ボランティア
2024年10月08日
皇紀3千年「実論夢想」
とーとつですが本日・・・
わたくしも手伝っていた海外植林ボランティア団体N.GKS(もと緑の協力隊・関西澤井隊)の
澤井代表に関する2冊目の本が、3年前の「アッと驚く! 90歳」に続いて出版されました
(N.GKS関係者には、いずれ郵送などで届くはずです)
皇紀3千年(西暦2340年)「実論夢想」
表紙カバーは1993年シリア・パルミナ遺跡にて
裏表紙カバーは冬の大三角形とオリオン座・・・眼下蒼天
奥付
産経新聞生活情報センター 2024年10月8日 第1刷発行
著者紹介
共著になってますが「アッと驚く! 90歳」の著者である藤本氏が、前後足掛け5年間にわたり、
ほぼ月2回のペースで行った澤井代表へのインタビューと、澤井代表が保管している膨大な
過去資料から、歴史事実や澤井代表の生き方や考え方を引用しつつ、日本や世界の現状分析と
今後300年にわたる将来展望について、分かりやすくまとめられた本であります
1931年生まれの澤井代表にとって、紀元といえばキリスト紀元ではなく神武紀元(皇紀)であり、
子どもの頃に迎えた紀元2600年(1940年)の300年前の日本は江戸時代前期、その頃の人たちの
何人が300年後の日本を想像できたであろうか、今の政治家はじめ何人が300年後へのビジョンを
持っているのか、自分は300年後の皇紀3000年に向けて実論による夢想を藤本氏に語ったと・・・
膨大な資料をアナログ整理して保存、それらに関する記憶が90歳を超えても正確に残っていて、
それを最新の日本や世界の情勢と結びつけて主張する澤井代表も凄いですが、5年間にわたる
インタビューの膨大なメモを整理して資料と照合のうえ、それらを引用して最終的に自分の
文章としてまとめ上げた藤本氏の聞き手としての能力も筆力も凄いと感心しました
例によって目次の紹介
特に地熱発電についての現状、商業ベースに乗る熱源の資源量(2300万kw)は世界3位なのに
発電設備が世界10位(49万kw)まで落ちたのは、目先の利益追求という浅はかな企業論理とか、
政府支援の打ち切り(1990年代)とか、温泉街の反対とか国立公園内は許可されないからとか、
業務スーパー創業者の熱意などについても知らないことも多く目からウロコでした
(ちなみに日本の電力消費は1億~1億4000万kw/h程度なので、商業ベースだけで考えても
1/4から1/6程度は地熱発電で賄えることになりますね)
確かに地熱発電なら、火山国では資源は無尽蔵タダでCO2も核廃棄物も出さず、大規模な
太陽光や風力、水力、大規模バイオマスのような環境破壊もなく天候にも左右されず24時間
365日稼働可能な純国産エネルギーですね
どの項目にも出版直前までの最新情報による、現在の最先端技術や混迷する世界の現状が
紹介されており、それを澤井代表が半世紀以上も前から予測し警告していたという事実を、
当時の澤井代表が書いた文章などから発見し、そのことに何度も驚嘆したと、藤本氏が書いて
おられましたが、あちこちにハナシが跳ぶインタビューから、それらを見つけ出す藤本氏の
聞き手としての能力に、むしろわたくしは驚嘆しました
当ブログサイト書斎カテゴリで紹介しているような歴史や環境や最新科学に関する書籍も、
多くを精読されておられるようで、それぞれの著者とは、おそらく意見は異なるのでしょうが、
まさに幅広い最新知識があってこその労作ですね
さすがはベテラン手練れのもと新聞記者であります
とても内容すべては紹介できませんし澤井代表や藤本氏の主張についても、見方によっては
異論もあるでしょうが、特に林業・林政や教育・環境については100年先200年先を見越した
ビジョンが必要なことは間違いありません
ここでは末尾にあった写真資料のうち海外植林ボランティアに関する部分のみ新聞記事を
中心に、ランダムに一部を紹介させていただきます
(出版物の添付資料なので公開に問題があるようなら非公開設定にします)
2012年、N.GKS第16次隊(ボルネオ)に関する毎日新聞の記事
2018年、N.GKS最後となった第23次隊(内モンゴル)に関する読売新聞の記事
2011年、東日本大震災支援へのお礼も込めた第15次隊(モンゴル)に関して、
モンゴル特命全権大使からの感謝状授与を伝える京都新聞の記事
2013年、第18次隊(ボルネオ)に関する産経新聞の記事
故・遠山正瑛翁とのツーショット(内モンゴル・クブチ沙漠・恩格貝にて)
2010年、第14次隊(内モンゴル)に関する京都新聞の記事
2009年、第12次隊(ブラジル・アマゾン)に関する現地サンパウロ新聞の記事
2015年、澤井代表自分史の自費出版を伝える京都新聞の記事
上から順に、
1990年、中国・内モンゴル自治区・クブチ沙漠・恩格貝の様子、
1999年、N.GKS第1次隊によるクブチ沙漠での最初の植林作業の様子、
2018年、最後となった第23次隊でのクブチ沙漠・恩格貝の様子
まあ、「最後となった」とは書いたものの・・・
当時、城南新報で紹介されてた帰国報告ではラスト宣言を撤回して、
「3~5年後には植えた1000本のナツメが実るので車椅子に乗ってでも食べに行きたい」
と答えておられますが・・・
ともかく93歳になった現在も(足腰が弱り介護施設のお世話になっているものの)頭はますます
冴えわたっているとのことでした
98歳まで日本と中国を月に何度も往復されてて大往生された故・遠山正瑛翁に負けないよう、
今後もできる範囲で大いに活躍してほしいものです
わたくしも手伝っていた海外植林ボランティア団体N.GKS(もと緑の協力隊・関西澤井隊)の
澤井代表に関する2冊目の本が、3年前の「アッと驚く! 90歳」に続いて出版されました
(N.GKS関係者には、いずれ郵送などで届くはずです)
皇紀3千年(西暦2340年)「実論夢想」
表紙カバーは1993年シリア・パルミナ遺跡にて
裏表紙カバーは冬の大三角形とオリオン座・・・眼下蒼天
奥付
産経新聞生活情報センター 2024年10月8日 第1刷発行
著者紹介
共著になってますが「アッと驚く! 90歳」の著者である藤本氏が、前後足掛け5年間にわたり、
ほぼ月2回のペースで行った澤井代表へのインタビューと、澤井代表が保管している膨大な
過去資料から、歴史事実や澤井代表の生き方や考え方を引用しつつ、日本や世界の現状分析と
今後300年にわたる将来展望について、分かりやすくまとめられた本であります
1931年生まれの澤井代表にとって、紀元といえばキリスト紀元ではなく神武紀元(皇紀)であり、
子どもの頃に迎えた紀元2600年(1940年)の300年前の日本は江戸時代前期、その頃の人たちの
何人が300年後の日本を想像できたであろうか、今の政治家はじめ何人が300年後へのビジョンを
持っているのか、自分は300年後の皇紀3000年に向けて実論による夢想を藤本氏に語ったと・・・
膨大な資料をアナログ整理して保存、それらに関する記憶が90歳を超えても正確に残っていて、
それを最新の日本や世界の情勢と結びつけて主張する澤井代表も凄いですが、5年間にわたる
インタビューの膨大なメモを整理して資料と照合のうえ、それらを引用して最終的に自分の
文章としてまとめ上げた藤本氏の聞き手としての能力も筆力も凄いと感心しました
例によって目次の紹介
特に地熱発電についての現状、商業ベースに乗る熱源の資源量(2300万kw)は世界3位なのに
発電設備が世界10位(49万kw)まで落ちたのは、目先の利益追求という浅はかな企業論理とか、
政府支援の打ち切り(1990年代)とか、温泉街の反対とか国立公園内は許可されないからとか、
業務スーパー創業者の熱意などについても知らないことも多く目からウロコでした
(ちなみに日本の電力消費は1億~1億4000万kw/h程度なので、商業ベースだけで考えても
1/4から1/6程度は地熱発電で賄えることになりますね)
確かに地熱発電なら、火山国では資源は無尽蔵タダでCO2も核廃棄物も出さず、大規模な
太陽光や風力、水力、大規模バイオマスのような環境破壊もなく天候にも左右されず24時間
365日稼働可能な純国産エネルギーですね
どの項目にも出版直前までの最新情報による、現在の最先端技術や混迷する世界の現状が
紹介されており、それを澤井代表が半世紀以上も前から予測し警告していたという事実を、
当時の澤井代表が書いた文章などから発見し、そのことに何度も驚嘆したと、藤本氏が書いて
おられましたが、あちこちにハナシが跳ぶインタビューから、それらを見つけ出す藤本氏の
聞き手としての能力に、むしろわたくしは驚嘆しました
当ブログサイト書斎カテゴリで紹介しているような歴史や環境や最新科学に関する書籍も、
多くを精読されておられるようで、それぞれの著者とは、おそらく意見は異なるのでしょうが、
まさに幅広い最新知識があってこその労作ですね
さすがはベテラン手練れのもと新聞記者であります
とても内容すべては紹介できませんし澤井代表や藤本氏の主張についても、見方によっては
異論もあるでしょうが、特に林業・林政や教育・環境については100年先200年先を見越した
ビジョンが必要なことは間違いありません
ここでは末尾にあった写真資料のうち海外植林ボランティアに関する部分のみ新聞記事を
中心に、ランダムに一部を紹介させていただきます
(出版物の添付資料なので公開に問題があるようなら非公開設定にします)
2012年、N.GKS第16次隊(ボルネオ)に関する毎日新聞の記事
2018年、N.GKS最後となった第23次隊(内モンゴル)に関する読売新聞の記事
2011年、東日本大震災支援へのお礼も込めた第15次隊(モンゴル)に関して、
モンゴル特命全権大使からの感謝状授与を伝える京都新聞の記事
2013年、第18次隊(ボルネオ)に関する産経新聞の記事
故・遠山正瑛翁とのツーショット(内モンゴル・クブチ沙漠・恩格貝にて)
2010年、第14次隊(内モンゴル)に関する京都新聞の記事
2009年、第12次隊(ブラジル・アマゾン)に関する現地サンパウロ新聞の記事
2015年、澤井代表自分史の自費出版を伝える京都新聞の記事
上から順に、
1990年、中国・内モンゴル自治区・クブチ沙漠・恩格貝の様子、
1999年、N.GKS第1次隊によるクブチ沙漠での最初の植林作業の様子、
2018年、最後となった第23次隊でのクブチ沙漠・恩格貝の様子
まあ、「最後となった」とは書いたものの・・・
当時、城南新報で紹介されてた帰国報告ではラスト宣言を撤回して、
「3~5年後には植えた1000本のナツメが実るので車椅子に乗ってでも食べに行きたい」
と答えておられますが・・・
ともかく93歳になった現在も(足腰が弱り介護施設のお世話になっているものの)頭はますます
冴えわたっているとのことでした
98歳まで日本と中国を月に何度も往復されてて大往生された故・遠山正瑛翁に負けないよう、
今後もできる範囲で大いに活躍してほしいものです
2023年12月09日
人新世の「資本論」
ええ、外出自粛中なので遅ればせながら・・・
斎藤幸平著『人新世の「資本論」』とゆー本を読み終えました
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、この種の本としてはベストセラーで僅か半年で九刷まで増刷されてますね
テレビ番組などでも紹介され興味があったので外出自粛直前に借りてた次第
例によって目次のみの紹介
難しそうな単語が並んでますが文章は分かりやすく、著者が発掘したマルクス晩年の膨大な
研究ノートや手紙を読み解き、彼が最晩年に目指していた新しいコミュニズムを解き明かす、
つーのが新鮮で、さらにその思想で環境危機に立ち向かおうという内容も新鮮でした
主張の是非は別としても、わたくしがこれまでの様々な気候変動対策に何となく感じていた
モヤモヤを、ある意味スッキリさせてくれたのは確かです
ま、たとえスッキリしても前々回記事と同様に、それを行動に移さなければ無関心と同じで
あまり意味がないのかも知れませんが・・・
わたくしが次に現地の子どもたちと一緒に木を植える日はくるのだろうか・・・
以下、思いつくままのてきとーな読後メモです
はじめにより
・個人が温暖化対策として環境配慮商品を買うことに意味はあるか???
→それだけなら無意味であり、むしろ有害
→真に必要な行動をしなくなる「免罪符」としての消費行動は、資本の側が我々を欺く
グリーンウォッシュに、いとも簡単に取り込まれるから
・国連のSDGsで地球全体の環境を変えていくことができるか???
→政府や企業が行動指針をいくつかなぞっても気候変動は止められない
→目下の危機から目を背けさせる効果しかない
→資本主義社会の苦悩を和らげる「宗教」をマルクスは「大衆のアヘン」とした
→SDGsは現代版「大衆のアヘン」である
・アヘンに逃げずに直視しなければならない現実とは、
→人間が地球環境を取り返しのつかないほど大きく変えてしまっているということ
・ノーベル化学賞受賞者パウル・クルッツェンが名付けた人新世(Anthropecene)
→地質学的に人間活動の痕跡が地球表面を覆い尽くした年代という意味
→人工物が地球を大きく変え、とりわけ増大しているのが温暖化を招く二酸化炭素
→産業革命・資本主義の始動から大きく増えており、直後にマルクスの資本論が出た
→マルクスの全く新しい面を発掘し展開して、気候危機の時代のより良い社会を・・・
第1章より
・2018年ノーベル経済学賞(ウィリアム・ノードハウス)の罪
→経済成長と新技術で気候変動に対処できるとした気候経済学
→彼のモデルではアジア・アフリカの途上国に壊滅的な被害が及ぶが、彼らの世界GDPに
占める割合は僅かで、農業にも深刻なダメージがあるが、農業は世界GDPの4%のみ
→この程度の被害を前提としたモデルが国際基準にも採用され、今は批判されている
・帝国的生活様式
→グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費社会
→グローバル・サウスからの収奪で成り立っており、彼らにもこれを押しつけている
→犠牲が多いほど収益が上がる→資本主義の前提(ファストファッションの例)
→労働者も地球環境も搾取の対象(パーム油の例)
→その暴力性は遠くの地で発揮されるので不可視化され続けてきた
→それを「知らない」から「知りたくない」へ
→不公正に加担しているが、少しでも先延ばしにして秩序維持したいから
→マルクスはこの資本家の態度を「大洪水よ、我が亡き後に来たれ」と皮肉っている
→今は気候変動と環境難民が可視化して帝国的生活様式秩序を転覆しようとしている
→転嫁困難が判明した危機感や不安から右派ポピュリズムへ→気候ファシズム
・オランダの誤謬
→国際的な転嫁を無視して先進国が環境問題を解決したと思い込むこと
・人類が使用した化石燃料の半分は冷戦終結(1989)以降
→アメリカ型の新自由主義が世界を覆ったから
・マルクスによる環境危機の予言→資本による転嫁は最終的に破綻する
→技術的転嫁、空間的転嫁、時間的転嫁(略)
第2章より
・負荷を外部転嫁することで経済成長を続ける資本主義
→新自由主義からグリーン・ニューディール(気候ケインズ主義)へ
・2009年ヨハン・ロックストロームのプラネタリー・バウンダリー(地球の限界)概念
→地球の限界に配慮した「気候ケインズ主義による緑の経済成長」へ
→SDGsにも大きな影響を与え、技術革新や効率化の目標値になったが、
→2019年に自己批判し、経済成長と環境負荷の相対的デカップリングは困難と判断した
→経済成長の罠と労働生産性の罠→資本主義の限界
・再生可能エネルギーとジェヴォンズのパラドックス
→テレビの省エネ化と廉価大型化、自動車の燃費向上と大型化・SUVの普及・・・
→効率化による収入の再投資→節約分が帳消しに・・・
・石油価格が高騰すれば再生可能エネルギーが相対的に廉価になる???
→新技術の開発が進み、さらに廉価になり、石油消費量は減る(気候ケインズ主義)???
・現実はオイルサンドやオイルシェールに移った→価格の高騰は金儲けの機会だから
→価格崩壊前に掘り尽くそうとするので採掘ベースも上がる→市場外の強い強制力が必要
・裕福な帝国的生活様式
→富裕層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出している
→プライベートジェットやスポーツカーや大豪邸を多く持つ富裕層トップ0.1%なら?
→富裕層トップ10%の二酸化炭素排出量を平均的なヨーロッパ人のレベルに減らすだけで
排出量は2/3になる
→先進国は殆どがトップ20%に入っており、日本なら大勢がトップ10%に入っている
→当事者として帝国的生活様式を変えなければ気候危機に立ち向かうことは不可能
・電気自動車の本当のコスト
→リチウム・コバルト採掘による環境破壊や劣悪な労働条件はコスト外
→その対極にいる大企業トップがSDGsを技術革新で推進すると吹聴している
→19世紀のペルー沖グアノ採掘と同じ生態学的帝国主義
→バッテリー大型化で製造工程で発生する二酸化炭素量も増大している
・電気自動車や再生可能エネルギーへ100%移行するという気候ケインズ主義
→自分たちの帝国的生活様式を変えずに(自分たちは何もせずに)持続可能な未来を約束するもの
→まさに現実逃避
・大気中から二酸化炭素を除去するNET技術の代表例BECCS
→バイオマスBEで排出量ゼロにし大気中の二酸化炭素を地中や海中に貯留する技術CCS
→大量の農地や水が必要でマルクスが問題視した転嫁を大規模に行うだけの技術
→経済成長を前提とする限り、これをIPCCも取り入れざるを得ない
・エネルギー転換は必要だが今の生活様式維持を目指している限り、資本の論理による
経済成長の罠に陥る
→気候変動対策は経済成長の手段ではなく止めること自体が目的
→「絶滅への道は善意で敷き詰められている」
・非物質化もIoTもクラウド化も製造や稼働に膨大なエネルギーと資源が消費されている
第3章より
・脱成長が気候変動対策の本命だが南北問題解決には南の経済成長が必要???
→ケイト・ラワースの議論→ドーナツ経済の概念図
→環境的な上限と社会的な土台(下限)の間に全ての人が入るグローバルな経済システムの設計
→先進国はドーナツの上限を超えている(途上国は逆)
→先進国の経済成長をモデルに途上国への開発援助を行えば破滅の道を辿る
→経済成長と環境破壊に頼らなくても、僅かな再分配で食糧や電力は供給できる
・あるレベルを超えると経済成長と生活向上の相関が見られなくなる
→アメリカとヨーロッパの社会福祉の比較、アメリカと日本の平均寿命の比較など
・経済成長しても一部が独占し再分配されないなら大勢の人が不幸になる
→逆に経済成長しなくても、うまく分配できれば社会は今以上に繫栄する可能性がある
→公正な資源配分が資本主義システムのもとで恒常的に達成できるか
→外部化と転嫁に依拠した資本主義ではグローバルな公正さを実現できない
・今のところは世界の所得トップ10~20%に入る多くの日本人の生活は安泰
→グローバルな環境危機によりトップ1%の超富裕層しか今の生活はできなくなる
→自分自身が生き残るためにも公正で持続可能な社会を志向する必要がある
・四つの未来の選択肢
(横線を平等さ、縦線を権力の強さにした十字グラフ)
①右上(権力が強く不平等)が「気候ファシズム」で、資本主義と経済成長の行き着く先
(一部の超富裕層を除き多くが環境難民になる)
②右下(権力が弱く不平等)が「野蛮状態」で、環境難民の反乱により体制崩壊した状態
(万人の万人に対する闘争というホッブズの自然状態に逆戻りした未来)
③左上(権力が強く平等)が「気候毛沢東主義」で、トップダウン型で貧富格差を緩和
(自由市場や自由民主主義を捨てた独裁国家が効率の良い平等主義的な対策を進める)
④左下(権力が弱く平等)をXとする
→専制国家に依存せず人々が自発的に気候変動に取り組む公正で持続可能な未来社会
・Xのヒントは脱成長
→無限の経済成長を追い求める資本主義システムが環境危機の原因
→対策の目安はポスト資本主義で先進国の生活レベルを1970年代後半の水準に落とすこと
(資本主義のままだと唯一の延命策だった新自由主義になり同じ道を辿るから)
・経済成長を前提とした現在の制度設計で成長が止まれば、もちろん悲惨な事態になるが、
いくら経済成長を目指し続けても、労働分配率は低下し格差は拡大し続けている
・日本の脱成長vs経済成長の対立は、経済的に恵まれた団塊世代と困窮する氷河期世代との
対立に矮小化され、脱成長は緊縮政策と結びつけられた(本来は人類の生存を巡る対立)
→脱成長論へのアンチテーゼとして反緊縮が紹介され氷河期世代に支持されているが、
日本の議論で欠けているのは気候変動問題でありグリーン・ニューディール
→本来は気候変動対策としてのインフラ改革であり生産方法の改革
→日本での反緊縮は金融緩和・財政出動で経済成長を追求するものに・・・
・デジタル・ネイティブのZ世代は世界の仲間と繋がったグローバル市民
→新自由主義が規制緩和や民営化を推し進めた結果、格差や環境破壊が深刻化していく様を
体感しながら育った
→このまま資本主義を続けても明るい展望はなく大人たちの振る舞いの尻拭いをするだけ
→このZ世代とミレニアル世代が左派ポピュリズムを最も熱心に支えている
→なので反緊縮の経済成長での雇用と再分配には同調しなかった
→欧米では脱成長が新世代の理論として台頭してきている
(日本での脱成長は団塊の世代、失われた30年と結びつけられ旧世代の理論として定着)
・ジジェクのスティグリッツ批判(略)
・資本主義を維持したままの脱成長であれば、日本の失われた30年のような状態
→成長できないのは最悪で賃金を下げたりリストラ・非正規雇用化で経費削減する
→国内では階級分断が拡張し、グローバル・サウスからの掠奪も激しさを増す
・日本の長期停滞や景気後退と、定常状態や脱成長とを混同してはならない
→脱成長資本主義は実現不可能な空想主義
→資本主義のままで低成長ゼロ成長になれば生態学的帝国主義や気候ファシズムの激化に
・新世代の脱成長論はカールマルクスのコミュニズムだ!!!
→マルクス主義は階級闘争で環境問題は扱えない?
→実際にソ連でも経済成長に拘り環境破壊してたではないか?
→マルクス主義と脱成長は水と油ではないか?
→それが違うのだ!!! 眠っているマルクスを人新世に呼び起こそう!!!
第4章より
・なぜ、いまさらマルクスなのか
→マルクス主義といえばソ連や中国の共産党の独裁で生産手段の国有化のイメージ
→時代遅れで危険なものと感じる読者も多いだろう
→日本ではソ連崩壊から左派であってもマルクスを擁護し使おうとする人は極めて少ない
→世界では資本主義の矛盾の深まりでマルクスの思想が再び大きな注目を浴びている
→新資料で人新世の新しいマルクス像を提示する
・マルクス再解釈のカギのひとつが「コモン」の概念
→社会的に共有され管理されるべき富を指す
→アメリカ型新自由主義とソ連型国有化に対峙する第三の道
→水や電力、住居、医療、教育などを公共財として民主主義的に自分たちで管理することを目指す
→専門家ではなく市民が共同管理に参加し、これを拡張することで資本主義を超克する
→マルクスにとってのコミュニズムとは一党独裁や国営化の体制ではなく、生産者たちが
コモンとして生産手段を共同管理・運営する社会
→さらにマルクスは地球をもコモンとして管理する社会をコミュニズムとして構想していた
→知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されたコモンを再建する試み
→マルクスはコモンが再建された社会をアソシエーションと呼んでいた
→自発的な相互扶助(アソシエーション)がコモンを実現する
→社会保障サービスなどは20世紀の福祉国家で制度化されたにすぎない
→1980年代以降の新自由主義の緊縮政策で労働組合や公共医療などのアソシエーションが
解体・弱体化され、コモンは市場に吞み込まれていった
(高度経済成長や南北格差が前提の福祉国家に逆戻りするだけでは気候危機に有効ではない)
・MEGAと呼ばれる新しいマルクス・エンゲルス全集が現在刊行中
(これまで入ってなかった晩年や最晩年の膨大な研究ノートと書簡を網羅した全集)
→これで可能になるのが新しい資本論の解釈
→これまでのマルクス像(略)
→晩期マルクスの大転換が理解されずスターリン主義や環境危機に(略)
・初期「共産党宣言」の楽観的進歩史観(史的唯物論)の特徴(略)
・20年後の「資本論」に取り込んだ「人間と自然の物質代謝の循環的な相互作用」
→人間の特徴的な活動である労働が人間と自然の物質代謝を制御・媒介する
→資本は価値増殖を最優先にするから人も自然も徹底的に利用する
→資本はより短期間で価値を獲得しようとするから人間と自然の物質代謝を攪乱する
→資本の無限運動で物質代謝は変容させられるが最終的に自然のサイクルと相容れない
→なので資本主義は自然の物質代謝に修復不可能な亀裂を生み出すと警告している
・晩年マルクスのエコロジー思想
→資本論第一巻刊行以降、1883年に亡くなるまでの15年間、自然科学研究を続けていた
→過剰な森林伐採、化石燃料の乱費、種の絶滅のテーマを資本主義の矛盾として扱っていた
→晩年のノートでは、生産力の上昇が自然支配を可能にして資本主義を乗り越えるという
楽観論とは大きく異なっている
→資本は修復不可能な亀裂を世界規模で深め、最終的には資本主義も存続できなくなると
・マルクスは転嫁の過程を資本論第一巻刊行以降、具体的に検討しようとしていた
→資本主義で生産力を向上しても社会主義にはならないと転換していた
→晩年には持続可能な経済成長を求める「エコ社会主義」のビジョン
→ところが最晩年には、この「エコ社会主義」をも超えていた
・生産力至上主義とヨーロッパ中心主義を捨てた晩年のマルクスは進歩史観から決別する
→むしろ非西欧を中心とした共同体の積極的評価へと転換している
→史的唯物論がすべてやり直しになる過程(略)
・マルクスが進歩史観を捨て、新しい歴史観を打ち立てるために絶対的に必要だったのが
エコロジー研究と非西欧・前資本主義社会の共同体研究だった(略)
・ゲルマン民族マルク協同体における共有地管理の平等主義
→新しいコミュニズムの基礎となる持続可能性と社会的平等は密接に関係している
・「資本主義との闘争状態にある労働者大衆と科学と・・・」の科学とはエコロジー
・共同体は経済成長をしない循環型の定常型経済
→未開や無知からではなく、生産力を上げられる場合にも権力関係が発生し支配従属関係へと
転化することを防ごうとしていたから
・初期のマルクスが定常型経済であることを理由に切り捨てていたインドの共同体
→この定常性こそが植民地支配への抵抗力になり資本を打ち破りコミュニズムの歴史を作ると
最晩年には主張している
→この認識を可能にしたのが晩年のエコロジー研究で共同体研究とつながっている
・14年の研究の結果、定常型経済に依拠した持続可能性と平等が資本主義への抵抗になり、
将来社会の基礎になると、マルクスは結論づけた
→マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ
→盟友エンゲルスさえ理解できなかった西欧資本主義を乗り越える脱成長コミュニズム
→この思想が見落とされていたことが現在のマルクス主義の停滞と環境危機を招いている
・資本主義が人類の生存そのものを脅かす今こそ、脱成長コミュニズムが追及されねばならず、
最晩年に書かれたザスリーチ宛の手紙は、人新世を生き延びるためのマルクスの遺言である
第5章より
・加速主義批判
→バスターニの「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」
→ムーアの法則による技術革新で稀少性や貨幣の価値がなくなる潤沢な経済に?
→それを推進する政府に投票すればいいだけ?
→これこそ「各人がその必要に応じて受け取る」マルクスのコミュニズムの実現?
→資本は政治では超克できず全て資本主義に取り込まれる→資本による包摂から専制へ
→晩期マルクスが決別した生産力至上主義の典型でエコ近代主義の開き直り
・イギリス・フランスの気候市民議会(略)
・ゴルツの開放的技術と閉鎖的技術(略)
・最も裕福な資本家26人が貧困層38億人(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占
第6章より
・豊かさをもたらすのは資本主義か
→99%の人にとって欠乏をもたらしているのが資本主義
→ニューヨークやロンドンの不動産の例など(略)
・マルクスの本源的蓄積(エンクロージャー)論
→資本がコモンの潤沢さを解体し人工的希少性を増大させていく過程
→なぜ無償の共有地や水力が都市や石炭へと排除されたのか
→潤沢なものを排除した希少性による独占が資本主義には欠かせないから
・ローダデールのパラドックス(略)
・マルクスの「価値と使用価値の対立」
→貧しさに耐える緊縮システムは人工的希少性に依拠した資本主義のシステム
→生産してないから貧しいのではなく、資本主義が希少性を本質とするから貧しいのだ
→新自由主義の緊縮政策が終わっても資本主義が続く限り本源的蓄積は継続する
→希少性を維持増大することで資本は利益を上げ、99%にとっては欠乏が永続化する
→負債→長時間労働→過剰生産→環境破壊→商品依存→負債・・・
・資本の希少性とコモンの潤沢さ→水や電力の民営化ではなく市民営化
・ワーカーズコープなど生産手段の共同所有・管理→私有でも国営でもない社会的所有
・コモンの潤沢さが回復されるほど商品化領域が減りGDPは減少する→これが脱成長
→現物給付の領域が増え貨幣に依存しない領域が増えることは貧しさを意味しない
→相互扶助の余裕が生まれ消費的ではない活動への余地が生まれる
→消費する化石燃料エネルギーは減るが、社会的文化的エネルギーは増大していく
・自然的限界は、どのような社会を望むかによって設定される決断を伴う政治的産物
→どのような社会を望むかは将来世代の声も反映しながら民主的に決定されるべき
→限界設定を専門家や政治家に任せれば、彼らの利害関心世界観が反映される
→ノードハウスが経済成長を気候変動より優先した結果がパリ協定の数値目標になっている
・マルクスの「必然の国と自由の国」
→自己抑制を自発的に行う自制により必然の国を縮小していくことが自由の国の拡大につながる
→人々が自己抑制しないことが資本蓄積と経済成長の条件になっている
→逆に自己抑制を自発的に選択すれば資本主義に抗う革命的な行為になる
→無限の経済成長を断念し万人の繁栄と持続可能性に重きを置く脱成長コミュニズムへ
第7章より
・コロナ禍も気候変動も人新世の矛盾の顕在化という意味では資本主義の産物
→どちらも以前から警告されていたが「人命か経済か」で、行き過ぎた対策は景気を悪くすると
根本的問題への取り組みは先延ばしにされている
・危機が深まれば国家による強い介入規制が専門家から要請され個人も自由の制約を受け入れる
・コロナ戦略を第3章「四つの未来の選択肢」でいえば、
→アメリカ・トランプ大統領やブラジル・ボルソナロ大統領は右上①気候ファシズムにあたる
→資本主義の経済活動を最優先し、反対する大臣や専門家を更迭して突き進んだ
→高額な医療費の支払いやリモートワークで自己防衛できる人だけが救われればいいとか、
アマゾン開発に反対する先住民への感染拡大を好機として伐採規制を撤廃しようとか・・・
→いっぽうで中国や欧州諸国は③気候毛沢東主義にあたる
→移動の自由、集会の自由などが国家によって大幅に制限された
→香港では民主化運動の抑圧に利用され、ハンガリーでは政権がフェイクとみなす情報を
流した者を禁固に処する法案が可決された
・新自由主義は社会の関係を商品化し、相互扶助の関係も貨幣・商品関係に置き換えてきた
→相互扶助や思いやりは根こそぎにされてるので不安な人々は国家に頼るしかない
→気候変動についても①になるのか③になるのか、どちらも国家とテクノクラートの支配
→さらに危機が深まると国家さえ機能しなくなり、右下②野蛮状態へと落ちてゆく
・マスクも消毒液も海外アウトソーシングで手に入らず、先進国の巨大製薬会社は儲かる薬に
特化していて、抗生物質や抗ウィルス薬の研究開発から撤退していた
→商品としての価値を重視し使用価値(有用性)を蔑ろにする資本主義では常に起きること
→食糧も高く売れる商品が重視される資本主義と決別し使用価値を重視する社会に移行すべき
・トマ・ピケティの「資本とイデオロギー」2019年刊行(略)
・従来の脱成長派は消費次元での自発的抑制(節電節水・中古・菜食・物シェアなど)が中心
→ところが所有・分配・価値観の変化だけでは資本主義に立ち向かえない
→労働の場(生産・再生産次元)における変革こそが大転換になる
→自動車産業衰退で破綻したデトロイト市のワーカーズコープなどによる都市有機農業の例
→コペンハーゲン市の都市果樹園の例→入会地・コモンズの復権への一歩
→生産次元に蒔かれた種は、消費次元では生まなかった希望という果実を実らせる
・晩年マルクスの脱成長コミュニズムは大きく以下の5点にまとめられる
①使用価値経済への転換
→使用価値に重きを置いた経済に転換して大量生産・大量消費から脱却する
②労働時間の短縮
→労働時間を短縮して生活の質を向上させる(GDPからQOLへ)
③画一的な分業の廃止
→画一的な労働をもたらす分業を廃止して労働の創造性を回復させる
④生産過程の民主化
→生産プロセスの民主化を進め経済を減速させる→社会的所有(アソシエーション)
⑤エッシェンシャル・ワークの重視
→使用価値経済へ転換して労働集約型エッシェンシャル・ワークを重視する
(使用価値を生み出さないブルシットジョブほど高給で人が集まり、社会の再生産に必須な
使用価値の高いものを生み出すエッセンシャルワークほど低賃金で人手不足になっている
→役に立つ、やりがいのある仕事をしているという理由で低賃金・長時間労働に)
・これまでのマルクス主義者の解釈には経済成長を減速させるという文脈はなかった
→脱成長コミュニズムにより物質代謝の亀裂を修復するべき
・グローバル資本主義で疲弊した都市では新しい経済を求める動きが世界で起きている
→脱成長コミュニズムを掲げているわけでも目指しているわけでもないが、その運動
・エクアドル憲法のブエン・ビビール(良く生きる)、ブータン憲法のGNH・・・
→(晩年のマルクスが願っていた)これまでのヨーロッパ中心主義を改めグローバル・サウス
から学ぼうとする、新しい運動も出てきている→21世紀の環境革命に
第8章より
・晩期マルクスの主張は都市の生活や技術を捨てて農耕共同体に戻るというものではない
→都市や技術発展の合理性を完全に否定する必要はないが、都市には問題点も多い
→現在の都市は相互扶助が解体され大量のエネルギーと資源を浪費している
→ただし合理的でエコロジカルな都市改革の動きが地方自治体に芽生えつつある
・スペイン・バルセロナ市とともに闘う各国の自治体
→フェアレス・シティ→国家の新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自治体
→国家もグローバル企業も恐れずに住民のために行動することを目指す都市
→アムステルダム、パリ、グルノーブルなど世界77都市の政党や市民団体が参加している
・バルセロナ市の気候非常事態宣言の例
→声掛けだけでなく数値目標、分析、行動計画を備えたマニフェスト
→自治体職員の作文でもシンクタンクの提案書でもなく市民の力の結集(内容は略)
→ここに至るまでに10年に及ぶ市民の取り組みが存在している(内容は略)
・フェアレス・シティには相互扶助だけでなく都市間の協力関係があり、新自由主義の時代に
民営化されてしまった水道事業などの公共サービスを再び公営化するノウハウなども共有される
→国際的に開かれた自治体主義→ミュニシパリズム
・国家に依存しない参加型民主主義や共同管理の例
→メキシコ・チアパス州サパティスタの抵抗運動は北米自由貿易協定から(内容は略)
→国際農民組織ヴィア・カンペシーナは中南米を中心に2億人以上(内容は略)
→資本主義の外部(今はグローバル・サウス)における残虐性への反資本主義運動
→まさに晩年のマルクスがインドやロシアの運動から摂取した脱成長コミュニズム
・気候正義と食料主権の例
→南アフリカ食糧主権運動→石炭石油化企業の操業停止運動も→運動の国際化へ
・従来マルクス主義の成長論理による将来社会は資本家と搾取がないだけで今と変わらない
→実際にソ連の場合は官僚による国営企業管理の「国家資本主義」になってしまった
・新自由主義の緊縮政策(社会保障費の削減、非正規雇用の増大による賃金低下、民営化による
公共サービスの解体などの推進)には、左派が抵抗しようとしているが・・・
→財政出動で多くを生産し蓄積し経済成長すれば潤沢になるのなら今までどおりの思考
→反緊縮だけでは自然からの収奪は止まらない
→経済を回すだけでは人新世の危機は乗り越えられない
→気候危機の時代には政策の転換より一歩進んだ社会システムの転換を志す必要がある
・緑の経済成長グリーンニューディールも夢の技術ジオエンジニアリングもMMT経済政策も、
大転換を要求する裏で、その危機を生み出している資本主義の根本原因を維持しようとしている
→これが究極の矛盾
・政府ができるのは問題の先送り対策ぐらいで、この時間稼ぎが地球環境には致命傷になる
→国連のSDGsも同じで、中途半端な解決策で人々が安心してしまうと致命傷になる
→石油メジャー、大銀行、GAFAなどデジタルインフラの社会的所有こそが必要なのだ
・私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理コモンがコミュニズムの基盤
→これは国家を拒絶することを意味しない→アナーキズムでは気候変動に対処できない
→インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば解決手段の国家を拒否することは愚かでさえある
→ただし国家に頼り過ぎると気候毛沢東主義に陥る危険がある
・国家の力を前提にしながらコモンの領域を広げていく
→民主主義を議会の外へ、生産の次元へと拡張していく
→協同組合、社会的所有、市民営化・・・
→議会制民主主義そのものも大きく変容しなくてはならない
→地方自治体レベルではミュニシパリズム、国家レベルでは市民議会がモデルになる
・資本主義の超克(経済)、民主主義の刷新(政治)、社会の脱炭素化(環境)の三位一体の大転換
→このプロジェクトの基礎となるのが信頼と相互扶助
→それがなければ非民主的トップダウン型の解決策しか出てこない
→ところが他者への信頼や相互扶助は今は新自由主義で徹底的に解体されている
→なので顔の見えるコミュニティーや地方自治体をベースに回復するしかない
・希望はローカルレベルの運動が、いまや世界中の仲間と繋がっているということ
→「希望をグローバル化するために、たたかいをグローバル化しよう」
(ヴィア・カンペシーナのメッセージ)
→国際的連帯による経験は価値観を変え想像力が広がって今までにない行動ができる
・コミュニティーや社会運動が大きく動けば政治家も大きな変化を恐れなくなる
(バルセロナの市政やフランスの市民議会などの例)
→社会運動と政治の相互作用は促進されボトムアップの社会運動とトップダウンの政党政治は
お互いの力を最大限に発揮できるようになる
→ここまでくれば無限の経済成長と決別した持続可能で公正な社会が実現する
→もちろん着地点は相互扶助と自治に基づいた脱成長コミュニズムである
おわりにより
・マルクスで脱成長なんて正気か・・・との批判を覚悟の上で執筆を始めた
→左派の常識ではマルクスは脱成長など唱えていないということになっている
→右派はソ連の失敗を繰り返すのかと嘲笑するだろう
→さらに脱成長という言葉への反感はリベラルのあいだに非常に根強い
→それでも最新マルクス研究の成果を踏まえ、これが最善の道と確信した
・冷戦終結直後にフランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を唱え、ポストモダンは
「大きな物語の失効」を宣言した
→だが、その後の30年で明らかになったように、資本主義を等閑視した冷笑主義の先に
待っているのは「文明の終わり」である
→だからこそ連帯して脱成長コミュニズムを打ち立てなければならない
・3.5%の人が非暴力な方法で本気で立ち上がると社会が大きく変わるという研究がある
→フィリピンのピープルパワー革命やグルジアのバラ革命など
→ニューヨークのウォール街占拠もバルセロナの座り込みも最初は少人数だった
→グレタ・トゥーンベリの学校ストライキなど「たったひとり」だった
→課題が大きいことを何もしないことの言い訳にしてはいけない
・わたしたちが無関心だったせいで、1%の富裕層・エリート層が好き勝手に、自分たちの
価値観に合わせて社会の仕組みや利害を作り上げてしまったが、はっきりNOを突き付けるとき
→3.5%の動きが大きなうねりになれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、
脱炭素社会も実現されるに違いない・・・
以上、わたくしが分かる範囲での疑問を交えない読書メモですが勘違いもあるので、
興味を持たれた方は本書をお読みくださいね
斎藤幸平著『人新世の「資本論」』とゆー本を読み終えました
表紙カバー裏にあった惹句
著者紹介と奥付
そう、この種の本としてはベストセラーで僅か半年で九刷まで増刷されてますね
テレビ番組などでも紹介され興味があったので外出自粛直前に借りてた次第
例によって目次のみの紹介
難しそうな単語が並んでますが文章は分かりやすく、著者が発掘したマルクス晩年の膨大な
研究ノートや手紙を読み解き、彼が最晩年に目指していた新しいコミュニズムを解き明かす、
つーのが新鮮で、さらにその思想で環境危機に立ち向かおうという内容も新鮮でした
主張の是非は別としても、わたくしがこれまでの様々な気候変動対策に何となく感じていた
モヤモヤを、ある意味スッキリさせてくれたのは確かです
ま、たとえスッキリしても前々回記事と同様に、それを行動に移さなければ無関心と同じで
あまり意味がないのかも知れませんが・・・
わたくしが次に現地の子どもたちと一緒に木を植える日はくるのだろうか・・・
以下、思いつくままのてきとーな読後メモです
はじめにより
・個人が温暖化対策として環境配慮商品を買うことに意味はあるか???
→それだけなら無意味であり、むしろ有害
→真に必要な行動をしなくなる「免罪符」としての消費行動は、資本の側が我々を欺く
グリーンウォッシュに、いとも簡単に取り込まれるから
・国連のSDGsで地球全体の環境を変えていくことができるか???
→政府や企業が行動指針をいくつかなぞっても気候変動は止められない
→目下の危機から目を背けさせる効果しかない
→資本主義社会の苦悩を和らげる「宗教」をマルクスは「大衆のアヘン」とした
→SDGsは現代版「大衆のアヘン」である
・アヘンに逃げずに直視しなければならない現実とは、
→人間が地球環境を取り返しのつかないほど大きく変えてしまっているということ
・ノーベル化学賞受賞者パウル・クルッツェンが名付けた人新世(Anthropecene)
→地質学的に人間活動の痕跡が地球表面を覆い尽くした年代という意味
→人工物が地球を大きく変え、とりわけ増大しているのが温暖化を招く二酸化炭素
→産業革命・資本主義の始動から大きく増えており、直後にマルクスの資本論が出た
→マルクスの全く新しい面を発掘し展開して、気候危機の時代のより良い社会を・・・
第1章より
・2018年ノーベル経済学賞(ウィリアム・ノードハウス)の罪
→経済成長と新技術で気候変動に対処できるとした気候経済学
→彼のモデルではアジア・アフリカの途上国に壊滅的な被害が及ぶが、彼らの世界GDPに
占める割合は僅かで、農業にも深刻なダメージがあるが、農業は世界GDPの4%のみ
→この程度の被害を前提としたモデルが国際基準にも採用され、今は批判されている
・帝国的生活様式
→グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費社会
→グローバル・サウスからの収奪で成り立っており、彼らにもこれを押しつけている
→犠牲が多いほど収益が上がる→資本主義の前提(ファストファッションの例)
→労働者も地球環境も搾取の対象(パーム油の例)
→その暴力性は遠くの地で発揮されるので不可視化され続けてきた
→それを「知らない」から「知りたくない」へ
→不公正に加担しているが、少しでも先延ばしにして秩序維持したいから
→マルクスはこの資本家の態度を「大洪水よ、我が亡き後に来たれ」と皮肉っている
→今は気候変動と環境難民が可視化して帝国的生活様式秩序を転覆しようとしている
→転嫁困難が判明した危機感や不安から右派ポピュリズムへ→気候ファシズム
・オランダの誤謬
→国際的な転嫁を無視して先進国が環境問題を解決したと思い込むこと
・人類が使用した化石燃料の半分は冷戦終結(1989)以降
→アメリカ型の新自由主義が世界を覆ったから
・マルクスによる環境危機の予言→資本による転嫁は最終的に破綻する
→技術的転嫁、空間的転嫁、時間的転嫁(略)
第2章より
・負荷を外部転嫁することで経済成長を続ける資本主義
→新自由主義からグリーン・ニューディール(気候ケインズ主義)へ
・2009年ヨハン・ロックストロームのプラネタリー・バウンダリー(地球の限界)概念
→地球の限界に配慮した「気候ケインズ主義による緑の経済成長」へ
→SDGsにも大きな影響を与え、技術革新や効率化の目標値になったが、
→2019年に自己批判し、経済成長と環境負荷の相対的デカップリングは困難と判断した
→経済成長の罠と労働生産性の罠→資本主義の限界
・再生可能エネルギーとジェヴォンズのパラドックス
→テレビの省エネ化と廉価大型化、自動車の燃費向上と大型化・SUVの普及・・・
→効率化による収入の再投資→節約分が帳消しに・・・
・石油価格が高騰すれば再生可能エネルギーが相対的に廉価になる???
→新技術の開発が進み、さらに廉価になり、石油消費量は減る(気候ケインズ主義)???
・現実はオイルサンドやオイルシェールに移った→価格の高騰は金儲けの機会だから
→価格崩壊前に掘り尽くそうとするので採掘ベースも上がる→市場外の強い強制力が必要
・裕福な帝国的生活様式
→富裕層トップ10%が二酸化炭素の半分を排出している
→プライベートジェットやスポーツカーや大豪邸を多く持つ富裕層トップ0.1%なら?
→富裕層トップ10%の二酸化炭素排出量を平均的なヨーロッパ人のレベルに減らすだけで
排出量は2/3になる
→先進国は殆どがトップ20%に入っており、日本なら大勢がトップ10%に入っている
→当事者として帝国的生活様式を変えなければ気候危機に立ち向かうことは不可能
・電気自動車の本当のコスト
→リチウム・コバルト採掘による環境破壊や劣悪な労働条件はコスト外
→その対極にいる大企業トップがSDGsを技術革新で推進すると吹聴している
→19世紀のペルー沖グアノ採掘と同じ生態学的帝国主義
→バッテリー大型化で製造工程で発生する二酸化炭素量も増大している
・電気自動車や再生可能エネルギーへ100%移行するという気候ケインズ主義
→自分たちの帝国的生活様式を変えずに(自分たちは何もせずに)持続可能な未来を約束するもの
→まさに現実逃避
・大気中から二酸化炭素を除去するNET技術の代表例BECCS
→バイオマスBEで排出量ゼロにし大気中の二酸化炭素を地中や海中に貯留する技術CCS
→大量の農地や水が必要でマルクスが問題視した転嫁を大規模に行うだけの技術
→経済成長を前提とする限り、これをIPCCも取り入れざるを得ない
・エネルギー転換は必要だが今の生活様式維持を目指している限り、資本の論理による
経済成長の罠に陥る
→気候変動対策は経済成長の手段ではなく止めること自体が目的
→「絶滅への道は善意で敷き詰められている」
・非物質化もIoTもクラウド化も製造や稼働に膨大なエネルギーと資源が消費されている
第3章より
・脱成長が気候変動対策の本命だが南北問題解決には南の経済成長が必要???
→ケイト・ラワースの議論→ドーナツ経済の概念図
→環境的な上限と社会的な土台(下限)の間に全ての人が入るグローバルな経済システムの設計
→先進国はドーナツの上限を超えている(途上国は逆)
→先進国の経済成長をモデルに途上国への開発援助を行えば破滅の道を辿る
→経済成長と環境破壊に頼らなくても、僅かな再分配で食糧や電力は供給できる
・あるレベルを超えると経済成長と生活向上の相関が見られなくなる
→アメリカとヨーロッパの社会福祉の比較、アメリカと日本の平均寿命の比較など
・経済成長しても一部が独占し再分配されないなら大勢の人が不幸になる
→逆に経済成長しなくても、うまく分配できれば社会は今以上に繫栄する可能性がある
→公正な資源配分が資本主義システムのもとで恒常的に達成できるか
→外部化と転嫁に依拠した資本主義ではグローバルな公正さを実現できない
・今のところは世界の所得トップ10~20%に入る多くの日本人の生活は安泰
→グローバルな環境危機によりトップ1%の超富裕層しか今の生活はできなくなる
→自分自身が生き残るためにも公正で持続可能な社会を志向する必要がある
・四つの未来の選択肢
(横線を平等さ、縦線を権力の強さにした十字グラフ)
①右上(権力が強く不平等)が「気候ファシズム」で、資本主義と経済成長の行き着く先
(一部の超富裕層を除き多くが環境難民になる)
②右下(権力が弱く不平等)が「野蛮状態」で、環境難民の反乱により体制崩壊した状態
(万人の万人に対する闘争というホッブズの自然状態に逆戻りした未来)
③左上(権力が強く平等)が「気候毛沢東主義」で、トップダウン型で貧富格差を緩和
(自由市場や自由民主主義を捨てた独裁国家が効率の良い平等主義的な対策を進める)
④左下(権力が弱く平等)をXとする
→専制国家に依存せず人々が自発的に気候変動に取り組む公正で持続可能な未来社会
・Xのヒントは脱成長
→無限の経済成長を追い求める資本主義システムが環境危機の原因
→対策の目安はポスト資本主義で先進国の生活レベルを1970年代後半の水準に落とすこと
(資本主義のままだと唯一の延命策だった新自由主義になり同じ道を辿るから)
・経済成長を前提とした現在の制度設計で成長が止まれば、もちろん悲惨な事態になるが、
いくら経済成長を目指し続けても、労働分配率は低下し格差は拡大し続けている
・日本の脱成長vs経済成長の対立は、経済的に恵まれた団塊世代と困窮する氷河期世代との
対立に矮小化され、脱成長は緊縮政策と結びつけられた(本来は人類の生存を巡る対立)
→脱成長論へのアンチテーゼとして反緊縮が紹介され氷河期世代に支持されているが、
日本の議論で欠けているのは気候変動問題でありグリーン・ニューディール
→本来は気候変動対策としてのインフラ改革であり生産方法の改革
→日本での反緊縮は金融緩和・財政出動で経済成長を追求するものに・・・
・デジタル・ネイティブのZ世代は世界の仲間と繋がったグローバル市民
→新自由主義が規制緩和や民営化を推し進めた結果、格差や環境破壊が深刻化していく様を
体感しながら育った
→このまま資本主義を続けても明るい展望はなく大人たちの振る舞いの尻拭いをするだけ
→このZ世代とミレニアル世代が左派ポピュリズムを最も熱心に支えている
→なので反緊縮の経済成長での雇用と再分配には同調しなかった
→欧米では脱成長が新世代の理論として台頭してきている
(日本での脱成長は団塊の世代、失われた30年と結びつけられ旧世代の理論として定着)
・ジジェクのスティグリッツ批判(略)
・資本主義を維持したままの脱成長であれば、日本の失われた30年のような状態
→成長できないのは最悪で賃金を下げたりリストラ・非正規雇用化で経費削減する
→国内では階級分断が拡張し、グローバル・サウスからの掠奪も激しさを増す
・日本の長期停滞や景気後退と、定常状態や脱成長とを混同してはならない
→脱成長資本主義は実現不可能な空想主義
→資本主義のままで低成長ゼロ成長になれば生態学的帝国主義や気候ファシズムの激化に
・新世代の脱成長論はカールマルクスのコミュニズムだ!!!
→マルクス主義は階級闘争で環境問題は扱えない?
→実際にソ連でも経済成長に拘り環境破壊してたではないか?
→マルクス主義と脱成長は水と油ではないか?
→それが違うのだ!!! 眠っているマルクスを人新世に呼び起こそう!!!
第4章より
・なぜ、いまさらマルクスなのか
→マルクス主義といえばソ連や中国の共産党の独裁で生産手段の国有化のイメージ
→時代遅れで危険なものと感じる読者も多いだろう
→日本ではソ連崩壊から左派であってもマルクスを擁護し使おうとする人は極めて少ない
→世界では資本主義の矛盾の深まりでマルクスの思想が再び大きな注目を浴びている
→新資料で人新世の新しいマルクス像を提示する
・マルクス再解釈のカギのひとつが「コモン」の概念
→社会的に共有され管理されるべき富を指す
→アメリカ型新自由主義とソ連型国有化に対峙する第三の道
→水や電力、住居、医療、教育などを公共財として民主主義的に自分たちで管理することを目指す
→専門家ではなく市民が共同管理に参加し、これを拡張することで資本主義を超克する
→マルクスにとってのコミュニズムとは一党独裁や国営化の体制ではなく、生産者たちが
コモンとして生産手段を共同管理・運営する社会
→さらにマルクスは地球をもコモンとして管理する社会をコミュニズムとして構想していた
→知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されたコモンを再建する試み
→マルクスはコモンが再建された社会をアソシエーションと呼んでいた
→自発的な相互扶助(アソシエーション)がコモンを実現する
→社会保障サービスなどは20世紀の福祉国家で制度化されたにすぎない
→1980年代以降の新自由主義の緊縮政策で労働組合や公共医療などのアソシエーションが
解体・弱体化され、コモンは市場に吞み込まれていった
(高度経済成長や南北格差が前提の福祉国家に逆戻りするだけでは気候危機に有効ではない)
・MEGAと呼ばれる新しいマルクス・エンゲルス全集が現在刊行中
(これまで入ってなかった晩年や最晩年の膨大な研究ノートと書簡を網羅した全集)
→これで可能になるのが新しい資本論の解釈
→これまでのマルクス像(略)
→晩期マルクスの大転換が理解されずスターリン主義や環境危機に(略)
・初期「共産党宣言」の楽観的進歩史観(史的唯物論)の特徴(略)
・20年後の「資本論」に取り込んだ「人間と自然の物質代謝の循環的な相互作用」
→人間の特徴的な活動である労働が人間と自然の物質代謝を制御・媒介する
→資本は価値増殖を最優先にするから人も自然も徹底的に利用する
→資本はより短期間で価値を獲得しようとするから人間と自然の物質代謝を攪乱する
→資本の無限運動で物質代謝は変容させられるが最終的に自然のサイクルと相容れない
→なので資本主義は自然の物質代謝に修復不可能な亀裂を生み出すと警告している
・晩年マルクスのエコロジー思想
→資本論第一巻刊行以降、1883年に亡くなるまでの15年間、自然科学研究を続けていた
→過剰な森林伐採、化石燃料の乱費、種の絶滅のテーマを資本主義の矛盾として扱っていた
→晩年のノートでは、生産力の上昇が自然支配を可能にして資本主義を乗り越えるという
楽観論とは大きく異なっている
→資本は修復不可能な亀裂を世界規模で深め、最終的には資本主義も存続できなくなると
・マルクスは転嫁の過程を資本論第一巻刊行以降、具体的に検討しようとしていた
→資本主義で生産力を向上しても社会主義にはならないと転換していた
→晩年には持続可能な経済成長を求める「エコ社会主義」のビジョン
→ところが最晩年には、この「エコ社会主義」をも超えていた
・生産力至上主義とヨーロッパ中心主義を捨てた晩年のマルクスは進歩史観から決別する
→むしろ非西欧を中心とした共同体の積極的評価へと転換している
→史的唯物論がすべてやり直しになる過程(略)
・マルクスが進歩史観を捨て、新しい歴史観を打ち立てるために絶対的に必要だったのが
エコロジー研究と非西欧・前資本主義社会の共同体研究だった(略)
・ゲルマン民族マルク協同体における共有地管理の平等主義
→新しいコミュニズムの基礎となる持続可能性と社会的平等は密接に関係している
・「資本主義との闘争状態にある労働者大衆と科学と・・・」の科学とはエコロジー
・共同体は経済成長をしない循環型の定常型経済
→未開や無知からではなく、生産力を上げられる場合にも権力関係が発生し支配従属関係へと
転化することを防ごうとしていたから
・初期のマルクスが定常型経済であることを理由に切り捨てていたインドの共同体
→この定常性こそが植民地支配への抵抗力になり資本を打ち破りコミュニズムの歴史を作ると
最晩年には主張している
→この認識を可能にしたのが晩年のエコロジー研究で共同体研究とつながっている
・14年の研究の結果、定常型経済に依拠した持続可能性と平等が資本主義への抵抗になり、
将来社会の基礎になると、マルクスは結論づけた
→マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ
→盟友エンゲルスさえ理解できなかった西欧資本主義を乗り越える脱成長コミュニズム
→この思想が見落とされていたことが現在のマルクス主義の停滞と環境危機を招いている
・資本主義が人類の生存そのものを脅かす今こそ、脱成長コミュニズムが追及されねばならず、
最晩年に書かれたザスリーチ宛の手紙は、人新世を生き延びるためのマルクスの遺言である
第5章より
・加速主義批判
→バスターニの「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」
→ムーアの法則による技術革新で稀少性や貨幣の価値がなくなる潤沢な経済に?
→それを推進する政府に投票すればいいだけ?
→これこそ「各人がその必要に応じて受け取る」マルクスのコミュニズムの実現?
→資本は政治では超克できず全て資本主義に取り込まれる→資本による包摂から専制へ
→晩期マルクスが決別した生産力至上主義の典型でエコ近代主義の開き直り
・イギリス・フランスの気候市民議会(略)
・ゴルツの開放的技術と閉鎖的技術(略)
・最も裕福な資本家26人が貧困層38億人(世界人口の約半分)の総資産と同額の富を独占
第6章より
・豊かさをもたらすのは資本主義か
→99%の人にとって欠乏をもたらしているのが資本主義
→ニューヨークやロンドンの不動産の例など(略)
・マルクスの本源的蓄積(エンクロージャー)論
→資本がコモンの潤沢さを解体し人工的希少性を増大させていく過程
→なぜ無償の共有地や水力が都市や石炭へと排除されたのか
→潤沢なものを排除した希少性による独占が資本主義には欠かせないから
・ローダデールのパラドックス(略)
・マルクスの「価値と使用価値の対立」
→貧しさに耐える緊縮システムは人工的希少性に依拠した資本主義のシステム
→生産してないから貧しいのではなく、資本主義が希少性を本質とするから貧しいのだ
→新自由主義の緊縮政策が終わっても資本主義が続く限り本源的蓄積は継続する
→希少性を維持増大することで資本は利益を上げ、99%にとっては欠乏が永続化する
→負債→長時間労働→過剰生産→環境破壊→商品依存→負債・・・
・資本の希少性とコモンの潤沢さ→水や電力の民営化ではなく市民営化
・ワーカーズコープなど生産手段の共同所有・管理→私有でも国営でもない社会的所有
・コモンの潤沢さが回復されるほど商品化領域が減りGDPは減少する→これが脱成長
→現物給付の領域が増え貨幣に依存しない領域が増えることは貧しさを意味しない
→相互扶助の余裕が生まれ消費的ではない活動への余地が生まれる
→消費する化石燃料エネルギーは減るが、社会的文化的エネルギーは増大していく
・自然的限界は、どのような社会を望むかによって設定される決断を伴う政治的産物
→どのような社会を望むかは将来世代の声も反映しながら民主的に決定されるべき
→限界設定を専門家や政治家に任せれば、彼らの利害関心世界観が反映される
→ノードハウスが経済成長を気候変動より優先した結果がパリ協定の数値目標になっている
・マルクスの「必然の国と自由の国」
→自己抑制を自発的に行う自制により必然の国を縮小していくことが自由の国の拡大につながる
→人々が自己抑制しないことが資本蓄積と経済成長の条件になっている
→逆に自己抑制を自発的に選択すれば資本主義に抗う革命的な行為になる
→無限の経済成長を断念し万人の繁栄と持続可能性に重きを置く脱成長コミュニズムへ
第7章より
・コロナ禍も気候変動も人新世の矛盾の顕在化という意味では資本主義の産物
→どちらも以前から警告されていたが「人命か経済か」で、行き過ぎた対策は景気を悪くすると
根本的問題への取り組みは先延ばしにされている
・危機が深まれば国家による強い介入規制が専門家から要請され個人も自由の制約を受け入れる
・コロナ戦略を第3章「四つの未来の選択肢」でいえば、
→アメリカ・トランプ大統領やブラジル・ボルソナロ大統領は右上①気候ファシズムにあたる
→資本主義の経済活動を最優先し、反対する大臣や専門家を更迭して突き進んだ
→高額な医療費の支払いやリモートワークで自己防衛できる人だけが救われればいいとか、
アマゾン開発に反対する先住民への感染拡大を好機として伐採規制を撤廃しようとか・・・
→いっぽうで中国や欧州諸国は③気候毛沢東主義にあたる
→移動の自由、集会の自由などが国家によって大幅に制限された
→香港では民主化運動の抑圧に利用され、ハンガリーでは政権がフェイクとみなす情報を
流した者を禁固に処する法案が可決された
・新自由主義は社会の関係を商品化し、相互扶助の関係も貨幣・商品関係に置き換えてきた
→相互扶助や思いやりは根こそぎにされてるので不安な人々は国家に頼るしかない
→気候変動についても①になるのか③になるのか、どちらも国家とテクノクラートの支配
→さらに危機が深まると国家さえ機能しなくなり、右下②野蛮状態へと落ちてゆく
・マスクも消毒液も海外アウトソーシングで手に入らず、先進国の巨大製薬会社は儲かる薬に
特化していて、抗生物質や抗ウィルス薬の研究開発から撤退していた
→商品としての価値を重視し使用価値(有用性)を蔑ろにする資本主義では常に起きること
→食糧も高く売れる商品が重視される資本主義と決別し使用価値を重視する社会に移行すべき
・トマ・ピケティの「資本とイデオロギー」2019年刊行(略)
・従来の脱成長派は消費次元での自発的抑制(節電節水・中古・菜食・物シェアなど)が中心
→ところが所有・分配・価値観の変化だけでは資本主義に立ち向かえない
→労働の場(生産・再生産次元)における変革こそが大転換になる
→自動車産業衰退で破綻したデトロイト市のワーカーズコープなどによる都市有機農業の例
→コペンハーゲン市の都市果樹園の例→入会地・コモンズの復権への一歩
→生産次元に蒔かれた種は、消費次元では生まなかった希望という果実を実らせる
・晩年マルクスの脱成長コミュニズムは大きく以下の5点にまとめられる
①使用価値経済への転換
→使用価値に重きを置いた経済に転換して大量生産・大量消費から脱却する
②労働時間の短縮
→労働時間を短縮して生活の質を向上させる(GDPからQOLへ)
③画一的な分業の廃止
→画一的な労働をもたらす分業を廃止して労働の創造性を回復させる
④生産過程の民主化
→生産プロセスの民主化を進め経済を減速させる→社会的所有(アソシエーション)
⑤エッシェンシャル・ワークの重視
→使用価値経済へ転換して労働集約型エッシェンシャル・ワークを重視する
(使用価値を生み出さないブルシットジョブほど高給で人が集まり、社会の再生産に必須な
使用価値の高いものを生み出すエッセンシャルワークほど低賃金で人手不足になっている
→役に立つ、やりがいのある仕事をしているという理由で低賃金・長時間労働に)
・これまでのマルクス主義者の解釈には経済成長を減速させるという文脈はなかった
→脱成長コミュニズムにより物質代謝の亀裂を修復するべき
・グローバル資本主義で疲弊した都市では新しい経済を求める動きが世界で起きている
→脱成長コミュニズムを掲げているわけでも目指しているわけでもないが、その運動
・エクアドル憲法のブエン・ビビール(良く生きる)、ブータン憲法のGNH・・・
→(晩年のマルクスが願っていた)これまでのヨーロッパ中心主義を改めグローバル・サウス
から学ぼうとする、新しい運動も出てきている→21世紀の環境革命に
第8章より
・晩期マルクスの主張は都市の生活や技術を捨てて農耕共同体に戻るというものではない
→都市や技術発展の合理性を完全に否定する必要はないが、都市には問題点も多い
→現在の都市は相互扶助が解体され大量のエネルギーと資源を浪費している
→ただし合理的でエコロジカルな都市改革の動きが地方自治体に芽生えつつある
・スペイン・バルセロナ市とともに闘う各国の自治体
→フェアレス・シティ→国家の新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自治体
→国家もグローバル企業も恐れずに住民のために行動することを目指す都市
→アムステルダム、パリ、グルノーブルなど世界77都市の政党や市民団体が参加している
・バルセロナ市の気候非常事態宣言の例
→声掛けだけでなく数値目標、分析、行動計画を備えたマニフェスト
→自治体職員の作文でもシンクタンクの提案書でもなく市民の力の結集(内容は略)
→ここに至るまでに10年に及ぶ市民の取り組みが存在している(内容は略)
・フェアレス・シティには相互扶助だけでなく都市間の協力関係があり、新自由主義の時代に
民営化されてしまった水道事業などの公共サービスを再び公営化するノウハウなども共有される
→国際的に開かれた自治体主義→ミュニシパリズム
・国家に依存しない参加型民主主義や共同管理の例
→メキシコ・チアパス州サパティスタの抵抗運動は北米自由貿易協定から(内容は略)
→国際農民組織ヴィア・カンペシーナは中南米を中心に2億人以上(内容は略)
→資本主義の外部(今はグローバル・サウス)における残虐性への反資本主義運動
→まさに晩年のマルクスがインドやロシアの運動から摂取した脱成長コミュニズム
・気候正義と食料主権の例
→南アフリカ食糧主権運動→石炭石油化企業の操業停止運動も→運動の国際化へ
・従来マルクス主義の成長論理による将来社会は資本家と搾取がないだけで今と変わらない
→実際にソ連の場合は官僚による国営企業管理の「国家資本主義」になってしまった
・新自由主義の緊縮政策(社会保障費の削減、非正規雇用の増大による賃金低下、民営化による
公共サービスの解体などの推進)には、左派が抵抗しようとしているが・・・
→財政出動で多くを生産し蓄積し経済成長すれば潤沢になるのなら今までどおりの思考
→反緊縮だけでは自然からの収奪は止まらない
→経済を回すだけでは人新世の危機は乗り越えられない
→気候危機の時代には政策の転換より一歩進んだ社会システムの転換を志す必要がある
・緑の経済成長グリーンニューディールも夢の技術ジオエンジニアリングもMMT経済政策も、
大転換を要求する裏で、その危機を生み出している資本主義の根本原因を維持しようとしている
→これが究極の矛盾
・政府ができるのは問題の先送り対策ぐらいで、この時間稼ぎが地球環境には致命傷になる
→国連のSDGsも同じで、中途半端な解決策で人々が安心してしまうと致命傷になる
→石油メジャー、大銀行、GAFAなどデジタルインフラの社会的所有こそが必要なのだ
・私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理コモンがコミュニズムの基盤
→これは国家を拒絶することを意味しない→アナーキズムでは気候変動に対処できない
→インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば解決手段の国家を拒否することは愚かでさえある
→ただし国家に頼り過ぎると気候毛沢東主義に陥る危険がある
・国家の力を前提にしながらコモンの領域を広げていく
→民主主義を議会の外へ、生産の次元へと拡張していく
→協同組合、社会的所有、市民営化・・・
→議会制民主主義そのものも大きく変容しなくてはならない
→地方自治体レベルではミュニシパリズム、国家レベルでは市民議会がモデルになる
・資本主義の超克(経済)、民主主義の刷新(政治)、社会の脱炭素化(環境)の三位一体の大転換
→このプロジェクトの基礎となるのが信頼と相互扶助
→それがなければ非民主的トップダウン型の解決策しか出てこない
→ところが他者への信頼や相互扶助は今は新自由主義で徹底的に解体されている
→なので顔の見えるコミュニティーや地方自治体をベースに回復するしかない
・希望はローカルレベルの運動が、いまや世界中の仲間と繋がっているということ
→「希望をグローバル化するために、たたかいをグローバル化しよう」
(ヴィア・カンペシーナのメッセージ)
→国際的連帯による経験は価値観を変え想像力が広がって今までにない行動ができる
・コミュニティーや社会運動が大きく動けば政治家も大きな変化を恐れなくなる
(バルセロナの市政やフランスの市民議会などの例)
→社会運動と政治の相互作用は促進されボトムアップの社会運動とトップダウンの政党政治は
お互いの力を最大限に発揮できるようになる
→ここまでくれば無限の経済成長と決別した持続可能で公正な社会が実現する
→もちろん着地点は相互扶助と自治に基づいた脱成長コミュニズムである
おわりにより
・マルクスで脱成長なんて正気か・・・との批判を覚悟の上で執筆を始めた
→左派の常識ではマルクスは脱成長など唱えていないということになっている
→右派はソ連の失敗を繰り返すのかと嘲笑するだろう
→さらに脱成長という言葉への反感はリベラルのあいだに非常に根強い
→それでも最新マルクス研究の成果を踏まえ、これが最善の道と確信した
・冷戦終結直後にフランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を唱え、ポストモダンは
「大きな物語の失効」を宣言した
→だが、その後の30年で明らかになったように、資本主義を等閑視した冷笑主義の先に
待っているのは「文明の終わり」である
→だからこそ連帯して脱成長コミュニズムを打ち立てなければならない
・3.5%の人が非暴力な方法で本気で立ち上がると社会が大きく変わるという研究がある
→フィリピンのピープルパワー革命やグルジアのバラ革命など
→ニューヨークのウォール街占拠もバルセロナの座り込みも最初は少人数だった
→グレタ・トゥーンベリの学校ストライキなど「たったひとり」だった
→課題が大きいことを何もしないことの言い訳にしてはいけない
・わたしたちが無関心だったせいで、1%の富裕層・エリート層が好き勝手に、自分たちの
価値観に合わせて社会の仕組みや利害を作り上げてしまったが、はっきりNOを突き付けるとき
→3.5%の動きが大きなうねりになれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、
脱炭素社会も実現されるに違いない・・・
以上、わたくしが分かる範囲での疑問を交えない読書メモですが勘違いもあるので、
興味を持たれた方は本書をお読みくださいね
2023年11月25日
ナマケモノ教授のムダのてつがく
ひさしぶりの読書メモは・・・
「ナマケモノ教授のムダのてつがく」であります
過日のプチオフ会で、川端さんがさらっと流し読みして、たちまち看破されたように、
著者はナマケモノ教授どころか八面六臂の活躍をされておられる文化人類学者で・・・
近代以降、ムダとされ切り捨てられてきた様々なモノ・コト・トキ・ヒトなどが、じつは
人類や地球環境にとって、いかに重要であったかといった内容で、著者略歴にもあるように
ご本人も様々な実践活動を続けてこられた方(わたくしは今回まで知りませんでしたが)
「はじめに」によると・・・
コロナ禍での「不要不急を避けよ」という大合唱がストレスになった若い編集者から、
「不要不急のなくなった世界」を想像して「今の時代にふさわしい哲学」を執筆してみないか
と言われたことがきっかけで「哲学」はわからなくても「てつがく」なら誰もが持ってるので、
ますます忌避され敵視されている「ムダ」について書いたとのこと・・・
よく知られた本や映画や音楽の異なる視点での紹介も多く、なるほど、そういった見方も
あるのかと、納得したり感心したりしましたが、けっこう気軽に読めました
本の奥付であります
例によって目次のみ・・・
目次を追うだけでも本の概要が分かるので、興味のある方はご一読を・・・
(画面をクリックすると拡大します)
すべての概要を紹介したいところですが、帰国後の疲れからかメモするのもめんどーに
なってるので、おぼろげでも記憶に残ってる「幸福」についての2項目のみ・・・
・ロバート・ケネディの言葉
(1968年6月6日に暗殺される2ヶ月ほど前の大統領選キャンペーンでのスピーチから)
→今アメリカが世界一を誇っているGNPには空気汚染、タバコの広告、多数の交通事故死者を
運ぶ救急車、家を守るための鍵、それを破って侵入する犯罪者を収容するための監獄が含まれ、
原生林の破壊や都市化の波もGNPを押し上げている
➝戦争で使われるナパーム弾、核弾頭、デモ隊を蹴散らす装甲車、ウィットマン社製ライフル、
スペック社製ナイフ、子どもたちにおもちゃを売るための暴力を礼賛するテレビ番組も・・・
→一方でGNPに勘定されないものには子どもたちの健康、教育の質、遊びの楽しさ、詩の美しさ、
夫婦の絆の強さ、市民の知恵、勇気、誠実さ、慈悲深さも・・・
→要するに国の富を測るはずのGNPには私たちの生きがいのすべてがすっぽり抜け落ちている
(言い換えれば「豊かさ」を測るはずのGNPからは「幸せ」がすっぽり抜け落ちている)
→あの年の11月に彼が大統領に当選していたら、今頃どうなっていたか・・・
→と、ついついムダなことを考えてしまうのだ・・・
・ブータンが提案したGNHについて
→国王がGNPよりGNHのほうが大切と最初に語ったのは1976年のキューバでの国際会議を
終えた帰途、インドでの記者会見だった
→当時最低だったブータンのGNPについて記者から訊かれ、逆にGNPとは何かと問い返した
→知ってることと知らないことは人によって異なる、逆にGNHを知ってるかと説明した
→弱小国をグローバル経済に取り込もうとする大きな圧力への抵抗であり、他の途上国への
警告だったのではないか
→困ったことにGNHは計測できず数値で表せないから学問の対象にはならない
→測れるものだけを信じ、測れない価値をムダとして片付けるという心のあり方こそが、
社会に深刻な問題を引き起こし、人間を不幸せにするのではないか・・・
→その後40年以上、国をあげてGNH研究に取り組んでおり初の憲法にも明記されている
→国連でも注目され、2011年にはブータンが提案した「社会の発展に幸福という観点をもっと
取り入れる」という決議案が国連総会で採択された・・・
他にも共感できる内容が多かったのですが、ま、著者と違って本来の怠け者なので・・・
巻末にあった引用・参考文献には琴線に触れそうな書籍や映画などがいっぱいだったので、
こちらもメモしておいて、ま、そのうちいつかは・・・
(画面をクリックすると拡大します)
いつ、どれを読めるか分かりませんが、それで何らかの行動をしなければ時間のムダか・・・
でも、たとえムダでも自分にとっては大切なことなのかも・・・
ただし、それを社会とどう繋げていくのか・・・
はてさて・・・
「ナマケモノ教授のムダのてつがく」であります
過日のプチオフ会で、川端さんがさらっと流し読みして、たちまち看破されたように、
著者はナマケモノ教授どころか八面六臂の活躍をされておられる文化人類学者で・・・
近代以降、ムダとされ切り捨てられてきた様々なモノ・コト・トキ・ヒトなどが、じつは
人類や地球環境にとって、いかに重要であったかといった内容で、著者略歴にもあるように
ご本人も様々な実践活動を続けてこられた方(わたくしは今回まで知りませんでしたが)
「はじめに」によると・・・
コロナ禍での「不要不急を避けよ」という大合唱がストレスになった若い編集者から、
「不要不急のなくなった世界」を想像して「今の時代にふさわしい哲学」を執筆してみないか
と言われたことがきっかけで「哲学」はわからなくても「てつがく」なら誰もが持ってるので、
ますます忌避され敵視されている「ムダ」について書いたとのこと・・・
よく知られた本や映画や音楽の異なる視点での紹介も多く、なるほど、そういった見方も
あるのかと、納得したり感心したりしましたが、けっこう気軽に読めました
本の奥付であります
例によって目次のみ・・・
目次を追うだけでも本の概要が分かるので、興味のある方はご一読を・・・
(画面をクリックすると拡大します)
すべての概要を紹介したいところですが、帰国後の疲れからかメモするのもめんどーに
なってるので、おぼろげでも記憶に残ってる「幸福」についての2項目のみ・・・
・ロバート・ケネディの言葉
(1968年6月6日に暗殺される2ヶ月ほど前の大統領選キャンペーンでのスピーチから)
→今アメリカが世界一を誇っているGNPには空気汚染、タバコの広告、多数の交通事故死者を
運ぶ救急車、家を守るための鍵、それを破って侵入する犯罪者を収容するための監獄が含まれ、
原生林の破壊や都市化の波もGNPを押し上げている
➝戦争で使われるナパーム弾、核弾頭、デモ隊を蹴散らす装甲車、ウィットマン社製ライフル、
スペック社製ナイフ、子どもたちにおもちゃを売るための暴力を礼賛するテレビ番組も・・・
→一方でGNPに勘定されないものには子どもたちの健康、教育の質、遊びの楽しさ、詩の美しさ、
夫婦の絆の強さ、市民の知恵、勇気、誠実さ、慈悲深さも・・・
→要するに国の富を測るはずのGNPには私たちの生きがいのすべてがすっぽり抜け落ちている
(言い換えれば「豊かさ」を測るはずのGNPからは「幸せ」がすっぽり抜け落ちている)
→あの年の11月に彼が大統領に当選していたら、今頃どうなっていたか・・・
→と、ついついムダなことを考えてしまうのだ・・・
・ブータンが提案したGNHについて
→国王がGNPよりGNHのほうが大切と最初に語ったのは1976年のキューバでの国際会議を
終えた帰途、インドでの記者会見だった
→当時最低だったブータンのGNPについて記者から訊かれ、逆にGNPとは何かと問い返した
→知ってることと知らないことは人によって異なる、逆にGNHを知ってるかと説明した
→弱小国をグローバル経済に取り込もうとする大きな圧力への抵抗であり、他の途上国への
警告だったのではないか
→困ったことにGNHは計測できず数値で表せないから学問の対象にはならない
→測れるものだけを信じ、測れない価値をムダとして片付けるという心のあり方こそが、
社会に深刻な問題を引き起こし、人間を不幸せにするのではないか・・・
→その後40年以上、国をあげてGNH研究に取り組んでおり初の憲法にも明記されている
→国連でも注目され、2011年にはブータンが提案した「社会の発展に幸福という観点をもっと
取り入れる」という決議案が国連総会で採択された・・・
他にも共感できる内容が多かったのですが、ま、著者と違って本来の怠け者なので・・・
巻末にあった引用・参考文献には琴線に触れそうな書籍や映画などがいっぱいだったので、
こちらもメモしておいて、ま、そのうちいつかは・・・
(画面をクリックすると拡大します)
いつ、どれを読めるか分かりませんが、それで何らかの行動をしなければ時間のムダか・・・
でも、たとえムダでも自分にとっては大切なことなのかも・・・
ただし、それを社会とどう繋げていくのか・・・
はてさて・・・
2023年11月13日
フラッシュ光2023ボルネオ6サバル植林
前回記事からの続き・・・
11月1日(出発して6日目、ボルネオ5日目)の朝、まずはクチン定宿の朝食
皿に2/3だけにして慎ましいもの・・・ま、おかわりはしましたが・・・
と、この日は過去にサバル森林保護区で現地の子どもたちと植えた植林地の現況を確認し、
今回は記念植樹も行って、夜はクパ国立公園のカエル池までナイトトレッキングする予定
まずは昔の1号線、今は高規格のボルネオ縦貫道になった道路をひた走ります
ま、高規格に拡張する際にN.GKSボルネオ植林ボランティアツアーとしては最後となった、
2017年第22次隊の植林地は大部分が削られてしまったのですが
恒例により中間点のスリアンでトイレ休憩と弁当補給とマーケット見学
スリアンのマーケットについては何度か紹介してるので、以下さくさくっと・・・
有料トイレ20セント
はじめてのたまさんとこたまさんはわくわく
魚は殆どが淡水魚
豚肉・猪肉は離れた別棟で扱っており、イスラムへの配慮ですね
さらにさくさくっと・・・
揚げ物屋さん 左端の天ぷらは美味しかったです
ナシ・レマのセット
ココナッツミルクで炊いたご飯と佃煮系などのおかずのセットで3.5リンギ(約100円)
日本のコンビニおにぎり数個分はあり、一食分としては充分ですね
こちらもライチに似て美味しかったです
マーケットで売ってるドリアンより路上で売ってるドリアンの方が新鮮だとか・・・
それにしても、たまさんとこたまさんのよく食べること!!!
あれこれ試食しては次々と購入、手持ちのリンギが尽きるとwing金融の融資を受けて、
さらに追加購入されてたので、今回はお相伴に預かった次第
で、こちらがクラフトビール1602と並び、わたくしの今回目的のひとつだった・・・
サゴヤシに住むゾウムシの幼虫で、とても栄養価の高いイバンのご馳走です
アタマを残しそのまま食べるのが最高らしいのですが、最初は炒め物にする方が無難とのこと、
わたくし今回は調理器具を持参してなかったので、泣く泣くあきらめました ぐすん
マーケットの外には・・・
マレーシア陸軍の車両も停まってて、やはりお弁当の買い出しとかでしょうか・・・
と、スリアンを出て小雨の中を走り続けました・・・
それにしても立派な道路になりましたねえ・・・
旧日本軍が測量・設計して、戦後にイギリス軍が建設した旧道とは大違いです
と、サバルに到着、まずは・・・
サラワク州森林局・サバル森林保護区の事務所に立ち寄ってもらいました
あちこち改装されてて、何度もテラグス小学校の子どもたちとの交流会をしたステージは、
長らく使われていないようでしたが・・・
苗木の育成などは引き続き行われているようでした
で、植林エリアにクルマで移動し、今回は・・・
N.GKSとしてサバルでは最初に植林した2005年第8次隊の植林地のすぐ横で記念植樹!!
植林当時はぬかるんだ地道だった前の道路も今は舗装され二車線になってます
(Y原さん提供画像)
18年も経つと大きく育ってますが、これも間伐や蔓の除去など森林局や現地イバンの人たちが
延々と手入れを続けてくれたお陰なんですね
ここサバル森林保護区では、N.GKS海外植林ボランティアツアーとしては、この2005年の
第8次隊を皮切りに、2017年の第22次隊まで12年間9回の植林活動で合計7,200本の苗木を、
現地テラグス小学校の子どもたちと一緒に植えてきたことになります
木々も子どもたちも大きく育ち、2005年に一緒に植えた小学生たちはとっくに成人になってて、
さらに彼らがわたくしの年齢になる頃には、木々は天を衝く巨木になって、もとの熱帯雨林の
生態系を取り戻し、人々に恩恵を与えてくれることでしょう
さらにさらに彼らの子どもたちも、わたくしたちの次の世代とともに植林活動を続けてくれれば、
やがて持続可能な世界になるはずです
皆さんも、何かできることからされることを願ってやみません
閑話休題
せっかくなので記念写真をば・・・
18年前は若くて元気だったのになあ・・・
ま、米軍のジャングルハットは18年前と同じモノですが・・・
ずっと植林地のお世話をいただいてる現地イバン族のイギンさんとも一緒に・・・
今回は4年ぶりの再会ですが2005年からの長いお付き合いになるはずです
と、皆さんも記念植樹を終えたので・・・
(たまさんこたまさんは最後まで丁寧に埋め戻されてましたが・・・)
あらためて全員で記念写真・・・
今回は第22次隊に参加された、ちかこさんからの支援もいただき一人5本ずつで合計30本、
フタバガキ科・竜脳樹の苗木を植樹し、我々のサバルでの植林本数は7200+30となりました
もともとボルネオ島に自生していた竜脳樹は、80年で80mにもなる超高木なんですが、
ここサバルでは、そんな超高木は一本もなく80年間は伐採し続けてきたとゆーことですね
今は森林局やボランティア団体などが植林を続けてるので80年後に期待しましょう
ただしボルネオ島全体としては「現在も森林伐採やアブラヤシなどによるプランテーションへの
転換などによる自生地の破壊、木材採取や抽出物のための伐採などにより個体数は減少
しています」(ウィキペディアより)とのことです
わたくしは、ここサバルのようなアグロフォレストリー(混農林業)に加えてフェアトレード、
それに今回ツアーのようなエコツーリズムを合わせた3点セットが、誰もが気軽にできる
支援になり、現地の生活も豊かになる方策だと思ってますが、いかがでしょう
閑話休題
記念植樹後は過去の植林地の現況確認へ・・・
まあ、巨大なアリさんを撮ってる人もいましたが無視して・・・
こちらは2007年第10次隊の植林地でパネルは作り変えてくれたようで、ありがたいことです
「協力隊」が「KYORYOKO TAI」になってますが、ま、ご愛敬・・・
こちらは2015年のN.GKS第21次隊の植林地
21次隊では国立サバ大学・熱帯生物保全研究所にも訪問して所長から、N.GKSとの連携協力も
確約いただいたのですが、会員の高齢化により実現しないままになってますねえ・・・
どなたか意思を継いで活動してくれる人はいないかなあ・・・
N.GKS植林ボランティアツアーでは、1回あたり300~600本の苗木を植えましたが、実際に
自分たちと現地の子どもたちで植えた苗木はごく一部で、残りは現地イバンの人たちに委託して
何日もかけて植えてもらってました
わずか8年で、ここまで育ってくれてたので喜びもひとしおです
って、あいかわらずお茶目なN嶋さんですが
さらに奥地にある別の植林地にも向かったのですが・・・
(wingさん提供画像)
アップダウンが激しく、わたくしは無理せず途中で引き返しました
(どなたか、この先の植林地の画像があれば提供をお願いしますね)
それにしても・・・
イギンさんのマチェットはかっこいいなあ・・・まさに熱帯雨林の必需品ですね
と、待ちに待った昼食は・・・
イギンさんのおうちのテラスを借りてのお弁当!!!
N嶋さんがスリアンにあるお店と何度も試行錯誤して、日本からの植林ボランティアに
合うよう工夫されたとのことで、美味しくてスプーンだけでも食べやすかったです
食後はたまさんとこたまさんがスリアンで買った各品にイギンさんの奥様のコーヒー、
ご自宅で採れた各種フルーツなどをいただきながら、話が弾みます
N嶋さんは経団連の助成金を得てイギンさんたち村人のコーヒー栽培を支援、苗木作りから
コーヒー豆の乾燥・出荷まで、村人だけで小規模に行えることを目標にされてるとのこと
「3年かけた第1回の収穫はサルやリスに食べられてしまったけど、今は既にジャスミンの
香りのする白い花を沢山咲かせており、2024年の7~8月頃には第2回の収穫を見込んでおり、
今回は害獣対策を含めて村人も頑張っています」と・・・
ちかこさんの支援の一部も役立てるとのことで、うれしい限りです
アグロフォレストリーの理想的なかたちを目指しておられ、我々にもできることがあれば、
応援したい取り組みだと思いました
ちなみにN嶋さんたちの活動の詳細はこちらからご覧ください
と、イギンさん宅を後にし、クチンに戻る道すがらでドリアンの路上販売を発見!!!
その日に採れた(木から落ちた)ものをバス停で売ってて・・・
こんなカゴを頭の紐で背負って運んで来るんですね
ええ、これまで食べた中でベスト3に入る美味しさでした ばくばく
ドリアンを堪能してしばらく走り、今度は別の路上販売へ・・・
ここではバイクで運んできたドリアンを買い取ってました
ジャックフルーツの一種チャンパダ(コハラミツ)を試食・・・
白い樹液に触れると、ひどくかぶれるそうで手袋をして切り分けてくれます
食べるのもレジ袋を手袋がわりにして外皮の樹液に触れないように・・・
ドリアンとは、やや異なる味わいでしたが、こちらも美味しかったです ばくばく
と、トロピカルフルーツを満喫し車中に戻ったところで、わたくし・・・
H田さんのアロンアルファとガムテープで仮補修、ムルまでは何とか保ってたものの、
先ほどの奥地にある植林地へのガレ場の歩行で・・・
ついに剥がれてしまった靴底についてN嶋さんに報告・・・
途中の激安ホームセンターに立ち寄ってもらい、
ゴム糊と木へらを購入してクチンの定宿に戻りました
皆さんは部屋に戻られましたが、わたくしは・・・
ドライバーのマンソーさんの指導を受けて、道端で靴の補修をば・・・
って、殆どマンソーさんがやってくれたのですが、じつに手慣れたものでした
丁寧に汚れや古いゴム糊を落とし、両面にゴム糊を塗って木枝を挟んで乾燥させ、
道のコンクリートなどを利用して凄い握力と腕力で圧着してました
これ以降、帰国まで補修の必要はなくなり、あらためてマンソーさんに感謝です
と、靴の補修後はわたくしも暫しホテルの自室で休憩して・・・
御一行はクパ国立公園カエル池へのナイトトレッキングに向かうことになります
(次号に続きます)
11月1日(出発して6日目、ボルネオ5日目)の朝、まずはクチン定宿の朝食
皿に2/3だけにして慎ましいもの・・・ま、おかわりはしましたが・・・
と、この日は過去にサバル森林保護区で現地の子どもたちと植えた植林地の現況を確認し、
今回は記念植樹も行って、夜はクパ国立公園のカエル池までナイトトレッキングする予定
まずは昔の1号線、今は高規格のボルネオ縦貫道になった道路をひた走ります
ま、高規格に拡張する際にN.GKSボルネオ植林ボランティアツアーとしては最後となった、
2017年第22次隊の植林地は大部分が削られてしまったのですが
恒例により中間点のスリアンでトイレ休憩と弁当補給とマーケット見学
スリアンのマーケットについては何度か紹介してるので、以下さくさくっと・・・
有料トイレ20セント
はじめてのたまさんとこたまさんはわくわく
魚は殆どが淡水魚
豚肉・猪肉は離れた別棟で扱っており、イスラムへの配慮ですね
さらにさくさくっと・・・
揚げ物屋さん 左端の天ぷらは美味しかったです
ナシ・レマのセット
ココナッツミルクで炊いたご飯と佃煮系などのおかずのセットで3.5リンギ(約100円)
日本のコンビニおにぎり数個分はあり、一食分としては充分ですね
こちらもライチに似て美味しかったです
マーケットで売ってるドリアンより路上で売ってるドリアンの方が新鮮だとか・・・
それにしても、たまさんとこたまさんのよく食べること!!!
あれこれ試食しては次々と購入、手持ちのリンギが尽きるとwing金融の融資を受けて、
さらに追加購入されてたので、今回はお相伴に預かった次第
で、こちらがクラフトビール1602と並び、わたくしの今回目的のひとつだった・・・
サゴヤシに住むゾウムシの幼虫で、とても栄養価の高いイバンのご馳走です
アタマを残しそのまま食べるのが最高らしいのですが、最初は炒め物にする方が無難とのこと、
わたくし今回は調理器具を持参してなかったので、泣く泣くあきらめました ぐすん
マーケットの外には・・・
マレーシア陸軍の車両も停まってて、やはりお弁当の買い出しとかでしょうか・・・
と、スリアンを出て小雨の中を走り続けました・・・
それにしても立派な道路になりましたねえ・・・
旧日本軍が測量・設計して、戦後にイギリス軍が建設した旧道とは大違いです
と、サバルに到着、まずは・・・
サラワク州森林局・サバル森林保護区の事務所に立ち寄ってもらいました
あちこち改装されてて、何度もテラグス小学校の子どもたちとの交流会をしたステージは、
長らく使われていないようでしたが・・・
苗木の育成などは引き続き行われているようでした
で、植林エリアにクルマで移動し、今回は・・・
N.GKSとしてサバルでは最初に植林した2005年第8次隊の植林地のすぐ横で記念植樹!!
植林当時はぬかるんだ地道だった前の道路も今は舗装され二車線になってます
(Y原さん提供画像)
18年も経つと大きく育ってますが、これも間伐や蔓の除去など森林局や現地イバンの人たちが
延々と手入れを続けてくれたお陰なんですね
ここサバル森林保護区では、N.GKS海外植林ボランティアツアーとしては、この2005年の
第8次隊を皮切りに、2017年の第22次隊まで12年間9回の植林活動で合計7,200本の苗木を、
現地テラグス小学校の子どもたちと一緒に植えてきたことになります
木々も子どもたちも大きく育ち、2005年に一緒に植えた小学生たちはとっくに成人になってて、
さらに彼らがわたくしの年齢になる頃には、木々は天を衝く巨木になって、もとの熱帯雨林の
生態系を取り戻し、人々に恩恵を与えてくれることでしょう
さらにさらに彼らの子どもたちも、わたくしたちの次の世代とともに植林活動を続けてくれれば、
やがて持続可能な世界になるはずです
皆さんも、何かできることからされることを願ってやみません
閑話休題
せっかくなので記念写真をば・・・
18年前は若くて元気だったのになあ・・・
ま、米軍のジャングルハットは18年前と同じモノですが・・・
ずっと植林地のお世話をいただいてる現地イバン族のイギンさんとも一緒に・・・
今回は4年ぶりの再会ですが2005年からの長いお付き合いになるはずです
と、皆さんも記念植樹を終えたので・・・
(たまさんこたまさんは最後まで丁寧に埋め戻されてましたが・・・)
あらためて全員で記念写真・・・
今回は第22次隊に参加された、ちかこさんからの支援もいただき一人5本ずつで合計30本、
フタバガキ科・竜脳樹の苗木を植樹し、我々のサバルでの植林本数は7200+30となりました
もともとボルネオ島に自生していた竜脳樹は、80年で80mにもなる超高木なんですが、
ここサバルでは、そんな超高木は一本もなく80年間は伐採し続けてきたとゆーことですね
今は森林局やボランティア団体などが植林を続けてるので80年後に期待しましょう
ただしボルネオ島全体としては「現在も森林伐採やアブラヤシなどによるプランテーションへの
転換などによる自生地の破壊、木材採取や抽出物のための伐採などにより個体数は減少
しています」(ウィキペディアより)とのことです
わたくしは、ここサバルのようなアグロフォレストリー(混農林業)に加えてフェアトレード、
それに今回ツアーのようなエコツーリズムを合わせた3点セットが、誰もが気軽にできる
支援になり、現地の生活も豊かになる方策だと思ってますが、いかがでしょう
閑話休題
記念植樹後は過去の植林地の現況確認へ・・・
まあ、巨大なアリさんを撮ってる人もいましたが無視して・・・
こちらは2007年第10次隊の植林地でパネルは作り変えてくれたようで、ありがたいことです
「協力隊」が「KYORYOKO TAI」になってますが、ま、ご愛敬・・・
こちらは2015年のN.GKS第21次隊の植林地
21次隊では国立サバ大学・熱帯生物保全研究所にも訪問して所長から、N.GKSとの連携協力も
確約いただいたのですが、会員の高齢化により実現しないままになってますねえ・・・
どなたか意思を継いで活動してくれる人はいないかなあ・・・
N.GKS植林ボランティアツアーでは、1回あたり300~600本の苗木を植えましたが、実際に
自分たちと現地の子どもたちで植えた苗木はごく一部で、残りは現地イバンの人たちに委託して
何日もかけて植えてもらってました
わずか8年で、ここまで育ってくれてたので喜びもひとしおです
って、あいかわらずお茶目なN嶋さんですが
さらに奥地にある別の植林地にも向かったのですが・・・
(wingさん提供画像)
アップダウンが激しく、わたくしは無理せず途中で引き返しました
(どなたか、この先の植林地の画像があれば提供をお願いしますね)
それにしても・・・
イギンさんのマチェットはかっこいいなあ・・・まさに熱帯雨林の必需品ですね
と、待ちに待った昼食は・・・
イギンさんのおうちのテラスを借りてのお弁当!!!
N嶋さんがスリアンにあるお店と何度も試行錯誤して、日本からの植林ボランティアに
合うよう工夫されたとのことで、美味しくてスプーンだけでも食べやすかったです
食後はたまさんとこたまさんがスリアンで買った各品にイギンさんの奥様のコーヒー、
ご自宅で採れた各種フルーツなどをいただきながら、話が弾みます
N嶋さんは経団連の助成金を得てイギンさんたち村人のコーヒー栽培を支援、苗木作りから
コーヒー豆の乾燥・出荷まで、村人だけで小規模に行えることを目標にされてるとのこと
「3年かけた第1回の収穫はサルやリスに食べられてしまったけど、今は既にジャスミンの
香りのする白い花を沢山咲かせており、2024年の7~8月頃には第2回の収穫を見込んでおり、
今回は害獣対策を含めて村人も頑張っています」と・・・
ちかこさんの支援の一部も役立てるとのことで、うれしい限りです
アグロフォレストリーの理想的なかたちを目指しておられ、我々にもできることがあれば、
応援したい取り組みだと思いました
ちなみにN嶋さんたちの活動の詳細はこちらからご覧ください
と、イギンさん宅を後にし、クチンに戻る道すがらでドリアンの路上販売を発見!!!
その日に採れた(木から落ちた)ものをバス停で売ってて・・・
こんなカゴを頭の紐で背負って運んで来るんですね
ええ、これまで食べた中でベスト3に入る美味しさでした ばくばく
ドリアンを堪能してしばらく走り、今度は別の路上販売へ・・・
ここではバイクで運んできたドリアンを買い取ってました
ジャックフルーツの一種チャンパダ(コハラミツ)を試食・・・
白い樹液に触れると、ひどくかぶれるそうで手袋をして切り分けてくれます
食べるのもレジ袋を手袋がわりにして外皮の樹液に触れないように・・・
ドリアンとは、やや異なる味わいでしたが、こちらも美味しかったです ばくばく
と、トロピカルフルーツを満喫し車中に戻ったところで、わたくし・・・
H田さんのアロンアルファとガムテープで仮補修、ムルまでは何とか保ってたものの、
先ほどの奥地にある植林地へのガレ場の歩行で・・・
ついに剥がれてしまった靴底についてN嶋さんに報告・・・
途中の激安ホームセンターに立ち寄ってもらい、
ゴム糊と木へらを購入してクチンの定宿に戻りました
皆さんは部屋に戻られましたが、わたくしは・・・
ドライバーのマンソーさんの指導を受けて、道端で靴の補修をば・・・
って、殆どマンソーさんがやってくれたのですが、じつに手慣れたものでした
丁寧に汚れや古いゴム糊を落とし、両面にゴム糊を塗って木枝を挟んで乾燥させ、
道のコンクリートなどを利用して凄い握力と腕力で圧着してました
これ以降、帰国まで補修の必要はなくなり、あらためてマンソーさんに感謝です
と、靴の補修後はわたくしも暫しホテルの自室で休憩して・・・
御一行はクパ国立公園カエル池へのナイトトレッキングに向かうことになります
(次号に続きます)
2022年10月22日
市民と行政の協働・・・
とーとつですが・・・
市民と行政の協働~ごみ紛争から考える地域創造への視座~
濱 真理著 社会評論社 2022年8月25日初版第1刷発行・・・とゆー本のご紹介であります
行政の関係者だけでなく、ボランティアなど様々な市民活動をしておられる方々にも、
参考になると思いましたので紹介させていただきます
表紙下部にある惹句の拡大
奥付にあった著者紹介
例によって目次のみのご紹介
参考文献や索引も含めると250頁を超える、著者の博士論文をベースにした専門書ですが、
国内外の様々な事例から市民と行政の対立と変容、格差と葛藤などを分かりやすく紹介、
その協働を促進するうえでの第三者(機関)の役割、対立を超えた地域社会創造への提案まで、
豊富な実務経験と多岐にわたる文献資料だけでなく、各地での聞き取り調査も行い、長年の
研究成果をまとめられた、新たな公共政策論であります
とても全ては紹介できませんが、以下はわたくしが興味を持った部分の読後メモです
当サイト恒例の「思いつくままメモ」なので、わたくしの思い違いも多々あるはずですし、
正しくは本書のご熟読をお願いしますね
第Ⅰ編~市民と行政の対立と変容、協働~
序章より
・東京都小金井市の市長辞任の例(略)
→近隣に廃棄物処理施設が建設されると聞いたら、あなたはどうするか・・・
→その反応に行政はどう対応するか・・・
・フィリピン・スモーキーマウンテンのスカベンジャーの例(略)
→ごみ問題は貧富の格差の問題、行政と住民の力の格差の問題でもある
・ディケンズの小説に現れる「第三者」の例
→弱者を支援する第三者、NGO、第三者機関・・・
・コロナ禍でのマスク着用という公共政策の例
→日本では啓発活動という政策手法のみで、合意形成の手続きは(必要?)なかった
→欧米では(個人の自由の侵害で)議会討論を経た立法など合意形成の手続きが必要だろう
→日本での政策参加は、それに関わる市民や、その分野に得意な市民だけでいい?
→対立しない政策でも市民と行政が協働で形成する方が望ましい政策もあるはず・・・
第1章より
・大阪市住之江工場の事例
→完全対立のままの例
→紛争勃発から最高裁上告棄却まで、歴代3人の市長リーダーシップによるものではなく、
ずっと行政主導型の政策形成だった
→議会も(共産以外)全て与党で、行政が政治アクターと調整し政策を形成・推進していた
→これらが反対住民を「かたくな」にさせたが、住民側の学習による変容が進展した
・東京都杉並清掃工場の事例
→和解成立と住民の運営参加の例
→都知事と住民の対話→混乱の激化→ごみ戦争→地裁からの和解勧告→和解条項の監視へ
→運営協議会設立→34年間の行政との協働での学習と運営→現場公務員との信頼関係の醸成
→短期間での現地建て替え合意へ
第2章より
・第1章の住民の学習による変容は特殊な現象ではなく一般的なもの
・武蔵野クリーンセンターの住民の学習と変容の例
→煙突から排出される水蒸気は冷えると白い煙に見える→再加熱して透明にしていた
→再加熱には石油を大量消費する→住民委員から無駄な(毎年億単位の)税金支出との意見
→学習・議論して再加熱をやめることに決定
→有害な煙ではないことの地域住民への説明は住民委員が自ら実施した
・ジョン・ロールズの反省的均衡から
→学習による反省→変容→葛藤から均衡→合意形成→やがて市民文化をも変容させる
・個人の意思形成過程
→アダム・スミスの道徳感情論・国富論から→公平な観察者になると他者の利益に理解を示す
→行動経済学の「良き市民」から→学習を重ねると同感し向き合う方向に変容する
・個人の意思決定と集団の意思決定
→タルコット・パーソンズのLIGAモデルから考える
→住民共有の情報→学習による共同幻想的な(潜在的な文化システム)の醸成=Latency
→具体的な地域の共通認識→疑似地域計画の形成=Integlation
→個々の住民レベルまで消化・内面化された明確な地域目標=Goal
→個々人が目標に適合的な行動を開始=Adaptation
・市民文化の変容
→市民文化には地域差が存在する(米英独伊墨の意識調査の例)
→市民の政策参加意識は変化してきている(ドイツの地方自治活動などの例)
→変化して定着した市民文化が集合的記憶になる(戦後日本の民主主義の例)
→日本の情報公開・行政手続など制度の変遷からは市民参加を重視する方向にある
→日本の市民文化は徐々に公共政策参加志向に変容していくと期待される
・共同行動するコミュニティ(第1章の例など)
・意思決定できるコミュニティ(他の多くの地域)
・機能しないコミュニティ(トレーラーハウス街やスラム街、ワンルーム街などの一部)
・地域コミュニティの変容
→すべての政策がすべてのステークホルダーにとってウィンウィンとはならない
→社会的弱者を含むすべてのステークホルダーが納得する条件下で、
→便益とコストがフェアに配分されるのが理想的な政策の形成・履行の姿
→これが社会的ジレンマ現象の根本的解決になる
→反対運動が起こらずアンフェアが定着するより反対運動が起こるほうが望ましい
・町内会
→地域の反対意見とは誰の反対意見なのか、行政はどう判断するのか?
→個人?→町内会長?→町内の複数人の署名?→町内会の決議?
→町内では賛成意見が多くても有力な町内会長のよる町内会の決議が反対ならどうか?
→異質な者を統合するのが町内会の機能で、最大公約数的な価値に基づく合意が形成される
→それは往々にして実利を優先する価値観による価値
→ふだん行政の手先でも保守系議員の選挙基盤でも、大損すると感じたら鮮明に反対する
第3章より
・行政の変容
→社会に有用な公共政策とは、歩み寄りによる均衡点を持つ政策
(各ステークホルダーが合理的に行動・変容すれば均衡点への経路のある政策)
→行政も市民と同様に学習・変容できれば、社会に有用な公共政策は実現できるはず
→住民の変容事例は確認できたが行政の変容事例は、まだエビデンスを得るほどは・・・
→ただし長期的・制度的には、海外の影響もあり変容しているのは確か
→行政は政治家の政策を実行するだけでなく政策を企画し実行する政治機能を有している
・行政の政治機能
→日本の国家官僚は、60年代までは使命感を持ち政策を立案・遂行する「国士型」
→70年代には団体活動や政党環境の変化からステークホルダーを調整する「調整型」
→80年代の中頃以降から政治家や社会の圧力が強まり必要最小限だけする「官吏型」
→地方政府職員も政策を立案・遂行するのは同様だが、国の省庁による「官僚内閣制」が
近年の政治主導の制度改革で弱まるのとは異なり、もともと首長が政策決定することが可能
→ただし縦割りを廃した場合でも個々の政策案は担当部局の行政職員が立案することが多い
→議員は地元の不利益になる政策提案者にはなりたがらず、職員や首長が嫌われ役になる
→制度変更には専門性も必要なので行政は政治過程である政策形成に大きな位置を占める
・地方の首長と議会、行政の政治機能
→首長・議員は政治問題化していない政策の初動対応には意見を述べてから職員に委ねる
→政治問題化しているときや関心が強いときは政策形成を主導することがある
・行政の意思形成過程
→地方行政の政策形成では枠組み(福祉・環境・教育など)ごとの、前例による価値基準や
実施手順、共通する行政姿勢や価値観といった慣行と、それと表裏一体である発想枠がある
→これが明文化されていない職員の「共通枠組み」で、いわば行政文化を形成している
→これがメタ政策形成レベルの判断規範になっている
→廃棄物処理施設を立地する場合、住民に押し付けるか、意見を聴く「カタチ」にするか、
真に協働して決定するかは、この判断規範に属し個別の政策形成で検討されることはない
・この「メタ政策形成レベルの共通枠組み」を簡単に「しがらみ」と呼べば・・・
→行政への反対抵抗運動の多くは、この「しがらみ」の変更を求める行動
→住民は学習(情報の論理的・客観的・科学的処理)により短期間で変容する
→住民は「しがらみ」に縛られないので「事実がそうならこうあるべき」という思考も生まれる
→住民交渉窓口職員が「しがらみ」の矛盾に気づいても行政組織として変えることは容易ではない
→行政組織は学習では変容しないが、職員個人は学習により変容することがある
→その職員は新たな行政規範(あるいは良心)と「しがらみ」の間で悩むことになる
→行政組織は「しがらみ」を変えることによって変容する
→これに大きく作用するのは市民応答での長期的調整と社会の常識・規範・価値観の変化
→「しがらみ」のうち慣行や単なる発想枠は外部からの作用で一転してしまうことがある
→政策形成や政治的言動を左右する発想枠は固着的でコアな行政組織文化で、時間を要する
・官僚制の合理性と批判(略)
(ポピュリスト首相・首長の合理的でない政策の強要に、抵抗する官僚と追従に走る官僚)
・ロバート・パットナムの実証的な分析(北イタリアと南イタリアの違いから→略)
→統治機構のパフォーマンスと市民文化との関係→ゲームの理論
・廃棄物政策の例
・前世紀末の廃棄物処理問題の原因は分断型社会(植田和弘)
→戦後しばらくの生ごみから、プラ・大型家電なども→高度成長期・バブル期など急増期も
→ステークホルダーは行政だけでなく製造者・販売者・消費者も重要なアクターなのだが、
→これらが分断され、市町村のみが汲々としていた分断型社会だった
→焼却・埋め立てでは追いつかずリサイクルへ→消費者による分別が必要になった(協働)
→根本的解決には製造者・販売者が主軸のリユース・リデュースも必要になった(協働)
→やがて市町村が共同して製造者・販売者・消費者への対処や国への規制を要請
→国も動き減量リサイクル優先の国家施策に転換が図られ、分断型社会は改善方向へ
・市民と協働する行政
→廃棄物政策の例はステークホルダー全てが関わって生じている
→単に市民の意見を尊重するだけで事足りる問題ではなかった
→このような事象には政策立案・履行にステークホルダー各々が情報を共有し意思形成に
参加して取り組むほうが効果的
→行政には、潜在するステークホルダーも巻き込み、協働して解決のための政策を進める
積極性が求められる
→これが「受け身の市民参加」を超えたレベルの「協働を目指す行政」
(パットナムの分析例では北イタリアの行政)
・市民の類型と行政の類型の関係
→意思決定・行動できない市民には、押し付け型行政(意見を聴くのは無駄だから)
→意思決定できる市民には、住民意思優先型行政(対応しないと履行できないか低下するから)
→行動する市民には、協働型行政
→これらは市民に応答して行政が変容することを示している
→市民との協働が最も効果的な政策推進をもたらすという共通認識が行政組織に共有されると
行政は協働による政策推進を積極的に選ぶようになり、協働型行政が定着する
→市民の類型に応答した行政のコスト(略)
・行政を変容させる他の環境、引き金など・・・
→大災害を経験すると新防災計画の策定や設備投資へ
→学校でのいじめ、廃棄物の増量、かつての公害問題なども引き金になるが・・・
→社会問題に即した行政の変容は(政策ニーズへの対応としては遅いが)制度変更はされる
→ただし職員の「しがらみ」に変容がなければカタチだけで実が伴わない場合もある
・地方自治体の制度変更は国に先行することが多い
→その要因として(特に都道府県・政令市・大都市に多い)相互参照(情報交換)がある
→先行したモデルケースの成功情報が拡散され、実施されていく
・変容のトリガー候補は職員・首長・議員(上部構造)だが、緊急事態や外部の大きな要請など、
客観的に確認しうる政策ニーズ(下部構造)が存在しているときにアクションを起こせば動く
→予兆を最初に察知できるのは行政職員の場合が多いが「しがらみ」の変容につながるか・・・
・市民のあり様に直接影響されての行政の変容
・これとは別に社会の常識・規範・価値観に合わせた行政の変容がある
→この社会の常識・規範・価値観の変容は市民文化から
・協働のパートナーは対等でなければならない
→自治度の高いコミュニティ(行動する市民)は行政と対等に渡り合える可能性があるが、
その他のコミュニティには難しい→行政との力量の差異があるから
→この格差への対処を第Ⅱ編で・・・
第Ⅱ編~市民に関わる格差と葛藤~
第4章より
・行政は統治権力の執行機関であり、地域住民とは圧倒的な力の差異がある
→民主制の統治システムでは国民が主権者で上位のはずだが現実は逆・・・
→どうすれば対等に議論・交渉できるのか、政策や計画の合意が形成されるのか
→情報格差の解消と行政裁量の統制から・・・
・政府組織に知識・情報が集中する社会は問題(ハイエク)
・弁護士など行政情報提供業の担い手が市民対行政関係調整業になることが理想(足立忠夫)
→情報の非対称性の解消には当初からの住民参加だが、その場合でも基礎的な常識は必要
→なので足立の説く第三者の存在は重要
・ハイエクの情報・知識論から(略)
・地方自治に住民が参画して初めて情報は市民にとって意味を持つ(ドイツ・武蔵野の例→略)
・権力としての行政の統制
(行政法・財政学・福祉国家論など、めんどーなハナシなので略)
第5章より
・ごみ処理施設に関わった住民への聴き取りでは当初からの市民参加に全員が疑問を呈した
→利害が絡む地元の話し合いは難しく、不利益分配の行司役は行えないから・・・
→参加すれば、自分たちでは決められない、では済まないから・・・
→しかし行政が決めるしかないと考えている訳ではなく、押し付けへの反発が運動の原点
→自分たちが決定すると確信しているが、行政が用意した合意形成の場への参加には懐疑的
・武蔵野クリーンセンターの市民参加による合意形成の事例
→複数候補地の住民参加による委員会で理性的な熟議により用地が選定された
→建設後も運営協議会が常設され住民が施設の運営に参加した
→20年後の建て替えでも市民参加の委員会で準備を進め短期間で稼働した
→これは典型的な成功例で、参加実態への異議を呈する研究も見当たらない
(成功の要因)
→市民が情報蓄積により、ごみ問題の重要性・緊急性を認識していた
→市長が早くから市民参加を推進した
→市民参加による政策課題の解決という市民文化が定着していた
→市役所職員が市民をパートナーとする市役所文化が定着していた
・猪名川上流広域ごみ処理施設組合「国崎クリーンセンター」の紛争と合意形成の事例
→反対運動が二つに集約され、一方は訴訟(最高裁上告不受理)、もう一方は会議参加から
施設運営を継続して監視していく立場を選択した
→行政側は当初は押し付け、その後は一貫して住民参加推進の姿勢で竣工後も継続している
→多くの地域住民が旧施設のダイオキシン排出報道で新施設の必要性を認識していた
→行政の方向転換に加え、住民が情報を蓄え認識を深めていたことで参加による合意形成に
・長野県中信地区の産業廃棄物処理施設の合意形成の事例
→複数候補地の住民参加による市民委員会方式で建設用地選定方法を確定したのが特徴
→当時の田中康夫知事が全面バックアップしていた
→その後、アセスメント→用地決定→建設のスケジュールだったが知事の指示で中断した
(廃棄物発生を抑制し処理施設を作らない趣旨の条例を検討していて議論が拡大したから)
→それでもアセスメントへ→候補地2か所選定となったが住民説明会で反発された
→処理施設整備の議論へ、新たに廃棄物減量の議論が展開され合意形成できなかった
・観察した社会学者は予定地の住民が納得して賛同した経緯になっていないと指摘している
→市民参加の委員会形式では多様な実情をノイズとして均質化してしまい正義の強者が現れる
→行政は市民参加を振りかざし現れたが、行政との格差を実感していた住民にとっては、
行政自身が「正義の強者」だったのである
・なぜ住民たちは行政が主宰する市民参加の場に躊躇するのか
→意識的あるいは無意識に行政との格差を感じていたからではないか
(その要因)
→行政は情報量において圧倒的に優位
→市民参加の委員会でも情報は行政から提供される
→勉強してもわからないことは対峙する行政に教えられ、選択肢まで暗示される
・これでは議論しても到底勝ち目はないと感じる
→偏らない科学的な情報を提供し、自発的な学習を支え、結論が客観的に見えてくるよう
議論の進行を流れに委ねていなければ、住民は参加を危ういと直感する
(成功例は市民と行政の情報量の格差、問題認識や理解の差異、方向性の差異が小さかった)
・行政とのケンカなら、やり方は住民が選べるが、行政の仕組みに嵌れば自由はほぼない
→「正しい手続き」に異は唱えられず、分別ある大人の話し合いで決まってしまう
→このような市民参加なら嫌がるのは当然
・行政には世論を形成する力もありメディアへの影響力も大きい
→弱い立場の住民が市民からも悪者にされ、地域エゴだという世論に苦しめられる
・行政にとっての合意形成の意味
→今は押し付けでなく市民参加により合意形成を図るべきという手続的規範
→合意形成で政策の実現可能性が一気に高まるという意味で望ましい価値を帯び規範的
(決めるから参加せよといわれた住民にとっての意味とは全く異なる)
・合意形成のステップ
→住民にとっての合意形成の場への参加は、合意形成に合意したことを意味する
・地方行政に求められるもの
→ステークホルダー間の経常的に良好な関係
(情報公開、公平な対応、透明性、誠実さなどによる)
→信頼関係が構築されていない場合に溝を埋めるのが第三者
・廃棄物の増量トレンドは収まり、処理施設は新設よりリプレイスの時代に
→めいわく施設は建設後も「喉元過ぎれば」がなく住民との関係が続くのでむしろメリット
→焼却施設は30年前後は稼働するので住民との対等な関係、情報共有、意見反映が続けば、
信頼関係が築かれて施設更新も円滑に進むだろう・・・
第6章より
・カナダ・アルバータ州の総合廃棄物処理施設と地域格差の例
→アルバータ州スワンヒルズでは施設立地の住民投票で79%が賛成し立地が確定した
→市民参加による合意形成が喧伝されたが、研究者から以下のような批判があった
①予定地の外縁隣接住民はトレーラーハウスに住み非定住で生活に精一杯、建設反対運動を
展開できるようなコミュニティではなかった
②ステークホルダーのうち反対するであろう①の住民には投票権が付与されなかった
・ステークホルダーの認識・確定
→行政が認定の範囲を歪めてしまうという問題
→悪意なら行政内部の「しがらみ」を変えねばならない
→裁量の濫用の問題でもある→コントロールの役割は第三者・・・
→ステークホルダーであっても自ら認識できない、社会に関心を向ける余裕がない、
共同して行動を展開できる自治力がない、といったことで自己申告しないで把握洩れに
→合意形成の合意の前にステークホルダーの認識・確定を行政手順に組み込んでおくこと
・ケイパビリティに欠ける住民と地域
→ハーシュマンの組織と構成員の関係論考では構成員・関係者は組織の変化や衰退に対して
離脱か発言か忠誠か、いずれかの行動をとると論じている
→これは個人が自立して行動する架空社会のハナシ
→現実にはその選択をするケイパビリティに欠ける住民が存在する→忍従しかない
→新自由主義で福祉国家論には翳りが見えたが貧困や格差はますます拡大している
→社会的弱者を支える政策が公的部門から消えることはないだろう
→住民と地域のケイパビリティを引き上げて助け合うコミュニティを築くこと
→引き上げるアクターは行政かNPOか営利団体か・・・
・行政の住民学習支援ケアサービスの実例(アメリカ)から
→埋め立て処分場の汚染が発覚し、環境保護庁EPAは環境対策の実施に周辺コミュニティの
市民参加による政策形成方式を導入、地域住民で構成する組織を設立して金銭支援
→住民たちには汚染の知識がないのでEPAが情報提供し住民が専門家を雇う費用を全額支出
→EPAは知恵と金は出すが口は出さない
→専門の第三者が参加して意見形成環境を醸成した
→政策形成には望ましい結果をもたらし、住民のケイパビリティも育ち高まった
→やがてその居住区が自治能力の高い地域に変貌することも期待できる
・市民・地域間に格差が定着し再生産される理由
(社会学・教育社会学・都市社会地理学のハナシなので→略)
・市民・地域間の格差に対する対処への思想
→アマルティア・センの思想(略)
→ジョン・ロールズの正義論(略)
・政策の失敗への対応(福島原発事故の教訓から一般的対処策を考察)
→事故と被害について(略)
・教訓からの予防ルール
①巨大な悪影響がある政策、実施することにより大変な危険・危機を招く政策、あるいは
正義にもとる政策は実施すべきでない。してはいけない政策は実施しない
②実施しても便益がほとんどない無意味な政策は実施されるべきではない
③政策を実施するにあたっては政策の効果や影響および政策遂行の進め方の適切さを充分に
事前評価しなければならない
・教訓からの地域復興ルール
①政策失敗の被害対応にあたる行政などの復興推進主体は「人間の復興」を目的として
復興を進めて行かなければならない
②復興推進主体は(復興対象が生活してきた)「地域そのものの復興」を念頭に置いて
取り組みを進めて行かなければならない
③復興政策はその対象である地域の人々の参画のもとに進められる必要がある
・廃棄物処理施設立地・建設政策の失敗への対処策(略)
第Ⅲ編~協働を促進する第三者の役割と課題~
第7章より
・第三者の機能としての公平な主体による交渉や介入(メディエーション)の事例
「社会的弱者への支援介入」例
→アイルランドの地域組織による弱者支援
→米国のアドヴォカシー・プランニングによる住民の都市計画参画
「大学によるもの」例
→ワシントンの地域交通問題の解決
→米国たばこ農業振興と健康増進の対立解決
「国際NGOによるもの」例
→ガーナの鳥獣保護区の事例
(保護担当政府職員と部族民のトラブル多発に現地での支援活動で両者から信頼を得ていた
NGOが介入して解決)
・紛争を伴わない公共的取り組みに第三者が関わる事例
→ソーシャル・イノベーションにおけるチェンジ・エージェント
→芸術(映画など)・文化(著作物など)における仲介エージェント
・現代の米国における(公共)メディエーション定着の例
→公共政策でメディエーションを実施する機関がすでに存在している
→民間会社、非営利団体、連邦政府組織、州政府機関、大学と、これらの提携もある
・他国の例(カナダ、英国西欧など、中国)→略
・NGOの例(前述のガーナやボリヴィアの森林開発)
・日本におけるメディエーションのための社会的基盤創設の展望
→アメリカでは市場で提供されているが、品質や供給不足が懸念される
→ユーザーには選択肢が多い方が望ましいので供給者の量と質の確保が条件になる
→日本ではADR(裁判外紛争解決手続)制度があるが行政との仲介は荷が重いのでは
→対行政での顕在需要がないのでアメリカのような自然発生は期待しがたい
→法律や地方の条例による義務化、免許制度なども考えられるが、まずは実証実験から
→資金、質、中立・公正・公平性の確保が必要(略)
・第三者機関が機能を発揮するための条件(略)
・市民・住民の変容を促す第三者の役割(略)
・行政の裁量行為・処分の適正化に果たす第三者の役割(略)
第8章より
・アダム・スミスの公平な観察者としての第三者
・ボイラー事故から石谷清幹が着目した第三者の役割
・公務員(と町内会・PTA・ボランティア活動などにミッションを感じる市民)への提言
→自分の心中の「公平な観察者」の声に耳を貸して第三者意識を抱きながら公共的活動に
取り組んでほしい、ということに尽きる・・・
・主体的な生き方から地域協働社会の構築へ
→メディエーションはステークホルダーが主体的に考え行動して、あるいはメディエーターが
そのようにステークホルダーを変容させて、はじめて成功裡に終わる
→それぞれが主体性を確立したとき、協働による地域社会構築の歩みが着実に始まる
・リサイクル・循環・想像力・第三者・・・
→近年の廃棄物政策は、自然の物質循環にできるだけ沿って取り扱う、という考え方
→自然循環を守る取り組みが人々の生活を持続可能にする(森里海連環学)
→原発は自然循環に沿った技術とはみなしがたく、社会の循環、関係の輪に納まっていない
終章より
・各アクターの変容と特徴
→市民は学習で短期に変容し、その方向の大きな要素は情報
→行政は市民の変容が社会に定着することで変容するが短期ではない
→行政を有効に機能させるのは第三者も含む市民の力
・第三者の登場と新たな役割
→市民に信頼される公平な第三者(機関)が一般的になれば、行政にとってもメリットが大きい
・市民と行政が一定の変容を遂げ第三者が活躍する将来の社会(略)
・序章での問いかけ(近隣に廃棄物処理施設が建設されると聞いたら、あなたはどうするか)
→その答えの選択肢の中に、公平な第三者機関があったとすれば・・・
・市民との協働を行政の「しがらみ」の中に取り入れた地方政府は現に存在するので、
その中から第三者機関の創出を主導したり、地域で生まれた第三者機関を利用したりする
行政機関が現れる可能性はある
・公共の衆議の場を24年間も提供し続けている市民もいるので、市民主体で第三者機関が
芽生える可能性もある
・なのでモデルケースとして第三者機関が設立されることは非現実的な想定ではない
→モデルケースは地方政府の相互参照(情報交換)で全国に広がり、やがて国も動く
→それで新たな社会のステージが開ける・・・(これは強い願望を込めて・・・)
・・・
いやあ、実例や古今東西の文献が網羅されてて、じつに濃い内容でした
惹句にもあったとおり、特に第三者(機関)の役割という観点は目からウロコでした
わたくしも著者とは別の「枠組み」で公共政策を実施していた際に、市民との対立や市民同士の
対立を経験し、当時の都市問題の研究者や比較的冷静だった支援ボランティアの方などと
議論していて、なるほどそういう考え方もあるのかと納得したことは何度かあり、その一部は
政策にも反映できましたが、やはりその件に関係する「行政のしがらみ」や「市民文化」を
変容させるまでには至りませんでした。
あの場に、お互いが信頼できる公平な第三者機関があれば、どうなっていたか・・・
すでに何度か書いてますが、わたくし文明史にも興味があり最近はこんな本を読んだりしてて、
国家・農耕・文字・市民・奴隷(今なら旧植民地の労働者や非正規?)の誕生と、それらと同時に
生まれた専業の行政官との関係については、(やはり同時に生まれた)専業の神官(学者)との
関係とは異なり、イマイチよくわからなかったのですが・・・
行政の権力行使と市民との対立は都市国家の成立から現在まで続いており、個人の確立と
自由意志を前提とした国家(権力)→(社会契約説の理想社会?)などあり得ないと思ってたのが、
本著に何度も出てくる「市民の学習と変容による行政の変容」や、それに重要な役割を果たす
「公平な第三者機関」とゆーキーワードから、少しはその存在が見えてきました
国家や都市に束縛されない野蛮人(今ならグローバル企業のエリートとか?)と行政の関係も、
揺れ動く世界経済の仕組みのなかで、今後どう展開していくのか・・・
さらに新自由主義以降の行政の福祉政策や、ポピュリズムと行政の関係などなど・・・
まだまだ興味は尽きませんが、ともかく読み終えたので、まずは一杯・・・ぷしゅ
市民と行政の協働~ごみ紛争から考える地域創造への視座~
濱 真理著 社会評論社 2022年8月25日初版第1刷発行・・・とゆー本のご紹介であります
行政の関係者だけでなく、ボランティアなど様々な市民活動をしておられる方々にも、
参考になると思いましたので紹介させていただきます
表紙下部にある惹句の拡大
奥付にあった著者紹介
例によって目次のみのご紹介
参考文献や索引も含めると250頁を超える、著者の博士論文をベースにした専門書ですが、
国内外の様々な事例から市民と行政の対立と変容、格差と葛藤などを分かりやすく紹介、
その協働を促進するうえでの第三者(機関)の役割、対立を超えた地域社会創造への提案まで、
豊富な実務経験と多岐にわたる文献資料だけでなく、各地での聞き取り調査も行い、長年の
研究成果をまとめられた、新たな公共政策論であります
とても全ては紹介できませんが、以下はわたくしが興味を持った部分の読後メモです
当サイト恒例の「思いつくままメモ」なので、わたくしの思い違いも多々あるはずですし、
正しくは本書のご熟読をお願いしますね
第Ⅰ編~市民と行政の対立と変容、協働~
序章より
・東京都小金井市の市長辞任の例(略)
→近隣に廃棄物処理施設が建設されると聞いたら、あなたはどうするか・・・
→その反応に行政はどう対応するか・・・
・フィリピン・スモーキーマウンテンのスカベンジャーの例(略)
→ごみ問題は貧富の格差の問題、行政と住民の力の格差の問題でもある
・ディケンズの小説に現れる「第三者」の例
→弱者を支援する第三者、NGO、第三者機関・・・
・コロナ禍でのマスク着用という公共政策の例
→日本では啓発活動という政策手法のみで、合意形成の手続きは(必要?)なかった
→欧米では(個人の自由の侵害で)議会討論を経た立法など合意形成の手続きが必要だろう
→日本での政策参加は、それに関わる市民や、その分野に得意な市民だけでいい?
→対立しない政策でも市民と行政が協働で形成する方が望ましい政策もあるはず・・・
第1章より
・大阪市住之江工場の事例
→完全対立のままの例
→紛争勃発から最高裁上告棄却まで、歴代3人の市長リーダーシップによるものではなく、
ずっと行政主導型の政策形成だった
→議会も(共産以外)全て与党で、行政が政治アクターと調整し政策を形成・推進していた
→これらが反対住民を「かたくな」にさせたが、住民側の学習による変容が進展した
・東京都杉並清掃工場の事例
→和解成立と住民の運営参加の例
→都知事と住民の対話→混乱の激化→ごみ戦争→地裁からの和解勧告→和解条項の監視へ
→運営協議会設立→34年間の行政との協働での学習と運営→現場公務員との信頼関係の醸成
→短期間での現地建て替え合意へ
第2章より
・第1章の住民の学習による変容は特殊な現象ではなく一般的なもの
・武蔵野クリーンセンターの住民の学習と変容の例
→煙突から排出される水蒸気は冷えると白い煙に見える→再加熱して透明にしていた
→再加熱には石油を大量消費する→住民委員から無駄な(毎年億単位の)税金支出との意見
→学習・議論して再加熱をやめることに決定
→有害な煙ではないことの地域住民への説明は住民委員が自ら実施した
・ジョン・ロールズの反省的均衡から
→学習による反省→変容→葛藤から均衡→合意形成→やがて市民文化をも変容させる
・個人の意思形成過程
→アダム・スミスの道徳感情論・国富論から→公平な観察者になると他者の利益に理解を示す
→行動経済学の「良き市民」から→学習を重ねると同感し向き合う方向に変容する
・個人の意思決定と集団の意思決定
→タルコット・パーソンズのLIGAモデルから考える
→住民共有の情報→学習による共同幻想的な(潜在的な文化システム)の醸成=Latency
→具体的な地域の共通認識→疑似地域計画の形成=Integlation
→個々の住民レベルまで消化・内面化された明確な地域目標=Goal
→個々人が目標に適合的な行動を開始=Adaptation
・市民文化の変容
→市民文化には地域差が存在する(米英独伊墨の意識調査の例)
→市民の政策参加意識は変化してきている(ドイツの地方自治活動などの例)
→変化して定着した市民文化が集合的記憶になる(戦後日本の民主主義の例)
→日本の情報公開・行政手続など制度の変遷からは市民参加を重視する方向にある
→日本の市民文化は徐々に公共政策参加志向に変容していくと期待される
・共同行動するコミュニティ(第1章の例など)
・意思決定できるコミュニティ(他の多くの地域)
・機能しないコミュニティ(トレーラーハウス街やスラム街、ワンルーム街などの一部)
・地域コミュニティの変容
→すべての政策がすべてのステークホルダーにとってウィンウィンとはならない
→社会的弱者を含むすべてのステークホルダーが納得する条件下で、
→便益とコストがフェアに配分されるのが理想的な政策の形成・履行の姿
→これが社会的ジレンマ現象の根本的解決になる
→反対運動が起こらずアンフェアが定着するより反対運動が起こるほうが望ましい
・町内会
→地域の反対意見とは誰の反対意見なのか、行政はどう判断するのか?
→個人?→町内会長?→町内の複数人の署名?→町内会の決議?
→町内では賛成意見が多くても有力な町内会長のよる町内会の決議が反対ならどうか?
→異質な者を統合するのが町内会の機能で、最大公約数的な価値に基づく合意が形成される
→それは往々にして実利を優先する価値観による価値
→ふだん行政の手先でも保守系議員の選挙基盤でも、大損すると感じたら鮮明に反対する
第3章より
・行政の変容
→社会に有用な公共政策とは、歩み寄りによる均衡点を持つ政策
(各ステークホルダーが合理的に行動・変容すれば均衡点への経路のある政策)
→行政も市民と同様に学習・変容できれば、社会に有用な公共政策は実現できるはず
→住民の変容事例は確認できたが行政の変容事例は、まだエビデンスを得るほどは・・・
→ただし長期的・制度的には、海外の影響もあり変容しているのは確か
→行政は政治家の政策を実行するだけでなく政策を企画し実行する政治機能を有している
・行政の政治機能
→日本の国家官僚は、60年代までは使命感を持ち政策を立案・遂行する「国士型」
→70年代には団体活動や政党環境の変化からステークホルダーを調整する「調整型」
→80年代の中頃以降から政治家や社会の圧力が強まり必要最小限だけする「官吏型」
→地方政府職員も政策を立案・遂行するのは同様だが、国の省庁による「官僚内閣制」が
近年の政治主導の制度改革で弱まるのとは異なり、もともと首長が政策決定することが可能
→ただし縦割りを廃した場合でも個々の政策案は担当部局の行政職員が立案することが多い
→議員は地元の不利益になる政策提案者にはなりたがらず、職員や首長が嫌われ役になる
→制度変更には専門性も必要なので行政は政治過程である政策形成に大きな位置を占める
・地方の首長と議会、行政の政治機能
→首長・議員は政治問題化していない政策の初動対応には意見を述べてから職員に委ねる
→政治問題化しているときや関心が強いときは政策形成を主導することがある
・行政の意思形成過程
→地方行政の政策形成では枠組み(福祉・環境・教育など)ごとの、前例による価値基準や
実施手順、共通する行政姿勢や価値観といった慣行と、それと表裏一体である発想枠がある
→これが明文化されていない職員の「共通枠組み」で、いわば行政文化を形成している
→これがメタ政策形成レベルの判断規範になっている
→廃棄物処理施設を立地する場合、住民に押し付けるか、意見を聴く「カタチ」にするか、
真に協働して決定するかは、この判断規範に属し個別の政策形成で検討されることはない
・この「メタ政策形成レベルの共通枠組み」を簡単に「しがらみ」と呼べば・・・
→行政への反対抵抗運動の多くは、この「しがらみ」の変更を求める行動
→住民は学習(情報の論理的・客観的・科学的処理)により短期間で変容する
→住民は「しがらみ」に縛られないので「事実がそうならこうあるべき」という思考も生まれる
→住民交渉窓口職員が「しがらみ」の矛盾に気づいても行政組織として変えることは容易ではない
→行政組織は学習では変容しないが、職員個人は学習により変容することがある
→その職員は新たな行政規範(あるいは良心)と「しがらみ」の間で悩むことになる
→行政組織は「しがらみ」を変えることによって変容する
→これに大きく作用するのは市民応答での長期的調整と社会の常識・規範・価値観の変化
→「しがらみ」のうち慣行や単なる発想枠は外部からの作用で一転してしまうことがある
→政策形成や政治的言動を左右する発想枠は固着的でコアな行政組織文化で、時間を要する
・官僚制の合理性と批判(略)
(ポピュリスト首相・首長の合理的でない政策の強要に、抵抗する官僚と追従に走る官僚)
・ロバート・パットナムの実証的な分析(北イタリアと南イタリアの違いから→略)
→統治機構のパフォーマンスと市民文化との関係→ゲームの理論
・廃棄物政策の例
・前世紀末の廃棄物処理問題の原因は分断型社会(植田和弘)
→戦後しばらくの生ごみから、プラ・大型家電なども→高度成長期・バブル期など急増期も
→ステークホルダーは行政だけでなく製造者・販売者・消費者も重要なアクターなのだが、
→これらが分断され、市町村のみが汲々としていた分断型社会だった
→焼却・埋め立てでは追いつかずリサイクルへ→消費者による分別が必要になった(協働)
→根本的解決には製造者・販売者が主軸のリユース・リデュースも必要になった(協働)
→やがて市町村が共同して製造者・販売者・消費者への対処や国への規制を要請
→国も動き減量リサイクル優先の国家施策に転換が図られ、分断型社会は改善方向へ
・市民と協働する行政
→廃棄物政策の例はステークホルダー全てが関わって生じている
→単に市民の意見を尊重するだけで事足りる問題ではなかった
→このような事象には政策立案・履行にステークホルダー各々が情報を共有し意思形成に
参加して取り組むほうが効果的
→行政には、潜在するステークホルダーも巻き込み、協働して解決のための政策を進める
積極性が求められる
→これが「受け身の市民参加」を超えたレベルの「協働を目指す行政」
(パットナムの分析例では北イタリアの行政)
・市民の類型と行政の類型の関係
→意思決定・行動できない市民には、押し付け型行政(意見を聴くのは無駄だから)
→意思決定できる市民には、住民意思優先型行政(対応しないと履行できないか低下するから)
→行動する市民には、協働型行政
→これらは市民に応答して行政が変容することを示している
→市民との協働が最も効果的な政策推進をもたらすという共通認識が行政組織に共有されると
行政は協働による政策推進を積極的に選ぶようになり、協働型行政が定着する
→市民の類型に応答した行政のコスト(略)
・行政を変容させる他の環境、引き金など・・・
→大災害を経験すると新防災計画の策定や設備投資へ
→学校でのいじめ、廃棄物の増量、かつての公害問題なども引き金になるが・・・
→社会問題に即した行政の変容は(政策ニーズへの対応としては遅いが)制度変更はされる
→ただし職員の「しがらみ」に変容がなければカタチだけで実が伴わない場合もある
・地方自治体の制度変更は国に先行することが多い
→その要因として(特に都道府県・政令市・大都市に多い)相互参照(情報交換)がある
→先行したモデルケースの成功情報が拡散され、実施されていく
・変容のトリガー候補は職員・首長・議員(上部構造)だが、緊急事態や外部の大きな要請など、
客観的に確認しうる政策ニーズ(下部構造)が存在しているときにアクションを起こせば動く
→予兆を最初に察知できるのは行政職員の場合が多いが「しがらみ」の変容につながるか・・・
・市民のあり様に直接影響されての行政の変容
・これとは別に社会の常識・規範・価値観に合わせた行政の変容がある
→この社会の常識・規範・価値観の変容は市民文化から
・協働のパートナーは対等でなければならない
→自治度の高いコミュニティ(行動する市民)は行政と対等に渡り合える可能性があるが、
その他のコミュニティには難しい→行政との力量の差異があるから
→この格差への対処を第Ⅱ編で・・・
第Ⅱ編~市民に関わる格差と葛藤~
第4章より
・行政は統治権力の執行機関であり、地域住民とは圧倒的な力の差異がある
→民主制の統治システムでは国民が主権者で上位のはずだが現実は逆・・・
→どうすれば対等に議論・交渉できるのか、政策や計画の合意が形成されるのか
→情報格差の解消と行政裁量の統制から・・・
・政府組織に知識・情報が集中する社会は問題(ハイエク)
・弁護士など行政情報提供業の担い手が市民対行政関係調整業になることが理想(足立忠夫)
→情報の非対称性の解消には当初からの住民参加だが、その場合でも基礎的な常識は必要
→なので足立の説く第三者の存在は重要
・ハイエクの情報・知識論から(略)
・地方自治に住民が参画して初めて情報は市民にとって意味を持つ(ドイツ・武蔵野の例→略)
・権力としての行政の統制
(行政法・財政学・福祉国家論など、めんどーなハナシなので略)
第5章より
・ごみ処理施設に関わった住民への聴き取りでは当初からの市民参加に全員が疑問を呈した
→利害が絡む地元の話し合いは難しく、不利益分配の行司役は行えないから・・・
→参加すれば、自分たちでは決められない、では済まないから・・・
→しかし行政が決めるしかないと考えている訳ではなく、押し付けへの反発が運動の原点
→自分たちが決定すると確信しているが、行政が用意した合意形成の場への参加には懐疑的
・武蔵野クリーンセンターの市民参加による合意形成の事例
→複数候補地の住民参加による委員会で理性的な熟議により用地が選定された
→建設後も運営協議会が常設され住民が施設の運営に参加した
→20年後の建て替えでも市民参加の委員会で準備を進め短期間で稼働した
→これは典型的な成功例で、参加実態への異議を呈する研究も見当たらない
(成功の要因)
→市民が情報蓄積により、ごみ問題の重要性・緊急性を認識していた
→市長が早くから市民参加を推進した
→市民参加による政策課題の解決という市民文化が定着していた
→市役所職員が市民をパートナーとする市役所文化が定着していた
・猪名川上流広域ごみ処理施設組合「国崎クリーンセンター」の紛争と合意形成の事例
→反対運動が二つに集約され、一方は訴訟(最高裁上告不受理)、もう一方は会議参加から
施設運営を継続して監視していく立場を選択した
→行政側は当初は押し付け、その後は一貫して住民参加推進の姿勢で竣工後も継続している
→多くの地域住民が旧施設のダイオキシン排出報道で新施設の必要性を認識していた
→行政の方向転換に加え、住民が情報を蓄え認識を深めていたことで参加による合意形成に
・長野県中信地区の産業廃棄物処理施設の合意形成の事例
→複数候補地の住民参加による市民委員会方式で建設用地選定方法を確定したのが特徴
→当時の田中康夫知事が全面バックアップしていた
→その後、アセスメント→用地決定→建設のスケジュールだったが知事の指示で中断した
(廃棄物発生を抑制し処理施設を作らない趣旨の条例を検討していて議論が拡大したから)
→それでもアセスメントへ→候補地2か所選定となったが住民説明会で反発された
→処理施設整備の議論へ、新たに廃棄物減量の議論が展開され合意形成できなかった
・観察した社会学者は予定地の住民が納得して賛同した経緯になっていないと指摘している
→市民参加の委員会形式では多様な実情をノイズとして均質化してしまい正義の強者が現れる
→行政は市民参加を振りかざし現れたが、行政との格差を実感していた住民にとっては、
行政自身が「正義の強者」だったのである
・なぜ住民たちは行政が主宰する市民参加の場に躊躇するのか
→意識的あるいは無意識に行政との格差を感じていたからではないか
(その要因)
→行政は情報量において圧倒的に優位
→市民参加の委員会でも情報は行政から提供される
→勉強してもわからないことは対峙する行政に教えられ、選択肢まで暗示される
・これでは議論しても到底勝ち目はないと感じる
→偏らない科学的な情報を提供し、自発的な学習を支え、結論が客観的に見えてくるよう
議論の進行を流れに委ねていなければ、住民は参加を危ういと直感する
(成功例は市民と行政の情報量の格差、問題認識や理解の差異、方向性の差異が小さかった)
・行政とのケンカなら、やり方は住民が選べるが、行政の仕組みに嵌れば自由はほぼない
→「正しい手続き」に異は唱えられず、分別ある大人の話し合いで決まってしまう
→このような市民参加なら嫌がるのは当然
・行政には世論を形成する力もありメディアへの影響力も大きい
→弱い立場の住民が市民からも悪者にされ、地域エゴだという世論に苦しめられる
・行政にとっての合意形成の意味
→今は押し付けでなく市民参加により合意形成を図るべきという手続的規範
→合意形成で政策の実現可能性が一気に高まるという意味で望ましい価値を帯び規範的
(決めるから参加せよといわれた住民にとっての意味とは全く異なる)
・合意形成のステップ
→住民にとっての合意形成の場への参加は、合意形成に合意したことを意味する
・地方行政に求められるもの
→ステークホルダー間の経常的に良好な関係
(情報公開、公平な対応、透明性、誠実さなどによる)
→信頼関係が構築されていない場合に溝を埋めるのが第三者
・廃棄物の増量トレンドは収まり、処理施設は新設よりリプレイスの時代に
→めいわく施設は建設後も「喉元過ぎれば」がなく住民との関係が続くのでむしろメリット
→焼却施設は30年前後は稼働するので住民との対等な関係、情報共有、意見反映が続けば、
信頼関係が築かれて施設更新も円滑に進むだろう・・・
第6章より
・カナダ・アルバータ州の総合廃棄物処理施設と地域格差の例
→アルバータ州スワンヒルズでは施設立地の住民投票で79%が賛成し立地が確定した
→市民参加による合意形成が喧伝されたが、研究者から以下のような批判があった
①予定地の外縁隣接住民はトレーラーハウスに住み非定住で生活に精一杯、建設反対運動を
展開できるようなコミュニティではなかった
②ステークホルダーのうち反対するであろう①の住民には投票権が付与されなかった
・ステークホルダーの認識・確定
→行政が認定の範囲を歪めてしまうという問題
→悪意なら行政内部の「しがらみ」を変えねばならない
→裁量の濫用の問題でもある→コントロールの役割は第三者・・・
→ステークホルダーであっても自ら認識できない、社会に関心を向ける余裕がない、
共同して行動を展開できる自治力がない、といったことで自己申告しないで把握洩れに
→合意形成の合意の前にステークホルダーの認識・確定を行政手順に組み込んでおくこと
・ケイパビリティに欠ける住民と地域
→ハーシュマンの組織と構成員の関係論考では構成員・関係者は組織の変化や衰退に対して
離脱か発言か忠誠か、いずれかの行動をとると論じている
→これは個人が自立して行動する架空社会のハナシ
→現実にはその選択をするケイパビリティに欠ける住民が存在する→忍従しかない
→新自由主義で福祉国家論には翳りが見えたが貧困や格差はますます拡大している
→社会的弱者を支える政策が公的部門から消えることはないだろう
→住民と地域のケイパビリティを引き上げて助け合うコミュニティを築くこと
→引き上げるアクターは行政かNPOか営利団体か・・・
・行政の住民学習支援ケアサービスの実例(アメリカ)から
→埋め立て処分場の汚染が発覚し、環境保護庁EPAは環境対策の実施に周辺コミュニティの
市民参加による政策形成方式を導入、地域住民で構成する組織を設立して金銭支援
→住民たちには汚染の知識がないのでEPAが情報提供し住民が専門家を雇う費用を全額支出
→EPAは知恵と金は出すが口は出さない
→専門の第三者が参加して意見形成環境を醸成した
→政策形成には望ましい結果をもたらし、住民のケイパビリティも育ち高まった
→やがてその居住区が自治能力の高い地域に変貌することも期待できる
・市民・地域間に格差が定着し再生産される理由
(社会学・教育社会学・都市社会地理学のハナシなので→略)
・市民・地域間の格差に対する対処への思想
→アマルティア・センの思想(略)
→ジョン・ロールズの正義論(略)
・政策の失敗への対応(福島原発事故の教訓から一般的対処策を考察)
→事故と被害について(略)
・教訓からの予防ルール
①巨大な悪影響がある政策、実施することにより大変な危険・危機を招く政策、あるいは
正義にもとる政策は実施すべきでない。してはいけない政策は実施しない
②実施しても便益がほとんどない無意味な政策は実施されるべきではない
③政策を実施するにあたっては政策の効果や影響および政策遂行の進め方の適切さを充分に
事前評価しなければならない
・教訓からの地域復興ルール
①政策失敗の被害対応にあたる行政などの復興推進主体は「人間の復興」を目的として
復興を進めて行かなければならない
②復興推進主体は(復興対象が生活してきた)「地域そのものの復興」を念頭に置いて
取り組みを進めて行かなければならない
③復興政策はその対象である地域の人々の参画のもとに進められる必要がある
・廃棄物処理施設立地・建設政策の失敗への対処策(略)
第Ⅲ編~協働を促進する第三者の役割と課題~
第7章より
・第三者の機能としての公平な主体による交渉や介入(メディエーション)の事例
「社会的弱者への支援介入」例
→アイルランドの地域組織による弱者支援
→米国のアドヴォカシー・プランニングによる住民の都市計画参画
「大学によるもの」例
→ワシントンの地域交通問題の解決
→米国たばこ農業振興と健康増進の対立解決
「国際NGOによるもの」例
→ガーナの鳥獣保護区の事例
(保護担当政府職員と部族民のトラブル多発に現地での支援活動で両者から信頼を得ていた
NGOが介入して解決)
・紛争を伴わない公共的取り組みに第三者が関わる事例
→ソーシャル・イノベーションにおけるチェンジ・エージェント
→芸術(映画など)・文化(著作物など)における仲介エージェント
・現代の米国における(公共)メディエーション定着の例
→公共政策でメディエーションを実施する機関がすでに存在している
→民間会社、非営利団体、連邦政府組織、州政府機関、大学と、これらの提携もある
・他国の例(カナダ、英国西欧など、中国)→略
・NGOの例(前述のガーナやボリヴィアの森林開発)
・日本におけるメディエーションのための社会的基盤創設の展望
→アメリカでは市場で提供されているが、品質や供給不足が懸念される
→ユーザーには選択肢が多い方が望ましいので供給者の量と質の確保が条件になる
→日本ではADR(裁判外紛争解決手続)制度があるが行政との仲介は荷が重いのでは
→対行政での顕在需要がないのでアメリカのような自然発生は期待しがたい
→法律や地方の条例による義務化、免許制度なども考えられるが、まずは実証実験から
→資金、質、中立・公正・公平性の確保が必要(略)
・第三者機関が機能を発揮するための条件(略)
・市民・住民の変容を促す第三者の役割(略)
・行政の裁量行為・処分の適正化に果たす第三者の役割(略)
第8章より
・アダム・スミスの公平な観察者としての第三者
・ボイラー事故から石谷清幹が着目した第三者の役割
・公務員(と町内会・PTA・ボランティア活動などにミッションを感じる市民)への提言
→自分の心中の「公平な観察者」の声に耳を貸して第三者意識を抱きながら公共的活動に
取り組んでほしい、ということに尽きる・・・
・主体的な生き方から地域協働社会の構築へ
→メディエーションはステークホルダーが主体的に考え行動して、あるいはメディエーターが
そのようにステークホルダーを変容させて、はじめて成功裡に終わる
→それぞれが主体性を確立したとき、協働による地域社会構築の歩みが着実に始まる
・リサイクル・循環・想像力・第三者・・・
→近年の廃棄物政策は、自然の物質循環にできるだけ沿って取り扱う、という考え方
→自然循環を守る取り組みが人々の生活を持続可能にする(森里海連環学)
→原発は自然循環に沿った技術とはみなしがたく、社会の循環、関係の輪に納まっていない
終章より
・各アクターの変容と特徴
→市民は学習で短期に変容し、その方向の大きな要素は情報
→行政は市民の変容が社会に定着することで変容するが短期ではない
→行政を有効に機能させるのは第三者も含む市民の力
・第三者の登場と新たな役割
→市民に信頼される公平な第三者(機関)が一般的になれば、行政にとってもメリットが大きい
・市民と行政が一定の変容を遂げ第三者が活躍する将来の社会(略)
・序章での問いかけ(近隣に廃棄物処理施設が建設されると聞いたら、あなたはどうするか)
→その答えの選択肢の中に、公平な第三者機関があったとすれば・・・
・市民との協働を行政の「しがらみ」の中に取り入れた地方政府は現に存在するので、
その中から第三者機関の創出を主導したり、地域で生まれた第三者機関を利用したりする
行政機関が現れる可能性はある
・公共の衆議の場を24年間も提供し続けている市民もいるので、市民主体で第三者機関が
芽生える可能性もある
・なのでモデルケースとして第三者機関が設立されることは非現実的な想定ではない
→モデルケースは地方政府の相互参照(情報交換)で全国に広がり、やがて国も動く
→それで新たな社会のステージが開ける・・・(これは強い願望を込めて・・・)
・・・
いやあ、実例や古今東西の文献が網羅されてて、じつに濃い内容でした
惹句にもあったとおり、特に第三者(機関)の役割という観点は目からウロコでした
わたくしも著者とは別の「枠組み」で公共政策を実施していた際に、市民との対立や市民同士の
対立を経験し、当時の都市問題の研究者や比較的冷静だった支援ボランティアの方などと
議論していて、なるほどそういう考え方もあるのかと納得したことは何度かあり、その一部は
政策にも反映できましたが、やはりその件に関係する「行政のしがらみ」や「市民文化」を
変容させるまでには至りませんでした。
あの場に、お互いが信頼できる公平な第三者機関があれば、どうなっていたか・・・
すでに何度か書いてますが、わたくし文明史にも興味があり最近はこんな本を読んだりしてて、
国家・農耕・文字・市民・奴隷(今なら旧植民地の労働者や非正規?)の誕生と、それらと同時に
生まれた専業の行政官との関係については、(やはり同時に生まれた)専業の神官(学者)との
関係とは異なり、イマイチよくわからなかったのですが・・・
行政の権力行使と市民との対立は都市国家の成立から現在まで続いており、個人の確立と
自由意志を前提とした国家(権力)→(社会契約説の理想社会?)などあり得ないと思ってたのが、
本著に何度も出てくる「市民の学習と変容による行政の変容」や、それに重要な役割を果たす
「公平な第三者機関」とゆーキーワードから、少しはその存在が見えてきました
国家や都市に束縛されない野蛮人(今ならグローバル企業のエリートとか?)と行政の関係も、
揺れ動く世界経済の仕組みのなかで、今後どう展開していくのか・・・
さらに新自由主義以降の行政の福祉政策や、ポピュリズムと行政の関係などなど・・・
まだまだ興味は尽きませんが、ともかく読み終えたので、まずは一杯・・・ぷしゅ