地下
2024年04月19日
画期的新説!!!
とーとつですが「画期的新説」・・・
古代中世の礼制と法制・政治との関係史が専門の歴史学者が「邪馬台はヤマトである」ことを、
文献史学の立場から結論したとゆー新説であります
文芸春秋3月特別号に掲載と教えてもらってて、ようやく図書館で借りることができました
ええ、
第170回芥川賞受賞作品なんぞを読むのは後回しにして・・・
ちなみに直木賞は万城目学の「八月の御所グラウンド」でしたね
本題
以下、掲載記事のうち個人的に興味のあった部分のみ、てきとーにメモしました
(著作物からのメモなので問題があれば非公開にします)
・魏志倭人伝の行程記事より
→朝鮮半島から伊都国(後の筑前国怡土郡、今の福岡県糸島市)までは疑問の余地はない
→その先のルートが曖昧(なので今も「決定版」が山ほどある)
→古代中国史書の地理情報は儒教の世界観に基づく記述なので根本が机上の空論
→行程解釈で争う限り解決の見込みはない→それを離れて見つけるしかない
→自分は門外漢だと思っていたが古代中国「礼」文化の日本列島への影響を追跡していて、
行程記事に依存しない文献資料を見つけた
→証明は学術論文で発表した
→一般向け紹介は著書として書ける機会を待つことにして、あらましと結論を簡単に紹介
・邪馬台国論争最大の誤り→新井白石あたりがヤマタイと読んだこと
→三世紀中国語の「台」の発音はダとドゥの中間
→邪馬台は上代日本語のヤマトをヤマダ(ヤマドゥ)のように聞き取り音写したもの
→日本の正史でも日本全体や奈良地方を表すヤマトを野馬台や夜摩苔とも書いた
(九州の山門は甲類でヤマトとは上代の発音が違う)
→なので邪馬台は日本全体や奈良地方を表すヤマトしかないはず
→日本全体にしか結びつかなければ場所は特定できず、特定地域ならそこが邪馬台国
→私の説ではむしろ奈良地方以外を指すヤマトが重要になる
・ヤマトの伸縮が最大のカギ
→国号を指すヤマトを最上層、現在の奈良県地方(律令制の大和国)を指すヤマトを中間層、
奈良盆地東部(律令制の磯城郡と十市郡の領域→大和郷)を指すヤマトを最下層と呼ぶ
→これら三つのヤマトには日本・大和・大倭・倭などの漢字が宛てられた
→「日本」は日本書紀で一例だけ中間層を指すが残り218例は最上層を指す
・ヤマトの漢字表記の変遷
→日本書紀の本文(朝廷の公式見解)では倭の9割以上が中間層・最下層を指す
→注(中国・百済の外国典籍引用)では倭の全てが最上層を指す
→本文では国号を日本、それ以外を倭と書き分け、注の外国典籍引用では倭は国号→食い違う
→卑弥呼の時代に訓読みは存在せず、中国人も倭をヤマトではなくワに近い発音で読んだ
→ヤマトノクニの漢字表記は大倭国→大養徳国→大倭国→大和国と変遷した
→大も養徳(ヤウトク)も和も美称で、地名の本質に関わる漢字は倭
・マトリョーシカのような入れ子構造の発生
→行政区分の倭国と卑弥呼王朝として国交していた倭国との区別がつかないことが重要
→古事記には14例の倭が現れるが、うち12例は確実に中間層と最下層
(残り1例は解釈を確定できず、もう1例は国生み神話での本州を指す)
→日本語の地名ヤマトも漢字の地名倭も三つの異なるスケールで使われた
→別々に生まれたはずはなく残りが派生したと考えるのが自然
・倭には固有の意味がない
→倭は固有名詞を表すためだけに委に人偏をつけて生み出された字とされる
(正確には委という発音の人や土地を表す固有名詞)
→通常、訓を宛てる時は漢字が持つ意味に対応する日本語を宛てるが倭には意味がない
→日本語話者(倭人)が意図的に強い理由に基づいてヤマトという日本語を宛てた
→倭もヤマトも三つの規模の地域を指した
→倭はもともと後漢までに中国が日本列島・人を呼ぶ固有名詞と決めた言葉
→小さな国をいくつも内部に持つ民族全体と彼らの居住する地域全体を指した(最上層)
→なので中間層や最下層の倭は後から生まれたと考えるしかない
・ヤマトは狭い地域の地名
→国号をヤマトと呼んだ確実な用例は8世紀前半の日本書紀から
→万葉集などの「シキシマのヤマトの国」は国号か奈良地方かを問わない
→シキシマは古事記(崇神)や日本書紀(欽明)で王宮の所在地として現れる
→明らかに奈良地方磯城郡内(中間層)の地名で磯城郡にはヤマト(最下層)を含む
→なのでこの結合はこの狭い地域で起こり統一王朝の国号へ拡大したと考えるしかない
→アキツシマもヤマト(中間層)内部の狭い地域の地名だった→本州や国土全体を指す美称に
→これらが国号の代名詞となったのは枕詞として結びついていたヤマトが拡大した結果
→ヤマトはこの小さな地域名から出発した→まさしく魏志倭人伝の邪馬台(ヤマト)
→卑弥呼の時代には統一王朝全体を指す倭と、内部の小国を指すヤマトが別々に存在した
→倭は(国内で)最上層→中間層→最下層へと縮小方向の変化
→ヤマトは(国内で)最下層→中間層→最上層へと拡大方向の変化
→なぜ逆向きの変化が起こったか、どちらが先か・・・
・国の中に国がある二重構造
→統一王朝は中国が用いた倭をそのまま国号とした
→倭国の中に邪馬台国、奴国、伊都国など数十の国があり、これは律令制になってからも同じ
→遅くとも卑弥呼の時代から、明治まで16世紀以上も続いた国の二重構造
→東アジアで同じ二重構造を持つのは中国歴代王朝のみ→これをベースにした模倣
・中国の国号ルールと大倭と書かれた理由
→中国では統一王朝樹立直前の領地名(諸侯国としての国名)を国号とする
→周から唐までの不文律で例外のない鉄則
→諸侯国としての国名に大をつけて統一王朝の国名とする(大唐など)
→ならば大倭は倭から出発した統一王朝か?→倭という小国は日本にはなかった
→ところが倭という漢字にヤマトという日本語を宛てた事実がある
→そしてヤマトという小国が卑弥呼の邪馬台国として存在した事実がある
・女王卑弥呼のもと倭国は数十年ぶりに統一王朝となり二代続いた
→倭王には邪馬台国の出身者が就任するという方向性が生まれたはず
→その後、倭の五王が現れるまでの継承は分からないが、
→倭国が諸侯国の邪馬台国を出発点としたという形で記憶され倭の五王も朝廷も継承した
→国号の倭と出発点の邪馬台との齟齬の理由は、倭だけが中国語ということに尽きる
・中国王朝が黄河流域のみだった時代には、倭は大陸南部の異民族集団を指した
→王朝拡大に伴い大陸世界も拡大して、倭は東海の果ての異民族を指すに至った
→倭は中国の統治理念の都合と歴史で生まれた呼び名
→いっぽう邪馬台、奴、伊都などは日本語の地名を中国人が音写したもの
・倭王朝は邪馬台が発展したものだと統一王朝が主張するには、時代背景も民族も言語も違う
二つの地名を結合する荒業が必要だった
→倭国の朝廷は訓読という他国に類をみない手段で倭をヤマトと読むことにした
→これにより最上層から最下層まで全ての倭をヤマトと読み、ヤマトを倭と書けるようになった
→倭は最初からヤマトであったことにし、狭い地域ヤマトも最初から倭であったことにした
→国号の倭に国内向けの発音ヤマトを与え、地名のヤマトに倭という漢字表記を与えた
→情報の追加処理だけなので国際的にも国内的にも改変を要さず混乱もない解決法だった
・邪馬台国と纏向遺跡
→最も小さい地域名としての邪馬台ヤマトも倭という漢字表記を獲得した
→倭里→倭郷→大和郷になった
(その地名を代表させた律令制の行政区分ヤマトノクニは倭国→大倭国→大養徳国→大和国に)
→大和郷は垂仁・景行天皇の記紀伝承から纏向村(現在の桜井市北部)とされる(直木幸次郎説)
→最近の考古学の成果(纏向遺跡の規模と内容)と一致するが、まだ状況証拠だけ
→これまでの文献史学では箸墓古墳のサイズが魏志倭人伝の記述と一致するだけ
→私の推定により文献史学からの確かな補強を与えることができる
・奈良地方にヤマトという地名があったから邪馬台だと言っているのではない
→奈良のヤマトを倭と書くこと、倭という統一王朝全体をヤマトと読むことの二つが、
→前段階の諸侯国から統一王朝を樹立という中国的な構図でしか説明できないこと、
→その構図に合致する諸侯国の地が3世紀には邪馬台ヤマトしかなく、8世紀前後には確実に
纏向地域の倭ヤマトであることから、両者をイコールと推断して邪馬台=纏向地域と結論した
さてさて・・・
本になれば是非(借りて)読んでみたいと思いましたが、門外漢のさらに門外漢のわたくしには、
邪馬台国の話つーのは小松左京の邪馬台国=ハワイ説とか、あらゆる諸説が乱立してるから
じつに面白いとも思ってます
でも、実際の研究者からみれば、考古学と文献史学それぞれの最新成果にしても、その中から
自説に都合にいい部分だけを抽出して使う輩もいるようで、さらに発掘調査への厳しい制限
もあって、なかなか結論が出ないようですね
記事の最後にあった参考文献も面白そうだったのでメモしておきます
古代中世の礼制と法制・政治との関係史が専門の歴史学者が「邪馬台はヤマトである」ことを、
文献史学の立場から結論したとゆー新説であります
文芸春秋3月特別号に掲載と教えてもらってて、ようやく図書館で借りることができました
ええ、
第170回芥川賞受賞作品なんぞを読むのは後回しにして・・・
ちなみに直木賞は万城目学の「八月の御所グラウンド」でしたね
本題
以下、掲載記事のうち個人的に興味のあった部分のみ、てきとーにメモしました
(著作物からのメモなので問題があれば非公開にします)
・魏志倭人伝の行程記事より
→朝鮮半島から伊都国(後の筑前国怡土郡、今の福岡県糸島市)までは疑問の余地はない
→その先のルートが曖昧(なので今も「決定版」が山ほどある)
→古代中国史書の地理情報は儒教の世界観に基づく記述なので根本が机上の空論
→行程解釈で争う限り解決の見込みはない→それを離れて見つけるしかない
→自分は門外漢だと思っていたが古代中国「礼」文化の日本列島への影響を追跡していて、
行程記事に依存しない文献資料を見つけた
→証明は学術論文で発表した
→一般向け紹介は著書として書ける機会を待つことにして、あらましと結論を簡単に紹介
・邪馬台国論争最大の誤り→新井白石あたりがヤマタイと読んだこと
→三世紀中国語の「台」の発音はダとドゥの中間
→邪馬台は上代日本語のヤマトをヤマダ(ヤマドゥ)のように聞き取り音写したもの
→日本の正史でも日本全体や奈良地方を表すヤマトを野馬台や夜摩苔とも書いた
(九州の山門は甲類でヤマトとは上代の発音が違う)
→なので邪馬台は日本全体や奈良地方を表すヤマトしかないはず
→日本全体にしか結びつかなければ場所は特定できず、特定地域ならそこが邪馬台国
→私の説ではむしろ奈良地方以外を指すヤマトが重要になる
・ヤマトの伸縮が最大のカギ
→国号を指すヤマトを最上層、現在の奈良県地方(律令制の大和国)を指すヤマトを中間層、
奈良盆地東部(律令制の磯城郡と十市郡の領域→大和郷)を指すヤマトを最下層と呼ぶ
→これら三つのヤマトには日本・大和・大倭・倭などの漢字が宛てられた
→「日本」は日本書紀で一例だけ中間層を指すが残り218例は最上層を指す
・ヤマトの漢字表記の変遷
→日本書紀の本文(朝廷の公式見解)では倭の9割以上が中間層・最下層を指す
→注(中国・百済の外国典籍引用)では倭の全てが最上層を指す
→本文では国号を日本、それ以外を倭と書き分け、注の外国典籍引用では倭は国号→食い違う
→卑弥呼の時代に訓読みは存在せず、中国人も倭をヤマトではなくワに近い発音で読んだ
→ヤマトノクニの漢字表記は大倭国→大養徳国→大倭国→大和国と変遷した
→大も養徳(ヤウトク)も和も美称で、地名の本質に関わる漢字は倭
・マトリョーシカのような入れ子構造の発生
→行政区分の倭国と卑弥呼王朝として国交していた倭国との区別がつかないことが重要
→古事記には14例の倭が現れるが、うち12例は確実に中間層と最下層
(残り1例は解釈を確定できず、もう1例は国生み神話での本州を指す)
→日本語の地名ヤマトも漢字の地名倭も三つの異なるスケールで使われた
→別々に生まれたはずはなく残りが派生したと考えるのが自然
・倭には固有の意味がない
→倭は固有名詞を表すためだけに委に人偏をつけて生み出された字とされる
(正確には委という発音の人や土地を表す固有名詞)
→通常、訓を宛てる時は漢字が持つ意味に対応する日本語を宛てるが倭には意味がない
→日本語話者(倭人)が意図的に強い理由に基づいてヤマトという日本語を宛てた
→倭もヤマトも三つの規模の地域を指した
→倭はもともと後漢までに中国が日本列島・人を呼ぶ固有名詞と決めた言葉
→小さな国をいくつも内部に持つ民族全体と彼らの居住する地域全体を指した(最上層)
→なので中間層や最下層の倭は後から生まれたと考えるしかない
・ヤマトは狭い地域の地名
→国号をヤマトと呼んだ確実な用例は8世紀前半の日本書紀から
→万葉集などの「シキシマのヤマトの国」は国号か奈良地方かを問わない
→シキシマは古事記(崇神)や日本書紀(欽明)で王宮の所在地として現れる
→明らかに奈良地方磯城郡内(中間層)の地名で磯城郡にはヤマト(最下層)を含む
→なのでこの結合はこの狭い地域で起こり統一王朝の国号へ拡大したと考えるしかない
→アキツシマもヤマト(中間層)内部の狭い地域の地名だった→本州や国土全体を指す美称に
→これらが国号の代名詞となったのは枕詞として結びついていたヤマトが拡大した結果
→ヤマトはこの小さな地域名から出発した→まさしく魏志倭人伝の邪馬台(ヤマト)
→卑弥呼の時代には統一王朝全体を指す倭と、内部の小国を指すヤマトが別々に存在した
→倭は(国内で)最上層→中間層→最下層へと縮小方向の変化
→ヤマトは(国内で)最下層→中間層→最上層へと拡大方向の変化
→なぜ逆向きの変化が起こったか、どちらが先か・・・
・国の中に国がある二重構造
→統一王朝は中国が用いた倭をそのまま国号とした
→倭国の中に邪馬台国、奴国、伊都国など数十の国があり、これは律令制になってからも同じ
→遅くとも卑弥呼の時代から、明治まで16世紀以上も続いた国の二重構造
→東アジアで同じ二重構造を持つのは中国歴代王朝のみ→これをベースにした模倣
・中国の国号ルールと大倭と書かれた理由
→中国では統一王朝樹立直前の領地名(諸侯国としての国名)を国号とする
→周から唐までの不文律で例外のない鉄則
→諸侯国としての国名に大をつけて統一王朝の国名とする(大唐など)
→ならば大倭は倭から出発した統一王朝か?→倭という小国は日本にはなかった
→ところが倭という漢字にヤマトという日本語を宛てた事実がある
→そしてヤマトという小国が卑弥呼の邪馬台国として存在した事実がある
・女王卑弥呼のもと倭国は数十年ぶりに統一王朝となり二代続いた
→倭王には邪馬台国の出身者が就任するという方向性が生まれたはず
→その後、倭の五王が現れるまでの継承は分からないが、
→倭国が諸侯国の邪馬台国を出発点としたという形で記憶され倭の五王も朝廷も継承した
→国号の倭と出発点の邪馬台との齟齬の理由は、倭だけが中国語ということに尽きる
・中国王朝が黄河流域のみだった時代には、倭は大陸南部の異民族集団を指した
→王朝拡大に伴い大陸世界も拡大して、倭は東海の果ての異民族を指すに至った
→倭は中国の統治理念の都合と歴史で生まれた呼び名
→いっぽう邪馬台、奴、伊都などは日本語の地名を中国人が音写したもの
・倭王朝は邪馬台が発展したものだと統一王朝が主張するには、時代背景も民族も言語も違う
二つの地名を結合する荒業が必要だった
→倭国の朝廷は訓読という他国に類をみない手段で倭をヤマトと読むことにした
→これにより最上層から最下層まで全ての倭をヤマトと読み、ヤマトを倭と書けるようになった
→倭は最初からヤマトであったことにし、狭い地域ヤマトも最初から倭であったことにした
→国号の倭に国内向けの発音ヤマトを与え、地名のヤマトに倭という漢字表記を与えた
→情報の追加処理だけなので国際的にも国内的にも改変を要さず混乱もない解決法だった
・邪馬台国と纏向遺跡
→最も小さい地域名としての邪馬台ヤマトも倭という漢字表記を獲得した
→倭里→倭郷→大和郷になった
(その地名を代表させた律令制の行政区分ヤマトノクニは倭国→大倭国→大養徳国→大和国に)
→大和郷は垂仁・景行天皇の記紀伝承から纏向村(現在の桜井市北部)とされる(直木幸次郎説)
→最近の考古学の成果(纏向遺跡の規模と内容)と一致するが、まだ状況証拠だけ
→これまでの文献史学では箸墓古墳のサイズが魏志倭人伝の記述と一致するだけ
→私の推定により文献史学からの確かな補強を与えることができる
・奈良地方にヤマトという地名があったから邪馬台だと言っているのではない
→奈良のヤマトを倭と書くこと、倭という統一王朝全体をヤマトと読むことの二つが、
→前段階の諸侯国から統一王朝を樹立という中国的な構図でしか説明できないこと、
→その構図に合致する諸侯国の地が3世紀には邪馬台ヤマトしかなく、8世紀前後には確実に
纏向地域の倭ヤマトであることから、両者をイコールと推断して邪馬台=纏向地域と結論した
さてさて・・・
本になれば是非(借りて)読んでみたいと思いましたが、門外漢のさらに門外漢のわたくしには、
邪馬台国の話つーのは小松左京の邪馬台国=ハワイ説とか、あらゆる諸説が乱立してるから
じつに面白いとも思ってます
でも、実際の研究者からみれば、考古学と文献史学それぞれの最新成果にしても、その中から
自説に都合にいい部分だけを抽出して使う輩もいるようで、さらに発掘調査への厳しい制限
もあって、なかなか結論が出ないようですね
記事の最後にあった参考文献も面白そうだったのでメモしておきます
2023年12月23日
東南アジアの洞窟遺跡
ええ、
東南アジアの洞窟遺跡であります
内表紙
佐世保市の福井洞窟ミュージアムと東南アジア考古学会が連携して表題の企画展を開催、
全国10会場を巡回展示中で、その図録ミュージアム・ブックレットであります
まあ美術展の作品図録や映画の作品パンフレットみたいなものですね
最新のを図書館で借りられるとは思いませんでしたが・・・
近畿の会場では橿原考古学研究所附属博物館で令和6年度の特別陳列となっていますが、
日程などはまだ未定のようで、都合がつけば行ってみたいと思ってます
奥付
例によって目次の紹介
ええ、目次を見ただけで興味津々・・・
以下、わたくしの脳の外部記憶としての読後メモです
第1章
1より
・人類は猿人・原人・旧人・新人の段階のうち原人段階と新人段階でアフリカを出た
→新人が東南アジアに到達した5万~4万年前は最終氷期で海面がはるかに低かったので、
→大陸とスマトラ島・ボルネオ島・ジャワ島・バリ島などは陸続きだった(スンダ・ランド)
→さらにウォーレシア海を渡り、当時は陸続きだったニューギニア島・オーストラリア大陸・
タスマニア島などに到達した(サフル・ランド)
・ウォーレシア海域フローレス島の洞窟ではフローレス原人の遺跡もある
(ジャワ原人とは別系統のホビットで脳サイズは350mlとチンパンジーや猿人サイズなのに、
石器技術は東南アジア島嶼部のサピエンスと同じか、それ以上の多様性を含んでいる→
脳の巨大化で技術が進化したという人類の進化論に大きな課題を提出している)
・その後の海面上昇で島嶼部となったジャワ島の洞窟では、スンダ・サフル系とともに
東アジア大陸系(モンゴロイド系)の人骨が出土している
→彼らはユーラシア大陸の東部から台湾・インドネシア・フィリピンへと海を渡ったか
2より
・ホアビニアン(ホアビン文化)はインドシナ半島最北部の洞窟に集中している
→43500年前~3700年前で洞窟周辺での栽培や初期農耕の可能性も議論されている
3より
・環境が温暖化したことで山村・農村・漁村が形成され、人類が定住するようになった
→洞窟は葬礼用や墓地として利用されるようになった
→さらにその後は洞窟利用の記憶が失われ、人類の生活から隔絶された
→その結果、洞窟空間は別世界と見做され、信仰や宗教の聖地・聖域となった
→ヒンズー教寺院や仏教寺院になり日本でも信仰の対象に・・・
つーことで第2章では目次のとおり、各地での人類の洞窟利用とその痕跡が紹介されてますが、
図版も多く、とても全てはメモできませんでしたので・・・
以前から興味のあったボルネオ島サラワク州ニア洞窟の項のみ一部メモ
(画像掲載に問題があれば削除します)
まずは位置関係・・・
MA-3がニア洞窟で、最終氷期には大陸と続いていたことが分かります
(画像掲載に問題があれば削除します)
ちなみに日本も台湾や朝鮮半島とは陸続きですが、奄美や沖縄は浅い海の中ですね
さらに宗谷海峡は陸続きだったけど、津軽海峡の最深部には流れがあったとか・・・
閑話休題
・ニア洞窟は海岸線から17km内陸に位置する巨大な石灰岩洞窟で複数の洞口を持つ
(4万年前の海岸線からは60kmほど内陸にあったと推測されている)
→1950年代から2000年代まで調査が続けられ各時代の古人骨や生活痕跡が出土している
・最初の調査で4万年前にはホモ・サピエンスが暮らしていたことが明らかになった
→その後パラワン島のタボン洞窟遺跡でも発見された
→更新世後期にはボルネオ島・パラワン島・マレー半島は陸続きスンダランドの一部で、
陸路により、これらの洞窟遺跡に辿り着いたと考えられる
・東南アジア圏で発見されたサピエンス人骨としては最古のものとして有名
→4万年前の層からはイモ類・サゴヤシ・パンノキ・ナッツ類も
→29000~27000年前の生活痕跡では大型哺乳類・貝類・炭化物・ナッツ類・石器類も
→5000~2500年前の遺体の多くは植物素材の敷物に包まれるか甕棺土器に収められた状態
→1200年前頃の舟の壁画も報告されている
つーことで、4万年前から少なくとも1200年前まで人類に利用されてきた洞窟なんですね
で、第3章「ホアビニアンの周縁と拡散」は丸ごと省略して・・・
第4章より
・ラオスのタムバリン洞窟では2023年6月、大陸部で最古となる86000~68000年前の
新人の人骨が発表された
・最終氷期にスンダ大陸を進みニア洞窟などに辿り着いた人類は、5万年前にサフル大陸
(オーストラリア大陸)に到達した
→この両大陸を隔てたウォーレス海域にあるスラウェシ島トポガロ洞窟では、42000年前の
新人の骨が発見された→ウォーレス線を越えて(海を渡って)いた
(画像掲載に問題があれば削除します)
・新人段階での人類の旅路において、最終氷期の厳しい環境に耐え、命を繋ぐために、
洞窟とそこでの暮らしは不可欠だった
→最終氷期の終わりになると温暖化が進み、洞窟での暮らしはより豊かになった(ホアビニアン)
→さらに温暖化が進むと人類は洞窟を出て、さらに豊かな生活の場を見い出した
→人類が去り隔絶されたことで、洞窟は精霊や神仏が宿る異界、聖なる場となった
・地球環境と人類の実生活と精神性の変遷こそが、人類にとっての洞窟の価値や利用形態に
大きな変化を促したといえる・・・
まあ、ライトマニアにとっての洞窟の価値や利用形態といえば、それはもう・・・
東南アジアの洞窟遺跡であります
内表紙
佐世保市の福井洞窟ミュージアムと東南アジア考古学会が連携して表題の企画展を開催、
全国10会場を巡回展示中で、その図録ミュージアム・ブックレットであります
まあ美術展の作品図録や映画の作品パンフレットみたいなものですね
最新のを図書館で借りられるとは思いませんでしたが・・・
近畿の会場では橿原考古学研究所附属博物館で令和6年度の特別陳列となっていますが、
日程などはまだ未定のようで、都合がつけば行ってみたいと思ってます
奥付
例によって目次の紹介
ええ、目次を見ただけで興味津々・・・
以下、わたくしの脳の外部記憶としての読後メモです
第1章
1より
・人類は猿人・原人・旧人・新人の段階のうち原人段階と新人段階でアフリカを出た
→新人が東南アジアに到達した5万~4万年前は最終氷期で海面がはるかに低かったので、
→大陸とスマトラ島・ボルネオ島・ジャワ島・バリ島などは陸続きだった(スンダ・ランド)
→さらにウォーレシア海を渡り、当時は陸続きだったニューギニア島・オーストラリア大陸・
タスマニア島などに到達した(サフル・ランド)
・ウォーレシア海域フローレス島の洞窟ではフローレス原人の遺跡もある
(ジャワ原人とは別系統のホビットで脳サイズは350mlとチンパンジーや猿人サイズなのに、
石器技術は東南アジア島嶼部のサピエンスと同じか、それ以上の多様性を含んでいる→
脳の巨大化で技術が進化したという人類の進化論に大きな課題を提出している)
・その後の海面上昇で島嶼部となったジャワ島の洞窟では、スンダ・サフル系とともに
東アジア大陸系(モンゴロイド系)の人骨が出土している
→彼らはユーラシア大陸の東部から台湾・インドネシア・フィリピンへと海を渡ったか
2より
・ホアビニアン(ホアビン文化)はインドシナ半島最北部の洞窟に集中している
→43500年前~3700年前で洞窟周辺での栽培や初期農耕の可能性も議論されている
3より
・環境が温暖化したことで山村・農村・漁村が形成され、人類が定住するようになった
→洞窟は葬礼用や墓地として利用されるようになった
→さらにその後は洞窟利用の記憶が失われ、人類の生活から隔絶された
→その結果、洞窟空間は別世界と見做され、信仰や宗教の聖地・聖域となった
→ヒンズー教寺院や仏教寺院になり日本でも信仰の対象に・・・
つーことで第2章では目次のとおり、各地での人類の洞窟利用とその痕跡が紹介されてますが、
図版も多く、とても全てはメモできませんでしたので・・・
以前から興味のあったボルネオ島サラワク州ニア洞窟の項のみ一部メモ
(画像掲載に問題があれば削除します)
まずは位置関係・・・
MA-3がニア洞窟で、最終氷期には大陸と続いていたことが分かります
(画像掲載に問題があれば削除します)
ちなみに日本も台湾や朝鮮半島とは陸続きですが、奄美や沖縄は浅い海の中ですね
さらに宗谷海峡は陸続きだったけど、津軽海峡の最深部には流れがあったとか・・・
閑話休題
・ニア洞窟は海岸線から17km内陸に位置する巨大な石灰岩洞窟で複数の洞口を持つ
(4万年前の海岸線からは60kmほど内陸にあったと推測されている)
→1950年代から2000年代まで調査が続けられ各時代の古人骨や生活痕跡が出土している
・最初の調査で4万年前にはホモ・サピエンスが暮らしていたことが明らかになった
→その後パラワン島のタボン洞窟遺跡でも発見された
→更新世後期にはボルネオ島・パラワン島・マレー半島は陸続きスンダランドの一部で、
陸路により、これらの洞窟遺跡に辿り着いたと考えられる
・東南アジア圏で発見されたサピエンス人骨としては最古のものとして有名
→4万年前の層からはイモ類・サゴヤシ・パンノキ・ナッツ類も
→29000~27000年前の生活痕跡では大型哺乳類・貝類・炭化物・ナッツ類・石器類も
→5000~2500年前の遺体の多くは植物素材の敷物に包まれるか甕棺土器に収められた状態
→1200年前頃の舟の壁画も報告されている
つーことで、4万年前から少なくとも1200年前まで人類に利用されてきた洞窟なんですね
で、第3章「ホアビニアンの周縁と拡散」は丸ごと省略して・・・
第4章より
・ラオスのタムバリン洞窟では2023年6月、大陸部で最古となる86000~68000年前の
新人の人骨が発表された
・最終氷期にスンダ大陸を進みニア洞窟などに辿り着いた人類は、5万年前にサフル大陸
(オーストラリア大陸)に到達した
→この両大陸を隔てたウォーレス海域にあるスラウェシ島トポガロ洞窟では、42000年前の
新人の骨が発見された→ウォーレス線を越えて(海を渡って)いた
(画像掲載に問題があれば削除します)
・新人段階での人類の旅路において、最終氷期の厳しい環境に耐え、命を繋ぐために、
洞窟とそこでの暮らしは不可欠だった
→最終氷期の終わりになると温暖化が進み、洞窟での暮らしはより豊かになった(ホアビニアン)
→さらに温暖化が進むと人類は洞窟を出て、さらに豊かな生活の場を見い出した
→人類が去り隔絶されたことで、洞窟は精霊や神仏が宿る異界、聖なる場となった
・地球環境と人類の実生活と精神性の変遷こそが、人類にとっての洞窟の価値や利用形態に
大きな変化を促したといえる・・・
まあ、ライトマニアにとっての洞窟の価値や利用形態といえば、それはもう・・・
2023年11月16日
フラッシュ光2023ボルネオ9フェアリーケイブ
前回記事からの続き・・・
ビダユ族のロングハウスに一泊ホームステイした御一行(一時的に4人)は・・・
セメンゴのワイルドライフセンターへ???
そう、オランウータンはじめ野生動物を保護して再び自然に帰そうとする施設で、
このセメンゴ自然保護区の最奥にあります
保護区は広大なので、ここからセンターまでの移動は電気バスで・・・???
って、さりげにH田さんが運転席にいますが・・・???
じつは顔の効くN嶋さんが受付にお願いして、トイレ休憩に立ち寄っただけなのですが、
せっかくなのでバスに乗ったことにして記念写真をば・・・わははは
ここのウータンくんに興味のある方は、こちらの過去記事をご覧くださいね
(ちなみにウータンくん、野生のドリアンなどが実る今の時期はエサやり場に現れることが
少ないとのことでしたが、上記過去記事の際は、ほぼ同時期だったけど現れてましたから、
結実時期は年によっても大きく変わるようですね)
閑話休題
セメンゴでトイレ休憩した御一行は本日の目的地である洞窟へ・・・
と、その前に・・・
大きなフードコートで待ちに待った昼食であります
わたくしとwingさんはチキンカレー
H田さんはお気に入りのサラワク・ラクサを注文したのですが・・・
Y原さんはN嶋さんオススメの・・・
客家擂茶なるものを注文
いわば漢方の「お茶漬け」で、健康ブームのサラワクで今話題になってるそうです
お茶だけ味見させてもらいましたが抹茶にスープと漢方薬を混ぜた感じで苦味は強烈でした
まあ、確かに健康にはよさそうでしたが・・・
他にもN嶋さんオススメの点心を次々とシェアしました
だから食べる前に撮ればよいものを・・・がつがつがつ
と、食後は(ムルのとは別の)ウィンドケイブへ・・・
まあ一周しても1時間弱、高低差もなさそうだし、ここならわたくしでも・・・
まずは元気なうちに記念撮影
以下さくさくっと
コウモリさん
蟲さん
いったん外へ出ます
???
有刺鉄線の外側にはアブラヤシ畑が広がっています こちら内側は自然保護区
別の洞口から再び洞窟へ・・・
さくさくっと・・・
外へ出て最初の洞口に戻ってきました
せっかくなので記念写真
ええ、皆さん明るいライトをお持ちでした わたくしだけ電球色ですが・・・
で、降ったり止んだりの軽いスコールが続く中、次のフェアリーケイブへ
「あのタワーを上がって洞内に入ります」
「おおっ、エレベーターなら高低差も楽チンですね」
「階段です しかも洞内の高低差はこの比ではありません きっぱりと」
「うぐぐぐ」
と、仕方なく・・・
階段をひいひいと・・・
ようやく最上階まで上がったけど展望台まで行く気力は残ってませんでした
洞口であります
左に案内板がありました
ええ、わたくしムルの洞窟と同様あちこちでショートカットするハメに・・・
以下同様にさくさくっと・・・
って、確かに洞内の階段のほうがきついな・・・ひいひい
トワイライト・トレイルだけあって光が差し込んでますが、上りが続きます
この上で道は枝分かれしていて・・・
皆さんはフェアリーゲートまで行かれましたがわたくしはショートカット
せっかくライト照射してくれてるので記念写真を撮りました
明るい皆さんです
さらに上りは続いて・・・ふうふう
こちらがフェアリーガーデン・・・
って、どこがフェアリーなんだか・・・
わたくしはダーク・トレイルをしばらく進んでとうとう限界となり、
引き返す途中でフェアリーゲートを廻ってきた皆さんと出会いましたが、
皆さんはダーク・トレイルをさらに奥まで進んで行きました
で、フェアリーガーデンでまったり撮影してたのですが・・・
どーゆーわけかwingさんだけが写ってますね・・・
「いやあ、途中で限界を感じて引き返してきました あははは」
「まあ、わたくしより奥まで行ったんだから良しとしましょう あははは」
と、二人でまったり撮影してたら、やがて残りの皆さんも戻ってきて合流し、
上りとは別ルートのさらに急な階段(つーか、ほぼ垂直の梯子)を延々と下りて、
ようやく洞口まで辿り着きました
ま、せっかくなので洞口にあった顔出しパネルで・・・
記念写真をとってもらいました(ちなみに3人が入ってる部分はタワーから張り出してて、
薄い板を張っただけの床の隙間から地上が見えてました ぶるぶる)
さらにタワーの階段を下りると、わたくしは完全にへろへろになり、有料トイレの洗面台で、
汗でぐしょ濡れになったシャツとタオルを水洗いして絞り、駐車場前にあった売店のビールで、
ようやく少しだけ落ち着いた次第
ええ、今回ツアーでは最後の洞窟トレッキングとなったフェアリーケイブでしたが、
今のわたくしには、けっこうハードでした・・・
と、ハードな後にはご褒美、週末だけ開催されるシニアワンの屋台街を目指します
(次号最終回に続きます)
ビダユ族のロングハウスに一泊ホームステイした御一行(一時的に4人)は・・・
セメンゴのワイルドライフセンターへ???
そう、オランウータンはじめ野生動物を保護して再び自然に帰そうとする施設で、
このセメンゴ自然保護区の最奥にあります
保護区は広大なので、ここからセンターまでの移動は電気バスで・・・???
って、さりげにH田さんが運転席にいますが・・・???
じつは顔の効くN嶋さんが受付にお願いして、トイレ休憩に立ち寄っただけなのですが、
せっかくなのでバスに乗ったことにして記念写真をば・・・わははは
ここのウータンくんに興味のある方は、こちらの過去記事をご覧くださいね
(ちなみにウータンくん、野生のドリアンなどが実る今の時期はエサやり場に現れることが
少ないとのことでしたが、上記過去記事の際は、ほぼ同時期だったけど現れてましたから、
結実時期は年によっても大きく変わるようですね)
閑話休題
セメンゴでトイレ休憩した御一行は本日の目的地である洞窟へ・・・
と、その前に・・・
大きなフードコートで待ちに待った昼食であります
わたくしとwingさんはチキンカレー
H田さんはお気に入りのサラワク・ラクサを注文したのですが・・・
Y原さんはN嶋さんオススメの・・・
客家擂茶なるものを注文
いわば漢方の「お茶漬け」で、健康ブームのサラワクで今話題になってるそうです
お茶だけ味見させてもらいましたが抹茶にスープと漢方薬を混ぜた感じで苦味は強烈でした
まあ、確かに健康にはよさそうでしたが・・・
他にもN嶋さんオススメの点心を次々とシェアしました
だから食べる前に撮ればよいものを・・・がつがつがつ
と、食後は(ムルのとは別の)ウィンドケイブへ・・・
まあ一周しても1時間弱、高低差もなさそうだし、ここならわたくしでも・・・
まずは元気なうちに記念撮影
以下さくさくっと
コウモリさん
蟲さん
いったん外へ出ます
???
有刺鉄線の外側にはアブラヤシ畑が広がっています こちら内側は自然保護区
別の洞口から再び洞窟へ・・・
さくさくっと・・・
外へ出て最初の洞口に戻ってきました
せっかくなので記念写真
ええ、皆さん明るいライトをお持ちでした わたくしだけ電球色ですが・・・
で、降ったり止んだりの軽いスコールが続く中、次のフェアリーケイブへ
「あのタワーを上がって洞内に入ります」
「おおっ、エレベーターなら高低差も楽チンですね」
「階段です しかも洞内の高低差はこの比ではありません きっぱりと」
「うぐぐぐ」
と、仕方なく・・・
階段をひいひいと・・・
ようやく最上階まで上がったけど展望台まで行く気力は残ってませんでした
洞口であります
左に案内板がありました
ええ、わたくしムルの洞窟と同様あちこちでショートカットするハメに・・・
以下同様にさくさくっと・・・
って、確かに洞内の階段のほうがきついな・・・ひいひい
トワイライト・トレイルだけあって光が差し込んでますが、上りが続きます
この上で道は枝分かれしていて・・・
皆さんはフェアリーゲートまで行かれましたがわたくしはショートカット
せっかくライト照射してくれてるので記念写真を撮りました
明るい皆さんです
さらに上りは続いて・・・ふうふう
こちらがフェアリーガーデン・・・
って、どこがフェアリーなんだか・・・
わたくしはダーク・トレイルをしばらく進んでとうとう限界となり、
引き返す途中でフェアリーゲートを廻ってきた皆さんと出会いましたが、
皆さんはダーク・トレイルをさらに奥まで進んで行きました
で、フェアリーガーデンでまったり撮影してたのですが・・・
どーゆーわけかwingさんだけが写ってますね・・・
「いやあ、途中で限界を感じて引き返してきました あははは」
「まあ、わたくしより奥まで行ったんだから良しとしましょう あははは」
と、二人でまったり撮影してたら、やがて残りの皆さんも戻ってきて合流し、
上りとは別ルートのさらに急な階段(つーか、ほぼ垂直の梯子)を延々と下りて、
ようやく洞口まで辿り着きました
ま、せっかくなので洞口にあった顔出しパネルで・・・
記念写真をとってもらいました(ちなみに3人が入ってる部分はタワーから張り出してて、
薄い板を張っただけの床の隙間から地上が見えてました ぶるぶる)
さらにタワーの階段を下りると、わたくしは完全にへろへろになり、有料トイレの洗面台で、
汗でぐしょ濡れになったシャツとタオルを水洗いして絞り、駐車場前にあった売店のビールで、
ようやく少しだけ落ち着いた次第
ええ、今回ツアーでは最後の洞窟トレッキングとなったフェアリーケイブでしたが、
今のわたくしには、けっこうハードでした・・・
と、ハードな後にはご褒美、週末だけ開催されるシニアワンの屋台街を目指します
(次号最終回に続きます)
2023年11月11日
フラッシュ光2023ボルネオ4ムル2
前回記事からの続き・・・
前日の夕方から降り続いたスコールも夜半には止んでたようで・・・
公園事務所のレストランでまったりと朝食
わたくしはトーストと茹で卵とチキンソーセージのセットにしましたが、右にあるのは
ナシ・レマのセットでココナッツミルクで炊いたご飯がメイン・・・
ちなみにコーヒーとオートミール風のお粥はおかわり自由でした ばくばくごくごく
朝食後は公園事務所の直下からボートでメリナウ川を遡上します
この吊り橋がムル国立公園の入口で、左がムル空港とマリオットリゾートへ至る道路、
右が公園事務所などがあるエリアになってます
他に道は殆どなくプナン族の定住村が僅かに点在するだけで、まさに手つかずの熱帯雨林・・・
前回とは異なるプナン族の定住村が見えてきました
プナンはもともとジャングルを移動して暮らす民族でしたが、ムルではイギリスの洞窟探検隊の
ポーター雇用をきっかけに一部が定住するようになったとか・・・
つーことで・・・
上陸しました
左が政府の支援で建てられた新しいロングハウスで、
右が・・・
プナン族の民芸品を売る売店であります
ここのブローパイプ(吹き矢)体験は無料でした ぷっ
6年前の記事にも書きましたが、エコツーリズムで僅かでも現地での暮らしに貢献することも
自然環境を守るためには必要なことだと、わたくしは思っています
で、民芸品の(お安い)お土産を少しばかり、美少女たちから買い求め・・・
(Y原さん提供画像)
さらに遡上します
こちらはクリアウォーターケイブにつながる洞口ですが洞内のルートはけっこうハードで、
本格的なケービング装備が必要だそうです ぶるぶる
御一行は安全な船着き場に上陸、安全な木道でウィンドケイブを目指します
ランの原種?
ツノゼミさん?
安全とはいいつつ延々と上りが続きます ひいひい
ようやくウィンドケイブへ・・・ふうふう
以下、洞内をさくさくっと・・・
わははは、こちらのほうが明るいぞ!!!
さらに降りていきます
陽光が僅かに差し込んでますが・・・
ライト照射しました かなり深い切れ込みですね
上は崩落跡でしょうか・・・
さらに降りていきます ひいひい
こちらの分岐点から先は・・・
左下の木道から最深部を巡って右上の木道から降りてくるルートなんですがアップダウンが
激しいので、わたくしはここから引き返すことにしました
反対側には谷底に続く道があり、途中から岩場を下ることになるようですが・・・
入口は閉鎖されてて・・・
ここから先は自己責任、何があっても公園管理者は知らないよと・・・
通常ルートでも今回はショートカットしてるのに自己責任ルートなんて行くはずもなく、
ひいひいと下ってきた階段を上って外に出ました
来た道を船着き場まで戻り・・・
そのすぐ上にある・・・
トイレもある休憩所で・・・
ボートで運んできてくれてた温かいコーヒー紅茶とクッキーで一息
その後、皆さんは・・・
ここからクリアウォーターケイブに出発であります
200段以上ある急階段を上って洞口へ、洞内ではそれ以上の階段を下って洞窟の最深部へ、
わたくし、それを往復する自信はなかったので、ここで待機することにしました
そう、ここで・・・
すぐ下のクリアウォーターケイブから流れ出るクリアウォーターで泳ごうと・・・
と、思ってたら階段を降りてきた若者4人が・・・
目の前で水着に着替えて、ばしゃばしゃと・・・
彼らが去るのを待ち、泳ぐタイミングを見計らってると・・・
今度は高齢者の集団がやってきて泳いでました・・・
ガイドしてたパークレンジャーと話してたら、リトアニアからの11人のグループだそうで、
ひょっとして昨日の便に乗り遅れた人たちだったのかも・・・
皆さん殆どタオルも使わず着替えてたので目のやり場に困りましたが、彼らが去ってしまうと
辺りは熱帯雨林特有の「音のある静寂」に包まれ、靴を脱いで乾かしたり・・・
って、靴にもチョウチョさんがとまってました
そりゃあ汗まみれでミネラル分たっぷりですからね・・・
ベンチで横になり「音のある静寂」を味わったりしてると・・・
洞内を巡ってた皆さんが戻られ・・・
やはりボートで運んできてくれてたお弁当で、待ちに待った昼食であります
まあ、約1名は・・・
アカエリトリバネアゲハとやらを追いかけてましたが・・・
わたくしがまったりしている間も飛び回ってましたが、飛んでるチョウチョさんを
撮るのは至難のワザですね、大きくてきれいなチョウチョさんなんですが・・・
と、昼食後に元気な人はトレッキングで、元気のない98kさんなどはボートで戻る予定、
だったのですが、早めに戻って昨日見れなかった昇竜に再チャレンジすることになり・・・
全員がボートで戻りました
で、わたくしを除く皆さんは、
元気にディアケイブ前の昇竜観察所に向けて出発・・・
わたくしはのんびりと周辺を散策したり・・・
きれいなセミさんとか・・・
どうせ最終日にも行かないであろう・・・
キャノピーウォーク(のパネル)を撮ったりしてたのですが・・・
やがて雷鳴とともに、この日も雨が降り出してきて、仕方なく・・・
エアコンの効いた部屋で、まったりとウィスキーの水割りをば・・・
氷はありませんでしたが、かぱかぱ3杯目を注いでるとドアがノックされ、
「戻りましたよ、夕食ですよ!!!」とN嶋さんに呼ばれてレストランへ
わたくしがいないと歩行速度が随分速くなるのね・・・
この日もそれなりのスコールでしたが、皆さんは・・・
濡れながらも元気そのもの、この日も昇竜は見れなかったとのことでしたが、
熱帯雨林のナイトトレッキングを充分に楽しまれたようです
昨日より夕食時間が早かったこともあり・・・
レストランは、ほぼ満席状態でした
で、慌ただしくナシ・ゴレンだけ食べた昨夜とは打って変わって・・・
まったりと夕食宴会に突入
夕方から部屋で水割りを飲んでただけのわたくしは元気そのもので・・・
最後の完食完飲画像まで撮れました
夕食後、皆さんはシャワーを浴びて着替え、周辺の夜間撮影とかに行かれた方もおられた
ようですが、呑兵衛はもちろん・・・
部屋で大宴会!!!
この夜は日本好きの公園事務所長が日本酒を持って参加するかもとのことでしたが、
結局は都合がつかなかったようでした
ムル最後の夜だし(わたくしも歩いてないので元気だし)部屋飲み宴会は延々と・・・
(次号に続きます)
前日の夕方から降り続いたスコールも夜半には止んでたようで・・・
公園事務所のレストランでまったりと朝食
わたくしはトーストと茹で卵とチキンソーセージのセットにしましたが、右にあるのは
ナシ・レマのセットでココナッツミルクで炊いたご飯がメイン・・・
ちなみにコーヒーとオートミール風のお粥はおかわり自由でした ばくばくごくごく
朝食後は公園事務所の直下からボートでメリナウ川を遡上します
この吊り橋がムル国立公園の入口で、左がムル空港とマリオットリゾートへ至る道路、
右が公園事務所などがあるエリアになってます
他に道は殆どなくプナン族の定住村が僅かに点在するだけで、まさに手つかずの熱帯雨林・・・
前回とは異なるプナン族の定住村が見えてきました
プナンはもともとジャングルを移動して暮らす民族でしたが、ムルではイギリスの洞窟探検隊の
ポーター雇用をきっかけに一部が定住するようになったとか・・・
つーことで・・・
上陸しました
左が政府の支援で建てられた新しいロングハウスで、
右が・・・
プナン族の民芸品を売る売店であります
ここのブローパイプ(吹き矢)体験は無料でした ぷっ
6年前の記事にも書きましたが、エコツーリズムで僅かでも現地での暮らしに貢献することも
自然環境を守るためには必要なことだと、わたくしは思っています
で、民芸品の(お安い)お土産を少しばかり、美少女たちから買い求め・・・
(Y原さん提供画像)
さらに遡上します
こちらはクリアウォーターケイブにつながる洞口ですが洞内のルートはけっこうハードで、
本格的なケービング装備が必要だそうです ぶるぶる
御一行は安全な船着き場に上陸、安全な木道でウィンドケイブを目指します
ランの原種?
ツノゼミさん?
安全とはいいつつ延々と上りが続きます ひいひい
ようやくウィンドケイブへ・・・ふうふう
以下、洞内をさくさくっと・・・
わははは、こちらのほうが明るいぞ!!!
さらに降りていきます
陽光が僅かに差し込んでますが・・・
ライト照射しました かなり深い切れ込みですね
上は崩落跡でしょうか・・・
さらに降りていきます ひいひい
こちらの分岐点から先は・・・
左下の木道から最深部を巡って右上の木道から降りてくるルートなんですがアップダウンが
激しいので、わたくしはここから引き返すことにしました
反対側には谷底に続く道があり、途中から岩場を下ることになるようですが・・・
入口は閉鎖されてて・・・
ここから先は自己責任、何があっても公園管理者は知らないよと・・・
通常ルートでも今回はショートカットしてるのに自己責任ルートなんて行くはずもなく、
ひいひいと下ってきた階段を上って外に出ました
来た道を船着き場まで戻り・・・
そのすぐ上にある・・・
トイレもある休憩所で・・・
ボートで運んできてくれてた温かいコーヒー紅茶とクッキーで一息
その後、皆さんは・・・
ここからクリアウォーターケイブに出発であります
200段以上ある急階段を上って洞口へ、洞内ではそれ以上の階段を下って洞窟の最深部へ、
わたくし、それを往復する自信はなかったので、ここで待機することにしました
そう、ここで・・・
すぐ下のクリアウォーターケイブから流れ出るクリアウォーターで泳ごうと・・・
と、思ってたら階段を降りてきた若者4人が・・・
目の前で水着に着替えて、ばしゃばしゃと・・・
彼らが去るのを待ち、泳ぐタイミングを見計らってると・・・
今度は高齢者の集団がやってきて泳いでました・・・
ガイドしてたパークレンジャーと話してたら、リトアニアからの11人のグループだそうで、
ひょっとして昨日の便に乗り遅れた人たちだったのかも・・・
皆さん殆どタオルも使わず着替えてたので目のやり場に困りましたが、彼らが去ってしまうと
辺りは熱帯雨林特有の「音のある静寂」に包まれ、靴を脱いで乾かしたり・・・
って、靴にもチョウチョさんがとまってました
そりゃあ汗まみれでミネラル分たっぷりですからね・・・
ベンチで横になり「音のある静寂」を味わったりしてると・・・
洞内を巡ってた皆さんが戻られ・・・
やはりボートで運んできてくれてたお弁当で、待ちに待った昼食であります
まあ、約1名は・・・
アカエリトリバネアゲハとやらを追いかけてましたが・・・
わたくしがまったりしている間も飛び回ってましたが、飛んでるチョウチョさんを
撮るのは至難のワザですね、大きくてきれいなチョウチョさんなんですが・・・
と、昼食後に元気な人はトレッキングで、元気のない98kさんなどはボートで戻る予定、
だったのですが、早めに戻って昨日見れなかった昇竜に再チャレンジすることになり・・・
全員がボートで戻りました
で、わたくしを除く皆さんは、
元気にディアケイブ前の昇竜観察所に向けて出発・・・
わたくしはのんびりと周辺を散策したり・・・
きれいなセミさんとか・・・
どうせ最終日にも行かないであろう・・・
キャノピーウォーク(のパネル)を撮ったりしてたのですが・・・
やがて雷鳴とともに、この日も雨が降り出してきて、仕方なく・・・
エアコンの効いた部屋で、まったりとウィスキーの水割りをば・・・
氷はありませんでしたが、かぱかぱ3杯目を注いでるとドアがノックされ、
「戻りましたよ、夕食ですよ!!!」とN嶋さんに呼ばれてレストランへ
わたくしがいないと歩行速度が随分速くなるのね・・・
この日もそれなりのスコールでしたが、皆さんは・・・
濡れながらも元気そのもの、この日も昇竜は見れなかったとのことでしたが、
熱帯雨林のナイトトレッキングを充分に楽しまれたようです
昨日より夕食時間が早かったこともあり・・・
レストランは、ほぼ満席状態でした
で、慌ただしくナシ・ゴレンだけ食べた昨夜とは打って変わって・・・
まったりと夕食宴会に突入
夕方から部屋で水割りを飲んでただけのわたくしは元気そのもので・・・
最後の完食完飲画像まで撮れました
夕食後、皆さんはシャワーを浴びて着替え、周辺の夜間撮影とかに行かれた方もおられた
ようですが、呑兵衛はもちろん・・・
部屋で大宴会!!!
この夜は日本好きの公園事務所長が日本酒を持って参加するかもとのことでしたが、
結局は都合がつかなかったようでした
ムル最後の夜だし(わたくしも歩いてないので元気だし)部屋飲み宴会は延々と・・・
(次号に続きます)
2023年11月10日
フラッシュ光2023ボルネオ3ムル1
前回記事からの続き・・・
ボルネオ二日目にクチンからグヌンムル国立公園に移動した御一行、女性2人は公園内ロッジへ、
N嶋さんを含む男性5人は公園内ロングハウスの2室に分かれて荷物を解き・・・
まずは公園内レストランで、待ちに待った昼食であります
機内でチキンカレーを食べたばかりだし昼食は軽く麺類だけに・・・
ミーゴレン(焼きそば)とか・・・
コロミー(油そば)とか・・・
わたくしはムル・ラクサ(汁そば)にしましたが、具沢山でこちらもなかなかのものでした
ま、午後からはトレッキングつーことでビールは控えて・・・
おいしいマンゴージュースで・・・
ちなみに・・・
腕に巻いてもらってるのが公園事務所のタグでチョウチョさんがとまってますね
我々は3日間有効のタグで午前零時を過ぎると自動的に発火消滅・・・はせず自分で外しました
で、今回はじめての二人がおられたので、昼食後は公園のビジターセンターへ
興味深い展示がいっぱいでしたが・・・
とりあえずジオラマの一部から今回のコースを案内
(画像をクリックすると拡大します)
中央の赤い四角が現在いる公園事務所で、その左の棒がムル空港の滑走路、
下にある赤い丸が前回宿泊した(高級な)マリオットリゾートです
で、
本日はトレッキングで9ディアケイブと10ラングケイブを巡り、夕方にディアケイブから現れる
(かも知れない)昇竜(数百万匹のコウモリが一斉に渦を巻いて天に昇る様子)を堪能して???
ナイトトレッキングで宿所のある公園事務所まで戻ってくる予定
明日はメリナウ川をボートで遡上し前回とは異なるプナン族の村に立ち寄り、さらにボートで
遡上して3ウィンドケイブと4クリアウォーターケイブを巡り、体力のある人はボートではなく
川沿いのトレッキングコースを歩いて公園事務所まで戻ってくる予定
最終日は周辺を散策、希望者のみ11キャノピースカイウォーク(樹上に張り巡らされた吊り橋から
熱帯雨林の立体的な生態系を観察するものでムルのはボルネオ最長の480m)を堪能して、
午後にはクチンへ戻る予定・・・
なんですが、はてさてわたくし、どこまでついていけるのか・・・びくびく
とりあえず、有名なアピ山ピナクル(のパネル前)で・・・
いかにも「ピナクルを制覇しました!!!」とゆーヤラセ画像をば(N嶋さん演出撮影)
ひとくちにグヌン・ムル国立公園の熱帯雨林といっても・・・
高度や地形により様々なタイプに分かれてて生態系も多様なようですね
せっかくなのでムルで最も多く見られる動植物のパネルも紹介・・・
ええ、どうせ自分ではロクな画像は撮れないだろうし・・・
蟲さんつーか無脊椎動物さんたち
こたまさんの大好きな植物さんたち
たまさんの大好きなカエルさんたち
爬虫類さんたち
N家さんの大好きなトリさんたち(今回は来れなくて残念でした)
哺乳類さんたち ま、今は98kさんたちもいますが・・・
とか遊びながらビジターセンターを出て、ディアケイブ・ラングケイブへのトレッキング!!!
わたくしカメラを構えて撮影する余裕など全くなかったので、歩行中のスナップのみですが、
以下、さくさくっと何枚か・・・
平坦な木道が整備されてて歩きやすいのですが何せ高温多湿、洞窟前までの片道3.4km
だけでも、骨折リハビリ中のわたくしにはきつかったです ひいひい
かなりの巨木ですね
この分岐点からムル山頂(2376m)まで片道24km、今から軽く往復してきます!!!
って、わたくしパンツまで汗でびちゃびちゃですね(決しておもらしではありません)
こちらはディアケイブの古い入口だそうです
と、ようやくディアケイブ前の「昇竜観察広場」までやってきました ひいひい
中央左に巨大な洞口が少しだけ見えてますが、そこから天に昇る竜が・・・今回も見られるか?
で、昇竜が見られるのは日没前後なので、先にラングケイブとディアケイブを巡ります
まずはラングケイブをさくさくっと・・・
こちらは洞内照明による撮影・・・
こちらはMecArmy PT60のハイモードによる撮影で、完全に白トビしてますね わははは
皆さんはさらに奥まで進みましたが、すでにへろへろで左脚も不安なわたくしは無理せず、
途中から引き返して・・・
洞口でまったりしてました ええ、来たのは2回目だし・・・
で、皆さんと合流してムル最大の洞窟、世界でも有数のディアケイブへ・・・
6年前にはこんな案内板や郵便ポストはなかったなあ・・・
って、ここに投函された郵便物は、いつ誰が集めに来るんだろ???
ディアケイブも途中で引き返したので、詳しくは6年前の記事をご覧いただくとして、
今回はMecArmy PT60の威力を数枚だけ・・・
洞口付近であります
右の人物との比較で、洞窟の大きさが想像いただけるかと・・・
ライトオフ
ライトオン
ちなみに・・・
中央に黒く見えるのはコウモリさんのフンが長期間堆積して化石化したグアノで、
厚さは8m以上あるそうです
とか遊んでたのですが、ディアケイブとラングケイブの分岐点で、洞内を一周してきた皆さんと
合流する頃には、雷鳴と稲妻が激しくなり急な雨が降り出しました
これでは昇竜も期待できず撮影どころではありません
(昇竜の画像は6年前のこちらの記事でご覧くださいね)
と、慌ててカメラ類やパスポート財布などを二重にしたレジ袋に再度しまい込み、屋根のある
「昇竜観察所」まで傘をさして移動、しばらく雨宿りをすることにしました
(H田さん提供画像)
熱帯雨林のスコールだから、すぐに止むだろうと思ってたのですが、ちょうど乾季から
雨季に入ったところで、雷雨はますますひどくなるばかり・・・
わたくし、こんなに長いスコールは、ボルネオはじめての経験でした
で、帰りが遅くなると公園レストランが閉まってしまい夕食にありつけなくなるので、
(H田さん提供画像)
すでに汗でずぶ濡れ、眼鏡も曇って使えず、完全にへろへろになってたわたくしも・・・
仕方なく簡易ポンチョを着て(後ろはwingさんに被せてもらい)、宿所やレストランのある
公園事務所までの3.4kmを豪雨の中、急いで戻ることになりました ひいひい
ちなみに今回ツアー用にH田さん(TG-5を持ってるwingさんも)が発売と同時に購入された
TG-7とゆー新機種は15m防水カメラ、こんなシーンの撮影にもぴったりですね
とか感心してる場合ではなく歩き出したのですが左脚は限界、右足の踵まで痛みだしてきて、
結局はN嶋さんとwingさんに見守ってもらいながら、皆さんより遅れて何とか生還した次第
後ろを歩いてくれてたN嶋さんによると、わたくしの簡易ポンチョの隙間から水蒸気がもくもくと
湧き上がって、それはそれは鬼気迫るものがあったそうです
で、レストランの閉店時間までに何とか席に着くことができて・・・
とりあえずはマンゴージュースとスーパードライで無事生還を祝し乾杯!!!
ちなみにこちらのスーパードライは320mlなんですね
ともかく早くできるよう全員がナシ・ゴレン(焼き飯)を注文して、食べ終える頃には、
わたくしも少しだけ落ち着いてきました ばくばく
その後エアコンの効いた部屋に戻って熱いシャワーを浴びて着替えたら、さらに落ち着き、
結局は各自が持参したウィスキーや焼酎やつまみでの宴会になったのですが、さすがに
わたくしだけ早めに倒れてしまったようで、この夜も記憶と画像がまったくありません
明日もウィンドケイブやクリアウォーターケイブへのトレッキングだとゆーのに・・・
98kさんは大丈夫なのかっ???
(と、次号に続きます)
ボルネオ二日目にクチンからグヌンムル国立公園に移動した御一行、女性2人は公園内ロッジへ、
N嶋さんを含む男性5人は公園内ロングハウスの2室に分かれて荷物を解き・・・
まずは公園内レストランで、待ちに待った昼食であります
機内でチキンカレーを食べたばかりだし昼食は軽く麺類だけに・・・
ミーゴレン(焼きそば)とか・・・
コロミー(油そば)とか・・・
わたくしはムル・ラクサ(汁そば)にしましたが、具沢山でこちらもなかなかのものでした
ま、午後からはトレッキングつーことでビールは控えて・・・
おいしいマンゴージュースで・・・
ちなみに・・・
腕に巻いてもらってるのが公園事務所のタグでチョウチョさんがとまってますね
我々は3日間有効のタグで午前零時を過ぎると自動的に発火消滅・・・はせず自分で外しました
で、今回はじめての二人がおられたので、昼食後は公園のビジターセンターへ
興味深い展示がいっぱいでしたが・・・
とりあえずジオラマの一部から今回のコースを案内
(画像をクリックすると拡大します)
中央の赤い四角が現在いる公園事務所で、その左の棒がムル空港の滑走路、
下にある赤い丸が前回宿泊した(高級な)マリオットリゾートです
で、
本日はトレッキングで9ディアケイブと10ラングケイブを巡り、夕方にディアケイブから現れる
(かも知れない)昇竜(数百万匹のコウモリが一斉に渦を巻いて天に昇る様子)を堪能して???
ナイトトレッキングで宿所のある公園事務所まで戻ってくる予定
明日はメリナウ川をボートで遡上し前回とは異なるプナン族の村に立ち寄り、さらにボートで
遡上して3ウィンドケイブと4クリアウォーターケイブを巡り、体力のある人はボートではなく
川沿いのトレッキングコースを歩いて公園事務所まで戻ってくる予定
最終日は周辺を散策、希望者のみ11キャノピースカイウォーク(樹上に張り巡らされた吊り橋から
熱帯雨林の立体的な生態系を観察するものでムルのはボルネオ最長の480m)を堪能して、
午後にはクチンへ戻る予定・・・
なんですが、はてさてわたくし、どこまでついていけるのか・・・びくびく
とりあえず、有名なアピ山ピナクル(のパネル前)で・・・
いかにも「ピナクルを制覇しました!!!」とゆーヤラセ画像をば(N嶋さん演出撮影)
ひとくちにグヌン・ムル国立公園の熱帯雨林といっても・・・
高度や地形により様々なタイプに分かれてて生態系も多様なようですね
せっかくなのでムルで最も多く見られる動植物のパネルも紹介・・・
ええ、どうせ自分ではロクな画像は撮れないだろうし・・・
蟲さんつーか無脊椎動物さんたち
こたまさんの大好きな植物さんたち
たまさんの大好きなカエルさんたち
爬虫類さんたち
N家さんの大好きなトリさんたち(今回は来れなくて残念でした)
哺乳類さんたち ま、今は98kさんたちもいますが・・・
とか遊びながらビジターセンターを出て、ディアケイブ・ラングケイブへのトレッキング!!!
わたくしカメラを構えて撮影する余裕など全くなかったので、歩行中のスナップのみですが、
以下、さくさくっと何枚か・・・
平坦な木道が整備されてて歩きやすいのですが何せ高温多湿、洞窟前までの片道3.4km
だけでも、骨折リハビリ中のわたくしにはきつかったです ひいひい
かなりの巨木ですね
この分岐点からムル山頂(2376m)まで片道24km、今から軽く往復してきます!!!
って、わたくしパンツまで汗でびちゃびちゃですね(決しておもらしではありません)
こちらはディアケイブの古い入口だそうです
と、ようやくディアケイブ前の「昇竜観察広場」までやってきました ひいひい
中央左に巨大な洞口が少しだけ見えてますが、そこから天に昇る竜が・・・今回も見られるか?
で、昇竜が見られるのは日没前後なので、先にラングケイブとディアケイブを巡ります
まずはラングケイブをさくさくっと・・・
こちらは洞内照明による撮影・・・
こちらはMecArmy PT60のハイモードによる撮影で、完全に白トビしてますね わははは
皆さんはさらに奥まで進みましたが、すでにへろへろで左脚も不安なわたくしは無理せず、
途中から引き返して・・・
洞口でまったりしてました ええ、来たのは2回目だし・・・
で、皆さんと合流してムル最大の洞窟、世界でも有数のディアケイブへ・・・
6年前にはこんな案内板や郵便ポストはなかったなあ・・・
って、ここに投函された郵便物は、いつ誰が集めに来るんだろ???
ディアケイブも途中で引き返したので、詳しくは6年前の記事をご覧いただくとして、
今回はMecArmy PT60の威力を数枚だけ・・・
洞口付近であります
右の人物との比較で、洞窟の大きさが想像いただけるかと・・・
ライトオフ
ライトオン
ちなみに・・・
中央に黒く見えるのはコウモリさんのフンが長期間堆積して化石化したグアノで、
厚さは8m以上あるそうです
とか遊んでたのですが、ディアケイブとラングケイブの分岐点で、洞内を一周してきた皆さんと
合流する頃には、雷鳴と稲妻が激しくなり急な雨が降り出しました
これでは昇竜も期待できず撮影どころではありません
(昇竜の画像は6年前のこちらの記事でご覧くださいね)
と、慌ててカメラ類やパスポート財布などを二重にしたレジ袋に再度しまい込み、屋根のある
「昇竜観察所」まで傘をさして移動、しばらく雨宿りをすることにしました
(H田さん提供画像)
熱帯雨林のスコールだから、すぐに止むだろうと思ってたのですが、ちょうど乾季から
雨季に入ったところで、雷雨はますますひどくなるばかり・・・
わたくし、こんなに長いスコールは、ボルネオはじめての経験でした
で、帰りが遅くなると公園レストランが閉まってしまい夕食にありつけなくなるので、
(H田さん提供画像)
すでに汗でずぶ濡れ、眼鏡も曇って使えず、完全にへろへろになってたわたくしも・・・
仕方なく簡易ポンチョを着て(後ろはwingさんに被せてもらい)、宿所やレストランのある
公園事務所までの3.4kmを豪雨の中、急いで戻ることになりました ひいひい
ちなみに今回ツアー用にH田さん(TG-5を持ってるwingさんも)が発売と同時に購入された
TG-7とゆー新機種は15m防水カメラ、こんなシーンの撮影にもぴったりですね
とか感心してる場合ではなく歩き出したのですが左脚は限界、右足の踵まで痛みだしてきて、
結局はN嶋さんとwingさんに見守ってもらいながら、皆さんより遅れて何とか生還した次第
後ろを歩いてくれてたN嶋さんによると、わたくしの簡易ポンチョの隙間から水蒸気がもくもくと
湧き上がって、それはそれは鬼気迫るものがあったそうです
で、レストランの閉店時間までに何とか席に着くことができて・・・
とりあえずはマンゴージュースとスーパードライで無事生還を祝し乾杯!!!
ちなみにこちらのスーパードライは320mlなんですね
ともかく早くできるよう全員がナシ・ゴレン(焼き飯)を注文して、食べ終える頃には、
わたくしも少しだけ落ち着いてきました ばくばく
その後エアコンの効いた部屋に戻って熱いシャワーを浴びて着替えたら、さらに落ち着き、
結局は各自が持参したウィスキーや焼酎やつまみでの宴会になったのですが、さすがに
わたくしだけ早めに倒れてしまったようで、この夜も記憶と画像がまったくありません
明日もウィンドケイブやクリアウォーターケイブへのトレッキングだとゆーのに・・・
98kさんは大丈夫なのかっ???
(と、次号に続きます)