SF

2022年11月09日

ヒトコブラクダ層ぜっと!!!

とーとつですが・・・

「ヒトコブラクダ層ぜっと」とゆー小説のご紹介

ま、メソポタミアつながりとゆーか、ひさしぶりに読んだ万城目学作品であります

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著者紹介・発行所・発行年月日などは奥付のとおりですが、
こちらの著者や原案者
ほぼ同時期に京都で学生時代を過ごされてたんですね・・・


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惹句にもありましたが、まさにローラーコースター小説で、
舞台は日本からイラクへ、
現代からメソポタミア期へと、時空を超えて行ったり来たりで大いに楽しめました。
ちなみにわたくし、
著者の大阪、京都、奈良が舞台の作品は殆ど読みましたが、
海外が舞台の
作品を読むのは今回がはじめてでした。


で、オハナシは・・・
幼い頃、自宅を謎の隕石が直撃して両親が亡くなった、三つ子の兄弟の物語で、三人が別々の
超能力を持ってたものの、ずっと隠して暮らしてきたのが20歳の誕生日に偶然火災に出会い、
三人がそれぞれの超能力を使って他人を無事に救出したことから、それ以降は困っている人を
こっそり・ひっそりと助けるため、協力して超能力を使うようになり・・・
ただし超能力といっても大きな力ではなく「3秒ルール」という限界もあって・・・
(と、この辺りはミュータントSFのパターンですね)

やがて謎の女性が現れ三人に「ヒトコブラクダ層を見つけて欲しい」という謎の依頼をして、
「成功すれば三人の夢を叶えてあげます」と約束します
で、謎の女性の強大な権限で三人は自衛隊に入隊、PKOでイラクへ派遣されることになり・・・
(この辺りは英雄冒険譚SFの召命・旅立ち・越境ですね)

・・・と、オハナシは中東の砂漠へと展開して行きます

ちなみに長男の夢は巨大肉食恐竜の化石を日本で発見すること、
中兄の夢はメソポタミアで未発見の都市遺跡を発掘すること、
末弟の夢はズルしない本物の戦いを体験すること、

とゆー設定なので、
三兄弟それぞれが恐竜・メソポタミア・戦いの面白さを語るシーンが
たっぷりとあり、さらにイラク情勢や世界情勢のシビアな現状も、民族史や文明史に関する、
仮説も含む持論展開もあって、広い分野の最新情報を分かりやすく紹介されてること
からも、
著者は正統派のSF作家でもあると、あらためて感じました

と、イラクでは自衛隊、米軍、政府軍から古代戦士まで入り乱れての戦いに・・・
(こうなるとタイムスリップモノつーかアクションモノつーか戦場モノつーか・・・)

舞台が沙漠なので、砂漠と礫漠の違いも水やレーションの重要性もきちんと描いてあって、
戦闘シーンではスナイパーとスポッターの連携や大口径ライフルの扱い方とかも・・・

さらに異次元空間からフォン・デニケン以来の「古代の神々は宇宙から」説まで出てきて、
わたくしの好きな分野を総ナメしてくれるような展開になってですね・・・


ま、これ以上書くと物語のネタバレになるので我慢しますが、ともかく・・・

恐竜とメソポタミアと戦闘に興味をお持ちの方!!!にはオススメの作品です きっぱりと



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2022年09月01日

飛行艇時代・・・

9月に入りましたが前回記事からの続きとゆーか、その原作とゆーか、今回は・・・

『映画「紅の豚」原作~飛行艇時代~増補改訂版』の(一部の)ご紹介であります


表紙

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裏表紙

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著者、発行所、発行年月日なんぞは奥付のとおり

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例によって目次のみのご紹介・・・

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映画の原作となった宮崎駿の漫画「飛行艇時代」第1話~第3話(全話)に加え、映画に出てくる
飛行艇やその背景にある歴史、モデル化の過程などを、さらに増補改訂した本であります。

どの項目も面白く、丹念に読んでメモしましたが、今回記事では原作漫画をメインに・・・


まずはYouTubeで岡田斗司夫が解説していた映画の冒頭シーンの謎・・・
→ポルコのアジトのテーブル上には飲みかけの赤ワインがあるのに、
→テーブルの下にはバケツに冷やされた未開封のシャンパンがある
→アジトの砂浜にはポルコの客船用デッキチェアと同じ柄のバスタオルが敷かれている
→ふだんはランニング短パン姿で裸足のポルコが飛行服に手袋ブーツの完全装備で微睡んでいる
→アジトの浜辺には小さな手漕ぎボートが置いてある・・・

これらの理由が何なのか、ひとつひとつ論証していく過程がじつに面白かったのですが、
ま、おそらく彼の妄想だったんでしょうと思いながら、全3話を読んでいくと・・・

第1話から
→まず「マンマユート団は人質に美少女をさらうので知られていた」との説明書きがあり、
→マンマユートのボスが人質の美少女(カリオストロのクラリスそのまま)を抱きかかえ、
「これでも撃てるかブタ野郎」と叫ぶと、
→「美少女は世界の宝だぞ」と、エンジンやラジエーターを狙って撃ち返すポルコ
→銃撃で不時着水したダボハゼ号にポルコが、
→「ロリコンのマンマユートへ、ムスメと金貨半分をおいてウセロ」と発光信号を送り、
→美少女が銃撃戦の隙にダボハゼ号から着衣のまま海に飛び込み逃げるシーンがあって、
→「イエーイ、ヒロインはこうでなきゃ」と喜ぶポルコが着水、彼女を海から愛機に救出、
→「アドリア海の陽光ですぐに乾きますよ」と、彼女の着衣上下!を主翼上に並べて干し、
エンジンを整備する(ふりをしている?)ポルコ
→「ありがとう」と毛布にくるまりコックピットの後ろに腰掛ける美少女
→「さあ、ご両親の元へお送りしましょう」と、彼女を膝の上に乗せて操縦するポルコ・・・

そう、この帰路の途中に彼女を膝の上に乗せたままアジトに立ち寄る計画(下心)があった
とすれば、映画冒頭シーンのお膳立ては全て辻褄が合ってくるわけで・・・ま、知らんけど・・・


第2話から
(エンジンのオーバーホールのためミラノに向かうことになったポルコ)
→「ついでにパイロットの命の洗濯もするか」と鼻歌混じりで無精ひげを剃るポルコ
→「真っ白なシーツ、美しい女達、ウヒョヒョ」(このセリフは映画にもありましたね)

(ミラノのピッコロ社に着いたポルコ)
→「誰だい、あのカワイコちゃんは?」
→「アメリカに行とったわしの孫じゃ、手を出すなよ」とピッコロ親爺
→製図台の前に座ったまま眠り込んだフィオに、そっと自分のコートをかけてやるポルコ

(マジョーレ湖での調整とテスト飛行を終え、フィオを連れミラノを飛び立つポルコ)
→「(フィオに)手を出すなぁ」と見送るピッコロ親爺
→「ひ孫を楽しみに待ってろ」と飛び去るポルコ
(このセリフは、さすがに映画には使えませんね)
→「わたしの前にはいつもフィオの笑顔があった。彼女は心から飛行を楽しんでいた・・・」
(この漫画でも映画でも、眼鏡式照準器にはフィオの顔が映り込んでいる)

第3話から
(夜、テントは(空賊たちが潜んでたので)臭いので野宿になった、との説明があり)
→やがてフィオは安らかな寝息をたてた
→「イイ子だ、ほんとにイイ子だぜ・・・
(カーチス(漫画ではドナルド・チャック)との対決当日)
→フィオの人気はたいしたものだった。
→みんなが一緒に写真を撮りたがり、空賊共すら歯をみがいて来たのだ・・・

(カーチスとの空中戦と殴り合いでボロボロになりながらも最後に勝利し)
→抱きつくフィオと賞金と幸運のガラガラヘビが描かれたカーチスの方向舵をかかえて、
ワハハハと豪快に笑うポルコ
→前方ハッチにフィオを乗せ、雲上を飛び去る紅い飛行艇のシーンでおしまい・・・

とまあ・・・
漫画ではポルコも空賊たちも明らかに
美少女好きとして描かれており、冒頭の岡田斗司夫説も
まんざら妄想だけではないと、あらためて納得した次第・・・ま、知らんけど・・・

でも、さすがに原作漫画でも最後のポルコのセリフは・・・
「イタリアを訪ねるならミラノのピッコロ社によってほしい、
その玄関にカーチスの方向舵が今もかざってあるから・・・」
と〆てましたから、やはりキマってましたね・・・
映画はもちろん、原作の漫画も素晴らしいエンディングでした。


と、原作漫画とは少し離れますが、これまで気になってた点をもうひとつだけ・・・

・作品中のサボイアS.21(フィオが改造後はS.21F)試作戦闘飛行艇と実機のマッキM33について
→ポルコの飛行艇は宮崎駿が小学生の頃に一度だけ見た写真のイメージだけで描いたもの
→その後に本人がイタリアの本屋で偶然みつけたシュナイダー・トロフィーの本によって、
小学生の頃に見た写真はマッキM33のものだったということが分かった
→さらにその後の(ポルコ機やカーチス機をモデル化した)ファインモールド社の調査により、
ポルコの飛行艇と実機マッキM33の構造が、ほぼ同じであることが判明した・・・

つまり彼がイメージしていた実機は
サボイアS.21ではなくマッキM33だったわけですが、
小学生の頃の写真1枚の記憶だけで、実機構造の飛行艇を正確に描けるとゆーのが凄いですね

やはりヲタクの世界は奥が深いです・・・どっとはらい



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2022年08月26日

ジブリの教科書7

前々回、前回記事からの続き・・・

ジブリの教科書7「紅の豚」(1992年公開)のご紹介であります

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文芸春秋社2014年9月10日第1刷発行で、ナビゲーターは万城目学



例によって目次のみのご紹介

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以下、わたくしの部分的な読後メモから・・・てきとーなので正しくは本書を熟読くださいね

(ジブリの中でも特に好きな作品なので、今回はメモも長めになっております)

・宮崎駿監督の演出覚書(1991)より
→疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のためのマンガ映画
→陽気だがランチキ騒ぎではなく、ダイナミックだが破壊的ではない
→愛はたっぷりあるが肉欲は余計だ
→誇りと自由に満ち、ストーリーは単純、登場人物の動機も明快そのもの
→男たちは陽気で快活、女たちは魅力にあふれ、人生を味わっている
→登場人物が、みな人生を刻んできたリアリティを持つこと
→バカ騒ぎはつらい事をかかえてるから、単純さは一皮むけて手に入れたもの・・・


・宮崎駿へのインタビュー(1992)より
キャラクターの誕生
→カーチスもポルコと同じ中年だと思った人も多いらしいが、彼は青年でちゃんとした男
→フィオも(さらに若いけど)「私は私」で、自分のやることも意志もはっきりしている
ポルコについていくのも商売上と作った物に対する責任から→まあ嫌いなら行かないけど
→なので劇中の出来事を通じて大人になった、とかではなくフィオもちゃんとした女
「紅の豚」に出てくるのは自分を全部確立した人間だけで、そういうことを明確にした映画
→まだふにゃふにゃの自我を抱え、励ましや何かしてくれるものが欲しい人のためのものではない
→その意味で、これは若者をまったく排除して作った映画で「中年の映画」
→そうしないと1920年代を豚として生きたポルコに拮抗できないと思っている
→その後のヨーロッパの激動をどうやって生き抜くのか、映画を作りながらひどく気になってた
→ファシストと戦ってカタルシスを得るのではなく、生きていて欲しいと思いながら作った
→俺は俺でやるという視点を明瞭に持っているキャラクターを出したかった
→大混乱や戦争の責任は全部俺にあるという視点ではなく、俺も同じイタリア人だから責任がある
という視点ではなく、俺は俺、俺の魂の責任は俺が持つという、豚はそういう男
→それがこれから生きていく上で必要だと、自分も切実に思ったから

映画の結末について
(ポルコは人間に返ったのか豚のままなのかとの問いに)
→人間に戻ることが大事なのだろうか?正しいのだろうか?
→ときどき本音が出て真顔になるけど最後まで豚のまま生きるほうが、この男らしいと思う
→何かを獲得して収まるハッピーエンドは、この映画には用意されていない
→取り返しのつかない経験もいっぱいしてる人間たちだから、フィオでまっさらになった、
なんて思わないし、みそぎできれいになると思ってるのは自民党の代議士だけ(笑)
→もののけ姫という、もののけと姫の物語を考えていたときも、もののけはもののけのままで
終わるように描き直したらすっきりしたし、美女と野獣はずっとやりたかったテーマだけど、
もしやったとしても最後は野獣のまま・・・

最後のテロップのイラスト(エンディング・イラスト)について
(描かれてるのがなぜみんな豚なのかとの問いに)
→空を飛ぶことが何をもたらしたか、飛ばなければよかったとも言える
→黎明期はどんなものでもキラキラしてるが、資本、国家、利害関係に組み込まれて汚れる
→飛びたいから飛ぶだけでなく任務で飛ぶ、じつにくだらない任務で飛ぶ
→飛ぶことだけで全部完結する人間は絶対に豚にならない、単なる乗組員で終わり
→時代にインプットされたものは簡単に乗り越えることはできない
→戦後焼跡世代もバブルの餌食世代も・・・
→今(1992)の20代30代は大人の世界・社会・政治家がくだらないことはわかってるが、
そのおこぼれ(週休二日などはその大人が稼いだ上がり)だけは手に入れている
→40代になって社会の中心になっても弁当屋とコンビニといつでもできるバイトがあるのが
当然と思っているだろう
→もう少しくだらなくしようとしたときに、貧乏になろうとはしないだろう
→稼ぎ以上のものを使う→それが彼ら(バブルの餌食)の限界

世代や制約の壁を突破して
(おとなの映画ですねとの問いに)
→たぶん今(1992)の若い男(バブルの餌食)が一番取り残されてしまった映画
→カタルシスのある定型を全部踏襲してたら満足な人には敵意のある映画
→いつものサービス過剰はないよ、おじさんはそれどころじゃないよ、という映画
→豚が人間になりました、よかったよかった、では嘘になる
→そういうカタルシスを求めるのは間違っている・・・


加藤登紀子と宮崎駿の対談より
(1992公開時の対談、同年に共著「時には昔の話を」(徳間書店)がある)
(宮崎は1941年生まれ、加藤は1943年生まれ)

あの頃という時代
・加藤
→60年安保の時は16歳の高校生、亡くなった樺美智子さんにみんなでお花を持っていった
→今考えればただのセンチメンタリズムだがセーラー服は本当にピュアにキラキラと輝いていた
→それが高三になると受験とかで濁っていって、次第にやりきれなくなって・・・
・宮崎
→大学に入った年が安保でバカなことと思ってたが無関心ではいけないと思い始めた頃には
諸先輩は挫折の大合唱で、そのキラキラは1回もなかった
・加藤
→でもファナティックな時代の雰囲気は確かにあった
・宮崎
→感じはわかるが、今が一番愚かな灰色の時代で少しずつ日が差してくると思ってた
→それが自分たちの(世代の)歴史で、どこかにインプットされている
→だから民族紛争みたいなことが起これば呆然として、自分がグラグラしている
→若いスタッフに、君らはバブルの餌食で歴史がないと言ってきたけど、それは自分に
あまり根拠のない楽観主義をつくっているだけだとわかってきた

生きる"よりどころ"
・加藤
→やはり私は好きな人は好き、嫌いな人は嫌いという女性的な感覚
→なので世界観とかイデオロギーが変わったというより、美しいうちは美しいと・・・
→ユーゴスラビアでも立ち上がった瞬間は美しいが、権力を持つと・・・
(毛沢東、ヒトラー、マレーネディートリッヒ、岡田嘉子・・・略)
・宮崎
→今はお金は善だが戦時中の自分の家庭が金持ちだったことが自分の中につきまとっていた
・加藤
→私は中国からの引揚者で自由な環境に結びついてトクをしてたが、中国の人々に対する
うしろめたさというのは厳然としてある
・宮崎
→うしろめたさというのは日本の中の自分の家や一族、世界やアジアの中の日本という形である
→自分の幼児体験や過去の記憶を掘り起こせば、理屈としてはわかる
→同時に記憶にまとわりつく、うしろめたさを失くすと自分の一番大事な部分を失くす気がする
→このうしろめたさが最後の支えなのかとさえ思う
→分裂を抱えたままいくしかない、分裂せずに生きていく方が真っ当なのだが・・・

映画と時代の波長
・宮崎
→魔女の宅急便はバブル時代に波長が合ってヒットした
→ゆとりを持って作ったのがうしろめたいし、お金が入るとなおいけない
→疲れたとかいってリハビリ映画に手を出したが(笑)、映画には本音がはっきり出る
→湾岸戦争以来、自分の生き方の根っこの部分が揺らいできたということがある
→うしろめたさを根拠にした世界観とか歴史観、戦後の高度成長期に居合わせて、世の中
良くなるから人間性も良くなると、疑問符をつけながらも根拠としてきた部分がぐらついた
・加藤
→「紅の豚」は自分の世界観や美意識を押し付けず伝えもせず毅然と生きてきた男の映画だと
思うが、そういう男のイメージは歴史的にジャンギャバンから高倉健までずっとある
・宮崎
→そのイメージは「時には昔の話を」とか
「さくらんぼの実る頃」のフレーズが大きな
ひっかかりになっている

→「さくらんぼの実る頃」は1871年パリコミューンへの思いを込めた痛みのある追憶の歌
→1920年代になって半世紀前の歌を愛しながら、真っ赤な飛行艇で飛び続ける豚に託された
心情というのは、おそらくうまく伝わらないとわかっているが、作る側の密かな楽しみ
・加藤
→男の価値観は敗残してファナティックに自爆すれば一巻の終わりだけど、あいにく生き残って、
美意識が缶詰のように凝縮されると、一人真っ赤な飛行艇で・・・に持って行くのでは(笑)
→女は男をじっと見ていて、ダメになったら行って抱いてあげようと・・・
→私の場合、いつも抱いてあげるので抱いてくださいとは決して言わないから
・宮崎
→抱いておやりという感じがとても好きだった
→戦後民主主義は愛することが純粋で愛し続けるのが一番良いとなっているけど、違う
→人の出会い方とか、つながりの作り方は無数で、良いとか悪いとか決して言えないのに、
愛情のあり方となると、1本しかないような錯覚にとらわれている
・加藤
→私は好きか嫌いかで、ソ連が崩壊しようがユーゴスラビアが分裂しようが、いい男がいたら
イデオロギーとかは二の次で飛んでいく
・宮崎
→でも、どう出会うかで運命的に決まるのでは・・・僕は疑い深いから(笑)
・加藤
→好きな奴、嫌いな奴、いい奴、悪い奴は不思議なことにわかる
→これを言えば全世界の思想も悩みもなくなるが、好きな男への不安はいつもある
→でも嫌いな人間に対する反感とは全然違う、こういう思想性って・・・
・宮崎
→生きてる感じがして好き。傷を負うのを恐れない、その方が疑い深い僕の生き方より素敵

見果てぬ夢をめぐって
・加藤
→30代の記者から「時には昔の話を」のような「あの頃」を共通語にできる世代はいい、
僕らの(世代の)みじめさも歌にして下さいよと言われた
・宮崎
→僕らの「あの頃」を60年、70年の高揚時における共通体験だと思ってるとしたら少し違う
→自分たちで探して作ったという自負だけはある
→学校出て映画会社入って労働組合やりながら、こんな映画じゃなく違う映画を、とやってた
→「あの頃の僕ら」が、いまだに自分のなかに生きている
・加藤
→私の感覚では「あの頃」というと充実した時間で、きわめて個人的な体験
→歌の中で「あの日のすべてが空しいものだと、それは誰にも言えない」と言ってるけど、
それは歴史的にも証明されたし、自分でも空しいとわかっている
→でも空しいとは口が裂けても言えないし、絶対に誰にも言わせたくない
・宮崎
→ほんとうによくわかる。よく歌って下さったという感じだった
→あの歌を聴いていると忘れていた友人たちの顔が次々と浮かんでくる
・加藤
→自分の存在なんて大したもんじゃないから日々の生活とか出来事とか歴史とか文化から、
何とか自分を作ろうとする
・宮崎
→サン・テグジュベリの作品で命がけの夜間飛行から帰ってきて、いつもの店で、いつもの
コーヒーとクロワッサンの食事をする、とても威厳がある。サハラの岩塩の隊商と同じ。
→死者も出る困難な旅だけど村に着くと、いつもの別れの挨拶を交わすだけで家々に帰っていく・・・
→映画の仕事もそんなふうに終えたいというのが「見果てぬ夢」かな・・・
→その後は、また一人になって飛んでいけばいい
→なじみの店や美しい女主人もいてくれないと困るけど・・・(笑)
・加藤
→飛んだ先に何かがあるということではなく、飛んでいくというその感覚
→コンサートのさなかに飛行機の離陸音を聞くときがある
→もうここにはいないぞと叫びそうになって歌っているときがある
→自分が飛行艇乗りになりたいなんて思ったことは一度もないけど・・・(笑)

(エンディング・イラスト22枚は加藤登紀子が唄う「時には昔の話を」からヒントを得て、
宮崎監督自身が飛行機黎明期の時代背景とともに描き出したもの)


イタロ・カプローニ「祖父ジャンニ・カプローニが生きた「紅の豚」の時代」より
・あの時代の愛する国と飛行機を、あそこまで美しく精緻に描くイタリア人がどれだけいるか
・ポルコの愛機はアレーニア・アエルマッキ社が制作し1925年のシュナイダーカップに出場した
マッキM33がモデルになっていると思われるが作品の飛行機はどれもマエストロの独創性の産物
(カプローニ社の飛行機が登場しなかったのが残念だったけど・・・)
・客船の護衛機パイロット、バラッカとヴィスコンティそれにアルトゥーロ・フェラーリンは
実在の空軍パイロットで、フェラーリンはローマ・東京間フライトを1920年代に実現させ、
愛機AnsaldoS.V.A9は1945年まで東京の博物館に保管され、戦後アメリカ軍に没収されている
・戦後のイタリア国内で祖父はファシストの残骸とされ、その功績に目を向けられなかったが、
マエストロが「風立ちぬ」で本当の祖父の姿を描いてくれた
・ドゥカティ社の1号機「クッチョロ」のボディ設計も祖父で、その後もバイクを手掛けたが、
ラジエーターがまるでハートで美しく、今も保管されている1台はポルコの愛機と同じ紅色
・(紅の豚を観て感動し)マエストロの今後の参考になればと、保管していた本を2冊送ったら
じつに丁寧な礼状をいただいた
→その後(風立ちぬ公開後?)マエストロから手書きの絵が2枚送られてきた
→慎重に開封して絵を見たとき、とめどなく涙が溢れた
→この絵は、もう少し自分の心の中だけにしまっておきたい・・・


村上龍「現実をなぞらない宮崎駿」より
→宮崎駿は決して過去の感動や表現をなぞったりしない
→安心して見ていられるがすぐに飽きるという作品が皆無→その答えの一つが「紅の豚」
→自分が好きな世界しか描かないということ
→作業の前に豚と女たちがパスタを食べるシーンがあるが見ていて食べたくなった
→それまでのイタリアの風景や風物の描写に嘘がなかったからイタリアを思い出し、
そのスパゲッティが象徴するものに飢えてしまったのだった
→普通そんなことはアニメーションではあり得ない・・・


・青沼陽一郎「「紅の豚」とその時代」より
→この映画が上映されたのは1992年7月
→1989年11月にベルリンの壁崩壊(「魔女の宅急便」公開の4ヶ月後)
→1991年にはソビエト連邦崩壊、湾岸戦争勃発、ユーゴスラビアの民族紛争・・・
→日本はバブル経済、宗教ブーム・・・
→宮崎作品にはその時代が背負った血潮のようなものが、彼の身体を通して紛れ込んでいると思う


大塚英志「解題」より
・ソビエト連邦もベルリンの壁も崩壊し、昭和天皇も手塚治虫も美空ひばりも逝き、冷戦構造も
昭和もほぼ同時に終わった中で企画された「モラトリアム的要素の強い作品」
→これまで解題では高畑や宮崎の意図を肯定的に読みとる努力をしてきたが正直ストレスがあった
→「紅の豚」には苛立ちを感じず、好き嫌いでは一番好きな作品
→高畑の一貫した要求に宮崎が正面からグレてみせたから

・歴史の転換点を踏まえるのではなくかわす
→宮崎の模型趣味(ごっこ遊び)や母性原理への傾斜が良い形で機能している
→俺はこう生きると言ってるが、観客にこう生きろとは言ってないのが批評的
→90年前後の歴史の転換点で、個人の物語が世界を変え得るというテーゼは失効している、
と言いたげなのだ(おもひでぽろぽろのタエ子の帰農批判)
→大人になれない大人ではなく、大人から降りてしまった大人を描いた

・ポルコは子宮の象徴である孤島の入江で堂々と胎内回帰して微睡んでいる
→空賊団もマンマユート(ママ助けて、ママ怖いよ)団と名乗る
→ドーラはおらず、とうに大人になっているが、彼らもモラトリアムの積極的な選択者
→ジーナは母ではなく女で、男たちはごっこ遊びでその子供たちを演じている

「でも戦争ごっこはだめよ」
「わかってるよジーナ、この店の50キロ以内じゃ仕事はしねえさ」
「豚とだって仲良くやってるぞ」
「みんないい子ね」
→空賊も賞金稼ぎもいい子にしているジーナの支配する世界
→女子供の世界で、ごっこの世界

「15人もいますけど、みんな連れて行くんですか?」
「仲間はずれを作っちゃ、かわいそうじゃねえか」
→子供が子供であることを担保してくれる大人がいる世界→子供が安全な世界
→現実の歴史から切断された空間で単なる現実逃避や胎内回帰をしているのではないか
→現実は世界恐慌、ファシズムの成立で第二次世界大戦へ向かっている

「いくら小さな尻でも機関銃の間は狭すぎだ。一挺おろすんだ」
「よかった!!わたしのお尻みかけより大きいの」
→フィオの大きなお尻=女性原理が戦闘機の武装を解除してしまう
→母性は兵士や民族を産むファシズムの補完装置→批評として作用している
→クライマックスの空中戦でも「
フィオの尻のせいで」壊れてて撃つことができない

・アジール(無縁・公界)としてのジーナの島のある海域
→ジーナ自身が守っている
(女主人に仕切られる秩序ある公界は「油屋」や「タタラ場」にも鮮明に)
→ファシズムと大量生産・大量消費のアメリカニズムが台頭する時代
→ポルコもジーナも空賊たちも、どちらにも乗れず最後の一瞬を謳歌する
(宮崎のコンテ記述によればジーナが「幼稚園の先生のようにパンパンと手をたたいて」)
「さあお祭りは終わり、イタリア空軍がここに向かってるわ。みんな早く逃げてちょうだい」
→彼女は男たちに「ごっこ=アジールの時間」の終わりを告げる

・「紅の豚」が作られた時代は「幼稚な歴史」や「戦争ごっこ」と本当の歴史や戦争の区別を
つけない時代への転換点だった
→その時に愚かな歴史から降りるモラトリアムを描き、国家や民族ではないアジールという
パブリックのあり方をさり気なくデッサンしてみせた
→最も時代に対して批評的な作品であり、その批評性は今も有効と考える

・90年前後の時点で冷戦構造は終わったが「世界を二つに分けたい」思考を克服できなかった
→世界の複雑さに耐えかね、敵と味方、反日と愛国、呆れるほど単純な二元論に
→その息苦しさを予見し「おもひでぽろぽろ」のある種の教条主義をあっさりとかわし、
歴史の終焉をひどく真面目に受け止め、それらの束縛から自らを解放しようとしていた
→「日常の中で自動的転向はしたくない、人間の尊厳は変わっていない」
→自動転向していく世界から降りたのは逃避とは言い難い、一つの理性的な選択
→「紅の豚」は個人的な思想がよく表れ、宮崎という作り手が最も深く理解できる作品

「紅の豚」はお伽話のように見えて歴史への批評としてある
→フィオは民話の構造に忠実に向こう側の世界に行って、好きな異性の本当の素顔を見て、
恋の決闘の賭けの対象になっても、お伽話の原理は発動せず歴史や現実の側に戻される
→フィオはポルコとの恋を手に入れられず、ジーナとの友情を手に入れる
→彼らはアジールの終わり、ごっこ時間の終わりへの惜別として本気で遊んだに過ぎない
→ポルコは半分死者(幽霊)で、ジーナは亡くした3人の夫を弔い続ける
→なので現実を生きていくフィオと結ばれるべきではない

・ジーナのアジールが「もののけ姫」のタタラ場に発展したとき「僕はタタラ場で生きる」と
アシタカに言わせたことが正しかったか
→「紅の豚」の変奏として「もののけ姫」はある
→「もののけ姫」の解題で・・・


他にもフランス文学者による宮崎駿のサン・テグジュベリへの思い(略)とか・・・
(1998年5月9日NHK「世界わが心の旅」
サン・テグジュベリ大空への旅~南仏からサハラ~)
(映画「紅の豚」原作~飛行艇時代~大日本絵画2004)
(宮崎駿・加藤登紀子共著
「時には昔の話を」徳間書店1992)

万城目学が大阪・新世界を歩くポルコ(のコスプレ)と出会った際の違和感のなさとか・・・
(こういう視線でミラノ市民はポルコと往来ですれ違ったのかと、ごく自然に納得できた)

などなど・・・


まあ、じつにいろんな人が、いろんな楽しみ方をしていることにも、多くの人がジブリの中で
一番好きな作品としていることにも驚きましたし、わたくしが「紅の豚」に惹かれる理由も、
少しは分かったような気もしました。
ま、この作品も理屈抜きで、何度も楽しむにも最高なのですが・・・


P.S
わたくしは岡田斗司夫がYouTubeで解説してた「エンディング」のいくつかの説の中で、
JALの機内上映版ではあったけど劇場公開版ではカットされたともいわれている・・・

ぴかぴかのボーイング707
(追記修正→完成したセル画を見るとボーイング727でした)
(1960年代初頭?)が飛ぶ横に、ターボプロップエンジンに二重反転プロペラ、半開放式風防で、
機体にはハートのG(ジーナ?)の撃墜マークを付けた紅の飛行艇が現れ、騒ぐ乗客の女学生たち?
に親指を立てて答え、一気に抜き去っていくというエンディングも観てみたいな・・・

ま、与圧服に酸素マスク、ゴーグルにヘルメット姿なので、顔が豚なのか人間なのかは、
わからないままなのですが、それがまた素晴らしいエンディング・・・

さらに劇場公開版のエンディングでも、フィオの飛行艇がジーナの島の上空を飛ぶシーンで、
よく見ると桟橋に赤い飛行艇が係留してあるとゆーのも同解説ではじめて知りました。

もし1960年代前半としてもポルコは70歳代になってるはずで、それでも真っ赤な飛行艇を駆って、
(女の子にちょっかいを出すためだけに?)大空を飛び続けている・・・

どちらにしても素晴らしい
エンディングですね!!!




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2022年08月23日

ジブリの教科書2

前回記事からの続き・・・

ジブリの教科書2「天空の城ラピュタ」(1986年公開)のご紹介であります。

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文芸春秋社2013年5月10日第1刷発行で、ナビゲーターは森絵都


恒例により目次のみのご紹介

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ラピュタや飛行機械、スラッグ渓谷などの図解もいっぱいで楽しめましたが、以下は
わたくしの部分的な読後メモから・・・(てきとーなので正確には本書を熟読下さいね)

・宮崎駿による企画覚書より(本作品の目指すもの)
→若い観客が心をほぐし、楽しみ、よろこぶ映画
→笑いと涙、真情あふれる素直な心
→現在もっともクサイとされるものだが、観客が気づいていなくても最も望んでいるもの
→相手への献身、友情、信ずるものへ、ひたすらに進んでいく少年の熱意・・・
→(それらを)てらわずに、しかも今日の観客に通ずる言葉で語ること


・ナビゲーター森絵都による、パズーの意識の変化より
→親方のおかみさんから「守っておやり」といわれ、はじめて自分の役割に目覚める
→シータを置いて帰り、ドーラからシータの本心を教えられ、守るための力をつける
(自分一人では助けられないので一時的に海賊の仲間にもなる)
→タイガーモス号でシータのポテンシャリティーと頼もしさを認める
→「守らなければならない少女」から「ともに何かを乗り越えていく同士」へ
→さらなるシータへの信頼の深まり(ラピュタでの木登りなど・・・)
→究極の信頼へ→滅びの言葉を二人で・・・


・鈴木敏夫による、制作に至る経過(の一部)より
ナウシカ後にジブリを設立、柳川を舞台にした青春物語が候補になったが、ロケハン過程で
掘割を再生した人々の実写記録のほうが魅力的となり、ナウシカの利益配分が入った宮崎駿の
個人事務所である二馬力の自主制作、高畑勲監督による記録映画「柳川掘割物語」になった
→結局四年かけて完成したが途中で資金がなくなり、ジブリ次回作の収入で賄えると提案
→宮崎駿がラピュタの企画書を提出

(
「柳川掘割物語」はテレビ放映されたのをVHSビデオ!に録画して、何度も観てましたが、
柳川市役所の下水道係長がドブ川と化していた掘割の暗渠化を命ぜられ、調べて行くうちに
昔ながらの掘割の有効性に気づき、市長から一年間の猶予期間を得て、当初はたった一人で
掘割の清掃作業をはじめ、やがて賛同した市民も協力するようになり、最終的には市議会も
動かして暗渠化を廃案に持ち込み掘割を再生したもので、掘割の仕組みの説明に使われてた
アニメーションは「さすが二馬力!」でしたが、むしろ一人の係長の努力がきっかけで守られた、
という事実そのものに(当時、某自治体の係長だったもので)大きな衝撃を受けてました。
ロケハン過程で掘割再生の記録映画に変更したことも、作品完成までに4年の歳月をかけたことも、
この本ではじめて知りました)


・金原瑞人「児童文学のふたつの潮流」より
→昔のイギリスの児童文学は圧倒的にファンタジーが多い
→アメリカ(とカナダ)では比較的リアリズムの小説が多い(案外女性が活躍している)
→どちらも初期作品の主人公の多くが孤児である(シータとパズーも孤児)

・同「なぜ孤児なのか」
→まず19世紀に孤児が多かった時代背景がある
→孤児を主人公にすると「家族をテーマ」にした小説がダイナミックに展開する
→孤児は動かしやすくて活躍できる→「冒険をテーマ」にできる
(ラピュタも家族テーマ(ドーラなど)と冒険テーマが融合して展開する)

・同「子どもが救いうる世界」
→おそらく「ナルニア国物語」と「指輪物語」で生まれた
→ルイスとトールキンは子どもに救えるような世界を丁寧に作り込んだ
→ハイファンタジー(延長線上が「ゲド戦記」など)へ

・同(本作品について)
→19世紀からの孤児物語と(ルイスやトールキンからの)ハイファンタジーの流れを踏まえた
日本の子ども向けアニメの傑作
→(19世紀からの)科学技術は後の大戦や環境問題で翳りが差したが、そのやりきれなさと切なさの
歴史を細かく描くことなく、ロボット兵の数場面だけで語り尽くしている
→それをしっかりパズーとシータに受けとめさせ、新しい世界への希望をつむいでくれる


・大塚英志「解題」より(ジブリの高畑的なものと宮崎的なものの拮抗)
1.ナウシカの中で未消化の問題だった「活劇」
→高畑のリアリズムを宮崎のアニメーションの想像力がふり切っていく過程
→プロデューサーの高畑が認め宮崎が選択したのが徹底した活劇マンガ映画
→活劇とリアリズムの矛盾を「マンガ映画」であることによって乗り越えようとしてみせた
→理詰めで理屈をふり切っていくのが高畑的であり宮崎的
→マンガ映画だから(押井守が批判した)武装しない子供が、武器を持つ大人に対抗しうる
→これは子供に武器を持たせて戦わせるよりはるかに興味深い選択
→ラストで生き残るのはパズーとシータとドーラ一味だけ
→マンガ映画(のアニメーション法則)なので、落ちて行った人たちは描かれない
→以降は天の宮崎と地の高畑に・・・それぞれのリアリズム・・・

2.主人公の「責任」
→ナウシカの解題では王家の者として民草への責任を負わせたことと犠牲死の問題を述べた
→ラピュタでは王は消滅し、働く主人公が誕生している
→ナウシカの責任は共同体の王としてのもので、必然的に犠牲死と再生という結末に収斂
→ナウシカは社会的な存在としての主人公が前提で、アニメでは新しい問いかけだった
→ラピュタ冒頭のシータの描かれ方も意図的な繰り返し?(飛行石と巨神兵)
→しかしシータはナウシカのように王としての責任を負っているわけではなく働いている
→パズーはナウシカのような剣も王家の血もなく、働くことによって成長していく

3.ジブリの物語の中で、男性から女性に様々な要素が移植されていく出発点となっている
→ドーラはジブリ作品における女性原理の優位という問題に直結している(母性回帰)
→ドーラはやがて銭婆になりジーナにもなる(シータもいずれは・・・)
→ナウシカでは母性はまだ王蟲の形だし、クシャナもナウシカを導くほどではなかった

・働いてちゃんとした大人になったパズーと、王になろうと逆に退行して破綻したムスカ
・ラピュタでジブリは王の物語から解放され、主人公が共同体のために死ぬことはなくなる
・パズーの「働いて大人になる物語」は、この先の宮崎作品では女の子によって担われる
・これらから、ラピュタはジブリの出発点であるように感じる・・・

云々・・・


P.S
過日テレビ放映されてたのを、またまた夢中になって観てましたが、やはり何度観ても
気持ちよくワクワク・ドキドキ・ウルウルさせてくれる作品ですねえ・・・

前回記事で紹介した岡田斗司夫チャンネルで、ラピュタの大きさを
タイガーモス号の
見張り台
(凧)のコックピットの横幅から(ひと晩かけて)導き出したとゆー話がありましたが、
それによると、現存していた!!!ラピュタの大きさは、ちょうど大阪城や江戸城の範囲ぐらい、
さらにその800年前の最盛期では富士山の大きさと高さぐらいになると、計算過程や地図と
重ね合わせての比較など、じつに詳細に説明してました。

「いやあ、あの計算は楽しかったなあ」と嬉しそうに話してましたが、スラッグ渓谷の街の
歴史や飛行機械のメカ、飛行石の伝説や空に浮かぶ都市の伝説など、この本にもいっぱい
解説(諸説)があって興味は尽きませんでした。

(次回「紅の豚」に続きます)




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2022年08月20日

ジブリの教科書1

とーとつですが・・・
「ジブリの教科書」1のご紹介であります。

ええ、文春ジブリ文庫「ジブリの教科書」シリーズの中から、とりあえず8月は3冊、
1「風の谷のナウシカ」、2「天空の城ラピュタ」、7「紅の豚」を借りたもので・・・

わたくしジブリの宮崎駿作品は大好きで、いわゆる「宮崎本」についても、かなり以前に、
こんな本は読んだことがあったのですが・・・

この猛暑では読書する気力も失せ、8月に入ってからは、
YouTubeの岡田斗司夫チャンネル
(の無料部分)なんぞを観つつ聴きつつ、毎晩明け方まで飲んだくれる日々が続いておりました。
(ちなみにこのチャンネル、無料部分だけでも膨大な情報量で、たとえば冒頭5分のシーンを
90分かけて解説したりと、オタキングの名に恥じないマニアックぶりが飽きません)

で、ジブリ作品解説の中で何度か引用されてたのがこのシリーズで、ほぼ作品数と同じ冊数が
出てるんですね。わたくしこれまで知りませんでした。

つーことで猛暑の中を図書館まで足を運び、とりあえず3冊をまとめ借りしてみましたが、
内容が濃く、初めて見るカラー図版や絵コンテなどもいっぱいで楽しめました。


とりあえず今回はジブリの教科書1
「風の谷のナウシカ」(1984年公開)のご紹介であります。

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文芸春秋社2013年4月10日第1刷発行で、ナビゲーターは立花隆



例によって目次のみのご紹介

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この1に限らず、なにせ「ジブリの教科書」ですから宮崎駿本人の話、制作に関わった人の話、
絵コンテや詳細な分析や評論などが満載でしたが、ごく一部の読後メモのみ・・・
(岡田斗司夫なんか詳細にメモしてるんだろうけど、こっちはてきとーです)

内田樹「アニメーション(映画)作品と原作コミックス(マンガ)作品の違い」より
・映画は明るいがマンガは暗い
・映画は分かりやすいがマンガは分かりにくい
・映画はわりとさらさらしてるけどマンガはやたらどろどろしている
→アニメにできない漫画をアニメージュで連載していたと本人が言っている
→アニメーター泣かせなのは、よくわからないもの、戦闘・・・これらを削ってアニメに
→ナウシカの戦争のモデルはロシアだけでも2千万人が死んだ独ソ戦
と本人が言っている
・アニメ化の可能性が少しでもあれば無意識のうちに作画上困難な画題を回避する
→映画の完成後、マンガの続編は描くがアニメ化はしないと本人が断言している

(確かにアニメから12年かけたコミックス作品の全巻を読むと違いがわかります。
上記リンク記事にも書きましたが
コミックス作品は完結というより問題提起で終わってて、
小松左京の一連の作品同様、生命論つーか哲学的でアニメ作品とは別物ですね。)

立花隆「宮崎作品とアニミズムについての」より
・本人が好きだけど(これまで)入り込むことを避けていたアニミズム世界
→本人は映画ナウシカの最後が宗教絵画になったことに納得できなかった
→その後も追い詰められたがイマジネーションパワーの大爆発で切り抜けた
→アニミズム世界を素直に童心に返って受け入れること(となりのトトロ)から、
→日本人の自然観の根底にあるアニミズムを歴史的背景の中で形象化し(もののけ姫)、
→日本文化の基層にある精神のアニミズム世界を描ききった(千と千尋の神隠し)
→この3作品は日本映画史に残る三大作と思うが、そのすべての入口がナウシカ・・・

(こちらもなるほどなあ、と感心しました。冒頭にリンクした宮崎本にもありましたが、
確かに宮崎作品でのアニミズムはナウシカ以降に明確になってきますね。)

大塚英志「解題」より
・柳田國男の田山花袋「蒲団」批判(略)と、高畑勲の宮崎駿「ナウシカ」批判の対比
→高畑は世界や歴史を描く映画を期待したが「活劇」にとどまった
→宮崎は自分の想像した世界を民俗学者のように語る
→二人で決着をつける次の「マンガ映画」ラピュタへ

・吉本隆明の「ナウシカ」評と「ヤマト」評(略)の違い(自己犠牲)
→ヤマトの自己犠牲を自身の戦争体験から虚妄だとしても、その歴史から切断された世代が
台頭してきていることを肯定しているので、その不在を批判してはいない
→戦艦大和がリアルでない世代がヤマトを愛や自己犠牲といった単純な寓話のイデーとして
受けとめるのは仕方がないと考える(サブカルチャーへの吉本の視点の甘さ)
→ナウシカ評では自己犠牲による結末を(どう質を変えなくてはならないものか、なにも勘定に
入れてくれなかったと)問題にしている
→世界や歴史の細部を求めた(戦争の描き方が中途半端な中での犠牲死)?
→映画ナウシカでは、暴力や男性原理を、まだうまくコントロールできなかった?
→それで吉本は違和感を口にしたのでは・・・

・(責任)
→ファンタジーの主人公の目的は、分かりやすく言えば自己実現や大人になること
→ナウシカには社会的責任を与えた→その質が問題→部族の王としての責任だった

・宮崎が世界や歴史や自然と人の営みについて柳田式「自然主義」であるのなら、
それは現実世界の選択にも作用すべき
→これが高畑が期待した現実への「照らし返し」・・・
・ナウシカで
映画と世界の関わりの問題が示され、その後のジブリの歴史が創られていく
云々・・・

他にも腐海の生物学や、E・カレンバックと宮崎駿のエコトピアについての対談
など、
けっこうレベルの高いお話もいっぱいでした。
ま、それだけに猛暑の中、飲んだくれつつ読むのには・・・うぐぐぐ

(次号「天空の城ラピュタ」に続きます)



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