映画
2026年01月16日
宮崎駿の「罪」と「祈り」メモ後半
ええ、前回記事からの続きであります


宮崎駿の「罪」と「祈り」~アニミズムで読み解くジブリ作品史~
・・・の読書メモの後半であります
後半もてきとーメモですが前半同様、勝手に作品番号を付けてます
さらに宮崎駿本人の言葉には「」を付けたつもりです
(以下も著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第三章より
⑬千と千尋の神隠し2001~現代の子供たちが危機の時代を生きていくために~
・宮崎作品の折り返し点は漫画版ナウシカの完結1994と、もののけ姫1997だった
⇒科学や資本主義や戦争や過ちも含んだ人類史も自然と考える高次のアニミズムへ
⇒次の本作はアニミズム=自然=母の系列が中心の抜けと自由自在さがある快楽的な作品
・主人公の千尋は現代的で功利的な両親に育てられた陰鬱で活力のない人物として現れる
⇒古くからの信仰を蔑ろにした跡のある森を破壊した新興住宅地に向かっている
「善も悪も存在する世界(世の中)に投げ込まれ修行し友愛と献身を学び生還する少女」
⇒薄汚れた現実に接触するリハビリをして生命の活力を取り戻すこと
・地球全体の環境問題を考えるのではなく身近なところで手を動かす方がいい
⇒宮崎自身が川の掃除やごみ拾いを日常的にするようになっていた
⇒汚れた世界の肯定へのリハビリ、潔癖症克服のための訓練のような映画
⇒社会では善悪や敵味方だけでなく清潔と汚濁も曖昧で、それを呑み込む歩き方を教える映画
「環境問題を含め、すべてのコントロールに失敗したのが20世紀の結論」
⇒それが見えてきた時代に何を子どもに語るのか
⇒「何よりも丈夫にして知的好奇心を持ち続けるようにすること」
⇒「具体的にはこの世界と噛み合うようにすること、そのための子ども時代」
・巨樹を見に行く1994で、
⇒一本の樹を中心にした映画を作りたいと書いていた
⇒千と千尋の油屋、ハウルの城はこの樹を翻案したものではないか
⇒対立するもの、異なるものが共存している
⇒共存させるプラットフォームとしての樹=油屋=ハウルの城
・前半の油屋(スタジオジブリ?)での性風俗やアニメーション産業を思わせる
乱痴気騒ぎはカオナシ(観客)への千尋の行動によって転調する
⇒特別な英雄ではない千尋のひたむきな愛⇒千尋とハクの愛も
⇒愛による救済という主題が極点に達するのが次作ハウルの動く城
・電車シーンの解釈
⇒欲望の象徴になったカオナシ(観客)を千尋が澄み切った森へ連れていくという解釈
⇒紅の豚で無数の飛行機が向かう先と同じ死後の世界へ行って癒され戻ってくるという解釈
⑭めいとこねこバス2002(短編)~ジブリ作品におけるネコの系譜~(略)
・魔女の宅急便のジジ、トトロのネコバス、耳をすませばのムーン、猫の恩返しの猫たち、
アリエッティのニーヤ、アーヤと魔女のトーマス・・・(略)
⇒ファンタジーや魔法の世界へ導く通路として共通している(略)
⑮ハウルの動く城2004~父の系列と母の系列の統合~
・千と千尋の反対の極に振れて「父の罪」に近づいた作品
⇒強調されるのが愛による救済という主題
・モノトーンとカラフルなどが移り変わる不安定さ
⇒ソフィー(愛)とハウル(戦争)の間で揺れ動く宮崎の振れ幅(原作にはなかった要素)
・ソフィーは死(草原の小さい家)による安息以外の救済方法を探ろうとする
⇒それが愛による救済
⇒獣ハウルも荒地の魔女もサリマンのスパイ犬も助け、案山子カブも受け入れる
⇒ソフィーの血縁家族に対比される非血縁家族に
⇒城=樹の受容性が登場人物ソフィーに移行していく
・愛と信頼、過去に遡ってまで闇を共有する覚悟による癒しが奇蹟を起こす
⇒筆者の初見では戦争などの重さにこの結末は受け入れにくかった
⇒だが母の系列と父の系列のジレンマの統合として観た場合に心に深く響いた
⇒父と母に分裂していた葛藤の後に母=樹が全てを呑み込み解決するという結末
⇒愛や優しさが愚考の連鎖を止め得るのではないかという期待と夢を信じようという
覚悟に辿り着く物語であるように感じられた
⑯崖の上のポニョ2008~祝福と肯定の実現~
・老いと波とあの世の話で父の影を振り切り母の方向に突き進んだ極み
⇒筆者は本作が宮崎駿の動画面での最高到達点、最高傑作のひとつと考えている
・鞆の浦も水俣湾の残響も描かれた海は宮崎のアニミズムが最も発揮された場面
⇒樹=油屋=ハウルの城に該当するのが海
⇒生も死も包み込むグランマンマーレ(観音様・神渡りとも)はアニミズム的存在
⇒(中年になったハウルのような)魔法使いフジモトは科学との折衷で生きている
・本作のテーマは祝福と肯定
⇒「5歳はまだ神に属している最後の年で、笑えば世界は祝福される」
⇒赤ん坊や幼児たちの元気や笑顔にカミ=アニミズムを見る
⇒「友人の娘がチョコチョコ歩いてきたら生まれてきたことを肯定せざるを得ない」
⇒「エライときに生まれてきた」と真顔で言うか「生まれてきてよかった」と言えるか
⇒「どんな状態になっても世界を肯定したいという気持ちがあるから映画を作る」
・唯一水没しない宗介の家では生と死の二項対立や境界も曖昧になっている
⇒水没した世界では様々な生物が溢れ老婆たちが走れるようになっている
⇒トンネルを抜けた先で水の中に入るのはあの世の表現
⇒水中の老人ホームの庭は漫画版ナウシカの「墓所の庭」と同じ空間
・本作の異界や悟りの境地は千尋が電車で辿り着いたような静的なものとは異なる
⇒もっと動的で災害から立ち直る人間の生命力、子どもの活力を信頼することからくる悟り
⇒最後は水の中=死後の世界から帰還し陸に戻るが、船やヘリコプターや飛行機が多くある
⇒これら科学の象徴も否定的ではなく人を助けるものとして肯定的に描かれている
・戦争や災害で大勢が死ぬことさえも肯定し祝福している?
⇒5歳の男の子が命が危険な海で遊んでいる
⇒無邪気で無垢な自然の象徴ポニョは津波で街を沈めてしまう
⇒災害まで含む自然を肯定しようと徹底的に開き直っているのが本作の凄み
⇒筆者は実際に東日本大震災後の物凄い生命力も感じたので、それを描いて励まして信じたい
という宮崎の気持ちは疑わないが、2024年の能登地震で壊滅した家が1年以上も放置されている
状況を見ているとジレンマに引き裂かれる思いがする
・人間なのに人間を辞めようとするフジモトと積極的に人間になろうとするポニョ
⇒フジモトは潔癖症でポニョは水道水も平気で食品添加物入りのハムも大好物
⇒フジモトが科学で作った「生命の水」をポニョが解き放ち大災害が起こる
⇒漫画版ナウシカ後半やもののけ姫で描いた科学で汚染された世界を肯定しようとする思想を
悲壮な覚悟もなく実現してしまっているのがポニョで、人間になろうとする点ではサンの逆
・5歳の宗介は崖の上に住んでいる真面目で律儀な男の子
⇒下の湾にいるポニョが会いに来ようとして津波が起こる
⇒宗介の父が乗ってる船の電飾、リサの車、無線やモールス信号による愛情⇒科学
⇒グランマンマーレの金色の光、ポニョの暴走⇒自然
⇒どちらも良いものとして描かれている
・ポニョはグランマンマーレ(海・自然)とフジモト(人間・科学)の子供
⇒しかも生命の水(化学物質?)が大きく影響している半魚人
⇒それで街を水没させ壊滅させた罪は問われないのだから父の罪のトラウマもない
⇒すべてを母であり海の化身であるグランマンマーレが包み込む至福⇒祝福と肯定
・本作公開から3年後2011年の東日本大震災の津波と原発事故による複合災害との葛藤
⇒すべてをアニミズム的に受容することは可能なのか
⇒それは汚染や深刻な物事を宗教や神話で容認し事態を悪化させることに繋がらないか
⇒アニメーションやファンタジーによるイメージの誤魔化しなのではないか
⇒「どう生きるか」を次世代に教えようとした宮崎にとって今まで描いてきたことは
⇒「自然災害は大きな悲劇だが必ず立ち直れる、だが原発事故は・・・」
⇒この葛藤が次作の風立ちぬに・・・
第4章より
⑰風立ちぬ2013~反復される墜落~
・飛行機を作る夢を叶え零戦の設計者となり戦争に加担し国を亡ぼすという陰惨な内容
⇒未知の領域に挑戦し続ける創造性を肯定した陽画ポニョに対する陰画が本作
⇒色彩やモチーフの設計からもそれが窺い知れる
⇒墜落と機関車のイメージが何度も反復され黄色い光の両義性も封印されている
・これらが東日本大震災による変化であることは明白
「今はファンタジーが嘘になるところにいる、ファンタジーは作れない」
⇒ポニョにおける躁的な楽観と肯定から鬱的な悲観と否定に一挙に振れたのが本作
⇒東日本大震災を思わせる関東大震災が描かれ画面は躍動せず静的で童心的アニメーションや
アニミズム的活力のあるキャラクターは控えめでハウルの路線に戻った
・活劇ではなく青年男性を主人公に、その職業と性愛を描くという新たなチャレンジ
⇒これまでの作品(ある人物の冒険に寄り添って物語がある)とは違う文法で構成されている
⇒なので理解されにくい
・ポニョとの間には現実からの手痛いしっぺ返しを受けた苦く大きな認識の変更がある
⇒渋谷陽一インタビューでもポニョについては自信満々だったが本作は不安で自信がなく
終始懐疑的だったのが印象的
「二郎の人物造形は世界にあまり関心を持ってない日本人、つまり自分の親父です」
⇒関東大震災に遭遇し生き延び、かつ第二次世界大戦をやり過ごした人間
⇒戦争に向かう昭和前期を良い時代だったといい、国のためより女房が大切という親父
・東日本大震災を経験した日本で当時の日本を生きた父たちをモチーフに宮崎アニミズムを
もう一度点検する内容であり、そこには宮崎が大学時代に嫌悪し反発し罪の意識を抱いた父を
理解し罪を受容しようとする心理的な動機があるだろう
⇒敬愛する堀田善衛の透明なニヒリズムと予定調和的な生き方やマルクス主義の放棄
⇒享楽的な父をモデルに生きることを楽しむことを学ぼうとした⇒父の罪との和解の試み
「正しいことはあるけど正しい人はいない」
⇒正しいときとそうでないときが次々と変わるのが人間
⇒ハウルやポニョでは主人公がぐねぐねと姿を変えることで表そうとしていたが、
本作では意味・倫理でぐねぐねと二重に引き裂かれ移り変わる人格が描かれる
・本作の関東大震災の絵コンテを描き終えた際に東日本大震災が起きた
⇒紅の豚と同じように内容を変化させざるを得なかった
「軍閥時代末期の愚かさと原発利益集団の愚かさはそっくりです」
⇒宮崎は2006年に吉野源三郎「君たちはどう生きるか」についての文章を書いており、
映画化したい構想の一部は「風立ちぬ」で実現している⇒なので両者は対の作品
「この本が書かれるまでの昭和の12年間の近代史を見ると、弾圧があり少年を民族主義で
煽り立て、軍閥政治が異様な速さで破局に向かって突き進んでいる時代でした」
⇒その時代をどう生きたかを探り、どう生きるかを提示する
・「君たちはどう生きるか」と「風立ちぬ」は「次の戦争と災害」に向けた「児童文学」的な
教育的意義を持つ映画だと理解する
⇒だが本作は軽井沢での恋愛物語⇒なぜ戦争や政治への強い批判がないのか
⇒ただ生きること、時代の事実を受容しようとする視線
⇒アニミズム的な創造性が零戦を設計し戦争に加担する事態に繋がってしまう事実
・トトロ以降の自己受容、ポニョでの罪悪感の払拭は本作で反対側の極である自己否定に
⇒オタクの庵野秀明を堀越二郎の声優にしたことにも批判と自嘲の匂いを感じる
⇒夢を追うことは素晴らしいけど、好きなことばっかりやってると・・・
・描くはずだった零戦による重慶爆撃を宮崎はなぜ描けなかったのか
⇒零戦の最初の任務のひとつがスペイン・ゲルニカ爆撃に続く最初期の都市無差別爆撃となる
重慶爆撃だった(その後に世界中で都市への無差別爆撃が行われるようになった)
⇒爆撃で人々が無残に殺された後で二郎が何を言っても共感を得るのは難しい(鈴木敏夫)
⇒加害を描けなかった葛藤には宮崎のトラウマだけでなく日本の観客の感性の問題も・・・
・堀辰雄の小説をあえてタイトルにした理由
⇒小説に似ているのは結核の恋人と軽井沢で過ごし戦時中に外界を遮断して暮らすことぐらい
⇒堀辰雄(の愛読者=星菫派=戦時中を軽井沢で過ごした者たち)への批判を意識したのでは
⇒現実から目を逸らし理想世界に耽溺して逃避するのは現代のオタク文化と共通する
⇒それを批判しているのか肯定しているのか・・・そんな複雑な時代を描いている
(宮崎は堀辰雄が戦時中に政治に無関心ではなかったことを重視し評価している)
⇒美と政治の二項対立も崩れており現実は何重にも汚染されているというビジョンでは
・堀田善衛「方丈記私記」のアニメ化について(略)
・「異界」の先の「あの世」へ⇒最後の一連のシークエンス
⇒二郎の声優をやった庵野秀明が菜穂子のセリフを「来て」から「生きて」に変えさせた
⇒「失敗も罪も引き受けて生き続けることこそが、あなたの到達した思想ではないか」と
⇒それはまさに宮崎が育成した次世代からの、彼への返歌であった・・・
第5章より
⑱君たちはどう生きるか2023~破局へ向かっていく時代への警報~
・冒頭で主人公は母のところに行こうとする衝動と母との別れで目が覚める
⇒この構造が作品全体で繰り返され、これが本作の主題であることを示す
・宮崎駿は過酷な「戦争と災害の時代」が訪れると確信し、そのようなファシズムの時代を
どう生きるかを子どもたちに教えるために「風立ちぬ」以降の映画を作っている
・本作の塔は千尋の油屋、ハウルの城、ポニョの海に続く樹の象徴で前作にはなかったもの
・主人公は弱虫で噓つきで卑怯者の少年
⇒戦争の現実にも向き合えず、母の死と父の再婚も受容できず、内にこもっていく
⇒宮崎の自己投影であると同時に現代の少年を意識した人物造形
⇒この人物造形から、この時代を「どう生きるか」を伝えることが本作の狙いと推測する
・少年は母から送られた小説「君たちはどう生きるか」を読んで何かが変わる
⇒母を失った少年は地下ファンタジー世界を冒険し母と会い戻ってくる
⇒死=母=海=アニミズム=アニメというシンボル連合が提示される
⇒そこに一時的に退避もするが剣でアオサギに立ち向かう⇒機能せず父が代わりに
⇒戦う代わりに現実に戻って友達を作ると宣言する
・本作も戦争中なのに悲惨な戦争を描かない⇒語り落としている
⇒真に重い残酷さや残虐さを描かないのが宮崎作品の限界であり子どもたちへ使命感からの必然
・本作で提示しようとしているファンタジーは死生観
⇒千と千尋以降は子どもと老人を両立させた異界・死生観の表現だった
・お墓のシーンのモチーフとなったアルノルト・ベックリンの「死の島」(略)
・アニメ化を検討していた漱石の「草枕」の世界は俗世を離れた境地
⇒本作はその境地を否定し矛盾と葛藤と軋轢と対立の中で生きる覚悟を示すもの
⇒それは前半の絵画部分ではなく後半のアニメーション部分であり動画
・生と死の輪廻転生、あの世を美しく描くことの功罪(略)
・宮崎作品における救済のあり方の変化
⇒1993年のNHKスペシャル「チベット死者の書」を何度も繰り返し観たと言っている
(時期的にはもののけ姫、漫画版ナウシカに影響を与えたと推測される)
⇒自分に影響を与えたあらゆる死者たちと繋がっており輪廻転生することが救済となる死生観
⇒次世代に希望を託す血族を超えた儒教的仏教的な生命観
・大叔父から眞人が継承しなかったこと
⇒新海誠、庵野秀明、細田守が宮崎駿から継承しなかったこと
・非を認め、卑怯な嘘を止め、争うのではなく友達を作り、人の心を穏やかにすることで
調和を取り戻す可能性が、本作の結論で提示される
⇒現実に立ち向かう勇気によってこそ、その可能性が開かれる
⇒現実に向き合い続けて心が闇に染まればアニメーションやファンタジーの世界で心を自由に
遊ばせて浄化させて解放させて癒してから、また立ち向かったら良いということだろう
・映画やアニメーションを通じて次世代へのメッセージを伝えようとする思いやりが、
世代を超えた感謝や継承というアニミズムや素朴な神道の考え方に観客を開く
⇒その気づきによって世界への愛着を回復して引き受ける覚悟につながる構造
・生命の肯定、創造性の活性化を促すことが宮崎駿アニメーションの果たしてきた機能なのだ
あとがきより
・アニメーションやエンターテインメントで楽しく次世代を教育しようという宮崎駿の善意と
それが伝わらない絶望や達観に本書が注目したのは、自分の子育てと教務の経験から
・「だんだん忘れるさ、それでもいいんだ」(アオサギの言葉)
⇒子どもや学生にしてきたことはいずれ忘れ去られるだろう
⇒だが宮崎作品の情景のように無意識の底に断片的にでも残るかも・・・
⇒それでいいのかもしれない・・・
・・・・・
宮崎駿作品についてはこれまで何度も紹介してますが解説本は2冊、それぞれ異なった観点で
本書もアニミズムの発展史という全く異なる観点から読み解こうとするものでしたが、
現時点での全作品をアニミズムの発展とブレ幅から説明してるのが新鮮でした
前半記事の冒頭にも書いたように、いくつもの楽しみ方の「階層」があるのが宮崎作品で、
さらに何層にも隠された寓意や象徴や想いをどう読み解くかという解釈の楽しみもあります
なので、それぞれの解説本によって解釈が異なるのも当然、大好きな「紅の豚」についても、
この本のアニミズムからの解釈は新鮮でしたが、わたくしとは全く異なる解釈でした
そう、このような新たな驚きが何度も味わえるのが、まさに宮崎駿の作品なんですね
興味を持たれた方は本書をご熟読くださいね
最後に巻末にあった「主要参考文献」もメモしておきます


読んだ本や当サイトで紹介した本もけっこうありますが知らない本もいっぱい・・・
この中から未読を探すのも楽しみです


宮崎駿の「罪」と「祈り」~アニミズムで読み解くジブリ作品史~
・・・の読書メモの後半であります
後半もてきとーメモですが前半同様、勝手に作品番号を付けてます
さらに宮崎駿本人の言葉には「」を付けたつもりです
(以下も著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
第三章より
⑬千と千尋の神隠し2001~現代の子供たちが危機の時代を生きていくために~
・宮崎作品の折り返し点は漫画版ナウシカの完結1994と、もののけ姫1997だった
⇒科学や資本主義や戦争や過ちも含んだ人類史も自然と考える高次のアニミズムへ
⇒次の本作はアニミズム=自然=母の系列が中心の抜けと自由自在さがある快楽的な作品
・主人公の千尋は現代的で功利的な両親に育てられた陰鬱で活力のない人物として現れる
⇒古くからの信仰を蔑ろにした跡のある森を破壊した新興住宅地に向かっている
「善も悪も存在する世界(世の中)に投げ込まれ修行し友愛と献身を学び生還する少女」
⇒薄汚れた現実に接触するリハビリをして生命の活力を取り戻すこと
・地球全体の環境問題を考えるのではなく身近なところで手を動かす方がいい
⇒宮崎自身が川の掃除やごみ拾いを日常的にするようになっていた
⇒汚れた世界の肯定へのリハビリ、潔癖症克服のための訓練のような映画
⇒社会では善悪や敵味方だけでなく清潔と汚濁も曖昧で、それを呑み込む歩き方を教える映画
「環境問題を含め、すべてのコントロールに失敗したのが20世紀の結論」
⇒それが見えてきた時代に何を子どもに語るのか
⇒「何よりも丈夫にして知的好奇心を持ち続けるようにすること」
⇒「具体的にはこの世界と噛み合うようにすること、そのための子ども時代」
・巨樹を見に行く1994で、
⇒一本の樹を中心にした映画を作りたいと書いていた
⇒千と千尋の油屋、ハウルの城はこの樹を翻案したものではないか
⇒対立するもの、異なるものが共存している
⇒共存させるプラットフォームとしての樹=油屋=ハウルの城
・前半の油屋(スタジオジブリ?)での性風俗やアニメーション産業を思わせる
乱痴気騒ぎはカオナシ(観客)への千尋の行動によって転調する
⇒特別な英雄ではない千尋のひたむきな愛⇒千尋とハクの愛も
⇒愛による救済という主題が極点に達するのが次作ハウルの動く城
・電車シーンの解釈
⇒欲望の象徴になったカオナシ(観客)を千尋が澄み切った森へ連れていくという解釈
⇒紅の豚で無数の飛行機が向かう先と同じ死後の世界へ行って癒され戻ってくるという解釈
⑭めいとこねこバス2002(短編)~ジブリ作品におけるネコの系譜~(略)
・魔女の宅急便のジジ、トトロのネコバス、耳をすませばのムーン、猫の恩返しの猫たち、
アリエッティのニーヤ、アーヤと魔女のトーマス・・・(略)
⇒ファンタジーや魔法の世界へ導く通路として共通している(略)
⑮ハウルの動く城2004~父の系列と母の系列の統合~
・千と千尋の反対の極に振れて「父の罪」に近づいた作品
⇒強調されるのが愛による救済という主題
・モノトーンとカラフルなどが移り変わる不安定さ
⇒ソフィー(愛)とハウル(戦争)の間で揺れ動く宮崎の振れ幅(原作にはなかった要素)
・ソフィーは死(草原の小さい家)による安息以外の救済方法を探ろうとする
⇒それが愛による救済
⇒獣ハウルも荒地の魔女もサリマンのスパイ犬も助け、案山子カブも受け入れる
⇒ソフィーの血縁家族に対比される非血縁家族に
⇒城=樹の受容性が登場人物ソフィーに移行していく
・愛と信頼、過去に遡ってまで闇を共有する覚悟による癒しが奇蹟を起こす
⇒筆者の初見では戦争などの重さにこの結末は受け入れにくかった
⇒だが母の系列と父の系列のジレンマの統合として観た場合に心に深く響いた
⇒父と母に分裂していた葛藤の後に母=樹が全てを呑み込み解決するという結末
⇒愛や優しさが愚考の連鎖を止め得るのではないかという期待と夢を信じようという
覚悟に辿り着く物語であるように感じられた
⑯崖の上のポニョ2008~祝福と肯定の実現~
・老いと波とあの世の話で父の影を振り切り母の方向に突き進んだ極み
⇒筆者は本作が宮崎駿の動画面での最高到達点、最高傑作のひとつと考えている
・鞆の浦も水俣湾の残響も描かれた海は宮崎のアニミズムが最も発揮された場面
⇒樹=油屋=ハウルの城に該当するのが海
⇒生も死も包み込むグランマンマーレ(観音様・神渡りとも)はアニミズム的存在
⇒(中年になったハウルのような)魔法使いフジモトは科学との折衷で生きている
・本作のテーマは祝福と肯定
⇒「5歳はまだ神に属している最後の年で、笑えば世界は祝福される」
⇒赤ん坊や幼児たちの元気や笑顔にカミ=アニミズムを見る
⇒「友人の娘がチョコチョコ歩いてきたら生まれてきたことを肯定せざるを得ない」
⇒「エライときに生まれてきた」と真顔で言うか「生まれてきてよかった」と言えるか
⇒「どんな状態になっても世界を肯定したいという気持ちがあるから映画を作る」
・唯一水没しない宗介の家では生と死の二項対立や境界も曖昧になっている
⇒水没した世界では様々な生物が溢れ老婆たちが走れるようになっている
⇒トンネルを抜けた先で水の中に入るのはあの世の表現
⇒水中の老人ホームの庭は漫画版ナウシカの「墓所の庭」と同じ空間
・本作の異界や悟りの境地は千尋が電車で辿り着いたような静的なものとは異なる
⇒もっと動的で災害から立ち直る人間の生命力、子どもの活力を信頼することからくる悟り
⇒最後は水の中=死後の世界から帰還し陸に戻るが、船やヘリコプターや飛行機が多くある
⇒これら科学の象徴も否定的ではなく人を助けるものとして肯定的に描かれている
・戦争や災害で大勢が死ぬことさえも肯定し祝福している?
⇒5歳の男の子が命が危険な海で遊んでいる
⇒無邪気で無垢な自然の象徴ポニョは津波で街を沈めてしまう
⇒災害まで含む自然を肯定しようと徹底的に開き直っているのが本作の凄み
⇒筆者は実際に東日本大震災後の物凄い生命力も感じたので、それを描いて励まして信じたい
という宮崎の気持ちは疑わないが、2024年の能登地震で壊滅した家が1年以上も放置されている
状況を見ているとジレンマに引き裂かれる思いがする
・人間なのに人間を辞めようとするフジモトと積極的に人間になろうとするポニョ
⇒フジモトは潔癖症でポニョは水道水も平気で食品添加物入りのハムも大好物
⇒フジモトが科学で作った「生命の水」をポニョが解き放ち大災害が起こる
⇒漫画版ナウシカ後半やもののけ姫で描いた科学で汚染された世界を肯定しようとする思想を
悲壮な覚悟もなく実現してしまっているのがポニョで、人間になろうとする点ではサンの逆
・5歳の宗介は崖の上に住んでいる真面目で律儀な男の子
⇒下の湾にいるポニョが会いに来ようとして津波が起こる
⇒宗介の父が乗ってる船の電飾、リサの車、無線やモールス信号による愛情⇒科学
⇒グランマンマーレの金色の光、ポニョの暴走⇒自然
⇒どちらも良いものとして描かれている
・ポニョはグランマンマーレ(海・自然)とフジモト(人間・科学)の子供
⇒しかも生命の水(化学物質?)が大きく影響している半魚人
⇒それで街を水没させ壊滅させた罪は問われないのだから父の罪のトラウマもない
⇒すべてを母であり海の化身であるグランマンマーレが包み込む至福⇒祝福と肯定
・本作公開から3年後2011年の東日本大震災の津波と原発事故による複合災害との葛藤
⇒すべてをアニミズム的に受容することは可能なのか
⇒それは汚染や深刻な物事を宗教や神話で容認し事態を悪化させることに繋がらないか
⇒アニメーションやファンタジーによるイメージの誤魔化しなのではないか
⇒「どう生きるか」を次世代に教えようとした宮崎にとって今まで描いてきたことは
⇒「自然災害は大きな悲劇だが必ず立ち直れる、だが原発事故は・・・」
⇒この葛藤が次作の風立ちぬに・・・
第4章より
⑰風立ちぬ2013~反復される墜落~
・飛行機を作る夢を叶え零戦の設計者となり戦争に加担し国を亡ぼすという陰惨な内容
⇒未知の領域に挑戦し続ける創造性を肯定した陽画ポニョに対する陰画が本作
⇒色彩やモチーフの設計からもそれが窺い知れる
⇒墜落と機関車のイメージが何度も反復され黄色い光の両義性も封印されている
・これらが東日本大震災による変化であることは明白
「今はファンタジーが嘘になるところにいる、ファンタジーは作れない」
⇒ポニョにおける躁的な楽観と肯定から鬱的な悲観と否定に一挙に振れたのが本作
⇒東日本大震災を思わせる関東大震災が描かれ画面は躍動せず静的で童心的アニメーションや
アニミズム的活力のあるキャラクターは控えめでハウルの路線に戻った
・活劇ではなく青年男性を主人公に、その職業と性愛を描くという新たなチャレンジ
⇒これまでの作品(ある人物の冒険に寄り添って物語がある)とは違う文法で構成されている
⇒なので理解されにくい
・ポニョとの間には現実からの手痛いしっぺ返しを受けた苦く大きな認識の変更がある
⇒渋谷陽一インタビューでもポニョについては自信満々だったが本作は不安で自信がなく
終始懐疑的だったのが印象的
「二郎の人物造形は世界にあまり関心を持ってない日本人、つまり自分の親父です」
⇒関東大震災に遭遇し生き延び、かつ第二次世界大戦をやり過ごした人間
⇒戦争に向かう昭和前期を良い時代だったといい、国のためより女房が大切という親父
・東日本大震災を経験した日本で当時の日本を生きた父たちをモチーフに宮崎アニミズムを
もう一度点検する内容であり、そこには宮崎が大学時代に嫌悪し反発し罪の意識を抱いた父を
理解し罪を受容しようとする心理的な動機があるだろう
⇒敬愛する堀田善衛の透明なニヒリズムと予定調和的な生き方やマルクス主義の放棄
⇒享楽的な父をモデルに生きることを楽しむことを学ぼうとした⇒父の罪との和解の試み
「正しいことはあるけど正しい人はいない」
⇒正しいときとそうでないときが次々と変わるのが人間
⇒ハウルやポニョでは主人公がぐねぐねと姿を変えることで表そうとしていたが、
本作では意味・倫理でぐねぐねと二重に引き裂かれ移り変わる人格が描かれる
・本作の関東大震災の絵コンテを描き終えた際に東日本大震災が起きた
⇒紅の豚と同じように内容を変化させざるを得なかった
「軍閥時代末期の愚かさと原発利益集団の愚かさはそっくりです」
⇒宮崎は2006年に吉野源三郎「君たちはどう生きるか」についての文章を書いており、
映画化したい構想の一部は「風立ちぬ」で実現している⇒なので両者は対の作品
「この本が書かれるまでの昭和の12年間の近代史を見ると、弾圧があり少年を民族主義で
煽り立て、軍閥政治が異様な速さで破局に向かって突き進んでいる時代でした」
⇒その時代をどう生きたかを探り、どう生きるかを提示する
・「君たちはどう生きるか」と「風立ちぬ」は「次の戦争と災害」に向けた「児童文学」的な
教育的意義を持つ映画だと理解する
⇒だが本作は軽井沢での恋愛物語⇒なぜ戦争や政治への強い批判がないのか
⇒ただ生きること、時代の事実を受容しようとする視線
⇒アニミズム的な創造性が零戦を設計し戦争に加担する事態に繋がってしまう事実
・トトロ以降の自己受容、ポニョでの罪悪感の払拭は本作で反対側の極である自己否定に
⇒オタクの庵野秀明を堀越二郎の声優にしたことにも批判と自嘲の匂いを感じる
⇒夢を追うことは素晴らしいけど、好きなことばっかりやってると・・・
・描くはずだった零戦による重慶爆撃を宮崎はなぜ描けなかったのか
⇒零戦の最初の任務のひとつがスペイン・ゲルニカ爆撃に続く最初期の都市無差別爆撃となる
重慶爆撃だった(その後に世界中で都市への無差別爆撃が行われるようになった)
⇒爆撃で人々が無残に殺された後で二郎が何を言っても共感を得るのは難しい(鈴木敏夫)
⇒加害を描けなかった葛藤には宮崎のトラウマだけでなく日本の観客の感性の問題も・・・
・堀辰雄の小説をあえてタイトルにした理由
⇒小説に似ているのは結核の恋人と軽井沢で過ごし戦時中に外界を遮断して暮らすことぐらい
⇒堀辰雄(の愛読者=星菫派=戦時中を軽井沢で過ごした者たち)への批判を意識したのでは
⇒現実から目を逸らし理想世界に耽溺して逃避するのは現代のオタク文化と共通する
⇒それを批判しているのか肯定しているのか・・・そんな複雑な時代を描いている
(宮崎は堀辰雄が戦時中に政治に無関心ではなかったことを重視し評価している)
⇒美と政治の二項対立も崩れており現実は何重にも汚染されているというビジョンでは
・堀田善衛「方丈記私記」のアニメ化について(略)
・「異界」の先の「あの世」へ⇒最後の一連のシークエンス
⇒二郎の声優をやった庵野秀明が菜穂子のセリフを「来て」から「生きて」に変えさせた
⇒「失敗も罪も引き受けて生き続けることこそが、あなたの到達した思想ではないか」と
⇒それはまさに宮崎が育成した次世代からの、彼への返歌であった・・・
第5章より
⑱君たちはどう生きるか2023~破局へ向かっていく時代への警報~
・冒頭で主人公は母のところに行こうとする衝動と母との別れで目が覚める
⇒この構造が作品全体で繰り返され、これが本作の主題であることを示す
・宮崎駿は過酷な「戦争と災害の時代」が訪れると確信し、そのようなファシズムの時代を
どう生きるかを子どもたちに教えるために「風立ちぬ」以降の映画を作っている
・本作の塔は千尋の油屋、ハウルの城、ポニョの海に続く樹の象徴で前作にはなかったもの
・主人公は弱虫で噓つきで卑怯者の少年
⇒戦争の現実にも向き合えず、母の死と父の再婚も受容できず、内にこもっていく
⇒宮崎の自己投影であると同時に現代の少年を意識した人物造形
⇒この人物造形から、この時代を「どう生きるか」を伝えることが本作の狙いと推測する
・少年は母から送られた小説「君たちはどう生きるか」を読んで何かが変わる
⇒母を失った少年は地下ファンタジー世界を冒険し母と会い戻ってくる
⇒死=母=海=アニミズム=アニメというシンボル連合が提示される
⇒そこに一時的に退避もするが剣でアオサギに立ち向かう⇒機能せず父が代わりに
⇒戦う代わりに現実に戻って友達を作ると宣言する
・本作も戦争中なのに悲惨な戦争を描かない⇒語り落としている
⇒真に重い残酷さや残虐さを描かないのが宮崎作品の限界であり子どもたちへ使命感からの必然
・本作で提示しようとしているファンタジーは死生観
⇒千と千尋以降は子どもと老人を両立させた異界・死生観の表現だった
・お墓のシーンのモチーフとなったアルノルト・ベックリンの「死の島」(略)
・アニメ化を検討していた漱石の「草枕」の世界は俗世を離れた境地
⇒本作はその境地を否定し矛盾と葛藤と軋轢と対立の中で生きる覚悟を示すもの
⇒それは前半の絵画部分ではなく後半のアニメーション部分であり動画
・生と死の輪廻転生、あの世を美しく描くことの功罪(略)
・宮崎作品における救済のあり方の変化
⇒1993年のNHKスペシャル「チベット死者の書」を何度も繰り返し観たと言っている
(時期的にはもののけ姫、漫画版ナウシカに影響を与えたと推測される)
⇒自分に影響を与えたあらゆる死者たちと繋がっており輪廻転生することが救済となる死生観
⇒次世代に希望を託す血族を超えた儒教的仏教的な生命観
・大叔父から眞人が継承しなかったこと
⇒新海誠、庵野秀明、細田守が宮崎駿から継承しなかったこと
・非を認め、卑怯な嘘を止め、争うのではなく友達を作り、人の心を穏やかにすることで
調和を取り戻す可能性が、本作の結論で提示される
⇒現実に立ち向かう勇気によってこそ、その可能性が開かれる
⇒現実に向き合い続けて心が闇に染まればアニメーションやファンタジーの世界で心を自由に
遊ばせて浄化させて解放させて癒してから、また立ち向かったら良いということだろう
・映画やアニメーションを通じて次世代へのメッセージを伝えようとする思いやりが、
世代を超えた感謝や継承というアニミズムや素朴な神道の考え方に観客を開く
⇒その気づきによって世界への愛着を回復して引き受ける覚悟につながる構造
・生命の肯定、創造性の活性化を促すことが宮崎駿アニメーションの果たしてきた機能なのだ
あとがきより
・アニメーションやエンターテインメントで楽しく次世代を教育しようという宮崎駿の善意と
それが伝わらない絶望や達観に本書が注目したのは、自分の子育てと教務の経験から
・「だんだん忘れるさ、それでもいいんだ」(アオサギの言葉)
⇒子どもや学生にしてきたことはいずれ忘れ去られるだろう
⇒だが宮崎作品の情景のように無意識の底に断片的にでも残るかも・・・
⇒それでいいのかもしれない・・・
・・・・・
宮崎駿作品についてはこれまで何度も紹介してますが解説本は2冊、それぞれ異なった観点で
本書もアニミズムの発展史という全く異なる観点から読み解こうとするものでしたが、
現時点での全作品をアニミズムの発展とブレ幅から説明してるのが新鮮でした
前半記事の冒頭にも書いたように、いくつもの楽しみ方の「階層」があるのが宮崎作品で、
さらに何層にも隠された寓意や象徴や想いをどう読み解くかという解釈の楽しみもあります
なので、それぞれの解説本によって解釈が異なるのも当然、大好きな「紅の豚」についても、
この本のアニミズムからの解釈は新鮮でしたが、わたくしとは全く異なる解釈でした
そう、このような新たな驚きが何度も味わえるのが、まさに宮崎駿の作品なんですね

興味を持たれた方は本書をご熟読くださいね
最後に巻末にあった「主要参考文献」もメモしておきます


読んだ本や当サイトで紹介した本もけっこうありますが知らない本もいっぱい・・・
この中から未読を探すのも楽しみです

2026年01月14日
宮崎駿の「罪」と「祈り」メモ前半
とーとつですが・・・

宮崎駿の「罪」と「祈り」~アニミズムで読み解くジブリ作品史~
・・・読書メモの前半であります
(長いメモなので前半と後半に分けました)
奥付

2025年6月30日の発行ですから「君たちはどう生きるか」公開後の著作になり、
おそらく現時点でも全ての宮崎駿作品を前提とした最新の論評でしょう
著者紹介がなかったので、ご存知ない方はこちら(ウィキ)をご覧くださいね
著者は筒井康隆作品に関する論文で博士号を取得されてるんですね
目次

まえがきより
・本書では宮崎駿の科学、戦争、資本主義などが複雑に結びついた主題系を「父の系列」とする
⇒彼のアニミズムはこの系列における罪との関係の中に存在している浄化であり希望
・宮崎作品で母はアニミズム的、民俗的、神秘的、精神的な救いと結びつけられる傾向がある
⇒そこには解放感、自由さ、救済感、祝福感がある⇒これを「母の系列」とする
⇒多くの観客に愛されているのは「母の系列」の性質を強くしている作品群
(トトロ、魔女の宅急便、千と千尋、ポニョ、君たちはどう生きるか・・・)
・本書では「宮崎駿のアニミズム」を「父の系列」と、その罪悪感や絶望感からの救済や
解放を志向するベクトルとしての「母の系列=アニミズム」の相克として描く
⇒その本格化は漫画版「ナウシカ」完結後だが、「ラピュタ」ぐらいからアニミズム=自然が善く、
人工=科学が悪いという二項対立を排し、どちらにもどちらの面もあるという二面性を複雑に
織り込むように変化してきている
⇒その対立と葛藤のドラマを本書では詳述していく
・「宮崎駿のアニミズム」の発展史として作品群を貫く思想を見ようとし、アニミズムを
「父の罪」との交互作用において読み解く作家論
⇒「君たちはどう生きるか」という最新長編を踏まえた一貫した視座での作家理解
・子供向きアニメーションにどのような寓意や象徴、想いが込められているのか
⇒きちんと知ると驚くことになる
⇒本書でその驚きと感動を伝えることができれば・・・
・・・・・
ええ、確かに作品に込められた寓意や象徴、想いを知ることの驚きと感動がありました
以前も書きましたが宮崎作品には何階層もの楽しみ方があるのが特徴ですね
以下もてきとーメモですが脳内整理のため勝手に作品番号を付けました
さらに宮崎駿本人の言葉には「」を付けたつもりです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば記事を非公開設定にします)
第1章 科学と自然
①未来少年コナン1978~コナンに託した生命力~
・作り手の心理で物語が作られ緻密なハリウッド作品と比較すれば作り方もアニミズム的
・文明崩壊後に自然が回復した場所だからこそ生まれた野生児がコナン
⇒コナン自体に野生・自然が宿っており、それは日本的な自然の回復力アニミズムの価値観
・戦後の逆境から立ち直る力、資本主義と科学の物質文明を再点検する外部の存在
⇒それが初期作品では少女ではなく少年に託されている
・インダストリアの否定⇒教条主義、全体主義、独裁現実のソビエトとの決別
・ラナもシータもクラリスも過去を背負わされた暗く陰りのあるヒロイン
⇒そこに活き活きと動くルパンやコナンたちが現れ、彼女たちを変え、浄化する物語が
初期作品では繰り返される
⇒よく言われるロリコンではなく少年も少女も宮崎の自己投影ではないか
⇒この両性具有性も繰り返される
②ルパン三世カリオストロの城1979
~学生運動的な活力を体現するキャラクターとしてのルパン~
・70年安保を境に「シラケ世代」になったルパンの性格を宮崎と高畑は払拭したかった
・カリオストロ家にもルパンにも峰不二子にも宮崎自身にも光と影の二面性がある
・シーズン2第145話「死の翼アルバトロス」のエロティシズムとラディカリズム
(以後は抑制され純粋な想いと信頼が強調されるが動画や主題の官能性の中に潜在する?)
・シーズン2第155話(最終話)「さらば愛しきルパンよ」の科学と贖罪という主題
(軍需によるリッチな生活への贖罪⇒共産主義へ⇒その弾圧や虐殺を知った衝撃と幻滅と後悔)
③風の谷のナウシカ1984~冷戦・全面戦争の寓話~
・様々な現代社会に対する寓話
⇒自然と暮らす風の谷が科学強国トルメキアに支配され巨神兵の復活に従事させられる
⇒アメリカの「アトムズ・フォー・ピース」を受けた日本の原子力政策の寓話とも
⇒「ナウシカの戦争モデルはロシア人だけで2千万人が死んだ独ソ戦」
・ナウシカは科学と自然の両方の要素を持っており最初は暗い影が少なくコナンに近い存在
⇒原作では大量破壊兵器の罪を背負いそれを食い止めようとする暗く儚げなラステルから
巨神兵の秘石を託され、その運命が変わる⇒ここから作品は動き出す
⇒クシャナは科学を戦争に利用しようとしている⇒どちらも両性具有的な存在
⇒ラステルの兄アスベルはコナンやルパンのような生命力=アニミズムの象徴ではない
⇒アニミズムはナウシカと蟲によって描かれ、その凶暴な側面も剝き出しになる
・ナウシカは罪を背負い贖罪しようとする少女とも男勝りに権力や科学を使う女性とも違う
⇒純粋に共感し助けようとする⇒蟲への愛
⇒「ナウシカはアニミズムに支配されている」
⇒ホルス・コナン・ルパンの少年的アニミズムから母性アニミズムに変化した?
⇒「ナウシカを作るきっかけは水俣湾が水銀で汚染され数年後に魚と牡蠣が戻ってきたこと」
・水俣病、核兵器、独ソ戦、冷戦・・・この困難な世界の寓話として機能する作品であり、
それらの悲劇を克服する方向の精神性を求めた祈りの作品でもある
⇒日本的なアニミズムに可能性を見いだすのは本人が言う通り民族主義的かも
⇒資本主義や科学を投げ捨て、自然と共存していたかつての日本の心を取り戻せば、
公害も戦争も解決するのか?
⇒この葛藤を含みながら宮崎作品は思想的に変遷していく・・・
④天空の城ラピュタ1986~科学と自然の二項対立の否定~
・落下が本作のモチーフであり、科学の二面性こそが本作の主題
⇒パズーの生命力はコナンやルパンほどではなく、無邪気さや楽天性を捨て、
科学の深刻な問題を理解し、シータとともに命を懸けて贖罪するように変化する
⇒活力アニミズムに近いのはドーラたちだが彼らも自然と科学の混ざった造形
・ドーラのモデルは宮崎の実母でありアニミズム的活力と結びつく
⇒慈悲深く受け入れ育てる想像の「母」とは異なる宮崎の母との個人的な結びつき
・パズーの村もラピュタも科学と自然が入り混じった状態で存在し続けるラスト
⇒科学・戦争・資本主義を象徴する父と、自然・土着・霊性を象徴する母の遺伝子と文化を
受け継いだ当然の帰結
⇒混ざり合いの肯定は自分自身を受容することに近い
・ラピュタに近づくと嵐の中にパズーの父の幻が現れる
⇒後期作品で中心的に描かれる、あの世・異界・死者という主題系の萌芽がここにある
第2章 受容と育成
⑤となりのトトロ1988~抱きとめてくれる自然=カミによる「救済」~
・代表作だが、かなりの異色作
⇒父の系列(科学・資本主義・戦争・罪)が徹底的に排除され、母の系列(自然・霊性・土着・受容)が
全開になっている
⇒宮崎の振れ幅のひとつの極で父の系列の問題からの精神的アジュールと言っていい作品
・トトロはオバケと宮崎は言ってるが、これはアニミズム的な自然信仰の「カミ」
⇒無理に頑張っていたサツキに必要なのはゆっくり休むこと
⇒雨の夜にメイを背負った孤独な場面にトトロが現れ、傘に雨が落ちることすら喜びに
⇒母がわりに頑張ってるサツキは宮崎であり少女に自己投影する傾向がここでも続いている
⇒「このままでは鬱屈し不良少女になってしまうから感情を爆発させてあげた」
・「トトロが存在すること」だけでサツキとメイは救われている
⇒日常で抱きとめてくれる自然=カミが存在することが救済なのだと、認識が移行した
⇒しかしトトロ(自然=カミ)も荒ぶれば王蟲にも台風にもなる
(トトロの廻すコマや電線を駆けるネコバスなど科学とのハイブリッドもある)
・日本と日本人を罪の意識から嫌っていた宮崎が日本に向き合った作品で、
⇒少年の自分に「こういう日本だったら好きになるのでは」と提示するつもりで作った作品
・「国家や民族を超えた単位で日本を眺める切り口が欲しかった」⇒縄文時代の研究へ
⇒「そうじゃないと僕の遭遇してきた日本は惨めでみすぼらしいものでしたから」
⇒「サツキとメイの父のモデルは藤森栄一」(縄文農耕論を立証しようとしていた)
⇒「それと母親が何度も聞かせてくれた山梨の山村の日常」
⇒「それらで日本の歴史が嫌だった自分の何かがわかった」
⇒縄文的なアニミズムの感覚⇒その象徴がトトロ
⇒戦争への国家神道と自然信仰アニミズムの分離が可能になったのかも
・縄文と照葉樹林(面白かったけど当サイトのおなじみ分野なので略)
・諏訪と宮崎駿と藤森栄一と中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」の関係(同じく略)
⇒諏訪明神(タケミナカタ神)、蒲池明弘「火山と断層から見えた神社のはじまり」、
小海町出身の新海誠「すずめの戸締り」、中央構造線と糸静構造線が交わる諏訪上社前宮・・・
⇒科学と自然の二項対立の破壊、前衛知識人の指導より民衆の生活そのものにある価値観へ
⑥柳川掘割物語1987~民衆たちによる新しい文明への希望~
・年代は逆になるが前述の民衆への評価と大きく関係する
⇒本作を作った3つの理由(高畑の文章より)
1昔から日本人が続けていた自然を破壊しないような循環型の付き合い
⇒「昔に戻ろう」ではなく柔軟性のある新技術と工夫で都市河川を復活させる
2行政と市民の連帯
⇒市民と一緒に水路を再生した柳川市職員・広松伝に高畑が出会って感動した
⇒新しい住民運動は行政への不信がベースだが柳川では行政と市民が共闘して計画を覆し、
新しい計画を立案して実行できてしまった⇒連帯とその事実に高畑は希望を感じた
3活き活きとした子どもたち
⇒その人懐こさにも驚いた
⇒子どもたちが個室化し社会や自然や現実から(自分たちが提供している)アニメーションに
逃げ込む傾向に歯止めをかけるような仕事をしたかった
・本作は宮崎のその後の思索や作品にも大きく影響していると推測する
⇒川の神だったことを忘れクライマックスで蘇るハク、ごみ拾いなど地域活動への参加、
その重要性や現代に活かす方法という方向にシフトしていくきっかけになったのでは?
⑦魔女の宅急便1989~工業と都市生活の受容~
・トトロ以降、日常や労働や自分を受容するという主題系が宮崎に浮上する
⇒その受容には資本主義や科学までも含まれ、その対立と葛藤、二面性に引き裂かれながら
進むドラマが「もののけ姫」までの宮崎
・トトロと同じ日常生活であり父の系列は薄く、キキが女性たちに助けられる物語
⇒この女性たちがトトロや自然が果たしてきた母として機能する
・時代の変化とその受容も本作の隠れた主題
⇒トトロ的な村を離れて田舎から都市へ⇒空間的・時間的な移動
⇒本作のアニミズム活力はキキの魔法や元気だが都会で萎えていくことが主題のひとつ
・トンボは科学の側に近いが人力で飛ぼうとしている(宮崎の科学の受容ライン?)
⇒二人の関係は田舎と都会、過去と未来、魔法と科学の複雑な関係の寓話
・画家のウルスラが本作が才能についての寓話であることを開示する
⇒宮崎は田舎から出てきた専門学校生などを想定しキキを造形しており、
(ある程度は絵が描ける(魔法が使える)という才能だけで都会に出てきた若者たちへの)
先輩絵描きとしてのメッセージをウルスラに託している
・飛行船は墜落するがテレビで多くの人がキキを見守り応援し評価する
⇒テレビというテクノロジーが多くの人たちを繋いでいる
⇒テクノロジーも含め多くの人たちが見守っている、というのが本作での救済ではないか
・最後にトンボは完成した人力飛行機で、魔法で飛ぶキキと二人で空を飛んでいる
⇒魔法(自然・アニミズム・古いもの)と科学(都会・人工・新しいもの)の和解
⇒ラピュタ・ネコバス系列の主題系がここでも続いている
⑧紅の豚1992~抱きとめてくれる「救済」としての「あの世」~
・赤い豚=共産主義者かつ資本家というアイロニカルなタイトル
⇒この時期の宮崎駿の思想の反映
⇒疲れた中年が次世代を育成し救済を見いだそうとする(作品の内容も作り方も)
・トトロで幼少期、魔女で思春期と新人の頃、本作では自身の年代に近い中年男性を描き、
それを受容しようとする試みがなされたのだと考えてよい
⇒結論として前二作のような「受容の物語」は本作では展開できなかった
⇒疑似ユートピアでバカ騒ぎするポルコの暗い影と重さが強い印象を与える結果
⇒罪の主題系が色濃く復活しているが直接に向き合うことはなく贖罪と救済の物語も不発
・疑似ユートピアで一時的な救済と解放を得る、そのことを受容しようと試みたが、
それは不可能だと直視せざるを得なかったのが本作ではないか
⇒これは当時の「戦争や国際政治に背を向け疑似ユートピアに閉じこもって良いのか」という
石黒昇「メガゾーン23」や押井守「機動警察パトレイバー2」などで繰り返された問いへの
宮崎なりの取り組みなのだろう
・本作、ハウル、風立ちぬは男性が主人公で一般評価が分かれる作品
⇒父側の主題で描けば重苦しい罪や絶望の重力が作動する
⇒逆に母側の主題では爽快に飛翔し受容や解放感が表現される
⇒その両方の緊張関係こそが宮崎作品
・本作で最も印象的なのがポルコが「あの世」を見るシーン
⇒真っ青な「清浄・救済」の中に無数の死者たちが向かい、ポルコは行くことができない
⇒彼を優しく抱きとめてくれるのは「あの世」なのだが、地上の責任のため戻ってくる
⇒「千と千尋」以降「あの世・異界」を中心の主題にしていくが、その折り返し点が本作
・民族主義・民衆への失望
⇒トトロ以降、日本のアニミズムや民衆に期待し信頼しようとし、そこに救済を求めていた
⇒ところが1991年にユーゴスラビアで紛争が起こり民族主義を民衆が支持した
⇒冷戦終結⇒社会主義の否定⇒民族同士の虐殺・民族浄化へ
⇒これは異質なものが理解し合い戦争を止める「ナウシカ」のビジョンとは正反対だった
⇒つくづく人間は複雑で愚かと思い知り、その答えとして本作を描いた
⇒宮崎はこれ以降、自他の愚かさを受容していく(努力をする)ようになる
(その受容はかならずしも肯定ではないという不思議な捻じれを本作以降は孕む)
・日本だけでなく人類全体の愚かさの連鎖が続くこと自体への受容の試みの本格的な展開は
漫画版「ナウシカ」で行われることになる・・・
⑨平成狸合戦ぽんぽこ1994~現代への敗北と受容~
・高畑作品だが「次世代・変化の受容」というこの時期の宮崎の主題系にとって重要な作品
⇒古いものや自然を守ろうとして敗北し、現代的な生活や開発や資本主義を受け入れて
生きざるを得ないこと、それを苦々しく受容しようとする物語
・狸の化学(ばけがく)は高畑アニメーション⇒消費されるエンターテインメントに過ぎない
⇒ジブリに対する高畑のアイロニーでありニヒリズムで高畑の受容の物語
・この後に高畑は「となりの山田くん」や「かぐや姫」などの方向へ、宮崎は逆にアイロニーや
シニシズムを拒否し、積極的に生きる者、現状などを受容する努力の方向へ向かう
⑩耳をすませば1995
~(カントリーロードではなく)コンクリートロードの肯定~
・監督は近藤喜文だが力の入れようから宮崎作品と考えていい
・ぽんぽこ狸の後にニュータウンに移り住んできた者たちの映画
(オープニングも似たカットで作品の連続性を感じさせる)
・少年はバイオリン作り、少女は創作に活力を発揮する
⇒図書館やアンティークなど様々な文化が自然に代わって少年少女を励ます
⇒自然ではなく人間の創造性にアニミズム的な活力や純粋さ=清浄さを見出すことで、
科学・近代・開発・資本主義を受容=肯定しようとする努力
・「もののけ姫と本作は同じ基盤で本作で触れなかった部分がもののけ姫の中にある」
⑪漫画版「風の谷のナウシカ」1982~1994
漫画版の要点は
・腐海は世界の汚染を浄化しており腐海の奥こそが「青き清浄の地」と呼ばれること
・ナウシカが擬人的な巨神兵の「母」になること
・科学技術が眠っている「墓所」が存在すること
・腐海や蟲たちが科学技術によって作られたものであることを知ること
・腐海の外の人類を含む動植物は浄化された世界では生きられないこと
⇒カントリーロード=トトロ的世界=浄化された世界
⇒コンクリートロード=ニュータウン的な現代社会=汚染された世界のメタファ
⇒(現代の)新しい人間たちは浄化された世界では生きられない
⇒ナウシカは悩み、苦しみや悲しみや死も受け入れ汚濁と共に生きていくことを選ぶ
⇒現に生きている「次世代」をナウシカ=宮崎は選ぶのである
・ナウシカと母(略)
・人類史的悲劇の受容
⇒トトロや魔女の宅急便での自己受容は戦争や資本主義や科学の問題を否認したところに存在した
⇒紅の豚はそれを否認しようと努力するが成功しない物語
⇒漫画版ナウシカはそのような愚考すら肯定し受容しようとする心理的な努力
⇒歴史へのペシミズムをどう乗り越えるか⇒そこにこそ宮崎のアニミズムがある
⇒人類の愚考も含めた生命のあり方そのものを受容し信じようとする宮崎アニミズム
・母のニヒリズム(略)
手塚治虫のニヒリズム、ぽんぽこの高畑のニヒリズム・シニシズム、変節への共感・・・
・後に宮崎は「安っぽいニヒリズム」と「生命根源への問いに発している深いニヒリズム」を
分けて述べるが宮崎アニミズムは後者で漫画版ナウシカで到達し、もののけ姫で全面展開する
⑫もののけ姫1997~善悪と二項対立を超えて~
・ナウシカ1984のリメイク的な側面があり漫画版ナウシカ1994の主題系が展開された作品
⇒ナウシカ=サンとクシャナ=エボシ御前の対立が主軸の物語だが違いもある
⇒ナウシカ1984での二項対立や理想といった逃げ道がなくなっている
⇒その怒りと憎悪のコントロールをしたのがアシタカ⇒水俣病の加害者と被害者と緒方正人
・登場人物は貴族・侍・農民ではなく蝦夷・白拍子・ハンセン病患者
⇒網野善彦史観であり黒澤明作品「七人の侍」への異議申し立て
・漫画版ナウシカの結末部で得られた認識の延長線上にある作品
⇒サンにもエボシ御前にも過酷な過去と現状があり、どちらの陣営も一枚岩ではない
・冷戦崩壊後のユーゴスラビアの憎悪の応酬の果ての大破壊
⇒自分をコントロールしなければならないという子どもたちへのメッセージ
・人類の矛盾と葛藤と拮抗を肯定せざるを得ないという達観と諦念の境地
⇒それがこの時期の宮崎アニミズム
⇒伊勢的な清浄を求める神道や、穢れや殺生を嫌う仏教とは異なる、諏訪的な信仰の影響
⇒愚かな人類や生命を丸ごと受容するような境地のアニミズム
・映画の結末で木々や神々や動物はいなくなる
⇒かつての信仰や文化を失い近代化した状況の隠喩
⇒だが一匹のコダマが残り新しい植物の芽が生える
⇒縄文の自然ではなく人工的に再生した関東近郊の自然⇒それを受容し癒される宮崎
⇒宮崎が「耳をすませば」と「もののけ姫」は対になる作品と言ってるのはそういうこと
・「サンは森で私はタタラ場で暮らそう、共に生きよう」
⇒矛盾や葛藤をそのままにしておくことが本作の落としどころ
⇒全面的な受容や融合ではなく殲滅し合うことなく異質性を保ちながら共存していこうとする
・理想も完璧な正も、排除すれば解決する悪も、存在しない世界で生きることを肯定すべき
⇒だからコントロールし理解し共感し許さなければならない
⇒これが21世紀をどう生きるかに対する宮崎の答え
「もう告発は済んだのです、後は日常生活の中で自分が何をするかを考える時です」
「ただの批判では何も生まれてこないから新しい感覚を作り出すことを考えるべきと思ってます」
・・・・・
以下、第3章以降のメモは次回記事に続きます

宮崎駿の「罪」と「祈り」~アニミズムで読み解くジブリ作品史~
・・・読書メモの前半であります
(長いメモなので前半と後半に分けました)
奥付

2025年6月30日の発行ですから「君たちはどう生きるか」公開後の著作になり、
おそらく現時点でも全ての宮崎駿作品を前提とした最新の論評でしょう
著者紹介がなかったので、ご存知ない方はこちら(ウィキ)をご覧くださいね
著者は筒井康隆作品に関する論文で博士号を取得されてるんですね
目次

まえがきより
・本書では宮崎駿の科学、戦争、資本主義などが複雑に結びついた主題系を「父の系列」とする
⇒彼のアニミズムはこの系列における罪との関係の中に存在している浄化であり希望
・宮崎作品で母はアニミズム的、民俗的、神秘的、精神的な救いと結びつけられる傾向がある
⇒そこには解放感、自由さ、救済感、祝福感がある⇒これを「母の系列」とする
⇒多くの観客に愛されているのは「母の系列」の性質を強くしている作品群
(トトロ、魔女の宅急便、千と千尋、ポニョ、君たちはどう生きるか・・・)
・本書では「宮崎駿のアニミズム」を「父の系列」と、その罪悪感や絶望感からの救済や
解放を志向するベクトルとしての「母の系列=アニミズム」の相克として描く
⇒その本格化は漫画版「ナウシカ」完結後だが、「ラピュタ」ぐらいからアニミズム=自然が善く、
人工=科学が悪いという二項対立を排し、どちらにもどちらの面もあるという二面性を複雑に
織り込むように変化してきている
⇒その対立と葛藤のドラマを本書では詳述していく
・「宮崎駿のアニミズム」の発展史として作品群を貫く思想を見ようとし、アニミズムを
「父の罪」との交互作用において読み解く作家論
⇒「君たちはどう生きるか」という最新長編を踏まえた一貫した視座での作家理解
・子供向きアニメーションにどのような寓意や象徴、想いが込められているのか
⇒きちんと知ると驚くことになる
⇒本書でその驚きと感動を伝えることができれば・・・
・・・・・
ええ、確かに作品に込められた寓意や象徴、想いを知ることの驚きと感動がありました
以前も書きましたが宮崎作品には何階層もの楽しみ方があるのが特徴ですね
以下もてきとーメモですが脳内整理のため勝手に作品番号を付けました
さらに宮崎駿本人の言葉には「」を付けたつもりです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば記事を非公開設定にします)
第1章 科学と自然
①未来少年コナン1978~コナンに託した生命力~
・作り手の心理で物語が作られ緻密なハリウッド作品と比較すれば作り方もアニミズム的
・文明崩壊後に自然が回復した場所だからこそ生まれた野生児がコナン
⇒コナン自体に野生・自然が宿っており、それは日本的な自然の回復力アニミズムの価値観
・戦後の逆境から立ち直る力、資本主義と科学の物質文明を再点検する外部の存在
⇒それが初期作品では少女ではなく少年に託されている
・インダストリアの否定⇒教条主義、全体主義、独裁現実のソビエトとの決別
・ラナもシータもクラリスも過去を背負わされた暗く陰りのあるヒロイン
⇒そこに活き活きと動くルパンやコナンたちが現れ、彼女たちを変え、浄化する物語が
初期作品では繰り返される
⇒よく言われるロリコンではなく少年も少女も宮崎の自己投影ではないか
⇒この両性具有性も繰り返される
②ルパン三世カリオストロの城1979
~学生運動的な活力を体現するキャラクターとしてのルパン~
・70年安保を境に「シラケ世代」になったルパンの性格を宮崎と高畑は払拭したかった
・カリオストロ家にもルパンにも峰不二子にも宮崎自身にも光と影の二面性がある
・シーズン2第145話「死の翼アルバトロス」のエロティシズムとラディカリズム
(以後は抑制され純粋な想いと信頼が強調されるが動画や主題の官能性の中に潜在する?)
・シーズン2第155話(最終話)「さらば愛しきルパンよ」の科学と贖罪という主題
(軍需によるリッチな生活への贖罪⇒共産主義へ⇒その弾圧や虐殺を知った衝撃と幻滅と後悔)
③風の谷のナウシカ1984~冷戦・全面戦争の寓話~
・様々な現代社会に対する寓話
⇒自然と暮らす風の谷が科学強国トルメキアに支配され巨神兵の復活に従事させられる
⇒アメリカの「アトムズ・フォー・ピース」を受けた日本の原子力政策の寓話とも
⇒「ナウシカの戦争モデルはロシア人だけで2千万人が死んだ独ソ戦」
・ナウシカは科学と自然の両方の要素を持っており最初は暗い影が少なくコナンに近い存在
⇒原作では大量破壊兵器の罪を背負いそれを食い止めようとする暗く儚げなラステルから
巨神兵の秘石を託され、その運命が変わる⇒ここから作品は動き出す
⇒クシャナは科学を戦争に利用しようとしている⇒どちらも両性具有的な存在
⇒ラステルの兄アスベルはコナンやルパンのような生命力=アニミズムの象徴ではない
⇒アニミズムはナウシカと蟲によって描かれ、その凶暴な側面も剝き出しになる
・ナウシカは罪を背負い贖罪しようとする少女とも男勝りに権力や科学を使う女性とも違う
⇒純粋に共感し助けようとする⇒蟲への愛
⇒「ナウシカはアニミズムに支配されている」
⇒ホルス・コナン・ルパンの少年的アニミズムから母性アニミズムに変化した?
⇒「ナウシカを作るきっかけは水俣湾が水銀で汚染され数年後に魚と牡蠣が戻ってきたこと」
・水俣病、核兵器、独ソ戦、冷戦・・・この困難な世界の寓話として機能する作品であり、
それらの悲劇を克服する方向の精神性を求めた祈りの作品でもある
⇒日本的なアニミズムに可能性を見いだすのは本人が言う通り民族主義的かも
⇒資本主義や科学を投げ捨て、自然と共存していたかつての日本の心を取り戻せば、
公害も戦争も解決するのか?
⇒この葛藤を含みながら宮崎作品は思想的に変遷していく・・・
④天空の城ラピュタ1986~科学と自然の二項対立の否定~
・落下が本作のモチーフであり、科学の二面性こそが本作の主題
⇒パズーの生命力はコナンやルパンほどではなく、無邪気さや楽天性を捨て、
科学の深刻な問題を理解し、シータとともに命を懸けて贖罪するように変化する
⇒活力アニミズムに近いのはドーラたちだが彼らも自然と科学の混ざった造形
・ドーラのモデルは宮崎の実母でありアニミズム的活力と結びつく
⇒慈悲深く受け入れ育てる想像の「母」とは異なる宮崎の母との個人的な結びつき
・パズーの村もラピュタも科学と自然が入り混じった状態で存在し続けるラスト
⇒科学・戦争・資本主義を象徴する父と、自然・土着・霊性を象徴する母の遺伝子と文化を
受け継いだ当然の帰結
⇒混ざり合いの肯定は自分自身を受容することに近い
・ラピュタに近づくと嵐の中にパズーの父の幻が現れる
⇒後期作品で中心的に描かれる、あの世・異界・死者という主題系の萌芽がここにある
第2章 受容と育成
⑤となりのトトロ1988~抱きとめてくれる自然=カミによる「救済」~
・代表作だが、かなりの異色作
⇒父の系列(科学・資本主義・戦争・罪)が徹底的に排除され、母の系列(自然・霊性・土着・受容)が
全開になっている
⇒宮崎の振れ幅のひとつの極で父の系列の問題からの精神的アジュールと言っていい作品
・トトロはオバケと宮崎は言ってるが、これはアニミズム的な自然信仰の「カミ」
⇒無理に頑張っていたサツキに必要なのはゆっくり休むこと
⇒雨の夜にメイを背負った孤独な場面にトトロが現れ、傘に雨が落ちることすら喜びに
⇒母がわりに頑張ってるサツキは宮崎であり少女に自己投影する傾向がここでも続いている
⇒「このままでは鬱屈し不良少女になってしまうから感情を爆発させてあげた」
・「トトロが存在すること」だけでサツキとメイは救われている
⇒日常で抱きとめてくれる自然=カミが存在することが救済なのだと、認識が移行した
⇒しかしトトロ(自然=カミ)も荒ぶれば王蟲にも台風にもなる
(トトロの廻すコマや電線を駆けるネコバスなど科学とのハイブリッドもある)
・日本と日本人を罪の意識から嫌っていた宮崎が日本に向き合った作品で、
⇒少年の自分に「こういう日本だったら好きになるのでは」と提示するつもりで作った作品
・「国家や民族を超えた単位で日本を眺める切り口が欲しかった」⇒縄文時代の研究へ
⇒「そうじゃないと僕の遭遇してきた日本は惨めでみすぼらしいものでしたから」
⇒「サツキとメイの父のモデルは藤森栄一」(縄文農耕論を立証しようとしていた)
⇒「それと母親が何度も聞かせてくれた山梨の山村の日常」
⇒「それらで日本の歴史が嫌だった自分の何かがわかった」
⇒縄文的なアニミズムの感覚⇒その象徴がトトロ
⇒戦争への国家神道と自然信仰アニミズムの分離が可能になったのかも
・縄文と照葉樹林(面白かったけど当サイトのおなじみ分野なので略)
・諏訪と宮崎駿と藤森栄一と中尾佐助「栽培植物と農耕の起源」の関係(同じく略)
⇒諏訪明神(タケミナカタ神)、蒲池明弘「火山と断層から見えた神社のはじまり」、
小海町出身の新海誠「すずめの戸締り」、中央構造線と糸静構造線が交わる諏訪上社前宮・・・
⇒科学と自然の二項対立の破壊、前衛知識人の指導より民衆の生活そのものにある価値観へ
⑥柳川掘割物語1987~民衆たちによる新しい文明への希望~
・年代は逆になるが前述の民衆への評価と大きく関係する
⇒本作を作った3つの理由(高畑の文章より)
1昔から日本人が続けていた自然を破壊しないような循環型の付き合い
⇒「昔に戻ろう」ではなく柔軟性のある新技術と工夫で都市河川を復活させる
2行政と市民の連帯
⇒市民と一緒に水路を再生した柳川市職員・広松伝に高畑が出会って感動した
⇒新しい住民運動は行政への不信がベースだが柳川では行政と市民が共闘して計画を覆し、
新しい計画を立案して実行できてしまった⇒連帯とその事実に高畑は希望を感じた
3活き活きとした子どもたち
⇒その人懐こさにも驚いた
⇒子どもたちが個室化し社会や自然や現実から(自分たちが提供している)アニメーションに
逃げ込む傾向に歯止めをかけるような仕事をしたかった
・本作は宮崎のその後の思索や作品にも大きく影響していると推測する
⇒川の神だったことを忘れクライマックスで蘇るハク、ごみ拾いなど地域活動への参加、
その重要性や現代に活かす方法という方向にシフトしていくきっかけになったのでは?
⑦魔女の宅急便1989~工業と都市生活の受容~
・トトロ以降、日常や労働や自分を受容するという主題系が宮崎に浮上する
⇒その受容には資本主義や科学までも含まれ、その対立と葛藤、二面性に引き裂かれながら
進むドラマが「もののけ姫」までの宮崎
・トトロと同じ日常生活であり父の系列は薄く、キキが女性たちに助けられる物語
⇒この女性たちがトトロや自然が果たしてきた母として機能する
・時代の変化とその受容も本作の隠れた主題
⇒トトロ的な村を離れて田舎から都市へ⇒空間的・時間的な移動
⇒本作のアニミズム活力はキキの魔法や元気だが都会で萎えていくことが主題のひとつ
・トンボは科学の側に近いが人力で飛ぼうとしている(宮崎の科学の受容ライン?)
⇒二人の関係は田舎と都会、過去と未来、魔法と科学の複雑な関係の寓話
・画家のウルスラが本作が才能についての寓話であることを開示する
⇒宮崎は田舎から出てきた専門学校生などを想定しキキを造形しており、
(ある程度は絵が描ける(魔法が使える)という才能だけで都会に出てきた若者たちへの)
先輩絵描きとしてのメッセージをウルスラに託している
・飛行船は墜落するがテレビで多くの人がキキを見守り応援し評価する
⇒テレビというテクノロジーが多くの人たちを繋いでいる
⇒テクノロジーも含め多くの人たちが見守っている、というのが本作での救済ではないか
・最後にトンボは完成した人力飛行機で、魔法で飛ぶキキと二人で空を飛んでいる
⇒魔法(自然・アニミズム・古いもの)と科学(都会・人工・新しいもの)の和解
⇒ラピュタ・ネコバス系列の主題系がここでも続いている
⑧紅の豚1992~抱きとめてくれる「救済」としての「あの世」~
・赤い豚=共産主義者かつ資本家というアイロニカルなタイトル
⇒この時期の宮崎駿の思想の反映
⇒疲れた中年が次世代を育成し救済を見いだそうとする(作品の内容も作り方も)
・トトロで幼少期、魔女で思春期と新人の頃、本作では自身の年代に近い中年男性を描き、
それを受容しようとする試みがなされたのだと考えてよい
⇒結論として前二作のような「受容の物語」は本作では展開できなかった
⇒疑似ユートピアでバカ騒ぎするポルコの暗い影と重さが強い印象を与える結果
⇒罪の主題系が色濃く復活しているが直接に向き合うことはなく贖罪と救済の物語も不発
・疑似ユートピアで一時的な救済と解放を得る、そのことを受容しようと試みたが、
それは不可能だと直視せざるを得なかったのが本作ではないか
⇒これは当時の「戦争や国際政治に背を向け疑似ユートピアに閉じこもって良いのか」という
石黒昇「メガゾーン23」や押井守「機動警察パトレイバー2」などで繰り返された問いへの
宮崎なりの取り組みなのだろう
・本作、ハウル、風立ちぬは男性が主人公で一般評価が分かれる作品
⇒父側の主題で描けば重苦しい罪や絶望の重力が作動する
⇒逆に母側の主題では爽快に飛翔し受容や解放感が表現される
⇒その両方の緊張関係こそが宮崎作品
・本作で最も印象的なのがポルコが「あの世」を見るシーン
⇒真っ青な「清浄・救済」の中に無数の死者たちが向かい、ポルコは行くことができない
⇒彼を優しく抱きとめてくれるのは「あの世」なのだが、地上の責任のため戻ってくる
⇒「千と千尋」以降「あの世・異界」を中心の主題にしていくが、その折り返し点が本作
・民族主義・民衆への失望
⇒トトロ以降、日本のアニミズムや民衆に期待し信頼しようとし、そこに救済を求めていた
⇒ところが1991年にユーゴスラビアで紛争が起こり民族主義を民衆が支持した
⇒冷戦終結⇒社会主義の否定⇒民族同士の虐殺・民族浄化へ
⇒これは異質なものが理解し合い戦争を止める「ナウシカ」のビジョンとは正反対だった
⇒つくづく人間は複雑で愚かと思い知り、その答えとして本作を描いた
⇒宮崎はこれ以降、自他の愚かさを受容していく(努力をする)ようになる
(その受容はかならずしも肯定ではないという不思議な捻じれを本作以降は孕む)
・日本だけでなく人類全体の愚かさの連鎖が続くこと自体への受容の試みの本格的な展開は
漫画版「ナウシカ」で行われることになる・・・
⑨平成狸合戦ぽんぽこ1994~現代への敗北と受容~
・高畑作品だが「次世代・変化の受容」というこの時期の宮崎の主題系にとって重要な作品
⇒古いものや自然を守ろうとして敗北し、現代的な生活や開発や資本主義を受け入れて
生きざるを得ないこと、それを苦々しく受容しようとする物語
・狸の化学(ばけがく)は高畑アニメーション⇒消費されるエンターテインメントに過ぎない
⇒ジブリに対する高畑のアイロニーでありニヒリズムで高畑の受容の物語
・この後に高畑は「となりの山田くん」や「かぐや姫」などの方向へ、宮崎は逆にアイロニーや
シニシズムを拒否し、積極的に生きる者、現状などを受容する努力の方向へ向かう
⑩耳をすませば1995
~(カントリーロードではなく)コンクリートロードの肯定~
・監督は近藤喜文だが力の入れようから宮崎作品と考えていい
・ぽんぽこ狸の後にニュータウンに移り住んできた者たちの映画
(オープニングも似たカットで作品の連続性を感じさせる)
・少年はバイオリン作り、少女は創作に活力を発揮する
⇒図書館やアンティークなど様々な文化が自然に代わって少年少女を励ます
⇒自然ではなく人間の創造性にアニミズム的な活力や純粋さ=清浄さを見出すことで、
科学・近代・開発・資本主義を受容=肯定しようとする努力
・「もののけ姫と本作は同じ基盤で本作で触れなかった部分がもののけ姫の中にある」
⑪漫画版「風の谷のナウシカ」1982~1994
漫画版の要点は
・腐海は世界の汚染を浄化しており腐海の奥こそが「青き清浄の地」と呼ばれること
・ナウシカが擬人的な巨神兵の「母」になること
・科学技術が眠っている「墓所」が存在すること
・腐海や蟲たちが科学技術によって作られたものであることを知ること
・腐海の外の人類を含む動植物は浄化された世界では生きられないこと
⇒カントリーロード=トトロ的世界=浄化された世界
⇒コンクリートロード=ニュータウン的な現代社会=汚染された世界のメタファ
⇒(現代の)新しい人間たちは浄化された世界では生きられない
⇒ナウシカは悩み、苦しみや悲しみや死も受け入れ汚濁と共に生きていくことを選ぶ
⇒現に生きている「次世代」をナウシカ=宮崎は選ぶのである
・ナウシカと母(略)
・人類史的悲劇の受容
⇒トトロや魔女の宅急便での自己受容は戦争や資本主義や科学の問題を否認したところに存在した
⇒紅の豚はそれを否認しようと努力するが成功しない物語
⇒漫画版ナウシカはそのような愚考すら肯定し受容しようとする心理的な努力
⇒歴史へのペシミズムをどう乗り越えるか⇒そこにこそ宮崎のアニミズムがある
⇒人類の愚考も含めた生命のあり方そのものを受容し信じようとする宮崎アニミズム
・母のニヒリズム(略)
手塚治虫のニヒリズム、ぽんぽこの高畑のニヒリズム・シニシズム、変節への共感・・・
・後に宮崎は「安っぽいニヒリズム」と「生命根源への問いに発している深いニヒリズム」を
分けて述べるが宮崎アニミズムは後者で漫画版ナウシカで到達し、もののけ姫で全面展開する
⑫もののけ姫1997~善悪と二項対立を超えて~
・ナウシカ1984のリメイク的な側面があり漫画版ナウシカ1994の主題系が展開された作品
⇒ナウシカ=サンとクシャナ=エボシ御前の対立が主軸の物語だが違いもある
⇒ナウシカ1984での二項対立や理想といった逃げ道がなくなっている
⇒その怒りと憎悪のコントロールをしたのがアシタカ⇒水俣病の加害者と被害者と緒方正人
・登場人物は貴族・侍・農民ではなく蝦夷・白拍子・ハンセン病患者
⇒網野善彦史観であり黒澤明作品「七人の侍」への異議申し立て
・漫画版ナウシカの結末部で得られた認識の延長線上にある作品
⇒サンにもエボシ御前にも過酷な過去と現状があり、どちらの陣営も一枚岩ではない
・冷戦崩壊後のユーゴスラビアの憎悪の応酬の果ての大破壊
⇒自分をコントロールしなければならないという子どもたちへのメッセージ
・人類の矛盾と葛藤と拮抗を肯定せざるを得ないという達観と諦念の境地
⇒それがこの時期の宮崎アニミズム
⇒伊勢的な清浄を求める神道や、穢れや殺生を嫌う仏教とは異なる、諏訪的な信仰の影響
⇒愚かな人類や生命を丸ごと受容するような境地のアニミズム
・映画の結末で木々や神々や動物はいなくなる
⇒かつての信仰や文化を失い近代化した状況の隠喩
⇒だが一匹のコダマが残り新しい植物の芽が生える
⇒縄文の自然ではなく人工的に再生した関東近郊の自然⇒それを受容し癒される宮崎
⇒宮崎が「耳をすませば」と「もののけ姫」は対になる作品と言ってるのはそういうこと
・「サンは森で私はタタラ場で暮らそう、共に生きよう」
⇒矛盾や葛藤をそのままにしておくことが本作の落としどころ
⇒全面的な受容や融合ではなく殲滅し合うことなく異質性を保ちながら共存していこうとする
・理想も完璧な正も、排除すれば解決する悪も、存在しない世界で生きることを肯定すべき
⇒だからコントロールし理解し共感し許さなければならない
⇒これが21世紀をどう生きるかに対する宮崎の答え
「もう告発は済んだのです、後は日常生活の中で自分が何をするかを考える時です」
「ただの批判では何も生まれてこないから新しい感覚を作り出すことを考えるべきと思ってます」
・・・・・
以下、第3章以降のメモは次回記事に続きます
2025年04月22日
体験的女優論
とーとつですが・・・

「体験的女優論」とゆー本の読書記録であります
著者略歴と奥付

そう、スタジオジブリ代表取締役プロデューサー鈴木敏夫が2021年4月から2024年5月まで
「日刊ゲンダイ」に毎週連載していた記事をまとめた本であります
上の略歴に本文から少し補足すると・・・
1948年に名古屋市に生まれ子どもの頃から両親の影響で邦画・洋画に親しんでいたとあり、
1967年に大学進学で上京、1972年に徳間書店に入社して配属は「週刊アサヒ芸能」編集部、
やがて雑誌「アニメージュ」編集部の時代にスタジオジブリ創設に関わり・・・となります
著者の学生時代は70年安保に向け揺れ動いていた頃、いっぽう宮崎駿は彼の8歳年上ですから、
学生時代は60年安保の最中、わたくしの学生時代は70年安保のいわば「焼け跡派」になるので、
著者の世代は宮崎駿の世代とわたくしの世代の中間になり、本書に登場する映画やテレビドラマ、
監督さんや女優さんたちには、けっこう親近感がありました
例によって目次のみ


「体験的女優論」なので目次には女優が並んでますが、女優名はいわば索引のようなもので、
内容は映画やテレビドラマの作品、監督、脚本、時代背景や思想、ジブリ作品との関わりなど
多岐に渡っており、まさに映画ファンとしての面目躍如、特にわたくしが放送当時には殆ど
観てなかった「優れたテレビドラマ」の紹介が興味深く新鮮だったので、本書で秀作とされてた
邦画と合わせて、いずれ観てみたいと思った次第
以下、思いつくままの読後メモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・最初に好きになった女優はヘイリー・ミルズで初めて英語でファンレターを出した
⇒当時は中学生で返事はなかったが後年ジブリ映画の世界配給でディズニー本社に行った際に、
好きなディズニー作品を聞かれヘイリー・ミルズ作品と言ったら後日、本人から手紙が来た!!!
⇒ファンレターを出してから35年ぶりにもらった返事だった
・宮崎駿は「陽のあたる坂道」などの芦川いづみの大ファンで、ルパン三世のクラリスから
風立ちぬの菜穂子まで、すべてのヒロインに投影されている
⇒木之内みどりもその流れを感じさせる女優で、クラリスの飼ってる犬の名前もテレビドラマ
「刑事犬カール」から絶対に取っていると僕は思っている
(発想の影に好きな女優への想いがあるのもジブリ作品の魅力)
・梶芽衣子は野良猫ロックシリーズ(1970~71)で大好きになる
⇒このシリーズに影響を与えたのは「冒険者たち」(1967)だと思っている
・1972年の春に徳間書店に入社したが夏に盲腸破裂で緊急手術、高熱で入院が続いていた
⇒「女囚701号さそり」(1972)は篠原とおる原作からのファンで、どうしても映画が観たくて、
⇒こっそり病院を抜け出しタクシーで公開初日の映画館に行った
⇒上映が終了した瞬間に気を失い運ばれたが救急車だとバレるのでタクシーで病院に戻った
⇒その夜からさらに高熱になり苦しんだが医者に本当のことは言えなかった
⇒退院して最初に買いに行ったのは梶芽衣子が映画で着ていたコート(表紙絵)と映画LPレコード
・宮崎駿は倍賞千恵子が映画デビューしてから「下町の太陽」あたりまでは、おそらく観ている
⇒当時の青春スターは日活なら吉永小百合、東映なら本間千代子、松竹が倍賞千恵子らで、
宮崎駿の大好きな工場で働く若者の映画が多かったがブルーカラーは倍賞千恵子がうまかった
⇒ハウルの動く城のソフィーも帽子職人なので提案したと思うがファンなので大賛成した
⇒彼女の歌も大好きで歌うときは高音なので娘も老婆もやれると思って出演を依頼した
⇒ジブリ作品は吉岡秀隆に「天空の城ラピュタ」DVDをプレゼントされて以来よく観てたそうで
快く引き受けてくれたが、映画のイメージとは異なり細かいことを気にしない明るい人だった
・「家族」(1970)は山田洋二監督の最高傑作
・サントリーCMシリーズ(少し愛して、ながーく愛して)は大原麗子の本当の意味での代表作
・風吹ジュンとゲド戦記(略)
・おもひでぽろぽろと今井美樹(略)
・加藤登紀子と紅の豚
⇒ジーナが登場することになった時点で宮崎駿は加藤さんだといった
(宮崎駿は彼女の歌をカセットテープが緩むぐらい聞き込んでいる)
⇒高畑勲の「おもひでぽろぽろ」は声を事前に録って、それを参考に絵を描くプレスコ方式
⇒その直後の「紅の豚」だったので「俺もプレスコやってみたい」と宮崎駿が言い出した
⇒加藤さんのロシア料理店で「さくらんぼの実る頃」を歌うシーンを撮影した
⇒客もスタッフになじみの人ばかりで印象深い収録になった
⇒「時には昔の話を」はスタジオ録音したが声がハスキーになり・・・(以下略)
・「崖の上のポニョ」のフジモトの名前は加藤登紀子の夫の藤本敏夫から
⇒英語版でのフジモトのキャラクター説明は難しかったので・・・(以下略)
・神代辰巳、岸田理生、寺山修司・・・(略)
・テレビのシナリオライターで最も好きなのは山田太一
⇒男たちの旅路、岸辺のアルバム、ふぞろいの林檎たち、早春スケッチブック・・・
⇒「欠点を鋭く指摘して人に恥ずかしい思いをさせるなんてことは、実に下劣なことです
素晴らしいのは、誰にも恥ずかしい思いをさせないような人格だ」
⇒このセリフは山田太一の寺山修司批判でもあると思う(二人は学生時代の親友)
⇒その後「北国の春」をデュエットし、超人と凡人が自分を乗り越えようと必死に歌う
⇒平凡な生活を批判して最後は普通の人をフォローして終わらせているのがすごい
⇒どちらも否定しない最後の言葉は山田太一の寺山修司へのリスペクトであると思う
・山田太一と寺山修司とアフォリズム(略)
・八千草薫のエッセイ集「まあまあふうふう」(馬馬虎虎⇒良い加減の意味⇒略)
・若大将シリーズで星由里子がマドンナの時代(1961~1968)は中学・高校時代と重なる
⇒当時は名古屋にいたが若大将シリーズで、それまでの大学生のイメージが払拭された
⇒東京の大学に行けばスポーツ、歌、ギターで夏は海、冬はスキーで恋するイメージに
⇒大食漢の設定をはじめ加山雄三に合わせたキャラクターだったが大きな影響を受けた
⇒高校まで憧れていて、その先の大学生活をイメージしていた
⇒ところが加山雄三の慶応義塾大学に入ってみるとギターもスポーツもなく学生運動に
⇒映画の中だけと実感したがギターも恋愛も影響は大きく、気分的には冷めていったが
写真集やレコードはいまだに全部持っている
⇒思春期の鈴木にとって星由里子の澄ちゃんは永遠のマドンナ
・「男はつらいよ」のテレビシリーズが好きで学生時代の定食屋で毎週欠かさず観ていた
⇒長山藍子のさくらが印象的だったので映画がいいとは思わなかったが、だんだん倍賞千恵子の
さくらがいいと思うようになっていった⇒マドンナとさくらのやりとりがいい
⇒映画シリーズの本当のマドンナは倍賞千恵子のさくらで彼女がいるから寅さんも・・・
・小津安二郎「麦秋」の「私でよかったら」のセリフ
⇒山田洋次「寅次郎相合い傘」でも高畑勲「おもひでぽろぽろ」でも好みなので使っている
・今村昌平の作品
⇒安保闘争にも高度経済成長にも寄り添っていないものばかりで逆に刺激的だった
⇒週刊アサヒ芸能での仕事と今村監督の仕事は人間臭い業界を徹底的に調べる点で共通していた
・ATGの1000万円映画シリーズ⇒今村昌平の「人間蒸発」から
⇒その露口茂が声を担当した「シャーロック・ホームズの冒険」(1985~1995)は僕も宮崎駿も
大好きで「耳をすませば」(1995)のバロンの声をお願いしたがセリフについて質問攻めに・・・
・今村監督初のカラー映画が「神々の深き欲望」(1968)
⇒近代合理主義⇒資本主義・社会主義・サルトルの実存主義とストロースの構造主義
⇒レヴィ・ストロースのテーマを映像として具現化したのが「神々の深き欲望」
・「もののけ姫」(1997)のテーマと舞台設定を1995年に宮崎駿から聞いて「神々の深き欲望」
を思い出したので「今村さんの映画みたいですね」と言ったら、宮さんの顔つきが変わり、
「それって、神々の深き欲望だよね」とすぐに返ってきた
⇒あれだけ映画タイトルを覚えない人が覚えていたのだから、よほど印象に残ってたはず
⇒どちらも南の島から来た日本人の原型をシシ神の前後と近代化の前後で探す試み
⇒「太陽の王子ホルスの大冒険」と同年の公開なので高畑勲に勧められ観た可能性が高い
⇒高畑は論理で考えるが宮崎には概念がなく抽象化されない
⇒今村は観念的で、その観念の裏付けのために調べ尽くす
⇒宮崎は全部を妄想や想像で発想して調べない
⇒物事の核心テーマを、自分の妄想をコラージュして掴み取って描ける稀有な人
⇒その意味で「もののけ姫」は観念的な「神々の深き欲望」に勝ったと密かに思っている
・とか、続きは「新映画道楽 体験的女優論」で・・・
・あとがきより
⇒この夏に76歳になった(2024)
⇒堀田善衛の「生き延びることだけが勇者ではない」に倣い残り少ない人生を大事に・・・
・・・
こういった感じで映画やテレビドラマの作品、監督、脚本、時代背景や思想、ジブリ作品との
関わりなどから、映画に登場する女優についての「体験的女優論」が展開されてましたが、
自分がファンになった女優たちへの思い入れだけでなく、監督や脚本家などへの思い入れや
作品に対する鋭い考察についても興味津々、最後まで一気に読みました

「体験的女優論」とゆー本の読書記録であります
著者略歴と奥付

そう、スタジオジブリ代表取締役プロデューサー鈴木敏夫が2021年4月から2024年5月まで
「日刊ゲンダイ」に毎週連載していた記事をまとめた本であります
上の略歴に本文から少し補足すると・・・
1948年に名古屋市に生まれ子どもの頃から両親の影響で邦画・洋画に親しんでいたとあり、
1967年に大学進学で上京、1972年に徳間書店に入社して配属は「週刊アサヒ芸能」編集部、
やがて雑誌「アニメージュ」編集部の時代にスタジオジブリ創設に関わり・・・となります
著者の学生時代は70年安保に向け揺れ動いていた頃、いっぽう宮崎駿は彼の8歳年上ですから、
学生時代は60年安保の最中、わたくしの学生時代は70年安保のいわば「焼け跡派」になるので、
著者の世代は宮崎駿の世代とわたくしの世代の中間になり、本書に登場する映画やテレビドラマ、
監督さんや女優さんたちには、けっこう親近感がありました
例によって目次のみ


「体験的女優論」なので目次には女優が並んでますが、女優名はいわば索引のようなもので、
内容は映画やテレビドラマの作品、監督、脚本、時代背景や思想、ジブリ作品との関わりなど
多岐に渡っており、まさに映画ファンとしての面目躍如、特にわたくしが放送当時には殆ど
観てなかった「優れたテレビドラマ」の紹介が興味深く新鮮だったので、本書で秀作とされてた
邦画と合わせて、いずれ観てみたいと思った次第
以下、思いつくままの読後メモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・最初に好きになった女優はヘイリー・ミルズで初めて英語でファンレターを出した
⇒当時は中学生で返事はなかったが後年ジブリ映画の世界配給でディズニー本社に行った際に、
好きなディズニー作品を聞かれヘイリー・ミルズ作品と言ったら後日、本人から手紙が来た!!!
⇒ファンレターを出してから35年ぶりにもらった返事だった

・宮崎駿は「陽のあたる坂道」などの芦川いづみの大ファンで、ルパン三世のクラリスから
風立ちぬの菜穂子まで、すべてのヒロインに投影されている
⇒木之内みどりもその流れを感じさせる女優で、クラリスの飼ってる犬の名前もテレビドラマ
「刑事犬カール」から絶対に取っていると僕は思っている

(発想の影に好きな女優への想いがあるのもジブリ作品の魅力)
・梶芽衣子は野良猫ロックシリーズ(1970~71)で大好きになる

⇒このシリーズに影響を与えたのは「冒険者たち」(1967)だと思っている
・1972年の春に徳間書店に入社したが夏に盲腸破裂で緊急手術、高熱で入院が続いていた
⇒「女囚701号さそり」(1972)は篠原とおる原作からのファンで、どうしても映画が観たくて、
⇒こっそり病院を抜け出しタクシーで公開初日の映画館に行った
⇒上映が終了した瞬間に気を失い運ばれたが救急車だとバレるのでタクシーで病院に戻った
⇒その夜からさらに高熱になり苦しんだが医者に本当のことは言えなかった

⇒退院して最初に買いに行ったのは梶芽衣子が映画で着ていたコート(表紙絵)と映画LPレコード

・宮崎駿は倍賞千恵子が映画デビューしてから「下町の太陽」あたりまでは、おそらく観ている
⇒当時の青春スターは日活なら吉永小百合、東映なら本間千代子、松竹が倍賞千恵子らで、
宮崎駿の大好きな工場で働く若者の映画が多かったがブルーカラーは倍賞千恵子がうまかった
⇒ハウルの動く城のソフィーも帽子職人なので提案したと思うがファンなので大賛成した
⇒彼女の歌も大好きで歌うときは高音なので娘も老婆もやれると思って出演を依頼した
⇒ジブリ作品は吉岡秀隆に「天空の城ラピュタ」DVDをプレゼントされて以来よく観てたそうで
快く引き受けてくれたが、映画のイメージとは異なり細かいことを気にしない明るい人だった
・「家族」(1970)は山田洋二監督の最高傑作
・サントリーCMシリーズ(少し愛して、ながーく愛して)は大原麗子の本当の意味での代表作
・風吹ジュンとゲド戦記(略)
・おもひでぽろぽろと今井美樹(略)
・加藤登紀子と紅の豚
⇒ジーナが登場することになった時点で宮崎駿は加藤さんだといった
(宮崎駿は彼女の歌をカセットテープが緩むぐらい聞き込んでいる)
⇒高畑勲の「おもひでぽろぽろ」は声を事前に録って、それを参考に絵を描くプレスコ方式
⇒その直後の「紅の豚」だったので「俺もプレスコやってみたい」と宮崎駿が言い出した
⇒加藤さんのロシア料理店で「さくらんぼの実る頃」を歌うシーンを撮影した
⇒客もスタッフになじみの人ばかりで印象深い収録になった
⇒「時には昔の話を」はスタジオ録音したが声がハスキーになり・・・(以下略)
・「崖の上のポニョ」のフジモトの名前は加藤登紀子の夫の藤本敏夫から
⇒英語版でのフジモトのキャラクター説明は難しかったので・・・(以下略)
・神代辰巳、岸田理生、寺山修司・・・(略)
・テレビのシナリオライターで最も好きなのは山田太一
⇒男たちの旅路、岸辺のアルバム、ふぞろいの林檎たち、早春スケッチブック・・・
⇒「欠点を鋭く指摘して人に恥ずかしい思いをさせるなんてことは、実に下劣なことです
素晴らしいのは、誰にも恥ずかしい思いをさせないような人格だ」
⇒このセリフは山田太一の寺山修司批判でもあると思う(二人は学生時代の親友)
⇒その後「北国の春」をデュエットし、超人と凡人が自分を乗り越えようと必死に歌う
⇒平凡な生活を批判して最後は普通の人をフォローして終わらせているのがすごい
⇒どちらも否定しない最後の言葉は山田太一の寺山修司へのリスペクトであると思う
・山田太一と寺山修司とアフォリズム(略)
・八千草薫のエッセイ集「まあまあふうふう」(馬馬虎虎⇒良い加減の意味⇒略)
・若大将シリーズで星由里子がマドンナの時代(1961~1968)は中学・高校時代と重なる
⇒当時は名古屋にいたが若大将シリーズで、それまでの大学生のイメージが払拭された
⇒東京の大学に行けばスポーツ、歌、ギターで夏は海、冬はスキーで恋するイメージに
⇒大食漢の設定をはじめ加山雄三に合わせたキャラクターだったが大きな影響を受けた
⇒高校まで憧れていて、その先の大学生活をイメージしていた
⇒ところが加山雄三の慶応義塾大学に入ってみるとギターもスポーツもなく学生運動に
⇒映画の中だけと実感したがギターも恋愛も影響は大きく、気分的には冷めていったが
写真集やレコードはいまだに全部持っている
⇒思春期の鈴木にとって星由里子の澄ちゃんは永遠のマドンナ

・「男はつらいよ」のテレビシリーズが好きで学生時代の定食屋で毎週欠かさず観ていた
⇒長山藍子のさくらが印象的だったので映画がいいとは思わなかったが、だんだん倍賞千恵子の
さくらがいいと思うようになっていった⇒マドンナとさくらのやりとりがいい
⇒映画シリーズの本当のマドンナは倍賞千恵子のさくらで彼女がいるから寅さんも・・・
・小津安二郎「麦秋」の「私でよかったら」のセリフ
⇒山田洋次「寅次郎相合い傘」でも高畑勲「おもひでぽろぽろ」でも好みなので使っている
・今村昌平の作品
⇒安保闘争にも高度経済成長にも寄り添っていないものばかりで逆に刺激的だった
⇒週刊アサヒ芸能での仕事と今村監督の仕事は人間臭い業界を徹底的に調べる点で共通していた
・ATGの1000万円映画シリーズ⇒今村昌平の「人間蒸発」から
⇒その露口茂が声を担当した「シャーロック・ホームズの冒険」(1985~1995)は僕も宮崎駿も
大好きで「耳をすませば」(1995)のバロンの声をお願いしたがセリフについて質問攻めに・・・
・今村監督初のカラー映画が「神々の深き欲望」(1968)
⇒近代合理主義⇒資本主義・社会主義・サルトルの実存主義とストロースの構造主義
⇒レヴィ・ストロースのテーマを映像として具現化したのが「神々の深き欲望」
・「もののけ姫」(1997)のテーマと舞台設定を1995年に宮崎駿から聞いて「神々の深き欲望」
を思い出したので「今村さんの映画みたいですね」と言ったら、宮さんの顔つきが変わり、
「それって、神々の深き欲望だよね」とすぐに返ってきた
⇒あれだけ映画タイトルを覚えない人が覚えていたのだから、よほど印象に残ってたはず
⇒どちらも南の島から来た日本人の原型をシシ神の前後と近代化の前後で探す試み
⇒「太陽の王子ホルスの大冒険」と同年の公開なので高畑勲に勧められ観た可能性が高い
⇒高畑は論理で考えるが宮崎には概念がなく抽象化されない
⇒今村は観念的で、その観念の裏付けのために調べ尽くす
⇒宮崎は全部を妄想や想像で発想して調べない
⇒物事の核心テーマを、自分の妄想をコラージュして掴み取って描ける稀有な人
⇒その意味で「もののけ姫」は観念的な「神々の深き欲望」に勝ったと密かに思っている
・とか、続きは「新映画道楽 体験的女優論」で・・・
・あとがきより
⇒この夏に76歳になった(2024)
⇒堀田善衛の「生き延びることだけが勇者ではない」に倣い残り少ない人生を大事に・・・
・・・
こういった感じで映画やテレビドラマの作品、監督、脚本、時代背景や思想、ジブリ作品との
関わりなどから、映画に登場する女優についての「体験的女優論」が展開されてましたが、
自分がファンになった女優たちへの思い入れだけでなく、監督や脚本家などへの思い入れや
作品に対する鋭い考察についても興味津々、最後まで一気に読みました
2025年03月29日
スタジオジブリ全作品集(増補改訂版)
とーとつですが・・・

「スタジオジブリ全作品集」増補改訂版のご紹介であります
裏表紙カバー

奥付

そう「君たちはどう生きるか」の公開により増補改訂された最新版であります
例によって目次と・・・

今回は惹句がわりに「はじめに」と「各作品ページの読み方」もご紹介

こんな感じでジブリ側の立場から全作品が紹介されてて、制作秘話や注目ポイントなど、
知らなかったこと、気づかなかったこともけっこうあって熟読しました
作品紹介以外の読み物も興味深く、特に全く知らなかったのが、北米での配給を手がけた
GKIDS創設者兼CEOであるエリック・ベックマンからの寄稿内容でした
以下、その部分からのランダムなメモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・ディズニー社がジブリ作品を扱っていた1999年、2年前に共同で立ち上げたニューヨーク
国際子ども映画祭NYICFFで「魔女の宅急便」英語吹き替え版をプレミア上映した
⇒観客は魅了され涙を流しながら私に話しかけてきた
⇒翌年の日本アニメ特集のオープニングで「天空の城ラピュタ」英語吹き替え版をプレミア上映、
この時に初めてジブリの関係者(スティーブン・アルバート)と会った
・「崖の上のポニョ」が出品されていたロサンゼルス映画祭でスティーブン・アルバートから
ランチに招待され、映画芸術としてのアニメーションとか、アメリカのアニメーション映画は
事実上企業の商品だとか、実写映画のようにアニメーションでもインディペンデントが繁栄できる
環境づくりに貢献したいとか、いつものように延々と語りまくってたら、ジブリ作品の劇場権を
扱ってみないかと誘われた
⇒となりのトトロ、風の谷のナウシカ、千と千尋の神隠し、天空の城ラピュタ、魔女の宅急便、
もののけ姫・・・どれも重要で象徴的な傑作だったので、もちろんイエスと即答した
⇒35mmニュープリントを作りニューヨークIFCセンターで大掛かりに4週間、チケットは完売し、
その他の主要都市でも定期上映したがプレスにも観客にも好評でジブリも大満足だった
・スティーブン・アルバートの後任ジェフ・ウェクスラーから「コクリコ坂から」の配給を
やってみないかとの打診があった
⇒それまでは既存作品の劇場公開のみで新作はいつもディズニーだったので、これはジブリが
自分たちに映画を託すことを物語っている
⇒アカデミー賞でいくらか成功を収め、ジブリライブラリー作品でも良い仕事をしてきたが、
こちらはごく小さな会社でディズニーは世界一のアニメーション・スタジオ・・・
⇒それでもスタジオジブリが私たちを信じてくれたおかげで、多くの海外アニメーションの
アメリカ公開に繋がり、2016年末までに長編アニメーション部門にノミネートされた作品は
合計9本になった
・「かぐや姫の物語」は映画の最高傑作だと思うが誰もが受け入れるわけではない
(個人的にはその人の死に対する考え方(死を受け入れるかどうか)によると思う)
⇒トロント国際映画祭でのプレミア上映で私の真後ろにいた若いカップルの男性が映画のラストで
我慢できずにおいおいと泣き出し、あまり親しくなさそうな女性が懸命に慰めようとしていた
⇒それは胸に刺さる光景だった
⇒劇場を出てからTwitterでプレスの反応をチェックすると、
「この映画が私に何をもたらしたか、とても語り尽くせない」
「圧倒された」
「詳細を書く前に気持ちを落ち着かせる必要があるが、この作品は最高傑作だ」
「大泣きしてマスカラまみれの顔でトロントの街をふらふら歩き回っている」
といったものばかりで否定的なレビューはひとつもなかった
⇒この年のアカデミー賞にノミネートされ翌年は「思い出のマーニー」がノミネートされた
・2017年にはジブリライブラリー作品のホームビデオ権を打診されて権利を得た
⇒GKIDSはユニバーサル・ホームビデオと組んでいたがジブリ作品の契約合意ができず、
自分たちで全作品を再オーサリングして新しいジャケットにボーナス映像を入れて販売した
⇒最初の年でこれまでのディズニー年間売り上げの倍になり社内でも誰もがファンになり、
作品リリースに全身全霊を注いでいる⇒これは大きな配給会社ではできないこと
・その後の3年間でジブリに限らず日本アニメの観客が爆発的に増えた
(細田守の「未来のミライ」は、はじめてゴールデングローブ賞にノミネート、ジブリ以外で
はじめてのアカデミー賞長編アニメーション部門にもノミネート、新海誠の「天気の子」は
800万ドル近い興行収入を上げたがコロナで全米の映画館が閉館して公開が終了した)
・2019年1月にはジブリでは決してなかったデジタル・プラットフォーム化の打診があった
⇒1年後に配信、コロナで多くが家での視聴となり新しい観客がジブリと出会うことになった
・「君たちはどう生きるか」については別稿にまかせるが・・・
⇒スタジオジブリが私たちを信頼してくれたこと、この作品に関われたことに感謝している
⇒宮崎駿を他のアニメーション作家と較べないようにスタッフにメモした
⇒素晴らしい映画監督とさえ比較しないで欲しいとも・・・比較するならアインシュタイン、
マイケル・ジョーダン、ゴッホ、モーツァルトといった人たちで100年にひとりの逸材だと
⇒トロント映画祭プレミア上映のイントロダクションで「モーツァルトがまだ作曲している
時代に生きていることを、皆さんは幸せに思うべきだ」と、メモを渡したわけでもない
ギレルモ・デル・トロが全く同じことを言ってくれて本当に嬉しかった
・私は初め「君たちはどう生きるか」を大きな映画祭だけで上映して、それから予告編や
宣伝で盛り上げていこうと考えていた
⇒そうすれば限られた人数だけが作品を見るようコントロールできるからだ
(複雑な映画ゆえに公開前に少数でも否定的なレビューが出たらマイナスインパクトになる)
⇒しかし作品に衝撃を受けた配給部門のチャンス・ハスキーは、観客や批評家がこの作品を
理解できると信じるべきだと主張した
⇒アニメーションを見ない層からの支持も必要で、その強化には数ヶ月かかるだろうとも
⇒私は配給チームを信じることにし、多くの映画祭やイベントに参加して拡大公開の3週間前に
ニューヨークとロサンゼルスで試写会を開いた
⇒結果は報われ「君たちはどう生きるか」は全米初登場1位となった
・・・
ジブリ側への寄稿なので中にはヨイショもあるのでしょうが、北米での売り手側の熱意が
ひしひしと伝わってきて感動しました

「スタジオジブリ全作品集」増補改訂版のご紹介であります

裏表紙カバー

奥付

そう「君たちはどう生きるか」の公開により増補改訂された最新版であります
例によって目次と・・・

今回は惹句がわりに「はじめに」と「各作品ページの読み方」もご紹介

こんな感じでジブリ側の立場から全作品が紹介されてて、制作秘話や注目ポイントなど、
知らなかったこと、気づかなかったこともけっこうあって熟読しました
作品紹介以外の読み物も興味深く、特に全く知らなかったのが、北米での配給を手がけた
GKIDS創設者兼CEOであるエリック・ベックマンからの寄稿内容でした
以下、その部分からのランダムなメモです
(著作物からのメモなので公開に問題があれば非公開設定にします)
・ディズニー社がジブリ作品を扱っていた1999年、2年前に共同で立ち上げたニューヨーク
国際子ども映画祭NYICFFで「魔女の宅急便」英語吹き替え版をプレミア上映した
⇒観客は魅了され涙を流しながら私に話しかけてきた
⇒翌年の日本アニメ特集のオープニングで「天空の城ラピュタ」英語吹き替え版をプレミア上映、
この時に初めてジブリの関係者(スティーブン・アルバート)と会った
・「崖の上のポニョ」が出品されていたロサンゼルス映画祭でスティーブン・アルバートから
ランチに招待され、映画芸術としてのアニメーションとか、アメリカのアニメーション映画は
事実上企業の商品だとか、実写映画のようにアニメーションでもインディペンデントが繁栄できる
環境づくりに貢献したいとか、いつものように延々と語りまくってたら、ジブリ作品の劇場権を
扱ってみないかと誘われた
⇒となりのトトロ、風の谷のナウシカ、千と千尋の神隠し、天空の城ラピュタ、魔女の宅急便、
もののけ姫・・・どれも重要で象徴的な傑作だったので、もちろんイエスと即答した
⇒35mmニュープリントを作りニューヨークIFCセンターで大掛かりに4週間、チケットは完売し、
その他の主要都市でも定期上映したがプレスにも観客にも好評でジブリも大満足だった
・スティーブン・アルバートの後任ジェフ・ウェクスラーから「コクリコ坂から」の配給を
やってみないかとの打診があった
⇒それまでは既存作品の劇場公開のみで新作はいつもディズニーだったので、これはジブリが
自分たちに映画を託すことを物語っている
⇒アカデミー賞でいくらか成功を収め、ジブリライブラリー作品でも良い仕事をしてきたが、
こちらはごく小さな会社でディズニーは世界一のアニメーション・スタジオ・・・
⇒それでもスタジオジブリが私たちを信じてくれたおかげで、多くの海外アニメーションの
アメリカ公開に繋がり、2016年末までに長編アニメーション部門にノミネートされた作品は
合計9本になった
・「かぐや姫の物語」は映画の最高傑作だと思うが誰もが受け入れるわけではない
(個人的にはその人の死に対する考え方(死を受け入れるかどうか)によると思う)
⇒トロント国際映画祭でのプレミア上映で私の真後ろにいた若いカップルの男性が映画のラストで
我慢できずにおいおいと泣き出し、あまり親しくなさそうな女性が懸命に慰めようとしていた
⇒それは胸に刺さる光景だった
⇒劇場を出てからTwitterでプレスの反応をチェックすると、
「この映画が私に何をもたらしたか、とても語り尽くせない」
「圧倒された」
「詳細を書く前に気持ちを落ち着かせる必要があるが、この作品は最高傑作だ」
「大泣きしてマスカラまみれの顔でトロントの街をふらふら歩き回っている」
といったものばかりで否定的なレビューはひとつもなかった
⇒この年のアカデミー賞にノミネートされ翌年は「思い出のマーニー」がノミネートされた
・2017年にはジブリライブラリー作品のホームビデオ権を打診されて権利を得た
⇒GKIDSはユニバーサル・ホームビデオと組んでいたがジブリ作品の契約合意ができず、
自分たちで全作品を再オーサリングして新しいジャケットにボーナス映像を入れて販売した
⇒最初の年でこれまでのディズニー年間売り上げの倍になり社内でも誰もがファンになり、
作品リリースに全身全霊を注いでいる⇒これは大きな配給会社ではできないこと
・その後の3年間でジブリに限らず日本アニメの観客が爆発的に増えた
(細田守の「未来のミライ」は、はじめてゴールデングローブ賞にノミネート、ジブリ以外で
はじめてのアカデミー賞長編アニメーション部門にもノミネート、新海誠の「天気の子」は
800万ドル近い興行収入を上げたがコロナで全米の映画館が閉館して公開が終了した)
・2019年1月にはジブリでは決してなかったデジタル・プラットフォーム化の打診があった
⇒1年後に配信、コロナで多くが家での視聴となり新しい観客がジブリと出会うことになった
・「君たちはどう生きるか」については別稿にまかせるが・・・
⇒スタジオジブリが私たちを信頼してくれたこと、この作品に関われたことに感謝している
⇒宮崎駿を他のアニメーション作家と較べないようにスタッフにメモした
⇒素晴らしい映画監督とさえ比較しないで欲しいとも・・・比較するならアインシュタイン、
マイケル・ジョーダン、ゴッホ、モーツァルトといった人たちで100年にひとりの逸材だと
⇒トロント映画祭プレミア上映のイントロダクションで「モーツァルトがまだ作曲している
時代に生きていることを、皆さんは幸せに思うべきだ」と、メモを渡したわけでもない
ギレルモ・デル・トロが全く同じことを言ってくれて本当に嬉しかった
・私は初め「君たちはどう生きるか」を大きな映画祭だけで上映して、それから予告編や
宣伝で盛り上げていこうと考えていた
⇒そうすれば限られた人数だけが作品を見るようコントロールできるからだ
(複雑な映画ゆえに公開前に少数でも否定的なレビューが出たらマイナスインパクトになる)
⇒しかし作品に衝撃を受けた配給部門のチャンス・ハスキーは、観客や批評家がこの作品を
理解できると信じるべきだと主張した
⇒アニメーションを見ない層からの支持も必要で、その強化には数ヶ月かかるだろうとも
⇒私は配給チームを信じることにし、多くの映画祭やイベントに参加して拡大公開の3週間前に
ニューヨークとロサンゼルスで試写会を開いた
⇒結果は報われ「君たちはどう生きるか」は全米初登場1位となった
・・・
ジブリ側への寄稿なので中にはヨイショもあるのでしょうが、北米での売り手側の熱意が
ひしひしと伝わってきて感動しました

2025年02月15日
KF21若鷹の祝賀会???
とーとつですが、わたくし・・・
韓国空軍の最新鋭戦闘機KF21ボラメ(若鷹⇒2026年から配備予定ウィキより)

・・・の祝賀会に参加してきました
???
ま、正しくは同機の1/72スケールモデル(韓国アカデミー社製)・・・

が、某誌の読者プレゼントで当った軍用機マニアの当選祝賀会(名目の飲み会)でしたが
つーことで指定された祝賀会場は、

なんばパークス6Fにある韓国料理店・・・


bibim(ビビム)とゆーお店でした
参加したのは当選者さんとひさしぶりのMe109k4さんとわたくしの3人、そりゃあ、
こんな名目で集まる地球生命体つーのは絶対数が限られますからね
そう、お二人は軍用機マニア、わたくしも一応「搭載機銃つながり」つーことで
で、当日のわたくしからお二人への豪華プレゼント


ま、葉巻の空き缶なんですが
フタ裏の写真は朝鮮戦争当時のパイロットたち
すでに廃版品なので稀少品といえば稀少品なのでありますね
つーことで、豪華賞品(本人はレシプロ機が専門なんですが
)の当選を祝して、


「ハッピーアワー」の飲み物で乾杯!!!
以後は延々と飲みつつ食べつつ、軍用機や戦争映画などのヲタ話が続きました
Me109k4さんとはじつにひさしぶり、当選者さんとは最近も同期の集まりで飲んでましたが、
そんな席でこんな話題で盛り上がることはなかったので
3人で大いに盛り上がりました
同じ機体の話をしてても、同じ映画の話をしてても、興味分野が各自で全く異なるので、
「それには気づかなかったなあ」とゆー話題も多くて飽きませんでしたねえ・・・
そーいやMe109k4さんとは昔「戦争映画を観る会」でメンフィスベルや紅の豚なんぞを観て、
映画館を出た後に感想を話し合ってたけど、各自の興味分野のシーンはしっかり覚えてたものの、
それ以外のストーリーなんぞは、誰もあまり覚えてなかったな・・・あははは
わたくしが殆ど知らない世界でもマニア同士の会話つーのは、やはり興味津々でした
と、せっかくなので当日の韓国料理もいくつか紹介しておきます・・・



ええ、残念ながら「正統派ブデチゲ」はメニューにありませんでした
韓国空軍の最新鋭戦闘機KF21ボラメ(若鷹⇒2026年から配備予定ウィキより)

・・・の祝賀会に参加してきました
???
ま、正しくは同機の1/72スケールモデル(韓国アカデミー社製)・・・

が、某誌の読者プレゼントで当った軍用機マニアの当選祝賀会(名目の飲み会)でしたが

つーことで指定された祝賀会場は、

なんばパークス6Fにある韓国料理店・・・


bibim(ビビム)とゆーお店でした
参加したのは当選者さんとひさしぶりのMe109k4さんとわたくしの3人、そりゃあ、
こんな名目で集まる地球生命体つーのは絶対数が限られますからね

そう、お二人は軍用機マニア、わたくしも一応「搭載機銃つながり」つーことで

で、当日のわたくしからお二人への豪華プレゼント



ま、葉巻の空き缶なんですが
フタ裏の写真は朝鮮戦争当時のパイロットたち
すでに廃版品なので稀少品といえば稀少品なのでありますね
つーことで、豪華賞品(本人はレシプロ機が専門なんですが
)の当選を祝して、

「ハッピーアワー」の飲み物で乾杯!!!
以後は延々と飲みつつ食べつつ、軍用機や戦争映画などのヲタ話が続きました
Me109k4さんとはじつにひさしぶり、当選者さんとは最近も同期の集まりで飲んでましたが、
そんな席でこんな話題で盛り上がることはなかったので
3人で大いに盛り上がりました同じ機体の話をしてても、同じ映画の話をしてても、興味分野が各自で全く異なるので、
「それには気づかなかったなあ」とゆー話題も多くて飽きませんでしたねえ・・・
そーいやMe109k4さんとは昔「戦争映画を観る会」でメンフィスベルや紅の豚なんぞを観て、
映画館を出た後に感想を話し合ってたけど、各自の興味分野のシーンはしっかり覚えてたものの、
それ以外のストーリーなんぞは、誰もあまり覚えてなかったな・・・あははは

わたくしが殆ど知らない世界でもマニア同士の会話つーのは、やはり興味津々でした
と、せっかくなので当日の韓国料理もいくつか紹介しておきます・・・



ええ、残念ながら「正統派ブデチゲ」はメニューにありませんでした

