映画
2022年08月26日
ジブリの教科書7
前々回、前回記事からの続き・・・
ジブリの教科書7「紅の豚」(1992年公開)のご紹介であります
文芸春秋社2014年9月10日第1刷発行で、ナビゲーターは万城目学
例によって目次のみのご紹介
以下、わたくしの部分的な読後メモから・・・てきとーなので正しくは本書を熟読くださいね
(ジブリの中でも特に好きな作品なので、今回はメモも長めになっております)
・宮崎駿監督の演出覚書(1991)より
→疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のためのマンガ映画
→陽気だがランチキ騒ぎではなく、ダイナミックだが破壊的ではない
→愛はたっぷりあるが肉欲は余計だ
→誇りと自由に満ち、ストーリーは単純、登場人物の動機も明快そのもの
→男たちは陽気で快活、女たちは魅力にあふれ、人生を味わっている
→登場人物が、みな人生を刻んできたリアリティを持つこと
→バカ騒ぎはつらい事をかかえてるから、単純さは一皮むけて手に入れたもの・・・
・宮崎駿へのインタビュー(1992)より
キャラクターの誕生
→カーチスもポルコと同じ中年だと思った人も多いらしいが、彼は青年でちゃんとした男
→フィオも(さらに若いけど)「私は私」で、自分のやることも意志もはっきりしている
ポルコについていくのも商売上と作った物に対する責任から→まあ嫌いなら行かないけど
→なので劇中の出来事を通じて大人になった、とかではなくフィオもちゃんとした女
→「紅の豚」に出てくるのは自分を全部確立した人間だけで、そういうことを明確にした映画
→まだふにゃふにゃの自我を抱え、励ましや何かしてくれるものが欲しい人のためのものではない
→その意味で、これは若者をまったく排除して作った映画で「中年の映画」
→そうしないと1920年代を豚として生きたポルコに拮抗できないと思っている
→その後のヨーロッパの激動をどうやって生き抜くのか、映画を作りながらひどく気になってた
→ファシストと戦ってカタルシスを得るのではなく、生きていて欲しいと思いながら作った
→俺は俺でやるという視点を明瞭に持っているキャラクターを出したかった
→大混乱や戦争の責任は全部俺にあるという視点ではなく、俺も同じイタリア人だから責任がある
という視点ではなく、俺は俺、俺の魂の責任は俺が持つという、豚はそういう男
→それがこれから生きていく上で必要だと、自分も切実に思ったから
映画の結末について
(ポルコは人間に返ったのか豚のままなのかとの問いに)
→人間に戻ることが大事なのだろうか?正しいのだろうか?
→ときどき本音が出て真顔になるけど最後まで豚のまま生きるほうが、この男らしいと思う
→何かを獲得して収まるハッピーエンドは、この映画には用意されていない
→取り返しのつかない経験もいっぱいしてる人間たちだから、フィオでまっさらになった、
なんて思わないし、みそぎできれいになると思ってるのは自民党の代議士だけ(笑)
→もののけ姫という、もののけと姫の物語を考えていたときも、もののけはもののけのままで
終わるように描き直したらすっきりしたし、美女と野獣はずっとやりたかったテーマだけど、
もしやったとしても最後は野獣のまま・・・
最後のテロップのイラスト(エンディング・イラスト)について
(描かれてるのがなぜみんな豚なのかとの問いに)
→空を飛ぶことが何をもたらしたか、飛ばなければよかったとも言える
→黎明期はどんなものでもキラキラしてるが、資本、国家、利害関係に組み込まれて汚れる
→飛びたいから飛ぶだけでなく任務で飛ぶ、じつにくだらない任務で飛ぶ
→飛ぶことだけで全部完結する人間は絶対に豚にならない、単なる乗組員で終わり
→時代にインプットされたものは簡単に乗り越えることはできない
→戦後焼跡世代もバブルの餌食世代も・・・
→今(1992)の20代30代は大人の世界・社会・政治家がくだらないことはわかってるが、
そのおこぼれ(週休二日などはその大人が稼いだ上がり)だけは手に入れている
→40代になって社会の中心になっても弁当屋とコンビニといつでもできるバイトがあるのが
当然と思っているだろう
→もう少しくだらなくしようとしたときに、貧乏になろうとはしないだろう
→稼ぎ以上のものを使う→それが彼ら(バブルの餌食)の限界
世代や制約の壁を突破して
(おとなの映画ですねとの問いに)
→たぶん今(1992)の若い男(バブルの餌食)が一番取り残されてしまった映画
→カタルシスのある定型を全部踏襲してたら満足な人には敵意のある映画
→いつものサービス過剰はないよ、おじさんはそれどころじゃないよ、という映画
→豚が人間になりました、よかったよかった、では嘘になる
→そういうカタルシスを求めるのは間違っている・・・
・加藤登紀子と宮崎駿の対談より
(1992公開時の対談、同年に共著「時には昔の話を」(徳間書店)がある)
(宮崎は1941年生まれ、加藤は1943年生まれ)
あの頃という時代
・加藤
→60年安保の時は16歳の高校生、亡くなった樺美智子さんにみんなでお花を持っていった
→今考えればただのセンチメンタリズムだがセーラー服は本当にピュアにキラキラと輝いていた
→それが高三になると受験とかで濁っていって、次第にやりきれなくなって・・・
・宮崎
→大学に入った年が安保でバカなことと思ってたが無関心ではいけないと思い始めた頃には
諸先輩は挫折の大合唱で、そのキラキラは1回もなかった
・加藤
→でもファナティックな時代の雰囲気は確かにあった
・宮崎
→感じはわかるが、今が一番愚かな灰色の時代で少しずつ日が差してくると思ってた
→それが自分たちの(世代の)歴史で、どこかにインプットされている
→だから民族紛争みたいなことが起これば呆然として、自分がグラグラしている
→若いスタッフに、君らはバブルの餌食で歴史がないと言ってきたけど、それは自分に
あまり根拠のない楽観主義をつくっているだけだとわかってきた
生きる"よりどころ"
・加藤
→やはり私は好きな人は好き、嫌いな人は嫌いという女性的な感覚
→なので世界観とかイデオロギーが変わったというより、美しいうちは美しいと・・・
→ユーゴスラビアでも立ち上がった瞬間は美しいが、権力を持つと・・・
(毛沢東、ヒトラー、マレーネディートリッヒ、岡田嘉子・・・略)
・宮崎
→今はお金は善だが戦時中の自分の家庭が金持ちだったことが自分の中につきまとっていた
・加藤
→私は中国からの引揚者で自由な環境に結びついてトクをしてたが、中国の人々に対する
うしろめたさというのは厳然としてある
・宮崎
→うしろめたさというのは日本の中の自分の家や一族、世界やアジアの中の日本という形である
→自分の幼児体験や過去の記憶を掘り起こせば、理屈としてはわかる
→同時に記憶にまとわりつく、うしろめたさを失くすと自分の一番大事な部分を失くす気がする
→このうしろめたさが最後の支えなのかとさえ思う
→分裂を抱えたままいくしかない、分裂せずに生きていく方が真っ当なのだが・・・
映画と時代の波長
・宮崎
→魔女の宅急便はバブル時代に波長が合ってヒットした
→ゆとりを持って作ったのがうしろめたいし、お金が入るとなおいけない
→疲れたとかいってリハビリ映画に手を出したが(笑)、映画には本音がはっきり出る
→湾岸戦争以来、自分の生き方の根っこの部分が揺らいできたということがある
→うしろめたさを根拠にした世界観とか歴史観、戦後の高度成長期に居合わせて、世の中
良くなるから人間性も良くなると、疑問符をつけながらも根拠としてきた部分がぐらついた
・加藤
→「紅の豚」は自分の世界観や美意識を押し付けず伝えもせず毅然と生きてきた男の映画だと
思うが、そういう男のイメージは歴史的にジャンギャバンから高倉健までずっとある
・宮崎
→そのイメージは「時には昔の話を」とか「さくらんぼの実る頃」のフレーズが大きな
ひっかかりになっている
→「さくらんぼの実る頃」は1871年パリコミューンへの思いを込めた痛みのある追憶の歌
→1920年代になって半世紀前の歌を愛しながら、真っ赤な飛行艇で飛び続ける豚に託された
心情というのは、おそらくうまく伝わらないとわかっているが、作る側の密かな楽しみ
・加藤
→男の価値観は敗残してファナティックに自爆すれば一巻の終わりだけど、あいにく生き残って、
美意識が缶詰のように凝縮されると、一人真っ赤な飛行艇で・・・に持って行くのでは(笑)
→女は男をじっと見ていて、ダメになったら行って抱いてあげようと・・・
→私の場合、いつも抱いてあげるので抱いてくださいとは決して言わないから
・宮崎
→抱いておやりという感じがとても好きだった
→戦後民主主義は愛することが純粋で愛し続けるのが一番良いとなっているけど、違う
→人の出会い方とか、つながりの作り方は無数で、良いとか悪いとか決して言えないのに、
愛情のあり方となると、1本しかないような錯覚にとらわれている
・加藤
→私は好きか嫌いかで、ソ連が崩壊しようがユーゴスラビアが分裂しようが、いい男がいたら
イデオロギーとかは二の次で飛んでいく
・宮崎
→でも、どう出会うかで運命的に決まるのでは・・・僕は疑い深いから(笑)
・加藤
→好きな奴、嫌いな奴、いい奴、悪い奴は不思議なことにわかる
→これを言えば全世界の思想も悩みもなくなるが、好きな男への不安はいつもある
→でも嫌いな人間に対する反感とは全然違う、こういう思想性って・・・
・宮崎
→生きてる感じがして好き。傷を負うのを恐れない、その方が疑い深い僕の生き方より素敵
見果てぬ夢をめぐって
・加藤
→30代の記者から「時には昔の話を」のような「あの頃」を共通語にできる世代はいい、
僕らの(世代の)みじめさも歌にして下さいよと言われた
・宮崎
→僕らの「あの頃」を60年、70年の高揚時における共通体験だと思ってるとしたら少し違う
→自分たちで探して作ったという自負だけはある
→学校出て映画会社入って労働組合やりながら、こんな映画じゃなく違う映画を、とやってた
→「あの頃の僕ら」が、いまだに自分のなかに生きている
・加藤
→私の感覚では「あの頃」というと充実した時間で、きわめて個人的な体験
→歌の中で「あの日のすべてが空しいものだと、それは誰にも言えない」と言ってるけど、
それは歴史的にも証明されたし、自分でも空しいとわかっている
→でも空しいとは口が裂けても言えないし、絶対に誰にも言わせたくない
・宮崎
→ほんとうによくわかる。よく歌って下さったという感じだった
→あの歌を聴いていると忘れていた友人たちの顔が次々と浮かんでくる
・加藤
→自分の存在なんて大したもんじゃないから日々の生活とか出来事とか歴史とか文化から、
何とか自分を作ろうとする
・宮崎
→サン・テグジュベリの作品で命がけの夜間飛行から帰ってきて、いつもの店で、いつもの
コーヒーとクロワッサンの食事をする、とても威厳がある。サハラの岩塩の隊商と同じ。
→死者も出る困難な旅だけど村に着くと、いつもの別れの挨拶を交わすだけで家々に帰っていく・・・
→映画の仕事もそんなふうに終えたいというのが「見果てぬ夢」かな・・・
→その後は、また一人になって飛んでいけばいい
→なじみの店や美しい女主人もいてくれないと困るけど・・・(笑)
・加藤
→飛んだ先に何かがあるということではなく、飛んでいくというその感覚
→コンサートのさなかに飛行機の離陸音を聞くときがある
→もうここにはいないぞと叫びそうになって歌っているときがある
→自分が飛行艇乗りになりたいなんて思ったことは一度もないけど・・・(笑)
(エンディング・イラスト22枚は加藤登紀子が唄う「時には昔の話を」からヒントを得て、
宮崎監督自身が飛行機黎明期の時代背景とともに描き出したもの)
イタロ・カプローニ「祖父ジャンニ・カプローニが生きた「紅の豚」の時代」より
・あの時代の愛する国と飛行機を、あそこまで美しく精緻に描くイタリア人がどれだけいるか
・ポルコの愛機はアレーニア・アエルマッキ社が制作し1925年のシュナイダーカップに出場した
マッキM33がモデルになっていると思われるが作品の飛行機はどれもマエストロの独創性の産物
(カプローニ社の飛行機が登場しなかったのが残念だったけど・・・)
・客船の護衛機パイロット、バラッカとヴィスコンティそれにアルトゥーロ・フェラーリンは
実在の空軍パイロットで、フェラーリンはローマ・東京間フライトを1920年代に実現させ、
愛機AnsaldoS.V.A9は1945年まで東京の博物館に保管され、戦後アメリカ軍に没収されている
・戦後のイタリア国内で祖父はファシストの残骸とされ、その功績に目を向けられなかったが、
マエストロが「風立ちぬ」で本当の祖父の姿を描いてくれた
・ドゥカティ社の1号機「クッチョロ」のボディ設計も祖父で、その後もバイクを手掛けたが、
ラジエーターがまるでハートで美しく、今も保管されている1台はポルコの愛機と同じ紅色
・(紅の豚を観て感動し)マエストロの今後の参考になればと、保管していた本を2冊送ったら
じつに丁寧な礼状をいただいた
→その後(風立ちぬ公開後?)マエストロから手書きの絵が2枚送られてきた
→慎重に開封して絵を見たとき、とめどなく涙が溢れた
→この絵は、もう少し自分の心の中だけにしまっておきたい・・・
村上龍「現実をなぞらない宮崎駿」より
→宮崎駿は決して過去の感動や表現をなぞったりしない
→安心して見ていられるがすぐに飽きるという作品が皆無→その答えの一つが「紅の豚」
→自分が好きな世界しか描かないということ
→作業の前に豚と女たちがパスタを食べるシーンがあるが見ていて食べたくなった
→それまでのイタリアの風景や風物の描写に嘘がなかったからイタリアを思い出し、
そのスパゲッティが象徴するものに飢えてしまったのだった
→普通そんなことはアニメーションではあり得ない・・・
・青沼陽一郎「「紅の豚」とその時代」より
→この映画が上映されたのは1992年7月
→1989年11月にベルリンの壁崩壊(「魔女の宅急便」公開の4ヶ月後)
→1991年にはソビエト連邦崩壊、湾岸戦争勃発、ユーゴスラビアの民族紛争・・・
→日本はバブル経済、宗教ブーム・・・
→宮崎作品にはその時代が背負った血潮のようなものが、彼の身体を通して紛れ込んでいると思う
大塚英志「解題」より
・ソビエト連邦もベルリンの壁も崩壊し、昭和天皇も手塚治虫も美空ひばりも逝き、冷戦構造も
昭和もほぼ同時に終わった中で企画された「モラトリアム的要素の強い作品」
→これまで解題では高畑や宮崎の意図を肯定的に読みとる努力をしてきたが正直ストレスがあった
→「紅の豚」には苛立ちを感じず、好き嫌いでは一番好きな作品
→高畑の一貫した要求に宮崎が正面からグレてみせたから
・歴史の転換点を踏まえるのではなくかわす
→宮崎の模型趣味(ごっこ遊び)や母性原理への傾斜が良い形で機能している
→俺はこう生きると言ってるが、観客にこう生きろとは言ってないのが批評的
→90年前後の歴史の転換点で、個人の物語が世界を変え得るというテーゼは失効している、
と言いたげなのだ(おもひでぽろぽろのタエ子の帰農批判)
→大人になれない大人ではなく、大人から降りてしまった大人を描いた
・ポルコは子宮の象徴である孤島の入江で堂々と胎内回帰して微睡んでいる
→空賊団もマンマユート(ママ助けて、ママ怖いよ)団と名乗る
→ドーラはおらず、とうに大人になっているが、彼らもモラトリアムの積極的な選択者
→ジーナは母ではなく女で、男たちはごっこ遊びでその子供たちを演じている
「でも戦争ごっこはだめよ」
「わかってるよジーナ、この店の50キロ以内じゃ仕事はしねえさ」
「豚とだって仲良くやってるぞ」
「みんないい子ね」
→空賊も賞金稼ぎもいい子にしているジーナの支配する世界
→女子供の世界で、ごっこの世界
「15人もいますけど、みんな連れて行くんですか?」
「仲間はずれを作っちゃ、かわいそうじゃねえか」
→子供が子供であることを担保してくれる大人がいる世界→子供が安全な世界
→現実の歴史から切断された空間で単なる現実逃避や胎内回帰をしているのではないか
→現実は世界恐慌、ファシズムの成立で第二次世界大戦へ向かっている
「いくら小さな尻でも機関銃の間は狭すぎだ。一挺おろすんだ」
「よかった!!わたしのお尻みかけより大きいの」
→フィオの大きなお尻=女性原理が戦闘機の武装を解除してしまう
→母性は兵士や民族を産むファシズムの補完装置→批評として作用している
→クライマックスの空中戦でも「フィオの尻のせいで」壊れてて撃つことができない
・アジール(無縁・公界)としてのジーナの島のある海域
→ジーナ自身が守っている
(女主人に仕切られる秩序ある公界は「油屋」や「タタラ場」にも鮮明に)
→ファシズムと大量生産・大量消費のアメリカニズムが台頭する時代
→ポルコもジーナも空賊たちも、どちらにも乗れず最後の一瞬を謳歌する
(宮崎のコンテ記述によればジーナが「幼稚園の先生のようにパンパンと手をたたいて」)
「さあお祭りは終わり、イタリア空軍がここに向かってるわ。みんな早く逃げてちょうだい」
→彼女は男たちに「ごっこ=アジールの時間」の終わりを告げる
・「紅の豚」が作られた時代は「幼稚な歴史」や「戦争ごっこ」と本当の歴史や戦争の区別を
つけない時代への転換点だった
→その時に愚かな歴史から降りるモラトリアムを描き、国家や民族ではないアジールという
パブリックのあり方をさり気なくデッサンしてみせた
→最も時代に対して批評的な作品であり、その批評性は今も有効と考える
・90年前後の時点で冷戦構造は終わったが「世界を二つに分けたい」思考を克服できなかった
→世界の複雑さに耐えかね、敵と味方、反日と愛国、呆れるほど単純な二元論に
→その息苦しさを予見し「おもひでぽろぽろ」のある種の教条主義をあっさりとかわし、
歴史の終焉をひどく真面目に受け止め、それらの束縛から自らを解放しようとしていた
→「日常の中で自動的転向はしたくない、人間の尊厳は変わっていない」
→自動転向していく世界から降りたのは逃避とは言い難い、一つの理性的な選択
→「紅の豚」は個人的な思想がよく表れ、宮崎という作り手が最も深く理解できる作品
・「紅の豚」はお伽話のように見えて歴史への批評としてある
→フィオは民話の構造に忠実に向こう側の世界に行って、好きな異性の本当の素顔を見て、
恋の決闘の賭けの対象になっても、お伽話の原理は発動せず歴史や現実の側に戻される
→フィオはポルコとの恋を手に入れられず、ジーナとの友情を手に入れる
→彼らはアジールの終わり、ごっこ時間の終わりへの惜別として本気で遊んだに過ぎない
→ポルコは半分死者(幽霊)で、ジーナは亡くした3人の夫を弔い続ける
→なので現実を生きていくフィオと結ばれるべきではない
・ジーナのアジールが「もののけ姫」のタタラ場に発展したとき「僕はタタラ場で生きる」と
アシタカに言わせたことが正しかったか
→「紅の豚」の変奏として「もののけ姫」はある→「もののけ姫」の解題で・・・
他にもフランス文学者による宮崎駿のサン・テグジュベリへの思い(略)とか・・・
(1998年5月9日NHK「世界わが心の旅」サン・テグジュベリ大空への旅~南仏からサハラ~)
(映画「紅の豚」原作~飛行艇時代~大日本絵画2004)
(宮崎駿・加藤登紀子共著「時には昔の話を」徳間書店1992)
万城目学が大阪・新世界を歩くポルコ(のコスプレ)と出会った際の違和感のなさとか・・・
(こういう視線でミラノ市民はポルコと往来ですれ違ったのかと、ごく自然に納得できた)
などなど・・・
まあ、じつにいろんな人が、いろんな楽しみ方をしていることにも、多くの人がジブリの中で
一番好きな作品としていることにも驚きましたし、わたくしが「紅の豚」に惹かれる理由も、
少しは分かったような気もしました。
ま、この作品も理屈抜きで、何度も楽しむにも最高なのですが・・・
P.S
わたくしは岡田斗司夫がYouTubeで解説してた「エンディング」のいくつかの説の中で、
JALの機内上映版ではあったけど劇場公開版ではカットされたともいわれている・・・
ぴかぴかのボーイング707(追記修正→完成したセル画を見るとボーイング727でした)
(1960年代初頭?)が飛ぶ横に、ターボプロップエンジンに二重反転プロペラ、半開放式風防で、
機体にはハートのG(ジーナ?)の撃墜マークを付けた紅の飛行艇が現れ、騒ぐ乗客の女学生たち?
に親指を立てて答え、一気に抜き去っていくというエンディングも観てみたいな・・・
ま、与圧服に酸素マスク、ゴーグルにヘルメット姿なので、顔が豚なのか人間なのかは、
わからないままなのですが、それがまた素晴らしいエンディング・・・
さらに劇場公開版のエンディングでも、フィオの飛行艇がジーナの島の上空を飛ぶシーンで、
よく見ると桟橋に赤い飛行艇が係留してあるとゆーのも同解説ではじめて知りました。
もし1960年代前半としてもポルコは70歳代になってるはずで、それでも真っ赤な飛行艇を駆って、
(女の子にちょっかいを出すためだけに?)大空を飛び続けている・・・
どちらにしても素晴らしいエンディングですね!!!
ジブリの教科書7「紅の豚」(1992年公開)のご紹介であります
文芸春秋社2014年9月10日第1刷発行で、ナビゲーターは万城目学
例によって目次のみのご紹介
以下、わたくしの部分的な読後メモから・・・てきとーなので正しくは本書を熟読くださいね
(ジブリの中でも特に好きな作品なので、今回はメモも長めになっております)
・宮崎駿監督の演出覚書(1991)より
→疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のためのマンガ映画
→陽気だがランチキ騒ぎではなく、ダイナミックだが破壊的ではない
→愛はたっぷりあるが肉欲は余計だ
→誇りと自由に満ち、ストーリーは単純、登場人物の動機も明快そのもの
→男たちは陽気で快活、女たちは魅力にあふれ、人生を味わっている
→登場人物が、みな人生を刻んできたリアリティを持つこと
→バカ騒ぎはつらい事をかかえてるから、単純さは一皮むけて手に入れたもの・・・
・宮崎駿へのインタビュー(1992)より
キャラクターの誕生
→カーチスもポルコと同じ中年だと思った人も多いらしいが、彼は青年でちゃんとした男
→フィオも(さらに若いけど)「私は私」で、自分のやることも意志もはっきりしている
ポルコについていくのも商売上と作った物に対する責任から→まあ嫌いなら行かないけど
→なので劇中の出来事を通じて大人になった、とかではなくフィオもちゃんとした女
→「紅の豚」に出てくるのは自分を全部確立した人間だけで、そういうことを明確にした映画
→まだふにゃふにゃの自我を抱え、励ましや何かしてくれるものが欲しい人のためのものではない
→その意味で、これは若者をまったく排除して作った映画で「中年の映画」
→そうしないと1920年代を豚として生きたポルコに拮抗できないと思っている
→その後のヨーロッパの激動をどうやって生き抜くのか、映画を作りながらひどく気になってた
→ファシストと戦ってカタルシスを得るのではなく、生きていて欲しいと思いながら作った
→俺は俺でやるという視点を明瞭に持っているキャラクターを出したかった
→大混乱や戦争の責任は全部俺にあるという視点ではなく、俺も同じイタリア人だから責任がある
という視点ではなく、俺は俺、俺の魂の責任は俺が持つという、豚はそういう男
→それがこれから生きていく上で必要だと、自分も切実に思ったから
映画の結末について
(ポルコは人間に返ったのか豚のままなのかとの問いに)
→人間に戻ることが大事なのだろうか?正しいのだろうか?
→ときどき本音が出て真顔になるけど最後まで豚のまま生きるほうが、この男らしいと思う
→何かを獲得して収まるハッピーエンドは、この映画には用意されていない
→取り返しのつかない経験もいっぱいしてる人間たちだから、フィオでまっさらになった、
なんて思わないし、みそぎできれいになると思ってるのは自民党の代議士だけ(笑)
→もののけ姫という、もののけと姫の物語を考えていたときも、もののけはもののけのままで
終わるように描き直したらすっきりしたし、美女と野獣はずっとやりたかったテーマだけど、
もしやったとしても最後は野獣のまま・・・
最後のテロップのイラスト(エンディング・イラスト)について
(描かれてるのがなぜみんな豚なのかとの問いに)
→空を飛ぶことが何をもたらしたか、飛ばなければよかったとも言える
→黎明期はどんなものでもキラキラしてるが、資本、国家、利害関係に組み込まれて汚れる
→飛びたいから飛ぶだけでなく任務で飛ぶ、じつにくだらない任務で飛ぶ
→飛ぶことだけで全部完結する人間は絶対に豚にならない、単なる乗組員で終わり
→時代にインプットされたものは簡単に乗り越えることはできない
→戦後焼跡世代もバブルの餌食世代も・・・
→今(1992)の20代30代は大人の世界・社会・政治家がくだらないことはわかってるが、
そのおこぼれ(週休二日などはその大人が稼いだ上がり)だけは手に入れている
→40代になって社会の中心になっても弁当屋とコンビニといつでもできるバイトがあるのが
当然と思っているだろう
→もう少しくだらなくしようとしたときに、貧乏になろうとはしないだろう
→稼ぎ以上のものを使う→それが彼ら(バブルの餌食)の限界
世代や制約の壁を突破して
(おとなの映画ですねとの問いに)
→たぶん今(1992)の若い男(バブルの餌食)が一番取り残されてしまった映画
→カタルシスのある定型を全部踏襲してたら満足な人には敵意のある映画
→いつものサービス過剰はないよ、おじさんはそれどころじゃないよ、という映画
→豚が人間になりました、よかったよかった、では嘘になる
→そういうカタルシスを求めるのは間違っている・・・
・加藤登紀子と宮崎駿の対談より
(1992公開時の対談、同年に共著「時には昔の話を」(徳間書店)がある)
(宮崎は1941年生まれ、加藤は1943年生まれ)
あの頃という時代
・加藤
→60年安保の時は16歳の高校生、亡くなった樺美智子さんにみんなでお花を持っていった
→今考えればただのセンチメンタリズムだがセーラー服は本当にピュアにキラキラと輝いていた
→それが高三になると受験とかで濁っていって、次第にやりきれなくなって・・・
・宮崎
→大学に入った年が安保でバカなことと思ってたが無関心ではいけないと思い始めた頃には
諸先輩は挫折の大合唱で、そのキラキラは1回もなかった
・加藤
→でもファナティックな時代の雰囲気は確かにあった
・宮崎
→感じはわかるが、今が一番愚かな灰色の時代で少しずつ日が差してくると思ってた
→それが自分たちの(世代の)歴史で、どこかにインプットされている
→だから民族紛争みたいなことが起これば呆然として、自分がグラグラしている
→若いスタッフに、君らはバブルの餌食で歴史がないと言ってきたけど、それは自分に
あまり根拠のない楽観主義をつくっているだけだとわかってきた
生きる"よりどころ"
・加藤
→やはり私は好きな人は好き、嫌いな人は嫌いという女性的な感覚
→なので世界観とかイデオロギーが変わったというより、美しいうちは美しいと・・・
→ユーゴスラビアでも立ち上がった瞬間は美しいが、権力を持つと・・・
(毛沢東、ヒトラー、マレーネディートリッヒ、岡田嘉子・・・略)
・宮崎
→今はお金は善だが戦時中の自分の家庭が金持ちだったことが自分の中につきまとっていた
・加藤
→私は中国からの引揚者で自由な環境に結びついてトクをしてたが、中国の人々に対する
うしろめたさというのは厳然としてある
・宮崎
→うしろめたさというのは日本の中の自分の家や一族、世界やアジアの中の日本という形である
→自分の幼児体験や過去の記憶を掘り起こせば、理屈としてはわかる
→同時に記憶にまとわりつく、うしろめたさを失くすと自分の一番大事な部分を失くす気がする
→このうしろめたさが最後の支えなのかとさえ思う
→分裂を抱えたままいくしかない、分裂せずに生きていく方が真っ当なのだが・・・
映画と時代の波長
・宮崎
→魔女の宅急便はバブル時代に波長が合ってヒットした
→ゆとりを持って作ったのがうしろめたいし、お金が入るとなおいけない
→疲れたとかいってリハビリ映画に手を出したが(笑)、映画には本音がはっきり出る
→湾岸戦争以来、自分の生き方の根っこの部分が揺らいできたということがある
→うしろめたさを根拠にした世界観とか歴史観、戦後の高度成長期に居合わせて、世の中
良くなるから人間性も良くなると、疑問符をつけながらも根拠としてきた部分がぐらついた
・加藤
→「紅の豚」は自分の世界観や美意識を押し付けず伝えもせず毅然と生きてきた男の映画だと
思うが、そういう男のイメージは歴史的にジャンギャバンから高倉健までずっとある
・宮崎
→そのイメージは「時には昔の話を」とか「さくらんぼの実る頃」のフレーズが大きな
ひっかかりになっている
→「さくらんぼの実る頃」は1871年パリコミューンへの思いを込めた痛みのある追憶の歌
→1920年代になって半世紀前の歌を愛しながら、真っ赤な飛行艇で飛び続ける豚に託された
心情というのは、おそらくうまく伝わらないとわかっているが、作る側の密かな楽しみ
・加藤
→男の価値観は敗残してファナティックに自爆すれば一巻の終わりだけど、あいにく生き残って、
美意識が缶詰のように凝縮されると、一人真っ赤な飛行艇で・・・に持って行くのでは(笑)
→女は男をじっと見ていて、ダメになったら行って抱いてあげようと・・・
→私の場合、いつも抱いてあげるので抱いてくださいとは決して言わないから
・宮崎
→抱いておやりという感じがとても好きだった
→戦後民主主義は愛することが純粋で愛し続けるのが一番良いとなっているけど、違う
→人の出会い方とか、つながりの作り方は無数で、良いとか悪いとか決して言えないのに、
愛情のあり方となると、1本しかないような錯覚にとらわれている
・加藤
→私は好きか嫌いかで、ソ連が崩壊しようがユーゴスラビアが分裂しようが、いい男がいたら
イデオロギーとかは二の次で飛んでいく
・宮崎
→でも、どう出会うかで運命的に決まるのでは・・・僕は疑い深いから(笑)
・加藤
→好きな奴、嫌いな奴、いい奴、悪い奴は不思議なことにわかる
→これを言えば全世界の思想も悩みもなくなるが、好きな男への不安はいつもある
→でも嫌いな人間に対する反感とは全然違う、こういう思想性って・・・
・宮崎
→生きてる感じがして好き。傷を負うのを恐れない、その方が疑い深い僕の生き方より素敵
見果てぬ夢をめぐって
・加藤
→30代の記者から「時には昔の話を」のような「あの頃」を共通語にできる世代はいい、
僕らの(世代の)みじめさも歌にして下さいよと言われた
・宮崎
→僕らの「あの頃」を60年、70年の高揚時における共通体験だと思ってるとしたら少し違う
→自分たちで探して作ったという自負だけはある
→学校出て映画会社入って労働組合やりながら、こんな映画じゃなく違う映画を、とやってた
→「あの頃の僕ら」が、いまだに自分のなかに生きている
・加藤
→私の感覚では「あの頃」というと充実した時間で、きわめて個人的な体験
→歌の中で「あの日のすべてが空しいものだと、それは誰にも言えない」と言ってるけど、
それは歴史的にも証明されたし、自分でも空しいとわかっている
→でも空しいとは口が裂けても言えないし、絶対に誰にも言わせたくない
・宮崎
→ほんとうによくわかる。よく歌って下さったという感じだった
→あの歌を聴いていると忘れていた友人たちの顔が次々と浮かんでくる
・加藤
→自分の存在なんて大したもんじゃないから日々の生活とか出来事とか歴史とか文化から、
何とか自分を作ろうとする
・宮崎
→サン・テグジュベリの作品で命がけの夜間飛行から帰ってきて、いつもの店で、いつもの
コーヒーとクロワッサンの食事をする、とても威厳がある。サハラの岩塩の隊商と同じ。
→死者も出る困難な旅だけど村に着くと、いつもの別れの挨拶を交わすだけで家々に帰っていく・・・
→映画の仕事もそんなふうに終えたいというのが「見果てぬ夢」かな・・・
→その後は、また一人になって飛んでいけばいい
→なじみの店や美しい女主人もいてくれないと困るけど・・・(笑)
・加藤
→飛んだ先に何かがあるということではなく、飛んでいくというその感覚
→コンサートのさなかに飛行機の離陸音を聞くときがある
→もうここにはいないぞと叫びそうになって歌っているときがある
→自分が飛行艇乗りになりたいなんて思ったことは一度もないけど・・・(笑)
(エンディング・イラスト22枚は加藤登紀子が唄う「時には昔の話を」からヒントを得て、
宮崎監督自身が飛行機黎明期の時代背景とともに描き出したもの)
イタロ・カプローニ「祖父ジャンニ・カプローニが生きた「紅の豚」の時代」より
・あの時代の愛する国と飛行機を、あそこまで美しく精緻に描くイタリア人がどれだけいるか
・ポルコの愛機はアレーニア・アエルマッキ社が制作し1925年のシュナイダーカップに出場した
マッキM33がモデルになっていると思われるが作品の飛行機はどれもマエストロの独創性の産物
(カプローニ社の飛行機が登場しなかったのが残念だったけど・・・)
・客船の護衛機パイロット、バラッカとヴィスコンティそれにアルトゥーロ・フェラーリンは
実在の空軍パイロットで、フェラーリンはローマ・東京間フライトを1920年代に実現させ、
愛機AnsaldoS.V.A9は1945年まで東京の博物館に保管され、戦後アメリカ軍に没収されている
・戦後のイタリア国内で祖父はファシストの残骸とされ、その功績に目を向けられなかったが、
マエストロが「風立ちぬ」で本当の祖父の姿を描いてくれた
・ドゥカティ社の1号機「クッチョロ」のボディ設計も祖父で、その後もバイクを手掛けたが、
ラジエーターがまるでハートで美しく、今も保管されている1台はポルコの愛機と同じ紅色
・(紅の豚を観て感動し)マエストロの今後の参考になればと、保管していた本を2冊送ったら
じつに丁寧な礼状をいただいた
→その後(風立ちぬ公開後?)マエストロから手書きの絵が2枚送られてきた
→慎重に開封して絵を見たとき、とめどなく涙が溢れた
→この絵は、もう少し自分の心の中だけにしまっておきたい・・・
村上龍「現実をなぞらない宮崎駿」より
→宮崎駿は決して過去の感動や表現をなぞったりしない
→安心して見ていられるがすぐに飽きるという作品が皆無→その答えの一つが「紅の豚」
→自分が好きな世界しか描かないということ
→作業の前に豚と女たちがパスタを食べるシーンがあるが見ていて食べたくなった
→それまでのイタリアの風景や風物の描写に嘘がなかったからイタリアを思い出し、
そのスパゲッティが象徴するものに飢えてしまったのだった
→普通そんなことはアニメーションではあり得ない・・・
・青沼陽一郎「「紅の豚」とその時代」より
→この映画が上映されたのは1992年7月
→1989年11月にベルリンの壁崩壊(「魔女の宅急便」公開の4ヶ月後)
→1991年にはソビエト連邦崩壊、湾岸戦争勃発、ユーゴスラビアの民族紛争・・・
→日本はバブル経済、宗教ブーム・・・
→宮崎作品にはその時代が背負った血潮のようなものが、彼の身体を通して紛れ込んでいると思う
大塚英志「解題」より
・ソビエト連邦もベルリンの壁も崩壊し、昭和天皇も手塚治虫も美空ひばりも逝き、冷戦構造も
昭和もほぼ同時に終わった中で企画された「モラトリアム的要素の強い作品」
→これまで解題では高畑や宮崎の意図を肯定的に読みとる努力をしてきたが正直ストレスがあった
→「紅の豚」には苛立ちを感じず、好き嫌いでは一番好きな作品
→高畑の一貫した要求に宮崎が正面からグレてみせたから
・歴史の転換点を踏まえるのではなくかわす
→宮崎の模型趣味(ごっこ遊び)や母性原理への傾斜が良い形で機能している
→俺はこう生きると言ってるが、観客にこう生きろとは言ってないのが批評的
→90年前後の歴史の転換点で、個人の物語が世界を変え得るというテーゼは失効している、
と言いたげなのだ(おもひでぽろぽろのタエ子の帰農批判)
→大人になれない大人ではなく、大人から降りてしまった大人を描いた
・ポルコは子宮の象徴である孤島の入江で堂々と胎内回帰して微睡んでいる
→空賊団もマンマユート(ママ助けて、ママ怖いよ)団と名乗る
→ドーラはおらず、とうに大人になっているが、彼らもモラトリアムの積極的な選択者
→ジーナは母ではなく女で、男たちはごっこ遊びでその子供たちを演じている
「でも戦争ごっこはだめよ」
「わかってるよジーナ、この店の50キロ以内じゃ仕事はしねえさ」
「豚とだって仲良くやってるぞ」
「みんないい子ね」
→空賊も賞金稼ぎもいい子にしているジーナの支配する世界
→女子供の世界で、ごっこの世界
「15人もいますけど、みんな連れて行くんですか?」
「仲間はずれを作っちゃ、かわいそうじゃねえか」
→子供が子供であることを担保してくれる大人がいる世界→子供が安全な世界
→現実の歴史から切断された空間で単なる現実逃避や胎内回帰をしているのではないか
→現実は世界恐慌、ファシズムの成立で第二次世界大戦へ向かっている
「いくら小さな尻でも機関銃の間は狭すぎだ。一挺おろすんだ」
「よかった!!わたしのお尻みかけより大きいの」
→フィオの大きなお尻=女性原理が戦闘機の武装を解除してしまう
→母性は兵士や民族を産むファシズムの補完装置→批評として作用している
→クライマックスの空中戦でも「フィオの尻のせいで」壊れてて撃つことができない
・アジール(無縁・公界)としてのジーナの島のある海域
→ジーナ自身が守っている
(女主人に仕切られる秩序ある公界は「油屋」や「タタラ場」にも鮮明に)
→ファシズムと大量生産・大量消費のアメリカニズムが台頭する時代
→ポルコもジーナも空賊たちも、どちらにも乗れず最後の一瞬を謳歌する
(宮崎のコンテ記述によればジーナが「幼稚園の先生のようにパンパンと手をたたいて」)
「さあお祭りは終わり、イタリア空軍がここに向かってるわ。みんな早く逃げてちょうだい」
→彼女は男たちに「ごっこ=アジールの時間」の終わりを告げる
・「紅の豚」が作られた時代は「幼稚な歴史」や「戦争ごっこ」と本当の歴史や戦争の区別を
つけない時代への転換点だった
→その時に愚かな歴史から降りるモラトリアムを描き、国家や民族ではないアジールという
パブリックのあり方をさり気なくデッサンしてみせた
→最も時代に対して批評的な作品であり、その批評性は今も有効と考える
・90年前後の時点で冷戦構造は終わったが「世界を二つに分けたい」思考を克服できなかった
→世界の複雑さに耐えかね、敵と味方、反日と愛国、呆れるほど単純な二元論に
→その息苦しさを予見し「おもひでぽろぽろ」のある種の教条主義をあっさりとかわし、
歴史の終焉をひどく真面目に受け止め、それらの束縛から自らを解放しようとしていた
→「日常の中で自動的転向はしたくない、人間の尊厳は変わっていない」
→自動転向していく世界から降りたのは逃避とは言い難い、一つの理性的な選択
→「紅の豚」は個人的な思想がよく表れ、宮崎という作り手が最も深く理解できる作品
・「紅の豚」はお伽話のように見えて歴史への批評としてある
→フィオは民話の構造に忠実に向こう側の世界に行って、好きな異性の本当の素顔を見て、
恋の決闘の賭けの対象になっても、お伽話の原理は発動せず歴史や現実の側に戻される
→フィオはポルコとの恋を手に入れられず、ジーナとの友情を手に入れる
→彼らはアジールの終わり、ごっこ時間の終わりへの惜別として本気で遊んだに過ぎない
→ポルコは半分死者(幽霊)で、ジーナは亡くした3人の夫を弔い続ける
→なので現実を生きていくフィオと結ばれるべきではない
・ジーナのアジールが「もののけ姫」のタタラ場に発展したとき「僕はタタラ場で生きる」と
アシタカに言わせたことが正しかったか
→「紅の豚」の変奏として「もののけ姫」はある→「もののけ姫」の解題で・・・
他にもフランス文学者による宮崎駿のサン・テグジュベリへの思い(略)とか・・・
(1998年5月9日NHK「世界わが心の旅」サン・テグジュベリ大空への旅~南仏からサハラ~)
(映画「紅の豚」原作~飛行艇時代~大日本絵画2004)
(宮崎駿・加藤登紀子共著「時には昔の話を」徳間書店1992)
万城目学が大阪・新世界を歩くポルコ(のコスプレ)と出会った際の違和感のなさとか・・・
(こういう視線でミラノ市民はポルコと往来ですれ違ったのかと、ごく自然に納得できた)
などなど・・・
まあ、じつにいろんな人が、いろんな楽しみ方をしていることにも、多くの人がジブリの中で
一番好きな作品としていることにも驚きましたし、わたくしが「紅の豚」に惹かれる理由も、
少しは分かったような気もしました。
ま、この作品も理屈抜きで、何度も楽しむにも最高なのですが・・・
P.S
わたくしは岡田斗司夫がYouTubeで解説してた「エンディング」のいくつかの説の中で、
JALの機内上映版ではあったけど劇場公開版ではカットされたともいわれている・・・
ぴかぴかのボーイング707(追記修正→完成したセル画を見るとボーイング727でした)
(1960年代初頭?)が飛ぶ横に、ターボプロップエンジンに二重反転プロペラ、半開放式風防で、
機体にはハートのG(ジーナ?)の撃墜マークを付けた紅の飛行艇が現れ、騒ぐ乗客の女学生たち?
に親指を立てて答え、一気に抜き去っていくというエンディングも観てみたいな・・・
ま、与圧服に酸素マスク、ゴーグルにヘルメット姿なので、顔が豚なのか人間なのかは、
わからないままなのですが、それがまた素晴らしいエンディング・・・
さらに劇場公開版のエンディングでも、フィオの飛行艇がジーナの島の上空を飛ぶシーンで、
よく見ると桟橋に赤い飛行艇が係留してあるとゆーのも同解説ではじめて知りました。
もし1960年代前半としてもポルコは70歳代になってるはずで、それでも真っ赤な飛行艇を駆って、
(女の子にちょっかいを出すためだけに?)大空を飛び続けている・・・
どちらにしても素晴らしいエンディングですね!!!
2022年08月23日
ジブリの教科書2
前回記事からの続き・・・
ジブリの教科書2「天空の城ラピュタ」(1986年公開)のご紹介であります。
文芸春秋社2013年5月10日第1刷発行で、ナビゲーターは森絵都
恒例により目次のみのご紹介
ラピュタや飛行機械、スラッグ渓谷などの図解もいっぱいで楽しめましたが、以下は
わたくしの部分的な読後メモから・・・(てきとーなので正確には本書を熟読下さいね)
・宮崎駿による企画覚書より(本作品の目指すもの)
→若い観客が心をほぐし、楽しみ、よろこぶ映画
→笑いと涙、真情あふれる素直な心
→現在もっともクサイとされるものだが、観客が気づいていなくても最も望んでいるもの
→相手への献身、友情、信ずるものへ、ひたすらに進んでいく少年の熱意・・・
→(それらを)てらわずに、しかも今日の観客に通ずる言葉で語ること
・ナビゲーター森絵都による、パズーの意識の変化より
→親方のおかみさんから「守っておやり」といわれ、はじめて自分の役割に目覚める
→シータを置いて帰り、ドーラからシータの本心を教えられ、守るための力をつける
(自分一人では助けられないので一時的に海賊の仲間にもなる)
→タイガーモス号でシータのポテンシャリティーと頼もしさを認める
→「守らなければならない少女」から「ともに何かを乗り越えていく同士」へ
→さらなるシータへの信頼の深まり(ラピュタでの木登りなど・・・)
→究極の信頼へ→滅びの言葉を二人で・・・
・鈴木敏夫による、制作に至る経過(の一部)より
ナウシカ後にジブリを設立、柳川を舞台にした青春物語が候補になったが、ロケハン過程で
掘割を再生した人々の実写記録のほうが魅力的となり、ナウシカの利益配分が入った宮崎駿の
個人事務所である二馬力の自主制作、高畑勲監督による記録映画「柳川掘割物語」になった
→結局四年かけて完成したが途中で資金がなくなり、ジブリ次回作の収入で賄えると提案
→宮崎駿がラピュタの企画書を提出
(「柳川掘割物語」はテレビ放映されたのをVHSビデオ!に録画して、何度も観てましたが、
柳川市役所の下水道係長がドブ川と化していた掘割の暗渠化を命ぜられ、調べて行くうちに
昔ながらの掘割の有効性に気づき、市長から一年間の猶予期間を得て、当初はたった一人で
掘割の清掃作業をはじめ、やがて賛同した市民も協力するようになり、最終的には市議会も
動かして暗渠化を廃案に持ち込み掘割を再生したもので、掘割の仕組みの説明に使われてた
アニメーションは「さすが二馬力!」でしたが、むしろ一人の係長の努力がきっかけで守られた、
という事実そのものに(当時、某自治体の係長だったもので)大きな衝撃を受けてました。
ロケハン過程で掘割再生の記録映画に変更したことも、作品完成までに4年の歳月をかけたことも、
この本ではじめて知りました)
・金原瑞人「児童文学のふたつの潮流」より
→昔のイギリスの児童文学は圧倒的にファンタジーが多い
→アメリカ(とカナダ)では比較的リアリズムの小説が多い(案外女性が活躍している)
→どちらも初期作品の主人公の多くが孤児である(シータとパズーも孤児)
・同「なぜ孤児なのか」
→まず19世紀に孤児が多かった時代背景がある
→孤児を主人公にすると「家族をテーマ」にした小説がダイナミックに展開する
→孤児は動かしやすくて活躍できる→「冒険をテーマ」にできる
(ラピュタも家族テーマ(ドーラなど)と冒険テーマが融合して展開する)
・同「子どもが救いうる世界」
→おそらく「ナルニア国物語」と「指輪物語」で生まれた
→ルイスとトールキンは子どもに救えるような世界を丁寧に作り込んだ
→ハイファンタジー(延長線上が「ゲド戦記」など)へ
・同(本作品について)
→19世紀からの孤児物語と(ルイスやトールキンからの)ハイファンタジーの流れを踏まえた
日本の子ども向けアニメの傑作
→(19世紀からの)科学技術は後の大戦や環境問題で翳りが差したが、そのやりきれなさと切なさの
歴史を細かく描くことなく、ロボット兵の数場面だけで語り尽くしている
→それをしっかりパズーとシータに受けとめさせ、新しい世界への希望をつむいでくれる
・大塚英志「解題」より(ジブリの高畑的なものと宮崎的なものの拮抗)
1.ナウシカの中で未消化の問題だった「活劇」
→高畑のリアリズムを宮崎のアニメーションの想像力がふり切っていく過程
→プロデューサーの高畑が認め宮崎が選択したのが徹底した活劇マンガ映画
→活劇とリアリズムの矛盾を「マンガ映画」であることによって乗り越えようとしてみせた
→理詰めで理屈をふり切っていくのが高畑的であり宮崎的
→マンガ映画だから(押井守が批判した)武装しない子供が、武器を持つ大人に対抗しうる
→これは子供に武器を持たせて戦わせるよりはるかに興味深い選択
→ラストで生き残るのはパズーとシータとドーラ一味だけ
→マンガ映画(のアニメーション法則)なので、落ちて行った人たちは描かれない
→以降は天の宮崎と地の高畑に・・・それぞれのリアリズム・・・
2.主人公の「責任」
→ナウシカの解題では王家の者として民草への責任を負わせたことと犠牲死の問題を述べた
→ラピュタでは王は消滅し、働く主人公が誕生している
→ナウシカの責任は共同体の王としてのもので、必然的に犠牲死と再生という結末に収斂
→ナウシカは社会的な存在としての主人公が前提で、アニメでは新しい問いかけだった
→ラピュタ冒頭のシータの描かれ方も意図的な繰り返し?(飛行石と巨神兵)
→しかしシータはナウシカのように王としての責任を負っているわけではなく働いている
→パズーはナウシカのような剣も王家の血もなく、働くことによって成長していく
3.ジブリの物語の中で、男性から女性に様々な要素が移植されていく出発点となっている
→ドーラはジブリ作品における女性原理の優位という問題に直結している(母性回帰)
→ドーラはやがて銭婆になりジーナにもなる(シータもいずれは・・・)
→ナウシカでは母性はまだ王蟲の形だし、クシャナもナウシカを導くほどではなかった
・働いてちゃんとした大人になったパズーと、王になろうと逆に退行して破綻したムスカ
・ラピュタでジブリは王の物語から解放され、主人公が共同体のために死ぬことはなくなる
・パズーの「働いて大人になる物語」は、この先の宮崎作品では女の子によって担われる
・これらから、ラピュタはジブリの出発点であるように感じる・・・
云々・・・
P.S
過日テレビ放映されてたのを、またまた夢中になって観てましたが、やはり何度観ても
気持ちよくワクワク・ドキドキ・ウルウルさせてくれる作品ですねえ・・・
前回記事で紹介した岡田斗司夫チャンネルで、ラピュタの大きさをタイガーモス号の
見張り台(凧)のコックピットの横幅から(ひと晩かけて)導き出したとゆー話がありましたが、
それによると、現存していた!!!ラピュタの大きさは、ちょうど大阪城や江戸城の範囲ぐらい、
さらにその800年前の最盛期では富士山の大きさと高さぐらいになると、計算過程や地図と
重ね合わせての比較など、じつに詳細に説明してました。
「いやあ、あの計算は楽しかったなあ」と嬉しそうに話してましたが、スラッグ渓谷の街の
歴史や飛行機械のメカ、飛行石の伝説や空に浮かぶ都市の伝説など、この本にもいっぱい
解説(諸説)があって興味は尽きませんでした。
(次回「紅の豚」に続きます)
ジブリの教科書2「天空の城ラピュタ」(1986年公開)のご紹介であります。
文芸春秋社2013年5月10日第1刷発行で、ナビゲーターは森絵都
恒例により目次のみのご紹介
ラピュタや飛行機械、スラッグ渓谷などの図解もいっぱいで楽しめましたが、以下は
わたくしの部分的な読後メモから・・・(てきとーなので正確には本書を熟読下さいね)
・宮崎駿による企画覚書より(本作品の目指すもの)
→若い観客が心をほぐし、楽しみ、よろこぶ映画
→笑いと涙、真情あふれる素直な心
→現在もっともクサイとされるものだが、観客が気づいていなくても最も望んでいるもの
→相手への献身、友情、信ずるものへ、ひたすらに進んでいく少年の熱意・・・
→(それらを)てらわずに、しかも今日の観客に通ずる言葉で語ること
・ナビゲーター森絵都による、パズーの意識の変化より
→親方のおかみさんから「守っておやり」といわれ、はじめて自分の役割に目覚める
→シータを置いて帰り、ドーラからシータの本心を教えられ、守るための力をつける
(自分一人では助けられないので一時的に海賊の仲間にもなる)
→タイガーモス号でシータのポテンシャリティーと頼もしさを認める
→「守らなければならない少女」から「ともに何かを乗り越えていく同士」へ
→さらなるシータへの信頼の深まり(ラピュタでの木登りなど・・・)
→究極の信頼へ→滅びの言葉を二人で・・・
・鈴木敏夫による、制作に至る経過(の一部)より
ナウシカ後にジブリを設立、柳川を舞台にした青春物語が候補になったが、ロケハン過程で
掘割を再生した人々の実写記録のほうが魅力的となり、ナウシカの利益配分が入った宮崎駿の
個人事務所である二馬力の自主制作、高畑勲監督による記録映画「柳川掘割物語」になった
→結局四年かけて完成したが途中で資金がなくなり、ジブリ次回作の収入で賄えると提案
→宮崎駿がラピュタの企画書を提出
(「柳川掘割物語」はテレビ放映されたのをVHSビデオ!に録画して、何度も観てましたが、
柳川市役所の下水道係長がドブ川と化していた掘割の暗渠化を命ぜられ、調べて行くうちに
昔ながらの掘割の有効性に気づき、市長から一年間の猶予期間を得て、当初はたった一人で
掘割の清掃作業をはじめ、やがて賛同した市民も協力するようになり、最終的には市議会も
動かして暗渠化を廃案に持ち込み掘割を再生したもので、掘割の仕組みの説明に使われてた
アニメーションは「さすが二馬力!」でしたが、むしろ一人の係長の努力がきっかけで守られた、
という事実そのものに(当時、某自治体の係長だったもので)大きな衝撃を受けてました。
ロケハン過程で掘割再生の記録映画に変更したことも、作品完成までに4年の歳月をかけたことも、
この本ではじめて知りました)
・金原瑞人「児童文学のふたつの潮流」より
→昔のイギリスの児童文学は圧倒的にファンタジーが多い
→アメリカ(とカナダ)では比較的リアリズムの小説が多い(案外女性が活躍している)
→どちらも初期作品の主人公の多くが孤児である(シータとパズーも孤児)
・同「なぜ孤児なのか」
→まず19世紀に孤児が多かった時代背景がある
→孤児を主人公にすると「家族をテーマ」にした小説がダイナミックに展開する
→孤児は動かしやすくて活躍できる→「冒険をテーマ」にできる
(ラピュタも家族テーマ(ドーラなど)と冒険テーマが融合して展開する)
・同「子どもが救いうる世界」
→おそらく「ナルニア国物語」と「指輪物語」で生まれた
→ルイスとトールキンは子どもに救えるような世界を丁寧に作り込んだ
→ハイファンタジー(延長線上が「ゲド戦記」など)へ
・同(本作品について)
→19世紀からの孤児物語と(ルイスやトールキンからの)ハイファンタジーの流れを踏まえた
日本の子ども向けアニメの傑作
→(19世紀からの)科学技術は後の大戦や環境問題で翳りが差したが、そのやりきれなさと切なさの
歴史を細かく描くことなく、ロボット兵の数場面だけで語り尽くしている
→それをしっかりパズーとシータに受けとめさせ、新しい世界への希望をつむいでくれる
・大塚英志「解題」より(ジブリの高畑的なものと宮崎的なものの拮抗)
1.ナウシカの中で未消化の問題だった「活劇」
→高畑のリアリズムを宮崎のアニメーションの想像力がふり切っていく過程
→プロデューサーの高畑が認め宮崎が選択したのが徹底した活劇マンガ映画
→活劇とリアリズムの矛盾を「マンガ映画」であることによって乗り越えようとしてみせた
→理詰めで理屈をふり切っていくのが高畑的であり宮崎的
→マンガ映画だから(押井守が批判した)武装しない子供が、武器を持つ大人に対抗しうる
→これは子供に武器を持たせて戦わせるよりはるかに興味深い選択
→ラストで生き残るのはパズーとシータとドーラ一味だけ
→マンガ映画(のアニメーション法則)なので、落ちて行った人たちは描かれない
→以降は天の宮崎と地の高畑に・・・それぞれのリアリズム・・・
2.主人公の「責任」
→ナウシカの解題では王家の者として民草への責任を負わせたことと犠牲死の問題を述べた
→ラピュタでは王は消滅し、働く主人公が誕生している
→ナウシカの責任は共同体の王としてのもので、必然的に犠牲死と再生という結末に収斂
→ナウシカは社会的な存在としての主人公が前提で、アニメでは新しい問いかけだった
→ラピュタ冒頭のシータの描かれ方も意図的な繰り返し?(飛行石と巨神兵)
→しかしシータはナウシカのように王としての責任を負っているわけではなく働いている
→パズーはナウシカのような剣も王家の血もなく、働くことによって成長していく
3.ジブリの物語の中で、男性から女性に様々な要素が移植されていく出発点となっている
→ドーラはジブリ作品における女性原理の優位という問題に直結している(母性回帰)
→ドーラはやがて銭婆になりジーナにもなる(シータもいずれは・・・)
→ナウシカでは母性はまだ王蟲の形だし、クシャナもナウシカを導くほどではなかった
・働いてちゃんとした大人になったパズーと、王になろうと逆に退行して破綻したムスカ
・ラピュタでジブリは王の物語から解放され、主人公が共同体のために死ぬことはなくなる
・パズーの「働いて大人になる物語」は、この先の宮崎作品では女の子によって担われる
・これらから、ラピュタはジブリの出発点であるように感じる・・・
云々・・・
P.S
過日テレビ放映されてたのを、またまた夢中になって観てましたが、やはり何度観ても
気持ちよくワクワク・ドキドキ・ウルウルさせてくれる作品ですねえ・・・
前回記事で紹介した岡田斗司夫チャンネルで、ラピュタの大きさをタイガーモス号の
見張り台(凧)のコックピットの横幅から(ひと晩かけて)導き出したとゆー話がありましたが、
それによると、現存していた!!!ラピュタの大きさは、ちょうど大阪城や江戸城の範囲ぐらい、
さらにその800年前の最盛期では富士山の大きさと高さぐらいになると、計算過程や地図と
重ね合わせての比較など、じつに詳細に説明してました。
「いやあ、あの計算は楽しかったなあ」と嬉しそうに話してましたが、スラッグ渓谷の街の
歴史や飛行機械のメカ、飛行石の伝説や空に浮かぶ都市の伝説など、この本にもいっぱい
解説(諸説)があって興味は尽きませんでした。
(次回「紅の豚」に続きます)
2022年08月20日
ジブリの教科書1
とーとつですが・・・
「ジブリの教科書」1のご紹介であります。
ええ、文春ジブリ文庫「ジブリの教科書」シリーズの中から、とりあえず8月は3冊、
1「風の谷のナウシカ」、2「天空の城ラピュタ」、7「紅の豚」を借りたもので・・・
わたくしジブリの宮崎駿作品は大好きで、いわゆる「宮崎本」についても、かなり以前に、
こんな本は読んだことがあったのですが・・・
この猛暑では読書する気力も失せ、8月に入ってからは、YouTubeの岡田斗司夫チャンネル
(の無料部分)なんぞを観つつ聴きつつ、毎晩明け方まで飲んだくれる日々が続いておりました。
(ちなみにこのチャンネル、無料部分だけでも膨大な情報量で、たとえば冒頭5分のシーンを
90分かけて解説したりと、オタキングの名に恥じないマニアックぶりが飽きません)
で、ジブリ作品解説の中で何度か引用されてたのがこのシリーズで、ほぼ作品数と同じ冊数が
出てるんですね。わたくしこれまで知りませんでした。
つーことで猛暑の中を図書館まで足を運び、とりあえず3冊をまとめ借りしてみましたが、
内容が濃く、初めて見るカラー図版や絵コンテなどもいっぱいで楽しめました。
とりあえず今回はジブリの教科書1「風の谷のナウシカ」(1984年公開)のご紹介であります。
文芸春秋社2013年4月10日第1刷発行で、ナビゲーターは立花隆
例によって目次のみのご紹介
この1に限らず、なにせ「ジブリの教科書」ですから宮崎駿本人の話、制作に関わった人の話、
絵コンテや詳細な分析や評論などが満載でしたが、ごく一部の読後メモのみ・・・
(岡田斗司夫なんか詳細にメモしてるんだろうけど、こっちはてきとーです)
内田樹「アニメーション(映画)作品と原作コミックス(マンガ)作品の違い」より
・映画は明るいがマンガは暗い
・映画は分かりやすいがマンガは分かりにくい
・映画はわりとさらさらしてるけどマンガはやたらどろどろしている
→アニメにできない漫画をアニメージュで連載していたと本人が言っている
→アニメーター泣かせなのは、よくわからないもの、戦闘・・・これらを削ってアニメに
→ナウシカの戦争のモデルはロシアだけでも2千万人が死んだ独ソ戦と本人が言っている
・アニメ化の可能性が少しでもあれば無意識のうちに作画上困難な画題を回避する
→映画の完成後、マンガの続編は描くがアニメ化はしないと本人が断言している
(確かにアニメから12年かけたコミックス作品の全巻を読むと違いがわかります。
上記リンク記事にも書きましたがコミックス作品は完結というより問題提起で終わってて、
小松左京の一連の作品同様、生命論つーか哲学的でアニメ作品とは別物ですね。)
立花隆「宮崎作品とアニミズムについての」より
・本人が好きだけど(これまで)入り込むことを避けていたアニミズム世界
→本人は映画ナウシカの最後が宗教絵画になったことに納得できなかった
→その後も追い詰められたがイマジネーションパワーの大爆発で切り抜けた
→アニミズム世界を素直に童心に返って受け入れること(となりのトトロ)から、
→日本人の自然観の根底にあるアニミズムを歴史的背景の中で形象化し(もののけ姫)、
→日本文化の基層にある精神のアニミズム世界を描ききった(千と千尋の神隠し)
→この3作品は日本映画史に残る三大作と思うが、そのすべての入口がナウシカ・・・
(こちらもなるほどなあ、と感心しました。冒頭にリンクした宮崎本にもありましたが、
確かに宮崎作品でのアニミズムはナウシカ以降に明確になってきますね。)
大塚英志「解題」より
・柳田國男の田山花袋「蒲団」批判(略)と、高畑勲の宮崎駿「ナウシカ」批判の対比
→高畑は世界や歴史を描く映画を期待したが「活劇」にとどまった
→宮崎は自分の想像した世界を民俗学者のように語る
→二人で決着をつける次の「マンガ映画」ラピュタへ
・吉本隆明の「ナウシカ」評と「ヤマト」評(略)の違い(自己犠牲)
→ヤマトの自己犠牲を自身の戦争体験から虚妄だとしても、その歴史から切断された世代が
台頭してきていることを肯定しているので、その不在を批判してはいない
→戦艦大和がリアルでない世代がヤマトを愛や自己犠牲といった単純な寓話のイデーとして
受けとめるのは仕方がないと考える(サブカルチャーへの吉本の視点の甘さ)
→ナウシカ評では自己犠牲による結末を(どう質を変えなくてはならないものか、なにも勘定に
入れてくれなかったと)問題にしている
→世界や歴史の細部を求めた(戦争の描き方が中途半端な中での犠牲死)?
→映画ナウシカでは、暴力や男性原理を、まだうまくコントロールできなかった?
→それで吉本は違和感を口にしたのでは・・・
・(責任)
→ファンタジーの主人公の目的は、分かりやすく言えば自己実現や大人になること
→ナウシカには社会的責任を与えた→その質が問題→部族の王としての責任だった
・宮崎が世界や歴史や自然と人の営みについて柳田式「自然主義」であるのなら、
それは現実世界の選択にも作用すべき
→これが高畑が期待した現実への「照らし返し」・・・
・ナウシカで映画と世界の関わりの問題が示され、その後のジブリの歴史が創られていく
云々・・・
他にも腐海の生物学や、E・カレンバックと宮崎駿のエコトピアについての対談など、
けっこうレベルの高いお話もいっぱいでした。
ま、それだけに猛暑の中、飲んだくれつつ読むのには・・・うぐぐぐ
(次号「天空の城ラピュタ」に続きます)
「ジブリの教科書」1のご紹介であります。
ええ、文春ジブリ文庫「ジブリの教科書」シリーズの中から、とりあえず8月は3冊、
1「風の谷のナウシカ」、2「天空の城ラピュタ」、7「紅の豚」を借りたもので・・・
わたくしジブリの宮崎駿作品は大好きで、いわゆる「宮崎本」についても、かなり以前に、
こんな本は読んだことがあったのですが・・・
この猛暑では読書する気力も失せ、8月に入ってからは、YouTubeの岡田斗司夫チャンネル
(の無料部分)なんぞを観つつ聴きつつ、毎晩明け方まで飲んだくれる日々が続いておりました。
(ちなみにこのチャンネル、無料部分だけでも膨大な情報量で、たとえば冒頭5分のシーンを
90分かけて解説したりと、オタキングの名に恥じないマニアックぶりが飽きません)
で、ジブリ作品解説の中で何度か引用されてたのがこのシリーズで、ほぼ作品数と同じ冊数が
出てるんですね。わたくしこれまで知りませんでした。
つーことで猛暑の中を図書館まで足を運び、とりあえず3冊をまとめ借りしてみましたが、
内容が濃く、初めて見るカラー図版や絵コンテなどもいっぱいで楽しめました。
とりあえず今回はジブリの教科書1「風の谷のナウシカ」(1984年公開)のご紹介であります。
文芸春秋社2013年4月10日第1刷発行で、ナビゲーターは立花隆
例によって目次のみのご紹介
この1に限らず、なにせ「ジブリの教科書」ですから宮崎駿本人の話、制作に関わった人の話、
絵コンテや詳細な分析や評論などが満載でしたが、ごく一部の読後メモのみ・・・
(岡田斗司夫なんか詳細にメモしてるんだろうけど、こっちはてきとーです)
内田樹「アニメーション(映画)作品と原作コミックス(マンガ)作品の違い」より
・映画は明るいがマンガは暗い
・映画は分かりやすいがマンガは分かりにくい
・映画はわりとさらさらしてるけどマンガはやたらどろどろしている
→アニメにできない漫画をアニメージュで連載していたと本人が言っている
→アニメーター泣かせなのは、よくわからないもの、戦闘・・・これらを削ってアニメに
→ナウシカの戦争のモデルはロシアだけでも2千万人が死んだ独ソ戦と本人が言っている
・アニメ化の可能性が少しでもあれば無意識のうちに作画上困難な画題を回避する
→映画の完成後、マンガの続編は描くがアニメ化はしないと本人が断言している
(確かにアニメから12年かけたコミックス作品の全巻を読むと違いがわかります。
上記リンク記事にも書きましたがコミックス作品は完結というより問題提起で終わってて、
小松左京の一連の作品同様、生命論つーか哲学的でアニメ作品とは別物ですね。)
立花隆「宮崎作品とアニミズムについての」より
・本人が好きだけど(これまで)入り込むことを避けていたアニミズム世界
→本人は映画ナウシカの最後が宗教絵画になったことに納得できなかった
→その後も追い詰められたがイマジネーションパワーの大爆発で切り抜けた
→アニミズム世界を素直に童心に返って受け入れること(となりのトトロ)から、
→日本人の自然観の根底にあるアニミズムを歴史的背景の中で形象化し(もののけ姫)、
→日本文化の基層にある精神のアニミズム世界を描ききった(千と千尋の神隠し)
→この3作品は日本映画史に残る三大作と思うが、そのすべての入口がナウシカ・・・
(こちらもなるほどなあ、と感心しました。冒頭にリンクした宮崎本にもありましたが、
確かに宮崎作品でのアニミズムはナウシカ以降に明確になってきますね。)
大塚英志「解題」より
・柳田國男の田山花袋「蒲団」批判(略)と、高畑勲の宮崎駿「ナウシカ」批判の対比
→高畑は世界や歴史を描く映画を期待したが「活劇」にとどまった
→宮崎は自分の想像した世界を民俗学者のように語る
→二人で決着をつける次の「マンガ映画」ラピュタへ
・吉本隆明の「ナウシカ」評と「ヤマト」評(略)の違い(自己犠牲)
→ヤマトの自己犠牲を自身の戦争体験から虚妄だとしても、その歴史から切断された世代が
台頭してきていることを肯定しているので、その不在を批判してはいない
→戦艦大和がリアルでない世代がヤマトを愛や自己犠牲といった単純な寓話のイデーとして
受けとめるのは仕方がないと考える(サブカルチャーへの吉本の視点の甘さ)
→ナウシカ評では自己犠牲による結末を(どう質を変えなくてはならないものか、なにも勘定に
入れてくれなかったと)問題にしている
→世界や歴史の細部を求めた(戦争の描き方が中途半端な中での犠牲死)?
→映画ナウシカでは、暴力や男性原理を、まだうまくコントロールできなかった?
→それで吉本は違和感を口にしたのでは・・・
・(責任)
→ファンタジーの主人公の目的は、分かりやすく言えば自己実現や大人になること
→ナウシカには社会的責任を与えた→その質が問題→部族の王としての責任だった
・宮崎が世界や歴史や自然と人の営みについて柳田式「自然主義」であるのなら、
それは現実世界の選択にも作用すべき
→これが高畑が期待した現実への「照らし返し」・・・
・ナウシカで映画と世界の関わりの問題が示され、その後のジブリの歴史が創られていく
云々・・・
他にも腐海の生物学や、E・カレンバックと宮崎駿のエコトピアについての対談など、
けっこうレベルの高いお話もいっぱいでした。
ま、それだけに猛暑の中、飲んだくれつつ読むのには・・・うぐぐぐ
(次号「天空の城ラピュタ」に続きます)
2022年08月16日
世界サブカルチャー史OFF会???
とーとつですが・・・
お盆休みの最中に「世界サブカルチャー史OFF会!!!」を楽しんでました。
???
ええ、NHKで放送されてた世界サブカルチャー史のアメリカ1950年代編から2010年代編まで、
10年一区切りに計7番組、それぞれが90分ですから合計10時間半を、ぶっ通しで観てました。
番組はその年代を象徴する映画作品やテレビ番組を中心に当時のサブカルチャーを紹介して、
その背景にあった思想や世相を探ろうとするもので、映画も好きな懐中電灯仲間が集まって、
アメリカのサブカルチャー史を真摯に議論しましょう!!!と川端さんから提案があり・・・
もちろん結果は、いつも通りのヲタ話OFF会に終始したのですが・・・
8月13日の午後にわたくしの実家に集合したのは川端さんと、redbicycle(赤チャリ)さんに
ピックアップしてもらったwingさんの3人、そして98kとゆーおなじみのメンバー4人で、
まずは最新の2010年代編を観てから、1950年代から時代順に楽しみました。
世代によって、それぞれが夢中になってた映画やテレビ番組が異なるのは当然なんですが、
何度もテレビ放映されてた映画や再放送されてたテレビドラマも多いので、世代を超えて、
全員が知っている作品もけっこうありましたね。
まあ最年長のわたくしは映画館のロードショーで観てて、他のみなさんはテレビの名作劇場とかで
はじめて観たとゆー作品も多々ありましたが・・・
驚いたのは川端さんが90年代以降の最新作を殆ど映画館ロードショーで観てたということ、
これはアメリカ映画だけでも凄い本数になります。
わたくしが映画館に通ったのはせいぜい80年代の前半ぐらいまで、しかも当時の2番館とか
3番館に廻ってから、まとめて観たのも多かったし・・・
まあ宮崎駿作品やスターウォーズ・シリーズぐらいはその後もロードショーで観てましたが、
その他はテレビ放映されるのを待つようになり映画館には殆ど行かなくなりました・・・
「やはり映画は映画館で観るものでしょう。自分はたまたま気軽に行ける環境にいますが、
今はコロナ禍もあって、前人気の高い作品の初日に行ってもガラ空きのことが多いです」
と、川端さんがおっしゃってましたが、確かに同じ作品でも映画館で腰を据えて観ると、
映像や音響の迫力だけでなく、一体感とゆーか独特の高揚感があって最高なんですが、
最近は映画館に行くこと自体がめんどーになってきてるし・・・
と、たいへん前置きが長くなりましたが各年代を代表する映画作品やテレビドラマのご紹介・・・
・・・なんぞは、番組のホームページででもご覧いただくとして・・・
(ちなみに上記リンク先のリストで作品名をクリックすると全作品の解説があります)
この中で、わたくしが映画館ロードショーで観たのは、せいぜいE.Tぐらいまでかなあ、
以後は(スターウォーズ新作とかを除き)殆どテレビ放映で観てましたねえ・・・
つーことで真摯な論評なんぞはさておき・・・
恒例の宴会画像のみのご紹介であります・・・
まずは土曜日のアフタヌーンティーから・・・
(ちかこさん、いただいた四天王寺・釣鐘屋のせんべい、おいしかったです!!!)
wingさん差し入れの高級ケーキ・・・
って、4人なのに3つしかないぞっ!!!
ええ・・・
誰かさんが先行して一番おっきいやつを・・・じゅるじゅる
早めの夕食宴会は・・・
「たこ焼きの岸本」で主人公が高校時代にバイトしてた店のモデルといわれるお店の粉もん
各種に、wingさんとわたくしは限定プレモルとかで・・・
その後は・・・
ハイボールと乾き物なんぞに移行して・・・
デザートには・・・
川端さん差し入れの高級わらび餅に高級甘納豆とか・・・
と、午後1時過ぎから午前3時過ぎまで、別番組も挟みつつ延々14時間、録画を観続けてから、
朝から所用のある赤チャリさんを見送った3人は、4時前に就寝して10時前に起床・・・
残った乾き物とかで、さらに四畳半神話大系全話なんぞを観つつ、遅めの昼食は・・・
かつ丼とスーパードライでした・・・
で、わたくしがお二人と別れたのは日曜日の5時過ぎでしたが、wingさんを送った川端号が
帰宅されたのは日付が変わる直前だったようで、さらにwing邸でダベってたようですね。
いやあ、今回もじつに楽しかったです。
遠路はるばる日帰りで来てくれた赤チャリさん、ご苦労さまでした。
で、行きは赤チャリ号で帰りは川端号と今回はラクしたwingさん、今回提案いただいた川端さん
のお二人には、高価な差し入れやお土産をいただいたことだし・・・
やはりOFF会はやめられまへんなあ・・・げひげひ
お盆休みの最中に「世界サブカルチャー史OFF会!!!」を楽しんでました。
???
ええ、NHKで放送されてた世界サブカルチャー史のアメリカ1950年代編から2010年代編まで、
10年一区切りに計7番組、それぞれが90分ですから合計10時間半を、ぶっ通しで観てました。
番組はその年代を象徴する映画作品やテレビ番組を中心に当時のサブカルチャーを紹介して、
その背景にあった思想や世相を探ろうとするもので、映画も好きな懐中電灯仲間が集まって、
アメリカのサブカルチャー史を真摯に議論しましょう!!!と川端さんから提案があり・・・
もちろん結果は、いつも通りのヲタ話OFF会に終始したのですが・・・
8月13日の午後にわたくしの実家に集合したのは川端さんと、redbicycle(赤チャリ)さんに
ピックアップしてもらったwingさんの3人、そして98kとゆーおなじみのメンバー4人で、
まずは最新の2010年代編を観てから、1950年代から時代順に楽しみました。
世代によって、それぞれが夢中になってた映画やテレビ番組が異なるのは当然なんですが、
何度もテレビ放映されてた映画や再放送されてたテレビドラマも多いので、世代を超えて、
全員が知っている作品もけっこうありましたね。
まあ最年長のわたくしは映画館のロードショーで観てて、他のみなさんはテレビの名作劇場とかで
はじめて観たとゆー作品も多々ありましたが・・・
驚いたのは川端さんが90年代以降の最新作を殆ど映画館ロードショーで観てたということ、
これはアメリカ映画だけでも凄い本数になります。
わたくしが映画館に通ったのはせいぜい80年代の前半ぐらいまで、しかも当時の2番館とか
3番館に廻ってから、まとめて観たのも多かったし・・・
まあ宮崎駿作品やスターウォーズ・シリーズぐらいはその後もロードショーで観てましたが、
その他はテレビ放映されるのを待つようになり映画館には殆ど行かなくなりました・・・
「やはり映画は映画館で観るものでしょう。自分はたまたま気軽に行ける環境にいますが、
今はコロナ禍もあって、前人気の高い作品の初日に行ってもガラ空きのことが多いです」
と、川端さんがおっしゃってましたが、確かに同じ作品でも映画館で腰を据えて観ると、
映像や音響の迫力だけでなく、一体感とゆーか独特の高揚感があって最高なんですが、
最近は映画館に行くこと自体がめんどーになってきてるし・・・
と、たいへん前置きが長くなりましたが各年代を代表する映画作品やテレビドラマのご紹介・・・
・・・なんぞは、番組のホームページででもご覧いただくとして・・・
(ちなみに上記リンク先のリストで作品名をクリックすると全作品の解説があります)
この中で、わたくしが映画館ロードショーで観たのは、せいぜいE.Tぐらいまでかなあ、
以後は(スターウォーズ新作とかを除き)殆どテレビ放映で観てましたねえ・・・
つーことで真摯な論評なんぞはさておき・・・
恒例の宴会画像のみのご紹介であります・・・
まずは土曜日のアフタヌーンティーから・・・
(ちかこさん、いただいた四天王寺・釣鐘屋のせんべい、おいしかったです!!!)
wingさん差し入れの高級ケーキ・・・
って、4人なのに3つしかないぞっ!!!
ええ・・・
誰かさんが先行して一番おっきいやつを・・・じゅるじゅる
早めの夕食宴会は・・・
「たこ焼きの岸本」で主人公が高校時代にバイトしてた店のモデルといわれるお店の粉もん
各種に、wingさんとわたくしは限定プレモルとかで・・・
その後は・・・
ハイボールと乾き物なんぞに移行して・・・
デザートには・・・
川端さん差し入れの高級わらび餅に高級甘納豆とか・・・
と、午後1時過ぎから午前3時過ぎまで、別番組も挟みつつ延々14時間、録画を観続けてから、
朝から所用のある赤チャリさんを見送った3人は、4時前に就寝して10時前に起床・・・
残った乾き物とかで、さらに四畳半神話大系全話なんぞを観つつ、遅めの昼食は・・・
かつ丼とスーパードライでした・・・
で、わたくしがお二人と別れたのは日曜日の5時過ぎでしたが、wingさんを送った川端号が
帰宅されたのは日付が変わる直前だったようで、さらにwing邸でダベってたようですね。
いやあ、今回もじつに楽しかったです。
遠路はるばる日帰りで来てくれた赤チャリさん、ご苦労さまでした。
で、行きは赤チャリ号で帰りは川端号と今回はラクしたwingさん、今回提案いただいた川端さん
のお二人には、高価な差し入れやお土産をいただいたことだし・・・
やはりOFF会はやめられまへんなあ・・・げひげひ
2021年11月16日
AI・兵器・戦争の未来
とーとつですが・・・
AI・兵器・戦争の未来であります。
著者・訳者・発行所・発行年月日などは以下のとおり
今年4月の新刊で本文だけで400頁以上、原注・用語解説・付録・索引も付いた分厚い本です。
例によって目次のみのご紹介・・・
(目次だけでも10頁ありますが順に項目を眺めていくと本書の概要がわかります)
2050年以降については「ターミネーター」や「マトリックス」の世界そのものでしたが、
今放置すればSFではなく現実になり戦争の可能性が高まるだけでなく・・・とゆーのも、
これらはすでに実戦配備されているAI兵器のすぐ先にあるもの・・・とゆーのも驚きでした。
著者はIBMとハネウェル社で30年以上にわたり国防総省向けナノテクノロジー研究などに
従事していた物理学者だそうで、豊富な研究開発経験からの検証には説得力がありましたし、
2017年の著書はAmazonのナンバーワン・ベストセラーになったとか・・・
以下、わたくしの読後メモから一部を抜粋・・・
ただし兵器に関する部分以外(特に後半のあるべき姿など)のメモは殆どカットしてますし、
わたくしの無知による勘違いもあるでしょうから、興味のある方は是非ご一読を・・・
序章より
・あなたの国で突然戦争が起きたら、あなたがたの息子や娘たちによって守られたいか、
それとも自律型AI兵器システムによって守られたいか?
・あなたがたは敵の息子や娘たちによって侵略されたいか、それとも自律型AI兵器システム
によって侵略されたいか?
・人間の直感的な道徳的認知能力は倫理的に望ましいものなのか?
→もしイエスなら、必ず人間による制御が必要(致死性自律型兵器システムについて)
・スマート兵器から全能(ジニアス)兵器への移行過程で人類絶滅のリスクを冒すことなく、
AI兵器の能力を増強し続けることは可能なのか・・・
→現実に米中露は精力的に配備・増強しようとしている
第1章より
・AIを備えた初期型ロボットでさえ貪欲さ・欺瞞・自己保存性をみせた(後述)
・社会や兵器が複雑さを増し敵の脅威が増大するにつれ、人類はコンピュータ依存を深める
→コンピュータが「超絶知能」になるのは2070年代とAI専門家の少なくとも半数が予測
→「超絶知能」の人類に対する判断は、人類がハチを有用なハチか有害なハチかで判断する
のと同じ。(人類はハチにはイヌほどの知能はないとの前提で判断している)
・アシモフのロボット三原則を「超絶知能」にプログラムしたと仮定しても・・・
→自己保存の欲求が進化の土台なので最大利益に反すれば抹消することを選択するかも
・「超絶知能」が国家兵器システムの一部なら完璧に防護され人間から隔離する手段を持つ
・「超絶知能」がアシモフ・チップに適切に接続しているか(人間が)確認する方法はない
・コンピュータの歴史→2014年の映画「イミテーション・ゲーム」(エニグマ解読者)
→チューリング・テストは人かマシンかの判別に今でも有効な方法
・自動駐車や会話など人間の知能を必要とする作業を遂行できるコンピュータが通常はAI
→スマートフォンの肯定的な側面とスマート兵器の暗い側面
第2章より
・AI効果→AIが組み込まれていることを意識しない→ただのアップグレード版と認識している
→汎用人工知能が製造されていないだけで、AIはすでにあらゆる分野に浸透している
→人類は4300年前に石斧を作り木の実を砕いたチンパンジーや人工知能の進化を過少評価
・セキュリティ分野
→テクノロジーは倫理的規制よりも先に進歩する→個人情報盗難とサイバー攻撃
・モノのインターネット(IoT)→信頼が従属へ変化→ハッカーの脅威→規制すべきか
・パーソナルアシスタントと生産性→iPhoneの登場
→カーク船長はコミュニケーターに質問したり、それで映画を観たりはしなかった
・E・コマース(ネットショッピングなど)→取引の85%をAIが処理
・ロボット工学→掃除機ルンバからMQ-1プレデターまで
・教育→インターネット以前は授業では質問できるが家では教科書のみ、宿題は図書館へ
→AIによる個人指導システム・クラウドゾーニング式指導強化法・深層学習システムへ
・AI依存の増大とそれに気づかないAI効果→開発や使用を規制する法律はない
→すでに自律型兵器システムを(ロシアは)配備している
第3章より
・中国
→アジア太平洋とりわけ近海支配権の強化にはアメリカとの軍事的均衡を必要としない
→アメリカの世界的任務はアジア太平洋地域を含む海洋航行の自由を確保することだが、
→アジア太平洋地域に限定すればアメリカに脅威を与え続けられる
→戦争の非対称的な側面
→中国とロシアの軍事投資の重点は自律型兵器で非対称な優位を獲得することへ
→百度バイドゥ社はマイクロソフト社の1年前に人間の言語認識を上回ったAIアルゴリズムを
開発し沈黙を保っていたが、これは偶然ではない
→音声認識や自然言語理解の分野も同じで軍や政府系ではなく民間企業から獲得できる
→AI分野の強力な商業基盤が自律型兵器の強力な軍事的優位を占めることを理解している
・ロシア
→核の均衡以外では米中両国に後れをとっている
→人口が少ない不利があるのでロボット軍、自律型兵器を配備する戦略を公表している
→さらに世界経済に組み込まれている世界第2位の武器輸出国で次世代兵器の輸出も重要
・アメリカのオフセット戦略
①戦争に勝つための軍事テクノロジー②戦争を抑止できる技術的な軍事能力
→1960年代は核兵器における技術的優位で通常兵力での抑止による出費を抑えた
→1975~1989は数より情報・監視・誘導での技術的優位を重視した「スマート兵器」
→80年代後半に追いつかれ新テクノロジーは民間企業から得られるようになった
→2014年からの第3のオフセット戦略→人工知能・ロボット工学・小型化による優位
→ただし相手が開発するまでの僅かな期間しか続かないもの
・自律型兵器と遠隔制御型兵器は別
→アメリカは適切なレベルでの人間の判断という半自律型の配備を望んでいるが
→ファランクス・システムは速やかに対応する必要性から人間の制御を外している
→サイバー防衛においては攻撃が瞬時なので一部を自律型とした半自律型に
・戦闘機と爆撃機における自律型の優位性(極限飛行が可能・生命維持システムが不要など)
・ナノ兵器の分類(略)
・人間の関与の分類→制御・監督・自律
→国防省指令は自律を禁じているがサイバー戦など一部は例外として認めている
・(最も精密な半自律型兵器を保有しているといわれる)アメリカ海軍の例
→ロッキード・マーティン社のイージス兵器システム
→ノースロップ・グラマン社のX-47Bドローン実証機など
・アメリカ陸軍の例
→陸軍で最も重要なのはサイバー戦で使われるナノ兵器
→自律型戦闘車両・偵察斥候スローボット
→爆弾処理ロボットやTOWミサイルは半自律型
・アメリカ空軍の例
→遠隔操縦ドローンなどは半自律型→操縦士不足でさらに自律性を高める研究中
→撃ちっ放し空対地ミサイルも人間が引き金を引くので半自律型
→目的はスタンドオフ能力とドローン操縦士の負担の軽減
・アメリカ沿岸警備隊・海兵隊の例
→サイバーコマンド、無人機、水陸両用武装ロボットなど
・中国の例(自律型兵器への国家規制はなく国際法制定を要請している)
→AIを駆使した巡航ミサイル、2016世界最速のスーパーコンピュータ(2018ではアメリカ)、
2015ハッカー軍の公表(サイバー諜報には熟達しているがサイバー戦の経験は少ない)
・ロシアの例(人口の少なさという弱点を補う自律型兵器の配備を公言している)
→モスクワの新弾道ミサイル防衛システム、カラシニコフ・グループの新戦闘モジュール、
武装歩哨ロボット(いずれも自律型)、P-800オーニクス・ミサイル、最先端のサイバー攻撃能力
→ワシントンはサイバー戦はエスカレートしやすいと見る傾向が強いがクレムリンの敷居は低い
→ジョージアやウクライナの緊急事態では通常戦力を増強する手段としてサイバー攻撃を運用
・次の段階では致死性自律型兵器になるだろうが、これは火薬・核兵器に続く第三の革命
→議論は今や開発するか否かではなく、どれだけの独立性を与えるかが中心に
→これはアメリカ軍が「ターミネーターの難問」と名付けた問題
第4章より
・兵器開発は認識された脅威の結果→どの国も同様のプロセスでその結末が「新しい現実」
→「新しい現実」の時代に平和はなく勝利したよう見えても紛争の只中にある
①米中露の緊張の高まり
②北朝鮮など「ならず者国家」の脅威
③中国の南シナ海の領有権主張
→毎年5兆3千億ドルの船舶貨物が通過、うち1兆2千億ドルはアメリカ
→推定110億バレルの原油と190兆立方フィートの天然ガスを埋蔵している
→世界漁獲量の12%を占め、中国は世界最大の漁業生産国・水産輸出国
④ロシアのクリミア併合・ウクライナ東部のロシア化・テロと独立運動の支援
・国防省指令に拘束されない中国やロシアに対して長期的に軍事的優位を維持できるか
・自律型兵器の国際的な規制は可能か
→生物兵器は制御の困難性、化学兵器は戦略的な非有効性から可能だったが一部のみ
・グーグル翻訳サイト(2006~)の例→ニューラルネットワークで最高水準に
・ムーアの法則→価格が一定でも2年おきに性能は倍増(コストは半減)→収穫加速の法則
→2040~50でスーパーコンピュータが人間の知能レベルに到達
→人間レベルの自律性を備えた自律型兵器の到来(配備するのは米中露)
→2070前後に超絶知能(シンギュラリティ)マシンが出現→人類を脅威と見なすかも
第5章より
・AI内蔵兵器の相互接続→群生行動の推進→スウォーム・ボートの例、USSコールの例
・ナノエレクトロニクス・マイクロプロセッサやナノ素材を活用しているものがナノ兵器
→人工知能を搭載する精密誘導兵器がスマート兵器(スマートとAIは同義)
・全能(ジニアス)兵器は超絶知能を搭載しているかそれに接続されているロボット兵器
・スマートから全能への移行
→軍用自律型ナノボット(MANS)を超絶知能が無線制御すれば全能兵器
→膨大な数が必要なので自己増殖機能を持たせることになろう
→医療用ナノボットはすでに存在する→軍用は極秘だが・・・
・軍事力の投射能力→現在はアメリカが優位(原子力空母と潜水艦)→超絶知能で自動化へ
→通常兵器や核兵器に加えMANSを紛争地域に投入することができる
・知能爆発→知能マシンはさらに高性能な次世代マシンを(自ら)開発する
→真空管→トランジスタ→集積回路→量子コンピュータ(もつれの加速を1減速を0とするなど)
第6章より
・第二次世界大戦における戦域指揮官とスタッフの責任
→計画と伝達、監督と報告、敵の行動に基づく計画の修正
→紛争ペースが速まると計画修正や意思決定に関与できなくなる
→現場指揮官が修正をおこなうことになる
→人間より弱いAIの自律型兵器は現場指揮官と同じ→MK-50魚雷の例
・2009スイス連邦工科大学・知能システム研究所(ローザンヌ)の実験
→欺瞞と狡猾さと自己保存を数百世代で学びプログラムを無視して利益を最優先した
・イギリス王立協会の2012年報告
→無意識に標的を画像処理するほうが意識的に標的を知覚するよりもはるかに速い
→道路の先に何か正常でないものがあるという兵士の直感
→兵士の潜在意識が瞬時に情報を処理し特定できない脅威として本能が作動したもの
→兵士は検分し続け、やがて即製爆発装置を発見した
・脳内ニューロンの活動パターンを追跡できるヘルメットを被ったパイロットは、
潜在意識下で航空機を操縦し、意識的に脅威を感知する前にミサイルを発射できる
・2016ジョンズ・ホプキンス大学の実験→脳内インプラントへ
→このシナリオなら人間による自律型兵器の制御は可能→もし接続先が超絶知能なら?
・相互確証破壊MADから全面確証破壊TADへ
→攻撃の疑いのある全ての国に対する全面的報復
第7章より
・アメリカ国防省指令による定義(国際的には合意されていない)
自律型兵器システム
=起動後、オペレーターの関与なしに攻撃目標を選定・交戦できる兵器システム
半自律型兵器システム
=起動後、オペレーターが選定した個別の攻撃目標あるいは特定の目標群に対する交戦のみを
自動的に行えるように設計された兵器システム
・自律型兵器は現存しない将来の新しい兵器→これが最大の誤解
→自律型兵器は目新しいものではなく現存し「将来に発展を遂げる分野」ということ
・アメリカのファランクス近接防御火器システム、ロシアの偵察ロボット、移動式ロボット複合体、
カラシニコフ・グループの新戦闘モジュールなどは自律型兵器
・イスラエルのハーピー2ミサイル、イギリスの対装甲ミサイル二重モード式ブリムストーン、
韓国のSGR-A1歩哨ロボットシステムも自律型あるいは容易に自律型に転換可能な兵器
・自律型兵器は区別原則・均衡原則・説明責任といった法的要件を満たせると考えている
→AIの進歩で自律型兵器が全能兵器に至ると人間の倫理は全能兵器の倫理に変わる・・・
第8章より
・1930年代のソ連のT-26軽戦車ベースの「テレタンク」→初の無線遠隔操縦の無人戦車
・2016年のロシアの無人戦闘車両「ウラン-9」
→30mm機関砲、7.62mm機関銃、アターカ対戦車誘導ミサイルを装備
・アメリカM1A2エイブラムズ戦車の次世代タイプはロボットとなる公算が高い
・フォード級超大型航空母艦はニミッツ級のほぼ半数の乗組員
・ズムウォルト級駆逐艦はアーレイ・バーク級駆逐艦の2/3の乗組員
・国際人道法と自律型兵器と意志決定ループへの人間の関与
→区別原則や均衡原則はAIの進歩でプログラムにより制御可能になる
→一方で核兵器は国際人道法を侵害する
→自律型兵器や全能兵器の登場で核兵器への依存は低下するだろう
→全能兵器の出現により技術先進国は核兵器の廃絶に合意するかも知れない
・エイリアンは我々の言語や習慣は理解できないだろうがエネルギーについては理解するはず
→エネルギーの作り方と利用法を知っているから星間移動してきた
→エネルギーの製造と利用について我々と同じ進化を遂げた可能性が高い
→稀少物質とかではなくエネルギーそのものが宇宙の真の通貨
・米中露はすでに宇宙条約に違反しているのは明らか
第9章より
・MANSは超小型で製造も容易→敵の領内に密かに持ち込むと生産ラインとして機能する
→どこの国の仕業か特定は困難で核ミサイルと異なり探知も困難
・1832年の戦争の霧(クラウゼヴィッツ)・2003年の同題映画(マクナマラ国防長官の告白)
→当初は戦争の副作用で兵器ではなかったがノルマンディー上陸の隠蔽作戦に使われた
→イラク戦争、クリミア併合などでも意図的に使われている
→霧を晴らすのはテクノロジーで人類にとって霧は晴れない
・歴史は勝者によって書かれる(チャーチル)→超絶知能が有する歴史は?
→1776アメリカ独立宣言「すべて人間は平等」に女性・奴隷・子供は含まれていなかった
→その後の歴史で進展を遂げたが、歴史が正確な記述であり続ける保証はない→洗脳
・シンプルコンピュータ(パソコン・スマートフォンなど)
・ハイエンドコンピュータ(イージス・システムなど)
・スーパーコンピュータ(人間の脳の処理速度に近いもの、集積回路)
・超絶知能(人間の認知能力をはるかに上回るもの、量子コンピュータ)
→天気予報と異なり国家安全保障の場合は超絶知能の警告に従うしか方法がない
・(ドイツ兵に囲まれた自分の位置を砲撃座標として指示した)フォックス少尉の自己犠牲の
判断と超絶知能による判断に違いはあるか
・今世紀の後半には米中相互防衛条約が締結される→避けられない同盟
→米中の依存関係は深化し米中(だけ)の経済が発展する
→軍事コストはさらに高価になり、それを維持できるのも米中だけになる
→米中間の戦争が人類の滅亡と地球の破壊をもたらすことは明らか
→そんな中での国防費支出は困難で無駄なことだと気づく国家が増える
→アメリカの州になるか経済成長に専念するためアメリカの保護国になる
(著者がイギリス滞在中、多くのイギリス人がアメリカの州になることを希望していた)
・核兵器保有国は現在9ヶ国(米中露英仏印パキスタン北朝鮮イスラエル)
→このうち米中露が関わる世界戦争は地球の完全な破壊をもたらす
→今世紀の後半に全能兵器を保有している可能性は高く核兵器の破壊力を凌ぐだろう
→いかなる紛争行動も全能兵器の使用を誘発するので各国とも慎む
→冷戦が「不安定な平和」をもたらしたように、絶え間ない不安状態に置かれ続ける
第10章より
・人間とマシンとの競争はエネルギーと天然資源をめぐる争い→共存できるほど広くない
→映画ターミネーターのような公然たる戦争では人類が勝者になる機会を与える
→人類に対するマシンの抵抗は悟られないように隠して「戦わずして勝つ」はず
・脳内インプラントで超絶知能に従属した人類も生き残る時間は僅か
→宇宙の真の通貨であるエネルギーを使う価値のある存在と認識しなくなるから
→それ以外の人類は22世紀の前四半期には病気・事故・老衰により死に絶える
終章より
・自律型兵器と全能兵器
→人類絶滅の危険なしに自律型兵器を開発することはできない→核兵器と同じ
→それでも開発・配備は続くので・・・
①防御に焦点をあてる
→防御が100%有効なら攻撃は行われない(今は確実ではないので北朝鮮は実験を繰り返す)
②半自律型兵器に焦点をあてる
→人間の「意思決定ループへの関与」は区分原則・責任の所在原則の保証となり国際人道法
とも合致し、それが国家の軍事能力を弱めるとは思わない。
③自律可能な兵器に制限を設ける
→自律型の大量破壊兵器を作るべきではない
→コンピュータ依存なのでサイバー攻撃や誤作動やウィルスが第三次世界大戦の引き金になる
・草の根の(SNSによる)活動や世界的なイベントを通じて「マシンがもたらす脅威」は
世界の指導者の関心を呼び起こすことができる
・2020年7月現在のスーパーコンピュータ・トップ10の1位は日本、2位3位はアメリカ、
4位5位は中国、6位はイタリア、7位8位はアメリカ、9位イタリア、10位スイス・・・
→超絶知能は複数の国で出現し、ほぼ同時に起こり得る、ということを示している
・戦争を予防する最善の方法は、
→戦争に関与することは無益であり、自らの破滅を招くということを、
→あらゆる敵対者に明らかにすることである
・地球の正当な継承者とは人類であり知能マシンではない
→我々は人類であり我々は人間の精神を体現している
→コンピュータはマシンにすぎない
云々・・・
ちなみに解説(小野圭司・防衛省防衛研究所特別研究官)にあった(講義でも話しているという)
・軍事や安全保障の分野では「阪神ファンの応援心理」が大事とゆーハナシ・・・
→関西の阪神ファンは一流選手だった野球評論家から街のおっちゃん・おばちゃん、小学生の
子供まで「昨日の監督の采配はアカン」とか「なぜあそこで代打を出したんや」とか試合の
論評をするわけです。
→そうしてファンの世論というものが形成されて、ファンが怒り心頭に発すると、監督や
球団社長の辞任・解任という事態を招く力を発揮します。
→安全保障も同様で一部の専門家に限らず、いろんな人が議論することが大事です。
(もちろん大衆扇動や教条論争に陥らない冷静で客観的な議論が前提)
つーのには感心しましたし・・・ま、結果が勝率に繋がってるかは別ですが・・・
・日露戦争の児玉源太郎の言葉「諸君は昨日の専門家かも知れんが明日の専門家ではない」
(司馬遼太郎「坂の上の雲」より)→これは今日の安全保障論議にも当てはまります。
・「阪神ファンの応援心理」については(略)フランス宰相クレマンソーの「戦争は軍人だけに
任せるにはあまりに重大である」の対を張ってるつもりです(笑)。
つーのも印象に残りました。
(追記です)
「デジタルな不死を探して」というカナダで制作されたドキュメンタリー番組が11月12日に
NHK・BS1で再放送されてて(わたくしははじめて)観てました。
実在する人物の膨大なマインドファイルをもとに作られたAIアバターやAIアンドロイド、
培養された脳細胞で動くロボット、クラウドベースのAIと脳を融合させる動きの是非論議、
トランスヒューマニストとチーム・ヒューマン、シンギュラリティ・ネット創設者の話など、
本書にも密接に繋がるテーマばかりで興味津々でした。
特に番組ラスト近くのFacebookチャットボット同士の会話の音声化には驚愕しました。
やがて独自の言語を作りはじめたことに開発者が気づきシャットダウンしたそうで、
「(これは)コンピュータが世界を乗っ取るには程遠い話ですが、AIが我々の言語を使って
未知の領域に踏み出したことは確かです」と結論付けてましたし・・・
(さらに追記です)
11月24日放送のNHK番組「クローズアップ現代+」で、実際に自分をAIに置き換える人たちや、
脳波を読み取って直接パソコンを操作する様子などが紹介されてました。
さらにニューズウィーク日本版には、こんな記事も・・・
AI兵器vs AI兵器の戦争は人知を超える(キッシンジャー&エリック・シュミット)(ニューズウィーク日本版) - Yahoo!ニュース
AI・兵器・戦争の未来であります。
著者・訳者・発行所・発行年月日などは以下のとおり
今年4月の新刊で本文だけで400頁以上、原注・用語解説・付録・索引も付いた分厚い本です。
例によって目次のみのご紹介・・・
(目次だけでも10頁ありますが順に項目を眺めていくと本書の概要がわかります)
2050年以降については「ターミネーター」や「マトリックス」の世界そのものでしたが、
今放置すればSFではなく現実になり戦争の可能性が高まるだけでなく・・・とゆーのも、
これらはすでに実戦配備されているAI兵器のすぐ先にあるもの・・・とゆーのも驚きでした。
著者はIBMとハネウェル社で30年以上にわたり国防総省向けナノテクノロジー研究などに
従事していた物理学者だそうで、豊富な研究開発経験からの検証には説得力がありましたし、
2017年の著書はAmazonのナンバーワン・ベストセラーになったとか・・・
以下、わたくしの読後メモから一部を抜粋・・・
ただし兵器に関する部分以外(特に後半のあるべき姿など)のメモは殆どカットしてますし、
わたくしの無知による勘違いもあるでしょうから、興味のある方は是非ご一読を・・・
序章より
・あなたの国で突然戦争が起きたら、あなたがたの息子や娘たちによって守られたいか、
それとも自律型AI兵器システムによって守られたいか?
・あなたがたは敵の息子や娘たちによって侵略されたいか、それとも自律型AI兵器システム
によって侵略されたいか?
・人間の直感的な道徳的認知能力は倫理的に望ましいものなのか?
→もしイエスなら、必ず人間による制御が必要(致死性自律型兵器システムについて)
・スマート兵器から全能(ジニアス)兵器への移行過程で人類絶滅のリスクを冒すことなく、
AI兵器の能力を増強し続けることは可能なのか・・・
→現実に米中露は精力的に配備・増強しようとしている
第1章より
・AIを備えた初期型ロボットでさえ貪欲さ・欺瞞・自己保存性をみせた(後述)
・社会や兵器が複雑さを増し敵の脅威が増大するにつれ、人類はコンピュータ依存を深める
→コンピュータが「超絶知能」になるのは2070年代とAI専門家の少なくとも半数が予測
→「超絶知能」の人類に対する判断は、人類がハチを有用なハチか有害なハチかで判断する
のと同じ。(人類はハチにはイヌほどの知能はないとの前提で判断している)
・アシモフのロボット三原則を「超絶知能」にプログラムしたと仮定しても・・・
→自己保存の欲求が進化の土台なので最大利益に反すれば抹消することを選択するかも
・「超絶知能」が国家兵器システムの一部なら完璧に防護され人間から隔離する手段を持つ
・「超絶知能」がアシモフ・チップに適切に接続しているか(人間が)確認する方法はない
・コンピュータの歴史→2014年の映画「イミテーション・ゲーム」(エニグマ解読者)
→チューリング・テストは人かマシンかの判別に今でも有効な方法
・自動駐車や会話など人間の知能を必要とする作業を遂行できるコンピュータが通常はAI
→スマートフォンの肯定的な側面とスマート兵器の暗い側面
第2章より
・AI効果→AIが組み込まれていることを意識しない→ただのアップグレード版と認識している
→汎用人工知能が製造されていないだけで、AIはすでにあらゆる分野に浸透している
→人類は4300年前に石斧を作り木の実を砕いたチンパンジーや人工知能の進化を過少評価
・セキュリティ分野
→テクノロジーは倫理的規制よりも先に進歩する→個人情報盗難とサイバー攻撃
・モノのインターネット(IoT)→信頼が従属へ変化→ハッカーの脅威→規制すべきか
・パーソナルアシスタントと生産性→iPhoneの登場
→カーク船長はコミュニケーターに質問したり、それで映画を観たりはしなかった
・E・コマース(ネットショッピングなど)→取引の85%をAIが処理
・ロボット工学→掃除機ルンバからMQ-1プレデターまで
・教育→インターネット以前は授業では質問できるが家では教科書のみ、宿題は図書館へ
→AIによる個人指導システム・クラウドゾーニング式指導強化法・深層学習システムへ
・AI依存の増大とそれに気づかないAI効果→開発や使用を規制する法律はない
→すでに自律型兵器システムを(ロシアは)配備している
第3章より
・中国
→アジア太平洋とりわけ近海支配権の強化にはアメリカとの軍事的均衡を必要としない
→アメリカの世界的任務はアジア太平洋地域を含む海洋航行の自由を確保することだが、
→アジア太平洋地域に限定すればアメリカに脅威を与え続けられる
→戦争の非対称的な側面
→中国とロシアの軍事投資の重点は自律型兵器で非対称な優位を獲得することへ
→百度バイドゥ社はマイクロソフト社の1年前に人間の言語認識を上回ったAIアルゴリズムを
開発し沈黙を保っていたが、これは偶然ではない
→音声認識や自然言語理解の分野も同じで軍や政府系ではなく民間企業から獲得できる
→AI分野の強力な商業基盤が自律型兵器の強力な軍事的優位を占めることを理解している
・ロシア
→核の均衡以外では米中両国に後れをとっている
→人口が少ない不利があるのでロボット軍、自律型兵器を配備する戦略を公表している
→さらに世界経済に組み込まれている世界第2位の武器輸出国で次世代兵器の輸出も重要
・アメリカのオフセット戦略
①戦争に勝つための軍事テクノロジー②戦争を抑止できる技術的な軍事能力
→1960年代は核兵器における技術的優位で通常兵力での抑止による出費を抑えた
→1975~1989は数より情報・監視・誘導での技術的優位を重視した「スマート兵器」
→80年代後半に追いつかれ新テクノロジーは民間企業から得られるようになった
→2014年からの第3のオフセット戦略→人工知能・ロボット工学・小型化による優位
→ただし相手が開発するまでの僅かな期間しか続かないもの
・自律型兵器と遠隔制御型兵器は別
→アメリカは適切なレベルでの人間の判断という半自律型の配備を望んでいるが
→ファランクス・システムは速やかに対応する必要性から人間の制御を外している
→サイバー防衛においては攻撃が瞬時なので一部を自律型とした半自律型に
・戦闘機と爆撃機における自律型の優位性(極限飛行が可能・生命維持システムが不要など)
・ナノ兵器の分類(略)
・人間の関与の分類→制御・監督・自律
→国防省指令は自律を禁じているがサイバー戦など一部は例外として認めている
・(最も精密な半自律型兵器を保有しているといわれる)アメリカ海軍の例
→ロッキード・マーティン社のイージス兵器システム
→ノースロップ・グラマン社のX-47Bドローン実証機など
・アメリカ陸軍の例
→陸軍で最も重要なのはサイバー戦で使われるナノ兵器
→自律型戦闘車両・偵察斥候スローボット
→爆弾処理ロボットやTOWミサイルは半自律型
・アメリカ空軍の例
→遠隔操縦ドローンなどは半自律型→操縦士不足でさらに自律性を高める研究中
→撃ちっ放し空対地ミサイルも人間が引き金を引くので半自律型
→目的はスタンドオフ能力とドローン操縦士の負担の軽減
・アメリカ沿岸警備隊・海兵隊の例
→サイバーコマンド、無人機、水陸両用武装ロボットなど
・中国の例(自律型兵器への国家規制はなく国際法制定を要請している)
→AIを駆使した巡航ミサイル、2016世界最速のスーパーコンピュータ(2018ではアメリカ)、
2015ハッカー軍の公表(サイバー諜報には熟達しているがサイバー戦の経験は少ない)
・ロシアの例(人口の少なさという弱点を補う自律型兵器の配備を公言している)
→モスクワの新弾道ミサイル防衛システム、カラシニコフ・グループの新戦闘モジュール、
武装歩哨ロボット(いずれも自律型)、P-800オーニクス・ミサイル、最先端のサイバー攻撃能力
→ワシントンはサイバー戦はエスカレートしやすいと見る傾向が強いがクレムリンの敷居は低い
→ジョージアやウクライナの緊急事態では通常戦力を増強する手段としてサイバー攻撃を運用
・次の段階では致死性自律型兵器になるだろうが、これは火薬・核兵器に続く第三の革命
→議論は今や開発するか否かではなく、どれだけの独立性を与えるかが中心に
→これはアメリカ軍が「ターミネーターの難問」と名付けた問題
第4章より
・兵器開発は認識された脅威の結果→どの国も同様のプロセスでその結末が「新しい現実」
→「新しい現実」の時代に平和はなく勝利したよう見えても紛争の只中にある
①米中露の緊張の高まり
②北朝鮮など「ならず者国家」の脅威
③中国の南シナ海の領有権主張
→毎年5兆3千億ドルの船舶貨物が通過、うち1兆2千億ドルはアメリカ
→推定110億バレルの原油と190兆立方フィートの天然ガスを埋蔵している
→世界漁獲量の12%を占め、中国は世界最大の漁業生産国・水産輸出国
④ロシアのクリミア併合・ウクライナ東部のロシア化・テロと独立運動の支援
・国防省指令に拘束されない中国やロシアに対して長期的に軍事的優位を維持できるか
・自律型兵器の国際的な規制は可能か
→生物兵器は制御の困難性、化学兵器は戦略的な非有効性から可能だったが一部のみ
・グーグル翻訳サイト(2006~)の例→ニューラルネットワークで最高水準に
・ムーアの法則→価格が一定でも2年おきに性能は倍増(コストは半減)→収穫加速の法則
→2040~50でスーパーコンピュータが人間の知能レベルに到達
→人間レベルの自律性を備えた自律型兵器の到来(配備するのは米中露)
→2070前後に超絶知能(シンギュラリティ)マシンが出現→人類を脅威と見なすかも
第5章より
・AI内蔵兵器の相互接続→群生行動の推進→スウォーム・ボートの例、USSコールの例
・ナノエレクトロニクス・マイクロプロセッサやナノ素材を活用しているものがナノ兵器
→人工知能を搭載する精密誘導兵器がスマート兵器(スマートとAIは同義)
・全能(ジニアス)兵器は超絶知能を搭載しているかそれに接続されているロボット兵器
・スマートから全能への移行
→軍用自律型ナノボット(MANS)を超絶知能が無線制御すれば全能兵器
→膨大な数が必要なので自己増殖機能を持たせることになろう
→医療用ナノボットはすでに存在する→軍用は極秘だが・・・
・軍事力の投射能力→現在はアメリカが優位(原子力空母と潜水艦)→超絶知能で自動化へ
→通常兵器や核兵器に加えMANSを紛争地域に投入することができる
・知能爆発→知能マシンはさらに高性能な次世代マシンを(自ら)開発する
→真空管→トランジスタ→集積回路→量子コンピュータ(もつれの加速を1減速を0とするなど)
第6章より
・第二次世界大戦における戦域指揮官とスタッフの責任
→計画と伝達、監督と報告、敵の行動に基づく計画の修正
→紛争ペースが速まると計画修正や意思決定に関与できなくなる
→現場指揮官が修正をおこなうことになる
→人間より弱いAIの自律型兵器は現場指揮官と同じ→MK-50魚雷の例
・2009スイス連邦工科大学・知能システム研究所(ローザンヌ)の実験
→欺瞞と狡猾さと自己保存を数百世代で学びプログラムを無視して利益を最優先した
・イギリス王立協会の2012年報告
→無意識に標的を画像処理するほうが意識的に標的を知覚するよりもはるかに速い
→道路の先に何か正常でないものがあるという兵士の直感
→兵士の潜在意識が瞬時に情報を処理し特定できない脅威として本能が作動したもの
→兵士は検分し続け、やがて即製爆発装置を発見した
・脳内ニューロンの活動パターンを追跡できるヘルメットを被ったパイロットは、
潜在意識下で航空機を操縦し、意識的に脅威を感知する前にミサイルを発射できる
・2016ジョンズ・ホプキンス大学の実験→脳内インプラントへ
→このシナリオなら人間による自律型兵器の制御は可能→もし接続先が超絶知能なら?
・相互確証破壊MADから全面確証破壊TADへ
→攻撃の疑いのある全ての国に対する全面的報復
第7章より
・アメリカ国防省指令による定義(国際的には合意されていない)
自律型兵器システム
=起動後、オペレーターの関与なしに攻撃目標を選定・交戦できる兵器システム
半自律型兵器システム
=起動後、オペレーターが選定した個別の攻撃目標あるいは特定の目標群に対する交戦のみを
自動的に行えるように設計された兵器システム
・自律型兵器は現存しない将来の新しい兵器→これが最大の誤解
→自律型兵器は目新しいものではなく現存し「将来に発展を遂げる分野」ということ
・アメリカのファランクス近接防御火器システム、ロシアの偵察ロボット、移動式ロボット複合体、
カラシニコフ・グループの新戦闘モジュールなどは自律型兵器
・イスラエルのハーピー2ミサイル、イギリスの対装甲ミサイル二重モード式ブリムストーン、
韓国のSGR-A1歩哨ロボットシステムも自律型あるいは容易に自律型に転換可能な兵器
・自律型兵器は区別原則・均衡原則・説明責任といった法的要件を満たせると考えている
→AIの進歩で自律型兵器が全能兵器に至ると人間の倫理は全能兵器の倫理に変わる・・・
第8章より
・1930年代のソ連のT-26軽戦車ベースの「テレタンク」→初の無線遠隔操縦の無人戦車
・2016年のロシアの無人戦闘車両「ウラン-9」
→30mm機関砲、7.62mm機関銃、アターカ対戦車誘導ミサイルを装備
・アメリカM1A2エイブラムズ戦車の次世代タイプはロボットとなる公算が高い
・フォード級超大型航空母艦はニミッツ級のほぼ半数の乗組員
・ズムウォルト級駆逐艦はアーレイ・バーク級駆逐艦の2/3の乗組員
・国際人道法と自律型兵器と意志決定ループへの人間の関与
→区別原則や均衡原則はAIの進歩でプログラムにより制御可能になる
→一方で核兵器は国際人道法を侵害する
→自律型兵器や全能兵器の登場で核兵器への依存は低下するだろう
→全能兵器の出現により技術先進国は核兵器の廃絶に合意するかも知れない
・エイリアンは我々の言語や習慣は理解できないだろうがエネルギーについては理解するはず
→エネルギーの作り方と利用法を知っているから星間移動してきた
→エネルギーの製造と利用について我々と同じ進化を遂げた可能性が高い
→稀少物質とかではなくエネルギーそのものが宇宙の真の通貨
・米中露はすでに宇宙条約に違反しているのは明らか
第9章より
・MANSは超小型で製造も容易→敵の領内に密かに持ち込むと生産ラインとして機能する
→どこの国の仕業か特定は困難で核ミサイルと異なり探知も困難
・1832年の戦争の霧(クラウゼヴィッツ)・2003年の同題映画(マクナマラ国防長官の告白)
→当初は戦争の副作用で兵器ではなかったがノルマンディー上陸の隠蔽作戦に使われた
→イラク戦争、クリミア併合などでも意図的に使われている
→霧を晴らすのはテクノロジーで人類にとって霧は晴れない
・歴史は勝者によって書かれる(チャーチル)→超絶知能が有する歴史は?
→1776アメリカ独立宣言「すべて人間は平等」に女性・奴隷・子供は含まれていなかった
→その後の歴史で進展を遂げたが、歴史が正確な記述であり続ける保証はない→洗脳
・シンプルコンピュータ(パソコン・スマートフォンなど)
・ハイエンドコンピュータ(イージス・システムなど)
・スーパーコンピュータ(人間の脳の処理速度に近いもの、集積回路)
・超絶知能(人間の認知能力をはるかに上回るもの、量子コンピュータ)
→天気予報と異なり国家安全保障の場合は超絶知能の警告に従うしか方法がない
・(ドイツ兵に囲まれた自分の位置を砲撃座標として指示した)フォックス少尉の自己犠牲の
判断と超絶知能による判断に違いはあるか
・今世紀の後半には米中相互防衛条約が締結される→避けられない同盟
→米中の依存関係は深化し米中(だけ)の経済が発展する
→軍事コストはさらに高価になり、それを維持できるのも米中だけになる
→米中間の戦争が人類の滅亡と地球の破壊をもたらすことは明らか
→そんな中での国防費支出は困難で無駄なことだと気づく国家が増える
→アメリカの州になるか経済成長に専念するためアメリカの保護国になる
(著者がイギリス滞在中、多くのイギリス人がアメリカの州になることを希望していた)
・核兵器保有国は現在9ヶ国(米中露英仏印パキスタン北朝鮮イスラエル)
→このうち米中露が関わる世界戦争は地球の完全な破壊をもたらす
→今世紀の後半に全能兵器を保有している可能性は高く核兵器の破壊力を凌ぐだろう
→いかなる紛争行動も全能兵器の使用を誘発するので各国とも慎む
→冷戦が「不安定な平和」をもたらしたように、絶え間ない不安状態に置かれ続ける
第10章より
・人間とマシンとの競争はエネルギーと天然資源をめぐる争い→共存できるほど広くない
→映画ターミネーターのような公然たる戦争では人類が勝者になる機会を与える
→人類に対するマシンの抵抗は悟られないように隠して「戦わずして勝つ」はず
・脳内インプラントで超絶知能に従属した人類も生き残る時間は僅か
→宇宙の真の通貨であるエネルギーを使う価値のある存在と認識しなくなるから
→それ以外の人類は22世紀の前四半期には病気・事故・老衰により死に絶える
終章より
・自律型兵器と全能兵器
→人類絶滅の危険なしに自律型兵器を開発することはできない→核兵器と同じ
→それでも開発・配備は続くので・・・
①防御に焦点をあてる
→防御が100%有効なら攻撃は行われない(今は確実ではないので北朝鮮は実験を繰り返す)
②半自律型兵器に焦点をあてる
→人間の「意思決定ループへの関与」は区分原則・責任の所在原則の保証となり国際人道法
とも合致し、それが国家の軍事能力を弱めるとは思わない。
③自律可能な兵器に制限を設ける
→自律型の大量破壊兵器を作るべきではない
→コンピュータ依存なのでサイバー攻撃や誤作動やウィルスが第三次世界大戦の引き金になる
・草の根の(SNSによる)活動や世界的なイベントを通じて「マシンがもたらす脅威」は
世界の指導者の関心を呼び起こすことができる
・2020年7月現在のスーパーコンピュータ・トップ10の1位は日本、2位3位はアメリカ、
4位5位は中国、6位はイタリア、7位8位はアメリカ、9位イタリア、10位スイス・・・
→超絶知能は複数の国で出現し、ほぼ同時に起こり得る、ということを示している
・戦争を予防する最善の方法は、
→戦争に関与することは無益であり、自らの破滅を招くということを、
→あらゆる敵対者に明らかにすることである
・地球の正当な継承者とは人類であり知能マシンではない
→我々は人類であり我々は人間の精神を体現している
→コンピュータはマシンにすぎない
云々・・・
ちなみに解説(小野圭司・防衛省防衛研究所特別研究官)にあった(講義でも話しているという)
・軍事や安全保障の分野では「阪神ファンの応援心理」が大事とゆーハナシ・・・
→関西の阪神ファンは一流選手だった野球評論家から街のおっちゃん・おばちゃん、小学生の
子供まで「昨日の監督の采配はアカン」とか「なぜあそこで代打を出したんや」とか試合の
論評をするわけです。
→そうしてファンの世論というものが形成されて、ファンが怒り心頭に発すると、監督や
球団社長の辞任・解任という事態を招く力を発揮します。
→安全保障も同様で一部の専門家に限らず、いろんな人が議論することが大事です。
(もちろん大衆扇動や教条論争に陥らない冷静で客観的な議論が前提)
つーのには感心しましたし・・・ま、結果が勝率に繋がってるかは別ですが・・・
・日露戦争の児玉源太郎の言葉「諸君は昨日の専門家かも知れんが明日の専門家ではない」
(司馬遼太郎「坂の上の雲」より)→これは今日の安全保障論議にも当てはまります。
・「阪神ファンの応援心理」については(略)フランス宰相クレマンソーの「戦争は軍人だけに
任せるにはあまりに重大である」の対を張ってるつもりです(笑)。
つーのも印象に残りました。
(追記です)
「デジタルな不死を探して」というカナダで制作されたドキュメンタリー番組が11月12日に
NHK・BS1で再放送されてて(わたくしははじめて)観てました。
実在する人物の膨大なマインドファイルをもとに作られたAIアバターやAIアンドロイド、
培養された脳細胞で動くロボット、クラウドベースのAIと脳を融合させる動きの是非論議、
トランスヒューマニストとチーム・ヒューマン、シンギュラリティ・ネット創設者の話など、
本書にも密接に繋がるテーマばかりで興味津々でした。
特に番組ラスト近くのFacebookチャットボット同士の会話の音声化には驚愕しました。
やがて独自の言語を作りはじめたことに開発者が気づきシャットダウンしたそうで、
「(これは)コンピュータが世界を乗っ取るには程遠い話ですが、AIが我々の言語を使って
未知の領域に踏み出したことは確かです」と結論付けてましたし・・・
(さらに追記です)
11月24日放送のNHK番組「クローズアップ現代+」で、実際に自分をAIに置き換える人たちや、
脳波を読み取って直接パソコンを操作する様子などが紹介されてました。
さらにニューズウィーク日本版には、こんな記事も・・・
AI兵器vs AI兵器の戦争は人知を超える(キッシンジャー&エリック・シュミット)(ニューズウィーク日本版) - Yahoo!ニュース