ボルネオ
2024年10月08日
皇紀3千年「実論夢想」
とーとつですが本日・・・
わたくしも手伝っていた海外植林ボランティア団体N.GKS(もと緑の協力隊・関西澤井隊)の
澤井代表に関する2冊目の本が、3年前の「アッと驚く! 90歳」に続いて出版されました
(N.GKS関係者には、いずれ郵送などで届くはずです)
皇紀3千年(西暦2340年)「実論夢想」
表紙カバーは1993年シリア・パルミナ遺跡にて
裏表紙カバーは冬の大三角形とオリオン座・・・眼下蒼天
奥付
産経新聞生活情報センター 2024年10月8日 第1刷発行
著者紹介
共著になってますが「アッと驚く! 90歳」の著者である藤本氏が、前後足掛け5年間にわたり、
ほぼ月2回のペースで行った澤井代表へのインタビューと、澤井代表が保管している膨大な
過去資料から、歴史事実や澤井代表の生き方や考え方を引用しつつ、日本や世界の現状分析と
今後300年にわたる将来展望について、分かりやすくまとめられた本であります
1931年生まれの澤井代表にとって、紀元といえばキリスト紀元ではなく神武紀元(皇紀)であり、
子どもの頃に迎えた紀元2600年(1940年)の300年前の日本は江戸時代前期、その頃の人たちの
何人が300年後の日本を想像できたであろうか、今の政治家はじめ何人が300年後へのビジョンを
持っているのか、自分は300年後の皇紀3000年に向けて実論による夢想を藤本氏に語ったと・・・
膨大な資料をアナログ整理して保存、それらに関する記憶が90歳を超えても正確に残っていて、
それを最新の日本や世界の情勢と結びつけて主張する澤井代表も凄いですが、5年間にわたる
インタビューの膨大なメモを整理して資料と照合のうえ、それらを引用して最終的に自分の
文章としてまとめ上げた藤本氏の聞き手としての能力も筆力も凄いと感心しました
例によって目次の紹介
特に地熱発電についての現状、商業ベースに乗る熱源の資源量(2300万kw)は世界3位なのに
発電設備が世界10位(49万kw)まで落ちたのは、目先の利益追求という浅はかな企業論理とか、
政府支援の打ち切り(1990年代)とか、温泉街の反対とか国立公園内は許可されないからとか、
業務スーパー創業者の熱意などについても知らないことも多く目からウロコでした
(ちなみに日本の電力消費は1億~1億4000万kw/h程度なので、商業ベースだけで考えても
1/4から1/6程度は地熱発電で賄えることになりますね)
確かに地熱発電なら、火山国では資源は無尽蔵タダでCO2も核廃棄物も出さず、大規模な
太陽光や風力、水力、大規模バイオマスのような環境破壊もなく天候にも左右されず24時間
365日稼働可能な純国産エネルギーですね
どの項目にも出版直前までの最新情報による、現在の最先端技術や混迷する世界の現状が
紹介されており、それを澤井代表が半世紀以上も前から予測し警告していたという事実を、
当時の澤井代表が書いた文章などから発見し、そのことに何度も驚嘆したと、藤本氏が書いて
おられましたが、あちこちにハナシが跳ぶインタビューから、それらを見つけ出す藤本氏の
聞き手としての能力に、むしろわたくしは驚嘆しました
当ブログサイト書斎カテゴリで紹介しているような歴史や環境や最新科学に関する書籍も、
多くを精読されておられるようで、それぞれの著者とは、おそらく意見は異なるのでしょうが、
まさに幅広い最新知識があってこその労作ですね
さすがはベテラン手練れのもと新聞記者であります
とても内容すべては紹介できませんし澤井代表や藤本氏の主張についても、見方によっては
異論もあるでしょうが、特に林業・林政や教育・環境については100年先200年先を見越した
ビジョンが必要なことは間違いありません
ここでは末尾にあった写真資料のうち海外植林ボランティアに関する部分のみ新聞記事を
中心に、ランダムに一部を紹介させていただきます
(出版物の添付資料なので公開に問題があるようなら非公開設定にします)
2012年、N.GKS第16次隊(ボルネオ)に関する毎日新聞の記事
2018年、N.GKS最後となった第23次隊(内モンゴル)に関する読売新聞の記事
2011年、東日本大震災支援へのお礼も込めた第15次隊(モンゴル)に関して、
モンゴル特命全権大使からの感謝状授与を伝える京都新聞の記事
2013年、第18次隊(ボルネオ)に関する産経新聞の記事
故・遠山正瑛翁とのツーショット(内モンゴル・クブチ沙漠・恩格貝にて)
2010年、第14次隊(内モンゴル)に関する京都新聞の記事
2009年、第12次隊(ブラジル・アマゾン)に関する現地サンパウロ新聞の記事
2015年、澤井代表自分史の自費出版を伝える京都新聞の記事
上から順に、
1990年、中国・内モンゴル自治区・クブチ沙漠・恩格貝の様子、
1999年、N.GKS第1次隊によるクブチ沙漠での最初の植林作業の様子、
2018年、最後となった第23次隊でのクブチ沙漠・恩格貝の様子
まあ、「最後となった」とは書いたものの・・・
当時、城南新報で紹介されてた帰国報告ではラスト宣言を撤回して、
「3~5年後には植えた1000本のナツメが実るので車椅子に乗ってでも食べに行きたい」
と答えておられますが・・・
ともかく93歳になった現在も(足腰が弱り介護施設のお世話になっているものの)頭はますます
冴えわたっているとのことでした
98歳まで日本と中国を月に何度も往復されてて大往生された故・遠山正瑛翁に負けないよう、
今後もできる範囲で大いに活躍してほしいものです
わたくしも手伝っていた海外植林ボランティア団体N.GKS(もと緑の協力隊・関西澤井隊)の
澤井代表に関する2冊目の本が、3年前の「アッと驚く! 90歳」に続いて出版されました
(N.GKS関係者には、いずれ郵送などで届くはずです)
皇紀3千年(西暦2340年)「実論夢想」
表紙カバーは1993年シリア・パルミナ遺跡にて
裏表紙カバーは冬の大三角形とオリオン座・・・眼下蒼天
奥付
産経新聞生活情報センター 2024年10月8日 第1刷発行
著者紹介
共著になってますが「アッと驚く! 90歳」の著者である藤本氏が、前後足掛け5年間にわたり、
ほぼ月2回のペースで行った澤井代表へのインタビューと、澤井代表が保管している膨大な
過去資料から、歴史事実や澤井代表の生き方や考え方を引用しつつ、日本や世界の現状分析と
今後300年にわたる将来展望について、分かりやすくまとめられた本であります
1931年生まれの澤井代表にとって、紀元といえばキリスト紀元ではなく神武紀元(皇紀)であり、
子どもの頃に迎えた紀元2600年(1940年)の300年前の日本は江戸時代前期、その頃の人たちの
何人が300年後の日本を想像できたであろうか、今の政治家はじめ何人が300年後へのビジョンを
持っているのか、自分は300年後の皇紀3000年に向けて実論による夢想を藤本氏に語ったと・・・
膨大な資料をアナログ整理して保存、それらに関する記憶が90歳を超えても正確に残っていて、
それを最新の日本や世界の情勢と結びつけて主張する澤井代表も凄いですが、5年間にわたる
インタビューの膨大なメモを整理して資料と照合のうえ、それらを引用して最終的に自分の
文章としてまとめ上げた藤本氏の聞き手としての能力も筆力も凄いと感心しました
例によって目次の紹介
特に地熱発電についての現状、商業ベースに乗る熱源の資源量(2300万kw)は世界3位なのに
発電設備が世界10位(49万kw)まで落ちたのは、目先の利益追求という浅はかな企業論理とか、
政府支援の打ち切り(1990年代)とか、温泉街の反対とか国立公園内は許可されないからとか、
業務スーパー創業者の熱意などについても知らないことも多く目からウロコでした
(ちなみに日本の電力消費は1億~1億4000万kw/h程度なので、商業ベースだけで考えても
1/4から1/6程度は地熱発電で賄えることになりますね)
確かに地熱発電なら、火山国では資源は無尽蔵タダでCO2も核廃棄物も出さず、大規模な
太陽光や風力、水力、大規模バイオマスのような環境破壊もなく天候にも左右されず24時間
365日稼働可能な純国産エネルギーですね
どの項目にも出版直前までの最新情報による、現在の最先端技術や混迷する世界の現状が
紹介されており、それを澤井代表が半世紀以上も前から予測し警告していたという事実を、
当時の澤井代表が書いた文章などから発見し、そのことに何度も驚嘆したと、藤本氏が書いて
おられましたが、あちこちにハナシが跳ぶインタビューから、それらを見つけ出す藤本氏の
聞き手としての能力に、むしろわたくしは驚嘆しました
当ブログサイト書斎カテゴリで紹介しているような歴史や環境や最新科学に関する書籍も、
多くを精読されておられるようで、それぞれの著者とは、おそらく意見は異なるのでしょうが、
まさに幅広い最新知識があってこその労作ですね
さすがはベテラン手練れのもと新聞記者であります
とても内容すべては紹介できませんし澤井代表や藤本氏の主張についても、見方によっては
異論もあるでしょうが、特に林業・林政や教育・環境については100年先200年先を見越した
ビジョンが必要なことは間違いありません
ここでは末尾にあった写真資料のうち海外植林ボランティアに関する部分のみ新聞記事を
中心に、ランダムに一部を紹介させていただきます
(出版物の添付資料なので公開に問題があるようなら非公開設定にします)
2012年、N.GKS第16次隊(ボルネオ)に関する毎日新聞の記事
2018年、N.GKS最後となった第23次隊(内モンゴル)に関する読売新聞の記事
2011年、東日本大震災支援へのお礼も込めた第15次隊(モンゴル)に関して、
モンゴル特命全権大使からの感謝状授与を伝える京都新聞の記事
2013年、第18次隊(ボルネオ)に関する産経新聞の記事
故・遠山正瑛翁とのツーショット(内モンゴル・クブチ沙漠・恩格貝にて)
2010年、第14次隊(内モンゴル)に関する京都新聞の記事
2009年、第12次隊(ブラジル・アマゾン)に関する現地サンパウロ新聞の記事
2015年、澤井代表自分史の自費出版を伝える京都新聞の記事
上から順に、
1990年、中国・内モンゴル自治区・クブチ沙漠・恩格貝の様子、
1999年、N.GKS第1次隊によるクブチ沙漠での最初の植林作業の様子、
2018年、最後となった第23次隊でのクブチ沙漠・恩格貝の様子
まあ、「最後となった」とは書いたものの・・・
当時、城南新報で紹介されてた帰国報告ではラスト宣言を撤回して、
「3~5年後には植えた1000本のナツメが実るので車椅子に乗ってでも食べに行きたい」
と答えておられますが・・・
ともかく93歳になった現在も(足腰が弱り介護施設のお世話になっているものの)頭はますます
冴えわたっているとのことでした
98歳まで日本と中国を月に何度も往復されてて大往生された故・遠山正瑛翁に負けないよう、
今後もできる範囲で大いに活躍してほしいものです
2024年09月29日
オランウータン~森のさとりびと~
ええ、
オランウータン~森のさとりびと~とゆー写真集であります
裏表紙
著者・撮影者の紹介
奥付
写真集なので作品画像は紹介できませんが、撮影地はボルネオ島南部(インドネシア領)
タンジュンプティン国立公園、ここでは1971年にカナダ人ビルーテ・ガルティカス博士が、
オランウータンの生態研究・リハビリ施設「キャンプリーキー」を開設したそうです
以下、写真の解説文からランダムに、いくつかメモしておきます
・大型類人猿4種のうちゴリラ・チンパンジー・ボノボはアフリカ、オランウータンだけが
東南アジアに生息している
・ボルネオ島のボルネオ・オランウータン、スマトラ島のスマトラ・オランウータンと
タパヌリ・オランウータンの3種に分類される
・家族で暮らすゴリラや、群れで暮らすチンパンジーと異なり、基本的に単独で生きるが、
子どもや若者は集まったりもする
・大人同士あまり交流はないものの、どこに誰がいるかはわかっているといわれている
・強いオスにだけフランジが現れるが、メカニズムはまだ解明されていない
・見つめるとニホンザルなどは怒りだすが、大型類人猿は穏やかに見つめ返してくれる
言葉を話さなくても気持ちのやり取りができる気がする
(穏やかに撮影者を見つめる写真作品群が素晴らしかったです)
・計7万頭前後が生息するとされるが、100年前の1/5に減ったといわれている
→原因は密猟・人為的な森林火災・熱帯雨林の伐採など
・ボルネオ島ではこの数十年アブラヤシ農園の開発で熱帯雨林の伐採が加速している
→アブラヤシから作られるパーム油は世界で最も多く使われる植物油
・保護活動が活発になっているのは頼もしいが、これまでのダメージはあまりに大きい
・熱帯雨林はオランウータンだけでなく他の動植物や人間にとっても貴重で大切な自然
→取り返しのつかないことになったら未来に生きる子どもたちに何と言い訳をすればよいのか
・人に類する猿→長い進化の歴史を人間と共有してきた親類
→島の民は愛情と畏敬の念をいだいて、彼らを「森の人」と呼ぶ・・・
オランウータン~森のさとりびと~とゆー写真集であります
裏表紙
著者・撮影者の紹介
奥付
写真集なので作品画像は紹介できませんが、撮影地はボルネオ島南部(インドネシア領)
タンジュンプティン国立公園、ここでは1971年にカナダ人ビルーテ・ガルティカス博士が、
オランウータンの生態研究・リハビリ施設「キャンプリーキー」を開設したそうです
以下、写真の解説文からランダムに、いくつかメモしておきます
・大型類人猿4種のうちゴリラ・チンパンジー・ボノボはアフリカ、オランウータンだけが
東南アジアに生息している
・ボルネオ島のボルネオ・オランウータン、スマトラ島のスマトラ・オランウータンと
タパヌリ・オランウータンの3種に分類される
・家族で暮らすゴリラや、群れで暮らすチンパンジーと異なり、基本的に単独で生きるが、
子どもや若者は集まったりもする
・大人同士あまり交流はないものの、どこに誰がいるかはわかっているといわれている
・強いオスにだけフランジが現れるが、メカニズムはまだ解明されていない
・見つめるとニホンザルなどは怒りだすが、大型類人猿は穏やかに見つめ返してくれる
言葉を話さなくても気持ちのやり取りができる気がする
(穏やかに撮影者を見つめる写真作品群が素晴らしかったです)
・計7万頭前後が生息するとされるが、100年前の1/5に減ったといわれている
→原因は密猟・人為的な森林火災・熱帯雨林の伐採など
・ボルネオ島ではこの数十年アブラヤシ農園の開発で熱帯雨林の伐採が加速している
→アブラヤシから作られるパーム油は世界で最も多く使われる植物油
・保護活動が活発になっているのは頼もしいが、これまでのダメージはあまりに大きい
・熱帯雨林はオランウータンだけでなく他の動植物や人間にとっても貴重で大切な自然
→取り返しのつかないことになったら未来に生きる子どもたちに何と言い訳をすればよいのか
・人に類する猿→長い進化の歴史を人間と共有してきた親類
→島の民は愛情と畏敬の念をいだいて、彼らを「森の人」と呼ぶ・・・
2024年09月09日
マレーシアごはん紀行展&トークイベントに!!!
とーとつですが・・・
堺市役所で開催されてた「マレーシアごはん紀行展&トークイベント」に行ってきました!!!
マレーシア料理フードライター古川音さんの「ごはん紀行パネル展示」とトークイベントで、
ボルネオ島サラワク州クチンのN嶋さんからイベント情報を教えていただいてた次第
事前申し込み(定員50名)には多くの応募者があったようで、抽選の結果めずらしく当選、
9月7日の昼過ぎに(植林ボランティアツアーでは酒類調達担当の)H田さんと合流し堺東駅前へ
まずはマレーシア料理・・・ではなく15年前に堺エリアを担当されてたH田さんオススメの・・・
裏通りにあるカウンター7席だけの小さな「かつ丼専門店」へ
すでに1時を過ぎてましたが満席で20分ほど待ってから中に入れば・・・
メニューは3種類のみでオススメのかつ丼に玉子追加50円、味噌汁50円を注文
食通のH田さんが通い詰めてただけあって確かに絶品でした
で、会場の堺市役所21階展望ロビーで受付を済ませ・・・
60mほどの高さでは、まだまだ世界遺産になった前方後円墳の全容までは分かりませんね
と、まずは豊富なパネル展示を一巡したのですが・・・
詳しくは古川音さんの上記リンク先や「マレーシアごはんの会」サイトをご覧いただくとして、
当サイトではおなじみのサバ州コタキナバルとサラワク州クチンのコーナーのみご紹介・・・
わたくし憧れのサゴヤシ・ゾウムシ幼虫の生食も試されたとか・・・
コタキナバル⇔クチン間は何度か行き来してるのですが、どちらでもまだ食べてません
ええ、クチンのパネル展示には・・・
大好きなサラワク・ラクサやコロミーついでにN嶋さんも紹介されてました
で、定刻の2時になり音さんのスライド・トークがはじまりました
以下、おさらいの意味で基本情報のスライドのみご紹介・・・
マレーシアはマレー半島南部(西マレーシア)とボルネオ島北部(東マレーシア)にまたがる
12州による連邦国家・・・(シンガポールとブルネイは連邦に加盟してません)
まさに多民族国家であります
そう、ボルネオ島は本州の4倍近い世界3位の大きな島(本州は7位)ですが大部分はインドネシア領で
(インドネシア語ではボルネオ島はカリマンタン島、ジャカルタからの首都移転計画が進行中です)、
マレーシア領は島の北部サバ州とサラワク州(東マレーシア)だけになるので、マレー半島南部
(西マレーシア)とあわせても、国の面積としては日本の0.9倍なんですね
35日間ずっと現地のマレーシア料理を食べ続けてたのね・・・
で、終着地サラワク州クチンでは我々が4か月後に食べた、あの絶品サラワク・ラクサを
以下は事前の質問に対する回答スライドの一部・・・
ナシチャンプルはマレー語、経済飯は中国語、ナシカンダーはヒンドゥー語・・・
どれもワンプレートですが民族宗教でおかずの素材や味付けが異なるのが嬉しいです
そう、付いてる小皿の激辛ソースを全量入れると、たいてい悲惨な結果になりました
確かに慣れれば手食のほうが骨を取り分けたり、ご飯と混ぜたりしやすそうですね
でも麺はすするほうが美味しいと思うのですが・・・
わたくしがご飯の誘いを断ることはまずないけど、お腹がいっぱいでも断るよりは一口でも
一緒に食べた方がいいそうです
民族や宗教や言語が違っても一緒に暮らせるなら個人の違いも認めて尊重しあえるだろうし
ご飯を一緒に食べるというのはイタリア人も一番大事にしてますね
と、最後に(たまさんも好きそうな)マレーシアのおやつ一覧
と、音さんのマレーシアとマレーシア料理に対する情熱と愛情がひしひしと伝わってくる、
じつに楽しくて興味深いスライド・トークで、2時からの50分があっとゆー間に過ぎて、
その後は10分間の休憩・・・
ま、せっかくなので・・・
音さんとのスリーショットをサバ州サラワク州パネルの前でお願いしたりして・・・
で、3時からは音さんと在日マレーシア人の熊さんとの二人トークでした
以下、うろ覚えの熊さんのお話を中心に、忘れないうちにメモ・・・
・熊さんはマレーシア北部ペラ州の州都イポー出身で、日本に来られて30年以上になるとか
(音さんとの二人トークは10年ぶりだそうです)
・イポーに多い中華系マレーシア人で漢字の「熊」が本名、日本語では「クマさん」だけど、
客家語、広東語、福建語、マレー語で「わたしの名前は熊です」と話してくれましたが、
まったく異なる発音になるんですね
・自宅では親同士は客家語で話し、子どもたちには地域で使う広東語で話しかけ、小学校では
北京語とマレー語と英語が必須科目、中華系の小学校だったので習うのは3言語だったけど
マレー系の小学校はマレー語と英語だけだった(マハティール政策の頃?)
・習う北京語は小学校4年生の時に繁体字から簡体字に変わったので、どちらも読める
・街で人と話すときも通じなければ別の言語で、または顔を見てインド系なら英語とか・・・
(インド系の小学校ならヒンドゥー語とマレー語と英語の3言語なんでしょうね)
・熊さんの親の世代ぐらいまではマレー語の読み書きができない人も多く、出生届に行っても、
公務員はマレー系が多いので、漢字の発音を聴いて適当なマレー語で登録されてたとか・・・
・公務員にマレー系が多いのは政府の優遇政策もあるけど、中華系は公務員を目指すより
自分で起業を目指す人が多いから、とも質問に答えておられました
・大学を出て2年間は東京にいたけど大阪の方が親しみやすくて、こちらで暮らすようになった
・今は奥さんの出身地の神戸に住んでるけど大阪の方がイポーに似ていて好き
(昔、企業で東南アジア勤務が長かった社員は、いきなり東京本社に戻さず似た雰囲気の
大阪支社で日本の仕事ぶりに慣らしてから戻していたとか・・・都市伝説かもですが)
・日本人の奥さんはマレーシア料理が好きだけど自分も作れないので教えられない
・・・
で、音さんが紹介を忘れててトーク終了後に追加されてた関西のマレーシア料理店
(わたくしも記事アップを忘れてて追加しました)
「マレーシア ボレ」には4年前に行って飲み過ぎたなあ・・・懐かしいなあ
音さんも人と同調するのがつらかったけど、マレーシアに行ってからは「違っていいんだ」
「違うことが当たり前で暮らしていけるんだ、付き合っていけるんだ」と大好きになって、
それ以来マレーシアとマレーシア料理にハマっておられるとか・・・
美味しい料理も多民族の人たちの暮らしも、本来はマレー半島とボルネオ島の豊かな自然が
あってこそ持続可能なハナシなのですが、熱帯雨林の減少は今も続いています
本当の豊かな暮らしのために、できることを今後も考えていきたいと思いました
と、じつに有意義で楽しい時間を過ごせて、しかも予約していた参加者全員には、お土産に
ハニー・ジャックフルーツ・チップスまでいただきました・・・
ええ、もう食べてしまったので空き袋の画像でしゅが・・・
音さん熊さん、イベントを開催いただいた堺・アセアン交流促進委員会事務局のみなさん、
イベント情報を教えてくれたクチンのN嶋さん、ありがとうございました
(当記事への画像掲載については関係者の同意をいただいています)
堺市役所で開催されてた「マレーシアごはん紀行展&トークイベント」に行ってきました!!!
マレーシア料理フードライター古川音さんの「ごはん紀行パネル展示」とトークイベントで、
ボルネオ島サラワク州クチンのN嶋さんからイベント情報を教えていただいてた次第
事前申し込み(定員50名)には多くの応募者があったようで、抽選の結果めずらしく当選、
9月7日の昼過ぎに(植林ボランティアツアーでは酒類調達担当の)H田さんと合流し堺東駅前へ
まずはマレーシア料理・・・ではなく15年前に堺エリアを担当されてたH田さんオススメの・・・
裏通りにあるカウンター7席だけの小さな「かつ丼専門店」へ
すでに1時を過ぎてましたが満席で20分ほど待ってから中に入れば・・・
メニューは3種類のみでオススメのかつ丼に玉子追加50円、味噌汁50円を注文
食通のH田さんが通い詰めてただけあって確かに絶品でした
で、会場の堺市役所21階展望ロビーで受付を済ませ・・・
60mほどの高さでは、まだまだ世界遺産になった前方後円墳の全容までは分かりませんね
と、まずは豊富なパネル展示を一巡したのですが・・・
詳しくは古川音さんの上記リンク先や「マレーシアごはんの会」サイトをご覧いただくとして、
当サイトではおなじみのサバ州コタキナバルとサラワク州クチンのコーナーのみご紹介・・・
わたくし憧れのサゴヤシ・ゾウムシ幼虫の生食も試されたとか・・・
コタキナバル⇔クチン間は何度か行き来してるのですが、どちらでもまだ食べてません
ええ、クチンのパネル展示には・・・
大好きなサラワク・ラクサやコロミーついでにN嶋さんも紹介されてました
で、定刻の2時になり音さんのスライド・トークがはじまりました
以下、おさらいの意味で基本情報のスライドのみご紹介・・・
マレーシアはマレー半島南部(西マレーシア)とボルネオ島北部(東マレーシア)にまたがる
12州による連邦国家・・・(シンガポールとブルネイは連邦に加盟してません)
まさに多民族国家であります
そう、ボルネオ島は本州の4倍近い世界3位の大きな島(本州は7位)ですが大部分はインドネシア領で
(インドネシア語ではボルネオ島はカリマンタン島、ジャカルタからの首都移転計画が進行中です)、
マレーシア領は島の北部サバ州とサラワク州(東マレーシア)だけになるので、マレー半島南部
(西マレーシア)とあわせても、国の面積としては日本の0.9倍なんですね
35日間ずっと現地のマレーシア料理を食べ続けてたのね・・・
で、終着地サラワク州クチンでは我々が4か月後に食べた、あの絶品サラワク・ラクサを
以下は事前の質問に対する回答スライドの一部・・・
ナシチャンプルはマレー語、経済飯は中国語、ナシカンダーはヒンドゥー語・・・
どれもワンプレートですが民族宗教でおかずの素材や味付けが異なるのが嬉しいです
そう、付いてる小皿の激辛ソースを全量入れると、たいてい悲惨な結果になりました
確かに慣れれば手食のほうが骨を取り分けたり、ご飯と混ぜたりしやすそうですね
でも麺はすするほうが美味しいと思うのですが・・・
わたくしがご飯の誘いを断ることはまずないけど、お腹がいっぱいでも断るよりは一口でも
一緒に食べた方がいいそうです
民族や宗教や言語が違っても一緒に暮らせるなら個人の違いも認めて尊重しあえるだろうし
ご飯を一緒に食べるというのはイタリア人も一番大事にしてますね
と、最後に(たまさんも好きそうな)マレーシアのおやつ一覧
と、音さんのマレーシアとマレーシア料理に対する情熱と愛情がひしひしと伝わってくる、
じつに楽しくて興味深いスライド・トークで、2時からの50分があっとゆー間に過ぎて、
その後は10分間の休憩・・・
ま、せっかくなので・・・
音さんとのスリーショットをサバ州サラワク州パネルの前でお願いしたりして・・・
で、3時からは音さんと在日マレーシア人の熊さんとの二人トークでした
以下、うろ覚えの熊さんのお話を中心に、忘れないうちにメモ・・・
・熊さんはマレーシア北部ペラ州の州都イポー出身で、日本に来られて30年以上になるとか
(音さんとの二人トークは10年ぶりだそうです)
・イポーに多い中華系マレーシア人で漢字の「熊」が本名、日本語では「クマさん」だけど、
客家語、広東語、福建語、マレー語で「わたしの名前は熊です」と話してくれましたが、
まったく異なる発音になるんですね
・自宅では親同士は客家語で話し、子どもたちには地域で使う広東語で話しかけ、小学校では
北京語とマレー語と英語が必須科目、中華系の小学校だったので習うのは3言語だったけど
マレー系の小学校はマレー語と英語だけだった(マハティール政策の頃?)
・習う北京語は小学校4年生の時に繁体字から簡体字に変わったので、どちらも読める
・街で人と話すときも通じなければ別の言語で、または顔を見てインド系なら英語とか・・・
(インド系の小学校ならヒンドゥー語とマレー語と英語の3言語なんでしょうね)
・熊さんの親の世代ぐらいまではマレー語の読み書きができない人も多く、出生届に行っても、
公務員はマレー系が多いので、漢字の発音を聴いて適当なマレー語で登録されてたとか・・・
・公務員にマレー系が多いのは政府の優遇政策もあるけど、中華系は公務員を目指すより
自分で起業を目指す人が多いから、とも質問に答えておられました
・大学を出て2年間は東京にいたけど大阪の方が親しみやすくて、こちらで暮らすようになった
・今は奥さんの出身地の神戸に住んでるけど大阪の方がイポーに似ていて好き
(昔、企業で東南アジア勤務が長かった社員は、いきなり東京本社に戻さず似た雰囲気の
大阪支社で日本の仕事ぶりに慣らしてから戻していたとか・・・都市伝説かもですが)
・日本人の奥さんはマレーシア料理が好きだけど自分も作れないので教えられない
・・・
で、音さんが紹介を忘れててトーク終了後に追加されてた関西のマレーシア料理店
(わたくしも記事アップを忘れてて追加しました)
「マレーシア ボレ」には4年前に行って飲み過ぎたなあ・・・懐かしいなあ
音さんも人と同調するのがつらかったけど、マレーシアに行ってからは「違っていいんだ」
「違うことが当たり前で暮らしていけるんだ、付き合っていけるんだ」と大好きになって、
それ以来マレーシアとマレーシア料理にハマっておられるとか・・・
美味しい料理も多民族の人たちの暮らしも、本来はマレー半島とボルネオ島の豊かな自然が
あってこそ持続可能なハナシなのですが、熱帯雨林の減少は今も続いています
本当の豊かな暮らしのために、できることを今後も考えていきたいと思いました
と、じつに有意義で楽しい時間を過ごせて、しかも予約していた参加者全員には、お土産に
ハニー・ジャックフルーツ・チップスまでいただきました・・・
ええ、もう食べてしまったので空き袋の画像でしゅが・・・
音さん熊さん、イベントを開催いただいた堺・アセアン交流促進委員会事務局のみなさん、
イベント情報を教えてくれたクチンのN嶋さん、ありがとうございました
(当記事への画像掲載については関係者の同意をいただいています)
2024年08月25日
ムラブリ・・・
ええ、前々回記事からの続きとゆーか、前回記事からの続きとゆーか・・・
ムラブリ~文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと~であります
著者紹介
奥付
冒頭にあったムラブリの居住地(著作物なので問題があれば非公開にします)
例によって目次の紹介
山極寿一氏の若き日のフィールドワークを綴ったエッセイのように現地での滞在記や青春記の
世界もめっちゃ面白かったのですが、以下はムラブリや言語学といった全く知らない世界を
中心にした読後の部分メモであります
はじめにより
・ムラブリはタイやラオスの山岳地帯を遊動狩猟採集していた少数民族
(今は僅か500名前後の集団でタイでは殆どが定住して農耕もしている)
→ムラは人、ブリは森なので「森の人」の意味になる
(マレー語では人はオラン、森はウータンで「森の人」でしたね)
・ムラブリ語は危機言語に指定されていて、おそらく今世紀中には消える
→ぼくはムラブリ語を15年にわたって研究してきた世界で唯一のムラブリ語研究者だ
→ムラブリ語には文字がないので現地で調査研究を行うフィールド言語学になる
(現在世界で話されている6000~7000言語のうち文字のない言語は2982と推定されている)
・ムラブリ語を話せるということはムラブリの身体性を獲得することでもある
→周りにも日本語では温和なのに英語で話すときだけ大胆になる人がいるのでは?
→異なる身体性には異なる人格が宿るのだ
・日本に帰ってから物を持たなくなり生活がシンプルになった
→これまでの常識が崩れて大学教員も2年で辞めてしまった
・この本は論文ではないが紛れもなくぼくの研究成果
→ニッチで何の役にも立たない研究と言われ、これまでは苦笑いで半分同意していたが、
→今は「あなたを含む世界のためにやってます、ぼくがその成果です」と答えられる
→そんな研究報告を楽しんでもらいたい・・・
第1章より
・言語と方言の区別には言語学だけでなく話す人の意識や政治も絡む
→なので言語の数の数え方は難しい(まえがきのとおり)
・ムラブリ語との出会いは人類学の講義で視聴した「世界ウルルン滞在記」
→はじめての美しい言葉に「一目惚れ」ならぬ「一耳惚れ」して・・・
(以下はじめての滞在に至るまでの顛末がめっちゃ面白くて一気読みしたけど省略して)
第2章より
・ムラブリはタイ語・ラオス語ではピートンルアン(黄色い葉の精霊)と呼ばれる
→蔑称でもありピーは「精霊」よりは「お化け」のニュアンス
・未知の文字のない言語の調査は音韻から
→音素目録つくりが出発点で、まずは最小対を探す
→日本語なら手teと毛keは最小対で母音は同じでtとkが異なる
→日本語はtとkが語を区別する機能を持っている言語と判断する
(以下詳細な手法は略して)
→それを国際音声記号IPAで記録する
→最初は全ての単語や表現でこのプロセスを踏むので時間がかかる
→日本語の母音は5でタイ語は7だがムラブリ語は10あるので苦労した
→あ2い1う3え2お2の10種類
→何度も聞いて真似して確認してから記録するので最初は1時間に15~20だった
・貧しいムラブリの村への訪問者はタイ伝統の施しに来る人が殆ど
→お金を持たない日本人が来たと評判になったと数年後に聞いた
(卒論から院試、修士論文、結婚、博士論文も略して・・・)
・人類学専攻ムラブリ研究者との現地での共同研究
→自分もムラブリ語ではなくムラブリ自身について知る機会を増やすと、ムラブリ語が自然に
話せるようになり、聞き取りもできるようになった
・人類学者では彼のように「擬制家族」を持つことがあるが言語学者では少ない
→自分も擬制家族になってからは「よそ者」から「お兄さん」など人格を持つ名前で呼ばれた
第3章より
・ムラブリに挨拶語はなく、たいていは顎を上げるだけ
→声をかける際は「ご飯食べた?」か「どこ行くの?」
→挨拶なので真剣に考えずテキトーに答える(おはようの交換と同じ)
(大阪弁は「おはようさん」の後に「今日はどちらまで?」「へえ、ちょっとそこまで」ですね)
→言語は情報交換のためのツールだが常に合理的で理想的な情報交換をしてるわけではない
→合理的ではないところにコミュニケーションの豊かさやおかしみがある
・言語は意味のある情報を交換をするためではなく他者と意思疎通を図るための道具
→言語は意味とは別の関係性メタメッセージを伝えている(グレゴリー・ベイトソン)
→一人称「ぼく」と「わたし」の意味は同じだがメタメッセージ(公私などの関係性)は異なる
→一人称の選択などによって暗に関係性を示すのが日本語社会のしきたりで難しい
→メタメッセージは言葉以外の動作でも発信され無自覚に受信している
→人は「自分と相手の関係」をその都度つくりあげることなしに、言語によって意思疎通を
図ることができない生き物なのである
・どうでもいい情報が仲を深める
→合理的コミュニケーションだけでは一定距離以上は親しくなれない
→儀礼的コミュニケーションが欠かせない
→人間はどうでもいい情報を交換し合うことで仲間意識を育む→最たるものが挨拶
→仲間だから意味のない情報交換をするのではなく、意味のない情報交換をすることで、
仲間になったと錯覚する(させる?)→儀礼的コミュニケーション
→ファミレスでの「このハンバーグ美味しいね」「美味しいね」「ね~」の会話例
→ビジネス会話には存在しない
・ムラブリとはじめて儀礼的コミュニケーションができた朝の会話は今も覚えている(略)
→殆ど意味はなかったが語学力指標では表せない何かが身についた手応えがあったから
・日本ではアイヌ語と琉球諸語が危機言語に認定されている
→母語を話し続けるかどうかは本人たちが決めることだが、言語の消滅はひとつの宇宙が
消えることで、すべての言語の歴史は地球の生命史に匹敵する
→生きることはコミュニケーションすることだから・・・
・最近の研究でムラブリ語が注目されている分野のひとつが感情表現
→トルコ語には感情に相当する語彙が3つありガーナのダバニ語やムラブリ語にはない
→感情表現には語彙と迂言的表現の2つがあり殆どの言語が両方を用いる
→日本語では「うれしい、悲しい」と「心が躍る、気分が沈む」など
・日本語の「幸せ」と英語の「happy」のニュアンスが異なるように感情表現の翻訳は難しい
→なので研究者は「好/悪」と「動/静」の二軸で平面上にマッピングする
(日本語の「幸せ」と英語の「happy」はポジティブなので、どちらも右側に入るが、
日本語の「幸せ」のほうが英語の「happy」より静的なので少し下側になるとか)
・ムラブリ語には感情語彙がなく「心が上がる、下がる」で迂言的に感情表現する
→ところが「心が上がる」は悲しいとか怒りでネガティブ、「心が下がる」はうれしいとか
楽しいでポジティブな意味になる
→認知言語学で世界の普遍的な特徴とされるUp is Good(happy)概念メタファーの例外
→上下ではなく別の意味とも考えたが表現の際に手を胸の上下に動かすので誤りではない
→ムラブリの概念メタファーにはDown is Goodがあるのかも・・・
→ムラブリ語には「興奮」もなく行為から感情を分離する感性がないのかもしれない
→「心が上がる、下がる」も身体的な行為に近い感覚かも・・・
→ムラブリ語の体系を通して彼らの感じている世界を想像することができるかも・・・
・ムラブリは感情を表に出すことが殆どない
→まだ森で遊動生活しているラオスのムラブリは、さらに表情が乏しく見えた
→主張や感情を表に出すことは一大事で、そんな事態は避けるべき悪いことだと捉える感性かも
(連れて行った学生が夜遅くまで騒いでて、意見しに来たのに何を言ってるのか分からない
ような遠回しな言い方で、何度も「怒ってないよ本当だよ」を繰り返していた)
→なので「心が下がる」ことがよいことなのかも
(会いたがってた遠くの親族と会わせてもハグなど身体接触はもちろん、一緒に食べることも
会話の盛り上がりもなく、顔も見ずに横に座っているだけだった)
→ぼく自身も変化しており、楽しく気分がいいと口数が少なくなり表情がぼーっとする
→日本でも最近は「チルい」という言葉が流行っており、その「脱力した心地よさ」は
ムラブリの「心が下がる」に通じるところがあるように思える
・SNSへの情熱や仲間とはしゃいだときに感じる楽しさは知っているし理解している
→でも感情を出して誰かに知られて幸福を感じられるのは一時的な流行りに過ぎない
→誰かといる、他人に認めてもらう以外の幸福がムラブリには見えている
→ムラブリ語の「心が下がる」瞬間は人類史的にはごくありふれた心の風景かも・・・
・ムラブリ語には暦も年齢もない
→季節には雨が降る季節・乾く季節・日差しの季節があるが人により呼び方は異なる
→森での収穫物が変わるので季節は重要だが、季節を決めるのは暦ではなく森の様子
→不思議なことに一昨日から5日後までの単語は規則的に存在する→昔は必要だった?
・人の暦はある→年齢ではなく成長段階による区別
→生まれたばかりの子どもは「レーン赤い」(日本語の赤ちゃんと同じで面白い)
→首が座り歩けるまでの子どもは「チョロン幼い子」
→歩き回る時期の子どもは「アイタック小さい」
→その後は「ナル・フルアック大人」で第二次性徴以降なので10代前半ぐらいから
→老人は「白い」を変化させた語彙で、おそらくは白髪のことだろう
・数詞はあるが10まで正確に数えられる人は稀
→知的威信を示す手段で、男たちは酔っぱらうと数えたがるが10までは行かない
→数えることで何かを教えるというより、宴会芸の一種というのが正確な理解
→時計をつける(電池がないか時刻が合っていない)のも時計の入れ墨をするのも知的威信
→森の生活では大きな数も時計も要らないのに、余計なもの無駄なことに価値を見いだすのが
普遍的な人類の特徴なのかも知れない
→女性に数詞を数えたり時計を見せたりはしないので、モテるためでもない男社会のあるある
・ムラブリ語の過去・完了相と未来・起動相(時制やアスペクトのハナシなので省略)
→世界の見え方は話している言語の影響を受けている
(言語相対論、青を区別する語彙があるロシア語話者の色彩識別テストなど)
・言語の持つ超越性とムラブリ語や南米ピダハン語の現前性(いま、ここ)
→ムラブリも定住し換金作物栽培を手伝うようになって計画性を求められるようになった
→ムラブリの村に一時期、自殺が増えた時期があった
→その理由を訊くと「長く考えたから」と答えたムラブリがいた
→「いま、ここ」の現前性では未来はわからず過去はとりかえせない、あるようでないもの
・ムラブリ語に竹という総称はなく7種類それぞれに単語がある
→それぞれで用途が異なり森で少しずつ見分けられるようになった
→論文を書くには写真と単語だけでいいのだが、自分で覚えて使えないと気が済まない
→理由は分からないけど、その方がぼくにとって楽しいのは間違いない
第4章より
・ムラブリが森に入る時は腰の刃物だけ
→採集物を持ち帰るカゴ、ロープ、寝床、焚火、食べ物など、すべては現地調達
→ところが村の家には服や衣類が山積みなのだが、なぜか森と変わらず落ち着いている
(ぼくはムラブリから「物が多い」といわれるが断捨離してから片付かないと落ち着かない)
・この理由を(言語学者なので)言語から考えてみる
→物を指すムラブリ語は複数あるが、よく使われるのはグルアで主に衣類の意味
→グルアの下位カテゴリーが衣類で上位カテゴリーが物
→日本語のご飯と食事の関係に近い→シネクドキ提喩
→衣類が典型的な物であるという感性はどこから生まれるのか?
・所有と匂い
→匂いは所有という抽象的な概念の入口ではないか(マーキングとか借りた服の違和感とか)
→所有のあるところに物が生まれる
→ムラブリの村や家の匂いは極めて均質(焚火の煙の影響も大きい)
→服は誰かが愛着して匂いがつくとその人のグルアになる
→家に山積みの服や衣類があってもどれも同じ(煙の)匂いなのでグルアにならない
→匂いの共有は森の中と同じなので落ち着いていられるのではないか・・・
・ムラブリの所有観(他動詞と自動詞のハナシなので省略)
→「米を持っている」と「米がある」の区別がない(森に木がある、森が木を持っている)
→私の父、私の手など親族と身体部位には「の」を使うが、私の米という使い方はない
→所有関係を表したいときはタイ語の構文を借用している
・ムラブリの一夫一妻、宗教(精霊信仰)、暴力・・・すべては「そいつ次第だ」
・自助と共助の共同体
→一人暮らしの老人でも助けを求めない限り誰も助けない
→人類学でいうシェアリングで富の集中や権力の発生を避ける仕組みを持っている
→分業しないので専門家もいない(バイク修理の講習会の例)
→徹底した個人主義の一方で獲物は平等に共有し、求められればできる範囲で助ける
→個人を生命として信頼し生命が儚いと自覚しているからの振る舞いだと感じる
(コラムより、森の中で火打石や火種の綿を濡らさないことがどれだけ大事か・・・)
第5章より
・博士論文とムラブリ語の方言差調査と子どもの誕生と大学院休学と富山への引っ越しと
29歳での日本学術振興会の特別研究員(学振3年)採用と富山大学の客員研究員・・・
→あらためて書いてみて、運だけで何とかなっているような人生だ
・2017年の春休みに富山大学の先生・学生とムラブリの村を訪れた際に金子游監督と出会った
→東南アジアの少数民族の映像を撮っていると知り(方言差調査で知った)分断されたムラブリを
消える前に引き合わせたいと考えていることや、その際の映像を残したいことを伝えた
→その日の夜にメールがきて映画のプロジェクトがはじまった・・・(略)
・ムラブリの歴史についての考察
→古くからの狩猟採集民のような高度な文化・精神世界とは異なり神話は散文的で儀礼も簡素
→いっぽうで玉鋼をつくる製鉄技術を持っている
→遺伝学や言語学の研究から農耕民が狩猟採集民になったと考えられている(略)
(遺伝的にも言語学的にも最も近い農耕民ティンの民話にも残っている)
→この逆行は人類史の中でも珍しく文化的言語的な特徴を説明する可能性がある
・ぼくのクレオール仮説
→日本語の「わたしの本」は英語では「my book」や「books of mine」
→日本語の語順は「わたしは本を持っている」主語→目的語→動でSOV言語
→英語の語順は「I have books」主語→動詞→目的語でSVO言語
→日本語のようなSOV言語の所有表現は(人→モノ)の語順が多い
→英語のようなSVO言語では所有表現に地域や語族で隔たりがある
(英語もmy book(人→モノ)とbooks of mine(モノ→人)の両方がある)
→文の基本語順と所有表現の類型論的含意と呼ばれる傾向
→オーストロアジア語族SVO言語の所有表現は唯一の例外を除いて(モノ→人)の語順
→その唯一の例外がムラブリ語
→ムラブリ語はSVO基本語順の一方で所有表現については(人→モノ)の語順を示す
(これはオーストロアジア語族の言語研究者には、そんなバカな!!!くらいの大事件だった)
→ムラブリ居住領域の周辺に(人→モノ)語順の言語はなく言語接触も殆どなかったはず
→他にも近親言語と共通する語彙が極端に少ないなど不思議な特徴がたくさんある
→中国語(人→モノ語順)の影響とか消えた言語の影響とか、イマイチな仮説ばかり・・・
(ここからがムラブリ語好きの著者の仮説)
・アジア大陸山岳部はゾミアと呼ばれ様々な少数民族が点在している地域
→平野部に比べコメの生産が難しく大きな王朝は築かれず負け組とされてきた
→歴史学者ジョージ・C・スコットは中央集権支配から逃れるため文字を捨て所有を嫌い
自由を求めて主体的に山岳部に移住したのがゾミアの民とした(2013)
→ムラブリはゾミアの民の典型例ではないかとぼくは考えている
・最初は少数のティンが祖先で、その噂に共感した他の民族からも人々が合流した
(遺伝学的にもクム族やタイ族など様々な民族と混血した痕跡がある)
→様々な民族の集まりだから、その都度、その場で通じる言葉を作り上げていく
(その場限りの必要性から生まれる言語はピジンと呼ばれ世界中で報告されている)
→ピジンは不完全な文法で語彙も限定的
→ピジンを母語として学んだ子どもたちは、やがて完全な言語体系をつくり出す
→ピジンを母語として生まれる言語をクレオールという
→つまりムラブリ語はクレオールではないか
・クレオールは元の言語や地域が違っても似たような特徴を持つ
→所有表現の語順が(人→モノ)であること、疑問詞が2つの要素からなっていること、
重複などの仕組みの乏しいことなど(偶然かも知れないが)ムラブリ語の特徴と一致する
→もちろん証明できないことであり学者として追いかける理由はないが、
→農耕から逃れ森の中で遊動生活をしながらゆるいつながりで形成していった共同幻想
→それがムラブリという民族だった可能性を想うと、なぜムラブリに出会い惹かれたのか
腑に落ちる気がするのだ・・・
(映画の撮影、ラオスのムラブリ、100年越しの再会、ムラブリ語の方言(方言には○○方言と
地名が付くが、ムラブリは移動するのでA方言B方言C方言となる)、などは省略して・・・)
・バベル的言語観、コーラン的言語観
→人々が統一言語で協力して天まで届く塔を作ろうとしたので神が怒り、天罰として塔を崩し
人々の言語をバラバラにしたというのが聖書
→「グローバルには統一言語としての英語」という風潮には反論できないが納得もできない
→言語学者としての応答は聖書と並ぶコーラン
→神が民族をバラバラにしたのは聖書と同じだが、理由はお互いをよく理解するため
→同じ言語だと個別性に気づくのは難しい→日本語同士なら同じ「おいしい」だけ
→タイ語で「アロイ」ムラブリ語で「ジョシ」という人がいれば、感じていることが違うかも
知れないという発想が湧いてくるのではないか
→味覚だけでなく感情や価値観、思想も同じこと
→言語はバベル的言語観もコーラン的言語観も同時に内包する
→同じだよね、違うよねというメタメッセージは言語を用いる限り常に存在する
→どっちも本当で同じだし、違う、そして、それは両立する
第6章より
・「ムラブリ語を話せるようになる過程で変化した自分自身」が何よりの研究成果
→2020年3月に大学教員を辞めて独立研究者になった
(プロ奢ラレヤーの「嫌なこと、全部やめても生きられる」を読んだ翌週に辞表を提出した)
・身体と言語
→武術の講座に通い稽古して、型を通じて身体性を養い、今は言語は型であると言える
→既存の言語を話すときは必ず誰かを引用している→その語も誰かがつくったもの
→ムラブリが雷の経験を誰かと共有したい、声にして表したいと思って出た音が「クルボッ」
→経験は認められ共有され、それまで意味のなかった音の配列が雷を意味するようになった
→現代言語学では単語の誕生に恣意性はないとされている
→日本語イヌ・英語ドッグ・ムラブリ語ブラン・・・
→この考え方はこれらが同じ意味であることを前提にしている→似ているが同じではない
→「クルボッ」の音やリズムがムラブリの身体性で感じる雷をよく表し一体感があったから
いままで使われてきたのではないか
→どんな音でもよかったのではなく生まれる瞬間の強度が死んでなお経験を伝える(武術の型?)
→話し手と聞き手は、語のつくり手の経験とつながっているから互いに理解できる
→ムラブリ語を理解したということは経験のアーカイブ、つまりムラブリの身体性にアクセス
することに慣れた、ということでもある
→そのアクセスがスムースになるほどムラブリ的なセンスで生きることが可能になる
→ムラブリ語を話しているときは深くしゃがめる、遠くに話そうとしている自分に気づく
(ムラブリは村では寡黙だが森では饒舌で話す距離は20~30m=ぼくが話そうとしている距離)
→給料、税金、モノやコトの値段、ご飯・・・ムラブリなら要るか要らないかだけ
→ムラブリは生きるのに必要なことを知ってて、すべて自分でできる
→ぼくは生きるのに必要なことすべてをお金で外注していることに気づいた
→まずは衣食住を身ひとつで賄えることを目指した・・・
・現代日本でムラブリのように生きるには
→バックミンスター・フラー唯一の共同研究者シナジェティクス研究所の梶川泰司所長に出会った
→梶川所長の目指す生き方
①無線→電線などを用いないオフグリッド
②無管→上下水道管を用いない
③無柱→住居に柱を用いない
④無軌道→道路などのインフラに左右されない移動
→これを達成するテクノロジーを発明することが、ぼくの理解する梶川所長の目標
(ぼくは工場規格ではなく自分で作れる環境に応じたものが理想的と思った)
→自分で作ることができ、環境と調和してお互いを活性化し、地球の(宇宙でも)どこでも
一人で生きていけるテクノロジーが、ムラブリの身体性を日本に持ち込んだぼくが心地よく
生きていく方法なのだと今は考えている→自活器self-livingry
→2022年1月にフラー式ドームの簡単な施工法を発明した(略)
→プロ奢ラレヤーと話して空き家・空きスペースに寝るスキルも面白いと思った
→寝るスキル、食事のスキル、服装のスキル・・・(略)
・友達のお父さんが急病になり二人で街の病院へ連れて行き病院の雑魚寝スペースに居たら
身なりのいいタイ人のおばさまが黙って菓子パンとアンマンの入ったコンビニ袋を渡してくれた
→泥まみれでタイ人らしくない顔つきでムラブリ語で話してたので貧しい少数民族に見えたのだ
→「ありがとうございます!!!儲かった!!!」という感情はなく、自然に二人で黙って食べた
→水が流れてきた、キノコが生えてきた、という感じで、とても自然だった
・ぼくの人生には不思議とタイミングよく身に余るオマケがついてくる
→以前ならムラブリを紹介しても「珍しい民族ですね」で終わっただろうが、映画が上映され
映画の感想が多いことに驚かされた。いまはこの本を執筆している
→おそらくこのタイミングで日本で紹介されたことに意味があったのだろう
・ムラブリはタイの少数民族の中でも地味で物質文化も乏しい
→視覚的に「これがムラブリです」と示せるものが極端に少ないが、
→若いムラブリは声を揃えて「自由が好き、強制は嫌い」と言う→これがムラブリなのだ
→この部分が現代日本でムラブリがウケている理由なのだろう
・この本に書かれていることはすべて偶然性や自由からの働きかけで起きたこと
→みんなももっと自由になれるんじゃないかと感じていたから書き上げることができたと思う
→あなたの心に小さなムラブリが芽生えることを祈っている
おわりにより
・2020年1月を最後にコロナ禍でムラブリを訪問できずにいた
→この「おわりに」を書くため3年ぶりに訪れる予定だったが出発2週間前にキャンセルした
→いまやりたいことがムラブリに会うことではないと気づいたから
・言語とは何かの本質的な問いに向かうため武術、詩、短歌、踊りをしてワークショップなどで
収入も得られるようになった
→富山での定住から車中泊生活を経て関東・関西を含む多拠点になり今は富山の山中が拠点
→ムラブリをof研究することからはじめ、ムラブリとともにwith、そしていまムラブリとしてas
研究することに挑戦している
・ぼくは孤独になり自由になったことで、なぜ専門を就職を所有やお金を嫌ったのかに気づいた
→専門ではなくそれが生む権威、働くことではなくそれの強制、所有やお金に絡む社会の
仕組みが気に入らず、身体に合わずうんざりしていたのだ
・いまは富山の山中で自活器self-livingryの開発を行っている
→自分で家を建て食を担いエネルギーをつくることができれば人はやりたいことに邁進するはず
→それがぼくのムラブリ研究でありムラブリへの恩返し
→どうかみなさん、自活器の開発に力を貸して下さい!!!
ムラブリ~文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと~であります
著者紹介
奥付
冒頭にあったムラブリの居住地(著作物なので問題があれば非公開にします)
例によって目次の紹介
山極寿一氏の若き日のフィールドワークを綴ったエッセイのように現地での滞在記や青春記の
世界もめっちゃ面白かったのですが、以下はムラブリや言語学といった全く知らない世界を
中心にした読後の部分メモであります
読み違いとかも多いので興味を持たれた方は本書の熟読をお願いしますね
(著作物からの自分用メモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
はじめにより
・ムラブリはタイやラオスの山岳地帯を遊動狩猟採集していた少数民族
(今は僅か500名前後の集団でタイでは殆どが定住して農耕もしている)
→ムラは人、ブリは森なので「森の人」の意味になる
(マレー語では人はオラン、森はウータンで「森の人」でしたね)
・ムラブリ語は危機言語に指定されていて、おそらく今世紀中には消える
→ぼくはムラブリ語を15年にわたって研究してきた世界で唯一のムラブリ語研究者だ
→ムラブリ語には文字がないので現地で調査研究を行うフィールド言語学になる
(現在世界で話されている6000~7000言語のうち文字のない言語は2982と推定されている)
・ムラブリ語を話せるということはムラブリの身体性を獲得することでもある
→周りにも日本語では温和なのに英語で話すときだけ大胆になる人がいるのでは?
→異なる身体性には異なる人格が宿るのだ
・日本に帰ってから物を持たなくなり生活がシンプルになった
→これまでの常識が崩れて大学教員も2年で辞めてしまった
・この本は論文ではないが紛れもなくぼくの研究成果
→ニッチで何の役にも立たない研究と言われ、これまでは苦笑いで半分同意していたが、
→今は「あなたを含む世界のためにやってます、ぼくがその成果です」と答えられる
→そんな研究報告を楽しんでもらいたい・・・
第1章より
・言語と方言の区別には言語学だけでなく話す人の意識や政治も絡む
→なので言語の数の数え方は難しい(まえがきのとおり)
・ムラブリ語との出会いは人類学の講義で視聴した「世界ウルルン滞在記」
→はじめての美しい言葉に「一目惚れ」ならぬ「一耳惚れ」して・・・
(以下はじめての滞在に至るまでの顛末がめっちゃ面白くて一気読みしたけど省略して)
第2章より
・ムラブリはタイ語・ラオス語ではピートンルアン(黄色い葉の精霊)と呼ばれる
→蔑称でもありピーは「精霊」よりは「お化け」のニュアンス
・未知の文字のない言語の調査は音韻から
→音素目録つくりが出発点で、まずは最小対を探す
→日本語なら手teと毛keは最小対で母音は同じでtとkが異なる
→日本語はtとkが語を区別する機能を持っている言語と判断する
(以下詳細な手法は略して)
→それを国際音声記号IPAで記録する
→最初は全ての単語や表現でこのプロセスを踏むので時間がかかる
→日本語の母音は5でタイ語は7だがムラブリ語は10あるので苦労した
→あ2い1う3え2お2の10種類
→何度も聞いて真似して確認してから記録するので最初は1時間に15~20だった
・貧しいムラブリの村への訪問者はタイ伝統の施しに来る人が殆ど
→お金を持たない日本人が来たと評判になったと数年後に聞いた
(卒論から院試、修士論文、結婚、博士論文も略して・・・)
・人類学専攻ムラブリ研究者との現地での共同研究
→自分もムラブリ語ではなくムラブリ自身について知る機会を増やすと、ムラブリ語が自然に
話せるようになり、聞き取りもできるようになった
・人類学者では彼のように「擬制家族」を持つことがあるが言語学者では少ない
→自分も擬制家族になってからは「よそ者」から「お兄さん」など人格を持つ名前で呼ばれた
第3章より
・ムラブリに挨拶語はなく、たいていは顎を上げるだけ
→声をかける際は「ご飯食べた?」か「どこ行くの?」
→挨拶なので真剣に考えずテキトーに答える(おはようの交換と同じ)
(大阪弁は「おはようさん」の後に「今日はどちらまで?」「へえ、ちょっとそこまで」ですね)
→言語は情報交換のためのツールだが常に合理的で理想的な情報交換をしてるわけではない
→合理的ではないところにコミュニケーションの豊かさやおかしみがある
・言語は意味のある情報を交換をするためではなく他者と意思疎通を図るための道具
→言語は意味とは別の関係性メタメッセージを伝えている(グレゴリー・ベイトソン)
→一人称「ぼく」と「わたし」の意味は同じだがメタメッセージ(公私などの関係性)は異なる
→一人称の選択などによって暗に関係性を示すのが日本語社会のしきたりで難しい
→メタメッセージは言葉以外の動作でも発信され無自覚に受信している
→人は「自分と相手の関係」をその都度つくりあげることなしに、言語によって意思疎通を
図ることができない生き物なのである
・どうでもいい情報が仲を深める
→合理的コミュニケーションだけでは一定距離以上は親しくなれない
→儀礼的コミュニケーションが欠かせない
→人間はどうでもいい情報を交換し合うことで仲間意識を育む→最たるものが挨拶
→仲間だから意味のない情報交換をするのではなく、意味のない情報交換をすることで、
仲間になったと錯覚する(させる?)→儀礼的コミュニケーション
→ファミレスでの「このハンバーグ美味しいね」「美味しいね」「ね~」の会話例
→ビジネス会話には存在しない
・ムラブリとはじめて儀礼的コミュニケーションができた朝の会話は今も覚えている(略)
→殆ど意味はなかったが語学力指標では表せない何かが身についた手応えがあったから
・日本ではアイヌ語と琉球諸語が危機言語に認定されている
→母語を話し続けるかどうかは本人たちが決めることだが、言語の消滅はひとつの宇宙が
消えることで、すべての言語の歴史は地球の生命史に匹敵する
→生きることはコミュニケーションすることだから・・・
・最近の研究でムラブリ語が注目されている分野のひとつが感情表現
→トルコ語には感情に相当する語彙が3つありガーナのダバニ語やムラブリ語にはない
→感情表現には語彙と迂言的表現の2つがあり殆どの言語が両方を用いる
→日本語では「うれしい、悲しい」と「心が躍る、気分が沈む」など
・日本語の「幸せ」と英語の「happy」のニュアンスが異なるように感情表現の翻訳は難しい
→なので研究者は「好/悪」と「動/静」の二軸で平面上にマッピングする
(日本語の「幸せ」と英語の「happy」はポジティブなので、どちらも右側に入るが、
日本語の「幸せ」のほうが英語の「happy」より静的なので少し下側になるとか)
・ムラブリ語には感情語彙がなく「心が上がる、下がる」で迂言的に感情表現する
→ところが「心が上がる」は悲しいとか怒りでネガティブ、「心が下がる」はうれしいとか
楽しいでポジティブな意味になる
→認知言語学で世界の普遍的な特徴とされるUp is Good(happy)概念メタファーの例外
→上下ではなく別の意味とも考えたが表現の際に手を胸の上下に動かすので誤りではない
→ムラブリの概念メタファーにはDown is Goodがあるのかも・・・
→ムラブリ語には「興奮」もなく行為から感情を分離する感性がないのかもしれない
→「心が上がる、下がる」も身体的な行為に近い感覚かも・・・
→ムラブリ語の体系を通して彼らの感じている世界を想像することができるかも・・・
・ムラブリは感情を表に出すことが殆どない
→まだ森で遊動生活しているラオスのムラブリは、さらに表情が乏しく見えた
→主張や感情を表に出すことは一大事で、そんな事態は避けるべき悪いことだと捉える感性かも
(連れて行った学生が夜遅くまで騒いでて、意見しに来たのに何を言ってるのか分からない
ような遠回しな言い方で、何度も「怒ってないよ本当だよ」を繰り返していた)
→なので「心が下がる」ことがよいことなのかも
(会いたがってた遠くの親族と会わせてもハグなど身体接触はもちろん、一緒に食べることも
会話の盛り上がりもなく、顔も見ずに横に座っているだけだった)
→ぼく自身も変化しており、楽しく気分がいいと口数が少なくなり表情がぼーっとする
→日本でも最近は「チルい」という言葉が流行っており、その「脱力した心地よさ」は
ムラブリの「心が下がる」に通じるところがあるように思える
・SNSへの情熱や仲間とはしゃいだときに感じる楽しさは知っているし理解している
→でも感情を出して誰かに知られて幸福を感じられるのは一時的な流行りに過ぎない
→誰かといる、他人に認めてもらう以外の幸福がムラブリには見えている
→ムラブリ語の「心が下がる」瞬間は人類史的にはごくありふれた心の風景かも・・・
・ムラブリ語には暦も年齢もない
→季節には雨が降る季節・乾く季節・日差しの季節があるが人により呼び方は異なる
→森での収穫物が変わるので季節は重要だが、季節を決めるのは暦ではなく森の様子
→不思議なことに一昨日から5日後までの単語は規則的に存在する→昔は必要だった?
・人の暦はある→年齢ではなく成長段階による区別
→生まれたばかりの子どもは「レーン赤い」(日本語の赤ちゃんと同じで面白い)
→首が座り歩けるまでの子どもは「チョロン幼い子」
→歩き回る時期の子どもは「アイタック小さい」
→その後は「ナル・フルアック大人」で第二次性徴以降なので10代前半ぐらいから
→老人は「白い」を変化させた語彙で、おそらくは白髪のことだろう
・数詞はあるが10まで正確に数えられる人は稀
→知的威信を示す手段で、男たちは酔っぱらうと数えたがるが10までは行かない
→数えることで何かを教えるというより、宴会芸の一種というのが正確な理解
→時計をつける(電池がないか時刻が合っていない)のも時計の入れ墨をするのも知的威信
→森の生活では大きな数も時計も要らないのに、余計なもの無駄なことに価値を見いだすのが
普遍的な人類の特徴なのかも知れない
→女性に数詞を数えたり時計を見せたりはしないので、モテるためでもない男社会のあるある
・ムラブリ語の過去・完了相と未来・起動相(時制やアスペクトのハナシなので省略)
→世界の見え方は話している言語の影響を受けている
(言語相対論、青を区別する語彙があるロシア語話者の色彩識別テストなど)
・言語の持つ超越性とムラブリ語や南米ピダハン語の現前性(いま、ここ)
→ムラブリも定住し換金作物栽培を手伝うようになって計画性を求められるようになった
→ムラブリの村に一時期、自殺が増えた時期があった
→その理由を訊くと「長く考えたから」と答えたムラブリがいた
→「いま、ここ」の現前性では未来はわからず過去はとりかえせない、あるようでないもの
・ムラブリ語に竹という総称はなく7種類それぞれに単語がある
→それぞれで用途が異なり森で少しずつ見分けられるようになった
→論文を書くには写真と単語だけでいいのだが、自分で覚えて使えないと気が済まない
→理由は分からないけど、その方がぼくにとって楽しいのは間違いない
第4章より
・ムラブリが森に入る時は腰の刃物だけ
→採集物を持ち帰るカゴ、ロープ、寝床、焚火、食べ物など、すべては現地調達
→ところが村の家には服や衣類が山積みなのだが、なぜか森と変わらず落ち着いている
(ぼくはムラブリから「物が多い」といわれるが断捨離してから片付かないと落ち着かない)
・この理由を(言語学者なので)言語から考えてみる
→物を指すムラブリ語は複数あるが、よく使われるのはグルアで主に衣類の意味
→グルアの下位カテゴリーが衣類で上位カテゴリーが物
→日本語のご飯と食事の関係に近い→シネクドキ提喩
→衣類が典型的な物であるという感性はどこから生まれるのか?
・所有と匂い
→匂いは所有という抽象的な概念の入口ではないか(マーキングとか借りた服の違和感とか)
→所有のあるところに物が生まれる
→ムラブリの村や家の匂いは極めて均質(焚火の煙の影響も大きい)
→服は誰かが愛着して匂いがつくとその人のグルアになる
→家に山積みの服や衣類があってもどれも同じ(煙の)匂いなのでグルアにならない
→匂いの共有は森の中と同じなので落ち着いていられるのではないか・・・
・ムラブリの所有観(他動詞と自動詞のハナシなので省略)
→「米を持っている」と「米がある」の区別がない(森に木がある、森が木を持っている)
→私の父、私の手など親族と身体部位には「の」を使うが、私の米という使い方はない
→所有関係を表したいときはタイ語の構文を借用している
・ムラブリの一夫一妻、宗教(精霊信仰)、暴力・・・すべては「そいつ次第だ」
・自助と共助の共同体
→一人暮らしの老人でも助けを求めない限り誰も助けない
→人類学でいうシェアリングで富の集中や権力の発生を避ける仕組みを持っている
→分業しないので専門家もいない(バイク修理の講習会の例)
→徹底した個人主義の一方で獲物は平等に共有し、求められればできる範囲で助ける
→個人を生命として信頼し生命が儚いと自覚しているからの振る舞いだと感じる
(コラムより、森の中で火打石や火種の綿を濡らさないことがどれだけ大事か・・・)
第5章より
・博士論文とムラブリ語の方言差調査と子どもの誕生と大学院休学と富山への引っ越しと
29歳での日本学術振興会の特別研究員(学振3年)採用と富山大学の客員研究員・・・
→あらためて書いてみて、運だけで何とかなっているような人生だ
・2017年の春休みに富山大学の先生・学生とムラブリの村を訪れた際に金子游監督と出会った
→東南アジアの少数民族の映像を撮っていると知り(方言差調査で知った)分断されたムラブリを
消える前に引き合わせたいと考えていることや、その際の映像を残したいことを伝えた
→その日の夜にメールがきて映画のプロジェクトがはじまった・・・(略)
・ムラブリの歴史についての考察
→古くからの狩猟採集民のような高度な文化・精神世界とは異なり神話は散文的で儀礼も簡素
→いっぽうで玉鋼をつくる製鉄技術を持っている
→遺伝学や言語学の研究から農耕民が狩猟採集民になったと考えられている(略)
(遺伝的にも言語学的にも最も近い農耕民ティンの民話にも残っている)
→この逆行は人類史の中でも珍しく文化的言語的な特徴を説明する可能性がある
・ぼくのクレオール仮説
→日本語の「わたしの本」は英語では「my book」や「books of mine」
→日本語の語順は「わたしは本を持っている」主語→目的語→動でSOV言語
→英語の語順は「I have books」主語→動詞→目的語でSVO言語
→日本語のようなSOV言語の所有表現は(人→モノ)の語順が多い
→英語のようなSVO言語では所有表現に地域や語族で隔たりがある
(英語もmy book(人→モノ)とbooks of mine(モノ→人)の両方がある)
→文の基本語順と所有表現の類型論的含意と呼ばれる傾向
→オーストロアジア語族SVO言語の所有表現は唯一の例外を除いて(モノ→人)の語順
→その唯一の例外がムラブリ語
→ムラブリ語はSVO基本語順の一方で所有表現については(人→モノ)の語順を示す
(これはオーストロアジア語族の言語研究者には、そんなバカな!!!くらいの大事件だった)
→ムラブリ居住領域の周辺に(人→モノ)語順の言語はなく言語接触も殆どなかったはず
→他にも近親言語と共通する語彙が極端に少ないなど不思議な特徴がたくさんある
→中国語(人→モノ語順)の影響とか消えた言語の影響とか、イマイチな仮説ばかり・・・
(ここからがムラブリ語好きの著者の仮説)
・アジア大陸山岳部はゾミアと呼ばれ様々な少数民族が点在している地域
→平野部に比べコメの生産が難しく大きな王朝は築かれず負け組とされてきた
→歴史学者ジョージ・C・スコットは中央集権支配から逃れるため文字を捨て所有を嫌い
自由を求めて主体的に山岳部に移住したのがゾミアの民とした(2013)
→ムラブリはゾミアの民の典型例ではないかとぼくは考えている
・最初は少数のティンが祖先で、その噂に共感した他の民族からも人々が合流した
(遺伝学的にもクム族やタイ族など様々な民族と混血した痕跡がある)
→様々な民族の集まりだから、その都度、その場で通じる言葉を作り上げていく
(その場限りの必要性から生まれる言語はピジンと呼ばれ世界中で報告されている)
→ピジンは不完全な文法で語彙も限定的
→ピジンを母語として学んだ子どもたちは、やがて完全な言語体系をつくり出す
→ピジンを母語として生まれる言語をクレオールという
→つまりムラブリ語はクレオールではないか
・クレオールは元の言語や地域が違っても似たような特徴を持つ
→所有表現の語順が(人→モノ)であること、疑問詞が2つの要素からなっていること、
重複などの仕組みの乏しいことなど(偶然かも知れないが)ムラブリ語の特徴と一致する
→もちろん証明できないことであり学者として追いかける理由はないが、
→農耕から逃れ森の中で遊動生活をしながらゆるいつながりで形成していった共同幻想
→それがムラブリという民族だった可能性を想うと、なぜムラブリに出会い惹かれたのか
腑に落ちる気がするのだ・・・
(映画の撮影、ラオスのムラブリ、100年越しの再会、ムラブリ語の方言(方言には○○方言と
地名が付くが、ムラブリは移動するのでA方言B方言C方言となる)、などは省略して・・・)
・バベル的言語観、コーラン的言語観
→人々が統一言語で協力して天まで届く塔を作ろうとしたので神が怒り、天罰として塔を崩し
人々の言語をバラバラにしたというのが聖書
→「グローバルには統一言語としての英語」という風潮には反論できないが納得もできない
→言語学者としての応答は聖書と並ぶコーラン
→神が民族をバラバラにしたのは聖書と同じだが、理由はお互いをよく理解するため
→同じ言語だと個別性に気づくのは難しい→日本語同士なら同じ「おいしい」だけ
→タイ語で「アロイ」ムラブリ語で「ジョシ」という人がいれば、感じていることが違うかも
知れないという発想が湧いてくるのではないか
→味覚だけでなく感情や価値観、思想も同じこと
→言語はバベル的言語観もコーラン的言語観も同時に内包する
→同じだよね、違うよねというメタメッセージは言語を用いる限り常に存在する
→どっちも本当で同じだし、違う、そして、それは両立する
第6章より
・「ムラブリ語を話せるようになる過程で変化した自分自身」が何よりの研究成果
→2020年3月に大学教員を辞めて独立研究者になった
(プロ奢ラレヤーの「嫌なこと、全部やめても生きられる」を読んだ翌週に辞表を提出した)
・身体と言語
→武術の講座に通い稽古して、型を通じて身体性を養い、今は言語は型であると言える
→既存の言語を話すときは必ず誰かを引用している→その語も誰かがつくったもの
→ムラブリが雷の経験を誰かと共有したい、声にして表したいと思って出た音が「クルボッ」
→経験は認められ共有され、それまで意味のなかった音の配列が雷を意味するようになった
→現代言語学では単語の誕生に恣意性はないとされている
→日本語イヌ・英語ドッグ・ムラブリ語ブラン・・・
→この考え方はこれらが同じ意味であることを前提にしている→似ているが同じではない
→「クルボッ」の音やリズムがムラブリの身体性で感じる雷をよく表し一体感があったから
いままで使われてきたのではないか
→どんな音でもよかったのではなく生まれる瞬間の強度が死んでなお経験を伝える(武術の型?)
→話し手と聞き手は、語のつくり手の経験とつながっているから互いに理解できる
→ムラブリ語を理解したということは経験のアーカイブ、つまりムラブリの身体性にアクセス
することに慣れた、ということでもある
→そのアクセスがスムースになるほどムラブリ的なセンスで生きることが可能になる
→ムラブリ語を話しているときは深くしゃがめる、遠くに話そうとしている自分に気づく
(ムラブリは村では寡黙だが森では饒舌で話す距離は20~30m=ぼくが話そうとしている距離)
→給料、税金、モノやコトの値段、ご飯・・・ムラブリなら要るか要らないかだけ
→ムラブリは生きるのに必要なことを知ってて、すべて自分でできる
→ぼくは生きるのに必要なことすべてをお金で外注していることに気づいた
→まずは衣食住を身ひとつで賄えることを目指した・・・
・現代日本でムラブリのように生きるには
→バックミンスター・フラー唯一の共同研究者シナジェティクス研究所の梶川泰司所長に出会った
→梶川所長の目指す生き方
①無線→電線などを用いないオフグリッド
②無管→上下水道管を用いない
③無柱→住居に柱を用いない
④無軌道→道路などのインフラに左右されない移動
→これを達成するテクノロジーを発明することが、ぼくの理解する梶川所長の目標
(ぼくは工場規格ではなく自分で作れる環境に応じたものが理想的と思った)
→自分で作ることができ、環境と調和してお互いを活性化し、地球の(宇宙でも)どこでも
一人で生きていけるテクノロジーが、ムラブリの身体性を日本に持ち込んだぼくが心地よく
生きていく方法なのだと今は考えている→自活器self-livingry
→2022年1月にフラー式ドームの簡単な施工法を発明した(略)
→プロ奢ラレヤーと話して空き家・空きスペースに寝るスキルも面白いと思った
→寝るスキル、食事のスキル、服装のスキル・・・(略)
・友達のお父さんが急病になり二人で街の病院へ連れて行き病院の雑魚寝スペースに居たら
身なりのいいタイ人のおばさまが黙って菓子パンとアンマンの入ったコンビニ袋を渡してくれた
→泥まみれでタイ人らしくない顔つきでムラブリ語で話してたので貧しい少数民族に見えたのだ
→「ありがとうございます!!!儲かった!!!」という感情はなく、自然に二人で黙って食べた
→水が流れてきた、キノコが生えてきた、という感じで、とても自然だった
・ぼくの人生には不思議とタイミングよく身に余るオマケがついてくる
→以前ならムラブリを紹介しても「珍しい民族ですね」で終わっただろうが、映画が上映され
映画の感想が多いことに驚かされた。いまはこの本を執筆している
→おそらくこのタイミングで日本で紹介されたことに意味があったのだろう
・ムラブリはタイの少数民族の中でも地味で物質文化も乏しい
→視覚的に「これがムラブリです」と示せるものが極端に少ないが、
→若いムラブリは声を揃えて「自由が好き、強制は嫌い」と言う→これがムラブリなのだ
→この部分が現代日本でムラブリがウケている理由なのだろう
・この本に書かれていることはすべて偶然性や自由からの働きかけで起きたこと
→みんなももっと自由になれるんじゃないかと感じていたから書き上げることができたと思う
→あなたの心に小さなムラブリが芽生えることを祈っている
おわりにより
・2020年1月を最後にコロナ禍でムラブリを訪問できずにいた
→この「おわりに」を書くため3年ぶりに訪れる予定だったが出発2週間前にキャンセルした
→いまやりたいことがムラブリに会うことではないと気づいたから
・言語とは何かの本質的な問いに向かうため武術、詩、短歌、踊りをしてワークショップなどで
収入も得られるようになった
→富山での定住から車中泊生活を経て関東・関西を含む多拠点になり今は富山の山中が拠点
→ムラブリをof研究することからはじめ、ムラブリとともにwith、そしていまムラブリとしてas
研究することに挑戦している
・ぼくは孤独になり自由になったことで、なぜ専門を就職を所有やお金を嫌ったのかに気づいた
→専門ではなくそれが生む権威、働くことではなくそれの強制、所有やお金に絡む社会の
仕組みが気に入らず、身体に合わずうんざりしていたのだ
・いまは富山の山中で自活器self-livingryの開発を行っている
→自分で家を建て食を担いエネルギーをつくることができれば人はやりたいことに邁進するはず
→それがぼくのムラブリ研究でありムラブリへの恩返し
→どうかみなさん、自活器の開発に力を貸して下さい!!!
2024年08月16日
人類学者と言語学者が森に入って考えたこと
(期間限定のお知らせ)
2024.8/18(日) まで 京都市京セラ美術館で開催されている有道佐一回顧展の案内記事はこちらです
つーことで今、京都五山の送り火への点火を(大阪から中継で)眺めつつ・・・
「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」のご紹介であります
まあ、せっかくの送り火なので精霊つながりつーことで・・・
著者つーか対談者の紹介
ボルネオ島のプナンの人たちを研究する人類学者と、タイ・ラオスのムラブリの人たちを
研究する言語学者との対談を中心に両者の論考を加えた本であります
森を遊動していた狩猟採集民たちの研究者が、その生き方の共通点や相違点などから、
我々が現代をよりよく生きるための方法を探っていく、とイントロダクションにありました
奥付
例によって目次のみ
奥野克巳氏の著書については、こちらの記事や、こちらの記事でも一部紹介してますが、
伊藤雄馬氏の本はまだ読んだことがありません
本書で見る限り、その生き方をはじめ言語表現に関する考察などについても興味津々で、
いつかは読んでみたいと思った次第です
なので今回はそちらを中心に、ごく一部をランダムにメモしました
以下、発言者名・論考者名などはメモしてませんし、例によって読み違いとか読み飛ばしも
多いので興味を持たれた方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
・ムラブリ語では完了形と未来形が同じ→過去も未来も曖昧
→ワールは「帰る(最中)」だがア・ワールは「もう帰った」か「これから帰る」なのか不明
→基本的に「今、ここ」か、それ以外で言い分ける→今とここで生きている
(プナン語(マレー語インドネシア語も)では「帰る」はムリー、それに明日か昨日をつけて
未来・過去にしてるが、プナンも過去・未来の時間軸は薄い)
・おそらく世界初のムラブリ語とプナン語による会話セッションを二人でやってみた(略)
→どちらにも挨拶語はなかった
→どちらにもお金という抽象概念はなかった
(プナン語ではリンギを使うがマレーシアの通貨単位で具体概念)
(ムラブリ語ではタイの通貨単位バーツではなくサタンを使うがコインの意味で具体概念)
・ムラブリ語で誰かに自分の意見を言う時は必ず「私は怒ってないよ」を加える
→怒ることは何か悪いことを生むと考えているのではないか
・ムラブリのDNA研究から
→500~600年前に女性1男性2の焼畑民3人が森に入り狩猟採集民になったのがルーツと判明
→進化論的には逆流だが文化的再適応と呼んでいる
(プナンにも同様の仮説はあるが検証はない→思考法は他の狩猟採集民に似ている)
・プナンは年中6時に夜が明け7時に日が暮れる世界で暮らしており時間の長短がない
→季節は「葉っぱ」で「花の季節」と「実の季節」があるが、それがいつ来るかはわからない
→なので「葉っぱ」は「もし~ならば」という仮定法ifとしても使われる
(ムラブリには「雨の季節」と「日の照る季節」があるが仮定法ifはなくwhenで代用する)
・ボルネオ島には4万2千年前、アジア大陸には4万5千年前に現人類が到達したとされる
→東南アジア大陸部ではホアビン文化が紀元前1万年前頃からだが先史時代には諸説ある
・プナンが農耕以前に散らばった人類の末裔なのか農耕民から特化したのかは不明だが、
農耕民とは決定的に異なる「エートス」を持っている→森での歴史が長いからかも
(森のムラブリは農耕民から特化したという説が有力)
・ムラブリには専門家がいない→依存関係・権利構造を無意識に避けているのではないか
→その延長として自分の生に関わる部分は分業をしない
→村の大きな家は分業で作るが自分の寝床やバッグは一人で作る
(今はムラブリの手作りバッグが土産として売れ、上手に作れる人の現金収入が増えてるので、
→やがて上手な人が他の村人にも教えるようになり分業にも移行するかも→商品化?)
・プナンにも専門分化の否定、教師と生徒の関係で学ぶことの否定がある
→料理も薪割も子育ても子どもの頃から見て覚えており男女誰でも上手にやる
(「子どもの文化人類学」原ひろ子著・ちくま学芸文庫2023)
→生徒が先生から習って習得するのは、わりと新しい近代的なやり方
・人から教わるのではなくモノから学ぶのはプナンもムラブリも同じ
→アリストテレスの「質料形相モデル」ではモノを作っていない
→モノからの応答によって「学ばされている」
(「応答、しつづけよ」ティム・インゴルド著・亜紀書房2023)
→資本主義が導入された近代以降はその感覚がないので分業や生産効率へ
(分業しないとか目の前のモノから学ぶとか、なんかイタリアと似てるような・・・)
・すり鉢状の世界の中で開口部に辿り着こうと努力し現実と認識のギャップに病む現代人
→その外側の世界に飛び出してみると、圧倒的な他者であるムラブリやプナンがいる
・今の自分は生きるために必要なこと全てを既存インフラに依存している
→食べ物、家、エネルギー、飲み水→全て買うしかない→これが一番大きなすり鉢
→すり鉢の外で一人で生きることはできるか
→ムラブリの感性と既存テクノロジーの組み合わせで結構いいところまで可能ではないか
・プロ奢ラレヤー君の二面性
→浄土系仏教では現世は濁世であり穢土→汚れた世界
→そこで生きていかざるを得ない感覚を逆手に取ったのが奢られ屋ではないか
→浄土系仏教では念仏によって、あの世(浄土)での安らかな生が保証される
→日蓮はそれを非難し、あくまで現世での浄土を目指した
→彼も仏国土を目指すのではなく濁世の中で救われようとしているように見える
・日蓮は念仏を非難したが法華経という本(モノ)に帰依する側に取り込まれた
→彼も奢られる生き方で資本主義は嫌だとしたが資本主義の親分になる可能性もある
→現世では救われないと決意しつつ現世に執着している二面性
・ぼくのムラブリ言語の研究はof→with→asへ(略)
・「ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」伊藤雄馬著
(集英社インターナショナル2023)
→言語の「習得」は無意識でブロークン「学習」は意識的で正確だがブロークンには話せない
・多文化主義と多自然主義(略)
・言語が異なれば認知が異なる→多自然主義と同じ→パースペクティブの世界
(アボリジニの言語には左右がなく全て方位で表す→方角を常に正確に認知している)
・多自然主義やパースペクティブでは「相手の立場」にはなれない
→客観的事実に辿り着けず共通の基盤がなくなる→別々の世界→科学的議論ができない
(「相手の立場になって考える」のではなく、同じ立場asで考える???)
・科学者の自己と芸術家の自己を区別する
→感覚の言語化テスト→例としてこの本に触った感覚を言葉にしてみる
→9割が触っている対象を主語にしたサラサラ平らなどの三人称(科学者の自己)で表現、
→1割が触っている自分を主語にした好き嫌いなどの一人称(芸術家の自己)で表現する
→水道水が冷たい(手が温かい)のは相対的な感覚(手が冷えている場合は逆)だが、
→水が冷たいと表現するのは外側を対象にした科学者の自己
→手が温かいと表現するのは内側の感覚に目を向けた芸術家の自己
→同時に存在していて、その都度個人が決めているのだが、
→科学者の自己として言語化することに慣れている人が多い(ので9割)
・科学者の自己と芸術家の自己が感じている世界は矛盾している
→夢の言語化の例→真偽が重要か、自分の感覚への誠実さが重要か
→植物の色の表現の違いの例→それが緑か青か
→正しいか否かなど→科学者の自己
→好きか嫌いかなど→芸術家の自己
→言語現象は同時存在している
・科学者の自己と多文化主義、芸術家の自己と多自然主義
→矛盾する自己が同時存在してるのに今はその分離が激しくなっている
→科学一辺倒と現代アートの横暴など
→統合には身体の復権が必要→of→with→asへ
・第二言語の習得はその言語の人たちの身体に近づこうとする身体改造
→パースペクティブの実践で感性がまるごと取り替えられる可能性もある
→精霊が見えるようになるとか・・・
・ムラブリ研究がof→with→asになって得たことと失ったことは表裏一体
→やりたいこと優先になり約束を履行しなくなったこととか
(日本では迂闊な約束をしないことでややマイルドになったけど)
→お金や所有に対する違和感とか
(お金とは自分の代わりに他人に働いてもらう権利を生み出すメディア)
(車中泊で放浪していた頃、お腹が空けばポケットの所持金を確認して辺りのコンビニへ、
ムラブリはお腹が空けば食べ物を辺りで探すか、食べ物を獲る道具を作る)
・ぼくはぼくなのでムラブリには「なれないけど、なれる」
→この矛盾した感性は科学者の自己と芸術家の自己の反映→言語の可能性
→今の日本にいるぼく自身の生き方が「ムラブリとして生きる」ことの実践・・・
・我々の社会にはhaveとhave notの二軸の境界線が存在するが、これは恣意的なもの
→なので全てhaveはあり得ない
→ムラブリ語では「持つ」と「ある」は同じ動詞
→ぼくが文脈で判断していたのは、それをぼくが区別していたから
→誰が持っているかは問題にならない→「ある」から分け与える→太陽の恵みと同じ
→プロ奢ラレヤーの「お金は生えてくるもの」という発言も同じ視座か
(プナンも同様で頼まれて買ってあげても「ありがとう」はない)
(ムラブリは頼むときに少し遠慮が感じられるが、やはり「ありがとう」はない)
→逆にお金がなくて買えなくても悪びれずナチュラルなまま
(ムラブリと町に食事に行って、ぼくにお金がないことを伝えると「そうか」とゆー感じで、
アイスキャンデーを買ってくれて二人で食べて帰ったが、それだけだった)
・マルセル・モースの贈与論、マオリの贈与交換、モノの循環・・・
→資本の蓄積と投下による貧富格差を循環(持つ人からのマイルドなカツアゲ)で防いでいる
・1990年代ぐらいからの社会的な弱者のための配慮
→それで全ては解決せず他の問題が出てきた→結局以前より息苦しくなってしまった
→あらゆるものが吹き溜まりになり生きづらい→解決の枠組みすら見当たらない
→フィールド言語学や人類学で外側の世界を知り探れば脱出法があるかも・・・
・すり鉢の向こうに行くこと自体は解決にはならないし別のすり鉢にも苦しみはある
(今のままの自分に似合うすり鉢は見つかるかも知れないが・・・)
→すり鉢の向こうに行って(太陽の恵みとか)支えているものがあることに気づくことが重要
→それを実感するために、すり鉢状の世界の外側に行く経験は大事
(エピローグより)
・「本当の豊かさはブッシュマンが知っている」NHK出版2019
→狩猟採集は人類で最も長く続いた生業で最も持続可能な経済手法だった
→8000~4000年前からの農耕牧畜で人類は生産者・支配者になり自然を収奪する道に
→プナンもムラブリも自然と調和して持続可能な暮らしを続けてきた
・ofの人類学からwithの人類学へ(略)
・もっと知恵を
→現代世界は知識の生産で成り立っている
(ある程度の通信機器の知識がなければ入国審査も検疫手続も切り抜けられない)
→知識社会に疑いを差し挟むのが知恵
→知恵とは経験に想像力が加わったもので、森の民には知恵が充ち満ちている
→知識に知恵を調和させることが人類学者の仕事とインゴルドは主張する
・ムラブリ「としてas」
→伊藤さんはwithを超えてasという概念を捻り出した
(ドキュメンタリー映画「森のムラブリ」)
→ムラブリを研究→ムラブリとともに研究→ムラブリとして研究へ
・「狩猟採集民的な何か」が現代人にいったい何をもたらすか
→「ムラブリとして」の試みは壮大で眩しく輝いて見え、今後も見守っていきたい・・・
2024.8/18(日) まで 京都市京セラ美術館で開催されている有道佐一回顧展の案内記事はこちらです
つーことで今、京都五山の送り火への点火を(大阪から中継で)眺めつつ・・・
「人類学者と言語学者が森に入って考えたこと」のご紹介であります
まあ、せっかくの送り火なので精霊つながりつーことで・・・
著者つーか対談者の紹介
ボルネオ島のプナンの人たちを研究する人類学者と、タイ・ラオスのムラブリの人たちを
研究する言語学者との対談を中心に両者の論考を加えた本であります
森を遊動していた狩猟採集民たちの研究者が、その生き方の共通点や相違点などから、
我々が現代をよりよく生きるための方法を探っていく、とイントロダクションにありました
奥付
例によって目次のみ
奥野克巳氏の著書については、こちらの記事や、こちらの記事でも一部紹介してますが、
伊藤雄馬氏の本はまだ読んだことがありません
本書で見る限り、その生き方をはじめ言語表現に関する考察などについても興味津々で、
いつかは読んでみたいと思った次第です
なので今回はそちらを中心に、ごく一部をランダムにメモしました
以下、発言者名・論考者名などはメモしてませんし、例によって読み違いとか読み飛ばしも
多いので興味を持たれた方は本書のご熟読を・・・
(著作物からの部分メモなので公開設定に問題があれば非公開設定にします)
・ムラブリ語では完了形と未来形が同じ→過去も未来も曖昧
→ワールは「帰る(最中)」だがア・ワールは「もう帰った」か「これから帰る」なのか不明
→基本的に「今、ここ」か、それ以外で言い分ける→今とここで生きている
(プナン語(マレー語インドネシア語も)では「帰る」はムリー、それに明日か昨日をつけて
未来・過去にしてるが、プナンも過去・未来の時間軸は薄い)
・おそらく世界初のムラブリ語とプナン語による会話セッションを二人でやってみた(略)
→どちらにも挨拶語はなかった
→どちらにもお金という抽象概念はなかった
(プナン語ではリンギを使うがマレーシアの通貨単位で具体概念)
(ムラブリ語ではタイの通貨単位バーツではなくサタンを使うがコインの意味で具体概念)
・ムラブリ語で誰かに自分の意見を言う時は必ず「私は怒ってないよ」を加える
→怒ることは何か悪いことを生むと考えているのではないか
・ムラブリのDNA研究から
→500~600年前に女性1男性2の焼畑民3人が森に入り狩猟採集民になったのがルーツと判明
→進化論的には逆流だが文化的再適応と呼んでいる
(プナンにも同様の仮説はあるが検証はない→思考法は他の狩猟採集民に似ている)
・プナンは年中6時に夜が明け7時に日が暮れる世界で暮らしており時間の長短がない
→季節は「葉っぱ」で「花の季節」と「実の季節」があるが、それがいつ来るかはわからない
→なので「葉っぱ」は「もし~ならば」という仮定法ifとしても使われる
(ムラブリには「雨の季節」と「日の照る季節」があるが仮定法ifはなくwhenで代用する)
・ボルネオ島には4万2千年前、アジア大陸には4万5千年前に現人類が到達したとされる
→東南アジア大陸部ではホアビン文化が紀元前1万年前頃からだが先史時代には諸説ある
・プナンが農耕以前に散らばった人類の末裔なのか農耕民から特化したのかは不明だが、
農耕民とは決定的に異なる「エートス」を持っている→森での歴史が長いからかも
(森のムラブリは農耕民から特化したという説が有力)
・ムラブリには専門家がいない→依存関係・権利構造を無意識に避けているのではないか
→その延長として自分の生に関わる部分は分業をしない
→村の大きな家は分業で作るが自分の寝床やバッグは一人で作る
(今はムラブリの手作りバッグが土産として売れ、上手に作れる人の現金収入が増えてるので、
→やがて上手な人が他の村人にも教えるようになり分業にも移行するかも→商品化?)
・プナンにも専門分化の否定、教師と生徒の関係で学ぶことの否定がある
→料理も薪割も子育ても子どもの頃から見て覚えており男女誰でも上手にやる
(「子どもの文化人類学」原ひろ子著・ちくま学芸文庫2023)
→生徒が先生から習って習得するのは、わりと新しい近代的なやり方
・人から教わるのではなくモノから学ぶのはプナンもムラブリも同じ
→アリストテレスの「質料形相モデル」ではモノを作っていない
→モノからの応答によって「学ばされている」
(「応答、しつづけよ」ティム・インゴルド著・亜紀書房2023)
→資本主義が導入された近代以降はその感覚がないので分業や生産効率へ
(分業しないとか目の前のモノから学ぶとか、なんかイタリアと似てるような・・・)
・すり鉢状の世界の中で開口部に辿り着こうと努力し現実と認識のギャップに病む現代人
→その外側の世界に飛び出してみると、圧倒的な他者であるムラブリやプナンがいる
・今の自分は生きるために必要なこと全てを既存インフラに依存している
→食べ物、家、エネルギー、飲み水→全て買うしかない→これが一番大きなすり鉢
→すり鉢の外で一人で生きることはできるか
→ムラブリの感性と既存テクノロジーの組み合わせで結構いいところまで可能ではないか
・プロ奢ラレヤー君の二面性
→浄土系仏教では現世は濁世であり穢土→汚れた世界
→そこで生きていかざるを得ない感覚を逆手に取ったのが奢られ屋ではないか
→浄土系仏教では念仏によって、あの世(浄土)での安らかな生が保証される
→日蓮はそれを非難し、あくまで現世での浄土を目指した
→彼も仏国土を目指すのではなく濁世の中で救われようとしているように見える
・日蓮は念仏を非難したが法華経という本(モノ)に帰依する側に取り込まれた
→彼も奢られる生き方で資本主義は嫌だとしたが資本主義の親分になる可能性もある
→現世では救われないと決意しつつ現世に執着している二面性
・ぼくのムラブリ言語の研究はof→with→asへ(略)
・「ムラブリ 文字も暦も持たない狩猟採集民から言語学者が教わったこと」伊藤雄馬著
(集英社インターナショナル2023)
→言語の「習得」は無意識でブロークン「学習」は意識的で正確だがブロークンには話せない
・多文化主義と多自然主義(略)
・言語が異なれば認知が異なる→多自然主義と同じ→パースペクティブの世界
(アボリジニの言語には左右がなく全て方位で表す→方角を常に正確に認知している)
・多自然主義やパースペクティブでは「相手の立場」にはなれない
→客観的事実に辿り着けず共通の基盤がなくなる→別々の世界→科学的議論ができない
(「相手の立場になって考える」のではなく、同じ立場asで考える???)
・科学者の自己と芸術家の自己を区別する
→感覚の言語化テスト→例としてこの本に触った感覚を言葉にしてみる
→9割が触っている対象を主語にしたサラサラ平らなどの三人称(科学者の自己)で表現、
→1割が触っている自分を主語にした好き嫌いなどの一人称(芸術家の自己)で表現する
→水道水が冷たい(手が温かい)のは相対的な感覚(手が冷えている場合は逆)だが、
→水が冷たいと表現するのは外側を対象にした科学者の自己
→手が温かいと表現するのは内側の感覚に目を向けた芸術家の自己
→同時に存在していて、その都度個人が決めているのだが、
→科学者の自己として言語化することに慣れている人が多い(ので9割)
・科学者の自己と芸術家の自己が感じている世界は矛盾している
→夢の言語化の例→真偽が重要か、自分の感覚への誠実さが重要か
→植物の色の表現の違いの例→それが緑か青か
→正しいか否かなど→科学者の自己
→好きか嫌いかなど→芸術家の自己
→言語現象は同時存在している
・科学者の自己と多文化主義、芸術家の自己と多自然主義
→矛盾する自己が同時存在してるのに今はその分離が激しくなっている
→科学一辺倒と現代アートの横暴など
→統合には身体の復権が必要→of→with→asへ
・第二言語の習得はその言語の人たちの身体に近づこうとする身体改造
→パースペクティブの実践で感性がまるごと取り替えられる可能性もある
→精霊が見えるようになるとか・・・
・ムラブリ研究がof→with→asになって得たことと失ったことは表裏一体
→やりたいこと優先になり約束を履行しなくなったこととか
(日本では迂闊な約束をしないことでややマイルドになったけど)
→お金や所有に対する違和感とか
(お金とは自分の代わりに他人に働いてもらう権利を生み出すメディア)
(車中泊で放浪していた頃、お腹が空けばポケットの所持金を確認して辺りのコンビニへ、
ムラブリはお腹が空けば食べ物を辺りで探すか、食べ物を獲る道具を作る)
・ぼくはぼくなのでムラブリには「なれないけど、なれる」
→この矛盾した感性は科学者の自己と芸術家の自己の反映→言語の可能性
→今の日本にいるぼく自身の生き方が「ムラブリとして生きる」ことの実践・・・
・我々の社会にはhaveとhave notの二軸の境界線が存在するが、これは恣意的なもの
→なので全てhaveはあり得ない
→ムラブリ語では「持つ」と「ある」は同じ動詞
→ぼくが文脈で判断していたのは、それをぼくが区別していたから
→誰が持っているかは問題にならない→「ある」から分け与える→太陽の恵みと同じ
→プロ奢ラレヤーの「お金は生えてくるもの」という発言も同じ視座か
(プナンも同様で頼まれて買ってあげても「ありがとう」はない)
(ムラブリは頼むときに少し遠慮が感じられるが、やはり「ありがとう」はない)
→逆にお金がなくて買えなくても悪びれずナチュラルなまま
(ムラブリと町に食事に行って、ぼくにお金がないことを伝えると「そうか」とゆー感じで、
アイスキャンデーを買ってくれて二人で食べて帰ったが、それだけだった)
・マルセル・モースの贈与論、マオリの贈与交換、モノの循環・・・
→資本の蓄積と投下による貧富格差を循環(持つ人からのマイルドなカツアゲ)で防いでいる
・1990年代ぐらいからの社会的な弱者のための配慮
→それで全ては解決せず他の問題が出てきた→結局以前より息苦しくなってしまった
→あらゆるものが吹き溜まりになり生きづらい→解決の枠組みすら見当たらない
→フィールド言語学や人類学で外側の世界を知り探れば脱出法があるかも・・・
・すり鉢の向こうに行くこと自体は解決にはならないし別のすり鉢にも苦しみはある
(今のままの自分に似合うすり鉢は見つかるかも知れないが・・・)
→すり鉢の向こうに行って(太陽の恵みとか)支えているものがあることに気づくことが重要
→それを実感するために、すり鉢状の世界の外側に行く経験は大事
(エピローグより)
・「本当の豊かさはブッシュマンが知っている」NHK出版2019
→狩猟採集は人類で最も長く続いた生業で最も持続可能な経済手法だった
→8000~4000年前からの農耕牧畜で人類は生産者・支配者になり自然を収奪する道に
→プナンもムラブリも自然と調和して持続可能な暮らしを続けてきた
・ofの人類学からwithの人類学へ(略)
・もっと知恵を
→現代世界は知識の生産で成り立っている
(ある程度の通信機器の知識がなければ入国審査も検疫手続も切り抜けられない)
→知識社会に疑いを差し挟むのが知恵
→知恵とは経験に想像力が加わったもので、森の民には知恵が充ち満ちている
→知識に知恵を調和させることが人類学者の仕事とインゴルドは主張する
・ムラブリ「としてas」
→伊藤さんはwithを超えてasという概念を捻り出した
(ドキュメンタリー映画「森のムラブリ」)
→ムラブリを研究→ムラブリとともに研究→ムラブリとして研究へ
・「狩猟採集民的な何か」が現代人にいったい何をもたらすか
→「ムラブリとして」の試みは壮大で眩しく輝いて見え、今後も見守っていきたい・・・