ご飯
2024年10月11日
ひさしぶりのミニOFF会!!!
先週の土日、ひさしぶりのフラッシュライト?ミニOFF会を楽しんでました!!!
ま、わたくしはずっと飲んでたのでライト画像はありませんが、備忘のため・・・
土曜の昼前に(神戸でwingさんをピックアップした)赤チャリさんが、わたくしの実家に到着、
まずは3人で近所のとんかつ屋さんへ・・・
わたくしもひさしぶりのお店でしたが、お二人にも好評でした
で、食後は甘味やつまみや飲み物をスーパーで(大量に)買い出しして実家に戻り、ヲタ話で
盛り上がってると2時半には川端さんも到着、ツッコミどころ満載の録画番組を視聴しつつ、
ひたすらツッコミとヲタ話とバカ話で過ごしつつ・・・
買い出し品と持ち寄り品の珍味もあわせて、ばくばくごくごく・・・
赤チャリさんからの差し入れ
除菌アルコールなどを入れるスプレーボトルでオリーブドラブのジェリ缶仕様
飲まない川端さんからの差し入れ
久保田・純米大吟醸1.8ℓと、麦焼酎・百年の孤独720ml
どちらも滅多に飲めない高級酒、しかも定価では入手しにくい品だとか・・・
で、たちまち夕方になり・・・
一度は皆さんと行きたかったツッコミどころ満載の包丁居酒屋へ・・・
wingさんの日本酒
98kさんのビール
飲まないお二人はソフトドリンクで・・・
店を出てからの皆さんのツッコミは確かに鋭かったのですが、まあ飲み物もつまみも全品が
300円だったので良しとしましょう
帰りは朝食分だけ追加ね!とかいいつつ、結局は甘味なども大量に追加購入して実家に戻り、
またまた録画視聴とヲタ話とバカ話で過ごしました
(この間に何本ものライトが机上に出てましたが画像は一切ありません)
やがて一人二人と寝落ちして、わたくしが就寝したのは1時半過ぎ、翌朝は8時前に起きて、
甘いパンなどの朝食後も延々とヲタ話とバカ話が続きました
(この間にも何本ものライトが登場してましたが画像は一切ありません)
「かいこの一生」チョコレート・・・
凍頂烏龍茶とwingさんが憧れてたとゆー「かじるバターアイス」とか・・・
高級な茶葉は少量で何度も抽出できるのでお得ですね 頂き物でしゅが・・・
とまあ、甘味がいっぱい残ってたので昼食にも夕食にも出ず、延々ヲタ話とバカ話で過ごし、
夕方からは、4人がはじめてリアルで出会った際の話から、フラッシュライトファンの
フォーラムなどの話題になり盛り上がってました いやあ、じつに懐かしかったなあ
そう、このブログサイトを開設してから来年で20年になるのですが・・・
(過去記事は当サイトのヒストリー・ビューから年月別に画像検索できます)
この間にLEDライトを取り巻く状況はすっかり変わり、ラクシオン5wに驚愕した時代から
やがてXPGなどになって様々な機種が出て、100均にもLEDライトが出回るようになると、
カスタマイズしたり情報交換したりのネット上の交流もすっかり少なくなり、今はSNSでの
繋がりが中心になってるようですね・・・
まあ、稀少なライトを持ち寄って集まり、お互い自慢したり驚愕したりするOFF会つーのは、
様々なLEDライトとSNSが普及して興味が薄れたのかも知れませんが、それでもスキモノが
リアルで集まると全く別の楽しさもあるので、今後もたまには参加したいものです
と、今回は日曜日の8時半に再会を約して解散した次第
ま、わたくしはずっと飲んでたのでライト画像はありませんが、備忘のため・・・
土曜の昼前に(神戸でwingさんをピックアップした)赤チャリさんが、わたくしの実家に到着、
まずは3人で近所のとんかつ屋さんへ・・・
わたくしもひさしぶりのお店でしたが、お二人にも好評でした
で、食後は甘味やつまみや飲み物をスーパーで(大量に)買い出しして実家に戻り、ヲタ話で
盛り上がってると2時半には川端さんも到着、ツッコミどころ満載の録画番組を視聴しつつ、
ひたすらツッコミとヲタ話とバカ話で過ごしつつ・・・
買い出し品と持ち寄り品の珍味もあわせて、ばくばくごくごく・・・
赤チャリさんからの差し入れ
除菌アルコールなどを入れるスプレーボトルでオリーブドラブのジェリ缶仕様
飲まない川端さんからの差し入れ
久保田・純米大吟醸1.8ℓと、麦焼酎・百年の孤独720ml
どちらも滅多に飲めない高級酒、しかも定価では入手しにくい品だとか・・・
で、たちまち夕方になり・・・
一度は皆さんと行きたかったツッコミどころ満載の包丁居酒屋へ・・・
wingさんの日本酒
98kさんのビール
飲まないお二人はソフトドリンクで・・・
店を出てからの皆さんのツッコミは確かに鋭かったのですが、まあ飲み物もつまみも全品が
300円だったので良しとしましょう
帰りは朝食分だけ追加ね!とかいいつつ、結局は甘味なども大量に追加購入して実家に戻り、
またまた録画視聴とヲタ話とバカ話で過ごしました
(この間に何本ものライトが机上に出てましたが画像は一切ありません)
やがて一人二人と寝落ちして、わたくしが就寝したのは1時半過ぎ、翌朝は8時前に起きて、
甘いパンなどの朝食後も延々とヲタ話とバカ話が続きました
(この間にも何本ものライトが登場してましたが画像は一切ありません)
「かいこの一生」チョコレート・・・
凍頂烏龍茶とwingさんが憧れてたとゆー「かじるバターアイス」とか・・・
高級な茶葉は少量で何度も抽出できるのでお得ですね 頂き物でしゅが・・・
とまあ、甘味がいっぱい残ってたので昼食にも夕食にも出ず、延々ヲタ話とバカ話で過ごし、
夕方からは、4人がはじめてリアルで出会った際の話から、フラッシュライトファンの
フォーラムなどの話題になり盛り上がってました いやあ、じつに懐かしかったなあ
そう、このブログサイトを開設してから来年で20年になるのですが・・・
(過去記事は当サイトのヒストリー・ビューから年月別に画像検索できます)
この間にLEDライトを取り巻く状況はすっかり変わり、ラクシオン5wに驚愕した時代から
やがてXPGなどになって様々な機種が出て、100均にもLEDライトが出回るようになると、
カスタマイズしたり情報交換したりのネット上の交流もすっかり少なくなり、今はSNSでの
繋がりが中心になってるようですね・・・
まあ、稀少なライトを持ち寄って集まり、お互い自慢したり驚愕したりするOFF会つーのは、
様々なLEDライトとSNSが普及して興味が薄れたのかも知れませんが、それでもスキモノが
リアルで集まると全く別の楽しさもあるので、今後もたまには参加したいものです
と、今回は日曜日の8時半に再会を約して解散した次第
2024年09月09日
マレーシアごはん紀行展&トークイベントに!!!
とーとつですが・・・
堺市役所で開催されてた「マレーシアごはん紀行展&トークイベント」に行ってきました!!!
マレーシア料理フードライター古川音さんの「ごはん紀行パネル展示」とトークイベントで、
ボルネオ島サラワク州クチンのN嶋さんからイベント情報を教えていただいてた次第
事前申し込み(定員50名)には多くの応募者があったようで、抽選の結果めずらしく当選、
9月7日の昼過ぎに(植林ボランティアツアーでは酒類調達担当の)H田さんと合流し堺東駅前へ
まずはマレーシア料理・・・ではなく15年前に堺エリアを担当されてたH田さんオススメの・・・
裏通りにあるカウンター7席だけの小さな「かつ丼専門店」へ
すでに1時を過ぎてましたが満席で20分ほど待ってから中に入れば・・・
メニューは3種類のみでオススメのかつ丼に玉子追加50円、味噌汁50円を注文
食通のH田さんが通い詰めてただけあって確かに絶品でした
で、会場の堺市役所21階展望ロビーで受付を済ませ・・・
60mほどの高さでは、まだまだ世界遺産になった前方後円墳の全容までは分かりませんね
と、まずは豊富なパネル展示を一巡したのですが・・・
詳しくは古川音さんの上記リンク先や「マレーシアごはんの会」サイトをご覧いただくとして、
当サイトではおなじみのサバ州コタキナバルとサラワク州クチンのコーナーのみご紹介・・・
わたくし憧れのサゴヤシ・ゾウムシ幼虫の生食も試されたとか・・・
コタキナバル⇔クチン間は何度か行き来してるのですが、どちらでもまだ食べてません
ええ、クチンのパネル展示には・・・
大好きなサラワク・ラクサやコロミーついでにN嶋さんも紹介されてました
で、定刻の2時になり音さんのスライド・トークがはじまりました
以下、おさらいの意味で基本情報のスライドのみご紹介・・・
マレーシアはマレー半島南部(西マレーシア)とボルネオ島北部(東マレーシア)にまたがる
12州による連邦国家・・・(シンガポールとブルネイは連邦に加盟してません)
まさに多民族国家であります
そう、ボルネオ島は本州の4倍近い世界3位の大きな島(本州は7位)ですが大部分はインドネシア領で
(インドネシア語ではボルネオ島はカリマンタン島、ジャカルタからの首都移転計画が進行中です)、
マレーシア領は島の北部サバ州とサラワク州(東マレーシア)だけになるので、マレー半島南部
(西マレーシア)とあわせても、国の面積としては日本の0.9倍なんですね
35日間ずっと現地のマレーシア料理を食べ続けてたのね・・・
で、終着地サラワク州クチンでは我々が4か月後に食べた、あの絶品サラワク・ラクサを
以下は事前の質問に対する回答スライドの一部・・・
ナシチャンプルはマレー語、経済飯は中国語、ナシカンダーはヒンドゥー語・・・
どれもワンプレートですが民族宗教でおかずの素材や味付けが異なるのが嬉しいです
そう、付いてる小皿の激辛ソースを全量入れると、たいてい悲惨な結果になりました
確かに慣れれば手食のほうが骨を取り分けたり、ご飯と混ぜたりしやすそうですね
でも麺はすするほうが美味しいと思うのですが・・・
わたくしがご飯の誘いを断ることはまずないけど、お腹がいっぱいでも断るよりは一口でも
一緒に食べた方がいいそうです
民族や宗教や言語が違っても一緒に暮らせるなら個人の違いも認めて尊重しあえるだろうし
ご飯を一緒に食べるというのはイタリア人も一番大事にしてますね
と、最後に(たまさんも好きそうな)マレーシアのおやつ一覧
と、音さんのマレーシアとマレーシア料理に対する情熱と愛情がひしひしと伝わってくる、
じつに楽しくて興味深いスライド・トークで、2時からの50分があっとゆー間に過ぎて、
その後は10分間の休憩・・・
ま、せっかくなので・・・
音さんとのスリーショットをサバ州サラワク州パネルの前でお願いしたりして・・・
で、3時からは音さんと在日マレーシア人の熊さんとの二人トークでした
以下、うろ覚えの熊さんのお話を中心に、忘れないうちにメモ・・・
・熊さんはマレーシア北部ペラ州の州都イポー出身で、日本に来られて30年以上になるとか
(音さんとの二人トークは10年ぶりだそうです)
・イポーに多い中華系マレーシア人で漢字の「熊」が本名、日本語では「クマさん」だけど、
客家語、広東語、福建語、マレー語で「わたしの名前は熊です」と話してくれましたが、
まったく異なる発音になるんですね
・自宅では親同士は客家語で話し、子どもたちには地域で使う広東語で話しかけ、小学校では
北京語とマレー語と英語が必須科目、中華系の小学校だったので習うのは3言語だったけど
マレー系の小学校はマレー語と英語だけだった(マハティール政策の頃?)
・習う北京語は小学校4年生の時に繁体字から簡体字に変わったので、どちらも読める
・街で人と話すときも通じなければ別の言語で、または顔を見てインド系なら英語とか・・・
(インド系の小学校ならヒンドゥー語とマレー語と英語の3言語なんでしょうね)
・熊さんの親の世代ぐらいまではマレー語の読み書きができない人も多く、出生届に行っても、
公務員はマレー系が多いので、漢字の発音を聴いて適当なマレー語で登録されてたとか・・・
・公務員にマレー系が多いのは政府の優遇政策もあるけど、中華系は公務員を目指すより
自分で起業を目指す人が多いから、とも質問に答えておられました
・大学を出て2年間は東京にいたけど大阪の方が親しみやすくて、こちらで暮らすようになった
・今は奥さんの出身地の神戸に住んでるけど大阪の方がイポーに似ていて好き
(昔、企業で東南アジア勤務が長かった社員は、いきなり東京本社に戻さず似た雰囲気の
大阪支社で日本の仕事ぶりに慣らしてから戻していたとか・・・都市伝説かもですが)
・日本人の奥さんはマレーシア料理が好きだけど自分も作れないので教えられない
・・・
で、音さんが紹介を忘れててトーク終了後に追加されてた関西のマレーシア料理店
(わたくしも記事アップを忘れてて追加しました)
「マレーシア ボレ」には4年前に行って飲み過ぎたなあ・・・懐かしいなあ
音さんも人と同調するのがつらかったけど、マレーシアに行ってからは「違っていいんだ」
「違うことが当たり前で暮らしていけるんだ、付き合っていけるんだ」と大好きになって、
それ以来マレーシアとマレーシア料理にハマっておられるとか・・・
美味しい料理も多民族の人たちの暮らしも、本来はマレー半島とボルネオ島の豊かな自然が
あってこそ持続可能なハナシなのですが、熱帯雨林の減少は今も続いています
本当の豊かな暮らしのために、できることを今後も考えていきたいと思いました
と、じつに有意義で楽しい時間を過ごせて、しかも予約していた参加者全員には、お土産に
ハニー・ジャックフルーツ・チップスまでいただきました・・・
ええ、もう食べてしまったので空き袋の画像でしゅが・・・
音さん熊さん、イベントを開催いただいた堺・アセアン交流促進委員会事務局のみなさん、
イベント情報を教えてくれたクチンのN嶋さん、ありがとうございました
(当記事への画像掲載については関係者の同意をいただいています)
堺市役所で開催されてた「マレーシアごはん紀行展&トークイベント」に行ってきました!!!
マレーシア料理フードライター古川音さんの「ごはん紀行パネル展示」とトークイベントで、
ボルネオ島サラワク州クチンのN嶋さんからイベント情報を教えていただいてた次第
事前申し込み(定員50名)には多くの応募者があったようで、抽選の結果めずらしく当選、
9月7日の昼過ぎに(植林ボランティアツアーでは酒類調達担当の)H田さんと合流し堺東駅前へ
まずはマレーシア料理・・・ではなく15年前に堺エリアを担当されてたH田さんオススメの・・・
裏通りにあるカウンター7席だけの小さな「かつ丼専門店」へ
すでに1時を過ぎてましたが満席で20分ほど待ってから中に入れば・・・
メニューは3種類のみでオススメのかつ丼に玉子追加50円、味噌汁50円を注文
食通のH田さんが通い詰めてただけあって確かに絶品でした
で、会場の堺市役所21階展望ロビーで受付を済ませ・・・
60mほどの高さでは、まだまだ世界遺産になった前方後円墳の全容までは分かりませんね
と、まずは豊富なパネル展示を一巡したのですが・・・
詳しくは古川音さんの上記リンク先や「マレーシアごはんの会」サイトをご覧いただくとして、
当サイトではおなじみのサバ州コタキナバルとサラワク州クチンのコーナーのみご紹介・・・
わたくし憧れのサゴヤシ・ゾウムシ幼虫の生食も試されたとか・・・
コタキナバル⇔クチン間は何度か行き来してるのですが、どちらでもまだ食べてません
ええ、クチンのパネル展示には・・・
大好きなサラワク・ラクサやコロミーついでにN嶋さんも紹介されてました
で、定刻の2時になり音さんのスライド・トークがはじまりました
以下、おさらいの意味で基本情報のスライドのみご紹介・・・
マレーシアはマレー半島南部(西マレーシア)とボルネオ島北部(東マレーシア)にまたがる
12州による連邦国家・・・(シンガポールとブルネイは連邦に加盟してません)
まさに多民族国家であります
そう、ボルネオ島は本州の4倍近い世界3位の大きな島(本州は7位)ですが大部分はインドネシア領で
(インドネシア語ではボルネオ島はカリマンタン島、ジャカルタからの首都移転計画が進行中です)、
マレーシア領は島の北部サバ州とサラワク州(東マレーシア)だけになるので、マレー半島南部
(西マレーシア)とあわせても、国の面積としては日本の0.9倍なんですね
35日間ずっと現地のマレーシア料理を食べ続けてたのね・・・
で、終着地サラワク州クチンでは我々が4か月後に食べた、あの絶品サラワク・ラクサを
以下は事前の質問に対する回答スライドの一部・・・
ナシチャンプルはマレー語、経済飯は中国語、ナシカンダーはヒンドゥー語・・・
どれもワンプレートですが民族宗教でおかずの素材や味付けが異なるのが嬉しいです
そう、付いてる小皿の激辛ソースを全量入れると、たいてい悲惨な結果になりました
確かに慣れれば手食のほうが骨を取り分けたり、ご飯と混ぜたりしやすそうですね
でも麺はすするほうが美味しいと思うのですが・・・
わたくしがご飯の誘いを断ることはまずないけど、お腹がいっぱいでも断るよりは一口でも
一緒に食べた方がいいそうです
民族や宗教や言語が違っても一緒に暮らせるなら個人の違いも認めて尊重しあえるだろうし
ご飯を一緒に食べるというのはイタリア人も一番大事にしてますね
と、最後に(たまさんも好きそうな)マレーシアのおやつ一覧
と、音さんのマレーシアとマレーシア料理に対する情熱と愛情がひしひしと伝わってくる、
じつに楽しくて興味深いスライド・トークで、2時からの50分があっとゆー間に過ぎて、
その後は10分間の休憩・・・
ま、せっかくなので・・・
音さんとのスリーショットをサバ州サラワク州パネルの前でお願いしたりして・・・
で、3時からは音さんと在日マレーシア人の熊さんとの二人トークでした
以下、うろ覚えの熊さんのお話を中心に、忘れないうちにメモ・・・
・熊さんはマレーシア北部ペラ州の州都イポー出身で、日本に来られて30年以上になるとか
(音さんとの二人トークは10年ぶりだそうです)
・イポーに多い中華系マレーシア人で漢字の「熊」が本名、日本語では「クマさん」だけど、
客家語、広東語、福建語、マレー語で「わたしの名前は熊です」と話してくれましたが、
まったく異なる発音になるんですね
・自宅では親同士は客家語で話し、子どもたちには地域で使う広東語で話しかけ、小学校では
北京語とマレー語と英語が必須科目、中華系の小学校だったので習うのは3言語だったけど
マレー系の小学校はマレー語と英語だけだった(マハティール政策の頃?)
・習う北京語は小学校4年生の時に繁体字から簡体字に変わったので、どちらも読める
・街で人と話すときも通じなければ別の言語で、または顔を見てインド系なら英語とか・・・
(インド系の小学校ならヒンドゥー語とマレー語と英語の3言語なんでしょうね)
・熊さんの親の世代ぐらいまではマレー語の読み書きができない人も多く、出生届に行っても、
公務員はマレー系が多いので、漢字の発音を聴いて適当なマレー語で登録されてたとか・・・
・公務員にマレー系が多いのは政府の優遇政策もあるけど、中華系は公務員を目指すより
自分で起業を目指す人が多いから、とも質問に答えておられました
・大学を出て2年間は東京にいたけど大阪の方が親しみやすくて、こちらで暮らすようになった
・今は奥さんの出身地の神戸に住んでるけど大阪の方がイポーに似ていて好き
(昔、企業で東南アジア勤務が長かった社員は、いきなり東京本社に戻さず似た雰囲気の
大阪支社で日本の仕事ぶりに慣らしてから戻していたとか・・・都市伝説かもですが)
・日本人の奥さんはマレーシア料理が好きだけど自分も作れないので教えられない
・・・
で、音さんが紹介を忘れててトーク終了後に追加されてた関西のマレーシア料理店
(わたくしも記事アップを忘れてて追加しました)
「マレーシア ボレ」には4年前に行って飲み過ぎたなあ・・・懐かしいなあ
音さんも人と同調するのがつらかったけど、マレーシアに行ってからは「違っていいんだ」
「違うことが当たり前で暮らしていけるんだ、付き合っていけるんだ」と大好きになって、
それ以来マレーシアとマレーシア料理にハマっておられるとか・・・
美味しい料理も多民族の人たちの暮らしも、本来はマレー半島とボルネオ島の豊かな自然が
あってこそ持続可能なハナシなのですが、熱帯雨林の減少は今も続いています
本当の豊かな暮らしのために、できることを今後も考えていきたいと思いました
と、じつに有意義で楽しい時間を過ごせて、しかも予約していた参加者全員には、お土産に
ハニー・ジャックフルーツ・チップスまでいただきました・・・
ええ、もう食べてしまったので空き袋の画像でしゅが・・・
音さん熊さん、イベントを開催いただいた堺・アセアン交流促進委員会事務局のみなさん、
イベント情報を教えてくれたクチンのN嶋さん、ありがとうございました
(当記事への画像掲載については関係者の同意をいただいています)
2024年08月25日
ムラブリ・・・
ええ、前々回記事からの続きとゆーか、前回記事からの続きとゆーか・・・
ムラブリ~文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと~であります
著者紹介
奥付
冒頭にあったムラブリの居住地(著作物なので問題があれば非公開にします)
例によって目次の紹介
山極寿一氏の若き日のフィールドワークを綴ったエッセイのように現地での滞在記や青春記の
世界もめっちゃ面白かったのですが、以下はムラブリや言語学といった全く知らない世界を
中心にした読後の部分メモであります
はじめにより
・ムラブリはタイやラオスの山岳地帯を遊動狩猟採集していた少数民族
(今は僅か500名前後の集団でタイでは殆どが定住して農耕もしている)
→ムラは人、ブリは森なので「森の人」の意味になる
(マレー語では人はオラン、森はウータンで「森の人」でしたね)
・ムラブリ語は危機言語に指定されていて、おそらく今世紀中には消える
→ぼくはムラブリ語を15年にわたって研究してきた世界で唯一のムラブリ語研究者だ
→ムラブリ語には文字がないので現地で調査研究を行うフィールド言語学になる
(現在世界で話されている6000~7000言語のうち文字のない言語は2982と推定されている)
・ムラブリ語を話せるということはムラブリの身体性を獲得することでもある
→周りにも日本語では温和なのに英語で話すときだけ大胆になる人がいるのでは?
→異なる身体性には異なる人格が宿るのだ
・日本に帰ってから物を持たなくなり生活がシンプルになった
→これまでの常識が崩れて大学教員も2年で辞めてしまった
・この本は論文ではないが紛れもなくぼくの研究成果
→ニッチで何の役にも立たない研究と言われ、これまでは苦笑いで半分同意していたが、
→今は「あなたを含む世界のためにやってます、ぼくがその成果です」と答えられる
→そんな研究報告を楽しんでもらいたい・・・
第1章より
・言語と方言の区別には言語学だけでなく話す人の意識や政治も絡む
→なので言語の数の数え方は難しい(まえがきのとおり)
・ムラブリ語との出会いは人類学の講義で視聴した「世界ウルルン滞在記」
→はじめての美しい言葉に「一目惚れ」ならぬ「一耳惚れ」して・・・
(以下はじめての滞在に至るまでの顛末がめっちゃ面白くて一気読みしたけど省略して)
第2章より
・ムラブリはタイ語・ラオス語ではピートンルアン(黄色い葉の精霊)と呼ばれる
→蔑称でもありピーは「精霊」よりは「お化け」のニュアンス
・未知の文字のない言語の調査は音韻から
→音素目録つくりが出発点で、まずは最小対を探す
→日本語なら手teと毛keは最小対で母音は同じでtとkが異なる
→日本語はtとkが語を区別する機能を持っている言語と判断する
(以下詳細な手法は略して)
→それを国際音声記号IPAで記録する
→最初は全ての単語や表現でこのプロセスを踏むので時間がかかる
→日本語の母音は5でタイ語は7だがムラブリ語は10あるので苦労した
→あ2い1う3え2お2の10種類
→何度も聞いて真似して確認してから記録するので最初は1時間に15~20だった
・貧しいムラブリの村への訪問者はタイ伝統の施しに来る人が殆ど
→お金を持たない日本人が来たと評判になったと数年後に聞いた
(卒論から院試、修士論文、結婚、博士論文も略して・・・)
・人類学専攻ムラブリ研究者との現地での共同研究
→自分もムラブリ語ではなくムラブリ自身について知る機会を増やすと、ムラブリ語が自然に
話せるようになり、聞き取りもできるようになった
・人類学者では彼のように「擬制家族」を持つことがあるが言語学者では少ない
→自分も擬制家族になってからは「よそ者」から「お兄さん」など人格を持つ名前で呼ばれた
第3章より
・ムラブリに挨拶語はなく、たいていは顎を上げるだけ
→声をかける際は「ご飯食べた?」か「どこ行くの?」
→挨拶なので真剣に考えずテキトーに答える(おはようの交換と同じ)
(大阪弁は「おはようさん」の後に「今日はどちらまで?」「へえ、ちょっとそこまで」ですね)
→言語は情報交換のためのツールだが常に合理的で理想的な情報交換をしてるわけではない
→合理的ではないところにコミュニケーションの豊かさやおかしみがある
・言語は意味のある情報を交換をするためではなく他者と意思疎通を図るための道具
→言語は意味とは別の関係性メタメッセージを伝えている(グレゴリー・ベイトソン)
→一人称「ぼく」と「わたし」の意味は同じだがメタメッセージ(公私などの関係性)は異なる
→一人称の選択などによって暗に関係性を示すのが日本語社会のしきたりで難しい
→メタメッセージは言葉以外の動作でも発信され無自覚に受信している
→人は「自分と相手の関係」をその都度つくりあげることなしに、言語によって意思疎通を
図ることができない生き物なのである
・どうでもいい情報が仲を深める
→合理的コミュニケーションだけでは一定距離以上は親しくなれない
→儀礼的コミュニケーションが欠かせない
→人間はどうでもいい情報を交換し合うことで仲間意識を育む→最たるものが挨拶
→仲間だから意味のない情報交換をするのではなく、意味のない情報交換をすることで、
仲間になったと錯覚する(させる?)→儀礼的コミュニケーション
→ファミレスでの「このハンバーグ美味しいね」「美味しいね」「ね~」の会話例
→ビジネス会話には存在しない
・ムラブリとはじめて儀礼的コミュニケーションができた朝の会話は今も覚えている(略)
→殆ど意味はなかったが語学力指標では表せない何かが身についた手応えがあったから
・日本ではアイヌ語と琉球諸語が危機言語に認定されている
→母語を話し続けるかどうかは本人たちが決めることだが、言語の消滅はひとつの宇宙が
消えることで、すべての言語の歴史は地球の生命史に匹敵する
→生きることはコミュニケーションすることだから・・・
・最近の研究でムラブリ語が注目されている分野のひとつが感情表現
→トルコ語には感情に相当する語彙が3つありガーナのダバニ語やムラブリ語にはない
→感情表現には語彙と迂言的表現の2つがあり殆どの言語が両方を用いる
→日本語では「うれしい、悲しい」と「心が躍る、気分が沈む」など
・日本語の「幸せ」と英語の「happy」のニュアンスが異なるように感情表現の翻訳は難しい
→なので研究者は「好/悪」と「動/静」の二軸で平面上にマッピングする
(日本語の「幸せ」と英語の「happy」はポジティブなので、どちらも右側に入るが、
日本語の「幸せ」のほうが英語の「happy」より静的なので少し下側になるとか)
・ムラブリ語には感情語彙がなく「心が上がる、下がる」で迂言的に感情表現する
→ところが「心が上がる」は悲しいとか怒りでネガティブ、「心が下がる」はうれしいとか
楽しいでポジティブな意味になる
→認知言語学で世界の普遍的な特徴とされるUp is Good(happy)概念メタファーの例外
→上下ではなく別の意味とも考えたが表現の際に手を胸の上下に動かすので誤りではない
→ムラブリの概念メタファーにはDown is Goodがあるのかも・・・
→ムラブリ語には「興奮」もなく行為から感情を分離する感性がないのかもしれない
→「心が上がる、下がる」も身体的な行為に近い感覚かも・・・
→ムラブリ語の体系を通して彼らの感じている世界を想像することができるかも・・・
・ムラブリは感情を表に出すことが殆どない
→まだ森で遊動生活しているラオスのムラブリは、さらに表情が乏しく見えた
→主張や感情を表に出すことは一大事で、そんな事態は避けるべき悪いことだと捉える感性かも
(連れて行った学生が夜遅くまで騒いでて、意見しに来たのに何を言ってるのか分からない
ような遠回しな言い方で、何度も「怒ってないよ本当だよ」を繰り返していた)
→なので「心が下がる」ことがよいことなのかも
(会いたがってた遠くの親族と会わせてもハグなど身体接触はもちろん、一緒に食べることも
会話の盛り上がりもなく、顔も見ずに横に座っているだけだった)
→ぼく自身も変化しており、楽しく気分がいいと口数が少なくなり表情がぼーっとする
→日本でも最近は「チルい」という言葉が流行っており、その「脱力した心地よさ」は
ムラブリの「心が下がる」に通じるところがあるように思える
・SNSへの情熱や仲間とはしゃいだときに感じる楽しさは知っているし理解している
→でも感情を出して誰かに知られて幸福を感じられるのは一時的な流行りに過ぎない
→誰かといる、他人に認めてもらう以外の幸福がムラブリには見えている
→ムラブリ語の「心が下がる」瞬間は人類史的にはごくありふれた心の風景かも・・・
・ムラブリ語には暦も年齢もない
→季節には雨が降る季節・乾く季節・日差しの季節があるが人により呼び方は異なる
→森での収穫物が変わるので季節は重要だが、季節を決めるのは暦ではなく森の様子
→不思議なことに一昨日から5日後までの単語は規則的に存在する→昔は必要だった?
・人の暦はある→年齢ではなく成長段階による区別
→生まれたばかりの子どもは「レーン赤い」(日本語の赤ちゃんと同じで面白い)
→首が座り歩けるまでの子どもは「チョロン幼い子」
→歩き回る時期の子どもは「アイタック小さい」
→その後は「ナル・フルアック大人」で第二次性徴以降なので10代前半ぐらいから
→老人は「白い」を変化させた語彙で、おそらくは白髪のことだろう
・数詞はあるが10まで正確に数えられる人は稀
→知的威信を示す手段で、男たちは酔っぱらうと数えたがるが10までは行かない
→数えることで何かを教えるというより、宴会芸の一種というのが正確な理解
→時計をつける(電池がないか時刻が合っていない)のも時計の入れ墨をするのも知的威信
→森の生活では大きな数も時計も要らないのに、余計なもの無駄なことに価値を見いだすのが
普遍的な人類の特徴なのかも知れない
→女性に数詞を数えたり時計を見せたりはしないので、モテるためでもない男社会のあるある
・ムラブリ語の過去・完了相と未来・起動相(時制やアスペクトのハナシなので省略)
→世界の見え方は話している言語の影響を受けている
(言語相対論、青を区別する語彙があるロシア語話者の色彩識別テストなど)
・言語の持つ超越性とムラブリ語や南米ピダハン語の現前性(いま、ここ)
→ムラブリも定住し換金作物栽培を手伝うようになって計画性を求められるようになった
→ムラブリの村に一時期、自殺が増えた時期があった
→その理由を訊くと「長く考えたから」と答えたムラブリがいた
→「いま、ここ」の現前性では未来はわからず過去はとりかえせない、あるようでないもの
・ムラブリ語に竹という総称はなく7種類それぞれに単語がある
→それぞれで用途が異なり森で少しずつ見分けられるようになった
→論文を書くには写真と単語だけでいいのだが、自分で覚えて使えないと気が済まない
→理由は分からないけど、その方がぼくにとって楽しいのは間違いない
第4章より
・ムラブリが森に入る時は腰の刃物だけ
→採集物を持ち帰るカゴ、ロープ、寝床、焚火、食べ物など、すべては現地調達
→ところが村の家には服や衣類が山積みなのだが、なぜか森と変わらず落ち着いている
(ぼくはムラブリから「物が多い」といわれるが断捨離してから片付かないと落ち着かない)
・この理由を(言語学者なので)言語から考えてみる
→物を指すムラブリ語は複数あるが、よく使われるのはグルアで主に衣類の意味
→グルアの下位カテゴリーが衣類で上位カテゴリーが物
→日本語のご飯と食事の関係に近い→シネクドキ提喩
→衣類が典型的な物であるという感性はどこから生まれるのか?
・所有と匂い
→匂いは所有という抽象的な概念の入口ではないか(マーキングとか借りた服の違和感とか)
→所有のあるところに物が生まれる
→ムラブリの村や家の匂いは極めて均質(焚火の煙の影響も大きい)
→服は誰かが愛着して匂いがつくとその人のグルアになる
→家に山積みの服や衣類があってもどれも同じ(煙の)匂いなのでグルアにならない
→匂いの共有は森の中と同じなので落ち着いていられるのではないか・・・
・ムラブリの所有観(他動詞と自動詞のハナシなので省略)
→「米を持っている」と「米がある」の区別がない(森に木がある、森が木を持っている)
→私の父、私の手など親族と身体部位には「の」を使うが、私の米という使い方はない
→所有関係を表したいときはタイ語の構文を借用している
・ムラブリの一夫一妻、宗教(精霊信仰)、暴力・・・すべては「そいつ次第だ」
・自助と共助の共同体
→一人暮らしの老人でも助けを求めない限り誰も助けない
→人類学でいうシェアリングで富の集中や権力の発生を避ける仕組みを持っている
→分業しないので専門家もいない(バイク修理の講習会の例)
→徹底した個人主義の一方で獲物は平等に共有し、求められればできる範囲で助ける
→個人を生命として信頼し生命が儚いと自覚しているからの振る舞いだと感じる
(コラムより、森の中で火打石や火種の綿を濡らさないことがどれだけ大事か・・・)
第5章より
・博士論文とムラブリ語の方言差調査と子どもの誕生と大学院休学と富山への引っ越しと
29歳での日本学術振興会の特別研究員(学振3年)採用と富山大学の客員研究員・・・
→あらためて書いてみて、運だけで何とかなっているような人生だ
・2017年の春休みに富山大学の先生・学生とムラブリの村を訪れた際に金子游監督と出会った
→東南アジアの少数民族の映像を撮っていると知り(方言差調査で知った)分断されたムラブリを
消える前に引き合わせたいと考えていることや、その際の映像を残したいことを伝えた
→その日の夜にメールがきて映画のプロジェクトがはじまった・・・(略)
・ムラブリの歴史についての考察
→古くからの狩猟採集民のような高度な文化・精神世界とは異なり神話は散文的で儀礼も簡素
→いっぽうで玉鋼をつくる製鉄技術を持っている
→遺伝学や言語学の研究から農耕民が狩猟採集民になったと考えられている(略)
(遺伝的にも言語学的にも最も近い農耕民ティンの民話にも残っている)
→この逆行は人類史の中でも珍しく文化的言語的な特徴を説明する可能性がある
・ぼくのクレオール仮説
→日本語の「わたしの本」は英語では「my book」や「books of mine」
→日本語の語順は「わたしは本を持っている」主語→目的語→動でSOV言語
→英語の語順は「I have books」主語→動詞→目的語でSVO言語
→日本語のようなSOV言語の所有表現は(人→モノ)の語順が多い
→英語のようなSVO言語では所有表現に地域や語族で隔たりがある
(英語もmy book(人→モノ)とbooks of mine(モノ→人)の両方がある)
→文の基本語順と所有表現の類型論的含意と呼ばれる傾向
→オーストロアジア語族SVO言語の所有表現は唯一の例外を除いて(モノ→人)の語順
→その唯一の例外がムラブリ語
→ムラブリ語はSVO基本語順の一方で所有表現については(人→モノ)の語順を示す
(これはオーストロアジア語族の言語研究者には、そんなバカな!!!くらいの大事件だった)
→ムラブリ居住領域の周辺に(人→モノ)語順の言語はなく言語接触も殆どなかったはず
→他にも近親言語と共通する語彙が極端に少ないなど不思議な特徴がたくさんある
→中国語(人→モノ語順)の影響とか消えた言語の影響とか、イマイチな仮説ばかり・・・
(ここからがムラブリ語好きの著者の仮説)
・アジア大陸山岳部はゾミアと呼ばれ様々な少数民族が点在している地域
→平野部に比べコメの生産が難しく大きな王朝は築かれず負け組とされてきた
→歴史学者ジョージ・C・スコットは中央集権支配から逃れるため文字を捨て所有を嫌い
自由を求めて主体的に山岳部に移住したのがゾミアの民とした(2013)
→ムラブリはゾミアの民の典型例ではないかとぼくは考えている
・最初は少数のティンが祖先で、その噂に共感した他の民族からも人々が合流した
(遺伝学的にもクム族やタイ族など様々な民族と混血した痕跡がある)
→様々な民族の集まりだから、その都度、その場で通じる言葉を作り上げていく
(その場限りの必要性から生まれる言語はピジンと呼ばれ世界中で報告されている)
→ピジンは不完全な文法で語彙も限定的
→ピジンを母語として学んだ子どもたちは、やがて完全な言語体系をつくり出す
→ピジンを母語として生まれる言語をクレオールという
→つまりムラブリ語はクレオールではないか
・クレオールは元の言語や地域が違っても似たような特徴を持つ
→所有表現の語順が(人→モノ)であること、疑問詞が2つの要素からなっていること、
重複などの仕組みの乏しいことなど(偶然かも知れないが)ムラブリ語の特徴と一致する
→もちろん証明できないことであり学者として追いかける理由はないが、
→農耕から逃れ森の中で遊動生活をしながらゆるいつながりで形成していった共同幻想
→それがムラブリという民族だった可能性を想うと、なぜムラブリに出会い惹かれたのか
腑に落ちる気がするのだ・・・
(映画の撮影、ラオスのムラブリ、100年越しの再会、ムラブリ語の方言(方言には○○方言と
地名が付くが、ムラブリは移動するのでA方言B方言C方言となる)、などは省略して・・・)
・バベル的言語観、コーラン的言語観
→人々が統一言語で協力して天まで届く塔を作ろうとしたので神が怒り、天罰として塔を崩し
人々の言語をバラバラにしたというのが聖書
→「グローバルには統一言語としての英語」という風潮には反論できないが納得もできない
→言語学者としての応答は聖書と並ぶコーラン
→神が民族をバラバラにしたのは聖書と同じだが、理由はお互いをよく理解するため
→同じ言語だと個別性に気づくのは難しい→日本語同士なら同じ「おいしい」だけ
→タイ語で「アロイ」ムラブリ語で「ジョシ」という人がいれば、感じていることが違うかも
知れないという発想が湧いてくるのではないか
→味覚だけでなく感情や価値観、思想も同じこと
→言語はバベル的言語観もコーラン的言語観も同時に内包する
→同じだよね、違うよねというメタメッセージは言語を用いる限り常に存在する
→どっちも本当で同じだし、違う、そして、それは両立する
第6章より
・「ムラブリ語を話せるようになる過程で変化した自分自身」が何よりの研究成果
→2020年3月に大学教員を辞めて独立研究者になった
(プロ奢ラレヤーの「嫌なこと、全部やめても生きられる」を読んだ翌週に辞表を提出した)
・身体と言語
→武術の講座に通い稽古して、型を通じて身体性を養い、今は言語は型であると言える
→既存の言語を話すときは必ず誰かを引用している→その語も誰かがつくったもの
→ムラブリが雷の経験を誰かと共有したい、声にして表したいと思って出た音が「クルボッ」
→経験は認められ共有され、それまで意味のなかった音の配列が雷を意味するようになった
→現代言語学では単語の誕生に恣意性はないとされている
→日本語イヌ・英語ドッグ・ムラブリ語ブラン・・・
→この考え方はこれらが同じ意味であることを前提にしている→似ているが同じではない
→「クルボッ」の音やリズムがムラブリの身体性で感じる雷をよく表し一体感があったから
いままで使われてきたのではないか
→どんな音でもよかったのではなく生まれる瞬間の強度が死んでなお経験を伝える(武術の型?)
→話し手と聞き手は、語のつくり手の経験とつながっているから互いに理解できる
→ムラブリ語を理解したということは経験のアーカイブ、つまりムラブリの身体性にアクセス
することに慣れた、ということでもある
→そのアクセスがスムースになるほどムラブリ的なセンスで生きることが可能になる
→ムラブリ語を話しているときは深くしゃがめる、遠くに話そうとしている自分に気づく
(ムラブリは村では寡黙だが森では饒舌で話す距離は20~30m=ぼくが話そうとしている距離)
→給料、税金、モノやコトの値段、ご飯・・・ムラブリなら要るか要らないかだけ
→ムラブリは生きるのに必要なことを知ってて、すべて自分でできる
→ぼくは生きるのに必要なことすべてをお金で外注していることに気づいた
→まずは衣食住を身ひとつで賄えることを目指した・・・
・現代日本でムラブリのように生きるには
→バックミンスター・フラー唯一の共同研究者シナジェティクス研究所の梶川泰司所長に出会った
→梶川所長の目指す生き方
①無線→電線などを用いないオフグリッド
②無管→上下水道管を用いない
③無柱→住居に柱を用いない
④無軌道→道路などのインフラに左右されない移動
→これを達成するテクノロジーを発明することが、ぼくの理解する梶川所長の目標
(ぼくは工場規格ではなく自分で作れる環境に応じたものが理想的と思った)
→自分で作ることができ、環境と調和してお互いを活性化し、地球の(宇宙でも)どこでも
一人で生きていけるテクノロジーが、ムラブリの身体性を日本に持ち込んだぼくが心地よく
生きていく方法なのだと今は考えている→自活器self-livingry
→2022年1月にフラー式ドームの簡単な施工法を発明した(略)
→プロ奢ラレヤーと話して空き家・空きスペースに寝るスキルも面白いと思った
→寝るスキル、食事のスキル、服装のスキル・・・(略)
・友達のお父さんが急病になり二人で街の病院へ連れて行き病院の雑魚寝スペースに居たら
身なりのいいタイ人のおばさまが黙って菓子パンとアンマンの入ったコンビニ袋を渡してくれた
→泥まみれでタイ人らしくない顔つきでムラブリ語で話してたので貧しい少数民族に見えたのだ
→「ありがとうございます!!!儲かった!!!」という感情はなく、自然に二人で黙って食べた
→水が流れてきた、キノコが生えてきた、という感じで、とても自然だった
・ぼくの人生には不思議とタイミングよく身に余るオマケがついてくる
→以前ならムラブリを紹介しても「珍しい民族ですね」で終わっただろうが、映画が上映され
映画の感想が多いことに驚かされた。いまはこの本を執筆している
→おそらくこのタイミングで日本で紹介されたことに意味があったのだろう
・ムラブリはタイの少数民族の中でも地味で物質文化も乏しい
→視覚的に「これがムラブリです」と示せるものが極端に少ないが、
→若いムラブリは声を揃えて「自由が好き、強制は嫌い」と言う→これがムラブリなのだ
→この部分が現代日本でムラブリがウケている理由なのだろう
・この本に書かれていることはすべて偶然性や自由からの働きかけで起きたこと
→みんなももっと自由になれるんじゃないかと感じていたから書き上げることができたと思う
→あなたの心に小さなムラブリが芽生えることを祈っている
おわりにより
・2020年1月を最後にコロナ禍でムラブリを訪問できずにいた
→この「おわりに」を書くため3年ぶりに訪れる予定だったが出発2週間前にキャンセルした
→いまやりたいことがムラブリに会うことではないと気づいたから
・言語とは何かの本質的な問いに向かうため武術、詩、短歌、踊りをしてワークショップなどで
収入も得られるようになった
→富山での定住から車中泊生活を経て関東・関西を含む多拠点になり今は富山の山中が拠点
→ムラブリをof研究することからはじめ、ムラブリとともにwith、そしていまムラブリとしてas
研究することに挑戦している
・ぼくは孤独になり自由になったことで、なぜ専門を就職を所有やお金を嫌ったのかに気づいた
→専門ではなくそれが生む権威、働くことではなくそれの強制、所有やお金に絡む社会の
仕組みが気に入らず、身体に合わずうんざりしていたのだ
・いまは富山の山中で自活器self-livingryの開発を行っている
→自分で家を建て食を担いエネルギーをつくることができれば人はやりたいことに邁進するはず
→それがぼくのムラブリ研究でありムラブリへの恩返し
→どうかみなさん、自活器の開発に力を貸して下さい!!!
ムラブリ~文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと~であります
著者紹介
奥付
冒頭にあったムラブリの居住地(著作物なので問題があれば非公開にします)
例によって目次の紹介
山極寿一氏の若き日のフィールドワークを綴ったエッセイのように現地での滞在記や青春記の
世界もめっちゃ面白かったのですが、以下はムラブリや言語学といった全く知らない世界を
中心にした読後の部分メモであります
読み違いとかも多いので興味を持たれた方は本書の熟読をお願いしますね
(著作物からの自分用メモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
はじめにより
・ムラブリはタイやラオスの山岳地帯を遊動狩猟採集していた少数民族
(今は僅か500名前後の集団でタイでは殆どが定住して農耕もしている)
→ムラは人、ブリは森なので「森の人」の意味になる
(マレー語では人はオラン、森はウータンで「森の人」でしたね)
・ムラブリ語は危機言語に指定されていて、おそらく今世紀中には消える
→ぼくはムラブリ語を15年にわたって研究してきた世界で唯一のムラブリ語研究者だ
→ムラブリ語には文字がないので現地で調査研究を行うフィールド言語学になる
(現在世界で話されている6000~7000言語のうち文字のない言語は2982と推定されている)
・ムラブリ語を話せるということはムラブリの身体性を獲得することでもある
→周りにも日本語では温和なのに英語で話すときだけ大胆になる人がいるのでは?
→異なる身体性には異なる人格が宿るのだ
・日本に帰ってから物を持たなくなり生活がシンプルになった
→これまでの常識が崩れて大学教員も2年で辞めてしまった
・この本は論文ではないが紛れもなくぼくの研究成果
→ニッチで何の役にも立たない研究と言われ、これまでは苦笑いで半分同意していたが、
→今は「あなたを含む世界のためにやってます、ぼくがその成果です」と答えられる
→そんな研究報告を楽しんでもらいたい・・・
第1章より
・言語と方言の区別には言語学だけでなく話す人の意識や政治も絡む
→なので言語の数の数え方は難しい(まえがきのとおり)
・ムラブリ語との出会いは人類学の講義で視聴した「世界ウルルン滞在記」
→はじめての美しい言葉に「一目惚れ」ならぬ「一耳惚れ」して・・・
(以下はじめての滞在に至るまでの顛末がめっちゃ面白くて一気読みしたけど省略して)
第2章より
・ムラブリはタイ語・ラオス語ではピートンルアン(黄色い葉の精霊)と呼ばれる
→蔑称でもありピーは「精霊」よりは「お化け」のニュアンス
・未知の文字のない言語の調査は音韻から
→音素目録つくりが出発点で、まずは最小対を探す
→日本語なら手teと毛keは最小対で母音は同じでtとkが異なる
→日本語はtとkが語を区別する機能を持っている言語と判断する
(以下詳細な手法は略して)
→それを国際音声記号IPAで記録する
→最初は全ての単語や表現でこのプロセスを踏むので時間がかかる
→日本語の母音は5でタイ語は7だがムラブリ語は10あるので苦労した
→あ2い1う3え2お2の10種類
→何度も聞いて真似して確認してから記録するので最初は1時間に15~20だった
・貧しいムラブリの村への訪問者はタイ伝統の施しに来る人が殆ど
→お金を持たない日本人が来たと評判になったと数年後に聞いた
(卒論から院試、修士論文、結婚、博士論文も略して・・・)
・人類学専攻ムラブリ研究者との現地での共同研究
→自分もムラブリ語ではなくムラブリ自身について知る機会を増やすと、ムラブリ語が自然に
話せるようになり、聞き取りもできるようになった
・人類学者では彼のように「擬制家族」を持つことがあるが言語学者では少ない
→自分も擬制家族になってからは「よそ者」から「お兄さん」など人格を持つ名前で呼ばれた
第3章より
・ムラブリに挨拶語はなく、たいていは顎を上げるだけ
→声をかける際は「ご飯食べた?」か「どこ行くの?」
→挨拶なので真剣に考えずテキトーに答える(おはようの交換と同じ)
(大阪弁は「おはようさん」の後に「今日はどちらまで?」「へえ、ちょっとそこまで」ですね)
→言語は情報交換のためのツールだが常に合理的で理想的な情報交換をしてるわけではない
→合理的ではないところにコミュニケーションの豊かさやおかしみがある
・言語は意味のある情報を交換をするためではなく他者と意思疎通を図るための道具
→言語は意味とは別の関係性メタメッセージを伝えている(グレゴリー・ベイトソン)
→一人称「ぼく」と「わたし」の意味は同じだがメタメッセージ(公私などの関係性)は異なる
→一人称の選択などによって暗に関係性を示すのが日本語社会のしきたりで難しい
→メタメッセージは言葉以外の動作でも発信され無自覚に受信している
→人は「自分と相手の関係」をその都度つくりあげることなしに、言語によって意思疎通を
図ることができない生き物なのである
・どうでもいい情報が仲を深める
→合理的コミュニケーションだけでは一定距離以上は親しくなれない
→儀礼的コミュニケーションが欠かせない
→人間はどうでもいい情報を交換し合うことで仲間意識を育む→最たるものが挨拶
→仲間だから意味のない情報交換をするのではなく、意味のない情報交換をすることで、
仲間になったと錯覚する(させる?)→儀礼的コミュニケーション
→ファミレスでの「このハンバーグ美味しいね」「美味しいね」「ね~」の会話例
→ビジネス会話には存在しない
・ムラブリとはじめて儀礼的コミュニケーションができた朝の会話は今も覚えている(略)
→殆ど意味はなかったが語学力指標では表せない何かが身についた手応えがあったから
・日本ではアイヌ語と琉球諸語が危機言語に認定されている
→母語を話し続けるかどうかは本人たちが決めることだが、言語の消滅はひとつの宇宙が
消えることで、すべての言語の歴史は地球の生命史に匹敵する
→生きることはコミュニケーションすることだから・・・
・最近の研究でムラブリ語が注目されている分野のひとつが感情表現
→トルコ語には感情に相当する語彙が3つありガーナのダバニ語やムラブリ語にはない
→感情表現には語彙と迂言的表現の2つがあり殆どの言語が両方を用いる
→日本語では「うれしい、悲しい」と「心が躍る、気分が沈む」など
・日本語の「幸せ」と英語の「happy」のニュアンスが異なるように感情表現の翻訳は難しい
→なので研究者は「好/悪」と「動/静」の二軸で平面上にマッピングする
(日本語の「幸せ」と英語の「happy」はポジティブなので、どちらも右側に入るが、
日本語の「幸せ」のほうが英語の「happy」より静的なので少し下側になるとか)
・ムラブリ語には感情語彙がなく「心が上がる、下がる」で迂言的に感情表現する
→ところが「心が上がる」は悲しいとか怒りでネガティブ、「心が下がる」はうれしいとか
楽しいでポジティブな意味になる
→認知言語学で世界の普遍的な特徴とされるUp is Good(happy)概念メタファーの例外
→上下ではなく別の意味とも考えたが表現の際に手を胸の上下に動かすので誤りではない
→ムラブリの概念メタファーにはDown is Goodがあるのかも・・・
→ムラブリ語には「興奮」もなく行為から感情を分離する感性がないのかもしれない
→「心が上がる、下がる」も身体的な行為に近い感覚かも・・・
→ムラブリ語の体系を通して彼らの感じている世界を想像することができるかも・・・
・ムラブリは感情を表に出すことが殆どない
→まだ森で遊動生活しているラオスのムラブリは、さらに表情が乏しく見えた
→主張や感情を表に出すことは一大事で、そんな事態は避けるべき悪いことだと捉える感性かも
(連れて行った学生が夜遅くまで騒いでて、意見しに来たのに何を言ってるのか分からない
ような遠回しな言い方で、何度も「怒ってないよ本当だよ」を繰り返していた)
→なので「心が下がる」ことがよいことなのかも
(会いたがってた遠くの親族と会わせてもハグなど身体接触はもちろん、一緒に食べることも
会話の盛り上がりもなく、顔も見ずに横に座っているだけだった)
→ぼく自身も変化しており、楽しく気分がいいと口数が少なくなり表情がぼーっとする
→日本でも最近は「チルい」という言葉が流行っており、その「脱力した心地よさ」は
ムラブリの「心が下がる」に通じるところがあるように思える
・SNSへの情熱や仲間とはしゃいだときに感じる楽しさは知っているし理解している
→でも感情を出して誰かに知られて幸福を感じられるのは一時的な流行りに過ぎない
→誰かといる、他人に認めてもらう以外の幸福がムラブリには見えている
→ムラブリ語の「心が下がる」瞬間は人類史的にはごくありふれた心の風景かも・・・
・ムラブリ語には暦も年齢もない
→季節には雨が降る季節・乾く季節・日差しの季節があるが人により呼び方は異なる
→森での収穫物が変わるので季節は重要だが、季節を決めるのは暦ではなく森の様子
→不思議なことに一昨日から5日後までの単語は規則的に存在する→昔は必要だった?
・人の暦はある→年齢ではなく成長段階による区別
→生まれたばかりの子どもは「レーン赤い」(日本語の赤ちゃんと同じで面白い)
→首が座り歩けるまでの子どもは「チョロン幼い子」
→歩き回る時期の子どもは「アイタック小さい」
→その後は「ナル・フルアック大人」で第二次性徴以降なので10代前半ぐらいから
→老人は「白い」を変化させた語彙で、おそらくは白髪のことだろう
・数詞はあるが10まで正確に数えられる人は稀
→知的威信を示す手段で、男たちは酔っぱらうと数えたがるが10までは行かない
→数えることで何かを教えるというより、宴会芸の一種というのが正確な理解
→時計をつける(電池がないか時刻が合っていない)のも時計の入れ墨をするのも知的威信
→森の生活では大きな数も時計も要らないのに、余計なもの無駄なことに価値を見いだすのが
普遍的な人類の特徴なのかも知れない
→女性に数詞を数えたり時計を見せたりはしないので、モテるためでもない男社会のあるある
・ムラブリ語の過去・完了相と未来・起動相(時制やアスペクトのハナシなので省略)
→世界の見え方は話している言語の影響を受けている
(言語相対論、青を区別する語彙があるロシア語話者の色彩識別テストなど)
・言語の持つ超越性とムラブリ語や南米ピダハン語の現前性(いま、ここ)
→ムラブリも定住し換金作物栽培を手伝うようになって計画性を求められるようになった
→ムラブリの村に一時期、自殺が増えた時期があった
→その理由を訊くと「長く考えたから」と答えたムラブリがいた
→「いま、ここ」の現前性では未来はわからず過去はとりかえせない、あるようでないもの
・ムラブリ語に竹という総称はなく7種類それぞれに単語がある
→それぞれで用途が異なり森で少しずつ見分けられるようになった
→論文を書くには写真と単語だけでいいのだが、自分で覚えて使えないと気が済まない
→理由は分からないけど、その方がぼくにとって楽しいのは間違いない
第4章より
・ムラブリが森に入る時は腰の刃物だけ
→採集物を持ち帰るカゴ、ロープ、寝床、焚火、食べ物など、すべては現地調達
→ところが村の家には服や衣類が山積みなのだが、なぜか森と変わらず落ち着いている
(ぼくはムラブリから「物が多い」といわれるが断捨離してから片付かないと落ち着かない)
・この理由を(言語学者なので)言語から考えてみる
→物を指すムラブリ語は複数あるが、よく使われるのはグルアで主に衣類の意味
→グルアの下位カテゴリーが衣類で上位カテゴリーが物
→日本語のご飯と食事の関係に近い→シネクドキ提喩
→衣類が典型的な物であるという感性はどこから生まれるのか?
・所有と匂い
→匂いは所有という抽象的な概念の入口ではないか(マーキングとか借りた服の違和感とか)
→所有のあるところに物が生まれる
→ムラブリの村や家の匂いは極めて均質(焚火の煙の影響も大きい)
→服は誰かが愛着して匂いがつくとその人のグルアになる
→家に山積みの服や衣類があってもどれも同じ(煙の)匂いなのでグルアにならない
→匂いの共有は森の中と同じなので落ち着いていられるのではないか・・・
・ムラブリの所有観(他動詞と自動詞のハナシなので省略)
→「米を持っている」と「米がある」の区別がない(森に木がある、森が木を持っている)
→私の父、私の手など親族と身体部位には「の」を使うが、私の米という使い方はない
→所有関係を表したいときはタイ語の構文を借用している
・ムラブリの一夫一妻、宗教(精霊信仰)、暴力・・・すべては「そいつ次第だ」
・自助と共助の共同体
→一人暮らしの老人でも助けを求めない限り誰も助けない
→人類学でいうシェアリングで富の集中や権力の発生を避ける仕組みを持っている
→分業しないので専門家もいない(バイク修理の講習会の例)
→徹底した個人主義の一方で獲物は平等に共有し、求められればできる範囲で助ける
→個人を生命として信頼し生命が儚いと自覚しているからの振る舞いだと感じる
(コラムより、森の中で火打石や火種の綿を濡らさないことがどれだけ大事か・・・)
第5章より
・博士論文とムラブリ語の方言差調査と子どもの誕生と大学院休学と富山への引っ越しと
29歳での日本学術振興会の特別研究員(学振3年)採用と富山大学の客員研究員・・・
→あらためて書いてみて、運だけで何とかなっているような人生だ
・2017年の春休みに富山大学の先生・学生とムラブリの村を訪れた際に金子游監督と出会った
→東南アジアの少数民族の映像を撮っていると知り(方言差調査で知った)分断されたムラブリを
消える前に引き合わせたいと考えていることや、その際の映像を残したいことを伝えた
→その日の夜にメールがきて映画のプロジェクトがはじまった・・・(略)
・ムラブリの歴史についての考察
→古くからの狩猟採集民のような高度な文化・精神世界とは異なり神話は散文的で儀礼も簡素
→いっぽうで玉鋼をつくる製鉄技術を持っている
→遺伝学や言語学の研究から農耕民が狩猟採集民になったと考えられている(略)
(遺伝的にも言語学的にも最も近い農耕民ティンの民話にも残っている)
→この逆行は人類史の中でも珍しく文化的言語的な特徴を説明する可能性がある
・ぼくのクレオール仮説
→日本語の「わたしの本」は英語では「my book」や「books of mine」
→日本語の語順は「わたしは本を持っている」主語→目的語→動でSOV言語
→英語の語順は「I have books」主語→動詞→目的語でSVO言語
→日本語のようなSOV言語の所有表現は(人→モノ)の語順が多い
→英語のようなSVO言語では所有表現に地域や語族で隔たりがある
(英語もmy book(人→モノ)とbooks of mine(モノ→人)の両方がある)
→文の基本語順と所有表現の類型論的含意と呼ばれる傾向
→オーストロアジア語族SVO言語の所有表現は唯一の例外を除いて(モノ→人)の語順
→その唯一の例外がムラブリ語
→ムラブリ語はSVO基本語順の一方で所有表現については(人→モノ)の語順を示す
(これはオーストロアジア語族の言語研究者には、そんなバカな!!!くらいの大事件だった)
→ムラブリ居住領域の周辺に(人→モノ)語順の言語はなく言語接触も殆どなかったはず
→他にも近親言語と共通する語彙が極端に少ないなど不思議な特徴がたくさんある
→中国語(人→モノ語順)の影響とか消えた言語の影響とか、イマイチな仮説ばかり・・・
(ここからがムラブリ語好きの著者の仮説)
・アジア大陸山岳部はゾミアと呼ばれ様々な少数民族が点在している地域
→平野部に比べコメの生産が難しく大きな王朝は築かれず負け組とされてきた
→歴史学者ジョージ・C・スコットは中央集権支配から逃れるため文字を捨て所有を嫌い
自由を求めて主体的に山岳部に移住したのがゾミアの民とした(2013)
→ムラブリはゾミアの民の典型例ではないかとぼくは考えている
・最初は少数のティンが祖先で、その噂に共感した他の民族からも人々が合流した
(遺伝学的にもクム族やタイ族など様々な民族と混血した痕跡がある)
→様々な民族の集まりだから、その都度、その場で通じる言葉を作り上げていく
(その場限りの必要性から生まれる言語はピジンと呼ばれ世界中で報告されている)
→ピジンは不完全な文法で語彙も限定的
→ピジンを母語として学んだ子どもたちは、やがて完全な言語体系をつくり出す
→ピジンを母語として生まれる言語をクレオールという
→つまりムラブリ語はクレオールではないか
・クレオールは元の言語や地域が違っても似たような特徴を持つ
→所有表現の語順が(人→モノ)であること、疑問詞が2つの要素からなっていること、
重複などの仕組みの乏しいことなど(偶然かも知れないが)ムラブリ語の特徴と一致する
→もちろん証明できないことであり学者として追いかける理由はないが、
→農耕から逃れ森の中で遊動生活をしながらゆるいつながりで形成していった共同幻想
→それがムラブリという民族だった可能性を想うと、なぜムラブリに出会い惹かれたのか
腑に落ちる気がするのだ・・・
(映画の撮影、ラオスのムラブリ、100年越しの再会、ムラブリ語の方言(方言には○○方言と
地名が付くが、ムラブリは移動するのでA方言B方言C方言となる)、などは省略して・・・)
・バベル的言語観、コーラン的言語観
→人々が統一言語で協力して天まで届く塔を作ろうとしたので神が怒り、天罰として塔を崩し
人々の言語をバラバラにしたというのが聖書
→「グローバルには統一言語としての英語」という風潮には反論できないが納得もできない
→言語学者としての応答は聖書と並ぶコーラン
→神が民族をバラバラにしたのは聖書と同じだが、理由はお互いをよく理解するため
→同じ言語だと個別性に気づくのは難しい→日本語同士なら同じ「おいしい」だけ
→タイ語で「アロイ」ムラブリ語で「ジョシ」という人がいれば、感じていることが違うかも
知れないという発想が湧いてくるのではないか
→味覚だけでなく感情や価値観、思想も同じこと
→言語はバベル的言語観もコーラン的言語観も同時に内包する
→同じだよね、違うよねというメタメッセージは言語を用いる限り常に存在する
→どっちも本当で同じだし、違う、そして、それは両立する
第6章より
・「ムラブリ語を話せるようになる過程で変化した自分自身」が何よりの研究成果
→2020年3月に大学教員を辞めて独立研究者になった
(プロ奢ラレヤーの「嫌なこと、全部やめても生きられる」を読んだ翌週に辞表を提出した)
・身体と言語
→武術の講座に通い稽古して、型を通じて身体性を養い、今は言語は型であると言える
→既存の言語を話すときは必ず誰かを引用している→その語も誰かがつくったもの
→ムラブリが雷の経験を誰かと共有したい、声にして表したいと思って出た音が「クルボッ」
→経験は認められ共有され、それまで意味のなかった音の配列が雷を意味するようになった
→現代言語学では単語の誕生に恣意性はないとされている
→日本語イヌ・英語ドッグ・ムラブリ語ブラン・・・
→この考え方はこれらが同じ意味であることを前提にしている→似ているが同じではない
→「クルボッ」の音やリズムがムラブリの身体性で感じる雷をよく表し一体感があったから
いままで使われてきたのではないか
→どんな音でもよかったのではなく生まれる瞬間の強度が死んでなお経験を伝える(武術の型?)
→話し手と聞き手は、語のつくり手の経験とつながっているから互いに理解できる
→ムラブリ語を理解したということは経験のアーカイブ、つまりムラブリの身体性にアクセス
することに慣れた、ということでもある
→そのアクセスがスムースになるほどムラブリ的なセンスで生きることが可能になる
→ムラブリ語を話しているときは深くしゃがめる、遠くに話そうとしている自分に気づく
(ムラブリは村では寡黙だが森では饒舌で話す距離は20~30m=ぼくが話そうとしている距離)
→給料、税金、モノやコトの値段、ご飯・・・ムラブリなら要るか要らないかだけ
→ムラブリは生きるのに必要なことを知ってて、すべて自分でできる
→ぼくは生きるのに必要なことすべてをお金で外注していることに気づいた
→まずは衣食住を身ひとつで賄えることを目指した・・・
・現代日本でムラブリのように生きるには
→バックミンスター・フラー唯一の共同研究者シナジェティクス研究所の梶川泰司所長に出会った
→梶川所長の目指す生き方
①無線→電線などを用いないオフグリッド
②無管→上下水道管を用いない
③無柱→住居に柱を用いない
④無軌道→道路などのインフラに左右されない移動
→これを達成するテクノロジーを発明することが、ぼくの理解する梶川所長の目標
(ぼくは工場規格ではなく自分で作れる環境に応じたものが理想的と思った)
→自分で作ることができ、環境と調和してお互いを活性化し、地球の(宇宙でも)どこでも
一人で生きていけるテクノロジーが、ムラブリの身体性を日本に持ち込んだぼくが心地よく
生きていく方法なのだと今は考えている→自活器self-livingry
→2022年1月にフラー式ドームの簡単な施工法を発明した(略)
→プロ奢ラレヤーと話して空き家・空きスペースに寝るスキルも面白いと思った
→寝るスキル、食事のスキル、服装のスキル・・・(略)
・友達のお父さんが急病になり二人で街の病院へ連れて行き病院の雑魚寝スペースに居たら
身なりのいいタイ人のおばさまが黙って菓子パンとアンマンの入ったコンビニ袋を渡してくれた
→泥まみれでタイ人らしくない顔つきでムラブリ語で話してたので貧しい少数民族に見えたのだ
→「ありがとうございます!!!儲かった!!!」という感情はなく、自然に二人で黙って食べた
→水が流れてきた、キノコが生えてきた、という感じで、とても自然だった
・ぼくの人生には不思議とタイミングよく身に余るオマケがついてくる
→以前ならムラブリを紹介しても「珍しい民族ですね」で終わっただろうが、映画が上映され
映画の感想が多いことに驚かされた。いまはこの本を執筆している
→おそらくこのタイミングで日本で紹介されたことに意味があったのだろう
・ムラブリはタイの少数民族の中でも地味で物質文化も乏しい
→視覚的に「これがムラブリです」と示せるものが極端に少ないが、
→若いムラブリは声を揃えて「自由が好き、強制は嫌い」と言う→これがムラブリなのだ
→この部分が現代日本でムラブリがウケている理由なのだろう
・この本に書かれていることはすべて偶然性や自由からの働きかけで起きたこと
→みんなももっと自由になれるんじゃないかと感じていたから書き上げることができたと思う
→あなたの心に小さなムラブリが芽生えることを祈っている
おわりにより
・2020年1月を最後にコロナ禍でムラブリを訪問できずにいた
→この「おわりに」を書くため3年ぶりに訪れる予定だったが出発2週間前にキャンセルした
→いまやりたいことがムラブリに会うことではないと気づいたから
・言語とは何かの本質的な問いに向かうため武術、詩、短歌、踊りをしてワークショップなどで
収入も得られるようになった
→富山での定住から車中泊生活を経て関東・関西を含む多拠点になり今は富山の山中が拠点
→ムラブリをof研究することからはじめ、ムラブリとともにwith、そしていまムラブリとしてas
研究することに挑戦している
・ぼくは孤独になり自由になったことで、なぜ専門を就職を所有やお金を嫌ったのかに気づいた
→専門ではなくそれが生む権威、働くことではなくそれの強制、所有やお金に絡む社会の
仕組みが気に入らず、身体に合わずうんざりしていたのだ
・いまは富山の山中で自活器self-livingryの開発を行っている
→自分で家を建て食を担いエネルギーをつくることができれば人はやりたいことに邁進するはず
→それがぼくのムラブリ研究でありムラブリへの恩返し
→どうかみなさん、自活器の開発に力を貸して下さい!!!
2024年08月21日
最後はなぜかうまくいくイタリア人
とーとつですが・・・
前回記事の本にムラブリやプナンの人たちが「分業しない」とか「今、ここ」だけとかあって、
それでふと思い出したのが・・・
Alla fine gli italiani ce la fanno.
最後はなぜかうまくいくイタリア人・・・とゆー本であります
表紙カバー裏にあった惹句
裏表紙カバー裏にあった著者紹介
著者はローマの新聞社勤務からワインガイドやレストランガイドの執筆スタッフを経て、
日本とイタリアでワインと食について執筆活動中、2014年にはイタリア文化への貢献で
大統領から勲章を授章されてるとゆー、まさにホンモノのイタリア通ですね
奥付
第1刷は2015年9月、わたくしには初めての渡欧で、我が家にホームステイしていた青年の
シチリアでの結婚式に参列して、トスカーナにある実家にホームステイさせてもらったのは
2017年の夏ですから、その2年前に刊行された本とゆーことになります
当時は本書の存在を知りませんでしたが、なぜシチリアとトスカーナに住む新郎と新婦の
家族や知人が、わたくしたち夫婦の世話を親身になってしてくれたのか、なぜ家族全員で、
あるいは親族や友人、仕事関係者らと一緒に食卓を囲んでいたのか、が理解できました
さらにシチリアでもトスカーナでも嫌な思い出がひとつもないのは「よそ者」ではなく
グループの一員として、家族や知人に限らずお店の人まで対応してくれてたからかも・・・
彼らと行動を共にしている際はもちろん、一人で近所をポタリングしてる際でも、お店に入り、
「獣医の○○さんちにホームステイしてます」と伝えると、急にカタコト同士での会話が弾み、
「○○さんは知らないなあ」の場合でも、まったくの「よそ者」ではなさそうとの判断で、
やはり親切に対応してくれてたのかもとも、本書を読んで思いました
ただ、まったくの「よそ者」としてのシーンでも、けっこう「世話焼き」な印象を受けたので、
このあたりは大阪人にそっくりとも、当時のわたくしは感じてましたが・・・
閑話休題
例によって目次のご紹介(これだけ眺めてても面白いです)
コラム「見習ってはいけないイタリア①~④」とかも、めっちゃ面白かったのですが、
とりあえず一部だけの読後メモ・・・
例によって読み違いとか読み飛ばしも多いので興味のある方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
「はじめに」より
・30年前のはじめての通訳アルバイト経験から
→予定どおり物事が運ぶと考えるのはイタリアでは大きな間違いだった
→不測の事態が起こるのが普通と考えている(不測が予測できるという矛盾した状態)
→それで怒ったり慌てたりするのは愚か、より良い解決策を見いだす方が大切という考え方
→彼らは決してあきらめず、最後にはなんとかする(子どもの頃から慣れている)
・とんでもない行動規範にみえるが裏には彼らなりのロジックがあり機能している
→気楽で怠け者と思われがちだがEUの経済大国であり、各分野で世界をリードしている
・現在は日本とイタリアで仕事をしているが仕事のやり方は空港で切り替えている
→どちらが正しいとかではなく、そのほうがうまくいくから
→国際化で身近になったという錯覚もあるが歴史も文化も全て異なる遠い国
→日本と似ているところも多いが異なる部分がたくさんある
→22歳までイタリアと縁のなかった日本人が身につけた、生きていくための知恵・・・
1「仕事」より
・時間へのルーズさは南へ行くほど大きくなる→特にローマから南は・・・
→ただしルーズさには暗黙のロジックがあり、それに従っている
(記者会見、ディナーパーティー、自宅への招待、大学の授業などの例)
→重要なのは時間の遅れは予測可能であり、しかもかなり正確なルールで遅れること
(開始時刻は準備の目標であり、所要時間を訊いても最短時間(クルマなら渋滞も赤信号もなく
最速で到着する時間)しか答えてくれないので訊いてもムダ)
・公私混同しないこと、けじめをつけることは・・・
→いいことだと思っていた、イタリアという国を知るまでは
→公私混同が激しいほど社会に活気が出て、皆が生き生きとしているように思える
→公共窓口やレストランの例
→おしゃべりで待たされる側は不利益のはずだが、けじめが存在しないので客も参加する
→逆にプライベートな時間への仕事の割り込みにも寛容
→同様にけじめが存在せず労働時間への権利意識も低いから(フランス取材との違い)
→時間にルーズで自分に都合のいいように考えるが他人もそうだと理解しているので寛容
・仕事が労働時間なのは商品として資本に売買される「疎外された労働」のみ
→銀行の窓口担当と駄菓子屋の店先に座るお婆ちゃんの違い
→お婆ちゃんは知り合いとおしゃべりし子どもと遊び説教して、ついでに駄菓子も売る
→お婆ちゃんには人生そのものであり生きがい、仕事の時間と私の時間が溶けあっている
→イタリアは皆が駄菓子屋のお婆ちゃんのように働いている国と考えればわかりやすい
→資本により売買されたはずの労働が(労働者の勝手な解釈で)好き勝手に使われている
→労働の疎外レベルが低い(労働レベルも低いけど)恵まれた労働者と考えれば腹も立たない
・高度成長期に会社で長時間労働していた日本のお父さんたち
→世界中からバッシングされたが公私の区別がなく会社はお婆ちゃんの駄菓子屋と同じだった
→会社だけで充実しておりオフに自分を取り戻す必要はなかった(なので退職後は廃人に)
・イタリア経済を支える中小企業は大きな家族のようなもので分業も明確ではなく公私混同
→マルクス理論では商品化による労働疎外が極端に進めば革命が起こるが、
→イタリアでは労働時間を勝手に解釈して自分に使っており社会全体がそれを許容している
→実際に業務をきちんと遂行しない労働者へのイタリア人の寛容さは破格
→なし崩し的に資本主義の先鋭化を止め、いまだにのんびり楽しげに働いている
・近代的労働は労働に見合う対価を受け取る契約で成り立っている
→対価に見合う労働以上にする必要はなく人間関係がなくても成立する
→イタリア人は自分のものとして感情移入できないと関心を持てず熱中できない
→公共サービス窓口が典型で時間外の第二の仕事では生き生きと熱心に働いている
・対する家族工房的労働は友人家族のように公私の区別が曖昧で労働時間も曖昧
→イタリアの経済基盤を支える中小企業は多くがこのカテゴリー(ワイナリーなど)
→社長は親父、会社は第二の我が家で、高度成長期の日本の家族経営企業と同じ雰囲気
(映画「紅の豚」に出てくるミラノのピッコロ社は、まさに家族経営そのものでしたね)
→無機質な労働は苦手だが目に見えることは懸命にやり、残業代を言う人はまずいない
・危機的状況が常態化しているので、ひるまないしぶとさがイタリア最大の武器
・京都の「ぶぶ漬けでもどうどす」と同じで土地のルールを理解しておく必要がある
・フォルクスワーゲンとフェラーリの違い
→効率は悪いが全体が見える何でも屋さん→大きなバルの従業員でも分業しない
・先の段取りは苦手、今やるべきことに集中する→バック駐車しないとか
・何でもダメもとでトライするが親切に対応してくれることも多い(断られてもひるまない)
・「お客様は神様」と「店員は友達」の違い
→自分も友達といるときのようにおしゃべりしてるので客にも友達のように親身になる
コラム見習ってはいけないイタリア①より
・公共心がない
→仲間と見なせば必死で守るが国家など大きな組織は仲間と見なしていないから
・泥棒が多い、偽物が多い、脱税が多い
→「破格のお値打ち品」に弱いから
→脱税や盗品や偽物の取り締まりには賛成だが自分が得する場合は誘惑に負けてしまう
→公共心という絶対的価値判断基準がないので総論は賛成、各論は個人判断となる
・イタリア統一と近代国家の誕生は人民革命ではなかった
→統一はサルデーニャによる吸収合併で、国家はよそから来たサヴォイア家が押しつけたもの、
という意識が強い(特に中南部イタリアに多い)
→なので納税義務と国民の権利という民主主義の市民文化を確立できなかった
→この歴史的経緯は日本に似ているが結果の行動パターンがあまりにも異なるのが興味深い
・・・と、ここまでで全体の1/3ほど・・・
最後まで興味深く読みましたが、暑気払い飲酒が続き、全てはメモできませんでしたので、
以下は思い切って2「人生」のメモを省略、3「家族と恋愛」の一部と、(わたくしの愛する)
4「食事」、5「独断と偏見で考えるイタリア」の一部、「あとがき」からの一部メモ・・・
ちなみに目次の最後にある「不思議の国イタリアの"あるある"行動」もめっちゃ面白かったです
3「家族と恋愛」より一部
・ローマ・カトリックの影響
→清く正しい生き方を説く
→できるわけがないので破った側も教会側も体裁だけ繕うことを選んできた
→なので体裁さえ繕えば何をしてもいいという偽善モラルが根付いたという説
→ダブルスタンダードの快感(映画山猫、トスカーナワインの規則、スピード違反など)
・家族一族の団結→同族企業が多い
→異国に支配され続けてきた歴史から、頼れるのは家族一族だけという考え方に
→シチリア・マフィアも支配民族に対する抵抗から生まれた構成員の多い大家族
→同じグループに所属するメンバーを優遇する→コネを使いまくる
→有力なコネだけでなく友人の友人でも便宜を図る→いつかそのコネを使えるから
→裏口を多く持つ人が尊敬され真面目に正門で待つ人はマヌケという矛盾した文化に
→なのでまったくの赤の他人は「よそ者」として不信感を持たれる
→曖昧で緩やかな関係が、じつは正確に等価交換され機能している国がイタリア
・個人的な問題を公にして解決しようとする
→グループ内のカップルは複数で行動し相手方がグループ内で変わることも多い
→グループ全員が(元カレや元カノを含め)葛藤を共有し温かく見守るシュールな状況
4「食事」より
(イタリアの食についてはこちらの本も分かりやすかったです)
・イタリアは「食事の時間」が長いのではなく「食卓にいる時間」が長いだけ
→食卓に多義的な意味があるから(なのでスパゲッティを食べるスピードは早い)
→昼食と夕食で1日の活動時間の大半を食卓で過ごすこともある
・食卓とは人生のほとんどすべての問題を解決する場であり、人との出会いの場であり、
別れの場であり、相手を見定める場であり、就職活動の場であり、プロジェクトをスタート
させる場であり、打ち合わせの場でもある
→社会の重要な活動の多くが食卓で行われる→イタリアで食事をすることは重要な儀式
・イタリアのフォーマルなパーティーはヴィッラ(貴族の屋敷)やワイナリーを借りて行われる
①広い庭でのアペリティフから→だらだらとはじまる
(コネを作る場であり自由席の場合は同席する仲間を選ぶ場にもなる)
②8~10人テーブルの全員が揃ってはじめて着席し全員と握手して挨拶する(イタリアのみ)
③はじめての相手とも話題を探して延々と話し続ける
④伝統的にはアンティパスト→パスタ→メインディッシュ→ドルチェの構成(時間をかける)
⑤全員の同意を得てから一斉に席を立ち、また全員と握手してから別れる
⑥お開きになっても話が弾めばグラッパでも飲みながら話し続けて、だらだらと終わる
→フェードイン・フェードアウトが理想で、いただきます・ごちそうさま・締めの挨拶はない
・食事の誘いを断ったり食卓を囲むのが嫌いな人は信頼されない変な国
→食事に誘われるということは仲間として認められつつあるということ
→書類審査・筆記試験から面接に移る感じ(もちろんビジネスでは儀礼上の誘いもある)
→日本でいえば一緒に温泉に入る「裸の付き合い」のような、お互いをさらけ出す場
→ラテン語にIn vino veritas(ワインに真実がある)という諺があるが「食卓に真実がある」
・レストランでも自宅でも友達同士でも家族でも、食べる喜びは増えるが精神は同じ
→自宅で家族の場合
①それまで作業などに使っていた食卓を片付けてテーブルクロスを敷く
②人数分のフォーク・ナイフ・ナプキン・グラスをセットする
③パンを切って食卓の真ん中に置く
④皿を2枚ほど重ねてセットする
(1枚目が前菜やパスタ用で片付けた後に2枚目でメインを食べる)
⑤ようやく家族を呼び、全員が揃ったところでワインの栓を抜く
⑥全員がその日あったことや考えたことを家族と話し合う(話すことで頭の中が整理される)
(公式な食卓へのトレーニングでもあり、食卓が社会的パフォーマンスの場であることを学ぶ)
⑦前菜とパスタまでは調理に忙しいマンマもメインを出せばどっしり腰をおろして会話に加わる
⑧以後の議長役は当然マンマとなり、他のメンバー全員が従うのがイタリアらしい
・イタリアの食事の習慣で日本と最も異なるのは自宅での食事に招くことが、あらゆる接待の中で
(高級レストランに招くよりも)最高の接待とされていること
→基本的に招かれると招き返すのが礼儀なので連鎖は長く続く
(友人が多い場合は夕食に誰かが来ている頻度が高い)
→当日の「今夜うちに食べにくる?」といった軽い感じの誘いも多く、その際はふだんの料理
→自宅での食事では隠し事はできないので信頼できる証にもなる
・なぜか食卓の人数がどんどん膨れ上がる
→人数が多ければチャンスは増えるが、招く側も盛り上がってどんどん声をかけるから
→有名レストランに4人で予約して12人になったのはミシュラン2つ星の立派なシェフだが、
出会ったシェフたちに次々と声をかけてしまったので、と助けを求めてきた
→人気の有名レストランに4人の予約で12人は無理なことぐらいわかりそうなものだが、
うれしくてついつい、というのは子どもと変わらない発想
→本当に困った人と思いながら憎めず、30年もイタリアと仕事をすることができている
・イタリア人は仕事と同じく料理でもひとつに集中するタイプ
→日常生活では地元料理しか食べない(マンマの料理が世界一)→保守的
→味覚のレンジが狭い人が多い(寿司ブームだが食べるネタは限られる)
→選んだ一皿に集中してシェアしない(日本のイタリアンはシェアに対応している)
→シェアしたい場合は半分食べて皿ごと交換するしかない
→基本は4皿構成だがどれも量が多いので最近は2~3皿で済ませる人も多い
→ただし同じ食卓では皿数を一致することが望ましい(美しい)ので面倒くさい
→なので組み合わせは違ってもいいので「今日は何皿にしますか」と誰かが尋ねる
→合えばいいが合わない場合は(美しくないので)店が頼みもしない小皿を出すこともある
→ヨーロッパのレストランは舞台なので食卓の見た目も大切、客もほかの客に見られている
役者でもある
5「独断と偏見で考えるイタリア」より一部のみ
・イタリアが統一されてから僅か154年(2015年当時)
→イタリア人が現れるのは4年に一度だけ→サッカーワールドカップの応援時のみ
→知人はパレルモ人→シチリア人→ヨーロッパ人→イタリア人の順と言ってた
(我々なら大阪人→関西人→日本人→アジア人の順ですよね・・・)
→各地方ごとに大きく習慣、嗜好、特徴が異なり見誤ると大きな失敗をする
→「おらが村が一番」意識が強いので他の地方の悪口を言うのは国民的娯楽のひとつ
・各州の悪口(特徴)は略
・国全体の特徴
→1980年頃まではまったく人気がなく「イタ飯」ブームは1980年代末
→1980年代半ばからフランス的合理主義よりイタリア的直観感覚主義が評価されるように
→不思議で理解に苦しむことが多いが退屈だけは絶対にない
→合理的だが退屈な人生より、訳がわからなくても驚きに満ちた刺激的な人生がいいならイタリア
・イタリアの「あるある行動」も略(目次参照)
「おわりに」より
・年に15回ぐらいイタリアに行くが日本に帰るたびに「いい国だなあ」と感動する
→空港は清潔で入国審査も荷物もスムーズ、電車も遅れない→イタリアはまったく逆
→それなのにイタリアのほうが楽しそうで時間と精神的余裕がありそうに思う
→効率的に動いている日本には、それを支える犠牲が必要で過酷な労働を課すシステム
・高レベルのサービスには過酷な労働が必要で、それを要求する限り働き方改革は難しい
→イタリア人は逆
→高レベルのサービスに苦労する気は毛頭ないし、それを受けられなくても文句は言わない
→あなたもわたしもつらい労働は嫌なのだから列車が汚くて遅れても、お互い我慢しましょう、
→上を目指して摩耗するより寛いでゆったり人生を過ごそうというスタンス
→なのでイタリアは何もうまくいっていないのに精神的余裕があって幸せそうなのだ
・完璧なサービスは、それで人が幸せになって初めて意味がある
→それが自己目的化してしまい、働く人にストレスを与え余裕がなくなれば意味がない
→日本人の完璧主義性向は素晴らしい誇りだが、もう少し手頃なレベルの幸せもいいかも
・両国を頻繁に往復してると、どちらがいいとか悪いとか、好きとか嫌いとかは、いかに
不毛の議論であるかがよくわかる
→それぞれの国が長い時間をかけて、それぞれのルールを築き上げた
→重要なことはそれをよく理解すること
→その上で好きになれないなら付き合わないのは人間関係と同じだが、やはり理解はしたい
→この本がイタリア理解の一助となれば、この上ない幸せ・・・
いかがでしょう?
もちろん本書にもあるとおり、イタリアとして統一されたのは僅か160年ほど前ですから、
同じイタリア人といっても地方によって大きく異なるのでしょうが、全体的にはなんとなく
ムラブリやプナンの人たちの生き方と似ていると思いませんでしたか?
どの人たちの生き方も今の日本人にはそれこそ前回記事にあった「すり鉢の外の世界」で、
今後の(特に若い人たちの)参考になるかと思いました
前回記事の本にムラブリやプナンの人たちが「分業しない」とか「今、ここ」だけとかあって、
それでふと思い出したのが・・・
Alla fine gli italiani ce la fanno.
最後はなぜかうまくいくイタリア人・・・とゆー本であります
表紙カバー裏にあった惹句
裏表紙カバー裏にあった著者紹介
著者はローマの新聞社勤務からワインガイドやレストランガイドの執筆スタッフを経て、
日本とイタリアでワインと食について執筆活動中、2014年にはイタリア文化への貢献で
大統領から勲章を授章されてるとゆー、まさにホンモノのイタリア通ですね
奥付
第1刷は2015年9月、わたくしには初めての渡欧で、我が家にホームステイしていた青年の
シチリアでの結婚式に参列して、トスカーナにある実家にホームステイさせてもらったのは
2017年の夏ですから、その2年前に刊行された本とゆーことになります
当時は本書の存在を知りませんでしたが、なぜシチリアとトスカーナに住む新郎と新婦の
家族や知人が、わたくしたち夫婦の世話を親身になってしてくれたのか、なぜ家族全員で、
あるいは親族や友人、仕事関係者らと一緒に食卓を囲んでいたのか、が理解できました
さらにシチリアでもトスカーナでも嫌な思い出がひとつもないのは「よそ者」ではなく
グループの一員として、家族や知人に限らずお店の人まで対応してくれてたからかも・・・
彼らと行動を共にしている際はもちろん、一人で近所をポタリングしてる際でも、お店に入り、
「獣医の○○さんちにホームステイしてます」と伝えると、急にカタコト同士での会話が弾み、
「○○さんは知らないなあ」の場合でも、まったくの「よそ者」ではなさそうとの判断で、
やはり親切に対応してくれてたのかもとも、本書を読んで思いました
ただ、まったくの「よそ者」としてのシーンでも、けっこう「世話焼き」な印象を受けたので、
このあたりは大阪人にそっくりとも、当時のわたくしは感じてましたが・・・
閑話休題
例によって目次のご紹介(これだけ眺めてても面白いです)
コラム「見習ってはいけないイタリア①~④」とかも、めっちゃ面白かったのですが、
とりあえず一部だけの読後メモ・・・
例によって読み違いとか読み飛ばしも多いので興味のある方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
「はじめに」より
・30年前のはじめての通訳アルバイト経験から
→予定どおり物事が運ぶと考えるのはイタリアでは大きな間違いだった
→不測の事態が起こるのが普通と考えている(不測が予測できるという矛盾した状態)
→それで怒ったり慌てたりするのは愚か、より良い解決策を見いだす方が大切という考え方
→彼らは決してあきらめず、最後にはなんとかする(子どもの頃から慣れている)
・とんでもない行動規範にみえるが裏には彼らなりのロジックがあり機能している
→気楽で怠け者と思われがちだがEUの経済大国であり、各分野で世界をリードしている
・現在は日本とイタリアで仕事をしているが仕事のやり方は空港で切り替えている
→どちらが正しいとかではなく、そのほうがうまくいくから
→国際化で身近になったという錯覚もあるが歴史も文化も全て異なる遠い国
→日本と似ているところも多いが異なる部分がたくさんある
→22歳までイタリアと縁のなかった日本人が身につけた、生きていくための知恵・・・
1「仕事」より
・時間へのルーズさは南へ行くほど大きくなる→特にローマから南は・・・
→ただしルーズさには暗黙のロジックがあり、それに従っている
(記者会見、ディナーパーティー、自宅への招待、大学の授業などの例)
→重要なのは時間の遅れは予測可能であり、しかもかなり正確なルールで遅れること
(開始時刻は準備の目標であり、所要時間を訊いても最短時間(クルマなら渋滞も赤信号もなく
最速で到着する時間)しか答えてくれないので訊いてもムダ)
・公私混同しないこと、けじめをつけることは・・・
→いいことだと思っていた、イタリアという国を知るまでは
→公私混同が激しいほど社会に活気が出て、皆が生き生きとしているように思える
→公共窓口やレストランの例
→おしゃべりで待たされる側は不利益のはずだが、けじめが存在しないので客も参加する
→逆にプライベートな時間への仕事の割り込みにも寛容
→同様にけじめが存在せず労働時間への権利意識も低いから(フランス取材との違い)
→時間にルーズで自分に都合のいいように考えるが他人もそうだと理解しているので寛容
・仕事が労働時間なのは商品として資本に売買される「疎外された労働」のみ
→銀行の窓口担当と駄菓子屋の店先に座るお婆ちゃんの違い
→お婆ちゃんは知り合いとおしゃべりし子どもと遊び説教して、ついでに駄菓子も売る
→お婆ちゃんには人生そのものであり生きがい、仕事の時間と私の時間が溶けあっている
→イタリアは皆が駄菓子屋のお婆ちゃんのように働いている国と考えればわかりやすい
→資本により売買されたはずの労働が(労働者の勝手な解釈で)好き勝手に使われている
→労働の疎外レベルが低い(労働レベルも低いけど)恵まれた労働者と考えれば腹も立たない
・高度成長期に会社で長時間労働していた日本のお父さんたち
→世界中からバッシングされたが公私の区別がなく会社はお婆ちゃんの駄菓子屋と同じだった
→会社だけで充実しておりオフに自分を取り戻す必要はなかった(なので退職後は廃人に)
・イタリア経済を支える中小企業は大きな家族のようなもので分業も明確ではなく公私混同
→マルクス理論では商品化による労働疎外が極端に進めば革命が起こるが、
→イタリアでは労働時間を勝手に解釈して自分に使っており社会全体がそれを許容している
→実際に業務をきちんと遂行しない労働者へのイタリア人の寛容さは破格
→なし崩し的に資本主義の先鋭化を止め、いまだにのんびり楽しげに働いている
・近代的労働は労働に見合う対価を受け取る契約で成り立っている
→対価に見合う労働以上にする必要はなく人間関係がなくても成立する
→イタリア人は自分のものとして感情移入できないと関心を持てず熱中できない
→公共サービス窓口が典型で時間外の第二の仕事では生き生きと熱心に働いている
・対する家族工房的労働は友人家族のように公私の区別が曖昧で労働時間も曖昧
→イタリアの経済基盤を支える中小企業は多くがこのカテゴリー(ワイナリーなど)
→社長は親父、会社は第二の我が家で、高度成長期の日本の家族経営企業と同じ雰囲気
(映画「紅の豚」に出てくるミラノのピッコロ社は、まさに家族経営そのものでしたね)
→無機質な労働は苦手だが目に見えることは懸命にやり、残業代を言う人はまずいない
・危機的状況が常態化しているので、ひるまないしぶとさがイタリア最大の武器
・京都の「ぶぶ漬けでもどうどす」と同じで土地のルールを理解しておく必要がある
・フォルクスワーゲンとフェラーリの違い
→効率は悪いが全体が見える何でも屋さん→大きなバルの従業員でも分業しない
・先の段取りは苦手、今やるべきことに集中する→バック駐車しないとか
・何でもダメもとでトライするが親切に対応してくれることも多い(断られてもひるまない)
・「お客様は神様」と「店員は友達」の違い
→自分も友達といるときのようにおしゃべりしてるので客にも友達のように親身になる
コラム見習ってはいけないイタリア①より
・公共心がない
→仲間と見なせば必死で守るが国家など大きな組織は仲間と見なしていないから
・泥棒が多い、偽物が多い、脱税が多い
→「破格のお値打ち品」に弱いから
→脱税や盗品や偽物の取り締まりには賛成だが自分が得する場合は誘惑に負けてしまう
→公共心という絶対的価値判断基準がないので総論は賛成、各論は個人判断となる
・イタリア統一と近代国家の誕生は人民革命ではなかった
→統一はサルデーニャによる吸収合併で、国家はよそから来たサヴォイア家が押しつけたもの、
という意識が強い(特に中南部イタリアに多い)
→なので納税義務と国民の権利という民主主義の市民文化を確立できなかった
→この歴史的経緯は日本に似ているが結果の行動パターンがあまりにも異なるのが興味深い
・・・と、ここまでで全体の1/3ほど・・・
最後まで興味深く読みましたが、暑気払い飲酒が続き、全てはメモできませんでしたので、
以下は思い切って2「人生」のメモを省略、3「家族と恋愛」の一部と、(わたくしの愛する)
4「食事」、5「独断と偏見で考えるイタリア」の一部、「あとがき」からの一部メモ・・・
ちなみに目次の最後にある「不思議の国イタリアの"あるある"行動」もめっちゃ面白かったです
3「家族と恋愛」より一部
・ローマ・カトリックの影響
→清く正しい生き方を説く
→できるわけがないので破った側も教会側も体裁だけ繕うことを選んできた
→なので体裁さえ繕えば何をしてもいいという偽善モラルが根付いたという説
→ダブルスタンダードの快感(映画山猫、トスカーナワインの規則、スピード違反など)
・家族一族の団結→同族企業が多い
→異国に支配され続けてきた歴史から、頼れるのは家族一族だけという考え方に
→シチリア・マフィアも支配民族に対する抵抗から生まれた構成員の多い大家族
→同じグループに所属するメンバーを優遇する→コネを使いまくる
→有力なコネだけでなく友人の友人でも便宜を図る→いつかそのコネを使えるから
→裏口を多く持つ人が尊敬され真面目に正門で待つ人はマヌケという矛盾した文化に
→なのでまったくの赤の他人は「よそ者」として不信感を持たれる
→曖昧で緩やかな関係が、じつは正確に等価交換され機能している国がイタリア
・個人的な問題を公にして解決しようとする
→グループ内のカップルは複数で行動し相手方がグループ内で変わることも多い
→グループ全員が(元カレや元カノを含め)葛藤を共有し温かく見守るシュールな状況
4「食事」より
(イタリアの食についてはこちらの本も分かりやすかったです)
・イタリアは「食事の時間」が長いのではなく「食卓にいる時間」が長いだけ
→食卓に多義的な意味があるから(なのでスパゲッティを食べるスピードは早い)
→昼食と夕食で1日の活動時間の大半を食卓で過ごすこともある
・食卓とは人生のほとんどすべての問題を解決する場であり、人との出会いの場であり、
別れの場であり、相手を見定める場であり、就職活動の場であり、プロジェクトをスタート
させる場であり、打ち合わせの場でもある
→社会の重要な活動の多くが食卓で行われる→イタリアで食事をすることは重要な儀式
・イタリアのフォーマルなパーティーはヴィッラ(貴族の屋敷)やワイナリーを借りて行われる
①広い庭でのアペリティフから→だらだらとはじまる
(コネを作る場であり自由席の場合は同席する仲間を選ぶ場にもなる)
②8~10人テーブルの全員が揃ってはじめて着席し全員と握手して挨拶する(イタリアのみ)
③はじめての相手とも話題を探して延々と話し続ける
④伝統的にはアンティパスト→パスタ→メインディッシュ→ドルチェの構成(時間をかける)
⑤全員の同意を得てから一斉に席を立ち、また全員と握手してから別れる
⑥お開きになっても話が弾めばグラッパでも飲みながら話し続けて、だらだらと終わる
→フェードイン・フェードアウトが理想で、いただきます・ごちそうさま・締めの挨拶はない
・食事の誘いを断ったり食卓を囲むのが嫌いな人は信頼されない変な国
→食事に誘われるということは仲間として認められつつあるということ
→書類審査・筆記試験から面接に移る感じ(もちろんビジネスでは儀礼上の誘いもある)
→日本でいえば一緒に温泉に入る「裸の付き合い」のような、お互いをさらけ出す場
→ラテン語にIn vino veritas(ワインに真実がある)という諺があるが「食卓に真実がある」
・レストランでも自宅でも友達同士でも家族でも、食べる喜びは増えるが精神は同じ
→自宅で家族の場合
①それまで作業などに使っていた食卓を片付けてテーブルクロスを敷く
②人数分のフォーク・ナイフ・ナプキン・グラスをセットする
③パンを切って食卓の真ん中に置く
④皿を2枚ほど重ねてセットする
(1枚目が前菜やパスタ用で片付けた後に2枚目でメインを食べる)
⑤ようやく家族を呼び、全員が揃ったところでワインの栓を抜く
⑥全員がその日あったことや考えたことを家族と話し合う(話すことで頭の中が整理される)
(公式な食卓へのトレーニングでもあり、食卓が社会的パフォーマンスの場であることを学ぶ)
⑦前菜とパスタまでは調理に忙しいマンマもメインを出せばどっしり腰をおろして会話に加わる
⑧以後の議長役は当然マンマとなり、他のメンバー全員が従うのがイタリアらしい
・イタリアの食事の習慣で日本と最も異なるのは自宅での食事に招くことが、あらゆる接待の中で
(高級レストランに招くよりも)最高の接待とされていること
→基本的に招かれると招き返すのが礼儀なので連鎖は長く続く
(友人が多い場合は夕食に誰かが来ている頻度が高い)
→当日の「今夜うちに食べにくる?」といった軽い感じの誘いも多く、その際はふだんの料理
→自宅での食事では隠し事はできないので信頼できる証にもなる
・なぜか食卓の人数がどんどん膨れ上がる
→人数が多ければチャンスは増えるが、招く側も盛り上がってどんどん声をかけるから
→有名レストランに4人で予約して12人になったのはミシュラン2つ星の立派なシェフだが、
出会ったシェフたちに次々と声をかけてしまったので、と助けを求めてきた
→人気の有名レストランに4人の予約で12人は無理なことぐらいわかりそうなものだが、
うれしくてついつい、というのは子どもと変わらない発想
→本当に困った人と思いながら憎めず、30年もイタリアと仕事をすることができている
・イタリア人は仕事と同じく料理でもひとつに集中するタイプ
→日常生活では地元料理しか食べない(マンマの料理が世界一)→保守的
→味覚のレンジが狭い人が多い(寿司ブームだが食べるネタは限られる)
→選んだ一皿に集中してシェアしない(日本のイタリアンはシェアに対応している)
→シェアしたい場合は半分食べて皿ごと交換するしかない
→基本は4皿構成だがどれも量が多いので最近は2~3皿で済ませる人も多い
→ただし同じ食卓では皿数を一致することが望ましい(美しい)ので面倒くさい
→なので組み合わせは違ってもいいので「今日は何皿にしますか」と誰かが尋ねる
→合えばいいが合わない場合は(美しくないので)店が頼みもしない小皿を出すこともある
→ヨーロッパのレストランは舞台なので食卓の見た目も大切、客もほかの客に見られている
役者でもある
5「独断と偏見で考えるイタリア」より一部のみ
・イタリアが統一されてから僅か154年(2015年当時)
→イタリア人が現れるのは4年に一度だけ→サッカーワールドカップの応援時のみ
→知人はパレルモ人→シチリア人→ヨーロッパ人→イタリア人の順と言ってた
(我々なら大阪人→関西人→日本人→アジア人の順ですよね・・・)
→各地方ごとに大きく習慣、嗜好、特徴が異なり見誤ると大きな失敗をする
→「おらが村が一番」意識が強いので他の地方の悪口を言うのは国民的娯楽のひとつ
・各州の悪口(特徴)は略
・国全体の特徴
→1980年頃まではまったく人気がなく「イタ飯」ブームは1980年代末
→1980年代半ばからフランス的合理主義よりイタリア的直観感覚主義が評価されるように
→不思議で理解に苦しむことが多いが退屈だけは絶対にない
→合理的だが退屈な人生より、訳がわからなくても驚きに満ちた刺激的な人生がいいならイタリア
・イタリアの「あるある行動」も略(目次参照)
「おわりに」より
・年に15回ぐらいイタリアに行くが日本に帰るたびに「いい国だなあ」と感動する
→空港は清潔で入国審査も荷物もスムーズ、電車も遅れない→イタリアはまったく逆
→それなのにイタリアのほうが楽しそうで時間と精神的余裕がありそうに思う
→効率的に動いている日本には、それを支える犠牲が必要で過酷な労働を課すシステム
・高レベルのサービスには過酷な労働が必要で、それを要求する限り働き方改革は難しい
→イタリア人は逆
→高レベルのサービスに苦労する気は毛頭ないし、それを受けられなくても文句は言わない
→あなたもわたしもつらい労働は嫌なのだから列車が汚くて遅れても、お互い我慢しましょう、
→上を目指して摩耗するより寛いでゆったり人生を過ごそうというスタンス
→なのでイタリアは何もうまくいっていないのに精神的余裕があって幸せそうなのだ
・完璧なサービスは、それで人が幸せになって初めて意味がある
→それが自己目的化してしまい、働く人にストレスを与え余裕がなくなれば意味がない
→日本人の完璧主義性向は素晴らしい誇りだが、もう少し手頃なレベルの幸せもいいかも
・両国を頻繁に往復してると、どちらがいいとか悪いとか、好きとか嫌いとかは、いかに
不毛の議論であるかがよくわかる
→それぞれの国が長い時間をかけて、それぞれのルールを築き上げた
→重要なことはそれをよく理解すること
→その上で好きになれないなら付き合わないのは人間関係と同じだが、やはり理解はしたい
→この本がイタリア理解の一助となれば、この上ない幸せ・・・
いかがでしょう?
もちろん本書にもあるとおり、イタリアとして統一されたのは僅か160年ほど前ですから、
同じイタリア人といっても地方によって大きく異なるのでしょうが、全体的にはなんとなく
ムラブリやプナンの人たちの生き方と似ていると思いませんでしたか?
どの人たちの生き方も今の日本人にはそれこそ前回記事にあった「すり鉢の外の世界」で、
今後の(特に若い人たちの)参考になるかと思いました
2024年08月02日
海遊館とかレゴランドとか・・・
(期間限定のお知らせ)
2024.8/6(火)~18(日) 京都市京セラ美術館で開催される有道佐一回顧展の案内記事はこちらです
で、とーとつですが・・・
先週の土日で海遊館とレゴランドとクラルテのアトリエに行ってました!!!
夏休み中しかも土日の人気施設なんて本来なら避けるべきなんですが、長男家族が名古屋から
帰阪できる日程が限られてたもので・・・
そう、この時期は大阪も暑さが半端ではなく、さすがに大好きなアウトドア遊びは無理なので、
幼児も楽しめそうなインドア施設を事前予約していた次第
(せめて記事カテゴリは「その他アウトドア」にしてましゅが)
以下(わたくしの脳の外部記憶としても)さくさくっとご紹介
金曜の昼過ぎ、長男を大阪での仕事に送り届けた3人が我が家に到着・・・
まずは我々夫婦と長男ヨメの大人3人で乾杯であります
長男ヨメも飲むのは嬉しい限りで彼女は日本酒が好みですが、とりあえずはビールを、
次男の友人からもらった琵琶湖のえび煎餅なんぞで・・・
いっぽう孫娘の2人は・・・
アフリカの楽器や指人形などで遊んでたのですが・・・
なんと、まだ2歳の妹が母親のスマホを借りて一人で・・・
カメラアプリを起動し構図を変えて撮影、画像をスワイプして見せてくれました
そーいや姉のほうも1歳になった頃にカメラの液晶画面を見せると、それをスワイプしようと
指を動かしてました・・・まさに生まれたときからのデジタル世代なんですね
で、夕方には仕事を早めに切り上げた家内の妹も来てくれて・・・
全員で乾杯!!! って、男性はわたくしのみ・・・
大人たちは家内の妹オススメのスパークリングワインで、
子どもたちは赤ワインもといグレープジュースで乾杯
で、ビールに戻り頂き物「城陽」純米大吟醸を味見してからチューハイロング缶に移行、
まあ、皆さんよく飲まれること・・・って、わたくしもついでにかぱかぱと・・・
ちなみにこの夜のメインは山盛りの手作りハンバーグでしたが、最後のシメは・・・
冷たい茶粥を、やはり次男の友人からもらった「日野菜の漬物」なんぞで・・・
茶粥では奈良が有名ですが和歌山でも大阪の泉州でもソウルフードで、岐阜出身のヨメには
はじめての経験だったようで、夏の冷たい茶粥は京都出身の妹にも好評でした
と、この夜は妹は遅い電車で京都に帰宅、子どもたちを寝かしつけて早めに就寝しましたが、
わたくしは例によって夜中に目が覚め、結局は明け方までぐだぐだしてました
(ちなみに長男は仕事後に飲み会があり翌日も朝から仕事で二日間はホテル泊まり)
で、土曜の朝は簡単に総菜パン(子どもたちはシリアル)なんぞで朝食を済ませてから、
一般道でも自宅から20分ぐらいの海遊館へ・・・
そう、この木津川に架かる千本松大橋(眼鏡橋)と、尻無川に架かるなみはや大橋を渡れば
天保山・海遊館への近道なんですが、眼鏡橋はクルマでも自転車でも目が廻ります
で、チャイルドシート2席を装着しても大人3人で余裕のワーゲンゴルフ・トゥーランは、
長男ヨメの手慣れた運転で、あっとゆーまに天保山の巨大駐車場へ・・・
「これだけ大きな駐車場だと、停めた場所をしっかり覚えておかないと・・・」
「そうなんです、自分もよく忘れるけど、なぜか姉のほうが覚えてたりするんですよ」
「そーいや関西空港の立体駐車場で何階に停めたか忘れて苦労したなあ、あははは」
とか会話に集中しつつ、てきとーに海遊館らしき方面に向かい・・・
(で、この結果が帰る際には現実となるのですが・・・)
海遊館であります
わたくしは16年ぶりでしたが、それまでにも何回か来てるので以下さくさくっと・・・
水槽トンネルを潜って・・・
長大なエスカレーターで一気に最上階まで上がれば・・・
日本の森から・・・
海へ・・・
比較的空いている朝一番の予約でしたが、夏休み中の休日だしインバウンド客も多く、
途中から混み合ってきましたので、特に琴線に触れたごく一部のみご紹介
やはり気軽に魚さんや動物さんに出会えるのが水族館や動物園の魅力ですね
ちょうどイルカさんたちの食事タイムでした
アクリルガラスが超分厚いので水上と水中では屈折率と倍率が・・・
海遊館メインキャラクターのジンベイザメくん
上を泳ぐエイさんでも2mはありますから、やはり大迫力でした
なぜか孫姉がよく知ってて大好きなチンアナゴ
確かにカワイイちゃカワイイです
熱帯系はさすがに鮮やか・・・
いつかは伊豆半島の戸田で腹いっぱい食べたいタカアシガニさん
クラゲさんはずっと眺めてても飽きません
せっかくなので海氷の下で・・・
自画像をば・・・
と、9時から11時過ぎまで海遊館を巡って、隣にある天保山マーケットプレイスへ
早めの昼食は手早くファミレスCOCO'Sに入りましたが夏休みの土曜日で30分待ちでした
わたくしはシンプルにカットステーキ倍盛り260gにしましたが、孫娘たちは大好きな
うどんとスープパスタを注文、やはり麺類好きは遺伝するのかっ???
確かに幼児連れだとファミレスが一番気軽だし、好みの料理が選べるので最適ですね
マーケットプレイスではこんなイベントもやってて・・・
パーカッション好きの家内はじめ一同で演奏を楽しんでると・・・
ちょうど予約時刻の1時になったのでレゴランド(のディスカバリーセンター大阪)へ
中には様々な屋内施設がありましたが名古屋のレゴランドは屋外型だったそうで、
孫娘たちもはじめての屋内型で大好評でした ともかく空調が効いてて涼しいし・・・
わたくしもはじめてだったのでけっこう楽しめました
ただまあアトラクションは大部分が撮影禁止でしたし、展示も全ては紹介できないので、
詳しくはこちらをご覧くださいね
ええ、わたくし11種類のアトラクションは、ほぼすべてを体験できました
で、ジオラマ好き向けにミニランドの一部のみご紹介・・・
海遊館とか・・・
通天閣とか銀橋とか・・・
住吉大社と太鼓橋とか・・・
新しい大阪駅とか四天王寺とか大阪城天守閣とか・・・
道頓堀とか・・・
舞洲のごみ焼却工場とか・・・
つい最近、周辺を彷徨ってた中之島の中央公会堂とか・・・
数々の大阪名所がレゴで作られてて、昼→夕景→夜モードと数分おきに替わってました
で、ここでも2時間以上を過ごし、最後に孫娘2人がショップで選んだお土産は、
レゴのフラッシュライト、レゴライトでした
って、麺類好きと同じく、こちらも遺伝するのかっ???
で、帰り際には前述のとおり巨大駐車場の停めたエリアどころか階数も全員が覚えておらず、
孫姉の頼れる記憶と大人3人の頼りない記憶を総合して徘徊し、ようやくトゥーランを発見、
なんとか無事に帰宅することができました
で、この夜は翌朝に大阪の友人と会う予定の家内の妹も愛犬を連れて、愛車のミニクーパー
(二代目に買い替えたばかり!!!)で泊りに来てくれ、前夜にも勝る大宴会となりました
夕食のメインは家内の妹が買ってきてくれた絶品のローストビーフ!!!
このボリュームで一人前、大阪狭山にある老舗の名物だそうです・・・
人数分を買ってくれてましたが、たっぷりの肉と野菜に別々の自家製ソースが付いてて、
一緒に食べるとまさに絶妙、ご飯にのせるとそりゃもう何杯でも・・・
昔から変わらない味と値段だそうで、80歳を過ぎた御夫婦がやっておられるとか
常連の妹にプレゼントしてくれたとゆー手作りピザも絶品でした
城陽の純米大吟醸にもビールにもチューハイにも合ってお酒がすすみ・・・
食後のデザートは、やはり店主手作りのチーズケーキ
って、取り分ける前に撮ればよいものを・・・ちなみにこちらも絶品でした
子どもたち(と家内!!!)を寝かしつけてから、さらに3人でかぱかぱ、この夜は日付が変わってから
ようやく就寝しました
最終日の日曜の朝はわたくし手作りのサンドイッチなんぞでまったりしてると10時前には
前日の仕事を終えた長男も合流、10時半には妹と分かれて手作りミート・パスタで昼食を済ませ・・・
1時半からの人形劇を楽しむため、6人で近くにある人形劇団クラルテのアトリエへ
この日の公演は人形劇団ココンによる「はらぺこブー」と「カボとピノ」でした
公演中は撮影禁止でしたが、子どもたちとの掛け合いや絶妙な演出でまったく退屈させず、
大人でも充分に楽しめる内容でした
リンク先のとおり第1回「やなせたかし文化賞」を受賞されてるんですね
まあ、連日の疲れからか孫妹のほうはクルマの中から公演の前半まで爆睡でしたが
と、3時半には長男家族も名古屋の自宅に向け出発、充実した三日間が終了しましたが、
後に残ったのは空き缶と空き瓶の山、ま、これはいつものキャンプ宴会と同じ光景
みんな忙しい中、いろんなお土産まで持って来てくれてありがとね!!!
また会って遊んで飲んで話せるのを楽しみにしています
次は季節のいい頃にキャンプ宴会しようね・・・
2024.8/6(火)~18(日) 京都市京セラ美術館で開催される有道佐一回顧展の案内記事はこちらです
で、とーとつですが・・・
先週の土日で海遊館とレゴランドとクラルテのアトリエに行ってました!!!
夏休み中しかも土日の人気施設なんて本来なら避けるべきなんですが、長男家族が名古屋から
帰阪できる日程が限られてたもので・・・
そう、この時期は大阪も暑さが半端ではなく、さすがに大好きなアウトドア遊びは無理なので、
幼児も楽しめそうなインドア施設を事前予約していた次第
(せめて記事カテゴリは「その他アウトドア」にしてましゅが)
以下(わたくしの脳の外部記憶としても)さくさくっとご紹介
金曜の昼過ぎ、長男を大阪での仕事に送り届けた3人が我が家に到着・・・
まずは我々夫婦と長男ヨメの大人3人で乾杯であります
長男ヨメも飲むのは嬉しい限りで彼女は日本酒が好みですが、とりあえずはビールを、
次男の友人からもらった琵琶湖のえび煎餅なんぞで・・・
いっぽう孫娘の2人は・・・
アフリカの楽器や指人形などで遊んでたのですが・・・
なんと、まだ2歳の妹が母親のスマホを借りて一人で・・・
カメラアプリを起動し構図を変えて撮影、画像をスワイプして見せてくれました
そーいや姉のほうも1歳になった頃にカメラの液晶画面を見せると、それをスワイプしようと
指を動かしてました・・・まさに生まれたときからのデジタル世代なんですね
で、夕方には仕事を早めに切り上げた家内の妹も来てくれて・・・
全員で乾杯!!! って、男性はわたくしのみ・・・
大人たちは家内の妹オススメのスパークリングワインで、
子どもたちは赤ワインもといグレープジュースで乾杯
で、ビールに戻り頂き物「城陽」純米大吟醸を味見してからチューハイロング缶に移行、
まあ、皆さんよく飲まれること・・・って、わたくしもついでにかぱかぱと・・・
ちなみにこの夜のメインは山盛りの手作りハンバーグでしたが、最後のシメは・・・
冷たい茶粥を、やはり次男の友人からもらった「日野菜の漬物」なんぞで・・・
茶粥では奈良が有名ですが和歌山でも大阪の泉州でもソウルフードで、岐阜出身のヨメには
はじめての経験だったようで、夏の冷たい茶粥は京都出身の妹にも好評でした
と、この夜は妹は遅い電車で京都に帰宅、子どもたちを寝かしつけて早めに就寝しましたが、
わたくしは例によって夜中に目が覚め、結局は明け方までぐだぐだしてました
(ちなみに長男は仕事後に飲み会があり翌日も朝から仕事で二日間はホテル泊まり)
で、土曜の朝は簡単に総菜パン(子どもたちはシリアル)なんぞで朝食を済ませてから、
一般道でも自宅から20分ぐらいの海遊館へ・・・
そう、この木津川に架かる千本松大橋(眼鏡橋)と、尻無川に架かるなみはや大橋を渡れば
天保山・海遊館への近道なんですが、眼鏡橋はクルマでも自転車でも目が廻ります
で、チャイルドシート2席を装着しても大人3人で余裕のワーゲンゴルフ・トゥーランは、
長男ヨメの手慣れた運転で、あっとゆーまに天保山の巨大駐車場へ・・・
「これだけ大きな駐車場だと、停めた場所をしっかり覚えておかないと・・・」
「そうなんです、自分もよく忘れるけど、なぜか姉のほうが覚えてたりするんですよ」
「そーいや関西空港の立体駐車場で何階に停めたか忘れて苦労したなあ、あははは」
とか会話に集中しつつ、てきとーに海遊館らしき方面に向かい・・・
(で、この結果が帰る際には現実となるのですが・・・)
海遊館であります
わたくしは16年ぶりでしたが、それまでにも何回か来てるので以下さくさくっと・・・
水槽トンネルを潜って・・・
長大なエスカレーターで一気に最上階まで上がれば・・・
日本の森から・・・
海へ・・・
比較的空いている朝一番の予約でしたが、夏休み中の休日だしインバウンド客も多く、
途中から混み合ってきましたので、特に琴線に触れたごく一部のみご紹介
やはり気軽に魚さんや動物さんに出会えるのが水族館や動物園の魅力ですね
ちょうどイルカさんたちの食事タイムでした
アクリルガラスが超分厚いので水上と水中では屈折率と倍率が・・・
海遊館メインキャラクターのジンベイザメくん
上を泳ぐエイさんでも2mはありますから、やはり大迫力でした
なぜか孫姉がよく知ってて大好きなチンアナゴ
確かにカワイイちゃカワイイです
熱帯系はさすがに鮮やか・・・
いつかは伊豆半島の戸田で腹いっぱい食べたいタカアシガニさん
クラゲさんはずっと眺めてても飽きません
せっかくなので海氷の下で・・・
自画像をば・・・
と、9時から11時過ぎまで海遊館を巡って、隣にある天保山マーケットプレイスへ
早めの昼食は手早くファミレスCOCO'Sに入りましたが夏休みの土曜日で30分待ちでした
わたくしはシンプルにカットステーキ倍盛り260gにしましたが、孫娘たちは大好きな
うどんとスープパスタを注文、やはり麺類好きは遺伝するのかっ???
確かに幼児連れだとファミレスが一番気軽だし、好みの料理が選べるので最適ですね
マーケットプレイスではこんなイベントもやってて・・・
パーカッション好きの家内はじめ一同で演奏を楽しんでると・・・
ちょうど予約時刻の1時になったのでレゴランド(のディスカバリーセンター大阪)へ
中には様々な屋内施設がありましたが名古屋のレゴランドは屋外型だったそうで、
孫娘たちもはじめての屋内型で大好評でした ともかく空調が効いてて涼しいし・・・
わたくしもはじめてだったのでけっこう楽しめました
ただまあアトラクションは大部分が撮影禁止でしたし、展示も全ては紹介できないので、
詳しくはこちらをご覧くださいね
ええ、わたくし11種類のアトラクションは、ほぼすべてを体験できました
で、ジオラマ好き向けにミニランドの一部のみご紹介・・・
海遊館とか・・・
通天閣とか銀橋とか・・・
住吉大社と太鼓橋とか・・・
新しい大阪駅とか四天王寺とか大阪城天守閣とか・・・
道頓堀とか・・・
舞洲のごみ焼却工場とか・・・
つい最近、周辺を彷徨ってた中之島の中央公会堂とか・・・
数々の大阪名所がレゴで作られてて、昼→夕景→夜モードと数分おきに替わってました
で、ここでも2時間以上を過ごし、最後に孫娘2人がショップで選んだお土産は、
レゴのフラッシュライト、レゴライトでした
って、麺類好きと同じく、こちらも遺伝するのかっ???
で、帰り際には前述のとおり巨大駐車場の停めたエリアどころか階数も全員が覚えておらず、
孫姉の頼れる記憶と大人3人の頼りない記憶を総合して徘徊し、ようやくトゥーランを発見、
なんとか無事に帰宅することができました
で、この夜は翌朝に大阪の友人と会う予定の家内の妹も愛犬を連れて、愛車のミニクーパー
(二代目に買い替えたばかり!!!)で泊りに来てくれ、前夜にも勝る大宴会となりました
夕食のメインは家内の妹が買ってきてくれた絶品のローストビーフ!!!
このボリュームで一人前、大阪狭山にある老舗の名物だそうです・・・
人数分を買ってくれてましたが、たっぷりの肉と野菜に別々の自家製ソースが付いてて、
一緒に食べるとまさに絶妙、ご飯にのせるとそりゃもう何杯でも・・・
昔から変わらない味と値段だそうで、80歳を過ぎた御夫婦がやっておられるとか
常連の妹にプレゼントしてくれたとゆー手作りピザも絶品でした
城陽の純米大吟醸にもビールにもチューハイにも合ってお酒がすすみ・・・
食後のデザートは、やはり店主手作りのチーズケーキ
って、取り分ける前に撮ればよいものを・・・ちなみにこちらも絶品でした
子どもたち(と家内!!!)を寝かしつけてから、さらに3人でかぱかぱ、この夜は日付が変わってから
ようやく就寝しました
最終日の日曜の朝はわたくし手作りのサンドイッチなんぞでまったりしてると10時前には
前日の仕事を終えた長男も合流、10時半には妹と分かれて手作りミート・パスタで昼食を済ませ・・・
1時半からの人形劇を楽しむため、6人で近くにある人形劇団クラルテのアトリエへ
この日の公演は人形劇団ココンによる「はらぺこブー」と「カボとピノ」でした
公演中は撮影禁止でしたが、子どもたちとの掛け合いや絶妙な演出でまったく退屈させず、
大人でも充分に楽しめる内容でした
リンク先のとおり第1回「やなせたかし文化賞」を受賞されてるんですね
まあ、連日の疲れからか孫妹のほうはクルマの中から公演の前半まで爆睡でしたが
と、3時半には長男家族も名古屋の自宅に向け出発、充実した三日間が終了しましたが、
後に残ったのは空き缶と空き瓶の山、ま、これはいつものキャンプ宴会と同じ光景
みんな忙しい中、いろんなお土産まで持って来てくれてありがとね!!!
また会って遊んで飲んで話せるのを楽しみにしています
次は季節のいい頃にキャンプ宴会しようね・・・