史跡・戦跡・名勝
2023年12月29日
戦前の正体
ええ、もうすぐお正月なので日本神話をおさらい・・・
そう、戦前の正体~愛国と神話の日本近現代史~とゆー本のご紹介であります
著者によれば、
・この本で日本神話と国威発揚との関係を通じて戦前の正体に迫りたい
・神話に大胆な解釈をして利用していた戦前の物語の欠点はいくらでも指摘できるが、
それで植民地化の危機を乗り越えたのだから、一定の評価はすべき
・ただし、それを神聖不可侵にしてしまうとベタになる危険がある
・実証なき物語は妄想だが物語なき実証は空虚であり、今後の新しい国民的物語にも
曖昧さを取り込むべき
とのことで、右派でも左派でもない、この観点がわりと抵抗なく入ってきました
日本神話についても俯瞰的に理解できて、なかなか興味深く読めた一冊でした
表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
例によって目次の紹介
以下、ますます容量が少なくなってきたわたくしの脳の外部記憶のための読書メモで、
おそらく誤解等もありますので、興味を持たれた方には本書の熟読をオススメします
はじめにより
・戦前は明治維新から敗戦までで77年、戦後も2022年までで77年
→いま「戦前の物語」は中途半端な形で語られている
→「戦前」という言葉はたやすく使われるが、かえってイメージを曖昧にしている
・例として「安倍晋三は東条英機のような独裁者で戦前回帰だ」という批判について
→戦前の憲法下では首相に権限が集中しにくく軍部の独走を許し東条も苦慮しており、
自らの様々な兼任により権限を集めようとしたので独裁者と呼ばれた
→それでも戦時中に首相の座を追われている
→戦後は戦時下の反省もあって首相に様々な権限が集約されている
→なので、この傾向を戦前回帰と呼ぶのはあまりにも倒錯している
・安倍元首相の「美しい日本を取り戻す」も戦前回帰といわれたが中味は戦前だけでなく寄せ集め
→左派が政権批判で使う「戦前」も、その暗黒部分だけをかき集めて煮詰めたもの
・いまの右派・左派の使う「戦前」は、それぞれの願望の産物なので議論が噛み合わないのは当然
→神話と国威発揚との関係を通じて戦前の正体に迫りたい
第1章より
・神武天皇は幕末に急に思い出された
(江戸時代までの京都御所仏壇の位牌は天智天皇からで、陵の制定も橿原神宮も明治以降)
・明治維新は英語ではRestoration(王政復古)と訳されRevolution(革命)ではない→原点回帰
→回帰する原点を平安とかではなく神武にすれば政治体制などの記録がないので好都合だった
→白紙状態だから「これが神武創業だ」といえば西洋化でも藩閥政治でも何でもできるから
・服制改革(洋服化)も「神武・神功の武の伝統風姿に戻る」と布告
→最も武に優れているのは西洋なので洋服化は伝統というロジック
・紀年も時系列把握が難しい元号と(西暦より660年古く都合のいい)神武天皇即位紀元(皇紀)の併用に
・徴兵令も「神武時代は国民皆兵で武士時代がイレギュラー」とする中世キャンセル史観で説明
(今も「夫婦同姓こそ本来の日本の姿」とかの押しつけがあるが多くは明治以降に一般化したもの)
・右派も左派も「本来の姿に帰れ」という原点回帰のロジックには弱いので警戒心が必要
(神社参道の真ん中を歩くのは伝統に反するとか、これが本来のマルクスの共産主義だとか)
・軍人勅諭、金鵄勲章、八咫烏なども同様(略)
・神武天皇像と明治天皇の御真影
→御真影はイタリア人銅版画家が記憶をもとに西洋人風に描いたものを日本人写真師が撮ったもの
(猪瀬直樹「ミカドの肖像」より→明治天皇が写真嫌いだったので複雑な方法になった)
→その御真影をもとに最初の神武天皇像が作られた→西洋化こそ古代回帰というロジック
・ローマ支配以降ナショナリズムに目覚めたヨーロッパ各国でも古代の英雄(首長や族長)を讃えた
→ローマの史書では端役・敵役だった人物が重要に→読み替えが不要だったのはイタリア人ぐらい
→同様に徳川幕府(陣中幕の中の大将軍)に対抗できる古代の英雄が必要だった
→明治天皇=神武天皇としたのは世界史的な流れでもある
・各地の神武天皇像の変遷(略)
・実在しなかった(あるいは神話上の存在だった)からこそ、新政府にとって都合がよかった
→仮に実在していたら紀元前になるので、その実態はかなりわびしいはず
→神武天皇に大きな夢を抱く実在論者ほど、神武天皇の実在は不都合になる
第2章より
・北畠親房の神皇正統記→万世一系の天皇
→中国の易姓革命は新王朝の支配を正当化するロジック
→これを学び、王朝が変わっていない日本こそが世界一の高徳の国とした
→幕末の後期水戸学→明治の教育勅語→昭和の国体の本義へ
→現在の右派が男系男子にこだわり夫婦別姓に反対する理由にもなっている
・井上毅の教育勅語
→原文は難しく戦後は解釈が歪められているが構造を把握すれば忠と孝の4者関係(略)
→根底は君臣関係と国体の擁護(略)
・井上毅の明治憲法→「しらす」と「うしはぐ」(略)
・井上毅の皇室典範→典憲二元体制(略)
・井上毅の女子天皇・女系天皇の排除→別の王朝になるから(略)
・井上毅の立憲主義と内村鑑三不敬事件など→国体論の実践は「しらす」とはいかなかった(略)
・1937年発行の「国体の本義」では家族国家を強調した→個人主義の否定へ(略)
・平成天皇の武力や威嚇のない「しらす」は圧倒的な国民の支持を集めたが、象徴天皇制だからこそか
→天皇の君徳のみならず皇后の影響、平和で豊かな時代でインフラが発達していたことも大きい
→「国体のミクロ化」の自覚のためにも国体論の系譜(略)を知っておくべき・・・
第3章より
・神功皇后
→14代仲哀天皇の皇后で息子の15代応神天皇が即位するまで69年間政務を担った
→日本書紀の記述では、
→熊襲などを平定し妊娠中に新羅へ出兵、百済、高句麗も服属させ帰国して応神天皇を出産
→比類なき対外戦争指導者として北条時宗、豊臣秀吉と並び称されるようになった
→明治までは無名だった神武天皇より馴染みのある存在だった
→なので、はじめての政府紙幣、公債、切手にも肖像が使われた
→日清戦争後あたりから使われなくなった
→以後は他の軍神も多数登場し、女性は家を守る存在とされるようになったから
・北白川宮能久親王や孫の永久王とヤマトタケル(略)
・東京招魂社→靖国神社へ→神社の序列化へ→各藩の招魂社は護国神社となった
→招魂社は古来からの御霊信仰で殉難者は敵味方の区別なく慰霊するが、
→靖国神社はまず敵を排除、味方も立場や最期が厳しく審査され天皇の許可を得て合祀された
→西郷隆盛など賊軍以外でも乃木希典は殉死、東郷平八郎は病死で合祀されず別の神社の祭神に
・聖武天皇の宣命・大伴家持の長歌(万葉集)→「海ゆかば」→祭文や軍歌として蘇った(略)
・敗戦により外地の皇族軍人を祀る神社がなくなった
→1959年に靖国神社に合祀されたが本来は全く別の存在
→戦前は天皇・皇族・臣下は厳密にわけられていた(教育勅語でも明確に区別されている)
→これが大日本帝国の価値観
・戦前の国家神道のイメージ
→戦前は政府が神社を管理し国民を教化・煽動していたイメージがあるが、
→実際には明治時代のみで部局も三流、明治半ばには神職も官吏ではなくなり予算も少なかった
→神道の国教化は早くに断念され、神社神道は国家に特別扱いされるかわりに、
信教の自由に抵触しないよう「宗教ではなく国民的な道徳・倫理」とされた
(国家神道という言葉は戦後のGHQ指令によって広まったもの)
→神道・神話の影響が大きかったのは政府に便乗する企業や民衆の自発的な消費があったから
・「戦前」には1930年代後半以降の総力戦体制下のイメージが強いが戦前も77年あった
→靖国神社ではサーカス興業が名物だった→厳粛になるのは1930年代後半から
→忠魂碑など「下からの参加」の痕跡は他の神社にも残っている
→多くの神社は戦前と深く関わっており記念碑や顕彰碑は数知れない
→そのような神社に参拝しただけで軍国主義者と決めつけるのか
(2023年元旦に東京乃木神社に参拝した立憲民主党・泉健太代表への批判殺到など)
・歴史は都合よく切り離せるものではなく一部だけ切り出して戦前戦前と騒いでも意味はない
→先祖代々という物語で戦争に駆り立てることが問題なのである
第4章より
・超国家主義と日本神話
→日本神話は三層構造で天上の高天原、地上の中つ国、地下の黄泉の国の世界(略)
→高天原アマテラスの孫ニニギの(オオクニヌシが支配していた)中つ国への天孫降臨(国譲り)
→ニニギの子孫は南九州を拠点に中つ国を統治した
→曾孫のイワレヒコが国の中心に近い大和へ瀬戸内海を東進、橿原宮で神武天皇に即位した(神武東征)
→12代景行天皇の子ヤマトタケルが東西の荒ぶる神々や民を服属させ伊吹山の神の討伐に失敗し伊勢で病没
→14代仲哀天皇も熊襲の討伐中に病没、神功皇后が新羅・百済・高句麗まで服属させた(三韓征伐)
→国譲り以前の部分に近代のオカルト的な思想や超国家主義の根拠がある(略)
・国学者・平田篤胤の世界観(略)
・弟子・佐藤信淵(東京の名付け親)の世界征服プラン(略)
・天地開闢とイザナキ・イザナミ、アマテラスとスサノオ、オオクニニシの国土経営(略)
・神話を引用した言葉(○○景気や三種の神器など)が使われなくなったのは神話の教養が失われているから
・平田も佐藤も記紀を使い分けた大胆な解釈で、日本は世界の祖国で天皇は世界の大君とした
→ただし平田派は明治の早い時期に放逐されたし佐藤も有名ではなかった
→昭和戦前期の膨張時代に遡及的に発見されたもの
→それが戦後になって侵略思想の根拠であるかのように批判されたに過ぎない
→記紀を用いた大胆な解釈があったことが重要で、また騙されないためのワクチンとして超国家主義的な
思想に触れておく必要がある
・木村鷹太郎の「世界的研究に基づける日本太古史」
→バイロン紹介、プラトン全集初翻訳などの偉業で知られ論壇ではキムタカと呼ばれ恐れられた
→記紀は島国の神話ではなく世界の神話だとした(めっちゃ面白かったけど略)
・昭和に入ってから軍人たちの人気を集めた竹内巨麿の「竹内文献」
→日本書紀の「ニニギの天孫降臨より神武東征まで179万2470年」という記載を事実とした解釈
→神武の前に97代の天皇が存在し世界人類(五色人)を作ったが天変地異で崩壊、その後に即位したのが神武で・・・
(初代が神代文字や万国地図を作ったのは100億10万歳の出来事とか、めっちゃ面白かったけど略)
→1928年の古代記録の開封に立ち会ったのは公爵、陸海軍の将官、宮内庁事務官で半数が高級軍人だった
→1930年には不敬罪などで検挙されたが軍人には深く取り入っており1944年に無罪になった
・古史古伝は上記(うえつふみ)や富士古文書など多数存在し林房雄など専門的知見を持つ者も肯定していた
・海道東征の翌年に北原白秋と山田耕筰が作った「大陸の黎明(しののめ)」(略)
→神話を十分に理解していないと意味が理解できないが、日本神話と軍事侵攻を結合させたもので、
記紀神話を独創的に解釈してきた先人につらなるもの
・天皇は神聖不可侵と義務教育で教える顕教と、天皇は統治のための機関と帝国大学で教える密教の使い分け
→神話についても同様で、義務教育では事実として教えられてたが指導者たちには統治のための方便
→表向き神話が事実なら、その世界を語らずにつまみ食いする指導者は顕教により密教討伐すべきとなる
→神話国家の大日本帝国は想像力に飲み込まれやすい構造的な欠陥を抱えていたのではないか
・世界制覇などは弱小だった明治国家には妄想だったが、列強になった昭和国家では現実と勘違いされた
→やがて政府が八紘一宇を掲げるようになると神話的想像力はさらに大きく盛り上がった
第5章より
・紀元2600年式典
→カンタータ海道東征は八紘一宇でしめくくられる
→同年7月に成立した第二次近衛内閣は八紘一宇を国是として大東亜の新秩序を宣言した
→11月に宮崎県に八紘一宇の塔が完成し翌年にかけ神武天皇に関する記念碑が西日本中心に建てられた
→宮崎県には皇軍発祥之地と海軍発祥之地の記念碑も建てられた
→神武天皇の東征ルートを国が認定し19ヶ所が聖蹟と認められ記念碑が建てられた(略)
・八紘一宇は日蓮主義者・田中智学により1913年3月に造語された
→先行する使用例はあるが後世に影響するのは田中によるもの
→日本書紀にある「八紘を掩ひて宇にせむ」は、せいぜい「東征後の日本は平和的に統治しよう」
ぐらいの意味だったと考えられるが、これが世界統一の話になった
→造語の翌年、智学は立正安国会を国柱会に改め思想普及に努めた
→集まった宮沢賢治など錚々たる人士の中に石川莞爾もいた
・石川莞爾「世界最終戦論」のビジョン
→陸軍内部の権力闘争に敗れて左遷されていた1940年に執筆したもの
→東洋の王道を代表する日本と西洋の覇道を代表するアメリカが最終戦争を戦い永遠の平和に・・・
→(東条英機と対立してたので彼が首相だったらという評価もあるが)智学の世界観に影響されたもの
・智学は陸軍士官学校でも講演していた
→自衛隊でも右派の評論家やジャーナリストが講演しているが穏健な国民の物語が必要
→ことあらば身命を賭す軍人は大きな国家観を欲するので専門家ではなく在野の思想家が求められる
→智学の八紘一宇の思想は荒木貞夫陸相、2.26の青年将校などに普及していく
→愛国行進曲の作詞者も国柱会の会員だったことを筆者は最近知った
・開戦の詔書での戦争目的は詔書の一般論にある「万邦共栄」ではなく「自存自衛」だった
(戦争目的が自国防衛とアジア開放のあいだで分裂していたことはよく指摘されている)
→開戦直後の12月13日に内閣情報局が「戦争目的は大東亜新秩序建設なので大東亜戦争」と発表
→詔書には記されていない八紘一宇を誓うに至った
・明治維新では日本神話は近代化のための口実だった
→昭和戦前期に国民を鼓舞するための素材に変化した
→軍人も文学者も新聞も神話を参照した
→撃ちてし止まむ、神武東征と大東亜戦争の一致など・・・(略)
・三種の神器
→記紀では皇位の象徴とは記されていないが昭和天皇も本気で信じており散逸を心配していた
→当初は終戦の詔書案に入っていたが連合国に詮索されないようにと削除された
→アマテラスがニニギに与えたものが実在するはずがなく重んじられたのも南北朝時代から
・敗戦間際の指導者たちは国体を守ろうと必死で三種の神器も隠そうとした
→国体も三種の神器も近代国家を急造するための方便であり、あえて国家の基礎にすえたもの
→昭和に入り世界恐慌やマルクス主義に向き合う中で神話ネタはベタになった
→国体や三種の神器は天皇や指導者までも拘束した
→ネタを守るために終戦は先延ばしにされ犠牲者が増えた→ネタがベタになることのリスク
第6章より
・いまも武道館の隣にある弥生慰霊堂(もとは弥生神社で警察・消防版の靖国神社)の例
→戦後はGHQの政教分離指令で神社として存続できなくなり慰霊堂として移転・改称した
→いっぽう靖国神社は改称されず神道色も残った
→このような戦前と戦後の境目の曖昧さは数多くある
→高度成長期も続いた1940年体制(総力戦体制)、神社本庁、天皇の地位、儀礼・・・(略)
・戦前の五つの物語
①原点回帰という罠
②特別な国という罠
③祖先より代々という罠
④世界最古という罠
⑤ネタがベタになるという罠
・これらを否定することはたやすいが、そのリスクを受け止め今後どのように紡いでいくか
→物語は虚構だが共同体を形成する上で大きな役割がある
→宗教の否定が醜悪な疑似宗教(個人崇拝など)を生み出している
→物語の否定は劣化コピーを生成させるだけ
→物語は排除されるべきものではなく上書きされるべきものである
・道義国家論(後期水戸学系)と神聖国家論(国学系)
→努力論と宿命論で一方だけでは統治できず循環して混ざり合っていた(略)
・広義の国家神道論(左派に多い)と狭義の国家神道論(右派に多い)
→実証なき物語は妄想だが物語なき実証は空虚なので中間を取ろうというのが筆者の考え
→これまでの議論は上からの統制に注目し過ぎだったのではないか
→企業の時局便乗や民衆のナショナリズムもあり神社参拝もすべてが強制されたものではない
・明治初期の軍歌はエリートが作ったが、民衆のナショナリズムが高揚すると民衆が自発的に作り、
レコード会社はじめ企業が便乗した→下からの参加
→プロパガンダしたい当局と時局で儲けたい企業と戦争の熱狂を楽しみたい消費者の利益共同体
・戦前の神話は当初は上からの統制だったが途中から下からの参加が加わり、国体論という
ネタがベタになり、やがて政府をも拘束するようになった
→この神話国家の興亡こそが戦前の正体
・戦前の物語にあえて点数をつければ65点
→いまは100点を追求し過ぎて脆弱な物語しかない時代
→日本スゴイ史観(右派)は不都合な資料が発掘されるとすぐ瓦解するし、問題点ばかりあげつらう
日本悪玉論(左派)は共産主義の失敗などに目をそらし別の脆弱な物語にしがみつく
・戦前の日本は問題行動もあったが欧米列強の侵略に対抗し近代化・国民化を成し遂げた
→だから過去の誤りを認めながら今後よりよい国をつくっていこう
→こういう立場なら多少不都合な資料が発掘されても動ずることはない
・戦前の物語の欠点はいくらでも指摘できる
→だが、それで植民地化の危機を乗り越えたのだから評価はすべき
→ただし、それを神聖不可侵にしてしまうとベタになる危険があるので65点にした
・今後の新しい国民的物語にも曖昧さを取り込むべきで、そのほうが長く日本の指針となるはず
→戦前とは国民的物語で及第点を出した時代
→それを超克するには教養として大きな枠組みで戦前を知らなければならない
おわりにより
・日本の神話は豊穣で概説するのが難しい
→本書は明治維新から大東亜戦争まで日本の神話がどのように利用されたのかを解説した入門書
→歴史を押えておけば時事ニュースも俯瞰的に眺められる
・例えば明治神宮外苑の再開発問題
→国民の勤労奉仕や献金で整備された経過から公共性があると左派が反対している
(明治神宮の祭神は明治天皇で戦後は宗教法人が管理)
→(明治天皇に殉死した)乃木神社への立憲民主党・泉健太代表の参拝を軍国主義と批判した
左派の人間は、この反対理由をどう受け止めているのか
→整備経過からの公共性をいうなら靖国神社こそ公共的なはず
・明治神宮や靖国神社の公共性とはなんなのか、近代日本はどのような国だったのか・・・
→現代日本の公私を考えるには、そこから根源的に考えなければならない
→これが戦前の正体を押えておかなければならないゆえんである
・コロナ禍で筆者も動画配信に加わった
→原稿に比べると気軽で視聴者からのフィードバックも早く運営資金も調達しやすい
→この動画配信でわかったのは、本を書くことの大切さだった
・動画の時代だからこそ情報を取捨選択し1本の物語に整理する能力が求められているのでは
→その能力がもっとも培われるのが読書や執筆にほかならない
→少なくとも歴史関係の動画のネタ元は書籍しかないのである
云々・・・
まあ、当サイトのネタ元も最近は書籍が多いのですが、それを1本の物語に整理する能力はなく、
自分の脳の外部記憶としてメモしてるだけなんですよね・・・
せめて皆さんは冷静に情報を取捨選択されて良い年を迎えられますように・・・
そう、戦前の正体~愛国と神話の日本近現代史~とゆー本のご紹介であります
著者によれば、
・この本で日本神話と国威発揚との関係を通じて戦前の正体に迫りたい
・神話に大胆な解釈をして利用していた戦前の物語の欠点はいくらでも指摘できるが、
それで植民地化の危機を乗り越えたのだから、一定の評価はすべき
・ただし、それを神聖不可侵にしてしまうとベタになる危険がある
・実証なき物語は妄想だが物語なき実証は空虚であり、今後の新しい国民的物語にも
曖昧さを取り込むべき
とのことで、右派でも左派でもない、この観点がわりと抵抗なく入ってきました
日本神話についても俯瞰的に理解できて、なかなか興味深く読めた一冊でした
表紙カバー裏にあった著者紹介
奥付
例によって目次の紹介
以下、ますます容量が少なくなってきたわたくしの脳の外部記憶のための読書メモで、
おそらく誤解等もありますので、興味を持たれた方には本書の熟読をオススメします
はじめにより
・戦前は明治維新から敗戦までで77年、戦後も2022年までで77年
→いま「戦前の物語」は中途半端な形で語られている
→「戦前」という言葉はたやすく使われるが、かえってイメージを曖昧にしている
・例として「安倍晋三は東条英機のような独裁者で戦前回帰だ」という批判について
→戦前の憲法下では首相に権限が集中しにくく軍部の独走を許し東条も苦慮しており、
自らの様々な兼任により権限を集めようとしたので独裁者と呼ばれた
→それでも戦時中に首相の座を追われている
→戦後は戦時下の反省もあって首相に様々な権限が集約されている
→なので、この傾向を戦前回帰と呼ぶのはあまりにも倒錯している
・安倍元首相の「美しい日本を取り戻す」も戦前回帰といわれたが中味は戦前だけでなく寄せ集め
→左派が政権批判で使う「戦前」も、その暗黒部分だけをかき集めて煮詰めたもの
・いまの右派・左派の使う「戦前」は、それぞれの願望の産物なので議論が噛み合わないのは当然
→神話と国威発揚との関係を通じて戦前の正体に迫りたい
第1章より
・神武天皇は幕末に急に思い出された
(江戸時代までの京都御所仏壇の位牌は天智天皇からで、陵の制定も橿原神宮も明治以降)
・明治維新は英語ではRestoration(王政復古)と訳されRevolution(革命)ではない→原点回帰
→回帰する原点を平安とかではなく神武にすれば政治体制などの記録がないので好都合だった
→白紙状態だから「これが神武創業だ」といえば西洋化でも藩閥政治でも何でもできるから
・服制改革(洋服化)も「神武・神功の武の伝統風姿に戻る」と布告
→最も武に優れているのは西洋なので洋服化は伝統というロジック
・紀年も時系列把握が難しい元号と(西暦より660年古く都合のいい)神武天皇即位紀元(皇紀)の併用に
・徴兵令も「神武時代は国民皆兵で武士時代がイレギュラー」とする中世キャンセル史観で説明
(今も「夫婦同姓こそ本来の日本の姿」とかの押しつけがあるが多くは明治以降に一般化したもの)
・右派も左派も「本来の姿に帰れ」という原点回帰のロジックには弱いので警戒心が必要
(神社参道の真ん中を歩くのは伝統に反するとか、これが本来のマルクスの共産主義だとか)
・軍人勅諭、金鵄勲章、八咫烏なども同様(略)
・神武天皇像と明治天皇の御真影
→御真影はイタリア人銅版画家が記憶をもとに西洋人風に描いたものを日本人写真師が撮ったもの
(猪瀬直樹「ミカドの肖像」より→明治天皇が写真嫌いだったので複雑な方法になった)
→その御真影をもとに最初の神武天皇像が作られた→西洋化こそ古代回帰というロジック
・ローマ支配以降ナショナリズムに目覚めたヨーロッパ各国でも古代の英雄(首長や族長)を讃えた
→ローマの史書では端役・敵役だった人物が重要に→読み替えが不要だったのはイタリア人ぐらい
→同様に徳川幕府(陣中幕の中の大将軍)に対抗できる古代の英雄が必要だった
→明治天皇=神武天皇としたのは世界史的な流れでもある
・各地の神武天皇像の変遷(略)
・実在しなかった(あるいは神話上の存在だった)からこそ、新政府にとって都合がよかった
→仮に実在していたら紀元前になるので、その実態はかなりわびしいはず
→神武天皇に大きな夢を抱く実在論者ほど、神武天皇の実在は不都合になる
第2章より
・北畠親房の神皇正統記→万世一系の天皇
→中国の易姓革命は新王朝の支配を正当化するロジック
→これを学び、王朝が変わっていない日本こそが世界一の高徳の国とした
→幕末の後期水戸学→明治の教育勅語→昭和の国体の本義へ
→現在の右派が男系男子にこだわり夫婦別姓に反対する理由にもなっている
・井上毅の教育勅語
→原文は難しく戦後は解釈が歪められているが構造を把握すれば忠と孝の4者関係(略)
→根底は君臣関係と国体の擁護(略)
・井上毅の明治憲法→「しらす」と「うしはぐ」(略)
・井上毅の皇室典範→典憲二元体制(略)
・井上毅の女子天皇・女系天皇の排除→別の王朝になるから(略)
・井上毅の立憲主義と内村鑑三不敬事件など→国体論の実践は「しらす」とはいかなかった(略)
・1937年発行の「国体の本義」では家族国家を強調した→個人主義の否定へ(略)
・平成天皇の武力や威嚇のない「しらす」は圧倒的な国民の支持を集めたが、象徴天皇制だからこそか
→天皇の君徳のみならず皇后の影響、平和で豊かな時代でインフラが発達していたことも大きい
→「国体のミクロ化」の自覚のためにも国体論の系譜(略)を知っておくべき・・・
第3章より
・神功皇后
→14代仲哀天皇の皇后で息子の15代応神天皇が即位するまで69年間政務を担った
→日本書紀の記述では、
→熊襲などを平定し妊娠中に新羅へ出兵、百済、高句麗も服属させ帰国して応神天皇を出産
→比類なき対外戦争指導者として北条時宗、豊臣秀吉と並び称されるようになった
→明治までは無名だった神武天皇より馴染みのある存在だった
→なので、はじめての政府紙幣、公債、切手にも肖像が使われた
→日清戦争後あたりから使われなくなった
→以後は他の軍神も多数登場し、女性は家を守る存在とされるようになったから
・北白川宮能久親王や孫の永久王とヤマトタケル(略)
・東京招魂社→靖国神社へ→神社の序列化へ→各藩の招魂社は護国神社となった
→招魂社は古来からの御霊信仰で殉難者は敵味方の区別なく慰霊するが、
→靖国神社はまず敵を排除、味方も立場や最期が厳しく審査され天皇の許可を得て合祀された
→西郷隆盛など賊軍以外でも乃木希典は殉死、東郷平八郎は病死で合祀されず別の神社の祭神に
・聖武天皇の宣命・大伴家持の長歌(万葉集)→「海ゆかば」→祭文や軍歌として蘇った(略)
・敗戦により外地の皇族軍人を祀る神社がなくなった
→1959年に靖国神社に合祀されたが本来は全く別の存在
→戦前は天皇・皇族・臣下は厳密にわけられていた(教育勅語でも明確に区別されている)
→これが大日本帝国の価値観
・戦前の国家神道のイメージ
→戦前は政府が神社を管理し国民を教化・煽動していたイメージがあるが、
→実際には明治時代のみで部局も三流、明治半ばには神職も官吏ではなくなり予算も少なかった
→神道の国教化は早くに断念され、神社神道は国家に特別扱いされるかわりに、
信教の自由に抵触しないよう「宗教ではなく国民的な道徳・倫理」とされた
(国家神道という言葉は戦後のGHQ指令によって広まったもの)
→神道・神話の影響が大きかったのは政府に便乗する企業や民衆の自発的な消費があったから
・「戦前」には1930年代後半以降の総力戦体制下のイメージが強いが戦前も77年あった
→靖国神社ではサーカス興業が名物だった→厳粛になるのは1930年代後半から
→忠魂碑など「下からの参加」の痕跡は他の神社にも残っている
→多くの神社は戦前と深く関わっており記念碑や顕彰碑は数知れない
→そのような神社に参拝しただけで軍国主義者と決めつけるのか
(2023年元旦に東京乃木神社に参拝した立憲民主党・泉健太代表への批判殺到など)
・歴史は都合よく切り離せるものではなく一部だけ切り出して戦前戦前と騒いでも意味はない
→先祖代々という物語で戦争に駆り立てることが問題なのである
第4章より
・超国家主義と日本神話
→日本神話は三層構造で天上の高天原、地上の中つ国、地下の黄泉の国の世界(略)
→高天原アマテラスの孫ニニギの(オオクニヌシが支配していた)中つ国への天孫降臨(国譲り)
→ニニギの子孫は南九州を拠点に中つ国を統治した
→曾孫のイワレヒコが国の中心に近い大和へ瀬戸内海を東進、橿原宮で神武天皇に即位した(神武東征)
→12代景行天皇の子ヤマトタケルが東西の荒ぶる神々や民を服属させ伊吹山の神の討伐に失敗し伊勢で病没
→14代仲哀天皇も熊襲の討伐中に病没、神功皇后が新羅・百済・高句麗まで服属させた(三韓征伐)
→国譲り以前の部分に近代のオカルト的な思想や超国家主義の根拠がある(略)
・国学者・平田篤胤の世界観(略)
・弟子・佐藤信淵(東京の名付け親)の世界征服プラン(略)
・天地開闢とイザナキ・イザナミ、アマテラスとスサノオ、オオクニニシの国土経営(略)
・神話を引用した言葉(○○景気や三種の神器など)が使われなくなったのは神話の教養が失われているから
・平田も佐藤も記紀を使い分けた大胆な解釈で、日本は世界の祖国で天皇は世界の大君とした
→ただし平田派は明治の早い時期に放逐されたし佐藤も有名ではなかった
→昭和戦前期の膨張時代に遡及的に発見されたもの
→それが戦後になって侵略思想の根拠であるかのように批判されたに過ぎない
→記紀を用いた大胆な解釈があったことが重要で、また騙されないためのワクチンとして超国家主義的な
思想に触れておく必要がある
・木村鷹太郎の「世界的研究に基づける日本太古史」
→バイロン紹介、プラトン全集初翻訳などの偉業で知られ論壇ではキムタカと呼ばれ恐れられた
→記紀は島国の神話ではなく世界の神話だとした(めっちゃ面白かったけど略)
・昭和に入ってから軍人たちの人気を集めた竹内巨麿の「竹内文献」
→日本書紀の「ニニギの天孫降臨より神武東征まで179万2470年」という記載を事実とした解釈
→神武の前に97代の天皇が存在し世界人類(五色人)を作ったが天変地異で崩壊、その後に即位したのが神武で・・・
(初代が神代文字や万国地図を作ったのは100億10万歳の出来事とか、めっちゃ面白かったけど略)
→1928年の古代記録の開封に立ち会ったのは公爵、陸海軍の将官、宮内庁事務官で半数が高級軍人だった
→1930年には不敬罪などで検挙されたが軍人には深く取り入っており1944年に無罪になった
・古史古伝は上記(うえつふみ)や富士古文書など多数存在し林房雄など専門的知見を持つ者も肯定していた
・海道東征の翌年に北原白秋と山田耕筰が作った「大陸の黎明(しののめ)」(略)
→神話を十分に理解していないと意味が理解できないが、日本神話と軍事侵攻を結合させたもので、
記紀神話を独創的に解釈してきた先人につらなるもの
・天皇は神聖不可侵と義務教育で教える顕教と、天皇は統治のための機関と帝国大学で教える密教の使い分け
→神話についても同様で、義務教育では事実として教えられてたが指導者たちには統治のための方便
→表向き神話が事実なら、その世界を語らずにつまみ食いする指導者は顕教により密教討伐すべきとなる
→神話国家の大日本帝国は想像力に飲み込まれやすい構造的な欠陥を抱えていたのではないか
・世界制覇などは弱小だった明治国家には妄想だったが、列強になった昭和国家では現実と勘違いされた
→やがて政府が八紘一宇を掲げるようになると神話的想像力はさらに大きく盛り上がった
第5章より
・紀元2600年式典
→カンタータ海道東征は八紘一宇でしめくくられる
→同年7月に成立した第二次近衛内閣は八紘一宇を国是として大東亜の新秩序を宣言した
→11月に宮崎県に八紘一宇の塔が完成し翌年にかけ神武天皇に関する記念碑が西日本中心に建てられた
→宮崎県には皇軍発祥之地と海軍発祥之地の記念碑も建てられた
→神武天皇の東征ルートを国が認定し19ヶ所が聖蹟と認められ記念碑が建てられた(略)
・八紘一宇は日蓮主義者・田中智学により1913年3月に造語された
→先行する使用例はあるが後世に影響するのは田中によるもの
→日本書紀にある「八紘を掩ひて宇にせむ」は、せいぜい「東征後の日本は平和的に統治しよう」
ぐらいの意味だったと考えられるが、これが世界統一の話になった
→造語の翌年、智学は立正安国会を国柱会に改め思想普及に努めた
→集まった宮沢賢治など錚々たる人士の中に石川莞爾もいた
・石川莞爾「世界最終戦論」のビジョン
→陸軍内部の権力闘争に敗れて左遷されていた1940年に執筆したもの
→東洋の王道を代表する日本と西洋の覇道を代表するアメリカが最終戦争を戦い永遠の平和に・・・
→(東条英機と対立してたので彼が首相だったらという評価もあるが)智学の世界観に影響されたもの
・智学は陸軍士官学校でも講演していた
→自衛隊でも右派の評論家やジャーナリストが講演しているが穏健な国民の物語が必要
→ことあらば身命を賭す軍人は大きな国家観を欲するので専門家ではなく在野の思想家が求められる
→智学の八紘一宇の思想は荒木貞夫陸相、2.26の青年将校などに普及していく
→愛国行進曲の作詞者も国柱会の会員だったことを筆者は最近知った
・開戦の詔書での戦争目的は詔書の一般論にある「万邦共栄」ではなく「自存自衛」だった
(戦争目的が自国防衛とアジア開放のあいだで分裂していたことはよく指摘されている)
→開戦直後の12月13日に内閣情報局が「戦争目的は大東亜新秩序建設なので大東亜戦争」と発表
→詔書には記されていない八紘一宇を誓うに至った
・明治維新では日本神話は近代化のための口実だった
→昭和戦前期に国民を鼓舞するための素材に変化した
→軍人も文学者も新聞も神話を参照した
→撃ちてし止まむ、神武東征と大東亜戦争の一致など・・・(略)
・三種の神器
→記紀では皇位の象徴とは記されていないが昭和天皇も本気で信じており散逸を心配していた
→当初は終戦の詔書案に入っていたが連合国に詮索されないようにと削除された
→アマテラスがニニギに与えたものが実在するはずがなく重んじられたのも南北朝時代から
・敗戦間際の指導者たちは国体を守ろうと必死で三種の神器も隠そうとした
→国体も三種の神器も近代国家を急造するための方便であり、あえて国家の基礎にすえたもの
→昭和に入り世界恐慌やマルクス主義に向き合う中で神話ネタはベタになった
→国体や三種の神器は天皇や指導者までも拘束した
→ネタを守るために終戦は先延ばしにされ犠牲者が増えた→ネタがベタになることのリスク
第6章より
・いまも武道館の隣にある弥生慰霊堂(もとは弥生神社で警察・消防版の靖国神社)の例
→戦後はGHQの政教分離指令で神社として存続できなくなり慰霊堂として移転・改称した
→いっぽう靖国神社は改称されず神道色も残った
→このような戦前と戦後の境目の曖昧さは数多くある
→高度成長期も続いた1940年体制(総力戦体制)、神社本庁、天皇の地位、儀礼・・・(略)
・戦前の五つの物語
①原点回帰という罠
②特別な国という罠
③祖先より代々という罠
④世界最古という罠
⑤ネタがベタになるという罠
・これらを否定することはたやすいが、そのリスクを受け止め今後どのように紡いでいくか
→物語は虚構だが共同体を形成する上で大きな役割がある
→宗教の否定が醜悪な疑似宗教(個人崇拝など)を生み出している
→物語の否定は劣化コピーを生成させるだけ
→物語は排除されるべきものではなく上書きされるべきものである
・道義国家論(後期水戸学系)と神聖国家論(国学系)
→努力論と宿命論で一方だけでは統治できず循環して混ざり合っていた(略)
・広義の国家神道論(左派に多い)と狭義の国家神道論(右派に多い)
→実証なき物語は妄想だが物語なき実証は空虚なので中間を取ろうというのが筆者の考え
→これまでの議論は上からの統制に注目し過ぎだったのではないか
→企業の時局便乗や民衆のナショナリズムもあり神社参拝もすべてが強制されたものではない
・明治初期の軍歌はエリートが作ったが、民衆のナショナリズムが高揚すると民衆が自発的に作り、
レコード会社はじめ企業が便乗した→下からの参加
→プロパガンダしたい当局と時局で儲けたい企業と戦争の熱狂を楽しみたい消費者の利益共同体
・戦前の神話は当初は上からの統制だったが途中から下からの参加が加わり、国体論という
ネタがベタになり、やがて政府をも拘束するようになった
→この神話国家の興亡こそが戦前の正体
・戦前の物語にあえて点数をつければ65点
→いまは100点を追求し過ぎて脆弱な物語しかない時代
→日本スゴイ史観(右派)は不都合な資料が発掘されるとすぐ瓦解するし、問題点ばかりあげつらう
日本悪玉論(左派)は共産主義の失敗などに目をそらし別の脆弱な物語にしがみつく
・戦前の日本は問題行動もあったが欧米列強の侵略に対抗し近代化・国民化を成し遂げた
→だから過去の誤りを認めながら今後よりよい国をつくっていこう
→こういう立場なら多少不都合な資料が発掘されても動ずることはない
・戦前の物語の欠点はいくらでも指摘できる
→だが、それで植民地化の危機を乗り越えたのだから評価はすべき
→ただし、それを神聖不可侵にしてしまうとベタになる危険があるので65点にした
・今後の新しい国民的物語にも曖昧さを取り込むべきで、そのほうが長く日本の指針となるはず
→戦前とは国民的物語で及第点を出した時代
→それを超克するには教養として大きな枠組みで戦前を知らなければならない
おわりにより
・日本の神話は豊穣で概説するのが難しい
→本書は明治維新から大東亜戦争まで日本の神話がどのように利用されたのかを解説した入門書
→歴史を押えておけば時事ニュースも俯瞰的に眺められる
・例えば明治神宮外苑の再開発問題
→国民の勤労奉仕や献金で整備された経過から公共性があると左派が反対している
(明治神宮の祭神は明治天皇で戦後は宗教法人が管理)
→(明治天皇に殉死した)乃木神社への立憲民主党・泉健太代表の参拝を軍国主義と批判した
左派の人間は、この反対理由をどう受け止めているのか
→整備経過からの公共性をいうなら靖国神社こそ公共的なはず
・明治神宮や靖国神社の公共性とはなんなのか、近代日本はどのような国だったのか・・・
→現代日本の公私を考えるには、そこから根源的に考えなければならない
→これが戦前の正体を押えておかなければならないゆえんである
・コロナ禍で筆者も動画配信に加わった
→原稿に比べると気軽で視聴者からのフィードバックも早く運営資金も調達しやすい
→この動画配信でわかったのは、本を書くことの大切さだった
・動画の時代だからこそ情報を取捨選択し1本の物語に整理する能力が求められているのでは
→その能力がもっとも培われるのが読書や執筆にほかならない
→少なくとも歴史関係の動画のネタ元は書籍しかないのである
云々・・・
まあ、当サイトのネタ元も最近は書籍が多いのですが、それを1本の物語に整理する能力はなく、
自分の脳の外部記憶としてメモしてるだけなんですよね・・・
せめて皆さんは冷静に情報を取捨選択されて良い年を迎えられますように・・・
2023年12月23日
東南アジアの洞窟遺跡
ええ、
東南アジアの洞窟遺跡であります
内表紙
佐世保市の福井洞窟ミュージアムと東南アジア考古学会が連携して表題の企画展を開催、
全国10会場を巡回展示中で、その図録ミュージアム・ブックレットであります
まあ美術展の作品図録や映画の作品パンフレットみたいなものですね
最新のを図書館で借りられるとは思いませんでしたが・・・
近畿の会場では橿原考古学研究所附属博物館で令和6年度の特別陳列となっていますが、
日程などはまだ未定のようで、都合がつけば行ってみたいと思ってます
奥付
例によって目次の紹介
ええ、目次を見ただけで興味津々・・・
以下、わたくしの脳の外部記憶としての読後メモです
第1章
1より
・人類は猿人・原人・旧人・新人の段階のうち原人段階と新人段階でアフリカを出た
→新人が東南アジアに到達した5万~4万年前は最終氷期で海面がはるかに低かったので、
→大陸とスマトラ島・ボルネオ島・ジャワ島・バリ島などは陸続きだった(スンダ・ランド)
→さらにウォーレシア海を渡り、当時は陸続きだったニューギニア島・オーストラリア大陸・
タスマニア島などに到達した(サフル・ランド)
・ウォーレシア海域フローレス島の洞窟ではフローレス原人の遺跡もある
(ジャワ原人とは別系統のホビットで脳サイズは350mlとチンパンジーや猿人サイズなのに、
石器技術は東南アジア島嶼部のサピエンスと同じか、それ以上の多様性を含んでいる→
脳の巨大化で技術が進化したという人類の進化論に大きな課題を提出している)
・その後の海面上昇で島嶼部となったジャワ島の洞窟では、スンダ・サフル系とともに
東アジア大陸系(モンゴロイド系)の人骨が出土している
→彼らはユーラシア大陸の東部から台湾・インドネシア・フィリピンへと海を渡ったか
2より
・ホアビニアン(ホアビン文化)はインドシナ半島最北部の洞窟に集中している
→43500年前~3700年前で洞窟周辺での栽培や初期農耕の可能性も議論されている
3より
・環境が温暖化したことで山村・農村・漁村が形成され、人類が定住するようになった
→洞窟は葬礼用や墓地として利用されるようになった
→さらにその後は洞窟利用の記憶が失われ、人類の生活から隔絶された
→その結果、洞窟空間は別世界と見做され、信仰や宗教の聖地・聖域となった
→ヒンズー教寺院や仏教寺院になり日本でも信仰の対象に・・・
つーことで第2章では目次のとおり、各地での人類の洞窟利用とその痕跡が紹介されてますが、
図版も多く、とても全てはメモできませんでしたので・・・
以前から興味のあったボルネオ島サラワク州ニア洞窟の項のみ一部メモ
(画像掲載に問題があれば削除します)
まずは位置関係・・・
MA-3がニア洞窟で、最終氷期には大陸と続いていたことが分かります
(画像掲載に問題があれば削除します)
ちなみに日本も台湾や朝鮮半島とは陸続きですが、奄美や沖縄は浅い海の中ですね
さらに宗谷海峡は陸続きだったけど、津軽海峡の最深部には流れがあったとか・・・
閑話休題
・ニア洞窟は海岸線から17km内陸に位置する巨大な石灰岩洞窟で複数の洞口を持つ
(4万年前の海岸線からは60kmほど内陸にあったと推測されている)
→1950年代から2000年代まで調査が続けられ各時代の古人骨や生活痕跡が出土している
・最初の調査で4万年前にはホモ・サピエンスが暮らしていたことが明らかになった
→その後パラワン島のタボン洞窟遺跡でも発見された
→更新世後期にはボルネオ島・パラワン島・マレー半島は陸続きスンダランドの一部で、
陸路により、これらの洞窟遺跡に辿り着いたと考えられる
・東南アジア圏で発見されたサピエンス人骨としては最古のものとして有名
→4万年前の層からはイモ類・サゴヤシ・パンノキ・ナッツ類も
→29000~27000年前の生活痕跡では大型哺乳類・貝類・炭化物・ナッツ類・石器類も
→5000~2500年前の遺体の多くは植物素材の敷物に包まれるか甕棺土器に収められた状態
→1200年前頃の舟の壁画も報告されている
つーことで、4万年前から少なくとも1200年前まで人類に利用されてきた洞窟なんですね
で、第3章「ホアビニアンの周縁と拡散」は丸ごと省略して・・・
第4章より
・ラオスのタムバリン洞窟では2023年6月、大陸部で最古となる86000~68000年前の
新人の人骨が発表された
・最終氷期にスンダ大陸を進みニア洞窟などに辿り着いた人類は、5万年前にサフル大陸
(オーストラリア大陸)に到達した
→この両大陸を隔てたウォーレス海域にあるスラウェシ島トポガロ洞窟では、42000年前の
新人の骨が発見された→ウォーレス線を越えて(海を渡って)いた
(画像掲載に問題があれば削除します)
・新人段階での人類の旅路において、最終氷期の厳しい環境に耐え、命を繋ぐために、
洞窟とそこでの暮らしは不可欠だった
→最終氷期の終わりになると温暖化が進み、洞窟での暮らしはより豊かになった(ホアビニアン)
→さらに温暖化が進むと人類は洞窟を出て、さらに豊かな生活の場を見い出した
→人類が去り隔絶されたことで、洞窟は精霊や神仏が宿る異界、聖なる場となった
・地球環境と人類の実生活と精神性の変遷こそが、人類にとっての洞窟の価値や利用形態に
大きな変化を促したといえる・・・
まあ、ライトマニアにとっての洞窟の価値や利用形態といえば、それはもう・・・
東南アジアの洞窟遺跡であります
内表紙
佐世保市の福井洞窟ミュージアムと東南アジア考古学会が連携して表題の企画展を開催、
全国10会場を巡回展示中で、その図録ミュージアム・ブックレットであります
まあ美術展の作品図録や映画の作品パンフレットみたいなものですね
最新のを図書館で借りられるとは思いませんでしたが・・・
近畿の会場では橿原考古学研究所附属博物館で令和6年度の特別陳列となっていますが、
日程などはまだ未定のようで、都合がつけば行ってみたいと思ってます
奥付
例によって目次の紹介
ええ、目次を見ただけで興味津々・・・
以下、わたくしの脳の外部記憶としての読後メモです
第1章
1より
・人類は猿人・原人・旧人・新人の段階のうち原人段階と新人段階でアフリカを出た
→新人が東南アジアに到達した5万~4万年前は最終氷期で海面がはるかに低かったので、
→大陸とスマトラ島・ボルネオ島・ジャワ島・バリ島などは陸続きだった(スンダ・ランド)
→さらにウォーレシア海を渡り、当時は陸続きだったニューギニア島・オーストラリア大陸・
タスマニア島などに到達した(サフル・ランド)
・ウォーレシア海域フローレス島の洞窟ではフローレス原人の遺跡もある
(ジャワ原人とは別系統のホビットで脳サイズは350mlとチンパンジーや猿人サイズなのに、
石器技術は東南アジア島嶼部のサピエンスと同じか、それ以上の多様性を含んでいる→
脳の巨大化で技術が進化したという人類の進化論に大きな課題を提出している)
・その後の海面上昇で島嶼部となったジャワ島の洞窟では、スンダ・サフル系とともに
東アジア大陸系(モンゴロイド系)の人骨が出土している
→彼らはユーラシア大陸の東部から台湾・インドネシア・フィリピンへと海を渡ったか
2より
・ホアビニアン(ホアビン文化)はインドシナ半島最北部の洞窟に集中している
→43500年前~3700年前で洞窟周辺での栽培や初期農耕の可能性も議論されている
3より
・環境が温暖化したことで山村・農村・漁村が形成され、人類が定住するようになった
→洞窟は葬礼用や墓地として利用されるようになった
→さらにその後は洞窟利用の記憶が失われ、人類の生活から隔絶された
→その結果、洞窟空間は別世界と見做され、信仰や宗教の聖地・聖域となった
→ヒンズー教寺院や仏教寺院になり日本でも信仰の対象に・・・
つーことで第2章では目次のとおり、各地での人類の洞窟利用とその痕跡が紹介されてますが、
図版も多く、とても全てはメモできませんでしたので・・・
以前から興味のあったボルネオ島サラワク州ニア洞窟の項のみ一部メモ
(画像掲載に問題があれば削除します)
まずは位置関係・・・
MA-3がニア洞窟で、最終氷期には大陸と続いていたことが分かります
(画像掲載に問題があれば削除します)
ちなみに日本も台湾や朝鮮半島とは陸続きですが、奄美や沖縄は浅い海の中ですね
さらに宗谷海峡は陸続きだったけど、津軽海峡の最深部には流れがあったとか・・・
閑話休題
・ニア洞窟は海岸線から17km内陸に位置する巨大な石灰岩洞窟で複数の洞口を持つ
(4万年前の海岸線からは60kmほど内陸にあったと推測されている)
→1950年代から2000年代まで調査が続けられ各時代の古人骨や生活痕跡が出土している
・最初の調査で4万年前にはホモ・サピエンスが暮らしていたことが明らかになった
→その後パラワン島のタボン洞窟遺跡でも発見された
→更新世後期にはボルネオ島・パラワン島・マレー半島は陸続きスンダランドの一部で、
陸路により、これらの洞窟遺跡に辿り着いたと考えられる
・東南アジア圏で発見されたサピエンス人骨としては最古のものとして有名
→4万年前の層からはイモ類・サゴヤシ・パンノキ・ナッツ類も
→29000~27000年前の生活痕跡では大型哺乳類・貝類・炭化物・ナッツ類・石器類も
→5000~2500年前の遺体の多くは植物素材の敷物に包まれるか甕棺土器に収められた状態
→1200年前頃の舟の壁画も報告されている
つーことで、4万年前から少なくとも1200年前まで人類に利用されてきた洞窟なんですね
で、第3章「ホアビニアンの周縁と拡散」は丸ごと省略して・・・
第4章より
・ラオスのタムバリン洞窟では2023年6月、大陸部で最古となる86000~68000年前の
新人の人骨が発表された
・最終氷期にスンダ大陸を進みニア洞窟などに辿り着いた人類は、5万年前にサフル大陸
(オーストラリア大陸)に到達した
→この両大陸を隔てたウォーレス海域にあるスラウェシ島トポガロ洞窟では、42000年前の
新人の骨が発見された→ウォーレス線を越えて(海を渡って)いた
(画像掲載に問題があれば削除します)
・新人段階での人類の旅路において、最終氷期の厳しい環境に耐え、命を繋ぐために、
洞窟とそこでの暮らしは不可欠だった
→最終氷期の終わりになると温暖化が進み、洞窟での暮らしはより豊かになった(ホアビニアン)
→さらに温暖化が進むと人類は洞窟を出て、さらに豊かな生活の場を見い出した
→人類が去り隔絶されたことで、洞窟は精霊や神仏が宿る異界、聖なる場となった
・地球環境と人類の実生活と精神性の変遷こそが、人類にとっての洞窟の価値や利用形態に
大きな変化を促したといえる・・・
まあ、ライトマニアにとっての洞窟の価値や利用形態といえば、それはもう・・・
2023年12月18日
2023年11月17日
フラッシュ光2023ボルネオ10シニアワン
前回記事からの続き・・・
2023ボルネオツアーの連載記事も今回が最終回となります
(最初からご覧になる場合は11月7日記事から順に「次の記事へ」をクリックしてくださいね)
さて、フェアリーケイブのトレッキングでへろへろになったわたくしを乗せて・・・
クルマは一路、バウ地区にあるシニアワンを目指します
バウはマレー語で臭いという意味だそうで、ここに定住していたビダユ族をイバン族が襲撃、
その際に村を焼き尽くした臭いに由来するとか・・・
シニアワンはクチン近郊では最も古い金鉱開発の町、金鉱で働いていた中華系の人たちと
ビダユ族が一緒に暮らす町ですが、昔の目抜き通りは道路の付替えもあり時代に取り残され、
レトロな姿を留めてたので、2010年から週末だけの屋台街が並ぶようになり、サラワクでは
話題の観光地になっているとのこと・・・
まずは昔の目抜き通りを中央から撮影・・・
早い時間に着いたので路上の屋台もお店も、まだまだ準備中でした
確かに西部劇に登場するゴールドラッシュに沸いた町と同時代の感じで規模も同じ感じ、
レトロな町並みがそのままが残ってて、ロスト・タウンとも呼ばれてるとか・・・
まあ、平日ならゴーストタウンに近いんでしょうね
で、目抜き通りの中央にある、こちらのお店・・・
まさに西部劇で保安官とアウトローが撃ち合いになるバーそのものです!!!
(実際にバウ地区はインドネシア国境にあり密輸に関わるアウトローも多いとか)
で、この店の経営者アンディさんはN嶋さんの知り合いで町の有力者、レトロな町の保存や
屋台街など町の復興にも努力されてるとのことで、まだまだ開店前でしたが・・・
準備中の一番奥にある川沿いテラス席を確保してもらい・・・
まずは周辺を散策・・・
店のすぐ裏が渡し船の乗り場になってます
クチンから来たクルマは対岸に停めて、この渡し船を使う方がずっと近道になるとか
目抜き通りの裏側の様子
こちらまで来たクルマや自家用車は裏に停めてるんですね
と、軽く散策したところで、まだまだ開店前だったけど・・・
まずは乾杯!!!
フェアリーケイブ前でビールを飲んだばかりなので、
ロゼール酒とゆー地酒をば、かぱかぱと・・・
4人で、たちまち空けてしまいましたが、
瓶にも店のロゴマークがあって店のオリジナルなんですね・・・
準備中だったけど料理も早めに作ってもらえることになり、
続いてビールで乾杯!!!
この頃にはスコールもすっかり止んで、
青空が広がってました
開店準備で忙しい中、アンディさんと奥様が挨拶に来てくれたので・・・
記念写真をば・・・
で、アンディさんの着てたオリジナルTシャツ・・・
いいなあ・・・と思ってメニューを見ると・・・
おおっ、あるじゃないか!!! しかも速乾性生地だったので・・・
(汗かきのわたくしには速乾性の衣類が必須です)
さっそくアンディさんの奥様にサイズを見計らってもらい試着して購入、
奥様が、今せっかく着てるんだからと、アンディさんを呼んできて、
お揃いの記念写真を撮ってくれました
当日のアンディさんのfacebook投稿がこちら
(H田さん提供画像)
ええ、今回ツアー唯一の自分のお土産になりました
とか遊んでると、料理がどんどん運ばれてきて・・・
こちらはタンポヤ(ドリアンの塩漬け発酵食品)を使ったチキンスープ
深みのある味わいで、日本でいえば白味噌や酒粕の風味に近いでしょうか・・・
N嶋さんは6年物のタンポヤを味わったことがあるそうで、さらに深い味わいだったとか
ポークもじつにひさしぶりだったし・・・ばくばくごくごく
とかやってると・・・
アンディさんが、今度はランカウ(強い蒸留酒で本来は密造酒)の瓶を下げて再び現れ、
次々と注いでくれて・・・
(アンディさんのfacebook投稿画像より)
ええ、ご本人もお好きなようで・・・かぱかぱと
もう飲めません、もう食べられません、とゆー頃になって屋台街がオープンしだしたので、
延々と楽しませてもらったお店に別れを告げ、軽く散策することに・・・
アンディさんのお店は、すでにお客さんで賑わってましたが・・・
道路上のほうは、まだこれからとゆー感じですね
以下、さくさくっと・・・
こちらはビダユのウツボカズラ飯
ウツボカズラにコメを入れて蒸したもので、たまさんたちのお土産に買って帰り、
ホテルでお相伴しましたが、軽い風味があるものの美味しく食べられました
ちなみにN嶋さんによると、ビダユ族に古くから伝わる野外飯との説明も一部にあるけど、
実際には蒸し器や鍋がないと作れず、そんなの野外には持ち出せないので、古くからあった
野外料理ではないはず、とのことでした なるほど・・・
ほかにも・・・
竹筒の焼き鳥スープとか・・・こちらは間違いなくビダユの伝統料理でしょうね
ノンハラルの豚肉ソーセージ各種
全種類を制覇しようと、日本を出発する前から楽しみにしてたのですが・・・
さすがにお腹がいっぱいで・・・うぐぐぐ
ちなみにこんなのも・・・
ええ、ライセンスマークは特に見当たりませんでしたが・・・
他にも美味しそうなのがいっぱいでしたがとても入らず、今回はあきらめました
と、最後は・・・
こんな顔出しパネルでの記念撮影で〆て・・・
シニアワンとお別れし、たまさんたちの待つクチンの定宿ホテルに戻りました
で、ホテルの部屋では二日ぶりに全員が集合して、ボルネオ最後の宴会!!!
(H田さん提供画像)
たまさんもすっかり元気になってて・・・
シニアワンで買ったウツボカズラ飯やお菓子、スリアンで買った各種フルーツの残りなんぞを、
みんなでばくばく、ビールをごくごく・・・
そう、明日はもう帰国するだけなので、遅くまで会話が弾みました
で、翌朝・・・
ボルネオ最後の朝食をばくばく・・・
ホテルを出てクチン空港へ向かう途中の車内からは、
巨大なサイチョウさんを撮ったりして・・・って、ピントが車内に・・・
今回もお世話になったN嶋さんとも空港でお別れ・・・スラマッ・ティンガル!!!
で、チャンギ空港行きの機が離陸してしまうと、いよいよ・・・
楽しかったサラワクともボルネオともお別れであります ぐすん
往路と同じスクートのスナックが我々だけに出て、ばくばくしてると
機はシンガポール・チャンギ空港に無事着陸
広大なチャンギ空港では、関西空港行きのゲートオープンまで2時間以上あったし、
お店も昼の時間帯で全て営業してたので自由行動にしました
マレーシア・リンギットのシンガポール・ドルへの両替はレートが悪かったそうで、
皆さんはクレジットカードで高価な香水やタグ・ホイヤーの高級腕時計をお土産に・・・
されてたのかっ???
はたまた・・・
高価な博多ラーメンや一番搾りを味わう富裕層もいたようですが・・・
わたくしは数リンギしか残ってなかったし、クレジットカードを使うのもめんどーで、
Y原さんと空港内にあった入場無料のバタフライ・ガーデンへ・・・
大温室に大きな滝もあって、なかなかの迫力でした
で、ボルネオでは殆ど撮れなかったチョウチョさんが、たっぷりの花やフルーツに、
いっぱいとまってるので、これならば撮れるかと・・・
わははは、いくらでも撮れました・・・
ただ温室内は外気温と同じ?暑さなので、すぐ「エアコンの効いた外」へ出ましたが
ゲート前でお知らせして残りの皆さんも最後のチョウチョ撮影に向かわれてました
と、いよいよトラムが行き交うチャンギ空港ともお別れ・・・
往路と同じシンガポール航空の関空便に搭乗して・・・
スナックでかぱかぱ・・・
ひさしぶりの和風チキンカレーの夕食でかぱかぱ・・・
さらに飲み物を追加して、かぱかぱしつつ・・・
復路も何本か映画を観ましたが日本映画の「湯道」がけっこう記憶に残ってます
と、関空には予定より20分ほど遅れて到着・・・
(H田さん提供画像)
ともかく全員無事に帰国できて、まずはめでたし、めでたしです
ま、神戸ベイシャトル組は予定の便に間に合わず、次便までまったりされてたようですが
と・・・
今回もインサーツアーズのN嶋さんはじめ、MRCのT井さん、現地スタッフや公園レンジャー、
ホストファミリーなど多くの方々にお世話になりました
おかげで(わたくしには難行苦行もあったけど)じつに楽しい旅になりました
あらためて心より御礼を申し上げます
さてさて、次のフラッシュ光ツアーはモンゴルの大草原での星空照射か、
はたまた、サバ州キナバタンガン川ナイトクルーズでのイリエワニ照射か、
それとも、まだまだ知らない魅力がいっぱいのサラワク州リベンジかっ???
いずれにしても・・・
わたくし今回ツアーでは(落車による大腿骨頸部骨折のリハビリ中ということもあったけど)、
皆さんの半分程度の歩行距離と歩行速度でしか歩けず、脚力の衰えを痛感しました
さらに平衡感覚も療養中に驚くほど衰えてて、よくバランスを崩すので慎重になってたし、
おかげで皆さんにもご迷惑をおかけしてました
まあ飲食に関しては、まだ楽しめることを再確認しましたが、このままではどこへ行っても
トレッキングを楽しむことはできません
今後もリハビリを続けて通常ペースで歩けるまで回復しようと帰国後に決意した次第
つーことで、ともかく・・・
今回参加された皆さん、連載をご愛読いただいた皆さん、まことにお疲れ様でした
いずれ、どこかでご一緒しましょう!!!
(2023ボルネオ連載記事はこれでおしまい)
2023ボルネオツアーの連載記事も今回が最終回となります
(最初からご覧になる場合は11月7日記事から順に「次の記事へ」をクリックしてくださいね)
さて、フェアリーケイブのトレッキングでへろへろになったわたくしを乗せて・・・
クルマは一路、バウ地区にあるシニアワンを目指します
バウはマレー語で臭いという意味だそうで、ここに定住していたビダユ族をイバン族が襲撃、
その際に村を焼き尽くした臭いに由来するとか・・・
シニアワンはクチン近郊では最も古い金鉱開発の町、金鉱で働いていた中華系の人たちと
ビダユ族が一緒に暮らす町ですが、昔の目抜き通りは道路の付替えもあり時代に取り残され、
レトロな姿を留めてたので、2010年から週末だけの屋台街が並ぶようになり、サラワクでは
話題の観光地になっているとのこと・・・
まずは昔の目抜き通りを中央から撮影・・・
早い時間に着いたので路上の屋台もお店も、まだまだ準備中でした
確かに西部劇に登場するゴールドラッシュに沸いた町と同時代の感じで規模も同じ感じ、
レトロな町並みがそのままが残ってて、ロスト・タウンとも呼ばれてるとか・・・
まあ、平日ならゴーストタウンに近いんでしょうね
で、目抜き通りの中央にある、こちらのお店・・・
まさに西部劇で保安官とアウトローが撃ち合いになるバーそのものです!!!
(実際にバウ地区はインドネシア国境にあり密輸に関わるアウトローも多いとか)
で、この店の経営者アンディさんはN嶋さんの知り合いで町の有力者、レトロな町の保存や
屋台街など町の復興にも努力されてるとのことで、まだまだ開店前でしたが・・・
準備中の一番奥にある川沿いテラス席を確保してもらい・・・
まずは周辺を散策・・・
店のすぐ裏が渡し船の乗り場になってます
クチンから来たクルマは対岸に停めて、この渡し船を使う方がずっと近道になるとか
目抜き通りの裏側の様子
こちらまで来たクルマや自家用車は裏に停めてるんですね
と、軽く散策したところで、まだまだ開店前だったけど・・・
まずは乾杯!!!
フェアリーケイブ前でビールを飲んだばかりなので、
ロゼール酒とゆー地酒をば、かぱかぱと・・・
4人で、たちまち空けてしまいましたが、
瓶にも店のロゴマークがあって店のオリジナルなんですね・・・
準備中だったけど料理も早めに作ってもらえることになり、
続いてビールで乾杯!!!
この頃にはスコールもすっかり止んで、
青空が広がってました
開店準備で忙しい中、アンディさんと奥様が挨拶に来てくれたので・・・
記念写真をば・・・
で、アンディさんの着てたオリジナルTシャツ・・・
いいなあ・・・と思ってメニューを見ると・・・
おおっ、あるじゃないか!!! しかも速乾性生地だったので・・・
(汗かきのわたくしには速乾性の衣類が必須です)
さっそくアンディさんの奥様にサイズを見計らってもらい試着して購入、
奥様が、今せっかく着てるんだからと、アンディさんを呼んできて、
お揃いの記念写真を撮ってくれました
当日のアンディさんのfacebook投稿がこちら
(H田さん提供画像)
ええ、今回ツアー唯一の自分のお土産になりました
とか遊んでると、料理がどんどん運ばれてきて・・・
こちらはタンポヤ(ドリアンの塩漬け発酵食品)を使ったチキンスープ
深みのある味わいで、日本でいえば白味噌や酒粕の風味に近いでしょうか・・・
N嶋さんは6年物のタンポヤを味わったことがあるそうで、さらに深い味わいだったとか
ポークもじつにひさしぶりだったし・・・ばくばくごくごく
とかやってると・・・
アンディさんが、今度はランカウ(強い蒸留酒で本来は密造酒)の瓶を下げて再び現れ、
次々と注いでくれて・・・
(アンディさんのfacebook投稿画像より)
ええ、ご本人もお好きなようで・・・かぱかぱと
もう飲めません、もう食べられません、とゆー頃になって屋台街がオープンしだしたので、
延々と楽しませてもらったお店に別れを告げ、軽く散策することに・・・
アンディさんのお店は、すでにお客さんで賑わってましたが・・・
道路上のほうは、まだこれからとゆー感じですね
以下、さくさくっと・・・
こちらはビダユのウツボカズラ飯
ウツボカズラにコメを入れて蒸したもので、たまさんたちのお土産に買って帰り、
ホテルでお相伴しましたが、軽い風味があるものの美味しく食べられました
ちなみにN嶋さんによると、ビダユ族に古くから伝わる野外飯との説明も一部にあるけど、
実際には蒸し器や鍋がないと作れず、そんなの野外には持ち出せないので、古くからあった
野外料理ではないはず、とのことでした なるほど・・・
ほかにも・・・
竹筒の焼き鳥スープとか・・・こちらは間違いなくビダユの伝統料理でしょうね
ノンハラルの豚肉ソーセージ各種
全種類を制覇しようと、日本を出発する前から楽しみにしてたのですが・・・
さすがにお腹がいっぱいで・・・うぐぐぐ
ちなみにこんなのも・・・
ええ、ライセンスマークは特に見当たりませんでしたが・・・
他にも美味しそうなのがいっぱいでしたがとても入らず、今回はあきらめました
と、最後は・・・
こんな顔出しパネルでの記念撮影で〆て・・・
シニアワンとお別れし、たまさんたちの待つクチンの定宿ホテルに戻りました
で、ホテルの部屋では二日ぶりに全員が集合して、ボルネオ最後の宴会!!!
(H田さん提供画像)
たまさんもすっかり元気になってて・・・
シニアワンで買ったウツボカズラ飯やお菓子、スリアンで買った各種フルーツの残りなんぞを、
みんなでばくばく、ビールをごくごく・・・
そう、明日はもう帰国するだけなので、遅くまで会話が弾みました
で、翌朝・・・
ボルネオ最後の朝食をばくばく・・・
ホテルを出てクチン空港へ向かう途中の車内からは、
巨大なサイチョウさんを撮ったりして・・・って、ピントが車内に・・・
今回もお世話になったN嶋さんとも空港でお別れ・・・スラマッ・ティンガル!!!
で、チャンギ空港行きの機が離陸してしまうと、いよいよ・・・
楽しかったサラワクともボルネオともお別れであります ぐすん
往路と同じスクートのスナックが我々だけに出て、ばくばくしてると
機はシンガポール・チャンギ空港に無事着陸
広大なチャンギ空港では、関西空港行きのゲートオープンまで2時間以上あったし、
お店も昼の時間帯で全て営業してたので自由行動にしました
マレーシア・リンギットのシンガポール・ドルへの両替はレートが悪かったそうで、
皆さんはクレジットカードで高価な香水やタグ・ホイヤーの高級腕時計をお土産に・・・
されてたのかっ???
はたまた・・・
高価な博多ラーメンや一番搾りを味わう富裕層もいたようですが・・・
わたくしは数リンギしか残ってなかったし、クレジットカードを使うのもめんどーで、
Y原さんと空港内にあった入場無料のバタフライ・ガーデンへ・・・
大温室に大きな滝もあって、なかなかの迫力でした
で、ボルネオでは殆ど撮れなかったチョウチョさんが、たっぷりの花やフルーツに、
いっぱいとまってるので、これならば撮れるかと・・・
わははは、いくらでも撮れました・・・
ただ温室内は外気温と同じ?暑さなので、すぐ「エアコンの効いた外」へ出ましたが
ゲート前でお知らせして残りの皆さんも最後のチョウチョ撮影に向かわれてました
と、いよいよトラムが行き交うチャンギ空港ともお別れ・・・
往路と同じシンガポール航空の関空便に搭乗して・・・
スナックでかぱかぱ・・・
ひさしぶりの和風チキンカレーの夕食でかぱかぱ・・・
さらに飲み物を追加して、かぱかぱしつつ・・・
復路も何本か映画を観ましたが日本映画の「湯道」がけっこう記憶に残ってます
と、関空には予定より20分ほど遅れて到着・・・
(H田さん提供画像)
ともかく全員無事に帰国できて、まずはめでたし、めでたしです
ま、神戸ベイシャトル組は予定の便に間に合わず、次便までまったりされてたようですが
と・・・
今回もインサーツアーズのN嶋さんはじめ、MRCのT井さん、現地スタッフや公園レンジャー、
ホストファミリーなど多くの方々にお世話になりました
おかげで(わたくしには難行苦行もあったけど)じつに楽しい旅になりました
あらためて心より御礼を申し上げます
さてさて、次のフラッシュ光ツアーはモンゴルの大草原での星空照射か、
はたまた、サバ州キナバタンガン川ナイトクルーズでのイリエワニ照射か、
それとも、まだまだ知らない魅力がいっぱいのサラワク州リベンジかっ???
いずれにしても・・・
わたくし今回ツアーでは(落車による大腿骨頸部骨折のリハビリ中ということもあったけど)、
皆さんの半分程度の歩行距離と歩行速度でしか歩けず、脚力の衰えを痛感しました
さらに平衡感覚も療養中に驚くほど衰えてて、よくバランスを崩すので慎重になってたし、
おかげで皆さんにもご迷惑をおかけしてました
まあ飲食に関しては、まだ楽しめることを再確認しましたが、このままではどこへ行っても
トレッキングを楽しむことはできません
今後もリハビリを続けて通常ペースで歩けるまで回復しようと帰国後に決意した次第
つーことで、ともかく・・・
今回参加された皆さん、連載をご愛読いただいた皆さん、まことにお疲れ様でした
いずれ、どこかでご一緒しましょう!!!
(2023ボルネオ連載記事はこれでおしまい)
2023年11月16日
フラッシュ光2023ボルネオ9フェアリーケイブ
前回記事からの続き・・・
ビダユ族のロングハウスに一泊ホームステイした御一行(一時的に4人)は・・・
セメンゴのワイルドライフセンターへ???
そう、オランウータンはじめ野生動物を保護して再び自然に帰そうとする施設で、
このセメンゴ自然保護区の最奥にあります
保護区は広大なので、ここからセンターまでの移動は電気バスで・・・???
って、さりげにH田さんが運転席にいますが・・・???
じつは顔の効くN嶋さんが受付にお願いして、トイレ休憩に立ち寄っただけなのですが、
せっかくなのでバスに乗ったことにして記念写真をば・・・わははは
ここのウータンくんに興味のある方は、こちらの過去記事をご覧くださいね
(ちなみにウータンくん、野生のドリアンなどが実る今の時期はエサやり場に現れることが
少ないとのことでしたが、上記過去記事の際は、ほぼ同時期だったけど現れてましたから、
結実時期は年によっても大きく変わるようですね)
閑話休題
セメンゴでトイレ休憩した御一行は本日の目的地である洞窟へ・・・
と、その前に・・・
大きなフードコートで待ちに待った昼食であります
わたくしとwingさんはチキンカレー
H田さんはお気に入りのサラワク・ラクサを注文したのですが・・・
Y原さんはN嶋さんオススメの・・・
客家擂茶なるものを注文
いわば漢方の「お茶漬け」で、健康ブームのサラワクで今話題になってるそうです
お茶だけ味見させてもらいましたが抹茶にスープと漢方薬を混ぜた感じで苦味は強烈でした
まあ、確かに健康にはよさそうでしたが・・・
他にもN嶋さんオススメの点心を次々とシェアしました
だから食べる前に撮ればよいものを・・・がつがつがつ
と、食後は(ムルのとは別の)ウィンドケイブへ・・・
まあ一周しても1時間弱、高低差もなさそうだし、ここならわたくしでも・・・
まずは元気なうちに記念撮影
以下さくさくっと
コウモリさん
蟲さん
いったん外へ出ます
???
有刺鉄線の外側にはアブラヤシ畑が広がっています こちら内側は自然保護区
別の洞口から再び洞窟へ・・・
さくさくっと・・・
外へ出て最初の洞口に戻ってきました
せっかくなので記念写真
ええ、皆さん明るいライトをお持ちでした わたくしだけ電球色ですが・・・
で、降ったり止んだりの軽いスコールが続く中、次のフェアリーケイブへ
「あのタワーを上がって洞内に入ります」
「おおっ、エレベーターなら高低差も楽チンですね」
「階段です しかも洞内の高低差はこの比ではありません きっぱりと」
「うぐぐぐ」
と、仕方なく・・・
階段をひいひいと・・・
ようやく最上階まで上がったけど展望台まで行く気力は残ってませんでした
洞口であります
左に案内板がありました
ええ、わたくしムルの洞窟と同様あちこちでショートカットするハメに・・・
以下同様にさくさくっと・・・
って、確かに洞内の階段のほうがきついな・・・ひいひい
トワイライト・トレイルだけあって光が差し込んでますが、上りが続きます
この上で道は枝分かれしていて・・・
皆さんはフェアリーゲートまで行かれましたがわたくしはショートカット
せっかくライト照射してくれてるので記念写真を撮りました
明るい皆さんです
さらに上りは続いて・・・ふうふう
こちらがフェアリーガーデン・・・
って、どこがフェアリーなんだか・・・
わたくしはダーク・トレイルをしばらく進んでとうとう限界となり、
引き返す途中でフェアリーゲートを廻ってきた皆さんと出会いましたが、
皆さんはダーク・トレイルをさらに奥まで進んで行きました
で、フェアリーガーデンでまったり撮影してたのですが・・・
どーゆーわけかwingさんだけが写ってますね・・・
「いやあ、途中で限界を感じて引き返してきました あははは」
「まあ、わたくしより奥まで行ったんだから良しとしましょう あははは」
と、二人でまったり撮影してたら、やがて残りの皆さんも戻ってきて合流し、
上りとは別ルートのさらに急な階段(つーか、ほぼ垂直の梯子)を延々と下りて、
ようやく洞口まで辿り着きました
ま、せっかくなので洞口にあった顔出しパネルで・・・
記念写真をとってもらいました(ちなみに3人が入ってる部分はタワーから張り出してて、
薄い板を張っただけの床の隙間から地上が見えてました ぶるぶる)
さらにタワーの階段を下りると、わたくしは完全にへろへろになり、有料トイレの洗面台で、
汗でぐしょ濡れになったシャツとタオルを水洗いして絞り、駐車場前にあった売店のビールで、
ようやく少しだけ落ち着いた次第
ええ、今回ツアーでは最後の洞窟トレッキングとなったフェアリーケイブでしたが、
今のわたくしには、けっこうハードでした・・・
と、ハードな後にはご褒美、週末だけ開催されるシニアワンの屋台街を目指します
(次号最終回に続きます)
ビダユ族のロングハウスに一泊ホームステイした御一行(一時的に4人)は・・・
セメンゴのワイルドライフセンターへ???
そう、オランウータンはじめ野生動物を保護して再び自然に帰そうとする施設で、
このセメンゴ自然保護区の最奥にあります
保護区は広大なので、ここからセンターまでの移動は電気バスで・・・???
って、さりげにH田さんが運転席にいますが・・・???
じつは顔の効くN嶋さんが受付にお願いして、トイレ休憩に立ち寄っただけなのですが、
せっかくなのでバスに乗ったことにして記念写真をば・・・わははは
ここのウータンくんに興味のある方は、こちらの過去記事をご覧くださいね
(ちなみにウータンくん、野生のドリアンなどが実る今の時期はエサやり場に現れることが
少ないとのことでしたが、上記過去記事の際は、ほぼ同時期だったけど現れてましたから、
結実時期は年によっても大きく変わるようですね)
閑話休題
セメンゴでトイレ休憩した御一行は本日の目的地である洞窟へ・・・
と、その前に・・・
大きなフードコートで待ちに待った昼食であります
わたくしとwingさんはチキンカレー
H田さんはお気に入りのサラワク・ラクサを注文したのですが・・・
Y原さんはN嶋さんオススメの・・・
客家擂茶なるものを注文
いわば漢方の「お茶漬け」で、健康ブームのサラワクで今話題になってるそうです
お茶だけ味見させてもらいましたが抹茶にスープと漢方薬を混ぜた感じで苦味は強烈でした
まあ、確かに健康にはよさそうでしたが・・・
他にもN嶋さんオススメの点心を次々とシェアしました
だから食べる前に撮ればよいものを・・・がつがつがつ
と、食後は(ムルのとは別の)ウィンドケイブへ・・・
まあ一周しても1時間弱、高低差もなさそうだし、ここならわたくしでも・・・
まずは元気なうちに記念撮影
以下さくさくっと
コウモリさん
蟲さん
いったん外へ出ます
???
有刺鉄線の外側にはアブラヤシ畑が広がっています こちら内側は自然保護区
別の洞口から再び洞窟へ・・・
さくさくっと・・・
外へ出て最初の洞口に戻ってきました
せっかくなので記念写真
ええ、皆さん明るいライトをお持ちでした わたくしだけ電球色ですが・・・
で、降ったり止んだりの軽いスコールが続く中、次のフェアリーケイブへ
「あのタワーを上がって洞内に入ります」
「おおっ、エレベーターなら高低差も楽チンですね」
「階段です しかも洞内の高低差はこの比ではありません きっぱりと」
「うぐぐぐ」
と、仕方なく・・・
階段をひいひいと・・・
ようやく最上階まで上がったけど展望台まで行く気力は残ってませんでした
洞口であります
左に案内板がありました
ええ、わたくしムルの洞窟と同様あちこちでショートカットするハメに・・・
以下同様にさくさくっと・・・
って、確かに洞内の階段のほうがきついな・・・ひいひい
トワイライト・トレイルだけあって光が差し込んでますが、上りが続きます
この上で道は枝分かれしていて・・・
皆さんはフェアリーゲートまで行かれましたがわたくしはショートカット
せっかくライト照射してくれてるので記念写真を撮りました
明るい皆さんです
さらに上りは続いて・・・ふうふう
こちらがフェアリーガーデン・・・
って、どこがフェアリーなんだか・・・
わたくしはダーク・トレイルをしばらく進んでとうとう限界となり、
引き返す途中でフェアリーゲートを廻ってきた皆さんと出会いましたが、
皆さんはダーク・トレイルをさらに奥まで進んで行きました
で、フェアリーガーデンでまったり撮影してたのですが・・・
どーゆーわけかwingさんだけが写ってますね・・・
「いやあ、途中で限界を感じて引き返してきました あははは」
「まあ、わたくしより奥まで行ったんだから良しとしましょう あははは」
と、二人でまったり撮影してたら、やがて残りの皆さんも戻ってきて合流し、
上りとは別ルートのさらに急な階段(つーか、ほぼ垂直の梯子)を延々と下りて、
ようやく洞口まで辿り着きました
ま、せっかくなので洞口にあった顔出しパネルで・・・
記念写真をとってもらいました(ちなみに3人が入ってる部分はタワーから張り出してて、
薄い板を張っただけの床の隙間から地上が見えてました ぶるぶる)
さらにタワーの階段を下りると、わたくしは完全にへろへろになり、有料トイレの洗面台で、
汗でぐしょ濡れになったシャツとタオルを水洗いして絞り、駐車場前にあった売店のビールで、
ようやく少しだけ落ち着いた次第
ええ、今回ツアーでは最後の洞窟トレッキングとなったフェアリーケイブでしたが、
今のわたくしには、けっこうハードでした・・・
と、ハードな後にはご褒美、週末だけ開催されるシニアワンの屋台街を目指します
(次号最終回に続きます)