今もメシアを待ち望んでいる)
⇒メシアはヘブライ語で(神から)油を注がれた者の意
⇒ギリシャ語ではクリストス⇒日本語ではキリスト

・ローマ帝国に反乱したヘロデ王が73年に集団自決、1948年のイスラエルまで国はなかったが、
はるか以前からオリエント各地に拡散してたので国家消滅は死活的な問題ではない

・ユダヤ教とキリスト教のあり方がある程度確立したのは中世以降
⇒ユダヤ教は律法中心主義でその実践を重視、キリスト教は内面重視
⇒ユダヤ教は実質的に血縁で結ばれる民族宗教、キリスト教は普遍宗教で積極的な布教活動が
政治や帝国主義とも結びついていく
(ユダヤ教のシナゴーグはキリスト教会のようなヒエラルキー構造を持たない)

・ユダヤ教はマイノリティで移動先で柔軟に共同体を形成したが、それ以上を望む原理は
持たなかったので権力から過度に危険視されることは少なく権力を味方につけて生き延びた



第2章 古代末期・中世~異教国家の中の法治民族~より

・周囲と自集団がお互いの特徴を維持しながら共栄する組み合わせを見つける
⇒このバビロニアからの傾向がパレスチナ追放
(西洋史の古代末期)後には唯一の形態に

・西洋史では西ローマ帝国滅亡(476年)までが古代、東ローマ帝国滅亡
(1453年)までが中世
⇒ユダヤ人の中心は西洋にはなく8世紀にイスラム諸国家と組み合わさりラビ・ユダヤ教が確立
⇒7世紀から13世紀まで世界のユダヤ人の9割がイスラム諸国で暮らすことになった
⇒イスラム世界を外敵とした中世ヨーロッパとの大きな違い
⇒イスラムも聖書を聖典の一つとする宗教でユダヤ教との類似点はキリスト教より多い

・パレスチナでのローマ帝国とのユダヤ戦争⇒ガリラヤ地方に集住⇒ラビに自治が認められる
⇒313年ローマ帝国がキリスト教を公認⇒392年には国教に
⇒ガリラヤ地方のユダヤ人の状況が悪化
⇒危機により4世紀末に学院で蓄積された最初の律法解釈書タルムードを編纂
⇒ペルシャ帝国下のバビロニアでは6世紀初頭に別の
律法解釈書タルムードを編纂

・ユダヤ教では律法の学習が中心となるため子どもの教育にお金をかける
(キリスト教やイスラム教では読み書きは宗教の中心ではない)
⇒識字率が高くなる⇒金融や商業で成功する
⇒ラビ・ユダヤ教が確立した750年から900年の間にメソポタミアとペルシャのユダヤ人は
農業を離れ都市で暮らすようになる⇒中世までラビこそが大商人だった

・ユダヤ教のラビもイスラム教のウラマーも法学の解釈者であり聖職者ではない
⇒キリスト教は神といかに繋がるかという神学であり基本的に聖職者の領分
(教会は教皇に繋がるヒエラルキー構造の末端だがシナゴーグもモスクも主従関係はない)

・メッカに住むアラブ系の商人ムハンマドが610年頃に始めたのがイスラム
⇒メッカの有力者に迫害されアラビア半島のメディナで勢力を拡大した
⇒メディナはユダヤ人の文化的影響が強くユダヤ教と決別するため厳しい態度をとった
⇒ただし初期を除けばユダヤとムスリムは協調する場合が多かった
⇒イスラム勢力にとって最大の敵がキリスト教ビザンツ帝国とゾロアスター教ペルシャ帝国
だったから
⇒ムハンマドの後継者として最高位のカリフを設けたイスラムと一体化したアラブ人勢力は
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)からシリアやエジプトを奪い、エルサレムも支配下に置き、
バビロニアやペルシャも支配した
(651年ダマスカスにウマイヤ朝が成立、その後継者争いからスンナ派とシーア派が分裂)

・イスラム教国家ではユダヤ教徒やキリスト教徒はムスリムに服従し非イスラム税ジズヤを
納めれば、生命・財産の安全と宗教の自由が保障される
⇒迫害が激しくなったキリスト教国家より魅力的で各地で共通基盤が整備されていく

・イスラム化していたイベリア半島のユダヤ人社会が発展
⇒南進を狙うキリスト教王国も寛容になり半島中央のトレドはスペインのエルサレムに
⇒やがて十字軍の更なる南進で再び非寛容に⇒ただし宗派、時代、状況により多様

・キリスト教国でもイスラム教国でも権力者と一体化したユダヤ共同体
⇒ユダヤ人が庶民から得た儲けを税として吸い上げるシステムは権力者の重要な財産に
⇒それを癒着と捉える庶民に反ユダヤ感情が蓄積していく

・経済発展により商業分野でもキリスト教徒と競合するようになり、教会の腐敗を批判する
修道会が
反ユダヤ的な言説を庶民に説教、ペストはユダヤ人の犯行とのデマも多く流布され
ユダヤ人は北西ヨーロッパから消えて行った
⇒1492年のレコンキスタ完了でスペインでも改宗か脱出かを迫られた

・(20世紀後半のアメリカ福音派の場合)
⇒新約聖書の「ローマ人への手紙11章」を根拠に終末の前段を「イスラエルの再興」とする
⇒つまりユダヤ人がパレスチナで神の国を建国することだとして支援している
⇒これがキリスト教シオニズム思想の核心
⇒現代アメリカではイスラエル・ロビーの影響もあり親イスラエル政策に傾く要因に
(歴史的にはユダヤ人を疎ましく感じる傾向が圧倒的)


第3章 近世~スファラディームとアシュケナジーム~より

・ヨーロッパ史ではearly modern近世は16世紀から19世紀初頭まで
(大航海での躍進⇒宗教改革と社会変革と戦争⇒主権国家体制の成立⇒近代化の準備)
⇒ユダヤ史ではディアスポラからのさらなるディアスポラ集団である、
⇒スファラディーム(スペイン系)とアシュケナジーム(ドイツ系)の確立

・スペイン追放後のスファラディーム
⇒ポルトガル⇒オランダ・オスマン帝国へ
⇒アムステルダムを起点に南米レシフェで奴隷・砂糖貿易
⇒レシフェのユダヤ共同体がポルトガルにより破壊され一部は北米ニューアムステルダムへ
⇒北米最初のユダヤ共同体となったがイギリス(⇒のちアメリカ)に占領されニューヨークに
⇒アムステルダムには30年戦争でドイツなどからアシュケナジームも多く流入
(この流れは20世紀まで続きアンネ・フランク一家もドイツから亡命している)

・アムステルダムのスピノザ(1632-77)
⇒汎神論による科学合理主義で共同体からは破門されたがユダヤ知識人に影響を与えた
⇒次章のユダヤ啓蒙主義の萌芽へ

・オスマン帝国へ移民したスファラディーム(略)
⇒フランス化したユダヤ人が旧オスマン北アフリカ植民地を経営
⇒ムスリムとの溝が生まれる遠因ともなる

・ポーランド王国のアシュケナジーム⇒18世紀後半には全ユダヤ人口の1/3を占めた
⇒ポーランド小規模貴族とユダヤ人の同盟関係はベラルーシやウクライナ中部まで進出
(商店や居酒屋も経営したが農民からは貴族の手先で自治権のある都市では排除傾向)

・1648年ウクライナでコサックとタタールの反乱⇒コサック国家が1世紀ほど続いた
⇒ポーランド貴族の請負で税を徴収するユダヤ人は農民搾取者として半数が殺された
(反乱指導者ボフダン・フメリニツィキーはユダヤ史では嫌われるがウクライナ史では英雄)

・16世紀モスクワ大公国(ロシア)成立と南部へのオスマン帝国侵略による不安定化
(西欧では30年戦争後の1648年ウェストファリア合議により国境が一応安定化した)
⇒18世紀末にはロシア・ドイツ・オーストリアに分割されポーランドは消滅
⇒一方ワルシャワでは1878年ポーランド語を使用するユダヤ富裕層の大シナゴーグが完成
⇒下層マイノリティは多数者に同化するが中間マイノリティは地位と経済充足から残る
⇒不安定化での怨念を真っ先に浴びるのが中間マイノリティという三者関係
⇒東欧ユダヤ人の繁栄と迫害はこうした構造から紐解ける

・ユダヤ教神秘主義
(略)


第4章 近代~改革・革命・暴力~より

・ヨーロッパの近代は18世紀後半のフランス市民革命とイギリス産業革命から
⇒革命後の国家の政治と経済は絶大になり「国の法に従いながら自分の居場所を確保する」
ことが許されない状況が拡大していった
⇒反ユダヤ主義もポグロムからホロコーストの悲劇に拡大していく
⇒近世まではキリスト教を背景とした金持ち・特権階級への妬みだったが、
⇒20世紀の西欧では貧しい移民への嫌悪、東欧では民族対立を意識した憎悪の顕在化に

・ロシア帝国内での移動
⇒人口増や都市化によるリトアニア・ベラルーシからウクライナへ向けての国内移民
(北米やパレスチナへの移民はその延長)

・ヨーロッパ各国でも都市への移住が増え新たな摩擦の背景に

・近代の「ユダヤ人問題」
⇒伝統的キリスト教世界ではユダヤ人を道徳的に蔑みつつ経済的機能は利用していた
(イスラム世界でも「啓典の民」として位置づけられていた)
⇒ところが西欧ではキリスト教の権力と規範が弱体化し啓蒙主義的な普遍主義が浸透した
⇒伝統的な個別的なとらえ方は許されなくなった
⇒日本で江戸時代まで蔑まれながら独自の役割を持っていた「えた・ひにん」が、
明治の国民平準化政策で独自の位置づけを失い、特殊性が抜けない「部落民」として
激しい差別に遭う構造に似ている
⇒日本の被差別部落では同化を目指したり水平社運動を興したり様々な方向性に分かれた
⇒同様にロシア帝国下の精神的シオニズム創始者は西欧での同化指向を非難している(略)

・ユダヤ教は共同体や家族単位で律法を実践するもの
⇒宗教に関係なく国家法の下に一元化されると共同体の自治が脆弱になる
⇒差別されても逃げ込めた共同体の消滅でますますマジョリティに左右される⇒隷属

・1789年フランス、1812年プロイセン、1867年オーストリア・ハンガリー帝国とユダヤ人の
法的解放は続き、国内移民も増えたが都市住民はユダヤ人が大挙して押し寄せたと感じた
⇒解放によって生じたのはユダヤ人同士の格差と分断
(パリのユダヤ人はアルザス地方のユダヤ人を粗野で頑なと見て分断)
(ドイツ的教養を持つユダヤ人とロシア東欧からドイツに逃れてきた貧しいユダヤ人と
の格差)
(ヒトラーがウィーンで1910年から3年ほど暮らしたのはユダヤ人の貧困地区だった)

・1880年代のドイツでは、ロシア帝国でのポグロムから急増したユダヤ人の定義を、
それまでの宗派から人種としてとらえ、血統で国籍付与を控えようとした
⇒宗派でも人種でも経済と結びつける発想は同じで旧態依然⇒本質は変わらない

・近代の合理主義的な新傾向とユダヤ人は同一視され前者への反発が後者への反発に
⇒伝統的偏見だけでなく合理主義拡大への反発が反ユダヤ主義を喚起するパターンに

・1900年の時点でユダヤ人口の約半数520万人が暮らしていたのはロシア帝国
⇒オーストリア・ハンガリー帝国207万人、急増していたアメリカ100万人、ドイツ52万人
拡大したロシア領土にポーランドが誘致したユダヤ人をそのまま呑み込んでいたから増えた
⇒ウクライナ人やベラルーシ人は独自の民族とされなかったが他の諸民族にはロシア化や
ロシア正教の強制は少なかった
⇒多民族・多宗教国家がロシア政府とユダヤ人の大前提

・1856年クリミア戦争敗北から1861年農奴解放、ユダヤ人の移動制限撤廃などの大改革
⇒ロシア・ユダヤ人としての政府と一体となった改革も
⇒一方でラビの家に生まれたが貧しくユダヤ共同体に反発してロシア正教に改宗したのが
ベラルーシ・ミンスク近郊のヤコブ・ブラフマン
⇒共同体の内部文書をロシア語に訳して1869年に出版したのが「カハルの書」
⇒ユダヤ人が異教徒を支配することを謀議していると吹聴した
⇒政府に重宝され各国語にも訳されて後の偽書「シオン長老の議定書」の種本になった

・農奴解放は農奴制度によるユダヤ人の手数料や調達先を喪失させた
⇒多くが従事していた家内制手工業も工業化し穀物運搬も鉄道化して職を失い工場労働者に
⇒「低所得者は子沢山」のとおり1800年から1900年の100年でユダヤ人は5倍に増えた
⇒労働者としての苦境から社会主義者に(ユダヤ精神とは別物でヒトラーの主張とは逆)

・ポグロムの責任転嫁と第一次世界大戦までの制限再強化(略)

・ポグロムの翌年から組織的なシオニズム運動が開始される
⇒東欧では主要な運動になったが西欧では鈍かった
⇒集合的運動でパレスチナを目指すのは西欧社会との決別になるから
⇒ロシア帝国ではユダヤ人が集合的存在であることは当然視されており、ポグロムの対象に
されるのは国を持たず放浪して農民に寄生するとされているからで、パレスチナで農業自活
することで民族として自立する能力と意志があることをロシアに証明しようとした
⇒なのでロシア・シオニストの想定では多数は帝国に残ることになっていた

・1894年フランス・ドレフェス大尉事件(冤罪)とシオニズム
(略)

・1905年革命(国会開設と新たな分断)、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとユダヤ人、
労働運動組織ブンド、自由主義、伝統主義・・・
(略)

・ロシア革命と内戦
⇒1917年2月革命は自由民主的でユダヤ人にとって歓迎すべきものだった
⇒10月革命でボルシェヴィキが乗っ取ってしまった
⇒国家秩序が大混乱に陥り結果的にユダヤ人に深い傷をもたらすことに
⇒赤軍と白軍の内戦
⇒依存していた農村経済は大きく転換し赤軍からは零細商店もブルジョワとして攻撃され、
白軍右翼は反ユダヤで、ボリシェヴィキはポグロムを仕掛けコサックも加勢した

・内戦が複雑化したのがウクライナ
⇒赤軍も白軍もウクライナは統一ロシアで一致、ウクライナ人の一部も同様だったが1918年に
独立したポーランドと同様の独立を目指す民族主義者も少なからずいた結果、凄惨なポグロムに

・内戦期のポグロム(民衆暴力)
⇒犠牲者数は政府が消滅しており不明だが5万~20万人とされ、その中心はウクライナ
⇒民族主義者にとってユダヤ人は自民族を脅かす敵でポグロムが最も多い⇒想像の民族対立
⇒次に反ユダヤ主義の白軍、次が民族主義者から赤軍に接近していった軍隊、赤軍の順
(ウクライナ人が反ユダヤ的で異民族に不寛容だったわけではない)
⇒最終的にユダヤ人の多くが赤軍ボリシェヴィキに入ったのは「最もまし」だったから
⇒民族主義者や白軍への復讐目的もあった
⇒三者関係による不可避的な敵愾心は今も続く

・ホロコースト
⇒「想像の民族対立」はホロコーストを考えるうえでも重要なカギ
⇒犠牲者600万人のうちドイツ本国では16万人、ポーランドで300万人、ソ連で100万人、
以下、下図4-4のとおり(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)

IMG_20260819_035114

⇒ナチ・ドイツの侵攻が最大要因だが現地人のホロコーストへの協力が多数報告され、
記憶されている⇒彼らの動機はナチ党員とは少なからず異なる

・ナチ・ドイツの反ユダヤ主義(略)

・独ソ戦が行われた地域
⇒主戦場となったポーランドでは600万人近くの市民が死亡した⇒半数近くはユダヤ人
⇒ソ連支配下やドイツとの係争地でホロコーストに加担する動機はソ連当局にはなかった
⇒焦点はソ連とドイツに挟まれた地域

・ポーランド・ソビエト戦争(1921)後に西ウクライナがポーランド領になった
⇒非ポーランド人が国民の1/3以上になり少なくともウクライナ人が14%、ユダヤ人が11%、
ベラルーシ人が4%、ドイツ人が4%を占めた
⇒独立後初の
選挙(1922)ではこの少数民族連合が善戦した
⇒民族主義者にとって国境の向こう側に同胞がいる
少数民族は安全保障上のリスク

・東欧に固有のホロコースト促進条件が「国境を跨いだ疑心暗鬼」
⇒ユダヤ人が劣るとかではなく、国境の向こう側のユダヤ人と結託して独立を阻むもの、
危険な敵と手を結ぶものと過大評価しており単体として危険視していたのではない
⇒1939年にはソ連が東部を占領し、1941年に独ソ戦が始まりドイツ軍が占領すると、
ソ連支配を嫌っていた国民はこれを歓迎した

・国境地域のホロコーストとされる虐殺のなかには地域住民主導のポグロムもあった(略)
⇒政治的脅威と認識されやすかった場合にポグロムが発生しがちになる
⇒ユダヤ人は事実としては国家の政治的脅威にはなり得ず、これは「想像の民族対立」
⇒ドイツ・ウクライナ・ポーランドの危険な三者関係によるもの
⇒ソ連とナチ・ドイツが一進一退した地域では疑心暗鬼が渦巻いた
⇒虐殺されたのはユダヤ人だけではなかった
⇒多方面での民族対立という状況が中東欧でのホロコーストの重要な背景

・人種という概念に憑りつかれたユダヤ人陰謀論のなれの果てが絶滅収容所
⇒戦後の西ドイツはホロコーストの全責任を被ることになったが、
ソ連とドイツに挟まれた
地域では
地域住民主導のポグロムも蔓延していた
⇒彼らの責任についてはいまだに曖昧なまま残されている


第5章 現代~新たな組み合わせを求めて~より

・西洋史では第一次世界大戦期からを現代と定義することが多い
⇒ソ連の発足、アメリカへの大量移民の制限、シオニズムの原型完成もこの頃

・1939年のユダヤ人口1700万人のうち600万人がホロコーストで死亡し、人口の中心は
450万人を擁していたアメリカに移った
⇒1947年には人口72万人でユダヤ人の主権国家イスラエルが建国された
⇒ソ連はホロコーストで100万人のユダヤ人を失ったものの200万人が残っていた

・本章ではこの3つの国家を中心に「国の法は法なり」という原則のその後に着目する
⇒ユダヤ教のなかの議論なので明示されることはなかったが支配原理に正面から対抗するより、
それとの組み合わせを工夫して普遍性で一致できるところは一致するという姿勢
⇒これは3つの国家でも三者三様で続いていた

・ソ連のソヴィエト体制と女性解放、持ち上げと梯子外し、現地化政策、多文化主義、
イギリスの庇護で
進められていたパレスチナ入植に対抗するソ連極東での自治区の設置、
強引な農業集団化による大飢饉とユダヤ人・・・(いずれも省略)

・第二次世界大戦時にソ連はアメリカからの支援を欲していたのでユダヤ人優遇政策に
⇒国内のユダヤ人を懐柔すればアメリカのユダヤ人が親ソ連になり政府を動かすという発想
⇒このようにユダヤ人を過大評価するのは典型的な差別と同じ偏見からの発想
⇒大戦に勝利し冷戦になると逆に
国内のユダヤ人はアメリカとつながり危険とされた(略)

・ホロコーストもポグロムと同様に民族融和に逆行するとして「大祖国戦争」に包括された
⇒独ソ戦ではソ連全体で2660万人が死亡しておりユダヤ人被害だけを強調できなかったのも確か

・ソ連の理念に沿って現状を批判する=国の法で国を批判するユダヤ人知識人が出現(略)
⇒スターリン憲法での人権が蹂躙されているという正論で当初は弾圧できなかった
⇒アメリカの知識人は西側の正義を認める動きとしたがソ連の人権概念を踏まえたもの

・経済が行き詰まり西側の支援を必要としたソ連は限定的に出国を認めていく
⇒イスラエルへの出国運動に拡大した

・1947年のイスラエル独立宣言時にはソ連もアメリカの直後に国家承認した
⇒中東でのイギリスの影響を挫くと考えたから
⇒ところが1967年の第三次中東戦争でイスラエルがソ連支援のアラブ連合軍に大勝すると、
一気に反イスラエルの急先鋒となった
⇒ソ連のユダヤ人の一部には昂揚感をもたらしシオニズムへの到達も

・ペレストロイカによる出国制限の大幅緩和
⇒1989年以降は経済混乱もありロシア帝国末期以来の大移動が始まった
⇒今日では旧ソ連地域のユダヤ人口は20万人程度まで激減し、この十数年で120万人の
ユダヤ人が押し寄せたイスラエルの趨勢に大きな影響を与えることになる

・社会主義シオニズム、ジェンダー(略)

・初期のパレスチナ先住民との関係
⇒土地をアラブ人から購入して入植していたが売ったのはシリアやレバノンの不在地主
⇒パレスチナの小作農は失業しオスマン法上は合法でも移民ではなく植民だった
⇒アラブ人とは「アラビア語を話すもの」で元来はユダヤ教徒も含んでいた
⇒ユダヤ教徒とユダヤ民族の両方を意味するユダヤ人と同列ではない
⇒それを同列と錯覚させているのは民族概念しか持たなかったシオニストの色眼鏡

・アラブ人との対立激化、決裂、労働シオニストと修正主義シオニストの対立
(いずれも省略)

・1947年のイスラエル建国
⇒イギリス委託統治終了に合わせ独立宣言、翌日からの第一次中東戦争に大勝し翌年に
分割決議以上の停戦ラインを得た(想定される国境線⇒グリーンライン)
⇒少なくとも70万人のアラブ人が
グリーンライン外側のヨルダン川西岸地区やガザ地区、
シリア、レバノンなどに逃れ、辛くも残ったアラブ人は16万人でイスラエル国籍を付与された
(国際的な体面と懐柔によるアラブ人の分断が得策という判断もあった)
⇒この難民70万人と残った16万人がやがてパレスチナ人と呼ばれるようになった
⇒この大災厄経験の共通性によりパレスチナ人としてのアイデンティティが高められていく

・新生イスラエルは労働シオニズムの方針どおり世俗的民主国家を目指したが、伝統的な
ラビ・ユダヤ教体制とも妥協することになった(略)

・1967年以降の展開
⇒モロッコ・チュニジア・アルジェリアがフランスから独立し、フランスの市民権を持つ
アルジェリアのユダヤ人の多くはフランスに移民したが、そうでないモロッコ系や
チュニジア系のユダヤ人は、
おもにイスラエルに移民した
⇒ほかにもイラン、イラク、トルコ、イエメン、エジプトなどからも多くの移民があり、
1970年までにイスラエルのユダヤ人口の半数が中東・北アフリカ系という構成になった
⇒思想や習慣の違いがあり政治やパレスチナ人との関係をさらに複雑化している

・ホロコーストの記憶
⇒シオニスト社会ではホロコーストはシオニストに従わなかった結果だとして当初は冷淡だった
⇒ホロコーストを生き延び、どの国も引き受けてくれなかった33万人がイスラエルに移民したが
彼らには深い傷もあり沈黙するしかなかった
⇒ところが1961年のアイヒマン裁判で世界的にホロコーストが注目され、生存者の証言で抵抗が
あったことも理解されるようになると、ホロコーストの捉え方も変わっていった
⇒次世代も親の経験を知りたいと思い、政治家もバビロン捕囚のような民族全体の記憶として
位置づけるようになった

・現在のイスラエルではアラブ人・アラブ諸国からの攻撃や非難をホロコーストのアナロジーで
理解する傾向がある
⇒シオニストの加害行為への応報さえ不当な被害とする理解(概念拡張)が常態化している
⇒2023年のハマスによる越境虐殺も拡張され長年続く抑圧への言及やパレスチナ人の犠牲への
懸念表明さえ忌避されることとなった

・1967年の第三次中東戦争でイスラエルはヨルダン、エジプト、シリアが統治していた
ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原を占領しシナイ半島までエジプトから奪った
⇒「虐げられたのち共産主義の理想でつくられた国家」のイメージはこれ以降消えていく
⇒国際政治でも決定的になるが世界のユダヤ人の一部には神の意思ではないかと捉えられた
⇒強硬な宗教シオニスト組織が生まれ、西岸やガザの占領地に入植地を建設していった

・ユダヤ教からはユダヤ人がパレスチナを排他的に所有する教義は生まれないはずだが、
現在の宗教シオニストはイスラエル政権にも参加しパレスチナ人の追放を公言している

・社会主義シオニズム労働党への支持率は低下している
⇒1977年に初めて政権交代がありリクード党首ペギンが首相に就任
⇒入植地拡大だけではなく1979年には最大の敵エジプトと平和条約を結び安全保障を確保しつつ
パレスチナ人をアラブ諸国から孤立させる戦略も経済自由化も進めていった

・占領の長期化で西岸・ガザはイスラエルに安価な労働力を提供しイスラエルから商品を
購入する事実上の植民地になっていた
⇒パレスチナ人の伝統的支配層がこれを変えられないなか、相互扶助組織としてイスラム系
組織が台頭(ハマスもそこに起源を持つ)、1987年のインティファーダ(蜂起)が紛争化すると、
世界中からイスラエルへの批判が集中した

・紛争は海外からの投資を鈍らせるので財界は和平を望み1992年に辛くもリクードから政権を
奪取した労働党のラビン首相は和平実現による支持の安定化を図った

・アラファトが率いる伝統的支配層もイスラム系新興組織の台頭に危機感があり、湾岸戦争で
フセインを支持したことによるアメリカや湾岸諸国の不興からの挽回も必要だった
⇒両支配層同士の利害が一致しアメリカなどの仲介で1993年にオスロ合意が結ばれたが、
両支配層以外の利益は一致していなかった

・大イスラエル主義者や宗教シオニストは無用な妥協としてラビンを非難し、ハマスなどの
イスラム組織やパレスチナの共産主義者も譲歩が大きく難民問題やエルサレム問題が全く
解決されていないと抗議した
⇒数年のうちに暴力対立はむしろ激化し、オスロ合意は形骸化していった

・1989年にはじまったソ連からイスラエルへの大移民の結果、2000年代の初頭までに
イスラエルのユダヤ人口の2割が旧ソ連出身者となった
⇒彼らは2つの点でパレスチナに対する強硬姿勢を強化する方向に動いた
①すでに社会主義に幻滅していたので右派政党を支持、ソ連での民族自決権を当然とし、
イスラエルではユダヤ人が優先されるべきとした
(チェチェン人とパレスチナ人を重ね合わせプーチンのような強硬策を適用すべきとした)
②監視の効率化などセキュリティ技術に実戦経験を持つ多数の人材を提供することになり、
この技術は世界から非難される中で外貨を稼ぐうえでもイスラエルの強みとなっている

・シオニズムの特徴はユダヤ人をドイツ人やポーランド人に匹敵するネーションとしたこと
⇒ネーションとは国を持つ価値と能力のある民族といった意味で、シオニズムはそれを最も
徹底して非ユダヤ人のネーションを模倣した
⇒ソ連の民族政策も国際連盟と少数民族条約の体制も国際秩序はネーションが基礎単位
⇒世界の「国の法」であるこの秩序に最も忠実な道を選んだのがシオニストだった
(パレスチナに固有のネーションは存在せずパレスチナにいるのはアラブ民族であり、彼らは
アラブの国々に行けばよいという、パレスチナを故郷とするアラブ人には無意味な論理)
⇒こうした論理を背景にした非道は糾さなければならないが、それは国際政治の
「国の法」に
従った結果でもあった

・2024年現在、イスラエルのユダヤ人口700万人に拮抗する600万人を擁するアメリカは、
最大のイスラエル支援国となっているが、双方には微妙な緊張関係がある(略)

・ユダヤ人だけでなくアメリカ全体としてもイスラエルを支援する理由や背景は複数ある
⇒1973年の中東戦争に由来する石油危機、1979年のイラン・イスラム革命を受けた安全保障、
福音派による支持、アメリカ同様の迫害からの国家創生物語への親近感、9.11以降のイスラム・
テロリズムと戦う同盟相手・・・
⇒イスラエル・ロビーはアメリカの外交分野では最強ロビー団体といわれているが最近は
別団体も設立され個々の政策には批判的であることも多い(略)
⇒このような動向やイスラエル支持の多角化は、基本的にアメリカの「国の法」に順応した
ことにより、平均的なアメリカ都市民と同様になったことと関係している

・アメリカに渡った女性と男性
(略)
⇒他国からの移民は出稼ぎ後に戻るつもりだったので男性が多いがユダヤ人移民はほぼ同数

・ユダヤ人がアメリカで成功を収めた背景
①充実したソーシャル・キャピタル(コネ)の存在
②同時期のヨーロッパより反ユダヤ主義が格段に弱かった
⇒アフリカ系やアジア系などが鬱憤の受け皿になったこと、新参者の社会だったことによる
(その後の大学優先枠などで両者との共闘には齟齬が生じていく⇒後述)

・東欧から多くのユダヤ人革命家もアメリカに流入しているのに革命運動は退潮した
⇒アメリカの労働運動は実利的でユダヤ人もよく組織された労働組合による「順法闘争」で
待遇は確実に改善されていったから(背景にユダヤ系弁護士の尽力も⇒ニューディール)

・上昇傾向はアメリカの価値観やルールを内面化した結果
⇒言語、安息日、食物の規定は守られなくなり雑婚も進み一部はユダヤ社会から離脱した
⇒それでも過半数はシナゴーグを中心としたつながりを維持し、20世紀後半にはむしろ
強化していった
⇒ユダヤ教がアメリカ・ユダヤ人の価値観や現状に歩み寄ったから
(略)
(男女の同席・安息日のシナゴーグへの車の利用・女性ラビなど)

・文化多元主義
⇒異なる宗教、習慣、価値観といったエスニシティ(民族性)を持ちながらアメリカ人としての
共通部分で緩やかにつながり合う社会
⇒アメリカ国家に忠誠を誓い、その基本的価値観と法律に従う限り、好き勝手に生きることを
国家は邪魔をしないが補助もしないという自由放任主義が原則
⇒民族性による格差は各民族が自由に工夫する

・多文化主義
⇒カナダのケベックに配慮した公文書英仏語併記など民族性に富の再配分を含めるもの

・近年のアメリカでは
多文化主義傾向のアフリカ系の権利向上運動と文化多元主義傾向の
ユダヤ人の間で齟齬が生じている

・アメリカ・ユダヤ人とアフリカ系アメリカ人の成り立ちの違い(略)


むすび より

・世界史上の大きな出来事にはユダヤ人が居合わせており表層だけ見ると暗躍しているという
陰謀論になるが、特性を生かせる「組み合わせ」を探求し続けてきたのがユダヤ人の歴史
⇒中世イスラム社会と組み合わさったときにユダヤ教は発展したし、近世ポーランド貴族と
組み合わさったときには、その後に続く「農民の搾取者」というイメージを形成した

・前著「イスラエルの起源」では個々のアイデンティティの次元で定式化した
⇒例えばロシア的側面とユダヤ的側面を両立させ、且つ両者が相互補完するように自己を
理解し行動するようなあり方
⇒ユダヤ現代史の三大拠点を生きる三名のユダヤ人もユダヤ的な程度などは異なる

①ヴォロディミル・ゼレンスキー
⇒イスラエル以外の国でトップになったユダヤ人ではイギリスのディズレーリ首相以来2人目
(
ディズレーリは13歳の時にイングランド国教会に改宗しているが)
⇒ユダヤ教やコミュニティからは疎遠になっておりユダヤ人意識の程度はわからないが、
ポグロムやホロコーストが吹き荒れたウクライナでユダヤ人であることを公言したうえで
ウクライナ人の圧倒的な支持を得て大統領になったことは興味深い
⇒芸能界出身で腐敗政治経験がないことへの好感やユダヤ系オリガルヒの支援も大きいが、
⇒虐殺やソ連崩壊後のイスラエルへの移民でユダヤ人口が数万人まで減り反ユダヤ主義が
不要になり、21世紀のヨーロッパでは最も反ユダヤ主義の弱い地域になったこと、
⇒ロシアではロシア人が支配層を形成しがちだがウクライナでは異民族でも当然とする
雰囲気があったことも大きい(前ポロシェンコ政権でも首相はユダヤ人だった)

②ベンヤミン・ネタニヤフ
⇒イスラエルの通算最長首相ネタニヤフは近年のイスラエルのある部分を代表している
⇒国家の存在理由がユダヤ人を守ること以外に見出せなくなっていること
⇒ペングリオンの独立宣言ではアラブ住民を含めた差別のない民主国家を築く方向性を
掲げていた(ユダヤ人国家と明記されていることがこの理念を蝕んでいったが)
⇒1976年エンテベ空港の人質解放作戦で国防軍将校だった兄を失いテロリスト憎悪に
⇒研究者によればもともとイデオロギーではなく応酬に動かされる傾向を持っていた
⇒アメリカの制止も無視した懲罰的報復、入植地拡大、ガザへの徹底攻撃・・・
⇒敵を殲滅する意図以外はなくユダヤ人が従う「国の法」は何かという問いが抜けている
⇒ユダヤ人が何と組み合わせて生存するのかを考えない点でユダヤ史では例外的存在だが、
例外もユダヤ人が関わった歴史の一つの帰結である

③エレナ・ケイガン
⇒ユダヤ人女性としてはギンズバーグ以来2人目の連邦最高裁判事
⇒2018年にトランプ大統領のムスリム入国禁止方針に対し公聴会で、それは反ユダヤ主義の
大統領がイスラエルからの移民を禁止するようなものではないかと問うた
⇒ケイガンはユダヤ系判事の中で唯一、法判断でユダヤ人のエピソードを引き合いに出した
⇒1790年の初代大統領ジョージ・ワシントンとユダヤ教信徒団とのエピソード(略)
⇒これこそが翌年に付されたアメリカ合衆国憲法修正第1条の核心だと論じた
⇒今日まで残るその条文には、特定の宗教を国教とすることを禁じ、宗教の自由を保護する
内容を含む
⇒ケイガンの中でユダヤ史とアメリカ史が合流した瞬間だった

・まさに三者三様だが世界史の教科書からユダヤ人が姿を消しているあいだにも
ユダヤ人の歴史は周囲の歴史の流れと組み合わさりながら再び歴史をつくっていく

・・・・・・・・

冒頭にも書きましたが知らなかった史実も多く、あらためてユダヤ人(現在のイスラエルの
国籍法上ではユダヤ人の母親から生まれたユダヤ教徒とユダヤ教に改宗した人)の歴史について
全体的な理解が深まりました

客観的にユダヤ人の歴史を知りたい方には最適の入門書だと思いますので、興味を持たれた方は
ぜひ本書をご熟読下さい(当てきとーメモには思い違いも重要な欠落も多いので)


最後に備忘のため末尾にあった歴史年表をメモしておきます
(著作物なので公開に問題があれば非公開設定にします)


P8071383


P8071384





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2026年08月13日

「荷風と東京」と「荷風の昭和」

この間ずっと(上方大阪から江戸東京へ)
くだらないようなことで悩んでおり、記事更新ができてませんが・・・

とりあえずは荷風本を2冊

まずは前回記事の本でもオススメとして紹介されてた、

P7301267

川本三郎著「荷風と東京「断腸亭日乗」私註」であります



裏表紙カバーにあった惹句

P7301268

そう、永井荷風の40年に及ぶ毎日の日記
「断腸亭日乗」を中心に東京を舞台にした作品から、
彼が愛した東京の細部を浮かび上がらせるとゆー大著であります



上巻の奥付

P7301278

30年前の1996年に刊行され、文庫化されたのが2009年



上巻の目次(眺めるだけでも全体の構成がわかります)

P7301270



P7301271


下巻の目次

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P7301273



P7301274

明治・大正・昭和の「東京」を歩き回った都市散策者・永井荷風の足跡をたどるつーか、
東京文学散歩のガイドブックにもなってます

わたくしは東京も荷風作品も殆ど知らないのですが前回記事の本と同様に楽しめました

とても全章はメモできないので荷風とカメラに関する26章と、わたくしの大好きな滝田ゆうと
荷風に関する32章からのてきとーメモです
(以下てきとーですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)


26「見る人」の写真道楽 より

・萩原朔太郎の写真が芸術写真だったのに比べ永井荷風の写真は写実写真だった
⇒朔太郎が強烈に自己主張しているのに対し荷風は風景が主で自分は風景から退いている
⇒朔太郎が幻視者だったとすれば荷風は観察者だったといえるかも・・・

・第一次世界大戦後のマルク安でドイツ製高級カメラやレンズが相対的に安くなり、さらに
コダックなどのアメリカ製やイギリス製が大量に輸入されて、写真熱がアマチュアにも
広がっていったのは1920年代から30年代(大正後期から昭和前期)
⇒エノケンの最新型ライカや寺田寅彦の随筆「カメラを提げて」もこの頃・・・

・荷風は大正3~4年にはカメラを持っていた
(はじめは友人市川左団次の明治40年アメリカ土産の手札型12枚巻きフィルム暗箱写真機)

・写真機についてはっきり書かれるのは
昭和11年10月26日で、中古のローライコードⅠ型を
104円で買ったとある(⇒エリート会社員の月給が60〜90円だった頃)
⇒墨東奇譚の草稿完成の翌日であり、その昂揚感が新しいカメラを購入させたのだろう
⇒さらに昭和12年2月1日には室内撮影にも適したローライフレックスを310円で購入
(翌日にはさっそく玉の井に持参している)

・自分で現像もやったのは現像所に出せないような猥褻写真もあったから
⇒澁澤龍彦は荷風のカメラ好きを「スコプトフィリア」(のぞく人)と呼んだ
⇒カメラは現実をレンズ越しに(遮蔽物から)見る内密的な道具だったから愛した
⇒人は愛せなかったが町や人の生活を距離を置いて見るのは好きだった
⇒孤独癖の強い「見る人」にとってカメラは絶好の同行者だった・・・


32「墨東奇譚」と「寺島町奇譚」 より
・漫画家の滝田ゆうが向島区寺島町(玉の井)に生まれたのは昭和7年
⇒荷風が玉の井に足繁く通い「墨東奇譚」を書いたのは昭和11年頃

・滝田ゆうは「
寺島町奇譚」を幼少期の記憶だけを頼りに描いたので時代設定に無理がある、
と作品集の
あとがきに書いているが、細部まで描き込まれ「墨東奇譚」と合わせ読むと面白い
⇒荷風が玉の井を外側から見たのに対し滝田ゆうは内側から見た

・玉の井は東京大空襲で殆どが焼失し「
寺島町奇譚」は焼け野原の絵で終わっている
⇒荷風が「墨東奇譚」で描いた玉の井だけが残り一編の誌的散文として屹立している

・現在の玉の井には無論、どぶも銘酒屋もないし京成白髭線跡の土手もない
⇒残っているのは京成本線の線路脇に10mほど壁のようになっている向島駅ホーム跡のみ

・・・・・

解説にも「荷風はむずかしいから川本さんのを読む」という人もあり、荷風を読んだこともない
読者にも東京という大都市の強烈なイメージを与える、だから多くの人に読まれ続ける、
とありましたが、まさに大正昭和の都市探索者としての荷風と、その時代の東京と人とを、
部外者にもわかりやすく現代に蘇らせた本でした



で、さらにこちらが・・・

P8071386

同著者による最新刊「荷風の昭和」であります


裏表紙カバーにあった惹句

P8071388

前書から30年を経て昨年刊行され、こちらは東京という都市に限らず、昭和という時代と
断腸亭日乗に記された荷風の行動や意見との関係を多岐にわたり、しかもじつに綿密に
たどっていて、さらに読みごたえがありました

荷風が生きた「昭和」(本書では大正12年の関東大震災後から荷風の没する昭和34年まで)の
文学、映画、飲食、風俗、街並み、政治体制、空襲、疎開先、闇市など、荷風を軸にあらゆる
事象と関係者を網羅してあり、惹句にあった「昭和をまるごと描き出した文芸評論の到達点」や
「荷風論にして昭和論の金字塔」つーのも決して過言ではないと感動しました


あらためて著者紹介

P8071403

惹句にも著者自ら「これを書き上げたらいつ死んでもいい」と筆を振るったとありますが、
まさに決定版ですね



前篇の奥付

P8071402




後編の奥付

P8071400





前篇の目次(各章の
小見出しを追うだけでも多岐にわたる内容が窺い知れます)

P8071391



P8071392



P8071393



P8071394




後編の目次

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P8071397


P8071398

全75章で前作よりさらに大著になっており、荷風以外に関係する数多くの人物についても、
詳しく書かれており、わたくしがはじめて知ったことも多かったです
(戦前の「いわゆる文化人たち」同士の関連は、けっこう濃厚だったんですね)

漢文調の断腸亭日乗を日々ごとにわかりやすく解説、当日の食事、会った人物、観た映画や
演劇などの詳細、散歩したルートや車窓から見えていたはずの風景から思想の背景まで、
ともかくもの凄い情報量で、その根拠となる資料の量も実地踏査の量も凄かったのですが、
著者の荷風や昭和への思いの「さりげない記述」がとても素敵でした

濃い内容でじっくりと読むことに専念、今回はメモしませんでしたが荷風に興味がなくても、
昭和の暮らしぶりが生々しく伝わってきて生活史・文化史としても興味深い本でした

(ちなみに「奇行」とされる戦後の荷風の行動について著者は、戦時中に東京や岡山で4度も
空襲に遭い、
命からがら逃げ延びた経験からのPTSDによるものではないかと推測、荷風は
世情に背を向け泰然としている一方で生への執着が強く、特に高齢になってから連続した
空襲体験が大きなトラウマになり戦後の奇行として現れたのではないかと・・・)

ともかく(荷風を知らなくとも)昭和に興味がある方には必読の書だと思いました



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2026年07月25日

居酒屋ほろ酔い考現学

ええ、前回記事の続きつーか、同じ著者による・・・

P7231295

居酒屋ほろ酔い考現学とゆー本であります



表表紙カバー裏にあった惹句

P7231296




裏表紙カバー裏にあった著者紹介

P7231301

そう、前回記事で取り上げた「新しい階級社会」の著者の別の本で、
わたくしこちらを読んで、この人は信頼できる社会学者だと確信しました



奥付

P7231302





P7231300

2008年に刊行された内容に2014年に加筆修正して文庫化した本だそうです
なので飲食物の値段は2008年当時、統計データなど文庫化時点での加筆修正もありますが、
いずれにしても10年以上前の社会状況や数値になります

その後に酒税の見直しをはじめインバウンド客の激増やコロナ禍など、居酒屋をとりまく
環境の変化もありましたが、全体として社会状況が好転しているとはとても言えないので、
現在でも充分示唆に富む内容で、特に著者の「居酒屋愛」がひしひしと伝わってくるのが、
前回記事の本との大きな違いでした


裏表紙カバーにあった目次

P7231303




さらに詳細な目次

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P7231298



P7231299

(以下てきとーメモですが著作物からなので公開に問題があれば非公開設定にします)


序より
・私は週に2~3日は居酒屋に行く
⇒行くと決まって梯子酒になるから居酒屋の数は週に6~7軒にもなる
⇒ぼーっとしていることもあれば、店の人やほかの客と話すこともある
⇒推敲したり校正したりすることもあれば、美酒と料理をじっくり味わうこともある

・いくつかの店を紹介しているが本書は居酒屋ガイドでもグルメガイドでもない
⇒居酒屋について考え、居酒屋を通じて東京を、そして現代日本を考えようとするものである

(以下の98kメモでは店の紹介などは(東京を知らないので)全て省略しています)


第1章より
・居酒屋通いを始めたのは大学院に入学して20代も半ばになった頃から
⇒年代でいえば1980年代の前半から
⇒当時は地酒ブームが始まってまもない頃だった
⇒私も美味い酒が飲みたくて(自分で買う方が安いが種類が限られるので)全国の地酒を
揃えた店へ(そんな店は貧乏学生には安くはなく、そうそう行けなかった)
⇒しばらくすると普通の値段の居酒屋でも数種類程度の地酒をおくことがおおくなった
⇒こうなれば安い店に限るので、ますます足繁く通うようになった

・美味い酒が飲みたくて行ってたのが、そのうち居酒屋に行きたくて行くようになった
⇒居酒屋で時間を過ごすことが自己目的になったのである
⇒こうなれば居心地の良さが最重要であって、それと酒と料理の最低条件に地の利があれば
「行きつけの店」の条件は整う⇒その日の気分などで使い分けることもある

(98kさんの場合は、学生時代にはまだ
酒を殆ど飲まず、就職後も付き合い酒だけでしたが、
家族持ちになってから仕事帰りの短時間だけ立ち飲み屋に自主的に通うようになりました
たいてい職場の同僚と一緒でしたが、
店の人やほかの客と話すことも多く、やはり家庭と職場
(と地域と趣味の世界)以外の居場所も必要だったのでしょうか・・・
居酒屋に限らず立ち飲み屋でも確かに居心地の良さが最重要でした
帰宅してからの夕食でも家内と飲むようになってたので(それで体重が激増してましたが)、
酒と料理といっても、せいぜいビールにポテサラと何か一品ぐらいだったし)

(閑話休題)

・大学は特殊な世界で同僚たちは研究と教育と大学内部の雑務しか頭にない
⇒こんな世界に身を置いてると、この世のことがわからなくなってしまう
⇒数学者や哲学者ならともかく、社会学者としては死活問題である
⇒だが大衆酒場で酔いが回ってくると、私の社会に対する感覚の歪みが修正されていくのだ

・スーツ姿のサラリーマン(新中間階級)が集まる都心の大衆酒場と、工員など(労働者階級)が
集まる周辺部の大衆酒場では格差があり階級の区別があったが、大きな違いはなかった
⇒たとえばビール大瓶なら600円と500円、高い店と安い店でも680円と420円の差ぐらい
⇒どちらも「中流の暮らしをしている」といえなくもなかった

・世紀の変わり目あたりから客層が変わりはじめた
周辺部の大衆酒場もサラリーマンやOLだけになった(都心の高級居酒屋は閉店していた)
⇒製造業が衰退し低賃金の派遣労働者になり、多くの自営業者が廃業して僅かな年金だけに
⇒その空白をサラリーマンとOLが埋め始めたのである
⇒多くの人が「普通の暮らし」からこぼれ落ち始めたことを意味する

・居酒屋で飲みたい男性が何日かに一度ぐらい居酒屋に行くのは
「普通の暮らし」の一部
「普通の暮らし」からこぼれ落ちることを貧困という
⇒憲法の「健康で文化的な生活」とは「普通の暮らし」であり「飢え死にしない生活」ではない
⇒正月ぐらいはおせちで朝酒、春には花見酒、自分の誕生日にはちょっといい酒を飲み、
友人の披露宴には祝儀を持って、親しかった人の弔いの酒席には喪服を着て顔を出すような、
貧しいなら貧しいなりの当たり前の習慣が維持できること
⇒それが「普通の暮らし」であり、たまに居酒屋に行くのもその一部である

・収入階級別1ヶ月あたり飲酒代支出の推移(1989~2009)
(収入階級を20%ずつ5段階に分け、外食費のうち飲酒代に使った支出の折れ線グラフ)
⇒20年間で最裕福階級5に大きな変化はないが、それ以外の階級では1/2以下に減少している
⇒決定的な変化は最貧階級1では1994年、階級2では1999年、そして階級3と4では2004年に
大幅な減少が起こっている
⇒減り方は収入の少ない階級ほど激しい
⇒収入に対する飲酒代の比率も同様で日本人の飲酒行動が激変している
⇒貧乏人は酒を飲むな⇒これが今の日本である

・立ち飲み屋の復活
⇒大阪や北九州ではずっと健在だったが見栄っ張りの東京では一時期、衰退していた
⇒経済成長そしてバブル景気でサラリーマンが寄りつかなくなったから
⇒ところが世紀の変わり目あたりから東京でも増殖し始めた
⇒小料理屋で飲んでたサラリーマンもカフェバーで飲んでた若者もレストラン巡りしていた
女性たちも立ち飲みに集まってくる
⇒不景気でも富裕層の所得が大幅に増えている反面、大多数の人々の所得が減っているから
⇒この格差拡大が立ち飲み復活の最大の要因

・居酒屋は社会を映し出す鏡であり行けば社会がわかる社会学者のフィールドなのだ


第2章より
・今和次郎の考現学(略)
⇒当時の社会主義思想の階級イメージとは一線を画するものだった

・松崎天民の銀座(略)
⇒震災後に様々な階級が集まるようになった⇒象徴するのがビヤホール

・草柳大蔵の大衆酒場論(略)
⇒朝鮮特需後の一時的なデフレに社用族は高級料亭からビヤホールへ⇒まるで現代の日本

・私の居酒屋観察記録フォーマット(略)
⇒小型のデジタルカメラと黒い目立たない手帳への書き込み


第3章より
・加太こうじの浅草物語
⇒震災後に学生、知識人、サラリーマンの多くは浅草から銀座、新宿へ
⇒銀座は上流階級の盛り場から少し大衆化して中流以上の街に

・映画に描かれる銀座
⇒小津安二郎の秋日和、秋刀魚の味、山田洋二の下町の太陽、市川準の会社物語(ガード下)、
山崎貴のALWAYS三丁目の夕日・・・

・銀座ライオン、ホッピーetc(以下略)


第4章より
・新宿駅東口の駅前にできた新宿マーケットが戦後ヤミ市の発祥
⇒敗戦の5日後に関東小津組の親分が多数の店を組織的に出店させた
(生産者から適正価格で買い取り2割の利益で売ることで警察や関係官庁に容認させていた)
(公定価格よりは高いが闇価格よりは安い「ヤミ市」は次第に正当化されていった)
⇒空襲で破壊された駅前商店街跡にはテキ屋以外に復員軍人や遺族や戦災者の素人も流れ込んだ

・ヤミ市の存続の仕方(店の紹介は略)
①戦災復興土地区画整理事業により新宿駅東口から代替地に早期移転した新宿ゴールデン街など
②1960年代以降も存続し駅の地下街や駅前ビルの地下飲食店街になった新橋駅前など
③建て替えられ現在も残っている新宿駅西口横の思い出横丁や吉祥寺駅北口のハモニカ横丁など


第5章より
・豚の臓物を串焼きにした「焼鳥」は戦前から一般的だった(鶏肉は高級品だった)
⇒1931年に草野心平が新宿の紀伊国屋書店裏に移転した「やきとり屋台」も
豚の臓物
⇒ホルモン料理の名称も1920年代から存在しており俗説と異なり医学用語のホルモンから
(1937年には大阪の飲食店業者がホルモンを使った商標を登録している)

・ヤミ市の「やきとり=モツ焼き」文化が全ての階級へ⇒今日の大衆的な居酒屋へ

(98kさんの私見ですが・・・大阪では「串カツ」文化の影響も大きいでしょう
おそらく昭和30年代の小学生だった頃に(酒を飲まない)父親に連れられ市電やチン電に乗って、
新世界ジャンジャン横町の串カツ屋で食べたことが何度かあり、いつも大盛況だったことを
はっきりと覚えてますし、今も大阪の居酒屋や立ち飲み屋の定番メニューといえば、まずは
関東煮に串カツにどて焼ですし・・・)

(閑話休題)


第6章より
・小林信彦「私説東京放浪記」
⇒山の手と下町の国境⇒今も格差は拡大している

・慶應義塾幼稚舎で寄宿舎生活をした獅子文六のエッセイ「山の手の子」と「町ッ子」
⇒山の手には田舎から出てきた下級武士の出身者が多く野暮なノテ気質と軽蔑されてたが、
二代目ともなると都会人になり下町のイキに対するハイカラになっていく


第7章より
・小林信彦「私説東京繁盛記」
⇒1980年以降に下町は素晴らしいところとして描かれるが、
⇒1960年代には「笑うべきアナクロニズム」の土地であり公害と悪臭の町とされていた

・1969年に始まる寅さん映画が柴又を舞台にしたのは、すでに旧下町が消滅し下町人情物語が
千葉との県境あたりまで行かないと成立しなくなったから
⇒1963年の「下町の太陽」も決して積極的なプラスイメージではない

・下町イメージの変化は1970年代後半から
⇒この時期から雑誌が下町を特集している

・格差が拡大するから富裕な地域はますます富裕になり貧しい地域はますます貧しくなる
⇒企業の低賃金パート労働や派遣労働、グローバル化による中小零細企業の経営悪化、これらを
国が規制緩和で後押ししていることによるもので、足立区など自治体の範囲を超えた問題

・永井荷風は山の手の小石川に士族の息子として生まれたが、新しい下町まで終生愛した
⇒川本三郎「荷風と東京~断腸亭日乗~私註」
⇒都心や西東京では急速に消えつつある昭和20~30年代の風景が残っている新しい下町
⇒その全域を丹念に追い続け、そして居酒屋に入ってビールを飲む

・下町の居酒屋では常連客を中心にゆるいコミュニティを感じる
⇒ビジネスでもプライベートでもないパブリックな空間
⇒サイデンステッカーは東京はアイルランドのダブリンに似ていると言っていた
⇒パブでみんなが仲間になるから⇒そんな居酒屋が多いのが下町
⇒日本がエリートやホワイトカラーだけの社会ではないこと、東京でもまだまだコミュニティと
いえるような人の繋がりがあることを知ることができるのである


第8章より
・東京山の手の内部は多様で格差は非常に大きい(略)
⇒下町の居酒屋には共通の良さ
(略)があるが、山の手の居酒屋に共通の「らしさ」はない
⇒高級住宅地イメージが不動産業者やディベロッパーによる虚構であることを実感できる

・山の手の住宅地は職住分離で飲むなら会社近くの繁華街という前提
⇒一昔前なら夫は外で仕事、妻は自宅で家事と育児だったが、今の標準的な家庭ではない
⇒そもそも、この前提では引退した高齢者の行く場所がない
⇒多くの主婦たちも料理や片付けの手間を考えず夫婦でくつろげる場所を求めている

・下町は職住近接で地域社会に根ざした居酒屋文化が花開いた
⇒郊外の住宅地も成熟するにつれ下町的な商店街を周囲に形成する
⇒そこに不可欠な基礎インフラが居酒屋

・大ヒットした「ALWAYS三丁目の夕日」の舞台は古い下町の港区・芝
⇒寅さん映画が東京の東のはずれまで行かなければ成り立たなかったのと同様に、
時代を昭和30年代に設定することによって初めて成立した虚構の物語だが、
⇒人々がそれを求めること自体、現代の山の手に飽き足らなくなっていることの現れ
⇒下町が劣り山の手が優れるという価値序列のインチキさに気づき始めている

・地元の商店街と居酒屋を核とした下町的な共有空間が求められているのである


第9章より
・近年のビール消費の低迷(1990~2012)
⇒戦後日本では「とりあえずビール」が酒宴の始まりだった
⇒焼酎・酎ハイなどアルコールあたり単価の安い酒へシフトしている

・経済格差が一番小さかった1974年の収入階級別酒類消費額
(収入階級を20%ずつ5段階に分け、ウィスキー・特級1級・2級・焼酎・ビールで比較)
⇒最富裕階級と最貧階級ではウィスキーと焼酎がそれぞれ2倍の差で逆転しているが、
(当時ウィスキーはまだ高級品で焼酎は安酒だったので当然か)
特級1級ではやや格差はあるが日本酒全体では階級差は大きくはなく大部分に飲まれていた
⇒ビールも同様で特に中間3階級が分厚いが最富裕階級も最貧階級もある程度は飲んでいた
⇒ビールと2級酒が飲酒のナショナルスタンダードあるいはナショナルミニマムだった

・収入階級別ビール消費額の推移(1969~2009)
⇒ビール消費額の格差は1969~1974で大幅に縮小したが1984年には豊かな2階級では消費量が
増加したのに対し、最貧階級では大幅に減少する
⇒2004年には最貧と最富裕の格差が1.72倍に、2009年には中間3階級がビール消費を減らし、
ビールはあたかも最富裕階級の酒に・・・

・2009
年の収入階級別酒類消費額ではウィスキー・日本酒(等級が廃止された)・焼酎・
ワイン(消費量が増え追加された)・発泡酒(新設)で、各階級特有のパターンが現れる
(1974年では
ウィスキーと焼酎の逆転以外に階級による違いはほぼなかった)
⇒最貧階級1ではどの酒の消費量も平均より少ない
⇒ひとつ上の階級2では発泡酒が突出しており焼酎がやや多い
⇒真ん中の階級3では発泡酒が平均よりやや多く、日本酒・焼酎・ビールは平均レベルで、
ウィスキーとワインは少ない
⇒収入がやや多い階級4ではどの酒も平均を僅かに上回る水準でバランスのとれた飲酒生活
⇒最富裕階級5ではワインとウィスキーが平均の2倍、日本酒とビールも平均を大きく上回る

・1974年には全ての階級で日本酒とビールが飲まれてたが2009年には階級で分化している
⇒最貧階級1では安い焼酎すら他の階級なみには飲めず、最富裕階級5ではビールと日本酒を
飲み続け、好みでウィスキーとワインを組み合わせる多彩で豊かな飲酒生活
⇒他の中間3階級もそれぞれ収入に見合った飲酒パターンを形成している

・昔のホワイトカラーサラリーマンにはサントリー・オールド(ダルマ)階級社会があった
⇒ダルマをキープできるのは課長以上(それまではホワイトあたり)、部長になればスコッチ
⇒今はウィスキー特に輸入ウィスキーが劇的に安くなってるのに売れなくなっている
⇒みんなが中流といえた時代の終わりと関係する可能性がある

(先日、NHKテレビ番組「探検ファクトリー」でウィスキー樽の製造工場をやってましたが、
ウィスキーの課税数量は2007年の最低時から3倍に回復しているとありました
2008年から回復を続けている背景には何があるのか???
あらためて棒グラフを見てみると2019年からのコロナ禍による外出自粛のせいなのか、
2020年と2021年はやや落ち込んでますが、その後は右肩上がりのまま・・・
さらに2019年を100とした家庭での実質購入量の別の折れ線グラフを見ると、コロナ禍で
2020年には家庭での酒類購入が急増、中でもウィスキーだけが突出しており、しかも
ウィスキーだけが高止まりで、ほぼ横ばいのまま推移しています・・・
酎ハイブームと同じくハイボールブームが続いているのか、興味津々の98kです)

(閑話休題)

・ビールのシェアは発泡酒と缶入り酎ハイへ
⇒飲食店で発泡酒などを出すことは少ないので家で飲む酒の内訳がよほど大きく変化している

収入階級別酒税負担率は逆進的(税率はワインが安くビールや焼酎が高いから)
⇒年収450万までは35%を超え年収1500万を超えると30%まで下がる
(さらに年収2000万を超えるとワイン支出が跳ね上がるが税負担は少ないまま)

・居酒屋・ビヤホール等の売り上げの推移(1980~2013)
⇒1992年をピークに2013年には7割まで減った
⇒業界でのシェアもピーク1988年の5.4%から2013年には4.2%に
⇒高めの店と安価な立ち飲みに両極化している

・ワーキングプアでは居酒屋にも行けないが居酒屋で働いているのはワーキングプア

・日本の居酒屋文化・酒文化は崩壊の淵にある
⇒居酒屋で飲むのはささやかな贅沢
⇒なので分厚い中間階級が存在するときに豊かな
居酒屋文化・酒文化が生まれるが、
⇒格差が拡大しビールから発泡酒・酎ハイへ(上級財から下級財へのシフト)、居酒屋離れに

・居酒屋には様々な社会的機能があり、安らぎを得る場所であり、人とのつながりを作り出す場所
⇒これが失われる損失は大きい

・酒税体系と酒販免許制度の抜本的な改革を
⇒従量税ではなく従価税に
(現状ではビール大瓶の酒税が139円で100万円のロマネコンティの酒税が60円)
⇒酒販免許が厳しく飲食店は卸売業者から直接買えないので酒の値段は高くなる
⇒酒の小売店も保護すべきなので、せめて庶民が飲む普通のビールや甲類焼酎ぐらいは
飲食店用の制限付き酒販免許制度の新設を

・居酒屋の経営が安定すれば非正規従業員の賃金引き上げや正規雇用にもなる
(最賃引き上げは零細圧迫だとストップをかけてるのは零細下請けから搾取している大企業)

酒税体系と酒販免許制度の改善で下がった分の半分は経営の安定化と店員の待遇改善に
⇒居酒屋好きなら値下げは半分でも我慢し文句は言わないはずだ
⇒格差拡大への対策とともに居酒屋文化を守るための制度改革が必要
⇒多くの居酒屋経営者は高齢化しており後継者がおらず事態は急を要する・・・


あとがきにかえてより
・居酒屋以外では絶対に出会うはずのない数知れない人々に出会った
⇒バブル経済で大儲けした経営者、隣り合わせになった一週間後に逮捕された風俗業者、
出入り業者に飲食費を払わせている医学部教授、セクハラ建築家、窓際族、工務店主・・・

・公式の場より先に大学近くの居酒屋で知り合った同僚も多い
⇒会議で初めて会った人より親しくなる傾向があるが酒飲み同士だからというだけではない
⇒最初に作った人間関係が権力や利害とは無縁な対等な関係だから後まで続くのである

・居酒屋は人を平等にする
⇒大衆酒場では金も権力も全く意味を持たず、それが嫌な人は来ない
⇒人と人とが水平につながり、水平なのでさらに広がっていくこともある
⇒居酒屋はインターネットなのである

・16世紀の英国パブは身分を超えてたが18世紀には多様化し分裂しはじめる(海野弘)
⇒背景にあったのは階級的対立の激化
⇒現代日本の居酒屋にもその傾向がある
⇒格差の拡大で階級に沿って分化しはじめる

・インターネットが利用者の経済力で分断されたらインターネットではない
⇒人と人をつなぐ機能は極端に低下する
⇒居酒屋もそうなろうとしている

・すべての階級の人々が集まる大衆酒場は相互理解を生む
⇒大衆酒場こそ目指すべき社会のモデルなのだ
⇒それぞれが違う仕事をし地位や収入が多少は違っていても、極端な格差にはならず、
大衆酒場の同じカウンターを囲む者同士の関係を結べる社会でありたい

・そんな大衆酒場で私が飲んでる可能性は決して低くはないので、声をかけて下さい
⇒そこからまた、ネットワークが広がるだろうから・・・

・・・・・

いやあ、あらためて著者が信頼できる社会学者だと確信しました




m98k at 11:55|PermalinkComments(2) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック