廃線敷
2021年02月23日
伊丹市昆虫館~へやキャンOFF会!!!
伊丹市昆虫館経由で「へやキャン???」OFF会を(ひっそりと)楽しんでました。
関西ライト仲間のwingさんから、週末から四連休になったので遊びましょ!!!とのお誘い、
暖かく好天の予報だったし、新テントを試しがてら、ひっそりキャンプしたかったのですが、
近くのいいキャンプ場は冬キャンブームでいっぱいだろうし、まだ密は避けたいし・・・
さらに、いつもの川端さん赤チャリさんのご都合も、今回はびみょーだったし・・・
つーことで、わたくしは阪神電車の某駅前でwing号にピックアップしてもらい・・・
「昼過ぎに伊丹市昆虫館の予定ですが伊丹駐屯地の近くなんですよ・・・じゅるじゅる」
「おお、そのための10時集合だったのねっ、じゅるじゅる・・・」
と、駐屯地前のサクラヤさんは11時開店だったので、先に近くのスーパーで食材なんぞを
買い足してから、開店と同時に店内に入って物欲三昧・・・
「ありゃま、ふと気づけば昼前ですね・・・次は食欲三昧つーことで・・・」
と、昆陽池の池畔にある・・・

MIYABIとゆーパン屋さん・・・カフェでランチも食べられるのでありますね。

テラス席もありましたが我々は店内の窓際でぬくぬくと・・・

ハンバーグドリアのセット、焼きたてのパンも旨かったです。

完食後はコーヒーでまったりして・・・
昆陽池公園の駐車場へ・・・

古くからあった広大な溜池を埋め立て、残りの一部を公園として整備したもので、
野鳥の観察地としても有名、島を日本列島の形にしてるんですね・・・知らなんだ。
って、一周は約2000m、駐車場から昆虫館まででも約600m・・・ひいひい
ま、せっかくなので道すがら・・・





800mmズームを付けたOM-D EM-1を下げてるwingさん、通りすがりのコンデジの方から、
「これは何という鳥ですか?」とか画面を見せられ訊かれてましたが・・・

「はてさて・・・あそこに説明板がありますよ・・・あははは」
「って、そんな超望遠を下げてたら、当然トリさんに詳しい人と思われるでしょ。」
「いやいや、これはトリさん用ではなく、あくまでムシさんのテレマクロ撮影用です。
遠くのトリさんとかにはイマイチで・・・ぶつぶつ・・・」
とかレンズ性能についてぶつぶつ呟きながら・・・

ようやく伊丹市昆虫館に到着。
ま・・・

感染症対策で滞在時間は60分とのことで、以下さくさくっと・・・
入ったところが「10倍の森」・・・

巨大ミツバチさんから見ると・・・

わたくしもこんな感じなんですね・・・びくびく
モルフォ蝶・・・

きれいきれい・・・
ヘラクレスオオカブト


でかいでかい・・・
ニジイロクワガタ・・・


きれいきれい・・・
マダガスカルオオゴキブリ・・・


でかいでかい・・・
ローズヘアータランチュラ・・・


でかいでかい・・・ローズヘアーには見えなかったけど・・・
と・・・

メインのチョウ温室へ・・・
ま、

こんなチョウチョさんがいたのですが・・・
なにせ暖かい日の温室内だったので・・・


たちまちレンズは曇り、身体は汗まみれに・・・ひいひい

約1名は800mmレンズで撮影を続けておられましたが・・・
わたくしは這う這うの体で温室から出て・・・

むしのうんことか・・・

アカハライモリさんとか・・・

イモムシさんとか・・・かわいいかわいい・・・
と、それでも汗がひかないので屋上展望台へ上りました。


チョウチョさんのソーラーパネル・・・これで飛ぶのか・・・
と、60分以内であちこち見て廻りミュージアムショップへ・・・

wingさんは海洋堂のイモコレ・ガチャにチャレンジ・・・


ミノムシさんをゲットされてました!!!
ちなみにわたくしは「二本松こおろぎ」つーのを購入したのですが・・・
と、駐車場まで戻り、バイクで来られてたgochpfozha(ゴッホ)さんと合流!!!
お会いするのは、wingさんもわたくしも今回がはじめてでした。
bonさんの「フラッシュライトファン」以来のライト好きだそうで、当サイトも含め、
G3さんのサイトや川端さんのサイトなども、開設以来ずっと愛読されておられたとのこと。
いやあ、隠れた愛読者とリアルでお会いすることができて、うれしい限り!!!
で、ゴッホさんはバイクを置いてwing号に同乗、大阪のわたくしの実家に3人が着いたのは
土曜日の3時過ぎぐらいでした。
あまり飲まれないゴッホさんも交えて、とりあえずはビールもどきと乾き物で乾杯、
昔話やライト談義に花が咲きました。
ひとしきり談義を終えての夕食は、以前wingさんと行った韓国料理店で軽く・・・

マッコリなんぞで・・・


とーぜん軽く完食完飲しました・・・
そう、なにせわたくし・・・


実家にいっぱい飲み物とつまみを用意してたもので・・・
といいつつ「やはり大阪に来たら粉モンでしょう」と帰り道でwingさんが買ってた
たこ焼きやお好み焼きを温めて、さらにビールもどきをかぱかぱと・・・


ちなみに右下にあるのが、わたくしが昆虫館で買った「二本松こおろぎ」なんですが、
けっこうデカい個体で、お二人とも食べるのを躊躇されてたので、翌日に未開封のまま
昆虫食が好きな?川端さんにプレゼントした次第。
と、お二人のライト談義は続き・・・

せっかくなので恒例の照射散策へ・・・

ま、約1名は・・・

ムシさんを撮っておられましたが・・・
と、戻ってからもヲタ話は続き・・・(わたくしとwingさんは飲み続け・・・)
この夜は日付が変わる頃に(各自マットとシュラフで)就寝しました。
翌朝は7時半に起床、ハムマフィンとコーヒーで軽い朝食、さらにライト談義を続け・・・

夜は入れなかった住吉大社の本殿とか、まったりと朝の散策、昼食は軽くうどん定食・・・
ま、お二人はさらに軽く天ぷらうどんだけでしたが・・・


軽く完食して戻り、2時過ぎには凄いお土産を持ってきてくれた川端さんとも合流、
さらにライト談義とヲタ話が盛り上がりました。
阪堺電車の廃線敷や古いポンプなどをもう一度見ておきたいとのゴッホさんの要望もあり、
今度は4人で、ふたたび近所を散策・・・

住吉公園駅の古い駅舎はまだ残ってて・・・
(住吉停留所(住吉交差)からの引き込み区間が2016年2月に廃線)

対面式のプラットホームに続いてた屋根の一部も残ってました・・・
ゴッホさん、昭和の古い街並みも大好きだそうです。
と、旧の紀州街道や熊野街道や住吉街道を軽く廻って戻り、夕食は・・・

直火の焚火(ただし動画
)を眺めつつ・・・
キャンプ用のテーブル・チェア・ランタンで部隊鍋(プテチゲ)!!!
そう、まさに「へやキャン△」だったのでありますね!!! わははは
と、ライト談義は続き、わたくしとwingさんは燗酒を飲み続けてたのですが・・・
さすがに疲れたのか、この夜は10時半に(各自マットとシュラフで
)就寝しました。
ま、わたくしは夜中に何度か目覚めて飲み直したりしてましたが・・・
で、翌日わたくし以外は早朝から起きておられたようで、7時には、なんとwingさんから!!
モーニングコールされました!!!
ええ、10年以上になるわたくしのOFF会人生でも、はじめての体験でした・・・
と、朝食も早く軽く・・・

パンとラムレーズンクッキーとコーヒー、その後も甘い物なんぞでライト談義が続き・・・
早めの昼食も・・・

部隊鍋(プテチゲ)の残りスープに太麺と餃子を入れて軽く済ませ、お昼過ぎには解散、
wing号は昆陽池までゴッホさんを送り届けたとゆー次第。
つーことで今回も楽しく気軽なOFF会となりました。
ええ、これがほんとのライトOFF会・・・どっとはらい
感謝のP.S
あまり飲まれないのに飲んだくれ宴会に付き合ってくれた初参加のゴッホさん、
全く飲まないけど、とんでもないお土産を持参いただいた川端さん、
送迎はじめ、今回もいっぱいおもちゃを持参いただいたwingさん、
とても楽しかったです。ありがとうございました。
また(当分はひっそりと)軽くやりましょう!!!
ちなみに川端さんからの(重い)お土産については、いずれまた別記事で・・・
関西ライト仲間のwingさんから、週末から四連休になったので遊びましょ!!!とのお誘い、
暖かく好天の予報だったし、新テントを試しがてら、ひっそりキャンプしたかったのですが、
近くのいいキャンプ場は冬キャンブームでいっぱいだろうし、まだ密は避けたいし・・・
さらに、いつもの川端さん赤チャリさんのご都合も、今回はびみょーだったし・・・
つーことで、わたくしは阪神電車の某駅前でwing号にピックアップしてもらい・・・
「昼過ぎに伊丹市昆虫館の予定ですが伊丹駐屯地の近くなんですよ・・・じゅるじゅる」
「おお、そのための10時集合だったのねっ、じゅるじゅる・・・」
と、駐屯地前のサクラヤさんは11時開店だったので、先に近くのスーパーで食材なんぞを
買い足してから、開店と同時に店内に入って物欲三昧・・・

「ありゃま、ふと気づけば昼前ですね・・・次は食欲三昧つーことで・・・」
と、昆陽池の池畔にある・・・

MIYABIとゆーパン屋さん・・・カフェでランチも食べられるのでありますね。

テラス席もありましたが我々は店内の窓際でぬくぬくと・・・

ハンバーグドリアのセット、焼きたてのパンも旨かったです。

完食後はコーヒーでまったりして・・・
昆陽池公園の駐車場へ・・・

古くからあった広大な溜池を埋め立て、残りの一部を公園として整備したもので、
野鳥の観察地としても有名、島を日本列島の形にしてるんですね・・・知らなんだ。
って、一周は約2000m、駐車場から昆虫館まででも約600m・・・ひいひい
ま、せっかくなので道すがら・・・





800mmズームを付けたOM-D EM-1を下げてるwingさん、通りすがりのコンデジの方から、
「これは何という鳥ですか?」とか画面を見せられ訊かれてましたが・・・

「はてさて・・・あそこに説明板がありますよ・・・あははは」
「って、そんな超望遠を下げてたら、当然トリさんに詳しい人と思われるでしょ。」
「いやいや、これはトリさん用ではなく、あくまでムシさんのテレマクロ撮影用です。
遠くのトリさんとかにはイマイチで・・・ぶつぶつ・・・」
とかレンズ性能についてぶつぶつ呟きながら・・・

ようやく伊丹市昆虫館に到着。
ま・・・

感染症対策で滞在時間は60分とのことで、以下さくさくっと・・・
入ったところが「10倍の森」・・・

巨大ミツバチさんから見ると・・・

わたくしもこんな感じなんですね・・・びくびく
モルフォ蝶・・・

きれいきれい・・・
ヘラクレスオオカブト


でかいでかい・・・
ニジイロクワガタ・・・


きれいきれい・・・
マダガスカルオオゴキブリ・・・


でかいでかい・・・
ローズヘアータランチュラ・・・


でかいでかい・・・ローズヘアーには見えなかったけど・・・
と・・・

メインのチョウ温室へ・・・
ま、

こんなチョウチョさんがいたのですが・・・
なにせ暖かい日の温室内だったので・・・


たちまちレンズは曇り、身体は汗まみれに・・・ひいひい

約1名は800mmレンズで撮影を続けておられましたが・・・
わたくしは這う這うの体で温室から出て・・・

むしのうんことか・・・

アカハライモリさんとか・・・

イモムシさんとか・・・かわいいかわいい・・・
と、それでも汗がひかないので屋上展望台へ上りました。


チョウチョさんのソーラーパネル・・・これで飛ぶのか・・・
と、60分以内であちこち見て廻りミュージアムショップへ・・・

wingさんは海洋堂のイモコレ・ガチャにチャレンジ・・・


ミノムシさんをゲットされてました!!!
ちなみにわたくしは「二本松こおろぎ」つーのを購入したのですが・・・

と、駐車場まで戻り、バイクで来られてたgochpfozha(ゴッホ)さんと合流!!!
お会いするのは、wingさんもわたくしも今回がはじめてでした。
bonさんの「フラッシュライトファン」以来のライト好きだそうで、当サイトも含め、
G3さんのサイトや川端さんのサイトなども、開設以来ずっと愛読されておられたとのこと。
いやあ、隠れた愛読者とリアルでお会いすることができて、うれしい限り!!!
で、ゴッホさんはバイクを置いてwing号に同乗、大阪のわたくしの実家に3人が着いたのは
土曜日の3時過ぎぐらいでした。
あまり飲まれないゴッホさんも交えて、とりあえずはビールもどきと乾き物で乾杯、
昔話やライト談義に花が咲きました。
ひとしきり談義を終えての夕食は、以前wingさんと行った韓国料理店で軽く・・・

マッコリなんぞで・・・


とーぜん軽く完食完飲しました・・・
そう、なにせわたくし・・・


実家にいっぱい飲み物とつまみを用意してたもので・・・
といいつつ「やはり大阪に来たら粉モンでしょう」と帰り道でwingさんが買ってた
たこ焼きやお好み焼きを温めて、さらにビールもどきをかぱかぱと・・・


ちなみに右下にあるのが、わたくしが昆虫館で買った「二本松こおろぎ」なんですが、
けっこうデカい個体で、お二人とも食べるのを躊躇されてたので、翌日に未開封のまま
昆虫食が好きな?川端さんにプレゼントした次第。

と、お二人のライト談義は続き・・・

せっかくなので恒例の照射散策へ・・・

ま、約1名は・・・

ムシさんを撮っておられましたが・・・
と、戻ってからもヲタ話は続き・・・(わたくしとwingさんは飲み続け・・・)
この夜は日付が変わる頃に(各自マットとシュラフで)就寝しました。
翌朝は7時半に起床、ハムマフィンとコーヒーで軽い朝食、さらにライト談義を続け・・・

夜は入れなかった住吉大社の本殿とか、まったりと朝の散策、昼食は軽くうどん定食・・・
ま、お二人はさらに軽く天ぷらうどんだけでしたが・・・


軽く完食して戻り、2時過ぎには凄いお土産を持ってきてくれた川端さんとも合流、
さらにライト談義とヲタ話が盛り上がりました。
阪堺電車の廃線敷や古いポンプなどをもう一度見ておきたいとのゴッホさんの要望もあり、
今度は4人で、ふたたび近所を散策・・・

住吉公園駅の古い駅舎はまだ残ってて・・・
(住吉停留所(住吉交差)からの引き込み区間が2016年2月に廃線)

対面式のプラットホームに続いてた屋根の一部も残ってました・・・
ゴッホさん、昭和の古い街並みも大好きだそうです。
と、旧の紀州街道や熊野街道や住吉街道を軽く廻って戻り、夕食は・・・

直火の焚火(ただし動画

キャンプ用のテーブル・チェア・ランタンで部隊鍋(プテチゲ)!!!
そう、まさに「へやキャン△」だったのでありますね!!! わははは
と、ライト談義は続き、わたくしとwingさんは燗酒を飲み続けてたのですが・・・
さすがに疲れたのか、この夜は10時半に(各自マットとシュラフで

ま、わたくしは夜中に何度か目覚めて飲み直したりしてましたが・・・
で、翌日わたくし以外は早朝から起きておられたようで、7時には、なんとwingさんから!!
モーニングコールされました!!!
ええ、10年以上になるわたくしのOFF会人生でも、はじめての体験でした・・・

と、朝食も早く軽く・・・

パンとラムレーズンクッキーとコーヒー、その後も甘い物なんぞでライト談義が続き・・・
早めの昼食も・・・

部隊鍋(プテチゲ)の残りスープに太麺と餃子を入れて軽く済ませ、お昼過ぎには解散、
wing号は昆陽池までゴッホさんを送り届けたとゆー次第。
つーことで今回も楽しく気軽なOFF会となりました。
ええ、これがほんとのライトOFF会・・・どっとはらい

感謝のP.S
あまり飲まれないのに飲んだくれ宴会に付き合ってくれた初参加のゴッホさん、
全く飲まないけど、とんでもないお土産を持参いただいた川端さん、
送迎はじめ、今回もいっぱいおもちゃを持参いただいたwingさん、
とても楽しかったです。ありがとうございました。
また(当分はひっそりと)軽くやりましょう!!!
ちなみに川端さんからの(重い)お土産については、いずれまた別記事で・・・

2020年11月28日
大仏鉄道遺構めぐり!!!
はじめての大仏鉄道遺構めぐり・・・ひさしぶりのハイキングでした。
そう、前回記事のとおり以前から興味があったのですが、一昨日、はじめて巡りました。
メンバーはいつものダッシュP18乗りの友人と奈良ソムリエの資格を持つ友人の計3人で、
学生時代からの史跡サークル仲間であります。
JR加茂駅に9時半すぎに集合、まずは駅前広場にある・・・

蒸気機関車の動輪前からスタート!!!

木津川市になる前の加茂町長が鉄分好きで、私費で建立して市に寄贈されたそうです。
前回記事で紹介した研究会の活動にも関わっておられたようで、遺構めぐりコースにも
あちこちに案内板が整備されてました。
おさらいのため、同所にあった大仏鉄道の説明板・・・

つーことで、今回はこの路線に沿った遺構めぐりコース約13kmを歩きます。
120年前に10年間だけ走ってた廃線遺構つーのがロマンですねえ。
ちなみに駅前広場の反対側に当時から残ってる遺構が・・・

「ランプ小屋」で、当時の蒸気機関車の照明はオイルランプだったので、その整備小屋。
可燃物のオイルも大量に保管してたので頑丈なレンガ造りだったんでしょうか・・・
大仏線も加茂駅からしばらくは現在の関西本線(JR大和路線)と並走してました。


あちこちに案内板があるのがありがたいですね。さすが鉄分好きの元町長・・・
そーいや琵琶湖東岸の某市長も東大自転車競技部の出身で周辺の市町村や県に働きかけ、
「ビワイチ」サイクリングコースの整備が一層進んだとか・・・
自治体の首長が趣味を地域に活かす、つーのは、わたくし個人的には大好きなんですが、
やはり行政としては、首長が変わってもブレないコンセプトがないと迷惑なだけ・・・
ま、サイクリングコースや廃線敷めぐりとかなら、大いに良しとしましょう!!!
と・・・



1937年製C57 56の静態展示。前照灯はバッテリーライトでしょうか・・・
(追記です。初期はオイルランプ、近代型は蒸気によるタービン発電だったようです。)

路傍の石灯籠を観察したりして・・・
関西本線(JR大和路線)の踏切を渡ります。


線路左側の草むらが廃線跡でしょうか、盛り土が2車線分になってますね・・・
いったん大仏線から離れて大きく迂回・・・


路傍の石地蔵なんぞを観察しつつ・・・

観音寺橋台へ・・・
加茂駅から約3kmで・・・

観音寺橋台に到着であります。
奥が関西本線(JR大和路線)で、まだ大仏線と並走してますが、この辺りを過ぎると本線は
トンネルを抜けて木津へ、いっぽう大仏線は山を越え丘を越え奈良までほぼ一直線・・・
そう、ほぼ一直線とはいいつつ、山あり谷ありの難所でしたから、平坦な路線ができると、
僅か10年で廃線になったんですね・・・
観音寺橋台にあった案内図であります。

現路線は木津駅へ湾曲してから平坦路を奈良駅へ、大仏線は難所をまっすぐに奈良駅へ・・・
つーのがよく分かりますね。
で、すぐ近くにある・・・



観音寺小橋台であります。
竹林を抜け・・・


じゅるじゅる・・・

かなり鬱蒼としてきて・・・


とーとつに小さな祠がありました。

右側の盛り土が大仏線跡で・・・

道路には枕木とガイドレールを利用した柵が残ってました。
そう、「まぼろしの五新線」にもありましたねえ。懐かしいなあ・・・
で、こちらが・・・


鹿背山橋台・・・勾配を少なくするための盛り土や築堤をあちこちで築いたのでしょうが、
今はどこも自然の一部になってました。

こちらも枕木とガイドレールを利用してますね。
こちらがおそらく廃線敷でしょうが・・・


遺構を続けて見るため、いったん築堤の下に降ります。

梶ヶ谷隧道であります。築堤を渡る通路用アンダーパスですね。

ポータルのレンガはイギリス積みで・・・

内部は長手積み???
反対側のポータルであります。

この築堤の上を真っ赤なイギリス製の蒸気機関車が走ってたんですねえ・・・
で、しばらく行くと赤橋で・・・

こちらはイギリス積み・・・
と、再び廃線跡に上がりました。

奥がスタートした加茂駅方面で、左手には新しい道路と公園があり・・・


きれいなトイレや東屋に大仏線のモニュメントや案内板もありました。
すでにお昼近くになってたので・・・

わたくしが最近ハマってるテキーラとポロショコラで、はじめての大休止・・・
この組み合わせは友人二人にも好評でした。ぐびぐび
ちなみに位置関係はこんな感じ。

当時の路線図を見ると、まさに加茂と奈良を結ぶ直線コースだったんですね。
さらに廃線跡を進みます。ひいひい

梅谷からは県道44号線となり廃線跡モニュメントのある歩道を歩きます。ひいひい

で、右に見えてきたのが・・・

らせん型の配水塔で・・・

大仏鉄道へのオマージュでしょうか・・・
で、この配水塔を越えると、ようやく・・・

京都府から奈良県に入りますが、びみょーなアップダウンはずっと続きます。
確かに非力な蒸気機関車には大変な難路線だったんでしょうね。
ええ、非力なわたくしにも大変な難コースでしたが。ひいひい

県境を越えると「国境食堂」つーのがあり・・・

ステーキハウスも併設されてたのですが、ここで昼食宴会をすると途中挫折は自明なので、
泣く泣く歩き続けました。ひいひい
沿道には、こんなお店もありました。


そう、アウトドアで喫茶・軽食を楽しむお店なんですね。じゅるじゅる・・・
さらに、こんなお店も・・・


ツリーハウスでもCAFE&SWEETSが楽しめるのだろうか・・・じゅるじゅる・・・
で、こちらが・・・


大仏線唯一のトンネルだった「黒髪山トンネル」のあった峠・・・
そう、今は拡幅されて切り通しになってますが、

当時はトンネルだったんですね。ちなみに上を跨ぐ歩道橋は奈良で一番の高さだとか・・・
できるだけ上まで登って、どうしても登れないところで仕方なく短いトンネルを掘るのが、
昔の鉄道の敷設方法なので、今も残るローカル線なんかは風情があるんですね。
途中でいくつかの遺構を見過ごしてますが「鹿川隧道」は、ここの案内板で・・・

ちなみにこの黒髪山には・・・

奈良市のキャンプフィールドがあるんですね・・・
奈良ドリームランド跡・・・

園内を一周してた蒸気機関車の高架でしょうか・・・ま、こちらも廃線遺構ですね・・・
わたくしが小さい頃は関西で最大の遊園地だったはず・・・懐かしいなあ・・・
で、こちらの鴻ノ池あたりから・・・

県道44号線は大仏線の廃線敷から大きく外れるので・・・
遺構めぐりコースは興福院(こんぶいん)へ・・・

そう、大仏線は興福院の前あたりを通ってたのでありますね。
ちなみにこの間にある遺構「鴻池橋台の基礎部」は見つけられませんでした。
で、興福院から南下していくと・・・


ようやく大仏駅のあった「大仏鉄道記念公園」に到着であります。ふう
ちなみに大仏線は動輪の右手あたりからナナメに来てたようで、延伸後は石碑あたりから
やはりナナメに抜けて佐保川を渡っていたようであります。
そう、この大仏駅まで開通した2年後には奈良駅までの1kmほどを延伸したので・・・

このあたりに佐保川を渡る鉄橋の遺構があるはずなのですが見つけられませんでした。
と、大仏線はJR奈良駅まで延伸してから廃線になったのですが、ここから先は遺構もなく
「JR奈良より近鉄奈良のほうが飲み屋が多い」つーことで、一行は近鉄奈良駅前へ・・・
たまたま奈良ソムリエさん御用達のお店が閉まってたので、以前正倉院展の帰りに見つけて
すっかりお気に入りになってた大和醸造の直営店へ・・・

で、まずは濃くて美味しかったIPA(インディア・ペールエール)のLサイズで乾杯!!!

で、やはり美味しかった「太陽のピザ」をばくばくと・・・

って、今回も食べる前に撮ればいいものを・・・ばくばくがつがつ
続いてダッシュP18乗りさんはSAISONのLサイズつーのを・・・


わたくしはSTOUTのLサイズを、奈良ソムリエさんはSTOUTのMサイズを・・・
もちろん、お安い各種ピザも次々と追加しました


だから食べる前に撮ればいいものを・・・げふっ
と、今回は9時半過ぎにJR加茂駅を出て2時半過ぎに近鉄奈良駅に着きましたから休憩も含め、
所要時間は約5時間、遺構めぐりコースは約13kmでしたが、途中で迷ったりもしたので、
おそらくそれ以上は歩いたでしょう。
なだらかな勾配の廃線敷がメインですが、何せ難所が多くて廃線になった路線ですから、
それなりにアップダウンもあり、途中からけっこう脚にきてました。
以前も書きましたが自転車でそれなりに漕いだ際に痛くなる部分と歩いて痛くなる部分は
けっこう異なるんですね。
少しは歩行にも慣れないと・・・ま、寒くなって自転車漕ぎもご無沙汰してるけど・・・
そう、前回記事のとおり以前から興味があったのですが、一昨日、はじめて巡りました。
メンバーはいつものダッシュP18乗りの友人と奈良ソムリエの資格を持つ友人の計3人で、
学生時代からの史跡サークル仲間であります。
JR加茂駅に9時半すぎに集合、まずは駅前広場にある・・・

蒸気機関車の動輪前からスタート!!!

木津川市になる前の加茂町長が鉄分好きで、私費で建立して市に寄贈されたそうです。
前回記事で紹介した研究会の活動にも関わっておられたようで、遺構めぐりコースにも
あちこちに案内板が整備されてました。
おさらいのため、同所にあった大仏鉄道の説明板・・・

つーことで、今回はこの路線に沿った遺構めぐりコース約13kmを歩きます。
120年前に10年間だけ走ってた廃線遺構つーのがロマンですねえ。
ちなみに駅前広場の反対側に当時から残ってる遺構が・・・

「ランプ小屋」で、当時の蒸気機関車の照明はオイルランプだったので、その整備小屋。
可燃物のオイルも大量に保管してたので頑丈なレンガ造りだったんでしょうか・・・
大仏線も加茂駅からしばらくは現在の関西本線(JR大和路線)と並走してました。


あちこちに案内板があるのがありがたいですね。さすが鉄分好きの元町長・・・
そーいや琵琶湖東岸の某市長も東大自転車競技部の出身で周辺の市町村や県に働きかけ、
「ビワイチ」サイクリングコースの整備が一層進んだとか・・・
自治体の首長が趣味を地域に活かす、つーのは、わたくし個人的には大好きなんですが、
やはり行政としては、首長が変わってもブレないコンセプトがないと迷惑なだけ・・・
ま、サイクリングコースや廃線敷めぐりとかなら、大いに良しとしましょう!!!
と・・・



1937年製C57 56の静態展示。前照灯はバッテリーライトでしょうか・・・
(追記です。初期はオイルランプ、近代型は蒸気によるタービン発電だったようです。)

路傍の石灯籠を観察したりして・・・
関西本線(JR大和路線)の踏切を渡ります。


線路左側の草むらが廃線跡でしょうか、盛り土が2車線分になってますね・・・
いったん大仏線から離れて大きく迂回・・・


路傍の石地蔵なんぞを観察しつつ・・・

観音寺橋台へ・・・
加茂駅から約3kmで・・・

観音寺橋台に到着であります。
奥が関西本線(JR大和路線)で、まだ大仏線と並走してますが、この辺りを過ぎると本線は
トンネルを抜けて木津へ、いっぽう大仏線は山を越え丘を越え奈良までほぼ一直線・・・
そう、ほぼ一直線とはいいつつ、山あり谷ありの難所でしたから、平坦な路線ができると、
僅か10年で廃線になったんですね・・・
観音寺橋台にあった案内図であります。

現路線は木津駅へ湾曲してから平坦路を奈良駅へ、大仏線は難所をまっすぐに奈良駅へ・・・
つーのがよく分かりますね。
で、すぐ近くにある・・・



観音寺小橋台であります。
竹林を抜け・・・


じゅるじゅる・・・

かなり鬱蒼としてきて・・・


とーとつに小さな祠がありました。

右側の盛り土が大仏線跡で・・・

道路には枕木とガイドレールを利用した柵が残ってました。
そう、「まぼろしの五新線」にもありましたねえ。懐かしいなあ・・・
で、こちらが・・・


鹿背山橋台・・・勾配を少なくするための盛り土や築堤をあちこちで築いたのでしょうが、
今はどこも自然の一部になってました。

こちらも枕木とガイドレールを利用してますね。
こちらがおそらく廃線敷でしょうが・・・


遺構を続けて見るため、いったん築堤の下に降ります。

梶ヶ谷隧道であります。築堤を渡る通路用アンダーパスですね。

ポータルのレンガはイギリス積みで・・・

内部は長手積み???
反対側のポータルであります。

この築堤の上を真っ赤なイギリス製の蒸気機関車が走ってたんですねえ・・・
で、しばらく行くと赤橋で・・・

こちらはイギリス積み・・・
と、再び廃線跡に上がりました。

奥がスタートした加茂駅方面で、左手には新しい道路と公園があり・・・


きれいなトイレや東屋に大仏線のモニュメントや案内板もありました。
すでにお昼近くになってたので・・・

わたくしが最近ハマってるテキーラとポロショコラで、はじめての大休止・・・
この組み合わせは友人二人にも好評でした。ぐびぐび
ちなみに位置関係はこんな感じ。

当時の路線図を見ると、まさに加茂と奈良を結ぶ直線コースだったんですね。
さらに廃線跡を進みます。ひいひい

梅谷からは県道44号線となり廃線跡モニュメントのある歩道を歩きます。ひいひい

で、右に見えてきたのが・・・

らせん型の配水塔で・・・

大仏鉄道へのオマージュでしょうか・・・
で、この配水塔を越えると、ようやく・・・

京都府から奈良県に入りますが、びみょーなアップダウンはずっと続きます。
確かに非力な蒸気機関車には大変な難路線だったんでしょうね。
ええ、非力なわたくしにも大変な難コースでしたが。ひいひい

県境を越えると「国境食堂」つーのがあり・・・

ステーキハウスも併設されてたのですが、ここで昼食宴会をすると途中挫折は自明なので、
泣く泣く歩き続けました。ひいひい
沿道には、こんなお店もありました。


そう、アウトドアで喫茶・軽食を楽しむお店なんですね。じゅるじゅる・・・
さらに、こんなお店も・・・


ツリーハウスでもCAFE&SWEETSが楽しめるのだろうか・・・じゅるじゅる・・・
で、こちらが・・・


大仏線唯一のトンネルだった「黒髪山トンネル」のあった峠・・・
そう、今は拡幅されて切り通しになってますが、

当時はトンネルだったんですね。ちなみに上を跨ぐ歩道橋は奈良で一番の高さだとか・・・
できるだけ上まで登って、どうしても登れないところで仕方なく短いトンネルを掘るのが、
昔の鉄道の敷設方法なので、今も残るローカル線なんかは風情があるんですね。
途中でいくつかの遺構を見過ごしてますが「鹿川隧道」は、ここの案内板で・・・

ちなみにこの黒髪山には・・・

奈良市のキャンプフィールドがあるんですね・・・
奈良ドリームランド跡・・・

園内を一周してた蒸気機関車の高架でしょうか・・・ま、こちらも廃線遺構ですね・・・
わたくしが小さい頃は関西で最大の遊園地だったはず・・・懐かしいなあ・・・
で、こちらの鴻ノ池あたりから・・・

県道44号線は大仏線の廃線敷から大きく外れるので・・・
遺構めぐりコースは興福院(こんぶいん)へ・・・

そう、大仏線は興福院の前あたりを通ってたのでありますね。
ちなみにこの間にある遺構「鴻池橋台の基礎部」は見つけられませんでした。
で、興福院から南下していくと・・・


ようやく大仏駅のあった「大仏鉄道記念公園」に到着であります。ふう
ちなみに大仏線は動輪の右手あたりからナナメに来てたようで、延伸後は石碑あたりから
やはりナナメに抜けて佐保川を渡っていたようであります。
そう、この大仏駅まで開通した2年後には奈良駅までの1kmほどを延伸したので・・・

このあたりに佐保川を渡る鉄橋の遺構があるはずなのですが見つけられませんでした。
と、大仏線はJR奈良駅まで延伸してから廃線になったのですが、ここから先は遺構もなく
「JR奈良より近鉄奈良のほうが飲み屋が多い」つーことで、一行は近鉄奈良駅前へ・・・
たまたま奈良ソムリエさん御用達のお店が閉まってたので、以前正倉院展の帰りに見つけて
すっかりお気に入りになってた大和醸造の直営店へ・・・

で、まずは濃くて美味しかったIPA(インディア・ペールエール)のLサイズで乾杯!!!

で、やはり美味しかった「太陽のピザ」をばくばくと・・・

って、今回も食べる前に撮ればいいものを・・・ばくばくがつがつ
続いてダッシュP18乗りさんはSAISONのLサイズつーのを・・・


わたくしはSTOUTのLサイズを、奈良ソムリエさんはSTOUTのMサイズを・・・
もちろん、お安い各種ピザも次々と追加しました


だから食べる前に撮ればいいものを・・・げふっ
と、今回は9時半過ぎにJR加茂駅を出て2時半過ぎに近鉄奈良駅に着きましたから休憩も含め、
所要時間は約5時間、遺構めぐりコースは約13kmでしたが、途中で迷ったりもしたので、
おそらくそれ以上は歩いたでしょう。
なだらかな勾配の廃線敷がメインですが、何せ難所が多くて廃線になった路線ですから、
それなりにアップダウンもあり、途中からけっこう脚にきてました。
以前も書きましたが自転車でそれなりに漕いだ際に痛くなる部分と歩いて痛くなる部分は
けっこう異なるんですね。
少しは歩行にも慣れないと・・・ま、寒くなって自転車漕ぎもご無沙汰してるけど・・・

2020年11月24日
大仏鉄道物語
とーとつに・・・「大仏鉄道物語」・・・であります。


大仏鉄道研究会・著 関西印刷出版部・飛鳥書房 平成21年9月1日第二版第一刷発行
恒例により目次のみご紹介・・・

ちなみに大仏鉄道研究会つーのは・・・

鉄分好きの方たちの集まりのようですね。
本書によると、大仏鉄道とは明治時代の一時期に存在した関西鉄道・大仏線の通称で、
加茂駅から奈良駅まで約9km(奈良駅に乗り入れるまでは手前の大仏駅まで約8km)
の区間とのことでした。
ちなみに表紙絵の赤い蒸気機関車ですが、当時の関西では私鉄間の競争が激しかったので、
少しでも乗客の目を惹こうと、実際に関西鉄道で走ってたカラーリングだそうです。
今のラッピング列車とかと同じ発想だったんですねえ・・・
この区間は勾配が急で難所も多く平坦路線が大阪や奈良に直結されると、開業後わずか9年で
廃止され、しかも廃止時期が国有化の直前であったため、殆ど資料も残っておらず、まさに
「まぼろしの鉄道」になっていたようです。
このあたりは「まぼろしの五新線」とは対照的ですねえ・・・
で、それを僅かに残る資料や遺構、聞き取りなどから調査して、遺構の保存や観光スポット
としての活用に、研究会として取り組まれてるんですね。
ええ、これだけでもコアな廃線マニアにはたまらない路線なんでしょうねえ。
といいつつ、廃線敷(の中でも特に廃トンネルの照射)が好きなわたくしも、本書を読んで、
ともかく一度は行ってみたくなった次第。
当時の遺構もまだいくつか残ってるようで、巻末にあった遺構めぐりマップによると、
ハイキングコースとしては12kmほどのようです。
以前からネット情報とかでも興味はあったのですが、近々に史跡好きの友人たちと一緒に
歩いてみることになりました。
おそらく舗装路ばかりで輪行ポタリングでも楽しめそうですが、まずは徒歩で・・・
そう、徒歩だと駅前に着けば(自転車をたたむことなく)すぐに飲めるし・・・
それに市街地部分が多いので、途中で飲めそうな店もあるだろうだし・・・
さてさて、次回記事は廃線敷の完歩記事になるか途中挫折の飲んだくれ記事になるか・・・
みなさん、どーかお楽しみに・・・


大仏鉄道研究会・著 関西印刷出版部・飛鳥書房 平成21年9月1日第二版第一刷発行
恒例により目次のみご紹介・・・

ちなみに大仏鉄道研究会つーのは・・・

鉄分好きの方たちの集まりのようですね。

本書によると、大仏鉄道とは明治時代の一時期に存在した関西鉄道・大仏線の通称で、
加茂駅から奈良駅まで約9km(奈良駅に乗り入れるまでは手前の大仏駅まで約8km)
の区間とのことでした。
ちなみに表紙絵の赤い蒸気機関車ですが、当時の関西では私鉄間の競争が激しかったので、
少しでも乗客の目を惹こうと、実際に関西鉄道で走ってたカラーリングだそうです。
今のラッピング列車とかと同じ発想だったんですねえ・・・
この区間は勾配が急で難所も多く平坦路線が大阪や奈良に直結されると、開業後わずか9年で
廃止され、しかも廃止時期が国有化の直前であったため、殆ど資料も残っておらず、まさに
「まぼろしの鉄道」になっていたようです。
このあたりは「まぼろしの五新線」とは対照的ですねえ・・・
で、それを僅かに残る資料や遺構、聞き取りなどから調査して、遺構の保存や観光スポット
としての活用に、研究会として取り組まれてるんですね。
ええ、これだけでもコアな廃線マニアにはたまらない路線なんでしょうねえ。
といいつつ、廃線敷(の中でも特に廃トンネルの照射)が好きなわたくしも、本書を読んで、
ともかく一度は行ってみたくなった次第。
当時の遺構もまだいくつか残ってるようで、巻末にあった遺構めぐりマップによると、
ハイキングコースとしては12kmほどのようです。
以前からネット情報とかでも興味はあったのですが、近々に史跡好きの友人たちと一緒に
歩いてみることになりました。
おそらく舗装路ばかりで輪行ポタリングでも楽しめそうですが、まずは徒歩で・・・
そう、徒歩だと駅前に着けば(自転車をたたむことなく)すぐに飲めるし・・・

それに市街地部分が多いので、途中で飲めそうな店もあるだろうだし・・・

さてさて、次回記事は廃線敷の完歩記事になるか途中挫折の飲んだくれ記事になるか・・・
みなさん、どーかお楽しみに・・・

2020年01月26日
「阪堺電車177号の追憶」と上町線の謎???
今回はご近所を走る阪堺電車を題材にした小説のご紹介・・・と、
阪堺電車の上町線に関する、わたくし懸案の謎???についてであります。
まずは・・・

「阪堺電車177号の追憶」山本巧次著 早川書房 2017年9月発行・・・
裏表紙・・・

ひょんなことから阪堺電車の上町線についてネットで調べてて、この小説を知ったのですが、
今回ようやく読むことができた次第。
(2022年1月追記です)
たまたま撮ったモ161号(帝塚山4丁目停留所付近にて)

ちなみに定期運用されている電車としては日本最古となった阪堺電気軌道のモ161型ですが、
実際に製造された車両は161号から176号までで、177号とゆー車両は存在しません。
(ただし、この小説が評判になり1日だけ177号に書き換えた同型車両がほんまに走ったようで、
阪堺はんも、なかなか粋なことをしはりますな・・・
)
例によって目次のみ・・・

小説作品なのでストーリーなんぞは紹介できませんが、昭和8年から平成29年まで、177号の
独白ではじまる各章が、その時代を反映した軽いミステリー仕立てになってて、各章の登場人物も
さりげに何人かが繋がっていたりと、とてもほっこりさせてくれる佳作・・・だったんですが・・・
何せ全編の舞台が阪堺電車の車中と沿線、しかも殆どが住吉交差から僅か数停留所の範囲内!!!
ええ、この辺りに長年住む者としては、沿線の情景描写がたまりませんでした。
車両や沿線はもちろん、時代も人物もストーリーも丁寧に描き込まれており、なじみのない方でも
充分に楽しめますが、身近な沿線住民からすれば、まさに珠玉の貴重な作品ですね。
わたくし作品では第三章つまり昭和34年ぐらいからしか実記憶がないのですが・・・
小学生の頃のテリトリーつーか遊びに行く範囲といえば、西は国道26号線まで、東は阿倍野筋
(当時は十三軒道路とか13号線とか呼んでましたね)まで、南はせいぜい細井川あたりまで、
北は塚西、姫松あたり(今で言う南港通り)まででしたから、まさにこの作品の舞台そのものですね。
たまに自転車で大和川まで行ったり長居公園まで行ったりするのは大冒険でしたし、上町線で
天王寺に出たり、南海で難波に出たりする際は、たいてい大人と一緒でした。
もちろん、その後の行動範囲は広がりましたが、天王寺に出る際は今でも上町線まで歩きますし、
自転車でふらふらしてても、必ず一度や二度は阪堺線・上町線の軌道を渡ったり並走したりします。
(ちなみに自転車で軌道を渡る際は直角に近い角度で渡らないと、必ずコケます。)
さらに息子たちが小さい頃は、せがまれてよく住吉交差まで行き交うチン電を見に行ってましたし、
数回の宿替えはありましたが、チン電はずっと身近な存在なのであります。
で、わたくしが小学生の頃の沿線風景は、大邸宅と商店と下町が混在してたものの、何となく
棲み分けてたような感じだったのが、中学生になる頃から大邸宅の跡地やそれまであった空き地に
一度に何十軒もの建売住宅ができたりして、古くからあった長屋以外にも小住宅や集合住宅が
一気に増えました。まさに高度成長期の真っ只中だったんですね。
当時の住吉大社はじめ神社やお寺の境内は荒れ放題、広大な邸宅の庭池跡も放置されたままで
探検したり秘密基地を作ったりの毎日、住吉公園や万代池公園で遊ぶよりずっと面白かったです。
また紀州街道・熊野街道・住吉街道などの沿道には、重厚な家並みも所々に残ってたのですが、
やはりバブル前後からでしょうか、特に表通りはすっかり様変わりしてしまいました。
ま、今は神社やお寺もきれいに整備され(秘密基地は作れなくなったけど)、街並みや道路も
明るくなって(探検する場所がなくなったけど)、住吉大社や粉浜商店街の外国人観光客も増え、
休日には史跡めぐりや撮り鉄のみなさんを数多く見かけますし、これはこれでよかったかと・・・
ただし住民は(わたくしも含め)高齢者が目立つようになりましたが・・・げほげほ
と、身近な存在のチン電と沿線の生活を、この作品であらためて振り返ることができました。
で、この阪堺電車に関する、わたくしの疑問つーのが・・・
上町線が高野線を跨いだのはいつなのか???であります!!!
ま、それが分かったからどーだ、つーこともないのですが・・・
とりあえずウィキの記述を時間軸で整理してみると・・・(カッコ内は現駅名・現停留所名)
・南海・高野線が(汐見橋)から(堺東)まで開業したのが1900年9月3日
・同線の住吉駅が(住吉東)駅に改名したのが同年9月11日
・上町線が天王寺南詰から上住吉(神ノ木)まで馬車鉄道で開業したのが1900年11月29日
・上住吉(神ノ木)から下住吉(住吉)まで馬車鉄道で延伸開業したのが1902年12月27日
つーことなんですが・・・
まず、高野線の開業から僅か3ヶ月後に馬車鉄道がその上を跨いだ!!!とは考えられないので、
・当時終点だった上住吉(神ノ木)停留所は高野線東側の地上にあったのではないか???
(「マッサン」竹鶴政孝がウィスキーの研究をすることになる摂津酒造の北隣あたり???)
で、開業の2年後には上住吉(神ノ木)から下住吉(住吉)までの区間を延伸開業してるので・・・
・この間に高野線を跨ぐ工事をして上住吉(神ノ木)停留所も高架上西側(現在地)に移設した???
と推測したのですが、上住吉(神ノ木)停留所を延伸後に高野線東側から西側(現在地)に移設した
といったハナシは、ネット上では見当たりませんでした。
仮に最初から上町線が高野線を跨いでて終点の上住吉(神ノ木)停留所も現在地だったとしても、
・電車でも難所になってる急なスロープを果たして馬車で上下できたのだろうか???
はたまた、
・下住吉(住吉)まで上町台地を下る急なスロープも馬車で上下できたのだろうか???
とゆー疑問が残ります。
ちなみにウィキでは、
・上町線の改軌・電化・複線化工事が完成したのは1910年で開業は10月1日
となってますので、遅くともこの時点では上町線が高野線を跨いでいたのは間違いないでしょうし、
電化・複線化されて対面式のホームを持った神ノ木停留所が高架の西側に存在していたことも、
間違いないのでしょうが、この間、つまり1900年の馬車鉄道開業から1910年の電化複線化まで
10年の間で、いつ路面電車が鉄道を跨ぐようになったのか、神ノ木停留所は当初どこにあったのか・・・
そう、わたくし・・・
Q1 上町線が最初に高野線を跨いだのはいつだったのか???馬車時代か電車時代か???
Q2 当初の終点、上住吉(神ノ木)停留所はどこにあったのか???地上か高架上か???
とゆー疑問が数年来ずっと頭の中に残っています。(だからどーだとゆーこともないけど・・・
)
何せ路面電車が鉄道を跨ぐとゆー珍しい光景で、最近は撮り鉄の方々も多く来られてますので、
どなたか教えていただければと・・・
2021年1月追記です。
「阪堺電車物語」(長岡靖久著 論創社 2011年11月30日初版第一刷発行)によると、
本文には天王寺西門前から東天下茶屋まで馬車鉄道で開業したのが1900年9月20日で、
上住吉(神ノ木)までは1900年11月、下住吉(住吉)への延伸が1902年12月とありましたが、
各電停データでは、天王寺駅前から東天下茶屋までの開業は1900年9月20日で本文と同じ
なんですが、北畠から住吉までは全て1900年11月29日の開業となってました。
これはおそらく本文のほうが正しく、下住吉(住吉)の開業は1902年12月27日でしょう。
ちなみに住吉から住吉公園駅への延伸開業は1913年7月2日だそうです。
残念ながら上町線が高野線を跨いだ時期や上住吉(神ノ木)電停の開業当時の位置についての
記述はありませんでした。
ちなみにウィキによれば天王寺南詰(天王寺駅前)から天王寺西門前(当時は天王寺)への延伸は
1900年9月20日ではなく1900年11月29日から1902年12月27日までの間で、1921年10月21日に
その区間を大阪市電に譲渡したとなってましたが、はてさて・・・
同じくウィキには天王寺(西門前)から下住吉(住吉)間の馬車鉄道による旅客営業を廃止し、
改軌および電化・複線化工事に着手したのが1908年1月31日、電車の運転を開始したのが
前述のとおり1910年10月1日とありますから、少なくとも1902年12月27日から1908年1月31日
までは上住吉(神ノ木)~下住吉(住吉)間でも、単線の馬車鉄道が走ってたことになりますが、
1900年11月29日から南海高野線を跨いだ高架上に終点の上住吉(神ノ木)があったとしても、
それをわざわざ単線の馬車鉄道用から複線の電車用に作り直したのか???
それとも当初から改軌・電化・複線化を見越した現在の高架にしてたのか???
やはり謎は解けないままであります。
2022年11月追記です
路面電車(阪堺上町線)が鉄道(南海高野線)を跨ぐ神ノ木付近の画像を追加・・・


2024年2月追記です
Facebookで教えていただいたあくあさんのブログ記事「平面交差していた上町線と高野線」
により、長年の疑問がようやく解決しました!!!
やはりわたくしの推測どおり、当初は地上(熊野街道沿い摂津酒造の前あたり?)に馬車鉄道の
上住吉(神ノ木)があり、南から延伸してきた高野線と5年間ほどは平面交差していたのが、
上町線の電化複線化により現在のかたちになったんですね!!!
平面なら馬車鉄道での上町台地の上り下りも可能だったので、そのまま下住吉(住吉)まで
延伸したのかも・・・
時系列で簡単に整理しておくと・・・
・1900年9月3日
→高野線が(堺東)から北進してきて(汐見橋)まで開業
・1900年11月28日
→上町線が天王寺南詰(天王寺駅前)から高野線東側の地上にあった上住吉(神ノ木)まで
馬車鉄道で暫定開業
(高野線との平面交差に関する協議に多大の時間を要し
)
・1902年12月27日
→上町線が高野線との平面交差し上住吉(神ノ木)から下住吉(住吉)まで馬車鉄道で延伸開業
・1908年1月31日
→馬車鉄道を廃止し、改軌および電化・複線化(高架化も?)工事に着手
・1910年10月1日
→改軌および電化・複線化(高架化も?)が完成して路面電車として開業、現在に至る
つまり開業時(馬車鉄道)の上住吉(神ノ木)停留所は高野線東側の地上にあって、下住吉(住吉)まで
延伸した際には高野線と平面交差しており、その後の電化・複線化の際に立体交差になり、
(神ノ木)停留所も高野線西側の高架上に移ったとゆーことだったんですね・・・
ご教示ありがとうございました
阪堺電車の上町線に関する、わたくし懸案の謎???についてであります。

まずは・・・

「阪堺電車177号の追憶」山本巧次著 早川書房 2017年9月発行・・・
裏表紙・・・

ひょんなことから阪堺電車の上町線についてネットで調べてて、この小説を知ったのですが、
今回ようやく読むことができた次第。
(2022年1月追記です)
たまたま撮ったモ161号(帝塚山4丁目停留所付近にて)

ちなみに定期運用されている電車としては日本最古となった阪堺電気軌道のモ161型ですが、
実際に製造された車両は161号から176号までで、177号とゆー車両は存在しません。
(ただし、この小説が評判になり1日だけ177号に書き換えた同型車両がほんまに走ったようで、
阪堺はんも、なかなか粋なことをしはりますな・・・

例によって目次のみ・・・

小説作品なのでストーリーなんぞは紹介できませんが、昭和8年から平成29年まで、177号の
独白ではじまる各章が、その時代を反映した軽いミステリー仕立てになってて、各章の登場人物も
さりげに何人かが繋がっていたりと、とてもほっこりさせてくれる佳作・・・だったんですが・・・
何せ全編の舞台が阪堺電車の車中と沿線、しかも殆どが住吉交差から僅か数停留所の範囲内!!!
ええ、この辺りに長年住む者としては、沿線の情景描写がたまりませんでした。
車両や沿線はもちろん、時代も人物もストーリーも丁寧に描き込まれており、なじみのない方でも
充分に楽しめますが、身近な沿線住民からすれば、まさに珠玉の貴重な作品ですね。
わたくし作品では第三章つまり昭和34年ぐらいからしか実記憶がないのですが・・・
小学生の頃のテリトリーつーか遊びに行く範囲といえば、西は国道26号線まで、東は阿倍野筋
(当時は十三軒道路とか13号線とか呼んでましたね)まで、南はせいぜい細井川あたりまで、
北は塚西、姫松あたり(今で言う南港通り)まででしたから、まさにこの作品の舞台そのものですね。
たまに自転車で大和川まで行ったり長居公園まで行ったりするのは大冒険でしたし、上町線で
天王寺に出たり、南海で難波に出たりする際は、たいてい大人と一緒でした。
もちろん、その後の行動範囲は広がりましたが、天王寺に出る際は今でも上町線まで歩きますし、
自転車でふらふらしてても、必ず一度や二度は阪堺線・上町線の軌道を渡ったり並走したりします。
(ちなみに自転車で軌道を渡る際は直角に近い角度で渡らないと、必ずコケます。)
さらに息子たちが小さい頃は、せがまれてよく住吉交差まで行き交うチン電を見に行ってましたし、
数回の宿替えはありましたが、チン電はずっと身近な存在なのであります。
で、わたくしが小学生の頃の沿線風景は、大邸宅と商店と下町が混在してたものの、何となく
棲み分けてたような感じだったのが、中学生になる頃から大邸宅の跡地やそれまであった空き地に
一度に何十軒もの建売住宅ができたりして、古くからあった長屋以外にも小住宅や集合住宅が
一気に増えました。まさに高度成長期の真っ只中だったんですね。
当時の住吉大社はじめ神社やお寺の境内は荒れ放題、広大な邸宅の庭池跡も放置されたままで
探検したり秘密基地を作ったりの毎日、住吉公園や万代池公園で遊ぶよりずっと面白かったです。
また紀州街道・熊野街道・住吉街道などの沿道には、重厚な家並みも所々に残ってたのですが、
やはりバブル前後からでしょうか、特に表通りはすっかり様変わりしてしまいました。
ま、今は神社やお寺もきれいに整備され(秘密基地は作れなくなったけど)、街並みや道路も
明るくなって(探検する場所がなくなったけど)、住吉大社や粉浜商店街の外国人観光客も増え、
休日には史跡めぐりや撮り鉄のみなさんを数多く見かけますし、これはこれでよかったかと・・・
ただし住民は(わたくしも含め)高齢者が目立つようになりましたが・・・げほげほ

と、身近な存在のチン電と沿線の生活を、この作品であらためて振り返ることができました。
で、この阪堺電車に関する、わたくしの疑問つーのが・・・
上町線が高野線を跨いだのはいつなのか???であります!!!
ま、それが分かったからどーだ、つーこともないのですが・・・

とりあえずウィキの記述を時間軸で整理してみると・・・(カッコ内は現駅名・現停留所名)
・南海・高野線が(汐見橋)から(堺東)まで開業したのが1900年9月3日
・同線の住吉駅が(住吉東)駅に改名したのが同年9月11日
・上町線が天王寺南詰から上住吉(神ノ木)まで馬車鉄道で開業したのが1900年11月29日
・上住吉(神ノ木)から下住吉(住吉)まで馬車鉄道で延伸開業したのが1902年12月27日
つーことなんですが・・・
まず、高野線の開業から僅か3ヶ月後に馬車鉄道がその上を跨いだ!!!とは考えられないので、
・当時終点だった上住吉(神ノ木)停留所は高野線東側の地上にあったのではないか???
(「マッサン」竹鶴政孝がウィスキーの研究をすることになる摂津酒造の北隣あたり???)
で、開業の2年後には上住吉(神ノ木)から下住吉(住吉)までの区間を延伸開業してるので・・・
・この間に高野線を跨ぐ工事をして上住吉(神ノ木)停留所も高架上西側(現在地)に移設した???
と推測したのですが、上住吉(神ノ木)停留所を延伸後に高野線東側から西側(現在地)に移設した
といったハナシは、ネット上では見当たりませんでした。
仮に最初から上町線が高野線を跨いでて終点の上住吉(神ノ木)停留所も現在地だったとしても、
・電車でも難所になってる急なスロープを果たして馬車で上下できたのだろうか???
はたまた、
・下住吉(住吉)まで上町台地を下る急なスロープも馬車で上下できたのだろうか???
とゆー疑問が残ります。
ちなみにウィキでは、
・上町線の改軌・電化・複線化工事が完成したのは1910年で開業は10月1日
となってますので、遅くともこの時点では上町線が高野線を跨いでいたのは間違いないでしょうし、
電化・複線化されて対面式のホームを持った神ノ木停留所が高架の西側に存在していたことも、
間違いないのでしょうが、この間、つまり1900年の馬車鉄道開業から1910年の電化複線化まで
10年の間で、いつ路面電車が鉄道を跨ぐようになったのか、神ノ木停留所は当初どこにあったのか・・・
そう、わたくし・・・
Q1 上町線が最初に高野線を跨いだのはいつだったのか???馬車時代か電車時代か???
Q2 当初の終点、上住吉(神ノ木)停留所はどこにあったのか???地上か高架上か???
とゆー疑問が数年来ずっと頭の中に残っています。(だからどーだとゆーこともないけど・・・

何せ路面電車が鉄道を跨ぐとゆー珍しい光景で、最近は撮り鉄の方々も多く来られてますので、
どなたか教えていただければと・・・

2021年1月追記です。
「阪堺電車物語」(長岡靖久著 論創社 2011年11月30日初版第一刷発行)によると、
本文には天王寺西門前から東天下茶屋まで馬車鉄道で開業したのが1900年9月20日で、
上住吉(神ノ木)までは1900年11月、下住吉(住吉)への延伸が1902年12月とありましたが、
各電停データでは、天王寺駅前から東天下茶屋までの開業は1900年9月20日で本文と同じ
なんですが、北畠から住吉までは全て1900年11月29日の開業となってました。
これはおそらく本文のほうが正しく、下住吉(住吉)の開業は1902年12月27日でしょう。
ちなみに住吉から住吉公園駅への延伸開業は1913年7月2日だそうです。
残念ながら上町線が高野線を跨いだ時期や上住吉(神ノ木)電停の開業当時の位置についての
記述はありませんでした。
ちなみにウィキによれば天王寺南詰(天王寺駅前)から天王寺西門前(当時は天王寺)への延伸は
1900年9月20日ではなく1900年11月29日から1902年12月27日までの間で、1921年10月21日に
その区間を大阪市電に譲渡したとなってましたが、はてさて・・・
同じくウィキには天王寺(西門前)から下住吉(住吉)間の馬車鉄道による旅客営業を廃止し、
改軌および電化・複線化工事に着手したのが1908年1月31日、電車の運転を開始したのが
前述のとおり1910年10月1日とありますから、少なくとも1902年12月27日から1908年1月31日
までは上住吉(神ノ木)~下住吉(住吉)間でも、単線の馬車鉄道が走ってたことになりますが、
1900年11月29日から南海高野線を跨いだ高架上に終点の上住吉(神ノ木)があったとしても、
それをわざわざ単線の馬車鉄道用から複線の電車用に作り直したのか???
それとも当初から改軌・電化・複線化を見越した現在の高架にしてたのか???
やはり謎は解けないままであります。
2022年11月追記です
路面電車(阪堺上町線)が鉄道(南海高野線)を跨ぐ神ノ木付近の画像を追加・・・


2024年2月追記です
Facebookで教えていただいたあくあさんのブログ記事「平面交差していた上町線と高野線」
により、長年の疑問がようやく解決しました!!!
やはりわたくしの推測どおり、当初は地上(熊野街道沿い摂津酒造の前あたり?)に馬車鉄道の
上住吉(神ノ木)があり、南から延伸してきた高野線と5年間ほどは平面交差していたのが、
上町線の電化複線化により現在のかたちになったんですね!!!
平面なら馬車鉄道での上町台地の上り下りも可能だったので、そのまま下住吉(住吉)まで
延伸したのかも・・・
時系列で簡単に整理しておくと・・・
・1900年9月3日
→高野線が(堺東)から北進してきて(汐見橋)まで開業
・1900年11月28日
→上町線が天王寺南詰(天王寺駅前)から高野線東側の地上にあった上住吉(神ノ木)まで
馬車鉄道で暫定開業
(高野線との平面交差に関する協議に多大の時間を要し

・1902年12月27日
→上町線が高野線との平面交差し上住吉(神ノ木)から下住吉(住吉)まで馬車鉄道で延伸開業
・1908年1月31日
→馬車鉄道を廃止し、改軌および電化・複線化(高架化も?)工事に着手
・1910年10月1日
→改軌および電化・複線化(高架化も?)が完成して路面電車として開業、現在に至る
つまり開業時(馬車鉄道)の上住吉(神ノ木)停留所は高野線東側の地上にあって、下住吉(住吉)まで
延伸した際には高野線と平面交差しており、その後の電化・複線化の際に立体交差になり、
(神ノ木)停留所も高野線西側の高架上に移ったとゆーことだったんですね・・・
ご教示ありがとうございました

2019年05月14日
龍田古道・たたら製鉄と地滑りと・・・
日曜日に龍田古道のたたら製鉄跡や地滑り跡なんぞをふらふらしてきました。
龍田古道・・・諸説あるようですが難波津から京の都(飛鳥京や平城京)へ続く古道のひとつで、
一説によると日本書紀に「難波より京に至る大道を置く」とあるのは、この龍田古道だったとか・・・
で、古代から大和川(当時は龍田川)で一番の難所だった亀の瀬あたりは舟で上下することができず、
川沿いの陸路もいくつかあったものの、ここは有名な地滑り地帯、昔は山崩れによる川の氾濫や、
川沿い陸路の崩壊もさらに多かったはず・・・
いっぽう「龍田越え」といわれる峠道では砂鉄や鉄鉱石が採れて山頂付近は吹き上げる風も強く、
(ふいごが完成形になるまでの製鉄には風が重要)、渡来製鉄技術者の都へのルート上でもあり、
古代より製鉄で栄えた集落が点在し、沿道には古い寺社跡も多く残っている・・・
と、今回も案内してくれた奈良ソムリエ・ボランティアガイドの友人から説明を聴きながら・・・

朝10時にJR三郷駅を出発・・・







まずは三室山展望台へ・・・ひいひい
ま・・・

標高は僅か137mなんですが・・・

なかなかの眺めでした。ひいひい
位置関係はこんな感じ・・・(クリックすると拡大します。)

ご覧のとおり、地滑り地帯とはいえ大和川沿いの陸路や、北へ抜ける陸路もある中、なぜ峠越えの
険しいルートが近世まで続く交通・物流の大動脈だったのか・・・
やはり江戸時代に付け替えられる前の大和川沿いに並んでいた⑦~⑫の渡来系寺跡や
製鉄のルーツとされる④金山媛神社⑤金山彦神社が関係してそうですね・・・わくわく
で、


龍田神社本宮跡・・・


岩や地肌が赤茶けてますね・・・
現在は麓にある龍田大社は風の神でもあるし、やはり古代製鉄との関係は深いようです。
こちら、奈良ソムリエの友人が教えてくれた・・・


めずらしい「堺県」の石標。
ウィキペディアによると堺県は明治元年に和泉国の幕府領・旗本領を管轄するために設置され、
明治2年には河内国(河内県)、明治9年には大和国(奈良県)も編入して大きな県になったものの、
明治14年には大阪府に編入され廃止、さらに明治20年に奈良県が再設置されたとありますから、
この石標は明治9年から明治14年までの間に設置されたことになりますね。ふむふむ
そーいや、府庁山の「府」の石標、さらに古そうだけど、いつ設置したんだろ・・・
とか、ひいひい山道を歩いて・・・

次のピークが公園になってて・・・




ピークの大阪側に拡がっているのが雁多尾畑(カリンドウバタ)の集落・・・


けっこう大きな集落で、立派な門構えの家や・・・


立派なお寺もあるのですが、山頂付近なので農業や林業で栄えたとは考えられず、
やはり古代からの製鉄(と交易?)が繁栄の原点だったのは間違いない・・・のですが・・・
でも、それなら明治以降は奈良と大阪を結ぶ鉄道もでき、近代製鉄に変わったのですから、
言い方は悪いですが、もっと寂れててもいいはず・・・なのに、どこも立派なままでした。
それまでの富や交易の蓄積とかで今でも豊かに暮らしておられるのか、だとしたら便利な麓に
移ってるだろうし、ここでブドウ栽培など新しい産業に活路を見出したのか・・・
いつか住民の方に訊いてみたいものであります。
カリンドウバタとゆー不思議な地名といい、今でも山頂付近で(裕福に)暮らし続ける状況といい、
(たたら製鉄は「ふいご」送風システムが完成して以降、山頂から下りたとも言われてますので)
龍田古道とカリンドウバタでの製鉄に関する謎は、さらに謎を呼びつつ・・・
ま、とりあえずキーポイントとなる・・・




集落内にある「金山媛神社」へ・・・
ま、詳しくはこちら・・・

そう、全国最古の「鉄工の守護神」だったのでありますね・・・うむうむ
ちなみにこちらの本殿にあった正面の御神鏡・・・



最新式で色合いが変化し、やはり今でも裕福な集落であることが覗えますね。
と、中腹まで下りてくると・・・


「おおっ、中腹にも酸化鉄の塊が・・・」
「って、そこは池に藻が繁殖してるだけやろ・・・」
「でっ、でも、この鉄錆色は・・・」
「ま、確かに周辺の地層は砂鉄や鉄鉱石が多く、あちこちで鉄滓も出てるらしいけど・・・」
「そーいや地滑りの都度、鉄の鉱脈が表土に現れた、とも聞いたことがあるような・・・」
とか、わいわい言いながら・・・

もうひとつのキーポイント、金山彦神社に到着・・・



ええ、拝殿の奥には・・・

ぬこさんが鎮座されてましたが・・・
まずは略記から・・・

ここでは、鉄の需要が増した弥生時代後期から応神河内王朝まで製鉄が続けられた、なので
製鉄に不可欠な風と火が祀られている、とありますが、奈良側ピーク付近にあった龍田神社本宮や
大阪側ピーク付近にあった金山媛神社とセットで祀られているのは間違いないですね。
また、山の高いほうが「媛(ヒメ)」神社で、低いほうが「彦(ヒコ)」神社とゆーのも興味深いです。
ちなみに略記の横には、こんな説明板も・・・

さてさて、このような完成形の「たたら炉」になるまでは、どんな形で製鉄が行われていたのか、
はたまた、それはいつごろからなのか・・・
高師小僧を使った製鉄は縄文時代から、という説もあり、なにせ燃料になる木は豊富でしたから、
常に風が吹く山頂付近では、もっと原始的な方法で高温を生じさせてたかも知れません・・・
他国では燃料になる森林を伐採し尽くしてしまうと、製鉄どころか文明そのものが滅びましたが、
我が国は放置しておけば再び森に還る「木の国」ですから、小規模なら継続も可能だったはず。
よい風と深い森・・・「風の谷」と「もののけたち」・・・って、ここはジブリの世界だったのか!!!
と、妄想を膨らませながら神社横の東屋で大休止・・・


って、食べる前に撮ればいいものを・・・ばくばく

彦(ヒコ)神社が元は山上にあったとすると、そのすぐ下に媛(ヒメ)神社があったのか・・・
で、

大阪方面ではなく「峠」集落からJR堅上駅を目指します。ひいひい
それにしても立派な家が多いですねえ・・・
峠の集落でも立派な家が多く、


こちらは十字型の屋根を持つ家・・・

比較的新しい家も立派な造りです。
と、峠集落を下りていくと・・・

この辺りでは大和川右岸を走るJR線が見えてきて・・・
ようやく河内堅上駅・・・

・・・は通り過ぎて、今度は川沿いの龍田古道を遡上します。ひいひい


この辺りは川幅も狭く蛇行を繰り返すうえ、昔から有名な地滑り地帯で陸路も舟路もまさに難所でした。
こちらの鉄橋・・・


トラスが上ではなく下から橋を支えてます。やはり地滑り対策なんでしょうね・・・

明治以降の鉄道も、橋を架ければ落ちる、トンネルを掘れば崩落する、まさに地滑りとの戦い・・・
で、



現在も続く地滑り対策の現場・・・



縦横無数に掘られたトンネルで上の地層と下の地層の間に集まる地下水を排水してるとか。
膨大な年月と費用をかけた巨大プロジェクトだったんですね。ま、詳しくはネット検索で・・・
ちなみに排水トンネル掘削中に発見された旧国鉄トンネルの崩壊現場・・・

奈良ソムリエの友人の撮影で、平日10人以上で事前予約すれば見学できるそうです。
地下遺構の大好きなわたくし、ライト仲間と一度は行きたいと思っているのですが・・・
地名の由来となった亀石・・・

古い絵図によると、昔は上流側に首が出ていたそうです。
こちら、ちょうど橋の下あたり・・・



江戸時代に舟を通すため岩盤を掘削した跡でしょうか・・・
このあたりは川幅が狭まり瀬が続き「銚子の口滝の如し」といわれた難所だったようです。
江戸時代に入っても亀の瀬の上下の浜で下流側では大型の剣先船(河内舟・難波舟)に、上流側では
小型の魚梁船(大和舟)に、それぞれ荷物を積みかえていたそうですが、それまでは前述の峠道を
越えていた・・・という説もあるのですが、川沿いの陸路もあったことだし、やはり謎は多いです。
ま、詳しくはネット検索で・・・いろんな説があって、じつに面白いです。
せっかくなので亀の瀬にある・・・


龍王社にもお参りしました。


亀井宿は葛城二十八宿の二十八番目だったんですね・・・けっこう歩いてるけど知りませんでした。
と、さらに川沿いの古道を歩いて・・・




峠八幡神社へもお参り・・・ま、詳しくはネット検索で・・・

見事な地蔵さん

ええ、こちら・・・

「関の地蔵さん」として有名なのでありますね・・・

龍田の関は日本四関のひとつで、しかも「其の一」だったんですね。
万里の長城では東端の山海関が「天下第一関」、西端の嘉峪関が「天下第一雄関」ですから、
ここはヤマトの南端にあった第一関で「天下第一南関」とゆーところか・・・
ま、実際の関はもう少し西にあったとゆー説もある、と教えてもらいましたが・・・
ちなみに在原業平に「千早ふる 神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは」と詠われた
龍田川は、斑鳩町を流れる竜田川ではなく、こちら亀の瀬あたりの様子を表しているとも・・・
そーいや歌から感じるのは静かな小川より、当時も難所だった大激流のイメージですね。
と、歌つながりで最後に・・・



出発点の三郷駅近くに作られた磐瀬の杜の歌碑なんぞを見学し、ようやく駅まで戻ってきました。
峠越えと川沿いの龍田古道をぐるり一周したことになり、今回の所要時間は4時間、歩行距離は
ダッシュP18乗りの友人の万歩計によると12.7kmだったそうです。ひいひい
と、三郷駅から一駅だけJRに乗って王寺駅へ・・・って、大阪とは逆方向ではないか???
そう、三郷駅前にはお店がなく・・・


王将・王寺店へ・・・じゅるじゅる

って、最初の餃子を完食、一杯目の生ビールを完飲してからの画像でしゅが・・・
ま、その後は・・・


食べ切る前、飲み切る前に、いちおー撮れました・・・えらいぞ!!!
って、

唐揚げは食べ切ってからの画像やないか・・・
しかも・・・

野菜炒めは、わたくしが撮ってるうちにたちまち完食・・・がるるる
そう、この日は金山彦神社での早めのお握りだけだったし、30℃を超える夏並みの暑さだったし、
まあ、みなさん、よく食べること飲むこと・・・少しはトシも考えましょうね・・・と自戒を込めて・・・
龍田古道は今回が初めてでしたが、様々な謎が残ってて興味津々でした。
たたら製鉄をはじめ、そもそもの和鉄の起源など、やはり古代ロマンは面白いですね。
ボランティアガイドで忙しい中、詳しく案内してくれた奈良ソムリエのI西さん、ありがとうございました。
次回もよろしくねっ!!!
龍田古道・・・諸説あるようですが難波津から京の都(飛鳥京や平城京)へ続く古道のひとつで、
一説によると日本書紀に「難波より京に至る大道を置く」とあるのは、この龍田古道だったとか・・・
で、古代から大和川(当時は龍田川)で一番の難所だった亀の瀬あたりは舟で上下することができず、
川沿いの陸路もいくつかあったものの、ここは有名な地滑り地帯、昔は山崩れによる川の氾濫や、
川沿い陸路の崩壊もさらに多かったはず・・・
いっぽう「龍田越え」といわれる峠道では砂鉄や鉄鉱石が採れて山頂付近は吹き上げる風も強く、
(ふいごが完成形になるまでの製鉄には風が重要)、渡来製鉄技術者の都へのルート上でもあり、
古代より製鉄で栄えた集落が点在し、沿道には古い寺社跡も多く残っている・・・
と、今回も案内してくれた奈良ソムリエ・ボランティアガイドの友人から説明を聴きながら・・・

朝10時にJR三郷駅を出発・・・







まずは三室山展望台へ・・・ひいひい
ま・・・

標高は僅か137mなんですが・・・

なかなかの眺めでした。ひいひい
位置関係はこんな感じ・・・(クリックすると拡大します。)

ご覧のとおり、地滑り地帯とはいえ大和川沿いの陸路や、北へ抜ける陸路もある中、なぜ峠越えの
険しいルートが近世まで続く交通・物流の大動脈だったのか・・・
やはり江戸時代に付け替えられる前の大和川沿いに並んでいた⑦~⑫の渡来系寺跡や
製鉄のルーツとされる④金山媛神社⑤金山彦神社が関係してそうですね・・・わくわく
で、


龍田神社本宮跡・・・


岩や地肌が赤茶けてますね・・・
現在は麓にある龍田大社は風の神でもあるし、やはり古代製鉄との関係は深いようです。
こちら、奈良ソムリエの友人が教えてくれた・・・


めずらしい「堺県」の石標。
ウィキペディアによると堺県は明治元年に和泉国の幕府領・旗本領を管轄するために設置され、
明治2年には河内国(河内県)、明治9年には大和国(奈良県)も編入して大きな県になったものの、
明治14年には大阪府に編入され廃止、さらに明治20年に奈良県が再設置されたとありますから、
この石標は明治9年から明治14年までの間に設置されたことになりますね。ふむふむ
そーいや、府庁山の「府」の石標、さらに古そうだけど、いつ設置したんだろ・・・
とか、ひいひい山道を歩いて・・・

次のピークが公園になってて・・・




ピークの大阪側に拡がっているのが雁多尾畑(カリンドウバタ)の集落・・・


けっこう大きな集落で、立派な門構えの家や・・・


立派なお寺もあるのですが、山頂付近なので農業や林業で栄えたとは考えられず、
やはり古代からの製鉄(と交易?)が繁栄の原点だったのは間違いない・・・のですが・・・
でも、それなら明治以降は奈良と大阪を結ぶ鉄道もでき、近代製鉄に変わったのですから、
言い方は悪いですが、もっと寂れててもいいはず・・・なのに、どこも立派なままでした。
それまでの富や交易の蓄積とかで今でも豊かに暮らしておられるのか、だとしたら便利な麓に
移ってるだろうし、ここでブドウ栽培など新しい産業に活路を見出したのか・・・
いつか住民の方に訊いてみたいものであります。
カリンドウバタとゆー不思議な地名といい、今でも山頂付近で(裕福に)暮らし続ける状況といい、
(たたら製鉄は「ふいご」送風システムが完成して以降、山頂から下りたとも言われてますので)
龍田古道とカリンドウバタでの製鉄に関する謎は、さらに謎を呼びつつ・・・
ま、とりあえずキーポイントとなる・・・




集落内にある「金山媛神社」へ・・・
ま、詳しくはこちら・・・

そう、全国最古の「鉄工の守護神」だったのでありますね・・・うむうむ
ちなみにこちらの本殿にあった正面の御神鏡・・・



最新式で色合いが変化し、やはり今でも裕福な集落であることが覗えますね。
と、中腹まで下りてくると・・・


「おおっ、中腹にも酸化鉄の塊が・・・」
「って、そこは池に藻が繁殖してるだけやろ・・・」
「でっ、でも、この鉄錆色は・・・」
「ま、確かに周辺の地層は砂鉄や鉄鉱石が多く、あちこちで鉄滓も出てるらしいけど・・・」
「そーいや地滑りの都度、鉄の鉱脈が表土に現れた、とも聞いたことがあるような・・・」
とか、わいわい言いながら・・・

もうひとつのキーポイント、金山彦神社に到着・・・



ええ、拝殿の奥には・・・

ぬこさんが鎮座されてましたが・・・
まずは略記から・・・

ここでは、鉄の需要が増した弥生時代後期から応神河内王朝まで製鉄が続けられた、なので
製鉄に不可欠な風と火が祀られている、とありますが、奈良側ピーク付近にあった龍田神社本宮や
大阪側ピーク付近にあった金山媛神社とセットで祀られているのは間違いないですね。
また、山の高いほうが「媛(ヒメ)」神社で、低いほうが「彦(ヒコ)」神社とゆーのも興味深いです。
ちなみに略記の横には、こんな説明板も・・・

さてさて、このような完成形の「たたら炉」になるまでは、どんな形で製鉄が行われていたのか、
はたまた、それはいつごろからなのか・・・
高師小僧を使った製鉄は縄文時代から、という説もあり、なにせ燃料になる木は豊富でしたから、
常に風が吹く山頂付近では、もっと原始的な方法で高温を生じさせてたかも知れません・・・
他国では燃料になる森林を伐採し尽くしてしまうと、製鉄どころか文明そのものが滅びましたが、
我が国は放置しておけば再び森に還る「木の国」ですから、小規模なら継続も可能だったはず。
よい風と深い森・・・「風の谷」と「もののけたち」・・・って、ここはジブリの世界だったのか!!!
と、妄想を膨らませながら神社横の東屋で大休止・・・


って、食べる前に撮ればいいものを・・・ばくばく

彦(ヒコ)神社が元は山上にあったとすると、そのすぐ下に媛(ヒメ)神社があったのか・・・
で、

大阪方面ではなく「峠」集落からJR堅上駅を目指します。ひいひい
それにしても立派な家が多いですねえ・・・
峠の集落でも立派な家が多く、


こちらは十字型の屋根を持つ家・・・

比較的新しい家も立派な造りです。
と、峠集落を下りていくと・・・

この辺りでは大和川右岸を走るJR線が見えてきて・・・
ようやく河内堅上駅・・・

・・・は通り過ぎて、今度は川沿いの龍田古道を遡上します。ひいひい


この辺りは川幅も狭く蛇行を繰り返すうえ、昔から有名な地滑り地帯で陸路も舟路もまさに難所でした。
こちらの鉄橋・・・


トラスが上ではなく下から橋を支えてます。やはり地滑り対策なんでしょうね・・・

明治以降の鉄道も、橋を架ければ落ちる、トンネルを掘れば崩落する、まさに地滑りとの戦い・・・
で、



現在も続く地滑り対策の現場・・・



縦横無数に掘られたトンネルで上の地層と下の地層の間に集まる地下水を排水してるとか。
膨大な年月と費用をかけた巨大プロジェクトだったんですね。ま、詳しくはネット検索で・・・
ちなみに排水トンネル掘削中に発見された旧国鉄トンネルの崩壊現場・・・

奈良ソムリエの友人の撮影で、平日10人以上で事前予約すれば見学できるそうです。
地下遺構の大好きなわたくし、ライト仲間と一度は行きたいと思っているのですが・・・
地名の由来となった亀石・・・

古い絵図によると、昔は上流側に首が出ていたそうです。
こちら、ちょうど橋の下あたり・・・



江戸時代に舟を通すため岩盤を掘削した跡でしょうか・・・
このあたりは川幅が狭まり瀬が続き「銚子の口滝の如し」といわれた難所だったようです。
江戸時代に入っても亀の瀬の上下の浜で下流側では大型の剣先船(河内舟・難波舟)に、上流側では
小型の魚梁船(大和舟)に、それぞれ荷物を積みかえていたそうですが、それまでは前述の峠道を
越えていた・・・という説もあるのですが、川沿いの陸路もあったことだし、やはり謎は多いです。
ま、詳しくはネット検索で・・・いろんな説があって、じつに面白いです。
せっかくなので亀の瀬にある・・・


龍王社にもお参りしました。


亀井宿は葛城二十八宿の二十八番目だったんですね・・・けっこう歩いてるけど知りませんでした。
と、さらに川沿いの古道を歩いて・・・




峠八幡神社へもお参り・・・ま、詳しくはネット検索で・・・

見事な地蔵さん

ええ、こちら・・・

「関の地蔵さん」として有名なのでありますね・・・

龍田の関は日本四関のひとつで、しかも「其の一」だったんですね。
万里の長城では東端の山海関が「天下第一関」、西端の嘉峪関が「天下第一雄関」ですから、
ここはヤマトの南端にあった第一関で「天下第一南関」とゆーところか・・・

ま、実際の関はもう少し西にあったとゆー説もある、と教えてもらいましたが・・・
ちなみに在原業平に「千早ふる 神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは」と詠われた
龍田川は、斑鳩町を流れる竜田川ではなく、こちら亀の瀬あたりの様子を表しているとも・・・
そーいや歌から感じるのは静かな小川より、当時も難所だった大激流のイメージですね。
と、歌つながりで最後に・・・



出発点の三郷駅近くに作られた磐瀬の杜の歌碑なんぞを見学し、ようやく駅まで戻ってきました。
峠越えと川沿いの龍田古道をぐるり一周したことになり、今回の所要時間は4時間、歩行距離は
ダッシュP18乗りの友人の万歩計によると12.7kmだったそうです。ひいひい
と、三郷駅から一駅だけJRに乗って王寺駅へ・・・って、大阪とは逆方向ではないか???
そう、三郷駅前にはお店がなく・・・


王将・王寺店へ・・・じゅるじゅる

って、最初の餃子を完食、一杯目の生ビールを完飲してからの画像でしゅが・・・

ま、その後は・・・


食べ切る前、飲み切る前に、いちおー撮れました・・・えらいぞ!!!
って、

唐揚げは食べ切ってからの画像やないか・・・
しかも・・・

野菜炒めは、わたくしが撮ってるうちにたちまち完食・・・がるるる
そう、この日は金山彦神社での早めのお握りだけだったし、30℃を超える夏並みの暑さだったし、
まあ、みなさん、よく食べること飲むこと・・・少しはトシも考えましょうね・・・と自戒を込めて・・・

龍田古道は今回が初めてでしたが、様々な謎が残ってて興味津々でした。
たたら製鉄をはじめ、そもそもの和鉄の起源など、やはり古代ロマンは面白いですね。
ボランティアガイドで忙しい中、詳しく案内してくれた奈良ソムリエのI西さん、ありがとうございました。
次回もよろしくねっ!!!